뺷万葉集뺸における叙景と鳥 -赤人の鳥の歌をめぐって40) 朴喜淑* <目 次> 1. はじめに 2. 巻六の九一九、九二四、 九二五について 3. 뺷万葉集뺸の鳥と赤人 4. 赤人の鳥の歌 5. むすび Key Word : 万葉集、叙景歌、抒情詩、赤人、鳥 1. はじめに 뺷万葉集뺸には次の歌々が載せられている。 ㋐ 若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る(6・九一九)1) ㋑ み吉野の 象山のまの 木末には ここだも騒く 鳥の声かも (6・九二四) ㋒ ぬばたまの 夜のふけ行けば 久木生ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く (6・九二五) これらの三首が뺷万葉集뺸の叙景歌の代表作とされ、高い評価を受けてきた ことは誰もが認めるだろう。この三首の作者である赤人が뺷万葉集뺸の代表的 な叙景歌人と呼ばれてきたのも、これら㋐、㋑、㋒があってのことだと思わ れるが、叙景歌(詩)については柴生田稔2)が、 * 大阪府立大学大学院 人間社会学研究科 博士後期課程、日本上代文学 1) 뺷万葉集뺸の歌の引用は뺷万葉集電子総索引(CD ROM)뺸(2009)によったが、私に改めた 箇所がある。 2) 柴生田稔(1934) 뺷万葉集大成7 様式研究篇・比較文学篇뺸平凡社, p.41 326 日本言語文化……第21輯 叙景詩とは、対象としては自然(人事に対する)の景象を取扱ひ、それを方法とし ては客観的に表現したものであるといふ工合にでも考へるべきであらうか。 としながらも、 自然の景象と言つても、四季の風物、情趣として取扱はれたやうな種類のものま でも「叙景」と言へるかどうかは問題であつて、ある纏まつた景観が客観的に表現 されてゐることが条件であるやうに思はれる。 と述べているように、叙景の定義は簡単ではない。 本稿では、叙景歌の典型的歌人といわれる赤人について、赤人の歌が叙景 歌とされることの意味を考えてみたい。 2. 巻六の九一九、九二四、九二五について 赤人作の巻六の九一九(㋐)、九二四(㋑)、九二五(㋒)の三首、特に九二四 の㋑については、島木赤彦3)によって、 境は吉野の山中で、耳に聞こえるものは木末々々の鳥の声である。一首の意至簡 にして、澄み入る所が自ら天地の寂寥相に合してゐる。騒ぐというて却つて寂し く、鳥の声が多いというて愈々寂しいのは、歌の姿がその寂しさに調子を合せ得 るまでに至純である為めである。~中略~直線であるから寂しく、寂しいけれども 勢があり、勢があるけれども、それが人麿の如き豪宕な勢でなくて、虔ましく潜 ましき勢である。 と評せられ、以来叙景歌として最高の作と評された。島木赤彦のこうした見 解は、㋑を独立した作品としてみたことに起因するだろう。この点は㋐、㋒ も同様である。しかし、周知の通り㋐、㋑、㋒の三首は、 3) 島木赤彦(1925) 뺷万葉集の鑑賞及び其批評뺸岩波書店, pp.152-153
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