2007年度 - 新潟大学人文学部

新潟大学人文学部 人間学履修コース
平成 19 年 (2007) 年度
卒業論文概要
市川かおり
<イナンナ><イシュタル>女神像をめぐる受容と変容
杉田奈穂子
<エバ>と<聖母マリア>に見る女性観
菊入麻衣子
ロールズにおける正義の原理と個人の自由について
佐藤亜希子
階級意識と疎外―『経済学・哲学草稿』と『歴史と階級意識』を繋ぐもの
村越いずみ
W.ディルタイにおける生の解釈と他者理解
井上夏子
ヒラリー・パトナムにおける『水槽の中の脳』について
中田有香
ヒュームにおける道徳の概念について
半田祐輔
H・アレントにおける「思考」と他者
大平
ファッション雑誌のレトリック
翼
高田真美
助言表現におけるポライトネス方略
― 大学生に対する談話完成テストの分析を通じて ―
工藤優美
バシュラールの『水と夢』におけるイマージュ論
中川美沙子
宮沢賢治 イーハトヴへの道
廣瀬久美子
ライプニッツにおける中国思想
小黒知才
パーフィットにおける人格の同一性
木俣悠子
現代日本語の新語形成 ― 動詞・形容詞を中心に ―
曽山麻奈美
映画の字幕と吹き替えに見る翻訳の研究
卒業論文概要
新潟大学人文学部人間学履修コース
〈イナンナ〉
〈イシュタル〉女神像をめぐる受容と変容
市川かおり
世界最古と言われるシュメール人の「シュメール」文明、次いで隆盛したセム系民族の
「アッカド」文明。古代メソポタミアはこれらの複合文明であった。この地域で〈イナン
ナ〉はシュメールの、〈イシュタル〉はアッカドの愛と戦の女神として崇拝されていた。現
在では彼女たちは、長い歴史を経て〈イナンナ〉から〈イシュタル〉の形へ変容した同一
の存在と捉えられている。二人の関係はアフロディーテとヴィーナスのそれを想起すると
理解しやすいだろう。
それでも〈イナンナ〉と〈イシュタル〉がまったく同一であったはずがない。名前から
して別物であり、信仰された文化もルーツも異なっているのだ。本論文では比較考察によ
りこれらの二女神の相違を論じる。
検討にあたっては〈イナンナ〉の登場するシュメール神話と〈イシュタル〉の登場する
アッカド神話とをテキストとし、いくつかのテーマで分類した。
・「性愛に関わる神話」([シュメール]『ドゥムジとイナンナ、宮殿における繁栄』
/[アッカド]『エラの神話』)
・「冥界降り神話」([シ]『イナンナの冥界降り』/[ア]『イシュタルの冥界降り』)
・「王権にまつわる神話」
([シ]『エンメルカールとアラッタの主』
/[ア]『サルゴン伝説』)
・「讃歌」([シ]『イナンナ女神の歌』/[ア]『イシュタル讃歌』)
・「ギルガメシュの神話」
([シ]『ビルガメシュと天の牡牛』
/[ア]『ギルガメシュ叙事詩』)
3 章の「王権にまつわる神話」を例にとる。シュメール神話『エンメルカールとアラッタ
の主』での〈イナンナ〉はウルク市の都市神であり、その都市の王権や発展に関わる神と
して尊敬を受けた。これが後世のアッカド文化で成立した『サルゴン伝説』においては、
〈イ
シュタル〉はやはり王権に関わる強大な神ではあるものの、都市神でも王を任命する唯一
の神でもなくなっているのである。
女神像の変容は他の神話にも種々の点で認められる。たとえば〈イナンナ〉の司る性愛
は神秘的で〈イシュタル〉の性愛は人間的であるとか、〈イナンナ〉は愛と戦を前面に出し
た女神なのに〈イシュタル〉はより万能化した女神である、などであった。これらを総括
すると、
〈イナンナ〉が特殊的な女神であるのに対し〈イシュタル〉は普遍的な女神である、
との結論が導き出された。
そもそもの〈イナンナ〉と〈イシュタル〉の差異が生じた理由については、女神像を担
った両文化の神観が密接に関わると考えられる。シュメールのなかでは神々は非常に雑多
で、また主要な神は都市神でもあった。それが後世のアッカド世界では神は都市に縛られ
ず普遍化され、同化吸収も頻繁に起こっている。そしてこれらの微妙に異なった観念はそ
れぞれの女神にとてもよく適用されているのである。したがって〈イナンナ〉と〈イシュ
タル〉の性質の違いは、シュメールとアッカドの宗教観の違いでもあると言える。
卒業論文概要
新潟大学人文学部人間学履修コース
<エバ>と<聖母マリア>に見る女性観
杉田
奈穂子
キリスト教社会で女性は、長い間否定的に解釈をされてきた。女性は妊娠、出産し、生
命を産み出す宗教的に存在でありながら、なぜ否定的解釈をされるようになってしまった
のだろうか。そのことに疑問を持ち、女性を否定的解釈から解放するためにキリスト教社
会の女性観に大きく影響を与えた、エバと聖母マリアに注目し、この卒業論文で考察した。
第一章では、エバについて考察した。エバはずっと女性の否定的解釈に用いられてきた。
この解釈には、女性はあとから造られたので二義的存在である、女性は誘惑さやすく、こ
の世に罪と死をもたらした、女性は男性に服従する存在である、というものがある。しか
し創世記を見ると、女性は男性のふさわしいパートナーとして創造されており、男性と平
等であることが明らかとなった。本来のエバは、否定的解釈をされていないのである。
第二章では、新約聖書における女性観を考察した。まず、イエスについての女性観を考
察した。イエスは神の国を打ち立てることへの妨げにならないように、結婚や家族を拒絶
していたが、女性についてはむしろ新しい、今までとは逆転した秩序によって高く評価し
ていることが分かる。また、聖母マリアはキリスト教社会の理想的な女性として高く評価
されている存在である。ルカによる福音書ではその処女性が高く評価され、性をも超えた
存在として描かれ、一方、マタイによる福音書では、マリアは信徒達の母として評価され
ていることから、母性が強調されていることが分かる。以上のようなことから、新約聖書
において女性は、否定的解釈はされていないことが明らかとなった。
第三章では、エバとマリアがどのように解釈されていったのか、ということを考察した。
ここで重要になってくるのはアウグスティヌスの、堕罪がエバに原因があり、そしてこの
罪は性交によって子供に遺伝されるとした、原罪の思想だ。それによって、罪とエバ、性
交が結びつけられ、エバひいては女性が男性を罪へと誘惑する存在と解釈されたのだ。一
方聖母マリアは処女であったことから、この罪から解放された存在とされ、エバの不服従
によってもたらされた罪が、聖母マリアの従順によって贖われたと考えられた。また処女
性は、男性から独立することを意味するようになる。現在西洋の女性たちは、男性の抑圧
からの解放への先頭に立っている。それは長い間、キリスト教が提供してきた独立した女
性を理想化する伝統によってもたらされたのだ。
終論では、これらの考察を通じ、エバ、そして女性が本来どのような姿であるべきか、
ということを自分なりに解釈し、その結果、女性は男性と平等であるという、創世記の解
釈のエバの姿が、理想ではないかということ考えた。そして現在では、女性は否定的なイ
メージから解放され、男性と平等で独立した存在へとなれるだろうと考えた。
卒業論文概要
新潟大学人文学部人間学履修コース
ロールズにおける正義の原理と個人の自由について
菊入麻衣子
ロールズは 1971 年に発表した『正義論』を通じて、社会的協働における正義の役割を叙
述し、正義の第一の主題である社会の基本構造について説明しようと試みた。ロールズは
自由で平等な諸個人間の社会協働の体系を形作るため、正義の二原理を導き出す。正義の
二原理とは、個人の自由と機会の均等を確保した上で、社会における財を効率よく平等に
再分配することを定めたものである。
このロールズの『正義論』に対して、反論を行ったのがノージックである。ノージック
は著書の『アナーキー・国家・ユートピア』において、ロールズの唱えた配分的正義につ
いて批判的な考察を加えている。ノージックは、個人の自由には干渉しない最小国家のみ
が正しいとする最小国家論を唱え、財の再分配は国家の役割からの逸脱行為であると主張
している。ノージックはロールズ批判を通じて、配分的正義を達成するための最も適切な
手段として拡張国家を正当化する主張を、論破しようとした。
本論文では、ロールズの正義の原理とそれに対抗するノージックの反論を軸に、国家の
干渉と個人の自由との対立、さらには配分的正義の正当性について考察する。
第一章では、ロールズの正義の二原理を中心に論じた。ロールズは功利主義的な考え方
を克服するために「原初状態」「無知のヴェール」といった概念を持ち出し、正義の二原理
を導き出した。そして、その中でも特に「格差原理」において、人々の生来の才能や環境
といった自然資産の差異からくる不平等を是正しようとした点に着目した。
第二章では、ノージックによるロールズ批判を取り上げた。まず、ノージックの唱える
権原理論について考察したのち、ノージックが投げかけた反論について見ていく。端的に
言うと、ノージックは権原理論を根幹に据えることで保有物に対する個人の権利を保護し、
ロールズの格差原理を人々の自律的行為を妨げるものとして批判したのである。
第三章では、第二章で取り上げたノージックからの批判を再検討し、ロールズの理論に
残された正義の可能性を明らかにすることを試みた。ノージックは確かに、自己の所有権
に関わる問題について重要な議論を生み出したが、自然資産から生じる利益に対する個人
の権利までは擁護できなかった。対するロールズは、自然資産そのものに対する権利と、
そこから生じる利益とを区別していると読み取れる。よって、ノージックからの批判はロ
ールズの理論を根本から覆すものにはなりえず、社会的協働の公正な体系を形作るルール
として、正義の原理はやはり有効なのではないかとするのが本論文の結論である。
卒業論文概要
新潟大学人文学部人間学履修コース
「階級意識と疎外――『経済学・哲学草稿』と『歴史と階級意識』を繋ぐもの」
佐藤 亜希子
本論文で目標としたのは、『経済学・哲学草稿』と『歴史と階級意識』を繋ぐものを見出
すことである。
第1章では、人間の労働からの「疎外された」意識に関してマルクスの『経済学・哲学
草稿』を読み解いた。1節では、マルクスの論じる疎外された労働の中の「人間の生産物
からの疎外」に関する考察を読み解いた。論文では、労働者が生産すればするほど、働け
ば働くほど激しく生産物に支配されてしまう、という疎外の構図を強調した。2節では、
「人
間の労働からの疎外」に関して、マルクスの類的存在という視点に着目し、労働者の類的
生活の剥奪について考察を読み解いた。ここでは、労働者にとっての労働の外在性が、労
働が彼自身のものではなく他人のものとなるということを「類的生活の剥奪」という視点
から明らかにした。3節は1節と2節の帰結として導き、マルクスの論じる人間からの人
間の疎外、すなわち自己疎外を明らかにした。
第2章では『歴史と階級意識』における物象化論を、ルカーチの考察に沿って読み解い
た。1節では、資本主義体制になってはじめて、前資本主義社会では「覆い隠されていた」
階級意識が意識される段階に入ったということ、また、無意識に支配された意識が階級意
識であるというルカーチの定義を明らかにした。2節では、ブルジョアジーの意識におけ
る矛盾が、資本主義体制そのものに内在する矛盾であるというルカーチの指摘を読み解い
た。ここで明らかにしたかったのは、ブルジョアジーが自らの存在による社会秩序の矛盾
を把握しているために、矛盾が弁証法的にあらわれてくるということである。ブルジョア
ジーの階級意識とは最高度の無意識であり、彼らが社会の本質を隠蔽することから成り立
つものであるというルカーチの指摘も明らかにした。3節では、プロレタリアートの階級
意識を読み解いた。プロレタリアートが自身の階級を洞察すること、その上で、克服され
えないとしても自己批判を恐れてはならないということ、イデオロギー的に成熟し、常に
自分の階級状態を正しく認識しなければならないことなどへのルカーチの指摘を明らかに
した。4節では、ブルジョアジーとプロレタリアートにおける意識の相違を「媒介」と「直
接性」いう視点から論じた。
第3章では先述の通り、
『経済学・哲学草稿』と『歴史と階級意識』を繋ぐものを論じよ
うと試みた。
最後に、結語では「今、階級意識を論じる意義」を述べ、結んだ。
卒業論文概要
新潟大学人文学部人間
学履修コース
W・ディルタイにおける生の解釈と他者理解
村
越
いずみ
我々人間は、生まれ落ちたその瞬間から、個々の「生」という名の船旅が始まる。千差
万別のこの旅路において、誰しも常に周囲の他者と影響し合い、或いは演劇、本、音楽な
どの作品から刺激を受けつつ成長していくことは普遍的である。換言すれば、我々の人生
において他人や様々な作品を「理解」し「解釈」することは、欠くことのできぬ営みなの
だ。
19世紀、ドイツの哲学者 W・ディルタイは、
『Gesammelte Schriften. Bd. Ⅶ』におけ
る『歴史的な理性の批判のための草案』、87 頁においてこう述べる。
「自分自身の人生が根底
まで明らかにされるのは、理解の進展を通してである。(…)われわれは、われわれの体験
した生活を、自分や他人のあらゆる種類の生の表現に投げ入れることによってのみ、われわ
れ自身と他人とを理解する。だからいつでも体験と表現と理解という連関は、人間が現に精
神科学の対象となってわれわれが自覚するための固有の手続きなのである。」
(GS.Ⅶ, 87: 邦
訳 23 頁)
ディルタイにとって理解は、個々の生涯という大きな背景が発端となる。彼は一つの壁
に想到した。実際に私たちが「生きている」と感じるのは、とめどなく現れては消える〈今〉
という一瞬一瞬である、いや、〈今〉を生きることしか我々にはできないというのだ。たっ
た今見、聞き、感じたことは次の瞬間にはすでに過去へと葬り去られるのであって、生と
は本来、儚く脆いものなのだと捉えるに至った。しかしそうした弛まぬ流れにあっても、
他方で我々は過去の思い出に耽ってしまい、はがゆい思いを経験することもあれば、幾つ
ものページを重ねた深遠な歴史の上に常に立っていると認識するのもまた事実である。デ
ィルタイは、ただひたすら生まれては滅びゆく現在ならば、なぜこうした感覚に襲われよ
うか、という矛盾を見出した。
彼は自らその答えを明らかにする。現在は、絶えず過ぎゆくように見えて、体験となっ
て凝縮され、節目となりながら我々の人生を織り成していくとの立場をとった。また続け
て主張する。体験という統一が作られていくにあって、諸部分を結び付けているのは共通
な意義である、と。例えば、ある場所、ある香り。これは各々の体験として何の関連性も
ない。しかし、それらが全て「一つの恋愛」における体験だとしたら、本来全く別な体験
がたちまち繋がれる。雑多な体験が共通の意義によって結合し、その連続が連関を成して
人生が構築されていくとディルタイは言及した。
〈今〉とは生涯、いわば「生の連関」の先端であるとディルタイは述べる。あらゆる言
動は生から滲み出るものであり、その都度の瞬間の理解はこうして成立すると捉えた。し
かし、殺伐とした人間社会にあって、基本的理解が順調になされるためには、理解はここ
で留まるわけにはいかない。高自己の中に他者の表出が取り込まれる中で個人の「生」が
創造されていくと共に、
「生」はそれぞれのパーソナリティを備えた「個人」という形で我々
の心に映る。ここにディルタイにおける「真の理解」を見ることができよう。彼にとって
「理解」とは、断片を一つ一つ織りなし、偉大な作品を作り上げるかの如き、〈創造的〉な
営みに他ならないのである。
〈メインテキスト〉
・ Wilhelm
Dilthey,
Plan
der
Fortsezung
zum
aufbau
der
geschichtlichen
Weltin
den
Geisteswissenschaften, 1910(『精神科学における歴史的世界の構成』尾形良助訳、以文社、1981 年)
in : Wilhelm Dilthey : Gesammelte Schriften. Bd. Ⅶ
卒業論文概要
新潟大学人文学部人間学履修コース
ヒラリー・パトナムにおける『水槽の中の脳』について
井上夏子
ヒラリー・パトナムの『理性・真理・歴史』というテキストの中の、
「水槽の中の脳」
といSF的可能性についてのパトナムの考察を取り上げた。
「水槽の中の脳」仮説とは、われわれの脳が、ある悪の科学者によって取り出され、
培養層の中でコンピュータにつながれて管理されている、というものである。そして、
もしこの物語が真実であり、われわれがこのように水槽の中の脳であるとした場合、
われわれは、われわれが水槽の中の脳であると言ったり考えたりすることができるの
だろうか、というのがパトナムの問いであり、
「できない」というのが彼の答えだ。
第一章においては、あるものが何かを表現するよう意図するときに必要な志向性や
指示はいかにして可能なのか、ということを、
「蟻が偶然描いたチャーチルの絵」や、
「樹木の絵」
、
「指示についてのチューリング・テスト」の例を挙げて考察した。また、
「われわれは水槽の中の脳」であるというテーゼがまさに自己論駁的であるというこ
とからも、次のような結論に至る。つまり、イメージや思考が、質的に同一であると
いうことが、指示が同じであることを含意しない、ということから、水槽の中の脳が
外在的なものを指示することはできないということである。
第二章では、物理的な可能性をあまりに真面目に受け取ってしまうことや、無意識
にある心的な表現は必ずある外在的な事物や事物の種類を指示するのだ、という指示
の魔術説を用いてしまう、という指示についてわれわれが陥りやすい二つの誤謬を取
り上げ、「双子地球」における「ニレ」と「ブナ」の例を挙げて概念とは何であるの
かを論じた。
そして第三章では、「双子地球」における「水」と「別の液体」の例をもとに、内
在主義の立場からのジョン・サールの批判を取り上げ、言語と外在的な指示対象との
間の因果的関係を考察した。特に第二節では、パトナムにおける外在主義と内在主義
の多義性をまとめた上で、彼を一般的に使われる意味での外在主義の立場とした。そ
して、「水槽の中の脳」の問題が、<神の眼からの観点>であることを指摘し、人間
は<神の眼>をもって世界を、現実を理解することはできない、という結論に至った。
終章では、永井均の『翔太と猫のインサイトの夏休み』におけるインサイトの主張
をもとに、パトナムが指摘した、<神の眼>からの世界認識の可否ということよりも、
それ以前に、われわれが今ここにこうして存在しているということ、その奇跡を感じ
ることが大事である、としてまとめた。
<使用テキスト>
H. Putnam, REASON, TRUTH AND HISTORY, Cambridge University Press,1981
(ヒラリー・パトナム 『理性・真理・歴史
川 大三上勝生
金子洋之
訳
内在的実在論の展開』 野本和幸
法政大学出版局
1994 年)
中
卒業論文概要
新潟大学人文学部人間学履修コース
ヒュームにおける道徳の概念について
中田 有香
ある行為を道徳的に善あるいは悪と判断する場合、私たちは何を基準にして判断をする
のだろうか。私は、道徳的評価の善悪は感情ではなく、理性に基づいていると考えていた。
しかし、ヒュームは「道徳的評価は理性ではなく、道徳感情から生じる。」と述べ、道徳的
評価が感情に由来するという道徳感情説を唱えた。ヒュームの道徳に関する考え方は私の
考えと相容れないように思えたので、彼の道徳についての考察に興味を抱いた。ゆえに、
この卒業論文ではヒュームの道徳の概念について考察をした。
第一章では、まず、ヒュームの基本思想である知覚論を通して、「印象」や「情念」とい
った彼独自の言葉の説明をし、道徳感情説を理解するための手助けとした。次に、ヒュー
ムが理性についてどのような主張をしていたのかについて論じた上で、彼の道徳感情説を
明らかにした。
第二章第一節では、ヒュームの道徳において重要な役割を果たしている共感という概念
を取り上げ、ヒュームの考える共感がいかなるものなのかについて言及した。そして、第
二節では、心理的原理で変動しやすい共感が道徳的評価にとって不可欠な客観性をいかに
して持ちうるかについて論じた。第三節では、ヒュームの共感に基づいた道徳における問
題点を指摘し、自分の考えを述べた。
卒業論文概要
新潟大学人文学部人間学履修コース
H.アレントにおける「思考」と他者
半田祐輔
思考とは一般に人間の知的作用や、判断や推理の能力として捉えられる。しかしH.ア
レントは「思考」を一般の意味とは異なる特殊な意味において用いている。彼女は「思考」
を意味探求として捉え、それを認識活動と明確に区別する。彼女によれば、「思考」は真理
ではなく意味に係わったものであり、日常に適用することは不可能である。また、「思考」
が行われるのは「単独であること」においてである。我々はそれにおいて自分自身を仲間
にするのであり、そのような交流から見捨てられた場合に「思考」することはできないの
である。
またアレントは、「思考」は自分自身との無言の対話によって行われると論じる。我々は
「思考」において自分自身と交流しているのであり、そのために自分自身と調和すること
が必要である。すなわち「思考」においては精神の対話の相手と友人になることが求められ
るのである。そのために必要となるのが良心である、と彼女は主張する。この良心は通常
の意味における良心と異なったものであり、内側から我々を裁くものではない。また「思
考」の良心は通常我々の前には姿を現さない。それは我々が精神に帰ったあとに行為の説
明を求め、再び「思考」を促すものである。したがって良心に背き、
「思考」を行わないこ
とは容易である。しかしその場合、現象世界と精神世界の両方において安らぐことはでき
なくなってしまう。以上のことから、彼女は「思考」と良心を密接に係わったものとして
捉えており、
「思考」に独自の道徳的な意義を与えているのである。
では、そのような「思考」は現象世界とどのように係わるのだろうか。現象世界におい
て、我々は人間として複数存在しているが、一人ひとり異なったものである。彼女によれ
ば、この同一性における差異性を持つからこそ我々は他者と対話を行い、差異を示すとい
う仕方で「活動」することが求められる。それにより、我々は世界におけるリアリティを
持つことができるのである。
加えて、現象世界と精神世界の対話の関係について彼女は以下のように主張する。
「思考」
の対話の相手は現象世界の対話の相手を内面化したものであるが、それは真の複数性を有
していないため、両者は同一なものではない。例外的に捉えられるのは友人と「思考」の
対話を行うときであり、この場合精神の対話が現象世界に拡張可能である。しかしこの場
合も真の複数性に到達しないのであり、複数性の観点から両者は明確に区別されるのであ
る。また、「思考」することで現実は直接変革されないのであり、そのため現象世界におけ
る活動力が必要である。したがって両者は相互に係わりあっており、片方の欠如した活動
力は無意味である。
アレントは、「思考」と生が密接に結びついていると主張する。彼女によれば、「思考」
することと十全に生きることは同義であり、したがって思考なしの生は無意味である。彼
女が模範にしているのは古代ギリシャの真なる「思考」と真なる「活動」である。彼女が
これらの重要性を主張したのは、手段としての活動を行い、思考欠如に陥りがちな現代人
に対する警鐘ではないだろうか。「思考」と生については次のように主張される。生の本質
は「思考」にあり、そのため現象世界と精神世界の両方において他者を肯定し、調和する
ことが必要である。これは他者と生きることの意義を再確認したものではない。それは我々
が現代において「ただ生きるのではなくよく生きる」ことの指針であるように思われる。
卒業論文概要
新潟大学人文学部人間学履修コース
ファッション雑誌のレトリック
大平 翼
題 目 の「 レ ト リ ッ ク 」と は 、佐 藤 信 夫 の『 レ ト リ ッ ク 感 覚 』の 中 で 示 さ
れ て い る 「こ と ば を た く み に も ち い 、 効 果 的 に 表 現 す る こ と 、 そ し て そ の
技 術 」( 佐 藤 信 夫 『 レ ト リ ッ ク 感 覚 』 講 談 社 学 術 文 庫 、 1992 年 ) と い う 定
義を元に考えた。
本 論 文 で は 、 光 文 社 発 行 の フ ァ ッ シ ョ ン 雑 誌 『 JJ 』 と そ の 姉 誌 で あ る
『 CLASSY .』 を 比 較 し 、 そ れ ぞ れ ど の よ う な レ ト リ ッ ク が 使 わ れ て い る
の か 両 誌 の 違 い を 明 ら か に し た 。 第 1 章 で は JJ、 第 2 章 で は CLASSY.
の 表 紙 に 使 わ れ て い る 表 現 の な か か ら 、名 詞 や 形 容 詞 を 取 り 出 し て 分 析 し
た 。そ れ ぞ れ 表 に ま と め 、表 紙 で 多 く 使 わ れ て い た 表 現 や 、特 徴 的 な 表 現
を取り上げた。
第 1 章では JJ の表紙に使われていた表現を分析した。「お嬢さん」「OL」「可愛
い」「愛される」「名古屋嬢」「俳句」を取り上げ、それぞれ使われ方に分けて分析した。
「お嬢さん」「OL」「可愛い」「愛される」では、単独で使われるほかに、他の名詞を伴
い、新しい名詞や形容詞を形成していることが何度もあった。また、「可愛い」「愛
される」のような男性の目を意識していると思われる表現が多いということがわ
かった。
第 2 章では CLASSY.の表紙に使われていた表現を分析した。「お嬢さん」「可
愛い」「大人」「美人」「えみりベーシック」を取り上げ、それぞれ使われ方に分けて分
析した。「お嬢さん」「可愛い」「大人」「美人」では、JJ と同じように、単独で使われ
るほかに、他の名詞を伴い、新しい名詞や形容詞を形成していることが何度もあ
った。「OL」という言葉をあまり使わず、「働くお嬢さん」と表現している。
第 3 章では JJ と CLASSY.の比較をした。それぞれの表紙で使われていた言
葉をあいうえお順に 1 つの表にまとめなおした。そして、表紙で使われている表
現について考察した。表にまとめてみて、使われている言葉にそう差異はないこ
とが明らかになった。
第 3 章の第4節では JJ と CLASSY.の比較から明らかになったことについて述
べた。JJ と CLASSY.の表紙に使われている表現を分析してきて、使われてい
る言葉にそう差異はないことが分かった。「お嬢さん」は JJ、CLASSY.ともに一
番たくさん使われていた。
JJ と CLASSY.を分析することによって、JJ と CLASSY.の編集方針の違い
が、使われている言葉の使用回数と使用法に表れていることが明らかになった。
卒業論文概要
助言表現におけるポライトネス方略
新潟大学人文学部人間学履修コース
―大学生に対する談話完成テストの分析を通じて―
高田真美
誰もが少なからず、円滑なコミュニケーションを行うために、意識的であれ、無意識で
あれその状況にあった言葉を選択している。コミュニケーションでの言葉の選択に関して、
「ポライトネス」というアプローチから考えてみる。
「ポライトネス」とは直訳すれば「丁寧さ」であるが、本稿での意味は、敬語などの丁
寧さにかかわるものだけではなく、親しい間柄にみられるやり取りも含む、コミュニケー
ションを滞りなく進めるための「適切さ」、とでも言うような意味である。本稿では Brown
and Levinson のポライトネス理論を採用した。その上で、日本語に働くポライトネスがど
のようなものであるかを具体的に検討するために、「助言」という発話行為に焦点を当て考
察した。
本稿では、Brown and Levinson のポライトネス理論をもとに、助言表現に現れるポライ
トネス方略の分類、さらにフェイス損傷の度合いの数値化を行った。執筆にあたり本学の
学生を中心に、
「大学生における助言表現に関するアンケート調査」を行い、男女各50名、
合計100名の助言表現のデータを収集した。
第一章では、Brown and Levinson のポライトネス理論の要旨を、二つのフェイス、ポラ
イトネス方略、P, D, R と FTA 負担度の公式などを中心にまとめた。
第二章では、実施したアンケート調査の詳細と、調査で収集した FTA 負担度の比較につ
いて論じている。
第三章では、調査で得られた実際の表現をポライトネス方略の観点から分析した。また、
第二章で考察した FTA 負担度との関連についても少し触れて考察している。
卒業論文概要
新潟大学人文学部人間学履修コース
バシュラールの『水と夢』におけるイマージュ論
工藤優美
本論文は、バシュラールの主張するふたつの想像力を考察の対象とする。第一の想像力が
「形式的想像力」、これはもののかたちに由来する想像力である。第二の想像力は「物質的
想像力」、これはものの素材である物質から思い起こさせる想像力である。
本論では、水鏡としてたち現われる水が世界を反映する機能に注目することによって、
まず形式的想像力と物質的想像力を分離することを試みた。そして、さらに物質的想像力
の存在をより強調するために、再び反映の機能に戻ってその機能の意味を考察した。その
結果、水の反映の機能が持つ、二重性という機能につながり、それが水の物質的想像力の
証明に重要な役割を果たしていることにたどりつく。
第一章では、ギリシャ神話のナルシスの例をあげて、形式的想像力について考察してい
る。水面における素描的な反映に、ナルシスは視覚的な理想化を体験する。このとき、水
の物質的想像力の関与はみられない。
第二章では、エドガー・アラン・ポーの作品から、星と島の例や、運河に浮かぶ船の例
を取り上げた。水面を境として浮かび上がる星と島の二重概念の形成や、実在の船を支え
るかのように同航する船の例によって、水の反映の機能と物質的想像力が確認される。
水の反映は、想像力によってそれぞれ全く異なる表情をみせる。よって形式的想像力と
物質的想像力のふたつの存在が明らかとなるが、バシュラールの主張するように、この二
つの想像力が分離不可能であるも同時に確かであろうと思われる。
また、水の反映に注目することによって次のことが確認された。第一に、水の反映は二
重の世界を、水面を境に可視化する。第二に、反映は、結局は水という実体であるという
虚しさ。第三に、反映は現実と混ぜられる。水の反映と現実の二重性に気づいたものが、
水面に手を伸ばしたとき、世界の二重性は途切れ、水という実体と現実を混ぜることが可
能となる。この行為がまた、形式的想像力と物質的想像力の存在を際立たせることになる。
<参考文献>
Gaston Bachelard, L'Eau et les rêves: essai sur I’imagination de la matiére(J. Corti,
1942)
ガストン・バシュラール『水と夢』
(小浜俊郎・桜木泰行訳、国文社、1969 年)
卒業論文概要
宮沢賢治
新潟大学人文学部人間学履修コース
イーハトヴへの道
中川美沙子
宮沢賢治は、ドリームランドとしてのイーハトヴを岩手花巻の地に夢想した。イーハト
ヴ構想は賢治の童話や実際の活動で体現されているが、イーハトヴとはいったいどのよう
なものだったのか。本論文では、彼の唯一の論考である『農民芸術概論』、著作や活動を追
うことで、賢治のライフワークであったイーハトヴ構想を考察した。
『農民芸術概論』において、宮沢賢治は、農民芸術という言葉を用い、農民によって本
来行なわれるべき芸術の再燃を試み、疲弊した農村の振興を意図した。第一章では、この
論考を軸に賢治の唱えた農民芸術の真相に迫った。農民が生活の中の芸術を実践していく
ことで、無から有を生み出す農業と同様に芸術それ自身が生み出すものを賢治は渇望して
いた。彼は、生活の芸術化を実践しようと奔走した。賢治は、芸術を人間と自然との対話
の仲立ちとして捉え、このような意味での芸術が農民によって行なわれるべきだと結論づ
けている。
『農民芸術概論』はいわば、その後賢治が興した羅須地人協会(1926~1928 年)の活動の
序章と呼べるものであり、論考で語られた農民生活の芸術化の実践への思いは、実際に羅
須地人協会の活動そして晩年の賢治の著作に反映された。第二章では、『グスコーブドリの
伝記』と『虔十公園林』を取り上げ、自然と人間の交流や対立、そこから見えるイーハト
ヴの自然観を読み取ることに努めた。
第三章では、賢治の親友保坂嘉内との文通に見る理想や、教師としての賢治の足跡を辿
り、郷土にかける想いやイーハトヴ構想に繋がる思想を読み取った。書簡には、賢治が農
耕生活に入り、疲弊した農村に直面したとき農村を救済するという強い決意を持つ思想的
変化を考察した。そこには、科学の限界や農耕生活の不安が表れている。
宮沢賢治を語るとき、その独自性のみが取り上げられ、英雄視されることもしばしばで
ある。しかし、本論文では賢治の挫折や苦悩にも焦点をあて、論考、著作や書簡を取り上
げ、多方面からイーハトヴを見てきた。実際にイーハトヴ構想は、賢治が結核という病に
おかされたことで、実に断片的なものに終わった。しかし、その思想や論考は、イーハト
ヴ構想の下絵であり、イーハトヴは賢治の畢生の大作であったということがいえる。彼の
論考や著作を読み解くことで、宮沢賢治の思い描いたイーハトヴを考察した。
卒業論文概要
新潟大学人文学部人間学履修コース
ライプニッツにおける中国思想
廣瀬久美子
ライプニッツといえば、まずモナド論や微積分が思い起こされるだろう。
しかし、ライプニッツは中国の思想や文化にも興味を持って研究しており、
当時はヨーロッパ随一の中国学者だったとも言われている。ライプニッツの興
味は中国の様々な面に向いており、図書館司書時代から中国の歴史、政治形態、
道徳、哲学、技術、特に易経を積極的に学んでいたようである。
本論ではこのライプニッツと、彼の中国研究に焦点を当てて、これらの研究
がライプニッツの中でどのような位置にあったかについて考えていく。
まず、一章では古代中国思想に関してライプニッツが独自の解釈を示してい
る「中国自然神学論」について扱い、異なる思想に対してのライプニッツがど
う向き合ったかを見ていく。ここで扱う「中国自然神学論」と通称される論は、
もともとは書簡の形であった。オルレアン公の最高顧問官であるド・レモン氏
がライプニッツに二人のカトリック宣教師が書いた中国哲学に関する2冊の本
を送り、その本についての批判を求めたことへの返信である。
そして二章では「0と1の数字だけを使用する二進法算術の解説、ならびに
この算術の効用と中国古代から伝わる伏義の図の解読に対するこの算術の貢献
について」に見られるライプニッツ自身の二進法と易経との関係について、普
遍記号論と絡めて考えていく。実際、易経と二進法はそれほど深いかかわりを
持っていない(易経が二進法の要素をそれほど持っていない)との説が有力で
あるが、異文化圏のものを解釈し、理解しようとしたライプニッツの姿勢がこ
こからも見て取れるだろう。
三章では、一章と二章を踏まえ、ライプニッツがヨーロッパの普遍言語構想
の歴史の中においてどのような理想を抱いていたかについて考え、その観点か
らライプニッツの中国学を見ていく。
卒業論文概要
新潟大学人文学部人間学履修コース
パーフィットにおける人格の同一性
小黒知才
パーフィットは我々に問う。我々はそれほどまでに人格という概念を重視すべきなのだ
ろうか。自分自身の生にとって真に重要なものは何なのか、と(RP,p.202/邦訳 p.283)。
我々が人格の同一性を定義しようとするとき〈物理的基準〉と〈心理的基準〉という二
つの基準を用いて人格の同一性を定義していた。ここで我々が今まで持っていた人格の概
念について考えてみよう。パーフィットによれば、それは「脳と身体、またその経験と区
別された、個別的に存在する実体」(RP,p.210/邦訳 p.293)というデカルトから端を発す
るものであり、人格の本質についてのより深い部分によると、これは〈非還元主義〉と呼
ばれる立場の見解である。一方パーフィットが提唱するものは「重要なのは〈R 関係〉であ
る。それは正しい種類の原因を持った、心理的連結性および/あるいは心理的連続性のこ
とである」(RP,p.215/邦訳 p.299)という、
〈R 関係〉にのみ重きを置き、人格の同一性は重
要ではないと主張する〈還元主義〉と呼ばれる立場である。
こうしてパーフィットは自分の提唱する「人格の同一性は重要ではない」という、我々
の持つ常識を根底から覆すような見解を「擬似記憶」や「スペクトラム」、「私の分割」な
ど多くの奇想天外な例を用いて我々に納得させてゆく。しかし彼は我々に「〈非還元主義〉
をやめて〈還元主義〉をとれ」と強要しているわけではない。パーフィットは我々に、〈非
還元主義〉をとるか、もしくは〈還元主義〉をとるか、二つの選択のどちらをとる覚悟が
あるのか問うているのである(RP,p.280/邦訳 pp.385-386)。
初めは納得し難い彼の見解であるが、我々は知らず知らずのうちにそれを受け入れてし
まうであろう。しかし、やはりパーフィットの見解は受け入れ難いという態度を示す哲学
者はたくさん存在しているのも事実である。様々な反論に回答していく中で、パーフィッ
トとる〈還元主義〉は明らかになっていく。つまり、人生とは人格が諸経験を持つからで
はなく、ただそれらの出来事が連続していることによって統一されているものなのである。
また時を越えて人格を考える際も、我々はある未来の経験が誰のものかを確定できなくと
も、誰かの「未来の経験」と私の「今の経験」との間の観察可能な関係を考察することに
よって、それが今の私にとって重要なことであるのかどうかを判断できるのだ
(RP,pp.281-282/邦訳 pp.387-388)。
パーフィットの議論によって道徳の分野にも影響が出くると考えられる。我々が〈還元
主義者〉になることによって、平等原理や配分原理に変化が現れるのである。
本論文は彼の議論の進め方に従い、我々が今まで無意識のうちに信じていた「人格」の
概念に対して新たな光を当てることを目標とするものである。
卒業論文概要
新潟大学人文学部人間学履修コース
現代日本語の新語形成 -動詞・形容詞を中心に-
木俣
悠子
ことばは時代とともに変化するものであり、今までに様々な新語が造りだされている。
近年、日本語使用のあり方が注目されるようになってきている事は、日本語についての書
物やテレビ番組などが増えてきた事からも窺い知ることができるだろう。特に最近では「若
者ことば」と呼ばれる特定の年代層が使用することばも注目されている。若者ことばも含
めた現代日本語の変化は、場合によっては「ことばの乱れ」ととられ、批判されることも
ある。しかしながら、新語の利用や発生の勢いは衰えず様々な広がりを見せている。
一口に新語と言っても、既存の語とは無関係に造られるものや、既存の語を省略、複合、
混合、倒置、頭字化、もじり、インターネット上での誤用、外国語から借用して造られる
ものなど様々であり、その全容は計り知れない。特にインターネットが普及し、多くの人
が利用する現代においてはインターネット特有の新語は次々と造り出されているだろう。
そこで本稿では、数多くある現代日本語の新語の中でも実際に日常生活で使う身近なも
のであり、また近年注目される若者ことばが含まれる、接尾辞「―る」「―い」をつける事
で派生する動詞と形容詞の新語に焦点をあてる。
派生動詞・派生形容詞を扱うにあたり、例として派生動詞160語、派生形容詞37語
を集め、これを論文中でも使用した。第一章では本稿で扱う新語の定義を明確にし、派生
語に見られる省略について解説した上で派生動詞・派生形容詞の構造分類や、それぞれの
特徴について考察する。第二章では新語がどのような理由で発生し、使用されるのか、ま
たメディアと新語発生・使用にはどのような関係があるのかを実例を交えて考察する。
派生動詞・派生形容詞と若者ことばは密接な関係を持っており、若者ことばについての
考察も派生動詞・派生形容詞を考察する上では必要であると考えられるため、合わせて考
察する。
卒業論文概要
新潟大学人文学部人間学履修コース
映画の字幕と吹き替えにみる翻訳の研究
曽山
麻奈美
今日、私たちが普段の生活の中で「翻訳」に触れる機会は非常に多く、その媒
体はテレビ・新聞・文学等、多岐に渡っている。様々な翻訳物の中でも、映画・
ドラマなど映像の字幕翻訳は文字数の制限があり、そのために様々な工夫が必要
となる。本論では、映画の字幕翻訳に焦点を当て、「字幕翻訳」と、比較的自由に
翻訳できる「吹き替え翻訳」、また原語のスクリプトを比較する事で研究を進めた。
それぞれのセリフを比較する際に注目した点は「情報量」である。原語のスク
リプトにあるどのような要素が省かれる傾向にあるか、吹き替え翻訳や字幕翻訳
で付け加えられる要素はあるか、などを中心に資料を分析した。
当然のことだが、もっとも情報量を持っているのは原語のスクリプトである。
吹き替え翻訳もほぼそれと同等の情報量を持ち、字幕翻訳では文字数制限のため
にかなり情報が削除される。情報の削除については第 4 章で詳しく分析をしたが、
情報の削除の対象となるのは「その有無が物語の文脈に影響を及ぼさない」もの
だ。それらが削除される理由は、一つ一つのセリフが持つ情報を確実に伝達する
よりも、映画全体を通じての首尾一貫性を優先させなければならないためだ。
また原語のスクリプトが持つ情報を残したまま、より少ない文字数で情報を伝
達するための工夫として、
「短縮」を第 3 章で取り上げた。これは、前後のセリフ・
物語の流れ・映像・音声などから視聴者にとって自明の情報を省略する事で、よ
り少ない文字数でより多くの情報を伝達するための手法である。
第 5 章では、原語のスクリプトにない要素で翻訳に付け加えられるものについ
て検討した。そこで取り上げた中でも、最も特徴的なのは「役割語」だ。私たち
は、子どもの頃から呼んできた本などから話し方の「女性らしさ」「男性らしさ」
「老人らしさ」のプロトタイプを持っている。現実の人間は「ふつう」そうした
プロトタイプ的な話し方をしないが、文学などの創作の世界では「ふつう」そう
いったプロトタイプ的な話し方が求められる。映画のセリフにも女性には女性ら
しい話し方が、老人には老人らしい話し方が求められ、翻訳者の解釈によりそれ
ぞれの登場人物のセリフには「性格付け」がされる。この他には、日本語特有の
モダリティについて、吹き替え翻訳のみに見られる特性についてを論じた。