1 第1回 博士の愛した数式 君たちはフェルメールという画家を知っていますか.17世紀オランダの画家ですが,最 近「真珠の耳飾りの少女」という映画が公開されましたが,この映画の原作はフェルメー ルの絵に基づくものです.私はこの画家のことを以前から知っており,海外に出たときに, フェルメールの絵のある美術館があれば行って見たりしています.フェルメールの絵は現 存数が三十数点という数の少なさで,私はそのうち二十点くらいは見ていると思いますが, 中でもアムステルダムのオランダ国立美術館にある「牛乳をそそぐ女」という絵に現在興 味をひかれています.それほど大きな絵でもなく,日の光が淡く白い壁に反射している台 所で,白いズキンを被ったどっしりした感じの女性が壺から別の入れ物に牛乳をそそいで いるという絵です.そのなんの変哲もない平凡な光景ながら,この絵は不思議に人を引き 付けるものをもっています.私の場合はこの絵を見るたびに ’It is no use crying over spilt milk.’ ということわざを連想してしまいます. ‘ 覆水盆に返らず ’というところですか.こ のことわざの重みがあるせいでしょうか,この絵には静寂の中にきりっとした緊張感がか すかに張り詰めています. ‘ 覆水盆に返らず ’というのは現象としては疑いのないことです.誰もが,こぼした牛 乳を,一部は可能かもしれませんが,すべてを元通りに戻すことはできないということを 知っています.しかし,それが牛乳ではなく,もう少し我々の生活の上で大切なものでも あったりすると,完全には元に戻らないと知っていながら,元に戻そうとむだな労力を払っ たりするものです.むだとわかっていても何とか努力してみるということも,ときにはた いせつでしょう.走り去る電車やバスを追いかける.これは明らかにばかげています.し かし,少し設定を変えて,何かの理由で自分のもとから去って行く恋人を,追いかけずに そのまま去らせてしまう.これはどうでしょうか.去って行く恋人をそのままにしていく か,そのうしろ姿に向ってなり振りかまわず追いかけるか,君だったらどちらの行動を取 りますか.一瞬の躊躇があるかも知れませんが, 「卒業」のダスティン・ホフマンのように なり振りかまわず追いかけ,結婚式の行われている教会から彼女を連れ出しますか.それ とも「カサブランカ」のハンフリー・ボガートのように a lot of water under the bridge と つぶやいて,静かに去らせますか. 今はDVDで見ようと思えば見られますが,引き合いに出した映画がずいぶん古いもの ですから,ぴんとこないかもしれません.いずれにしても,どのような行動をとるかはそ の原因によっても違うでしょうから,映画の内容は忘れてもう少し問題点をはっきりさせ ましょう.私がこれから問題にするのは,自分が何かドジをやってしまったとき,君ある いは,あなただったらその後どのような行動をとりますかということです.たとえば,君 の落ち度が原因で恋人が君あるいは,あなたのもとから去ってしまった.そのとき,君あ るいはあなたは恋人を去るがままにするか,追かけるかどちらですかということです.去 り行く人は去るがままにして,自分は他の道に向って歩き始める,いかにもかっこうよく 見えることもありますし,逆にその行動に歯がゆさを感じたり,冷たさが感じられたりす ることもあると思います.また,去り行こうとしているのは一つの策略で,実は追かけて くることを相手が期待していることもあります.ですから,だれもが納得する正解などと いうものはないのですが, ‘ 数学的な思考法 ’で考えていくと,spilt milk はどうしようも 2 ないことであり,恋人が立ち去るのをそのまま見送ることが私の取るべき行為ということ になるのです. 私はこれから君たちに spilt milk は spilt milk として受け入れていくという‘ 数学的な 行動の仕方 ’を話してみたいと思います.ただし,この行動様式のすすめや推奨ではあり ません.とてもこのような行動様式はとれないと感じる人たちもたくさんいると思われま すし,これが誰にでも有効な正しい行動様式だなどと,私には主張できないからです.ま あ,取る取らないは別にして‘ 数学的な行動様式 ’や思考法の利点やおかしなところを見 ていきましょうということです.私の印象では,まず数学的な行動・思考様式には男性的 あるいは武士道的,騎士道的な側面があると思います.それは何も女性がとるにはふさわ しくない,女性はまねすべきではないという意味ではありません. 「キル・ビル」のユマ・ サーマンを見てください. 「ラスト・サムライ」の渡辺謙よりはるかに武士道に沿った行動 を取っていながら,これには異論があるかもしれませんが,まさしく女性です.しかし,こ の行動様式は奇妙に社会通念からずれてしまって,何かこっけいに見える場合もあります. ときには,うまく難局を乗り越えることができる場合もありますが,傍目から見ると単な る変わり者に見えるということもあります.このように‘ 数学的な行動・思考様式 ’には, とてもかっこうよく見える側面と,思わず吹き出してしまうような間抜けな部分が同居し ており,それをこれから語っていきましょうというわけなのです. 私は最近,小川洋子の「博士の愛した数式」という小説1 を読みました.私は,本を小 説を含めてけっこう購入するのですが,読むのが遅くて読まれないままという状態の本が たくさんたまっています.いわゆる‘ つん読 ’というやつですね.今読んでいる本は20 年前,つまり君たちが生まれた頃に買った本なんていうことがよくあります.そして,ほ とんど日本の現代小説を読んだという記憶がありません.ではなぜ最近出版されたばかり のこの本を,他の本を差し置いて読んでみようという気になったかというと,確かに新聞 の書評は好評で, 「まさに正真正銘の(小川洋子の)最高傑作2 」という言葉につい引かれ てしまったのも事実ですが,本屋でぱらぱらめくってみると,野球の江夏のことが出てき たりして,引き込まれ,立ち読みしながら,これだったらすぐ読めてしまいそうで,他の 本を読むじゃまにはならないなと思ったからで,それと数学の教師として,博士の愛した 数式が何なのか興味があったからです. 小川洋子なる作家については私はそれまでぜんぜん知らず,何年か前に芥川賞を受賞し た作家であるということを本の奥付で初めて知った程度で,他の作品も読んだことはあり ません. ‘ 数式 ’という言葉につられて,本屋でその本をめくったとき,オイラーの名前が 目につきました.オイラー(1707 ∼ 1783)はスイス生れの18世紀の数学者です.ひょっ としたら,博士の愛した式は,多面体の頂点,辺,面の数に関するオイラーの公式のことか なとも思いましたが,それではなく微分積分で出てくるオイラーの関係式のことならたい したものだなと思いました.どうしてかというと,私の今までの経験では,数学といえば, 普通の人にとっては代数学,その中でも自然数(正の整数および0を含むこともある)や 1 2 [O] 小川洋子,博士の愛した数式,新潮社,(2003). 朝日新聞 2003 年 12 月 28 日号 3 整数の演算を扱い,その間の関係を見出す数論という分野だけを頭に思い浮かべる傾向が あり,他にはせいぜい初等幾何学であって,微分や積分の出てくる解析学を思い浮かべる 人はそんなにいないからです.微分積分は当然,高校数学でも出てくるわけですから,知っ ている人はたくさんいますが,むしろ物理学という印象の方が強いのではないでしょうか. もちろんこの見方は的外れではありません.しかし私は解析学を勉強していますが,物理 学はほとんど知りません.つまり,物理学をそんなに知らなくても,もちろん知っていた 方がよいしその必要が出てくる場合もありますが,解析学は勉強できます.まあ,いずれ にしても小説でマクローリン展開なんて出てきたら私でなくても驚くはずです.マクロー リン展開も「微分積分」の講義で勉強することができますが,興味のある方のために多面 体に関するオイラーの公式と解析学に出てくるオイラーの関係式を書いておきましょう. 定理 1.1 (Euler の公式) 多面体の頂点の個数を T ,稜線の数を S ,面の数を m と すると,いかなる多面体でも T +m=S+2 が成り立つ. この公式のことをある人に話したら,その人は数学が専門というわけではないのですが, 小学生のときにこの事実に独力で気がつき,自分は天才だとそのとき思ったとのことです. 確かに,この事実に気がついていたという人がたくさんいても不思議はない定理だと思い ますが,ではこの事実を証明できますか?それが小学生でできたら確かにすごいと思いま す.一般に示そうとするときは,多面体の定義をきちんとすることから始めないといけま せんが,特別な知識を使わずに証明することはできますし,君たちにも理解できます.た だし,ある程度の辛抱が必要です.また,この公式を用いると,正多面体には正四面体,正 八面体,正六面体(立方体),正十二面体,正二十面体の5種類しかないということも証 明できます3 . 解析学,おもに微分積分で出てくるオイラーの公式は,次のようなものです. 定理 1.2 (Euler の関係式) i を虚数単位,すなわち,i2 = −1 とすると, eix = cos x + i sin x が,すべての実数 x に対して成り立つ. 実際には x が複素数でも成り立ちますし,複素変数の指数関数や3角関数はどのように 考えるのだろうとか,いろいろ疑問が出てくると思いますが,それは「微分積分」や「複 素関数論」で勉強してみてください. また,数学者が登場する小説はそんなにないのではないかと考えていましたが,けっこ う最近の小説や映画には出てきているみたいです.マイケル・クライトンの「ジュラシッ 3 これらのことは,たとえば‘ 高木貞治,数学小景,岩波現代文庫 ’に書かれています. 4 ク・パーク」や「ロストワールド」にはイアン・マルカムという名の数学者が出てきます. そのまま科学者といっても差し支えないかもしれない役割ですが,この小説ではカオスや フラクタルなどの数学に関わる事実を説明してくれます.映画では「ジュラシック・パー ク」もそうですが,数年前に公開されたもので「ビューティフル・マインド」という映画 があって,ラッセル・クロウが実在の数学者ジョン・ナッシュを演じていました.私も見 ましたが講義をするときに,突然数式を黒板に殴り書きしており,私がここであのような 書き方をしたら,君たちの授業アンケートでさんざんに書かれるだろうと思わず苦笑いを してしまいました.その他にもアラン・チューリングというイギリスの数学者がモデルだ という第2次大戦のときの暗号解読にまつわる物語「エニグマ」などという映画も私は最 近見ました. 「ビューティフル・マインド」などは実話が元になっているだけに,数学者の 内面の葛藤がかなりの真実味をおびた調子で描かれていると思うのですが(ただこれは見 た人なら分かると思いますが,映画ならではの仕掛けがあります),たいていは数学者と いうと,日常生活とは全く縁のないどうでもよいことに苦しみ悩む変人という扱いで,一 般の人には理解できそうもな人生を送っている人というのが普通にもたれている印象では ないでしょうか. 「博士の愛した数式」を実際に読んでみると,博士はたしかに数学者ですが,そんなこと が実際にあるのかどうかは別にして,何年か前の交通事故が原因で80分しか記憶の持続 ができなくなり,研究者としての職を失い,義姉の家の離れの家にこもりっきりで,数学 の懸賞問題を解いている隠生者です.これはいつものパターンでしかも語り手の小学生の 子供をかかえる20代後半の家政婦と交わされる数学の話は,素数,友愛数,完全数,あ げくの果てにルース・アーロン=ペアまで出てくるはたして代数の話です.そして博士の ラマヌジャン4 並みの具体的な数字に対する関心と執着は,トム・クルーズとダスティン・ ホフマンの出ていた「レインマン」という映画の中で自閉症役のダスティン・ホフマンが 見せるやや誇張された数字に対する記憶力と計算力を思い出させます. この講義は一応数学の講義ですから,ここで数学の言葉は説明しておきましょう.ただ し,私もルース・アーロン=ペアなんて知りませんでしたら,以下の説明は受け売りです. 定義 1.1 1より大きい整数のうち,1とそれ自身のほかに正の約数を持たない数を素 数 prime number といいます. 2,3,5,7,11,13,17, . . .が素数になります.後で,素数は無数にあると いう事実のユークリッドによる証明というのを紹介します. 定義 1.2 正の整数 n に対してその正の約数(1およびそれ自身を含む)すべての和 を σ(n) で表すこことにします.このとき, σ(n) − n = m, 4 σ(m) − m = n 20世紀初めのインドの天才的数学者, ‘ 藤原正彦,天才と栄光と挫折,新潮選書,(2002)’ を読まれる とよい. 5 となる2つの数を友数,友愛数または親和数 amicable numbers といいます. このとき,σ(n) = σ(m) = n + m となりますから,友愛数はその約数の和が等しい2つ の数ということになります.このような友愛数の例には, 「博士の愛した数式」にも出てき 5 ますが ,220 と 284 が友愛数です.オイラーはこの友愛数を61組見つけたそうで,ま た 152 桁の友愛数なんてのもあるそうです. 定義 1.3 σ(n) = 2n となる正の整数 n を完全数 perfect number という. n が完全数なら,σ(n) − n = n ですから,自分自身以外のすべての約数を加えると自分 自身になるというわけです.これも「博士の愛した数式」にも出てきます6 . 定義 1.4 2つの連続する正の整数 n, n + 1 の組で,その積 n(n + 1) が最初の素数の 連続した積になっていて,それぞれの素因数(素数の約数)の和が等しいものをルース= アーロン・ペア Ruth-Aaron Pairs という. 714と715の数字の組がルース=アーロン・ペアであり,実際 714 = 2 · 3 · 7 · 17, 715 = 5 · 11 · 13 であり, 714 · 715 = 2 · 3 · 5 · 7 · 11 · 13 · 17, 2 + 3 + 7 + 17 = 5 + 11 + 13 となります.もちろん,実際は714と715というベーブ・ルースとハンク・アーロン のホームランの数があって,それから逆にこのような奇妙な性質が見出されているわけで す7 . 確かにこのような事実はおもしろいけど,ルース=アーロン・ペアが新たに見つかったと しても,だからそれがどうなのと数学の教師である私でも思ってしまいます.これはたぶ ん君たちも同様の感想だと思います.そんな感じも受けましたが読みつづけていくと,私 はだんだん,作者はこの小説を書くためにけっこう数学を自分なりに勉強したんだなとい う印象をもつようになりました.それはたとえば,博士が懸賞問題を解いて,懸賞金をも らうなんてすごいですねとほめられたときに, 「必ず答えがあると保証された問題を解くの は,そこに見えている頂上へ向って,ガイド付きの登山道をハイキングするようなものだ よ8 」と答えるところに表れていると思います.数学の本を読んだり,問題を解いたりす ることをハイキングにたとえることは,実はけっこうあるのですが,この言葉の後に続く 博士のせりふがなかなかうがっていてるのです.それはぜひ小説の方を読んでもらいたい 5 6 7 8 [O,p.27.] [O,p.60.] [O,pp.125-126.] [O,p.47.] 6 と思います.これは,数学は答えが1つに決まっていて,合っているかまちがっているか はっきりしているから好きと答える人たちには,たぶん思いもよらない答えだと思います. もう1つこの小説を読んでいて予想外だったのは,博士から1から10までの自然数を 全部たすといくつになるかという宿題を出されて,語り手の女性がこの問題を解くところ です.もちろんそのまま加えていってもすぐ答えが出るわけですが,これにはそうしなく てもよい方法があり,君たちの中にも知っている人がたくさんいると思いますが,ドイツ の数学者ガウス(1777 ∼ 1855)が少年時代に独力で見出したといわれている方法が有名で 9 ,私は当然この方法でこの女性は解くのだと思っていましたが,彼女は意外な方法を見 つけ出します.そのときの‘ 発見 ’のありさまの描写がなかなかのものなのです.数学的 発見の瞬間がどのようなものかというのは,それこそ経験者でないとなかなか分からない ものですが,特にフランスの数学者アンリー・ポアンカレ(1854 ∼ 1912)の随筆の中に書 かれているエピソードが有名です.たとえばこうです. 「クータンスに着いたとき,どこかへ散歩に出かけるために乗合馬車に乗った.その階段 に足を触れたその瞬間,それまでかかる考えのおこる準備となるようなことを何も考えて もいなかったのに,突然わたくしがフックス函数(関数)を定義するに用いた変換は非ユー クリッド幾何学の変換とまったく同じであるという考えがうかんで来た. 」10 馬車の階段に足をかけたとたんに,それまでとくに考えていたわけではなかった問題の 解決がひらめくなんて,とにかくかっこういいではないですか,私たち数学教師の中には このような体験を自分もしてみたいという思いから数学に志したという人がいても不思議 ではありません.日本の数学者でも岡潔(1901 ∼ 1978)の随筆があり,そこでも数学的発 見のありさまがやはり印象深く描かれています11 .これらは大数学者による大発見のとき の描写ですから,我々からかけ離れてしまいますが,それほど大げさではありませんが,自 然数の和の公式をみずから見いだすくだりは,小説に描かれた発見の描写としてはよく書 かれていると思いました. ‘ 発見 ’の体験は中身の程度に差はありますが,我々平凡な者た ちにも十分体験できるものだということが,この描写から納得できます.自然数の和の問 題はこの講義でも後に取り上げて詳しく説明します. 私が受けた感じでは,この博士には世間知らずの子供のような純粋さがあって,なんだ か手塚治虫の鉄腕アトムに出てくる‘ お茶の水博士 ’をつい連想してしまいます.また,何 となくこの本の巻末の文献にあげられている‘ ポール・ホフマン,放浪の天才数学者エル デシュ,草思社,(2000) ’の登場人物ポール・エルデシュを連想させるところもあります が,少なくとも私のまわりには,このように世俗にそまらない純粋さを保っている数学者 は存在しません.しかし,何か桁外れの人物というものはいることはいるもので,たとえ ば,このエルデシュは1996年に83歳で亡くなった数学者ですが,大学や研究所には どこにも所属せず,家はもちろん家族ももたず飛行機で世界中を放浪し続けた人物で,そ の実際に語り継がれている様々なエピソードは小説よりもおもしろく,ホフマンの本を読 9 ‘ E・T・ベル,数学をつくった人びと ,ハヤカワ・ノンフィクション文庫 ’によると,実際にガウス に出された問題はもう少しむずかしい. 10 ポアンカレ,科学と方法,岩波文庫,(1953) p.58. 11 岡潔,春宵十話,毎日新聞社,(1963). 7 むとこのような人物が本当にいたのかという驚きを多くの人たちがもつと思います. ところで小説の中の博士は自分の成したことに対する他人の評価には全く無頓着なので す.それとは違うかもしれませんが,いわゆる物欲のない人間というのは,表面上だけの ことになるかもしれませんが,けっこういるのかもしれません.お金がなくなっても,あ るいはたいせつにしている物をなくしても無頓着な人というのはいるものです.そのよう な人に私はあきれると同時に感心してしまいますが,私がさらに驚いてしまうのは嫉妬心 のない人です.嫉妬心がないというより,その気持ちを押さえるなり,あるいは受け流し てしまう術を心得ている人と言った方が正確でしょうか.哲学者のサルトルは,自分の伴 侶のボーヴォワールに別の恋人ができても頓着しなかったそうです.もっとも,サルトル 自身にもボーヴォワール以外に女性が随時いたそうですから,どっちもどっちですが,と もかくこれもサルトル流の spilt milk の対処の仕方だと思います.それから,人から誉め られてもそれに左右されない人たちにも私は感心します.サルトルはノーベル文学賞の受 賞を拒否しました.これは我々には簡単には分からない理由があってのことでしょうが, このように賞を受けたときの態度によっても,その人の行動様式がある程度分かるもので す.人がたとえば数学的な成果を誉める場合は,その得られた結果や事実を賞賛するので あって,その人物の人格を誉めているわけではないのですが,たいていの人は自分が誉め られていると錯覚してしまうのではないでしょうか. ‘ 博士 ’はそのことをわきまえている ように見えます.人からの賞賛をまともに受けることを拒否する人たちは一見,社会の流 れから離れたところにいて,自分の価値判断だけでやっているように見えるので,それは 単なる‘ オタク ’ではないかと考える人もいると思います.まあ,オタクといってもいい かもしれませんが,この人種は確かに少ない.小説などに出てくると新鮮な感じがします が.数学者の中でも少ない部類の人たちでしょうし,この人種は残念ながら今の世の中で は Endangered Species 絶滅危惧種です.私は何とかシマフクロウと同様に絶滅させたくな いと考えていますが,遺伝子の優遇には合わないだろうなと思います. この小川洋子の小説を読み,数学あるいは数学者というものに興味を掻き立てられた人 たちも出てきているのではないかと思いますし,我々数学に携わるものとしては,多くの 人たちに数学に関心を持ってもらうことを期待しています.それは学んでいる分野が文系 あるいは理系であるということに関係ありません.文系と理系という分野についても,後 に考察してみます.この講義ではこれから私の考える数学というもの,数学的な考え方に ついて話していきます.そして,それを実践する形で,算数の問題を,場合によっては数 学の問題を考えてみようと思っています.それと私が見聞した,数学者と呼ばれる人たち の行動をいくつか紹介していきますが,それは‘ 数学者 ’がいつも同じように行動すると いうわけではなく,ほかの分野と同様に,個人個人によって違うことは言うまでもないこ とだと思います.また,オイラーとかガウスといった歴史上著名な数学者の生涯を知りた いという人にはすでに挙げてある‘ E・T・ベル,数学をつくった人びと,ハヤカワ・ノン フィクション文庫 ’ (全3冊)を参考にあげておきますので読まれてみるとよいでしょう. この本は最近文庫本として刊行されました.また,最近の数学者のものでは,やはりすで に挙げてある‘ 放浪の天才数学者エルデシュ ’と‘ 藤原正彦,天才の栄光と挫折 ’がとて もおもしろく読めます.ただし,これからこの講義で述べる数学者たちの話は,これらの 8 歴史に残る天才達の話ではなく,能力も才能も平凡な人間が数学的に独自に考えていくと はどういうことなのかという観点から述べていきます. これまで断りもなく, ‘ 数学 ’という言葉を使ってきましたが, ‘ 数学 ’というのはもち ろん数字を扱う学問の分野ですが,必ずしも数字だけを扱っているのではないことは君た ちは十分ご存知だと思います.整数の性質をあつかう数論,代数という分野があることは すでに述べていますが,それだけではありません.大雑把に言えば,代数学の他に幾何学, 解析学という分野があり,対象は数字そのものではありませんが,これらの分野において も数字から逃れることは厳密な意味ではできないでしょう.私が考える‘ 数学 ’という言 葉の意味はこの講義の中で徐々に述べていくことになると思いますが,それまでの間‘ 数 学 ’と‘ 算数 ’という言葉を便宜的に使い分けることにします.そしてこの講義では暫定 的に次のように定義をしておきましょう. 私たちが実生活の中で実際に出会うおもに数量に関する問題に対する対処の仕方を考え る分野をこの講義では算数といいます.対象は現実に存在するもので,普通の意味で見た り触れたりすることのできるものです. 現実には見たり触れたりすることのできないものを対象としており,論理と計算だけを 手段にして,真か偽かを見きわめていく分野をこの講義では数学といいます. このような定義をすると他の数学の先生に怒られるかもしれませんが,算数は現実生活 で使われる計算であり,ふつう私たちは逃れることができません.むかし風にいうと, ‘算 術 ’ですか. ‘ 数学 ’は知らなくても現実生活ではなんら差し支えないものです.そして, ‘ 数学 ’は必ずしも私たちの現実,日常生活に則しているというわけではありません.小 学校や中学校で学ぶものが‘ 算数 ’ ,高校,大学で学ぶものが‘ 数学 ’と言ってもいいの ですが,私の定義では,高校からは算数も数学も行いますし,小学校にも数学的要素は当 然入ってきています.海洋学部の各学科で数学を使うときは,たいていは目に見えるもの, 現実に存在するものが対象ですから,実は‘ 算数 ’なのだと思うのですが,そう言いきっ てしまうと,身も蓋もなくなってしまうのですが,さらに言えば,物理も算数です.ただ これは‘ 算数 ’がやさしくて, ‘ 数学 ’が高級でむずかしいものという意味ではないことは 断るまでもないでしょう. ‘ 数学 ’ができれば, ‘ 算数 ’もできるのが普通でしょう.しか し, ‘ 数学 ’の深い理論を理解できる人でも, ‘ 算数 ’の計算能力は一般の人より悪いとい う人もいます. 私も実はそうなのですが,数学者の中には物理の理論が理解できなかったり,苦手だと いう人がけっこういます.これも私の定義による‘ 算数 ’が理解できない例になると思いま す.ともかく世の中には算数はできるが,数学はできないという人もいれば,逆に数学は できるが,算数はだめという人もいて,さらには両方ともだめ,両方ともできるという人 もいるわけです.この事実は,私にはとても奇妙に感じられることですが,そういうもの なのかもしれません.自分はどこに属するのだろうかと考えてみてください.両方できれ ばよいのかもしれませんが,それほど話は単純ではなさそうな気が私にはしています. ‘算 9 数 ’と‘ 数学 ’の違い,これもこの講義の中で考えられていく主題の1つです. さて,小説の題の‘ 博士の愛した数式 ’とは何か?それは,どうやら eπi + 1 = 0 というオイラーの関係式の特別の場合らしいのです.指数関数の値が出て来ていますが, 残念ながら3角関数はさすがに出て来ていませんでした. オイラーの関係式については, 「微分積分」の講義の方にまかすとして,この講義では数 学的な考え方についての私の考えを述べていきますが,このときデカルトおよびパスカル という17世紀の哲学者の言葉や様々の本からの引用が出てきますが,もちろんデカルト やパスカルの哲学理論を論じようというわけではありませんし,そのような能力は私には ありません.これら先人の残している言葉の一般的な解釈はともかくとし,これらの言葉 を借りて,私の自己流の数学的な考え方をいろいろな角度から説明することを試みていき ます.その後,天秤の問題,3平方の定理,数列の和,アキレスとカメの逆理,フィボナッ チ数列,パスカルの3角形等の,算数あるいは,算数と数学の間にある項目を取り上げて, それを‘ 実験的に ’考察するということを行います.これらのことは私がすべて独力で考え たことではありません.私が実際に他の先生の話を聞き,学びそして考えたものです.個々 のものに対しては,その都度出所を明らかにしていきます. 岡潔がこのようにいっています. 「数学的な行動様式とは,物事を十分に考えて,迷わず 行動すること」.どこに書いてあったか忘れてしまいましたので引用はなしです.ですか ら正確ではないかもしれませんが,何か別にたいしたことでもなさそうですね.言われな くてもそんなことなら自分はいつもそうしていると思う人もいるでしょうし,こんなこと で数学のむずかしい問題が解たりするのだろうかと疑問に思う人もいるでしょう.もちろ んこれで問題が即座に解けるわけではありませんし,実践しようとするとけっこうむずか しいのです.やはり,このように行動している人は Endangered Species かもしれません. 次回の講義では,私の経験した日常的なものから,後に算数的あるいは数学的な例によ り‘ 数学的な考え方 ’の一部を説明していきますが,私自身,この考え方で数学の問題に きちんと対処しているかというと,はなはだあやしいものです.また,こんなことは知ら なくても問題を解くことはできると考えておられる方もあると思います.それはそれで正 しいです.私自身が数学的な考え方をあらためて考え直していこうというのが実はこの講 義の目的です. さて,最後に宿題を出しておきます.次回までに考えてきてみてください. 宿題 1.1 君はいま岩山を登っています.崩れやすい1本道をおそるおそる通っていま す.先をを見ますと,上から大きな岩がときおり道の上に転がり落ちてきています.それ にぶつかったらまちがいなく大けがをするか,悪くすると死んでしまいます.うまく岩の 転がり落ちてくる間隙を縫って,この危険な場所を通過しなければなりません.ところが 10 君は突然,靴のひもがほどけていることに気がつきました.そこで止まって,靴のひもを 結んでいると,転がってくる岩の直撃を受けるかもしれません.でも,ひもをほどけたま まにして,急いで通っていくと非常に危険です.また,ひもを結ぶために留まっていたお かげで,逆に岩の直撃を避けることができるかもしれません.このようなとき,君ならど のような行動をとりますか?
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