キリスト復活の事実 1 コリントへの手紙第一 15 章 3∼8 節 →新改訳

2004年 4月 11日 最も大事なこと(原稿)
「最も大事なこと」 04.4.11 泉キリスト教会復活節礼拝
─ キリスト復活の事実 ─ 1 コリントへの手紙第一 15 章 3∼8 節
→新改訳聖書コリントへの手紙第一 15 章 3∼4 節
”私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、
次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこ
と、
:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、”
→口語訳聖書コリントへの手紙第一 15 章 3∼4 節
" わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けた
ことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪の
ために死んだこと、
:4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、”
はじめに.
私どもが川崎の中野島に住んでいた時のことですが、創価学会の会員の方が私に
こう言いました。
「キリストの処女降誕はウソ。キリストの復活はウソ。始めと終りがウソだから
真ん中もウソ。聖書の言っていることは全部ウソ。」
これは彼らの読んでいる「折伏教典」に書いてあることなのですが、事実をよく
知らないので、こう言うのも無理はありません。この批判は的はずれですが、目の
付け所と議論の仕方は、仲々宜しいようです。
で、私は応えて申し上げました。
「キリストの処女降誕はマコト。キリストの復活はマコト。始めと終りがマコト
だから真ん中もマコト。聖書の言っていることは全部マコト。」
ご承知のように、今日は、このキリストの復活を喜び祝う復活祭の日なんです。
ところで、これも私どもが川崎の中野島に住んでいた時の話ですが、教会の直ぐ
前におられたご年配の方、もと芸大の教授であられた方が私にこう言われました。
それは確か、この方のご家族のお通夜の日のことでしたが、お宅にお伺いした折
に、前々から私を牧師と知って居られて、こう言われました。「まさか、あなたは
真面目に、キリストが甦ったなどとは信じておられないでしょうね。」
神さまについて、聖書についてよくお知りにならない方が、こう申されるのは無
理のないことです。それは、真面目な方の真面目なご質問でした。
それで、私も真面目にお答えしました。
「キリストが甦ったと真面目に信じています。本当に、キリストが甦ったと信じ
ているので、このキリストに自分の生命をかけ、生涯をかけているのです。」
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実際に、多くの人々がキリスト復活の事実を知らず、またこの事実を知ろうとも
せず、自分には全く関係のない宗教的な作り話に過ぎないと片付けておられます。
しかし、事実を無視することは、時に、自分に重大な結果を招くことになりかね
ません。
(一)もっとも大事なこと(→コリント人への手紙第一 15 章 3∼4 節)
→コリントへの手紙第一 15 章 3∼4 節
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、
私も受けたことであって、次のことです。
キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」
ギリシャ語新約聖書
1Cor. 15:3
pare÷dwka ga»r uJmi√n e˙n prw¿toiß, o§ kai« pare÷labon,
o¢ti Cristo\ß aÓpe÷qanen uJpe«r tw◊n amartiw◊n hJmw◊n kata» ta»ß grafa»ß
1Cor. 15:4
kai« o¢ti e˙ta¿fh kai« o¢ti e˙gh/gertai thØv hJme÷raˆ thØv tri÷thØ kata» ta»ß grafa»ß
prw¿toiß prwtoß
ADJECTIVE neuter p l u r a l dative noDegree
f i r s t , p r o m i n e n t , f o r m e r , (時と場所)第一の、初めの、(地位)最高の、主要な
e˙n prw¿toiß
という表現はNT中ではここ一ヶ所だけ。
NASB
1Cor. 15:3
For I delivered to you as of first importance what I also received,
that Christ died for our sins according to the Scriptures,
1Cor. 15:4
and that He was buried, and that He was raised on the third day according to the Scriptures,
ここで聖書がもっとも大事なこととして私たちに伝えていることは、教えとか教
訓ではなくて、出来事であり、事実であるのです。
しかも、それは到底、信じ難いことであり、驚くべき事実なのです。
どの宗教も、良いことをしなさいと教え、有難い御利益や幸せを約束しています。
でも、どんなに立派そうな教えも、結構づくめの約束も、それを支え、その裏付
けとなる事実を持っていなければ、結局のところ、当てになりませんし、ほとんど
無意味でありましょう。
ここで聖書は、約二千年前にキリストが十字架に付けられて死に、葬られたこと
と、三日目によみがえられた、といこの事実、この出来事が、私たちに伝えられて
いることの中で、もっとも大事なことであると告げているのです。
さらに聖書は、この出来事の意味、そして、この出来事と私たちとの関係につい
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ても、はっきり告げているのです。
(二)この出来事の意味
1)キリストは死人の中から復活なさることによって、ご自身が神の御子であら
れることを世界に向かって公にお示しになったのです。
→ローマ人への手紙1章4節
「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、
大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」
2)キリストの復活は、キリストの十字架が確かに有効であることを立証してい
るのです。
すなわち、アダムの子孫である全人類が罪のもとにあること、そして、それ故に、
人は十字架におかかり下さった救主キリストを信じて罪の赦しをいただき、救われ
るべきことを告げ示しているのです。
→ローマ人への手紙4章 25 節
「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、
私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
また、キリストの復活は、聖書に記されたキリストのお言葉がマコトであること
を明らかにし、そして、それ故に、キリストの御言葉を信じ、その御言葉に従うよ
うにと、今、あなたにも求めているのです。
さて、ここで、イエス・キリストさまがお語りになったたとえ話を一つご紹介い
たしましょう。
(三)愚かな金持ちのたとえの警告(→ルカ 12 章 16∼21 節)
→ルカの福音書 12 章 16∼21 節
”それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。
『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、
もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先
何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
:20 しかし神は彼に言われた。
『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。
そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」”
このたとえ話はあるお金持ちの物語です。このお金持ちは畑が大豊作で、本人と
しては最高の気分でありました。もう、これからは働かなくても、贅沢に暮して行
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けるほどの十分な貯えが出来てしまったのです。
だから、彼はこう自分に言い聞かせたというのです。
「これから先何年分もいっぱい物がためられた。
さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」
すると、神さまが彼に宣告して仰せになりました。
「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」
20 節の神さまの宣告のお言葉の前半分を原文から直訳すると、
「愚か者。今夜、彼等があなたの命をあなたから取り戻します。」となります。
神さまがご自分でなさることを、遠回しの言い方でこのように述べておられるの
ですが、それが却って、突き放され、神さまから見放されてしまった状態になって
いることを感じさせる表現になっているように思われます。
もうだめ!もうどうにもならない!とこのお金持ちは感じたに違いありません。
「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」
このお金持ちは、突然、死の宣告を受け、死んでしまうことになったのです。
イエス・キリストさまがここで教えようとなさっていることが何であるかは、こ
のたとえ話の直前の 15 節に言われているとおりです。
「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、
いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
どんなにお金や財産を貯えても、人間はそれでもって自分のいのちを保証したり、
確保したりすることは出来ません。
新約聖書のヘブル人への手紙9章 27 節を開いて見ましょう。
→ヘブル人への手紙9章 27 節
”人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように”
この聖書のお言葉は、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが
定まっている」ということを、私たちにもはっきり確認させようとしているのです。
死が徐々にやって来る場合があり、ルカ 12 章でも見たように、突如として死が
襲って来る場合もあります。
いずれにしても、一度死ぬことは人として生まれたすべての人間に定まっている
ことなのです。死は遅かれ早かれ、必ず人間に訪れてくるものです。死はすべての
人間に必ずやって来ます。その確率は1です。
私たちは、病気や事故に備えて健康保険や生命保険に加入し、車を運転する人は
自動車保険に加入します。そうすることは現代社会の常識でしょう。
だのに、必ずやって来るこの死に対して何の備えもしないでいるのは、まさしく
愚かなことです。そうではないのでしょうか?
自分の死後に残される家族のため、生命保険をかけておくのもよいでしょう。
けれども、あなた自身のため、あなたの魂のためには何の備えも出来てはいない
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のです。この冷厳な事実に目をつむっていたり、この恐るべき事態の到来を無視し、
それを考えないことにしていても、この死と死後のさばきを避けることは出来ませ
ん。
では、この死に対して、一体どのような準備が出来るというのでしょうか。
(四)復活のキリストによる救い(勝利)の保証
ご自身の死をもって死に打ち勝ち給うたキリスト、死人の中からよみがえり給う
たキリストのお言葉をお聞き下さい。
→ヨハネの福音書 11 章 25 節
”イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」”
誰もが知っているように、この世に生まれて来た人間はみな死にます。キリスト
を信じている者も人間であり、やはり、死にます。
先週も、私の旧い友人 ─ 牧師をしていた方ですが、亡くなっておられたこと
を知りました。
”旧友の相次ぐ訃報 梅眞白”(茂光)
今ここにいる私たちもみな、例外なしに、いつか死ぬことでしょう。そして、私
たちの肉体は死によって、形を失うことでしょう。
しかし、キリスト信仰によって神の子とされ、神の子の命として私たち一人々々
に与えられている永遠の生命は、決して死に呑み込まれてしまうことがありません。
この肉体の死も、キリストを信じる私たちを神さまの愛から引き離すことは出来な
いのです。
そして、やがて再びキリストがこの世にお出でになるとき、すべてキリストを信
じる者は、初穂として甦られたキリストのように、栄光のからだに甦ることになっ
ているのです。
十字架に付けられて死に、三日目に復活したキリストを信じる者たちは、死んで
も生きることになっているのです。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生き
るのです。」とキリストが弟子たちに保証しておられます。
そして、すべてのキリストを信じる者のうちに与えられている御霊さまが、その
ことを必ず、実現に至らせてくださるのです。
新約聖書から二つの箇所を開きたく存じます。
第一に、→ヨハネの福音書 14 章 17 節
” その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世
はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っ
ています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからで
す。”
すべてのキリストを信じる者のうちに、御霊さまが与えられているのです。
第二に、→ローマ人への手紙8章 11 節
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2004年 4月 11日 最も大事なこと(原稿)
" もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、
あなたがたのうちに住んでおられるなら、
キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、
あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、
あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。”
信仰生活を続ければつづけるほど、よくわかってくることですが、この私の肉体
にも、魂の中にも、救われる可能性など、どこにも見当たりません。若さを誇って
いた身体は衰えてくるだけですし、魂も昔は大和魂があると思っていたのですが、
これも腐れ魂でしかなかったことが、よくわかって来ました。
十字架に付けられて死に、三日目に復活されたキリストによる救いなしには、こ
の私が救われる可能性は、私自身の中には一かけらもありません。
しかし、キリストとキリストのお言葉に、こんな私でも救われる希望があるので
す。そして、私たちの信仰と希望は、キリストの復活という出来事にによって保証
されているのです。
だから、私たちは生きる望みのないようなときにも、この究極の望みに生きるこ
とができるのです。
むすび.
キリストの復活は、実に驚くべきまことです。
この出来事によって、キリストの弟子たちは起ち上がり、世界の歴史は大きな転
換を遂げることになったのです。
キリストの復活という出来事なしには、この地上にキリストの教会が誕生するこ
とはなかったことでしょう。
キリストの復活という出来事なしには、礼拝の日を十戒の定めた土曜安息日から
日曜日に変更されるようなことは、決して起こり得なかったことでしょう。弟子た
ちは日曜日にキリストが復活されたことを喜び、この一週のはじめの日曜日を「主
の日」(「キリストの日」の意味)と呼ぶようになったのです。
もう一度、コリント人への手紙第一 15 章 3∼4 節をお読みしましょう。
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、
次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、
私たちの罪のために死なれたこと、
:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」
最後に、ヨハネの福音書 11 章 25 節のみことばをお読みしましょう。
→ヨハネの福音書 11 章 25 節
”イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」”
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