「日本のワールドミュージック」 (岩波書店『事典 世界音楽の本』) Introduction ポピュラー音楽の領域で使われる「ワールドミュージック」という語は、非主流的・非西洋的な(端 的にいえば主流的なポップ/ロック以外の)音楽をポピュラー音楽の文脈で流通させる際のカテゴリー として 1987 年に英国の音楽産業関係者によって発明されたものであり、1960 年代のアメリカの民族音 楽学で提唱された「世界音楽」概念(文化相対主義の立場から捉えられた「地球上に存在したあらゆる 時代・地域の音楽」)とは異なる出自を持つ。1989 年前後に日本に輸入された前者の意味での「ワール ドミュージック」は、1989 年から 1992 年頃に一種の「ブーム」を惹き起こした。欧米におけるワール ドミュージック現象は、基本的に西欧先進国の中流以上の人々が、自らにとって「異文化」である非西 洋音楽を「ワールド」という枠に囲い込んで消費するもので、 「西洋とそれ以外 the West and the Rest」 という古典的な二項対立を前提にしていたといえる。しかし日本では、先進国でありながら地理的・文 化的には「非西洋」であるという立場によって、一方で非西洋音楽を新奇な流行として消費しつつ、他 方で「自文化」である日本の音楽的同一性を、「ワールド」(つまり「異文化」としての「非西洋」)と して定めようとする、きわめて両義的な性格を示した。 前史: 「エスノ」から「ワールド」へ ワールドミュージック・ブーム以前、1980 年代の日本では先端的な流行として非西洋的な文物を消 費するする現象は「エスノ(エスニック)・ブーム」と呼ばれていた。円高による若年層の海外個人旅 行の増大を背景に、その主要な目的地であるインドや東南アジアの料理、衣料、雑貨が人気を高めた。 一方、特に音楽における「エスノ」の流行は、欧米での流行の輸入という性格が強かった。トーキング・ ヘッズ、ポップ・グループ、スリッツといった、パンク/ニューウェーブ以降の音楽家による非西洋的 要素を強調した音楽や、レゲエのボブ・マーリィを世界的スターとして成功させたアイランド・レコー ドがその後釜として売り出したナイジェリアのキング・サニー・アデをはじめとするアフリカのポピュ ラー音楽、英国のニューウェーブ系独立レーベルである4ADが「ブルガリアン・ヴォイス」として発 売したブルガリアの女性コーラスなどが、欧米の流行に敏感で先端的であることを自認する音楽愛好家 の支持を集めていた。 上記の音楽的傾向を包摂するマーケティング用語として、英国で 「ワールドミュージック」の語が 1987 年に発明された。しかし日本で「ワールドミュージック」の語が輸入された当初は、それは「パリ発」 の流行現象として意味付けられる場合が多かった。その代表は1987年のパリ・コレクションで用い られたジプシー・キングスの音楽や、官能性を強調するランバーダというダンスであり、これらはむし ろ先端的なファッションとして、あるいは扇情的な風俗現象として注目された。「パリ発ワールドミュ ージック」として、西アフリカ出身のモリ・カンテやサリフ・ケイタ、ユッスー・ンドゥール、アルジ ェリア出身のシェブ・ハレド、カリブ海の小アンティユ諸島のカッサヴといった、移民あるいは旧植民 地の音楽家が紹介されたが、一般ジャーナリズムでは、それらは固有の文脈を捨象され、パリという世 界都市の風景を彩る(当時の言葉でいう) 「トレンディ」な音楽として扱われた。 「エスニック・ブーム」 にせよ「パリ発ワールドミュージック」にせよ、「エキゾティックでオシャレな異文化」を消費する仕 方において、日本という位置取りが問題化することはほとんどなかった。日本は無自覚のうちに「擬似 西洋」として「エキゾティックな他者」である「非西洋」を眼差す特権的な位置に同一化していたとい える。こうした視線を体現した音楽として、例えば坂本龍一の『Neo Geo』(1987)が挙げられる。そ こではインドネシアのケチャや沖縄民謡が取り上げられているが、それら坂本が精緻に作りこんだサウ ンドに耳慣れない新奇な音楽要素を提供する、いわば「原材料」として扱われている。 「アジア」と「沖縄」への視線 消費主義とオリエンタリズムに枠付けられた「ワールドミュージック」ブームの展開の一方で、一部 のジャーナリズムにおいて 1990 年ごろから「非西洋」としての日本、 「アジア」の一部としての「日本」 を積極的に位置付けようとする意識が高まり、「国際的」に通用する( 「西洋」とは異なる)「日本のワ ールドミュージック」が希求されるようになる。それは「非西洋」の音楽さえも「パリ発」という観点 で称揚する文化的な無自覚に対する真摯な批判を含む一方で、岩渕功一が批判的に論じたような、バブ ル期の日本の経済力に裏打ちされた、 「脱西欧近代」と「アジア回帰」の志向が顔をのぞかせている。 日本のワールドミュージック現象が欧米の流行の模倣を脱して「アジア志向」を強めていくきっかけ となったのは、シンガポールのディック・リーと沖縄のりんけんバンドであった。ディック・リーのア ルバム『マッド・チャイナマン』 (1989)は、アルバム・ジャケットで京劇の扮装をし、中国、インド ネシア、日本、レバノンなどの過去の歌謡を当時最新のテクノロジーを用いてカヴァーするなど、多文 化的な「アジア」のイメージを積極的に提示した。リーは、西洋式の教育を受けイギリスに留学した自 分自身を「外は黄色く内は白い」バナナになぞらえ、従来貶められてきたシンガポール訛りの英語(シ ングリッシュ)を用いるなど、自身と自国のアイデンティティに関する批評的な視点も備えていた。デ ィック・リーの戦略的な「汎アジア」志向は、音楽家/プロデューサーの久保田麻琴を触発した。彼は 70 年代に「久保田麻琴と夕焼け楽団」として、細野晴臣とならんで、南北アメリカ、ハワイ、沖縄など の音楽要素を折衷した音楽を探求しており、80 年代には女性歌手サンディーを加えニューウェーブ的な 要素を強めたサンディー&ザ・サンセッツを率い、海外市場を意識した活動を行っていた。その久保田 がディック・リーと共同プロデュースしたサンディーのソロ・アルバム『Mercy』 (1990)では、マレ ーシアの童謡やリーの自作曲とともに、 「上を向いて歩こう」 、「リンゴ追分」、 「さくら」などの日本の 楽曲が、当時最先端のデジタル・テクノロジーを用いた編曲で歌われた。久保田はその後、サンディ・ ラム(香港)やデティ・クルニア(インドネシア)などの歌手をプロデュースし、アジアのポピュラー 音楽を日本ならびに世界へ紹介する東アジア音楽市場の「ディベロッパー」を自認した。東アジアの歌 謡的なポピュラー音楽は、欧米のワールドミュージック現象ではほとんど省みられなかったが、日本で は 90 年代半ば以降も「アジアンポップス・ブーム」として継続し、21 世紀に入ってからの「韓流ブー ム」にもつながってゆく。 一方、りんけんバンドは、当初沖縄内部の音楽シーンの革新を目指した実験的な試みとして結成され たが、 「内地」で紹介される際には、 「真正な伝統」、 「ホンモノの沖縄」として解釈された。独特の音階 を奏でる三線の響き、琉球王朝風の衣装、ウチナーグチの歌詞(全国発売のレコードの歌詞カードには 日本語対訳が付され、その「外語」性が強調されている)によって、日本国家に属しながらも「異文化」 である「沖縄」のイメージが喚起された。上々颱風や The Boom、ソウルフラワー・ユニオン、さらに はサザン・オールスターズのような大物ロックバンドまでもが沖縄の音楽要素を大きく取り入れた。 「沖 縄」は日本・アメリカとの植民地的な関係における「非被抑圧者」であり、本土では喪われた伝統的な 文化が生きていると考えられた。「沖縄」に投影されたこれらの性質を流用することで、彼らはロック 音楽文化の重要な構成要素である対抗文化的な真正性を獲得しようとした。それは同時期に主流的な音 楽シーンを席巻していた「バンドブーム」においてロックが商業的な意匠として消費されることへの抵 抗という側面を持っていた。その中で商業的に最も成功したのは The Boom の「島唄」 (1992)だが、 そのスペイン語カバー・バージョンが 2002 年サッカー・ワールドカップのアルゼンチン代表の公式応 援歌として選ばれたことからも伺えるように、現在では日本の内外を問わず、「日本」というネイショ ンを代表するものとして「沖縄」の表象が用いられている。「沖縄」は一方では「エキゾティックな異 文化」として消費され、他方では「ワールドミュージックとして世界に誇れる日本の音楽」として、つ まり日本の「自文化」の代表格として意味付けられたのである。 「日本の音楽」への視点 アジア諸国や沖縄の音楽への注目は、「日本の音楽」とは何かを問い直すきっかけともなった。19 91年には河内音頭の河内家菊水丸が歌った「カーキン音頭∼フリーター一代男」がアルバイト情報誌 のCMソングとして使用され大ヒットとなった。河内音頭にダンスホール・レゲエの要素を取り込んだ この楽曲のヒットはコミカルな「キワモノ」としての性質に拠る部分も否定できないが、ローカルな文 化実践の中で独自の「伝統」が絶えず更新されながら生き続けている事例が日本にも存在していること を示した。同時期には、長谷川宣伝社『東京チンドン vol.1』を通じてチンドンの再発見もなされた。 その音楽的な中心はフリージャズ・ミュージシャンであると同時に実際にチンドン楽士でもあった篠田 昌巳であった。92 年に夭折した篠田はパンク/ファンクバンド「じゃがたら」のメンバーでもあり、 80 年代以降のパンク/アンダーグラウンド音楽シーンとワールドミュージックを繋ぐ位置にいたとい える。また、ブームとしてのワールドミュージックが沈静化した 90 年代後半以降、篠田とも親交の深 かったクラリネット奏者・大熊ワタルはジンタ、チンドン、壮士演歌、浪曲などの戦前の大衆音楽を、 ロマのブラスバンドなどとも対比させながら「路上の世界音楽」として捉え返し、文筆と演奏の両面で 興味深い活動を行っている。大熊は前述のロックバンド、ソウルフラワー・ユニオンにも参加し、その 別ユニットであるソウル・フラワー・モノノケ・サミットで、チンドンのフォーマットとレパートリー を取り入れた活動も行っている。 やや文脈を異にするが、津軽三味線の吉田兄弟や雅楽の東儀秀樹など、近代以前の日本音楽の楽器を 西洋音楽のフォーマットに流し込む「クロスオーバー」的な音楽の成立の要件として、ワールドミュー ジック現象を通じて、「日本的」とされる響きが現代的で新鮮なものとして消費されうるようになった ことがあるだろう。 知的な運動としてのワールドミュージック 「日本のワールドミュージック」を考える際に上記の音楽実践の諸傾向と並んで重要なのは、それが 一種の知的な運動であったという点である。非西洋音楽の享受を通じて日本の音楽的なアイデンティテ ィを問い直そうとする姿勢は、小泉文夫、中村とうよう、平岡正明らが 60 年代から行ってきた、現代 日本の音楽状況における対抗文化として非西洋音楽を位置付ける言論活動の流れを汲むものといえる。 また、ブルーノ・ネトル『世界音楽の時代』、ピーター・マニュエル『非西欧世界のポピュラー音楽』、 ロジャー・ウォリス&クリステル・マルム『小さな人々の大きな音楽』といった、80 年代以降の英語圏 の民族音楽学の重要な著作が、ワールドミュージック現象の文脈で紹介されたことは注目に値する。そ こでは英語圏では異なる文脈に属していた民族音楽学の概念としての「世界音楽」と、ポピュラー音楽 の下位ジャンルとしての「ワールドミュージック」が重ねあわされた。これは一面では混同であり誤用 であるが、創造的な結合でもあった。音楽学者・細川周平や評論家・北中正和、前述の音楽家・大熊ワ タルらが、ワールドミュージック現象を契機にそれぞれの立場からアカデミズム・ジャーナリズム・音 楽実践の境界を越えて日本の大衆音楽史の批判的な研究に向かったが、これは欧米に比べ日本でワール ドミュージックが知的でシリアスなものとして受容されたことと密接に関わっているだろう。彼らの研 究では、近代日本の大衆音楽、とりわけ主流的な流行歌(歌謡曲)を従来のように「西洋音楽の劣化コ ピー」とみなす発想は克服され、様々な西洋音楽スタイルの移入とその土着化、また近代以前の音楽要 素の再発見と再解釈の過程が、音楽産業、楽器テクノロジー、メディア環境、法制度など多様な要素か らなる重層的な「近代」の経験に即して捉え返されている。闇雲に「西洋」とは異なる「日本的」な音 楽を原理主義的に求めるのではなく、言説と実践の双方から日本の音楽文化を固有の「近代」の経験か ら捉え返すこと。そこにこそ「日本のワールドミュージック」の可能性が潜んでいる。
© Copyright 2024 Paperzz