新潟大学人文学部・情報文化課程 文化コミュニケーション履修コース 2012 年度 卒業論文概要 新井 佑介 同人音楽論 ................................................ 1 荒井 佑紀 日本における韓流ブーム .................................... 2 五十嵐 亜美 清水玲子論 ................................................ 3 小野塚 雅人 若者の間におけるサブカルチャーの変遷 ~ヴィレッジ・ヴァンガードが発信するサブカルチャー ......... 4 片野 恵 女性ファッション誌とその読者 .............................. 5 神田 瑛世 ラーメンズ論 .............................................. 6 西條 詩菜 『美少女戦士セーラームーン』からみる戦う美少女アニメ ...... 7 佐藤 絢香 木皿泉論 .................................................. 8 廣瀬 沙妃 本格昔話からみる日本昔話の語り口 .......................... 9 星野 愛恵 女子映画における小林聡美 .................................. 10 村松 亜梨沙 メディアとしての装い――音楽受容のあり方 .................. 11 紋川 あゆみ プロジェクトに仮託した存在――西川貴教論 .................. 12 柳沼 佳菜子 松竹映画史における山田洋次作品の意義 ―山田洋次作品が描く「労働」 「家族」「故郷」― .............. 13 渡邉 美沙 セレブリティーズと写真 .................................... 14 岩井 千紘 コバルト文庫と少女小説―氷室冴子を中心に .................. 15 小田 秋乃 ニコニコ動画における実況プレイ動画 ........................ 16 工藤 悦子 サイバー空間の仮想世界と現代人の関係 ...................... 17 関森 一平 アメリカ青春映画論―ジョン・ヒューズ監督作品について― .... 18 本間 瀬里奈 上橋菜穗子〈守り人〉シリーズ研究 .......................... 19 平松 典子 現代は少年犯罪をどのように語ってきたのか .................. 20 同人音楽論 新井 佑介 1975 年に日本初の同人イベントである「第一回コミックマーケット」が開催されて以来、 同人文化はオタクカルチャーの典型例として様々な作品のモチーフとなっている。特にそ の中でも「同人誌」は多くのメディア作品に取り上げられてきたが、一方では同じ同人文 化に位置する「同人音楽」はあまり顧みられることはなかった。本論文ではその同人音楽 へ焦点を向け、その定義や歴史、そして同人音楽ファンの持つ意識などの面から「同人音 楽とは何なのか」を解き明かし、加えて宇野常寛の提唱した「ゼロ年代」の理論を同人音 楽に当てはめてゼロ年代という時代で、同人音楽がどのような立ち位置を占めるかを明ら かにすることを目的としたものである。 第一章では同人音楽自体の定義を試みた。ここでは主に井手口彰典の著作を引用しなが ら、同人音楽とは何を指すのか、どのように他の音楽と区別されるのかを説明した、結論 として同人音楽は「同人イベント・DTM・CD」という3つの要素によって成り立つ緩やかな 集合体であるとした。 第二章では同人音楽ファンの持つ意識に焦点を当てた。既存の音楽ファンの持つ意識に 対する宮台真司の先行研究を参考にし、同人音楽ファンの意識が同人音楽理解に重要とい うことを明らかにした。この中で同人音楽ファンは自らにエリート意識を感じている点を 指摘し、更に宮台真司の「ロック的聴講態度」の言説を用い、同人音楽はロックと同じ受 容のされ方をされており、象徴化・様式化による外部帰属化とカタルシスを持つとした。 更にこれら同人音楽ファンの共同体は「小さな物語」的要素を持つとした。 第三章では、同人音楽特有の「アレンジ文化」とその周辺について扱った。同人音楽は その起源自体が二次創作等のアレンジであり、今でもアレンジが支配的となっている現状 を述べた。現在最も人気のあるアレンジは「東方アレンジ」と「ボーカロイド」であると した上で、これらが「同人音楽との不意の遭遇」の機能を持つこと、また一見似ている同 人音楽とニコニコ動画について決して交わらない点があることに触れた。 第四章では宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』を同人音楽と結びつけて、ゼロ年代の中 で同人音楽がどのような立ち位置だったのかを明らかにした。同人音楽の特性と、そのな かで現れる同人音楽のゼロ年代的特徴を見出していった。ゼロ年代を決定づける大きな特 徴は「小さな物語」「終わりのある(ゆえに可能性にあふれた)日常」「擬似家族」の三点で あるとし、更に同人音楽はその三つの特徴を有しているとした。 以上のような分析から、同人音楽が他の商業音楽と区別される点、また独自の文化を有 する点、そしてゼロ年代との適合性などを明らかにし、同人音楽もまたゼロ年代的メディ アなのだと結論付けた。 1 日本における韓流ブーム 荒井 佑紀 ドラマで始まった今日の「韓流ブーム」は K-POP へと波及し、今や日本市場を席巻する ほどの根強い人気を見せている。本論文では、韓流ブームを主導している韓国ドラマや K-POP に焦点を当て、 なぜ日本で韓流が受け入れられ、人気を得たのかについて考察した。 第 1 章では、経済危機から生まれた韓国の文化戦略と、韓国における日本市場の重要性 という 2 つの面から、日本で巻き起こる韓流ブームの背景について考察した。1997 年のア ジア通貨危機により、経済的に大打撃を受けた韓国は経済立て直しのため、自国市場の小 ささから輸出に活路を求め、1998 年から文化コンテンツ輸出政策を官民一体で実施し、そ の施策が結果的に海外で韓流コンテンツの人気に繋がり、日本の韓流ブームを後押しして いると指摘した。さらに韓国が日本市場を重要視する理由として、ドラマに対する持続的 な人気と音楽市場の巨大さによるビジネス効果が大きいという点を指摘した。 第 2 章では、韓流という言葉の起源から日本で使われるようになった経緯について述べ た上で、作品やアーティストの具体例を用いながら、日本における韓流ブームの変遷につ いて考察した。第一次韓流ブームでは、日韓両国に多大な経済効果をもたらした『冬のソ ナタ』をきっかけに、その他のドラマの人気に BS 放送の普及が大きく影響し、視聴者層が 中高年女性から若年層、さらに男性にも広がりを見せたと述べた。また、第二次韓流ブー ムでは、日本の音楽シーンに大きな影響をもたらした韓国大手芸能事務所「SM エンタテイ ンメント」を中心に変遷を述べ、現地化戦略が日本での K-POP 人気の基礎となったこと、 そして第二次韓流ブームを代表する少女時代や KARA のイメージ戦略や、YouTube や SNS を中心としたマーケティングが K-POP 人気の鍵となったことなどを指摘した。 第 3 章では、マスメディアで既に行われたアンケート結果を踏まえ、独自でもアンケー ト調査を行ない、日本における韓流ブームの実態について分析した。データ結果によると、 韓流人気は女性主導であり、特にドラマでは中高年、音楽では若年層の女性に人気が高か った。さらに興味を持ったきっかけとして、ドラマは母親から娘に、音楽は娘から母親に 影響していることが窺えた。またコメント分析において、ドラマは「日本のドラマにはな いストーリー展開の新鮮さ」が最も好まれる要素であり、さらに K-POP は曲調の良さと、 特徴的な振り付けやスタイル・ルックスの良さという視覚的な要素の一体感が K-POP らし さを生み、人々に好まれている理由であると述べた。 日本での韓流ブームは、韓国の政策や政府の後押しはあったものの、それらが主因とな ったわけではなく、能動的な意思に基づいてファンが集まったことで、自然発生的に生ま れたムーブメントであり、日本の視聴者が求めるものが韓国ドラマや K-POP に見出された という点が大きく、それがきっかけとなって韓流ブームに繋がったと述べた。さらに、今 日の日本の韓流は、日韓関係の悪化にあまり影響されずに根強い人気を保っていることか ら、 「韓流」という文化が一過性のものではなく定着しているとし、結論とした。 2 清水玲子論 五十嵐 亜美 清水玲子は 1983 年のデビューから現在まで、白泉社で活躍している息の長い少女マンガ 家である。清水は 1983 年にデビュー、代表作は「ジャックとエレナシリーズ」、『月の子 かぐやひめ MOONCHILD』 、 『輝夜姫』 、 『秘密―トップ・シークレット―』がある。彼女は初期から少 女マンガというフィールドの中で SF を描き続け、さらに高い評価を受けてきた稀有なマン ガ家である。卒業論文では、清水が作品の中でどのようなテーマをどのように描いてきた のか、その移り変わりを明らかにし、作品に込められた清水の考えを読み解いた。 第 1 章では、 「ジャックとエレナシリーズ」を中心に、初期の作品を取り上げ、清水が萩 尾望都ら 24 年組に影響を受けていることを指摘した。さらに、清水が描く SF について、 星野之宣などと比較を試みた。清水は SF を扱ってはいるが、科学に則った SF 的なストー リーを描くよりも、画面の装飾性や人物の心理描写の方を重視して描いている。清水は SF というジャンルの「自由さ」を利用しながら萩尾らが描いてきたテーマを形を変えて描き、 清水独自の個性を打ち出すことができている。 第 2 章では、 『月の子』に焦点を当て、本作の中で描かれている「登場人物のアイデンテ ィティの獲得」というテーマについて考察した。これは、清水の作品の中で初期から継続 して描かれているテーマである。また、この作品では上記の他に清水の「中性(無性)へ の憧れ」を感じ取ることができる。女性性を忌避し中性に憧れることは、大島弓子など 24 年組が描いてきたことと共通する。 第 3 章では『輝夜姫』を取り上げ、これまでのテーマがどのように変化したかを見た。 『輝 夜姫』ではそれまでの少女マンガらしいロマンチックな展開から、SF 的に複雑で暗い展開 が目立つようになる。だが、変わらずに「アイデンティティの獲得」というテーマに多く ページを割いており、前作よりも複雑な人間関係の中でのアイデンティティ形成を描いて いる。 第 4 章では『秘密』を取り上げた。 『秘密』では前作よりもさらに社会や人間の暗部に切 り込んだストーリーになっている。それまではコマとコマが重なったりコマとコマの境目 が曖昧になっている重層的なコマ割りを愛用していたが、 『秘密』では 1 つ 1 つのコマが独 立し、その中に人物が収まっているコマ割りに変わっている。だが、これまでと同様に、 やはり「アイデンティティ形成」のテーマは描かれている。この作品で描かれた、主人公 の青木と薪がお互い認め合い自立した上で「家族」となるというかたちは、清水が「アイ デンティティの獲得」の物語を以前から考え続けた結果だろう。 以上のことから、清水は初期から一貫して、 「アイデンティティの獲得」というテーマを 形を変えつつも描いてきたことがわかる。それに SF を取り入れることによって、昔から描 かれてきたテーマに新しい息が吹き込まれている。このような清水のスタイルが、長期間 に渡って安定した人気を得続ける所以なのだと考えられる。 3 若者の間におけるサブカルチャーの変遷 ~ヴィレッジ・ヴァンガードが発信するサブカルチャー~ 小野塚 雅人 日本においてサブカルチャーは多くの若者を魅了している。近年、サブカルチャーは細 分化され、その消費者の間でもよりマイナー路線を求めようとする選民思想的な傾向が見 られる。本稿は、サブカルチャーの歴史をたどった上で、複合型書店ヴィレッジ・ヴァン ガードを取り上げ、その下位文化の発信地としての機能を分析した。 第一章では、日本における 80 年代、90 年代のサブカルチャーの在り方をまとめた。この 時代にサブカルチャーは日本に浸透し、雑誌を初めとする各種メディアやインターネット を通じて若者文化の核をなすようになっていく。そうした中で「サブカル」という略語も 生まれる。この用語は略語であるがゆえに当初はやや卑俗なイメージがあったが、やがて 単なる略語ではなく、娯楽性と大量生産性に富んだ独自のジャンルを表す言葉となる。ま た、 「サブカル」の消費者は、消費社会の中で他者との差異化を図るために、一般的には敬 遠されがちな危険で低俗と思われるものを求めようとする傾向があることを指摘した。 第二章では、一部で「サブカルの殿堂」と称される複合型書店ヴィレッジ・ヴァンガー ドが、現在、下位文化の発信地として機能しているのではないかという仮説を提示し、こ の店の前史、売り上げや経営戦略などのデータをまとめた。 第三章では、二章のデータを踏まえた上で、ヴィレッジ・ヴァンガードの商品などを分 析し、なぜ「サブカルの殿堂」と成り得たのかを論じた。ヴィレッジ・ヴァンガードは、 テナント化し全国へと店舗を拡大しながらも、良識的なメディアや大衆から敬遠されがち なエロやナンセンスのようなアングラ系の雑誌や書籍を販売し、一見趣味の悪そうなキッ チュな輸入雑貨などを並べている。そういった露悪的な経営戦略が、ターゲットである若 者を刺激しており、また一章で述べた「サブカル」の消費者の、大衆との差異化を求めよ うとする消費傾向と合致することを指摘した。 第四章では、ヴィレッジ・ヴァンガードと「サブカル」の結びつきをまとめ、また、「サ ブカル」の消費者と、若者が担い手となった様々な下位文化である「~族」との比較を行 った。独特のファッションを身に纏い、非行を行うことで社会との差異化を図ってきた「族」 の傾向と「サブカル」の選民的な消費理念は、下位文化を消費する集団として同質のもの と見られるのではないかと論じた。 最後に、サブカルチャーは本来目新しく先鋭的な文化であり、時に危険であったからこ そ若者の目に魅力的に映り、多くの下位文化がそこから生まれたのだと述べ、近年、特に 厳しくなっている「表現の規制」により、下位文化の発信地というヴィレッジ・ヴァンガ ードの特色が薄まり、店舗がありきたりのものとなっているが、そういった傾向が今後の 若者のサブカルチャーにとって重要な問題になってくるのではないかと結論付けた。 4 女性ファッション誌とその読者 片野 恵 現在の女性ファッション誌は、提示するファッションの系統ごとに様々に分類され、年々 増えてきている。このような女性ファッション誌の急速な発展と増殖は、消費行動の拡大 と多様化に伴い、ファッションそのものが多様化していったことに起因するが、ファッシ ョンが多様化し、ファッション誌もその種類を増やしているのであれば、雑誌に対する読 者のあり方も多様化していると考えるべきではないだろうか。本論文では、女性ファッシ ョン誌の読者を問題としてとりあげ、その多様化を明らかにすることを目的とした。 第一章では、広告の「読み」に関する先行研究として、ジュディス・ウィリアムスンの 記号論的な分析、レスリー・ラビンによるフェミニズムの観点からの分析、そしてベンヤ ミンを引き継いだ北田暁大による《気散じ》の観点からの分析をとりあげた。広告に対し て極めて緻密な読みを行ったウィリアムスンやラビンに対して、北田は記号論が暗黙のう ちに想定していた注意深い受け手だけでなく、《気散じ》する読者も考慮するべきとし、分 析をおこなっている。 《気散じ》の性質は多様であるが、なかでも、駅を通過する通過者と しての《気散じ》と、百貨店を徘徊する女性の遊歩者としての《気散じ》に注目した。 第二章では、1970 年代、消費社会の黎明期に登場した『an・an』 『non・no』の読者に 関する検討をおこなった。当時はまだ欧米が日本に正しいファッションを「教える」状況 であり、 『an・an』も欧米的なモデルによる一人称の物語を採用することで読者を啓蒙した。 読者も熱心にそれを学ぶ姿勢を持ち、模倣していった。ここから、皆同じ格好で、同じ観 光地へ旅に出る「アンノン族」が生まれてくる。この意味でアンノン族は、記号論が暗黙 のうちに前提としていた理想の受け手であったことを指摘した。 第三章では、ファッションの多様化に伴い、分化していく現代のファッション誌をとり あげ、なかでも赤文字系雑誌『CanCam』と青文字系雑誌『Zipper』 『Soup.』に注目した。 『CanCam』と『Zipper』は、ともにモデルに対して属人的で、読者を没入へ誘うスタン スをとるが、モデルが読者に喚起する欲望において違っている。前者において読者がモデ ルと「同じ」ようになろうとするのに対し、後者において読者はモデルと同じように「個 性的」であろうとする。それに対して『Soup.』は属人的要素を欠き、読者は何になればい いのか提示されないまま、雑誌内を《気散じ》しながら浮遊する。そのとき読者はいわば 「遊歩者」となっており、誌面に配置された私的な領域との出会いを通じて、《気散じ》か らの目覚めが可能になるのである。 以上の考察により、ファッションとその雑誌が多様に広がっていくにつれて、読み手の 態度も複雑に多様化していることが明らかになった。読者は必ずしも広告に対する緻密な 読み手ではないし、その態度も「没入/散漫」といった二項対立で説明できるものではな い。ファッション雑誌の読者は単純に類型化することはできず、ファッション系統や時代 背景などに応じた繊細な分析が求められるのである。 5 ラーメンズ論 神田 瑛世 ラーメンズ(Rahmens)とは、1996 年に結成した小林賢太郎(1973-)と片桐仁(1973-)の二人 からなるお笑いコンビである。トゥインクル・コーポレーションに所属しており、ラーメ ンズとしてのテレビ出演は、現在はほとんどなく、主に舞台でコント作品を発表している。 1998 年に最初のラーメンズ本公演である第 1 回公演『箱式』が上演され、その後現在まで で 17 回の単独公演が行われている。1 回の公演は 6~10 本程のコントで構成され、上演時 間は約 1 時間半から 2 時間ほどである。ラーメンズは『演劇ぶっく』や『広告批評』に取 り上げられ、彼らのコントはしばしば「演劇的」 「アート」と評されている。 本稿では、特にラーメンズが「演劇的」と評されることに着目し、ラーメンズのコント における演劇的要素を分析し、ラーメンズの「演劇的」な特徴を論じた。 第一章では、ラーメンズの経歴を紹介した。また、小林賢太郎のコントの認識を紹介し た上で、もともとコントが演劇の中のひとつの形であることを指摘した。 第二章では、ラーメンズが演劇的とはどういうことかを考えていくために、まずは演劇 を成立させる四つの要素を示し、その要素ごとにラーメンズについて考察した。結果、人 物造形をする際に、公演において前後のコントで 2 人の外見は少しずつ変化し、特に髪型 を変え、眼鏡をすることで多様な人物を演じていた。また、テレビ出演が少ないことで、 テレビ番組でのイメージによりキャラが固定されないことも、多様な人物を演じることを 可能にする一因であった。対立葛藤を持つ戯曲として『器用で不器用な男と不器用で器用 な男の話』を分析し、このコントにおいて笑いよりも感動させる要素が多いことを指摘し、 また小林の言葉からこのコントが公演の最後に上演されるコントであるために成功してい ることが分かった。また、演劇には約束事があり、舞台で行われるコントにも同様に約束 事があることを述べた。その約束事がどのように利用されているか分析し『同音異義の交 錯』と『銀河鉄道の夜のような夜』の関係を明らかにした。そうして、ラーメンズのコン トにおいて、関連するコントや公演をつくるコントの流れがラーメンズの特徴ではないか と推測した。 第三章では、前二章をうけ、関連するコントとして『タカシと父さん』と『片桐教習所』、 『条例』と『不透明な会話』を分析した。二組のコントを分析し、二つコントは関連をみ て、前のコントは、後のコントに対しての役割を担い、その過程を観客が経ることで舞台 を完成させていることを指摘した。また公演をつくるコントのまとまりを示すため、第 17 回公演『TOWER』の一連の流れを分析した。そして、ラーメンズにおいて、コントが関連 しあうことで広がりを持ち、またコントが収束することによって公演という作品が作られ ていることが分かった。そのために、ラーメンズのコントは、コントという枠を超えてお り、演劇に近いものであり「演劇的」と評されるのだと結論付けた。 6 『美少女戦士セーラームーン』からみる戦う美少女アニメ 西條 詩菜 『美少女戦士セーラームーン』は 1990 年代アニメーションの金字塔ともいえる作品であ る。講談社の少女漫画雑誌『なかよし』に連載されると同時期にアニメ化され、少女を中 心に大人の女性、男性の間にまで広く人気を博し、単なる少女漫画・アニメの域を遥かに 超えたブーム・社会現象となった。本稿の目的は、このアニメ『美少女戦士セーラームー ン』が放送開始から 20 年が経過した現在でも長きにわたって愛されている理由を明らかに することである。まず、斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』を手がかりに本来のターゲッ ト層である女の子たち以外の人々の心をつかんだことを考察する。その後、女の子の理想 を主眼に据え、斎藤の戦闘美少女論では判明しない『セーラームーン』の新しさ、つまり 少女から少女ではない者までが楽しめる物語になったことを論じていく。 第1章では『美少女戦士セーラームーン』の概要とストーリーについて説明したのちに、 本作品がヒットした要因を考察した。「戦闘」、「セーラー服」、「美少女」、「転生」、 「ギリシャ神話」などの要素をあげ、第2章以降の考察の手掛かりとした。 第2章では斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』をもとに、『セーラームーン』が性的対 象となった要因や背景を解き明かしていく。「セーラー服」や「変身」、「美少女」が男 性の欲望を駆り立てることを論じた後、日本と欧米のアニメーションにおけるセクシュア リティへの考え方の違いから『セーラームーン』が性的対象となりうる理由を明らかにし た。 第3章では女の子の理想という、斎藤論からみえない側面を明らかにする。 「神話」のモ チーフから読み取れる男尊女卑へのアンチテーゼを指摘し、 『セーラームーン』に広がる女 性が優位な世界観について論じた。また「普通の女の子」というキーワードによって、女 の子がより共感できる構造がつくられていることを提示した。「普通の女の子」から「母」 へと変化したうさぎ、タキシード仮面の立ち位置についても分析し『セーラームーン』が いかに女の子の理想を詰め込んだ作品かということを明らかにした。 そして第4章では第3章をふまえ、今度は女の子の理想という視点で『セーラームーン』 における「戦闘」について考察した。その後、本稿のまとめとして『セーラームーン』が 手に入れたものについて論じた。 本稿を通して導き出した結論は、「『セーラームーン』が表現しているのは、すべてを 欲しいという貪欲な願いである」ということだ。様々な価値観の転倒を含んでいる『セー ラームーン』の世界では、強さの象徴が「男性」というわけではないことを様々なシーン、 設定で訴えているように考察できる。『セーラームーン』では男女同等どころか、むしろ 女性が優位な世界が意図的に作られているのである。『美少女戦士セーラームーン』は、 「戦う少女」の中にあって初めての「肯定」から始まる物語だったのである。 7 木皿泉論 佐藤 絢香 木皿泉は夫婦で執筆を行う二人組の脚本家である。彼らによるテレビドラマは視聴率こ そ振るわなかったが、多くの賞を受賞し、時には「伝説的」とも言われるなど高い評価を 得ている。本稿では、木皿泉によるテレビドラマ 4 作品を取り上げて分析を行い、これら の作品が視聴者及びテレビドラマ界にどのような影響を与えたかを考察した。 第 1 章では、1980 年代後半からのテレビドラマ制作の流れを確認した。1990 年頃には ドラマの放送数が急激に増加し、トレンディドラマブームと相互に影響したことで、恋愛 ドラマをはじめとした様々なドラマが制作された。各テレビ局は独自の方向性を持たせた ドラマ制作を行い、ドラマの細分化に対応した。木皿泉が活動の場とする日本テレビ土曜 21 時の通称「土 9」枠では、ジャニーズタレントを起用し、極めて非現実的なドラマが量 産されていた。しかしこの作風のドラマは勢いを失い、木皿泉が登場した 2000 年代前半の 土 9 枠は、それまでとは全く異なる日常的なドラマへと方向転換し始めた時期にあった。 第 2 章では木皿泉によるドラマ 4 作を分析した。全てにおいて主人公がやや冷めた人間 であること、そして自らが過ごす世界を変わらない・つまらない日常であると捉え、退屈 しているということが共通している。主人公たちは日常を見なおし新たな日常を獲得する が、このような変化のきっかけとなった人物との別れが必ず描かれる点も全作で共通して いる。さらに、劇中の至る所で死に関するエピソードが描かれる。 第 3 章では、木皿泉が繰り返し描くつまらない日常がどのようなものか考察した。まず 別れと死に注目し、主人公たちの劇中での反応から、彼らが生死に対して鈍感になってい るとした。次に劇中で多用されるモノローグについて分析し、時間や生死を曖昧にさせる 効果を持っていると述べた。さらに食に関する場面も頻繁に描かれ、食と生死を関連づけ る台詞・演出が加えられていることから、木皿泉の描く劇中世界は時間や生死が曖昧な世 界であり、そこで暮らしていた主人公たちは物語が進む中で改めて生死に向き合わされて いるのだと述べた。木皿泉のドラマには笑いもあり、このように明るさと暗さが混在し生 死が入り乱れる曖昧な劇中世界は独特のものである。 第 4 章では、木皿泉及び彼らの全ての作品においてプロデューサーを務めた河野英裕に よるドラマ制作が区切りを迎えた 2010 年以降の土 9 ドラマを概観し、木皿泉のドラマによ る影響を見ることができると述べた。土 9 枠では 90 年代以降の得意分野を生かしつつ、日 常や自分自身を見なおすような内容のものが制作されている。特に震災後には霊や妖怪な どが登場するドラマも目立ち、これらは木皿泉のドラマでも印象的に描かれていた。 土 9 枠では漫画などを原作とした非日常的・非現実的なドラマが多く制作されてきたが、 木皿泉はそのような要素を効果的に組み込むことで、日常や現実的な生死を際立たせた。 今後は生死をどのように描くかという点に改めて注目が集まると考えられ、木皿泉のドラ マは、土 9 枠だけでなくテレビドラマ界において重要な土台になると言える。 8 本格昔話からみる日本昔話の語り口 廣瀬 沙妃 誰でも一度は聞いたこと、読んだことはあるであろう昔話。昔話は時代、場所をこえて 受け継がれてきた。それは昔話の構造や表現形式が時代や場所を問わないものであるから である。本論文では昔話の確立された構造や表現形式が昔話の語り口によってもたらされ ると考え、日本昔話の語り口を本格昔話を分析対象に明らかにすることを試みた。なおこ こでいう語り口とは、口調という意味のほかに登場人物の描かれ方や出来事の語られ方と いった意味も含んでいる。 第一章では日本昔話の語り口を探る参考として、マックス・リュティのヨーロッパの昔 話に対する理論をまとめ、最後にリュティの理論と自己見解との相違点を述べた。リュテ ィは文芸学的立場からヨーロッパの昔話の語り口を分析することで、ヨーロッパの昔話の 様式や形式を明らかにした。リュティは昔話には「一次元性、平面性、抽象的様式、孤立 と普遍的結合の可能性、純化と含世界性」というものがあらわれているとしている。自己 見解の相違点としては、リュティが昔話という口承文芸を扱っているのにもかかわらず、 語り手と聞き手の関係についてあまり触れていないことに対する指摘や、昔話は高尚な 人々の作ったものが民衆に降りてきたのだとしていることについて、昔話は民衆の間では ぐくまれてきたものであるということを述べた。 第二章ではまず、本格昔話とはどういった昔話のことを指すのかという定義を述べた。 さらに、リュティの理論と日本昔話の相似点を「舌きり雀」を分析し明らかにした。 第三章ではリュティの理論と比較しながら、日本昔話の語り口の特徴を浮かび上がらせ ることを試みた。とくに昔話の語り手と聞き手の関係の重要性や、日本の昔話はヨーロッ パのものに比べ語り口の抽象性が高いということ、そしてそれは昔話が日常に近いところ で作られているからであるということを明らかにした。 第四章では、第三章で明らかにした日本昔話は日常に近いということについて、昔話に あらわれる日本文化的特徴や日本人の自然観・動物観を取り上げ探っていった。人間も動 物も自然の中のひとつの生命であって、そこに明確な区別がないという大前提が日本人の 価値観としてあり、そこから生まれてくる昔話は必然的に彼岸の世界と此岸の世界のあい だに明確な区別がない語り口となっている。動物についても、日常的感覚の延長としての 自然動物として語られたり、超自然的存在として語られたりそこに明確な境界はない。自 然や動物を明確に対立するものではなく、世界に同じように存在し人生の上で親しんだり 敵対したりするものであるという日常の中の価値観が、昔話の語り口に抽象性をあたえて いるのだと結論づけた。 おわりに、昔話の語り口によく似た傾向をもつ現代のサブカルチャーとしてカトゥーン を、作家として村上春樹をあげた。文芸の根っこともいえる昔話はこのように現代の文化・ 文芸にもその遺伝子は脈々と受け継がれているのである。 9 女子映画における小林聡美 星野 愛恵 小林聡美は 1965 年生まれの女優である。1979 年にデビューして以降 30 年以上に渡って 活躍を続ける実力派ながら、長いキャリアの中で彼女が主役を演じることは稀であった。 そんな小林が近年、 『かもめ食堂』(2006)『めがね』(2007)『プール』(2009)『マザーウォ ーター』(2010)『東京オアシス』(2011)という 5 作の映画で立て続けに主役を演じた。5 作 はいずれも女性監督が制作し、女性観客をメインターゲットにした女子映画である。本稿 では、なぜ女子映画において小林聡美がスターとなったのかを探った。 第 1 章では、女子映画の成り立ちを確認し、小林聡美主演作品の特異性を明らかにした。 女子映画は、若い女性監督が社会的な「女性らしさ」ではなく「自分らしさ」を表現する パーソナルな作風に特徴づけられるジャンルであり、共感できる物語を求める女性観客の 要求に応える形で 2000 年代に台頭した。小林主演作の特徴としては、観客の年齢層の広さ とメディアミックスの多用を挙げた。作中で役者と絡む雑貨は可愛さに加えてデザイン性、 実用性を備えており、年齢を問わず観客の実生活と関わりが深い。ファンは消費活動によ って作品の世界観を自分のライフスタイルに還元していると分析した。 第 2 章では、モノがファンタジックで穏やかな世界観の創造に寄与していると仮定し、 衣食住と登場人物の関係を明かした。『かもめ食堂』から『マザーウォーター』までは、登 場人物が日常を過ごす舞台は現実とは隔たれた理想郷であり、そこで人々はジェンダーか ら自由な存在となることが分かった。リネンや薄手のニットを多用した衣装は心地よい皮 膚感覚を連想させ、登場人物の解放感を示している。市場での買い物や、丁寧な料理の描 写によって表される食は、ユニセックスな世界の中で登場人物が愛や連帯を結ぶ手段とな っている。 『東京オアシス』は、現実の中で登場人物が居場所を見出す物語だと指摘した。 第 3 章では、小林聡美のスターイメージについて考察を行った。主演作『やっぱり猫が 好き』(1988~1991)で日常の楽しさと結びつけられた小林のイメージは、 『すいか』(2003) で強化された。 『かもめ食堂』で彼女の日常は理想化された後、舞台が現実へ回帰した『東 京オアシス』で、理想郷を特定の場所ではなく他者とのコミュニケーションに見出す過程 を描き、終わりを迎えたと推測した。5 作の女子映画では小林の役柄の背景が語られること がないため、その空白に観客が自分を重ねることによって、小林は観客にとっての「もう ひとりの自分」となる。一方、小林の姿は作品が提示するナチュラル系ファッションやス ローライフのアイコンとしての側面も持っていることが分かった。 女子映画において小林聡美がスターとなりえたのは、女子映画と観客の間に生まれる女 子同士の共感という関係と、女性の等身大の日常に豊かさを与えてきた小林のイメージが 一致したからである。観客に代わって女性の抱えるしがらみや問題から自由となり、作中 で絡むモノとともに豊かな日常の手本を示すことによって、小林聡美は幅広い世代の女性 から支持されるスターとなったと結論付けた。 10 メディアとしての装い――音楽受容のあり方 村松 亜梨沙 今日の音楽表現は、われわれのもとへ伝わる際に経由する場や装い、物語などをともな い存在している。機械メディアの変化により音楽は演奏の場を離れ、音そのものを取り出 すことが可能となった。一方、映像や歌手の視覚的な要素と再び結びつく中で、音楽以外 の要素に強い関心を持つ受容のあり方に批判的な見方が生まれた。しかし、われわれは音 楽を受容する際、特定の領域にのみ関心を抱いているのだろうか。本論文では、 「メディア」 の持つ中間、媒質の意に注目し、そこに位置づけられる存在に焦点を当てることで、一面 的ではない複合的な音楽受容のあり方を考察した。 第一章では、 「音楽そのもの」と「音楽以外のもの」が分離して語られている現状に着目 し、その要因を探った。音楽研究では、ジャンルにより重視する対象が異なっていた。音 楽聴取の場に注目すると、実際には聴取の目的が混在している中で、演奏にともなう「場」 や「装い」といった音楽以外の要素が対象化していた。その背景には 19 世紀の演奏会形式 の成立があり、聴衆の意識は分化し「音楽そのもの」に集中しない聴き方は批判の的とな っていた。さらに、複製技術が演奏の場や視覚的な要素を排除し、「音」に集中した聴取を 促進していた。こうして音楽を取り巻く要素の分離は生まれ、強化されていった。 第二章以降では具体的な事例を検討した。まず、漫画『のだめカンタービレ』に向けら れた批評や描写の分析から、その特徴と音楽受容の関係を考察した。本作は、典型的な青 春物語の手法や「笑い」とともにクラシック音楽を描き、実写化においては俳優の魅力も 備わったことで、一般には従来のクラシック音楽のイメージを薄めて提示したという新し さを感じさせた。一方、音楽界からは楽器や楽曲に関する正確な描写が評価され、漫画と いう領域が教養主義的な旧来イメージをも温存し、強化する側面を持っていた。さらに演 奏会成立以前の、混在する聴取も描かれ、音楽とそれ以外の領域の共存が確認できた。 第三章では、音楽と外観との関係が問題化した現象として「ヴィジュアル系」を取り上 げた。外観への越境という一般的な批判に、先行研究はその外観の特徴を評価することで 擁護する立場をとっていた。しかし、ファンの中にはむしろ音楽面を重視する動きがみら れ、ここに外部/内部という立場の違いが表れていた。さらに歌手側では、多くが外観の 変化により自らの立ち位置を確立させる中、今日においても境界をさまよい「中間」に位 置する存在は見逃せない。ファンの動きの中にも、音楽面への関心を主張し、それ以外の ファンと対抗する受容への違和感が表れ、その対立関係自体が揺らぎをみせていた。表現 と受容の両面において、音楽はそれ以外の要素を取り込みながら存在していた。 音楽研究は、音楽領域から外れる姿やとりわけ熱心なファンなど、極端な存在を捉えて いた。そこでは特定の領域に固着せず、それらを遠巻きに見ている受容はこぼれ落ちてい る。音楽を取り巻く要素は互いに密接であり、ときに音楽の持つ性格をも離れる。音楽を 伝える際の「装い」それ自体が、領域を行き来し姿を変えて生きるメディアなのである。 11 プロジェクトに仮託した存在――西川貴教論 紋川 あゆみ 西川貴教(1970 年-)は、することなすことが「ネタ」か本気か分からない冗談めいた存 在である。1996 年にソロアーティストではなく“ソロプロジェクト”T.M.Revolution とし てデビューした彼は、自らのアイデンティティに固執せず、 「プロジェクト」に「仮託」し た活動をおこなうことによって、変化する音楽文化に適応し、15 年間音楽業界で CD 売上 やライブコンサート動員数を一定の水準に保ちながら生き残っている。各時代の音楽文化 を代表するアーティストは多数いるが、音楽文化における時代の潮流につかず離れず関係 し続けた点において、西川は他に追随するものを持たない。活動形態を巧みに変化させて 生き残ってきた彼は、ある意味で、日本の音楽文化の変化を体現する存在なのだ。本論文 では西川の活動を三つの時期に分けて、同時代の音楽文化との関わりを中心に論じた。 第一章では、まず彼が音楽番組「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」への出演において、 トーク部分で視聴者にキャラクターが“読まれる”構造をうまく生かし、お笑いに馴染むキャ ラクターを提示したことに触れた。次に、T.M.Revolution が他の“ソロプロジェクト”とは 違い、メジャーで知名度と実力のあるバンドやグループなどの本拠を持たずに始動したこ との意味を確認し、最後に、PV における「奇抜な衣装で風に吹かれている」イメージが、 西川の客観的かつ自嘲的な姿勢によって築かれていることを指摘した。西川個人ではなく T.M.Revolution が前面に出ることによって、羞恥を意識しないことが可能になっている。 第二章では、西川がアニメに接近してからの活動を分析した。海外でのアニメ関連イベ ントへの参加において、T.M.Revolution は、アニメ、ヴィジュアル系という要素のどちら にも傾倒せず、つねに両方に関与しようとしている。これらの要素は、西川のアイデンテ ィティを構成するものであったというよりは、むしろ T.M.Revolution という「プロジェク ト」の多様な試みのひとつにすぎなかったのである。さらにこの時期において、プロジェ クトにおける「参加」重視の姿勢が浮き彫りになった。 第三章では、観光大使や震災の復興支援など、西川貴教本名名義での活動を取り上げた。 公共的な活動に伴って本名を名乗るようになったとはいえ、西川は一個人のアイデンティ ティに閉じこもったのではない。地元のイベントで人々の「参加」を促す枠組みをつくり あげようとしている点は、T.M.Revolution のプロジェクトと重なっている。次に、Twitter での影響力の数値化について触れ、西川の言動に対して周りの人々が実際に「反応」した こと、つまり彼が実際に人々の「参加」を組織しえたことを確認した。 T.M.Revolution と西川貴教という名義の違いそのものは問題ではなかった。 “ソロプロジ ェクト”T.M.Revolution は、西川が自らのアイデンティティと距離を置いて「仮託」する 対象から、人々の「参加」を組織する媒体へと発展したのである。つまり、T.M.Revolution と西川貴教は、その都度何かを立ち上げるときに人が集まる目印として「参加」を促す〈旗〉 の機能を果たしているのである。 「仮託」は〈旗〉であり続けている。 12 松竹映画史における山田洋次作品の意義 ―山田洋次作品が描く「労働」 「家族」「故郷」― 柳沼 佳菜子 山田洋次はこれまで、松竹で活躍する映画監督として包括的に、そしてある時には、代 表作『男はつらいよ』の監督として部分的に語られてきた。庶民の日常にテーマを見出す 山田作品の特徴は、松竹映画における伝統的な風潮がその根底にある。それ故、山田が作 品内で描く「庶民」は「松竹の伝統」に埋もれ、これまで注目されることがほとんどなか った。その一方で、山田は『男はつらいよ』シリーズの爆発的ヒットにより、それ以外を 評価される機会を奪われた不遇の監督である。『男はつらいよ』はあくまで、全 80 本にも のぼる山田作品の一部である。山田作品を語ることが『男はつらいよ』シリーズを語るこ とと同一であってはならない。本論文では、 『男はつらいよ』シリーズ以前、さらには同時 期に製作された作品を中心に分析し、山田が一貫して取り組んでいる「庶民」の独自性を 明らかにした。 第一章では、山田の初期監督作品に着目し、『男はつらいよ』までに築いた山田作品の基 礎を明らかにした。初期メロドラマ作品において、山田は肉体労働者という「庶民」を登 場させ、彼らと非肉体労働者を対立させることで、 「庶民」を肯定している。山田は、非肉 体労働者を物語の中心から排除し、肉体労働者が労働に勤しむ様子を美しく演出すること などで、 「庶民」の姿を浮き彫りにしたのである。さらにこの時期、喜劇シリーズにおいて、 山田は喜劇の中に哀しみを持った場面を挿入することで、笑いを引き立てる新たな喜劇手 法を確立している。悲喜劇ともいえる演出が、『男はつらいよ』のルーツのひとつとなって いるのだ。 第二章では、『男はつらいよ』と並行して製作された、山田のリアリズム三部作『家族』 (1970)、 『故郷』(1972)、 『同胞』(1975)を考察し、これらの登場人物像を「労働」「家族」 「故郷」の視点から整理し、山田が「庶民」を発展させる過程を明らかにした。山田作品 における「庶民」は、 「労働」を生活の基本とし、困難を「家族」と共に乗り越え、 「故郷」 を心の拠り所にしている人物に他ならない。 第三章では、 『男はつらいよ』シリーズにおいて描かれる「庶民」を分析する。意外にも、 同シリーズで描かれる「家族」や「故郷」は、第二章で定義した山田の作劇術に収まらな い。山田は「非」庶民である寅次郎を主人公に据え、彼の、つまりは外の視点から「庶民」 と再度向き合うのである。すなわち、『男はつらいよ』の「庶民」は、逆説的にも「非」庶 民によって補完された結果、 「庶民」と自認する多くの観客に愛されたのである。 このように、山田は一貫して「庶民」に取り組んできた。その根底には、 「労働」「家族」 「故郷」という一貫したテーマがある。その代表作である『男はつらいよ』は「非」庶民 を登場させることで、庶民を進化させることに成功した。彼の仕事は、庶民階級を基盤に した映画を多く作ってきた松竹映画の長い歴史を継承しつつ、「労働」「家族」「故郷」とい った3つの要素に集中し、逞しく生きる「庶民」の姿をその歴史に刻んだと言える。 13 セレブリティーズと写真 渡邉 美沙 我々の社会はセレブリティーズのゴシップで溢れかえっている。これはセレブリティの 私性を覗き見たいという我々の欲望の現れである。これらゴシップの発信源となっている のが「パパラッチ」と呼ばれる存在である。彼らはセレブリティを 24 時間監視し、写真を 撮る。それがマスメディアを通じて我々の元へ届けられるのだ。このようにゴシップには 写真の存在が欠かせないものとなっている。それらすべてのゴシップ写真が、公衆の覗き 見の欲望を満たすものである。公式写真においても彼らの私性を感じさせるもののほとん どが公衆の覗き見の対象であり、単なる崇拝の為のコレクションにしかならない。だが時 にセレブリティーズの有名性が別様に作用し、彼らの私性が、単なる見せ物としてではな く、それ以上の価値を持つ写真となることがある。本論文ではセレブリティーズの写真を 分析し、セレブリティーズの私性が写真とどのように関わっているのかを明らかにする。 第一章では、セレブリティーズ、ゴシップ、写真それぞれの歴史を追い、それらがどの ように関わり合っているのかを示した。セレブリティはその死さえも彼らの名声に利用さ れ、ビジネス化されている。さらに、ハリウッド最大の犠牲者であるマリリン・モンロー をテーマとしたリチャード・アヴェドンとアンディ・ウォーホルの作品を比較し、両者の 作品がスター製造社会を揶揄する対照的な方法であったことを明らかにした。 第二章では、アニー・リーボヴィッツが撮影したセレブリティーズのポートレイトを分 析した。一つはデミ・ムーアのマタニティ・ヌード写真、もう一つはジョン・レノンの最 後の公式写真となったジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻の写真である。それらの写真は 単に公衆の窃視の欲望を満たすためだけではない例外的な作品になっている。前者はフェ ミニズムの側から多くの批判が寄せられ、結果としてマタニティ・フォトというビジネス を生んだものの、妊婦の身体に対する偏見を緩和することにも繋がった。後者はリーボヴ ィッツ自身が「レノンの死の直前の写真」という神格化を行ったものだが、実際にはこの 写真の独自性を形作っているのはレノンではなくヨーコであることを示した。 第三章では、リーボヴィッツが撮影した、スーザン・ソンタグの私生活と彼女の死の写 真について分析を行い、セレブリティという文化装置が愛や死といったものをどのように 搾取するのかを明らかにした。リーボヴィッツは親密な関係にあったソンタグのことを、 愛の視線とセレブリティの私生活を覗き見る公衆の視線という二重の視線で眺めている。 ソンタグは自身の著書『写真論』において、 「美と醜の相互補完性」を主張していたが、ソ ンタグ自身が被写体となったこれら一連の写真について考えた時、彼女自身が「美」と「醜」 を一人で統合して見せた存在となっている。だがソンタグの死の写真が、結果的には、写 真家とセレブリティ本人の名声にしか貢献しなかったことは否定できない。 最後に、すぐに見せ物となってしまうセレブリティーズの写真において、生や死といっ たテーマは暗喩的に示されるべきであるとして、結びとした。 14 コバルト文庫と少女小説―氷室冴子を中心に 岩井 千紘 少女小説とは明治期に日本で誕生した、主に思春期の女性を読者対象とした小説の一ジ ャンルである。少女小説は戦前、戦後そして 1980 年代前後を境に大きく姿を変えるが、こ の 1980 年代に起こった変化には、コバルト文庫というレーベルが深く関わっている。 本稿では 1980 年代から 1990 年代前半までの少女小説の変遷を、コバルト文庫を中心に 活躍した作家、氷室冴子に焦点を当てて追っていく。名実ともに少女小説界の大御所であ る彼女によって現在に続く少女小説の形は作られた。彼女のデビュー作から未完に終わっ たコバルト文庫での最後の発表作までの作品ジャンルの変遷を氷室のほか多くの看板作家 を抱え当時、そして今も少女小説の代表的なレーベルであるコバルト文庫の変化とともに 見ることで、彼女がコバルト文庫、ひいては少女小説に与えた影響をみていく。 第一章では、戦後程なくして少女小説の代わりにジュニア小説と呼ばれるジャンルが誕 生し、氷室冴子がこのジャンルに登場する 1970 年代後半までの流れを追う。特に吉屋信子 に代表されるような明治から戦前まで展開されていた少女小説とジュニア小説の違いを少 女漫画の影響なども踏まえながら述べ、更に氷室冴子がこのジュニア小説に登場したこと が、 「少女小説は読者と同じ、もしくは近い年齢の作家によって書かれる」という現在まで 続く形態を作る契機となったことを示す。 第二章では氷室の作品分析を行った。初期の作品はジュニア小説に寄った硬い内容のも のであったが、共感を得るキャラクター造形によって読者の支持を得、一躍人気作家とな っていた中期ではラブコメディでコバルト文庫の看板作家の地位を確立した。また未完と なったコバルトでの最終作はファンタジー作品であり、当時コバルト文庫が現代ラブコメ ディからファンタジーへとジャンルが傾向していったことと一致する。 第三章では作品分析をふまえたうえでの 80 年代から 90 年代前半までの少女小説界全体 の流れや、コバルト文庫のジャンル推移を見る。特に 80 年代後半は前半に氷室らコバルト 文庫の作家によって少女小説界が活気づいていたこと、それによってジャンルとしての形 式が固まってきたこともあり、対抗文庫の創刊など更に業界は活気づき、ブームと呼ばれ るまでに人気は拡大していた。ブームの前後や対抗文庫と比較しつつ、氷室のジャンル推 移とコバルト文庫というレーベル自体の変化を重ね、氷室がレーベルに及ぼした影響と、 作品における一貫した姿勢を見る。 ジャンルの推移自体は当時の読者の傾向と氷室自身の願望のすり合わせの結果であるが、 大きくコバルト文庫に影響力を持っていた氷室であったからこそ、それが成り立ったとも 言える。読者を惹きつけたのは「女の子の納得できる女の子を書く」という氷室の姿勢に よって書かれた作品であり、ジャンルが推移してもそれは揺るがなかった。氷室冴子なく して少女小説を語ることはできない、と言われるのはこれらのことからも明らかである。 15 ニコニコ動画における実況プレイ動画 小田 秋乃 実況プレイ動画とは、プレイヤーが喋りながらゲームをする様子を録画し、動画に収め たものである。近年、この実況プレイ動画は動画共有サイトであるニコニコ動画内で注目 を集めている。本来、ゲームとは自分がプレイするものであるが、このようにゲームをプ レイする動画を「見る」という楽しみ方がどのようにして現在のような支持を得たのか。 本論文ではその理由を探っていく。 第一章では、実況プレイ動画が誕生してから現在に至るまでの背景について整理し、そ の実態を明らかにした。個人のホームページでのゲームのプレイ日記やプレイ動画に始ま り、PeerCast での肉声を足した実況配信、そしてニコニコ動画では更に編集などを加えた 実況プレイ動画が多く見られるようになった。そして実況プレイ動画は削除されにくく作 成も容易であったため、爆発的に数を増やし、現在のニコニコ動画内で二番目に多くタグ 登録されているジャンルになっている。 第二章では、実況プレイ動画がブームとなっているニコニコ動画との関係について、「擬 似同期」 、 「UGC」 、 「繋がりの社会性」の三つのキーワードに沿って分析を行った。その結果、 実況プレイ動画は投稿者と視聴者のコミュニケーションや時間の共有に長けたジャンルで あることが明らかになった。そして日本のウェブ上には他人との繋がりを求める「繋がり の社会性」という概念が根付いているため、ニコニコ動画及び実況プレイ動画と相性がよ く、多くの支持を得たと考えられる。 第三章では、実況プレイ動画の特徴について二つに分けて分析を行った。一つは、実況 者がゲームの内容に、または視聴者が動画に対してボケたりツッコんだりする「お笑い的 要素」が多いことである。そしてもう一つは、同じゲームでも実況者がどのように操作す るか、またどのような話をするかによってそれぞれ違う物語を作る「物語生成力」を持っ ていることである。この二つの性質はどちらも実況者の「キャラクター」に強く影響され るものであるため、実況プレイ動画ではいかにその「キャラクター」が支持されるかが重 要だと言える。 終章では、東浩紀のポストモダンに対する記述とこれまで行ってきた論考を比較分析し た。東は、近年の日本では、 「キャラクターのデータベース」の隆盛と「コミュニケーショ ン志向メディア」の台頭という二つの環境の変化が起きていると述べている。そして実況 プレイ動画は、実況者のキャラクターが重視される点やコミュニケーション能力に長けて いるという点においてこの二つに近い性質を持っていたため、現在のインターネット上で 人々に受け入れられ、 「ゲーム」を通して行われる新しいコミュニケーション形態の一つと してユーザーに支持されていると結論付けた。 16 サイバー空間の仮想世界と現代人の関係 工藤 悦子 人と人とのコミュニケーションの手段は時代に応じて様々である。人類の交流の歴史に おいて特に長い歴史を持つ、身振り・生身の声による会話や挨拶・手書きの手紙という交 流の手段は、身振りならば人間の身体が、生身の声による会話や挨拶ならば人間の声が、 手書きの手紙ならば人間が直接紙に触れているなど、生身の人間が直接関与する事で行わ れてきたものである。しかし近年、インターネットのような、コンピュータやネットワー クの中に広がる仮想的な空間(=サイバー空間)を利用した仮想世界が誕生した事で新しい 交流の手段が生まれ、人間同士の交流に新しい変化が生まれつつある。新しい変化とは、 人間同士の交流が公のものとして移り変わってきた点である。 従来の交流の手段は、人と人が直接対面し、直接関わり、交流する相手が最初から確定 しているという意味で閉鎖的であり、ごくプライベートな間での関わりであった。しかし、 インターネットによる仮想空間を利用した交流は、今まで閉鎖的であった交流の全容を公 に開放し、時にはそれを見ず知らずの人間にさえ公開する事もあり、不特定多数の人が交 流の対象となる場合があるという点で公のものである。ならば、閉鎖されていた従来の交 流の空間はどこへ消えてしまったのだろうか。私は、閉鎖的な交流は消えてしまったので はなく、インターネットを利用したコミュニケーションの中に何かしらの形で存在してい るのではないかと考える。本稿では、インターネットが生んだ仮想空間の中で、人間がど のようにして公の部分とプライベートな部分を保持しているのかについて考えていく。 第 1 章では、人類の交流の歴史を順を追って分析・分類し、近年の交流の形が人類の交 流の歴史において特異なものであるという事を明確化した。 第 2 章では、近年の新しい交流の形の具体例として、Twitter やブログを挙げた。 第 3 章では、近年生まれた新しいコミュニケーションの手法であるソーシャルメディア サービスの中で特に利用率の高いものを具体的に挙げ、それらがどのような使われ方をし ているのかを主要な利用目的・コミュニケーションの相手・匿名性という面から分析した。 そして、そこから、近年のコミュニケーションツールが従来のものと比べて特に異質であ ると考えられる「開放性」と「閉鎖性」の点について考えた。 第 4 章では、現代社会の未来を描く『サマーウォーズ』という映画を分析した。 確かに近年生まれた新しいコミュニケーションツールの中からは、従来のコミュニケー ションの中に存在した閉鎖性は姿を消している。だが、近年生まれた新しいコミュニケー ションツールによって、現代人は閉鎖性がなくとも困らないコミュニケーションの対象を 手に入れた面もあるのである。閉鎖性は一見姿を消したように見えるが、新しいコミュニ ケーションツールが生んだ「匿名」というあり方が、人間に新たな形で閉鎖性を手にする 事に成功させたとも言えるだろう。 17 アメリカ青春映画論―ジョン・ヒューズ監督作品について― 関森 一平 ジョン・ヒューズは、主に 1980 年代から 90 年代半ばにかけて活躍したアメリカの映画 監督である。彼は『ホーム・アローン』や『ベートーベン』等、ファミリー/キッズ向け作 品に携わる一方、監督デビュー作『すてきな片想い』から『恋しくて』の 6 作品にわたっ て高校生を主人公に置いた作品を製作し続け、隆盛を極めた 1980 年代アメリカの青春映画 界を代表する作家として、高い評価を集めている。 本論文では、彼の手による青春映画における「学校」に着目し、「学園映画の祖」とも呼 ばれる彼の作風について論じた。 第一章では、ヒューズも活躍した 1980 年代のアメリカにおける若者文化のあり方を概観 し、青春映画が隆盛を極めた理由について考察した。また、この時期に数多く作られた青 春映画のヒット作において、R 指定を受けるほどの過激な表現が常習化していたことを述べ た上で、ヒューズはそうした過激な表現を避け、学校が生み出す日常的な問題意識に焦点 を当てた作劇を行っていることを示した。 第二章ではまず、ヒューズが舞台としたアメリカの公立高校の性格について述べ、ヒュ ーズが、学級制度のないアメリカの高校における交友グループである「クリーク」に着目 し、異なるクリークに属する、タイプの違う高校生たちの交流を積極的に描いたことを示 した。続いて、 『ブレックファスト・クラブ』を中心に、ヒューズ作品におけるクリークの 異なった高校生たちとその関わり合いの描かれ方を考察した。ヒューズは高校生たちをク リークの違いという尺度のもとで繊細な演出によって描き分け、互いが互いに対して絶対 的な他者として現れる高校生たちが、学校における生活圏が大きく異なるがゆえに発生す る偏見や誤解を乗り越え、相互理解を果たすさまを繰り返し描き、そうした融和をロマン チックな恋愛に結実させた。 続く第三章では、ヒューズの青春映画は、前章までで述べたタイプが異なる高校生を描 き分ける手法をもって「リアル」と称されることが多い一方、彼の描く高校生像は経済的 階層や人種といった要素において、偏りがあることを指摘した。彼の作品に登場する高校 生の多くは中流以上の家庭に育つ白人であり、様々な種のマイノリティはほとんど描かれ ない。本論文ではそうした偏向の理由について、前章までで述べたように、ヒューズが学 校が生み出す力学そのものに着目し、高校生個人が学校内において普遍的に持ちうる問題 系に作劇の焦点を絞るための策であると推論した。さらに、ヒューズが描いた高校生たち はそのほとんどが親以上に大人びた良識のある若者であったことを示し、これまでの考察 から、彼の作品には学校の外部に起因する社会や家庭といった場との接続を免れない諸問 題を回避し、あくまで学校を中心に置いた作劇に徹するため理想化された物語空間が広が っていることを述べた。 18 上橋菜穂子〈守り人〉シリーズ研究 本間 瀬里奈 〈守り人〉シリーズは、児童文学作家であり文化人類学者でもある上橋菜穂子によるフ ァンタジー児童文学作品のシリーズである。本論文ではこのシリーズ及びアニメ版『精霊 の守り人』を対象に、異世界の二重構造に着目し、その存在が読み手にもたらすものにつ いて分析した。 第一章ではまず、日本児童文学におけるファンタジーの来歴から、上橋の描くハイ・フ ァンタジー世界が新しいものとして評価された経緯を確認した。その後、上橋の歴代の作 品に描かれてきた異世界それぞれの設定を、時代や場所、作品内異世界/作品内現実世界 の距離感、異世界に付与されたイメージといった点に関して比較を行った。 〈守り人〉シリ ーズに描かれる異世界は、それまでの作品とは異なり、特定の時代やイメージを持たず、 作品内の現実世界と重なり合う世界である。上橋の作品遍歴において「ただそこにある世 界」として独特の存在感を持っており、 『獣の奏者』では王獣や生物の生態系の内へとその 価値観が引き継がれている。そのため、論文では、 〈守り人〉シリーズの二重構造異世界を、 上橋の描いてきた異世界における一つの臨界点であると位置づけた。 第二章では、作品内異世界の描写を中心に、メディアの違いによる変容についても触れ ながら、 〈守り人〉シリーズの作品内異世界が読み手にもたらす感覚について考察を行った。 まず、物語における「政治小説」的な側面と「人間ドラマ」を連結させる機能を有してい る作品内異世界が、常に不定形で「見切れない」世界であることが作品に不安と違和を与 えているという先行研究の指摘に着目し、「見切れない」作品内異世界が出現の先触れとし てもたらす気配やにおいといった感覚の描写が、作品にリアリティを与えていると結論づ けた。また、度々指摘されている上橋の特異な視点移動の特徴が、チャグムが夢という形 で作品内異世界に関わる際の描写に最も生かされていることを示した。さらに、アニメ版 『精霊の守り人』の分析では、前述のにおいなどの感覚の表現がアニメーションという表 現方法に適さなかったことが、アニメ版におけるシナリオの変更の一因ではないかとし、 原作の持つ感覚の豊かさについての補足とした。 第三章では、人はファンタジーに普段は眠っている五感を目覚めさせてくれるような効 果を期待するというファンタジー論を下敷きに、それまで論じてきた〈守り人〉シリーズ の異世界描写が、そうしたファンタジーの美点を豊富にそなえたものであることを示した。 ファンタジーによって五感を目覚めさせられていく読み手のあり方が、宮の中で天上人と して育ちながらも、旅で庶民の生活に触れ、豊かな感覚を育んでいく皇太子チャグムの成 長と重なるものであり、それゆえに、作品内異世界との出会いが、読み手にさらに深いフ ァンタジー体験をもたらすのではないかと結論づけた。 19 現代は少年犯罪をどのように語ってきたのか 平松 典子 社会的関心が高く、特異性が突出している事件の場合、多数のノンフィクションが刊行 される。事実の唯一性が最も重要視されるものであるのに、なぜ事実について述べた書籍 が多数存在するのか。それは、事件、事実、出来事に対して様々な“語り”が存在するか らである。本稿では少年犯罪、とくに神戸連続児童殺傷事件を追ったノンフィクションの、 語りの多様性を分析した。なお、本事件は、1997 年に兵庫県神戸市須磨区で発生した当時 14 歳の中学生=少年Aによる連続殺傷事件である。 少年犯罪の場合、少年法により犯罪少年の情報は厳格に保護され、書き手が依拠する資 料が少ない。ゆえに、描出される事実に大きな差は生じず、他作と差別化を図るには“語 り”に依るよりほかない。従って、少年犯罪の場合その“語り”の差異の表出はより顕著 になる。 第 1 章では、ジャーナリズムとノンフィクションの離脱する部分を中心に論じた。ノン フィクションはジャーナリズムが取りこぼした事件の微細な部分を手中に収める点で優位 である。新聞などに代表されるジャーナリズムと違い、ノンフィクションには署名がある。 署名は、 「自由に振舞える」「恣意性」が確保されている「語り手」を前提としている。ゆ えにノンフィクションには様々な“語り”があるのだと言える。 ハ シ ンギ 第2章では、朝日新聞、河信基、高山文彦らの 4 作品を例に、語りの位相について分析 した。河は少年 A に接近した形で少年 A と事件を描き切ることに注力するあまり、被害者 の存在の希薄化を招いていた。対して高山は、遺族に与した形で少年 A とその周辺を描く ことで、被害者の存在の希薄化という事態を克服しているのである。同じ事実に対する語 りは、加害者に寄り添う姿勢か、被害者に寄り添う姿勢かで、全く異なる様相を呈するの である。 第3章では、少年Aが「少年 A」という固有名詞に変貌したと主張し、その過程について 指摘した。 “少年A”=“神戸連続児童殺傷事件の犯人である 14 歳の犯罪少年”ではなく、 本来は少年A=「家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を 提起された、20 歳未満の者」という意味である。しかし、少年 A に関わる事実が様々な語 りにより伝達される中で、相互作用的に、より“少年 A”らしい言葉が抽出されていった。 抽出過程で、少年 A に、 “少年 A”らしい言葉が添加され、少年 A と結びつき、その結果、 少年 A は固有名詞としての「少年 A」性を帯びるようになったのである。タイトルに使用 される水準まできて、少年 A は固有名詞「少年 A」へ変化したと言える。 少年 A が多数の書き手により、様々に語られてきたということは、同じ事実が繰り返し 読者に伝達されてきたということでもある。その過程で少年 A から「少年 A」として認識 されるようになり、固有の意味を強く持つようになった。タイトルに使用される水準まで きて、 「少年 A」は固有名詞へと遂に変貌した、と結論づける。 20
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