「牛馬毛」門の研究

氏
名
アントニオ・マニエーリ
学
位
博士(日本言語文化学)
学 位 記 番 号
博甲第 96 号
学位授与年月日
2012年 9月 15日
審 査 研 究 科
外国語学研究科
論 文 題
『和名類聚抄』「牛馬毛」門の研究
―古代日本文化における馬の毛色名―
目
論文審査委員
(主査)大 東 文 化 大 学 教 授
藏中しのぶ
(副査)大 東 文 化 大 学 教 授
寺 村 政 男
(副査)大 東 文 化 大 学 教 授
大 月
実
(副査)イタリア国立サレント大学教授 マリア・キアラ・ミリオーレ
アントニオ・マニエーリ 博士論文 審査報告
アントニオ・マニエーリ氏は平成16年7月イタリア国立サレント大学外国語学部翻訳・通訳学
科を卒業し、同年9月イタリア国立サレント大学大学院外国語学研究科翻訳学科に入学、同18年
12月イタリア国立サレント大学大学院外国語学研究科翻訳学科を修了、同19年日本国・文部科
学省国費奨学生(大東文化大学推薦)の厳正なる審査に合格して、同19年10月大東文化大学大学
院外国語学研究科日本言語文化学専攻博士課程前期課程に入学、同21年9月同課程を修了、同2
1年10月大東文化大学外国語学研究科日本言語文化学専攻博士課程後期課程に入学し、現在、3年次
に在籍中である。
博士学位申請論文「『和名類聚抄』「牛馬毛」門の研究―古代日本文化における馬の毛色名―」(以
下、本論文と略称)に関わる研究論文として12本の論考があり、これらの研究業績を基礎として、本
論文を執筆し、提出するにいたった。
1.論文の要旨およびその特色
本論文は、第一に、日本古代における色彩表現の用例をコーパス言語学の手法で幅広く収集分析し、
さらに第二に、『和名類聚抄』「牛馬毛」門にみられる牛馬の毛色の表現を中心に諸問題の検討を行な
った優れた文献学的な研究である。
本研究の主たる対象となる『和名類聚抄』は、日本最初の分類体の漢和辞書であり、平安時代承平年
間(931-938)醍醐天皇皇女勤子内親王の命によって源順が撰述した。掲出語(漢語)の語義を漢文で注
し、和訓を万葉仮名で付し、漢籍・和書を博捜して考証・注釈を加える。『和名類聚抄』諸本を対照し
、「牛馬毛」門の引用書目について精密な文献学的な出典考証をおこなった結果、引用漢籍『爾雅注』
『説文』『毛詩注』等には牛馬毛の名称が数多く見え、中国の毛色名の語彙系統の影響が『和名類聚抄
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』にも影響を与えたことを論じた。また、引用和書である奈良時代の実用的な口語辞書とされる『弁色
立成』『漢語抄』『楊氏漢語抄』について、馬の毛色名のもつ律令的な性格を検証しえた。
本論文は、日本における馬の毛色名が、『和名類聚抄』以降、軍馬が頻出する中世の軍記物語におい
て大きく発展し、近世には馬の毛色を解説する絵入り版本『驥毛図解』を生みだすようになるまでを視
野に入れ、日本の馬の毛色名の文学史を構築するための基礎的研究であり、『和名類聚抄』「牛馬毛」
門が、日本における馬の文化の総体を把握するうえで不可欠の史料であることを提示したものである。
2.論文の審査内容および評価
本論文は、つぎの五章および終章・付章から成る。
第一章 古代における牛馬の毛色名
第二章 『和名類聚抄』「牛馬毛」門の本文
第三章 『和名類聚抄』「牛馬毛」門の引用漢籍
第四章 『和名類聚抄』「牛馬毛」門の引用和書
第五章 「源順馬毛名歌合」における馬の毛色名
終
章
付
章 中古・中世文学における毛色名の用例
第一章「古代における牛馬の毛色名」では、佐竹昭広氏等の先行研究を踏まえ、古代における牛馬の
毛色名として、基本色名である「赤」(「赤駒」)、「黒」(「黒馬」「黒駒」「黒牛」)、「青」「
白」(「青馬」「白馬」)、基本色名ではない「黄」(「黄牛」)「斑馬」の用例収集し考察を加えた。
さらに、中古・中世の日本古典文学作品における馬の毛色名の用例を収集し、上代から中世にいたる色
彩語の傾向と変遷について検討した。その結果、上代の馬の毛色の表現は、基本色彩語「赤」「黒」「
青」が大半を占め、例外として、模様を表す特殊な毛色名に「大分青馬」(『万葉集』二例)、「斑馬
」(『古事記』一例)があるのみである。これに対して、平安時代に入ると、基本色彩語のみならず、
「毛」という語の前に具体的な事物を冠した「アシゲ」「カゲ」「ツキゲ」のような「色彩語+毛」の
語彙使用頻度数が増大する。馬の毛色名を表現するこの形式は、平安朝以降、ますますさかんになり、
軍記物語ではより複雑な様相を呈すること、平安時代前期が毛色名の画期であることを論じた。
色彩語と実際の色との間には、当然ずれが生じる。色は、科学や技術の進歩によっても変化する。漢
語の「青」の概念は、日本語で表現すれば「黒」に近い。例えば、「青衣」は召使の女性が着る黒色の
着物の色を表し、「女性の召使」の意味を持つ。したがって、「青馬」は黒色に近い馬と考えられる。
「黒馬」「黒駒」の相違は明度の相違とする伊原昭氏の説に賛同し、さらに詳しい分析を行っている。
また、「大分青馬」を斑点模様のある「青馬」と解するのは卓見であろう。
また、「赤」は漢語においても些か厄介な語で、現代漢語では「赤裸」「赤脚」「赤子」「赤貧」等
、何も身にまとわぬことをさす。例えば、「赤脚」は裸足となる。色彩語としての日本語の「赤」は、
漢語では「紅」で表す。中古漢語の資料から「赤」に関する語彙をあげると、「赤」が色彩を表す語と
して用いられている。例えば、「赤烘」(因話録)は赤い色を表す。しかし、「赤」の使用例を分析す
ると、すでに現代漢語の「赤」の機能に近いものが主流である。「赤駒」も「赤烘」と同じく、熟語と
して定着をしているものと考えた方がよいのかもしれない。
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日本古典文学作品の多種の文献に跨るコーパスを渉猟したデータの採取と提示は、今後の研究に大き
な示唆を与えるものであり、資料的な価値が極めて大きい。特に、上代・中古・中世文学における毛色
名の出現頻度の統計を取り、一覧表の形で纏めて示したことは、今後この分野を研究する者にとっても
有用である。実際の色については、いまだ結論は出ていないが、『Basic Color Terms(基本的色彩語)
』の理論を駆使して得た方法論の成果は、将来の解明への手がかりとなろう。
第二章「『和名類聚抄』「牛馬毛」門の本文」では、『和名類聚抄』の伝本として伊勢広本・天正本
・元和三年古活字本・名古屋市博物館本・伊勢本・前田本・狩谷棭斎箋注本・天文本の八本について本
文の異同状況を調査し、訓読文を示すとともに、基礎的な本文校訂をおこなった。その結果、やや特殊
な本文をもつ天文本を除いて、「牛馬毛」門の本文の異同がきわめて少ないことを確認した。これによ
って、文献学的な研究のための基礎的作業を緻密におこない、研究の基礎を築いた。
第三章「『和名類聚抄』「牛馬毛」門の引用漢籍」では、『爾雅注』『毛詩注』『唐韻』『説文解字
』『宜都記』の引用例を精査した。本文を比較したところ、ほぼ一致するが、『説文』からの引用は、
源順が『説文』の用例を加工して『和名類聚抄』に引用していること、また、唯一例の佚書『宜都記』
は、類書『芸文類聚』からの間接引用であることを手堅く実証した。さらに、漢籍の動物の毛色名と比
較した結果、源順は『爾雅注』『説文』等に収録された中国古代の馬の毛色名の語彙体系を認識してお
り、中国の字書・類書・注釈書の項目を抽出して「牛馬毛」門を編纂したことをあきらかにした。
いずれも、文献学の精緻な方法を駆使した堅実な論証であり、『和名類聚抄』「牛馬毛」門の編纂手
法にかかわる考察は大変興味深く、導き出した結論は妥当である。
第四章「『和名類聚抄』「牛馬毛」門の引用和書」では、奈良朝の実用的な口語体辞書『漢語抄』『楊
氏漢語抄』『辨色立成』が引用和書の大半を占めることを指摘、「牛馬毛」門の語彙と奈良時代の木簡
(過所・解・牒・告知札)と正倉院文書、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の用例を比較検討した結果
、両者が一致する十例「鹿毛」「黒毛」「赤毛」「栗毛」「斑」「青毛」「黒鹿毛」「鼠毛」「川原毛
」「鴉毛」を検出した。これらの毛色名は、漢籍や『万葉集』等の文学作品には用例がなく、毛色名が
みられる史料は、いずれも実用的な性格を持つ下級官人層が扱う文書類であることから、牛馬の毛色名
は、牛馬の個体の弁別のために毛色名を重視する律令を背景とするもので、実際に律令を現場で運用す
る下級律令官人層の必要性から『漢語抄』『楊氏漢語抄』『弁色立成』等に採録されたと論じた。
牛馬の毛色名は区別・分別の必要性にあるとの認識にもとづき、それを必要とする律令官人の文章の
痕跡の一つである木簡に着目した点は秀逸である。文学作品のみならず、近々発掘された木簡資料をも
資料として十分に使いこなした点は、高く評価される。今後さらに、該当語彙の例をもつ可能性のある
律令関係の資料についても調査分析に進まれることを望みたい。
第五章「「源順馬毛名歌合」における馬の毛色名」では、康保三年(967)源順五五歳の自歌合「馬毛
名歌合」の毛色名を、『和名類聚抄』「牛馬毛」門と比較した。「馬毛名歌合」は馬の毛色二十種を十
番の歌合につがえ、判歌一首を加えた自歌合である。馬の毛色名を和歌に詠みこむ名前尽くしの趣向で
、馬の毛色を主題として詠じるのではなく、馬の毛色と同音の語を詠みこむことば遊びの歌合である。
「馬毛名歌合」の毛色名十九例のうち、漢字表記の十三例は『和名類聚抄』「牛馬毛」門の毛色名と
一致し、その大半が『漢語抄』『楊氏漢語抄』『辨色立成』の語義、または「俗」の注記であること、
「馬毛名歌合」の仮名表記はすべて意訳形式の和訓であることから、「馬毛名歌合」は『和名類聚抄』
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「牛馬毛」門を補完する文学的発展であると位置づけた。
また、「馬毛名歌合」に先行する和歌に考察を加え、『万葉集』に詠まれるのは「赤駒」「黒馬」「
青馬」のみであることから、奈良時代には「○○毛」という毛色名はみえず、馬の毛色名は歌語的な性
格を持たなかったが、平安時代前期、凡河内躬恒の『躬恒集』には「むまのけ」七首歌があり、源順は
躬恒の「むまのけ」七首歌と「論春秋歌合」の影響によってこの歌合を制作したと論じた。
文学史的には深く論じられることのなかった源順の「馬毛名歌合」に注目し、これを『和名類聚抄
』と関連づけて、文学史的な位置をさだめた点は、高く評価される。源順の和漢にわたる学問と文学活
動の密接な関係を提示しえたことは、今後の和漢比較研究に新たな視座をもたらす成果といえよう。
終章では結論を総括し、付章「中古・中世文学における毛色名の用例」では、中古・中世日本文学に
みられる馬の毛色名を収集して一覧を付した。
研究の展望としては、本論文で集積した色彩語のデータの含意するところを更に検討することで、新
たな問題群の発見に繋がる可能性が期待される。例えば、上代日本語の四つの基本的色彩語(赤、青、
黒、白)を含む毛色名のうち、赤を含むものが中古では一例のみ、中世では皆無であるが、これは「赤
・赤毛」が「鹿毛」「葦毛」に取って代わられたためと結論づけている。しかし、他の毛色名は、中古
・中世においても引き続き使用されるのに対して、何故に、赤の場合に限ってそのような交代が発生し
たのかという理由については、さらなる究明の期待される興味深い問題である。その解明を通して、資
料間の量的な差異が、質的な意義を持ってくるであろう。また、アルタイ諸語・ツングース諸語への論
及もあり、特に、モンゴル族・満洲族は騎馬民族でもあり、牛馬の分別に繊細な面を持っている。漢語
・蒙古語の対訳集である『韃靼訳語』や、漢語と満洲語他の対訳集『五體清文鑑』等も参看し、日本の
みならず、欧米の日本研究にも資するべく、さらに研究を発展させてゆくことを大いに期待する。
以上、本論文は、さらなる補足の望ましい箇所も部分的にはあるものの、上代から中世にいたる日
本古典文学の馬の毛色名を通時的に俯瞰し、『和名類聚抄』に焦点を絞って精緻な文献学的考証を
行った。全体としては、従来取り上げられることのなかったテーマについて、統一的・体系的に追究し
た研究であり、そこに大いなる先駆的価値が認められる。非漢字圏に育ったマニエーリ氏にとって、こ
れらの研究テーマは相当に重いものであったと推測されるが、難解な文献や木簡などの新出史料に果敢
に挑み、みごとに200頁を超える論考に纏めあげた努力もまた、高く評価したい。
3.結論
以上の審査内容、評価に基づき、本論文を審査対象とする学位論文審査院会は、全員一致をもって、
本論文は博士(日本言語文化学)の学位を授与するに値するものと判断し、ここに報告する。
以
上
◇参考・副査の審査評
1.寺村政男教授
アントニオ氏の博論は『和名類聚抄』を中心とする上代日本語の牛馬の毛色名を中心に、コーパス言
語の手法を用いて、『和名類聚抄』「牛馬毛」門に着目し、文献学の出典論・源泉論の手法によって、
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「牛馬毛」門は日本文化における馬の毛色名に関しては、漢名および和名、文言の漢文および漢語口頭
語(中古漢語)、歌語および律令にかかわる語彙を収録し、貴重な資料であることを指摘し、その様相
をあきらかにするのを目的としている。
非漢字圏に育ったアントニオ氏にとって、これらの研究テーマは相当重いものであったと推測される
が、氏は見事に200頁を超える論考に纏めている。
本論文に対して中古漢語の視点より講評を加えたい。
色彩語と実際の色との間には、当然ずれが生じる。色と言うものは、化学の進化や技術の向上により
変化してゆく。例えば、陶器を例にとっても、「青」が見事な発色を見せるのは、西方よりコバルトの
輸入が盛んになる元以降の事であるし、黄河の「黄」と、現代人が認識している「黄色」とは、随分差
がある。むしろ別物と考えてもいい。中流域にある黄土地帯を経由した「黄河」は、現代では、むしろ
「こげ茶色」に近い色である。
また、アントニオ氏の着目点の鋭さは、牛馬の毛色は「区別」「分別」の必要性にあるとの認識に基
つき、それを必要とする律令官人の文章の痕跡の一つである、木簡に着目した点にも表れている。文学
作品のみならず、近々発掘された木簡資料も、資料として十分に使いこなしている。今後は更に該当語
彙の例がある可能性のある律令関係の資料にも調査分析に進まれることを望みたい。
氏の視野の広い論述の展開はアルタイ諸語、ツングース諸語への論究もあり、今後も研究成果が大い
に期待される。特にモンゴル族満洲族は騎馬民族でもあり、牛馬の分別に繊細な面を持っている。漢語
・蒙古語の対訳集である『韃靼訳語』や、漢語と満洲語他の対訳集『五體清文鑑』には、氏の利用でき
る資料が多く載せられている。今後の氏の研究の発展を望みたい。
以下二点ほど、中古漢語から見た氏の見解に触れておきたい。
○青馬
漢語において「青」の概念は、日本語で表現すれば「黒」に近い。例えば「青衣」は召使の女性が着
る黒色の着物の色を表し、「女性の召使」の意味を持つ。したがって、「青馬」は黒色に近い馬と考え
られるが、「黒馬」「黒駒」との相違は明度に関する相違とする伊原昭氏の説に賛同し、詳しい分析を
行っている。また、用例は少ないが「大分青馬」を斑点模様のある「青馬」とするのは卓見であろう。
○赤駒
赤は漢語においても些か厄介な語で、現代漢語では「赤裸」「赤脚」「赤子」「赤貧」など何も身に
まとわぬことを指す、例えば「赤脚」は裸足となる。漢語では、色彩語としては日本語の「赤」は漢語
では「紅」で表す。
中古漢語の資料から「赤」に関する語彙を収集してみると、「赤」が色彩を表す語として用いられて
いる事も解る。例えば、「赤烘」(因話録)は赤い色を表す。しかし、「赤」の使用例を分析してみれ
ば、すでに現代漢語の「赤」の機能に近いものが主流である。「赤駒」も「赤烘」と同じく、熟語とし
て定着をしているものと考えた方が好いのかもしれない。
アントニオ氏は、コーパスの手法により、相当数の用例を分析している。実際の色については、いま
だ結論は出ていないが、『Basic Color Terms(基本的色彩語)』の理論を駆使して得た方法論の成果は
、将来の解明への手がかりとなろう。
2.大月実教授
アントニオ・マニエーリ氏の学位申請論文は、特に日本古代における色彩表現のうち、牛馬の毛色の
表現を中心に諸問題の検討を行なった優れた文献学的な研究である。とりわけ、多種の文献に跨るコー
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パスを渉猟したデータの採取と提示は、今後の研究に大きな示唆を与えるものであり、資料的な価値が
極めて大きいと言えよう。
特に上代・中古・中世文学における毛色名の出現頻度の統計を取り一覧表の形で纏めて示したことは
、今後この分野を研究する者にとっても有用であると考えられる。研究の展望としては、このデータの
含意するところを更に検討することで、新たな問題群の発見に繋がる可能性がある。例えば、上代日本
語の四つの基本的色彩語(赤、青、黒、白)を含む毛色名のうち、赤を含むものが中古では一例のみ、
中世では零になっているが、これは「赤・赤毛」が「鹿毛」・「葦毛」に取って代わられたからだとい
う。ただ、他の毛色名の場合は中古・中世においても引き続き使用されているのに対して、何故に赤の
場合に限ってそのような交代が発生したのかは、更なる究明の期待される興味深い問題である。その解
明を通して資料間の量的な差異が質的な意義を持ってくるであろう。
また、『和名類聚抄』「牛馬毛」門の漢字表記された毛色名を、その使用された語彙の意味により類
別して示すとともに、万葉仮名表記の和名をすべて取り上げて検討したことも、その語義解釈とともに
、意味的な研究の基礎づけとしての意義が認められるものである。
さらに、今後の研究成果の最も期待されるのは、「源順馬毛名歌合」における馬の毛色名である。馬
の毛色名と同じ音の言葉を掛詞として詠み込んだ、ことば遊びの歌合として、毛色名という範囲を超え
て、文学史的にもより大きなテーマへの発展可能性が内蔵されているからである。
なお、本論文で示された毛色名の解釈は、意味論的には更なる検討の望ましい項目も見られる。例え
ば、「青馬」の指示的意味の分析は、譬えられている「鴨の羽の色」が一義的に特定される訳ではない
ので、他の可能性も検討したうえで論考することでより説得力が増すであろう。
当論文は、更なる補足などの望ましい箇所も部分的にはあるものの、全体としては、従来取上げられ
ることのなかったテーマにつき統一的・体系的に追究・論考した研究であり、そこに大いなる先駆的価
値が認められるものであると言えよう。
3.マリア・キアラ・ミリオーレ教授
アントニオ・マニエーリ氏の学位申請論文は、出典考証に基づく文献学的な研究で、その成果はいろ
いろの場面を通して、欧米で行われている日本学のためにも優れた研究である。
まず、古代日本語における色彩名の諸問題に関しては、厖大なデータを収集し、解析した。それは、
日本の古代文学の欧米諸語翻訳のために、必要な成果を示している。日本語の翻訳に際して、色彩名は
非常にむずかしい。特に、日本の色彩名は、欧米のそれとは大きく異なっているからである。それは例
えば、これから行なわれる『万葉集』のイタリア語訳にとっても非常に貴重な研究である。
なお、古辞書の『和名類聚抄』については、欧米の日本学では、まったく研究が行われていない。古
辞書である『和名類聚抄』に、これほど多くの毛色名が含まれていることは、驚きに値する。
本論文は、まさにユニークであり、創意に富む研究である。
文学史的にみて、馬の毛色名は、平安中期に大きな変化を生み、具体的な事物の名称を冠した毛色名
+毛の形式の「○○毛」という毛色名が増大するという指摘は、日本文学史の流れを考えるうえでも、
大変興味深い。なぜ、平安時代に、このような大きな変化が生じたのか。もっと深く追究してもらいた
い。
また、『和名類聚抄』「牛馬毛」門に引用された漢籍『爾雅注』『説文』等から、中国の馬の毛色名
が早期に出現し、発達し、幅広い語彙体系をなした。そのために中国には毛色名の語彙が多く、源順は
それを知って、『和名類聚抄』「牛馬毛」門を編纂したとする点は、日中比較文学・比較文化を大きく
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とらえ、文化事象を総体的に視野にいれた欧米人らしい見解である。日本の日本文学研究は、もっと大
きな視野をもたなければならない。
「牛馬毛」門に引用された和書『漢語抄』『楊氏漢語抄』『弁色立成』の毛色名は、奈良時代の律令
用語としての性格を有し、実際に現場でそれを運用する下級官人層の要によって採録されたものである
という指摘も優れている。『和名類聚抄』が引用する『漢語抄』『楊氏漢語抄』『弁色立成』の実用的
な性格として、下級官人層が扱う文書類に共通する語彙が多く見いだされたことも、奈良朝の「実用的
な口語辞書」の性格をあきらかにした成果もすばらしい。
欧米の日本学では、今まで研究されていなかった『和名類聚抄』に関しては、本論文が、まさに初め
てのユニークな創意に富む研究であるといえよう。
また、「馬毛名歌合」について、若い頃の源順が編纂した『和名類聚抄』「牛馬毛」門の文学的な発
展として位置づけた点は、古代日本における「学問」と「文学」について、欧米の日本学においても興
味深い議論を開始できる。
古代の日本文化における研究が非常に少ない欧米の日本学において、本論文は、先駆的価値が認めら
れ、必要性の高い研究として高く評価できるであろう。
サレント大学の卒業生であるアントニオ・マニエーリを国費留学生として受け入れ、博士学位を申請
するまでに育ててくださった大東文化大学外国語学研究科の先生方、日本言語文化学専攻の先生方に、
心よりの感謝を申し上げる。
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