書評「数学はいつも苦手だった」 北海道大学 中村 郁 2004 年 11 月東工大を訪問した折,訳者の石井志保子さんからこの本をいた だいた.その晩早速拝見,その後感想やら翻訳の意味のとりにくい点など申し 上げたご縁で,私に書評依頼がきたものらしい.一般に書評は単なる内容紹介 や推薦ではなく,著者には多少厳しくとも,できるだけ類書との比較レポート を読みたいと,私はかねがね思っていたので,この書評もその考えに沿うて書 いてみたい.とりあえずタイトルの似たものを 3 つ並べてみる: [1 ]「僕は数学しかできなかった」(小平邦彦) [2 ]「誰が数学嫌いにしたのか」(上野健爾) [3 ]「数学はいつも苦手だった」(ボイテルスパッヒャー) 最初のふたつが,著者自身の言葉をタイトルにしているのに対し,[3] の原題 「In Mathe, war Ich immer schlecht ....」は,前書きに,パーティーで著者と話 す女性の悲しげなつぶやきとして登場する.著者の考えは別のところにあるか ら,その意味ではタイトルはよく似ている. 数学を語りかけるとき,誰に何を伝えたいのか,そのためにどの方法がもっ とも有効なのか,この問にただ一つの答えがあるわけではない.小平はやはり 数学者を志す人に数学を語りかけるとき,もっとも有能であった.[2] は現代日 本の教育に強い危機感を持つ.[2] にあるのは,数学教育に関わるものとしての 反省でありそれに基づく実践である.その多数のエッセイの中でも「ある高校 生への手紙」は深い感動を誘う名文である.これは全国の中学生・高校生,も ちろん大学生にも読ませたい.また,同じ数学者として素直に耳を傾けたい. [3] は数学の嫌いかもしれない人々に向かって,ユーモアを交えて根気よく数 学とはなにか,数学的なるものとは何か,あるいは数学者とはいかなる人種で あるかを説明する.それは [2] と同じ危機感を動機としているだろうし,その もくろみは成功していると言ってよいだろう.多くのジョークは数学者にはな じみのものでもあるし,おおむね明快である.そして著者は,数学そのものに 入っていく.しかし,ここで紹介される数学やジョークは,数学が嫌いな人に はやはり重荷であるかもしれない.いくつかのジョークや数学的に佳境と思わ れる地点で,筆者もしばしば立ち止まらざるを得なかった. 数学者が好んでするように,この本もまたジョークと現実が交錯する.この ような本の読み方を,数学者は一応知ってはいる.あるとき突然ジョークの世 1 界に入り,数学のアナロジーで純粋に論理的に進んであり得ない結論に到達し て笑う,か笑わせ (ようとす) る.たとえば, 空の教室に一人学生が入っていった,二人学生が出てきた. 「もうひとり入ったら空集合になるね」(本書 174 ページ) がその典型である.しかし,これはかなり苦しいジョークである.2003 年ワー ルドシリーズ,ヤンキースがマーリンズと対戦し 2 勝 3 敗で迎えた第 6 戦,直前 の負け 2 試合に活躍して 1 戦ごとに打順をあげていた松井秀喜が飛ばしたジョー ク, 「(今日も負けてるし,自分も活躍している,そしていま 5 番だから)明日 はいよいよ4番だな」これなら分かる.しかも数学的な本質は上のジョークと 同じである.本書はよくがんばっていると思うし,相当成功していると思うが, やはり,数学の冗談にはまだ工夫がいるだろう. ところで,おそらく著者も数学が好きで,自分自身の数学を学ぶ喜びの経験 がこの本に結実したであろう,と思わせる本 [4 ]「博士の愛した数式」(小川洋子) これは,確かに日本数学会出版賞かつ本屋大賞第一位 (2004 年) に相応しい. 「ワ カッター」という素朴な喜びがこの「博士の愛した数式」から伝わって来る.や はり,素直な喜びに勝るものはない.読者が同じように数学を分かるかどうか 気にしていない.読者はこの純朴さに圧倒されて,一緒にうれしくなるだろう. 数学者にはどうしてもこういうものは書けない.しんみりとしてそれでいて明 るく,同じ本屋大賞第一位 (2005 年) の「夜のピクニック」(恩田陸)に相通ず るものがある.軽いノリで書かれたふたつの本のどちらにも,おそらく現代の メルヘンという評があてはまだろうし,売れているのがよく分かる気がする. さて脱線ついでにもうひとつ本を挙げると「冗談でしょうファインマンさん」 (ファインマン) 等,一連のシリーズ,この本も楽しい.日本版で言うと「若き 数学者のアメリカ」(藤原正彦) は,まぁこれに近い.そこで [3] の「数学はい つも苦手だった」は,少々乱暴な品定めをすれば 2 2 1 (ファインマン) + (博士の愛した数式) + (著者の数学世界) 5 5 5 ということになりそうである.総じて好著と言ってよい.本書の装丁が「博士 の愛した数式」に近いのは偶然ではなく,これは訳者 石井さんの強い御希望 の結果である. 最後に,第 2 版以降見られなくなった迷訳で是非紹介したいものがある. 「一 意分解領域」,これは Unique Factorization Domain の訳語とおぼしき用語で, 通常「一意分解整域」と訳される.最後の Domain は Integral Domain を指す から「領域」ではない.評者の「誤りでは?」という指摘に対する石井さんの反 応が頗る面白い. メールの返事は「学生時代からセミナーでいつもそう言って たけど,誰モ教エテクレナカッタヨー. 」 このぼやきは本書に是非とも加えたい. 2
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