カーター政権期における米独関係 ――アメリカ大統領の対外政策が

久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
カーター政権期における米独関係
――アメリカ大統領の対外政策が与える影響――
岸本 和歌子
序章
第1章
デタントおよび SALT 以降の米独関係
第2章
カーター政権の対外政策とシュミットの反応
第3章
カーター政権期前半の米独関係
第1節
中性子兵器問題
第2節
INF 問題とシュミットのロンドン演説
第3節
ヨーロッパ戦域核の不均衡における対応
第4節
四カ国会議、SALTⅡと NATO「二重決定」
第4章
カーター政権期後半の米独関係
第1節
ソ連のアフガニスタン侵攻とカーター・ドクトリン
第2節
オリンピック・ボイコット
第3節
メディア問題
終章
序章
第二次世界大戦以降、アメリカと西ドイツは常に密接な関係にあった。戦後、連合国によりドイツが占領さ
れたとき、アメリカはドイツの民主主義化を目指した。また、ドイツ管轄における意見の不一致が引き金となり、
ソ連と西側諸国の対立が次第に激しさを増すと、西ドイツはドイツ連邦共和国として 1949 年に NATO(北
大西洋条約機構)に加盟するという条件付きで主権を回復したが、ここではアメリカの大きな後押しがあった。
その後も、アメリカと西ドイツはソ連に対抗するという共通の目的のもと、互いに協力していった。1950 年代
には、その目的の一環として大量のアメリカ軍がヨーロッパに配置された。1960 年代に入ると、アメリカにと
ってヨーロッパのこと以上にベトナム戦争のほうが大きな関心事項となったが、それでもアメリカとドイツの関
係が悪くなることはなかった。
冷戦は封じ込めと抑止の 2 つを大きな政策戦略として進められてきたが、1960 年代終わりから 1970 年
代初めになると大きな転換期を迎える。すなわち、米ソ両国の東西関係を緊張緩和の方向へ転換しようと
する政策(デタント)が本格化し、また戦略核兵器を制限する米ソ間の話し合いが始まったのだった。この間、
アメリカとドイツは協力してデタントを推し進めていった。しかし、このように友好的な米独関係はアメリカでカ
ーターが新しい大統領として就任した 1978 年を境に次第に悪くなっていく。
カーター政権期における米独関係にフォーカスした先行研究はほとんどないと言っていい。カーター政
権期にドイツ首相だったヘルムート・シュミットの政策に関する研究でアメリカとの関係が一部分析されてい
るものもあったが、あくまで国際的な出来事の一部としてであった。一方、カーター政権の外交政策につい
ては多数の論文や書物がある。カーター政権の外交の特徴の研究結果としては国際環境によって形作ら
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カーター政権期における米独関係
れたとするもの、カーター大統領の個人的な性格やそれまでの政治家としての経験によるものであるとする
ものなどがある。またカーターの各国における政策については、ヨーロッパを除く国々、すなわちソ連、中国、
第三世界における政策のケーススタディがほとんどである。このような研究が多いのは、カーターがヨーロッ
パよりもそれらの国々での政策に力を入れてきたからだろう。
そんな中、本論文ではあえてカーター政権期における米独関係を取り上げたいと思う。なぜなら、カータ
ー政権がいくらソ連や中国などの国々での政策に積極的に取り組んできたとはいえ、安全保障面において
ヨーロッパは、彼らの安全保障には不十分な内容の SALTⅠ(戦略兵器制限交渉)協定によってソ連の危
険に依然としてさらされていたからである。そのため、そのような状況の中でドイツは自国の安全保障をどの
ように追及し、その際の米独関係とはどのようなものだったのかを明らかにすることは意義のあることだろう。
この論文の目的は、アメリカ政府の世界観や対外政策が他国にどのような影響を与えるかを明らかにすると
共に、安全保障分野における米独関係を分析することである。
分析の進め方、また各章で扱う内容は以下のとおりである。
第 1 章では、米ソ間における SALT 開始以降の米独関係について取り上げる。これは、ニクソン、フォー
ドの対外政策がどのように米独関係と結びついていたかを明らかにすることで、カーターの対外政策および
米独関係の特徴をよりはっきりさせるためである。SALT 開始以降の大統領の世界観を明らかにするのは、
それ以降からデタントにより今までの冷戦構造に変化が起きたので、なるべく似た条件のもとで比較した方
が良いと考えるからだ。
第 2 章では、カーター大統領の世界観および対外政策の方針について分析したい。
第 3 章・第 4 章では、その下に起きるアメリカとドイツをめぐる問題を取り上げ、それぞれの出来事におい
て米独関係はどのようなものだったか、そして最終的にどのような経緯を辿っていったのかを明らかにした
いと思う。2 つの章に分けたのは、カーター政権の対外政策がソ連のアフガニスタン侵攻を機に大幅に変
化したからだ。カーター政権の対外政策が時の経過とともに大きく変化したことはよく知られていることであり、
その一番の原因はソ連のアフガニスタン侵攻であるという見解はほとんどのカーター政権に関する論文に
おいて一致している。同じ政権の下でも前半と後半の間で世界観が違うならば、それぞれの下における米
独関係、また変化そのものが国家間に与える影響を分析することが必要である。
最後は、それまでの分析をもとに、本論文の問いに結論を出す。
第1章
デタントおよび SALT 以降の米独関係
1960 年代終わりからデタントが本格化し、また SALT が開始され、冷戦は新たな局面を迎えた。緊張緩
和政策に積極的だったのは当時のアメリカ大統領であったニクソンとフォードだったが、彼らはそれまでの
冷戦におけるアメリカの対外政策とまったく異なったことを初めたというわけではない。彼らの対外政策は現
実政策に基づきながら、それまでのアメリカの対ソ政策を部分的に変更し、緊張緩和へと結び付けようとす
るものであった。アメリカが戦後の冷戦の中で一貫して取ってきた対外政策における柱とは封じ込め戦略、
国際関係における現実主義的アプローチ、反共産主義的イデオロギーの 3 つを主に指す1。それらとニクソ
ン・フォードの対外政策を比べてみると、次のとおりである。
第一に、封じ込め戦略は、アメリカの対ソ政策で最も重要なもので、ソ連の共産主義勢力の拡大を力の
脅威によって阻止するものである。この戦略網は、始めはヨーロッパ、次にアジア、そして世界各地へと広
がっていった。ニクソンとフォードの場合、このようなグローバルな封じ込め戦略は、国務長官ヘンリー・キッ
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シンジャーの後見のもと、ソ連の部分的な封じ込め戦略に取って代わられた。
第二に、国際関係における現実主義的アプローチは、封じ込め戦略が現実政策もしくはパワー・ポリティ
ックスという世界観に基づいた機能であることと関係している。政治的リアリストは、国家は国際的な争いを
通じて利益を追求するために活動すると考えており、それゆえに国際的平和は不安定な「パワーのバラン
ス」によってのみ追求されると考えている。また、国際的平和を脅かす主な要因は、不満足な「改革的な」国
家が政治システムを変えようとすることであるとしている。このような現実的な世界観により、アメリカの冷戦政
策はソ連の共産主義勢力の拡大によって危険にさらされている国際的平和をパワーのバランスによって守
ろうと試みたのである。このアプローチは、ニクソン・フォードにおいても変わらず、アメリカの関心や国際的
平和、グローバルな安定性は脅威と力による封じ込め政策によって追求された。
第三に、反共産主義的イデオロギーであるが、これは第二次世界大戦後、ヨーロッパが衰え、世界がアメ
リカとソ連の二大勢力によって特徴付けられるようになってからアメリカの対外政策にとって大変重要なもの
となった。この共産主義的イデオロギーは、現実政策と共に冷戦におけるグローバルな封じ込め政策のベ
ースとなるものだった。またこれによってアメリカはソ連に対し恐怖を感じ、世界政治をしっかりとした二極化
したゼロサム的なものにしようとした。ニクソンとフォードは、ヘンリー・キッシンジャーと共に、初めて反共産
主義的イデオロギーを棄て、それまでの封じ込め政策から脱しようとした。しかし、デタントにおいてもキッシ
ンジャーの現実政策的志向はソ連を最大の関心事からはずすことがなかったことは注意すべきことである。
このようなニクソン・フォードの対外政策においてアメリカとドイツ連邦共和国は一貫して良好な関係を保
っていた。1969 年 10 月にドイツでは SPD(社会民主党)とFDP(自由民主党)の大連立政権が誕生し、ウ
ィリー・ブラントが新しいドイツ首相として就任した。彼は東側諸国との関係の改善に強い意欲を示したが、
ニクソン大統領も今後は「交渉の時代」(‘the Era of Negotiation’)と訴え、東西関係の緊張緩和を重視し
た2, 3。
しかし、それでもブラント政権誕生当時は、アメリカの右翼の共和党政権とドイツの左翼の社会主義者が
率いる政権が相容れるとは思われていなかった。お互いあまりにも多くの違いがあり、数ある政治問題への
アプローチに一致が見られず、深刻な争いになるのではないかとさえ恐れられていたのだ。だが実際には、
共和党と社会民主党は同じイデオロギーの立場から経済や対外政策のアプローチにおいて一致を見るの
は造作無く、むしろ関係は良い方向へ発展して言ったのである。さらに、ニクソン政権にはヘンリー・キッシ
ンジャー、国務省スタッフのマーティン・ヒルデブラント、アメリカ大使ケネス・ラッシュをはじめとする新独派
が多数おり、ドイツの置かれている政治的立場を理解しやすかった4。
1969 年からニクソン大統領は、ルーマニア、ユーゴスラビアなど共産主義圏の国々を訪問し、またベトナ
ム、中東などと一定の交渉を保ったが、ついに1972 年には北京とモスクワも訪れ、SALTが行われた。米ソ
間のみで取り決められる SALT では、アメリカのヨーロッパ同盟諸国は協定の内容によっては西ヨーロッパ
の安全が脅かされることを心配していた。そして、事実 1972 年 3 月に調印された SALTⅠはドイツを含む
西ヨーロッパ諸国にいくらか警報を発するものだった。NATOメンバーのヨーロッパ諸国は SALT の内容を
事前に知らされなかったことに大きな不満をアメリカにぶつけたが、次の SALT では MBFR について交渉
し、ヨーロッパの安全にも気を配ることで合意に至った。
一方、アメリカも認めているようにこの SALT 調印にこぎつけることができたのは、デタントを助長したドイ
ツの新東方政策(Ostpolitik)の貢献があった。1970 年にブラント首相はワルシャワとモスクワを訪問したが、
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ポーランドおよびソ連と友好関係を結ぶことに成功した。アメリカは西側諸国の中で西ドイツだけが東ドイツ
や東ヨーロッパとコンタクトを取れる唯一の国であることを承知していた。したがって、デタントにおけるドイツ
の必要性を認識しており、初めからドイツの新東方政策には賛成だった5。
他には、アメリカのマンスフィールド上院議員の動議やキリスト教民主党(CDU)やドイツ国民のドイツに
おけるアメリカ駐在軍への反発により、駐在軍の削減およびその駐在費用をどちらがどれだけ負担するか
が常に米独間の問題になったが、デタントという不安定な時期にブラント政権はアメリカの防衛が必要だと
感じ、ドイツがそれまでの駐在費用の負担を増額するということで決着が見られた。
ニクソンのウォーターゲート事件により、1974 年にジェラルド・フォードが副大統領から大統領に昇格し、
ドイツでもヘルムート・シュミットを首相とする新しい政権が誕生した。キッシンジャーの後見の下、フォード
大統領も引き続きデタント政策を行い、さらなるソ連との核ミサイル制限交渉にも積極的だった。フォードお
よびブレジネフは、1974 年 11 月にウラジオストックで会合し、その後数年にわたって交渉されることになっ
ていた SALTⅡの概略に同意していたが、ソ連が西側とさまざまな協定を結び、交渉に慎重になったことも
あって、それほど進展は見られなかった。
この SALT に関して 1975 年 7 月に、フォード大統領が西ドイツを訪問した際、シュミットはユーロ戦略不
均衡に関する深い懸念を強調し、アメリカがソ連とともにこの問題点に取り組むよう勧告した。シュミットはそ
の交渉事項にユーロ戦略兵器、とりわけSS20とバックファイヤー爆撃機と呼ばれるソ連の新超音速長距離
爆撃機が加えられることを望んでいたのである。フォードはこの心配に理解を示し、SS20とバックファイヤー
を SALTⅡに含めることをシュミットに約束した6 。しかし、結局フォードは対カーターの選挙で敗退し、
SALTⅡ調印にも至らず、この問題はカーター政権との間に持ち越されることになった。ただし、フォード政
権期もニクソン政権期と変わらず、米独関係は友好的であった。ここでも、やはりアメリカとドイツが緊張緩和
という同じ目的を目指しており、それが現実政策に根ざしていた要因が大きい。
第2章
カーター政権の対外政策とシュミットの反応
ジミー・E・カーターは39 代目の大統領として 1977 年に就任した。彼は州議会の上院議員の後、州知事
を 1 期 4 年務めただけで国政レベルでの経験はほとんどなかったが、フォードがニクソン恩赦により国民の
支持を失っていたこともあって、1976 年の大統領選挙に当選することができた。新しいタイプの大統領を求
める国民の期待により登場したのが彼だった。
アメリカの冷戦における基本戦略は第 1 章で前述したとおりだが、それと比べるとカーター政権の対外政
策は、予防外交、国際関係における総合的アプローチ、人権とグローバル共同体の追及の 3 つの特徴が
挙げられる7。
第一に、予防外交についてであるが、カーターは冷戦は終わり、封じ込め戦略から脱する必要性がある
と考えていた。これはカーター政権における政府高官でも広く認識されていた。また彼らは、調整戦略を国
際的な変化に対応するものとして重視していた。調整戦略はアメリカ対外政策がこれ以上ソ連だけを中心
に考えたり、さらには世界の変化により米ソの二極的な国際システムそのものをこれ以上維持することはで
きないというカーター政権の世界観に基づくものであった。したがって、カーター政権はアメリカはこれから
はさまざまな安全保障上の問題に立ち向かい、予防外交を行うことが必要であると考えた。例えば、米ソ間
の問題は、ミサイル制限を通じて解決するのが一番良かった。この予防外交の特徴は、地域的な争いを東
西問題として扱ったり、封じ込めや力によって解決するのではなく、根本的なことに原因があると捉えること
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だった。だから、カーター政権はパナマ運河協定の実現や、キャンプ・デービスを通じたアラブイスラエル問
題の解決などで、予防外交を推し進めようとした。
第二に、国際関係における総合的アプローチであるが、カーター政権はそれまでのアメリカの政治家が
思っているよりも世界はもっと複雑であると考えていた。カーターは現実主義的な政策をとることはなかった。
その代わり、複雑な相互依存に基づく国際関係的なアプローチが取られた。この複雑系相互依存アプロー
チでは、多数の異なったアクターが国際システムを構成していると考えられており、また軍事力の実用性が
低下する代わりに他の手段が対外政策で重要になると予測された。さらには世界政治のアジェンダはさま
ざまな問題からなっており、明確なヒエラルキー的構造にはなっていない。
また第三の人権とグローバルな追求は反共産主義的イデオロギーに代わるものとしてカーター政権の対
外政策に必要なものであった。この 2 つによって、カーター政権はアメリカが国際的変化においてリーダー
シップを取り、世界中の人々を魅了することを狙いとした。
カーター大統領が就任した当時、多くのアメリカ国民が彼に期待を寄せたが、ヨーロッパ諸国の反応は
違っていた。シュミット首相は当時のことを振り返って自身の回想録の中で次のように語っている。「…ヨーロ
ッパの人間ははっきりと懐疑的だった。ヨーロッパの各国政府は、ワシントンが新しくスタートをきってくれる
必要はなかった。むしろアメリカが大戦略を確認し、これを追及していく姿勢に変わりがないことを望んでい
た」8。シュミットは首相に就任する以前から、安全保障や政治経済についての概念的な議論に長けていた
が、首相を務めている間、西側の安全保障政策を考えるにあたって重要だった東西における軍事力均衡
の大切さを早くから認識していた。例えば、1961 年に彼は『防衛か報復か』という本を出版し、当時の
NATO 内で主流だった「大量報復」という考えの危うさを指摘した9。とくにキッシンジャーとは親しい間柄で
あり、シュミットは多くの影響を受けた10。カーター政権期では、アメリカとドイツは互いに対外政策について
全く異なる世界観・対外政策を持っていたのである。
第3章
カーター政権期前半の米独関係
冷戦時代におけるドイツは自国の安全保障に関して主に 2 つの心配が常に付きまとっていた。1 つは、
核戦争が起きたことを想定した場合のドイツにおける被害のすさまじさである。1955 年に NATO が図上演
習カルテブランシェを行い、東からのソ連軍の侵攻に核爆弾をもって対抗することを想定したところ、原爆
使用は 335 発となり、西ドイツ民間人の死者 170 万、負傷者 350 万、そのほか放射線の被害が出るという
結果が出た。もし東西の対立が戦争へと発展し、核使用にまでエスカレートすれば、どちらが勝とうと負けよ
うとドイツ全土が焦土化する危険性は、その後ヨーロッパに配備される米ソの核が増えることによって、いっ
そう高まった。
そして、もう 1 つは、他の西ヨーロッパ諸国にとっても恐怖であったのだが、もしソ連が核兵器を装備した
戦車が西に侵攻し始めた場合、米国が核をもって救援にかけつけなかったらどうなるかという問題である。
そのため、核抑止を西欧にまで拡張する、いわゆる抑止の延長(extended deterrence)は西ヨーロッパ諸
国にとって重要であった。だからこそ、逆に米国の核の抑止力から切り離されること、すなわちデカプリング
の心配は相当なものであった。
それでも、これらの心配はアメリカの核が圧倒的に優位であった 1960 年代はドイツを含むヨーロッパ諸
国にとってそれほど大きくはなかった。むしろ米ソの ICBM の数の均衡が 1969 年に達成して米ソ間で
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カーター政権期における米独関係
SALT が始まった後になって、この問題はヨーロッパ諸国にとって深刻なものへと発展していく。なぜなら、
SALTⅠ暫定協定で米ソ双方が取り決めたのは、相互の領土から発射して相手の領土に届く ICBM と潜
水艦発射の SLBM のミサイル数の現状維持だけについてであった。英仏の核もソ連にとっては危険であっ
たがそれについては交渉しないかわりに、ソ連の戦闘爆撃機や西ヨーロッパに届く中距離ミサイルの制限
および開発についても SALTⅡ以下に棚上げになったのである。こうして米ソは長距離ミサイルをこれ以上
増加することはしなくなっても、ICBM 以外の第二撃能力の開発に力を入れるようになった。そこで西ドイツ
を含む西ヨーロッパ諸国にとって大きな問題になったのがアメリカが新たに開発しヨーロッパに配備しようと
した中性子問題と、ソ連の SS20 である。
だが、ドイツを含むヨーロッパのこうした不安はさらにもう 1 つの要因によって高まった。それは、カーター
政権の新しい世界観において今後どのような対ソ政策が取られるのか予測不可能で、この新政権によりデ
タントが崩壊してしまうのではないかという懸念があったからである。
第1節
中性子兵器問題
まず問題になったのは、アメリカが開発しようとした「放射線強化兵器(enhanced radiation weapons)」
である。中性子兵器とも呼ばれ、戦術核兵器の一種である。1977 年に「閣僚指針・1977 年」でソ連の核戦
力が配備予定の SS20 を含む複数弾頭装備の新型ミサイルシステムの出現という形で改善されていること
が報告された。そこで NATO の防衛態勢の見直しが急務となり、その一環として中性子兵器の開発そして
配置が NATO によって検討されたのである。
アメリカでの中性子兵器開発構想はニクソン政権のシュレジンガー国防長官時代に遡るとされているが、
カーター大統領はこの兵器の開発に積極姿勢を示した。1977 年夏にはカーター政権は議会に対して中
性子兵器の開発のために予算を組んでくれるよう頼んでいる。この中性子兵器の特徴は、既存の戦術核兵
器とは違っていた。すなわち、中性子兵器の破壊力は比較的小さな爆発力によるものではなく、強力な放
射線にある。この放射線は敵の部隊の殺傷能力は高いが、周辺の建物の破壊を最小限にとどめることがで
きる。また残存放射能が少ないことから、非難した住民も比較的速やかにもとの生活に戻ることができ、これ
がカーター大統領が開発に積極的な理由でもあった。
ドイツにおいてはこの問題について世間でも政府内でも大きな議論を巻き起こした。この議論の口火を
切ったのが、当時の SPD の連邦幹事長であるエゴン・バーである。彼は SPD 発行の雑誌「前進
(Vorwärts)」に書いた記事で、中性子兵器を「思考の倒錯の代名詞」であるとし、物質的な損害はほとん
どもたらさないが人間を「きれいに」抹消するこの兵器の恐ろしさを説いた11。一方、政府もこの兵器に懸念
を示した。特に懸念されたのは、残存放射能が少ないということはかえって侵攻通常兵力にこの兵器を使
用したいとの誘惑を強めるので、核使用の敷居が低くななるのではないかということである12。さらに、中性
子兵器がドイツと隣国の関係に与える影響も心配もされた。このため、シュミット政権は中性子兵器の配備
を条件付で承諾することにした。第一に、ドイツが唯一の配備国にならないこと、第二に、ソ連との核軍縮交
渉を引き続き進めることなどである。このドイツの意向をシュミット首相はカーター大統領に電話をかけ、直
接伝えた。一方、イギリス、オランダなどのヨーロッパ諸国は自国における中性子爆弾の配備を拒否した。
このような状況の中で、カーター大統領は中性子兵器を開発し続けるのかどうかの決断を迫られる。ブレ
ジンスキー補佐官の報告により、ドイツが核軍縮の努力が失敗した場合に、中性子爆弾の配備を指示する
ことがわかった。また NATO 内では兵器の配備を望んでいる軍の司令官と、それに反対する政治家たちの
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間で意見の対立が起きていた。過去における新兵器の出現の際と同じく、NATO 軍事当局者はアメリカが
まず中性子爆弾の開発、配備を決めればヨーロッパ諸国もやがて自衛のために自国領内に配備すること
になるだろうと予測していた。しかし、カーター大統領は、ドイツでの配備はどうなるかわからない状況、オラ
ンダ、ベルギー、ノルウェーなどをはじめとする強烈な反対により他のヨーロッパ諸国ではまず無理であるこ
とを考えると、開発しないほうが得策であると考えた13。また多額の資金を費やすこの中性子兵器開発プロ
ジェクトは、ソビエト軍の侵攻の際には西ヨーロッパ諸国の防衛のためには重要なものとなる。しかし、世界
の他の地域ではアメリカ軍にとっては役に立たないというのがカーターの考えだった14。さらに、このような決
断は核兵器を規制するというアメリカの国の基本政策とも一致していた。
1978 年 4 月、カーターが製造中止を決定したときには、ドイツ議会で中性子爆弾についての決議で賛
成票が反対を 16 票上回る表決で採択された後だった。このことはシュミットがカーターに電話をかけ、直接
報告もしてあった15。さらに、ドイツの配備受け入れの意向はすでにマスコミによって広く流布されていたた
め、シュミットは窮地に立たされた格好になった。シュミットはこれによってカーターに対して人格的不信を
抱くことになったが、それ以上にこの問題ではカーター政権のヨーロッパ安全保障政策に対する政策方針
が定まっていないことが明らかになった。
第2節
INF 問題とシュミットのロンドン演説
中性子兵器問題に幕が引かれようとしていたころ、INF(中距離核戦略交渉)問題が浮上してきた。なぜ
なら、1970 年代から開発し始めていた中距離核 SS20ミサイルをソ連がついに配置し始めたからである。こ
の SS20は命中精度の高い台車に乗った移動式であり、NATO側のミサイルが届かないソ連本土から西欧
のどこでも攻撃できた。そのため、西ヨーロッパにとっては大きな脅威となった。
シュミットは長いことこの問題に関する理解をカーターに求めた。しかし、カーター政権は国民の期待が
まだある早い段階のうちにSALTⅡにおいて成果を出したいという思いもあって、軍事力の強化はSALTを
うまく進める上で妨害になるという考えのもと、聞き入れることはなかった16。1977 年 5 月で行われた NATO
協議会でのシュミットの発言もあまり注目されなかった。ここでは、彼は米ソ間で行われている戦略核兵器制
限交渉は米ソ間だけの戦略核兵器の制限にとどまっており、「戦略的均衡」を「戦略核兵器の均衡」としか
捉えていないことを示唆していた。
そのため、シュミットはソ連の SS20 がドイツはもちろん、西ヨーロッパ諸国にとってどれだけの脅威である
かということを理解してもらうために、この問題を公にすることを決意した。こうして 1977 年 10 月 28 日に
IISS(ロンドン戦略研究所)で演説を行い、「ヨーロッパ戦域核の不均衡」の問題を取り上げ、彼の懸念を説
明した。
ロンドン戦略研究所は 1950 年に誕生し、その後国際安全保障政治の研究所として世界的に権威を持
つ研究所として成長した。多くのメンバーを抱えており、シュミットが演説したその日も研究所の招待により
約 500 人が集まった。その中には、EG の国々のほとんどと、カナダ、日本、ユーゴスラビア、イスラエル、韓
国の大使がいた。さらに、1963 年から 1968 年までドイツにおいてイギリスの大使を務めていたフランク・ロ
バーツがおり、そのほかヨーロッパを担当している米国海軍の司令長官マイケル・パリザなど位の高い官僚
や将兵、世界中からの著名な教授などが来ていた17。
シュミットはこの演説で、次のように述べた。「SALT は米ソの戦略核能力を中和する。そのため欧州では、
戦術核および通常兵器の面で東西間不均衡が増幅される」、「米ソに限定されたSALT は、ヨーロッパに現
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カーター政権期における米独関係
存する不均衡を SALT 交渉と並行して除去するのに成功しなければ、ヨーロッパでのソ連の軍事的優位に
直面している西欧の同盟諸国の安全を不可避的に損なうだろう。そうならないためにも、われわれは抑止戦
略の全範囲の均衡を維持しなければなれない」18。
このようにシュミットは、ソ連が先に軍備を増強したのに対し、西側が後を追って軍備を増強しなければな
らないというのではなく、欧州戦略のための核兵器とヨーロッパの通常兵力を両超大国が目指している
SALTⅡの軍備制限に含める必要性を説いたのだった。また、シュミットはカーターが開発に積極的である
中性子兵器の導入が軍備制限の努力にどんな影響を及ぼすかという観点から検討すべきである、とも要求
した19。これが、彼がINF に関する NATO「二重決定」の生みの親だと言われるようになったゆえんである。
シュミットの演説内容は、聴衆に高く評価された。またほとんどの新聞も肯定的に報道した20。
一方、カーターはシュミットのロンドン演説に大きな不快感を示した。しかし、1978 年になるとソ連の欧州
戦略兵器に関する考えを改め始め、「グレーゾーン(ウィーンで行われている MBFR 交渉でも従来の
SALT 交渉でも対象とされていない分野をいう表現のこと)」についても配慮するようになったのである。
シュミットはカーターに対してのみ、SALTⅡの会談でこの問題を取り上げるよう説得しただけではなかっ
た。彼は、繰り返しソ連に対しても、ユーロ戦略増強の継続は、欧州との協調、そして平和そのものを脅か
すものであると説得してきた。
第3節
ヨーロッパ戦域核の不均衡における対応
一方、それより前の 1977 年 3 月、カーター政権は SALT 交渉を進めるために、ブレジネフと書簡をやり
取りし、また 3 月にバンス国務長官をモスクワに派遣したが、これはその数日前カーターが記者会見を行い、
交渉内容を話してしまうことで失敗に終わった21。ソ連はカーター政権が宣伝戦をしかけているのではない
かと思ったのである22。こうした対ソ政策における行き詰まりと同盟諸国のカーター政権に対する評価の低
下、さらにシュミットのロンドン演説がヨーロッパ諸国から大きな反響を呼んだことで、カーター政権もヨーロ
ッパ戦域核の不均衡について考えざるを得ない状態になってきた。
だが、このヨーロッパ戦域核の不均衡の問題はまず NATO 内においてこの問題が取り上げられた。ここ
では、アメリカが長期的な視野に立って NATO の防衛能力を上げる重要性を強調した。またNATO はヨー
ロッパ諸国のアメリカに見放されるのではないかというデカプリングの心配を除去するために、戦術核につ
いて議論する必要があるとした。そしてそのために、HLG(High Level Group)という国防省の代表で位の
高い人物により構成されたグループを作った。この HLG はヨーロッパにおける核の危険性がどれだけなの
かを調べ、また同盟国のさまざまな核ミサイルを近代化させるべきかが検討された。結果的に、ヨーロッパは
中距離核ミサイル以外のミサイルの近代化は同意できないとした。なぜなら、まず配備によって自国の領土
に大きな損害がでるし、何より中距離ミサイル以外のミサイルを配備することにより、自国がソ連の核の標的
にされる恐れがあったからだ。一方、中距離ミサイル近代化の利点は、戦略核ミサイルと NATO の戦略が
アメリカの戦術によって強化されることと、ソ連の SS20 に対して西側がはっきりとした意思表示ができるから
だった23。
これに加えて、HLG のドイツ代表はドイツにだけ中距離ミサイルが配備されることがあってはならないこと
を主張した。ドイツがソ連領域内に到達するミサイルを所持し、いざとなったときにドイツがそのミサイルを発
射することを想定すると、それはモスクワにとって挑発的な印象を与えるし、また東ヨーロッパとの関係も悪く
してしまう可能性があるからだ。また配備に伴う莫大な費用もドイツを躊躇させた理由だった。
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このように、ヨーロッパ戦域核の不均衡の問題について一歩前進したものの、1978 年初旬ではまだヨー
ロッパがミサイルを受け入れるかどうかははっきりしていなかった。
しかし、アメリカがこの問題に積極的に動き出したことで状況は変わっていった。アメリカ国内ではヨーロッ
パにおいて新しい核ミサイルを配置するのに反対の声もあったが、カーター政権は中距離ミサイルの配備
を支援することによって、西ヨーロッパの SALT 協定に対する批判を和らげることができるかもしれないと考
えたのだった。また、何よりもカーターは中性子兵器をめぐる争いのときのように、アメリカの統率力・先導力
が疑われるようなことは二度とあってはならないと強く感じていたのであった。カーターが SALT の交渉の妨
げになるとして、以前は軍事力の強化を拒んでいたにもかかわらず、いまやヨーロッパにおける中距離ミサ
イル配備が政治的にも軍事的にも最も優先すべき事項となったことは注目すべき点である。
1979 年に、NATO の HLG はヨーロッパ戦域核の不均衡を解決するために、「核ミサイル数を増加せず
に、質的向上を図る」ことがもっとも好ましいだろうと発表した。しかし、だからといって戦略兵器の制限交渉
を排除するようなことがあってはならないということも強調された。配備されるミサイルの種類はパーシングⅡ
と地上発射巡航ミサイルの 2 つに決定された。特にアメリカとイギリスはこれら 2 つが同時に配備されること
によってソ連に対する政治的効果が高くなると主張し、これら 2 つを配備することを支持した。
こうして残るは、ヨーロッパ諸国がミサイル配備を受け入れるかどうかであった。
アメリカの NATO 中距離核ミサイルの近代化の提案に対し、どう対応するかが議論された。
アメリカにとってもっとも大きな心配はソ連が SS20 で西ヨーロッパ諸国を攻撃することではなく、「恐怖の
均衡」により、ソ連がこの兵器によってヨーロッパを人質に取り、政治的な脅しに使われないかということであ
った。このような事態から、ドイツは3 つを安全保障構築の目的として掲げた。第一に、SALT 交渉において
ドイツがヨーロッパを代表してより大きな発言力を得ることだった。この要望は、部分的にアメリカに受け入れ
られた。特に SALTⅢ協定では、核の対象がヨーロッパ地域にも含まれることになっていた。第二に、これと
関連してソビエトのヨーロッパを標的にした兵器を核戦略に含めることだった。なぜなら、SALTⅡの交渉で
は特に一方的な核制限がヨーロッパの非難を呼んだからだ。第三に、ドイツ政府は SALTⅢの最大中距離
核保有数を共同で決定し、ヨーロッパがアメリカのデカプリングにあうことをソ連に思わせてはならないことで
あった。
このような原則をもとに、アメリカの NATO 中距離核ミサイルの近代化の提案を受け入れるかどうかだっ
たが、シュミットは「グレーゾーン」問題を中心に西ドイツを含む西ヨーロッパの安全保障を考える必要がある
と考えた。さらに、ソ連に脅されることがあってはならないし、中性子問題以来、希薄になっていたアメリカと
の連携を再び強化することが重要であると感じていた。なぜなら、アメリカと協力することによって初めて、軍
事力の強化だけではなく、ソ連の中距離ミサイルの削減への道も開けてくるからだ。よって、シュミットは中
距離核ミサイルの近代化に同意することにし、またそのかわりソ連の中距離核ミサイルの削減がSALT に含
まれることを前提とした24。
第4節
四カ国会議、SALTⅡと NATO「二重決定」
中性子兵器問題のときのような誤解が再び生じないように、シュミットは国家政府のトップが中距離核に
ついて話し合うことが必要であるといった。これには、新しいヨーロッパ戦略に早期に加わり、主導したいカ
ーター政権の目的にもかなっており、これに賛成した。
186
カーター政権期における米独関係
大西洋・西インド諸島のグアダルペで、ジスカール・デスタン仏大統領の招きにより、アメリカ(カーター大
統領)、イギリス(キャラハン首相)、西ドイツにより非公式のNATO 主要国首脳会談が開かれた。このグアダ
ルペ会談は、2 つの大きな意味を持っていた。1 つは、この種の首脳会談はそれまで、第二次大戦勝利国
であった西側「三大国」、すなわちアメリカ、イギリス、フランスでのみでもたれていた。だが今回ドイツが参加
することで、ドイツは西側の安全保障政策を考え、実行する上で同盟諸国にとって不可欠な存在であること
が認められ、首脳会談でも同等の位置を得ることができたのであった。もう 1 つは、後に NATO の「二重決
定」として現れた基本協定が議論されたのもこの会談であった。
この会談ではカーターはドイツの不安を理解を示し、この不安を取り除くためソ連のSS20に対抗してアメ
リカの中距離ミサイルをヨーロッパに配備する意向があると伝え、これについてカーターが他の三国に意見
を求めた。フランスのジスカールデンタンは、ソ連は全力で SS20 の配備をしていてすでに大きく優位に立
っているから、交渉にはじめからデッドラインを設け、一定の期限が経っても交渉が成果を生まない場合、
アメリカは中距離ミサイルを配備しなくてはならないことをソ連にはじめからわからせておくことが重要である
といった。シュミットは、これに同意したが、重要な条件を付け加えた。すなわち、彼は同盟諸国が公平に責
任を分かち合うという決定を支持はするが、ボンに独自の役割を与えられることには同意しないと言った。ソ
連との交渉がうまくいかなかった場合、ドイツも領域内の新規ミサイルの配備に協力するが、ヨーロッパにお
ける唯一の非核保有国であってはならないと主張したのである25。これは、西ドイツが他のどの国よりも国内
の核兵器集中度が高かったからであり、シュミットは他のヨーロッパ諸国にこれ以上の兵器配備を期待させ
るのではなく、まずソ連の核兵器の縮小を望んでいた。カーターは、アメリカがソ連と交渉する変わりに、ドイ
ツがはっきりと自国に新しい戦略核兵器を配置する意志があることを示すことを望んだが、シュミットはその
ような決定をする前に政治的な条件が整っていることが必要であると答えた26。
この時期、アメリカとソ連との間で SALTⅡ協定が署名される直前だった。この協定にユーロ戦略兵器問
題は含まれていなかったため、グアダルペ会談で「四大国」が決めた概略に沿って問題を対処することが、
超大国アメリカとしての任務になった。1979 年 6 月 15 日から 18 日にかけて、カーターはブレジネフと会談
し、SALTⅡ協定に署名した。シュミットは、カーターがグアダルペ協定の重要性を強調し、ブレジネフに警
告を与える機会を捉えていたものだと思った。しかし、同月26 日から 3 日間例年の西側経済首脳会議に出
席するためにシュミットが東京に向かう途中、モスクワを訪問し、そうではなかったことがわかった。彼は、ユ
ーロ戦略兵器についてロシアと話し合うつもりだったが、ロシア側は、カーターがウィーンでこの問題を取り
上げなかったし、また彼らも話し合う用意はないといったのである。後にシュミットは、彼が信頼していたバン
ス国務長官にこのことが本当かどうかを確かめたところ、そうであることを認めた27。これは、初めの SALTⅡ
が失敗に終わったあと、ソ連がアメリカに対して強気な姿勢で交渉に臨み、またカーター政権は早く交渉を
成立させたいという気持ちがあったからである。
それとは別に、同年 12 月 12 日には、中距離核問題で NATO 基本方針が確定された。これが、NATO
の「二重決定」である。コミュニケではそれは、「戦域核戦力の近代化と軍備管理からなる 2 つの、平行的で、
補完的なアプローチ」と表現された28。アメリカは 1983 年暮れから西ヨーロッパに中距離核ミサイルを配備
する、同時に SALTⅢにおいて中距離核の制限と削減の交渉を米ソ間で始めるという内容のものであった。
しかし、実際には INF 交渉は「二重決定」から 2 年後の 1981 年 11 月になって開始された。INF 交渉開
始が遅れた原因は、1979 年以降に東西関係が悪化したからであった。ソ連が 1979 年 12 月 27 日にアフ
187
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
ガニスタンに侵攻し、カーター政権は対ソ姿勢を一変したのである。
第4章
第1節
カーター政権期後半の米独関係
ソ連のアフガニスタン侵攻とカーター・ドクトリン
1979 年「二重決定」が NATO で採択された直後、ソ連がアフガニスタンに侵攻したとき、ヨーロッパ諸国
はこの出来事にアメリカがどのように反応するか不安を感じた。なぜなら、ヨーロッパ諸国はこれまで政治的、
経済的側面においてたくさんの恩恵を受けることができたデタントが崩壊することを恐れたからである。また
これは、ソ連のアフガン侵攻をどう捉えるかという戦略的問題でもあった。ヨーロッパは、これを冷戦の一部と
して捉えるよりも地域問題の出来事して捉えていた。そして、その地域問題に介入しないことが良い解決策
だとも考えていた29。
しかし、カーターは1980 年 1 月 28 日に発表した年頭教書、いわゆるカーター・ドクトリンでソ連を痛烈に
批判し、このような行動はペルシア湾へ力を拡大する前触れであり、アラビア半島における欧米諸国の石
油資源に対する脅威であると述べた。また「第二次大戦以来最も深刻な世界平和への脅威」に直面して、
カーターはアメリカが最強の国であり続ける、ソ連は侵略に対して「具体的な」代償を払わなければならない、
と公言した。すなわち、アメリカ沿岸でのソ連の漁業禁止、一部の農産物、ハイテク製品の禁輸、そしてアフ
ガニスタン占領が継続される場合のモスクワ・オリンピック不参加である30, 31。このようなカーターの対ソ政策
における姿勢の転換によって、SALTⅡ協定のアメリカ議会における批准も見送られることになった。
ヨーロッパ諸国はカーターが言うように、ソ連のアフガニスタン侵攻が欧米の経済に危険をもたらすもの
ではないと感じていたものの、ソ連側の安全保障における主張に注意し、ソ連政府の顔が立つ外交方法で
アメリカの怒りを沈め、この状況から脱する必要があると考えた。
またそのほかにもヨーロッパがアメリカ政府の行動に影響を与えるものとして懸念する要素があった。それ
は、1980 年末に控えている大統領選挙であった。ドイツが何よりも恐れたのは、この選挙がカーターをさら
に短絡的な行動へと駆り立てないかということである。シュミットは回想録の中で1979 年から 80 年にかけて
のカーターについて次のように述べている。「カーターが80 年 11 月の選挙の再選のチャンスに大いに頭を
悩ましていることが私にははっきりとわかった。外交政策が次第に短期的な内政上の効果をねらうものとな
っていった。イランの場合だけではない。対ソ連政策のほうがもっとその色彩が濃かった」32。
第2節
オリンピック・ボイコット
アメリカがオリンピック・ボイコットを表明した後、カーターは西側が共通した反応を示すよう努力していた
が、この反応について事前に同盟国政府の同意をとっていなかった。またこの間、アメリカはもしソ連との重
大な対立があった場合の、フランスのジスカールデンタンの信頼性を疑いだしていた。そのため、シュミット
はカーターにこういう危機のときにソ連とのコミュニケーションを断ち切らないでおく必要性を説き、またジス
カールに対するカーターの懐疑心が必要のないことを話した33。
日本、カナダを除く 5 カ国の外相レベルの協議は 1980 年 2 月最後の週にギムニッヒ城で行われたが、
これはすでに時期を失していた。2 月 11 日にカーターはすべての参加国に対して、私信の形でソ連に対
する制裁措置の詳細を 12 点にまとめて伝えていたからである。
シュミットは、強硬的な姿勢でブレジネフを後退させるよりも、次の2 つの点を守ることが重要だと考えた。
1 つは、ソ連に対し誤解の余地は一切与えることなく、アメリカが危機の克服のために力を投入する用意が
188
カーター政権期における米独関係
なくてはならないこと、もう 1 つはソ連を公然と晒し者にしてはならず、むしろ威信を失うことなくして自体をア
レンジする可能性を与えねばならないということである。
シュミットは事態が悪化しないために、信頼しているバンス国務長官と連絡を取り、同盟内部での意見調
整の改善が必要である点で一致した。しかし、話の過程でシュミットはアメリカの国務省とホワイトハウスの間
の意見調整がうまくいっていないことがわかった。
1980 年 3 月 5 日、シュミットはカーターと会談を行うが、ボイコットに関する問題に進展を見ることはなく、
またカーターのフランスに対する懐疑を晴らすことはできなかった。また一方的にボイコットを発表すること
でジスカールや自分自身、そしてそのほかのヨーロッパ諸国の首脳を困難な立場に追いやったことについ
ての意識がまるでなかったことにシュミットは憤慨した34。シュミットは、オリンピックが終わりボイコットが成功
し、それにもかかわらずソ連軍が変わらずアフガニスタンに留まっていたらどうするのかと聞くと、カーターは
ソ連がアフガニスタンから撤退するとは思わないと答えたという。もはやカーターは、選挙に勝利しなければ
ならないという自国の利害にばかり目を奪われて行動していた。見込みのない作戦のために、ドイツの首相
が国境の東側の同胞の死活的な利害を危険に陥れろというカーターの趣旨に、シュミットはこれ以上の譲
歩はしないことにし、アメリカが求めるソ連に対する通商制限もオリンピックに代わる競技会を開こうというア
イディアも拒否した。
アフガニスタン問題に関連するヨーロッパ諸国の分裂は、カーターの五輪大会ボイコット要請で最も明確
に現れた。イギリス保守党の首相、マーガレット・サッチャー夫人(1979 年 5 月からキャラハンの後任となる)
は、すばやくカーターの立場を強く支持することを発表した。シュミットはより慎重だった。彼は原則としては
ボイコットを表明していたが、ソ連にアフガニスタンからの撤退のサインを促す、より長い猶予期間を与えて
いたが、前述のようにうまくいかなかった。
しかし、いざモスクワ・オリンピックが始まるころになると、結局イギリスの選手たちがサッチャー夫人を無視
してモスクワへ行き、一方シュミットは不参加を表明、西ドイツの選手たちはそれに同意した。
第3節
メディア問題
1980 年 5 月、ドイツの保守系であり有力紙である『フランクフルター・アルゲマイネ』紙は、ユーロ戦略ミ
サイルに対するシュミットの姿勢の突然の軟弱化を非難する社説を掲載した。新聞は従来から、シュミット、
とりわけその党全体がソ連に妥協的過ぎる、と再三示唆してきた。しかし今回の批判に関しては、シュミット
は激怒し、新聞社に抗議した。このような論争の背後には、「(東西)両陣営が、ある一定の年数内は、新規
もしくは追加の中距離ミサイルの設置を中止し、その期間を交渉に費やすべきだ」と語った 4 月のシュミット
の公式声明があった。西側諸国の多くがシュミットの所見に当惑し、アメリカ政府の何人かが疑惑を持った。
西側はそれまでのところ、そのようなミサイルを所有していなかったが、シュミットは「両陣営」といったことに
誤解が生じた。彼はまた、およそ 3 年以内には NATO のミサイルも完備されると予想されていたにもかかわ
らず、「一定の年数」と語ったことも原因である。このため、多くの人々には、シュミットがその実現に主導的
役割を果たしてきた NATO の約定から抜け出そうとしているかのように思えたのであった。
しかし、本当のシュミットの発言の意図は違っていた。不明瞭な表現を使ったため、誤って理解されたの
である。これは、特にソ連に対して西側との会談を開始させるために、ミサイルの配備だけでも停止するよう
求めたものでそうでないと、新たな軍拡競争は避けられないであろうということだった。シュミットは、モスクワ
が面子を失わないでこの提案を受諾できるように、表現を意識的に抽象的にしたのだった。
189
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
しかし、『フランクフルター・アルゲマイネ』紙でもシュミットの演説内容を把握するのはむずかしかったの
であり、ましてや信号を送られていることをモスクワが理解するのは無理だった。内容を理解するや否や、モ
スクワは拒否した。
『フランクフルター・アルゲマイネ』紙との小競り合いからおよそ 3 週間後、シュミットは「驚くべき手紙」をカ
ーターから受け取った。カーターは、その中で、NATO のミサイルに関する決定を思い返させ、ボンの立場
を疑問視する新聞報道に言及していた。彼は、シュミットに対して 6 月 30 日および 7 月 1 日にモスクワで
開催される独ソ会談において、NATO の立場を損なわないようにと警告したかったのである。シュミットは怒
った。なぜなら、ベネチアにおいて6 月 23 日、24 日に開催される西側経済首脳会談でカーターと会う予定
だった。そして、彼はカーターがおそらく抱いているであろう疑問を解明するために、ミサイルに対するさら
に詳細な見解を、ワシントンに送ったばかりだったからである。
シュミットがモスクワを訪れた後も、モスクワが一向にアフガニスタンから撤退する気配を見せなかったこと
から、アメリカおよびボンのヨーロッパ同盟国の何カ国かは、独ソ間の首脳会談に対し、強い懸念を抱いて
いた。西ドイツの野党と一部の新聞もほぼ同様なことを言っていた。シュミットはその秋選挙を控えていた。
もしモスクワへの旅が失敗に終われば、彼の地位は容易に選挙で失われることだろう。しかし、それにもか
かわらずシュミットがモスクワ訪問の必要性を感じていたのは、アフガニスタン侵攻以来、超大国間同士の
話し合いがなされていないと判断したからだ。しかし、まさにこのような危機的状況にこそ、米ソ間の対話が
最も必要であるとシュミットは確信していた。対話がなければ誤算の危険がいっそう増大するだろうと考えて
いたのだ。さらに、モスクワは依然としてユーロ戦略ミサイル問題の交渉に同意をしていなかったのである。
6 月 30 日に、シュミットがソ連に対して「礼節をわきまえた口調ではあったが、クレムリンで行われたいかなる
西側指導者の演説の中でももっとも頑強な演説」をした35。翌日、ブレジネフは自分の立場を強め、ミサイル
交渉に臨む準備があることを明らかにした。1980 年 7 月 1 日以降、両超大国が原則的に交渉に臨むこと
になっていたが、実際の開始は 1981 年 11 月になってからであった。その日までモスクワは 750 基の弾頭
付き SS20 を 250 基配備したのである。
西側の大多数はシュミットのソ連に対する確固たる発言、および超大国が交渉に望む姿勢にまで持ち込
ませた努力を評価していた。しかし、アメリカはその協定がカーターが課した特別制裁措置を損なうことはな
かったものの、シュミット訪ソ中にボンとモスクワの間で長期経済協定が署名されたことを好ましくおもってい
なかった。
しかし、このような米ソ関係、そして米独関係の悪化は結局 1980 年の大統領選挙でカーターが共和党
のレーガンに敗退することで一応の終止符を打つ。
終章
本論文では、アメリカの世界観や対外政策が他国にどのような影響を与えるかを明らかにすると共に、安
全保障分野における米独関係を分析することが目的であった。
まず、SALT 交渉開始以降の米独関係を調べた結果、米独関係は極めて良かったことが判明した。ニク
ソン・フォードが力を入れていたデタントは、今までアメリカの対ソ政策に少しの修正を加えているものの、現
実的政策に根ざしており、まったく新しい戦略というわけではなかった。そのため、他の同盟国もその戦略を
受け入れやすかった。ドイツもアメリカの緊張緩和政策に同調し、東方政策によって東欧諸国との友好関係
を築き、それが最初の SALT にも大いに貢献した。
190
カーター政権期における米独関係
一方、カーター政権の世界観・対外政策は、ニクソン・フォードはもちろん従来の対ソ政策とはまったく違
ったものであった。カーター政権は、現在の国際社会はアメリカとソ連の二極支配ではなく、多極的な要素
によって構成されていると理解し、ソ連や中国、第三国などにおいて人権や民主主義を普及促進すること
がアメリカの役割であると考えたのである。しかし、この考えは、ソ連にはもちろん、ヨーロッパ諸国にも理解
されにくかった。なぜなら、世界は現実には依然としてアメリカとソ連の二極支配が続いており、欧米諸国は
自国の安全保障をアメリカに依然として頼らざるを得ない状況にあったからだ。そのころにはいくら西ヨーロ
ッパや日本などは経済的に大国になったとはいえ、明らかに政治的・軍事的パワーは小さかった。さらに、
中国は軍事力はあったが、それでもアメリカやソ連のようなパワーはもっていなかったのである。
本論文では、アメリカとドイツを巡るさまざまな問題を扱ったが、これらを通じて中性子兵器問題などシュミ
ットが個人的にどんなにカーターに対して怒りを感じても、なるべくアメリカと歩調を取ろうとしていたことがわ
かった。これは、ドイツが自国の安全保障をアメリカに委ねていることを象徴的に表している。しかし、一方
でニクソン・フォード政権期のデタントを通じてドイツもソ連や東側諸国と話し合いが可能になったことから、
シュミットはソ連にユーロ核戦略増強の懸念を示すことで自ら打開策を見つけようともしていた。アフガニス
タン侵攻前と侵攻後の米独関係の違いであるが、これはカーターが外交政策を変更したことによって、ます
ますドイツの不安が高まり、それによってドイツはアメリカとソ連との間を取り持つつもりでソ連と接触する機
会が多くなった。しかし、これはアメリカのドイツに対する不信を招き、事態はさらに泥沼化してしまった。
このようなことから、カーター政権期におけるアメリカとドイツの関係が終始うまくいかなかった最大の原因
は、アメリカとドイツにおいて対ソ政策における一致がみられなかったことにある。カーター独自の世界観お
よびアメリカが自国の安全保障に関してソ連からの直接的な脅威を感じなかったことにより、ヨーロッパの安
全保障にもあまり注意を向けることがなかったのである。また、これはアメリカが他国に勝る圧倒的なパワー
から常に世界全体を視野に入れて行動する必要性があるのに対し、ドイツは自国の安全保障を第一に考
えて行動すればよかったという違いが原因でもあるだろう。
Herbert D. Rosenbaum and Alexej Ugrinsky ed., Jimmy Carter, foreign policy and post-presidential
years (Westport, Conn. : Greenwood Press, 1994), pp.37-44.
2 The Richard Nixon Library & Birthplace ウェブサイト, First Annual Report to the Congress on United
States Foreign Policy for the 1970’s
(http://www.nixonfoundation.org/Research_Center/1970_pdf_files/1970_0045a.pdf).
3 Roger Morgan, The United States and West Germany 1945-1973, A Study in Alliance Politics (London,
1974), p.191.
4 ibid., pp.196-197.
5 ibid., p.234.
6 ジョナサン・カー『超大国のはざまで―西独の名首相ヘルムート・シュミット―』渥美桂子訳、芳仲和夫監修、メディア
ハウス出版会、1987 年、p.222
7 Herbert D. Rosenbaum and Alexej Ugrinsky ed., op. cit. , pp.37-44.
8 H・シュミット『シュミット外交回想録(上)』永井清彦・萩谷順訳、岩波書店、1989 年 p.252
9 Helga Haftendorn, Sicherheit und Stabilität, Außenbeziehungen der Bundesrepublik zwischen Ölkrise
und NATO-Doppelbeschluss (München, 1986) S.18.
10 シュミット、前掲書、p.251
11 Helga Haftendorn, Deutsche Außenpolitik zwischen Selbstbehauptung und Selbstbeschränkung
(München, 2001) S.274.
1
191
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
佐瀬昌盛『NATO ―21 世紀からの世界戦略―』文藝春秋、1999 年 p.113
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(http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/april/7/newsid_2523000/2523051.stm).
14 カーター、前掲書、p.345
15 カーター、前掲書、p.367
16 Alexander Moens, Foreign Policy Under Carter, Testing Multiple Advocacy Decision Making (Westview
Press, 1990), P.71.
17 Haftendorn, a.a.O. Sicherheit und Stabilität, Außenbeziehungen der Bundesrepublik zwischen Ölkrise
und NATO-Doppelbeschluss, S.23-24.
18 佐瀬、前掲書、p.117
19 シュミット、前掲書、pp.262-263
20 Haftendorn, a.a.O. Sicherheit und Stabilität, Außenbeziehungen der Bundesrepublik zwischen Ölkrise
und NATO-Doppelbeschluss, S.29.
21 Alexander Moens, op. cit. , p.73.
22 カーター、前掲書、p.350
23 Haftendorn, a.a.O. Sicherheit und Stabilität, Außenbeziehungen der Bundesrepublik zwischen Ölkrise
und NATO-Doppelbeschluss, S.106.
24 Haftendorn, a.a.O. Sicherheit und Stabilität, Außenbeziehungen der Bundesrepublik zwischen Ölkrise
und NATO-Doppelbeschluss, S.117.
25 カー、前掲書、pp.226-227.
26 Haftendorn, a.a.O. Deutsche Außenpolitik zwischen Selbstbehauptung und Selbstbeschränkung,
S.281.
27 カー、前掲書、p.228.
28 NATO ウェブサイト, Special Meeting of Foreign and Defence Ministers
(http://www.nato.int/docu/comm/49-95/c791212a.htm).
29 Herbert D. Rosenbaum and Alexej Ugrinsky ed., op. cit. , p.20.
30 Jimmy Carter Library and Museum ウェブサイト, Selecter Speeches of Jimmy Carter; Jimmy Carter
State of the Union Adress 1980 (http://www.jimmycarterlibrary.org/documents/speeches/su80jec.phtml).
31 シュミット、前掲書、p.280
32 シュミット、前掲書、p.279
33 シュミット、前掲書、p.279
34 シュミット、前掲書、p.286
35 カー、前掲書、p.237
12
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193
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岸本和歌子
去年の夏、「卒論は今までの大学生活の集大成。がんばってね」と、大学をすでに卒業している友人が言ってくれた。
確かに卒業論文は、自分がこれまで大学で蓄積した知識やノウハウというものを活用し、文に表すものである。さらに、
卒業論文は今まで自分が大学での勉強を通じて疑問に思ったことや関心をもったことを明らかにすることのできる絶好
のチャンスである。
全部で私は大学生活を 5 年間過ごした。3 年からアメリカ政治の久保ゼミに入り、また 4 年の秋学期からは交換留学
生としてドイツのベルリン自由大学で一年間勉強した。だから、「大学生活の集大成」である卒業論文のテーマに自然と
米独関係を選んだ。そして、アメリカの対外政策がどの程度ドイツの安全保障に影響があるのかということを分析したい
と思ったわけだが、それには 2 つ理由がある。ひとつは、ゼミでアメリカの対外政策における歴史、大統領の対外政策
における権限、イデオロギーなどを学ぶことによって関心がでてきたこと。もうひとつは、ドイツが自国の安全保障のため
に、アメリカを通じてどのような対外政策を行っていたのかということに疑問を感じたからである。
夏に留学から帰国し、それから卒論の準備に着手し始めたため、他のゼミ生よりも出遅れていたが、それでも最終提
出日には間に合うことができた。論文作成にあたって特に気をつけたことは、何を明らかにしたいかということをはっきり
させることだった。なぜなら、二国間関係だと出来事の流れを追うだけで論文が中途半端に終わってしまう恐れがあると
思ったからだ。また構成にも注意した。論文がわかりやすく、説得力のあるものにするためには構成がとても重要である
と考えるからであり、そのために論文を実際書き始めるまで何度も構成を練った。これらは、論文においても良く表れて
いるのではないだろうか。
一方、反省点もある。文献についてだが、カーター政権期における米独関係についての文献を入手できなかった。
そのため、研究史での位置づけが満足に行われているとはいえない。また、これは時間との問題でもあったのかもしれ
ないが、集めたデータをすべて研究のためにうまく処理し、活用するのに多少手間取ってしまったところがある。
このように、卒業論文は「大学生活の集大成」ではあるが、作成過程でも学ぶことが数多くあった。これから社会にで
れば、アカデミックな論文を書く機会はなくなるのだろうが、論文を書く過程で身に着けた論理的思考や情報収集など
の知識は十分に活かされるだろう。
卒業論文を書いたことは、自分にとって大学生活の良い締めくくりともなり、大変良かったと思っている。最後に、卒
業論文執筆にあたって貴重なアドバイスをして下さった久保先生に御礼を申し上げたい。
岸本和歌子君の論文を読んで
【内藤仁美】
この論文の素晴らしさは、何よりも骨子がしっかりとしているところだと思う。序章において、本論文で明らかにしたいこ
と、分析の進め方、各章の概要が明確にされていた。
そして、その方向性が一貫してきちんと終章までつながっているのが分かった。構成の段階で熟慮を重ねたであろう
ことが、読み手にも伝わってきた。それくらい最初から最後まで読みやすい論文であった。
また、米独関係から踏み込んで政治的駆け引きを行う個人プレイヤーにフォーカスした点は非常に面白いと思った。
第 1 章における、モラリストのカーターとリアリストのシュミットの対比はわかりやすかった。彼らの政治的バックグラウンド
や周辺の人物に言及されていたので、いかにカーターとシュミットが違うタイプの政治家であったのかが理解できた。
しかし、序章で示されたような、アメリカとドイツの「超大国」と「中小国」としての役割という点については、あまりはっき
りと見えてこないままだったように感じた。特に、ドイツが「中小国」としてヨーロッパの中でどんな役割を演じていたのか
もう少し言及が欲しいところである。
また、第 2 章では ICBM や SALT などミサイルに関する問題が登場するのだが、他の章と比べてやや読みにくい印
象を受けた。もちろん戦略兵器などについて専門的な話になってしまうのはやむを得ないのだろうが、その問題が米独
関係においてどれほど重要なことであったのかについて、世界情勢も踏まえた上での岸本さんなりの見解が欲しいと感
じた。
第 3 章の第1 節で、カーターがハト派からタカ派へ姿勢を転じたとある。ここは国際政治的にも重要な転換点といえる
ので、その経緯についてより詳しい説明が必要であるように思った。
終章では本論文で明らかにしたいとされていた 3 つのことに触れられている。3 つの問題について順にきちんと説明
がなされているが、物足りない印象も受けた。というのも、最後が「ドイツはアメリカとの間に誤解が生じてでも一国で自
国の安全を守るためにどうにかして米ソ関係を取り繕うしか手段がなかった」という終わり方に対して、もう少し根拠となる
ものが欲しいと感じられたからである。
正直、欠点を探すのが困難な論文でした・・・。
改訂して、さらに素晴らしい論文にして下さい。楽しみにしています。
【髙木理絵】
世界の歴史上、アメリカの歴史上において、大変重要、そして大きな転換点となった冷戦を米ソ関係のみに注目せ
ずに、ドイツを取り入れ、当時の米独関係を見ていくのは大変面白い。米独関係を見ることによって当時のアメリカ、ドイ
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カーター政権期における米独関係
ツ、そしてソ連の状況を掴むことが出来、全体像を捉えることが出来た。全体的に、序章に明示られている論文によって
明らかにしたい 3 点、対ソ政策においてどのような点でアメリカとドイツの間で不一致が生じたのか、どのような条件が整
ったときドイツとアメリカの対ソ政策決定過程にかかわることができるのか、どのような時にドイツはアメリカの対ソ政策に
影響を与えることができないのかが 3 つの章を通して明らかになっており、終章で大変上手くまとまっていた。
序章はとても上手く書かれていた印象を受けた。論文を通して明らかにしたい点が 4 点に絞られ、何を読者に伝えた
いか、読む側が何を求めていいか、何を学べることが出来るかが解かりやすかった。本論分のオリジナリティーが書か
れていることによって、他の研究書などとの異なる点、本論分の意義も感じとらえられた。そして、各章の扱う内容を事
前に軽く触れておくことによって、各章が読みやすくなって良かった。第 2 章には米独関係を理解する上で重要となる 2
人の重要人物カーター大統領とシュミット首相の特徴と背景を詳しく取り上げていることによって、アメリカそしてドイツの
外交政策の方針の下が見られる。第 2 章はこの論文において最も重要な部分となっている。カーター大統領とシュミット
首相の相違点、そしてどの様な食い違いがあり、政策をとっていったかが明記されている中、様々な観点からそれを見
ているのが面白い点である。大変内容が濃い、重要な章であるので、専門的な内容や単語が多く含まれているので、
少し解りにくい部分があったようにも感じた。ICBM などの専門用語の説明も行うとより良いであろう。そして SALT I、
II、III の内容を一つ一つ書くのも良いのではないだろうか。第 3 章はカーター大統領のとった政策によってドイツがそ
れに対してどの様な対策をとったか、カーター大統領とシュミット首相の関係、米独関係結末によって、まとまりを感じる
ことが出来た。
終章で述べられていた様に、米独の食い違いがあるにも、ドイツは自国の安全を守るために必死に米ソ関係とりかか
らざるを得ず、この様な結果となったかが最後に上手く結論付けられていた。
全体的に大変読みやすく、解りやすい論文で、勉強になった。
【緒方隆】
この論文の長所として、わかりやすく比較されていることが挙げられます。ソ連を意識した政策において、ドイツのシュ
ミット、アメリカのカーターが人物的にも政策的にもほぼ正反対にあることがわかりました。アメリカの勉強をしてドイツ留
学を経験したことで、このテーマに気付いたのだと思います。第1 章では思想的な対比、第 2 章で政策的対比を研究し、
第 3 章では、アメリカの外交政策にドイツがどのような形で関わっていこうとしていたのかが読み取れる論文でした。うま
く比較されていることで読みやすい論文となっています。
個人的に興味を引いたのが、カーターの外交政策の転換でした。大統領選挙が近づくにつれて明確になっていく対
ソ強硬政策についてです。オリンピックボイコットなどの強硬手段によって国内支持を得ようとしたカーターですが、むし
ろオリンピックを利用して対話を図るべきであったと私は考えました。ある意味、オリンピックは対話の絶好の機械でもあ
ったと考えられます。
改善点としてまず考えられるのは、岸本さんなりの分析が少なかったことだと思います。全体的に主要な論争が取り
上げられており、軍事的にドイツがアメリカをどれほど必要としていたかは理解できます。しかし、ドイツがアメリカと接近
することを他の国がどのように考えていたのかなど少しでも分析すべきではないでしょうか。戦略的視点からはヨーロッ
パ諸国への影響は書かれていましたが、それらの政府の考えを少しでも書くことで、より一層アメリカの外交政策の影響
がつかめると考えます。
次に、できるだけごく説明の注をつけることが挙げられます。引用についての注は十分だと思います。しかし、「ヨーロ
ッパの戦域核の不均衡」問題やグアダルペ会談については、どのようなものかをある程度説明するべきでしょう。特にグ
アダルペ会談は、どのようなことを話し合う目的でどの国が参加して、どのような決定がなされたかをある程度まとめても
らいたいものです。
そして、NATO の「二重決定」ですが、一応国際政治の授業で習ったとはいえ、これだけの大きな問題ですから何が
二重決定だったのかまで言及すべきでしょう。せっかく別個に取り上げていたのである程度深くまで突っ込むべきだと
思いました。
全体的にすばらしい論文だったと思います。この論文は、アメリカ大統領選挙の重要性についても実感できるもので
す(笑)。カーターの焦りが良くわかります。2 月の最終稿に岸本さんの鋭いゲルマン魂のこもったラスカル的分析が述
べられていることを期待して待っています。
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