旧ユーゴスラビア諸国とアルバニア管見 ――極力中央アジアの視線で―― 中央アジア・コーカサス研究所 所長 田中 哲二 はじめに 5月末に新緑の旧ユーゴスラビア5カ国とアルバニア約 2000kmを巡ってき た。2年前にもスロベニア、クロアチア他を訪問しているので、これでバルカ ン半島のアドリア海側はすべて踏破したことになる。観光目標かたがた携えて いった問題意識としては、2010 年 4 月に中央アジア・キルギス南部において、 一夜で発生したキルギス系住民とウズベク系住民の大量殺戮に至る、民族間の 歴史的・文化的深い怨念を伴った抗争のパターンが、旧ユーゴスラビアの解体・ 独立紛争の過程ではより数多く表面化していたのではないかという点である。 第一次大戦勃発のころは、列強の影響力の競合の場として「バルカンは世界の 火薬庫」といわれたが、最近は、資源争奪戦絡みで「中央アジアが第 2 のバル カンになるのか」と言われたこともある。極力中央アジアからの視線を意識し た旅行記であると同時に、旧ユーゴスラビア諸国とアルバニアの現状の基礎的 資料ともなるよう心掛けた。 結論的にいえば、潜在的な民族的、文化的、宗教的対立の複雑さにおいては バルカン諸国の方が大きく上回っている。例えば、宗教的対立においても、バ ルカンにおいてはイスラーム、キリスト東方正教、カトリックの併存している のに対して、中央アジアにおいてはほぼイスラーム(それもスンニー派)が単 独の存在である。ユーゴスラビア解体の途上では他民族の絶滅をはかる忌まわ しい「民族浄化」運動が起きたが、中央アジアではそこまでの険しさはなく、 被征服民族に対してはむしろアジア的同化・共存を促すことが多い。地政学的 には、バルカン半島が豊かな農業生産力と地中海への出口として、また中央ア ジアが東西・南北シルクロードの通商の交叉点として、大勢力の介入を受け、 そのたびに多民族化と多文化が残されていくという点ではほぼ同等である。前 者においては、オスマン・トルコ、ヴェネツア等イタリア勢力、オーストリア・ ハンガリー二重帝国(ハプスブルグ家)、第 2 次大戦中はドイツのナチスもやっ てきている。後者においては中国の唐・清、チンギス汗のモンゴル帝国、チム ール帝国、ロシアのロマノフ王朝等がこれにあたる。直近の資源獲得競争の場 としては、中央アジア(石油、天然ガス、レアーメタル、レア―アース等)の 方が吸引力は大きいように見受けられる。 1.第 2 次大戦後のユーゴスラビア・アルバニア 1 (ユーゴスラビアの成り立ち) ○ユーゴスラビアはかって「1 つの国家に 2 つの文字、3 つの宗教、4 つの言 語、5 つの民族、6 つの共和国、7 つの国境」をもった複雑な「南スラブ人の国」 であった。歴史的には 6~7 世紀のスラブ人の南下定住、 「コソヴォの戦い(1389 年)」に示されるオスマン・トルコ(イスラーム)の北上・征服、オスマン・ト ルコの退潮を決定的なものとした「露土戦争」(1877 年~78 年)、 「2 回のバル カン戦争(1912~13)」などのより大きな出来事もあるのだが、 「南スラブ人の国」 としてはオーストリア・ハンガリー帝国が解体した第一次大戦直後の 1918 年に、 セルビア王国を中心とした「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」 (い わゆる「第 1 のユーゴ」)として成立する。1929 年には「ユーゴスラビア王国」 に名称を変えた。1949 年に社会主義体制の確立に伴い、再度「ユーゴスラビア 連邦人民共和国」 (「第 2 のユーゴ」)と改称。ソ連邦の解体・東西冷戦の終結し た 1991 年からの域内共和国の独立戦争・ユーゴスラビア紛争により解体が進ん だが、連邦に留まったセルビア共和国とモンテネグロ共和国が 1992 年に「ユー ゴスラビア連邦共和国」 (「新ユーゴ」ないし「第 3 のユーゴ」)を結成したあと、 2003 年に緩やかな国家連合「セルビア・モンテネグロ」に改称した。しかし、 それも 2006 年にモンテネグロが独立して名実ともにユーゴスラビアは消滅し た。現在、旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の6つの共和国は、スロベニ ア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケ ドニアとして独立。また、セルビアの自治州であったコソヴォも 2008 年に独立 を宣言したが、国際社会全体が承認するには至っていない(現在、承認国90)。 ○第二次大戦中、ドイツ、イタリアに支配されていたユーゴスラビアは、抗ド イツ・イタリア戦線パルチザン指導者のヨシップ・ブロズ・チトー(クロアチ ア人)のもとで独立を達成する。戦後の東西冷戦構造の中で、チトーは共産主 義者として一応東側陣営に属するが、ハンガリーやルーマニア等の東欧諸国と 異なり、ソ連の衛星国の立場をとらず、独自の社会主義路線をとった。この背 景には、独立はソ連赤軍の援助なしに達成した、ないし独立運動をソ連は支援 してくれなかったというチトーの思いがある。そして、1948 年にはコミンフォ ルムからも離脱して、ユーゴスラビア共産党を母体に自ら「ユーゴスラビア連 邦人民共和国」 (首都、セルビアのベオグラード)の大統領となる。チトー統治 下のユーゴスラビアは、前述のような構造的に不安定な多様性を内包していた が、独立を勝ち得たパルチザンリーダーとしてのチトーのカリスマ性・英雄性、 多民族を平等に扱う融和策(およびそのための弾圧策)によって、 「奇蹟のユー ゴスラビア」として長期の平和を保持した。 「本来バラバラなユーゴスラビアが 統一された唯一の理由は、チトーが指導者であったということに尽きる」 (加藤 周一「私にとっての 20 世紀」)といわれてきた。 2 (ユーゴスラビアの解体・独立戦争と混乱) ○そのチトーが 1980 年 5 月に死去すると、統一共和国のもつ多様性の矛盾や歴 史的に深い民族・宗教対立の蓄積が、東西冷戦の終結を背景に、域内共和国の 独立戦争の形をとって噴き出すことになる。1990 年前後のソ連邦内におけるゴ ルバチョフによる民主化の進展、ルーマニアにおけるチャウシェスク体制の瓦 解に示された東欧民主化・共産主義の否定から、ユーゴスラビアにおいても、 共産党一党体制の廃止と自由選挙の実施、チトー体制からの脱却が推進される こととなる。これとほぼ時を同じくしてスロボダン・ミロシェヴィッチ(セル ビア人)やフラニョ・トゥジマン(クロアチア人)に代表されるやや過激な民 族主義者が政権を握りはじめた。特に最大勢力セルビア共和国においては、大 セルビア主義を掲げたミロシェヴィッチが大統領となり、アルバニア系住民(宗 教イスラム)の多いコソヴォ自治州の併合を強行すると、コソヴォはこれに強 く反発して独立を宣言(1990 年 7 月、ただし未完成)、これを機にユーゴスラ ビア国内は、以下のような独立運動が相次ぎ約 10 年にわたる内戦状態に陥る。 これらの独立戦争は、①独立国軍に対するユーゴスラビア連邦軍の中核たるセ ルビア軍による独立阻止のための攻撃、②独立国内にいて攻撃を受ける少数派 のセルビア人救出のためのセルビア国軍の進出といった形をとるものであった ことから、西側の認識では「セルビア悪者説」が主流である。国連の政治的介 入も NATO の空爆もこの判断に沿って行われた。しかし、現地では、基本的な 対立構造はそのようであっても、「現実にどちらが先に手を出したか」「民族浄 化的行為はどちらが多用したか」 「どちらがより残虐であったか」等について今 でも立場により諸説があり、判然としない点が多い。キルギス南部の民族抗争 でも、直接訪ねた現場の市民から同様なニュアンスの話を聞いたことがある。 以下、中央アジアにおける民族紛争との比較の意味も含めてユーゴスラビアの 5つの独立紛争の模様をやや詳細に見ておきたい。 ① スロべニア紛争<十日間戦争>(1991 年) 東欧諸国が次々と民主化して社会主義政権の正統性が失われ始めたころ、 もともと経済・文化的にドイツ・オーストラリア、ハプスブルグ帝国と 関係の深かったスロベニアは 1991 年 6 月に一早くユーゴからの独立を 宣言、ユーゴ連邦軍との戦闘にわずか 10 日間で勝利、民族構成の 90% 以上がスロべニア人であることからも比較的簡単に独立を達成。 ② マケドニア紛争(1991 年) 1991 年 9 月独立宣言、1992 年にはユーゴ連邦軍に勝利。しかし、民族 問題が未解 決であったため、2001 年にアルバニア人との間に内戦が勃発、一時は首 3 都スコピエが陥落の危機に曝された。アルバニア人「民族解放軍」の優 勢な攻勢に対し国連の介入を得て停戦、アルバニア語を公用語とするな どの譲歩により平和を維持。スロベニア紛争とマケドニア紛争が比較的 短期間に終結したのは、両国が連邦軍の主力セルビア軍の兵站から遠距 離にあったことも一因。 ③ クロアチア紛争(1991 年~1995 年) ユーゴスラビアの「最悪の独立戦争」といわれる。クロアチアは、ドイ ツの占領時代に親ナチ団体「ウスタシャ」によってクロアチア独立国を 形成した経緯がある。1991 年末右派政党のクロアチア民主同盟が、「ク ロアチア人による純潔国家の形成を」とユーゴからの独立を宣言する。 クロアチア国内のセルビア人(人口の約 10%)はこれに反発、独自に警 備隊を設置し、クロアチア警察軍と頻繁な武力闘争を起こすことになる。 ユーゴ連邦軍は少数派のセルビア人を支援し、軍事的にはクロアチア軍 を圧倒した。この大きな背景としては「大セルビア主義」と「大クロア チア主義」の歴史的な対立がある。しかし、調停に入った EC・ドイツ はクロアチアの独立を承認したため、セルビア人側が大反発、紛争は再 度激化した。セルビア側は 1991 年 12 月には自治区による「クライナ・ セルビア人共和国」の成立を宣言、内戦に突入する。EC の度重なる調 停にも関わらずクロアチア軍はセルビア人自治区を攻撃し、略奪、暴行、 虐殺は凄惨を極めたといわれる。セルビア人自治区はすべてクロアチア 軍に制圧されて人口は激減、この時にセルビア人が大量の難民となって コソヴォ流入したことがコソヴォ紛争の一因となる。 ④ ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争(1992 年~1995 年) 次のコソヴォ紛争とともに「史上稀に見る泥沼の独立戦争」と形容され ている。 ボスニア・ヘルツェゴビナでは、言語・文化の多くを同じくする一方で 異なる宗教に属する 3 つの民族グループである①ボシュニャック人<ム スリム人、イスラーム教徒、48%>、②セルビア人<正教徒、37%>、 ③クロアチア人<カトリック教徒、14%>)の独立に対する姿勢の違い が、異民族排除目的の民族浄化を含む内戦にまで発展した。まず、1992 年ボスニア政府は、セルビア人がボイコットする中で国民投票を実施し、 3 月に独立を宣言した。これに対して、セルビア人やクロアチア人はボ シュニャク人による支配を嫌い、クロアチア人は「ヘルツェグ=ボスナ・ クロアチア人共同体」を、セルビア人は「ボスニア・ヘルツェゴビナ・ セルビア人共同体」をそれぞれ独自に組織して議会を持ち軍隊を備えた。 ユーゴ連邦軍は、主にボシュニャック中央政府勢力やクロアチア勢力を 4 包囲して沈静化させようとした。セルビア人共同体はボスニア・ヘルツ ェゴビナから分離し「スルプスカ共和国(セルビア人共和国)」を称し、 1992 年にユーゴ連邦軍が公式に撤退すると、その兵員や兵器はそのまま 「スルプスカ共和国」の所属となった。一方、クロアチア人共同体はク ロアチア防衛評議会を設立し、再び 3 者の間で凄惨な抗争が繰り広げら れた。1994 年に米国の調停でボシュニャック中央政府とクロアチア人勢 力との間で停戦が成立し、セルビア人勢力に対して共同して反転攻勢に 転じた。1995 年に国連の調停で「和平協定・デイトン合意」が調印され、 ボスニア・ヘルツェゴビナはボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチ ア人主体の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア人主体の「ス ルプスカ共和国」という2つの構成体からなる連合国家が成立した。現 在も、停戦と和平の履行の監視、難民の帰還支援等のために国際和平履 行評議会(PIC)が設置されているが、PIC 傘下の EU の連合監視部隊 は、当初の 7000 人から 2000 人(2008 年)に縮小されている。 ⑤ コソヴォ紛争(1999 年~2000 年)と NATO 軍の空爆 もともと、コソヴォはセルビア共和国の中にある自治区であり、アルバ ニア人とセルビア人が9:1の比率で居住していた。コソヴォは、セル ビア人にとってはセルビア正教会発祥の地であり、アルバニア人にとっ ても6世紀以前からの先祖伝来の故地であった。チトー支配下で大幅な 自治を認められていたコソヴォに対し、1989 年当時のセルビア共和国幹 部会議長のミロシェヴィッチは自治権の縮小、アルバニア人の差別政策 を強め始めた。1990~91 年アルバニア系住民は「コソヴォ共和国」の樹 立とセルビアからの独立を宣言したが、セルビア側は自治州議会と政府 の機能を停止し直接統治を開始。アルバニア人独立穏健派が次第に排除 される中、アルバニアや海外アルバニア人の資金援助により、武力闘争 も辞さない急進派のコソヴォ解放軍(KLA)が組織された。以後 KLA とセルビアの治安維持部隊の武力衝突が続く。1998 年に至りセルビアが 大規模な KLA 掃討作戦を展開、コソヴォ全域の治安情勢と住民の人道状 況が急速に悪化。1999 年 2 月~3月の国際社会の仲介で和平交渉(ラン ブイユ会議、パリ会議)がおこなわれるが、セルビアが NATO 軍のコソ ヴォ派遣を受け入れなかったため交渉は決裂。同3月 NATO は、コソヴ ォにおける人道的危機が限界に達しつつあるとの判断から、コソヴォを 含むセルビア全域の軍事目標と関連経済インフラに対し空爆による攻撃 を開始、これに対しセルビア側は KLA 掃討作戦を再強化したため、数 十万のアルバニア系難民がコソヴォから流出し難民化。同6月ミロシェ ヴィッチがようやく和平勧告を受諾、セルビア治安部隊のコソヴォ撤収 5 により、NATO の空爆は終了した。国連(UNMIK)による暫定行政が 開始され、NATO の国際安全保障部隊(KFOR)が駐留、アルバニア系難 民の帰還が推進されアルバニア人の権力が強化される一方で、約 26 万人 のセルビア人等非アルバニア系住民がコソヴォからセルビアに避難・難 民化した。2002 年以降、国連仲介、トロイカ(米・露・EU)仲介等が 進められるが、決定的な効果を上げないまま、2008 年 2 月コソヴォ議会 は「コソヴォ共和国」の独立を宣言した。 この間、1999 年 3 月~5 月に行われた NATO 軍 によるセルビア空爆は、 「アライド・フォース作戦(Operation Allied Force )」と呼ばれた が、その主体はイタリアに駐留する米軍第 5 戦術航空軍に属する戦闘爆 撃機と戦略爆撃機であった。もちろん英国空軍、ドイツ空軍、フランス 空軍も護衛任務を中心に参加したほか、米国、英国、フランス、イタリ ア、ギリシャからの多国籍艦隊もアドリア海からの直接砲撃に参加して いる。これに対してユーゴスラビア空軍側から迎撃に出て撃墜された軍 用機のほとんどは旧ソ連製の MiG-29 であった。NATO の空爆の当初の 目的は、コソヴォのアルバニア系住民をユーゴ連邦の武装警察やセルビ ア民兵から保護し、コソヴォの自治権を回復させることにあった。従っ て、空爆は当初ユーゴ連邦とセルビアの首都であるベオグラードやコソ ヴオ、モンテネグロの軍事施設と関連インフラに限定されたものであっ たが、のちにセルビア系による民族浄化の継続などの不法行為を根拠に、 ユーゴスラビア全域を攻撃の対象とするようになったことから、 「ユーゴ 全面空爆」とも呼ばれるようになった。ただ、現時点では、確かに大規 模な空爆がミロシェヴィッチの大セルビア主義の放棄を速めた点は事実 であろうが、ユーゴ空爆の国際法上の正当性や大規模介入のタイミング については多くの疑問が投げかけられている。建物を壊されたり身内に 被害者の出た旧ユーゴスラビア市民の多くは、彼らがどの民族に属して いようとも、攻撃が米軍機によるものであったことの必然性を理解でき ないままでいる。 (旧ユーゴスラビアの政治・経済の概況) <政治は国際社会の介入継続で小康状態> ○以上概観したようにユーゴスアビア紛争は、約 10 年にわたる独立に伴う 5つの内戦 と NATO 軍の関与という形となった。非常に複雑なユーゴスラビアの解体 と内戦への移行の直接・間接の原因を箇条的にまとめると以下のようにな ろう。 6 ① カリスマ性で「奇蹟のユーゴスラビアの統一」を保持したチトー大 統領の死去(1980 年 5 月)、チトーイズム(1974 年憲法―緩やか な連邦制、非同盟主義、労働者自主管理)の停止 ② ソ連邦の解体(1991 年秋)と東欧の民主化と脱共産党一党独裁の潮 流 ③ 1980 年代のユーゴ経済危機への適応不全、「労働者自主管理システ ム」の限界露呈と域内共和国間・民族間の経済的格差の拡大、経済 優位国の離脱(スロベニア、クロアチア) ④ ①~③を背景する民族主義の高揚(自民族の自決権のみ主張)と大 セルビア主義・大クロアチア主義(特に前者)の復活 ⑤ 複数民族(スロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、マ ケドニア、アルバニア)と複数宗教(カソリック、東方正教、イス ラーム)の存在と複雑な組み合わせ、各グループ間の歴史的対立関 係のリバイバル ⑥ 特にスラブ人でないイスラーム化したアルバニア人(イリュリア人 の後裔)の大きい存在違和感<コソヴォ問題、マケドニアのアルバ ニア人問題> ⑦ セルビア本国以外の国で独立反対を主張する少数派のセルビア人を 支持するユーゴ連邦軍(ほとんどがセルビア軍)の攻撃性<ミロシェ ヴィッチの指導性> ⑧ 外部大勢力(オスマン・トルコ、オーストリア・ハンガリー帝国、 ソ連、ドイツ、米国、EU 等)との妥協的行動とこれに対する反対勢 力の怨念<クロアチア―親ナチス民族主義団体ウスタシャによる 「クロアチア王国」の成立とセルビ人勢力チェトニックの抗争、緊 張を孕む多重「断層線」―ヨーロッパ・中近東断層線、イスラーム 文化・ハプスブルグ文化断層線、イスラーム・キリスト教断層線、 東方正教・カトリック断層線、民主系・共産系断層線、東・西断層 線等> ⑨ 自社会主義路線防衛のための国民皆兵思想による全市民的兵器・銃 器の保有 ⑩ 先制攻撃(殺害、民族浄化的行為)に対する報復、再攻撃の連鎖・ 悪循環。 ○最近の各国の中心的な政党は、自由民主党(スロベニア)、社会民主党(ボ スニア・ヘルツェゴビナ)、民主党(アルバニア)、民主党(セルビア)、社 会主義者民主党(モンテネグロ)、国民統一民主党(マケドニア)、社会民主 党(クロアチア)で、中道ないし中道左派的であり、当面、急進左派、民 7 族主義的政党が中心的ヘゲモニーを担っている例は見当たらない。しかし、 何れの国でも官僚の汚職腐敗の常態化が進んでおり、国民は半ばあきらめ 気味の状況といわれている。この傾向は特に南部の経済不振国に著しい。 政治的紛争の余韻の残る地域には、国連、NATO 、EU 等の国際機関勢力 が常駐し、紛争再発阻止に一定の効果をあげている。例えばコソヴォでは、 コソヴォ国際文民事務所(ICU)とコソヴォ国際安全保障部隊(KFOR,当 初約 5000 人)、ボスニア・ヘルツェゴビナでは平和履行評議会(PIC)の もとに上級代表事務所が常駐している。また、マケドニアは 1993 年以来断 続的に OSCE のモニタリング・ミッションを受け入れている。 <経済水準は北高南低> ○バルカン半島諸国は、一般に豊富な森林に恵まれた農業国で、訪問した 5 月の下旬の幹線道路の沿線は至るところブドウ畑、オリーブ・桃等の果樹 園、トウモロコシ、タバコ、小麦、牧草等の新緑に溢れていた。羊、山羊 の放牧もおこなわれているが、こちらは中央アジアより規模はより小さい。 工業開発面では、旧ユーゴスラビア北部のアルバニア、クロアチアはドイ ツ経済圏と関係が深く域内では先進工業地域となっている。特にスロベニ アはパーヘッド GDP が 24000 ドルに達しておりヨーロッパ中進国と遜色 ない。クロアチアは約 15000 ドルであるが、他の旧ユーゴスラビア諸国は 4000 ドル~6000 ドルのレベルにすぎない。南部へいくほど経済開発は停 滞ないし遅れている。天然資源は、アルバニアの石灰岩・褐炭・天然ガス、 モンテネグロのボーキサイト、クロアチアの石油・天然ガス、セルビアの 褐炭(世界シェア―3.8%)、アルバニアのクロム鉱、ボスニアの大理石、ヘ ルツェゴビナのアスファルト・褐炭等であるが、いずれも自家消費をそう 大きく上回らない程度の生産量であり、外資を呼び込んでの大規模な開発 促進までには至っていない。 ○バルカン半島南部諸国では、すでにすべての国である程度ユーロ通貨が 使えるようになっているが、それぞれ EU 本体への加盟プロセスにはかな りの差がある。そのこと自体が各国の経済開発度、経済安定度をしめして いる。すなわち、①既加盟―スロべニア(2004 年 5 月加盟実現、2007 年 1 月ユーロ自体を導入)、②加入見込み―クロアチア(2013 年 7 月予定、2011 年 12 月加盟条約署名済み)、③加盟候補国の地位獲得―マケドニア(2005 年 12 月)、モンテネグロ(2010 年 12 月、暫定的にユーロを導入)、セルビ ア(2012 年 3 月)、④加盟申請―アルバニア(2009 年 4 月)、⑤安定化・ 連合協定<SAA>署名―ボスニア・ヘルツェゴビナ(2008 年 6 月)、⑥未定― コソヴォ、という順序になる。②~③を加盟候補国、④~⑥を潜在的加盟 8 国と呼ぶ。加盟申請が早くとも、加盟交渉の内容によりプロセスに時間が かかる場合と比較的順調にいく場合がある。もともと、バルカン半島諸国 の EU 加盟問題は、この地域が再び社会主義圏やロシアの影響圏に戻るこ とを防ぐ意図から、EU 側からアプローチが開始された。歴史的にヨーロッ パと距離感が近く経済パフォーマンスが順調な国は、これに応じて加盟の 方向に傾いているが、経済不振の国は、隣国ギリシャの対 EU 交渉の苦境 を見て「本音では、EU の頚木ないし牢獄に取り込まれるのは遅ければ遅い 方がよい」 (アルバニア、マケドニア)といった反応を示す向きもある。欧 州金融危機の域内への影響は、ギリシャと国境を接するマケドニアやアル バニアにおける食糧、雑貨貿易に若干の停滞が出ているものの、欧州の先 進国と比べれば、経済の国際化(特に金融部門)が遅れている分受けている影 響は小さく、銀行や大規模企業の倒産などはほとんど見られない。 2、 (国別特記事項――特に今回訪問で目にしたことなど) ○スロベニア共和国 ○バルカン半島のアドリア海に沿った西海岸は、石灰岩質の山脈が海岸に 平行して走っており、海岸の風景を独特なものにしているほか、カルスト 状台地や鍾乳洞(ボストナイ鍾乳洞、シュコツィヤン洞窟群)を発達させ ている。ちなみに、カルストの語源の「カルス」とはシュコツィヤン洞窟 のある地方の名称である。これらと、ユリアン・アルプスに位置するブレ ッド湖やボーヒン湖等の美しい湖沼群、またギリシャ・ローマ時代からの 都市でヴェネツィアと関係の深いイストラ半島の諸都市が、ヨーロッパか らの観光客誘致に大きく寄与しており、工業の発達とともにスロべニアを 域内随一の安定した経済国にしている。 ○クロアチア共和国 ○クロアチアの長いアドリア海海岸線域はダルマチアと呼ばれ、シべニク、 トロギ―ル、スプリットなどの世界遺産になっている中世からの城塞都市 が存在する。その南端に位置するドブロヴニクは、 「アドリア海の真珠」と 呼ばれ、バルカン半島西海岸の第一の国際観光地である。常に 10 万トンク ラスの大型クルザーが入港している。赤レンガ色の屋根を持つロマネスク 様式、ゴジック様式、ルネッサンス様式が混在した教会・中世の商業施設・ 美術館等の旧市街が、青いアドリア海に張り出して美しいコントラスをみ せている。城壁内の旧市街は世界遺産。市街の後背のスルジ山の上には、 ナポレオンがこの地を占領したときの防衛の砦(ナポレオの城)がある。また ドブロヴニクは、かってイタリアのヴェネツィア共和国とアドリア海から 地中海の商権を争った海洋都市でもある。約 10kmほど北方にある旧ヴェ 9 ネツィア領コチュラ島はマルコポーロの出身地として知られる。クロアチ ア紛争のとき、観光業を中心にクロアチアの稼ぎ頭であるドブロヴニクは、 真っ先にセルビア側からの攻撃を受けた。城門の入口にある案内図には 6000 か所を超える銃砲撃の跡が示され、その生なましさを伝えている。 ○ボスニア・ヘルツェゴビナ ○ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォは、20 世紀以降3回にわた って世界的にその名が知られた。第1は 1914 年 6 月のオーストリア・ハン ガリー帝国の皇位継承者フェルデナンド大公夫妻の暗殺である。ボスニア における同帝国の示威軍事演習視察に訪れた大公夫妻が、ミリヤッカ川に 架かるラテン橋の袂の十字路で、青年ボスニア党のセルビア人青年に狙撃 されて落命。オーストリア・ハンガリー帝国は同 7 月にセルビア王国に宣 戦を布告、第一次世界大戦の火ぶたがきられた場所である。第 2 は 1984 年 にバルカン半島で初めて開催された「第 14 回冬季オリンピック」の会場と なったことである。日本選手では、スピードスケート男子 500mの北沢選手 が銀メダルを獲得した大会である。この栄光あるスケ―トリンクも、後の ボスニア紛争での多くの犠牲者を埋葬するための墓地に改装されてしまっ たことがある。第 3 にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の中でも、もっとも 悲惨であった「サラエヴォ包囲戦」(1992 年 4 月~1996 年 2 月)である。 独立後間もないボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍とボシュニャク人とク ロアチア人からなる市民層に対し、独立に反対するユーゴスラビア連邦軍 と現地セルビア系スルプスカ共和国軍がサラヴォをとり囲む丘陵地帯にに 陣取り激しい包囲攻撃をおこなった。短期間のうちに、サラエヴォの完全 封鎖態勢が確立し、主要道路の封鎖、食糧・医療品の運び込みの停止、給 水・電気・暖房システムの遮断という事態にまでなった。ある報告によれ ばサラエヴォ包囲戦の期間中、一日平均 329 回の砲撃があり、ピークの 1993 年 7 月 22 日には一日 37777 回の砲撃があったといわれている。砲撃によ り、1993 年 9 月時点でサラエヴォ市内のすべての建造物が何らかの被害を 受け、うち、35000 棟は完全に破壊された。その中には病院・医療施設、 メディア・通信の拠点、政府関連施設、軍関連・国連関連施設も含まれて いた。特に、大統領評議会の建物、国立図書館における文化的被害は大き く、さらに、サラエヴォ・オリエンタル研究所(Oriental Institute in Sarajevo)が所蔵していた貴重な世界有数の中東諸語の写本コレクション も灰燼に帰した。少し後に、サラエヴォ市中の主だった通りにはセルビア 側の狙撃兵が入り込み、市民にとって長期間にわたって極めて危険な状況 がつづいた。これらの通りは今でも「忌まわしいスナイパー通り」と呼ば 10 れており、周辺の多くの建物には大小の弾痕が残り、焼き払われて再建が 放棄された建物の残骸もいたるところで見受けられた。サラエヴォ包囲戦 では、12000 人が死亡し 50000 人が負傷したといわれている。うち、85% は市民の犠牲である。また死者のうち4分の 1 はセルビア系という複雑な 様相も示している。殺害と強制移住によって 1995 年の市民人口は約 33 万 人と紛争前の 3 分の 2 に減じてしまったという。 ○もともとヘルツェゴビナの首都であったモスタルは、長い間オスマン・ トルコの文化的影響下にありトルコ文化を色濃く残している。町のシンボ ルであるネレトヴァ川に架かるスタリ・モスト橋は、1556 年オスマン・ト ルコ支配下の時代に高い技術で建設されたアーチ状のトルコ風の石橋。ボ スニア・ヘルツェゴビナ紛争でセルビア側の攻撃で破壊されたが、数年前 に復旧した。 ○セルビア共和国 ○大スラビア主義を掲げ、あくまで域内共和国の独立を阻止しようとして きたミロシェヴィチ大統領は、セルビア経済の苦境やいくつかの独立運動 の鎮圧の失敗で 2000 年に失脚、その後オランダのハーグにある旧ユーゴス ラビア国際戦犯法廷に収監されたが、判決を待たず獄中で死亡する。多く の現ベオグラード市民の評価は、 「当時のミロシェヴィチ(セルビア大統領) やトゥジマン(クロアチア大統領)は狂気<クレージー>、複数民族が色々 工夫して共存してきていたのに、要らぬ前世紀的民族主義を煽り、大悲劇 を招いた」と糾弾する。しかし、この5月に行われた議会選挙では西バル カンの民族主義的風潮の回帰を背景に、久しく低迷していた社会党(ミロ シェヴィチ派)が勢力を倍増させ、第 3 党に躍進しているという事実もあ る。 ○外交面では、EU 加盟問題が優先課題。2012 年 3 月には EU 加盟候補国 入りを達成、政府は早期加盟を目指し、人権重視、組織犯罪・汚職対策の 強化、善隣外交重視の姿勢を強めている。第 2 はコソヴォ独立不承認の立 場の継続。EU の圧力もあり、コソヴォ当局との対話には応じているが、 原則は独立不承認の構え。現在コソヴォ承認国は世界で 90 カ国、EC 内に 5 カ国のコソヴォ未承認国(キプロス、ギリシャ、ルーマニア、スペイン、 スロヴァキア―多くが国内に分離問題を持つ)が存在することがセルビア 政府をモラル・サポートしてしまっている形。第 3 にロシアとの平穏な関 係の維持、ロシアはセルビアの EC 加盟支持・NATO 加盟反対の立場を堅 持している。セルビア政府は、コソヴォに常駐する NATO 軍(約 2000 人) のデリケートな取り扱いに神経を使っている。 11 ○経済成長率は、2009 年-3%、2010 年+1%、2011年+0.5%、失業 率は 24%に上昇。政府は雇用創出・競争力ある産業育成を目標に公営企業 売却等により外資誘致を促進。貿易は輸出がイタリア、ボスニア・ヘルツ ェゴビナ、モンテネグロの順、輸入がロシア、ドイツ、イタリアの順。EU 諸国とは暫定貿易協定によりほぼ自由貿易で、輸出入総額の約 60%を占め る。CEFTA(バルカン中央自由貿易協定)諸国、トルコ、ロシアと自由貿易 協定を有す。 ○1999 年 4~5 月にかけて首都べオグラードは、NATO ・米空軍<おもに イタリア駐留第 5 戦術航空軍所属>の直接空爆を受けた。内務省・軍参謀 本部、旧共産主義者同盟中央委員会ビル等が確実なピンポイント攻撃で正 確に破壊されたが、財務省等周囲の官庁街には全く影響がでなかった。爆 撃被害跡は、費用がないことに加え、NATO 等との政治的駆け引き材料と して現在も残されている。また、同 5 月 7 日には中国大使館を誤爆したと いうことで、NATO が中国に陳謝しているが、当時日本で見ていても違和 感はあった。現地では、これは誤爆でなく、中国支援のもとに同大使館内 で通信業務を行っていたミロシェヴィチ派の通信部隊へのピンポイント攻 撃であったことが定説になっている。これだけの背景事情を双方が暗黙に 了解していたからこそ、 「29 人もの犠牲を出した第 3 国大使館誤爆」という 大事件にも関わらず、ほとんど国際問題化しなかったということである。 空爆された中国大使館跡は昨年更地にされ何も残っていない。その地続き の土地に来年日本大使館が移設されることになっている。 ○モンテネグロ ○2003 年 2 月にセルビアとモンテネグロからなる「ユーゴスラビア連邦共 和国」は解体され、緩やかな共同国家たる「セルビア・モンテネグロ」が うまれた。セルビア側はモンテネグロの独立を向こう 3 年間凍結すること を条件に、共同国家のより柔軟化と対等な政治システムを提示したが、モ ンテネグロ国民の半数の独立意欲はおとろえなかった。このため EU は、 50%以上の投票率および 55%以上の賛成を条件にモンテネグロの独立を問 う国民投票の実施を認め、2006 年 5 月に国民投票が行われた。EU の示す 条件がぎりぎりクリヤーされたため、2006 年 6 月 23 日にモンテネグロは 独立を宣言した。しかし、今回の訪問中、現地では、領土も狭く人口も少 ないうえ、決定的な産業も育っていないだけに、独立は時期早尚だったの ではという声がかなり多く聞かれた。国情が不安定な中での国民投票はと りわけ問題を残すこととなった。 ○アドリア海沿岸の入り組んだ湾の最奥にある港町「コトル」は、カトリ ック文化圏と東方正教文化圏の境界にあり、複雑な海岸線と険しい山々(も 12 ともと、「モンテネグロ」とは「黒い山(緑の山)」という意味でヴェネチ ア人の命名)に囲まれた堅固な要塞都市である。山を這うように城塞が続 く。旧市街は世界遺産に登録されている。ローマ・カトリックの大聖堂は 1160 年の創建、2年前に訪問した時は観光地としての基盤整備は不十分に 見えたが今回は随分改善されていた。観光立国方針が明確になってきてい るように見受けられた。 ○モンテネグロの最大の港バール港で大きなフリゲート艦を目撃した。 NATO か米軍のものと思って調べたところ、モンテネグロ海軍に属するフ リゲート艦であった。人口 60 万の国がこれだけの装備を持つのはやや驚き だが、背景には当然大国の支援がある。ただし、モンテネグロ海軍のフリ ゲート艦はこれ一隻だけで、他の主力艦はミサイル艦2、揚陸艇6、輸送 艦・給油艦・練習艦各 1 となっている。ちなみに、隣国のクロアチア海軍 もミサイル艦5、揚陸艇6、哨戒艇・掃海艇・輸送艇各1に過ぎない。こ れに対し、ギリシャ海軍はフリゲート艦 14、潜水艦9、ミサイル艇 18、揚 陸艇 26、哨戒艇 18、掃海艇 10、さらにイタリア海軍は、航空母艦2、駆 逐艦4、フリゲート艦 12、潜水艦 6、揚陸艇 33、揚陸艇 33、哨戒艇 10 な どとなっている。つまり、アドリア海の制海権はバルカン諸国側になくイ タリア、ギリシャに握られていることになる。 さらに、この背後には、東大西洋・地中海を担当する米海軍第6艦隊が存 在している。 ○コソヴォ共和国 ○コソヴォは、旧ユーゴの中でも最も経済開発が遅れた地域であり、経済 的にはセルビアからの援助に依存せざるを得ない。強いセルビアからの政 治的独立志向とはトレードオフの関係にある。主要産業の農業は小規模な 家族経営が大半で、褐炭・亜鉛等の多少の鉱物資源はあるが、紛争時代を 含めて設備投資はほとんど実施されていない。現在、恒常的な貿易赤字と 税収不足、電力不足、また若年層を中心とする大量の失業など問題が山積。 海外移民からの送金、外国援助への依存度は高い。 ○コソヴォの中心をなすアルバニア系住民(イスラーム教徒)は、ヨーロ ッパ一高い出生率をもち、過去 50 年で人口が 4 倍に急増(1948 年の 46 万 人から 1998 年は 183 万人へ)、これにクロアチア紛争時およびボスニア紛 争時に 20 万人以上のセルビア人難民が流入し、人口問題を悪化させた。 1999 年のコソヴォ紛争時にセルビアに避難した 26 万人の非アルバニア系 難民(うち、23 万人がセルビア系)の帰還問題というプレッシャーも存在 する。 ○2008 年 2 月、コソヴォは一方的に独立を宣言、2012 年 5 月現在国連加 13 盟 193 か国中 90 カ国が独立を承認している。米国、英国、ドイツ、フラン ス、日本は承認しているが、前記ギリシャ等 5 カ国のほか、セルビア、ロ シア、中国などは未承認である。 ○マケドニア旧ユーゴスラビア共和国 ○オスマン・トルコの長い支配を受けて、東方正教会とイスラーム世界両 方の要素を、合わせ持つ。アレキサンダー大王時代の「マケドニア」とは 民族・領土とも同じではない。1991 年の独立後、国名問題でギリシャとは 揉めている。すなわち、ギリシャは、マケドニアの憲法上の国名である「マ ケドニア共和国」の名称につき、①「マケドニア」はギリシャ古来の由緒 ある固有名詞であること、②同名称の使用はギリシャ北部のマケドニア地 方に対する領土的野心を示すことになる、としてその国名使用に反対して きた。しかし、交渉の結果、1993 年に至り「マケドニア旧ユーゴスラビア 共和国」の暫定名称を使用するという譲歩を引き出し、この名称を持って 国連、OSCE 、欧州評議会等への加盟を実現した。のちに、米国が 2004 年に「マケドニア共和国」の呼称を使おうとして再びギリシャの強い反発 を招いており、正式国名問題についてはいまだ交渉継続中の形である。 ○米国は、バルカン半島最大の大使館をマケドニアの首都スコピエの郊外 に置き、北方からのロシアの圧力の分析を含め、バルカン半島全体への地 政学的な睨みを利かせている形となっている。 ○首都スコピエの中心地にノーベル平和賞受賞者の聖女マザーテレサ像と マザーテレサ博物館がある。マザーテレサは 1931 年からインドでカトリッ ク教会の修道女として下層民の救済に従事、2003 年には没後 6 年という異 例の速さで聖女に列せられた。彼女はもともとアルバニア系であるが 18 歳 まではスコピエで育ったこと、アルバニアとの融和のシンボルとして最適 の人物像であることから、敢えて首都の中央部に設置したものといわれて いる。 ○スコピエ市内を流れる川を渡る「石の橋」の袂にキリル文字を考案した キリル兄弟の銅像がある。ロシア語をはじめスラヴ諸語に使われているキ リル文字は、マケドニアで作りだされたのである。道を挟んで弟子のクレ メンツの像がある。キリル文字の汎用化に多大の功績をあげたクレメンツ は、後にキリル兄弟を凌駕して聖人に列せら、 「聖クレメンツ大聖堂」に祀 られている。 ○アルバニア共和国 ○紀元前 7~8 世紀のバルカン半島南部は、おもにダキア人、ギリシャ人、 イリュリア人が居住していた。イリュリア人は、前 2 世紀にローマ帝国の支 配下に入り、東西ローマの分裂後は東ローマに属し、1478 年にはオスマン・ 14 トルコの完全な支配下に入る。。400 年間のオスマン・トルコの支配下でア ルバニアの風俗・風習はイスラーム化し、多くの支配階級もキリスト教から イスラームに改宗している。しかし、今でも、かっての宗教の影響を残し、 イコン画を家庭内に飾る家も少なくない。いずれにしても、現アルバニア人 は、イリュリア人の後裔と自己認識をしており、スラブ人ではない。従って、 1912 年にオスマン・トルコから独立したあとは、一時イタリア、ドイツに 占領されるが、 「ユーゴスラビア(南スラブ人の国)」に参加することはなか った。 ○1944 年 11 月、パルチザンとソ連軍による全土解放が行われ、アルバニア 共産党を中心とした社会主義臨時政府が設立された。1946 年には王政廃止 とアルバニア人民共和国の設立を宣言、エンヴェル・ホッジャを首班とする 共産主義政権が成立。1948 年、アルバ二ア共産党はアルバニア労働党と改 称し、独自の社会主義路線を歩む。1961 年の中ソ対立時にはソ連を批判、 1968 年ワルシャワ条約機構を脱退、隣国ユーゴスラビアともチトー大統領 を「修正主義者」と規定し、ソ連、ユーゴスラビアを仮想敵国とした極端な 軍事国家体制をとる。1976 年から鎖国主義と常時国民皆兵制を強化し、国 内全土に 50 万個以上のコンクリート製トーチカを建設、国民すべてにいき わたる銃器を供給したままになっていることが、治安維持上大きな問題とな っている。今回の訪問でも至るところで 1 家族用ないし数家族用のトーチカ を目撃した。 ○ソ連と断交するとともに毛沢東の中国に接近し、各種の支援を受けたが、 近隣諸国とは鎖国状態を続けたため経済は悪化。1976 年に中国の文化革命 の影響を受け、「無神国家」の宣言を行い、イスラームを含む一切の宗教活 動を禁止するなどの極端な中国傾斜を示した。しかし、1976 年に中国で文 化革命が終息し、中国が改革開放路線に転じると、「修正主義中国」を強く 批判する立場に転じた。1976 年末には唯一の援助国中国からの一切の経 済・軍事援助が停止したため、1980 年代にはヨーロッパの最貧国といわれ るまでに困窮した。 ○ホッジャの後継指名を受けたラミズリアは、1990 年から前政権の方針を 一転させ解放路線に転じ、国名を「アルバニア共和国」に改称(1992 年)して、 経済の開放、政党結成の自由化等を打ち出したが、混乱は続いた。さらに、 1992 年の総選挙で戦後初の非共産主義政権として登場したサリ・ベリシャ 政権は、共産主義時代のシステムの清算、市場経済の導入、外国援助の導入、 国際社会への復帰等を掲げてスタートしたが、「ネズミ講」の破綻でアルバ ニア経済は混乱し、暴動が発生して政権は転覆し総選挙を通じてアルバニア 労働党を前身とするアルバニア社会党が与党に復帰した。 15 ○アルバニア経済で印象に残るのは、前記のとおり、市場経済移行後の 1990 年代に「ネズミ講」が異常に大流行し失敗したことである。この投機的行為 は資本主義経済下では当然許されるビジネスという理解が蔓延し、ほぼ全国 民が巻き込まれた。1997 年に至りネズミ講の破綻で、実に国民の 3 分の 1 が全財産を失ったといわれている。この事件の混乱で、ひとつの政権が倒壊 した。バルカン諸国の中でも、市場経済の理解が 最も遅れていたに国に生 じた事件だが、今でも現地では、インテリと思われる人でも、西側先進国の 中で活発に行われている「為替のデリヴァティヴ取引」や「レバレッジを利 かせた債券取引」等も結局「ネズミ講」と同じようなものではないかと主張 している。 ○1976 年の中国の援助停止によって、それまで中国の資金と技術支援で稼 働していた大型製鋼工場が操業停止に追い込まれたほか、同じく中国の支援 で建設された大規模繊維工場も中国からの安価な繊維製品輸入の増加に伴 い操業を停止した。首都ティラナの郊外にある両工場とも、その後何らのリ ハビリ投資も行われず廃墟同然の姿で放置されているのが目撃された。中国 との断交とそれに続く鎖国政策時代の経済活動が極めて低調であったこと を物語っている。インフラ整備についても、観光地へ行く道路でも幹線を外 れると満足に舗装されていないデコボコ道が多いという状況。 (終わりに――日本のプレゼンスなど) ○西バルカン諸国は中央アジア諸国に比べ民主化はより進んでいる。しかし、 歴史的にも民族、宗教、ローカリズム、経済格差など中央アジアよりはるか に複雑な紛争要因を抱える。政府が強権的に紛争に介入すること紛争を拡大 させる。国際社会の支援のもと、民主主義を支える強い中間層の成立、その ための市民層の経済的上昇・安定が鍵となる。一方、中央アジアの権威的政 権は当面強圧的な紛争抑圧が可能、経済開発独裁とともに一種の必要悪と見 ざるを得ない段階、要は権威主義的政権が時間をかけても民主化への軟着陸 を構想できるか否かが問題。国際社会による達成可能な個別民主主義へのロ ードマップ作成支援が必要である。 ○近年、バルカン半島への日本からの観光客は急速に増えている模様で、最 大の観光地ドブロブニクでは4~5組の日本人観光旅行団と遭遇した。セル ビアの首都べオグラードでは、日本政府の ODA によって寄贈された 93 台の 黄色い市内バスが走っている。ボディーには日本とセルビアの国旗と 「Donation from People of Japan」の文字が描かれており、市民からは「ヤ パナッツ(日本人)」という愛称で親しまれている。また、角崎在セルビア大 使のアレンジで「日本文化ディー」に招待され参加してきた。2001 年の世界 16 空手選手権金メダリストのセルビア人女性の主催する「日本空手クラブ」に よって、空手、柔道、居合道等の模範演技が披露され、多くの市民が熱心に 見学していた。こうしたこともあって、最近の世論調査「どこの国がセルビ アに対する最大の支援国ですか」という設問に対し、日本が第一位ないし第 二位にランキングされるという。実態は累積支援額では EU が日本の 10 倍以 上になっているのだが、少なくともイメージ上の「日本の好感度」は上がっ てきているようである。しかし、セルビア以外の国々を含め、民間レベルの 実質経済交流はまだ微々たるものと言わざるを得ない。例えば、電気機器メ ーカーの進出・貿易について見ても、急速な韓国メーカーの進出という中央 アジアと同じ状況が起こっており、市中の看板の数で見てもサムスンや LG 中心の韓国企業と日本企業のそれでは5~6倍の差があるように見受けられ た。バルカン諸国は、歴史的にも欧米のビッグパワーやロシアの経済的進出 には警戒的である。多くの場合、それらが政治的・軍事的戦略と密接に結び ついてきたからだ。この点、日本の経済交流は地政学的観点からもそうした 政治・軍事的野心がないことを現地は十分に理解している。韓国企業の急速 な進出が可能であったのにも同じ視点がある。現地では、①観光業、②中小 企業を含む製造業、③輸出産品を作れる農業分野、等への日本の民間投資の 活発化を期待していることを、日本側は改めて認識すべきであろう。 以上 17 旧ユーゴスラビア・アルバニア主要指標 (経済指標は 2010 or 2011) 旧 ユ ー ゴ ス ラ ビ ア スロベニア 面積(平方 Km) 民族 宗教 元首 GDP 合計(2011 年、億ドル) 1人当り GDP (2011 年、ドル) 失業率(%) 主要貿易相手 独立年月 ツェゴビナ セルビア 56,594 51,129 77,474 2.0 4.3 3.8 7.3 リュブリヤナ ザグレブ クロアチア人 スロベニア人 (89.6%) カトリック カトリック、セル (57.8%) ビア正教 ダニーロ・トゥル イボ・ヨシボビッ ク大統領 チ大統領 495.9 サラエボ ベオグラード (10,908) 28,700 0.6 2.1 3.2 ポトゴリツァ アルバニア人 モンテネグロ人 セルビア人、ク (83%)、ハンガ (92%)、セルビア (40%)、セルビア ロアチア人 リー人 人(5%) 人(30%) セルビア正教、 (イスラム教、セ カトリック ルビア正教) イスラム教、セ ルビア正教、カト ピェコスラブ・ベ トミスラブ・ニコ バンダ閣僚評議 リッチ大統領 会議長 (2012) 179.7 ーゴスラビア 25,713 (1.8) (プりシュティナ) スコピエ ティラナ アルバニア人(一 マケドニア人、ア 部にギリシャ、マケド ルバニア人 ニア、モンテネグロ 人) 正教、イスラム教 マケドニア正教 イスラム(70%)、正 (70%)、イスラム 教(20%)、カトリッ 教(30%) ク(10%) (アティフェテ・ヤ フィリップ・ブヤノ ギョルギュ・イヴ ヒヤーガ大統領) ビッチ大統領 ァノフ大統領 450.6 -64.5 アルバニア マケドニア旧ユ 13,812 ボシュニャク人、 セルビア人 リック 638.4 モンテネグロ (コソヴォ) 20,273 人口(百万人) 首都 ボスニア・ヘル クロアチア 45.4 103.3 バミル・トビ大統領 128.5 24,533 14,457 4,618 6,080 (3,240) 7,317 5,016 3.992 8.1 13.2 23.7 16.9 (45.4) 11.2 31.2 11.5 ドイツ、イタリア 1991.6 イタリア、ドイツ 1991.12 N.A. 1995.12 イタリア、ドイ (イタリア、マケド イタリア、セルビ ドイツ、オラン ツ、ロシア ニア) ア ダ、ロシア 2006.6(単独) 18 (2008.2) 2006.6 1991.9 イタリア、ギリシャ 1912.11
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