多文化主義における継承言語教育の行方

1
北陸大学 紀要
第26号 (2002)
pp. 125〜144
多文化主義における継承言語教育の行方
―日系カナダ人のアイデンティティ保持例から―
柳
沢
順
一*
An Analysis of the Degree of Japanese Canadians’ Retention of Their Ethnic
Identity: Implications for the Future of the Heritage Language Program
Junichi Yanagisawa *
Received October 31, 2002
1.はじめに
1980年代以降の急速な経済・情報分野のグローバル化,ボーダレス化に伴い,我が国では国
際化についての議論が久しく続けられている。しかしながら,政府は国際化への対応策として
自国民に対する英語教育の重要性を強調することはあっても,日本国内の人的国際化に対処す
るための努力を払っているとは到底思われない。実際,国内の少数民族,難民,定住外国人,
出稼ぎ外国人,国際結婚家庭の子女等に対する母語やアイデンティティの保持,あるいは文化
継承に関して具体的かつ有効な施策を打ち出せないでいるのが現状だ。多文化主義を標榜する
移民国家のような言語および文化政策は望めないにしても,現実に「多文化社会」日本が存在
する以上,もはやこれまでの同化主義的対応だけでは,国内エスニック・マイノリティ集団に
言語・文化的な充足状況をもたらしたり,国際社会に納得してもらうことは不可能であろう。
本稿は,実際に多文化主義を国策として採用したカナダの継承言語教育(Heritage Language
(1)
Program)
政策,とくに日系カナダ人に対するそれを吟味することにより,今後の国内エ
スニック・マイノリティに対する言語教育および文化・社会政策のありかたに対してヒントを
提示する試みでもある。
以下では,まずカナダの多文化主義政策についての歴史的経緯を含めた基本的な枠組みを述
べた上で,同政策の一環である継承言語教育について吟味する。その上で,日系人子弟にとっ
ての継承言語教育の効果,アイデンティティ保持との関わり,エスニック集団全体の中での果
たす役割などについて検証する。
2.カナダの多文化主義
2.1 多文化主義採用の歴史的経緯
継承言語教育がカナダ多文化主義の一政策であることを踏まえ,まずはこの国がどういった
*
外国語学部
Faculty of Foreign Languages
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経緯で多文化主義を採用するに至ったかを知っておく必要があろう。英国女王エリザベス2世
を元首とするカナダ連邦は英国系市民が最大人口を占めるが,フランス系,非英仏系ヨーロッ
パ人,アジア系,アフリカ系,中南米系,先住民など多くの人種,民族が混在する多文化社会
である。田村(1989)によれば,カナダにとっての言語文化的多様性の原型は,英仏系が北米
大陸に参入するはるか以前,さまざまな部族により構成されていた先住民社会に見出せるとい
う。カナダの多文化主義採用における歴史的経緯については田村(1991/1992),加藤
(1990/1997),木村(1997)に詳しいが,おおむね(1)建国前後の英仏両国入植者間の対立,
(2)連邦政府の移民政策,(3)第2次大戦後の民族自立運動の高まり
(2)
にその素因を求め
ることができよう。まずは先住民部族社会以後,多文化主義採用に至るまでのカナダ史を以下
に簡単にまとめる。
最初にカナダに入植したヨーロッパ人は1534年,国王の命により内陸部への水路としてセン
トローレンス河を発見したフランス人カルチエであった。その後,シャンプランが1608年,毛
皮交易の駐屯地をケベック・シティに建設し,ヌーヴェル・フランス(フランス領カナダ)の
基礎を築く。続いて1670年,チャールズ2世の命により英国人がハドソン湾会社を起こし,毛
皮交易に従事するようになる。その後漁業権,毛皮交易の利権を巡り両国が対立,1754年のフ
レンチ・インディアン戦争に発展する。ヌーヴェル・フランスの拠点ケベック・シティおよび
モントリオールを攻略した英国軍は,カナダにおける政治的支配を確立。さらに1763年のパリ
条約により,カナダはついに英国領となるのである。しかし,南の13州での独立運動が活発化
するとケベックを革命から遮断すべく,英国政府はフランス系への妥協策としてケベック法
(1774)を発令,カトリック教会の諸権利と荘園制度の保護を約束した。これにより,カトリ
ック信仰とフランス語は手付かずのまま生き残ることとなり,英仏2言語を公用語とする今日
のカナダ多文化主義の礎が築かれる。
19世紀末から第1次大戦勃発にかけては,西部開拓を目的とした政府の移民誘致策によりヨ
ーロッパから300万人もの大量移民が押し寄せる。当初は英国系と文化差も少なく英語の習得
も速いドイツ系,オランダ系,北欧系移民が奨励されたが,やがてウクライナ,ポーランド,
ハンガリーなどの東欧系移民がこれに取ってかわる。彼らは西部開拓地の大平原にグループご
との独立した生活圏を確保し,固有のエスニック文化や言語を保持するようになった。だがそ
の後は,恐慌期から第2次大戦期にかけて新規移民数が激減。さらに政府による同化教育が進
んだ結果,この地域の非英仏系集団はしだいに英語を常用語とするようになる。しかし,エス
ニック言語自体は教会,家庭,コミュニティーを通じてかろうじて生き残っていく。
第2次大戦後は,カナダの労働力需要の高まりとともにまず比較的教育程度の高い東欧系移
民の波が押し寄せる。さらに60年代からはイタリア,ポルトガル,ギリシャ等の南欧系移民が
増加,東部の大都市圏に定住するようになる。東欧系同様,彼らもエスニック集団として都市
部に独自の生活圏を形成し,エスニック言語の使用度も高い。その後,連邦政府は出生率の頭
打ち傾向を解消するため1967年,合理的なポイント制を導入した新移民法を成立させる。これ
により,特に70年代以降はアジア,アフリカ,中南米などヴィジブル・マイノリティと称され
る第3世界からの移民が急増する。彼らはポイント制をかいくぐってきただけに,教育程度,
職業技能,公用語能力の比較的高い移民であり,その約半数が東部の大都市圏や西海岸のヴァ
ンクーヴァーに定住する。
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こうした建国前後の事情や移民政策の結果,カナダの人口構成は1991年統計で英国系28.1%,
フランス系22.8%,英仏いずれかとそれ意外の民族との混血14.2%,非英仏系マイノリティ
30.9%となり,いずれの集団も絶対過半数を占めない複合言語文化的な状況となっている
(「史料が語るカナダ」1997)。
上述の人口構成比もさることながら,多文化主義導入の直接的契機となったのはやはり60年
代のケベック・ナショナリズムの高揚であった。アメリカ黒人の公民権運動などの影響を受け
たケベックのフランス系市民が,英国系集団優位の体制に異を唱え,連邦からの分離独立を強
く主張し始めたのである。1963年,ピアソン自由党政権はこの事態を重く受け止め,連邦分裂
の危機を回避すべく「二言語二文化主義王立委員会」を設置,フランス系集団を英国系集団と
対等のパートナーとすることを事実上認めた。それまで主流だった英語および英国文化への一
元同化理念「アングロ・コンフォーミティ(Anglo conformity)」はこの時点で正式に否定さ
れる。さらに1969年には連邦公用語法(Official Languages Act)を定め,英語とフランス語
の2言語を連邦の公用語とし,連邦政府機関での使用を法的に保証した。
ところが,ケベックのフランス系集団の権利要求に触発され,西部諸州のホワイト・エスニ
ック集団も沈黙を破ることになる。彼らの論理は,もしも英仏系にのみ特権があるというのな
ら,自分たちは二級市民でしかないというもの。また,「二文化,二言語主義」の強調により,
今後英仏系いずれかの言語文化に徹底的に同化を強制されるのではないかとの危惧や,西部3
州において自分たちよりも人口の少ないフランス系の言語に特権が与えられることへの不満も
あった。こうした非英仏系集団からの意見,要望を受け,「二言語二文化主義王立委員会」は
1969年,報告書第4巻「その他の民族集団の文化的貢献」を発刊。その中で,非英仏系ホワイ
ト・エスニック集団の言語文化の存在が公式に認知されるとともに彼らの言語文化的要求が正
当化された。こうして連邦政府の当初の統合理念「二言語・二文化主義」は同報告書の勧告を
受け,「二言語主義の枠内の多文化主義」へと修正を余儀無くされる。
1971年には自由党のトルドー首相が議会で多文化主義を宣言,「カナダには公式の言語は2
つあるが,公式の文化は存在しない。またどの特定の文化も他の文化より公式であることはあ
りえない」と明言した。同時に,多文化主義を推進する際の具体的目標として(1)文化への
公的援助,
(2)全体社会に参加する際の文化的障害打破,
(3)国民統合を目的とするエスニ
ック・グループ間の相互交流促進,(4)全体社会参加のための公用語習得の奨励をあげた。
この多文化主義理念は1982年の憲法で確認された後,1988年制定の多文化主義法では以下のよ
うに発展する。
カナダ政府は多様性をカナダ社会の基本的な性格と認め,カナダ人の多様な文化
的遺産を維持し強化するのと並行して,経済的,文化的,政治的生活におけるす
べてのカナダ人の平等達成を目的とする多文化主義政策をとることを誓う。
(Multiculturalism and Citizenship Canada, 1991)
具体的な行政施策として連邦政府は1973年には,国務省内に「多文化主義局」を設置,1991
年になると同局を「多文化主義・市民権省」(現在は遺産省)として独立させる。また1980年
代以降の多文化主義は,有能なヴィジブル・マイノリティの流入により一層多様化したカナダ
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社会の変化に対応できる方向へとシフトする。当初の非英仏系ホワイト・エスニックの要求
「多様性の維持」から,ヴィジブル・マイノリティが志向する「平等達成」へと重点が移動し,
あらゆるマイノリティ集団を想定したより普遍主義的なものへと拡大発展していくのである。
そして現在では,多文化主義行政は連邦レベルでは以下の4組織に委ねられている(括弧内は
担当の政策)。(1)遺産省(多文化主義政策,二言語,多文化,移民)
,(2)公用語推進委員
会(二言語公用語),(3)中央人事委員会(人事),(4)インディアン問題・北方開発省(先
住民行政)。
2.2
カナダの多文化主義政策と社会学的アプローチ
以上見てきたように,カナダ多文化主義は法制度から行政施策に至るまでより普遍主義的な
ものへと変化を遂げつつある。こうした多文化主義政策を統合のためのシンボルとする見方
(加藤 1997)もあれば,それ自体が目的となるもの(梶田 1996)とする考えもある。また,
プラグマティックな過渡的政策との指摘(木村 1997)もある。いずれにしても,カナダにお
いては同理念に代わる有効な代替案が存在せず,また移民の継続的受け入れを余儀無くさせる
人口問題(=少子高齢化)等により,もはや多文化主義の受容は不可逆的な状況にある(田村
1997)。こうしたカナダの多文化主義政策の基礎となる理論的背景とは,どのようなものだろ
うか。以下では,多文化主義の定義を確認した上で,多文化主義の類型に触れ,最後にカナダ
多文化主義におけるエスニック集団の適応状況を表すモデルを吟味することにする。
梶田(1996)は,多文化主義を「ひとつの社会の内部において複数の文化の共存を是とし,
文化の共存がもたらすプラス面を積極的に評価しようとする主張ないしは運動をさす」と定義
する。また,関根(1996)は多文化主義が「国民国家は一文化,一言語,一民族によって成立
するべきであるとする『同化主義』にもとづいた国民統合政策を否定する」理念であると主張。
それは同時に,エスニック・マイノリティのホスト社会への積極参加を促す法整備や政策を含
めた国民統合あるいは社会統合のためのイデオロギーであるとする見方をとる。さらに,田村
(1989)は政策としての多文化主義を「文化的多様性の現実を肯定的に捉え,それを保持し,
促進することを積極的にすすめる政策」と規定した。いずれも多様性を障害ではなくプラス要
因として捉え,それを積極的に保持していくことを是とする理念であり,マイノリティ集団に
は不平等の是正と社会参加の促進,マジョリティ集団には寛容と異文化理解の精神を啓蒙する
理念と考えて良いだろう。こうした定義を踏まえた上で,カナダの多文化主義の特徴づけをし
てみたい。関根(2000)は,文化的多様性を認めつつ社会統合を試みる多文化主義にも多様性
の許容度の差が認められ,それによって政策上の幅が出てくると指摘する。以下では関根の区
分に従って多文化主義を6つの類型に分け,カナダ多文化主義の位置を特定する。
関根(2000)は考えうる多文化主義の類型を以下の6種類とした。(1)シンボリック多文
化主義,(2)リベラル多文化主義,
(3)コーポレイト多文化主義,
(4)連邦制多文化主義/
地域分権多文化主義,(5)分断的多文化主義,(6)分離・独立主義多文化主義。
(1)はエスニック料理店の増加やエスニック集団による多文化フェスティバルの開催等は
認めるものの,それ以上の言語・文化の多様性は容認できないとする一種同化主義的なアプロ
ーチ。現在の日本のレベルに当てはまるという。(2)は社会統合に際して文化的多様性を許
容し,エスニック集団の存在を認める一方で,公的生活領域においては主流社会の言語を用い,
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リベラリズムに基づく社会規範に従うべきとの立場を取るアプローチ。基本的には,差別を禁
止して「機会の平等」を達成すれば主流社会とマイノリティ集団との格差や不平等構造はなく
なるとする立場である。(3)は(2)での多様性の承認を一層押し進め,マイノリティ集団
が競争上不利であることを認めた上で,財政的・法的援助による「結果の平等」を目指すアプ
ローチである。公的領域における多言語放送や多言語文書の使用,多言語・多文化教育の促進,
就職や教育機会の均等を目指すアファーマティヴ・アクションなどが実施される。なお「コー
ポレイト」には,エスニック・コミュニティが法人格を認められ,援助の対象となるとの意味
合いが含まれる(関根 1992)。(4)は,一国家内で人種・民族・エスニック集団ごとの住み
分けがある場合に採用されるアプローチ。各地域が各々の文化,言語,社会習慣を独自に維持
しつつ,建前上は各地域の間の関係は政治的,法的にも平等とする立場である。(5)は主流
国民社会の文化,言語,生活様式を否定し,独自な生き方や生活を追求しようとするマイノリ
ティ集団の急進的で隔離的な動きを指す。米国の黒人過激主義運動にみられるようなアプロー
チである。(6)は国家統合を維持するという意味での多文化主義の範疇を超えた,民族自決
主義に基づく分離を推進するアプローチ。関根はこのような現存国家の解体を伴う分離主義を
も多文化主義の範疇に含めている。
カナダ多文化主義の類型としては上記(2)および(3)双方の要素が含まれるものの,
「結果の平等」を目指すコーポレイト多文化主義の要素が比較的強いようである(関根 1994)。
具体的な2つの多文化主義アプローチの比較は以下の表を参照されたい(Table 1)
。また,カ
ナダでは先住民(イヌイット)の民族自決要求に答える形で,上記の(4)連邦制多文化主義
/地域分権多文化主義をも部分的に導入している(関根 2000)。
次に,カナダ人社会学者Driedger(1989)によるカナダ社会のエスニック集団の適応の諸
相を表す概念モデルを提示する。Driedgerは同化−多元化,自発的−非自発的という2つの
座標軸を設け,さらに紛争という係数を導入することで,カナダにおける各エスニック集団と
全体社会
(3)
,およびエスニック集団相互間の関係のあり方を説明した(Figure 1)。図中でセ
ルAは,資本主義経済がもたらす必然的結果としての全体社会であり,モノエスニックな社会
においてこそ資本主義における利益,効率,競争を極大化することが可能なことから,「同化
または融合」の状態を表すものである。セルBは,マジョリティ集団が自らの言語,文化,社
会制度を支配的なものとすべく取るあらゆる手段を表し,実際のカナダ社会では英国系への同
化を示す。セルCは北欧系エスニック集団の適応状態を示す。言語,文化的に英国系と近く,
移民後数世代を経て英語を常用語化した彼らは,セルAおよびセルBにもっとも同化が進んで
いる集団である。セルDはヴィジブル・マイノリティの適応形態を示す。資本主義経済アリー
ナへの積極的参加を目指す彼らはセルBおよびセルEとの緊密な関係を望むが,人種的偏見や
差別により孤立を余儀無くされる。また,集団間の軋轢が多く,とくに同化に成功したヴィジ
ブル・マイノリティ(セルA内)との紛争可能性が高いグループでもある。セルEは自らの言
語,文化,社会制度を維持しつつセルAにおいて生計を営む伝統主義者のエスニック集団であ
る。フランス系,宗教的少数派集団ハテライト,ユダヤ系などがこれに該当する。先住民につ
いては,地方在住者は領土的分離によりエスニック・アイデンティティの維持が可能となるが,
都市流入者はヴィジブル・マイノリティと同様の扱いを受けるため,セルDに近い配置となる。
Driedgerはこの図式中で,セルEを多元化の理想型と考える。なぜなら,セルEの集団は
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Table 1:リベラル多文化主義とコーポレイト多文化主義の比較
比較基準
(1)
人種・エスニ
シティの法的
承認
リベラル多元主義
コーポレイト多元主義
原則的に認めない。集団を法的実体と 原則的に法的実体を認め,人種,エス
しては扱わない。しかし,人種,エス ニシティに基づく差別を廃止するだけ
ニシティに基づく差別は法的に禁止 でなく,過去の差別を補償し,機会の
し,制度的差別を廃止する。ただし, 平等を達成するとともに,クウォータ
プライベートな領域での伝統文化,言 制度の導入によって結果の平等を公的
語の維持は認める。
な達成目標とする。
人々の社会,経済的,政治的地位は 人々の社会,経済的,政治的地位は
(2)
報償の基準
個々人の能力,業績といった普遍主義 個々人の所属する集団の歴史的,社会
的基準によって決められると考えるの 的地位によって左右されることを認め
で,特定の集団に属すことによって る。とくに差別による不利益と機会の
人々の待遇に格差が生じないことを第 不均等も認め,特定集団のメンバーで
一義とする。(属性主義否定,普遍主 あるという理由で待遇上優遇すること
義肯定)
もある。(属性主義と普遍主義の両立)
(3)
原則としては人種,エスニシティに基 原則としては人種,エスニシティに基
構造的分化
づく閉鎖的コミュニティの形成,ある づく閉鎖的コミュニティの形成を支持
(制度的変化) いは同化のどちらを選ぼうと自由であ する。その結果,多言語教育,多言語
る。しかし,十分な社会的参加と経済 文書,多言語放送などの文化多元主義
的,政治的報償を得るためにはホスト に加え,教育,職業における人口比率
文化の需要が重要であると考える。さ に合わせた割り当てを正当なものと見
らに,ホスト社会の制度の変更を基本 る。故に,ホスト社会の制度上の変化
的には認めない。
を要求する。
文化的多様性を原則として認めるが, 文化的多様性を重視し強調する。また,
(4)
文化的多様性 その違いに特別なボーナス・ポイント 文化,言語の維持は権利であると考え
の承認
を当てる理由はない。むしろ,国民的 る。国民的合意に基づいた価値,規範
合意に基づいた価値,規範の形成が重 の形成を重視するが,むしろ多文化集
視される。プライベートな領域での文 団の共存は可能であると考える。
化維持。
(5)
原則として,特定の人種・エスニック 原則として,特定の地理的領域の占有
地理的領域
集団が,特定の地理的領域を占有する。 あるいは集住を法的に認めよという要
あるいは集住することは法的に認めら 求はしないが,人種・エスニック・ア
れない。しかし,差別,偏見がなくな イデンティティの維持のため特定の地
らないうちは,正当な防衛手段として 理的領域における集住を必要なものと
エスニック・コミュニティの存在は過 考える。
渡的なものという条件のもとで認めら
れる。
(6)
原則として一言語主義をとる。とくに 原則として二言語あるいは多言語主義
言語に対する 公用言語においてはこの原則を譲るこ をとり,特定言語の優位を認めない。
対応
とはない。支配的言語を標準言語とし また,各言語の維持は積極的に押し進
て,他の言語より法的にも,社会的に められるべきであるとみなす。
も優位におく。しかし,他の言語の維
持に対して表立った反対はしない。
出典:関根(1992)「エスニシティの社会学」p.33。関根(2000)では「多元主義」という用
語は「多文化主義」に置き換えられている。
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出典:Driedger, L. (1989) The Ethnic Factor: Identity in Diversity. McGraw-Hill Ryerson, p.51.
Figure 1:Driedgerの概念モデル
資本主義の経済アリーナに参加,適応しつつも,社会文化的にはエスニック・アイデンティテ
ィを保持することに成功しているからである。これはセルA,セルBへの完全なる同化を拒否
しながらも,自己完結的な生活圏を保持しうる彼らこそ多文化主義社会への理想的な参加形態
を提供しているとする考え方である。ただし,このモデルはあくまでも各エスニック集団の現
在の位置付けを示したにすぎず,今後の人口動態学的な変化や経済状態によっては違った状況
も出てくることだろう。日系カナダ人の位置付けに関しては,基本的にはセルDに入るものの,
一部は経済的成功をおさめセルAに属するものもいるというのが現状だ。しかし,英国系マジ
ョリティおよびホワイト・エスニック集団との文化的差異や日系人の分散居住の実態,あるい
は戦後の新移民のカナダ社会への適応状況などの諸条件を考えると,彼らが多元化の理想型で
あるセルEに区分される可能性は今後も極めて低いと言わざるをえない。よって,このモデル
は,法整備や社会・文化政策を含めたこれからのカナダ多文化主義のありかたに課題をつきつ
けたものといえよう。以上,簡単ではあるが,カナダ多文化主義の理論的背景について説明し
た。
2.3 多文化主義における課題と今後の展望
多文化主義的なエスニック集団関係(文化多元主義)は,Gordon(1964)の類型による人
種差別的関係(植民地社会/奴隷制社会)
,同化主義的関係(60年代アメリカのメルティング・
ポット型社会)などの歴史的変遷を経て,70年代以降に提唱・導入された人種・エスニック関
係へのアプローチであり,さまざまな議論を生じながらも,現在では方向性として必然性の高
い社会科学上の類型概念あるいは政策上の理念と受け止められている。だが,そこに問題点や
限界はないのだろうか。
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梶田(1992)は,多文化主義の問題点について(1)その定義をめぐる問題(その適用範囲,
目的か手段かなど),(2)近代的市民権と多文化主義との矛盾に関する問題(前近代的社会出
身のエスニック集団への対応),(3)多文化主義政策の財政的基盤をめぐる問題(多文化主義
導入に伴う経済コストの大きさ)の3点に分け詳述している。また,加藤(1990)は,「業績
主義」と「属性主義」の対立構造に多文化主義国家のジレンマを見出した。同様にTaguieff
(1987)は,人種差別を告発する立場の「個人―普遍主義」的な反人種主義や同化主義に反対
する「伝統―共同体主義」的な反人種主義の両者とも,それが徹底された場合には自らが告発
する人種差別の立場に転化しかねないという矛盾を明らかにした。このほか,関根(1994)は
多文化主義政策は万能薬ではない,との議論を展開。マイノリティ成員に対して,属性的基準
によりよけいに差別されている状況を取り除くためのささやかな試みでしかない,としてその
限界を示した。さらに関根(2000)は,多文化主義のパラドックスについて以下のような主張
をしている。それは,人種主義の否定から始まった人種・民族・エスニック集団関係の改善過
程の中で多文化主義が生まれ,さらに改善が進められたが,結局は人種主義的関係あるいは国
民分裂を進めてしまうという悪循環に陥るというものである。詳述すれば,多文化主義は多文
化への許容性の低いものから高いものへと展開するが,マイノリティ文化の尊重が進み,多文
化主義政策が充実してくると,政策上のコストも大きくなり,異文化集団の存在が目立つよう
になる。すると主流国民の間に経済,文化面で「逆差別」されているという感情が醸成され,
再構築型ナショナリズムが生じるというもの。マジョリティ集団からは,国民文化も多文化の
ひとつだから多文化主義のもと保護されるべきだとの主張も強まる。こうして,多文化主義か
ら「多分化主義」への動きが出始め,一度否定されたはずの人種主義や同化主義に回帰してし
まうというパラドックスが生まれるのである。
こうした多文化主義の問題点はカナダにおいても同様に見られるものだ。カナダ多文化主義
が現在抱える特徴的な問題点は,(1)70年代以降のヴィジブル・マイノリティ増加への対応,
(2)
「建国国民」,「最初の北米人」としての特別の権利が認められなかったフランス系や先住
民の多文化主義への反発,(3)経済的停滞を新移民や多文化主義政策に転嫁させようとする
風潮などであろう。(1)は関根(2000)が危惧するような人種主義への回帰が見て取れる状
況が,80年代以降顕著になってきたことである。連邦政府は多文化主義局の中に人種関係局を
設置(1981年)したり,下院特別調査委員会の報告書「今,平等を!(Equality Now!)
」の刊
行(1983年)や雇用均等法の制定(1986年)などでヴィジブル・マイノリティの社会的平等達
成に向けて尽力してきたが,彼らの全体社会への統合度合いは依然として低いままだ。(2)
は多文化主義そのものに否定的なマイノリティ集団のさらなる継続的な抵抗姿勢のこと。特に
フランス系が多数派を占めるケベック州では90年代になってからも独立を巡る論議は続き,住
民投票ではわずかコンマ数パーセントの差で連邦からの独立をとどまるといった状況が続いて
いる。(3)は1973年のオイルショック以降鈍化した経済状況の中で,有限な経済資源をめぐ
って利益集団相互間の軋轢が増加したことである。とくにアジア系を中心とした新しい移民た
ちは一定の資産と高い学歴,公用語能力を有した「ビジネス移民」であり,業績主義的な志向
が強い。こうした入国直後から高い能力を発揮し,限られた経済のパイを横取りしようとする
ヴィジブル・マイノリティに対するホワイト・エスニック集団の反発は大きい。また,多文化
主義による複数の文化規範や複数の公用語の採用などが一定規模の経済に逆行し,コストを押
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―日系カナダ人のアイデンティティ保持例から―
し上げてしまうことが指摘されている。実際,不況下にあって失業業率が1割前後(10.4%=
1994年)にまで達している現状では,公的財源も限られ多文化主義のコストに耐えられないの
が実情だ。
上述のような多文化主義がかかえる課題をどう克服していくべきなのだろうか。まず梶田
(1992)は,普遍主義的な視点から多文化主義を見直す作業なしに多文化主義を防衛し,鍛え
上げることは困難であるとの視点を提示。Taguieffの類型概念である「個人―普遍主義」的な
反人種主義と「伝統―共同体主義」的な反人種主義の視点を同時に持ち合わせ,「平等」と
「相違」とが両立するような条件を模索することが重要との認識を示した。また,関根(2000)
は文化の概念を再構築する必要性を訴える。すなわち,純粋伝統文化の維持こそ各民族集団の
義務であるとする「本質主義的文化観」に変え,文化は交流促進的で雑種的で人々の必要に応
じて作り替えられるとする「社会構築主義的文化観」を持つことが必要だというのである。そ
れにより,自文化中心主義が多く集まったに過ぎない「多・文化主義」に代わって,雑種であ
る文化の発展を保障し,多文化・多民族集団の共存と共生および異文化間の越境をも保障する
本来の「多文化・主義」が可能となるという。いずれにしても事態打開のためには,実践面で
の示唆を伴う社会科学理論の構築や,マジョリティ/マイノリティ両集団に対する多文化主義
教育の徹底が必要になってこよう。カナダにおける多文化主義の展望については,田村(1992)
が多文化主義が経済的に安定し,一定程度の国民統合が実現された社会でのみ有効な統合理念
であるとして,以下のように述べている。
多文化主義が今以上に統合理念としての有効性を現実社会において発揮し得るに
は,カナダ社会が経済的余裕を回復し,さらにヴィジブル・マイノリティが全体
社会に一定程度統合されることが必要であろう。(中略)ドリーガーが非英仏系
集団の中に多元化の理想型を見出したように,エスニック・アイデンティティの
保持と全体社会への結合は,本来的に両立すると筆者も考える。人が理性だけで
なく非合理な感情をも有する限り,両者を両立させる努力は今後も不可避であろ
う。(田村 1992:239)
80年代以降活発な新人種主義的な動きや,ケベック・ナショナリズムに代表される分離主義
的な一部勢力の台頭,あるいはいっこうに回復傾向を示さない経済状況などを勘案すると,田
村のカナダ多文化主義に対する展望は楽観的に過ぎるかもしれない。以下に述べるカナダ・エ
スニック集団に対する継承言語教育政策も,こうした多文化主義全体が抱える課題の影響を受
けることは避けられず,今後のプログラム施行そのものや財政的援助については依然として流
動的である。
3.カナダの継承言語政策
3.1 継承言語政策導入の歴史的経緯
ここまでカナダ多文化主義成立の歴史的経緯と同理念の理論的根拠について見てきたが,以
下では多文化主義政策の一環である継承言語教育導入の経緯について吟味してみたい。カナダ
では1960年代より,イマージョン(Immersion)と称されるバイリンガル・プログラム
(4)
が
133
10
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順
一
特にケベック州を中心に公教育の枠組みの中で実施されてきたが,継承言語教育はカリキュラ
ム的には非公用語を用いたイマージョン型バイリンガル・プログラムあるいはコア・プログラ
ムと位置付けられよう。1971年のトルドー首相の多文化主義宣言を受け,非公用語のバイリン
ガル教育については主に州政府あるいは地方教育委員会のレベルで押し進められる運びとなっ
た。これは,(1)バイリンガル教育研究を通じて打ち立てられた二言語相互依存説
(5)
等の
言語学習上の理論的な裏付け,(2)継承言語(heritage languages)をカナダの豊かな言語
(6)
資源として捉え,カナダの経済力を高めるために活用したいとする連邦政府の見解
などの
影響が大きいと思われる。まずは,継承言語教育導入の歴史的経緯について以下に簡単にまと
める。
2.1でも触れたが,カナダでは1969年の連邦公用語法制定により,英語とフランス語の2
言語が連邦の公用語と認められた。ところが,その他の非公用語と総称される諸言語について,
公的使用を保証する連邦法は存在しない。ウクライナ系をはじめとする非英仏系集団からの強
い要望を受けて発刊された「二言語二文化主義王立委員会」報告書第4巻で,非英仏系エスニ
ック集団の言語文化の存在が認められ,彼らの言語文化的要求が正当化されたにもかかわらず
である。また,1971年,トルドー首相は連邦議会において多文化主義を公に宣言したが,非公
用語の扱いについては全く言及がなかった。これについては,ケベック・ナショナリズムの沈
静化を急務とするトルドー政権にとって,公的二言語主義の確立が何よりも優先されたからで
あり,他の言語について配慮することが結果的に二言語主義を弱体化させるという判断があっ
たとされる(Esman, 1985)。
連邦政府のこうした慎重かつ消極的な非公用語政策に対し,西部各州政府の対応は全く異な
るものであった。とくにアルバータ州の,ウクライナ語および他のエスニック言語に対するそ
れは柔軟かつ積極的なものであり,州政府として初めて多文化主義を宣言したほか,他州に先
駆けて非公用語バイリンガル教育を認可したのである。具体的には1971年の州学校法改正によ
り,英仏語以外の言語に関しては,全て教育委員会の権限により教育言語として授業での使用
が認められた
(7)
。そして1974年1月にはウクライナ語バイリンガル教育が幼稚園児を対象に
正式に始動するのである。さらに同年9月,エドモントンの公立小学校1年生を対象とするウ
クライナ語バイリンガル・プログラムが開始される。1976年には,導入後3年間の試験段階を
経た同プログラムが州教育庁監督下の恒久的プログラムとして認可を受けるに至る。田村
(1991)は同プログラム導入の成功要因について,(1)政治力のあるエスニック・リーダーた
ちの影響力,(2)非公用語バイリンガル教育のアイデンティティ保持機構としての役割を彼
らが認識していたことをあげている。
非公用語プログラムの公教育における浸透はその後もつづき,アルバータ州以外では1978年
にはサスカチュワン州が,翌1979年にはマニトバ州が同様の法律を通過させる。Quadri
(1988)によれば,1986年現在で上記3州での非公用語バイリンガル教育を登録する生徒数は
アルバータ州2800人(ウクライナ語他7言語)
,サスカチュワン州131人(ウクライナ語のみ)
,
マニトバ州1663人(ウクライナ語,ドイツ語,ヘブライ語)となっている。バイリンガル教育
以外にも,非公用語を1教科として教えるコア・プログラムがあり,登録生徒数はサスカチュ
ワン州2771人(ウクライナ語とドイツ語),マニトバ州8395人(ウクライナ語他12言語)とな
っている。また,公立学校のカリキュラム内での非公用語教育が認められているのは上記西部
134
11
多文化主義における継承言語教育の行方
―日系カナダ人のアイデンティティ保持例から―
3州のみだが,オンタリオ,ケベックの両州では公立学校の制度を利用した形で,通常のカリ
キュラムの枠外で非公用語が一教科として教えられている。ただし,両州とも西部3州のよう
な非公用語を教育用語として認める法律は通していない。そのため,教える時間数も少なく,
州政府による予算の拠出も大掛かりなものではない。授業時間は1日30分,あるいは週2時間
半が上限である。オンタリオ州では1986年現在,オンタリオ継承言語プログラム(Ontario
Heritage Languages Program)を通じ,公立校で3万7669人(57言語),私立校で5万3441人
(32言語)が非公用語を学び,そのための州予算は1100万ドルである。後述するトロント地区
の2校の日本語学校はこのプログラムの恩恵を受けている。また,ケベック州の祖先言語文化
教育プログラム(Programme de l’enseignement de langues et de culutures d’origine, PELCO)
には,4824人(11言語)の生徒が登録し,これに対する州予算は106万ドルとなっている。こ
れに加え,連邦政府による非公用語教育への援助も行われている。公立学校のカリキュラムの
枠外に位置する補習校対象のものであって,1986年度で連邦政府の援助を受けた補習校はカナ
ダ全体で863校,生徒数は12万7920人となっている。連邦政府による年間予算は337万ドルであ
り,生徒一人当たりに換算すると約26ドルである。こうした補習校は,もともとは各エスニッ
ク集団あるいはコミュニティによって経費を賄われ,放課後や週末に教会,地域のコミュニテ
ィセンター,公立学校の校舎などを借りて開かれていたものである
(8)
。
3.2 日系カナダ人の継承言語教育
現在,カナダの日本語学校の多くは多文化主義政策の下,各州政府および地方教育委員会よ
り財政的支援を受けているが,もともとはどのような経緯で発足したのだろうか。初期移民時
代の最初の日本語学校は,長期に及ぶ出稼ぎ外国人労働者子弟に対する母語維持教育機関的な
位置付けであった。つまり,将来の帰国に備え,日系移民の子弟が日本語で困らないようにす
るための教育という側面が強かった。その後,定住移民として世代を経る中で,日本語教育の
伝統がそのまま受け継がれていったのである。こうした中,多文化主義政策の導入以降も,必
ずしも州や地方政府の援助に頼らず,生徒の授業料のみに頼る補習校として運営を続けたきた
学校も少なくない。倉田(1984)によれば,トロント市内の複数の日本語補習校が,州政府に
よるヘリテージ・プログラムの認定を受けない理由は,政権党の交代に伴う政策の変更などで,
プログラムの援助が急に打ち切りになると困るからとのことである。これには,第2次大戦中
の強制移動など政府の政策に翻弄されて苦難の道を行かざるを得なかった日系人のトラウマが
反映されているのかもしれない。こうした日系人の子弟に対するエスニック言語教育が西部諸
州のホワイト・エスニック集団のそれと違う点は,民族的地位向上のために政治力を駆使して
公教育のレベルにまで同教育を高めようとしてこなかったことであろう。以下に簡単に日系カ
ナダ人の日本語教育の歴史を追ってみることにする。
竹内(1987)によると,日系カナダ人子弟のための日本語学校の原形
(9)
が登場するのはブ
リティッシュ・コロンビア州(以下BC州)での日系社会形成期(1915〜1935年)である
(10)
。
この時期になると,出生地主義により日系移民2世がカナダ市民権を持てるようになったため,
1世の親たちも永住を決意し,子どもを地元の公立学校へ進学させるようになった。公立学校
では英語による教育およびカナダ市民となるための教育が施されたが,日系人子弟は放課後を
利用して開かれた日本語学校で日本語および日本文化を学ぶようになる。こうした日本語学校
135
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は,政府の認可を受けない補習校としてBC州内の日本人集落がある地域に相当数設置された。
その後,大平洋戦争勃発とともに日系市民の内陸への強制移動政策がとられ,日系人社会は一
時的に崩壊する。強制移動させられた日系人たちは帰国か東部移住(ロッキー以東)かの選択
を迫られた末,帰国する者を除いては東部を中心に分散居住することとなる。その後大平洋岸
に戻ることが認められることになり,一部が帰還したものの,日系人社会は戦前のBC州一極
集中型(日系人の95%が居住)ではなくカナダ全土に分散することとなった。戦後の日系社会
復興再建期(1945〜1965年)には,その初期においては社会経済的な力もなく,日系人として
の自信も喪失した彼らに日本語教育を子弟に施す余裕などなかった。そのため,多くはカナダ
政府主導の同化教育を受けるだけに甘んじる。しかし,その後一時本国に帰還していた日系人
子弟が再びカナダに帰国を果たすなどして,日系人社会が徐々に活性化する。そして,同後期
になると各地で日本語教育が再開され,2世,3世たちが地元の日本語学校で日本語および日
本文化を学ぶ環境が整っていく。
こうした経緯を経て,現在の日系カナダ人子弟に対する継承言語教育の基盤が築かれていっ
たわけだが,日本語学校での実際の教育内容,到達目標,学習動機,生徒の語学力,アイデン
ティティ保持との関係,財政面での問題,今後の展望などについて以下に詳しく見ていきたい。
ここでは倉田(1983/1984),中島(1988a/b),Oketani(1996)など資料が豊富なトロント・
メトロポリタン地区の日本語学校を中心に吟味することにする。
まず,日本語教育が行われる背景として,トロント日系人社会の特徴について把握しておく
必要があろう。倉田(1983)によると,大平洋戦争勃発後の強制移住政策により多大な犠牲を
払いながらトロント・メトロポリタン地区へ移動した日系人は,当時の苦い排斥経験からマジ
ョリティ社会への同化志向を強め,市内でも意識して分散居住するようになった。よって,か
つてのBC州のような集住地区は存在せず,日系人社会は同市の他のエスニック集団と比べて
も目立たないものとなっている。また,戦前に存在したような日系企業連合会や消費組合も存
在せず,日系人社会はカナダの経済システムに統合されつつある。また,脱政治化が進み,連
邦議会,州議会ともに代議員を送っていないのが現状だ。これには基礎票を得るだけの日系人
口が少ないことに加え,戦前,戦中に過酷な扱いを受けた経験から,自己抑制のきいた「静か
なカナダ人」になりきろうとする彼らの態度が反映されている。このように分散居住化,経済
的紐帯の弱体化,脱政治化の進行などにより,トロント地区では日系人がまとまる機会は徐々
に失われつつある。また,1世,2世の世代と戦後の新移民との間にも親密な関係が存在しな
いのが実情である。こうした事情を踏まえた上で,以下に同地区の日本語学校の実態について
まとめてみたい。
倉田(1984)の調査では,トロント市には2万人前後の日系人口があり,制度化された日本
語学校は4校存在する。それらは(1)トロント日本語学校(10クラス,123名),(2)ヘリ
テージ日本語学校(10クラス,170名),(3)国語教室(10レベル,181名),(4)日加学園
(10クラス,105名)であり,どの学校も年間授業料が90ドルほどである。このうち,州または
市の教育委員会から継承言語教育プログラムとしての財政援助を受けているのは(2)と(3)
のみ。この支援により,両校では教員の一部の給与や教室使用料などが賄われている。授業は
週1回,毎土曜日午前中3時間のいわゆる週末イマージョン形態をとっているが,倉田も指摘
しているように時間数が少なすぎる感は否めない。しかし,(1)平日は公立学校に通ってい
136
多文化主義における継承言語教育の行方
―日系カナダ人のアイデンティティ保持例から―
13
ること,(2)広いトロント・メトロポリタン地区に分散居住していることで父母の車による
送り迎えが欠かせない
(11)
という条件により,週1回のみの開講はやむを得ない面もある。倉
田は,もしも公立学校で日系人に日英両語のバイリンガル教育がなされれば優れた効果を生む
であろうと主張する。しかし,カナダ総人口の0.17%(Statistics Canada census figure=1985
年)しか占めず,西部3州のホワイト・エスニック集団ほどの政治力を持たない日系人社会が,
今後同プログラムをバイリンガル教育のレベルまで格上げできるのかは不透明な状況だ。現実
問題として,日本語学校での継承言語教育プログラムを通じて日系子弟の日本語力はどう育っ
ているのか,課題は何なのか,理論的な側面も加味しながら以下に論じる。
まず,トロント地区の日系人高校生で,これまで同市内の週末日本語コースに約10年間通っ
た後,1988年現在CTS高校日本語コースと呼ばれる単位認定日本語教育プログラムに在籍す
る31名の生徒を対象とした中島(1988a)の調査を吟味する。同コースは実質的に父兄が教室
運営をしているものの,Central Technical Schoolという公立高校の校舎を利用して土曜日に
授業が行われており,単位認定も同校が行う。対象となった生徒は戦後移住者の日系人子弟31
名である。語学力テストとして利用したものは,
(1)日本国内の4年生用読書力診断テスト,
(2)面接による会話力テスト,(3)作文テスト,(4)トロント大学日本語講座テスト初級
Ⅰ,(5)トロント大学日本語講座テスト初級Ⅱである。調査の結果,読書力では日本の小学
4年生と同じレベル(11年生)かそれを上回るレベル(12年生)と診断された。作文力では,
仮名や漢字など文字の使い分けや書く分量においては「かなりの力をもっている」が,その内
容においては稚拙さが目立ち,年齢相応の力が育っていない。会話力においては,数名が日本
の高校生と遜色ないものを持っているが,全体に(1)応答の言葉の長さ,(2)話体意識,
(3)敬語の使い方において稚拙さがかくせない。大学生向け日本語初級テストでは,Ⅰをパ
スできるのが53%,Ⅱに至っては17%しか合格できないレベルであった。これは,10年間学ん
できたものが大学の日本語講座の2年分にも相当しないことを示している。しかし,中島はカ
リキュラムの再編成の仕方次第では,彼らの日本語能力を大学2年の学習レベルにまで近付け
ることは可能と見ている。一方で,大学生学習者に見られない日系子弟の強みとして,(1)
日本語のコミュニケーションに慣れている,(2)
「学力言語」としての日本語の基礎を持って
いる点を指摘した。
上記結果により,日系人子弟に対する日本語週末イマージョンは,使用した教科書(国内の
小学4年レベル)を上回る語学力を提供できているものの,大学生の日本語学習者レベルに到
達させるまでに及んでいないことがわかる。ただし,今後のカリキュラム編成や家庭での2重
言語生活のあり方によっては,さらに効果が上がる可能性もある。また,日本語学習そのもの
に対する意識・態度や将来の日本語使用および日本との関わりについての質問では肯定的な答
えが優勢であり,同プログラムがエスニック・アイデンティティを維持するために肯定的な役
割を果たしていることが窺い知れる。倉田(1984)の調査でも,トロント地区日本語学校生徒
のうち「日系人としてのアイデンティティを保持している」と答えた者が4校平均で68.5%に
のぼっている。ただ,中島(1988b)は2文化適応型の日系子弟たちのアイデンティティ保持
を評価しながらも,日本語継承に対する意識が日本語力と全く関係がなかったことも指摘して
いる。このことは,Isajiw(1987)の「移住者の言語は,コミュニケーションの道具からアイ
デンティティのシンボルへと移行していく」という指摘と同様の現象がまさに日系子弟の間に
137
14
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も起こっていることを示している。また,全般的な教育効果的見地からの中島の結論は,日本
語の伝承という点では同プログラムは優れているが,継承言語教育が目指す国際貿易の最前線
で活躍できる人材育成という点では依然改善の余地があるということのようだ。
次にOketani(1996)がまとめた日系子弟の加算的バイリンガリティ(additive bilinguality)
の度合いについて,詳しく見てみることにする。この中で,まずOketaniはトロント地区に住
む戦後移住者の日系2世の高校生42名を対象に英語および日本語の客観テスト
(12)
を課し,能
力別に4グループを設定した。(1)英語力,日本語力ともに高いグループ(G1),(2)英語
力>日本語力のグループ(G2),(3)英語力<日本語力のグループ(G3),(4)英語力,日
本語力ともに低いグループ(G4)である。その上で,3つの質問をそれぞれのグループに行
い,結果をまとめた。このうち,特に日系カナダ人としてのアイデンティティに関わる質問
「自分達たちのことをどう見ているか」に関しては,グループごとに大きな差異が認められた。
G1の生徒は自分たちを「日本人のエスニシティを有するカナダ人」と規定,強い日系アイ
デンティティを持つことは認めながらも,あくまでもカナダ人であることを優先し,また周り
からカナダ人と見られることを望んでいる。また,どんなアイデンティティを保持しているか
という問題以上に,自分達のことを2言語,2文化に通じた「国際人(international human
beings)」であると認識している。Oketaniによれば,彼らのアイデンティティは心の中で分離
して存在するのではなく,共存している。G2の生徒たちは,自分たちがカナダ人であること
を強く意識している。とくにG1の生徒と比べ,日本文化との距離が遠いと感じている。日本
国内の親類も多くないし,日本に対する関心も薄い。G3の生徒たちはG2の生徒たちと逆の見
方をしており,自分たちを強い日本人のエスニシティ感覚を持った「日系カナダ人」であると
捉えている。また,日本語や日本文化維持に関して肯定的な意識や高いモチベーションを持っ
ている。G4の生徒たちは他の3グループと比べ,自己のアイデンティティ認識が薄く,自ら
の呼称も「カナダ人(Canadians)」,「カナダ系日本人(Canadian Japanese)」,「日系カナダ
人(Japanese Canadians)」とさまざまだ。また,「カナダ人」の定義についても,体系的で明
確な尺度を持ち合わせていない。まさにアイデンティティの分裂状態にあるといえる。
Oketani以前にも,Lambert(1967)がニューイングランド地方のフランス系アメリカ人を
対象に同様の調査を行ない,OketaniのG1〜G4に相当するグループの存在を確認している。そ
れゆえ,Oketaniのグループ分けは普遍的なもので,信頼性も高いと受け止められている。し
かし,Oketaniの調査では使用したテストが不適切だった可能性が拭いきれない。特にGREは
本来,北米の大学院受験に用いられる語彙および数学の試験であり,高校生相手に使用した場
合には,得点が低めに分散する可能性が高い。また,大学院入学レベルの高度な語彙を知らな
かったからといって高校での学習や普段の生活に支障が出るということもないだろう。つまり,
GREで測られた得点差は母語としての英語力の明確な差を反映するものとは到底考えられな
いのである。あるいはバイリンガル教育を推進する立場から,G1の集団を理想化することを
目的として,僅差の得点差でもグループ分けできる統計的手法を用いた可能性もある。ここで
中島,Oketani,Lambertらに共通していることは,言語能力とアイデンティティ保持の間に
は強い相関関係があり,だからこそ継承言語を学習言語とする充実したバイリンガル・プログ
ラムの実施を促進し,バランスの取れたアイデンティティを持つG1の生徒たちのようなグル
ープを作るべきとの認識だろう
138
(13)
。しかし,本当に言語教育プログラムの充実のみでエスニ
多文化主義における継承言語教育の行方
―日系カナダ人のアイデンティティ保持例から―
15
ック・マイノリティのアイデンティティ問題は解決されるのだろうか。個人のレベルであれば,
効果的な継承言語教育を押し進めることで,今後もG1に属するような者が現れる可能性は十
分ある―すなわちバランスのとれた言語能力,アイデンティティを有するとともに主流社会へ
の統合が可能な人物養成はなしうるだろう。しかし,エスニック・マイノリティ集団全体とし
てはどうなのかという点について上述の研究者たちは何も触れていない。以下では,まずエス
ニック・マイノリティが自らのアイデンティティをどのように意識し,どう向き合っていくよ
うになるのかをある心理学的なモデルにより吟味し,そのモデル中での継承言語習得の位置付
けについて述べる。また,エスニック集団にとって歴史的・社会的に重要な出来事や法制度の
改正などを求める社会運動から個人のエスニック・アイデンティティがどう影響を受け,それ
がどうエスニック・コミュニティ全体の動きや利益につながっていくのかをまとめる。
3.3 エスニック・アイデンティティ形成モデルとリドレス運動の成功
エスニック・マイノリティ(以下EM)はどのようなプロセスで全体社会での自らの位置付
けを行ない,また自らのアイデンティティと向かい合うようになっていくのだろうか。Banks
(1986)は「エスニック・リバイバル」とも称される60年代以降の欧米先進国におけるマイノ
リティの運動を「民族再活性化(ethnic revitalization)」運動と捉え,その進展と学校教育の
対応を関連づけたモデルを提示した。同様にTse(1998)は自ら考案したエスニック・アイデ
ンティティ発達モデルの中で,エスニック・マイノリティがどのように自分のアイデンティテ
ィを捉え,エスニック言語と向き合っていくようになるのかを説明した。これは,同化主義的
な第2言語(Second Language=L2)習得をカルチャーショックとの関係においてモデル化
したBrown(1987),Acton & de Felix(1986),Wong-Filmore(1986)らのモデルと対極を
なすもので非常に興味深いものがある。以下ではこのTseのモデルを参考に,継承言語プログ
ラムとEMのアイデンティティ保持との関係について吟味してみる。
Tseのモデルでエスニック・マイノリティは必然的に次の4段階を踏む。(1)無意識状態
(Unawareness),(2)エスニシティへの躊躇/回避(Ethnic Ambivalence/Evasion),(3)
エスニック意識の高まり(Ethnic Emergence),(4)エスニック・アイデンティティの統合
(Ethnic Identity Incorporation)である。(1)は,EMがEMであることの(しばしば従属的
な)地位について気づく以前の比較的短い期間のことで,就学前あるいはEMのみの排他的コ
ミュニティ外へ居住地を移動する以前の段階である。(2)はEMがエスニック文化に対する
二律背反あるいは否定的な感情を持ちながら,主流社会の集団に統合されたいと願う時期で,
比較的長期間に及ぶ。幼少期から思春期,あるいは成人して以降にわたる場合もある。(3)
は,EMが自分がマイノリティ集団の一員だという事実に立ち向かった後,自らのエスニック
文化遺産を追求するようになる段階。(4)はEMとしての自分を受け入れ,自己像の向上を
はかる段階。それ以前の段階での,エスニック・アイデンティティを巡る顕著な問題の多くは
この時点で解決が図られる。
Tseは,継承言語の習得および維持には「理解可能な言語入力(Comprehensive Input=CI)
」
へのアクセスと「集団の一員(Club Membership=CM)」としての自覚の2要素が必要とし,
その組み合わせパターンを提示しながら各段階での継承言語習得の可能性のパターンをあげて
いる(Figure 2参照)。
139
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一
CI
Stage 1
(無意識状態)
Stage 2
(エスニシティへの躊躇/回避)
CM
継承言語習得
(1)有
(1)適用不可 (1)可能
(2)無
(2)適用不可 (2)不可
(1)有
(2)無
(2)不可
(2)無
(3)無
(3)不可
エスニック・アイデンティティ確立のしきい
Stage 3
(1)有
(1)有
(1)可能
(2)無
(2)有
(2)不可
(1)無
(1)無
(1)不可
(エスニック・アイデンティティの統合) (2)無
(2)有
(2)不可
(3)有
(3)無
(3)不可
(4)有
(4)有
(4)可能
(エスニック意識の高まり)
Stage 4
Tse(1998)の記述に基づき筆者が作成
Figure 2:EMのエスニック・アイデンティティ発達と継承言語習得の関連図
Tseの結論は,継承言語習得はEMが(1)第2段階を超えており,(2)CIが得られる環境
にあり,(3)継承言語を価値視するグループにCMを見出した場合,継承言語の習得が可能
ということである。だが,その一方でエスニック・アイデンティティの最終形成段階である
(4)においてさえも,CIまたはCMいずれかへのアクセスが不可能な場合,継承言語は習得
されないというパターンがありうることも示された。つまり,Oketani(1996)が示した4パ
ターン以外に,強いエスニック・アイデンティティを保ちながらも,継承言語の習得が全くな
されないというEMの例があるということだ。このようにEMの継承言語習得は,Acton & de
Felixの第2言語習得モデルのように,目標言語(Target Language=TL)社会への同化の度
合いに比例してL2能力も必然的に高まる,といった単純な図式とは別次元のものである。そ
れは,L2を習得しなければTL社会において生き残れない,または就職,行政サービス享受な
どの点で不利益を被る第2言語学習者と,主流社会の言語を不自由なく操ることのできるEM
とでは言語習得の重みが本質的に違うからである。しかし,そこには共通点も存在する。それ
は第2言語習得にしろ,継承言語習得にしろ,第2段階を超えたレベルではじめて可能になる
ということだ。Acton & de Felixのモデルでは,L2学習者はカルチャーショックを経験した
後で,徐々に心理的ストレスを解消しつつL2習得が可能になるとして,第2段階と第3段階
のはざまに「同化へのしきい(Acculturation Threshold)」が存在すると仮定した。Tseのモ
デルでも第2段階と第3段階の間に,エスニック・アイデンティティの切り捨てか受け入れか
の分かれ道が存在し,それを通り越して初めて継承言語習得が可能となる。Brown(1987)
は第2言語習得における文化変容のモデルで,カルチャーショック克服のために語学教師が果
たす役割の重要性を強調した。すなわち,学習者の疲労や疎外感など文化的差異に起因するス
トレスを取り除くための工夫を授業に取り入れる必要があるとして,以下のように述べている。
Numerous materials and techniques—readings, films, simulation games, role-
140
多文化主義における継承言語教育の行方
―日系カナダ人のアイデンティティ保持例から―
17
plays, culture assimilators, “culture capsules” and “culturgrams” —are now
available to language teachers to assist them in the process of acculturation in
(14)
the classroom.
(Brown, 1987: 131)
こうしたいわばワクチン的な要素を授業に導入することで,ストレスを最小限に押さえつつ
同化への階段を着実に登らせていくことが可能というわけである。同様に,Tseのモデルでも
第2段階から第3段階に移行する際の,いわば「エスニック・アイデンティティ確立のしきい」
をスムーズに通過させるための何らかの工夫が必要となってこよう。教育現場でのプロセスに
とどまらず,心理療法士等によるカウンセリングやエスニック・コミュニティ内での幅広い交
流,エスニック集団全体の利益・便宜を図るための社会的な運動なども重要な要素となりうる
だろう。このうち,カナダ日系人社会で大きなインパクトをもって,日系としてのアイデンテ
ィティに影響を与えた補償要求(リドレス redress)運動について以下に触れておきたい。
戦時中から戦後にかけてのカナダ政府による日系人への人権侵害に対して,日系人コミュニ
ティから本格的な賠償要求運動が起こったのは1977年,日本人のカナダ移住100周年を祝った
「日系百年祭」のころとされる。飯野(1997)によれば,1971年のトルドー首相の「多文化主
義宣言」に基づく諸政策と,それに平行して見られたマイノリティ集団の地位の向上というカ
ナダ国内の風潮が同運動を後押ししたという。リドレス運動の特徴的なところは,同運動の中
心的な役割を果たしたのが日系3世であったことだ。倉田(1983)の推計では,3・4世の日
本語学校通学割合は4人に1人であり,彼らの大部分が日本語とは無縁の人たちで,カナダ社
会への構造的同化を達成した世代と考えられている。しかし,こうした3世たちが,実際に被
害を被りながらも沈黙を守る1・2世に代わって,リドレス運動のイニシアチブを取ったので
ある。これは,言語的遺産を失ってもエスニシティへの回帰やエスニック・アイデンティティ
の維持は可能であるということの証左であろう。こうした3世たちによる粘り強い運動の結果,
カナダ政府は1988年9月,ついに戦時中の日系人取り扱いに対して謝罪と補償を決定する。飯
野(1997)は同運動の成功要因として,(1)同運動が人種差別に対する憤りにとどまらず,
人権の原則の主張となったこと,(2)他のエスニック集団が支援したことをあげた。さらに
(1)に関連して,日系人にとっての「恥の遺産」が「権利の概念」にとって代わられたこと
が大きな変化であり,それは日系人コミュニティが日系人としての文化遺産を保持すると同時
に,多文化主義の実践としてその遺産を政治的に主張する力を示すに至った変化でもある,と
述べている。このことは,社会的運動の勝利がエスニック集団のアイデンティティ強化につな
がるとともに,エスニック・コミュニティ全体の地位向上や質的変化をもたらすことを意味す
るものだ。
前述Tseのモデルは,基本的にはEM個人のエスニック意識の変遷とエスニック言語習得と
の関わりを示したものである。しかし,上記の日系エスニック集団全体の社会的運動の勝利が,
同モデル中のどの段階にある日系EMにとっても大きな心理的刺激となり,エスニック意識を
高める結果となったことは容易に推察されよう。また,リドレス運動勝利により,実際に教
育・社会・文化面での活動援助費用1200万ドルが日系カナダ人コミュニティに支払われること
になった。これにより,Tseモデルの第2段階を通過したEMたちにとっては,継承言語習得
に必要な環境条件がより改善されたことだろう。このようにエスニック集団の継承言語習得お
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順
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よびアイデンティティ強化は,単に教育学的見地からの教材開発,教授法,カリキュラム編成
などの改善により達成されるものではない。多文化主義の枠組みの中で,EM集団が権利回復
運動を行ない成功を収めるなどの一定の社会的な前進や目に見える地位の向上を得ることがそ
の大きな要因となるのである。
カナダ日系社会では,他のエスニック集団に属する人々との結婚率が35歳以下で90%にもの
ぼり(Kobayahi, 1995),日系社会は消滅かと言われるほど同化が進んでいる。また,日系子
弟への継承言語教育についても,オンタリオ州がその呼称を国際言語教育(International
Language Education)に変えるとともに小学校レベルの外国語教育に統合するなど,逆風が
吹きはじめつつある(中島 1998)。しかし,1988年のリドレス運動の成功により日系人として
の人権を取り戻し,日系エスニック集団全体として一段階レベルの高いアイデンティティ強化
がはかられたことにより,カナダ日系社会はこれまでの経済的,社会的地位のみならず政治的
地位においても向上していくことだろう。日系子弟に対する継承言語教育プログラムの今後も,
多文化主義政策の台所事情というよりは,むしろ日系エスニック集団のマクロ的なアイデンテ
ィティ変化に左右されることになるのではあるまいか。
Notes
1.「継承言語」という用語の使用は主にカナダに限定されるが,最近では「国際言語(international
language)」の呼称が好まれるため,それほど使用されなくなっている。また,継承言語教育とは,
言語保持のためのバイリンガル教育のことであり,エスニック・マイノリティの子弟が母語,家庭言
語 ま た は 継 承 言 語 を 媒 介 言 語 と し て 学 校 教 育 を 受 け る よ う な 形 態 を 指 す( Encyclopedia of
Bilingualism and Bilingual Education, 1998)
。
2.田村(1992)は同化あるいは差別主義的だったカナダ社会が第2次大戦後大きな変化をみせた要因に
ついて,以下の4点を提示している。(1)ナチズムにみられる人種差別主義あるいは自民族中心主
義を直視反省し,国連人権宣言(1947)の最初の批准国となったこと,(2)両大戦間期に新規移民
が途絶え,その結果英語を常用語とする人口数が増えたこと,(3)第2次大戦後,ヨーロッパから
の大量難民が流入し,カナダの人口構成比が大きく変化したこと,(4)カナダと宗主国イギリスと
の関係が希薄になったこと。
3.田村(1992)によれば「全体社会」とは,カナダのような産業化した近代社会では資本主義における
経済アリーナを意味するという。
4.イマージョン教育とは第2言語を学習言語として教科学習を行わせるバイリンガル・プログラムで,
1965年ケベック州モントリオールの公立セント・ランバート小学校で,英国系の子どもを対象に母語
を犠牲にすることなく第2言語としてのフランス語を身につけさせることを目標としてスタートし
た。教室での第2言語使用割合により,トータル・イマージョン(50%以上),パーシャル・イマー
ジョン(50%以下),また開始時期により,中期イマージョン(小学4,5年から),後期イマージョ
ン(中学から)などに区分される。
5.母語の基礎により第2言語の基礎が育ち,2言語間の認知面での移行が可能であるとする理論。カミ
ンズ(Cummins, 1991)は,「学校や周囲の環境の中で言語(X)に接触する機会が十分あり,また
その言語(X)を学習する動機付けが十分である場合,児童・生徒が別の言語(Y)を媒体として授
業を受けて伸びた言語の力(Y)は言語(X)に移行しうる」としてバイリンガル教育の有効性を説
いた。
6.1984年に連邦政府国務省多文化局所長ケリー・ジョンストンは継承言語(heritage languages)をカ
ナダの豊かな言語資源として捉え,カナダの経済力を高めるために活用したいとするスピーチをおこ
なった。この中で,将来国際貿易や国際外交の第一線に立って活躍できるバイリンガルを少数言語グ
ループの継承言語教育を通して育てることができれば,継承言語教育に対する援助を正当化できると
も主張した。
7.1971年の同州法通過後,幼稚園レベルで100%,初等レベル以降では50%を上限に非公用語を教育用
語として使用することが認められている。
8.田村(1989)は,連邦政府の非公用語プログラム援助に関して,多文化主義政策自体が二言語主義と
142
多文化主義における継承言語教育の行方
―日系カナダ人のアイデンティティ保持例から―
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いう言語政策を前提にするだけに公用語教育を優先するのは当然としている。ゆえに,非公用語教育
はできるだけ消極的な形での援助,則ち公立学校制度の枠からはみだしたエスニック・スクールへの
援助という形をとるのが妥当であると述べている。
9.最初の日本語学校は1906年設立のヴァンクーヴァー日本共立学校とされる(倉田 1983)。
10.竹内(1987)はBC州への日系人移住史を次の6段階に分けている。(1)初期入植期(1877〜1900),
(2)家族形成期(1901〜1914),(3)日系社会形成期(1915〜1935),(4)戦時日系社会崩壊期
(1936〜1948),(5)日系社会復興再建期(1945〜1965),(6)日系社会繁栄期(1967〜現在)。
11.ほとんどの学校で送り迎えをする父母達のためのプログラムが同時並行的に開かれており,日本語学
校は日系人の重要な交流の場となっている(倉田 1984)
。
12.日本語能力検定試験2級/3級およびGRE(the Graduate Record Examination)の語彙部門である。
13.Oketani(1996)はバイリンガリティとアイデンティティの相乗作用について以下のように述べてい
る。「言語能力の向上が生徒のアイデンティティを醸成し,その逆も可となる。同時に,言語能力の
未発達はバイリンガルのアイデンティティを損ない,その逆も可である。ゆえに,加算的バイリンガ
リティを促すためには,言語とアイデンティティの両方がバランス良く発達するような手法が積極的
に取られるべきである(筆者抄訳)」。
14.“culture assimilator”および“culture capsule”の詳細についてはSeelye(1984)を参照のこと。
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