マルカル通信 No. 25 Paper for Multi Cultural Understanding 2009.07.17 国際教育委員会発行 附高祭が終わりました。1 年生は初めての附高祭どうでしたか? 先輩の劇を見てその奥深さを学んだか もしれません。また、各委員会の仕事ぶりに驚いたかもしれません。さて、今年のオープニング見ましたか? 白と黒という二元的な考え方より、多様性を多彩性と置き換えて、その多様性(多彩性)がそれぞれの存在 を鮮やかにする、ということを表現していました。ウーンさすが ASP 校・・・と勝手に思ってしまいました。 さて、1 年生は夢にまで見た(?)「高校生の夏」を堪能してください。2 年生は、 “セブンティーン”の夏です・・・・! 冒険を勧めます。3 年生は、日焼けしない夏ですね。頑張ってください。 マルカル通信第 25 号は、国際枠生徒(54 期)のみなさんからの投稿です。それぞれが育ち、生活した国 や地域の多彩な様子がわかるだけでなく、いろいろな考えに出会うことができます。どうもありがとう。 身にしみて感じました。 中国・上海での経験 1年3組 中村 それから、移動の主な交通手段はタクシーやバスで 美月 あること。バスに乗る時も順番に並ぶことはほとんど 私は小学 4 年生から中学 1 年生まで中国の上海で暮ら なく、押しかけるように乗り込むのが普通であること しました。この 4 年間で私はいろいろなことを学び、 。水道水はそのままでは飲めず、家に浄水器がある家 考えさせられ、外国、特に中国に対する考え方が大き 庭が多いこと。道路では信号のないところでも車が近 く変わりました。それと同時に、日本に対する考え方 くに来ていないなら平気で渡ること。車のクラクショ も大きく変わりました。中国に住むまでは「日本って ンも鳴っているのが当たり前であること。飲食店では どんな国?」などと考えたこともありませんでしたが コーラは普通にぬるいまま出てくること。買い物に行 、中国に住み、日本との違いを知ることで日本につい ってもブランドでなければ交渉で安くなることが結 てより考えるようになりました。とても多くの貴重な 構あること。道端には物乞いがたくさんいるというこ 経験ができ、私にとってとても深い 4 年間でした。 と…。始めはびっくりすることだらけでしたが、慣れ 私は中国・上海が大好きです。これは、中国・上海 てくるとこれが普通、と思えてくるようになります。 に住み、良さを知ったからこそ言えることです。良さ 日本に住んでいたままでは知り得ない中国の生活を を知らないと好きにはなれません。私はたくさんの人 たくさん知ることができました。 に中国・上海の良さを知ってもらい、好きになってほ また、中国ではたくさん国際について考えさせられ しいと考えています。 る機会がありました。私の通っていた日本人学校では 中国は、日本と距離的にも近く、古くから交流があ 年に数回現地の学校との交流会が行われていました。 る身近な国です。それでも、中国には皆さんが思って 交流会を通して、交流する上で大切なことは相手をよ いる以上に、独特な文化や何千年という歴史、大自然 く知ろうとすること、相手を思いやることなのだと学 、遺産、建築物があります。これらは本当に素晴らし びました。また、それは日本に帰ってきた今でも、友 く、感動させられるものばかりです。 達との間で同じように言えることです。国際平和、と そんな中国での生活は、やはり日本とは大きく違う いってもスケールの大きな話ではなく身近なことか ものでした。一番大きかったのが、言語の違いです。 ら始められるものなのだと思えるようになりました。 当たり前ですが、どこへ行っても中国語、漢字です。 中国での経験は今の私の中で、大きなものとなって残 言語の違いによって、看板が読めない、テレビや新聞 っています。外国のことは住まないと、現地の人と交 がわからない、コミュニケーションがとれない、など 流しないと、しゃべらないと、わからないものです。 といった不便が多く出てきました。そのことから、言 私はもっと中国以外の国についても知識を増やして 葉が通じることの重要さ、外国語を学ぶことの意義を いきたいと思っています。 1 、自分が帰国子女であるということに苦労し、1 人悩 自分 1年3組 田中 み、毎日をただ必死に生きていたことの方が印象深い 敦士 。さらにこの経験が将来自分にとってプラスになるの 僕は 3 歳から 15 歳までの間、香港に住んでいた。 かマイナスになるのかはまだわからない。ただ、1つ 一般的に、帰国子女は外国語がペラペラで、英語が話 言える事がある。今までの香港での生活の中で、決し せてカッコよく、良いことだらけなイメージを持って て楽なものでなかった困難や、外国にいるからこそで るかもしれないが、そうでもない。確かにメリットも きた経験ひとつひとつが、「自分」という人間を作っ 多いかもしれないが、自分が帰国子女であることに苦 ていて、確実にそれが、今の自分の自信に繋がってい 労したことだってたくさんある。 るということ。 例えば、冒頭で出た「帰国子女は外国語がペラペラ 」という、日本人に植えつけられた常識。中国語も英 1年3組 語もペラペラでない僕からすると、日本人の勝手な偏 見でしかすぎない。自分が帰国子女であることを相手 山口 達也 僕はインドネシアのジャカルタに約5年間住んで に言うと決まって、「じゃあ○○語喋れるん?」と聞 いました。インドネシアのスカルノ かれる。 そして喋れないことを言うと、がっかりさ いた時の第一印象は「生ぬるくて暑い」で、途中経由 れる。いやいや、なんでがっかりされなきゃいけない したシンガポールのチャンギ空港とは大違いでした。 んだ。自分で勝手に作った偏見で、勝手にがっかりす 引っ越し先のアパートは広くて住み心地が良かった る。僕は別に語学を学ぶために香港に行ったんじゃな です。 い。僕はこの帰国子女の偏見が嫌いだ。腹が立つ。僕 ハッタ空港に着 インドネシアに来た当初は日本のテレビ番組が見 の他にもこういう経験をしたことがある帰国子女は れない、日本の物(マンガなど)が買えないなど、不 たくさんいるだろう。 便で不満な点もたくさんありましたが、しょうがない さらに、自分が日本人でありながら日本のことを知 と思ってわりきってました。(実際にはビデオを借り らないこと。これはなにより恥ずかしいことだと思う たり、海賊版を買ったりしてましたが・・) し、これが原因で自己嫌悪になることだってある。そ さて、日本人学校への転校初日。もう緊張して夜も してなにより、同じ日本人でありながら、普通に日本 ・・・・・普通に熟睡できましたが、それでもやっぱ に住んで暮らす日本人とは違い、自分は外国で育った り人生初の転校は緊張しました。学校に着いて、担任 特別な日本人であるという疎外感。学校でも、帰国子 の先生に連れられて 女は特別な存在だし、同級生からも、完全に一般生徒 教室へ入るとみんなが見てくる。 うわっ!恥ずかし と同等に、なんの偏見なしに接してくれるかというと い! 、うそになる。これを苦にしない人だっているだろう 僕にとっては苦でした。自己紹介して席に座ると隣の 。でも少なくとも僕は、このことで悩み苦しんだこと 男の子がしゃべりかけてきましたが、11年も大阪に がある。 住んでいたので東京弁がとても変に聞こえました。い 人前に出るのがあんまし得意ではない小5の でもこのようなデメリットばかりでもない、確かに までこそ東京弁はしゃべれますが(多分)、転校して 外国で育ったことによって、普通に日本で暮らしてい から2週間ぐらいは大阪弁が抜けませんでした。 る一般生徒より広い視野でものごとを考えられるよ 無駄話が多いですが、本題に入ります。 うになったし、日本という国が外国にとってどのよう (JJS な存在なのか、日本がどれだけ素晴らしい国なのかと もちろんインドネシア語の授業があり、そしてネイテ いうことを知っている。日本人はあまり自覚してない ィブの英語の先生による英会話の授業がありました。 だろうが、日本はとても素晴らしい国だ。だから自分 どちらも上、中、初とレベル別でした。僕は約5年も が日本人であることに誇りを持つことができるよう インドネシアにいたのにインドネシア語の授業は毎 になったこと。 年初級でした。 そんなんで大丈夫なのかと思うかも このように、外国で経験したことはたくさんある。 その学校 Jakarta Japanese School 以下 JJS)では、 しれませんが、全然大丈夫です。話すのは運転手さん しかし、今までの 12 年間の海外生活を振り返ってみ に場所を言ったり、マクドでメニューを伝えたりと活 ても、正直あまり覚えてないし、楽しかったことより 躍する場は少なかったです。(あくまで僕の場合です 2 が) なので必要最低限のことしか覚えていませんで 移民の国なので、みんなの祖先はヨーロッパの国など した。まあ、覚えたほうがいいにきまっていますけど から来ていた。友達の祖父母の時代にアメリカに渡っ 。その他にも現地校との交流などお決まりの行事も盛 てくる手続きが今よりだいぶ大変だったと知った。私 りだくさんです。 はゆかたを着て、折り紙や神社について説明した。日 JJS はあまり紹介することがないんで、インドネシ 本のものが流行っていたので、みんなにゆかたを誉め アのことを少し書こうと思います。 られて嬉しかった。 まず、バイクが多いです。最初見たときは暴走族かな 学校外のことで特に楽しかったのは、ハローウィー んかかと思いました。そして、車が信号で止まると売 ンだった。友達は魔女の衣装を着たり、おそろいのコ り子やら物乞いやらがやってきます。特に、小さい子 スチュームを着たり、動物の格好をしたりしていた。 が物乞いをしに来ると何とも言えなくなります。もう ”Trick or Treat”と言いながら近所をまわった。お ほんとに自分はぜいたくだなとつくづく感じさせら 菓子をくれる人達はみんな親切で、ちょっとしたおも せます。 ちゃ(光るプラスチックのネックレスなど)をくれる インドネシアはガッチガチのイスラムな のかとおもっていましたが、断食期間中でもたばこを 人もいた。 スパスパ吸う人もいたりするので、けっこうゆるいな 6 年生になって私は中学生になった(アメリカでは と思いました。ちなみに断食期間中はなるたけ運転手 6 年生から 8 年生までが中学生にあたる)。新しい環境 さんの前では飲食をしないようにしてました。あと、 になり、友達が増えた。中学校ではすべての授業が移 インドネシア人は親切な人が多いです。そんでもって 動教室で、どの教化も担任の先生が教えていた小学校 子供を大切にしています。日本人もこういうことを見 とはだいぶ違った。他に違ったのは、金曜日に月 1 回 習うべきだと思います。 、パーティーのようなものが学校であり、食べたり踊 まとまらない文章になってしまいましたが、海外に ったりしたことだった。最初は少し緊張していたが、 行くことはデメリットもありますが、それ以上に、日 慣れたら楽しくて、毎月楽しみだった。楽しみだった 本よりも英語を学びやすい、いろいろな国の人としゃ ことは他にもたくさんあるが、特に友達の誕生日が楽 べれるなどの大きなメリットもあります。でも正直そ しみだった。友達の誕生日にはその子以外の友達で、 の経験を活かせるかどうかはわかりませんが、海外へ その子のロッカーを包装紙やお菓子などで飾った。自 行くことは決して無駄にはならないと思います。 分の誕生日のときも、友達がロッカーを飾っていてく れて、本当に感動した。みんなたいがい自分の誕生日 パーティーをしたので、それに呼ばれて行くのが楽し アメリカでの 5 年間 かった。誕生日パーティーでは、まず晩ご飯をみんな 1年4組 高山 桃子 で食べて、それから映画を見たり、遊んだりして、最 私はアメリカのニューヨーク州で約 5 年間過ごした 後は主催者の子の家に泊まった。何回行っても飽きな 。この 5 年間は一生の宝物になると思う。 かった。 私がアメリカに引っ越したのは、小学校 4 年生のと 7 年生になると、ちょっと今までとは違う感じの誕 きだった。日本にいたときは、アメリカへ行ったら、 生日パーティーが増えた。私の住んでいた地域のほと 英語はすぐぺらぺらに話せるようになると思ってい んどはユダヤ人だった。ユダヤの人の宗教では、13 歳 た。しかし、現実はそんなに甘くはなかった。周りの になると、男の子なら Bar Mitzvah、女の子なら Bat ひとが何を言っているか全くわからなくて、家に帰っ Mitzvah ては毎日泣いた。苦しい状況にいた私を救ってくれた ヤ教のお寺(?)へ行って、ヘブライ語のお祈りを聞 のは、Hannah という友達だった。彼女は学校でできた いて、その後は以前の誕生日パーティーよりも少し豪 初めての友達だった。彼女のおかげで、乗り越えられ 華な誕生日パーティーが行われた。よく主催者の子と たことはたくさんある。友達の大切さを実感した。 呼ばれた子の名前が印刷された、セーターや T シャツ という儀式をした。その儀式の最初はユダ 5 年生になってからは、英語を習いに行ったりして を配ったりしていた。このパーティーはユダヤの子だ いた成果もあり、英語が少しは上達したため、学校の けしか行わないものだったが、参加者の宗教は関係が 行事などを楽しむ余裕がでてきた。学校行事の中に、 なかったので、助かった。 自分の祖先の文化を紹介するのがあった。アメリカは 8 年生になってから、日本の勉強を以前より頑張り 3 始めた。5 年生のときくらいから、ずっと日本の塾へ りすることもあります。ですので、足りないものとか 行って、英・数・国はやっていた。受験が迫ってきて が有ってもすぐに買えたり、15分程のウィンドウシ いたので、志望校を考えつつ、勉強に励んだ。あと、 ョッピングを楽しめたりします。そして、香港は狭い 今まで通っていたテニスクラブから、日本人のコーチ ので移動に時間が全然かからないことが最も日本と が経営しているテニスクラブに移った。アメリカはテ 異なる便利さがると思います。香港全体が一つの地下 ニスのできる環境が本当に整っていて、テニスをする 鉄で結ばれていたりと移動が簡単に行えるのです。 のには最高だった。テニスをほとんど毎日のように 2 香港の紹介はここまでにして、僕が香港で学んだこと 時間程して、充実した毎日を過ごしていた。Lolly と を少し紹介したいと思います。まず、香港は多文化な いう、今でもずっとメールをしたりしている親友もで 国だということでいろいろな文化に触れ合うことが き、学校の勉強も大変だったが、それなりの点数はと できました。先ほど記したようにマンションに住んで れていた。日本人の友達もアメリカ人の友達もいて、 いました。同じ階になんとインドとヨーロッパの人が 私は幸せだった。 住んでいて会話もしたりしていました。街中でもアメ 日本に帰国するとはっきりきまったとき、正直私は リカの人や韓国などのアジア系の人にも簡単に出会 あまり帰りたくなかった。今まで自分が一生懸命に築 えたりして、本当に多文化な国でした。よく、マンシ いてきた生活から離れるのは嫌だったからだ。しかし ョンの住人でパーティーを開いてはみんなで料理を 、実際日本に帰ってきて、この学校に通うようになっ 持ち合ったりして接しあう機会も多かったです。そこ てからは、日本に帰ってきて本当によかった、と思う から、外国の人と積極的に接し合える力を身につけら ことができた。これからも海外での生活の経験を生か れたと思います。普段街中でも、外国の人に声をかけ して、毎日を楽しく過ごしていきたいと思う。 られたりするので、突然の外国語にも焦ることもなく なりました。そんな対応力を日本では友人関係などに 活かそうと思います。でも、何よりも今の自分がいる Home town 1年4組 下村 のは香港にいる人達の温かさのおかげだと思います。 軍皓 困ってる人がいたらすぐに声をかけてくれるそんな 僕には日本ともう一つ故郷と呼べる場所がありま 人達の優しさが何よりも香港の人達の特徴でした。そ す。それは、生まれてからこの学校に入学するまで住 んな学んだことを十分に活かしてこの学校を過ごし んでいた香港です。十何年も住んでいるとどんな場所 ていきたいです。 も故郷と呼べるようになると最近初めて気づきまし た。日本で暮らし始めてからしみじみとそう思うよう アメリカ滞在で学んだこと になりました。香港は一つの国のようだが中国の特別 1年3組 行政区ということになっています。日本で言う「県」 大矢 ひかる のようなものですね。中国だから香港もきっと汚いん 私は、アメリカ合衆国のコネチカット州にあるグリ だろうなって思う人がたまにいます。そう思っていた ニッチという街に小学 3 年生から中学 3 年生までの約 と言われてとても不愉快になったこともありました。 6 年間住んでいました。引っ越して新しい家に慣れる 香港がアジアの世界都市だということを知ってまし 間もなく、近くの現地校に転校し、そこで最初の壁に たか?それを知ってからそういう考えをしてもらい ぶつかりました。 たいです。こういうことを言うのも僕は香港が大好き 同じクラスには 1 年先に渡米してきていた女の子、 だからです。香港は、夏になると30℃を軽く超える Y さんがいました。彼女には言葉で表せない程お世話 ような暑い国です。降水量も多く、じめじめすること になりました。毎日先生やクラスメートと私の掛け橋 も多いですがとても住みやすい国です。僕がそう思う となり、私が理解出来るように訳して教えてくれまし 理由はまず一つが便利だからです。香港はとても発展 た。しかし、Y さんもいつも私の側にいるわけにもい していて、見渡す限りが建物です。基本住宅はマンシ かないので、一人になる時も勿論あり、そういう時は ョンばかりで一戸建ては山や海などの近くのお金持 幼いながらも不安と孤独感で押し潰されそうになり ちの人とかしか住んでません。そして、ショッピング ました。また、帰宅しても他の部屋から聞こえてくる プラザなどが多く、コンビニも道路をはさんであった 家族の会話が日本語で話しているにもかかわらず全 4 て英語に聞こえ、自分だけ取り残されている気持ちに 私は 2 つの国のそれぞれの長所と短所を知り、また なり、一人で泣いたこともあるくらい、その頃の私は それぞれの文化を身をもって感じるというあまりで 新しい文化や言葉に戸惑っていました。 きないことができる位置に幸運にも立っているので、 私が心から学校が楽しい、と思い始めたのは渡米し 今までに経験したことや、今から学ぶたくさんのこと てから 1 年くらい経ち、少しずつ英語を話せるように を生かして、これからの生活に役立てていきたいと思 なってからでした。英語が母国語ではない生徒が英語 います。 を勉強する授業(ESL: English as a Second Language) の存在も大きかったけれど、私は「習うより慣れろ。 アメリカから日本に来て 」ということわざのように日本の学生が英語を勉強し 1年4組 ているように英語を頭で理解したのではなく、体で理 高島 絵里奈 解したのだと思います。最初はとても越えられないと 私はアメリカのシアトルで生まれ、中二の二月に日 思っていた言葉の壁は、時が経ちいつの間にかはじめ 本の学校へ転校しました。日本に住むのは初めてで、 から無かったかのように消えていました。 正直、戸惑うことがほとんどでした。生まれてからず ESL を 4 年生で卒業し、5 年生になる頃には日本人 っとアメリカの現地校に通っていたので、日本の学校 以外の友達もたくさんできた私は、中学に入って帰国 とアメリカの学校の違いに驚く毎日でした。例えば、 するまでずっと楽しく充実した毎日を過ごすことが 日本では自分で授業を選択できないこと。アメリカで できました。しかしそれは、周りの人々の存在や協力 は中学から授業が選択でき、必修科目のほかに音楽や があってこそ辿り着くことができました。いつも側に 美術、外国語などの授業が受けられます。こういうこ いて私を支えてくれた人は数え切れないほどいて、そ とも含め、アメリカのほうが比較的自由だと思います の全ての人が私にとってはかけがえのない存在であ 。 り、一生かけても感謝しきれません。 小学校三年生から毎年、六月下旬から七月の終わり 約 6 年という長い年月を海外で過ごした私は、日本 まで私は日本の学校に体験入学をしていました。この とアメリカの様々な違いを直接見たり感じたりする、 こともあって、すでに友達が何人かできていて、その とても貴重な経験ができました。その中で個人的に 1 おかげで心丈夫でした。分からないことが多い中で、 番気になった「アメリカの真実」について書いていき 友達は大きな支えとなってくれたのです。これは、高 たいと思います。 校に行ってからに関しても言えます。誰一人知らない 日本でのアメリカのイメージは良いものばかりで 新しい環境で心細かったですが、附高で会う同級生や すが、実際は悪いところも多々あります。大きな国と 先輩、皆がとてもフレンドリーでした。一年前の不安 は雖も、食べ物や資源の消費が雑で多すぎます。食事 も今では完全になくなり、楽しい学校生活を送ってま は同じ値段で日本の 2 倍くらいのポーションで出てき す。 ます。良いことのように聞こえるかも知れませんが、 アメリカでは、学校によっても若干異なりますが、 決してそうではありません。例えば誕生日会に呼ばれ 小学校は五年、中学三年、高校は四年間通います。さ ると、お皿やフォーク、コップといった食器やテーブ らに、私は誕生日の関係上、アメリカでは一学年上に ルクロスは全て紙かプラスチック製で、使った後は中 なります。こういう理由から、向こうに住んでいたと 身が残っていようがいまいがお構いなしに、食器ごと きはすでに高校生だったというのに、中学生に戻らな テーブルクロスで包んでそのまま全部捨ててしまい ければいけなかったわけです。高校から中学に戻った ます。 ら色々と制限が増え、自由を奪われてしまうかと思い ごく最近になりやっと「地球温暖化対策」について ました。しかし、これは辛いどころか色々な経験が出 考え始めたアメリカは、他国よりだいぶ遅れをとって 来てとても幸運なことだったと感じます。国が違えば います。経済的には 1 番であっても、するべきことを 、学校生活も 180 度違います。先生の授業の仕方や宿 していない国などを尊敬し目指すべきではないと私 題の内容なども全然違って、日本に来れて本当に幸せ は思います。日本には日本独自の長所や誇るべき伝統 です。 があるのだから、それを尊重しながら進化していけば 新しい文化の中に入っていくには戸惑うことがた 良いのではないでしょうか。 くさんある。こんなことを周りから聞かされて少しび 5 くびくしながら日本に来ました。でも、実際新しい文 住みやすく、自由にできるところでした。 化に触れてみると、世界が広がって自分により合った 僕が海外で生活して一番学んだことは日本で生活で 文化を見つけることができました。私の場合、日本の きることがどれだけありがたいことであるか、という 風潮に性格があってると思います。一年前はあれだけ ことです。日本に住んでいる人も日本が恵まれていて、 不安だったのに、今では日本で高校大学生活を送りた 不便なことが少ないところだとはわかっているだろ いと考えてます。そして、将来は生まれ故郷に帰る。 うと思うが、ぼくは実際に日本から出て生活してその そんな、国際的で自由な将来を夢描いてます。 ことを他の人よりも知っているはずだと思っていま す。また、住んでみないとその場所の本当のよさは分 1年4組 阪部 からないと思うようになりました。香港に観光に来る 定裕 人はたくさんいるけれども、その人たちは夜景を見た 僕は小 5 から中3までの5年間を香港の日本人学校で り、ショッピングをしたりと表面のいいところしか体 過ごしました。その5年間で学んだことについて書き 験できていないので本当のよさを知らずにいるはず たいと思います。 です。多くを知れば知るほど本当のよさは分かってく そもそも僕は香港なんて行きたくありませんでした。 るのだと思います。実際僕は最初香港をそれ程いいよ 引っ越すことだけでも嫌だったのにましてや海外に うな所ではないと思っていたが、いまは好きです。 行かされるなんて考えるだけでかなり憂鬱な気持ち になっていました。当時はSARSのことなどもあり とにかくいいイメージを持てずにいました。 実際に香港に行ってみても最初は今まで見たことの ない自分にとって新しいものが多く楽しめたものの、 少し慣れてくるとまったくおもしろくなくなりまし た。とても人が多かったり、言葉のことだったり、暑 かったり、中華料理は聞いていた程うまくなかったり と、まぁいろんな理由があってすぐに日本に帰りたい と思ってしまいました。なので、初めて一時帰国した 時は「あぁ、日本ってなんて素晴らしいんだろう」と か本気で思いました。 こんなこと書いてきたけどいいところもあります。ま ず、香港で生活していると金欠になることが滅多に無 いということです。交通もめしも日本に比べるとだい ぶ少ない金で済ませられました。何か欲しいものがあ るときも多少怪しい店で買えば、 安く買えます。携帯の料金も日本とは比にならないく らい安いです。こっちでは飯を食うだけでもだいぶ金 がかかりきついです。 あと、香港の人は結構いい人が多いです。香港人は大 抵フレンドリーに接してくれます。(たまになれなれし すぎる人もいますが) また、大変高齢者や小さな子に 優しいという印象もあります。それは電車やバス、街 中などいろんなところで感じられます。その他にいろ いろなところで募金活動をしているなどがありまし た。 香港は治安がよく夜遅くまで出歩くこともでき、交通 の便もよく気軽にどこへでも行けるようなところで 6
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