もしいま、がんと闘っている人が、 この本を読んで嫌な気持ちになったとしたら、 そのときはごめんなさい。 でも、ここに書いたことは、 がんと向き合う私の素直な気持ちです。 はじめに いし み まさ み はじめまして。石見雅美です。 歳。 「って、だれ?」とみなさん思われることでしょう。 簡単に自己紹介をしますと、ただいま ザーで子どもを育ててきました。 私の前に「乳がん」というハードルが立ちはだかったというわけです。 降ってきたので、びっくりしました。ホントに急なことだもの。 自分は病気になんかならない、くらいに思っていたのが、ある日、突然、病気が でがんばるぞ、というときに「乳がん」が発覚。 広告代理店に勤務していましたが、 代後半で転職。さぁ、これから第二の職場 息子が3歳のときに離婚をして、以来、両親のサポートを受けつつ、シングルマ バツイチ、子どもひとり、乳がん患者7年生です。 55 40 002 しかし、落ちこんでばかりはいられません。 気を取り直して、手術で乳房を切除。 「さぁ終わった!」と思っていたら、なんと、そこからが、私と「がん」との闘い のはじまりのはじまりだったのです。 術後の抗がん剤治療の副作用、がんの脳転移、骨転移、肝臓転移。 両親の死、取っても取っても増え続ける脳腫瘍……。 こんな具合に、次々と立ちはだかるハードルを「エイヤッ」「エイヤッ」と、飛 び越えるはめになりました。 「自分らしく生きるってなんだ?」 病気になって私は、はじめてこのことを考えるようになりました。 病気になってしまったら、悔やんでも元には戻らない。完璧に治して元のからだ に戻すことは、ある程度、年をとってくるとなかなかむずかしい。 003 それゆえ、 「病気を受け入れて、いかに自分らしく生きるか」が、私の最大のテ ーマになりました。 現在、闘病中の方も、そして病気にかかっていない方にも、ぜひこの本を手に取 って、なにかひとつでも感じてもらえたらと思います。 実はいま、また新たなハードルに立ち向かっている私。 え? どんなハードルかって? まぁ、ちょっと最後まで読んでみてください。 2013年6月吉日 乳がん患者7年目の乳がん体験者コーディネーター 石見雅美 004 はじめに 石見雅美のがん年表 どうせ死ぬなら「がん」がいい ◎ もくじ「 でも笑って死ぬ方法 乳がんと共に生きる女子の記録 がん」 第1章 まじめか! 父のエンディングノート 私はリビングウィルを書こう、と思う 生き方も死に方も、自分で決める 死ぬならやっぱり 「がん」 がいい 最期の最期まで自分らしく生きた母 002 010 031 027 024 021 016 第 章 第 章 2 3 私のおっぱい、がんと出会う これってあせも? いいえ。もしかして? がんの告知で頭に浮かんだこと 体毛に1本もムダ毛なし! 「ズラ」 に挑戦してみるズラ すっぱり取っちゃってください! いざ入院。いざ手術。いざ退院! 手術ごときでキャンセルしません! こんな私、女としてどうよ? モテキ? 大人気の入院生活 副作用にはもう飽きたよ 065 060 057 054 049 046 042 038 036 第 章 4 吐き気はセーフ。でも、また脱毛かよ! 副作用で爪ポロリ ふく へこ からだは膨らみ、気持ちは凹む がんになってはじめて泣いた日 抗がん剤治療を休みたいんです! がん治療、やっぱり再開 087 083 079 076 073 070 105 101 098 093 090 やっぱり来ちゃった? 転移の日 どうした私! こ、言葉が出ない まさか霊能力を授かった? 個近く転移 最大3センチの脳腫瘍が 10 人生初の 「究極の 択」 即決!「ガンマナイフを受けます!」 2 第 章 5 手術当日、 「ロボコップ」 になる えっ! 骨にも転移しちゃったの! ワタシ、女性の役に立ちたい! マ イ の必要性 「どこでもMY病院」 肝転移、そして脳にも再発 個。ギネスに挑戦? 脳腫瘍の累計 「病み上がり」 の先生に治療を受ける 受難は続くよ、どこまでも 鎖骨の下に空洞ができちゃった 虫でも入ったらどうするつもり? げっ、麻酔が効かない! ポートを入れて、取って、また入れる 131 128 124 119 116 113 110 150 147 143 138 78 第 章 6 え? 口から腸が 思わぬ出費。かつら代に洋服代 がんとお仕事のミョーな関係 それでも前を向いて行こう! 過去の病気事件簿 「腎臓病と涙のお産」 お産で危うく命の危機に……の巻 そして、現在。脳腫瘍100個突破! セカンドオピニオンを受けてみよう 患者になってはじめてわかった「病人のキモチ」 まさかの脊髄転移で下半身が… 主治医が語る 160 157 152 188 184 180 174 168 191 !? ◎ 石見雅美のがん年表 歳 すくすく育ち、成人式を迎える。 愛媛県生まれ。丸々と太っており目が細く鼻がペタンコなため 歳ま 1958年 1月 誕生 でのあだ名は「若秩 父 」(わか ち ちぶ: 昭 和 年代に 活 躍した ア ンコ 型力士)→って我ながら古い! 1978年 1月 1980年 4月 1982年 7月 歳 大学を卒業後、広告代理店に入社。 30 1 は じ め て の 手 術。 腎 臓 病 と 気 づ か ず に、 微 熱 や む く み を 1 年 あ ま り 「ま、いいか」とやり す ご してい る うちに 病 気が悪 化。開 腹手術 で わ 歳 き腹から背中にかけて センチも切った。電車の線路のような傷跡が 残り、以来ビキニの水着着用を断念。 38 離婚し、ひとり息子とともに実家へ。父母と息子、私の はじまる。 人暮らしが 妊娠→結婚。お産当日は元気いっぱいで入院したにもかかわらず、分 歳 娩中になぜか大出血が起き、昏睡状態に。三途の河を1歩、2歩渡り かかる。危なかったぁ。 歳 4 1993年 8月 1996年 3月 20 22 28 35 38 2005年 2006年 2006年 12 10 10 51 51 50 49 49 49 48 48 47 左乳房全摘手術を受ける。入院中によく抜けだしては、シャバに遊び に行く。 術前抗がん剤投与がはじまる。副作用による脱毛で、ズラ着用。まつ 毛、鼻毛、あそこの毛とすべての体毛が抜けてツルツルに。 夏にできた左乳房のあせもが秋になっても治らず、女性専門のクリニ ックへ。乳がんと診断される。 歳 父が膵臓がんと診断される。 3 術後抗がん剤投与。副作用により体重が キロ増。むくみと手足のし びれに、からだの自由がきかず思いきり気持ちが凹む。 月 5 月 月 月 月 月 月 月 歳 肝臓がんにより母が他界。 歳 膵臓がんにより父が他界。 歳 抗がん剤(ハーセプチン)治療を再開。 歳 抗がん剤治療を拒否る。 歳 歳 歳 歳 8 月 7 きょ ひ 4 15 2007年 2007年 2007年 2008年 2009年 2009年 9 脳に転移する。幻が見えて霊能力が生まれたと思っていたら、幻覚は 脳転移のせいだった。 53 53 52 51 51 51 血 管 炎 を 起 こ し 静 脈 か ら の 点 滴 が む ず か し く な っ た た め、 鎖 骨 の 下 に ポートを留置する。 歳 53 ポ ー ト を 留 置 し た 部 分 に 細 菌 感 染 が 起 こ り、 ひ ど い 炎 症 を 起 こ し た 結 果、鎖骨下に直径 センチほどの空洞ができる。 月 53 月 月 月 月 月 月 回目。残りの脳腫瘍 5 個を取る。 歳 局所麻酔が効かないまま手術でポートを撤去。 歳 歳 歳 肝臓転移が見つかる。 歳 ガンマナイフ 歳 PETで骨転移が見つかる。 1 2009年 10 個取る。 10 回目。脳腫瘍を 10 歳 ガンマナイフ 1 月 7 5 2009年 8 2 2009年 2010年 2011年 9 1 2011年 2011年 2011年 9 2011年 2011年 2012年 2012年 月 歳 再び脳転移が発覚。ガンマナイフで 9 6 4 2 11 11 55 54 54 54 54 54 54 53 53 月 月 月 月 月 月 歳 ガンマナイフで脳腫瘍を ろれつが回らなくなる。 ガンマナイフで脳腫瘍を 個取る。 個取る。累計102個に! 個取る。累計 歳 口から「腸」のような肉塊が飛び出る。 歳 歳 がんが脊髄に転移。下半身が動かなくなる。が、上半身は極めて元気。 現在に至る。 歳 転院する。 歳 セカンドオピニオンを受ける。転院を決意。 歳 ガンマナイフで脳腫瘍を 個となる。 個取る。 14 歳 反対側の鎖骨下に、再度ポートを留置。 10 月 10 月 78 26 28 24 2012年 2012年 2012年 2012年 2013年 3 装幀◎岡孝治 本文デザイン◎ムーブ(新田由起子) 編集協力◎㈱エム・シー・プレス(中出三重) 第1章 どうせ死ぬなら「がん」 がいい まじめか! 父のエンディングノート 〝いざそのとき〟にはすんごく助かったけどね 「雅美! ちょっと、こっちへ」 まただ。 すいぞう 2005年、父は膵臓がんと診断され、4年の闘病生活の後、亡くなった。 その父が亡くなる1年程前から、検査入院のたびに私を呼びつけては見せるのが、 父が自ら書いた「エンディングノート」だ。なにかあったときは、ここにすべてが 書いてあるから、これにしたがってやってくれ、というわけだ。 「もう暗記するくらい見せられているから、大丈夫だってば!」 016 第1章 どうせ死ぬなら 「がん」 がいい それでも父の言葉はいつも同じだ。 「いや、いや。おまえのことだから、忘れるかもしれない」と。 父のエンディングノートは、とても几帳面な字で記されていた。 私が死んだらここに電話すること。葬儀場は○○陵苑。担当者の名前はAさん。 連絡先は納骨堂を設けている葬儀式場で、葬儀から法要、納骨、その後の墓参りも すべてここに来ればよいとのこと。ほかにも、葬儀は大きくしないでほしいだの、 かいみょう 参列者は親戚だけでよいなどと、こまごましたことが書かれていた。 驚いたことに、自分の戒名までしっかり用意していた。しかも、2か所に戒名を 頼んでおり、2つも用意しているほどの徹底ぶりだ。 どちらも気に入っていて、甲乙つけがたいらしいのだ。 父の几帳面ぶりは、それだけではない。写真館で遺影用写真まで撮ってあった。 ポーズは4パターン。 「 こ の 写 真 を 遺 影 に 使 っ て く れ 」 と、 す ま し 顔 の 1 枚 に ○ 印がついていた。 017 念には念を入れ、なにごとも準備万端に整えないと気がすまない、父らしさ満載 のエンディングノートなのである。 がんの宣告を受けてすぐ、父は自分が入るお墓をいくつか見に行ったようだ。 海が大好きだった父ははじめ、神奈川県横須賀にある葉山の海が見渡せる墓地に 申し込んだという。 おっくう しかし、よくよく考えてみると、家を継ぐ長女はあの子(私のこと)だぞ。墓地 が遠くにあれば、億劫がってなかなか墓参りには来ないだろう。たとえ来たとして も墓は洗ってくれない、草むしりもしないだろう、と考えたらしい。 そこで、条件を変更してあれこれ見学に行き、最終的には横浜・関内駅のすぐ近 くのビルで「室内納骨堂」を設けている葬儀場に決めたという。 これが、エンディングノートの最初に記してあった葬儀場なのである。 父いわく、ここは室内納骨堂だから、雑草も生えないので草むしりの心配なし。 墓の掃除をしなくてもよいし、花も飾ってくれているので安心だ。関内といえば、 018 第1章 どうせ死ぬなら 「がん」 がいい すぐ近くに横浜中華街もあるし、ここなら食事に行った帰りに墓参りに立ち寄れる だろう、とそこまで計算されてのことだった。 やはり父は、娘である私のことをよくわかっている。面倒くさがり屋でズボラな 私の性格は、すべてお見通しなのである。 そのときは、 「まったくもう、父はなんでこんなに用意周到なのだ」と半ばあき れていたのだが〝いざその日〟がきたら、このノートはおおいに役立った。 ご存知のように、親族が亡くなると、遺された家族は葬儀の日取りから法要まで いた 次から次へと決めなくてはならないことが多く、目のまわるような忙しさが続く。 死を悼む暇などないのだ。 しかし、父がエンディングノートを遺してくれたおかげで、父の死後はノートの 指示どおりにすればよく、余計なことを考えずに淡々と手続きをすませられた。 葬儀のことも、墓地のことも、すべて父の希望どおりにしたが、ただひとつだけ 父の意に反したものがある。遺影用写真だ。 019 「これを使え!」と生前、父が○印をつけておいた写真は、いかにもおすまし顔で 父が写っていたのである。 母と私たちはあっさりと、 「これはちょっと違うなぁ。パパらしい1枚なら、やっぱりこっちでしょ」 ○印のついた写真を無視して、笑顔の1枚を選ばせてもらった。 おそらく父は天国で、 「なにをするんだ! 勝手におれの遺影用写真を変更するなーっ!」 と怒っているかもしれない。 ゆるしてね、パパ。 020 第1章 どうせ死ぬなら 「がん」 がいい 私はリビングウィルを書こう、と思う 私らしく生きて、死んでいくために 私もそろそろ、エンディングノートを書こうと思う。 父のノートには、亡くなったあとのことしか書かれていなかったが、私は葬儀や お墓のことよりもなにより、 「延命治療は拒否します!」 と書くために〝リビングウィル(意思表明書)〟を用意したいと思う。 私が私らしく生きて、そして死んでいくために、最重要の事柄だからである。 あかし 「自分の意思で動けること」、そして「やりたいこ 私にとっての生きている証は、 とができること」である。 021
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