深部静脈血栓症の病態生理とその予防

日本生理学会-日本病態生理学会連携シンポジウム
下肢静脈結構動態の特性から見た深部静脈血栓症
森田啓之,安部
力,田中邦彦
岐阜大学大学院医学系研究科,生理学分野
はじめに
長時間の着座姿勢により下肢深部静脈に血栓が形成され,その血栓により肺動脈血栓塞
栓症が起こることは“エコノミークラス症候群”(現在は旅行者血栓症と呼ばれている)とし
て,古くから知られている。しかし,長時間にわたるフライト後,無症候性ではあるが,
10%の乗客の深部静脈に血栓が形成されるという Scurr らの報告は衝撃的であった(6)。座位
による血流うっ滞と水分摂取を控えることによる血液粘度増加が主な原因と考えられてい
る。座位では,心臓と下肢の間で高さの差が生じ,静水圧差が増加して下肢静脈圧が上昇
する。静脈は非常にコンプライアンスの高い臓器であり,圧上昇は容積増大を招き,下肢
深部静脈の断面積が増加する。もし,深部静脈の血流量が同じであれば,断面積増加に伴
40
い血流速度は著しく低下する。着座
臥位
)s
/
姿勢によるこのような下肢深部静脈
m30
c(
x
の血行動態の変化と,血液うっ滞を
・ 20
ャ
解消する方法を紹介する。
・
ャ
・ 10
・
1.着座姿勢による下肢血流うっ滞
0
Prone 30 min 60 min 90 min 120 min
臥位から着座への姿勢変換により,
心臓と下肢の高低差が 80~90 cm に
) 80
2
座位
なると,膝窩静脈の断面積は 5 倍に
m
m
( 60
増加し,血流速度は 20%に減少する
マ
・
ハ
(図 1)。この現象は,座位を維持した
f・ 40
・
ヌ
120 分にわたって見られた。しかし,
・ 20
オットマンタイプのシートに着座し
・
0
て,上体をリクライニングし,下肢
Prone 30 min 60 min 90 min 120 min
を挙上すると高低差は 40 cm 程度
となり,膝窩静脈のうっ滞は大きく 図 1.臥位から座位への姿勢変化による膝窩静脈血
流速度と血管断面積の変化。
改善された。
下腿筋を自発収縮させると,筋ポ
ンプが働き,血流速度が大きく増加
座位
する(図 2)。効果は自発収縮の半分程
) 0
度であるが,筋肉上に張り付けた電
/s
m
極により,腓腹筋を電気刺激するこ
(c
x
とによっても血流速度増加を引き起
・
ャ
・
ャ
こすことができる。従って,着座に
・
自発的筋収縮
よる下肢静脈うっ滞を解消し,深部
・ 10
静脈血栓症発症を予防する方法とし
て,神経筋電気刺激(neuromuscular
electrical stimulation, NMES)が有効で
ある。
2.着座姿勢による下肢血流うっ滞に
対する NMES の効果
表面電極を腓腹筋上に貼り付け,
以下の刺激を行った:duration=0.2 ms,
amplitude < 60 V,frequency=1–15 Hz,
biphasic (図 3)。この刺激を 10 分続け,
図 2.着座姿勢により減
少した膝窩静脈血流速
度は腓腹筋自発収縮あ
るいは電気刺激により
大きく増加する。
1
筋肉電気刺激
日本生理学会-日本病態生理学会連携シンポジウム
5 分中止のサイクルを繰り返した。
臥位から座位への姿勢変換により 30 ± 5.7 cm/s から 6.5 ± 0.5 cm/s へと低下した膝窩静脈
血流速度は NMES により,19.5 ± 3.1 cm/s まで回復した(図 3)(5)。
40
)
s
/ 30
m
(c
x
・ 20
ャ
・
ャ
・ 10
・
NMES
0
Prone
30 min
80
)
m
60
m
(マ
・ 40
ハ
f・
・
ヌ
・ 20
・
90 min
120 min
NMES
2
図 3.NMES の amplitsude,frequency
の実測波形(左図)とその効果(右図)。
60 min
0
Prone
30 min
60 min
90 min
120 min
3.術中・術後の下肢血流改善に対する NMES の効果
旅行者血栓症ばかりでなく,術中・術後の深部静脈血栓症も問題である。英国の統計で
は,何ら予防策を講じなければ,膝関節置換術の 58%,股関節置換術の 34%に深部静脈血
栓症が発生するとの報告がある。また,本邦における 1994~2001 年の統計では,全 5,383,056
件の全手術症例のうち 0.58%に肺
60
Stocking
)
血栓塞栓症が発生したとの報告が
s/
Stocking
Stocking
+
NMES
あり,院内では種々の対策が取ら
m
c( 40
x
れている。しかし,厄介なのは,
・
ャ
退院後も 3~6 週間にわたり深部
Stocking
・ 20
ャ
Comp+
・
ression
静脈血栓症と肺血栓塞栓症の発症
NMES
リスクが高いという事実である(7)。 ・
0
従って,退院後に家庭でも予防策
Day-1
Day-2
Day-3
Day-4
Day-5
Day-6
Day-7
を講じる必要がある。
40
家庭での予防策として必要なの
)
2
は,効果的,簡単・安価,携帯性
m
m
(マ
に優れていることが必要である。
・ 20
ハ
我々は,弾性ストッキングに導電
f・
線維を編込んで電極部分を作成し
Stocking
Stocking
・
ヌ
CompStocking
+
+
Stocking
ression
・
た NMES 用弾性ストッキング(特
NMES
NMES
・
開 2005-349021,2005-52223)を作
0
Day-1
Day-2
Day-3
Day-4
Day-5
Day-6
Day-7
製し,その効果を確かめた。1 日
目にコントロールデータを取得し 図 4.弾性ストッキング,
弾性ストッキング+NMES,
た後,ストッキングを装着し,ス 間欠的エアマッサージが膝窩静脈血流速度,膝窩静
トッキング装着の効果を評価した。 脈断面積に及ぼす効果。
4 日目から 1 日おきに NMES オ
ン・オフを繰り返し,7 日目には間欠的エアマッサージを行って,それぞれの効果を確かめ
た。弾性ストッキング単独では,膝窩静脈血流速度に対する有意な影響はないが,NMES
と組み合わせることにより,血流速度は有意に増加し,うっ滞改善効果があることが分か
る。その効果は院内で一般的に使用されている間欠的エアマッサージ機と同程度であった。
2
日本生理学会-日本病態生理学会連携シンポジウム
考察
着座姿勢により,心臓と下肢の静水圧差増加,静脈の屈曲,筋ポンプの不活性等により,
下肢静脈血流速度が減少して下肢静脈血流がうっ滞する(図 5)。最も効果的な下肢静脈血流
うっ滞改善策は,静水圧差を解消するためにオットマンタイプシートすなわちファースト
クラスシートを選択することである。上体のリクライニングと下肢挙上の角度に比例して,
下肢静脈血流速度は増加し,静脈断面積は減少する(1)。しかし,この選択は非常に高価で
ある。
オットマンタイプシート以外の下肢静脈血
栓症の機械的予防装具として,下肢静脈血流速
度を増加させて,血流うっ滞を解消する点に主
眼を置き,間欠的エアマッサージや弾性ストッ
キング等が使用されている。間欠的エアマッサ
オットマンタイプシート
ージは有意に静脈血流を増加させるが(2, 3) ,
• 断面積減少
• 血流速度増加
高価であり携帯には不向きである。一方,弾性
ストッキングは,安価で携帯性に優れており,
長時間のフライトに伴う深部静脈血栓の発生
頻度を低下させるという報告があるが(6),静脈
血流改善効果は期待できない(4)。そこで,我々
は弾性ストッキングに NMES 用電極を編込ん
だストッキングを考案した。NMES により間欠 座位
弾性ストッキング+NMES
• 断面積増加
• 断面積不変
的エアマッサージと同程度の血流速度増加が • 血流速度減少
• 血流速度増加
期待でき,しかも携帯性に優れ安価である。飛
行機内の使用にとどまらず,術中・術後および 図 5.着座姿勢,オットマンタイプシー
退院後の深部静脈血栓症予防のために使用で ト,弾性ストッキング+NMES が下肢深
部静脈血行動態に及ぼす影響のまとめ。
きる可能性がある。
参考文献
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3
日本生理学会-日本病態生理学会連携シンポジウム
血液及び血管内皮から見た血栓症リスク
浦野哲盟,鈴木優子,井原勇人,最上秀夫
浜松医科大学
第2生理学講座
はじめに
血栓症には血液,血管壁,血流の三要素の異
常が関わるとした Virchow の提唱(図1)は,
現在でも血栓症のリスクを考える上で主体をな
す。これらの三要素は正常では互いに密接に関
連し,血流の維持に関わる。本稿では特に前二
者に関して最近の考えかたを紹介する。
1.血液の因子
血液粘度がその主体と考えられたが,血栓形
成という病態を考えると,血小板活性化の増強,
凝固活性の過剰発現,線溶活性の低下,を直接
因子としてとらえる方が妥当である。
図1
Virchow’s の三原則
2.凝固系とその調節因子
凝固活性は凝固因子とその調節因子のバランスで調節されており(図2),その破綻が
血管閉塞につながる過剰血栓の形成を惹起する。凝固因子としては Factor VII (FVII),FXII
及び fibrinogen (fbg) の血中濃度の増加がリスクとして報告されている。また通常血液が触
れる部位にはほとんど発現していない組織因子 (Tissue Factor: TF) が種々の病態時に血管
内皮細胞や単球などの血球で発現が増強すると,外因系を血管内で活性化し血栓症を引き
起こす。凝固制御系としては,tissue factor pathway inhibitor (TFPI),protein C,anti-thrombin が
重要であり,anti-thrombin,protein C 及び後者の cofactor である protein S の分子異常は日
本人においても血栓症のリスクとして知られる。これらの制御因子の機能発現に正常血管
内皮細胞が深く関わる。Anti-thrombin の抗凝固活性はヘパラン硫酸の存在が,また protein
C の活性化には thrombomodulin が不可欠であり,いずれも正常血管内皮細胞に発現してい
る。これらの異常症(表1),あるいは感染や炎症による内皮細胞障害に伴う発現減少に
より血栓傾向が強まる(表1)。
4
日本生理学会-日本病態生理学会連携シンポジウム
図2
凝固カスケードと活性調節因子
表1
表 2 先天性の血栓症危険因子
後天性の血栓症危険因子
3.線溶系とその調節因子
線溶系は血管障害部位の修復が終了後,不要な血栓の除去に関わるとされてきた。しか
しその活性の低下は凝固活性の増強とともに血栓症につながる事実より,線溶系は過剰に
産生された血栓を常に溶かし続けることにより,血管の開存性に関わると考えられる。血
管内の線溶活性の発現に関わるのは tissue palsminogen activator (tPA) であり,その活性,並
びに血漿の有する線溶ポテンシャルはその特異的インヒビターである PA inhibitor type 1
(PAI-1) とのバランスで決まる(図3)。PAI-1 量は,加齢や日内変動等,生理的因子により
血漿中濃度が変化するとともに,メタボリック症候群や,感染,炎症等の病的因子により
増加し線溶活性を低下させる。また最近の我々の研究から,血管内皮細胞から分泌された
tPA は内皮細胞状にとどまり線溶活性の維持に関わり,PAI-1 はこれを複合体の形で引き剥
がし内皮細胞状の線溶活性を抑える事実が明らかになった。血液成分により内皮細胞の抗
血栓性機能が修飾される例ととらえられる。
図3
線溶系カスケード
5
日本生理学会-日本病態生理学会連携シンポジウム
図4
炎症に伴う血栓症リスクの増大
終わりに
血管障害等の際には凝固系が活性化され血栓を形成して組織修復を促進する。この際正
常血管内皮細胞は膜上に発現する凝固調節因子や線溶促進因子の分泌により血液中の因子
と協調して過剰な血栓の産生を抑え血管の開存性を維持している。炎症等の病態時にはこ
れらの調節系が破綻し,血栓症発症のリスクが高まる(図4)と考えられる。
参考文献
池田康夫 Virchow の3原則 「血栓症ナビゲーター」メジカルレビュー社 70-71, 2005
浦野哲盟 線溶機序 「血栓症ナビゲーター」メジカルレビュー社 100-101, 2005
浦野哲盟 侵襲時の線溶活性 −増悪因子としての plasminogen activator inhibitor type 1
(PAI-1) とプロテアーゼインヒビター− Surgery Frontier 14(1), 109-113, 2007
6
日本生理学会-日本病態生理学会連携シンポジウム
深部静脈血栓症の病態
上嶋
1
繁 1, 2、松尾
理2
近畿大学農学部食品栄養学科、 2 近畿大学医学部第2生理学教室
はじめに
血栓が静脈内に生じると静脈血栓症を発症するが、そのほとんどは下肢に起こる。特
に下肢筋膜下の深部静脈に血栓が生じた場合、それを深部静脈血栓症(deep vein
thrombosis: DVT)と呼ぶ。深部静脈の血栓が遊離し、血流によって肺に到達して肺動脈
を閉塞すると肺血栓塞栓症(pulmonary thromboembolism: PTE)を併発する。PTE の症状
は重篤で致死的であることから、静脈血栓塞栓症(venous thromboembolism: VTE)で臨
床的に問題となるのは、DVT と PTE であるといっても過言ではない。
日本人を含むアジア系人種においては欧米人に比べて DVT の発症は少ないと報告さ
れていた 1)。しかし、DVT に起因する PTE による死亡者数は年々増加しており、DVT
発症率も欧米と大差のないことが報告されている 2, 3)。
本稿では、DVT 発症の特異な病態について述べるとともに、整形外科手術において頻
発する DVT 発症の要因について言及する。
DVT の発症要因
血栓形成には3つの要因が絡み合っていることが知られている。3つの要因とは、血
管壁の変化(changes in the vessel wall)、血流の変化(changes in the blood flow)および血
液性状の変化(changes in the blood composition)であり(図 1)、Virchow’s Triad と呼ば
れている。血管内皮細胞は抗凝固機能や線溶機能などにかかわる因子を産生しているこ
とから、抗血栓性を有している。しかし、手術や外傷による血管壁の機械的傷害は血管
内皮細胞を傷害して抗血栓性を低下させる。このように、血管壁の変化を引き起こす種々
の要因は DVT 発症の引き金となり得る。
Changes in
the vessel wall
Surgery
Changes in
the blood flow
Immobilization
for a long time
Trauma
Indwelling I.V.
catheters
Injection of
irritating
substances
Obstruction or
compression of
the iliac or
femoral veins
Changes in the
blood composition
Pregnancy
Estrogen therapy
Malignancy
Inherited
coagulopathies
Congestive heart
failure
Dehydration
I.V. drug abuse
Shock
Polycythemia rubra
vera
Prior DVT
Varicose veins
図 1
DVT 発症にかかわる3つの要因(Virchow’s Triad)
また、静脈内の血流が滞ることも DVT の発症につながる。静脈、特に下肢静脈内の血
液は重力に逆らって静脈弁と筋ポンプの作用により心臓へと環流することから、長時間
同じ姿勢(座位)が強いられる飛行機の機内などでは DVT を発症することがある。さ
らに、血液中の血栓形成に関与する因子の変化も DVT の発症にかかわる。脱水などで血液
が濃縮されると血栓形成が容易となる。また、凝固を抑制するプロテイン C の欠損症 4)や線
7
日本生理学会-日本病態生理学会連携シンポジウム
溶系因子であるプラスミノゲンの異常症 5)などでは遺伝的な凝固亢進状態が誘発され、DVT
の発症を引き起こす可能性がある。
DVT 発症における静脈弁ポケットの関与
前述のように、静脈弁は血液を末梢から心臓へ環流するための生理的な機能を果たして
いる。しかし、一方でこの弁ポケット(valve pocket)はその特殊な環境から、この部位で
の血栓形成をきたしやすい 6)。弁付近の血液が乱流であるため、弁ポケット内部で血液が
うっ滞しやすく、血流が滞ることから、
体循環で運ばれるマイクロパーティク
ルや血小板、白血球などがこの部位に
留まりやすい(図 2 A)。
また、弁ポケット部位では血液が
うっ滞するために、ずり応力が低下
するとともに、低酸素状態に陥る。
Valve pocket
ずり応力の低下は、血管内皮細胞に
おける tissue factor pathway inhibitor
(TFPI) の発現を抑制する 7)。TFPI は
B.弁ポケットからの血栓形成
凝固系を抑制することから、ずり応 A.静脈弁ポケット
力の低下による TFPI の発現抑制は
図 2 静脈弁と弁ポケットからの血栓形成
血栓形成を誘発する。さらに、低酸
(文献6より改変)
素血症は血管内皮細胞での plasminogen
8)
activator inhibitor-1 (PAI-1) 発現を促進すると報告されている 。PAI-1 は線溶系を抑制する
ことから、低酸素血症による PAI-1 発現の促進は血栓形成を誘発すると考えられる。これら
の要因が相まって、弁ポケット部位から血栓が形成される(図 2 B)。
整形外科手術時における DVT の発症
上述のように、外科手術は DVT 発症の引き金となる。外科手術の中でも整形外科手術、
特に下肢の人工膝関節置換術(total knee arthroplasty: TKA)における DVT の発症率は約 50%
と非常に高い 9)。そのため、TKA で高い DVT 発症率をきたす原因を明らかにする目的で、
近畿大学医学部付属病院にて実施された TKA について検討が行われた。
TKA では術中の手術野を確保するためにターニケットが使用される。しかし、手術中に
ターニケットを使用した症例では PTE の発症に結びつく可能性のある近位血栓の形成がタ
ーニケット非使用群に比べて多いことが下肢末梢静脈エコーによる調査で示された 10)。そ
こで TKA 術中ターニケットの使用が凝固線溶能に及ぼす影響について調査した。インフォ
ームドコンセントが得られた TKA 連続 50 症例を対象とし、これらを無作為に術中ターニ
ケット使用群(25 例)とターニケット非使用群(25 例)に分けた。ターニケット使用群に
おいては、TKA 術中のコンポーネントトライアルおよびセメンティングに際し、約 45 分間、
大腿部のターニケットを作動させて血流を止めた。TKA 前、ターニケットの使用前後、TKA
直後、TKA 後 1 日目および 10 日目に採血を実施して、周術期の凝固・線溶系マーカーの変
化をターニケット使用群とターニケット非使用群で比較した。その結果、ターニケット使
用群において TAT は手術直後から手術翌日にかけて、D-dimer、PIC および TPAIC はターニ
ケット使用後から手術直後にかけて、ターニケット非使用群よりも有意な増加を示した 11)
(図 3)。TAT と D-dimer は凝固活性の亢進を反映することから、ターニケットの使用によ
り凝固活性が促進され、血栓が形成された可能性が示唆された。また、線溶系活性の亢進
を反映する PIC および TPAIC の有意な上昇がターニケット使用群で認められたが、
これは、
形成された血栓を溶解して取り除くための生理的反応の結果と考えられた。さらに、ター
ニケット使用群では TKA 直後に 25 例中 10 例(40%)に膝窩静脈より近位で PTE の発症を
きたしやすい近位血栓が認められた。一方ターニケット非使用群では近位血栓の形成は
TKA の 20%に認められターニケット使用群の半数に減少していた。さらにターニケット使
用群では呼吸困難や動脈血酸素分圧の低下など、PTE 発症の可能性を疑う所見が認められ
たが、ターニケット非使用群ではこれらの所見は認められなかった。
8
日本生理学会-日本病態生理学会連携シンポジウム
D-dimer
TAT
TKA では人工関節を装着する際に骨髄操作が行われる。この骨髄操作によって血液中に
6000
流入する骨髄液の血栓形成に
**
Tourniquet
3500
5000
およぼす影響が検討された。
*
No tourniquet
3000
TKA 中に骨髄液を採取し、骨
4000
2500
髄液中の線溶系活性と tissue
**
2000
3000
factor(TF)抗原量を TKA 後
*
1500
の血栓存在群と血栓非存在
2000
1000
群で比較した。
1000
500
骨髄液中には約 1000 pg/ml
0
0
の TF が認められ、血栓存在群
(10 例)の TF 抗原量は血栓非
存在群(10 例)よりも高い傾
*p<0.05, **p<0.01
向にあったが、有意差は認め
なかった。
PIC
TPAIC
骨髄液中プラスミノゲンア
700
500
クチベータ活性をフィブリン
Tourniquet * *
Tourniquet
600
No tourniquet
No tourniquet
エンザイモグラフィーにて検
400
500
討したところ、u-PA と t-PA に
**
*
300
相当する活性バンドが認めら
400
*
た。しかし、血栓存在群と血
300
200
栓非存在群との間に有意差は
200
認められなかった。
100
100
以上の結果より、骨髄液中
0
0
には凝固活性を亢進する TF が
存在することが判明した。
TKA に限らず骨髄操作によっ
*p<0.05, **p<0.01 て血液中に流入する骨髄液が
局所での凝固活性を亢進させ
図 3 TKA周術期における凝固・線溶系マーカーの変化
て、その部位で血栓形成に関
与すると考えられた。
おわりに
近年、PTE の死亡数が増加していることから、肺血栓塞栓症∕深部静脈血栓症(静脈血栓
塞栓症)予防ガイドラインが提言され、DVT や PTE の発症を予防する方策が全国的に行わ
れるようになった。近畿大学医学附属病院ではリスクマネージメントはもちろんのこと、
DVT の病態や発症要因を科学的に検証することによって、それまで年間十数件あった PTE
の発症数を 2003 年の下期より年間 5 件以内と改善させ、2006 年 10 月から 2007 年 9 月の 1
年間には“PTE の発症なし”にまで至っている 12)。今後も、病態に即した予防・治療が必
要と思われる。
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Be
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5) Kawasaki T et al. Int Angiol 14(1):65-68, 1995.
6) Aird WC J Thromb Haemost 5(Suppl 1):283-291, 2007.
7) Westmuckett AD et al. Arterioscler Thromb Vasc Biol 20(11):2474-2482, 2000.
8) Uchiyama T et al. Arterioscler Thromb Vasc Biol 20(4):1155-1161, 2000.
9) Fujita S et al. Clin Orthop Relat Res 375:168-74, 2000.10) 森 成志 他 膝 29:85-89, 2004.
11) 森 成志 他、高杉 嘉弘 他 編集 血栓塞栓症研究の新展開 28-31, 2007.
12) 保田 知生 他 第 8 回 TTM フォーラム プログラム・講演抄録集 48-49, 2008.
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日本生理学会-日本病態生理学会連携シンポジウム
深部静脈血栓症と肺塞栓症- 予防と治療戦略 -
苅尾七臣
自治医科大学内科学講座循環器内科学部門
本シンポジウムでは、我が国でも増加しており、予防と治療が大きく変わりつつある肺血
栓塞栓症・静脈血栓症を、症例提示を通じて、1)初期診断、2)疫学と変遷、3)ハイ
リスク群の同定と1次予防、4)急性期と慢性期の抗血栓療法を臨床の観点から総括した。
1.頻度が増加している。
肺塞栓症とその背景となる深部静脈血栓症とは一連の疾患として静脈血栓塞栓症として捉
える。静脈血栓塞栓症は、欧米に比較して我が国では少ないとされていたが、近年、循環
器の臨床現場では、静脈血栓塞栓症は間違いなく増加してきている。この増加には、人口
の高齢化、運動不足や生活習慣の欧米化による肥満やメタボリックシンドロームの増加に
よりもたらされる血栓傾向が関与していると考えられる。
肥満細胞より組織プラスミン活性化阻害因子-1(PAI-1)が分泌されることが知られてい
る。PAI-1 は近年の我が国の体重増加やメタボリックシンドローム、糖尿病で増加すること
から、メタボリックリスクと血栓症を結ぶリスク因子として注目されている。肥満を背景
に生じる睡眠時無呼吸症候群は、メタボリックシンドロームを効率に伴い、高血圧のリス
クにもなるが、特に夜間血圧下降が生じない non-dipper 型血圧日内変動異常を生じること
が知られている。この non-dipper は正常に夜間血圧が下降する dipper 型に比較して、心
血管イベントの発症リスクが高い。最近、我々は、睡眠時無呼吸症候群、特に non-dipper
型で、PAI-1 レベルが増加していること見出しており(図1)、睡眠時無呼吸症候群による
PAI-1 の増加が肥満に伴う動静脈血栓症のリスクに寄与していると考えている。
PA1-1 level in patients with/without non-dipper and sleep apnea
P<0.05
P<0.01
Plasma PA-1 level
(ng/ml)
41.5
45.0
40.0
36.4
35.0
29.8
30.0
26.7
25.0
20.0
15.0
10.0
5.0
0.0
n=28
Dipper
n=24
Non-Dipper
n=44
Dipper
n=25
Non-Dipper
Sleep apnea
AHI<15
(AHI>15)
AHI = apnea hypopnea index;
Ishikawa, Kario et al. J Hypertens 2008, in press
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日本生理学会-日本病態生理学会連携シンポジウム
2.我が国の先天性血栓素因は欧米とは異なる。
従来、日本人では欧米人で高頻度にみられる第 V 因子ライデン変異(Factor V Leiden)やプ
ロトロンビン異常症(Prothrombin G20210A)など海外で報告されている比較的稀でない遺
伝的血栓性素因がない。一方、我が国独自の比較的稀でない先天性血栓性素因として注目
されているのが、1993 年にプロテイン S 異常症・徳島として報告された Protein S K196E で
ある。我が国における本変異の保有率は一般住民で 1.8%に比較して、深部静脈血栓症患者
では 9.3%に及び、本変異のリスクはオッズ比で 5.58 になることが報告された(Kimura et al.,
Blood, 107, 1737-38, 2006)。
3.MDCTの出現による診療手順の変革
MD(multi-detector)CT の出現による診療手順が大きく変わり、診断に関するエビデン
スがほぼ確立した。造影 CT 検査の進歩により肺動脈から下肢の末梢静脈まで、明瞭な連続
画像が1回の撮像で得られ、肺血栓塞栓症と深部静脈血栓症の急性期同時診断が容易にな
った。
臨床所見と発生状況から肺血栓塞栓症を疑い、血中 D-dimer レベルと肺動脈造影 CT に
より診断が確定する。最近の無作為比較試験において、これまでの肺血流シンチや深部静
脈エコーは診断率の向上には役立たないことが報告された。
心臓エコー検査は、急性期の治療方針の決定に有用である。多量の肺動脈塞栓が生じた
場合には、肺高血圧が生じ、心エコー上で右心負荷所見が見られる。
4.急性期治療
急性期治療としてはヘパリンを用いた抗凝固療法を直ちに開始する。心エコーで右心負荷
所見やショック状態など血行動態の障害を合併する例では、2005 年から保険適応となった
組織プラスミンアクチベーター(tPA)を用いた、より積極的な血栓溶解療法が実施可能と
なった。この急性期治療に関しては、我が国では tPA の導入が遅れ、その適応が認められ
ているのも 1 種類のみである。
通常、血行動態の障害を伴わない肺血栓塞栓症の生命予後は比較的良好である(図2)。
急性肺血栓塞栓症の死亡率
-肺塞栓症研究会 456例 2000年11月~2003年8月調査-
(%)
60
30日後までの死亡率
52.4%
50
40
30
20
15.6%
10
2.7%
0
心肺停止
(n=21)
ショック (+)
(n=77)
0.8%
ショック(-)
右心負荷(+)
ショック(-)
右心負荷(-)
(n=225)
(n=126)
Sakuma M, et al. Circulation J 2004: 68, 816より作成
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日本生理学会-日本病態生理学会連携シンポジウム
稀ではあるが、ヘパリン投与時に血小板が減少し、血栓症が増悪する場合がある。このと
きは、ヘパリン惹起性血小板減少症(heparin-induced thrombocytopenia : HIT)を疑う(相
談窓口: HIT 情報センターhttp://www.hit-center.jp)。この際は、ヘパリンを中止し、ア
ルガトロバンへ切り替える。
5. 手術時の静脈血栓症予防
さらに、臨床上の重要な課題として、ハイリスク群に対する整形外科や産婦人科手術時な
どのハイリスク発症状況下における予防的抗凝固療法である。これまで、その予防には低
分子ヘパリンが良いとされていたが、最近、我が国においても下肢整形外科手術患者に加
え。産科・泌尿器領域の下腹部手術患者に対して、深部静脈血栓症と急性肺塞栓症の予防
に選択的 Xa 阻害薬フォンダパリヌクスの使用が承認された。Xa 阻害薬は、ヘパリンと比
較して出血リスクが少ないが、腎障害患者では減量する。
6.慢性期の留意点
初回発症で、誘引が明らかな場合は、一定期間の治療後、抗凝固療法を中止できるが、慢
性期には再発、肺高血圧、動脈疾患の発症に十分に留意する必要がある。近年の静脈血栓
塞栓症患者の 10 年以上に及ぶ追跡成績では、静脈血栓症の再発のみならず、心筋梗塞や脳
卒中などの動脈血栓のリスクの増加が 10 年以上も持続することが報告された。特に、静脈
血栓症発症後 1 年以内のリスクは高く、相対リスクは 2 倍程度にもなる(図 3)。
深部静脈血栓症・肺塞栓症患者における心筋梗塞・脳卒中の発症リスク
「誘因」有り
3.5
相対リスク
3.0
深部静脈血栓(DVT)25,199例
肺塞栓症(PTE)16,925例
2.5
2.0
1.5
1.0
0.5
0
「誘因」無し
3.5
相対リスク
深部静脈血栓(DVT)例
肺塞栓症(PTE)例
3.0
2.5
2.0
1.5
30%
リスク
増加
1.0
0.5
0
0 to 1 1 to 5
>5 to 10
10 to 15
15 to 10
(年)
Sørensen Ht et al. Lancet. 2007; 370: 1773-1779.
最後に
我が国では血栓症領域における、抗血栓症薬の導入が大幅に遅れており、臨床的なエビデ
ンスの集積が十分に成されていない。今後、予防・治療薬の迅速な導入と我が国の臨床的
エビデンス作りが急務である。
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