Title Author(s) Citation Issue Date カナダ,ニューブランズウィック州におけるフランス語 教育の歴史( fulltext ) 大矢, タカヤス; 奥山, 令織奈 東京学芸大学紀要. 人文社会科学系. I, 59: 89-103 2008-01-00 URL http://hdl.handle.net/2309/87635 Publisher 東京学芸大学紀要出版委員会 Rights 東京学芸大学紀要人文社会科学系Ⅰ 59 pp. 89∼103,2008 カナダ,ニューブランズウィック州におけるフランス語教育の歴史 * 大矢タカヤス,奥山令織奈 仏語仏文学** (2 0 0 7年8月3 1日受理) 今日,カナダ連邦の公用語が英語とフランス語であることは比較的よく知られているが,州単位で見る と,10州3準州のうち,この2言語をそのまま州の公用語としているのはニューブランズウィック州のみであ る。この事実は,少なくとも日本ではあまり知られていない!。ちなみにケベック州がフランス語のみを公用 語とし,あとの州はすべて英語が公用語である"。 現在カナダの沿海三州と呼ばれるノヴァスコシア州,プリンス・エドワード・アイランド州,ニューブラン ズウィック州は歴史的に見れば,ケベック州と同様に,ある時期まではフランスの植民地であり,アカディと 呼ばれていた。ところが,1755年から数年に渡ってこの地域のフランス系住民はイギリス軍によって強制追放 され,1763年のパリ条約で英仏間の戦争状態が終結した後,苦労して故郷に戻ってきた者もいたが,彼らはイ ギリス臣民として扱われ,自分たちの母語であるフランス語を維持することは極めて困難になった。イギリス 植民地当局は,教育分野においても,彼らのアイデンティティーを考慮する必要はまったくないと考えていた からである。そしてイギリス系植民が増え続けた結果,当初のノヴァスコシア植民地から1769年にプリンス・ エドワード・アイランド植民地が,1784年にニューブランズウィック植民地が切り離され,今日の州へと発展 していく。そしてこの三州のうち,ただニューブランズウィック州のみが教育現場で次第にフランス語の地位 を回復していき,ついには公用語のひとつとして認めさせることに成功したのである。そこには学校教育の最 前線でフランス語の地位と権利を守ろうとした州民の長く厳しい戦いが反映されている。その過程を,「沿海 三州におけるフランス語教育」"という論文からニューブランズウィック州が関わる部分のみを抜き出して見て いきたい。 「アカディにおける教育は,人的資源,財政資源,そして植民地戦争などに左右されながら発達していた。 フランス支配下にあった1604年から1713年の間は宣教師や修道女が読み書きや計算の基礎を教えていたが, 政府が私立学校の他に公立学校のネットワークを定着させることに着手したのはイギリス支配下の1713年以降 * Histoire de l’enseignement français dans la province du Nouveau−Brunswick, Canada / Takayasu OYA, Reona OKUYAMA 本稿は,東京学芸大学大学院,総合教育開発専攻,国際理解教育コース,多言語多文化サブコース20 0 6年度後期科目 大矢タカヤス担当「カナダ二言語共生社会」の授業内容を基にしている。授業は次の論文を訳読し,コメントするとい う形式で進められた。 Gilberte COUTURIER LEBLANC, Alcide GODIN, Aldéo RENAUD «L’Enseignement français dans les Maritimes, 1604−1992» in L’Acadie des Maritimes, sous la direction de Jean Daigle, Chaire d’études acadiennes, Université de Moncton, 1993, pp.543−585 この論文はカナダ沿海三州,つまり,ノヴァスコシア州,ニューブランズウィック州,プリンス・エドワード・アイ ランド州のフランス語教育の歴史を扱ったものである。しかし,本稿は,フランス語がなぜニューブランズウィック州 だけでその地位を回復できたかという点に焦点を絞るために,主に上記論文のニューブランズウィック州に関する部分 を取り上げて訳出したものである。論文の翻訳は奥山令織奈が行い,大矢タカヤスが補筆した。 ** 東京学芸大学(1 8 4―8 5 0 1 小金井市貫井北町4―1―1) ― 89 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅰ 第59集(2008) である。 文化の継承 アカディの教育の歴史は,フランス・イギリス両民族の文化と17・18世紀に両国から始まったイデオロギー に影響を受けている。フランスとイギリスは商業拡大の理由で新大陸への植民地開発に着手したが,その頃の 旧大陸は経済活動も盛んで平和な時期であった。フランス政体下で入植者とアメリカ先住民の子どもに対する 教育の責任を負ったのはフランスカトリックの宣教師たちである。 フランス支配下における民間教育 1604−1713 フランスの支配下では,フランス本国においてカトリシズムが国家宗教であったため,政府は植民地発展の 各段階において布教の影響力を保証するために必要な手段を講じた。原則として政府の許可と助成金が必要で あったにもかかわらず,教育はカトリック教会の側からは慈善事業として導入され,宣教師はカトリック信仰 とフランス文化の初歩を伝えるために働いた。 1611年頃,イエズス会の2人の宣教師,ビアール神父とマッセ神父は《教育と宗教の2つの光を入植者とア メリカ先住民にもたらす》という目的を持ってポールロワイヤルに到着した。7年後,レコレ派がフランス国 王からアカディに伝道に赴くよう勅令を受け取った。レコレ派の一人はアカディにとどまり,もう一人はサ ン・ジャン川周辺に腰を据え,もう一人はアカディの北方のミスクー島に赴いた。 イエズス会とレコレ派に続き,カプチン修道会も信仰とフランス文化を教えるという任務に専心した。 イギリス支配下における教育 1713−1770 ヨーロッパ列強の奪い合いの標的となり,何回にもわたって繰り返し攻撃,征服されたアカディは結局1713 年ユトレヒト条約によってイギリス領となった。イギリスが支配し始めた頃,アカディは王権への忠誠を躊躇 したために迫害の対象となった。新たな支配者であるイギリスには,出来る限りアカディの人々をイギリス風 にし,そしてプロテスタントにするという長期的で明確な目的があった。その同化において主要な手段となる のが学校である。フランス人教師は追放され,イギリスのプロテスタント学校の教師を採用することが推し進 められたが,この同化メカニズムに対してアカディに住む人々はフランス文化を保全するよう抵抗の意を明確 に示した。 間もなくして政府は学校教育領域の掌握を明言し,1770年にイギリス国王は全てのカトリック信者に信仰の 表明とフランス語教育への接近を禁じた。 ≪もし,教皇第一主義支持者や教皇の宗教を公言する者が,無謀にも地域に学校を設立するならば,発見さ れた場合,そのような違反者は,それぞれの違反行為について懲役三ヶ月を受け,10ポンドの罰金を王に支払 わねばならない。≫ その上,政府は土地の権利と良い給与を提供することでイギリス教員を招来していた。≪各々の町の中心 部,あるいは近くの村の特定の場所は教会建築のために確保されるべきであり,教員一人当たり5 00エーカー の土地が与えられるべきである≫ 強制追放後のフランス語教育 森の中へと避難した数百人の避難民たちにとって,第一の関心事は不慣れな土地で生き延びることであっ た。極度の困窮のこの歳月を通じて,学校制度の確立を考えると言うのは不可能でないにしても,難しかっ た。数百人の被追放者たちは,一度戻ってくると2つの集落に分かれた。一つはセント・マリー湾であり,も う一つはケープ・ブレトン島である。避難民たちの国外追放から10数年経った後,イギリスの植民地当局はア カディの地政分割を行った。ノヴァスコシア植民地は1763年に,プリンス・エドワード・アイランド植民地は 1769年に,そしてニューブランズウィック植民地は少々遅れて1 784年に,この分割によって誕生したのであ る。地政分割の際にすでにもうそれぞれの植民地に一定数のイギリス系学校があったが,新しい植民地政府側 にごくわずかな寛容性があったために,フランス系の学校も建設することができた。しかしながら,フランス 文化の発展の可能性を規制するために,植民地政府は次々にイギリス系公立学校のネットワークを確立して ― 90 ― 大矢・奥山:カナダ,ニューブランズウィック州におけるフランス語教育の歴史 いったのである。 ニューブランズウィックの司祭と教師 1784−1871 ノヴァスコシア州のように,ニューブランズウィックにおいてもアカディアン国外追放からの半世紀は《暗 黒の時代》と呼ぶことができるだろう。学校制度の確立を考えるというのは不可能でないにしても,難しかっ た。しかしながら,幾人かの司祭や親たちはいくらかでもフランス文化を伝えようと尽力した。≪母や父は一 日の疲れでヘトヘトになっていても子どもたちに読み書きを教え,司祭と教師はあちこちでフランス語教育の 灯りを保つために身を粉にしたと言われた。≫ ニューブランズウィックの北の住民たちは分散しているため,学校へ通う距離を考慮すると学校の設立は困 難であった。このような状況の中で数人の教師が順番にそれぞれの家庭を巡回して文化の基礎を教えた。北西 のサン・バジルで1817年にアンドレ・ラガルド主任司祭が学校を開き,そこでは他所よりも丁寧な指導を受け ることができたと報告されている。約10年後,北西部の4つの教区にも学校が建てられ,そこではこの司祭に よって養成された教員がフランス語と少々の英語を教えた。 同じ頃,この植民地の北東部,バチュルスト,グランドアンス,カラケット,ネグアック,そして南のブク トゥッシュにおいて巡回教師がかなりの数のアカディの子供たちに教育を施した。 政府の方でも,町と大きな集落において公教育の体制を徐々に改善していた。この進歩は段階的な措置に よって具体化された。すなわち1802年,最初の法令が初等教育教員への経済的支援を明記し,1805年には小学 校と中学校が建てられた。また,1816年には学校経営を委ねられる最初の理事の選出が行われた。 1847年,教区学校が開設され,教員養成学校(Training School)がフレデリクトンに設置された。1858年, 中学校建設費が増額され,トレーニングスクールの学生に対する経済的支援が行われた。そして≪最後に,査 定の原則を受け入れる学区および教区にはふたたび特別助成金が与えられた。≫(原文英語) 努力の50年が過ぎた後,英語系であれ,フランス語系であれ,修道士・修道女の団体によって経営される私 立学校と宗教系学校の数は公立学校の数とほぼ同じであった。これに関しては州の総監督官による1871年の年 次報告を表A(省略)に見ることができる。この頃の学校視察官は,建物の老朽化,欠席率,黒板や教科書の 不足,不適切な教員養成そして経済的困難といった多くの問題を報告している。より多くの生徒の通学,また 教員養成改善のため,政府は2つの言語グループにも共通公立学校のネットワーク導入を考えた。 国家と学校 19世紀初頭,産業革命の際,ヨーロッパの各国政府とアメリカ政府は教育領域における様々な教会の影響力 拡大を抑制することを決定した。実際,産業時代の到来とともに全ての子どもに対する教育の普及は必須と なった。これ以後,教育という行為は政治的行為となる。つまり,それはある社会の全体的計画となり,その 責任は宗教の各宗派にではなく,国家に帰するようになる。社会は自ら選んだイデオロギーに従って若い市民 たちを教育し,彼らを社会に組み入れる際に彼らの果すことのできる役割を決めてやらなければならないので ある。 ≪教育の民主化は次の2つの理由によって行われた。近代国家に賢明な市民を与えること,そして有能な労 働力を鍛えることである。19世紀においては政治的配慮が支配的であった。教育改革は,選挙権の広がり,制 度からの宗教排除,そして共和制の確立と密接な関係を持って進行した。他の改革と同様に共通学校制度は民 主革命から発展した。≫(原文英語) ノヴァスコシア州のタッパー法 1864−1902! カナダ連邦結成の際に,アカディアンたちはフランス語教育に関する数々の問題に直面した。実際,1864年 の英語単一,無宗教の教育制度を定めたタッパー法が1864年に可決されてから,アカディアンたちは文化的か つ宗教的同化を恐れて子どもを公立学校に通わせることを拒んだ。これはフランス文化の発展において暗い時 期であり,この学校法は新しい公教育システムになんとか順応するしか選択肢のないアカディアンにとって悲 惨であることが判明した。たとえアカディアンが数的に大きなグループを形成していたとしても,その当時, ― 91 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅰ 第59集(2008) 彼らの権利を擁護するリーダーの才能を有するものはいなかったのである。ただ,彼らは自らのアイデンティ ティーを先祖の慣習や伝統と関連するものと考え,信仰と言語の絆の重要性に確信を持ち続けた。 1866年,セント・メリー湾を訪問した際,コノリー司教は,もしアカディの教区信者たちが修道院を建てる ならば,フランスで教育職に従事する修道女を獲得することを約束した。修道院は建てられたが,コノリー司 教はフランス語のできない3人のイギリス人修道女を送ってきた。≪アカディアンにはその修道女たちを受け 入れるしか選択の余地がなかった。コノリーは約束を守ることができなかったのである。≫ (原文英語) フランス語話者の子どもの大部分は100年近くの間イギリス学校に通うことになる。田舎の学区では小学校 の最終学年まで通う生徒は少なかったが,町では,ごく少数の生徒だが,中学校の最終学年まで通うものも あった。学校では教科書は英語で作成され,州の試験は英語で受験することになっていた。また,教員たちは トゥルーロのティーチャーズカレッジで英語による教員養成課程を受講したのである。 プリンス・エドワード・アイランド州における公立学校 1877−1936 1833年から1862年の一世代近くの間,アカディアン学校は政府当局に分離された学校と見なされ,フランス 語教科書を使用したフランス語の学校プログラムを含む教育の自由を享受した。しかし,1862年の規則が,英 語を教えることを承諾するという条件で,アカディアン教師に2倍の給与を支払うとしたため,これはプリン ス・エドワード・アイランド州の学校におけるフランス語教育の衰退の始まりであると言われた。 1877年,中立的な公共学校法のために政府の要求はアカディアンにとって複雑になった。この法令はフラン ス語学校が享受していた特権の大部分を廃止し,アカディ人口の緩やかなイギリス化に貢献した。二言語併用 教科書の使用,英語話者とフランス語話者の視察官による二重の学校監督,そして徐々に英語化する言語環境 はフランス語保護に尽力するアカディアンを落胆させた。1 936年,全479学区の中でフランス語学区はただの 45学区であった。人口を考慮すれば100学区を有してもおかしくはなかった。 20世紀初頭,アカディアンたちはフランス文化保護運動をアカディ教師連盟と聖母互助協会の連携によって 目指し,アカディアン組織内の勢力と努力の再結成の必要性を感じていた。アカディアンたちはそれらの愛国 的な2つの協会を1919年に設立された聖トーマス・ダキナス協会に統合することを決定し,10年後にはプリン ス・エドワード・アイランド州の様々な地域に33に支部を創設した。その後,この協会はアカディアン文化の 進歩と改善を進める中で重要な業績を残した。特に教育領域においてアカディアンとフランス人地域の学校で のフランス語教育の進歩に大きく貢献したとされている。 ニーブランズウィックにおける1871年の学校法 ニューブランズウィック政府にとって,いくつかの要因が公立学校ネットワークおよび共通学校の建設・維 持を保障する課税のシステムに有利に働いていた。そのような公立学校ネットワークは既にアメリカ,ノヴァ スコシア,オンタリオに存在しており,イギリス政府支持者である入植者たちはそれらを評価し,自分たちの 州にも似たようなシステムの導入を望んでいた。さらに,幾人かの視察官たちはアメリカの公立学校を熟知し ており,出席率を増加させ,学校の荒廃状態を改善するために自分たちの学区への公立学校建設を優遇した。 そこで,政府は公立学校制度を整備して全ての子どもに教育を提供するためにひとつの法案を可決させた。 1871年の学校法は,無償であること,新学区の創設,地域の必要に応じた学校の建設,教員免許の管理という ような積極的な側面を含んでいた。しかし,それと同時に教理問答指導の禁止,修道女に対する政府の資格証 明取得義務,宗教的服装と教室での宗教的象徴明示の禁止という,対立を引き起こすような側面も含んでい た。その上,子どもを私立学校に通わせる親への二重課税があった。彼らは公立学校の税と私立学校の通学経 費の両方を負担しなければならなかった。 世論は1871年の学校法を前にして割れ,アングロ−プロテスタントの納税者はその法案を支持したが,カト リック信者たちは激しく反対した。その法案は,カトリック教徒に,自らの信仰が受けることを禁じる教育の 経費,自らの原則と教義が通うことを禁じる学校の維持費を負担させようとするものであった。 カトリック教徒の抵抗 1871年の中立公共学校法は,アカディアンおよびカトリックのアイルランド人から子どもに宗教学校で教育 ― 92 ― 大矢・奥山:カナダ,ニューブランズウィック州におけるフランス語教育の歴史 を受けさせる機会を奪った。彼らは自分たちには全く合わない法令の側面を変えさせようと様々な手段を講じ ることを決め,学校税の支払い拒否と,連合政府,ロンドン植民地省や裁判所への働きかけを行った。この抗 議と反対運動は4年間続き,カラケットの争いによって終結した。州の北東にあるこの小さな村で一人のアカ ディアンの若者,ルイ・マイユーと一人のイギリス人,ジョン・ギフォードが武装抗争の中で亡くなったので ある。紛争の悪化と新聞によるその全国的な宣伝の危険を前にして,首相のジョージ・キングは妥協案を提示 し,カトリック教徒はそれを受け入れた。1875年の妥協案は,正規の授業時間外の教理問答指導,宗教的服装 の着用,修道女に対するトレーニングスクールへの通学免除,小学校でのフランス語によるコミュニケーショ ンと学習の許可という4つの重要点を対象としていた。この妥協案を受け入れることで,数年の間学校には平 和が訪れたのであった。 フランス語教科書と二言語併用教科書 通常,英語を用いるこれらの公立学校ネットワークにおいて二言語併用のアカディアンの若者たちの成績と いうのはしばしば凡庸であった。農作業,長距離の通学,冬の厳しい気候,そして英語を読み,理解すること の難しさなどの要因が生徒のモチベーションを低下させていた。フランス語のテキストはほとんどなく,最初 のフランス語読解教科書は1876年から1907年の間に導入された。30年の間に生徒たちは,たった4冊の小学校 用フランス語読解教科書しか使用できなかった。1922年から,シャルル=D・エベール視察官は教師であるテ オデュール・ルジュヌの助けを得て,いくつかはフランス語,その他は二言語併用の補助教科書を採用するこ とに成功した。2クラスまたはそれ以上のクラスがある学校ではフランス語話者に英語を教えることを目的と したアレンドルフの新しい二言語併用教科書が導入された。その上に,フランス語文法の三種類の教科書も加 わった。しかし,クラスがひとつしかなく,それもレベルの異なる生徒で満員になる小さな学校ではこのシス テムはあまり成果をあげなかった。学校は大部分において痛ましい状況にあり,中退率はもっとも頭を悩ます 問題となっていた。子どもたちは学校が好きではなく,親が学校に行くことを強要するので嫌々通っている。 5,6年経った後,彼らは大した知識も得られないまま卒業することとなるのである。 教育の多様な変革 20世紀の初頭からフランス語教育の発展に関しては,沿海3州の間で重大な差が認識された。ニューブラン ズウィック州においては,全人口に占めるアカディアンの高い割合,戦闘的な圧力団体,フランス語事実を前 にした歴代政府の寛容性などのおかげで教育制度の中に大きな変化が生じた。一方,ノヴァスコシア州とプリ ンス・エドワード・アイランド州においては,フランス語話者の低い割合と地理的な分散により,教育領域に おける進歩はより緩慢でより困難であった。 ニューブランズウィック政権の分担にむけて 20世紀の初頭,ニューブランズウィックの教育水準は極めて不完全であった。単一学級校において,さらに 中等学校においてさえ成績はあまり良くないことが判明した。一学級には多すぎる生徒数,授業レベルの違 い,低いモチベーション,そして多くの中退者などが非識字率の高い度合いを生み出している。1922年,ニュー ブランズウィックの中等学校における生徒の90パーセント以上が9年生になる前に退学し,フランス語圏の郡 において六年生まで学校に通うのは生徒のせいぜい7パーセントであり,9年生になるのはわずか3パーセン トである。その上,産業の発展による日雇い労働者の不適当な養成の問題があり,政府はそのような問題に対 する改善措置をとらねばならなかった。 若者が産業化社会に順応することを可能にするよりよい教育を提供することに政府が成功するのは抜本的な 学制改革を行った後である。この改革を通して,フランス語話者はゆっくりとフランス語教育の自治権と管理 権を手に入れることになる。1932年以降,非常に重要な3つの学制改革が完全に教育制度を変えるのである。 1つは1940年代の初頭に導入され,もう1つは1967年頃,そして最後の1つは1985年に導入された。 郡単位と地域学校 教育制度を再編する目的で州政府は学校体制を検討し,そのために勧告を出す任務をある委員会に担当させ ― 93 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅰ 第59集(2008) た。委員長の名前をとったマックファーレン委員会は1932年に報告書を提出し,各郡は課税と運営を一本化す ること,助成金が学区の統合と生徒の移動経費に充てられること,初等教育が子どもたちの言語で提供される こと,中級レベルにおいては歴史,地理,保健,自然科学の二言語併用教科書が導入されることを提案した。 この最後の勧告はオレンジ党員をひどくいらだたせ,彼らはプログラムの導入とフランス語話者の生徒のた めのバイリンガル学校建設を遅らせるために様々な手段を取った。その上,依然として残る1929年の大恐慌の 影響および,高騰する可能性のある税金に対する納税者たちの抵抗を前に,地方の中等学校建設は遅れ,大規 模に進み始めるのは1940年代初頭になってからであった。学区の統合と学校建設から10年後,1951年には都市 部の統合された学校は15校,地方では48校を数えた。それらの中等学校は人口の多少に従って2つまたはそれ 以上の課程を提供し,中でも一般教養,様々な手工業の授業,農業や商業,家庭科の授業があった。これらの 地域学校は以前の3から20の学区で編成された大きな学区を対象としている。この改革は全体としては効果的 であった。その統合はとりわけサービスと教員の中央集権化することによって,中等レヴェルの教育に大きな 一歩を印した。 地域学校の3分の1近くが,実際にはフランス語話者に敵対する人々を鎮めるために「バイリンガル」のラ ベルを貼った教区の学校であった。これらの学校の中はフランス語環境であり,授業はフランス語で行われ, 教科書もフランス語で,学校運営はフランス語話者の教育委員会の管轄である。全体としては中等学校ネット ワークは若者たちが学校に通い,中等教育を修了する動機付けに目覚ましく貢献することになる。 ≪1965年6月30日に修了した学校暦について,教育における傾向の調査が行われた。この調査から,30年以 上の時間をかけて多くのことが成し遂げられたという結論が出せるであろう。進歩の最も顕著な例は,州の各 種学校や大学と同様に中等レベルにおける生徒の在籍数の大幅な増加である。≫(原文英語) この問題に関して,統計上のデータも非常な進歩を裏付ける。 1 934年6月,≪1年生に在籍する生徒は 15, 679名いた。30年後には15パーセント増加し,18, 143名に達した。9年生から高等学校の最終学年における 生徒数は5, 7 23名から34, 070名に増え,495パーセントの増加であった。そして大学の学生数は996名から5, 442 名に増え,4 46パーセントの増加となった。≫(原文英語) 学校の公平さと民主化 1940年の学校改革における数々の利点にも関わらず,課税システムがいくつかの郡において公平さの問題を 引き起こしたことに変わりはない。税率は郡によって異なるが,もっとも不利益を被るのは依然として大多数 がフランス語話者の郡であった。 ≪当時の田舎の学区は,アカディアン地区統廃合の大部分で中心となったが,町に比べると不利であった。 最もフランス人が多い郡と最もイギリス人が多い郡における教育目的の財源を比較しても不均衡であることが わかる。キングス郡では各々の子どもに1 40. 93ドルを費やされたのに対して,グロチェスター群では6 8. 73ド ルしか費やされなかったのである。≫ このような財政制度におけるバラツキは社会的公平さの欠如に根ざしており,教育における機会平等に深刻 な障害を引き起こし,高すぎる税率によってある種の納税者たちを困窮させた。 いくつかの地方自治体の財源は非常に限られており,彼らの負担は軽減されるべきであるといえる。この税 制の問題は1 960年に選出された政府に任命された委員会によって検討の対象とされることになった。ヴィルヌ 委員会の勧告を受け,ルイ・ロビショー政府は将来的に州が初等・中等教育全体における責任を負うことを決 定した。196 7年から,税務の基礎はフレデリクトンに中央集権化され,政府は地租の見積もり,税率,教師の 給与の画一化を実施した。その上,政府当局はすべての教育サービスをフレデリクトンに集中させ,現存する 423の学区を33の大規模な学区に統合することで各学区が多数の人口に責任を持つことになった。 この改革は全ての子どもに対して,手仕事や専門化した職業に関するかぎり,ますます厳しくなる社会に順 応するためのよりよい機会の提供を目的としている。≪読み書き能力だけでは十分ではない。更なる教育の機 会が,少数の人間に制限されるようではならない。今日,全ての人間の能力が最大限に発揮されることだけ が,社会に求められるところであり,個人もそれによって満足を得るであろう。≫(原文英語) これらの多目的学区においては,一般教養,職業養成,商業,家庭科の授業が提供された。生徒たちは共通 科目の授業が必修であり,またコレージュ,職業学校,大学の準備課程の選択授業に登録することが可能で ― 94 ― 大矢・奥山:カナダ,ニューブランズウィック州におけるフランス語教育の歴史 あった。多目的中等学校制度から30年後,卒業証書数の顕著な増加は,改革の規模と妥当性を証明している。 教育省の年次報告におけるいくつかの統計上のデータも実質的な進歩を示している。 教育における言語の二元性 フランス語による教育の完全な掌握はフランス語話者によって徐々に実現化された。1964年,教育省は英語 系とフランス語系の2つに区分され,それらは各々イギリス系学校とフランス系学校におけるプログラムと評 価に対する権限を持つこととなった。 1971年から,「バイリンガル」と呼ばれる学区は実質的にフランス語学区となり,英語学区に組み込まれて いたいくつかの少数派のフランス語学区は1978年にフランス語学区として編成された。 フランス系学校の経営は1世紀近く前から徐々に実現されていた。それは,フランス文化教育の自立に好意 的な法案と規則を可決させるために政府に対してさまざまな手段を講じた戦闘的組織に代表されるフランス語 話者たちの決意と骨の折れる作業の結果であった。愛国的な主要組織と言えば,アカディアン全国協会,聖母 互助協会,教育アカディアン協会,アカディアン教師協会(後の AEFNB),そしてジャックカルティエ受勲 者団体が挙げられる。それらの組織はフランス語話者自身によるフランス語教育の掌握に大きく貢献した。 フランス語教育システムの発展において強調しなければならないのは,フランス語系の修道院およびコレー ジュによる民間領域での大きな貢献である。かれらは何十年もの間,小さな子女グループに中等教育を提供し 続けたのである。2 0世紀前半のアカディアンのエリートがニューブランズウィック州の修道院と私立コレー ジュでの教育を受けたことはまちがいない。 諸経費の合理化 1971年と1 985年の二度の不況と生徒数の毎年の減少によって,政府は経費の合理化を強いられた。不況下の 財政を管理する目的で,ある人々は学校制度の構成要素の再編成を提案した。 1985年,政府任命の最初の委員会が教育に関わる財政問題の様々な様相を分析した時に改革は始まった。政 府交代の後,学制改革具体化の目的で二番目の委員会が組織された。 2つの検討委員会による大部分の勧告は全体としては実施されたが,段階的であった。当局はまず公立の大 学やコレージュのような6ヶ月制システムを中等レベルへ導入することにとりかかった。それは中等教育の卒 業証書取得を必修の授業といくつかの選択授業の単位の合計に基づかせるものであった。同様に職業課程にお いては,産業の一般教養の基礎授業が専門化された授業に取って代わった。卒業証書は州の試験合格後に与え られた。 これらの変革は中等レベルの生徒全体を対象としており,それに加えてさらに2つの変革が続いて起こっ た。それは特別な扱いを必要とする生徒を通常クラスに入れること,および公立幼稚園クラスの編成である。 政府は同様に,学区地図の改訂に取りかかった。そして1991年に学区数の削減を決定したのである。学区の 境界とサービスがここ何年もの間に幾度も修正されているけれども,今こそ大規模な見直しがなされる時機だ と判断されたのである。 新しい組織に従って,学区数は42から18に削減された。そのうち12の学区がイギリス系で,6の学区がフラ ンス系であった。組織とサービスと教育の進展におけるこの変革には,関係する人々の適応を考慮すると数年 の試行期間が必要とされるであろう。1992年の学区地図にはフランス語学区も示されている。 ニューブランズウィックの幼稚園教育 公立幼稚園の構想からそれを具体化するまでの間で,つまり,ニューブランズウィックが常設の就学前プロ グラムを設立するのに,1世紀近くを費やした。1898年以降の年間報告において主席上級監督官ジェームス= R・インチは,未来の女性教師が,小学生にも幼稚園教育を応用できるようにする目的で, 「幼稚園部門」は 「モデルスクール」に統合されるべきであると繰り返し要求している。そして現存する幼稚園は民間幼稚園の 提案が実った結果であると付け加えた。 1971年から1991年の間に,いくつもの政府委員会が相次いで設置されたのは,社会発展に関する州の教育委 員会の「就学前プログラムは各学区全ての5歳以上の子どもたちに提供されるべきである」という勧告に基づ ― 95 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅰ 第59集(2008) いている。また「プログラムは幼稚園の教員養成のために早急に確立されるべきである」とも勧告している。 その構想はゆっくりと進み,8つの実験的な計画に結実した。8つのうち4つはフランス語圏で,残りの4 つは英語圏である。しかしながら,この計画は予算の制約で翌年にはなくなってしまう。この間,就学前教育 のバカロレアがモンクトン大学のプログラムに付け加えられた。それと同時に1976年9月,教育学部が実習生 受け入れのための幼稚園部門を創設した。 おそらく多様な起源をもつフランス語系圧力団体の力が結集されたおかげで,新政府は1991年,任意の公立 幼稚園プログラムを学校制度に組み込んだ。この計画は私立幼稚園ネットワークの中で既に職務に就いている 女性教師のための養成プランも含んでいる。 ニューブランズウィック州における教員養成 1848−1968 ニューブランズウィック州は1784年に州として設置された。(注)初代総督カールトンに与えられた任命書の 中で,ジョージⅢ世は教員免許保有義務に言及している。しかしながら,この州において教員養成について実 際に言及されるようになるにはさらにおよそ1世紀ほど必要である。当時,教育の基礎は巡回教師や聖職者に よって教えられていた。政府は後者の教員養成に関してはいかなる権限をも行使していない。 ニューブランズウィック州の最初の学校法は1802年に始まった。その法令は学校の維持をある程度保障した が,教員については何も規定していなかった。そしてまだ教員養成の学校は1つも存在していなかった。半世 紀ほど経って,3人の学校視察官から成るある委員会が,教区学校と,公的資金の財政援助を受けているその 他の学校に関するアンケートの実施を委任された。 新しい法令はこの委員会の報告書にしたがって1847年に可決され,いくつもの重要な改革をもたらした。と りわけ州の教育局設立,師範学校建設,教師の3階級の分類,2人の視察官の任命,学校に関する権限の教育 委員会への委譲などである。 これによって初めて,ニューブランズウィック州の教員養成は中央権力の管轄になる。法令はトレーニング スクールとモデルスクール設立を全ての教師を養成するためとし,そこにはすでに教師として働いている人も 含まれていた。それに従いフレデリクトンにおいて1848年2月10日,最初の教員養成校が公式に開校された。 同年の終わり頃,実習校を備えたもう1つの教員養成校がセント・ジョンに開校された。この教員養成校は2 種と3種の免許状を授与するものである。反対に1種の免許状志願者はフレデリクトンのセントラルトレーニ ングスクールに通うことが必須であった。 1848年以前,教師の大多数は学区から免許状を取得していたが,それはただの手続き以外の何ものでもな かった。それが6週間の教育実習が要求された理由で,その期間は急速に12週間になり,その後5ヶ月になっ たのである。 トレーニングスクールは女性容認に関するいかなる条項をも有していなかった。2つの事例がこの状況をよ く説明している。まずはマーサ=ハム・ルイスの話である。彼女はセント・ジョンの教員養成校に1849年に初 めて登録することができた女性であった。他の学生よりも教室に10分早く来て5分遅くまで残ること,ベール を被ること,そして1人だけ後ろの方に座ることという条件であった。そしてレイチェル・マルタンの場合だ が,彼女は1種の免許状を取得することができなかった。女性教員研修生に関わる法令の条項は立法議会で定 められなければならないからであった。 それでもやはり,1859年には,教師という職業は女性化の道を辿っているように思われた。例えば,登録学 生数218人のうち男性63人に対して女性は145人であった。この現象は全ての人に認められるには程遠かった。 この差異は,主席上級監督官ジョン・ベネットを少しばかり困惑させた。彼の経験上,女性教師は国が採用し たい女性教師数をすでに上回っている,もしくはすでに教師ができるサービスにとって多すぎると考えていた のである。 フレデリクトンのトレーニングスクールは開校から2年後,登録者数が減少傾向にあった。よって,学校は 閉校となり,教員研修生たちはセント・ジョンへと移った。 同年の11月,フレデリクトンの学校は火災の犠牲となった。それにより,チャタムに1867年,もう1校の設 置されるまでは,教員養成校は1つだけであった。このチャタムの学校は3年間しか機能しなかった。 1870年,セント・ジョンとチャタムのトレーニングスクールは閉校となり,教員養成は2 0年ぶりに州都に ― 96 ― 大矢・奥山:カナダ,ニューブランズウィック州におけるフランス語教育の歴史 戻った。トレーニングスクールはその後,ノーマルスクール(師範学校)と呼ばれるようになった。ひたすら 英語による教育が提供されるので,ノーマルスクールは州全ての学校に教師を養成するという任務を果たして いるとは思われなかった。ほんのわずかなフランス語話者しかノーマルスクールに登録していなかった。例え ば,1877−18 78年度の前後期の登録リストには229人中,フランス系の名前はわずか2人しか含まれていなかっ た。 この状況を嘆き,主席上級監督官のT=H・ランドは1878年の彼の報告書の中で次のように勧告している。 「フランス語系の学区に建てられた学校に教員を見つけるのが非常に困難なので,英語で通常の授業を受ける 準備のできていないフランス語話者のために予備の学科が組織されるべきである。」 著書『アカディアン学校のために』の中で,レオポルド・タイヨンは,重要なことは,フランス語で教育が 提供される学科ではなく,ノーマルスクールの英語だけでなされる通常授業にフランス語話者が参加できるよ う,彼らを準備させるためのプログラムだと書いている。 問題の授業は,1884年,計画の発案者が予期していた結果を得ることができなかった。教育局は立場を変更 し,最も低い段階の免許である第3種の免許状取得を望むフランス語話者受講者に対するフランス語学科の設 置を承認した。 フランス語学科は,1940年から1941年まで,その任務を遂行したが登録がないので変更されなければならな かった。 その学科の責任者,J=エドガール・ポワリエ教授は英語話者の学生にフランス語の授業をするのに時間を 割いた。つまり,それはノーマルスクールの新しい慣習の初めとなるイギリス人へのフランス語教育である。 1947年以降,ノーマルスクールはティーチャーズカレッジとなった。いくつもの変化が教育組織を改善さ せ,登録者数の増加に貢献した。フランス語話者と英語話者は別々のグープに分けられたが,それはそれぞれ のグループが初等・中等教育における体系的な授業を受けられるようにするためであった。いくつかの授業は 大学によって提供される初等教育のためのバカロレアの単位として認証されていた。モンクトン,キャンベル トン,サン・ジョゼフ,サン・バジル,セント・ジョンにおける宗教団体が経営し,ここと提携している教員 養成校は,それらの学校とティーチャーズカレッジの職員の間に存在する協力精神を示している。 実践的な教育実習は,R=H・チャップマンが教員養成組織の局長に任命された後に形を変えた。このキー パーソンはすぐに,「イギリス人の生徒に英語の教科書で,イギリス人教師の監視下で教える」ことはフラン ス語話者学生にとって不利であると考えた。よって,1953年以降,フランス語話者学生の教育実習はウェスト モーランドのフランス語学校で行われた。 1957年,他の新しい政策のために免許状改定がなされた。これ以降,教師は免許状と永久的な証明書を受け ることとなった。その証明書はⅠからⅣにランク付けされており,大学の修業年数に対応している。 ニューブランズウィック州の私立学校 1936−1973 20世紀初頭,免許状に関わる教育省の規則はいくつかの変化をもたらした。教員養成のコレージュと大学の 貢献度が増大したのである。 例えば,ノーマルスクールでの養成が終わった後,教員は自らの教育を完成させるため夏期講座に通うので ある。1936年以降,夏期講座はまずバチュルストのサクレクールコレージュで始まり,その2年後,メムラン クックのサン・ジョゼフコレージュでも始まった。しかしながら,教育省によるこれらの授業が公式に承認さ れるまでには何年か待たねばならない。サン・ジョゼフコレージュのプログラムは1948年になってからやっと 認められ,バチュルストのコレージュは1968年になってからであった。 それにもかかわらず,教育局は1949年11月22日,ある法令を発令した。それは,教員養成にコレージュと大 学がますます多数参加してくると想定したものである。この法令は,教養あるいは科学バカロレアを有する受 験生が,教員養成課程の授業を一年間履修するか,あるいは夏期コースの4期分を受講するという条件で,高 等学校で教えるための仮免許を取得できることになっていた。仮免許が普通免許になるには,学校長の推薦と ニューブランズウィック州の公立学校での2年間の教育経験が必要である。 レオポルド・タイヨン神父の著作によれば,この決定がサン・ジョゼフコレージュにおける教育学部の創設 に貢献したのである。公式の学部長となったのは,学長であるクレマン・コルミエ神父である。 ― 97 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅰ 第59集(2008) 1950年以降この学部に教育バカロレア,その少し後に教育修士号ができた。サン・ジョゼフコレージュ,バ チュルストのサクレクールコレージュ,そしてエドムンストンのサン・ルイコレージュなどもこぞつて教員養 成の改善に貢献している。 職業および商業教員養成コースのフランス語系学生について言えば,彼らはモンクトンのニューブランズ ウィック科学技術研究院に通った。そこが今後これら2つのプログラムにおいて教員養成の中心となる。 ニューブランズウィックにおけるフランス系公立機関 1968−1992 ニューブランズウィック州における高等教育に関する王立調査委員会のレポートは,デゥーチユレポート (le rapport Deutsch)(1962)と呼ばれ,教員養成の転換期となった。このレポートは,高等教育を二つの言語 グループに別々に行うという原則を受け入れた。デゥーチュ委員会は,勧告としては表明しなかったが,もし 州が教員養成のために新たな施設を作るならば,ニューブランズウィック大学とモンクトン大学の地域にそれ らを配置することが州にとって望ましいという結論でレポートを結んでいた。 ニューブランズウィックの立法議会の冒頭,1965年1月16日の開会演説で,フランス語話者学生のためにモ ンクトン大学のキャンパスにノーマルスクールが建てられるであろうと発表された。新しいノーマルスクール は1968年の秋に学生を迎え入れた。この施設では,5年間の教員養成課程が提供された。デュフィー委員会の 最初の勧告の結果,1969年に教員養成は高等教育に統合され,大学に委託され,高等教育委員会の権限下に配 置された。モンクトン大学は教員養成の責任を負うこととなった。この1973年7月1日という日は重要な日と して残った。ニューブランズウィックの教員養成において,フランス語の存在の段階的な承認のひとつの行程 を記念しているからである。 最初の数年間,教育学部はプログラムの拡充に力を入れた。とりわけ,バカロレアと学校行政,教育,進路 指導,教育心理学,聴覚障害者教育に関する教育学修士課程のプログラムである。プログラムは教育省の要求 と公立学校の需要に応えるために常に公表されている。 21世紀が始まろうとしているとき,この学部は沿海三州のフランス語系学校教員の養成および研修のための 高度な要求に対応できる施設と人材を有している。 沿海州における中等教育後のフランス系学校の教員養成 公立学校での教育以上に,中等教育の教育機関は次のような重要な要因に左右される,すなわち,適切な地 理的集中による十分な人口数,十分な財的・人的資源,政府と大衆による教授言語の承認などである。 ところで,歴史は我々に次のようなことを示している。アカディはこの観点からはあまり恵まれていなかっ た,少なくとも数十年前まではそうだった。それは,おそらく1604年に最初のフランス人が到着した時から2 世紀半以上もの間,永続的な中等教育後の教育機関がひとつもなかったということの説明になる。 それは同様に,19世紀の幾度かの設立の試みの失敗と,存在した機関がしばしば短命であることも説明して いる。それはニューブランズウィック州では1864年から1963年まで,ノヴァスコシア州では1890年から1970年 までのことである。最後に,それは現在に至るまでプリンス・エドワード・アイランド州にフランス語系の中 等教育後の教育機関が存在しないことの説明にもなる。 19世紀以降のニューブランズウィック州の実らなかった試み 19世紀以降,ケベックの司教たちはアカディにコレージュを創設するために宗教団体の関心を引こうとした が,失敗に終わった。ケベックの聖職者であるアントワンヌ・ガニョン神父は,グランド・ディーグに普通学 校を開校するために具体的な行動をした最初の人物である。コレージュは1832年から1835年まで2年ほど機能 した。 その発展をより確実にするため,彼は事業の拠点を自分の主たる住居に近いバラショワに移した。建設は始 められたが,続かなかった。もう一人のケベックの司祭,F.−X・ラフランス神父はより成功し,メムランクッ クにある彼の施設はサン・トマ神学校と呼ばれ,1854年から1862年の8年間機能した。 マルセル=フランソワ・リシャール神父はコレージュ創設を望んだ最初のアカディアンである。1 874年サ ン・ルイ・ド・ケントに設立された(サン・ジョゼフコレージュ設立の1 0年後であり,そこから1 00キロと離 ― 98 ― 大矢・奥山:カナダ,ニューブランズウィック州におけるフランス語教育の歴史 れていなかった)彼の施設は8年続いた。 リシャール神父の上司であったチャタムの英語系司教ロジャース猊下は,コレージュが司教区のアイルラン ド人生徒の面倒をあまり見ていないと考え,1882年にこれを閉校した。 不十分な人口,財源の不足,フランス語の重要性認識の欠如という3要因は,おそらくこれら3つの機関の 早すぎる閉校の説明となる。 私立コレージュの設立 1864−1963 上述のように,財源の不足によりラフランス神父は1 862年に彼のコレージュを閉校しなければならなかっ た。 しかしながら,彼はその事業を継続するために,上司の司教に宗教的教団から人を派遣させてくれるよう依 頼するいう成果を残した。 この働きかけの結果としてサント・クロワ修道会出身のカミーユ・ルフェーブルが1864年にメムランクック のサン・ジョゼフコレージュを設立するためにやってきた。それはニューブランズウィック州のアカディアン たちに対する高等教育の最初の試みで,永久的な成功へと通じる。 しかしながら,たとえルフェーブル神父がケベック出身であっても,そしてコレージュがメムランクックの アカディアン地域に位置しても,英語話者であるセント・ジョンの司教スウィーニー猊下はそこにカトリック の若いアイルランド人を送りたがっていた。このためにコレージュはバイリンガルの学校となり,アカディア ンとアイルランド人が通った。1868年,サン・ジョゼフコレージュはニューブランズウィック州政府から学位 を授与する権利を認められ,1888年には大学としての地位を得た。 サント・クロワ修道会がアカディアンを募集する前,修道院長や教授たちは主にケベックから来ていた。ア カディアンが修道院長に任命されたのは,1925年から1928年までの間と1944年以降のことである。1953年,プ ログラム(教養科目を除く)はモンクトンに移された。 1899年,ニューブランズウィック州の北東部のカラケットの司祭であるテオフィル・アラールは,フランス からやってきたユード会士たちがカラケットのサクレクールコレージュで教育を開始するための準備をしてい た。二代目の修道院長プロスペール・ルバスタール神父はそこで重要な役割を担った。1900年,コレージュは ニューブランズウィック州の議会によって大学の学位を授与できる機関と認められることとなる。しか し,1915年,コレージュは火災によって破壊された。カラケットにおけるコレージュの16年間の歴史はそれで 終わりとなった。 実際,新しいコレージュをバチュルストに建てることが決定され,1941年にその機関は大学の地位を得た。 1935年にフランス出身の修道院長の時代は終わり,それを引き継いだのはカナディアンたちであった。その一 方でアカディアンも1943年から1947年,1953年から1974年に修道院長に任命された。 ニューブランズウィック州と沿海州のアカディエンヌたちがフランス語の中等教育後の学業を続行する道を 見いだすのは1943年になってのことである。シスターのマリー=ジャンヌ・ド・ヴァロワ(俗名 Bella Léger) の提案のおかげでバカロレアのプログラムは1943年メムランクックのサクレクール・ノートルダム修道院で始 まった。そのプログラムは1949年にノートルダム・ダカディコレージュに移され,1965年の閉校まで続いた。 1949年,サン・ジョゼフの医療修道女たちはサン・バジルに女性のためのコレージュを作った。それがマイエ コレージュである。 シパガンにおいて,ジェジュ・マリー修道会の修道女たちは1 960年に女性のためのコレージュを作った。 1963年,ジェジュ・マリーコレージュはバチュルストコレージュに併合された。もう一つの女性のためのコ レージュはマリア・アシュンプタコレージュで,聖母被昇天修道会修道女たちによって創られたものである。 そして,それはバチュルストに併合され,1965年から1969年にかけて機能した。 男性のための3つ目の学校は,1946年,ユード会の神父たちによって北西部の人々に役立つために設立され た。それはエドムンストンのサン・ルイコレージュである。翌年,政府はそのコレージュに大学の憲章と地位 を与えた。 さらに二校のコレージュがモンクトンに設立された。すなわち,1943年から1964年までの聖母被昇天コレー ジュとペルペチュエルスクール(永続救済)コレージュであるが,そこではバカロレア課程の1年目と2年目 ― 99 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅰ 第59集(2008) しか提供されなかった。後者ははレダンプト(救世主修道会)会士によって1956年に設立され,1959年にサン・ ジョゼフコレージュと提携したが,1968年に閉校になった。 したがって,1960年代の初めにはニューブランズウィック州のフランス語話者のために8つのフランス語教 育機関が存在し,全てもしくは一部の学生をバカロレアに導いていた(内,3つが女性のためのもの,5つが 男性のためのもの)。 これら全ての機関は宗教団体もしくは在俗聖職者によって経営され,ほんのわずかしか政府の補助金を受け ていなかった。登録している男女学生は比較的多くない。1 961年から1 962年にかけては総数が1 985名であっ た。学生のかなり多くが中等教育のレベルである。1940年台の初めまで,そしてその後も同様に,これらの機 関のプログラムは教養バカロレアに導く古典的授業にしっかりと焦点が定められていた。それは,7年次と8 年次の後につづく7ないし8年間であり,少なくとも男性のためのコレージュにおいては,この古典的授業の 起源は宗教改革の後でヨーロッパで採用された教育にまでさかのぼる。それは実質的には同じものであり,3 世紀の間にほとんど変化しなかった。それでも1940年から1950年の10年間,いくつかのコレージュでは科学, 商業,教育,音楽,工学のプログラム提供を開始した。 モンクトン大学 1963−1992 クレマン・コルミエ神父の提案,およびルイ・ロビショー首相の支援,および他のコレージュの協力のおか げで,上述したような1960年代初頭のアカディアンおよびフランス語話者のための高等教育機関の特色は,そ の後10年から20年の間にかなり根本的に変えられることになる。8つの機関は1つの大学に統合され,多様な 授業を行う3つのキャンパスに分けられ,非聖職者によって指導され政府のより多くの補助金も受けることに なる。何千人もの男子学生と女子学生が,ダルハウジー大学,ニューブランズウィック大学に次ぐ沿海三州で 三番目の規模の大学で学んでいる。その上,コレージュに含まれていた中等教育は廃止された。 王立調査委員会が設立されて,その報告書(デウーチュレポート)が1962年に発表されたのは,1960年に新 しい首相のルイ・ロビショーの内閣で発表された覚え書きが実現されたからである。その報告書はコレージュ をすべて取り込んだモンクトン大学の設立を勧めている。一年後の1963年6月19日,モンクトン大学は創立さ れた。クレマン・コルミエ神父が初代の校長であった。 1967年,もう一つのレポートはモンクトン大学は非聖職者によって指導される公立機関になるべきであり, それに加えて加盟しているコレージュは大学の一般教養学部を設立すべきだと勧告している。アデラール・サ ボワは1967年に学長の座についた最初の非聖職者である。 1971年の終わりにラフルニエール委員会のレポートが刊行された後,モンクトン大学は1972年にバカロレア 課程に,付随的授業,主要な授業そして専門的な授業を集中させるシステムを導入した。ラフルニエールレ ポートのもう一つの影響は,加盟しているコレージュと一般教養学部の地位の変更である。 「バチュルストのコレージュとサン・ルイコレージュは一般教養学部の理事会から抜け,アカデミーの上院 に直接付置されることになった。アカデミーの計画立案委員会が勧告した統合によって≪サン・ルイコレー ジュ/マイエコレージュ≫共同体が生まれた。ジェジュ・マリーコレージュは直接モンクトン大学に併合さ れ,そのためにバチュルストコレージュとの関係は解消された。創設から1 00年以上経っているサン・ジョゼ フコレージュは,大学に吸収される形で姿を消した。」 非聖職者に管理を委ねた3年後の1974年,バチュルストコレージュは閉校となった。そして1975年,その建 物はニューブランズウィック州の北東部の新しい技術学校を収容するのに役立った。 1977年のルベル委員会のレポートは,モンクトン,エドムンストン,シパガンに3つのキャンパスを有する ひとつの大学を勧めている。1977年,サン・ルイ/マイエコレージュはエドムンストンにおけるサン・ルイ/ マイエ大学センターとなり,ジェジュ・マリーコレージュはシパガン大学センターとなり,そしてモンクトン のキャンパスはモンクトン大学センターの名前を持つこととなった。これら3つの大学センターはモンクトン 大学の構成要素となったのである。 1991−1992年度に,モンクトン大学には5425名の学生と女学生が在籍していた。この総数を1961−1962年度 の中等レベルの学生数が最も多い時期に8つのフランス語系学校に登録していた1985人と比較すると,30年間 ― 100 ― 大矢・奥山:カナダ,ニューブランズウィック州におけるフランス語教育の歴史 における量的進歩が完璧にわかるだろう。 他の興味深い統計は,約1 00年間(1864年−1963年)に,アカディアンの教育施設が2 200人に教養バカロレ アを授与したというものである。その他のバカロレア数百件を付け加えるならば,この期間に3000近い免状が 授与されたことになるだろう。ところが,モンクトン大学が存在した最初の2 5年間(1963年−1988年)に約 20, 000の免状が授与されたのである。1993年には免状取得者が25, 000人に達することが予想される。 ニューブランズウィック州における大学以外の中等教育後の教育 職業教育に関してニューブランズウィック州の最初の法令が可決されたのは1918年のことである。しかし, 法令に基づいた機関,とりわけ中等教育後のレベルの機関は数年前までは必ずしもフランス語で授業を提供す るわけではなかった。ニューブランズウィック州の公立コレージュは1974年の法令によって設立されることに なる。 1975年,州はバチュルストコレージュを獲得し,8年間をかけてそれをフランス語話者に対する近代技術教 育の中心に変えた。 1977年,言語と専攻領域の指定が各キャンパスに割り当てられた。エドムンストン,グラン・ソ(1986年閉 校),バチュルストそしてキャンベルトンはフランス語話者のためのキャンパスとして指定された。アカディ アンのためのもう一つのキャンパスは1982年にディエップの南東に開校された。 エドムンストンとモンクトンにフランス語話者のための看護師養成学校があり,またバチュルストに3校目 のバイリンガル学校もある。1986年以降,これらの学校は厚生省から高等教育省の管轄に移された。厚生省の 管轄になる以前,それらの学校は修道会によって設立され,施療院の管轄下にあった。1950年,フランス語も しくはバイリンガルの学校は4つあり,キャンベルトン,エドムンストン,モンクトンそしてトラカディーの 施療院に付置されていた。 聞き取りによる証言によると,最初の免状はキャンベルトンでは1 919年に,モンクトンでは1 930年に,サ ン・バジル(1946年にエドムンストンの施療院に移転された学校)では1942年に,トラカディー(1963年に閉 校)では195 0年に授与された。 結論 沿海3州におけるフランス語の教育のこの概観は,我々にいくつかの重要な瞬間を示している。 1713年と1 755年の政治的な出来事に注目しよう。1713年以前,フランス政体下で子どもの教育はとりわけカ トリック教会の管轄であった。 1713年以降,ノヴァスコシア半島のアカディアンはイギリス政体下に入った。1 713年に続く何十年かの間 に,多数派であるためにアカディアンの習慣に大きな変化は起きなかったとしても,1749年のハリファックス の建設と,とりわけ1 755年の国外追放はその時代の全てのアカディアン社会につらい衝撃をもたらすことに なった。そこには子どもの教育も含まれる。 1755年以降は,ばらばらになったアカディアンたちの一部分の帰還,3州への分割,フランス語話者にとっ て彼らの子どもたちの教育の権利獲得と掌握のために長くつらい道が続いた。 1864年にノヴァスコシア州,1871年にニューブランズウィック州そして1877年にプリンス・エドワード・ア イランド州において,それぞれの政府は無宗教で英語単一の公立学校を強要した。ただ,ニューブランズ ウィック州においてのみ,政府は1875年に幾つかの妥協しなければならなかった。 19世紀の末期,および2 0世紀の今日まで,アカディアンは,公立学校,教員養成学校,大学,公立コレージュ の全てのレベルにおける教育の権利と責任を勝ち取るために戦うことになる。この観点における彼らの成功の 度合いはとりわけ沿海3州の人口数に関係している。それはプリンス・エドワード・アイランド州においては ほとんど成功せず,ノヴァスコシア州では,それよりもやや良という程度である。ニューブランズウィック州 において,アカディアンとフランス語話者が獲得したのは次のようなものである,すなわち,彼らの学区の管 理,教員養成も組み込んだ彼らの大学,副大臣までも持つ教育省のフランス語部門,労働省においても副大臣 まで持つフランス系部門などである。 沿海州におけるフランス語教育のこの簡略な歴史はさらに掘り下げられるべきであり,他の研究者たちがお ― 101 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅰ 第59集(2008) そらくその企てを継続してくれるであろう。」 注 i この問題に関して,日本では次の論文がある。 荒木陽子「共存のためのコミュニケーションを可能にする:カナダ,ニュー・ブランズウィック州の第二 ! " 言語教室」 『人文社会科学研究所年報』№4,敬和学園大学,2006年5月。 ヌナヴット準州については,英語,仏語,イヌワティトゥット語が公用語だという情報もあるが(http : / /www.weblio.jp/content/ヌナブト準州),今のところ筆者は正確には把握していない。 以下の二項目はそれぞれノヴァスコシア州,プリンス・エドワード・アイランド州に関するものである が,将来のニューブランズウィック州との違いの原点がここにあると考えられるので,特に訳出した。 ― 102 ― OYA, OKUYAMA:Histoire de l’enseignement français dans la province du Nouveau−Brunswick, Canada Histoire de l’enseignement français dans la province du Nouveau−Brunswick, Canada Takayasu OYA , Reona OKUYAMA French Language and Literature Abstract Le Canada a deux langues officielles, l’anglais et le français, au niveau du Dominion. Mais chaque province a le droit de fixer sa(ses)−langue(s) officielle(s). Ainsi, le Québec a choisi le français comme langue officielle et les autres ont opté pour l’anglais, excepté le Nouveau−Brunswick qui seul les a adoptées toutes deux comme langues officielles. Or, le Nouveau−Brunswick est une des trois provinces maritimes où résident de nombreux descendants des colons français appelés autrefois « Acadiens », qui ont été expulsés de ces régions dans les années 1750s et se sont dispersés dans le monde entier. Pourquoi alors seul le Nouveau−Brunswick a−t−il pu réhabiliter la langue française jusqu’à l’officialiser ainsi ? Cette question n’a jamais été traitée jusqu’ici au Japon. Nous avons donc décidé d’aborder le problème d’abord en traduisant en japonais un article traitant de l’histoire de l’enseignement français dans les Provinces maritimes. Il s’agit de «L’enseignement français dans les Maritimes, 1604−1992» recueilli dans Les Acadies des Maritimes. Cet article porte sur l’histoire de l’enseignement français des trois provinces : la Nouvelle Ecosse, le Nouveau Brunswick et l’Ile du Prince Edward. Nous nous sommes limités ici à traduire en principe la partie concernant la province du Nouveau Brunswick afin de faire mieux ressortir les caractéristiques de celle−ci. ― 103 ―
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