8 2 昭和 5 2 .1 0 第2 3号 ダクタイル鉄管 1 1 1 1 1 1川 1 1 1 1 1 1 随 筆 l 川 1 川 1 川 1 川 川 1 1 川 川 1川 その後、加藤成明の改築には主として防禦 ⑤本丸の南方 東南方につらなる土居は、 に重点を置いた江戸時代初期の構造がみられ その南にあった午沼といわれた深い沼を蒲生 ることである。 氏郷が濠に利用したので、ゆるい傾斜である ①天守閣を五層にするとき、土台から組み ため、防禦のうえから土居のうえの石垣に、 よこや 立てたらしく、もとの土台石がそのまま残っ 「横矢がかり」といわれる屈曲をつけたこと。 ているので、七層時代の有様が想定されるこ 以上、鶴ケ城の特色の概要を述べたが、一 般庶民がはじめて城内に入って、城への名残 と 。 からめて ②追手門(表門)、楊手門(裏門)の入口を守 うま 7 ごし りを惜しんだという往時を考えてみると、鶴 る「馬出 J を 全 国 的 に み て も 珍 し い く ら い 大 き ケ城築城以来数百年、そしてその命を終える な郭(通称、北出丸、西出丸という。)に拡張 時にあたって、城ははじめてすべての人々の して、もとからあった郭の配置と相侠って域 ための城になったといえるかも知れない。 このことは、城がなくなったいまも、会津 防禦の完成を期したこと。 くろがねもん ③ 天 守 閣 の 「 走 り 長 屋J と 「 鉄 門 」 は 、 天 守閣改築のとき構築したものであることは、 の人々の胸に大きく刻み込まれている。 そしてそれが会津若松市に戦後、鶴ケ城を 切り込みはぎの石墳の積み方でうかがわれる 再建させた原効力につながったのかも知れな こと。 い。いまそびえる白亜の天守を眼にするとき ④城門がみな渡り櫓門になっていて、前に ある人は、蒲生氏郷の城への情熱を思い出す 析形をつくりその裏側に石段があり、門の左 かも知れない。またある人は加藤成明の戦略 右どちらにも移られるようになっていること。 技術を偲ぷかも知れない。またある人は、保 ⑤太鼓門は本丸に入る重要な門のため、こ の 石 垣 は 城 内 最 大 (1丈余り)の大石を用い、 主F しゃ ~i しり 裏側にめずらしい坂合せの武者走を構築して 科時代の治世の支えになっていたその城をふ り仰ぐ人々もいるかも知れない。そして全国 の人々も・・・・・・ いること。 水戸の笠原水道か呂 近代水道への道 水戸市水道事業管理者 入 江 博 わが国における上水道の歴史は、いまを去 にあたり現在の下市(水戸駅から東)の一部 る 432年 前 の 天 文 14年 小 田 原 の 早 川 上 水 を も を開拓し、武家屋敷と町屋敷を割当て、家臣 って曙矢とするが、その後江戸の神田上水、 と商人、工匠を移住させ、城下町を開いたが、 各地方旧水道の竣工があり、水戸藩において 元々低地域のため地下水位は高いが井水が不 もいまから 314年 前 の 寛 文 3年 、 年 代 順 か ら 良で飲料に適せず、上用水の確保は困難であ いって第 18番 目 に 旧 水 道 を 竣 工 し て お り 、 も っ た 。 こ の た め 2年 後 吉 田 村 の 溜 池 2 ヵ所か っとも古い水道のひとつに数えられている。 ら導水して簡易水道を設けたが、水量不足と 藩 祖 徳 川 頼 房 が い ま か ら 351年 前 の 寛 永 2年 降雨による汚濁のため折角の施設も一般の需 に水戸城を修理するとともに、城下町の建設 要を満たすに至らず、住民を救うことができ 8 3 随筆 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1川 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 Essay111111111111111 なかった。次いで寛文元年光閤(義公)が藩 然石、その高さは1.5m、幅は1.39mで 、 浴 主となるにおよんで、このような給水難を解 徳 泉 の 3字は斉昭(烈公)の親筆で、碑文は彰 決 す る た め 水 道 布 設 を 企 画 し 、 寛 文 2年 水 道 考館総裁藤田幽谷(藤田東湖の父)の撰であ (清水道と呼んだ〉の実施を時の町奉行望月恒 る。その後、年々の修繕費は下町の町費から 隆に内命し、望月はその調査設計の一切を平 支弁し、士族屋敷の分は藩費の支出を受け、 賀保秀に委任した。平賀は下町近傍の地勢、 関 係 町 家 の 有 力 家 3名 で 諸 般 の 事 務 を 分 担 経 地質を精密に調査した結果、笠原不動谷に湧 営して明治時代までおよんだ。 く泉を千波湖の南岸に沿って導水するのがも 明治に入ってからは市街の発展も著しく、 っとも適しているとしてこの計画書を作成し、 また従来の旧水道施設は古くなり、歳月とと 望月はこれにより実地検分を行った。その結 もに漏水も甚だしくなってきた。そこで明治 果、平賀の調査通り湖面をよく見ると水は東 1 9年 、 従 来 の 慣 習 を 廃 し て 水 利 土 功 会 を お こ へ流れている。すなわち下町の方が低いこと し 、 10名の議員を推して水道事務を担任させ、 が立証された。かくて永田円水が企画工事に この時から東茨城郡長の管理に移り、次いで あたり、土地の高低の測量には提灯測量を用 明 治 22年 市 制 施 行 と と も に 水 道 は 市 長 の 管 理 い、湖畔にならべた提灯の灯を湖面に反映さ に帰した。以後年々改修、増改築がなされて せて測る方法をとった。これは有名な話であ き た が 、 明 治43年 7月 下市全地区にわたる大 る 。 こ う し て 水 道 布 設 工 事 は 着 工 以 来 1年 有 改良工事が竣工し、笠原水源は依然利用され、 半 後 の 寛 文 3年 7月 に 竣 工 し 、 住 民 は よ う や 今日でも千波方面の一部に恩恵をおよぼして く水の苦難から脱することができた。この工 いる。 360人、総工費は 事 に 要 し た 人 夫 は 延 べ 2万 5, 上市を含めた全市水道布設は水戸市多年の 僅かに五百五十四両三分七百八十文であった 懸 案 で あ り 、 大 正 3年 に 就 任 し た 川 田 市 長 は とされている。 布設を企画し、地下帯水の状態などの調査を 水道は笠原水源地から本線は岩樋、支線は 行 っ た が 、 実 現 す る に 歪 ら な か っ た 。 大 正 13 木樋で各戸の井戸へは竹樋を用い、継ぎ目に 年に入ると市民の水道に対する関心も深まり、 は漏水防止のため粘土を用いた。他藩の明渠 実生活においても井水の減退、水質の悪化、 方式に対し水戸は暗渠によったのが特徴であ 悪疫の流行、防火上の危機など、切実に必要 る 。 性が認識されてきた。因みに衛生状況につい また堀越えには銅樋を用い、町の要所要所 て 見 る と 、 大 正 15年 8月 の 調 査 に よ れ ば 、 市 にも井戸を設けて通行人に自由に汲ませた。 内の井水量は遂年減退し、上市の井戸数 1, 822 当水道部には改良工事などによって掘上げた 個 の う ち 飲 料 そ の 他 に 適 す る も の は 61 .3%で これらの樋の一部が保存され、水道週間の際 残る 38.7%は 飲 料 、 雑 用 に 支 障 の あ る こ と が 一般市民にめずらしがられている。 判明した。しかも水量減退の結果として水質 水源地は桧、杉がうっ蒼と繁り、丘の上に の 悪 化 を 招 来 し 、 昭 和 4年 7月 の 井 水 水 質 検 は水戸神社と不動堂の洞があり、その麓に泉 査 に よ る と 、 市 内 井 戸 数 2, 5 8 3個 の う ち 飲 料 が湧いている。むかし、噴水口には青銅製の 適 は 僅 か に 28.5%と い う 驚 く べ き 事 実 が 判 明 6尺 大 の 龍 が 装 置 さ れ て い た と い わ れ る 。 清 した。この水質悪化、水量不足は市民の保建 泉の近くに「浴徳泉碑」が建っている。これ 衛生に影響し、折角の市当局の衛生思想、の宣 は 八 代 藩 主 斉 修 の 時 文 政 9年 5月 、 下 町 の 人 伝、悪疫予防施策の努力も思うにまかせず、 加賀賢安が水道布設の由来を記して義公の遺 毎年少なからぬ疫病の発生をみた。大正 1 2年 か 徳を後世に伝えるため建てたもので、碑は自 ら 9 ヵ年間の!日水道区域内外の患者発生状況 8 4 ダクタイル鉄管 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 随筆 昭和 5 2 .1 0 第2 3号 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 を見ると、 9ヵ年の平均区域内人口に対し 0.08 大臣に申請したが認可されず、その後再三に % に 対 し 、 区 域 外 は0.13%とはるかに多く、 わ た り 申 請 を 重 ね 、 昭 和 5年 7月 よ う や く 条 その発生個所が区域内は点在しているのに反 件付-で認可があった。幸い物価、賃金の低落 し、区域外は近所に続発することから不良井 により予算を余し、天候にも恵まれて工事は 水による伝染であることが明らかとなった。 進 捗 し 、 昭 和 7年 7月 、 5万 市 民 歓 呼 の う ち に また火災状況については、水道の布設して 待望の近代水道は完成したのである。 あった下市では水圧は低くても各戸に給水せ この施設は那珂川中州から伏流水を取水し ん、街路に消火せんがあったので延焼を防止 緩速ろ過法による芦山浄水場の建設であった。 するのに役立ったが、水道のない上市では消 しかし、給水量の増加により 5ヵ年継続事業 火用水の不足から延焼することが多く、明治 で第 1期 拡 張 事 業 を 進 め た が 、 最 大 配 水 量 を 以後における市の大火はいつも上市に限られ 上 回 る 状 態 と な り 、 中 途 で 9 ヵ年継続に変更 ていた。本市の近代水道までの大火の主なる 新たに表流水を取水し、高速沈でん・急速ろ ものを上げると次の通りである。 過法による枝内浄水場を建設した。次いで第 1. 明 治40年 7月 3日正午頃、汽車の飛火に 2期 拡 張 事 業 を 5 ヵ 年 継 続 事 業 で お こ し 、 施 より上市神崎から発火、折からの烈風によ 設 の 拡 充 を は か り 昭 和41年 に 竣 工 し た 。 そ の り 神 崎 観 音 堂 を 焼 失 、 延 焼11ヵ町におよび 後、急速な都市化の進展による将来の水需要 午 後 6時 鎮 火 。 焼 死 者 3名、負傷者 5名を に 対 処 す る た め 、 昭 和41年 か ら 10ヵ年継続事 出 し 、 焼 失 戸 数 189戸 、 損 害 額30万 円 で あ 業 で 第 3期 拡 張 事 業 を お こ し 、 給 水 人 口 20万 った。 人 、 1.大正 7年 3月 25日午前 9時30分 、 汽 車 の 1日 最 大 配 水 量 8万 m3 を 目 標 に 関 江 浄 水 2 場 の 建 設 を 進 め た 。 こ の 敷 地 は 7万 4, OOOm 飛火により上市奈良屋町から発火、烈風と 3 で、浄水施設のほかに容量 3万 5, OOOm の排泥 水不足のため上市目抜きの場所を横断して 貯水池がある。構内の整備については公園化 延 焼 、 午 後 6時 鎮 火 。 死 傷 者 7名を出し、 焼 失 戸 数 496戸 、 損 害 額178 万 7, 000余円。 の計画を立てへ全職員協力のもとに藤棚、首 まや 阿、パラ園、散策道などの完成を見、雑木林 焼失建物の主なるものは裁判所、連隊区司 を伐採した木材を利用した椎茸の栽培も行っ 令部、郵便局、高等女学校、新聞社、知事 ている。 官舎、銀行などであった。 1.大正10年 4月 12日午前 3時20分 、 水 戸 駅 前 か ら 発 火 。 烈 風 と 水 不 足 で 旅 館 な ど 68戸 を焼失、午前 5時 鎮 火 。 損 害 額 は78万 円 で あった。 1. 大 正15年 5月 5日午前 2時 、 上 市 向 井 町 1丁 目 か ら 発 火 。 井 戸 深 度 深 く 使 用 に 耐 え ず、防火用水を使用しつくすも鎮火せずミ 138戸を焼失して鎮火。損害額は58万 円 で あ った。 か く し て 大 正14年 8月 、 市 会 に お い て 水 道 調査臨時委員会規程を設定、 11月 の 市 会 に お いて委員 7名 を 選 挙 し 、 全 水 道 布 設 の 礎 は で きた。昭和 3年 7月 に は 工 事 施 行 認 可 を 内 務 随筆 8 5 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1川 1 1 1 1 1 1 1 1川 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1川 i 川 川 1 1 川 1 口 川 1 川 川 1 川 川 川 H 川 州 H 1 川 現 在 は 第 4期 拡 張 事 業 と し て 給 水 人 口 2 1万 現状にある。 5, 000人、 1日 最 大 配 水 量 1 1万 m で 昭 和 53年ま 人口の増加、市民生活様式の多様化などに 3 で推進しているが、ご多聞にもれず水資源の より、水の問題は深刻になりつつも、水行政 確保に苦労を重ねている。しかも5 4年 以 降 に は限りなく前進を続けなければならない宿命 は 第 5期 の 拡 張 事 業 を 進 め な け れ ば な ら な い を負っている。 「輔」議 静岡市水道局総務課長 青木嘉津雄 よ く 、 上 司 か ら 「 夜 の 帝 王J と か 「 は し ご の名人」とかいわれる。座ったかと思うと、 か「お前に関係ないことだろう」とか、黙っ て席を立つ人(これが一番悲しい)また、そ もう出て行く。とても付・き合いきれないとも の反対にいき投合して、その屈でおさまらず いわれる。 他の屈で話の続きをしたり、上も下もないん 私は、酒の場が好きである。だからといっ て決して高級なところへは行かない。俗にい う赤ちょうちん・縄のれんの類である。その ような大衆的な場が私には合っている。 だと、若者と青春の議論をしたり、それこそ 苦あれば楽ありである。 さて、ここでみなさんに問題を提起したい。 ひとりの男とひとりの娘が隣り合せでそれぞ 晩酌では味わえない味 れピールを飲んでいる。娘はその屈のママと 気の合った友、そこでお会いしたロマンス 知り合いの様子、どのようにして話のきっか グレーの紳士、髪の毛の長い若者、かわいい けをイ乍りますか。 女性など、話しかければ結構話ははずむもの A のタイプ・・・・・・ママさん紹介しろよ。 である。お年寄りの方だと若い頃の話、女の Bのタイプー…・頃合いを見てピールをすす 話、地方から出てきた方だとお国の話、若い 方だと青春の話、そして趣味、道楽の話まで はたで聞いているとくだらない話でも酒の魚 める。 C の タ イ フ ・・・・・・無視する。(男としてでき 0 ますかな一) になる。普段話をしたことのない他人と仕事 ただし、 C の タ イ プ で 本 当 に 酒 の 好 き な を抜きにして、心安く話ができるのも酒の場 人は、どんな人が隣りに座わろうと、無関心 だからと思う。 でひとりチピチピお呑みになる。この人は除 そもそも私が通いだしたのも、連れの少な 外させていただく。なぜなら、本当に酒その い時代に誰か話し相手の欲かったのがはじま ものが女子きな人だからである。(このタイプ りで、いまでは「人生の裏街道を勉強している は晩酌型で少ないそうである) んだ」と大見得を切っている次第である。 話のきっかけがむつかしい さて、貴方はどのタイプ、 C 十 A では一。 聞き上手になること 話 の き っ か け 、 切 り 出 す タ イ ミ ン グ 、 50を 普段の仕事もそうであるが、相手の話を上 過ぎたいまでも骨がおれる仕事である。話の 手に聞く訓練は酒の席でも必要だと思う。た 途中に割り込んで「うるさいぞじいさん」と かが酒の席でとお叱りを受けるかも知れない
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