ディズニー・テーマパークの魅力 - 実践女子大学/実践女子大学短期大学部

顧客サービス・e−セミナー・テキスト①
ディズニー・テーマパークの魅力
−「魔法の王国」設立・運営の 30 年−
上 澤 昇 著
実践女子大学生活文化研究室
1
テキスト発行に寄せて
上澤昇氏は、ディズニー・テーマパーク誘致交渉に、初期から最終契約締結まで携わり、
その後東京ディズニーランドの最高運営責任者として、運営の基盤を確立してこられた、わ
が国のテーマパーク経営の第一人者である。この上澤氏の経験を体系的に研究し、わが国に
おけるショウ・ビジネス、エンターテイメント・ビジネスの文化的側面からみた社会評価を
向上させることは、私の研究室の研究・教育課題でもある。私自身もこの四十年間、上澤氏
のレジャー・ビジネスの一線での仕事に併行し、日本経済新聞社日経広告研究所、余暇開発
センター、そして筑波大学、実践女子大学、エンゼル財団︵内閣府認可の森永製菓・森永乳
業グループのシンクタンク︶で、生活文化研究、レジャー研究に従事してきた。この間、幾
度となく上澤氏からレジャー・ビジネスの実際の教えを受けてきた。その意味で、上澤氏は
2
セミナー・テキストとして発行できることは、まことに光栄なことで、上澤氏
私の最も尊敬しているレジャー・ビジネスの経営者である。その上澤氏の経験をこのたび研
究室からe
に心から感謝申し上げたい。さらにこの後、エンゼル財団の支援を受け、上澤氏とご一緒に
学際的な共同研究の場として﹁ディズニー・テーマパーク﹂の文化研究機構︵仮称︶を立ち
ジャーナル、e
フォーラムを開設し、個人、研究機関、大学に広く参加
上げる予定にしている。研究機構の運営は可能な限り社会に公開し、ホームページ上でもe
セミナー、e
テキストとして公開している。
を呼びかけ、研究・教育の充実を図っていきたい。なお、本書内容も左記のホームページ上
で学生のためにe
http://www.parkcity.ne.jp/ giko
二〇〇三年七月十四日 実践女子大学生活文化研究室 松田 義幸
3
現在のインターネット上のホームページアドレス テキスト発行に寄せて
はじめに
﹁魔法の王国﹂の東京ディズニーランドが開園してから、二〇〇三年の今年がちょうど二
十周年にあたる。この一月から二十周年を祝う記念イベントが行われている。現在、日本
のテーマパーク経営は、長引く深刻な不況の影響を受けているが、その中にあって、オリ
エンタルランドの経営するディズニー・テーマパークは順調に成長し、進化し続けている。
おかげさまで、二十一世紀の顧客サービスのビジネス・モデルとして高く評価されるまで
になった。私は設立準備から長く第一線に立ってきた一人として、そのように評価される
までになったことを、心からうれしく思っている。
しかし、今日までのオリエンタルランドの三十年間の道程は、スムーズに成長、進化し
てきたのではない。厳しい試練の連続であったのだ。二十一世紀のオリエンタルランドを
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担う次の世代に、この試練の歴史だけは忘れないようにしてもらいたいと願っている。そこ
で私は一線を退いたら、まず﹁オリエンタルランドの試練の歴史﹂を記録にとどめ、次の世
代へのメッセージとして残す仕事に取りかかろうと考えてきた。幸いオリエンタルランドで
私と苦楽を共にしてきた狩野健司さん︵ライブ・ショウ演出の第一人者︶の協力を得て、口
述記録を文章化することができた。この原稿を、親しくしていただいている実践女子大学の
松田義幸教授に目を通してもらったところ、過分の励ましをいただいたのである。松田教授
は、日本のレジャー研究を長年リードしてこられ、現在、学術会議登録の日本レジャー・レ
クリエーション学会の会長の要職に就いておられる。
セミナー・テキスト①﹄として刊行してみません
﹁この記録はアメリカの大学院のMBAの事例研究テキストに値すると思う。ひとまず私
の大学の研究室から﹃顧客サービス・e
か。その後に私の研究室との共同研究プロジェクトということで、理論的に体系化し、一般
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ビジネス向けの出版化を図ることにしてみてはどうでしょうか﹂
実は松田教授からのこの申し出は、私自身のこれからの人生の夢でもあったのだ。現役の
はじめに
時代に出版社から幾度となく、
﹁ウオルト・ディズニーのファミリー・エンターテイメント
の哲学・思想と、その表現としてのテーマパーク経営の実際﹂についての出版化の依頼を受
けてきた。しかし、当時の私はテーマパーク運営のまっただ中におり、そのようなゆとりは
全くなかった。その仕事は、一線を退き、ゆとりができてからの楽しみに残しておこうと先
送りしてきたのだ。できれば大学にもう一度通い、産業組織論、マーケティング、そしてレ
ジャー理論、プレイ理論を勉強し、その上でディズニー・テーマパーク経営論、
﹁顧客満足﹂
経営論、顧客サービス論に取り組みたいと考えてきた。この度、思いがけない松田教授のお
申し出を受けて、狩野健司さんにもメンバーに入っていただき、近い将来、学際的な﹁ディ
ズニー・テーマパーク﹂の文化研究機構︵仮称︶をスタートさせてもらうつもりでいる。こ
の幸運に心から感謝している。
日本のショウ・ビジネス、エンターテイメント・ビジネスは、ディズニー・テーマパーク
において見事に具現化しているのに、その文化的な社会評価は低く、この方面の大学におけ
る研究と人材育成も立ち遅れている。私どもの経験が大学との共同研究で、少しでも社会に
6
貢献することができれば、これに勝る幸せはない。私の小さな回想録の試みから、将来にこ
のように大きな夢と魔法の研究プロジェクトが生まれたのも、ウオルト・ディズニー、そし
てミッキー、ミニーからのプレゼントなのだと信じている。
まずはこれまでお世話になった多くの先輩、同僚、友人たち、そしてこれからオリエンタ
二〇〇三年七月十四日 上澤 昇
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ルランドを担う後輩たちに、この小著を捧げたい。そして批判を仰ぎたい。
はじめに
目次
テキスト発行に寄せて はじめに 2
欧米へのレジャー事情視察
オリエンタルランド・レジャー施設計画
一九六〇年の浦安沖の埋立計画
基本契約の締結完了
難航したロイヤリティ料率決定
1
第二章 ディズニーランド誘致交渉 東京ディズニーランド建設とスポンサー誘致
ディズニー社の首脳陣の来日
2
32
1
第一章 基本テーマ﹁すばらしい人間とその世界﹂
4
2
3
3
4
12
8
究極のファミリー・エンターテイメント
﹁不安﹂から﹁確信﹂へ 第三章 ディズニーランド研修
運営能力を身につけたオリジナル・ナイン
﹁九人の侍﹂のオリジナル・ナインの称号
組織要員計画の骨格
膨張し続ける建設費対策
注目を浴びた地盤改良工事
TDL版・マニュアルとトレーニング・プログラム
第四章 開業前の運営準備の課題 4
アメリカを凌いだ顧客サービス
3
直営の商品販売施設と飲食施設
2
オープン時のハプニング
1
第五章 運営開始とノウハウの蓄積 顧客満足度を上げる三つの基本原則
ポスター﹁ディズニーランドがやって来る﹂
ハイソサエティの交流の場の役割
104
1
9
1
2
77
2
3
3
4
5
6
60
進化し続けるための追加投資
第六章 ウオルト・ディズニーのテーマパーク経営哲学 お客様はわれわれのVIP
マニュアルを超える顧客サービスの実践
万博とテーマパークのサービスの違い
第七章 テーマパーク運営の実際 顧客満足度をリピート率で把握
オンステージ﹁明確な運営ポリシー﹂
マーチャンダイズもディズニー・テーマショー
153
1
2
3
4
1
2
オンステージの生命線﹁使命感と情熱﹂
3
バックステージの生命線﹁品質と安全﹂
4
バックステージのキャストの苦労
5
6
132
1 0
第八章 楽しみの極致
ライブ・エンターテイメント
テーマパークの華﹁ライブ・ショー﹂
四半世紀遅れの日本のエンターテイメント・ビジネス
オリジナル・ライブショーへの挑戦
ライブ・エンターテイメントの役割
娯楽性と教育性を追求したウオルト・ディズニー
第九章 ディズニー・テーマパークの本質 206
EPCOTの原点﹁イッツ・ア・スモール・ワールド﹂
アーティストを魅了したウオルト・ディズニー
229
ウオルト・ディズニーの文化遺伝子を受け継ぐ人々
第十章 東京ディズニーランドの歴史的意義 成功に導いた外部・内部要因
245
成功を持続するための要件
おわりに 1 1
1
2
3
4
1
2
3
4
1
2
188
第一章 基本テーマ﹁すばらしい人間とその世界﹂
1 一九六〇年の浦安沖の埋立計画
一九五六年の﹁首都圏整備計画﹂に従って、千葉県は京葉工業地帯開発整備計画のもと、
東京湾岸の埋立てと企業誘致を計画的にすすめていた。その一環として浦安町︵現浦安市︶
の臨海部を八百七十四万㎡︵二百六十五万坪︶にわたって埋立てをし、土地の開発利用を計
ることとなった。浦安町も、水質汚濁などで沿岸漁業が困難になっていたことから、町当局
を中心に従来の重化学工業から無公害工業施設または生活文化サービス施設の誘致を検討し
ていた。
株式会社オリエンタルランドは、一九六〇年︵昭和三十五年︶七月、浦安沖を埋立て、浦
1 2
安市の意向に則した商住地域の開発と大型レジャー施設の建設を行い、 あわせて国民の文
化・厚生・福祉に寄与することを目的に設立された。出資は朝日土地興業、京成電鉄、三井
不動産の三社であったが、後に朝日土地興業が経営不振で三井不動産に吸収合併され、出資
比率は京成電鉄五十二%、三井不動産四十八%となった。昭和三十七年七月、千葉県とオリ
エンタルランドの間で﹁浦安地区土地造成事業及び分譲に関する協定﹂が締結され、オリエ
ンタルランド社がその埋立て造成事業を請け負い、造成竣工後、県から造成地をレジャー施
商住地域の開発は、一九七五年︵昭和五十年︶十一月、幹線道路、埋立て、護岸等を含め
造成工事を完了した。 そしてオリエンタルランドでは昭和四十五年から五十二年にわたっ
て、造成土地のうちレジャー施設開発用地二百十万㎡︵六十三万坪︶、住宅用地百三十二万
㎡︵四十万坪︶の分譲を受けた。このうち商業住宅用地の開発については、オリエンタルラ
ンドと京成電鉄、三井不動産の三社で策定した﹁オリエンタルランド商住地区開発基本計画
一九七三﹂が、昭和四十九年一月に千葉県開発庁長から承認され、これに基づいて開発がす
1 3
設用地と住宅用地として払い下げを受けて開発することとなった。
第 1 章 基本テーマ「すばらしい人間とその世界」
すめられることになった。この商住地区開発計画は、浦安町が昭和四十八年に策定した﹁浦
安町総合開発計画一九七三﹂の中でも﹁緑あふれる海浜都市﹂づくりの一環として位置付け
られていたものである。
千葉県から造成地の払い下げに際して県と結んだ分譲協定には、数々の厳しい制約がつけ
られていた。最も基本的な条件は、先に県が計画した土地利用計画に沿って、払い下げを受
けた土地の開発をすすめて行かなければいけないことであった。
商住地区と並びレジャー施設の開発計画については、千葉県は当初から﹁増大の一途を辿
りつつある首都圏の爆発的なレジャー需要に対して、良質にして大規模なレクリエーション
基地を提供するプロジェクト﹂として、行政の上でも非常に重要な位置づけをしていた。レ
ジャー施設開発の作業は、この千葉県の遠大な計画を具体化しようとするものであった。昭
和四十六年の中頃から作業は本格化した。まず、理想的なレクリエーション基地を創ってい
くための基本理念となるべき開発テーマの選定や経営の基本理念を確立することから始め
た。この作業には充分な時間をかけた。 このプロセスに於いて、 未来学者・ジャーナリス
1 4
ト・余暇問題の研究者・環境デザイナー・心理学者など多方面の専門家との情報交換やディ
スカッションを重ねた。
このような作業が約二年間にわたって継続し、昭和四十八年七月に﹁すばらしい人間とそ
の世界﹂を基本テーマに総合的レジャー施設を構築するという基本計画が完成した。
2 オリエンタルランド ・レジャー施設計画
社オリエンタルランドに対し、商住用地・レジャー施設用地の引渡しが開始された。オリエ
ンタルランドでは払い下げ用地のゾーニングプランの作業に入っていたが、払い下げ用地の
引渡しと共に、いよいよ千葉県に対して﹁レジャー施設計画﹂を提出しなければならない時
期が迫っていた。私は、そのような時期の一九七二年、オリエンラルランドに入社した。当
時は総務部、経理部のほか、事業部門として不動産事業部、遊園地事業部の二部というこぢ
1 5
海面の埋立ても順調に進捗して、一九七〇年︵昭和四十五年︶十二月、千葉県から株式会
第 1 章 基本テーマ「すばらしい人間とその世界」
んまりとした会社だった。私は入社と同時に遊園地事業部次長に就いた。既に、オリエンタ
ルランドにはレジャー事業部のマネジメントとして三井不動産取締役から出向していたレ
ジャー事業担当常務の丹澤章浩さん、そして私の入社する二ヶ月前に入社された取締役・遊
園地事業部長の堀貞一郎さんがおられた。
社内では、ちょうど、私が入社した時期から千葉県に提出するための﹁オリエンタルラン
ド︵レジャー施設︶基本計画﹂の作業がスタートしようとしていた。丹澤さんは、直前まで
朝日土地興業で船橋の大規模レジャー施設の経営に当たった実績があった。堀さんは、かつ
て電通のプロデューサーとしてテレビ番組などで幾つかのヒット番組を制作、その後、大阪
万国博覧会のパビリオンのプランナー等としても大活躍された実績をもっていた。 二人が
﹁レジャー施設計画﹂の作業の主導に当たった。作業は二人が役割を分担する形ですすめら
れた。分担は、堀さんが﹁基本計画﹂全体の立案推進をすすめるプランニング グ・ループの
作業で、﹁基本計画﹂のテーマ・コンセプトなどは、このグループによってまとめられた。
丹澤さんは、専門家の立場から、それらの計画を施設として具体化していくワーキング・グ
1 6
ループの作業に当たった。別の言い方をすれば、堀さんがソフトの分野、丹澤さんがハード
の分野ということで、この二つのグループでプランの補完をし合いつつ収斂されていったも
のが﹁基本計画﹂である。その両者の作業に私のもとで奥山康夫課長︵後専務取締役︶以下
数人の若いスタッフが携わったが、若い人たちはそれぞれに優秀で、少数精鋭体制のとても
よいチームだった。
﹁オリエンタルランド︵レジャー施設︶基本計画﹂の構想に当たって、時代の激しい変化
事業計画をすすめてゆくためには、単に社会性と利潤性の両立ということだけでなく、企業
をとり巻くあらゆる周辺環境に対応することのできる﹁経営理念﹂の確立が事業化の前提条
件としてまず必要であった。最初に、オリエンタルランドの内部的・外部的前提条件を調査
分析し、次に、時代を取り囲む社会・経済・文化・環境・生活等に関する可能な限りの文
献・資料を集めて調査分析をした。同時に地域社会の余暇に関する意識調査も面接方式で極
力多くのサンプルを収集した。
1 7
を背景に公有水面の埋立地を払い下げてレジャー施設開発をするという、社会的責任の重い
第 1 章 基本テーマ「すばらしい人間とその世界」
その上で、
﹁専門家のレジャーに関する意見と予測﹂をシンポジウムや講話形式などの形
でまとめ、次いで﹁オリエンタルランド経営者層のレジャー施設基本計画に対する考え方﹂
を余すところなく聴き取って、それをKJ法によってまとめ、カード化していって、それぞ
れの相関関係を求めて分類し、さらにそれらをまとめて、
・世界の中の日本
・すばらしい人間とその世界
・人と遊びの空間
・豊かな海に未来を求めて
など、十のテーマを選び出した。
この計画のためにご参加を頂いた専門家の方々は
元通産省事務次官の余暇開発センター理事長 佐橋 滋氏
1 8
未来学者、東京工業大学教授 林 雄二郎氏
ロケット博士の組織工学研究所所長 糸川 英夫氏
毎日新聞出身の元電通局長・プロデューサー 小谷 正一氏
教育家の﹁やまびこ学校﹂の先生 無着 成恭氏
日本経済新聞出身の余暇開発センター主任研究員 松田 義幸氏
心理学者の千葉大学教授 多湖 輝氏
都市プロデューサー 泉 真也氏
上野動物園 杉浦 宏氏
映画評論家 萩 サク子氏
心理学者の警視庁科学検査所 町田 欣一氏
等、そうそうたる方々だった︵肩書は当時︶。この方々から特に﹁未来型の大規模レジャー
施設には何が求められるか﹂等について意見を聴いた。特に町田先生は群衆心理のわが国の
1 9
精神科医で作家 なだ いなだ氏
第 1 章 基本テーマ「すばらしい人間とその世界」
権威で、群衆の集中する施設や場所の雑踏警備や安全対策等について数々の実績をもち、わ
れわれの大規模レジャー施設計画のためにゲストの誘導・導線計画をはじめリスク管理など
に関する大変興味深い話を聴くことができた。
十のテーマは、さらに﹁すばらしい人間とその世界﹂という基本テーマに絞り込まれ、施
設の訴求対象をあらゆる年齢の人々とし、基本テーマに基づいて﹁すべての人々が人間賛歌
をうたうところとなる理想のオリエンタルランドづくり﹂を経営理念として確立した。当該
基本計画では、 開発用地全体の名称を社名と同じオリエンタルランドと呼称していた。 当
時、
この基本理念策定のための作業は遊園地事業部のスタッフにとって連日連夜の激務だっ
た。基本テーマとなった﹁すばらしい人間とその世界﹂は、その後しばらくオリエンタルラ
ンドの会社採用案内の表紙を飾り、新卒の応募者の人たちに会社志望の夢とロマンを与え続
けた。
基本テーマを踏まえてそれを形に具現化しようとするものが施設計画であるが、その内容
2 0
はやはり在来のものとそれほど大きな違いが感じられないものに止まったような気がする。
今にして思えばその辺のレベルが、当時のわが国における施設の企画開発力の限界だったよ
うにも思う。しかし、施設計画の説明の中では、基本テーマに基づくイベントや施設運営の
過程で、人間賛歌と感動や生きがいを醸成し、それまでのわが国のレジャー施設には無かっ
た﹁新しい創造﹂を実現していこうという運営ソフト面の斬新性を訴えており、もしこれら
の施設のうち幾つかが実現していたら、それらの施設が今どのように実際の運営に反映され
施設の全体計画は、
・ホールエリア︵ドーム型の多目的イベント・ホール︶ 十六・三エーカー︵二万坪︶
・プレイランド︵テーマパーク型の遊園地︶ 六十五・四エーカー︵八万坪︶
・インターナショナル ・ファッション・スクエア︵ショッピング・モール︶
十六・三エーカー︵二万坪︶
・ホテル・グループ 三十二・六エーカー︵四万坪︶
2 1
ていたかと思うと興味が尽きない。
第 1 章 基本テーマ「すばらしい人間とその世界」
・スイミング・ガーデン 二十四・五エーカー︵三万坪︶
・スポーツ・クラブ︵中心はゴルフコース︶ 百六十三・四エーカー︵二十万坪︶
・駐車場 八十一・七エーカー︵十万坪︶
等の構成であった。
施設計画での最大の悩みは、埋立地の軟弱地盤の問題で、施設の種類、規模、配置計画に
は特にそういった意味での物理的な配慮が必要だった。オリエンタルランドのランドマーク
的施設となる大規模ドーム︵収容三万人︶などを含むホールエリアは、開発用地全体の中心
︵現在の東京ディズニーランドのシンデレラ城のあたり︶に配置することが望ましいとされ
たが、 支持地盤の関係で、 電車利用者が駅からペデストリアンデッキを通り、 インターナ
ショナル・ファッション・スクエア︵有名店二百、レストラン二十などからなるファッショ
ンプラザで、ほぼ現在のイクスピアリに沿う位置︶の上層通路を経て到達できる位置︵ほぼ
現在の市運動公園側に相当する位置︶ に配置することとなった。
開発用地の中央に当たる大部分︵ほぼ現在の東京ディズニーランドに相当するロケーショ
2 2
ン︶は支持地盤の関連で荷重の少ないスポーツクラブ施設︵内百四十七エーカー/十八万坪
は十八ホールのパブリック・ゴルフコース︶に利用し、同時にゴルフコースの緑を借景とす
るホテル群︵高級インターナショナル・プラザホテル五百室、ファミリーイン三百室、ビジ
ネスタイプ・ホテル一千室、スチューデントホテル二百二十室の四タイプのホテル︶を現在
のほぼ東京ディズニーリゾートのオフィシャルホテル群のロケーションに配置することが計
画された。
ある位置が望ましいとされたが、 ホールエリアの位置が物理的に先に決定されている関係
上、大規模ドームとの関連で動員の相乗的効果を考慮してホールエリアに隣接させ、同時に
スイミング・ガーデンを並べて配置する︵ほぼ現在の東京ディズニーシーのロケーション︶
ように計画された。因みにこの基本計画に基づく施設計画の総投資額は当時の事業計画で六
百十億円だった。 面白いのはプレイランド計画で、 その概念は、 アトラクション施設とし
て、メイン施設の﹁大感動施設﹂群をプレイランドの中心に配置し、それを取り囲む周辺に
2 3
さらに、オリエンタルランドの中心施設の一つとなるプレイランドは、駅から徒歩距離に
第 1 章 基本テーマ「すばらしい人間とその世界」
サブ施設の﹁小感動施設﹂を当初七ヶ所程度散在させ、さらに園内の広大な緑のガーデンや
造形物を以って、
﹁中感動施設﹂とする、という﹁感動﹂のグレード別構成で全体の施設構
成を表現したユニークなコンセプトだった。この他には、屋外遊園乗り物娯楽機械や野外ス
テージなどがあった。
この施設案を考えた丹澤さんは、当時、
﹁大感動施設﹂として、アメリカのディズニーラ
ンドのホーンテッド・マンション、スモール・ワールド、カリブの海賊の三つを想定し、こ
れらをディズニーから買って来ることを真面目に考えていた。基本計画の策定時から、丹澤
さんはディズニーのアトラクションの買い付けを提案しており、一方、堀さんはディズニー
に拠らず﹁ディズニー以上のプラン﹂を独自で計画することを主張していた。しかし、丹澤
さんも、アトラクションを二つ三つ買ってくるという程度で言っていたのであって、そのく
らい、 ディズニーランドそのものの誘致については、 当時誰一人として想像だにしていな
かった。
一九七三年 ︵昭和四十八年︶ 七月﹁オリエンタルランド ︵レジャー施設︶ 基本計画﹂ は
2 4
﹁すばらしい人間とその世界﹂をテーマとして完成し、翌八月千葉県に提出された。この基
本計画は、ゴルフコース計画の部分に関して建設省と千葉県から修正を指導され、翌年八月
に承認された。結果的にその修正を受けたゾーンが後の東京ディズニーランドの敷地となっ
た。
千葉県に対して﹁基本計画﹂の提出が済むと、次に開発計画の最大の課題である施設計画
の具現化に取り組まなければならなかった。私たちの施設計画作業の手法は、従来のわが国
状で考えうるできるだけ多くのデータの集積を基礎にして、社会性と企業性の両面から総合
的に分析して施設を抽出していこうというものだった。そして十のテーマの中からまず﹁す
ばらしい人間とその世界﹂という大テーマを選定し、基本施設群を計画し、さらに残りの九
つのテーマから発想した施設群の中に取り入れた方がよい施設があればそれを取り入れ、全
体の施設計画の中に活かしていこうというものだった。いよいよこれから実際に施設計画を
展開してゆく上で、もうひとつ是非しておきたいことがあった。欧米レジャー事情の視察で
2 5
のレジャー施設がともすれば諸外国や他企業の単純な模倣に基づいているのとは異なり、現
第 1 章 基本テーマ「すばらしい人間とその世界」
ある。
3 欧米へのレジャー事情視察
レジャー分野に関して言えば、わが国は欧米に比べて十年の遅れがあると言われていた。
私たちは、オリエンタルランド開発の着手に先立って、
﹁果たして、日本のレジャーは将来
どう変遷していくのか﹂、﹁レジャー産業のあり方はどうあるべきか﹂を欧米の視察を通して
考えておきたかったのである。
千葉県に﹁基本計画﹂を提出した一週間後の八月下旬、堀さんと私の二人は海外施設の視
察を目的に四十日間の欧米旅行に出発した。目的地はスウェーデン、デンマーク、ドイツ、
オランダ、 フランス、北米などだった。
調査は欧米の先進例に見られる遊園地、 テーマパーク、 スーパードーム、 動物園、博物
館、美術館、ゴルフ場、スポーツクラブ、マリーナ、公園、海浜リゾート、都市デザイン、
2 6
都市交通システム等で、
﹁オリエンタルランド︵レジャー施設︶基本計画﹂の施設計画を超
長期的視野から検証することが目的だった。
この時に、一八四三年の開園以来百六十年の歴史をもち、テーマパークの原型ともいわれ
るデンマークの﹁チボリ公園﹂を私は初めて見た。またスウェーデンの首都ストックホルム
では、一八九一年に世界最初の野外博物館として作られた﹁スカンセン︵SKANSEN︶﹂
を、市の東方に浮かぶユールゴールデン島で見た。
﹁スカンセン﹂は近代化によって消えて
えていくことを目的に作られた、 三十三万平方メートル ︵約十万坪︶ の民俗学的な教育型
テーマパークである。各地から移設された農家や教会、建物などは百五十棟にのぼり、農家
に入ると実際におばさんたちが小麦粉をこねてパンを焼いて売っていたり、小さな町の一角
のガラス工房や印刷工場では実際に職人たちが働いていて、中世から近世までのスウェーデ
ンの人々の普段の生活を見ることができる。いわばここはストックホルムの人たちの心のふ
るさとである。
2 7
いく中世から続いた家屋や職人技を集めて、スウェーデンの伝統的な暮らしぶりを後世に伝
第 1 章 基本テーマ「すばらしい人間とその世界」
このように、 それぞれの国に展開されている各地のテーマパークのオリジナルを見て、
ヨーロッパの生活文化の古い歴史と奥行きの深さに思わず感動した。この視察の中でも、特
に大規模レジャー基地の開発手法として、仏のラングドック・ルシオン並びに米国フロリダ
のウオルト・ディズニー・ワールド・リゾートの例は、われわれの開発計画にとって、その
長所・短所の両面で実に参考になった。
フランスのラングドック・ルシオン沿岸リゾート・プロジェクトは、当時ヨーロッパ最大
級の大規模リゾート基地として計画された、 スペイン寄りの南仏海岸線、 約二百十四キロ
メートルにわたる開発である。六つのリゾート基地にレジャーポートを二十ヶ所、宿泊ベッ
ド数は七十五万ベッドを完成させようとする超ド級の官民合同プロジェクトだった。官民合
同という発想の原点には、ヨーロッパ、中でもカトリック国フランスの﹁レジャー享受の平
等﹂という思想が根強くある。 そのために ﹁誰もが支出できる料金設定﹂ が重視されてい
た。レジャー産業の事業性は採算の面ではっきりしないといわれており、増大するバカンス
需要に対応する国策として、環境保護のために国が開発のグランドデザインを描いて、その
2 8
上でインフラ整備の行き届いた開発用地を安い値段で企業に提供し、しかも、河川や海岸の
活用、資源の活用等でも政府や自治体の支援が得られるようにするなど、開発事業がスムー
ズにすすむメリットを企業に保証した上で、実際の開発、運営は民間が担当するという形式
をとるというものであった。また、企業側も、レジャー支出を日常生活水準の支出並み以上
にはしない国民性を大前提に市場性を大事にしていこうという、官民双方の長所をうまく結
合したやりかたであった。
ズニー・ワールド・リゾートであった。ウオルト・ディズニー・ワールドの開発面積はニュー
ヨークのマンハッタン島の二倍の広さ︵三千三百万坪︶、東京山手線の一・五倍の広さを州
議会の協力を得て、 坪五十円以下という安い価格で取得したものだった。
かつては雨期になると七〇%の土地が水浸しになると言われていた劣等地であったが、
ディズニー・ワールドの開発ですばらしい地域に生まれ変わり、現在はディズニーの所有す
る用地だけでも実に莫大な資産価値がある。州の協力で土地取得が極めて低廉で、地価を考
2 9
このラングドック・ルシオン基地と対照的な開発が、アメリカ・フロリダのウオルト・ディ
第 1 章 基本テーマ「すばらしい人間とその世界」
慮しないで開発することができたからである。その上、ディズニー・テーマパークの開発の
強さは、何と言っても一流の科学者、アーティストたちの頭脳を結集した態勢づくりにあっ
た。学ぶべき手法もたくさんあった。その一例にはスポンサー制度というものがあった。G
E、コダック、コカコーラなど全米一流企業約三十社が園内各施設のスポンサーになってい
たが、スポンサーのサインは建物の正面に小さく出ているだけで、施設の建設費、維持費は
すべてスポンサーの負担、そしてウオルト・ディズニー・ワールドの広告宣伝活動もスポン
サー自身がやってくれているので、ディズニー社側の経営的なメリットはとても大きい、と
いうことなどである。
私たちがウオルト・ディズニー・ワールドを視察した時は、一九七一年十月にマジック・
キングダムがオープンして、ちょうど二年を経過していた。前の年の初年度は年間六百万人
見込んでいたが、実績は実に倍近くの一千七十一万人に達していた。
視察を通じて、とりわけウオルト・ディズニー・ワールドの開発の実例は、われわれの開
発計画のあり方にとっても非常に示唆に富むもので、 ここには﹁すばらしい人間とその世
3 0
界﹂が、そして﹁すべての人々が人間賛歌をうたう理想の施設づくり﹂を目指す私たちの開
発理念が見事に実現していることに感銘し、﹁年間一千万人動員できる私たちの施設計画は
ディズニーランドしかない﹂と直観したのだ。帰国後その旨を会社の役員会に報告するとと
3 1
もに、ディズニーランド誘致の可能性を探る方向へ具体的な動きがいよいよスタートした。
第 1 章 基本テーマ「すばらしい人間とその世界」
第二章 ディズニーランド誘致交渉
1 ディズニー社の首脳陣の来日
視察を終え、その報告をすると丹澤さんが、かねて自分が考えていたディズニーランドか
らアトラクション施設の購入ができないかを三井不動産の江戸英雄さんに相談してみた。江
戸さんは﹁オリエンタルランドには海外取引の経験がないから、三井物産を通して、ディズ
ニーに接触を図るようにしたらどうか﹂とアドバイスをされた。これを受けて丹澤さんが、
当時の三井物産のロサンゼルス支店長澤登源治さん︵後の監査役、三井リース社長・会長︶
にディズニー社との仲介を依頼した。澤登さんは直ぐその対策に取りかかってくれ、東京本
社に帰任されてからも引き続き精力的に支援を継続してもらった。国際的な接渉経験が不充
3 2
分な当時のわれわれにとっては非常に心強いことだった。澤登さんの関係で三井物産の企業
広報活動に従事していた現地︵ロサンゼルス︶のPR会社もこちらの意向を受けて積極的に
動いてくれた。
余談だがPR会社の社長の名前がジャック・ホワイトハウスで、藁をも掴むような気持ち
だったわれわれにとってはその﹁ホワイトハウス﹂という名前がとても頼り甲斐のあるエー
ジェントに思えた。ディズニー社へのアプローチの基本方針が決まると、堀さんも一転して
強力な推進者になった。丹澤さん、堀さんのもとで私たちスタッフも、当時、東京湾岸道路
の建設状況などディズニーの誘致にとって有利な情報を積極的に収集して、三井物産経由で
通じて、ディズニー社の首脳に対し来日を正式に文書で要請した。四月に社内組織の改編が
あり、遊園地事業部がレジャー開発本部レジャー企画室となり、私が室長に就いた。その年
の七月、ディズニー社側の資料に供するためオリエンタルランドと電通で共同制作した分厚
い調査分析資料﹁浦安開発地域の適地性研究レポート﹂ができあがり、早速ディズニー社側
3 3
ディズニー社側へどんどん送達した。そして一九七四年︵昭和四十九年︶二月、三井物産を
第 2 章 ディズニーランド誘致交渉
へ提示することにした。
八月に入ると、既に千葉県に提出していた﹁オリエンタルランド︵レジャー施設︶の基本
計画﹂は、ゴルフコース計画について、払い下げ用地という性格上適切でないとの指摘を受
け、当該エリアを隣接のプレイランドエリアに統合して使用するという修正をし、最終的に
県から承認された。申請後、ちょうど一年が経過していた。千葉県から承認された計画は、
開発の理念、テーマ、ゾーニング、施設展開の概念、事業収支等を内容とする基本的なもの
で、この段階では開発用地全体の骨組みが中心で、施設としての内容を掘り下げたものでは
なかった。そのため現実性の面では多くの課題が残った。しかし、このプロジェクトの計画
作業に着手した最初の日から今日まで、 私たちには一貫して変わっていない開発理念があ
る。それは ﹁公有水面という国民の共有財産を埋立ててつくった土地を使用する私たちに
は、国民に喜んでもらえる施設を造って、企業の社会的責任を果たしていく責務がある﹂と
いうことである。これはオリエンタルランドの経営の永遠の理念である。基本計画は承認さ
れたものの、次の施設の実施計画の具体化作業では、多くの難儀が予想されていた。
3 4
当時、日本には広く人々が楽しむ都市型のファミリー・エンターテイメントの施設と言え
ば、映画、遊園地、ボーリング場ぐらいで、それだけにまだ、欧米型の消費文化、生活文化
に対する知識・実績・蓄積には欠けていた。六十三万坪という広大な土地を近代的都市型レ
ジャー施設開発で使い切る構想力は、私たちにもまだなかった。埋立て当時から﹁そんな広
い土地を使って遊園地などできる筈がない﹂
﹁遊園地は隠れ蓑﹂
﹁土地転がし﹂などと、たび
たび批判をあびせられたものだった。私たちが会社の基本計画に懸命に取り組んでいた最中
にも、
﹁アストロドーム案﹂
﹁アラブ博覧会誘致案﹂
﹁競馬場を移転する案﹂など雑多なプラ
ンが周辺の水面下でいろいろと飛び交っていた。そのようなことも周囲の批判や変な噂を生
私たちは、施設計画の立案作業に全力を尽くしていたものの、作業そのものの難しさと、
周囲の批判をうけ、その狭間でみなストレスに苦しめられた。私はそのような大切な時に、
出勤途上、心臓発作︵虚血性心疾患︶で倒れてしまったのである。恐らくそのストレスにさ
いなまれていたことが原因だったと思うが、幸い病状は軽かった。しかし、結局それ以来生
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み出す原因になっていたのだ。
第 2 章 ディズニーランド誘致交渉
涯服薬を続けることになった。そしてこの病気にかかっての心境の変化は、この事業を継承
し、推進する人材の育成に一番心配りするようになったことである。いずれにせよ、
﹁基本
計画﹂が県から承認されると、次に施設計画の具体化作業に入って行かなければならない。
いよいよ瀬戸際の時期に立たされたのである。
その年の十二月、ディズニー社の首脳陣が現地調査をするために来日する旨の連絡が入っ
た。正に福音だった。懸案の施設計画がもしディズニーランドで実現できたら、私たちの理
念を理想的な形で実現することができる。浦安の開発にこれを凌ぐものは無い。ディズニー
社の首脳陣の来日までの約一ヶ月間、ディズニー社の現地調査を成功に導くために準備の陣
頭指揮に当たったのは、 レジャー事業本部担当の丹澤さんと堀さんだった。
当時、日本では三菱地所が既にディズニーランド誘致交渉にオリエンタルランドよりも十
五年先駆けていた。これは彼らの来日を機に知ったことである。富士山麓の三百万坪という
広大な土地開発の核プロジェクトにディズニーランドの誘致を計画していたのである。要す
るに二社の競合であったわけだ。 さっそく競合を優位にするための対策を練った。 その結
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果、相手方のロケーションの現地調査を泊りがけで行うことにした。 そして二つのロケー
ションの徹底した比較検討分析をもとに、一千万人規模の集客ポテンシャルをもつ立地とし
て、浦安がいかに秀れているかを説明することにした。
ディズニー社首脳陣の浦安現地調査は堀さんのプランでヘリコプターを使って上空から
行った。浦安は三方が海と川に囲まれていて、周囲の日常性の影響から独立した非日常性の
祝祭空間の開発ができる土地であること、リピート率の高いゲストとして期待できる三千五
百万人の人口が集中する首都圏の一角にあり、開発用地と直結する東京湾岸道路の整備をは
じめ、大量輸送交通機関であるJR京葉線の建設工事が着々とすすんでおり、JR京葉線の
ること、家族連れゲストのアクセスには極めて恵まれた立地であること等々を、習志野市周
辺から新宿の高層ビル街周辺に至る間を往復飛行しながら実際に鳥瞰させるというものだっ
た。この立体的プレゼンテーションは正にすばらしいアイデアだった。ディズニー社の首脳
陣の視察当日、彼らに対するプレゼンテーションは堀さんが担当した。首脳陣は前日に車で
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開通時には東京駅から僅かに十六分、しかも開発用地の入口側部分に駅の開設が決まってい
第 2 章 ディズニーランド誘致交渉
往復して富士山麓の視察を済ませていた。一方舞浜の埋立地から飛び立ってヘリから開発予
定地を鳥瞰した彼らにとって、その条件のすばらしさは一目瞭然だった。
その後、帝国ホテルで大きなパネルを使ったプレゼンテーションを行った。プレゼンテー
ションは主として、先にディズニー社側へ提示した﹁浦安開発地域の適地性研究レポート﹂
に基づいて、主要なポイントを、大きな航空写真やマーケティング・データをパネルにし、
資料等を使って行った。堀さんのプレゼンテーションは、超長期的な展望に立った世界の中
における日本のポジション、開発予定地がその日本の中心である東京、そして浦安はさらに
その東京エリアの中心部の一角にある立地であることなどを強調したものだった。
ディズニー社の首脳陣はこのプレゼンテーションを通して、彼らの海外初進出の成功を充
分確信することができたはずだ。正にこのプレゼンテーションがディズニーの誘致交渉を軌
道に乗せる契機となったのだ。 プレゼンテーションの後、 彼らは直ちに帝国ホテル内で、
ディズニー社の臨時役員会を開き、
﹁浦安におけるディズニー・テーマパークの建設可能性
をオリエンタルランドと共同で検討する業務提携﹂について決定したのである。彼らがその
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意向を私たちに伝えた時、ディズニー社の首脳部は﹁契約期間は九十年でロイヤリティは全
ての収入に対して一〇%だ﹂と主張した。これは彼らの私たちに対する交渉に先立つ最初の
ジャブであった。 九十年というのは、 ウオルト・ディズニーがディズニーランドをつくる
時、建設資金をつくるため背に腹はかえられず土地の一部をホテル業者 ︵ディズニーラン
ドホテル︶に売却して、その時に相手から要求されて応じざるを得なかったときの経験だっ
た。ディズニー社はディズニーランドのオープンから二十五年後に、このホテルに大きな代
償を払って残りの六十五年の契約期間とホテル施設・土地を買い戻し、ホテル事業を直営に
したという苦い経験をもっている。その自分たちの教訓をどこかで活かしてみたいというこ
これは正に彼らの条件交渉の先制攻撃であった。
この頃、オリエンタルランドの専務の高橋政知さんは、埋立て工事と土地の払い下げだけ
が自分の仕事だと考えていて、レジャー施設開発の仕事にはまだほとんど無関心であった。
しかし、後にファミリー・エンターテイメントの本質を経営者の中で最も見抜いていただけ
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とだったのであろう。実際には契約期間の話し合いは五十年間でスタートしたが、しかし、
第 2 章 ディズニーランド誘致交渉
に、事業とは実に面白いものだと思った。 ディズニー社との共同検討は最終契約に至るま
で、三段階のプロセスを経てすすめた。共同検討は段階毎に見直しが明確となり、同時に両
者に最も重要な契約条件の交渉も議題になった。
2 難航したロイヤリティ料率決定
その後、 契約条件の交渉は前後四年半に及び、 主要条件の詰めの段階まですすんだのだ
が、実はここから足踏み状態に入る。その後の紆余曲折は、日本経済新聞に掲載された高橋
政知さんの﹁私の履歴書﹂︵平成十一年七月掲載︶に詳しい。
一言で言えば、その山場は、主要契約条件であるロイヤリティ料率の問題とそれに関連す
る契約期間の問題に関する親会社の三井不動産社長の坪井東さんとオリエンタルランドの
トップの高橋政知さんとの対立である。考えてみれば、それまでわが国では、せいぜい二百
億円もかければ立派な遊園地ができていた時代である。遊園地に一千億円も一千五百億円も
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かける常識など、全く無かった時代である。保証をする立場にたつ三井不動産社長としては
﹁たかが遊園地に﹂と、強い危惧の念を持ったことは無理もない。しかし、坪井さんが危惧
したことは、契約の条件についてであって、誘致自体に対するものではなかった。私はその
ように思っていた。
今日でこそ分かってもらえるが、ディズニーランドは遊園地ではなく、エンターテイメン
トをテーマとした一つのリゾート都市づくりだと思えばよい。両者間に認識の差があったこ
とは否めない。当時、私は高橋さんから説明を求められると、
﹁ロイヤリティは今までの日
本の常識で考えれば高いのは事実だが、しかしこれはディズニー社が七十年に亙って蓄積し
要コストであるし、契約期間は、そのブランド力やノウハウやクリエイティブといったディ
ズニー社のソフト資産の使用を、日本で独占できる保証の裏付けをさせたものだと考えるべ
きだ﹂ と繰り返し説明した。 高橋さんの理解は早かった。 ディズニー社が言っているよう
に、ディズニーランドは従来の遊園地とは全く概念を異にしたものなのである。だから今ま
4 1
てきた世界的なブランド力とノウハウを日本で独占使用するためのオリエンタルランドの必
第 2 章 ディズニーランド誘致交渉
での遊園地ビジネスの感覚で物事をとらえようとすると、とてつもない大きなギャップが生
まれてしまう。それまでの四年に亙った交渉にオリエンタルランド側は丹澤さん、堀さん、
上澤以下が当たった。膨大な内容に及ぶ契約条項の提示を逐条的に相手側と協議し、細かい
点にまでわたってオリエンタルランド側の主張を内容に反映させてゆくためには、お互いの
要求の往ったり来たりで、かなりの会議を必要としたし、そのための時間も充分かけた。相
互の権利関係にからむ条項の討議には特に、双方が随分と時間と神経を使い合った。
契約条件のロイヤリティ料率と契約期間の問題も、それまでの作業の段階をすすめていく
過程で、慎重にじっくりと交渉を積み上げながら、既にディズニー社との間ではほぼ合意に
達していた。作業はいよいよ大詰めに入ろうとしていた段階になって、親会社としてこのプ
ロジェクトを主導する立場にあった坪井東さんから、事業の採算性やロイヤリティ料率につ
いて、 後ろ向きな疑義が度々出るようになったのだ。 そのような影響でオリエンタルラン
ド、ディズニー社そして三井不動産間の議論が空回りするような場面が出てきて、 ディズ
ニー社側からも﹁話がまとまりかけたかと思うとまた崩れてしまう﹂といった溜め息や不信
4 2
感が募った。
一九七八年三月、江戸英雄さんとオリエンタルランド社長の川崎千春さんの意向でオリエ
ンタルランド側の交渉推進体制の組み替えが図られた。それまでの二代表取締役制のもとで
レジャー事業を担当していた代表取締役の一人が相談役に退き、埋立て工事・土地払い下げ
等、不動産事業分野を担当していた高橋政知さんが、単独代表取締役に指名されてその地位
に就くことになった。それまでの四年間ディズニー社との交渉には全く関わっていなかった
高橋さんが、会社の最高責任者として、ディズニー・テーマパーク・プロジェクトに当たる
ことになった。因みに、川崎さんは京成電鉄の社長時代、沿線で遊園地の経営経験があり、
訪問を試みたこともあったということで、ディズニーランドは憧れのプロジェクトだった。
江戸さんと川崎さんは千葉県内に有力事業を持つ企業の経営者として、朝日土地興業の丹澤
さんと共にオリエンタルランドの創設に参加し、会社の設立時から役員をつとめ、川崎さん
は高橋さんが代表取締役に就く前までオリエンタルランドの社長の地位にあった。
4 3
自らもかつてディズニーランドへ見学にいったり、その折ウオルト・ディズニー社への表敬
第 2 章 ディズニーランド誘致交渉
一九七八年八月、高橋さんがオリエンタルランドのトップとして初めて、ディズニー社の
トップとの交渉の場に臨むことになった。江戸さんの意見で、相手がトップの社長ならばこ
ちらも社長の肩書きの方が良いということになり出発の直前に急遽、高橋さんがオリエンタ
ルランドの代表取締役から代表取締役社長に就任した。高橋さんは後にこの時のことを﹁正
に晴天の霹靂であった﹂と述懐している。訪米にはオリエンタルランド側から丹澤さん、堀
さんと私が同行し、会議は九月六日から始まった。四年間の交渉を経て残された懸案は、ロ
イヤリティ料率の問題と契約期間の問題にほぼ絞られていた。しかしこの最初の高橋さんの
訪米会議では、解決に向けてほとんど実質的な進展がなかった。それどころかディズニー社
側から﹁もう話し合いをこれ以上すすめてもしかたがない。あなた方は東京に戻ったほうが
良いのではないか﹂と冷たく言われる始末だった。高橋さんにとっては腑に落ちないディズ
ニー社側の出方だった。﹁オリエンタルランドがディズニー社に支払うロイヤリティが高す
ぎる、もっと下げて欲しい﹂というディズニー社に対するレターによる申し入れが、実は坪
井東さんから会議に先立って直接ディズニー社側に届いていたのだ。ディズニー社の不信感
4 4
の増幅と強い反撥の理由を会議の後で知ったのだ。 これはオリエンタルランドの社長とし
て、日本側を代表して臨んでいる高橋政知さんの頭越しの出来事であった。
﹁こじれた交渉
を修復する目的で自分は米国に派遣されて来ているはずだ。日本側の代表が出席している大
事な交渉の場に、どうしてこのような不信感を煽るようなことをするのか﹂。それまで何回
か繰り返されていた交渉中断の苛立たしさに加えて、交渉に臨んでいる自分の立場と、自身
の尊厳を侵されたという思いに、高橋さんと坪井さんの感情的な対立が激化した。高橋さん
はどんな妨害や邪魔が入っても、 男の意地で契約をまとめてみせる、と決意したのだ。
帰国すると高橋さんは直ちに三井不動産に赴き、坪井さんに対して交渉の打開に直接当た
さんが間をおかず渡米して、 ロイヤリティの引き下げ話をまた持ち出し、 とうとうディズ
ニー社から交渉打ち切りの通告を受ける事態となってしまった。高橋さんは情況の更なる悪
化に、﹁それではオリエンタルランドのプロジェクトのぶち壊し話だ﹂とまた激昂したのだ。
その後、ロイヤリティの話に続いて、契約期間の問題についても同様なことが起こり、ディ
4 5
るよう要請した。
﹁自分自身で交渉してみたらどうですか﹂という趣旨である。それで坪井
第 2 章 ディズニーランド誘致交渉
ズニー社側の打ち切りは決定的なものとなった。一方、もうこの時期になると、一九七四年
の来日以来ディズニー社首脳陣は千葉県知事、地元町長を数度に亙り表敬訪問し、歓迎を受
け、それがその都度マスコミに報道されて、県民・町民のディズニーランド実現に対する期
待感もいやがうえにも高まっており、オリエンタルランドにとってはディズニーランド実現
は社会的責任になっており、撤退はオリエンタルランドそして三井不動産にとっても、大き
なマイナス ・リアクションを招くことが予想されるようになっていた。
また、一九七五年九月には天皇・皇后両陛下がアメリカ二百年祭に訪米され、ワシントン
からの帰途、 アナハイムのディズニーランドを訪問された。 園内で昼のパレードをご覧に
なっていた時に、皇后様が近くに立っていたアメリカ人の小さなお子さんを自分の膝の上に
抱き上げて、一緒にパレードをご覧になるというほほえましい光景がテレビで日本全国に放
映され、国民の大きな話題になるなど、ディズニーランドが日本人にとってグッと身近なも
のになっていた時期だった。三井不動産は、事態の非常時を認識して、急遽、高橋さんを米
国に派遣することを決めた。ディズニー誘致交渉が最も深刻且つ危機に瀕した時であった。
4 6
その時、私は高橋さんから、
﹁俺と一緒にアメリカに行こう。これに懸けよう﹂という話を
受けたのである。
一九七九年一月、高橋さんと私は再び渡米した。交渉は膝詰談判で一週間に及んだ。毎日
ホテルに帰ってきては、二人で一日の交渉を分析し、明日に備える準備に充分な打ち合わせ
をした。緊張から解放されるべき二人の盃も、頭の中は毎日、明日の作戦のことから逃れる
ことはなかった。三日目、ディズニー社側から﹁明日一日、お互いにそれぞれの社内で、こ
の問題についてじっくりと検討することにしましょう﹂との話があり、翌日は交渉の休戦日
になった。私たちはバーバンクのディズニー本社からロサンゼルスのリトル東京に近いホテ
明日、二人でラスベガスに行って頭を空っぽにしてこよう﹂ということで眠りに就くことに
した。翌朝、車で四時間半かけてラスベガスに向かう。次の朝まで、予約してある部屋には
一歩も入らず、キーノを楽しみながらウトウトして朝を迎えた。玄関に出ると、ラスベガス
は何十年ぶりかの大雪で一面白銀の世界である。全く信じられない光景だった。飛行場はク
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ル・ニューオータニに帰った。レストランで一杯飲みながら、高橋さんが﹁忙中閑ありだ。
第 2 章 ディズニーランド誘致交渉
ローズになっていた。﹁上澤君、こりゃ大変だ。午後二時の今日のディズニー社とのミーティ
ングには間に合うのか﹂。時間に殊のほか律儀な高橋さんは、大変緊張していた。幸い、昼十
二時のフライトが飛び立って、約束の時間いっぱいにディズニー本社に入ることができた。
現地での五日目、 高橋さんは決着条件について二つの決断をしていた。 一つがロイヤリ
ティの問題で、料率については今までの交渉でほぼ話し合いのついている条件を受け入れる
が、その引き換え条件として、レジャー用地六十三万坪全体にかかることになっていたロイ
ヤリティを開発用地面積の半分に限定すること。 二つめに、 東京ディズニーランド事業に
よってもしオリエンタルランドが経営の危機に瀕した場合には契約の解除について協議をす
ること。
この二つの条件をディズニー社側が受容することで、オリエンタルランド側が基本的に了
解していた契約期間の問題を含め、全ての事項について正式に合意するというものだった。
最終的にディズニー社側がこれに同意して、一週間にわたる交渉は危機を脱し、来る三月末
の調印日程を約して、交渉は妥結したのである。顧みると、一九七四年︵昭和四十九年︶十
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二月ディズニー社との間に最初の接渉を開始してからここに至るまで五年四ヶ月の歳月を積
み重ねたことになる。
ところがその夜、 ホテルで二人が喜びの盃にひたっていると、 三井不動産から電話があ
り、プロジェクトの調達資金に対する債務の保証については責任が持てないという連絡が
入ったのだ。借入れができなければこのプロジェクトは事実上実行不能に陥ってしまうこと
は自明だ。その時に電話口で烈火の如く怒った高橋さんのあの紅潮した仁王尊の如き凄まじ
い形相をここで書き表すことができない。自分の膝を拳骨で叩きながら電話口で激しく言い
争う。多分、隣の部屋の宿泊客が通報したのだろう。私たちの室内から聞こえる二人の激し
たちは自らの激昂に気付き、 騒ぎを詫びて、次に必要な対策を冷静に朝まで話し合った。
さらにまたその翌日の未明のこと。 午前二時頃、 私の部屋のドアをトントン叩く音がす
る。目を覚まして、 何かの間違いではないかと思って寝込むと、 またトントンとドアを叩
く。そっとドアを開けると、なんと高橋さんが下着姿で立っている。
﹁何かあったんですか﹂
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い殴り合いのような騒音に、ホテルのガードマンが駆けつけてドアを開けて入ってきた。私
第 2 章 ディズニーランド誘致交渉
と訊くと、
﹁寝つかれなかったんでビールを頼んで、飲み終わったから大きな台を両手で廊
下に持ち出したらドアがロックしちゃったんだよ。助けてくれ﹂ということだった。実はそ
の瞬間、私は﹁剥ぎとりにやられたのかな﹂と思ったので、大笑いとなった。
帰国後の高橋さんの行動は素早かった。直ちに千葉県の支援を取りつけに動いた。
三月末の調印の約束だったが、たまたま統一地方選挙の時期と重なったこともありディズ
ニー社に対して一ヶ月の延期を連絡して、四月末訪米の準備に入った。四月の県知事選で再
選された直後、川上紀一知事は高橋さんを呼んで、
﹁沼田武副知事を貴方に同行させて資金
調達のための金融機関回りをさせます﹂との支援の手を差し伸べてくれたのである。
ディズニー社との契約を一ヶ月先に延ばしたものの、綱渡りのように見えた。早速、勢い
勇んで乗りこんだオリエンタルランドの取引先の三井信託銀行では﹁遊園地にはとてもそん
な融資はできません﹂とまことにつれない応答に終わった。二人はことの難しさに思わず慄
然とした。もう一ヶ所ということで、次に行ったのが日本興業銀行だった。沼田副知事は高
橋さんの要請に添って今度は、
﹁千葉県が全責任を持ち、将来にわたって金融機関にご迷惑
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をかけるようなことは一切いたしません﹂という言葉を添えてくれ、応答に出てくれた副頭
取の菅谷隆介さんを痛く感激させたということだった。菅谷さんは﹁日本の将来はこれから
重厚長大の産業から、東京ディズニーランド・プロジェクトのような新しい産業が求められ
る時代が来る﹂と話されたという。かつてご自身もディズニーランドに行った経験をもつ菅
谷さんは東京ディズニーランドを﹁こころの産業﹂と呼んで評価し、
﹁融資については私が
音頭をとりましょう﹂と言って協力を約束してくれた。高橋さんはその時の思いを私に、﹁地
獄で仏に出会った。あの時、菅谷さんが協力を引き受けてくれていなかったら、東京ディズ
ニーランドは実現することがなかった﹂と言って生涯、恩人としていた。
産の江戸英雄さんと坪井東さんのところへ挨拶に出かけた。その時坪井さんからまたディズ
ニー社首脳あての一通の文書を預かった。内容は﹁協調融資団の結成が不調に終わった場合
には、今回の最終契約が無効になるという条件付きの契約にしたい﹂というものだった。高
橋さんは﹁はい、解りました。こちらの主張をはっきり言って来ますよ﹂と快く応答した。
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菅谷さんの協力を後ろ盾に、契約の決意を胸に秘めて、訪米の前日、高橋さんが三井不動
第 2 章 ディズニーランド誘致交渉
しかし、それはアメリカへ行かせてもらうための挨拶だった。
3 基本契約の締結完了
出発の日、出かける私たちに若い社員たちが来て﹁私たちの生活がかかっていますから、
よろしくお願いします﹂と声をかけてくれた。高橋さんはその言葉を生涯忘れなかった。ア
メリカに向けて成田空港を二人で飛び立つ前、
﹁上澤君、これは必要ないから君が持ってい
てくれ﹂と坪井さんから渡された文書を預かった。私はその意味を破って棄てろという意味
に解釈した。高橋さんは、どんなことがあっても契約の意志以外なかったからだ。その後、
高橋さんが日本経済新聞に﹁私の履歴書﹂を書くことになった時、私に﹁あの時の文書はど
こにあるんだ﹂と聞いて来た。すでに証拠が手もとにないことを残念がっていた。一九七九
年四月三十日ディズニー本社において ﹁基本契約を締結し調印を完了﹂する。
その夜、私はホテルからオリエンタルランドに﹁契約締結完了﹂の国際電話を入れた。翌
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朝、オリエンタルランドの経理担当常務の矢頭憲治さんから﹁協調融資団がまだ正式に発足
もしていないのにということで幹事の予定銀行がカンカンに怒っていますよ﹂という電話が
入った。高橋さんは私に、
﹁こんな時は騒ぎがおさまってから帰った方が良い。君は心配す
るな﹂と春風駘蕩だった。その夜、私たちの契約の労をねぎらい、ディズニー社のドン・テ
イタム会長宅に夕食会のご招待を受けた。 翌日はカードン ・ウオーカー社長のフロリダ ・
オーランドの湖畔のセカンドハウスに招かれ、コミュニティの人たちも一緒に顔を出して東
京ディズニーランドの契約を祝って拍手で迎えられた。果物や飲み物を満載したボートをウ
オーカーさんが自ら操作し、三人で湖上を走った記憶は忘れられない。深夜まで湖畔のバー
4 東京ディズニーランド建設とスポンサー誘致
帰国後、協調融資団の幹事予定銀行の菅谷さんから、
﹁親会社である三井不動産の保証が
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ベキューパーティーを楽しみ、三日間滞在して帰国した。
第 2 章 ディズニーランド誘致交渉
無いと融資団の結成が難しい﹂という新たな難問が出ている情況を聞かされた。しかし高橋
さんの懇請により、一九八〇年一月千葉県知事、副知事が融資の裏づけとなる﹁東京ディズ
ニーランド事業推進に関する覚書﹂ をオリエンタルランドとの間で結ぶことを決断、 レ
ジャー開発用地のうち、半分に相当する三十一万坪の土地利用制限を必要により解除できる
こととなり、これによって﹁遊園地用地﹂指定の担保価値の低い土地が﹁宅地並み﹂の担保
価値をもつこととなり、 ここに協調融資団が結成されて、 同年十二月、 待望の東京ディズ
ニーランド建設が着工となった。高橋さんの交渉に懸けた思いは﹁命懸けでやり遂げて来た
漁業補償交渉であり、資金も無い企業の埋立て工事にかけた人知れぬ苦労であり、その艱難
辛苦を克服してつくり上げて来た埋立て地に対する凄まじいばかりの愛着と執念﹂だった。
一方、契約手続完了の前に実質的なデザインの仕事はすすんでいた。一九七六年︵昭和五
十一年︶七月、ディズニー社との間に第二フェーズ作業としてマスタープラン策定に関する
契約が締結されると、その四ヶ月後の十一月、東京ディズニーランドのデザインを担当する
ディズニー社の企画デザイン部門であるWEDのトップ ・アートデザイナー、 クロード ・
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コーツさんとダグ・ケインさんが日本文化研究のため来日した。約二週間のスケジュールで
あったが、彼らが視察を希望したのは、東京、大阪といったわが国の代表的都市ではなく、
京都・奈良・姫路・岡山・倉敷・伊勢など日本の伝統美や様式美を見ることの出来る地域
だった。京都の二条城 ・清水寺 ・金閣寺 ・銀閣寺 ・竜安寺 ・平安神宮などや、 奈良の法隆
寺・東大寺、岡山の後楽園、 広島の宮島 ・厳島神社のほか、 伊勢の二見ヶ浦 ・伊勢神宮内
宮・外宮等々であった。彼らのこの研究視察旅行の目的は、異文化に対する理解と、自分た
ちが東京ディズニーランドのデザインを描く前に、日本の優れた伝統文化を自分たち自身の
眼できちんと認識しておきたいという考えに基づくものだった。﹁良いデザインは普遍的な
築物の見事な構成に眼を惹かれ、竜安寺の石庭では庭のかもし出す禅の雰囲気に心を惹きつ
けられて、立ち上がることすら忘れていた。美に対する感受性の実に豊かな人たちだった。
関西からの帰途、日本のテーマパークを見たいといって彼等が予めリストにあげていた京都
の﹁映画村﹂と名古屋の﹁明治村﹂に立ち寄って帰京した。コーツさんは後に、東京ディズ
5 5
ものだ﹂ということを、彼らは旅行中何回となく言っていた。金閣寺、銀閣寺では自然と建
第 2 章 ディズニーランド誘致交渉
ニーランドのシンデレラ城ミステリーツアーもデザインし完成させている。
一九七七年︵昭和五十二年︶三月に正式名称が﹁東京ディズニーランド﹂に決定して、か
ねて準備をすすめていたスポンサー企業の誘致活動を同年七月にスタートした。この名称は
ディズニー社からの強い要望で決まったものだが、千葉県の強力な協力あってのプロジェク
トで、 千葉県が難色を示したので困ったが、 成田の空港を東京国際新空港と決定した後で
あったので、渋々承知してもらった。
ディズニー社はディズニーランドの一九五五年の開業以来、米国の大企業に対し、園内の
施設の建設費の負担と引き換えに、 自社の企業イメージや商品の宣伝 ・販売促進にディズ
ニーの名称やディズニーランドのシーンを新聞・TV・雑誌で使用する権利を各施設のスポ
ンサー参加企業に与えていた。当時その企業数はGE、バンクオブアメリカ、コカコーラ、
モンサント、コダックなど一流企業が三十社を数えた。言ってみれば、万国博覧会に企業が
パビリオンを自前で提供するやり方に近い方式をディズニーという一民間企業がやってのけ
ていたのである。オリエンタルランドとの契約交渉時にも、彼らはディズニーブランドの広
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告価値をしきりと強調し、資金調達の有効な戦略の一つとして、東京ディズニーランドでの
スポンサー誘致を熱心にすすめてくれた。スポンサー制度は一業種一社、ないし一製品系列
で一社に広告の独占権を与えるシステムである。私たちも日本国内の一流企業で、しかも消
費者に対する宣伝・販促に積極的な企業を慎重にリストアップし、誘致活動を開始する準備
をすすめた。この当時日本ではまだ、このプロジェクトも遊園地に分類されていて、銀行の
融資ランクも不要不急業種で、打診に行っても評価も反応も全く芳しくなかったので、一流
企業のスポンサー獲得は、プロジェクトの客観的な価値をアピールしていく上でも非常に重
要なことだった。
になり、日本開発銀行などに出向きプロジェクトの説明をしてまわった。 概して、若いス
タッフの人たちはプロジェクトに非常に関心を寄せてくれるが、部長クラス以上の上の方に
いくと話が何時の間にか尻つぼみになっていくというパターンが殆どであった。
正式名称が決まったとはいえまだ具体的な施設計画もなく構想の段階に過ぎなかったの
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金融機関も広範囲に働きかけをしようということで、政府系の金融機関にも折衝すること
第 2 章 ディズニーランド誘致交渉
で、私たちはそれぞれの企業のトップに対して直接プロジェクトのプレゼンテーションを
し、同時に米国のディズニーランド、ウオルト・ディズニー・ワールドを実際に視察して頂
いてスポンサー誘致の話し合いをすすめていた。堀貞一郎さんのプレゼンテーションは、こ
のプロジェクトに対して相手企業の関心を引きつける能力・パワーで卓越していた。その結
果、スポンサー誘致活動が一つ一つ軌道に乗っていき、それがまた銀行に対しても良いイン
パクトを与えた。誘致活動はその後一九八一年︵昭和五十六年︶十月に、スポンサー企業第
一次十五社を決定して新聞発表し、世間の注目を集めることができた。
プレゼンテーションには江戸英雄さんの力を借りることがたびたびあった。江戸さんもま
た積極的な協力を惜しまなかった。松下電器産業株式会社に伺った時のことである。江戸さ
んの訪問を相談役の松下幸之助さんが待っていてくださった。プレゼンテーションが終わっ
たあとの質疑の中で松下さんは﹁資源の無い日本はこれから観光立国を目指すべきです。外
国人客の誘致が海外との交流を通じて観光地の活性化や雇用の増大をもたらしてくれます。
東京ディズニーランド・プロジェクトはこれからのわが国にとってとても良いことです﹂と
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いう感想を述べられた。私たちが松下の本社を辞した時、松下幸之助さんは車椅子で正面玄
関に出て来られて、われわれが見えなくなるまで見送っておられた。江戸さんは東京ディズ
ニーランド・プロジェクトが松下さんに強く支持されたことに大層感激されて、その後この
話をのちのちまで他人に話されていた。
またブリヂストン株式会社への訪問も、江戸さんにお願いした。この時も江戸さんの訪問
を会長の石橋幹一郎さんが待っていて下さった。石橋さんが﹁採算は難しいかも知れません
が、このような文化的な産業は成功させたいですね﹂と言って下さった。
ハウス食品株式会社の社長の浦上郁夫さんには、私と一緒にウオルト・ディズニー・ワー
御巣鷹山の墜落事故で亡くなられたことは誠に痛ましい出来事だった。
スポンサー誘致活動はそれ以来順調に継続を続け、現在の担当者の人たちによって、今や
最高の成果をあげている。
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ルドの視察をして頂いた。マーケティング・マインドの非常に優れた方だったが、その後、
第 2 章 ディズニーランド誘致交渉