第 45 号 - 神奈川県医師会

第 45 号
孟 宗
平塚市医師会
号
山梨煕一郎
川口浩
平成二十五年八月
題 字
表紙絵
巻頭言 …
……………………………………………………………………………… 平塚市医師会会長 武川 慶孝 孟 宗 第
短歌に詠まれた植物 …
……………………………………………………………………………… 内田 久則 絵
鵜飼い そうめんと冷麦 九里よりうまい十三里 ビール何メートル? けんもほろろ 口福 八百長
素…人と玄人のシロクロ判定は? 火の車 元の木阿弥 海千山千 Yシャツ すててこ 風呂敷 お茶の子さいさい とんちんかん 発と決まっているのか? お転婆 お
( てんば )
( の五
笑い草 其
…
)…………………………………………………………………………………… 山梨煕一郎 随想
紀行 「
葛城古道を歩く」 …
………………………………………………………………………………… 白石 龍二 娑
) ゃば 神社の「狛犬」は、犬ではない? 礼砲は、なぜ
(婆 し
袖にする あがく 土壇場 へま 鬼の攪乱 あと書き
「秋の京都プチ散歩」 …
……………………………………………………………………………… 久保田 亘 24
菩提峠から三ノ塔へ 日 日
( …
)………… 武川 慶孝 31
定点観測「この素晴らしき朝日かな」……
………………………………………………………… 丹羽 明博 北欧フィヨルドの旅 …
……………………………………………………………………………… 中村 千里 33
南イタリア一人旅 …
………………………………………………………………………………… 伊東 幸子 35
折紙
随想 「
ハードカバーコレクションとマイ書評
13
金目川河畔のチョウ キアゲハ …
………………………………………………………………… 内田 久則 5
部報
訃報
ボウリング同好会 …
………………………………………………………………………………… 鈴木 盛彦 テニス部報 …
………………………………………………………………………………………… 武川 慶孝 思い出話 高橋克孝先生を悼む …
………………………………………………………………… 武川 慶孝 自己紹介 医療法人 湘鵬会内田クリニック …
………………………………………………… 内田 泰至 新任の挨拶と、結核漫談 横浜ゴム健保組合平塚診療所 …
…………………………………… 塩之入 太 新入会員紹介
月
五色沼 …
……………………………………………………………………………………………… 寺田 公明 58
年
生きていることが/水産特区/再稼働/料金 …
………………………………………………… 寺田 公明 77
第3回 平塚市医師会ウォーキング大会 平成
俳句
花の器より花弁を増やす …
………………………………………………………………………… 遠藤 和邦 84
詩
」…
2013
………………………………………………… 久保田 毅 4
88
105
130 126 123 121 120 115
24
編集後記…………………………………………………………………………………………………………………… 3
6
21
93
22
13
45
巻頭言
平塚市医師会 会長
武 川 慶 孝
この悪戦苦闘の半生を「失敗ばかりで泣きたくなるような 数年」と彼は振り返る。しかし、失敗の連
続とは人類が初めて向き合う領域だからであり、絶望のうちにあって、多少なりとも、慰めになったのは
の広がり を
] 得て、3年後にはヒトiPSを作製し、6年後にノーベル賞に至る。
その3年後に京都大教授に迎えられ、かっての米国なみの研究環境を手に入れ、多くの研究員の協力 裾
[野
能性もないが、もしかしたらすごいことに・・・」3年間で5億円の助成が決まる。(秀でた目利きの存在)
任中にも科学技術振興財団から助成金を受け取るために面接。面接官の阪大元学長は「1パーセントの可
からが彼らしい。なんとかしなくてはと奈良先端科学技術大学の助教授公募に挑戦し合格。この大学に在
その後、大阪市立大学に戻るも彼我の研究環境の較差に絶望し、意欲が途絶えそうになる。しかし、ここ
元は、整形外科医(日医の会員でもある)だったが、自分には不適であると悟り基礎医学へ。大阪市立
大大学院で基礎医学の基本を習得後、米グラットストーン研修所に留学し、胚性幹細胞の研究に取り組む。
挫折をバネにして超人的な努力を続ける。
これはプロの学者でも「とても無理」と考えるレベルのものらしい。しかし、彼はこの一点に目標を絞り、
. 年秋、山中伸弥京都大学教授がノーベル医学生理学賞を受賞された。受賞理由は「成熟した細胞を
多能性を持つ状態に初期化できることの発見」皮膚の細胞から、あらゆる組織に変化しうる万能細胞を作る。
24
行かぬことには意味がない。まだ
歳の若さであり、その時は、間違いなくやって来る。
ノーベル賞授賞式の翌日の会見で「ノーベル賞のメダルは、どこかにしまって、2度と見ることはない
でしょう。」と事もなげに言う。気持ちは既にiPS細胞の臨床応用に移っている。医師としてはそこまで
で優しい医師の眼である。
臨床医への道が残されていた事実であろう。新聞・テレビで見る彼の顔は、稀有な学者とは程遠く、誠実
20
政府も京大のiPS研究所に 年に亘り計200~300億円の予算を計上しており、それとは別に「再
生医療のプロジェクト」として京大を含む4拠点を公募し、5年間で150億円の助成も決まった。元来、
50
私達も同じ医師として、再生医療の将来をしっかりと見ていきたい。 再生医療の研究開発には多額の資金が必要であり、世界を相手にした場合、国を含めた総力戦が欠かせない。
10
4
5
H
短歌に詠まれた植物
古 来 日 本 人 は 植 物 を 愛 し、 古 く は 万 葉 集 の 編 纂 さ れ た
時 代 か ら 現 在 に 至 る ま で、 多 く の 植 物 が 和 歌 に 詠 ま れ て
アザミ(ノ
アザミ) クサボケ(シドミ) 内田 久則
年5月
小田原辻村植物園
平成
平成
金目川河畔 高麗山麓
年1月 日
20
21
い る。 最 近 は、 外 国 産 の 華 や か な 園 芸 種 の 花 が も て は や
日
かそかなるひとり静の花もみて猫背をかがむ群るる二輪草
さ れ、 野 草 の 花 に 関 心 が 向 い て い な い の は 残 念 な こ と で
金目川、河内川河畔 高麗山麓
伊豆赤沢
日
26
【ニリンソウ】
あ る。 神 奈 川 県、 静 岡 県 で よ く 見 ら れ る、 昔 か ら 和 歌 に
詠まれた野草を、ここに紹介してみたい。
平成
年4月5日
採集地と日時を記した
ニリンソウ アセビ
石垣山、一夜城址公園
平成 年3月 日
キイチゴ (ニガイチゴ)
平成
伊豆赤沢
平成 年4月
年3月
キブシ 16
28
31
6
7
千代国一
21
20
24
24
【キイチゴ(ニガイチゴ)】
【アセビ】
木苺の下向く花に顔よせて嗅げばほのけき香に匂ひゐる
かはず鳴く吉野の河の滝の上の馬酔木の花ぞ地(つち)に置くなゆめ
木下利玄
9
万葉集 巻十
8
【アザミ(ノアザミ)】
【キブシ】
口をもて霧吹くよりもこまかなる雨に薊の花は濡れけり
うばわるるものわれになく雪の上にきぶしの淡き花房は散る
長塚節
11
森村浅香
10
随想
笑い草(その五)
そうめんと冷麦
練 っ た 小 麦 粉 を 引 き 延 ば し て 作 る。 即 ち
そうめん —
「引っ張りめん」手延べ式であるから、独特のコシ、つま
鵜 匠 は 世 襲 さ れ ア ユ 漁 で 生 計 を 立 て て い る わ け だ が、
ア ユ の ほ か、 フ ナ、 ウ グ イ、 ナ マ ズ も 捕 れ、 そ れ ら は 鵜
て「切りめん」手打ち式と言う、さっぱ
うどん、そばと同様に練ったの
冷麦 —
を平にしておいて、包丁で細く切る。従っ
山梨 熙一郎
り 歯 ご た え の 良 さ が 出 る。 太 さ は そ う め ん の 方 が 細 い。
の 餌 に な り ま す。 ウ ナ ギ は 鵜 の 嘴 に か ら み、 飲 み 込 む こ
りとした風味がある。太さはすこし太く、
断面は丸い。
と が 出 来 ま せ ん( ウ が 難 儀 す る の で ウ ナ ギ の 名 称?) 運
断面は角形。
鵜飼い
斉藤茂吉
九 里 は 栗 に か け、 十 三 里 は 芋 の こ と だ
が 川 越 の 別 称 で あ る。 江 戸 か ら 十 三 里 ほ
九里よりうまい十三里
が良ければ鵜の嘴の跡がついているアユを食べることが
で き ま す。 年 間 禁 猟 区 の ご 漁 場 で、 年 に 8 回 天 皇 殿 下 に
献上するために御料鵜飼いが行われま
す。鵜匠は宮内庁式部職に所属します。
「 お も し ろ う て や が て 悲 し き 鵜 舟
かな 松尾 芭蕉」
あしびきの山のたをりにこころよし熟めるしどみの香をかぎ居れば
ど 隔 て た 川 越 は 芋 の 産 地 で あ っ た の で、
十三里=川越芋となった。
12
13
【クサボケ(シドミ)】
ビール何メートル?
明 治 時 代 の 八 百 屋 の 店 主「 長 兵 衛 」 に 由 来 す る と 言 わ
れ る、 八 百 屋 の 長 兵 衛 は 通 称 を「 八 百 長 」( や お ち ょ う )
八百長
といい、大相撲の年寄、伊勢の海五太夫と囲碁仲間であっ
大 ジ ョ ッ キ の 底 は ㎝、 だ か ら 空
ジョッキが 個並ぶと1 飲んだとい
う。
た。
囲 碁 の 実 力 は 長 兵 衛 が 勝 っ て い た が、 八 百 屋 の 商 品 を
買 っ て も ら う 商 売 上 の 打 算 か ら、 わ ざ と 負 け た り し て、
体 化 し て と ら え る よ う に な っ た。「 け ん 」
切れ目なく聞こえ「けんけんほろろ」と一
「 け ん 」 も「 ほ ろ ろ 」 も 雄 雉 の 鳴 き 声。
ほろろは本来は羽音だが、鳴き声と羽音が
呼 ぶ よ う に な っ た。 大 相 撲 で 隠 語 で「 注 射 」( 真 剣 勝 負
事前に示し合わせた通りの勝負をつけることを八百長と
力が知れ渡り、以来、真剣に争っている様に見せながら、
秀 元 と 互 角 の 勝 負 を し た た め、 周 囲 に 長 兵 衛 の 本 当 の 実
けんもほろろ
を「けんつく」や「つっけんどん」などに
は「ガチンコ」)ともいう。競馬、自転車競技、モーター
伊 勢 の 海 五 太 夫 の 機 嫌 を 取 っ て い た。 し か し そ の 後 は 回
掛け、取りつく間もないさま。冷たい態度
ボ ー ト 競 走、 小 型 自 動 車 競 走 な ど の 八 百 長 に 対 し て は 刑
向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊
を「けんもほろろ」という。
法186条2項が適用される。
火の車
で( 現 在 は 逆 に 白 が 上 位 者 )、 上 位
では上位者が黒石を持つのが習わし
なのが囲碁に関するもの。平安期ま
なぜ上級をクロ、初級をシロと表
現するのか。その語源は、まず有力
の が 世 の 常。 そ れ は ま さ に「 火 車 」
わる苦しみほどつらいものはない
燃える車のことをいう。カネにまつ
過酷な無限地獄へ罪人を乗せていく
が あ る が、「 火 車 」 と は、 そ の 最 も
【 火 の 車 】 は、 仏 教 用 語「 火 車 」
を語源としている。
の 強 者 を「 黒 人( く ろ ひ と )」 と 呼 ん だ こ
という地獄の一丁目への直行便に乗せられるようなもの。
プロやベテランを「玄人」と呼び、
その対語としてアマチュアや初心者
とに由来するという説。江戸時代の役者評
と い う わ け で、 経 済 的 に 窮 乏 す る こ と を「 火 の 車 」 と い
を「素人」と呼ぶ。
判記(ランキング)では、上位者を表す「黒
うようになった。
( し ろ と )」 と 呼 ん で い た こ と か ら、 玄 人、
素人が出来たという説もある。また中国で
は僧侶を玄人(黒衣を着ている人の意)と
呼 ん で い た が、 こ れ に 対 す る 平 民 の 意 味 で 素 人 と い う 言
葉が有った。
ち な み に 柔 道 で は 初 心 者 が 白 帯、 有 段 者 が 黒 帯 を 締 め
る が、 大 相 撲 の 世 界 の 稽 古 で は 黒 回 し は 若 い 衆 の 者。 関
「木阿弥」というのは名もない盲目の僧侶の名前。戦国
と同じ意味で使われる。
い っ た ん 良 く な っ た も の が、 再 び 元 の 状 態 に 戻 っ て、
苦労も努力も無駄になるという意味。「水泡に帰す」など
元の木阿弥
吉」に対して、芸を持たない遊女を「白人
仏教では生前に悪事を働いた者の
行き着く先として、さまざまな地獄
素人と玄人のシロクロの判定は?
う ま い 酒 を 飲 み な が ら、 う ま い も の を 喰 っ て、 あ あ、
このまま死んでもいい…という気持ちになる時である。
口 福
10
m
取になると白回しが許されるようになる。
14
15
10
昭 は、 息 子 順 慶 が 2
大 名・ 大 和 の 筒 井 順
が 含 ま れ る が、 現 在 で は 褒 め
(竜になること)といった意味
るという言い伝えには立派な
Yシャツ
言葉としては用いられない。
歳の若さで
歳の時
死 去 し た が、 国 を 守
るため3年間自分の
死を隠すよう遺言し
た。 そ し て、 自 分 に
姿形や声までそっくりな木阿弥を影武者にすることを命
じ た。 そ の 後、 順 昭 の 死 は 公 表 さ れ、 替 え 玉 の 木 阿 弥 は
用 済 み に な っ て、 贅 沢 な 城 主 の 生 活 か ら 一 転、 元 の 僧 侶
背 広 の 下 に 着 る 襟 と 袖 の つ い た シ ャ ツ の こ と。 明 治 時
代に日本に伝わり、初期のものは襟が取り外せたという。
に 戻 っ た と い う 話 が 語 源 に な っ て い る。 ま た、 朱 塗 り の
椀 の 朱 が 剥 げ て、 貧 弱 な 下 地 が 現 れ た「 元 の 木 碗 」 が 転
大正
年以降、襟が身ごろに縫いつけられたものになり、
じたものという説もある。
海千山千
「 海 に 千 年、 山 に 千 年 住 ん だ 蛇 は 竜 に な る 」 と 言 う 伝
え を 人 間 の 経 験 に あ て は め た も の で、 世 の 中 で 様 々 な 経
験 を 積 み、 物 事 の 裏 表 を 知 り 尽 く し て ず る 賢 く、 し た た
かな人の事。もとは「海に千年山に千年」という言葉で、
こ れ が 省 略 さ れ て「 海 千 山 千 」 と な っ た。 ま た、 竜 に な
一般にも普及した。
ある。
ワイシャツがあり、色も柄もさまざまで
は白の長袖をいうが、現在は夏は半袖の
た通りの音がそのまま名になった。元々
で聞くと「ワイシャツ」と聞こえ、聞い
ホワイトはh音が発音されない事が多
く、最後のt音も聞こえにくいため、耳
語源は英語の「white shirt」が訛ったもの。
風呂敷
大 鼻 を つ ま ん で 捨 て る 真 似 を し な が ら、 滑 稽 な し ぐ さ で
円 遊 は ひ と き わ 鼻 が 大 き か っ た の で、 鼻 の 円 遊 と 呼 ば
れたが、その人が後ろ鉢巻に、ダブダブの下ばきをはき、
われる。
遊 亭 円 遊 が、 寄 席 で 踊 っ た「 す て て こ 踊 り 」 が 語 源 と い
男 性 用 の 下 着。 膝 下 ま で の 汗 除 け 用 の ズ ボ ン 下 で、 日
本 特 有 の も の で あ る。 明 治 時 代 の 初 期、 落 語 家 の 初 代 三
な ど に 置 く。 そ し て 風 呂 か ら 上 が っ た ら、 脱 衣 場 の 足 下
は、 ま ず 入 浴 用 具 を 包 ん で 行 き、 脱 い だ 衣 服 を 包 ん で 棚
元 々 は、 風 呂 の 脱 衣 場 に 敷 い
て 使 っ た も の。 銭 湯 に 行 く と き
便利さが見直されている。
現 在 で も 携 帯 用 具 と し て、 そ の
小 さ く 畳 ん で 持 ち 帰 れ る の で、
物 を 包 む 四 角 い 布。 物 を 包 ん
で持ち運び、先方に届けた後は、
踊る。その面白さが受けて、人気を呼ぶようになった。
服を着る。そしてまた風呂の用具を包んで持ち帰る・・・
「お茶の子」とはお茶うけに出される菓子のこと。仏前
に 供 え る 餅 も「 茶 の 子 」 と い い、 農 家 で 朝 飯 前 の 一 仕 事
である。
さ い さ い「 そ ん な の お 茶 の 子 さ い さ い 」 と は、 今 で も
よく使われる言葉。「簡単、簡単、朝飯前さ」という意味
お茶の子さいさい
に 敷 い て、 バ ス マ ッ ト の よ う に 濡 れ た 足 を 拭 き な が ら 衣
鼻をつまんでは、「捨ててこい、捨ててこい」と捨てる
し ぐ さ を し た と こ ろ か ら、 そ の 踊 り は「 す て て こ 踊 り 」
というのも風呂に敷くから「風呂敷」といった。
ててこ」と呼ぶようになった。
といわれるようになり、その時円遊がはいた下ばきを「す
すててこ
10
16
17
28
のときに食べるものもいう。要するに
簡単にたべる軽い食べ物のことで、そ
こ か ら「 簡 単 」「 朝 飯 前 の こ と 」 と い
う意味である。
「さいさい」は俗謡の「の
んこさいさい」をもじったものである。
とんちんかん
(娑婆)しゃば
自 由 に 心 行 く ま で と い う こ と か ら 遊 郭 を「 浄 土 」 と 見
たて、廊の外の世界を娑婆とよんだ。
サンスクリット語の「Saha」(サハー)の音を漢字
に し た も の。 煩 悩 と 苦 し み の 俗 世 を、 自 由 の な い 娑 婆 世
界とした。仏教用語で「忍耐」を意味する。
神社の「狛犬」は、犬ではない
神 社 の 入 口 に 番 犬 の よ う に 座 っ て い る 狛 犬。 狛 犬 と い
う く ら い だ か ら、 犬 の 仲 間 か と 思 い き や、 実 は ラ イ オ ン
18
息の合った鍛冶職人同士が金床の上で鐵を打ち合うと、
「 ト ン カ ン 」「 ト ン カ ン 」 と リ ズ ム よ く 鳴 り 響 く。 そ こ に
経 験 の 浅 い 弟 子 が 入 り、 不 慣 れ な 槌 を 振 る う と、 途 端 に
リ ズ ム が 崩 れ、「 ト ン チ ン カ ン 」「 ト ン チ ン カ ン 」 と 音 が
そ ろ わ な く な る。 こ こ か ら 転 じ て、 ち ぐ は ぐ な こ と や 訳
のわからないことを意味するようになった。
漢字では「頓珍漢」と書くが、これ
は当て字である。
発 端 は 古 代 オ リ エ ン ト。 当 時、 動 物 は 信 仰 の 対 象 に な
ることが多かったが、なかでも百獣の王・ライオンは人々
である。
い、 そ こ か ら「 相 槌 を 打 つ 」、 つ ま り
の心をとらえ、神殿の彫刻や石像に使われることが多かっ
なお、鍛冶職人の師が槌を打つ合間
に弟子が槌を打つことを「相槌」とい
相手の問いに答えるとか、相手の話に
た。
お転婆(おてんば)
大きな音で、悪魔を退散させてしまうというわけだ。
ち な み に、 な ぜ、 礼 砲 な ど い う 物 騒 な 方 法 な の か と い
うと、これは一種の悪魔祓いの意味。
という数は二重の意味で縁起がいいというわけである。
合わせるという言葉が生まれた。
この“ライオン信仰”が、エジプトに渡ったのがスフィ
ン ク ス。 ま た、 イ ン ド、 中 国 に 渡 り、 仏 教 と 結 び つ い て
生 ま れ た の が、 唐 獅 子 で あ る。 日 本 に は 朝 鮮 半 島 を 経 由
し て 六 世 紀 に 渡 来 し て き た と い わ れ て い る が、 唐 獅 子 な
ど見たことがない日本人はこれを犬だと考えた。
そして、朝鮮半島を収めていた高麗
( 当 時 は「 こ ま 」 と 呼 ん だ ) の 犬、す
なわち高麗(狛)犬と呼んだ。ただし、
若い娘が慎みに欠ける程に活発に行動すること。「うち
の 娘 は 気 だ て は い い ん だ が、 お 転 婆 で 困 る 」 と い っ た 言
中国の唐獅子はチヤウチヤウがモデル
とする説もあり、そうなると、日本の狛
多 く、 い つ も 元 気 が 良 く 跳 ね 回 っ て い た か ら、 と い う 説
跳 ね 返 り 娘 を「 お 転 婆 」 と い う 語 源 は、 宿 駅( 街 道 の
荷 物 の 中 継 所 ) で 待 機 す る 御 天 馬( 公 用 馬 ) に は 駿 馬 が
い方をする。
発と決まっているのか?
犬はやっぱり 犬ということになるのだが。
礼砲は、なぜ
接頭語の「お」がついたものとも
が一つ。また機敏なさまをいう「てばしこし」「てばしか
外 国 の 元 首 を 国 賓 と し て 迎 え る 時、
歓迎式典では、 発の礼砲を撃つとい
いわれる。同じ江戸時代の「おきゃ
の要素を含む。
し」という意味があり、この「てば」が「てんば」になり、
うのが国際的な外交儀礼である。なぜ、
運を表す数。更にラッキィセブンとい
で、この
21
う言葉もあるように7は神聖な数。そ
の二つを掛け合せたのが
21
19
!
?
ん 」「 お ち ゃ っ ぴ い 」 も、 お 転 婆
21
発なのかというと、西洋では3は幸
21
21
ね だ っ た り、 疝 痛 を 訴 え た り す
して付属物であるため、おろ
使われる。袖は身ごろにたい
手を振るというニュアンスで
するの意で、相手が嫌い、相
無視する、おろそかにする、
ないがしろにする、すげなく
馬 が 地 面 を 掻 く 姿 は い か に も い ら だ た し げ で、 ま た 苦
しそうでもある。
足で地面を掻くという意味である。
掻く」と書く。読んで字のごとく、
だった。「あがく」は漢字で「足
「あがく」は、もともと、この
「前掻き」の仕草を意味する言葉
袖にする
そか、ないがしろの意でもちいられるようになった。
そ こ か ら、 自 由 に な ろ う と も が く、 じ た ば た す る と い
う意味で、「あがく」という意味が用いられるようになっ
るときの仕草だそうである。
「無い袖は振れぬ」
袖から生まれた言葉は多く、「袖の下」
「 袖 に す が る 」「 袖 振 り 合 う も 多 生 の 縁 」 な ど が 良 く 知 ら
たのである。
に築いた土の壇、土壇(どたん)
① 近 世、 首 切 り の 刑 を 行 う た め
土壇場
れている。
「袖振る」ということばがある。昔は袖も口ほどに物を
言い、内面の思いを袖に託して表現することが多かった。
恋人に「振られた」「振った」という言葉もこれが語源。
あがく
で話が
② 決断を迫られる、最後の場面。
進 退 き わ ま っ た 状 態。「
ひっくり返る」
「 に立たされる」
まな奴」「へまな応答」
① 気の利かない事。間の抜けていること。又その様。「へ
へま
思 い つ く ま ま 気 づ く ま ま、 面 白 い と 思 わ れ た 題 材 を メ
モ し て 置 き、 広 辞 林、 新 聞、 雑 誌、 単 行 本、 等 を 参 考 に
あと書き
皆 様 ご 承 知 の 事 も 多 い と 存 じ ま す が、 御 笑 納 い た だ け
れば幸いと存じます。
して更にパソコンで調査し、メモしたものです。
馬 が 前 足 で 地 面 を 掻 く よ う に す る し ぐ さ。 こ れ は「 前
掻 き 」 と い っ て、 喉 の 渇 き や 空 腹 を 覚 え て 水 や 食 べ 物 を
-
20
21
-
② 手抜かりをする事。処置を誤ること。失敗「とんだ
をやる」
鬼の攪乱
「 か く 乱 」 と は「 霍 乱 」 と 言 い、
昔 で い う と こ ろ の「 嘔 吐 を 伴 う 病
気」日射病や熱射病。腹痛や下痢と
いった病気が一般的である。普段は
健康で全然病気などは無さそうな
人が急に悪くなることを言う。
-
定点観測
『この素晴らしき朝日かな』
( )
目覚めが早くなって良かったと感じる時である。
今回の三枚は2012年秋の院内文化祭で出展したも
の で あ る。 ① は 朝 日 が 顔 を 出 す 直 前 の 何 と も い え な い 空
の 美 し さ、 雲 の 絶 妙 な 色 調 に 思 わ ず 見 と れ て し ま っ た、
は な い。 変 え た の は 撮 影 装 置 が 携 帯 電 話 か ら、 極 め て 単
ン ダ か ら の 定 点 観 測 で あ る が、 前 回 と 同 じ 印 象 の 写 真 で
昨 年 の『 孟 宗 』 に 投 稿 し た 同 じ タ イ ト ル で 続 編 を 書 い
て み る こ と と し た。 相 変 わ ら ず の マ ン シ ョ ン 6 階 の ベ ラ
枚である。
その隙間から鋭いビーム光線を地球に投げ入れている一
の 性 質 を 思 い 出 さ せ る 一 枚、 ③ は 上 下 を 雲 に 挟 ま れ て、
太 陽 だ! 」と 主 張 し て い る の で は な く、 雲 の 薄 い ベ ー ル
に 包 ま れ て 控 え め に 顔 を 出 し て み た と い う、 古 い 日 本 人
平塚共済病院 院長 丹羽 明博
純 な デ ジ カ メ に 変 わ っ た こ と く ら い で あ ろ う か。 画 質 の
俺
「は
違 い は 私 に は 鑑 別 で き な い が、 携 帯 時 代 は 撮 影 画 像 を パ
相 変 わ ら ず 同 じ 写 真 は な い し、 相 変 わ ら ず 楽 し く 気 分
も晴れやかにしてくれる。朝日は良いな。今年の平塚で、
② は 朝 日 が 出 き っ た 瞬 間 で、 快 晴 の 朝 の 空 で 強 く
ソ コ ン に 転 送 す る と 高 い 料 金 が か か っ て い た が、 今 は そ
今 年 の 日 本 で、 今 年 の 世 界 で、 人 を 晴 れ や か に す る 出 来
事が多く起こることを期待したい。
れ が な く な っ て 携 帯 料 金 を 気 に す る こ と は な く な り、 以
前より気軽にシャッターを押している。
雨 の 日 や 曇 天 以 外 に は 東 の 空 を 見 る 癖 が つ い た。 冬 は
暖 か い 部 屋 か ら 朝 日 を 覗 う こ と が 出 来 る が、 夏 は 玄 関 か
ら出てマンションの東の端まで行って朝日に挨拶するよ
うになった。朝のわずかな幸せを感じるひとときである。
こんなにも太陽の出る位置が違うのかと改めて感じ入っ
て い る。 や っ ぱ り 昇 る 朝 日 の 顔 は 良 い、 飽 き な い。 雲 が
③
な く て も 素 晴 ら し い し、 あ れ ば あ っ た で 雲 の 種 類 や 厚 さ
②
22
23
2
に よ っ て 全 く 別 な 世 界 を 作 り 上 げ て く れ る。 年 を 取 っ て
①
紀行
『葛城古道を歩く』
よく軽トラックの荷台にのせてもらった。このようなことを
医進課程の2年間で奈良(佐保、三輪、初瀬、明日香、斑鳩)
に5回いった。ほかにも出雲、津軽・下北、返還後の小笠原
kmは歩いた。大学を卒業し、外科医になり
にも2~3週かけていった。この頃はキャラバンシューズを
~
大垣行の普通列車に横浜から夕方に乗り、しだいに乗客が
減り、前の席が空くと足を伸ばした。しかし、お尻の痛さは
ど奈良旅行をした。
屈した気分を晴らすように、バイト代がはいると、3週間ほ
を中心とした古代史は好きであった。2年間の浪人生活で鬱
もうかれこれ 年前の話になる。大学入試では世界史を選
択したが、日本史が嫌いな訳ではなかったし、特に奈良時代
の有効期限が切れるギリギリで、夏休みの残りを使って今年
2回目に平塚共済病院にきて 年過ぎて、永年勤続により
共済病院本部から宿泊保養施設の利用券を昨年もらった。そ
訪れていない。
野、那智へ、そして北上し奈良にも行った。その後、奈良は
にのっていた。伊良湖岬より鳥羽へカーフェリーで渡り、熊
したとき、車で家族旅行をした。当時は4駆のハイラックス
月初めに奈良に4泊5日で出かけた。行き先は、長い間あ
20
でみられながら眼を覚ました。
た た め 憧 れ て い た、 ま だ 訪 れ た こ と の な い 葛 城 と 平 群 で あ
月の間は、病院から帰るとネットで地図を開き何度も
シミュレーションし、道々の神社仏閣、遺跡を調べた。航空
日(日)
いの団欒をとった。何日か連泊しているようで、「今日は雨
酒も利用券を使用できるとのことである。部屋に戻ると、今
月
こちらはひとりで、ガラス戸の外の日本庭園を見つつ、ビー
白洲正子の「かくれ里」、上野 誠の「万葉びとの奈良」、
近江俊秀の「道が語る日本古代史」を携え車内で読み返す。
後の計画を頭にいれた。今回、訪れるのは葛城(かつらぎ)、
ル1本、日本酒1本を空けていた。嬉しいことに、食事もお
ときどき見やる車窓からの眺めは素晴らしく、駿河湾、遠州
に到着した。ここは奈良公園の傍
良に来たんだと気づいた。軽い昼食をとり、バスにのり、K
感覚が鮮やかに蘇り、ああ俺はこの感覚に魅かれて5回も奈
ふりかえると三笠山から若草山がみえる。【倭は国のまほろ
社の参道をくだる。遠くに生駒山、二上山、葛城山がみえる。
見上げると、台風一過、期待通りいい天気である。宿のす
ぐ隣で、小鹿が木の実を食んでいた。公園内を抜け、春日大
KR奈良みかさ荘に
ば、たたなづく青垣、山隠もれる倭しうるわし】ヤマトタケ
両編成
むかしは、この線と併走する山辺の道を幾度となく歩いた。
同じ頃、津軽旅行のとき五能線にのり十二湖駅でおり、文字
2
読んだ。揃えてあった文庫本は、何回かの転居のすえ処分し、
もう無い。今日の宿泊するところがここにあるとは。部屋は
2階の(飛鳥)を選ぶ。建物は古いがこぎれいで、くつろげ
た。ゆっくり風呂に入る。夕食は1階の(高円:たかまど)
で、他に老夫婦2組と、男性の友人らしき1組がおもいおも
万 葉 ま ほ ろ ば 線 に の り、 奈 良 駅 を 出 発。
のワンマン列車で南へ向かった。
らにあり、志賀直哉の住宅の近くであった。ここは、かつて
40
ルの望郷の歌を口ずさみつつJR奈良駅まで歩く。
粥を主とした朝食をとり、
に出発
灘、浜名湖、三河湾と過ぎてゆく。今日は台風17号が近付
に奈良に着く。
いており、夜半には近畿地方を通過し、明日は晴天に恵まれ
るはずだ。
京都で下車し奈良線に乗り換え
もう雨が降り始めていたが、奈良に着いた途端、土地が持っ
ている不思議なパワーを体に感じる。大和国だ!。 年前の
30
通った道であった。彼は好きな作家で、その作品はほとんど
08
‥
00
10
‥
月1日(月) 平群(へぐり)いづれも大和時代の磐余・三輪に先行して
開けた土地であり、豪族名でもある。
のぞみで小田原出発
で予定のところは回り切れなかった。」などと聞こえてくる。
9
自宅を出る、平塚駅までは妻が送ってくれた。
る。
大垣駅で顔を洗い、在来線で京都そして奈良へ乗り継いだ。
往復を普通列車とし、旅行先で周遊券の学割を使い、ユース
になると、豊田あたりで通勤通学の乗客が入ってきて白い目
辛く座って寝てられず、丸まって横寝して一晩過ごした。朝
白石 龍二
履き1日
30
結婚し子供も生まれた。1回目に平塚共済病院に2年間勤務
20
写真もみていたので地形もほぼ頭に思い描けていた。
,
で十分であった。奈良での移動は徒歩かヒッチハイクをし、
,
24
40
ホステルで宿泊すれば3週間で25 000~30 000円
10
07 10
‥
30
09
‥
39
11
‥
30
25
07 04 9
‥ ‥
00 30 30
09
‥
10
で、風の通り道でこの神社には風の神様シナツヒコが祭られ
(かつらぎ)には、もう一つの呼び名があり、風猛(かざらぎ)
付近の民家のご老人に聞き風の森神社に着く。ちい
さな祠でありしかもお寺の裏にあり気づきにくい。実は葛城
川は北上し大和川に注ぐ。
する。登り道でややきつかった。ここは分水嶺でもあり葛城
いる。まずは風の森峠をめざす。山々の中腹寄りの道を北上
こまできたのに隠すつもりか。ルートはすでに頭にはいって
北宇智にて下車する。さきほどまでいい天気だった
のに金剛山周辺の山頂はにわかに雲が出てきた。せっかくこ
終点は紀氏の本拠地の和歌山である。
大和三山の間を縫って、高田を経て、列車は南へ向かった。
進むと左に天香具山、右に耳成山、左に畝傍山がみえてきた。
方向を変えた。磐余、真神原、藤原と古名を思い描きながら
いる纏向遺跡はこのあたりだ。桜井駅を過ぎると列車は西に
ていると左手に三輪山が見えてきた。近年、話題をさらって
やかによみがえった。そんなことを思い出しながら窓外を見
の列車で、海岸ぎりぎりを走った。あの頃の記憶が唐突に鮮
めた。駅は無人駅で他に誰もいなかった。あの時は1両編成
白神山地である。美しい湖をみ、また日本海に沈む夕日を眺
の高天原(たかまがはら)と江戸の初期頃まで信じられてい
天彦神社の鳥居と社がみえた。ここは、名前の通り記紀神話
だ。高天の集落である。林立した杉並木のなかに神さびた高
えると少し下り始める。こんなところにも人が住んでいるん
車の通れる道からはずれ本来の参道にはいる。急峻な道を
のぼると額から玉のような汗が噴出し始め、息切れがするよ
本拠地だったという説もある。
それより下がったところはかつて高尾張と呼ばれ、尾張氏の
丘陵は秋の気配をふくみ心地よい。この辺りは朝妻の集落で
やると紀州、吉野その向こうの熊野の山々が薄い青、濃い青、
だいに高度を上げて、高天彦神社をめざす。途中で遠くを見
上加茂神社、下鴨神社はこの神社から遷座されたものだ。し
されており古代からそのままなのであろう。実は京都にある
があり常に水が湧いているようだ。この神域の森は特に保存
カヒコネである。鳥居から社殿石段までの間に美しい放生池
の高鴨神社に着く。祭神は、鴨氏の祖先神であるアジスキタ
頂もみえはじめた。鴨神と呼ばれる領域にはいり、その中心
この呼び方の方が好きである。あたりは次第に晴れてきて山
であるから、当然この神社のほうが古いのである。わたしは、
あり、ここで風神が祀られる理由であろう。仏教が伝わる前
ている。この周辺から鉄滓が見つかり製鉄が行われていたよ
た。祭神はタカミムスビノミコトで延喜式では最高の社格で
の湖を徒歩で廻った。いまでは知られるようになった
うだ。その作業には鞴(ふいご)で強い風を送り込む必要が
後にある樹齢1200年の巨大な乳銀杏と周囲の森に融け込
うになる。最近の運動不足が後悔された。手前の山を登り終
世紀にあって、このような信仰の
であろう。山を下り古道にもどる。さらに北上し青旗(あお
ば、このような地理的条件を満たすところは随所にあり当然
葛城襲津彦の娘で仁徳天皇(
高宮跡に着いた。実はここが来てみたかったところでもある。
姿をみて深い感銘をうけた。横道から山の縁に沿って歩くと
が欲し国は 葛城高宮 吾家のあたり】とある。彼女の帰り
たかった所は、まさしく葛城の自然なのだ。今日、わたしが
左に折れ、松並木の参道を抜け一言主神社に着いた。石段を
天皇家をも俊駕した。すこしづつ高度を下げながら歩き続け、
古道はそのルートであり葛城氏が支配・独占し、その実力は
て朝鮮半島よりの文物、渡来人の流入を物語っている。葛城
無理であったろう。南郷遺跡・長柄遺跡の発掘は紀の川に沿っ
当時は奈良盆地は湿地帯であり手を加えなければ稲作はまだ
勾配が変化する丘陵地帯で豊富な水をもたらしたであろう。
初に稲作が開始されたらしい。金剛山、葛城山に降った雨は
色をみれば想像するに難くない。この辺りは奈良周辺では最
けたという。なんという雄大な話であろう。しかし、この景
という風であった。もう
いた。車を止めて、一日いて気に入った瞬間がみえたら撮る
煙草を燻らしながら三脚を据えてカメラをかまえている人が
まったのかもしれない。山門をでて左の方へ上がっていくと、
さんがこの地へ来てから
が生い茂り眼下にいい景色がみえるとは思えなかった。白洲
れていた。入ることができないが、どう見てもその前に木々
つである。「かくれ里」にこの寺の庫裏からの眺望が絶賛さ
院を創建した。その多くは失われたが九品寺はその中のひと
にでた。行基が開き、空海が平安初期に戒那千坊という大寺
この頃に葛城氏は滅ぼされてしまう。しばらく歩くと九品寺
であり、JR御所駅を目指さ
26
通り
ある明神大社とされている。全国に高天原の候補地は多くあ
み自然のうちにあった。
郡青、紫が幾重にも見え素晴らしい。いま登って来た手前の
るが、平野が少なくかつて原始林に被われた日本であるなら
はた)の葛城山の麓の一言主神社をめざす。自販機をみつけ
代)の皇后である磐之姫が
水分を取るが、食事処、コンビニなどはなく昼ごはんぬきで
る。振り返れば、吉野、熊野、紀伊の山々。素晴らしいパノ
あるいてきた道のあたりなのである。だが、彼女の墓はここ
登り切り社殿の前に行くと、近在の人が5人ぐらいで循環し
なければならなかった。眼下に見える御所市には、秋津とい
年ぐらい経っており、変わってし
ながら祝詞?を唱えながら礼拝していた。彼らは、社殿の前
21
その向こうの北東に三笠山、若草山、南東に大和三山がみえ
ラマ風景である。葛城の出身であり、山麓で修業した役の小
代)と一言主との物語は有名であるが、
にはない。雄略天皇(
16
角は鬼を使役して葛城山から吉野の金剛山へ大きな岩橋を架
歩き続ける。前方の眼下に奈良盆地の南西部がみえてきた。
詠んだ望郷の歌に【つぎねふや 山代河を 宮上り わが上
がれば あおによし 奈良をすぎ 小楯 倭をすぎ わが見
21
45
15
‥
30
27
12
10
‥
30
12
‥
00
にある)の子とされるが、なぜここにあるのだろう。彼は倭
稜は天理
う土地もあり、日本を表す秋津島の名の起こりとされる。ま
大学に入ってから随分、民俗学の書籍を読んだ。ヤマトタケ
と読むのはこのことに発している。この天鳥船の名に魅かれ
た哮峯(イカルガノミネ)といわれている。斑鳩をイカルガ
磐船(天磐楠船、天鳥船とも云われる神)にのって舞い降り
たヤマトタケルの白鳥稜もある。景行天皇(
に至らずに死ぬに及んであの望郷の歌を残したのだ。死後、
ルが詠んだ畳薦(たたみこも)平群の山であり、葛城より小
の王子行に間に合った。
さめだが水量が豊富で稲作が盛んで、葛城氏のあと台頭した
八尋の白鳥になって西を目指したという。本当に景行天皇の
子であったのだろうか。
代)のとき滅
ぼされてしまう。【からくれないに水くくるとは】と後世に
平群氏の本拠地である。平群氏は武烈天皇(
台風の影響で、他の宿泊予定者はキャンセルとなり今日はひ
歌われた龍田川の流れの右岸に沿って歩く。やがて瀧田公園
に宿についた。昨日の
とりであった。今日の葛城川領域の眺めを思い出しながら、
川床近くまでおりて休憩できるように整備されていた。龍田
森神社にいたあのシナツヒコである。シナとは〈息が長い〉
になり、ここはさすがに人気のある場所のようで、両岸から
明日の龍田川の流れに沿って歩く平群を頭に描きつつ夕餉
をとった。昼は食べていないのでおいしさもひとしおで、日
程良い疲れのうちに熟睡した。
という意味である。
ひとつない晴天で暑いぐらいである。遠くに昨日廻った葛城
山を正面に生駒山をみつつ、やがて元山上口駅で降りる。雲
朝靄が少し残る春日大社参道を下り奈良駅に着く。JR王
子駅で下車し、近鉄生駒線の新王子駅に移動する。左に信貴
縷々訴える歌がある。おそらく家々の前で身ぶり手ぶりで縁
かいびと)が、鹿や蟹の立場に立ってわが身に起こることを
神社での光景を思い出した。万葉集のなかに平群の乞喰人(ほ
つづいた。信仰が息づいているのに驚かされ、昨日の一言主
に朝食をとり、
山麓が陽光を浴び輝いていて、眼下に王子町をみつつ平群町
起 し な が ら 面 白 お か し く 歌 い、 寿 ぎ( こ と ほ ぎ ) し 食 べ 物
:
をくだる。これといった史跡はあまりなく訪れるひとも少な
を得ていたのだろうとされている。この境内には中世の大和
月2日(火)
社殿の前では 代半ばぐらいの夫婦が立位で大きな声で祝
詞をあげていた。ふたりで交互に詠唱するようで 分ぐらい
い。生駒山は物部氏の祖先とされるニギハヤヒノミコトが天
る神社は河内の方にもあり、そこから大和に入ってきて在来
歴史をさかのぼる旅であったなと感じつつ歩いているうち
に、自分自身の階段を過去に下がっていることに思い至った。
の脳はこれほどまでに記憶を保持しているのか。そんなこと
代)の東をぬけ水上池のほとりについた。もう気
を思い浮かべながら大極殿の階段を下り、北へ歩いた。平城
天皇稜(
との決断に感謝した。
聞歌を四首残している。嫉妬深い女人の代表のように言われ
ることなく京田辺市の筒木宮で亡くなり、この地に葬られて
の中央の浅瀬に白鷺が一羽たっていた。ナガスネヒコの長脛
資料館で奈良文化財研究所の最近の発掘事情を見聞きし、
ゆっくりと巡った。朱雀門をはるかにみて、南の方角を確認
ているが、彼女が拒んだのは息長氏出の八田皇女だけのよう
東に向かい平城京の中心である平城宮跡につく。(奈良駅
は東の外れにすぎない)さきほどまで王子、斑鳩、西大寺の
する。今日は雲ひとつなく晴天で、東に三笠山、春日大社の
だ。筒木宮から那羅山あたりは木津川沿いで息長氏の勢力範
はシラトリの長い足に通じ、ヤマトタケルではないかという
あ た り か ら 三 輪 山、 南 の 吉 野 の 山 々、 葛 城 山、 二 上 山、 西
囲であり、その牽制のための極めて政治的な行動であり、仁
開発を目の当たりにみて、愕然としていた。奈良市の中心に
の生駒山、北の那羅山と、ぐるっと360°みわたせる。遷
徳への愛情は相聞歌に溢れているという意見もある。彼女の
かつて訪れたのは佐保川、初瀬川、飛鳥川の領域にそった
360°の眺望。
奈良駅に着く。また宿まで歩いた。長い距離歩くのは2日目
こども3人は天皇となるのである。新大宮駅まで歩き、近鉄
いる。あれほどの望郷の歌を残した彼女は、仁徳天皇への相
都1300年を記念して建てられた大極殿にのぼる。また、
説もある。ほどなく、磐之姫命稜についた。彼女は葛城に帰
近鉄新王子駅にもどり列車で移動し近鉄西大寺駅に
ごろ着く。
辿ってきたのだ。
一段ごとのかつての記憶は失われずに残っていた。ああ人間
薦の平群、斑鳩の哮と奈良盆地の西側であった。
城川、龍田川、富雄川の領域に沿った、あおはたの葛城、畳
15
温は下がりはじめ、秋の気配が急に忍び寄ってきていた。池
51
広大な土地開発がされずに残っているのを見て驚き、奈良び
14
‥
00
のナガスネヒコと手を結んだのであろう。いまそのルートを
龍田川から富雄川の領域はトミノナガスネヒコの本拠地
で、その妹とニギハヤヒは結婚したようだ。ニギハヤヒを祭
の系譜がこの土地にはあったのであろうか。
あおによし奈良、うまさかの三輪、こもりくの初瀬、飛ぶ鳥
60
猿楽四座のひとつ板戸座の発祥の地で、能楽金剛流の源流に
には宿をでた。
大橋を左に渡り、龍田神社に入る。ここは、風の神である龍
25
本酒、焼酎をすこしづつ飲み、至福のひとときであった。久
:
17
‥
12
代
‥
‥
00
田比古、龍田比名の男女二人神を祭っている。龍田彦は風の
15
08
しぶりに長い距離を歩き、しかもアップダウンがあったので
に奈良につきバスにのりつぎ
16
‥
30
18
の明日香、と奈良盆地の東側であった。今回、訪れたのは葛
30
なったことが書かれていた。古代より俳優人(わざおぎびと)
07
28
29
30
10
れしくなった。ここ二日はよい天気に恵まれ今度の奈良旅行
と宿の人が説明すると、「おおspa kling sak
e」と喜びの声をあげた。このような外国人夫婦に会えてう
sake」と答え「発泡する新しいタイプの日本酒です。」
「飲み物は何にしますか?」と問われて「japanese
喋っていて内容が聴き分けられた。和食も上手に食べていた。
ようで妻に説明していた。内容が日本のことなのでゆっくり
畳敷きで、座るのが難儀そうにしていた。夫の方は日本通の
お風呂に入り、夕食をとった。他に老夫婦、外人夫婦がいた。
のせいか、体が慣れてきてそれほど疲れなかった。ゆっくり
【秋篠や外山の里や時雨らむ生駒の岳に雲のかかれる】
も和歌を残している。
が佇んでいた。奈良にありながら平安の趣のある寺で、西行
された。金堂の中は薄暗くひんやりとした空気のなかに仏像
期に建立されたが、平安末期に本堂は焼失し鎌倉時代に再建
をさかのぼり秋篠寺に着いた。ここは初めて訪れた。奈良末
日常に完全に埋没していた。そんなことを思いながら秋篠川
え忘れてしまっていた。外科医として勤務医でありつづける
がはじまり、喜太郎のLPをよく聞いた。俺はそんなことさ
しかし日々はなかなか時間が作れず、京都の紅葉をテレビの
コマーシャルで見る程度であった。そんな折、大河ドラマ平
清盛」を見ているうちに、平安末期の貴族政治に変革がもた
らされた「都」を訪れ、是非見事な紅葉を愛でたいと思うよ
うになってきた。
越え)、近江神宮より山中町を越えて北白川に降りる山中越
る。湖北から鯖街道を通り大原へ抜ける国道367号(途中
入 れ な い。 滋 賀 県 か ら 京 都 に 入 る に は 主 に 四 つ の 経 路 が あ
と呼ばれる竹垣と
あ っ た。 銀 閣 寺 垣
で最低気温三度で
昨年十一月二十五日、朝早く京都駅からバスに乗り銀閣寺
前で降りた。京都の朝は殊のほか寒く身に染みた。この時期
*
え、瀬田川べりを走り宇治に抜ける宇治川ライン、そして「こ
した参道を抜ける
苔の緑の絨毯が眼
に 飛 び 込 ん で き た。
波紋を表現した銀
沙灘と白砂の富士
山型の向月台は江
戸時代に作られた
と 言 わ れ て い る が、
30
の目的は達成できた。その嬉しさを味わいつつ、きょうも日
この日はゆっくり秋の奈良を楽しみながら歩いた。この日
の夜も、昨夜と同じ面々であった。今回の奈良旅行を思い返
日
( 水 ) も い い 天 気 で あ っ た の で、 も う 一 泊 す る こ と に し た。
しながら、記憶の階段をたどりながら、また日本酒と焼酎を
月
近鉄西の京駅でおり、薬師寺、唐招提寺と秋篠川に沿って歩
2杯づつ空けた。次の朝、雨天であった。奈良には雨は似合
本酒、焼酎を一杯ずつ空けて部屋にもどった。翌
いた。この地は中学校の修学旅行以来で、足早にバス旅行で
わない。朝食後、荷物をまとめると相模国への帰途についた。
て、その伽藍の大きさ、またその北側に広がる本坊、中興堂、
御影堂の佇まいはすばらしく、また訪れたいと思った。鑑真
和上御廟はあることさえ知らなかった。中学から高校にかけ
ては、井上靖の「天平の甍」がきっかけになり西城物をよく
読み、数少ない写真でイメージを膨らまし、シルクロードに
あこがれた。結婚した頃、NHKでシルクロードの取材報道
『秋の京都 プチ散歩』
久保田 亘
関ヶ原を過ぎ車窓から西の方角に眼をやると、琵琶湖が広
がりさらに比叡山の山並みが眼に留まる。十一月ではまだ山
頂に雪の気配はないが、冬の訪れが感じられる。比叡山から
れ や こ の 行 く も 帰 る も 別 れ て は 知 る も 知 ら ぬ も 逢 坂 の 関 蝉
丸」と詠まれた国道一号である。学生時代はいろいろな経路
と、 観 音 殿 と 鮮 や
白砂の調和が凛と
で京都へ出かけたが電車を利用すればわずか十数分で京都へ
か な 紅 葉、 さ ら に
恩師と昼食を共にした。そこで「京都の紅葉は燃えるような
時の経つのも忘れてしまった。翌日は久しぶりに京都在住の
といろいろな方面で活躍しており、昔話に大いに花が咲いて
昨年一月に卒後三十年の同窓会が琵琶湖畔であり懐かしい
顔ぶれと再会した。皆それぞれ研究職、病院勤務、地域医療
するためにも大変だったのである。
入る。しかしあの山並みを越えるのが戦国時代、天下を統一
東へ連なる五百メートル級の山並みを越えなければ京都には
い」と絶賛され、一度はその時期に訪れることを勧められた。
通ったにすぎなかった。薬師寺では画家:平山郁夫の西城図
3
を味わった。唐招提寺では、寺院のなかを時間をかけて歩い
10
美しさで、特に天龍寺や高台寺、嵐山などは本当に素晴らし
写真①
31
r
じ、 側 近 の 藤 原 成 親、
法皇が強い不安を感
清盛に対して後白河
を身に付けていく平
一一七七年、強大な力
場 所 で あ る。 こ れ は
謂「鹿ケ谷の陰謀」の
の陰謀が練られた所
真 ② )。 平 家 追 い 落 し
荘があったと云う(写
辺りに俊寛僧都の山
の方に向かった。この
から外れ東山の山麓
た。われわれは人の波
大変な賑わいになっ
くと、連休の最中のためか多くの人が波のように押し寄せて
有名な老舗「叶匠寿庵」の和菓子を片手にしばらく歩いてゆ
あったが、今は京都の歴史の深さに驚くばかりである。途中、
風 情 が あ る。 学 生 時 代 は 淡 い 恋 を 感 じ な が ら 歩 い た こ と も
に歩く。やや紅葉はピークを越えた所もあったが京都らしい
ある。銀閣寺を後に南北に流れる疎水に沿った哲学の道を南
所から全景を臨んだが、背後は月待山を有する東山の山々で
東山文化の代表的な趣である(写真①)。境内を散策し展望
平成二十五年 一月
あった。
三十三間堂の喧騒と対照的にひっそりとした晩秋の佇まいで
近に見てきた法皇はその御陵に眠っている。観光客で賑わう
される所である。清盛の出世、平家の滅亡、源氏の台頭を間
言 わ せ た 後 白 河 法 皇 の 院 政 の 拠 点「 法 住 寺 殿 」 が あ っ た と
東山から南方へ下り、七条通りへ向かった。三十三間堂に
隣 接 し て 法 住 寺 が あ る。 こ こ は「 天 下 の 大 天 狗 」 と 頼 朝 に
になる。また新しい発見ができた。 ともに変わる京都を想像するとその美しさも違って映るよう
山の高台から京都市内が一望できる。山並みの紅葉も鮮や
かだ。これは盆地特有の寒暖差によるものであろう。時代と
事件があったと思うと心が躍るようであった。
軽装だったためここで断念したが、この場所で歴史を変える
り、ここよりさらに一時間程山に入ると山荘跡があるという。
を十五分程登ると、鬱蒼とした木々の間に山荘への道跡があ
いう。感動的なドラマの場面を思い浮かべながら急斜面の坂
と欲すれば忠ならず」と涙を流しながら父清盛を説得したと
たが、長男重盛は「忠ならんと欲すれば功ならず、孝成らん
頼を鬼界島に流した。さらに法皇にも厳罰を以て処したかっ
を斬り、藤原成親を備中の国へ、成親の子成経と俊寛、平康
た。しかし結局行綱の密告により未遂に終わり、清盛は師光
師光らが平家を打倒するための謀議をこらした事件であっ
月
日(日)
13
武川慶孝
5
紀行
菩提峠から三ノ塔へ
第
年
24
当日は、数日前からの雨もあがり、快晴とはいかぬまでも
晴。午前 時に、保健センターに集合し、神奈中のマイクロ
昨年の大山登山の際、頂上から西の方角に見えた二つの峰、
それが二の塔、三の塔である。今回は、そこを目指す。
平成
回 平塚市医師会ウオーキング大会
写真②
峠から降りてくる神奈中の大型バスとも、ギリギリで擦れ違
時間強の行程がなくなり、時間的に
いながら、ヤビツ峠を越えて菩提峠まで運んでくれた。これ
でヤビツ峠からの片道
土の斜面に出た。ここで、荒井副会長がしっかりしたザイル
入山前のストレッチングを軽くすませ、林の道をゆっくり
と登る。そのうち、雨の直後なら確実に滑落するであろう赤
は十分な余裕が取れた。
1
32
33
3
バスで、いざ出発。この小型バスは小回りがきいて、ヤビツ
7
見たくない景色である。しかし、当パーテイーはバスのおか
り、更に直線状に頂上に向かっている。バテバテの時は一番
人は子供)の腰を確保す
日前に、彼は同じ道を歩き、危ない滑る斜面を確
を取出し、高野家の三人の女性(
る。実は
げで余力十分。最後の階段状の坂も、しっかり歩いて三の塔
着。大山と異なり、人影も少なく、木製のベンチも準備され
認し、ザイルでの滑落防止に及んだ訳である。これも、山男
の責任感というものであろう。
になり、自家製のかりんとう等を戴く。
頂上近くなると、い
だ。大山も同じだが
クロバスのおかげ
なられた人がいたのかも?
子に赤いマントでくるまれかわいらしい。三の塔尾根で亡く
近くに地蔵さんがあると聞き、200メートル程行くと、
三の塔尾根の分岐点に小さい地蔵さんが立っていた。赤い帽
ていて、休憩には最適だ。昼食は休診事務の遠藤さんと一緒
二の塔までは稜線状の林の登りを黙々と歩き、眺望の開け
た場所でひと休み。道端の樹木も初々しく、まさにもえぎ色
づ こ も き つ い。 皆、
帰路は二の塔を過ぎてからは歩きやすい下りで、山道を楽
しみながら菩提峠へ。更に、かのマイクロバスに乗り込んで、
いる。しかしだ、道
距離もたかが知れて
が き れ い に 見 え る。
と、目の前に三の塔
塔へ。しばらく行く
め、 目 的 地 の 三 の
こは小休止にとど
て二の塔頂上へ。こ
で、ひとふんばりし
トであると思われる。
バスを上手に使った、軽登山レベルのウオーキングが、ベス
空しいものはないと、小生は感じている。今後は、マイクロ
今回のウオーキング大会は、マイクロバスのお蔭で、非常
に効率的な軽登山になった。車の通る道を登山靴で歩くほど
るものなし。
ついた震生湖は、暗い大きな池の感じで、悪いけど印象に残
を回してもらう。車を降り、下へ下へとかなり歩いてたどり
べてが順調で時間が余り、盛さんと相談して、震生湖まで車
一路秦野へ。運転もさすがにプロでうまいものだ。ただ、す
体力は残っているの
はまっすぐに谷へお
宗への投稿は3編目になります。少しでも一緒の旅を味わっ
てもらうには、私の言葉では足らないので写真を増やしてみ
ました。老眼にはもっと大きくしたいのですが、ものには限
度があるので仕方なし。
旅行の全行程はイラストにまとめておきましたのでご参照
下さい。今回もANAツアーにお世話になり、我々夫婦の他
は5人家族と添乗員含めて8名で行動します。
そのため年老いた大学生が多いとのこと。もちろん男女同権
なので男女ともまず仕事に就きます。市街地には高さ制限が
あるので高い建物は大体教会のようです。水道水を飲めるの
はありがたいことでした。
34
の春である。こんなにノンビリと、春を楽しめるのも、マイ
北欧フィヨルドの旅
中村 千里
猛暑の続く8月の日本を離れて北欧へ旅行してきました。
「今度の旅行はどうでしたか?」と帰国後はよく聞かれます
第2日目
%近いこともあって大体物価は日本の
18
が、一言で答えると、「予想外に涼しく、物価が高く、景色
【ヘルシンキ】
した。この街のイメージはオリンピックしかありませんでし
たが、現地に来ると毎回新しいことを教えられます。北欧は
福祉の国であるとは知られたことですが、その代わりに物価
%~
が非常に高いと知りました。物品によっての違いはあります
が、消費税が
倍はあります。学費は小学校から大学まで無料で、 歳で
30
が綺麗だった」となるでしょう。
今回の旅行記は8編目になりますが、きっかけとなった孟
‒
恒例の朝の散歩から始まります。国会議事堂、中央駅、国
立劇場、アテネウム美術館と建物だけは写真に納めておきま
‒
20
成人となります。職業に就くには資格を要することが多く、
1.5
35
2
2
15
過ぎたのが驚きかも知れません。水深がすごく深いのでしょ
う
時
れています。ここにはフィンランドの南海岸を守る要塞の遺
さて、最初の観光は港から観光フェリーで 分程沖合にあ
るスオメンリンナ島からで、1991年に世界遺産に登録さ
な町になっています。ツアーの食卓が指定されていたので5
マキシムをはじめ数軒のレストランやスーパー等一つの小さ
す。7階がメインのフロントやカジノに商店街で、6階には
階になりま
構が残され大砲や砲台が残っていますが、今では市民の憩い
時からバイキング形式での夕食です。ここではビールもワイ
階で屋上デッキが
の場として活用されているようで様々な催しが行われていま
ンもアイスクリームもお代わり自由。いつのまにやら出航し
EK)と微妙に異なります。1ユーロ=約100円弱、1S
差が1時間あり、通貨もユーロとスウェーデンクローネ(S
眠れます。フィンランドとスウェーデンはお隣であっても時
型船だけあって振動もほとんど感じませんし静かなのでよく
も写真に撮りたいので寝過ごすわけにはいきませんから。大
ぶりがわかる至近距離を
双眼鏡で覗くと住人の生活
は 松 島 だ!」 と 感 じ ま す。
に航行しており「バルト海
一体どの辺に居るのかカーナビが無いのでわかりません
位?)の小さな島々の間を縫うよう
が、無数(
円強でノルウェークローネ(NOK)もほぼ
モーターボートでない巨大
ましたが空は灰色の雲で覆われていました。じっと朝日が昇
12
円強
EK=
な客船が航行するなんてと
ても信じられません。日本
朝の4時過ぎから起床のタイミングを図っていました。5
時には海上も明るくなってきたようなので階上のデッキにカ
覧するなんてあり得ません
も大きい船舶が松島湾を遊
最大の客船である飛鳥より
メラを持って上がりました。「ブルッ」とくるような寒さを
からね。
撮影があり希望者が購入し
ます。入船時に全員の写真
り下船の準備にとりかかり
着予定とのアナウンスが入
少々。9時半に予定通り到
7時にマキシムで朝食を
とって船内でお買い物を
感じます。すでにデッキには数十人のカメラマンが控えてい
と同じくらいです。
2
8
,
0
0
0
れては困りますからね!と言うよりも、夜明けの海を是非と
す。第二次世界大戦中に実際に使われた潜水艦の展示もあり
半頃入船しました。船室は
れるほど人気のある航路になります。専用の乗り場から
000人以上を定期的に運んでいますが、いつも乗客であふ
203mで総トン数5万8400トン。
乗客乗員合わせて3,
切 っ た 船 に 我 々 が 乗 船 し ま す。 こ の シ ン フ ォ ニ ー 号 は 全 長
の定番にもなっているようです。あのスオメンリンナ島で横
さ て さ て、 今 度 の ツ ア ー の 一 つ の 目 玉 は ヘ ル シ ン キ と ス
トックホルムを大型フェリーでクルーズすることで北欧旅行
た。
と地上に聳えた巨大な建造物ですが内部には入りませんでし
ても教会とは思えません。反対に、ヘルシンキ大聖堂は堂々
いて地下室のようでもありますが上手く光を取り入れてと
次に向かった所は、岩山をくり抜いて造ったテンペリアウ
キオ教会で内部は岩肌を生かした独特の雰囲気を醸しだして
!?
ていました。
ヘルシンキ大聖堂
ました。それよりも島のすぐ傍を巨大な客船がすーーと通り
テンペリアウキオ教会
るのを待ちます。
至近通過のシンフォニー号
船室の冷蔵庫内もご自由にどうぞとは嬉しいことです。で
も、シャワーを浴びて寝てしまいましたよ。旅の序盤から疲
11
展示潜水艦
15
36
37
15
船内7階のメインフロアー
シリアラインのシンフォニー号
15
ますが、指定の時間には出来上がっていました。北欧の人は
う。 到 着 時 の 気 温 は
ニス」とも呼ばれるのでしょ
の島で構成されているようです。実際には橋でつなが
赤い馬(小)= 約 3,000 円
市中騎馬衛兵行進
大聖堂
晴で夏期休暇を終えた人々が
戻って車の渋滞も始まってい
ま す。 車 種 は こ こ で も ド イ ツ
車が目立ちますが地元のボル
ボもさすがに比率が高く日本
車やフランス車、イタリア車も負けません。公共バスの屋根
の上にはバイオ燃料のタンクが印象的。
観光に最初に向かったのは、現存する最古の完全船として
有名な戦艦ヴァーサ号を展示する博物館です。1628年に
処女航海に出た途端の 分程でストックホルム湾内に沈没し
ヴァーサ号
の も お か し い 気 も し ま す が、 観 光 客 が 必 ず 訪 れ る 必 見 の 場
と だ と 納 得。 こ の 市 庁 舎 は 現 役 で す か ら 観 光 の 見 所 と 言 う
ノーベルがダイナマイトを発明したのは必要に迫られてのこ
人は嘆きます。確かに土を掘るとすぐに岩盤が出てくるので
有名です。スカンジナビア半島は土が無く岩だらけと現地の
市庁舎の見学です。ここは何度もテレビで見たことがあっ
て知れたところ。ノーベル賞授賞式の会場としてあまりにも
立っていたのが印象的でした。男女同権ですから当然
も土産の値段も高そうです。王宮警護に女性の衛兵がじーと
国会議事堂や国立美術館もありますが観光地としての重要性
るのでさしずめ日本の皇居に相当するのでしょう。周辺には
ことも同様のようです。この王宮には国賓の方々が招待され
です。したがって王族の結婚や王位の継承問題が話題になる
な存在のようで、英国王室や日本の皇族とも親交が深いよう
国王が国事行為を行いますが、実際は象徴天皇と同じ象徴的
とひしめいています。スウェーデンは立憲君主国でグスタフ
ノーベル博物館、ドイツ教会やリッダーホルム教会に大広場
ガムラ・スタンと呼ばれる旧市街の島があり王宮や大聖堂に
欧州の街には旧市街地が必ずと言ってよい程残されていて
中世の雰囲気を今に伝えています。ここストックホルムにも
恥ずかしい!
が、ここに来るまで私にはこの船に関する知識が全くなくて
を見張るもので非常に多くの観光客が押しかけていました。
船尾の彫刻
1961年に引き上げられましたが損傷が少なくほぼ完全な
バイオ燃料バス
れているために実感はありませんが、普通のサラリーマンの
ストックホルム湾からの展望
形で復元されました。特に船尾に施された彫刻の見事さは目
地は
℃の快
結構時間に正確だと何かにつけて感じましたよ!南欧州の人
が今まであまりにも、、、、、決めつけてはいけないのですが
また、下船間際には中国人ツアー客の多さに驚きました。集
!?
団行動パターンや服装の柄にあの大声ですぐにわかってしま
第3日目
います。例外もありますけれどね!
【ストックホルム】
‒
北欧最大の都市のストックホルムにはスウェーデンの人口
の約1/ が集まっており、「北の水の都」とも称され市街
‒
多くがモーターボートを持っているようなので「北欧のヴェ
ノーベル博物館
ガムラ・スタンの王宮
38
係留中のマイボート
20
10
18
!?
39
14
所 に な っ て い ま す。 場 所 は 中 央 駅 の す ぐ 近 く で、 メ ー ラ レ
ン湖に面しています。中に入って最初に案内されたのがノー
ベル賞受賞祝賀晩餐会会場の「青の間」です。しかし、放映
される場面とは異なりテーブル等が一切ありません。晩餐会
では1300人分の食事がここで提供されるのに、目の前は
ただただ赤レンガの壁で囲まれた大広間です。それでもノー
ベルのレリーフが壁にあることで窺うことが出来ました。2
階に上がる階段は正装でも歩きやすい高さと広さにしてある
とのことで、決して下に降りないでくださいと念押しされま
した。この階段を降りる特権は受賞者だけに限られているそ
㎏以上とのことで
う で す。 2 階 の「 黄 金 の 間 」 は 受 賞 パ ー テ ィ ー の 舞 踏 会 に
使 わ れ ま す が、 壁 画 に 使 わ れ た 金 粉 は
1850万個もの金箔モザイクで飾られています。
吹き抜けのような造りに絵が描かれており、ヴァイキングル
ネッサンス様式と言う必見のものだそうです。
午後はメーラレン湖でつながっているドロットニングホル
ム宮殿へバスで向かいました。中心部より約 ㎞離れた場所
に な り ま す。 北 欧 で は 全 て の 道 で 日 中 で も 車 は 点 灯 す る 義
務があるのでエンジンキーをまわすだけで点灯するように
なっているそうです。市街地には自転車専用レーンが車道と
歩道の間に整備されており、ここでは歩行者より自転車優先
なので注意が必要とのこと。またストックホルム市街の排気
汚染が進んできたので車の乗り入れ制限を開始し、入ってく
る車のナンバーをカメラで撮影して後日課金しますが季節や
時間帯で無料の時もあるとのこと。
市議会の議場も見学ルートに入ります。議員定数の過半数
は女性が占めており、国会議員も %が女性とのこと。それ
でも比率は
年来の低さですから女性天国でしょう。男女と
も最初の習い事は乗馬というのもお国柄でしょうか?
市議会の開催が通常夜間に開催されるのは、就業者が傍聴
に来られる時間を選んだ末とのことでした。この国も男女と
もに働くのが当たり前なので、子どもは保育園で育ててもら
い、食事は外食なのでレストランが非常に多いのが特徴にな
るようです。仕事に就くには高校や大学でその道を専攻して
3
3制、大学生の
%
おく必要があるので転職のため年老いた大学生も増えるよう
です。学校は公立で7歳入学の3
80
になれるようです。さて、この議場の建造上の特徴は天井が
ことでした。ちなみに定年は
歳の誕生日であとは年金生活
が奨学金をもらい 歳で独立して家を出て行くのが普通との
‒
第4日目
分程で空港に到着し免税の手
同じ座席番号01Cなので駐機中はコク
8 4 5 便 に 搭 乗 し ま す。 今 回 も L H 機 と
続きを済ませてスカンジナビア航空SK
ま し た。
今日はノルウェーに移動するので朝食代わりのランチ
ボックスを渡され6時 分にホテルを出
【オスロ】
工透析とはガイドさんの説明でした。
イプ、錠前、水門、心臓ペースメーカー、ガンマナイフ、人
ナマイト、テトラパック、チャック、マッチ、冷蔵庫、スカ
ウェーデンで発明されたものを羅列しておきましょう。ダイ
中。これでスウェーデンの観光も終了です。そこで最後にス
見ただけでは普通のビルにしか見えませんし新病棟は建設
ノーベル医学生理学賞の選考委員会がある王立カロリンス
カ研究所は世界有数の医学研究機関ですが、バスの窓越しに
よ!フェリーが市街地と約1時間で結んでいるようです。
写真撮影禁止だったので豪華なこと以外は思い出せません
彷彿させる広大なものです。内部は一部公開されていますが
になっています。その広い庭園はヴェルサイユ宮殿のものを
登録されており、1981年より国王と家族の公式な住まい
され増改築を繰り返したバロック様式の宮殿で世界遺産にも
市議会議場
40
47
‒
青の間
さて、このドロットニングホルム宮殿は1662年に着工
ヴァイキングルネッサンス様式の天井
45
41
65
18
‒
10
20
‒
30
10
市庁舎南
メーラレン湖の散歩
黄金の間
ドロットニングホルム宮殿
ピットが丸見えで興味津々ですが、離陸時には閉じてしまっ
たので、、、、当然ですね!
迎えのバスに乗り込み現地ガイドのモモさんからこの国の
概要が説明されます。通貨は1
= 円強で、同一店で
以 上 の 買 い 物 で 免 税 に な る よ う で す。 物 価 高
15
済 ま せ て あ り ま す が 足 り る で し ょ う か?
か?それでも水力の豊富なこの国の発電は100%水力発電
同じですが、北海油田を掘り当てたのが一番の違いでしょう
フログネル公園(別名:ヴィーゲラン公園)
こ の 物 価 高 で は 無 理 で し ょ う ね ぇ! 立 憲
の国なので一応成田で5万円程の両替は
は同じなのですぐに超過してしまいますよ!今旅行のメイン
N
O
K
とのことでした。
「叫び」
君主国で王室があるのはスウェーデンと
この国の最初の観光地はフログネル公園でヴィーゲラン作
の 彫 刻 が 2 1 2 点 も 置 か れ て い ま す。 刻 ま れ た 人 間 の 数 は
650体以上にもなるようで、
撮影した枚数は数知れません。
代表的な高さ mの塔には男女121体が刻まれており周り
も人生を感じさせる人間彫刻で埋め尽くされています。怒り
ん坊の左手はピカピカに!
ノーベル賞のなかでも平和賞はオスロの市庁舎で授賞式が
行われます。スウェーデン市庁舎と異なって壁にはヨーロッ
パ最大級の壁画が飾られていてきれいでした。また、市庁舎
の南側はそのまま港に面しておりオスロフィヨルドなので
す。北欧の首都が全て港町だったと改めて感じさせてくれま
した。やはりヴァイキングの末裔なのでしょうか水上交通が
非常に発達しているようです。
オスロの国立美術館は前半戦最後の目玉?となるムンクの
描いた「叫び」の鑑賞になります。ムンクは「叫び」を5枚
以上描いており、ムンク美術館に2点、国立美術館に1点が
展示されています。国立美術館から1994年に油絵が、ム
ンク美術館から2004年にテンペラ画が盗まれ世界中の
ニュースになったものですし、2012年の競売でピカソや
ゴッホ以上の史上最高額 億円の値段がついたことでも話題
でしたが、隣の部屋では撮影
?だったので望遠レンズ
ムンクの部屋だけは撮影禁止になっていました。非常に残念
まではノーフラッシュなら撮影OKだったようですが、
今回、
を一度見たら忘れられないものになってしまいますね。昨年
になっています。あの独特のタッチとデフォルメに色づかい
96
術館には、ゴッホ、セザンヌ、ロダンの彫刻、ヴィーゲラン
の彫刻に北欧の画家の絵が数点展示されています。ハダンゲ
ルの結婚式を描いたグーデの作品やクリスチャン・クローグ、
ダールの作品などは写真を撮り放題!
美術品を十分に堪能した後は、ホテルに戻ってしばらく休
憩し、4時からのフリータイムは市内散策をしました。ホテ
ルは中央駅の隣の好位置にあるので、目抜き通りのカールヨ
ハン通りを約2㎞王宮に向かって歩きます。途中にはオスロ
大聖堂、国会議事堂、国立劇場、国立美術館、グランドホテ
ル、オスロ大学等様々な建物が連なっていますが、それ以上
42
43
17
で撮影してしまいました。よく撮れていて満足です。この美
O
K
セザンヌ
ゴッホ
「ハダンゲルの結婚式」
ヴィーゲラン
ムンクの部屋は撮影禁止
ロダン
3
1
5
N
O
K
グランドホテル
後半戦の旅行記
ここからは後半の主にフィヨルドの旅になります。同じよう
第5日目
な景色が多いので違いがわかるでしょうか?冒頭の旅行工程
図を参照しながらご覧下さい
【オスロからガイランゲルへ】
今日は移動日でしょう。大型バスの座席を7~8席占領で
きるとは言っても限界があるし、高速道路でもない約410
㎞の道中は時間がかかり退屈かもしれません。しかし、この
バスにはナビがついて、現在地を知らせてくれるのが嬉しい
カフェの壁画
オペラハウス
に雑踏とショーウインドウが目についたかもしれません。王
宮は突き当たりのやや小高い丘に建っていますが、一部修復
中でもありこの時期には公開されていません。しかし、王宮
の庭園には多くの市民が太陽を求めて日向ぼっこをして寝そ
べっている姿が印象的。王宮を出てからは南下して港に向か
います。港にはノーベル平和センターに昼間訪れた市庁舎が
そびえ立っており、その前には帆船がたくさん停泊していま
した。少し飛び出た半島にはアーケシュフース城が湾を見下
ろしているので入城してきました。
途中にはリレハンメル
オリンピックのスケート会場が湖越しに見え、湖の末端?の
町のリレハンメルに到着。運良く雨も止んだ時にジャンプ台
の見学になりました。でも下から見学しただけで台に昇って
はいませんよ。間違って落ちたら痛いですから、、、、。
ここでの気温は ℃でしたが、日本は ℃との情報が入り
唖然!バスに戻ると暖房が入っていましたから。昼食も隣町
44
最後に独特の形状で注目を集めるオペラハウスの屋根を全
て歩き回って6時に道路反対側にあるホテルに戻ります。こ
れでほとんどオスロのめぼしい市街地を踏破したことになる
で し ょ う。 7 時 か ら 夕 食 が 用 意 さ れ て い る の で 戻 り ま し た
が、まだ太陽の位置は頭の上にあります。そこで、夕食終了
後 の 8 時 半 で も ま だ 明 る い の で、 再 び グ ラ ン ド ホ テ ル 1 階
にあるカフェを探索に出かけます。このカフェは歴史があっ
て、あのムンクやイプセン等が集ったたまり場として有名で
壁一面に当時の絵が描かれています。ここのカプチーノは
なので比較的安く不思議に思えました。
これで1日も終わり、ぐっすりと眠れます。
は L = NOKです
から、、、、日本の1・5倍。
があってもガソリン価格
ラック。北海油田の開発
北海道に近く白樺にライ
非常に多いです。草木は
明日からいよいよフィヨルドの旅になり、後半戦がスター
トしますから。
41
オイエルでアルペンスキー会場のレストラン「カフェ 」で
した。
3時半にはロ
ムの町にあるス
ターブ教会を訪
れます。スターブ
教会とは北ヨー
ロッパ独特の木
94
ことです。9時にホテルを出発しひたすら北へ北へと進みま
℃前後で
す。どうもヨーロッパハイウェイの一部であるようですが格
段 変 わ っ た 点 は 見 つ か り ま せ ん で し た。 気 温 は
時々小雨も降る曇天です。最初は気にもしなかった光景でし
た が、 い つ ま で 経 っ て も 車 窓 か ら 湖 が 消 え ず 同 じ 景 色 が い
つ ま で も 続 く よ う に 思 え て き ま し た。 全 長 1 0 0 ㎞ も あ る
ミューサ湖でノルウェー最大の湖とはあとで知ったこと。し
15
王宮庭園のひなたぼっこ
かし、このような光景が連日車窓から広がることになろうと
は思ってもいませんでした。
造様式の教会で
教会内部
45
1
34
王宮 銅像はカール・ヨハン王
‒
ここノルウェーは日本と同じく森の国ですから木造の家が
スターブ教会
15
13
‒
N
O
K
アーケシュフース城より湾
通りの噴水
カール・ヨハン通り
国立美術館
最盛期には
棟
棟程で貴重な遺
以上もあったそうですが
現在は
ロムの町を出発してからは西の方に向かうようになり、周
囲の景色が変わってきました。いくつかの山々の頂には万年
画や調度品があって心を癒してくれます。
た。まあ、立山の展望台から黒部湖を見下ろした感覚に近い
いなことに雲の切れ間から下界を展望することができまし
のような小雨混じりの曇天ではガイランゲルフィヨルド(海
級 の 山 で も 万 年 雪 は あ り そ う で す。 そ の 山
時半到
) で 車 で 来 ら れ る 最 高 地 点 と の こ と。 こ
‒
円ですから一人あたり、
水面もまるで鏡のようで群青色や緑色に青白色等様々でし
展望台はさすがに寒く6℃ほどで絶景が次々現れますが、
人間が動き回っている観光地の賑やかさは全くありません。
高価な眺望です。
バスの有料道路料金は約
抜0m)が見下ろせないと覚悟して登っていきましたが、幸
雪が現れます。同時に単なる水溜まりにしてはあまりに広大
のガルフピッゲン山です
でしょうか?黒部湖が海であればの話ですが。それにしても
(
ら仕方がありません。
い で し ょ う し、 湖 も 同 じ で す か
で き ま す。 も ち ろ ん 景 観 に も 悪
るように現実的に無理だと理解
さは200㎞にも及ぶものがあ
が 必 要 で す が、 フ ィ ヨ ル ド の 長
はベイブリッジ以上の高さの橋
なので巨大客船が橋をくぐるに
湖の端にしか橋がかかっていないからです。フィヨルドは海
リーに乗ることになるのですが、簡単に言えばフィヨルドや
ホテル前の波止場から8時発のクルーズ船でバスごと乗
り込みます。この先何度もこのようなバスごと乗り込むフェ
昨日の午後と同じような山岳ルートにフィヨルドクルーズ
が加わったのが本日の予定。
【ガイランゲルからバーレストランドへ】 第
‒ 6日目
ガイランゲルフィヨルドは海に通じるので海抜0mです
が、どうみても山間部の写真になります!
着しました。
た。フィヨルド波止場前のホテル・ガイランゲルに
望台
を分け入った所に造った有料道路の終着地がダルスニッパ展
で、
が、その山の周辺を走っているとは後々に調べて知ったこと
ウェーの最高地点は、
な湖も様々な顔で無数と言ってよいくらいに現れます。ノル
にも歴史を感じさせる絵
物も美しく、薄暗い内部
かな背景に溶け込んだ建
産になっています。のど
28
さ て、 ク ル ー ズ 時 の 気 温 は 大
体 ℃で鏡のような海面を航行
46
47
展望台の万年雪と周辺の湖は
名もない湖
ヘルシストの滝は町中に
同じような光景が続きます
ガイランゲルフィヨルド
1,
0
0
0
18
1
5,
0
0
0
同型のフェリー
求婚者の滝
2
,
4
6
9
m
12
7 人姉妹の滝
ガイランゲルフィヨルド
1,
5
0
0
m
1,
4
7
6
m
時半まで休憩
立った断崖につな
岸はそのまま切り
で外洋船2隻が停泊していました。
として有名ですが、ノールフィヨルドの末端の町でもあるの
です。ここでは氷河より得られたミネラルウォーターの産地
していました。更に南下してオルデンの町で
がり無数の滝が流
し て い き ま す。 両
れ 落 ち て い ま す。
ヘルシストの町で下船し、バスで延々と湖畔をドライブす
る感じで南下していきます。途中のホルニンダール湖はヨー
勢いのあるものでした。
求婚者の滝は有名です。終点の町中にあるヘルシストの滝も
た滝には名前のついたものもあり、7人姉妹の滝や反対側の
氷河の青く輝く厚みは万年雪と全く違って感動さえ覚えま
氷河を眺めながら食事の出来るレストランにです。遠目にも
荒々しいものに徐々に変わってきますが、雪をまだら状に配
し た。 シ ェ イ を 出 発 す る と 周 囲 の 景 色 は 岩 肌 も む き 出 し に
レストランの予約時間に合わせるための時間調整ですが、
ここの湖畔も静かで英国の老紳士達のツアーが散策していま
倍も覆っていた時代の写真も飾られています。運良く太陽ま
でもが顔を出してくれたので食後の散策は絶景の中に溶け込
んだようです。
溶け出した氷河の水は小川となって至る所に流れ出ていま
す。「冷たい!」氷河を触ったのではありません!
氷河をあとにフィヤーランドの町に 時着きました。ここ
からフェリーで本日の終着地のバーレストランドに行きます
%のお酒でした。これを飲まなくても食事は食べること
船長も退屈そうだったので、
「やあ船長!おつとめご苦労様。
航行になります。
単に移動のためのクルーズにも思えました。
とは異なりここでは滝も少なく景色も平穏でのんびりとした
ホテル前の桟橋で水を口に含んでみたらうっすらしょっぱ
い味だったし、海草も見つけたので海水なのでしょう!朝食
何が何だかわかりませんが、、、、
恒例の朝の散歩はホテルの周辺の散策でした。夜中に時計
が 1 時 間 進 ん で し ま っ た の で 予 想 外 の 早 起 き に な っ て、、、、
‒
写 真 を 撮 っ て 良 い で す か?」 と 聞 い た ら、 何 と「 よ っ し ゃ
しょう!?
バーレストランド
の町に4時半に到着
7 時 半 に 出 発 し、
バス→フェリー→
一緒でした。
は趣のある旧館でいただきましたが、他の日本人ツアー客と
【バーレストランドからロフトフースへ】 第
‒ 7日目
が出来ますのでご安心を!挽き肉のパイ包みの夕食でした。
分
要するにサイダーとはアップルシードルのことでアルコール
夕食は近くのサイダー工場見学後となっており興味津々で
出かけました。
レストラン店主の趣味なのかわかりませんが、
いる錯覚に陥ってしまいますよ!
ヨルドを眺めることが出来ますが、外を見ると部屋が動いて
由緒ある雰囲気のある所で、ここでも部屋から波止場とフィ
ヨルド支流との交差点に当たります。ホテルは波止場近くの
です。ここは、ソグネフィヨルド本流とフィヤーランドフィ
15
しかし、かえって幻想的で良かったかもしれません。目立っ
ロッパで一番水深が深く透明度が高いと説明され大きな船も
す。レストランは斜めのガラスで覆われて頭上の氷河をダイ
何もない波止場にはトイレと古本の小屋があるだけ。本屋と
フィヨルドとの関係はまったくわかりません?
19
!」 と ポ ー ズ を と っ て 両 足 で 操 舵 を 始 め ま し た。 何 と
フィヤーランドフィヨルドは最大のフィヨルドであるソグ
ネフィヨルドの末端にあたります。ガイランゲルフィヨルド
した景色や湖の雰囲気は同じです。そして、到着しました。
ありましたが、ただ見ただけでは他の湖との違いはわかりま
天気が悪かったために山頂はほとんど雲に隠れていました。
再び、このような湖畔を1時間程走ってシェイの町で一休
み。
10
ナミックに見ることが出来ました。店内には氷河が現在の数
お茶目な船長
せん。地形図をみるとフィヨルドになりそこなった湖の形を
フィヤーランド
フィヨルド
が、出航まで時間があるので波止場で待機。おかしなことに
フィヤーランドの町
48
49
ボイヤ氷河
お茶目な船長さんで
O
K
も絶景の数々で
す。このルート
下していきま
山岳ルートを南
し、バスは再び
断しながら進行
フィヨルドを横
フェリーバスと
ていたようですが実際はもっと長かっ
し ょ う! 5 分 間 の 停 車 と ア ナ ウ ン ス し
ショースの滝を間近で見られることで
ルの間の展望ホームに停車し
いは途中のトンネルとトンネ
同 じ に 思 え ま し た。 一 番 の 違
で眺めてきたものとほとんど
んが景色の多くは今までバス
mの滝の水しぶきがホー
たです。落差
ヴォスの鉄道駅
んよ!目的地は
れ て い ま す が、 添 乗 員 の 工 藤 さ ん は 見 慣 れ て い る の で 座 席
の す ご い で す。 誰 も が 記 念 撮 影 を し て ホ ー ム に は 人 が あ ふ
ムまで飛んできてレンズもすぐに濡れてしまう程水量がも
℃ほ
な り ま す。
時に到着後は
50
言葉に表せませ
です。
で 荷 物 番 を し て い ま し た よ! ま た 滝 の 途 中 の 岩 に 現 れ る 妖
精の踊りには違和感を覚えると嘆いていました。確かに、「何
で手旗信号をしているのだ?」との印象です。
も あ り、 北 欧
フロム駅は
鉄道の終点で
ム鉄道は知る人ぞ知る(当然ですが)世界の山岳鉄道マニア
最大のソグネ
のクルーズでグドヴァンゲンまでの眺望を楽しみます。ここ
~
も言葉で表せないので動画撮影を行いましたが、旅行記では
静止画で雰囲気を味わってください。気温は大体
どで天気も晴れ間ものぞきそこそこ良かったです。ただ中国
人ツアーと一緒だったのが誤算。大学生位の若い女の子連中
が一眼カメラ片手に好位置でお互いポーズをとって何枚も撮
影しまくっていたので、他の観光客の撮影場所が制約を受け
てちょっと困りました。譲り合いの精神が欲しいなぁ!さす
がに途中から気づいたようですが、、、、、
このように雄大な景色の中に小型モーターボートが走り
回って水面をかき乱すようなことはありません。ソグネフィ
ヨルドの中でもこの辺りの狭まったフィヨルドを特にネーロ
光の基点にも
㎞の間で一気に
憧れの一つらしく、標高約864mから約
しぶきが飛び散るホーム
い も の で し た。 実 際 に 乗 車 し て み る と 評 判 に 嘘 は あ り ま せ
されている観光鉄道ですから車内の路線案内図も分かりやす
トンネルを通過します。途中の景色が絶景であることが称賛
海抜2mのフロム駅まで下る急勾配の鉄道で、途中に
20
イフィヨルドと呼ぶようで世界遺産に登録されています。
妖精?
93
ヴォス駅に9
時 分到着しバ
スと暫時お別れ
時に乗り込みミュールダール
時に接続されています。このフロ
します。ベルゲン線の電車に
各所に残雪と大小様々の滝が流れ落ち、屋根に暖房耐久性を高める草
を生やし U 字谷も現れる山岳ルート
フィヨルド観
駅で今度はフロム鉄道に
10
もの
11
昼食と土産物店をいろいろ見て回って、1時半から約2時間
フロム鉄道
12
20
18
大迫力のショースの滝
35
15
51
臨時ホームとトンネル
終着のグドヴァンゲンにはバスが待機しており、再びバス
で南下していきます。さすがに観光疲れが出たのかしばらく
睡魔に襲われてしまい景色がどうだったのかさっぱりわかり
ま せ ん。 ル ー ト は 山 越 え な の で き っ と 今 ま で の よ う な 綺 麗
な 景 色 だ っ た の で し ょ う! 1 時 間 少 々 経 過 し た 頃 に 渡 し 船
て き た こ と と、 土 産 ケ ー ス 展 示 の 人 形 が め ち ゃ く ち ゃ 高 額
だったことでしょう!
ヨルドまで来ているようです。数十台のバスやトラックが乗
テニスコートにプール等があるようですがフィヨルドがらみ
今日は朝食後に周囲の散歩です。この付近には果樹園があ
るだけで、あとはホテルになってしまいます。屋内卓球場や
‒
り込むフェリーには至る所にトイレが設置してあるので一種
でないと何の写真かわかりませんからね!
【ロフトフースからベルゲンへ】 第
‒ 8日目
のパーキングエリアの役目もあるのでしょう。渡り終えてか
(フェリー)に乗り込みましたが、ここはもうハダンゲルフィ
らは右手にハダンゲルフィヨルドを見ながら延々と kmほ
本日は近くにある穴場的絶景ポイントまでのハイキングと
最終到着地のベルゲンまでの移動になります。周辺の写真撮
ど南下して目的地のロフトフースにあるホテルに5時 分に
ホテルロビーには暖炉があり火が燃えていました。気温は
何度でしょう?ここの部屋でもテラスの前にフィヨルドが広
到着しました。
がニコニコして待っていました。 歳の地元ガイドのケティ
影を終えてホテルロビーに戻るとリュックを背負った若者
ル 君 で す。 彼 が ボ ン ド フ ー ス 湖 ま
でのガイドを行ってくれることに
なっているとのこと。
8時半に出発し、ハダンゲルフィ
とのこと。
すれ違いざまの挨拶は「ハイ!」でOK。
時に麓へ戻りレストランで地元ハンバーグを食べて朝来
た道を引き返していきます。出発地のホテルでケティル君と
ターンするよ
ヨルド末端の町オッダの橋を久
あれほど晴天であったのにヴォスの町を過ぎた3時頃から雨
お別れし、ヴォスの町を経由してベルゲンへと向かいます。
しぶりに渡って
が本降りになってきました。今旅行で一番の大雨です。まあ
バスの中なので問題はないし、車窓の眺めももう慣れっこの
うに少々北上して左折し
どのトンネルを抜けてスンダル
人口 万人ほど
ですがノルウェー
℃になっています。一体この国には湖が何万個あるので
しょうと言う印象です。
~
湖が存在する景色なので休憩でも良いでしょう!気温は ℃
イ キ ン グ の 開 始。 ケ テ ィ ル 君 が 先 頭 を ゆ っ く り 歩 い て 道 端
の木の実の説明をしたりガイドをしてくれます。ノルウェー
12
の基点として観光
はフィヨルド観光
ありま し た。今で
で、昔は 首 都でも
第2の都市の港町
26
がります。
このホテル
で思い出深い
す。自然に戻すのだから
かった!種を飛ばしてボンドフース湖に入れても良いそうで
冷 え た プ ラ ム と チ ェ リ ー を 出 し て く れ ま し た。 実 に 美 味 し
ホテルからハダンゲル
フィヨルドを
の は、 夕 食 時
は車椅子の障
害者団体と一
緒だったこと
と、 食 事 に 鯨
肉や鹿肉が出
21
帰りのハイキングでは地元の親子連れやクロカン大会に出
会いました。
ケティル君の先生にも会ってしまったようです。
O
K
5時前にはベルゲンに到着しました。
ホテルの部屋
%の果実はこの地方で獲れるそうで彼は平常はファー
マーとのことです。約1時間歩きました。このグループの
歳のおじいちゃんもおばあちゃんも頑張って歩きました。最
後に見えた光景はまさしくご褒美の「絶景 」そのものだと
思います。ここに外国観光客はいません。と言うより、1組
の親子がいただけなので全く静寂そのもの。そこに鏡のよう
な緑の水面に山々を写し込み、山には氷河が青白く顔を出し
ています。この景色を我々が独占状態。ケティル君がここで
雨のベルゲン
の
12
の 町 で 降 り ま す。 9 時 半 か ら ハ
11
U
7450NOK=11 万円もします
部屋より外はフィヨルド
52
30
40
㎞ほ
ホテル裏の果樹園
82
53
暖炉
!!
13
ホテルを海から臨む
40
下車しての観光は世界遺産のブリッゲン地区です。ここに軒
を連ねる三角屋根の一群はハンザ同盟時代からのもので建物
は傾斜が激しくなっているようでした。奥に広がった建物に
は荷揚げ用の滑車が残されており昔は海が迫っていたそうで
す。
ハンザ博物館にも入館し昔の説明を受け魚市場ではテレ
ビ岩手の撮影クルーにも遭遇しました。雑貨店 Ting
隣のレ
ストランでムール貝づくしの昼
世界遺産のブリッゲン地区
食を食べて自由時間になります。
天気がよいので是非とも早くフ
ロイエン山にケーブルで登りな
さ い と 急 か さ れ て い ま し た。 い
にも力が入っており日本の感覚では100万都市のイメー
ジ。そして、教科書でしか知らないハンザ同盟の中心地だっ
たのです。また、1年で300日は雨が降ると言われるほど
非常に雨が多いことでも知られているそうで、、、ご多分に漏
れず雨の歓迎を受けてしまいました。ホテルは世界遺産のブ
リッゲン地区に隣接した繁華街にあり足の便は良さそうで
す。まだ時間の余裕もあるので、雨の中を歩ける範囲で探険
しておきました。
‒
れ込みで、ムンクの絵をはじめピカソ
やミロなど収蔵してあるので出かけま
54
【ベルゲン】 第
‒ 9日目
最後の観光地になります。恒例の朝の散歩は雨もすっかり
上がったブリッゲン地区から魚市場や港の周辺を歩きまし
た。
朝食後は地元観光ガイドの上野さんの説明で市内を大型バ
スでゆっくりと回ります。ガイドの制服は上下真っ赤で恥ず
かしいと言っていまし
た が 本 当 か ど う か? そ
して焼け残った集合住
宅やお城のような老人
ホ ー ム、 倉 庫 街、 港 を
望む写真ポイント等を
案 内 し て く れ ま す が、
が ベ ル ゲ ン と の こ と。 小 銭 も な
くなり両替してケーブル乗り場
に 行 き ま し た が、 途 中 で 昨 日 ま
で我々を運んでくれたバスの運
転手レイダルさんに会いました。
今日からは阪○交通のツアー客
名の運転で昨日までと全く違
う賑やかさと話してくれました。
ケーブルカーで山頂から見た
眺めはドブロヴニク市街をスル
ジ山から見たものと似た印象が
あります。天気は大丈夫です。
そ の 後 は、 ロ ー セ ン ク ラ ン ツ
の塔とホーコン王の館に入場し
世紀には政治の中枢
ま し た。 い ず れ も 港 の 入 り 口 に
建てられ
内部
世紀のもので要塞とし
ての機能もあったそうで市街地を見渡せます。
機関が置かれていたそうです。塔は
16
した。途中の市庁舎そばのフェスト広
ケーブルカーでフロイエン山に登りベルゲン市街を見下ろします
ハンザ博物館
ベルゲン駅近くの池の周りにはベルゲン美術館が並んでい
ます。ここも北欧最大級の美術館のふ
塔から市街地を望む
氷河
ルート地図
つ何時雨になるかわからないの
13
55
37
地元のクロカン大会
ハイキング
プラムとチェリー
ボンドフース氷河湖
ボンドフース氷河湖
ホーコン王の館
ピカソ
10
飛行機からのベルゲン周辺
無数の島々にフィヨルドが侵食して感動的!
10
本当におめでとうございます!
日追加記載
枚ですから人間の大きさが全く違い
博物館でお土産のメダルチョコレートを1,000枚購入さ
な発言をなさる山中教授は格好いいし大物ですね!ノーベル
これからiPS細胞を臨床応用していくのが使命…」のよう
それにしても、「ノーベル賞をもらったことはもう私にとっ
ては過去のことで、まだマラソンの折り返し点でしかなく、
しょう。
とが出来ました。
他にも西ノルウェー工芸博物館では世界最古のヴァイオリ
ンを始め、中世の家具から現代のものまで幅広く鑑賞するこ
区の予感があります。
場にはきれいな花壇が飾られグリーグ像も建っており芸術地
ムンク
2012年 月
12
れたようですが、私は
ます
!?
【ベルゲンから日本へ】 第
‒
で時間を費やし
時
分
日目
‒
便で
め市街地へ電車で向かいレーマー広場等
ベルゲンよりルフトハンザで飛び立ち
2 時 間 で フ ラ ン ク フ ル ト。 時 間 調 整 の た
最終日は急ぎ水族館に行き殆どのベル
ゲン観光場所を踏破。
10
N
H
2
1
0
た。このような日本の医学会にとって記念すべき年に山中教
テル周辺は雪で覆われており夏とは別の風景を映していまし
挟んでの対岸に宿泊されたグランドホテルがありますが、ホ
金の間」も大勢の踊る姿が映っていました。メーラレン湖を
間」がテレビ画像でみれば華やかな晩餐会場に大変身し、「黄
それは、山中伸弥教授がノーベル賞の医学・生理学賞を受
賞されたことです。あのガラーンとしていた市庁舎の「青の
がいきません。
のですが、今回ばかりは追加記載をしないとどうしても納得
以上のように、旅行から戻ると記憶が鮮明な間に旅行記を
書き記しています。これを、そのまま孟宗の原稿にしていた
戻ってきました。
45
2012.9月記す
20
授 に 先 ん じ て? 会 場 を 下 見 で き た こ と は 記 憶 に 残 る こ と で
56
57
グリーグ像
フェスト広場
南イタリア一人旅
ど う 移 動 す れ ば よ い の か、 私 に は 至 難 の 業。 恐 々 封 筒 を
開きました。そこには、「ママちゃま、湘南ベルマーレ鳥
栖に勝ちました。気を付けて楽しい旅行を」。でした。旅
行 中 F A X は 届 き ま し た が、 ド キ ド キ す る こ と は あ り ま
のですから。シチリア島の一夜は、ルンルンで過ぎました。
伊東 幸子
平成二十年八月末に出かけました。
「光あふれるシチリア島・カプリ島と南イタリア十二日間」
旅のルートマップ
せ ん で し た。 ベ ル マ ー レ が 勝 っ た 時 だ け 送 信 さ れ て 来 る
JTB・心行く旅。
以 前、 ロ ー マ か ら 南 イ タ リ ア の 旅 を 経 験 し ま し た が、
あまりにも酷い旅でした。
もう一度ポンペイの遺跡と出来ればナポリの考古学博
物館に行きたいと思いました。
シ チ リ ア 島 は、 地 中 海 世 界 の ほ ぼ 真 ん 中 に あ り、 世 界
遺産も多く、今なお噴火を続けているエトナ山等興味津々
の所でもありました。
参 加 者 九 名。 こ の 内 な ん と 五 名 が ド ク タ ー。 一 人 旅 の
女性三人、共にお若くなく。
ロ ー マ 経 由 パ レ ル モ へ。 ア リ タ リ ア 航 空 従 業 員 ス ト ラ
イキのため、遅れて零時ホテル着。フロントから、「FA
Xが来ています」。どきっ、高齢な義母の具合が悪く引き
返 せ と? ど う し よ う、 パ レ ル モ か ら ロ ー マ ま で は 何 と か
一人で行けるけど、ローマから成田へは、あの広い空港を
二日目 パレルモ観光 二泊
パ レ ル モ は、 紀 元 前 八 世 期、 フ ェ ニ キ ア 人 に よ り 町 が
作 ら れ、 紀 元 前、 二 五 四 年 ご ろ よ り 七 百 年 に わ た り 古 代
ロ ー マ が 支 配 し、 衰 退 後 一 八 六 〇 年 の ガ リ バ ル デ ィ の 独
立統一戦争によって統一されるまで多数の支配を受けま
し た。 現 在 で は、 ア ラ ブ、 ノ ル マ ン、 ス ペ イ ン そ れ ぞ れ
の時代の足跡を垣間見る事ができます。
観光の始めは、モンレアーレの大聖堂、修道院回廊見学。
モンレアーレは、バレルモからそれほど遠くないカプー
ト山の傾斜地にある小さな丘。
58
59
オレンジ・レモンなどの果樹園、高級ワイン・上質のオリー
ブ油でも知られています。
此処にシンプルで厳かな外観を備えたロマネスク様式
の 大 聖 堂 が あ り ま す。 教 会 内 部 は、 旧 約、 新 約 聖 書 に 由
来 す る、 キ リ ス ト 教 の 教 育 と 信 仰 に 最 も 重 要 な モ ザ イ ク
画が、礼拝堂の壁全体に描かれています。
祭 壇 正 面 の、 両 手 を 広 げ て い る キ リ ス ト の モ ザ イ ク 画
は 素 晴 ら し く、 時 間 を 忘 れ て 見 入 っ て し ま い ま す。 聖
堂 か ら 続 く 修 道 院 の 回 廊 付 中 庭 の 眺 め も 美 し く、 特 に、
回 廊 の 柱( 円 柱 ) は、 黄 金・ 貴 石・ 溶 岩・ モ ザ イ ク( 素
材 は ガ ラ ス ) 等 様 々 な 材 料 を 用 い て 装 飾 さ れ て い ま す。
信じがたい美しさと精巧な幾何学模様です。
ドゥオモ 1174年建立
祭壇正面のキリストのモザイク画 聖母・天使・12使徒のモザイク画が飾られている
回廊と回廊の柱の彫刻とモザイク
のカポックの花を初めてみました。
い ま し た。 こ の 散 策 中、 ジ ャ カ ラ ン タ の 花 や、 南 米 原 産
と冷やかされながら旅行中持って歩くことになってしま
お 仲 間 に、「 夜 な 夜 な ビ ー ル の お つ ま み に す る の で し ょ」
好 物 の ピ ス タ チ オ を 一 キ ロ グ ラ ム 求 め ま し た。 何 ユ ー
ロかは忘れましたが、日本よりはるかにお安かったので。
乾物・野菜・果物・魚・肉類等々その種類の多さにびっ
くり、衣類、玩具までもありました。
みを見つけましたが結構なお値段でした。
パ レ ル モ へ 戻 り、 旧 市 街 散 策、 カ ー ポ 市 場 見 学、 か ら す
旧 市 街 の 入 口 で あ る ヌ オ ー ヴ ァ 門 を 通 り ホ テ ル へ。 夕
子が記憶に残っています。
る よ う に 思 わ れ ま し た。 テ ー マ は、 狩 の 様 子 と 戦 い の 様
近くなるほど細密になりよりリアルな描写に変化してく
画 が あ り ま す が、 細 密 で 絵 画 の よ う で す。 時 代 が 近 世 に
番 古 く、 王 宮 の 中 庭 の 回 廊 の 壁 に も 素 晴 ら し い モ ザ イ ク
さ れ、 贅 を 尽 く し て 建 て ら れ た 王 宮 は、 当 時 の 栄 華 が 忍
感 動 は、 私 の つ た な い 表 現 力 で は、 お 伝 え す る こ と は 出
書 か ら の 人 物 や エ ピ ソ ー ド が 緻 密 に 美 し く 描 か れ、 こ の
ば れ ま す。 礼 拝 堂 の モ ザ イ ク は、 こ の 建 物 の な か で は 一
来 な い ほ ど で す。 柱 に も 洗 練 さ れ た 美 し い 象 嵌 細 工 が 施
マ ル ト ラ ー ナ 教 会 へ。 こ の 教 会 の 内 部 は、 素 晴 ら し い
モ ザ イ ク の 装 飾 が 施 さ れ て い る と の 事 で し た が、 ち ょ う
ど、 お 葬 儀 が 行 わ れ て い た の で、 残 念 な が ら、 美 し い と
言 わ れ て い る モ ザ イ ク は、 は っ き り 見 る こ と が 出 来 ま せ
んでした。
昼 食 後、 今 日 の ハ イ ラ イ ト、 ノ ル マ ン 王 宮・ バ ラ テ ィ
ナ礼拝堂を見学。
ノ ル マ ン 王 宮 は、 現 在 シ チ リ ア 州 議 会 堂 と し て 使 わ れ
て い ま す。 礼 拝 堂 は、 ノ ル マ ン 王 宮 の 二 階 に 設 け ら れ、
ア ラ ブ・ ノ ル マ ン 様 式 の 礼 拝 堂 で 君 主 と そ の 家 族 の 専 用
の 礼 拝 堂 と し て 設 計 さ れ、 一 一 三 〇 年 ~ 一 一 四 三 年 に 完
成。 目 も 眩 む ほ ど の モ ザ イ ク 画 が 壁 い っ ぱ い に 煌 め き、
すみはお高いのでしょ
た。イタリアでもから
お味はしませんでし
タ、あまりからすみの
食は、からすみのパス
をおいて旅行なぞしたらおん出してやる」という返事が
と聞きましたところ、「家で洗濯・家事をしている、旦那
姿は何処にも見あたりません。
「奥様達は何をしているの」
タ バ コ を 吸 い な が ら お し ゃ べ り を し て 居 ま し た。 女 性 の
街路樹の整った海岸通り、おじさんたちが、五・六人屯し
て、 細 い 路 地 が 多 く 見 受 け ら れ ま し た。 路 地 を 抜 け る と
そ の テ ー マ は、 キ リ ス ト の 生 涯 を 中 心 に、 新 約・ 旧 約 聖
うか。
返ってきました。
アラブの旦那でなくて良かった。
午 前 中 の ハ イ ラ イ ト、 踊 る サ チ ュ ロ ス 像 を 鑑 賞。 こ の
像 は、 紀 元 前 三 ~ 四 世 紀 に つ く ら れ た と 言 わ れ て い る 銅
今日は、芸術的、歴
史的、キリスト教的に
ザイク画を見る事が出
像、 一 九 九 八 年、 マ ザ ー ラ・ デ ル・ ヴ ァ ッ ロ か ら 出 航 し
も素晴らしい多くのモ
来、大変エキサイティ
た漁船の仕掛けた綱から偶然引上げられたのだそうです。
手 足 が 取 れ て い る の で す が、 躍 動 感 あ ふ れ る そ の 姿 は 美
し く、 そ の 顔 は、 力 強 く、 今 様 に 言 え ば、 イ ケ メ ン、 ハ
イな目線を感じます。
サ チ ュ ロ ス は、 お 酒 の 神 バ ッ カ ス の 従 者 だ そ う で す。
こ の 博 物 館 は 撮 影 禁 止、 禁 止 で な く て も、 私 は 見 と れ て
写真は撮らなかったでしょう。
絵葉書を求めました。
60
キリスト像を拡大
61
バラティナ礼拝堂の祭壇
ングな一日でした。
葡萄とシャボテンの実を買い求
め試食、葡萄は大味でしたが甘く、
シャボテンの実は、舌触り悪く酸
味が強いだけでした。散策後、マ
ザーラ・デル・ヴァッロへ。
七世紀にアラブ人が作った町
で、アラブ文化が色濃く残ってい
シャボテン 赤い実を食べます
ホテルの隣が交易市場で、早朝から賑わっていました。
野菜の種類の多さ、色鮮やかで大変豊かに感じました。
三日目 アグリジェントへ一泊
パラティナ礼拝堂の床のモザイクを修復中
(色々の大理石を使って形と色を合わせながら修復)
午後、アグリジェントへ。
アグリジェントは、ギリシャの遺跡(神殿の谷)とアー
モンドの木々が訪れる人を迎えてくれる町です。(アーモ
ンドの花の咲く時期はさぞみごとでしょう)
州立考古学博物館を見学後、神殿の谷へ。八月のこと、
気温は三十度を越し、木陰もなく、暑さとの戦いでした。
ジュピター神殿
神 殿 の 谷 に 横 た わ っ て い る の は、 レ プ リ カ で オ リ ジ ナ
ル は、 考 古 学 博 物 館 に 展 示 さ れ て 居 ま す。 巨 大 な 人 像 で
神殿を支えていた柱の一部と考えられています。
ヘラクレス神殿
神 殿 の 中 で は、 最 も 古 く、 紀 元 前 五 二 〇 年 の 建 造。 天
に 向 か っ て 伸 び る 柱 は、 力 強 く、 ヘ ラ ク レ ス の 名 に 相 応
62
63
しいと思いました。
⑤ヘラ神殿
神殿の谷
①国立考古学博物館
②ジュピター神殿
③ヘラクレス神殿
④コンコルディア神殿
⑤ヘラ神殿
④コンコルディア神殿
コンコルディア神殿
③ヘラクレス神殿
②ジュピター神殿
紀 元 前 四 五 〇 年 ~ 四 四 〇 年 頃、 デ ィ オ ス ク ロ イ 神 に 捧
げられたと推測されています。
ほ ぼ 完 全 な 形 で 残 っ て い る の は、 初 期 キ リ ス ト 教 時 代
に教会として使われていたので破壊を免れたと言われて
います。名前の由来は、平和・和解・調和を象徴するロー
マの女神の事だそうです。
信じがたいほど保存状態の良いこの神殿のたたずまい
は、 美 し く も 堂 々 と し て、 何 に も 負 け な い 強 さ を 私 達 に
示している様に思われました。
ヘラ神殿
紀 元 前 四 六 〇 年 ~ 四 四 〇 年 頃 の 神 殿 跡、 紀 元 前 四 〇 六
年 カ ル タ ゴ の 攻 撃 に あ っ て 炎 上、 続 け て 赤 く 変 色 し た 石
が内部に見られます。
踊るサチュロス
ヘラニズム期・ローマ期地区へ
神殿の谷の夜景は、素晴らしい眺めでした。
ピ ア ッ ツ ア・ ア ル メ リ ー ナ は、 小 山 に 囲 ま れ た の ん び
りした緑の町。旧市街から約五キロ離れた森の中に、ロー
四日目 タオルミーナへ 二泊
ます。
荘 が あ り ま す。 雄 大 な 建 物 に は、 約 四 〇 室 も あ り、 部 屋
紀 元 前 四 世 紀 の 町 の 遺 構。 格 子 状 に 道 路 が 走 り、 し っ
かりした都市計画が成されていたことを知ることが出来
こ の 頃 の 住 宅 は、 床 が モ ザ イ ク で 飾 ら れ、 壁 は 漆 喰 で
塗られていたそうです。
モザイクで敷き詰められています。
こ の よ う に、 大 変 優 雅 な 生 活 が 偲 ば れ、 又 狩 り な ど を
楽しんだ様子や、狩りの後での、今様に言えば、バーベキュ
お 手 洗 い も 水 洗、 広 々 と し て 床 は モ ザ イ ク 画 が あ り ま
した。
のでしょう)。
体 育 館 も あ り、 相 応 し て モ ザ イ ク 画 が 壁 に 飾 ら れ て い
ま す。( 壁 の 模 様 か ら 体 育 館 だ っ た の で は
と名付けた
浴 場 は 暖 房 シ ス テ ム が 設 置 さ れ、 温 度 差 の あ る 浴 室 が
三室。
当 然 所 々 剥 げ 落 ち て い る と こ ろ も あ り ま す が、 そ の 模
様によって部屋の名前がつけられているようです。
の 壁 は モ ザ イ ク や フ レ ス コ 画 で 飾 ら れ て お り、 床 は 一 面
マ 時 代( 三 世 紀 頃 ) の 貴 族 の 休 養 地 と し て 建 て ら れ た 別
こ の 住 宅 地 を 散 策 し て 見 ま す と、 床 の モ ザ イ ク は、 雨
風に曝されながらもその幾何学模様は美しく残っていま
す。(幾何学模様が多いようです)お風呂場は、その壁に
大 小 の お 魚・ 烏 賊 の モ ザ イ ク が 飾 ら れ、 状 態 よ く 残 っ て
い ま し た。 こ の お 風 呂 に 入 っ た 子 ど も 達 は さ ぞ 喜 ん だ 事
で し ょ う し、 大 人 達 も 入 浴 を 楽 し ん だ に 違 い な い と 思 わ
せる図柄でした。
所 ど こ ろ、 床 の モ ザ イ ク が 残 っ て い て、 住 人 の 豊 で 大
ら か に 暮 ら し て い た 佇 ま い が 感 じ ら れ て、 炎 天 下 の 暑 さ
も 忘 れ、 歩 き 回 り ま し た。 こ の 地 区 の モ ザ イ ク は、 大 理
石の色々の石を使っているので、大変カラフルです。
私の今日のハイライトは古代ローマ歴史地区でした。
ウの様子が比較的良い状態で残っています。
残 念 な こ と に、 一 番 有 名 で 保 存 状 態 の 良 い と 言 わ れ て
い る 夫 婦 の 寝 室 と 子 ど も 部 屋 は、 修 復 中 で み る こ と は で
夕 食 は、 野 外 テ ラ ス か ら コ ン コ ル デ ィ ア 神 殿 の ラ イ ト
ア ッ プ を 見 な が ら、 名 物 鰯 の パ ン 粉 焼 き を 頂 き ま し た。
耐 え ら れ ず 一 口 で ギ ブ ア ッ プ。 思 い 出 し て も 身 震 い し そ
き ま せ ん で し た。 お 二 人 の 大 ら か な 日 々 が 描 か れ て い る
ピアッツア・アルメリーナのモザイク
うです。
事でした。
あ っ た も の が、 長 く 伝 え ら れ て い る の だ な と 教 え ら れ た
こ と が 出 来 ま せ ん で し た。 道 具 と い う も の は、 そ の 国 に
本のレモンは小さくてジュウシイでないのか上手に絞る
思 っ て 求 め ま し た。 日 本 に 帰 っ て、 試 し て み ま し た ら 日
も う 一 つ の 買 い 物 は、 や は り 自 分 で 開 発 し た と 云 う レ
モ ン 絞 り 器 で す。 実 演 を み る と 成 程 日 本 よ り 便 利 か な と
われてしまいました。
「ちゃんと貰ってください、教育に宜しくないから」と言
彼が薦めてくれた絵を三ユーロで求めました。「おつり
はいいのだけど」と申しましたら、現地のガイドさんに、
興 奮 冷 め や ら ぬ 帰 り、 バ ス ま で の 道 端 で、 中 学 生 が 自
分で描いた絵を並べていました。
身分制度もはっきりしていた事をうかがい知るモザイ
クもありました。
思議ですが、やはり狩猟民族なのでしょうか。
食 す る 動 物 の 狩 猟 風 景、 魚 の 種 類、 果 物 の 種 類 の 多 さ
に 驚 か さ れ ま す。 野 菜 の 描 か れ た モ ザ イ ク が 無 い の は 不
モザイク画から推測しますと、大変優雅に日々楽しく、
食生活の豊かさも想像できます。
とか。
お す す め の、 レ モ ン ジ ュ ウ ス を 試 飲、 そ の す っ ぱ さ に は
?
64
65
狩りの様子
狩りの後の食事
ビキニの少女の部屋
勝利した少女(中央)冠とシュロを受けるところ
バスは、エトナ山を眺めながら、タオルミーナへ。
タオルミーナ 二泊
ギリシャ劇場
養地と言われています。
シ チ リ ア が お 塩 の 産 地 で あ る こ と を 知 り ま し た。 ク リ
ス タ ル の 塩 で お 土 産 に。 ア ー モ ン ド の 粉 で 出 来 て い る お
こ の 街 の 歴 史 は 古 く、 古 代 ギ リ シ ャ・ ロ ー マ 帝 国 時 代
の遺跡もいくつか残されています。
います。
お土産にしました。
ナ。 美 味 し か っ た お 菓 子 は、 ナ ッ ツ が 一 杯 入 っ て い る ソ
ど お 雛 様 の お 菓 子 の 様 で 色 濃 く 色 づ け さ れ て い て、 お 土
側 に 太 い 円 柱 が 聳 え、 そ の 間 か ら み え る 風 景 は 素 晴 ら し
窪 み を 利 用 し て 階 段 状 に 客 席 が あ り、 正 面 の 舞 台 に は 両
代 二 世 紀 に 円 形 闘 技 場 と し て、 改 築 さ れ ま し た。 天 然 の
作られた中世の町です。
希望者で、カステルモーラ村へ観光。
カ ス テ ル モ ー ラ 村 は、 標 高 五 二 九 メ ー ト ル 石 灰 岩 の 上 に
午後は自由時間
とかと思わされます。
備中でした。
夕 食 は、 イ カ 墨 パ ス タ で し た。 当 然 色 は 真 っ 黒 で 頂 く
のはちょっと躊躇しましたが美味しくいただきました。
あるようでした。
そ う で す。 街 が 眼 下 に 開 け、 サ ッ カ ー 場 が 箱 庭 の な か に
メインストリートであるウンベルト一世通りを進むと、
四 月 九 日 広 場 に 出 ま す。 此 処 も 又 眺 め の 良 い 所 で、 緑 と
六日目 バーリへ 二泊
この素晴らしい風景を背景にして今でも夏はコンサー
ト が 開 催 さ れ て い ま す。 見 学 し た 時 も、 コ ン サ ー ト の 準
狭 い 道 路 を 上 が っ て 行 く と 集 落 が あ り、 此 処 も 又 素 晴
ら し い 眺 め で、 エ ト ナ 山 噴 火 の 折 夜 は と て も 綺 麗 だ っ た
く、 青 い 海、 聳 え る エ ト ナ 山、 ま さ し く 絶 景 と は こ の こ
フトヌガーをチョコレートで包まれたストロンチーニを
産にする気になりませんでした。お菓子の名はマルトラー
そ の 代 表 的 遺 跡 は、 シ チ リ ア で 二 番 目 に お お き い と さ
れ て い る ギ リ シ ャ 劇 場。 紀 元 前 三 世 紀 に 建 造、 ロ ー マ 時
菓子がお薦めと聞いて、お菓子屋さんで見つけましたが、
可 愛 い 籠 に 果 物 を 模 し て 作 ら れ て い る の で す が、 ち ょ う
自由時間にウンベルト一世通りを散策。
あります。
に十五世紀のゴシック様式の教会と十七世紀の時計台が
少年の絵
旧市街散策、街の中心である、ウンベルト一世通りは、
賑 や か で、 観 光 客 も 多 く、 お し ゃ れ な お 店 が 多 く 並 ん で
タ オ ル ミ ー ナ は、 青 く 美 し い イ オ ニ ア 海 と 今 な お 噴 煙
上がるエトナ山を何処からでも眺められる風光明媚な保
レモン絞りの道具
青 い 海 の 美 し い 海 岸 線 の パ ノ ラ マ が 開 け ま す。 広 場 の 左
66
67
お菓子 マルトラーナ
廊下のモザイク
廊下のモザイク
お手洗い
途 中 昼 食 を は さ ん で 二 回 休 息 は あ り ま し た が、 一 日 高 速
今 日 は、 い よ い よ 本 土 へ。 メ ッ シ ー ナ 海 峡 を フ ェ リ ー
で 渡 り( 二 〇 分 )、 約 六 百 キ ロ メ ー ト ル を 北 上 し ま し た。
味しさでした。
ト マ ト 煮 込 み、 レ モ ン の ア イ ス ク リ ー ム。 記 憶 に 残 る 美
昼 食 は、 ト ゥ ル ッ リ を 転 用 し た レ ス ト ラ ン で。 メ ニ ュ
ウは、オレキエッテイ(耳介の形をしたパスタ)・タコの
一九九三年ユネスコ世界遺産に
登録された、サッシと呼ばれる洞窟住居群です。
午後、マテーラへ
道 路 を 走 り 続 け ま し た。 途 中 の 道 端 は、 ペ ッ ト ボ ト ル や
ビ ニ ー ル 類 が 散 乱 し、 綺 麗 と は 言 え な い 道 路 の ド ラ イ ブ
でした。
道 路 の 両 側 に 畑 が 開 け、 イ タ リ ア は 農 業 国 か な と 思 い
ま し た が、 居 眠 り も だ い ぶ し て い た の で、 こ の 思 い は 確
かでしょうか。
タ オ ル ミ ー ナ を 午 前 八 時 三 〇 分 に 出 発、 バ ー リ へ 午 後
六時頃到着。
この日は、シチリア州・カラブリア州・バジリカータ州・
ブーリア州と四つの州を走り続けました。
(ご興味のおありの方は地図をご覧になって下さい)。
七日目、バーリを拠点として、観光が始まりました。
アルベロベッロへ
世 界 遺 産 に 登 録 さ れ て い る ア ル ベ ロ ベ ッ ロ は、 灰 色 の
円柱形の屋根一つ、部屋一つ、壁は真っ白の特徴あるトゥ
ルッリと言われる家屋が立ち並んでいます。
十六世紀中頃トゥルッリは造られました。
屋 根 の 形 は、 諸 説 あ る よ う で す が、 一 つ に は 家 屋 の 税
金 を 逃 れ る た め、 又 雨 の 少 な い こ の 地 方 は、 雨 水 を 地 下
槽に貯めるためとも言われています。
グラビーナ渓谷の西側に横一列に幾重にも重なる洞窟
住 居 が 眺 め ら れ ま す。 渓 谷 を 挟 ん で 反 対 側 か ら 見 る そ の
眺 め は、 南 イ タ リ ア の 明 る い 太 陽 に 忘 れ ら れ た 様 な 佇 ま
いでした。
サ ッ シ の 歴 史 や 洞 窟 の 説 明 の ビ デ オ を 見 た 後、 サ ッ シ
の 見 学。 以 前 訪 れ た 時 よ り 足 場 は よ く 整 備 さ れ て い ま し
た。
道 の 両 側 に は 岩 の 間 か ら 草 花 も 多 く 見 ら れ、 遠 く で 眺
め る よ り 明 る く、 サ ッ シ の 中 も、 思 っ た よ り 明 る く、 住
渓谷の片側から眺める景色
68
69
みやすそうに見えました。
ロ バ と 一 緒 に 生 活 し て い た よ う で、 当 時 の 人 々 の 生 活
が 判 り ま す。 坂 の 多 い こ の 地 で は、 ロ バ は 欠 か せ な い 家
族の一員だったのでしょう。
他 の 洞 窟 で は、 イ ス ラ ム 教 徒 の 迫 害 を 逃 れ て 移 り 住 ん
だ 修 道 士 の 作 っ た 聖 堂 が 幾 つ か あ り、 壁 に は、 ビ ザ ン チ
ン 様 式 の フ レ ス コ 画 が 書 か れ て い ま し た。 こ の フ レ ス コ
画は、近年美術的にも高く評価されています。
ス ラ ム 化 し、 住 む 人 が い な く な り ま し た が、 現 在 は、
特 異 な 洞 窟 住 居 の 価 値 が 認 め ら れ、 世 界 遺 産 に も 登 録 さ
れ、 保 存、 修 復 作 業 も 進 み、 一 部 住 居 と し て 生 活 し て 居
る人も多くなっているそうです。
サッシの居間
▼
バ ー リ の 町 に 戻 り、 旧 市 街 散 策、 サ ン・ ニ コ ラ 教 会、
一一〇五年に完成した教会。
昼食は、ピッツア・マルガリータとカプリチュウサ(気
まぐれと言う意味)と半分ずつ。
ナポリでは、車窓から旧市街、港・たまご城下車、新城・
王宮・オペラ座下車見学。
(ブリオッシュの様なケーキにラ
デ ザ ー ト は、 BABA
ム酒味のシロップを浸み込ませたケーキ)。
本場のピッツアは、やはり大変美味でした。
バ ー リ の 守 護 聖 人 サ ン・ ニ コ ラ( サ ン タ ク ロ ー ス ) の
御遺骨が聖遺物として安置されています。
訪 れ た 時 は、 夕 方 で し た の で、 人 も 少 な く 荘 厳 な 雰 囲
気でした。
夕 食 は、 現 地 ガ イ ド と し て バ レ ル モ か ら ず っ と 付 き 添
い、 豊 富 な 知 識 と、 旅 行 者 に 対 し て 頑 固 と も 思 え る 献 身
た。
イ タ リ ア で は、 お 食 事 の 後 コ ー ヒ ー が オ ー ダ ー で き る
ので幸せでし
で、 こ の 日 の 自 由 時 間 を 利 用 し て、 感 謝 を こ め て 夕 食 会
的なサポートをしてくれた彼ともソレントでお別れなの
を 開 き ま し た。 又、 添 乗 員 の 方 も、 成 田 か ら 付 き 添 い、
コ・ デ ィ・ パ オ
食 後、 サ ン・
フランチェス
幅 広 い 知 識 と 仕 事 と は い え、 現 地 で 色 々 大 変 な 事 と 察 し
ら れ、 又 暑 い 日 々 の 日 程 で、 何 か と 気 遣 い、 楽 し い 旅 行
に す べ く、 献 身 的 に 動 い て 頂 い た 事 に 感 謝 の 乾 杯 を し ま
した。野外テラスで、スマートな楽しい夕食でした。
お 料 理 は、 ア ド リ ア 海 に 面 し た バ ー リ の こ と ゆ え 海 鮮
料理でした。
あ の イ タ リ ア 料 理 の お 店 に、 も う 一 度 訪 ね た い と 思 う
ほど、ワインもお料理も最高でした。
八日目 ソレントへ 三泊
高 速 道 路 を ナ ポ リ へ。 ア ド リ ア 海 に 面 す る ブ ー リ ア 州
バーリからティレニア海に面するカンパニア州ナポリへ。
南イタリア本島を横断したことになります。
ポンペイの遺跡へ
かの有名なベスビオス火山の噴火により、西暦七九年、
一 瞬 に し て、 そ の 灰 と 泥 土 に 埋 没 し た 日 そ の ま ま に 甦 り
ました。
あ ま り に も 広 く、 一 日 で も 廻 り き れ な い 広 さ で す。 主
な所を見学しました。
先ず、眼前に開けるベスビオス火山を背景に、公共広場、
二層式の円柱が残っています。
個 人 の 家 も、 贅 を 尽 く し た 大 豪 邸 を 思 わ せ る、 大 広 間
や中庭・庭園があり、噴水もありました。
数 多 く あ る 部 屋 の 壁 に は、 様 々 な 題 材、 技 法 を 駆 使 し
た壁画が残されています。
モ ザ イ ク・ フ レ ス コ 画 の 世 界 と い っ た と こ ろ で し ょ う
か。多くは、ナポリの考古学博物館に収められています。
半日の見学では、残念ながら堪能することはできません。
こ の 日 も 木 陰 の な い 遺 跡 に は、 容 赦 な く 太 陽 が 照 り つ
け、暑い日でした。
噴 火 に よ っ て 一 瞬 に し て 埋 も れ は し た も の の、 発 掘 に
よ り、 甦 り、 彼 ら の 生 活 が い か に 大 ら か で、 精 神 的・ 物
質 的 に も 大 変 豊 か で、 芸 術 を 愛 し、 自 然 を 愛 し て 生 活 し
て い た 事 を 知 る こ と が 出 来、 あ の 時 代 に、 高 度 な 文 化 が
あ っ た こ と も 大 変 興 味 深 く、 一 つ 一 つ の 邸 宅 の 壁 や 床 に
残 さ れ て い る モ ザ イ ク・ フ レ ス コ 画 を 見 る こ と は 出 来 ま
ラ 聖 堂 見 学、 少
時海辺を散策。
海にはムール
貝の養殖をして
いる筏が見られ
ま し た。 海 の 水
も 透 明 度 よ く、
綺麗でした。
せんでしたが、心豊かになり、暑さを忘れるほどでした。
公共広場・市庁舎の柱(左)
70
71
サン・フランチェスコ・パオラ聖堂の前
プレビシート広場
玄関前の犬(モザイク)
九日目
ありました。
念 に し ま し た。 や は り、 ビ ン の 底 を 切 っ て、 船 が 入 れ て
ま し た。 ち ょ っ と 安 い な と 思 い ま し た が、 ソ レ ン ト の 記
し ま し た。 厚 手 の 日 本 の 和 紙 と 同 じ で、 レ タ ー セ ッ ト に
カプリ島観光
波 が 高 く、 悪 天 候 の 時 は、 ナ ポ リ の 考 古 学 博 物 館 へ 行
く予定でした。残念、波も静か晴天でした。
い る の が 特 徴 で す。 封
な っ て い ま し た。 封 筒 の 封 の は し が 漉 い た ま ま に な っ て
洞窟の水中の色は澄んで青く、美しく、夢の様でした。
太 陽 の 位 置 に よ り 午 前 中 が 最 も 美 し く 見 え る そ う で、 こ
筒のためだけに漉くの
だそうです。
十日目
ソレントの港のお土産屋さんで、レモンを使ったリキュ
ウル、リモンチェッロを試飲、甘く強いお酒でした。
観 光 最 後 の 日、 世 界
一風光明媚と言われ
登録されました。
アマルフィ海岸観光
ソ レ ン ト 市 街、 タ ッ ソ 広 場 散 策、 お 土 産 屋 さ ん を 見 て
回 り、 ボ ト ル シ ッ プ を 探 し
て い る、 ア マ ル フ ィ 海
ました。がっかり。
ました。探し当てたお店は、
岸 の 中 で、 ア マ ル フ ィ
ア マ ル フ ィ 海 岸 は、
一九九七年世界遺産に
小 さ く 暗 く、 お 婆 さ ん が 店
た。
ターノを先ず訪れまし
と人気を二分するポジ
ケーブルカーで港へ。
カ プ リ 島 散 策、 自 由 時 間 に、 以 前 訪 れ た ボ ト ル シ ッ プ
を 買 い 求 め た お 店 を 探 し ま し た が、 違 う お 店 に な っ て い
の時間を設定されたのだと思います。
ソレント港からマリーナグラナデ港へ。約二〇分。
大噴火で逃げ遅れたポンペイ市民
(復元)
も う 一 つ 欲 し い も の が あ り ま し た。 ソ レ ン ト の 近 郊 に
日 本 の 和 紙 に 似 た 紙 が あ る の で、 是 非 に と そ の 紙 を と 探
道路は舗装され、轍のあとが見られる 共同水道・水飲み場がある 渡りやすく飛び石がある
小舟に乗って「青の洞窟」へ。
リモンチェッロ
番 を し て い ま し た。 み せ て
もらったところ、
「もうこれ
一 つ 」 と い わ れ、 集 合 時 間
もあったので買うことにし
72
73
ポンペイの赤といわれている 独特の赤です
(あまり鮮明ではありませんが)
展 望 台 か ら は、 変 化 に 富 ん だ 絶 景 が 何 か 所 も 見 る こ と
が出来ました。
約 四 十 キ ロ も あ る 入 り く ん で、 切 り 立 っ た 断 崖 の 僅 か
な 平 地 に、 レ モ ン、 オ リ ー ブ の 木 が 植 え ら れ、 家 の 屋 根
とも言われている伝説があるくらい美しい景観です。
神 話 の 英 雄 ヘ ラ ク レ ス は、 愛 す る 妖 精 の 為 に 街 を 拓 い た
ポ ジ タ ー ノ の 歴 史 は 古 く、 九 ~ 十 一 世 紀 に 懸 け て、 商
業 で 繁 栄 し、 十 六 世 紀 に は、 貿 易 で 裕 福 に な り ま し た。
が 木 々 の 葉 の 陰 か ら か い ま 見 え、 絵 葉 書 の よ う な 景 色 で
天 国 の 回 廊 は、 上 流 階 級 市 民 の 墓 地 と し て 十 三 世 紀 に
いでしたらお許しを)。
大 聖 堂 の ハ サ ー ド は、 黄 金 に 輝 く キ リ ス ト 像 が モ ザ イ
ク 画 で 飾 り つ け ら れ て い た と 記 憶 し て い ま す( 記 憶 ち が
大聖堂と天国の回廊見学。
す。
現在、イタリアで屈指のリゾート地になっています。
白 い 家 並 み、 細 い 路 地 の 両 側 の お 店 を 見 な が ら の 散 策
は、お買いものをしなくても楽しいひと時でした。
アマルフィに向かう途中、「エメラルドの洞窟」がある
との情報が入り、見物する事になりました。
道 路 か ら エ レ ベ ー タ ー で 二 階 ほ ど 降 り て、 手 漕 ぎ の 小
舟 に 乗 り エ メ ラ ル ド グ リ ー ン の 海 へ。 洞 窟 の 中 は、 白 い
鍾 乳 石 の 柱 が あ り、 水 は 青 く 澄 ん で、 水 中 に マ リ ア 様 の
像が安置されていました。
ちょっと楽しいひと時でした。
アマルフィへ
アマルフィは、ナ
ポリの南五十キロの
所にあり、此処もま
た、世界で一番美し
いとされている海岸
があります。
その昔、ギリシャ
建 築 さ れ た も の で、 中 庭 に は、 植 物 が 植 え ら れ、 静 寂 な
雰囲気の所でした。
アマルフィ海岸の観光は、旅の最後の日にふさわしく、
快 晴 で、 空 も 海 も あ く ま で も 青 く、 街 並 み も 美 し く、 五
右衛門ならずとも「絶景
かな・絶景かな」と言い
た く な っ て し ま い ま す。
散策も楽しいものでし
数 で し た し、 ほ ぼ 同 世 代 で、
とが楽しみの一つです。小人
方々と親しくお話が出来るこ
ツアー参加は、職業も異な
り、 多 く の 経 験 を 積 ま れ た
文通をしています。
今 回 の 旅 は、 一 人 旅 を 満 喫 す る こ と は あ り ま せ ん で し
た が、 職 業 の 異 な る 女 性 二 人 と 仲 よ く な り、 今 で も 時 々
終わりに
へと夜明けが始まり大変幻想的でした。
な 闇 の 世 界 か ら、 一 筋 青 く 明 る く な り、 徐 々 に 黄 色、 赤
ドゥオーモ 左が天国の回廊 価値観も変わらず、本当にた
のしい旅行でした。
これには、添乗員の方の献
身的サポートのお陰もあった
かと思います。
何より、自由時間の過ごし
方 に 悩 ま な く て す み ま し た。
何時も、自由時間の企画を考
え、連れて行って頂きました。レストランも素晴らしかっ
たし。心から感謝です。
74
天国の回廊
75
た。
景色に見とれていたら
断崖から落ちそうな狭
く、曲がりくねった道で
したが、地元の運転手さ
んは、クラクションを鳴
らしながら結構なスピー
ドで走り抜け、スリリン
グなドライブを楽しむこ
とも出来ました。
夕 食 は、 ホ テ ル で 一 つ の テ ー ブ ル を 囲 み、 最 後 の 晩 餐
を楽しみました。
明日は成田です。
飛 行 機 で、 夜 明 け を 眺 め る こ と が で き ま し た。 真 っ 暗
アマルフィで
エメラルドの洞窟
こ れ か ら 南 イ タ リ ア へ 行 か れ る 方 の、 少 し で も ご 参 考 に
なれば幸いです。
お断り
写 真 ま っ た く だ め 人 間、 例 に よ っ て、 文 中 の 写 真 は、
一部参考資料から拝借しました。ご了承ください。
寺田 公明
充 電 器 は 持 っ て 行 き ま し た が、 プ ラ グ が 必 要 と は 知 り
ま せ ん で し た。 ち な み に、 イ タ リ ア は C 2 で し た。 ご 参
考までに。
俳句
五色沼
信州松代
訂正をお願いします。
孟宗・第四四号・頁七八上段三行目
ロエベ本店→ロエベバルセロナ店
(大本営地下壕の跡)
荒削りの岩肌ひゆる闇の壕
て
秋深め素堀りの壕のがらば行く
壕深み岩屑を掌に秋の暮れ
テ
グ
冷まじや大邱という文字岩肌に
すさ
ずり運びしトロッコの跡冷やかに
(詩歌の館)
えん
刺されしままの削岩ロッド冷ややかに
うた
異邦人むくの実拾う壕の蔭
草もみじ明るき館詩の宴
新走り千曲のはやの甘露煮よ
拉致人のずり運ぶ山霧深し
雲の秋異国の人の影細く
朝の卓秋の葉一枚置かれいて
壕口にたたずむや秋しぐれ
おやき食ぶ詩歌の館秋高し
醤油豆散らし長いも朝の膳
草の実の光る小瓶や夕餉とる
松代焼き青のさやけき小どんぶり
信州の走り蕎麦かな今年酒
草の穂を手に口ずさむ人のあり
列を組み光りを放つえのこ草
葛の葉のひろごる川辺さぎ渡る
(千曲川・松代の町)
秋茄子添え杏おこわの珍しや
詩人集う新酒おでんに舌鼓
千曲川遠みに霧らう白馬かな
ち くま
詩朗読もみじの樹下に集い来て
博光の「千曲川」歌えば秋うらら
76
77
武家屋敷秋日を散らす水走り
山里の杏林の爽やかに
つるうめもどき覗く路肩や日の熟れて
松代や長いも畑黄を点じ
うすら日や山路に残るぐみの朱
暮れの秋めぐる湖沼や雨はらはら
しらかんば梢ひらひら黄葉して
雨あとの紅葉を誘う五色沼
猪苗代湖秋残照の雲湧きて
あんずばやし
須磨子の家水澄む里の日に濡れて
枯葉舞う落葉松林足ゆるめ
毘沙門の沼は紅葉に燃えさかり
べに溶かし漆もみじの沼明り
しらかんば透かし紅葉の燃えさかり
あけ
秋出水土蔵に痕の残されて
磐梯・裏磐梯湖群
もみじ溶かし湖にほつほつ狐雨
ひとときを水澄む里の沼めぐり
桜もみじ積み石残す城の跡
磐梯や風に埋もるる草もみじ
浮草の葭に添い寝や紅葉して
桧原湖や紅葉をわたる小鳥たち
雑木もみじ笹の緑を深めいて
日の斑散らす沼に紅葉の根なし草
城跡のもみじ影寄す鐘撞堂
磐梯路ななかまど目に痛きまで
水草の紅葉を走る通り雨
妖精か沼に紅葉の枝かざし
雨あと日射しを返すななかまど
ひつじ田のひろごり湖に櫂の音
湖遠み樹幹に光る蔦もみじ
噴火跡の磐梯富士や雲の秋
もみじ深し湖に釣り宿二三軒
え
会津富士わたる日照雨や野路の秋
崖切り立ち夕闇せまる暮れの秋
ば
遊覧船憩う湖畔の秋日射し
秋日残す裏磐梯の峯荒ら荒ら
そ
野路くれば洋館の森秋蘭けて
少年になり割れば木の実の匂い立つ
いく代経たる桜大樹のもみじかな
砂浜の二月の漁船日を寄せて
早春の磯の駅舎や人まばら
列島の闇へ声立つ鬼やらい
寒明けや釣り糸光る午下の池
川面光る土手を子連れの春立つ日
春立つとショパンの曲に耳寄せて
バーゲンに賑わう声や日脚のぶ
避難あと瓦礫のままに雪狂う
大寒や娘らとしるこの湯気囲み
「収束宣言」二の句失う寒さ哉
沖縄に月虹わたる七日かな
三輪車
黒き土むき出しままに野火走る
春日遅々水面に小石走らせて
春日遅々大樹の根がた寝ころびて
石燈籠風呼ぶ苑の花楓
鍬光る休耕田や春一番
学校うら猫が飛び出す春嵐
「ただいま」とどこかで声の夕おぼろ
えびね蘭ささやく声の日に濡れて
畑みちを赤い傘の子花菜雨
犬走り拾う小石や風光る
濠端や三椏の花日を寄せて
姉さんかぶりの川瀬に洗う三つ葉芹
休耕田
秋晴れや高原風車めぐりたり
戸を開ける音の春めく二三軒
一陣の風呼ぶ野火の音たてて
ま
空真青朝の挨拶春めきて
こ
金・木の星のはざまや春の月
い
白壁に竹の寒干し風に鳴り
おぼろ月金・木星にいだかれて
し
生駒山背に竹の寒干し夕映えて
災害地拾う石くれ彼岸西風
ひ がん に
啓蟄や干されし布団猫眠る
迎春花小机飾るランドセル
占いのトランプ吉と春炬燵
春の雲浅瀬に小魚にぎわえり
磯近き駅舎に待つや風光り
三輪車走らす土手の遠霞み
78
79
雨あがり山路は連嶢日の熟れて
花曇り石工の鑿の音冴えて
草野球
植木市値切りに負けて苦笑い
海のぞむ丘はダンスの五月晴れ
ママさんバレー声立つ丘の風五月
砂時計
のみ
街なかにほどく花荷や風光る
光り撒き海月手をふる怪しげに
いしく
岐れ路に梅のひとひら道祖神
足からませ踊る海月の群れなして
え
さつき
残月のかかる土蔵や野梅咲く
花山椒沼地をわたる通り雨
ば
くらげ
駄菓子屋にころがる風船はぐれ雲
葉桜や挨拶交わす疎水みち
え
草野球はずむ高声山笑う
ま
青山椒日暮れの雨の独り酒
こ
石段にかぞえる独楽絵花の昼
余花の風吹きあぐ峪や貴船口
や
女主人和紙売る店の春灯
錦木の箭羽枝の先や花ほつほつ
はざい
紙風船ころぶ幼なの泣き笑い
城うらに日ぐれ雨呼ぶ著莪の花
詩仙堂日ぐれ葉騒の大でまり
立ち話花海棠が笑ってる
鈴蘭の匂う小鉢の土こぼれ
しにせ
子ら遊ぶ空き地に残る雪柳
卯の花のこぼれて山の昼深し
「おいでやす」和菓子の老舗春灯し
夕明かり花のひとひら掌にうけて
数えつつ拾う幼なの花どうだん
あゆそじょう
夕ぐれて洗うパレット木瓜の花
鮎遡上岩にしぶきの光り充ち
ジャスミンに誘われ洋館窓ひらく
か
わた
茉莉花の風呼ぶ垣の坂小道
残り花のタンポポの絮吹かれいて
紫つゆくさ眠りを誘うはぐれ雲
夕立あとあじさい色の雲流れ
草矢放つ子らの砂山日が匂う
砂時計繰り返す子や端午の日
砂日傘パンダ模様に子らはしゃぐ
はだしの子はしゃぐ日暮れのにわたずみ
子ら唄う「月の砂漠」や夏の宵
素足まま砂遊びせむ除染あと
夏帽子
雲の峯クレーンの光るビル工区
渓添いの奥夏座敷湯葉すくう
トラック過ぐ里の大暑の砂ぼこり
バンデージしめてリフター汗光る
回転寿司笑いながらに皿重ね
紺浴衣笑う花屋の夕明り
尾光らせ蜥蜴が走る閉鎖村
炎昼を配る挨拶郵便夫
天道虫
ラベンダーかかえ少女のおさげ髪
街の露地曲がれば花柚匂いきて
若妻の杖に鈴つけ山開き
ゆ だち
峡の杜日の斑をよぎる黒揚羽
四方眺め天道虫の風に翔つ
ふ
人ほがら雨後の原宿夏めきて
猫眠る垣に這い寄る灸花
やいとば な
た
少女像のぞく薔薇門日が匂う
雨あとの葉かげにのぞく花胡瓜
も
島は基地にえの血えごの花染めて
大雪山風呼ぶ峡のちんぐるま
さ
サイクリング秋立つ日ぐれ葉騒して
山上湖
よ
湯あがりや砂嘴に入日の夏館
昼寝覚め父は天下の大あくび
し
夏帽子買わずあれこれ品定め
文字摺草隣りの子らは伸び盛り
ブランコ漕ぎ振り向く園児ねむの花
山里や駅舎に残る花菖蒲
花時計丘に葉ずれの秋立ちて
はざい
隠り沼山ちさ散らし夕ぐるる
顔あたる床屋の飾り秋めきて
書を閉じてちぎれ雲追うねぶの花
紫陽花や入り日に湖のさざなみて
雀二羽樹かげを拾う残暑かな
80
81
秋暑かな居眠る猿の尻みせて
往診の父待つ母と十三夜
母と渡りし木橋のあるや十三夜
青北風やサッカーボールに声弾み
お焼き食ぶ水澄む里の道の駅
山上湖残月いだく雲の秋
草の穂にあたり山径いく曲がり
夕映えて川瀬をわたる黄鶺鴒
日のあたる川洲に羽音むくの群れ
満月を兎と遊ぶ夢の中
サイレンが走る街なか秋暑し
原発集会列島どこも天高し
山葡萄吸えば遠い日父のかげ
虫しぐれ戸を閉めかねつ独り酒
うすばかげろう沼地の翳に肩よせて
朗々とそらんじて居り秋刀魚の詩
初ものの秋刀魚焼きあぐ留守居して
残り蚊を叩くうたたね酔いのあと
衣被すべらす箸のとまどへり
母が残せし摺り鉢かこみとろろ飯
えのこ草光りを散らす狐雨
赤煉瓦窓辺に蔦の伸びしまま
山門に灯のつくころや蘇枋の実
山小屋に風の息聞く秋深し
道祖神
放射能禍人なき里の鳥兜
人なき村仔犬さまよう秋暑し
金曜日デモ子は肩車秋あつし
おこられて少年の闇みみず鳴く
野葡萄の色のとりどり峡のみち
き ぬかつぎ
少女らの笑い声過ぐ花芙蓉
野路曲がり草の実拾う道祖神
た
横目つかう連刺の鰯そぞろ寒
草むらに拾うむくろじ沼光る
き
安曇野の水澄む里や鍬光る
桜もみじ日の斑を散らす朝かな
あした
リュック置く風呼ぶ丘の花むくげ
日照雨わたる湖畔の家や竹の春
再稼働
鍋の鮟鱇なにを語るや酒の席
赤提灯唄の流れておでん酒
木枯らしやドラム高鳴る金曜日
小春日溜め遊覧船の湖わたる
宴終りプラットホームに北の吹く
冬川に残るクレーン車雨ほつほつ
待合室マスクの人の目はうつろ
置き忘れし有りの実ひとつ初しぐれ
冬望月逝きにし母の在りどころ
脱原発にわかに吹かす師走風
肩組みて歓喜の歌を師走ぞら
アメ横に売り子声立つ師走かな
投票所師走を急ぐ市民たち
ひでり
小選挙区制民意捨てられ冬ざるる
民意なき小選挙区や冬 旱
ふか
政界の闇に戻りし冬館
なに狙い鱶の目光る闇の海
「再稼働」暴言走る年の暮れ
再稼働のうごめく議事堂夕凍てて
原発ノー寒夜波立つ群れの声
「美しき国」の虚構をはがせもがり笛
82
83
詩
生きていることが
フクシマでまた男がいのちを絶った
まだ五十代の半ば
仮設住宅で一人住まいをしていた
妻と息子を失い
職探しを続けていたが
あてがないままに
瓦礫をかたづける仕事に出かけていたという
大震災から一年半
勤めていた加工食品会社のビルは
巨大津波に呑み込まれ 壊れたまま
夏草がぼうぼうと茂り
コンクリートと鉄骨の空洞をさらしている
津波で亡くなった人は一万五千を超え
水産特区
海底はどこも瓦礫で溢れかえり
寺田公明
行方不明者は依然二千八百人以上
すさまじい災害であった
それにしても
折角救われた命でありながら
自らいのちを絶つ人がやまない
判っているだけでも
すでに七十人を越えているという
原発からの放射能汚染 長引く避難生活
味気ないだけでなく 問題を抱えた仮設住宅
働く場所がない 営業の再開がうまく進まない
さらには除染・賠償などへの折衝
多くの困難な課題が
被災者の心身を掻き乱している
孤独はこれに一層拍車をかける
挙げ句は絶望死だ
死者は まだ五十代半ば
仮設住宅で一人住まいをしていた
生きていることが
どれほど苦渋に充ちていたことか
財界は以前から列島の沿岸を欲しがっている
政府も後押しの漁業権の特区構想に飛びつく
瓦礫を取り上げるたびに砂塵が舞い
漁業灌を巧みに握り 土地を獲りあげる
寺田公明
土色でよごれた海水があたりを暗くした
漁民に頭を下げずに原発をつくり 動かす
基地や空港をつくり 海にその拡張もしていく
災害に便乗 東北の一部を手に入れんと…
米国のジャパン・ハンドラーも暗躍し始めて…
津波で漁船は残らず砕かれ
新たなエネルギーの利権を狙い 不動産屋も…
水産特区とは財界が海をのっとることに尽きる
足の踏み場もない
ワカメや牡蠣を養殖する器具のどれもが
漁師は結束した
瓦礫を取り除く以外なにも出来なかった
壊れた漁船がまだ散乱している浜に 集結する
残された大漁旗をかざす 赤銅色の肌が光る
流され 打ち上げられ 海底に沈んだ
漁師たちは海にもぐり
漁船と養殖の器具の公費負担を要請
漁具・船など 生活づくりの闘いが
「特区」を葬る闘いが いち早く始まった
激甚災害法に基づいたものだが
どういうわけか県の態度は冷たく曖昧だ
「災害で打撃をうけた沿岸漁業を再生したい」
「民間企業の力を借りようではないか」
知事は「水産特区」に力を入れ 弁舌をふるう
84
85
再稼働
寺田公明
原発のある町では 二年近く経っても
なお九0ミリもあり 全くの危険地帯
町民は未だ誰一人帰宅できないでいます
三0キロ離れても七ミリ 全村民避難した地域があり
関東一帯にはホットスポットが散在 危ない
大飯原発の再稼働に踏み切ったあなたさまよ
放射線をばらまく 原発はいらない
だから 原発はやめて と云っているのです
活断層が走っている 再稼働は危ない
だから 再稼働はやめて と云っているのです
一旦事故を起こしたら どんなことになるか
チェルノブイリが フクシマが 再現されたら
若狭地域は 琵琶湖は 京都は 大阪は
関西一帯はどうなってしまうか
チェルノブイリの原発は「レベル7」
再稼働をやめて
原発をやめて
一考されましたか
どれほど悲惨な放射能障害をもたらしたか
国民の声を無視するのをやめて
あの大事故はまだ収束していないということも
フクシマ原発も深刻な事故を起こし
同じ最悪事態になっていることも
「年間被曝量を一ミリシーベルト以下にする」
こう国の法律はその限度量を決めています
東電が電気料金の大幅な値上げを通告してきた
原発事故後一年目である
かかった経費はどれも電気料金にしてしまう
総括原価方式という手前勝手のもので
以前から電気料金を決める仕組みがあった
住民より先に東電を救済するのがこの機構の狙いか
巨額な公的資金を東電に手渡している
普通の 人間の暮らしがしたいのです
どうか お願いです
そして二十六年経った今も
あなたはよくご存じでしょう
だから 国民の声を無視するのはやめて
くりかえし 心の底からお願いしているのです
あなたには この声がとどきませんか
人間の耳を傾ければ 直ぐにも分るはずです
寺田公明
値上げ額が 年間一千万円にもなる業者
従業員に給料を減額して支払うしかないという
なんとも都合のよい方式だ
料金
中小企業の町では誰もが苛立ち 怒りを隠さない
どんなに高くとも 買わないわけには行かない
東電は事実上破綻しているはずだが
国民の負担で 国民に借りた金を返す
東電と政府のこの合作 実に見事だ
巨額な広告代や寄付金など所謂原発マネーでも
値段は少なくとも需要と供給の関係で決まる筈だが
そこで 東電が被災者に支払う一切の費用を
総括原価方式で 前もって電気料金に上乗せする
電気の値段だけはそうはいかない
原発停止で 火力発電所の燃料費がかさむというが
その独占企業の料金の決め方まで
広範な地域に一つしかない独占企業の会社だ
いや そんな薄っぺらな理由ではあるまい
親切此の上もない
災害を蒙った国民など どこ吹く風
なんとも あきれ返った話だ
国が手取り足とり
東電が これから被災者に支払わねばならない
事故の賠償、除染、廃炉にかかる膨大な費用が
むしろ電気料金値上げの中核なのではないか
事故後早くも四ヶ月目 政府は
原子力損害賠償支援機構なるものをつくり
86
87
弁ではなく
弁に見えるで
弁のものが出来上がり
で す。 今 は 時 々 大 き な 紙
㎝~
㎝を使って折り花弁を
40
その内新しい作品も出来るでしょう。頑張るぞ。
頃です。
カールさせて完成品を眺めてニヤニヤしている今日この
25
折り紙
花の器より花弁を増やす。
遠藤 和邦
新しい創作折り紙作品が出来なくなって1年以上にな
り ま し た。 何 回 も 同 じ よ う な こ と を 述 べ て い ま す が、 こ
のような時期には旧い作品を繰り返し折って日々を過ご
し て 居 ま す。 そ う し て い る 内 に 新 し い 工 夫 が 生 ま れ て 来
る か ら で す。 そ の よ う な 時、 矢 張 り 自 分 で 気 に 入 っ て い
る 作 品 を よ く 折 り ま す。 花 の 器 も よ く 折 り ま す。 平 成
弁のものを作ってみることにして折り始めて
り 返 し が 大 き く な り、 折 り も す っ き り し て 角 度 も 付 き 一
し を 変 え て 少 し 余 分 に 折 り 返 し て 見 ま し た。 そ の 為 に 折
み ま し た。 座 布 団 折 り 部 分 を 折 り 返 し て み た 時 に 折 り 返
を加えて
年に花の器の変化から折る八重のバラの器に座布団折り
24
枚 の 折 り 返 し で 花 弁 が 2 つ に な る よ う に 折 れ ま し た。 で
す か ら 完 成 し た 時、 花 弁 が
16
同 一 の 折 り 方 か ら、 そ れ ぞ れ
形 の 良 い 一 重、 八 重、 そ れ か ら
16
は あ り ま せ ん か。 や っ た
12
!!
88
89
12
91
90
随 想
『ハードカバーコレクションと
マイ書評
』
2012
久保田 毅
ランチの順番待ちの列の
貧 乏 学 生 の 頃、 本 屋 で か っ こ い い ハ ー ド カ バ ー の 書 籍
を 横 目 に、 安 い 文 庫 本 を 購 入 し、 読 み 始 め る と 止 ま ら な
いものですから、学生食堂で
中 で も 読 み あ さ り ま し た。 学 生 か ら 研 修 医、 医 局 員 と し
コ レ ク シ ョ ン 紹 介 と い う 主 旨 で、 2 0 1 2 年 の 1 年 間
に 出 会 っ た 書 籍 の 中 か ら 数 冊 ご 紹 介 致 し ま す。 余 程 暇 で
な い と、 読 む 気 が し な い か も し れ ま せ ん が、 し ば ら く お
付き合い下さい。
結 局、 ま た 歴 史 物 に な っ て し ま い ま し た。 奴 隷 解 放 の
福音主義を掲げて、版図を拡大する大英帝国のお話です。
)
2008.9.10
『 ヘ ブ ン ズ コ マ ン ド 大 英 帝 国 の 興 隆( 上 )』
ジャン・モリス著
れ て い っ た あ の 子 達 が 不 憫 で な り ま せ ん。 医 師 に な っ て
イ ン ド、 南 ア フ リ カ、 カ ナ ダ、 オ ー ス ト ラ リ ア な ど 帝 国
(講談社 初版:
数 年 た っ て か ら は、 あ ま り 懐 具 合 を 気 に す る こ と な く、
各地の戦乱と開拓の歴史、特にヴィクトリア女王即位から
て の 転 勤、 引 っ 越 し 生 活 の 中 で、 資 源 ゴ ミ と し て 廃 棄 さ
好きなハードカバー書籍を購入できるようになりました。
在位
周年を祝う1897年までの苦難と繁栄の歩みが
ま た、 昔 文 庫 本 で 読 ん だ 書 籍 も オ ン ラ イ ン 中 古 書 店 な ど
イ書評』を書き貯めるようになっていました。
ました。そして、いつの頃からか、読み終えた後に、『マ
バ ー 書 籍 の 収 集 が、 私 の さ さ や か な コ レ ク シ ョ ン と な り
な っ た 事 も う れ し い 限 り で す。 そ ん な わ け で、 ハ ー ド カ
で ハ ー ド カ バ ー 版 を 検 索、 購 入 で き る と い う 情 報 社 会 に
外移住、商業活動、英国陸軍の軍事行動が切れ目なく続き、
建 設 者 の 一 群 を 送 り 出 し、 英 国 の 海 外 投 資、 英 国 人 の 海
支 配 す る よ う に な り ま す。 大 英 帝 国 は 次 々 と 新 た な 帝 国
命 ) と 責 務 に 異 常 な ま で に と ら わ れ つ つ、 広 大 な 領 地 を
描かれています。この間、大英帝国はヘブンズコマンド(天
60
92
93
A
ヴ ィ ク ト リ ア 女 王 の 在 位 中 に、 世 界 人 口 の
、世界の陸
を 統 べ る こ と に な り ま し た。 そ の 歩 み は 壮 絶 で、
クは探索されて尽くされ、ビルマ、ニューギニア、ニュー
に 関 す る 大 英 帝 国 の 係 り 方 の 記 述 な ど、 い わ ゆ る 歴 史 秘
例えば人口が急増したアイルランドの飢饉の歴史やそれ
く描かれています。
以 降 に 獲 得 さ れ た の で す。 本 分 中 に、 英 国 民 の 心 情 が よ
ジ ー ラ ン ド、 香 港 は 全 て、 ヴ ィ ク ト リ ア 女 王 が 即 位 し て
話が満載です。大英帝国は、いい事もしたのでしょうけど、
英国国民には、帝国の正しさを疑う物は少なく、
———
自 分 達 が 悪 意 の あ る 国 民 で は な い 事 を 知 っ て い た し、 帝
地の
かなりきつい事をやってきた事がよくわかります。
も、 文 明 教 化 の 使 命 は 心 か ら 信 じ て い た。 英 国 支 配 が、
————
国拡大の影で姿を消していった敗者の物語が描かれてい
数 々 の 国 民 的 神 話 を 生 み ま し た。 そ の 歴 史 の 真 実 と、 帝
力 で、 全 世 界 を 海 側 か ら 制 覇 し て い っ た の で す。 島 か ら
帝 国 と 違 っ て、 北 方 の 小 さ な 島 国 は 強 力 な 海 運 力 と 技 術
史上最大の帝国は、如何にして世界を支配したか。ロー
マ 帝 国 と 比 較 す る お 話 が 多 い の で す が、 陸 続 き の ロ ー マ
)
2006.10.24
ま す。 そ し て つ い に、 英 国 は 世 界 の 中 で 空 い て い る 場
島 へ 海 底 ケ ー ブ ル を 設 置 し 続 け た と い う の で す か ら、 当
(講談社 初版:
『パックスブリタニカ大英帝国最盛期の群像
(上)』ジャン・モリス著
を持たず、自分達の善意に信を置いていた。
異教徒や未開の人々にとっては特に最善である事に疑い
国の偽善や欺瞞や残酷さに鈍感であったのは事実として
作者のジャン モ. リスは、1926英国生まれ、英米圏
では第一級の歴史紀行作家として有名です。
『ヘブンズコマンド大英帝国の興隆(下)』
)
2008.9.10
ジャン・モリス著
(講談社 初版:
スエズ運河株を電撃的に買収して世界の制海権を掌握
し た 英 国 は、 富 の 力 を 誇 示 し た 大 英 断 だ け で は な く、 ナ
所 は あ ら か た 入 植 者 で 埋 め 尽 く し、 大 英 帝 国 の 人 口 は
時 の イ ギ リ ス 人 は、 よ く や り ま し た ね。 本 書 で は、 大 英
イ ル 川 の 源 流 探 検 や ア フ リ カ 先 住 民 と の 戦 い を 通 し て、
倍 と な り ま し た。 カ ナ ダ の
年間で
帝 国 全 盛 期 を 祝 う お 祭 り 騒 ぎ に 仕 立 て 上 げ ら れ た、 ヴ ィ
1837年からの
無人の荒野は耕地に変わり、オーストラリアのアウトバッ
日 を 中 心 に 据 え て 描 か れ て い ま す。 後 世 か ら み れ
ざ し て い た た め、 統 治 の 道 具 と し て は う っ て つ け だ っ た
ら の 生 活 様 式 は、 何 世 紀 に も わ た る 一 貫 し た 国 民 性 に 根
クトリア女王即位
6月
年間くらいが大英帝国の
地 に 英 国 流 の 文 化 が 押 し 着 せ ら れ て い っ た わ け で す が、
国 の 美 徳 が 全 体 的 に み て 優 勢 で あ っ た 時 代 で す。 世 界 各
全 盛 期 と 考 え ら れ て お り、 こ の 時 代 に お い て は、 大 英 帝
さ れ て い る よ う に 見 え る 制 度 で あ っ て も、 英 国 人 を 中 心
そ の 統 治 の 課 程 で、 一 見 フ ェ ア プ レ ー で 機 会 均 等 に 用 意
統治するべく運命づけられた特別な人間に見せたのです。
よ う で す。 何 が あ っ て も 崩 れ な い 生 活 様 式 が、 英 国 人 を
ば、 こ の 記 念 祭 に 至 る ま で の
読 み 進 め て い く と、 帝 国 に と っ て 一 番 大 切 な イ ン ド へ 至
『帝国の落日パックスブリタニカ完結編(上)』
ジャン・モリス著
している「ダブルスタンダード」という支配方法です。
き ち ん と 区 別 さ れ て い き ま し た。 そ う で す、 現 在 も 継 続
とする欧米白色人種とそれ以外の人種とではその運用は
)
2006.10.24
や り 方 と い う や つ で す。 生 粋 の 英 国 人 な ら 人 前 で み せ な
い わ ゆ る、 何 の 根 拠 も な い け ど、 ひ た す ら 英 国 人 ら し い
盛 大 な 祝 典 か ら 3 年 半 後 の 1 9 0 1 年 1 月 に、 女 王 は 崩
の 衰 退 が 始 ま り ま し た。 ヴ ィ ク ト リ ア 女 王 即 位
本 編 で は、 大 英 帝 国 の 1 8 9 7 1 9 3 9 年 の 歩 み が
描 か れ て い ま す。 ロ ー マ を 凌 ぐ 繁 栄 の 頂 点 か ら 大 英 帝 国
)
2010.9.6
い 感 情 が あ り、 毎 朝『 タ イ ム ス 』 紙 を 読 み、 な じ み の 仲
御 し、 帝 国 の 美 徳 は 消 え 失 せ、 新 世 紀 と と も に 大 英 帝 国
(講談社 初版:
間 同 士 ク ラ ブ で 群 れ て、 食 事 の 後 は 殿 方 だ け で 葉 巻 を 吸
は 落 日 を 迎 え る の で す。 実 は、 1 8 9 0 年 頃 に は、 ア
周年の
い、人に弱みをみせず、ベーコンエッグを食べて、クリケッ
メ リ カ と ド イ ツ の 急 速 な 追 い 上 げ に よ っ て、 そ れ ま で
絶 頂 期 を 迎 え た 大 英 帝 国 の 支 配 方 法 は、 極 め て 明 瞭 で
す。とにかく何処へ行っても英国人らしさを貫き通す事。
(講談社 初版:
『パックスブリタニカ大英帝国最盛期の群像
(下)』ジャン・モリス著
であった事がひしひしと伝わってきます。
る 道 程 と な る ス エ ズ 運 河 が、 ま さ に 帝 国 の 背 骨、 生 命 線
50
94
¼
の 憧 憬 の 対 象 と し て 至 る と こ ろ で 模 倣 さ れ ま し た。 こ れ
3
周年記念祭が行なわれた1897年
60
60
ト に 興 じ る な ど、 こ れ ら 全 て が 帝 国 の 象 徴 と な り、 人 々
60
−
95
¼
22
国 ト ル コ は、 ド イ ツ 側 に つ い て 参 戦 し た た め、 大 英 帝 国
戦 争 を 経 験 し ま す。 当 時 の ア ラ ブ 世 界 の 盟 主 オ ス マ ン 帝
ク ス ブ リ タ ニ カ 」 は 終 焉 を 迎 え、 大 英 帝 国 は 初 め て 全 面
1914年8月の第一次世界大戦の勃発をもって、「パッ
の 英 国 の 技 術 的 優 位 性 は 保 て な く な っ て い た よ う で す。
とえにインドを維持するためであったと言っても過言で
ま す。 大 英 帝 国 が、 世 界 中 に 植 民 地 を 維 持 し た の も、 ひ
一 番 大 切 な イ ン ド 統 治 か ら 撤 退 し、 イ ン ド 連 邦 が 独 立 し
の 第 二 次 世 界 大 戦 を へ て、 1 9 4 7 年 大 英 帝 国 に と っ て
以 外 の エ ジ プ ト か ら 撤 退 し ま す。 1 9 3 9
イ ラ ク 王 国、 英 国 委 任 統 治 か ら 独 立、 1 9 3 6 年 ス エ ズ
1945年
日、 ダ ー ダ ネ ル ス 海 峡 の
名 を 失 い、 一 つ の 時 代 が 終 わ り ま し た。 英 国 海 軍 は こ の
格 好 の 獲 物 で し た。 英 国 艦 隊 は 主 力 艦 3 隻 と 将 兵 7 0 0
た わ れ た 出 陣 で し た が、 待 ち 構 え る ト ル コ 軍 に と っ て は
直 接 攻 撃 を 開 始 し ま し た。 軍 事 史 上 最 も 壮 観 な 光 景 と う
言 し た も の で す か ら、 よ せ ば い い の に 英 国 の イ ー デ ン 首
れまでフランス所有英国管理のスエズ運河の国有化を宣
反 帝 国 主 義 陣 営 の 急 先 鋒 で あ る エ ジ プ ト の ナ セ ル が、 そ
わけです。その後世界中での民族主義の高まりを背景に、
は あ り ま せ ん。 こ れ で も う 帝 国 の 存 在 意 味 は な く な っ た
の 大 艦 隊 は、 1 9 1 5 年 3 月
後二度と、傲慢だけを頼りに戦争に勝とうとはしなくなっ
相 は 大 義 名 分 が あ や ふ や な ま ま に ス エ ズ に 侵 攻 し て、 世
界に恥をさらします。そしてついに、1965年1月 日、
才 で 息 を 引 き 取 り ま し た。 大 英 帝 国 絶 頂
周年祭
年間を生き
ら 厳 格 で 自 由 が な く、 ロ シ ア だ っ た ら 恐 怖 に お び え、 フ
感 想 で す。 も し、 こ れ が 英 国 で は な く て、 ド イ ツ だ っ た
た の だ と い う 筆 者 の 気 持 ち が 伝 わ っ て き ま す。 僕 も 同 じ
と 認 め て い た か ら、 世 界 制 覇 を や っ た の は 英 国 で 良 か っ
の 大 多 数 は、 当 時 の 英 国 を 着 実 で 度 量 の 大 き い 国 で あ る
た し、 行 き 過 ぎ も あ っ た 事 は 事 実 だ が、 そ れ で も 世 界 中
す。 そ の 世 界 制 覇 の 道 の り に お い て は、 至 ら ぬ 点 も あ っ
宗 教 の 押 し つ け を せ ず、 現 地 人 の 宗 教 を 尊 重 し た こ と で
の 3 点 で す。 そ し て、 昔 と 違 っ て 近 代 ら し い と こ ろ は、
こと。(3)世界制覇の結果として英語を普及させたこと、
隷制度を廃止したこと。(2)鉄道や通信網を普及させた
トの保護権を放棄、1932年サウジアラビア王国成立、
に、 大 英 帝 国 は 気 付 き は じ め ま す。 1 9 2 2 年 に エ ジ プ
た時代は終わり、もはや維持する事が重荷となっている事
な ら こ ち ら は 裏 ヨ ー ロ ッ パ と い う か、 東 ヨ ー ロ ッ パ の 魅
パ を 巡 る 物 語 で し て、 ダ ヴ ィ ン チ コ ー ド が 表 ヨ ー ロ ッ パ
ン 達 の 命 が け の 物 語! と い う キ ャ ッ チ フ レ ー ズ は 嘘 偽
りなしです。ドラキュラ伝説の謎に迫りながら東ヨーロッ
し て 世 代 を 超 え て、 闇 に 葬 ら れ た 歴 史 に 挑 む ヒ ス ト リ ア
追 い か け る と い う 展 開 で す。 国 を 越 え、 時 間 を 越 え、 そ
年 代、 こ の 3 つ の 時 代 を 行 っ た り 来 た り し な が ら、 謎 を
1 9 5 0 年 代、 そ し て 少 女 が 父 親 の 行 方 を 探 す 1 9 7 0
の女の子の父親が若い頃に失踪したロッシを追い求めた
わ ち、 若 い 頃 の ロ ッ シ が 謎 を 追 う 1 9 3 0 年 代、 主 人 公
ス ト リ ア ン ) が、 3 つ の 時 代 で 追 い 続 け る の で す。 す な
大英帝国の世界制覇が人類にもたらした事は、(1)奴
りのどこかの国がやっていたことであると。
作 者 の モ リ ス は、 大 英 帝 国 の 繁 栄 と 衰 亡 は、 世 界 史 の
必 然 で あ っ た と み て い ま す。 英 国 が や ら な け れ ば、 か わ
こ こ で 登 場 す る ド ラ キ ュ ラ は、 ブ ラ ム ス ト ー カ ー と ハ
リウッドが作り出した「ドラキュラ伯爵」ではありません。
世 紀 ル ー マ ニ ア に あ る ワ ラ キ ア の 封 建 領 主 で あ る、 ワ
ラキア公ブラドツエペシュという実在した人物のことで
す。 押 し 寄 せ る オ ス マ ン ト ル コ 帝 国 数 十 万 の 大 群 を わ ず
発売されると同時に全米ベストセラー第一位に輝いた
エ リ ザ ベ ス コ ス ト バ の 輝 か し い デ ビ ュ ー 作 で す。 こ れ は
た と い う 血 に 飢 え た 暴 君 で も あ り ま し た。 こ の 人 物 紹 介
る 一 方、 自 国 の 民 を 何 千 何 万 と 人 間 串 刺 し に し て 粛 正 し
『ヒストリアン(1・2)』
エリザベス コ
. ストバ著
確 か に 売 れ る と 思 い ま す よ。 歴 史 ミ ス テ リ 作 品 の お も し
だ け で も、 本 編 を 読 み た く な る で し ょ う? 面 白 さ の あ ま
(
ろ さ を た っ ぷ り 堪 能 で き ま す か ら。 お 話 の 内 容 は、 ド ラ
り止まらなくなり、徹夜覚悟ですけど。天使と悪魔など、
か 数 千 の 兵 力 で 退 け た 国 家 の 英 雄 で あ り、 ま た 英 雄 で あ
キュラのミステリです。この謎をおいかける歴史学者(ヒ
)
2006.2.25
力がいっぱい詰まったお話です。
となったのです。
抜 い た 稀 代 の 政 治 家 の 最 後 で、 大 英 帝 国 は 完 全 に 幕 引 き
か ら、 泣 く に 泣 け な い ス エ ズ の 幻 滅 ま で の
期を画した1897年のヴィクトリア女王即位
チャーチルが
24
96
−
70
たのです。
)
2010.9.6
『帝国の落日パックスブリタニカ完結編(下)』
ジャン・モリス著
(講談社 初版:
本 編 で は、 大 英 帝 国 の 1 9 1 8 1 9 6 5 年 の 歩 み が
描 か れ て い ま す。 帝 国 を 維 持 す る 事 が、 利 点 と な っ て い
60
90
ランスだったら制度の定着がいいかげんになっていた?
−
出版 初版:
NHK
15
97
18
安 が 維 持 さ れ て い た か ら、 満 洲 の 奥 地 か ら 日 本 に 帰 国 し
ようとする多くの在留邦人や引き上げのために集まった
一 連 の ダ ン ブ ラ ウ ン の 作 品 群 が 好 き な 方 な ら、 2 0 0
はまりますよ。
洲 に ソ 連 が 侵 攻 し た 際 の 戦 い に 出 自 し、 辺 境 で 命 を 落 と
したり、シベリアに連行されたりしています。
日 本 人、 1 7 0 0 0 名 が 滞 在 し て い ま し た。 男 達 は、 満
著 者 の エ リ ザ ベ ス コ ス ト バ は、 イ エ ー ル 大 学 卒 業、 ミ
シガン大学で創作学修士号を取得しているという才媛で
す。
通 化 事 件 の 真 相 は 謎 に 包 ま れ、 当 時 現 地 に い た 藤 田 実
彦 大 佐 が 首 謀 者 と さ れ て い ま し た。 筆 者 は 前 作 品『 藤 田
大 佐 の 最 後 』 で、「 藤 田 大 佐 が 首 謀 者 で あ る と い う の は、
事実ではない。」ことを伝えようとしています。その作品
容 の 修 正 も 含 め な が ら、 本 作 品 は 書 か れ て い ま す。 現 在
す。」と解明されていますが、そこに至る道のりは険しく、
に 対 す る 読 者 か ら の、 御 指 摘、 情 報 を も と に 前 作 品 の 内
大 東 亜 戦 争 が 終 わ っ て も、 満 洲 や 朝 鮮 に い た 日 本 人 居
留 民 の 引 揚 者 が、 無 事 に 日 本 へ 帰 る こ と は 容 易 で は あ り
で は、 こ の 歴 史 上 の 謎 は「 加 害 者 は、 支 那 共 産 党 軍 と 朝
)
1982.3.1
ま せ ん で し た。 通 化 事 件( つ う か じ け ん ) と い う の は、
鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊)、被害者は日本人で
松原一枝 『電灯が3回点滅した』
(エイジ出版 初版:
(1946)年2月3日に、かつ
て の 満 州 国 通 化 省 通 化 市 で、 日 本 人 に 対 し て 一 週 間 に わ
本編を読むと、「真実を解明して後世に史実を残す」とい
終戦の翌年である昭和
た っ て 拷 問 と 銃 殺 が 行 わ れ、 あ る い は 凍 死 さ せ ら れ、 軍
う、物書きの執念というものが伝わってきます。
千 人 ) が 殺 害 さ れ た 事 件 で す。 通 化 市 と い う の は、 い ま
の 北 朝 鮮 と 支 那 の 国 境 付 近 に あ っ た 市 で す。 終 戦 時 の 通
化は、中華民国(蒋介石・国民党)政府の統治下に置かれ、
満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支
部 書 記 長 に 就 任 し、 満 州 国 軍 や 満 州 国 警 察 が 転 籍 し た 中
華 民 国 政 府 軍 に よ っ て 治 安 が 維 持 さ れ て い た の で す。 治
五木寛之 著
『親鸞激動編(上)(下)』
『ドレのドン キホーテ』
ミゲル デ セルバンテス著
(講談社 初版: 2012.1
)
こ れ は、 同 作 者 の『 親 鸞( 上 )( 下 )』 の 続 編 に あ た る
も の で す。 親 鸞 の 生 涯 は 大 ま か に 3 つ の 時 期 に わ け る こ
代に
描かれています。第二期は、流刑者として越後に流され、
)
2012.1.27
世界中で400年にわたって読み継がれてきた古典「ド
ンキホーテ 正編」に、キュスターヴ ドレの描いた挿画を
と が で き る と い わ れ ま す。 第 一 期 は、 幼 少 時 か ら
(宝島社 初版:
組み入れて編纂された本です。原作者のミゲル デ セルバ
ンテス 1
( 547 1616 は
) 、 才時、1605年に「ド
ン キ ホ ー テ 正 編 」 を 著 し ま し た。 セ ル バ ン テ ス は、 あ
な展開ですが、ドレの挿画がすばらしくて、ドン キホー
通り圧倒的に面白く笑い転げて一気に読んでしまうよう
に 掘 っ た と 巻 末 に 解 説 さ れ て い ま す。 物 語 は、 ご 存 知 の
ギュスターヴ ドレ 1
( 832 1883 は
) 、短期間のう
ち に 圧 倒 的 な 量 の 挿 画 を 描 き、 ピ サ ン と い う 彫 師 が 版 木
そしてその文学史上に輝く傑作を視覚化するにあたって、
にか親鸞を応援したくなるところです。
自 分 の 嫌 な 所 を 直 視 し て 悩 む 姿 が、 読 み な が ら い つ の 間
させないお話です。親鸞の人間臭さ、弱さ、醜さが満載で、
イトルの付け方が、五木寛之だけに、
『青春の門( xxx
編)』
と 酷 似 し て い る と こ ろ が 笑 え ま す。 内 容 も、 楽 し く 飽 き
第 三 期 は、 最 後 に 京 都 へ 戻 っ て か ら の 代 か ら 享 年
才 ま で の 期 間 で、 こ ち ら は 現 在 出 版 さ れ て い ま せ ん。 タ
や が て 家 族 と と も に 関 東 へ 移 り 住 ん だ 時 期 で、 本 編『 親
テ の 滑 稽 さ が、 リ ア ル に 伝 わ り ま す。 ド レ の 挿 画 の 入 っ
「 お す く い く だ さ れ 阿 弥 陀 様、
親 鸞 が 弟 子 に 語 り ま す。
で は な い。 わ れ ら の 念 仏 と は、 自 分 が す で に し て す く わ
苦労があって、この作品は牢屋の中で着想したそうです。
鸞激動編(上)(下)』の担当はこの第二期です。
至 る 放 浪 と 勉 学 の 時 期 で、 こ れ は『 親 鸞( 上 )( 下 )』 で
30
のレパントの海戦 1
) 出陣し、負傷して左手
( 571年 に
が 不 自 由 に な り、 帰 郷 後 に 官 吏 と な っ た 後 も い ろ い ろ ご
58
リーズ購入しました。いいですよ。
90
包 ま れ て 浄 土 へ 迎 え ら れ る。 な ん と う れ し い こ と だ。 疑
る 念 仏 な の だ。 あ あ、 こ の よ う な 我 が 身 が た し か に 光 に
れ た 身 だ と 気 づ い た と き、 思 わ ず し ら ず 口 か ら こ ぼ れ 出
60
98
%
と は 何 の か か わ り も な い 民 間 人 二 千 人( 一 説 に よ る と 数
21
た 古 典 シ リ ー ズ が 同 出 版 社 か ら 出 て い ま し た の で、 全 シ
−
99
−
い な く そ う 信 じ ら れ た と き、 あ り が た い、 と つ ぶ や く。
事 を ず っ と 繰 り 返 し て し ま う と こ ろ が 強 烈 で す。 ど ん な
て い く の で す が、 4 世 代 5 世 代 に わ た っ て、 同 じ よ う な
うけているものは、圧倒的な空しさだけなのでしょうか。
た だ の 土 埃 に な っ て い く だ け。 人 間 の 営 み の は て に 待 ち
い う 時 の 流 れ の 中 で、 最 後 は 跡 形 も な く 吹 き 飛 ば さ れ、
に 戦 争 で 活 躍 し て も、 事 業 で 成 功 を お さ め て も、 百 年 と
その声こそ、真の念仏なのだ。」いいお話ですね。
『百年の孤独』
)
2006.12.20
ガスシア・マルケス著
(新潮社 初版:
)
2006.9.30
『わが悲しき娼婦たちの思い出』
ガスシア マ
. ルケス著
(新潮社 初版:
女 と 淫 ら に 過 ご し た い、 と い う お 話 で す。 主 人 公 は、 か
季 節 や、 ス コ ー ル が で て く る と こ ろ や、 大 河 マ グ ダ レ ー
る 老 人 の 波 乱 に み ち た 恋 物 語 で す。 舞 台 は、 雨 期 乾 期 の
少 女 に 純 愛 一 筋 と な っ て し ま う、 と い う 悲 し く も 心 温 ま
か ら 生 ま れ て く る 子 達 も、 自 分 達 の 家 族 と し て 面 倒 を み
生 ま れ て く る 子 達 が、 同 じ 娼 婦 と 深 い 仲 に な っ て、 そ こ
ブ エ ン デ ィ ア と そ の 妻 ウ ル ス ラ の 結 婚 か ら 始 ま り ま す。
うです。ブエンディア家の歩みは、ホセ・アルカディオ・
力 で 法 王 グ レ ゴ リ ウ ス 7 世 を 追 い つ め、 何 と か 法 王 の 権
の 屈 辱 を は ら す た め に、 こ の 後 8 年 間 に わ た っ て、 軍 事
だ っ た の で す。 若 く て 気 が 強 い 皇 帝 ハ イ ン リ ッ ヒ は、 こ
法 王 の 権 威 の 力 に 驚 愕 し ま し た。 坊 さ ん が 一 番 偉 い 時 代
会 い ま す。 と こ ろ が、「 博 士 」 は 柄 に も な く こ の
し ん だ 娼 家 の 女 将 ロ ー サ の お 世 話 で、
ち で す が、 い つ も 無 理 な 希 望 を 聞 き 入 れ て く れ る 慣 れ 親
という設定です。「博士」は
後も長年にわたって数多くの娼婦のお世話になってきた
ナ 川、 サ ン タ・ マ ル タ、 避 暑 地 の カ ル タ ヘ ナ・ デ・ イ ン
威 を 足 許 か ら 崩 そ う と 画 策 す る の で す が、 次 世 代 の 法 王
才の
才の少女と出
才を迎えるのもひとりぼっ
デ ィ ア ス が で て く る こ と か ら、 ス ペ イ ン の 植 民 地 で あ っ
ウ ル バ ン 2 世 は、 皇 帝 に は 逆 立 ち し て も で き な い 事、 法
粗末な服装で、1月の降りしきる雪の中、3日3晩カノッ
弁 し て も ら う た め に、 罪 を 悔 い 改 め 許 し を 乞 う 者 が 着 る
社 会 か ら 村 八 分 で す か ら、 破 門 さ れ た 皇 帝 は、 法 王 に 勘
門にしてしまいました。中世の時代には、破門されたら、
視 し た の が 気 に 入 ら な い と い う 理 由 で、 法 王 は 皇 帝 を 破
て い ま す。 第 一 次 十 字 軍 に よ っ て シ リ ア パ レ ス チ ー ナ の
か ら 3 年 を か け て イ エ ル サ レ ム を 陥 落 し、 そ の 後 の
り ま し た。 本 巻 で は、 ヨ ー ロ ッ パ を 後 に し た 1 0 9 6 年
こ う し て、 1 0 9 6 年 か ら、 第 一 次 十 字 軍 派 遣 が は じ ま
つ と い う こ と を、 ウ ル バ ン 2 世 は 示 そ う と し た の で す。
じ て い る の だ。」 神 の 代 理 人 は、 法 王 だ け で す。 ロ ー マ
法王こそが全ての世俗君主の上に立ち指導できる力をも
年
サ の 城 の 前 に 立 ち 尽 く し た の で す。 1 0 7 7 年 こ の カ
ノ ッ サ の 屈 辱 が 世 間 に 知 れ 渡 る や、 西 欧 中 の 善 男 善 女 は
た の だ。 わ た し が 命 じ て い る の で は な い。 主 イ エ ス が 命
す べ き で は な い。 今 こ そ 彼 ら に 対 し、 立 ち 上 が る 時 が き
破 壊 し て モ ス ク に 変 え て い る。 彼 ら の 暴 行 を こ れ 以 上 許
達 の 兄 弟 を 攻 撃 し、 殺 し、 拉 致 し て は 奴 隷 に し、 教 会 を
1 0 9 5 年 ク レ ル モ ン 公 会 議 で、 法 王 は 聖 戦 を 呼 び か
けます。「イスラム教徒は地中海まで勢力を拡大し、お前
ます。
たカリブ海に面したコロンビアのようです。時代背景は、
才の時
)
2006.9.30
14
90
を費やして確立した十字軍史の第一世代の活躍が描かれ
100
カリブ海に面したスペインの植民地であったコロンビ
アでは、スペインからの独立 1
) も保守派と
( 819年 後
自 由 派 が 対 立 し、 つ い に 千 日 戦 争 と 呼 ば れ る 内 戦 に 至 り
ま し た。 1 9 0 2 年 に ア メ リ カ 海 軍 の 戦 艦 ウ イ ス コ ン シ
ン で、 ネ ー ル ラ ン デ ィ ア 協 定 が 結 ば れ る こ と で、 こ の 内
巨 匠 ガ ル シ ア マ. ル ケ ス が、 年 ぶ り に 発 表 し た 最 新
小 説 で す。 才 を 迎 え る 記 念 す べ き 一 夜 を、 汚 れ 無 き 処
の森を開拓してマコンドという村に定住を始めたブエン
つて港町の猛者としてならした「博士」とよばれる男で、
戦 は 集 結 を み ま し た。 こ の 物 語 は、 何 も な い コ ロ ン ビ ア
ディア家の個性豊かな人々の100年間の歩みを描いて
今 も 新 聞 の 記 事 の 一 部 を 書 く 仕 事( 外 電 屋 ) を 続 け て い
才 で 初 め て 女 性 と 関 係 し た の も 娼 婦 な ら、 そ の
い ま す。 描 か れ て い る 時 代 は、 コ ロ ン ビ ア 独 立 後、 千 日
1960年頃のよ
ま す。
10
戦 争 を 経 た 後、 鉄 道 が 敷 か れ た り、 バ ナ ナ 農 園 が 作 ら れ
90
王にしかできない事をやることで権威を維持しようとし
た り し た 描 写 が あ る の で、 1 8 6 0
13
1 9 0 2 年 に 集 結 を み た 千 日 戦 争 の 時 に「 博 士 」 は 少 年
時 代 を 送 っ て い た と い う 描 写 が あ る こ と か ら、
1』塩野七生著
は1980年頃ということでしょうか。
『十字軍物語
(新潮社 初版:
90
14
18
101
−
神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒが行なった人事に対
し て、 法 王 グ レ ゴ リ ウ ス 7 世 が 反 対 し た の を、 皇 帝 は 無
−
が つ く り あ げ た の で す。 特 に 仁 義 に 篤 い、 プ ー リ ア 公 ボ
地 に 打 ち 立 て ら れ た 十 字 軍 国 家 は、 彼 ら 十 字 軍 第 一 世 代
の 男 ぶ り は ほ れ ぼ れ し ま す。 こ の イ ス ラ ム 世 界 き っ て の
退 け て、 イ ェ ル サ レ ム 解 放 を 成 し 遂 げ た 英 雄 サ ラ デ ィ ン
3』塩野七生著
戮 す る こ と な く、 キ リ ス ト 教 徒 側 が 提 示 し た 身 代 金 と 引
サ レ ム に 居 住 し て い た キ リ ス ト 教 徒 を 奴 隷 に し た り、 殺
サ レ ム を も と の ま ま の 状 態 に 戻 し ま す。 し か も、 イ ェ ル
が 台 頭 し、 そ の 圧 倒 的 な 能 力 と 人 徳 で 1 1 8 7 年 イ ェ ル
し、 イ ス ラ ム 教 徒 側 に は 1 1 7 0 年 頃 か ら、 サ ラ デ ィ ン
徒側にはみるべき人材があまり輩出しなかったのに比較
プ、 神 聖 ロ ー マ 帝 国 皇 帝 フ リ ー ド リ ッ ヒ 1 世( 赤 ひ げ )
リチャードに続く登場人物は、悪賢いフランス王フィリッ
が 同 行 し な い「 世 俗 の 人 々 に よ る 十 字 軍 」 と も い わ れ、
ン に リ チ ャ ー ド が 挑 み ま す。 第 3 次 十 字 軍 で は 法 王 代 理
戦 い で 勝 利 を お さ め た イ ス ラ ム の 名 ス ル タ ン、 サ ラ デ ィ
イ オ ン ハ ー ト ) の 登 場 で す。 1 1 8 7 年 の ハ ッ テ ィ ン の
さていよいよ十字軍の歴史の中で華とされる第3次十
字軍(1183 1192)
の主役リチャード獅子心王(ラ
『十字軍物語
き 換 え に 解 放 し た ば か り か、 聖 墳 墓 教 会 を 残 し キ リ ス ト
な ど お な じ み の 顔 ぶ れ で す。 そ れ に し て も ラ イ オ ン ハ ー
(新潮社 初版:
教 徒 の 巡 礼 を 認 め、 巡 礼 者 の 医 療 の た め に 建 て ら れ た 病
ト と い う 綽 名 は、 キ リ ス ト 教 徒 側 が つ け た の で は な く、
)
2011.12.10
これだから、塩野七生は読み込む価値があるのです。
かける著者の見識。しびれます。
スラム教徒達は、知っているのだろうか? と読者になげ
い る、 少 数 民 族 の ク ル ド 人 で あ っ た こ と を、 そ の 後 の イ
英 雄 が、 今 な を あ の 世 界 で は こ と あ る ご と に 冷 遇 さ れ て
2』塩野七生著
)
2011.3.25
エモンドと甥の若きタンクレディの活躍はしびれますね。
『十字軍物語
(新潮社 初版:
本 巻 で は、 第 一 次 十 字 軍 世 代 の 活 躍 で 1 0 9 9 年 に 聖
地 イ ェ ル サ レ ム を 解 放 し、 十 字 軍 国 家 を 樹 立 し た キ リ ス
ト教徒(フランク人)たちが、そのあと 年にわたってイェ
ルサレムを圧倒的少数の居住者で守り続けるために苦労
院 騎 士 団 の 病 院 も そ の ま ま に 残 し た の で す。 あ ま り に 寛
対 戦 し た イ ス ラ ム 側 が 名 付 け た と い わ れ ま す か ら、 獅 子
年 間 は、 キ リ ス ト 教
大 な 処 置 に 対 し て、 イ ス ラ ム 教 の 導 師 達 が 反 対 す る の も
ないことです。相手のイスラム教徒たちは、フリードリッ
し た 歩 み が 描 か れ て い ま す。 こ の
奮迅のリチャードの戦いぶりが伺い知れますね。リチャー
(新潮社 初版:
)
2010.12.20
『都会と犬ども』マリオ・バルガス・リョサ著
こういう皇帝。
ヒ の 事 を、「 無 神 論 者 」 と 評 し た そ う で す。 好 き で す ね、
年 ほ ど 続 き、 キ リ ス ト 教 徒 と イ ス ラ ム 教
ド は 帰 国 に 際 し、 サ ラ デ ィ ン と 講 和 を 結 び ま す が、 こ の
2人の講和は
徒 が 聖 地 で 共 存 で き た の で す。 こ の 後 も、 平 和 共 存 の 合
間 の 争 い の 場 面 に 派 遣 さ れ る 十 字 軍 は、 第 8 次 ま で 重 ね
られ、最後は1291年過激なマメルーク朝のスルタン、
カリルがキリスト教徒に唯一残された砦アッコンに総攻
撃 を 加 え、 1 0 9 9 年 に 聖 地 イ エ ル サ レ ム を 解 放 し て 以
イ ス ラ ム 教 徒 が 大 勢 い て、 し か も そ れ を 全 て 許 容 し た と
が で き た そ う で す。 お ま け に、 自 分 の 配 下 の 戦 士 達 に も
相手のアラブ人より教養あるアラビア語で交渉すること
て も 知 ら ん ぷ り、 幼 少 時 か ら 独 学 で 6 カ 国 語 を 習 得 し、
好 き で す。 法 王 グ レ ゴ リ ウ ス に 2 度 に わ た っ て 破 門 さ れ
ダ ー で あ る 神 聖 ロ ー マ 帝 国 皇 帝 フ リ ー ド リ ッ ヒ 2 世 が、
活躍しますが、僕は第6次十字軍のキリスト教徒側のリー
る 理 性 的 な 指 導 者 で あ っ た 事 で す。 数 多 く の 登 場 人 物 が
導 者 が キ リ ス ト 教 徒 側 も イ ス ラ ム 教 徒 側 も、 と も 教 養 あ
共 存 で き た 期 間 に 共 通 し て 言 え る 事 は、 ト ッ プ に た つ 指
わけでもなく、共に共存できた期間も長くあったのです。
か ら 一 掃 さ れ ま す。 こ の 1 9 2 年 間、 戦 っ て ば か り い た
ン グ ル に 入 っ た 少 年 達 は、 皆 1 匹 の 犬 こ ろ 扱 い さ れ る こ
肉強食の世界、まさに軍人が支配する世界です。そのジャ
気 に 満 ち て い ま す。 そ こ は、 腕 力 と 狡 賢 さ が 物 を 言 う 弱
ンパス全体にジャングルのような荒々しい緊迫した雰囲
地から、様々な人種や階層の少年達が集まってきて、キャ
ア メ リ カ 全 体 の 縮 図 と 言 わ れ ま す。 そ こ に は、 ペ ル ー 各
レ オ ン シ オ・ プ ラ ド 士 官 学 校 は、 ペ ル ー と い う か ラ テ ン
ように、カトリック系の名門校から編入させられました。
中央教育の途中から後半の3年間をこの士官学校で学ぶ
お す、 と い う 父 親 の 教 育 方 針 で ペ ル ー の 5 年 間 に わ た る
暮 ら す 上 流 階 級 出 身 の 若 者 で す が、 そ の 根 性 を た た き な
に な っ て い ま す。 主 人 公 の ア ル ベ ル ト は、 高 級 住 宅 地 に
う士官学校での作者自身の苦しい寄宿生活の体験が素材
1963年に発表されたバルガス リ. ョサの出世作とい
わ れ る 作 品 で す。 ペ ル ー に あ る レ オ ン シ オ プ. ラ ド と い
い う の で す か ら、 キ リ ス ト 教 徒 達 か ら み た ら、 と ん で も
来 1 9 2 年 の 後 に、 キ リ ス ト 教 徒 は 完 全 に パ レ ス チ ー ナ
−
102
103
90
90
−
−
26
ア、 皆 魅 力 的 な 男 達 で す ね。 特 に、 指 導 教 官 ガ ン ボ ア の
く男の愛を貫くことで左遷されていく指導教官のガンボ
こ と リ カ ル ド・ ア ラ ナ、 上 官 か ら の 圧 力 に 屈 す る こ と な
質する事ができず弱いままの人間として死んで行く奴隷
け て い き ま す。 学 友 に は、 暴 力 の 権 化 ジ ャ ガ ー、 自 ら 変
を受入れることで、「大人として生き延びる術」を身につ
育 の 中 で、 傷 つ き、 学 び、 新 し い「 偽 善 」 と い う 価 値 観
て い く の で す。 主 人 公 の ア ル ベ ル ト は、 こ の 3 年 間 の 教
弱 い 犬 こ ろ か ら、 残 酷 で 野 蛮 で 偽 善 的 な 大 人 へ 作 り 替 え
とから始まります。3年間の教育は、彼らの魂を荒廃させ、
ピ ー が 人 生 を 謳 歌 す る ロ ン ド ン で、 同 じ 事 を 繰 り 返 し、
人 生 を 見 失 っ て い く わ け で す。 1 9 7 0 年 代 は、 ヒ ッ
れ た あ げ く に 捨 て ら れ 逃 げ ら れ し て、 リ カ ル ド は 自 分 の
な い に 等 し い 性 悪 女 に 強 く ひ か れ 続 け、 さ ん ざ ん 利 用 さ
人 と ち ゃ っ か り 結 婚 し て い た の で す。 そ の 後 も 本 名 な ど
ら す 彼 女 に 再 会 す る の で す。 し か も 彼 女 は フ ラ ン ス の 役
命 に 傾 倒 し て パ リ で 暮 ら し て い た リ カ ル ド は、 パ リ で 暮
が、 1 9 6 0 年 代、 通 訳 の 仕 事 で 食 い つ な ぎ な が ら、 革
美 少 女 に 翻 弄 さ れ る ま ま、 結 局 は 別 れ る 事 に な り ま し た
う 謎 の 転 校 生 美 少 女 と い う 設 定 で す。 勝 手 に 思 い 焦 が れ
少 年 時 代 に 惚 れ 込 ん で し ま っ た の が、 自 称 チ リ 出 身 と い
ス ペ イ ン で、 最 終 的 に は
才を越えて病のために見る影
会 い、 ま た 人 生 を 撹 拌 さ れ ま す。 1 9 9 0 年 代 の 舞 台 は
1980年代は東京でヤクザの女になっていた彼女に出
気骨にはしびれます。
『悪い娘の悪戯』マリオ・バルガス・リョサ著
も な く な っ た こ の 性 悪 女 の 最 期 を 受 け 止 め る の で す。
才から
才にかけての
年 間 に わ た っ て、 性 悪 女 に 注 ぎ
込 ん だ リ カ ル ド の 愛 の 軌 跡、 こ う い う 愛 も あ る と い う こ
)
2012.1.1
こ の 作 品 は、 著 者 の バ ル ガ ス・ リ ョ サ が 才 の 時、
2 0 0 6 年 に 発 表 さ れ た も の で す。 リ ョ サ が 得 意 と し て
と で し ょ う か。 そ れ に し て も 凄 ま じ い で す よ、 リ カ ル ド
(作品社 初版:
きた歴史長編とはがらりと違った自伝とも思われる作品
が 惚 れ 込 ん で し ま っ た 性 悪 女、 ど う し て こ う い う 女 に 惹
4回羽化を繰り返し、
か れ ち ゃ う ん で し ょ う か ね え。 そ れ と も、 実 は ど の 男 の
金目川河畔のチョウ
月始め頃までその姿を認
年4月
日伊豆
めることができる。図2
は平成
2)。 春 型 の キ ア ゲ ハ は
キアゲハ
キ ア ゲ ハ は、 数 年 前 ま で は、 金 目 川 河 畔 で 数 多 く 見 か
け た が、 最 近 は す っ か り 少 な く な っ た。 こ れ は キ ア ゲ ハ
やや小型で、オス、メス
図1 金目川堤防上の植物に静止する夏型のキアゲ
ハのメス。平成 19 年 9 月 22 日
)これに対して夏
ゲ ハ の オ ス で あ る( 図
の幼虫が食べる食草が金目川周辺で少なくなったことに
、
型は非常に大型で翅表は
)。
食べる野菜が少なく
年9月
ら 出 現 す る。 そ の 後、
越 冬 し、 春 は 4 月 頃 か
1)。 キ ア ゲ ハ は 蛹 で
ゲ ハ の メ ス で あ る( 図
で見かけた夏型のキア
の 時、 金 目 川 の 堤 防 上
日に朝のウォーキング
路町の「はかま温泉」へ
年5月に新潟県三島郡越
野草類を食べる。平成
セリなどであり、多くの
シタバ(図4)、シシウド、
も ハ ナ ウ ド( 図 3)、 ア
は、前述の農作物以外に
キアゲハの幼虫の食草
30
ギフチョウの採集にでか
図1は平成
黒 化 が 目 立 つ( 図
減 っ て ニ ン ジ ン、 パ セ リ、 ミ ツ バ な ど キ ア ゲ ハ が 好 ん で
と も 翅 表 は 明 る く( 図
花で吸蜜する春型のキア
高原で撮影したツツジの
15
関 連 し て い る と 思 わ れ る。 最 近 こ の 周 辺 の 農 地 耕 作 者 が
内田 久則
とあって、刊行前から話題沸騰となったようです。
で、 あ る 女 性 と の
年にも及ぶ愛の軌跡が描かれている
15
50
40
10
心の中にもリカルド的価値観が潜んでいるのかな?
55
13
25
な っ た た め で あ ろ う。
23
東京近郊では 、
年に2~
22
16
図2 静岡県伊東市伊豆高原赤沢でツツジの花で吸
蜜する春型オスのキアゲハ。平成 13 年 4 月 15 日
図3 ハナウドの花。神奈川県横浜市青葉区鶴見河
畔。平成 10 年 6 月
-
10
-
主 人 公 は、 ペ ル ー の リ マ、 ミ ラ フ ロ ー レ ン ス 地 区 出 身
の リ カ ル ド・ ソ モ ク ル シ オ な る お ぼ っ ち ゃ ま で す。 彼 が
70
19
104
105
40
%が死亡してしまった。
雑草が生い茂った斜面
ま温泉」の山畑近辺の
ミツバを餌にするのはやめた。やがて幼虫は終齢となり、
れ て い た の で は な い だ ろ う か。 こ の 経 験 か ら、 販 売 用 の
食 用 に 販 売 し て い る ミ ツ バ に は、 恐 ら く 除 虫 剤 が 撒 布 さ
べた幼虫群は元気が無くなり、
で、 羽 化 が う ま く い か
食 欲 は 益 々 旺 盛 で 餌 の ミ ツ バ は す ぐ に 足 り な く な っ た。
け た。 こ の 折 に「 は か
ず後翅が変形し飛べな
川 崎 市 黒 川 附 近 に は 里 山 が 残 っ て い て、 野 菜 栽 培 農 家 が
い た。 早 速 近 寄 っ て わ け を 話 し、 ミ ツ バ を 売 っ て も ら う
くなっているメスのキ
かもしれないと考え、採集し、川崎の自宅へ持ち帰った。
こ と に し た。 栽 培 の ミ ツ バ な の で 株 は 大 き く、 白 菜 1 個
点 在 し、 畑 が あ る。 こ の 付 近 で 野 生 の ミ ツ バ が 見 つ け ら
予想に反してこのキアゲハのメスは100個以上の多数
分 程 度 あ る。 農 家 の ご 主 人 の 話 で は 今 の 時 期 の ミ ツ バ は
ア ゲ ハ を 見 つ け た。 こ
の卵を産んだ。採卵及び飼育には野生のミツバを用いた。
大きくなりすぎて売り物にならないとのことであり、買っ
れ な い か ど う か 探 索 に 出 か け て み た。 鶴 見 川 の 源 流 の 南
数 日 後 卵 は 孵 化 し た。 食 欲 は 旺 盛 で、 数 が 多 い の で 野 生
て も ら え て む し ろ あ り が た い と い わ れ た。
の状態で交尾を済ませ
の ミ ツ バ は す ぐ に 無 く な っ て し ま う。 川 崎 の 自 宅 附 近 で
つ い た ま ま で 分 け て 貰 い、 プ ラ ス チ ッ ク の 大 袋 に 入 れ、
岸 は 台 地 に な っ て い て、 こ こ を 登 る と 多 く の 畑 が 目 に 入
は 野 生 の ミ ツ バ が 手 に 入 ら な く な り、 金 目 川 上 流 の 伊 勢
帰 宅 し た。 自 宅 で、 早 速、 プ ラ ン タ ー 5 個 に ミ ツ バ を 植
ているかどうか難しい
原 附 近 ま で 探 索 に 出 か け る 始 末 と な っ た。 幸 い 伊 勢 原 附
え 付 け、 多 数 の キ ア ゲ ハ の 終 齢 幼 虫 を 移 し た。 ま た、 幼
り、 そ の な か に は ミ ツ バ を 栽 培 し て い る 畑 が あ っ た。 ま
近の金目川流域で野生ミツバの繁殖地を見つけることが
虫が脱走しないようにあらかじめ作っておいた目の細か
な、 と 思 い な が ら も メ
で き た の で、 し ば ら く は 餌 の 確 保 は 大 丈 夫 と 安 堵 し た。
い プ ラ ス チ ッ ク 製 の 布 袋 で 各 プ ラ ン タ ー を 被 覆 し た。 こ
た 運 の 良 い こ と に は、 そ の 畑 で 持 ち 主 が 農 作 業 を 行 っ て
こ の 間 餌 が 足 り な い た め、 ス ー パ ー マ ー ケ ッ ト の 野 菜 売
れ で お そ ら く 食 草 を 追 加 す る こ と も な く 蛹 に な り、 や が
スなので採卵ができる
り 場 で ミ ツ バ を 購 入 し、 与 え て み た。 と こ ろ が こ れ を 食
キアゲハを見かけること
バやアシタバが繁茂して
を 聞 い て、 実 は キ ア ゲ ハ
る友人の中西氏がこの話
ろ、 蝶 の 飼 育 を 行 っ て い
みたいと考えていたとこ
キアゲハの飼育をやって
年 度 に な っ て、 も う 一 度
さらに脱皮して2齢幼虫
あ る( 図 6)。2 日 後 に は
た。幼虫の体色は黒色で
日にはこの卵が孵化し
変 わ り は な い。 8 月 3
のアゲハチョウの卵と
ア ゲ ハ、 ク ロ ア ゲ ハ 類
株ほど根が
て 羽 化 し て チ ョ ウ に な る だ ろ う と 予 測 し た。 今 回 の よ う
が少なくなった。しかし
順次、羽化していった。
飛来し、卵を産みつけて
の飼育をやっているとい
と な っ た( 図 7)。 体 色
10
106
60
頭 以 上 の ア ゲ ハ チ ョ ウ 類 を 飼 育 す る と、 餌 の 確 保 が
に
餌 の 確 保 で 大 変 苦 労 し た が、 最 終 的 に 十 分 な ミ ツ バ を
与 え る こ と が で き た の で、 立 派 な 夏 型 の チ ョ ウ に 育 ち、
いるとのことである。
平塚市長持の中西氏の自
自然界で見られる夏型のキアゲハと同じ大きさであった。
大 変 な こ と を あ ら た め て 実 感 し た。 数 日 後、 終 齢 幼 虫 は
一 般 に 与 え る 餌 が 不 足 す る と、 体 が 小 さ い 個 体 と な っ て
年7月 日にアシタ
バに産みつけられたキ
宅では、畑に野生のミツ
し ま う。 こ の と き の 飼 育 は、 キ ア ゲ ハ の 数 が 多 く、 毎 日
アゲハの卵2個を頂い
順調に前蛹となり、蛹になった。やがてキアゲハは無事に、
の記録、写真撮影などが十分できず観察が不十分のため、
た。図5はアシタバ上の
いて、キアゲハが数多く
いずれ綿密な再調査が必
う こ と で あ っ た。 平 塚 で
卵 で あ る。 外 観 は ナ ミ
28
は初齢幼虫と同じよう
要 と 考 え て い た。 平 成
24
は、 前 述 の よ う に、 最 近
24
107
図4 金目川河畔で見かけたアシタバの葉。
平成 24 年 12 月
図5 アシタバ上に産みつけられたキアゲハの卵。
図6 キアゲハの初齢幼虫
図7 脱皮直後の2齢幼虫。尾側に殻がある。右側
は初齢幼虫の食痕。
80
う な 形 態 で あ っ た が、
みが舐めとられたよ
よ う に、 葉 の 表 面 の
痕 は、 写 真 で 示 し た
れ る。 初 齢 幼 虫 の 食
中部に白帯が認めら
に 黒 色 で あ る が、 体
れる。さらに2日後の8
質の補給に役立つと思わ
た。この習性はたんぱく
てた殻を食べてしまっ
お、 こ の 幼 虫 は 脱 ぎ 捨
クロアゲハと異なる。な
と呼ばれるナミアゲハや
日には最後の脱皮を
月
た( 図 9)。 緑 色 の 環
り、 体 色 は 緑 に な っ
虫から3齢幼虫とな
日には脱皮し2齢幼
8)。 そ の 後、 8 月 9
葉脈は食べている(図
い葉脈は残すが細い
美 し い 外 観 で あ る( 図
色斑がより強調される
環状縞が幅広くなり、橙
縞はやや細くなり黒色の
上から見ると緑色の環状
は 著 し く 大 き く な っ た。
なった。食欲は旺盛で体
行 っ て、 幼 虫 は 終 齢 と
ると幼虫は食欲がなくな
、
、
)。
分もすると翅はすっ
)。 こ の と
じ ま っ た。 殻 か ら の
1時間後に羽化がは
ら に 卵 を 産 ま せ る つ も り で あ っ た が、 な か な か 思 い 通 り
の 2 頭 が オ ス と メ ス で あ れ ば、 用 手 的 に 強 制 交 配 し て さ
脱出は
に は い か な い。 と こ ろ で、 2 頭 で は 数 が あ ま り に 少 な い
も オ ス で あ っ た。 も し こ
き羽化した2頭はいずれ
巻 か れ る( 図
なりやがてぜんまい状に
かれていた口吻は1本に
か り 伸 び き り、 2 つ に 分
約
と す る( 図
可能な場所を確保しよう
を十分伸展させることが
ら 上 方 へ 登 り 始 め て、 羽
図 14 黒化したキアゲハの蛹。間もなく羽化が始まる。
ので、もう少し卵が頂けないか中西氏へ依頼しておいた。
図 17 ほぼ翅の伸びきったキアゲハ。
口吻も一本の管となり丸く巻かれて
いる。尾端の形態からオスである。
わ っ て し ま う の で、
写真に撮影したいと
準備していてもなか
なか時間に間に合わ
な い。 こ の 時 も う ま
く い か な か っ た。 殻
から脱出したチョウ
は、 翅 を 震 わ せ な が
図 16 翅はぐんぐん伸展する。
108
2齢幼虫になると太
状の縞と黒色の環状
日にな
黒色の縞の上には橙
り飼育箱の中を激しく動
)。 8 月
色 の 班 点 が 散 ら ば り、
き回るようになった。蛹
、
なかなか美しい外観
になる前兆と思われたの
縞 が 交 互 に 入 り 組 み、
で あ る。 こ の 形 態 は、
で、 木 の 小 枝 を 飼 育 箱
11
明らかにゆずぼう型
に 入 れ た。 1 頭 の 幼
虫はこの枝に取り付
図 11 橙色斑が強調される美しい外観の終齢幼虫。 図 10 脱皮直後の終齢幼虫。尾側は殻。
食欲は旺盛でかなり太い葉脈も食べてしまう。
17
き、 も う 1 頭 は ア シ
)、 翌
タバの葉蔭の茎で前
蛹 に な り( 図
日には蛹になった(図
)。 こ の 二 頭 の 蛹 は
)。
8月の早朝に外観が
黒色となった(図
16
11
10
秒前後で終
羽 化 が 始 ま る。 こ の
こうなるとまもなく
14
15
14
図 15 蛹から脱皮直後のキアゲハ。
10
109
12
15
18
13
図8 2齢幼虫。体中央部に白帯がある。頭部前方
は幼虫の食痕
図9 脱皮直後の3齢幼虫。緑化している。尾側後
方は殻。
図 12 アシタバの茎で前蛹となったキアゲハ。体に
回した糸に注目。
図 13 蛹化したキアゲハ。頭部に突起がある。
表 1. キアゲハメス 1 頭からの継代交配の結果
メス 1 頭 (P) 平塚長持産
21日後 羽化
採卵 5 個 (F1)
メス、オス 1 頭ずつのハンドペアリング
39日後 羽化
採卵 24 個 (F2)
メス、オス 1 頭ずつのハンドペアリング
頭 生 ま れ た。 そ の 後 も 発 育 は 順 調 で や が て 終 齢 幼 虫
頂 い た( F 1 卵、 ※ 表
と で、 こ の 5 個 の 卵 を
5個採集できたとのこ
る の が 観 察 さ れ、 卵 が
日にキアゲハが産卵す
こ ろ、 た ま た ま 8 月 3
細に調べてもらったと
たメスの個体と5日に羽化したオスの個体とをペアリン
3 代 目 の チ ョ ウ を 飼 育 し よ う と 考 え、
の2代目の羽化個体についてもハンドペアリングを行い
ら ば ら に な っ て、 羽 化 ま で は
て か ら 通 常 1 週 間 で 羽 化 す る こ と が 多 い の だ が、 多 少 ば
の頃に比べて遅くなり、また、個体差も出てきた。蛹になっ
の 気 温 は や や 低 く な っ て き た た め か、 幼 虫 の 発 育 は 8 月
と な り、 9 月
が
1)。中西氏からの追加
グした(図
庭のアシタバの葉を詳
の 5 個 の 卵 は、 そ の 後
交尾し続けたので、採卵は当然巧く行くと予測していた。
で早速ハンドペアリン
オスとメスであったの
も な く 羽 化 し た。 幸 い
い。 一 般 に 採 卵 操 作
はなかなか産卵しな
作 に 入 っ た が、 メ ス
その後すぐに採卵操
日から
)。ペアリングは成功し、
グ を 行 っ て 交 配 し た。
に入ると2~3日で
卵 を 開 始 し、 こ の 日
日 掛 か っ た。 こ
月4日に羽化し
21
分程度十分長く
10
亡するのが常である。
産卵すると1日で死
常で、一般には母蝶は
し た。 このことも異
き続け4日後に死亡
し母蝶はその後も生
産まなかった。しか
でその後はまったく
産卵はこの一日のみ
を産んだ。ところが
交配による飼育の計
きた各種のチョウの
ら、 こ れ ま で 考 え て
アリング法の成功か
も1代目のハンドペ
る。 今 回 の と も か く
纏めたのが表1であ
わ れ た。 こ の 経 緯 を
みる必要があると思
な っ た の か、 調 べ て
画が可能になると考
え ら れ た。 そ の ひ と つ は 日 本 産 ク ロ ア ゲ ハ( 図
)と香
が 変 わ り、 幼 虫 が
ハ に は な い。 尾 状 突 起 の あ る の が 優 性 か 劣 性 か 判 断 す る
ロ ア ゲ ハ に は 尾 状 突 起 が あ る が、 香 港 産 オ ナ シ ク ロ ア ゲ
港 産 オ ナ シ ク ロ ア ゲ ハ( 図
) の 交 配 で あ る。 日 本 産 ク
この3代目の卵
を 観 察 し て い た が、
日には色調
生まれるのかなと
に は、 交 配 し て み る と わ か る。 交 配 種 が ど う な る か 興 味
あ っ た と 思 わ れ る。
交配検討が必要である。
ま た ナ ガ サ キ ア ゲ ハ に つ い て も、 メ ス に は 有 尾 型 と 無
尾型があり、いずれが優性か劣性かを明らかにするには、
交配を行うことで相互関係が明らかになると思われる。
期 待 し て い た が、
)。
深 い。 石 垣 島 産 ク ロ ア ゲ ハ で は こ の 尾 状 突 起 が あ る も の
しなかった(図
近親交配でこう
卵はすべて死卵で
20
110
日 で す べ て 蛹 に な っ た。 こ の 頃 か ら 朝 晩
幼 虫 か ら 蛹 に な り、 間
交尾の時間は5分程度
卵を産み始めるのだ
月
で 短 か っ た が、 そ の 後
かけた6日後の
が、 も う 採 卵 を 諦 め
卵を産ませるの
メスに産卵させたとこ
ろ、
日になって突然産
2の卵である
(※表1)
。
計
個 の 卵( F 3 卵 )
この卵から初齢幼虫
に 成 功 し た。 こ れ は F
10
15
25
19
卵はそのまま黒化
月
図 19 F3のキアゲハのメスとオスをハンドペア
リングにより交配しているところ。翅を開いてい
るのがメスで、翅を閉じているのがオス。
図 22 香港城門仔郊野公園産。神奈川県川崎市で飼
育のオナシクロアゲハ夏型のオス。尾状突起はない。
平成 2 年 7 月 5 日
21
20
の、本土産より短いことが知られている(文献1)。
18
し て し ま い、 孵 化
10
111
18
11
24
14
22
図 18 数分経過後羽化が終わり、静止し、飛び始め
る前に体液を排泄する。
孵化せずすべて死卵
図 20 黒化したF3の死卵(矢印)。1卵も孵化し
なかった。
図 21 日本産夏型オスのクロアゲハ。静岡県伊東市
赤沢採集。神奈川県川崎市で飼育した個体。尾状突
起が発達している。平成 11 年 7 月 14 日
採卵 20 個 (F3)
実の解明が可能と
興味深い様々な事
この他にも極めて
ハンドペアリン
グ 法 を 用 い る と、
ら高山地帯には分布して
くない、と記載されなが
るとキアゲハの分布は多
ろうか?台湾の文献を見
るが、果たしてそうであ
産のキアゲハの学名は
い る よ う で あ る。 台 湾
いないように記されてい
なる。
キアゲハは学名
を Papilio machaon
Papilio machaon sylvina
北の日本全土に分
い て は、 屋 久 島 以
献 2)。 わ が 国 に お
ところでは、台湾産も韓
れるが、図鑑で一見した
紋の違いがあると推定さ
る( 文 献 4)。 多 少 の 斑
スではいずれも後翅
112
Hippocrates
布しているとされ
国産も日本産と変わりが
1933とい
Hemming,
い、日本産の学名と異な
る。 国 外 で は、 旧
ない(文献3、4)
C.Felder R.Felder.
1864という(文
北区のほぼ全域を
色斑(矢印)が明瞭
含 め、 北 ア メ リ カ
われてこなかったの
によく発達してい
わが国のキアゲハにつ
いては地域による斑紋上
ではないかと思われ
る。また、夏型につ
北部まで広い分布
る。 私 の 手 元 に は、
いては全体的に大形
の変化は無いとされてい
現 在、北 海 道、新 潟
で、色彩は黒味を帯
を 示 す。 文 献 的 に
県、 東京 都、 神奈 川
びているが、山梨県
る( 文 献 2)。 し か し、
県、 山梨 県、 岐阜 県
産(甲府櫛型)のオ
は屋久島以南のわ
産など多数の標本が
スでは後翅亜外縁の
詳細な調査はこれまで行
ある。この各地産の
黄色斑は明瞭であり
についても神奈川産
全体の色彩は明る
表面亜外縁の黄色斑
図 25 北海道旭川愛山渓温泉産、春型メスのキアゲ
ハ。小型であるが明るい黄色で、後翅表面亜外縁の
黄色斑列(矢印)は明瞭。平成 8 年 6 月 25 日
図 26 山梨県甲府市櫛型産、夏型のキアゲハのオス。春
型に比べて翅表の黒化が認められる。しかし後翅亜外縁の
黄色斑(矢印)は明瞭で明るい。平成 4 年 7 月 25 日
翅表の黒化が著しく、後翅前面亜外縁の黄色斑(矢印)
は不明瞭で、消えかかっている。平成 10 年 7 月 8 日
が国には分布して
キ ア ゲ ハ に つ い て、
)、夏型のメス
(図
べてみると、東京産
(平塚市徳延、図
)
く、 後 翅 外 縁 の 黄
30
113
地域的斑紋変化を調
(多磨霊園)のオス
中 津 川 愛 川、 図
、
)、 新
は、いずれも後翅亜
ところが、群馬県
月 夜 野 産( 図 )、
が明瞭である。
潟 産( 新 潟 県 三 島
) の オ ス の 春 型、
北 海 道 産( 旭 川 愛
)
及び新潟県小国産
山 渓 温 泉、 図
のメスの春型はい
(図
)の夏型のメ
ず れ も や や 小 形 で、
25
図 29 群馬県月夜野産、夏型メスのキアゲハ。大型で
図 30 新潟県小国産、夏型メスのキアゲハ。後翅表
面は黒化が著しく、亜外縁の黄色斑列(矢印)は消
滅しかかっている。平成 9 年 7 月。
26
外縁の黄色斑(矢印)
23
郡 は か ま 温 泉、 図
の 春 型( 図
28 27
29
24
図 23 東京都小金井市多磨霊園産、春型オスのキア
ゲハ。やや小型であるが、翅は黄色で明るい。下翅
外縁の黄色斑列(矢印)は明瞭。平成 12 年 5 月 7 日
図 24 新潟県三島郡はかま温泉産、春型オスのキ
アゲハ。小型で明るい黄色で、後翅表面亜外縁の黄
色斑は明瞭(矢印)。平成4年5月5日
図 27 神奈川県平塚市産、夏型メスのキアゲハ。大
型でやや黒味が強い。後翅外縁の黄色斑列(矢印)
は明瞭である。平成 12 年 11 月 26 日
図 28 神奈川県中津川愛川産、夏型のキアゲハのメ
ス。大型でオスに比べ黒化が目立つ。しかし、後翅
亜外縁の黄色斑列(矢印)は明瞭である。
(矢印)がすべて黒化して不明瞭になっている。これに対
し て、 前 述 の 産 地 以 外 の 川 崎 市 産、 岐 阜 県 産、 山 梨 県 産
な ど の 夏 型 の メ ス で は、 す べ て こ の 後 翅 亜 外 縁 の 黄 色 斑
は 明 瞭 に 認 め ら れ る。 こ の よ う に 新 潟 県 及 び 群 馬 県 北 部
に産するキアゲハメスの夏型に認められる後翅表面亜外
縁 の 黄 色 斑 が 黒 化 し 消 失 し か か っ て い る の は、 一 種 の 地
域 に よ る 斑 紋 変 化 と 思 わ れ る が、 今 後 さ ら に 検 討 の 必 要
猪又 敏雄著。原色蝶類検索図鑑、北隆館。
平成2年(初版): 。
参考文献
1
2
3
4
猪又 敏雄著。原色蝶類検索図鑑、北隆館。
平成2年(初版): 。
陳 維壽著。台湾的彩蝶、南天書局有限公司。
民国 年 月1日(初版): 。
27
分院)を経て、小石川東京病院(旧・日通東京病院)と、
病 院、 K K R 横 須 賀 北 部 共 済 病 院( 現・ 横 須 賀 共 済 病 院
昭 和 年 に 横 浜 市 で 生 ま れ、 日 程 の 長 崎 大 学 医 学 部
に 昭 和 の 最 後 の 学 生 と し て 入 学 し ま し た。 J A 水 戸 協 同
塩之入太(しおのいり ふとし)と申します。
かと、ねじ込まれて凹んでおりました。
疹 を 薬 疹 じ ゃ な い か、 風 邪 が 治 ら な い の は 誤 診 じ ゃ な い
小 石 川 に 来 た の は、 マ シ ン で 各 大 学 が 休 校 に な っ た 春
の こ と で、 そ の と き も 名 の 成 人 麻 疹 症 例 に 遭 遇 し、 発
ました。
が 多 く、 学 部 で 教 え て く だ さ っ た こ と は 大 変 頼 り に な り
り 返 れ ば、 熱 研・ 旧 二 内 と 長 崎 は 感 染 症 に 長 け た 先 生 方
成 卒 の 呼 吸 器 門 外 漢 に と っ て、 手 探 り の 連 続 で し た。 振
「湿性肋膜炎など診断に窮するものか?」と、諸先達の
皆 様 に は 一 笑 に 付 さ れ て し ま う で し ょ う が、 な に ぶ ん 平
いただきます。
申 裕恒著。 Coloured Butteflies of Korea,Academy
1991: 〜 。
Publishing Co.,Ltd,
46
26
性があると考えている。
今 回、 キ ア ゲ ハ の 飼 育 を 行 っ た 結 果 2 つ の 新 し い 事 実
を発見した。
第 1 点 は、 ハ ン ド ペ ア リ ン グ に よ る、 1 頭 の メ ス か ら
の 継 代 飼 育 で は、 遺 伝 子 の 交 雑 が な い た め、 3 代 目 あ た
りから卵の死滅する可能性が高くなると思われる。
第 2 点 は、 日 本 産 キ ア ゲ ハ に は 地 域 に よ る 斑 紋 変 化 が
あ り、 新 潟 県、 群 馬 県 北 部 産 の 夏 型 の メ ス は 後 翅 前 面 の
黒 化 が 著 し く、 亜 外 縁 の 黄 色 紋 が 消 滅 す る 傾 向 が あ る。
こ の 2 点 は こ れ ま で 報 告 さ れ た こ と が な い と 思 わ れ、 間
違いない事実かどうか、調査を継続する必要がある。
新入会員紹介
新任の挨拶と、結核漫談
横浜ゴム健保組合平塚診療所 塩之入 太
16
12
職 域 の 総 合 病 院 に 勤 め る こ と が 多 く、 こ の た び 横 浜 ゴ ム
平 成 年 月 に、 横 浜 ゴ ム 健 保 組 合 平 塚 診 療 所 お よ び
横 浜 ゴ ム 平 塚 製 造 所 安 全 衛 生 課 産 業 医 に 着 任 し ま し た、
10
専 門 医 は と っ た も の の、 各 所 で は 内 科 と し て の 職 務 が
多 く、 横 須 賀 で は 塵 肺 や 石 綿 肺、 そ し て 文 京 区 と 豊 島 区
糖尿病専門医と循環器専門医をとりました。
化 に つ い て、 山 田 信 博 筑 波 大 前 学 長 の も と 指 導 を 得 て、
大学の病床もあいており速やかに入院させていただきま
R 陽 性 と す ん な り 診 断 が つ き、 幸 い 区 内 の 東 京 医 科 歯 科
な こ と は 無 い と 色 を 成 し て 仰 る も の の、 一 般 だ け で は な
撒 布 像 が あ り、 昔 結 核 を し ま し た か? と 尋 ね て も、 そ ん
く 抗 酸 菌 も 提 出 し て、 そ れ が 1 回 目 で 陽 性・ 結 核 菌 P C
の境にある、小石川東京病院では結核を診る機会があり、
4
した。この男性が、自分で診断した最初の結核症例でした。
に お 世 話 に な る こ と に な り ま し た。 脂 質 異 常 症・ 動 脈 硬
A
114
76
そ ん な な か、 お 彼 岸 に 風 邪 を 引 い て か ら 治 ら な い と い
う、 歳 手 前 の 男 性 が 受 診 し ま し た。 右 の 鎖 骨 に 接 し て
4
今 日 は 結 核 の 漫 談 を さ せ て い た だ き、 自 己 紹 介 と さ せ て
60
115
24
44
次 の 症 例 は、 寝 た き り の 歳 過 ぎ の 女 性 で、 歳 代 の
息 子 さ ん が 独 り で 介 護 し て い ま し た。 食 が 細 く、 k g
60
核 と な る と そ う は い か な い こ と を、 さ ら に 1 週 間 掛 け て
ご 納 得 い た だ き、 経 鼻 チ ュ ー ブ か ら I N H、 筋 肉 注 射 で
呼 吸 音 の こ と は 判 ら な い と。 満 杯 の 胸 水 と 圧 迫 さ れ た 無
ん。往診の先生も、往診だけで写真はありませんと仰る。
肋 膜 を し ま し た か? と た ず ね て も、 息 子 さ ん は 知 り ま せ
きました。聴診すると、右の呼吸音がありません。むかし、
を 切 る る い 痩 と い う こ と で、 往 診 の 先 生 か ら 紹 介 さ れ て
3 つ め の 症 例 は、 胃 が ん で 切 除 し て 十 数 年 と い う 歳
代の男性でした。微熱がつづき、右のリンパ節が腫れる。
ご自宅へお戻りいただけることになりました。
ピ シ ン も 呑 め る よ う に な り、 胸 水 が な く な る と と も に、
減 る と と も に 食 事 も 取 れ る よ う に な り、 通 常 の リ フ ァ ン
た。しかし、なんとかその後2週間で胸水も半分になり、
ストマイをという変則的な治療だけさせていただきまし
気 肺。 癌 性 胸 膜 炎 な ら と 穿 刺 し て み る と、 胸 水 は リ ン パ
主 治 医 が 外 科 の 先 生 で し た の で、 リ ン パ 節 を 生 検 し て と
と低い。ADAは
い う こ と に な り ま し た。 お も っ た よ り 軟 ら か く 癌 で は な
来 で 型 ど お り 4 剤 を 始 め た も の の、 リ ン パ は 一 つ だ け で
い。 一 般 培 養 も、 細 胞 診 も 所 見 を 欠 き、 抗 酸 菌 染 色 も 結
つきました。
手 術 で の 治 癒 症 例 と な っ た よ う な も の で し た。 瘰 癧( る
さ そ う、 割 を い れ る と、 ニ キ ビ の 芯 の よ う な も の が 数 個
し か し、 2 つ の 壁 が あ り ま し た。 結 核 性 胸 膜 炎 は 肺 外
結 核 で あ り、 こ の 症 例 で は 痰 も 胃 液 も 結 核 が 出 な い も の
いれき)・結核性リンパ節炎は連なって腫れるとおもって
核菌PCRも陰性。そもそもPCRは感度が、チールニー
で す か ら、 呼 吸 器 の 先 生 も お 引 取 り に な ら な い。 認 知 症
いると、ごく小さなものもあるようです。
見 ら れ る。 な ん の 事 は な く、 乾 酪 性 壊 死 の 結 核 性 リ ン パ
状 の 周 辺 症 状 は な い も の の、 却 っ て 活 気 も 乏 し く ハ イ・
ル セ ン と そ う 変 わ ら な い の で し た が、 3 回 目 の 胸 水 の 液
イ イ エ と い う 意 思 疎 通 も 難 し い 方 で し た。 食 が 細 く、 胃
4 つ 目 の 症 例 は、 イ ン ド 料 理 の 店 主 さ ん で し た。 本 郷
あ た り は ラ ー メ ン 屋 よ り、 本 場 の 南 ア ジ ア 人 の や っ て
を 主 科 と し て、 心 外 膜 炎 と し て み て も ら え ば よ い だ ろ う
は 陰 性 で あ っ た し、 利 尿 剤 で 胸 水 は 引 い た の で、 循 環 器
緒 で、 左 の 胸 水 が あ る。 胸 水 糖 正 常・ 胸 水 培 養 と 痰 培 養
手術はそれからだ!と。しかし、そのまま眼科手術を行い、
精 査 を ア ル バ イ ト の 内 科 医 師 か ら 指 示 さ れ て い ま し た。
胸 部 レ ン ト ゲ ン 写 真 に て 肺 尖 部 に 小 粒 状 影 が あ り、 結 核
7 つ め は 肺 結 核 で す。 あ る 年 の 秋 に、 歳 代 の 女 性 が
眼 科 の 白 内 障 術 前 検 査 で、 内 科 に 併 診 さ れ て き ま し た。
の同定には至りませんでした。
と、 ク リ ス マ ス 前 に 転 院 先 を 東 京 大 学 と し て 送 り 出 し ま
眼科外来に3月まで通院しました。
月に自宅で転倒し、
90
整 形 外 科 的 な 手 術 を 必 要 と し て、 入 院 に な り ま し た。 こ
に、 時 間 が 掛 か り、 事 後 措 置 に も 窮 し ま し た。 ル ー チ ン
で あ る こ と が 判 明 し ま し た。 抗 結 核 薬 投 与 で、 東 大 も 正
胸水・夜間臥位呼吸苦を産んでいたようでした。
言 う 眼 科 医 を 含 め て、 7 名 の 職 員 な ど に
のときは、ガフキー7号、あいにく結核菌PCRも陽性。
5 つ と 6 つ め の 症 例 は、 5 つ 目 は 他 の 内 科 の 先 生 の 症
例 で す。 近 く の 整 形 外 科 医 院 で 理 学 療 法 を う け な が ら、
(クォンティフェロン)を行い陰性でした。眼科も整形外
月 を 過 ご し 軽 快 退 院 と な り ま し た。 胸 水 に は 結 核 感 染 症
風 邪 の 折 は 内 科 的 処 方 も 受 け て い た が、 治 り に く い と い
科も本人の希望で個室への入院だったのは幸いでした。
骨 折 し て い る 高 齢 の 女 性 と い う こ と で、 転 院 先 を 探 す の
う 紹 介 で し た。 喀 痰 陽 性 と い う こ と で、 専 門 病 棟 の あ る
T
B
歳代の女性で
−
Q
F
T
で内科に掛けるもののその内容は見ずに知らなかったと
病院へ手続きをすすめました。まったく偶然に、同じ週に、
歳代男性が右胸の痛みで来院
Q
F
T
ま す。 化 学 療 法 研 究 所 が お 近 く と 言 う こ と で、 紹 介 し ま
撮 る と、 下 肺 に 胸 水 が あ り ま し た。 こ れ が 6 例 目 に な り
し ま し た。 聴 診 す る と 呼 吸 音 は な く、 気 胸 か な と 写 真 を
た。内科に併診するのに必要だろうと、
整形外科の先生は前の症例で過敏に反応して下さいまし
テリウム・アビウム・コンプレックス(
が 否 定 で き ま し た。 結 核 菌 P C R も 陰 性 で、 マ イ コ バ ク
T
B
M
A
C
Q
F
T
−
ま
)でした。
し た。 病 歴 か ら、 結 核 性 胸 膜 炎 だ ろ う と 早 速 4 剤 の 治 療
で 検 査 を 出 し て か ら 連 絡 し て く れ た の で す。 自 分 な ら 出
が陰性で結核
T
B 80
に 入 ら れ 快 癒 し た そ う で す が、 胸 水・ 痰 な ど の 検 体 か ら
−
その医院の理学療法士の
8 つ め は、 整 形 外 科 に 入 院 さ れ た 別 の
ガフキー3号が出ましたが、
の 病 態 の 座 は な く、 心 外 膜 炎・ 軽 度 の 心 タ ン ポ ナ ー ゼ が
11
と し て き た 方 で し た。 最 近 の 里 帰 り は な い。 2 つ め と 一
したし、切除してしまったので、熱も引き、振り返れば、
瘻など拒否した経緯もあり、十分な抗結核薬が呑めない。
い る カ レ ー 屋 さ ん の ほ う が 多 い よ う な も の で す。 3 週 間
. 度の熱が引かない、夜苦しくて目が覚める。と、転々
結 核 で な け れ ば 治 療 の 手 控 え で よ い か と 思 う も の の、 結
節 炎 で し た。 痰 も 胃 液 も 結 核 が 出 な い も の で す か ら、 外
80
体 培 地 が 3 週 間 目 で 抗 酸 菌 培 養 陽 性 と な り、 診 断 に 結 び
球が主体で、糖は
と高
30
80
し た。 東 大 で は 心 の う 水 も 穿 刺 し て、 結 核 性 心 の う 膜 炎
5
116
90
40
m
g
/
d
l
20
117
37
が陰性な
鎖骨のピリピリは変わらないそうです。右と左ですから、
それは変わらないでしょうね。
さ な い 検 査 で す。 高 齢 者 で も、
人 も 居 る も の で す ね。 早 く に 疑 い を 晴 ら す こ と が 出 来 ま
)ゆえ、腰椎麻酔で
大 学 で い つ も の 通 り 降 圧 剤 を も ら い ま し た。 そ の 後 徐 々
した。
「ベルトのアナが幾つか増えました」と、しかし、触っ
と 内 臓 肥 満 で す ね 」 と、 失 礼 な こ と を 最 初 に 申 し 上 げ ま
望 し て い た よ う で す。 7 月 7 日 に 左 鎖 骨 が ぴ り ぴ り し て
て み て、 波 動 を 触 れ て ビ ッ ク リ、 腹 水 が あ る。 肝 臓 は ト
日に
の 先 生 か ら 連 絡 が あ り ま し た。 ツ ベ ル ク リ ン 反 応 で は、
あ り ま し た。 先 ほ ど の 2 例 で 大 変 活 性 化 さ れ て い た 整 形
右 肺 尖 の 小 粒 状 影、 両 肺 底 背 側 の 気 管 に 沿 っ た 散 布 影 が
あ た ら な い と い け な い が、 何 病 か 判 ら な い と 紹 介 も し に
陰 性。 さ て、 東 京 医 科 歯 科 が か か り つ け で も、 消 化 器 に
ラ ン ス ア ミ ナ ー ゼ の 上 昇 は な い も の の 萎 縮 し、 尿 蛋 白 は
色 は 3 回 と も 陰 性、 4 週 間 目 ま で の 培 養 も 陰 性 で し た。
8 月 に 3 回 痰 を 見 た が 膿 性 で も 血 性 で も な く、 抗 酸 菌 染
垂 な ど も ふ く め て の 腸 の 穿 孔 も な い。 通 常 の 抗 生 剤 を い
で、 門 脈 腫 瘍 塞 栓 も な い。 普 通 の 腹 膜 炎 と い っ て も、 虫
預 か り す る こ と に な り ま し た。 癌 性 腹 膜 炎 で は な さ そ う
×
9 月 9 日 の 4 回 目 の 痰 で は、 抗 酸 菌 染 色 は 陰 性 だ が、 結
く つ か 変 え な が ら 投 与 し て い く う ち に、 反 応 が 得 ら れ な
と も あ り、 9 月
A
D
A
年
以上)
肺活動
bunkyo.lg.jp/var/rev0/0018/1183/kaku4shou.pdf]
性 結 核 は 例: 肺 外 活 動 性 結 核 は 例 で し た。 平 成 年
[http://www.city.
は ・ (
月 上 旬 に 転 院 し ま し た。 当 院 で は 腹 水 の 結 核 菌
PCR陰性だったですし、腹水
え て、
した。入院なしで在宅で治療を続け、体重も戻りましたが、
で す。 文 京 区 の 統 計 で も、 平 成
し、 公 費 申 請 を し て、 4 剤 の 治 療 を 9 月
と 正 常 範 囲 内 で し た。 し か し、 転 院 先 の 東 京 医 科 歯 科 大
で
40
結 核 が で る と、 病 院 の 職 員 は 凹 み ま す。 看 護 職 だ け で
なく、受付のクラークも、視機能訓練士も、治療にあたっ
想定外というのは難しいものです。
大 学 病 院 が 4 つ あ る ほ か は、 小 石 川 東 京 病 院 を 含 め て
百床の病院が3つあるだけという文京区の状況を考えて
肺活動性結核は 例:肺外活動性結核は5例でした。
36
%ほどを、自分が占めているというのは、突飛な
40
感染症は5年で十例弱くらい
6つ目に挙げた
!
だ っ た で し ょ う か、 ガ フ キ ー が で る た び に、
すから。
も の で す。 肺 外 結 核 な ら 1 割 に 関 与 し て い た ら し い の で
その
も、毎年 例ほどの届出、5年で200例ほどでしょうか。
[http://www.eiken.pref.kanagawa.
! と お 祈 り し ま し た が、 結 核 性 と 非 結 核 性 の 比 は
M
A
C
申し上げます。
年、 平 塚 市
M
A
C
さ て、 小 石 川 に い た 5 年 で 自 分 の 症 例 は 先 に 挙 げ た 8
つ と、 あ と 結 核 性 胸 膜 炎 1 例・ 肺 結 核 1 例 の 例 で す。
肺外結核:肺結核は、6 4となります。診断に失敗した、
結核があったものです。
さ れ て く る は ず も な い と は 思 う の で す が、 随 分 と は 肺 外
ル の 医 者 な ど 指 名 は し な い の で、 肺 結 核 が ど ん ど ん 紹 介
咳 と 痰 で、 肺 結 核 と い う な ら、 最 初 か ら 呼 吸 器 の あ る
病院へ行くでしょうし、紹介するにしても、コレステロー
心のう膜・腹膜の2例を引いても、4 4となります。
対
5
配は残りますが。
更に、不可解なことに、肺がんそのものは見つけられま
せんでした。本当に見落としてなかったのか、いまでも心
半々でした。
N
T
G
10
て く だ さ っ た。 小 石 川 東 京 病 院 の 職 員 の 皆 さ ん に、 感 謝
21
学では、腹水の抗酸菌染色塗沫陽性、結核菌が
6
14
確定しました。この症例のその後は聞いておりませんが、
30
3
37
P
C
R
20
14
日に開始しま
核 菌 P C R が 陽 性。 次 第 に 肺 尖 の 影 が 増 強 さ れ て い る こ
20
い ま ま、 胸 水 ま で 出 現 し、 主 治 医 に 病 床 を 確 保 し て も ら
40
日に保健所に肺結核としての届けを出
硬 結 や 水 泡 は な い も の の、
く い。 主 治 医 に 電 話 し て、 満 床 と い う の で と り あ え ず お
C
T
ミ リ と 強 陽 性 で し た。
整 形 外 科 に 掛 か り、 7 月
を 撮 影 し た と こ ろ、
度 の 微 熱 が 見 ら れ て い た の で 近 医 で、 感 冒 薬 な ど を 所
に 倦 怠 感 と 仰 臥 位 に な る と 苦 し い と い う こ と で、 大 学 病
らが幸いなのかは、判りにくいです。
れ ま せ ん で し た。 2 月 初 旬 に 掛 か り つ け の 東 京 医 科 歯 科
70
院は予約がとれないと、当院に初診してきました。「随分
手 術 し た も の の、 す っ き り と 抗 結 核 薬 が 効 く 症 例 と ど ち
治りにくい非結核性抗酸菌症(
した。疑いは晴れても、逆に薬剤に対して反応の乏しい、
T
B
最 後 の 症 例 は、 2 月 末 入 院 の 歳 代 男 性 で す。 こ れ も
イ ン ド 人 の 症 例 と 同 様、 自 分 で は 診 断 治 療 に 結 び 付 け ら
−
Q
F
T
N
T
G
9 つ め も、 整 形 外 科 の 歳 代 の 女 性 の 症 例 で す。 3 月
k g、 7 月 k g、 8 月 k g と 体 重 が 漸 減 し、 時 折
80
32
29
対
5 年 で 他 の 内 科 医 3 名 が 診 断 に 至 っ た 結 核 は、 5 つ 目
の症例を含めて塗抹陽性の肺結核が3例でした。
平成
38
118
33
13
jp/005_databox/0511_kekkaku/PDF/kekkaku_22.pdf]で
肺 活 動 性 結 核 は 例: 肺 外 活 動 性 結 核 は 8 例 だ っ た そ う
22
119
37 35
自己紹介
生から習っていたこともあり、中学生から大学卒業までは、
クラシック音楽にのめりこんでおりました。高校から大学卒
業まで交響楽団に在籍し、大学時代は学校に行っても授業は
平塚市医師会員の皆様、はじめまして。このたび平塚医師
会に加入させていただきました、内田泰至と申します。平成
ルで演奏したことです。外科に入局してからは演奏する余裕
大学時代の一番の思い出は、全国の医学部学生が集まる医
科学生オーケストラに参加させていただき、サントリーホー
半分、あとはバイオリンばかり弾いていました。
年から平塚市徳延で開業しておりました医療法人湘鵬会内
もなくなり、しばらく楽器とはご無沙汰の毎日でしたが、息
医療法人湘鵬会内田クリニック 内田 泰至
年4月より、父、内田久則と
私は、北里大学医学部を平成4年に卒業し、同大学の外科
学教室に入局、6年間の外科研修ののち、北里大学外科大学
ともに地域診療に携わらせていただくことになりました。
することなのですが、まだまだ当分先になりそうなので、医
始めたところです。将来の夢としては息子たちと弦楽合奏を
子たちにも楽器を習わせてみようと最近長男にチェロを始め
田クリニックにおいて、平成
院に入学。学位取得後5年間相模原市内の森下記念病院で消
師会員の方々で弦楽器をたしなまれる方がもしいらっしゃい
ております。昨年までの手術漬けの毎日から急に外来だけに
りました。現在も週1回は大学で専門外来をさせていただい
部 外 科 に も ど り、 大 学 病 院 で は 末 梢 血 管 外 科 を 専 攻 し て お
い と 思 っ て お り ま す の で、
クリニックについては、地域の皆様に少しでもお役にたて
るよう研鑽に努めていきた
ましたら、是非お声をかけていただければと思っています。
次に思い出されるのがテニス。それは、 年程前の当医師
会テニス部の納会。大磯プリンスホテルのテニスコートに、
チしている。
今では懐かしい。その後、判定会の責任者を彼にバトンタッ
レントゲンの撮り方を含め、微に入り細に入り話合ったのが、
れた。当時は、完璧な注腸レントゲン撮影のむづかしい頃で、
ますか?」と、数例の注腸レントゲンフイルムを持ってこら
う。ある日、皆が帰ってしまった後で「この写真みてもらえ
んでいるうちに、段々と気心が知れる間柄になったように思
と仕事をこなすタイプだった。二人で間接フイルムを覗き込
していた頃で、先生はまだ若く、多少シャイな感じで、黙々
20
ラケットを持って突然現れた。数年前から始めたらしい。当
時、市民病院の副院長だった宮沢先生との練習(乱打)を見
120
させたことがきっかけで、私自身もバイオリンのリハビリを
年に北里大学医学
なってしまい、戸惑うことも多かったのですが、最近ようや
皆様今後ともよろしくお願
化器外科全般の診療に従事したのち平成
く少し日々のペースがつかめてきたところです。医師会会員
いいたします。
思い出話
高橋克孝先生を悼む
先生の姿を求めて、自分の記憶を辿っていくと、約 年前
の胃がん・大腸がん判定会まで遡る。私が判定会の責任者を
武川慶孝
稿している通りの昆虫マニアですが、私はバイオリンを小学
私は、スポーツはゴルフを少々たしなむくらいで、どちら
かといえば文系の人間です。父親は、この孟宗でも盛んに投
の皆様、今後ともよろしくご指導のほどお願いいたします。
20
13
121
24
12
6-2
6-1
6-3
ていたら、彼は、まるでスタミナがない。前に後ろに、一生
で、厚い座布団を敷いていた椅子に座り、
訪ねた際は、思ったよりは元気に見えた。尻が痛むとのこと
分程、話ができ
懸命走るので、もう汗グショグショで息もたえだえ…。そん
に移ってからは、試合も出来る程になったのだが、ボーリン
タミナは回復していた。努力の人である。その後、Мコート
「一年間、鍛えてきます!」。そして、一年後、別人の如くス
な彼に「大分、歳は違うと思うけど、副院長は余裕だよ…」。
ら…。約
たら、それこそ、こんなに淋しい別離はなかったであろうか
はあったが、それでも小生の心は救われた。この機会がなかっ
れ以外は、体力を考慮し控えざるを得なかった。短い時間で
た。内容は、すべて今回の病に関する小生の問いかけで、そ
か月後の葬儀には、なんの躊躇もなく火葬場まで
グ中に右上腕筋の部分断裂をきたし、スポーツは不可となる。
同行させて戴いた。残されたご家族とも、家族ぐるみのお付
6-5
3-6
2-2
3
3-2
1-3
4
4-0
1
5-6
6-0
清水 大輔(横浜)
遠藤 徳之(小田原)
0-6
6-1
5-6
月永 晶人(横須賀)
三宅謙太郎(横須賀)
6-2
6-1
6-3
6-3
岩崎賢太郎(横浜)
前田 純一(東京)
せっかく頑張ったのに、どうも運がない。
き合いを大切にしたいと思っている。
5
最後は産業医部会。当時、副会長だったこともあり、産業
保健担当理事を、お願いしたら気持ちよく引き受けてくれた。
高橋先生、長い間ありがとうございました。心安らかにお
休み下さい。
0-4
当時の産業保健関係の仕事には問題も残っていたが、彼は、
1-6
それらをあいまいにせず、正論を表に出して是正していった。
訃 報
1-6
一見、おとなしそうに見えるが、芯は強かった。
平成二十三年度は、六名の先生方が、ご逝去されました。
0-6
その後、内科部会の会長を引き受け、更に社保の審査委員
をも引き受けてしまった。本業の自分の診療所も多忙であり、
歳)
2
さすがに当方も、先生の身を案じるようになっていた。「先生、
平成二十三年六月十七日 中山 隆市先生(享年 歳)
平成二十三年六月二十日 高橋 克孝先生(享年 歳)
平成二十三年七月十六日 中野 政男先生(享年 歳)
平成二十三年七月二十八日 津田 康之先生(享年 歳)
萩原 通先生(享年
3-1
122
1
平成二十三年十月三十日 2-6
歳)
6-0
相当に厳しい毎日だけど大丈夫か?」と尋ねても、「自分は、
● 三位決定戦
平成二十四年三月一日 野口 憲一先生(享年
つつしんで御冥福をお祈り申し上げます。
6-5
0-6
月の中旬であった。雨の夜、先生宅を
6-0
青柳 祥夫(横浜)
尾崎 亮(横浜)
武川慶孝
かれてリーグ戦から開
位 通 過。 決 勝
始。 中 村 千 里 組 は リ ー
グ戦を
トーナメントは珍しく
順位
こういう事が好きだから…」と笑っておられた。
伊藤 大介
59 61 83 91 60 80
勝敗
平成 年 月下旬に産健連で仕事をしたのを最後に、間も
なく東京の大学病院に緊急入院。最初の情報では、命は大丈
宮川 智幸
草山 毅
名 ) の 参 加 が あ っ た が、
時 代 の 流 れ か、 高 齢 者
は 激 減 し、 女 子 の 部 は
参加なし。
一 般 は、 殆 ど が こ
こ に 集 中 し、 組 に 分
2
準 優 勝、 通 常 は 優 勝 し
3
6
3
6
2
6
30
月永・三宅
夫と確信していたが、入院期間は予想をはるかに超えて長引
中村 千里
吉松 昭彦
27
A
2
清水・遠藤
き、帰宅されたのは
伊藤 大介
123
● 一般 A 決勝トーナメント
26
部報
宮川 智幸
吉松 昭彦
岩崎・前田
中村・草山
13
テニス部報
吉松 信彦
青柳・尾崎
中村 千里(平塚)
草山 毅(秦野)
例年の如く、県医大会の結果から報告します。
吉松 信彦
三宅賢太郎
5
ている。優勝した月永・
● 一般 A-A 組
2
月永 晶人
1
月永 晶人(横須賀)
三宅謙太郎(横須賀)
5
6
3
48
3
6
3
6
2
6
4-0
5-6
23
第 回神奈川県医師テニス大会 月 日(日)、横浜ふ
るさと村テニスコートにて開催された。好天のもと 組(
● 一般 A 決勝トーナメント
4
6-1
6-3
1-3
0-6
3-2
清水 大輔(横浜)
遠藤 徳之(小田原)
試合めとなれば、この結果もやむなし。一般
以外の
試合しか出来ず、不合理ではあるが、クラス分け
勝敗
順位
0-④
0勝2敗
一般 2 位
④-1
2勝0敗
一般 1 位
1勝1敗
壮年 1 位
岡本・柴田
勝敗
順位
2-④
2-④
0勝2敗
熟年 1 位
0-④
1勝1敗
実年 2 位
2勝0敗
実年 1 位
八木・児島
及能・蜷川
佐藤・武川
勝敗
順位
④-1
2-④
1勝1敗
2位
0-④
0勝2敗
3位
2勝0敗
1位
三宅組は親子ほど年齢差のあるインカレ出身の現役。決勝戦
が
チームは
は申告制なので自動的に決まってしまう。大会の主旨は親睦
124
なので、多少の不備は許されるのでありがたい。写真の出来
前田・前田
寿
④-0
の悪いのは百も承知ですが、記念ですので出させて戴きます。
菅沼・遠藤
④-0
④-2
第 回神奈川県医師ソフトテニス大会(兼県下医科学生ソ
フトテニス大会) 月 日(日)、小田原城山庭球場で開催
1-④
④-2
佐藤 肇(横浜)
武川 慶孝(平塚)
された。朝から雨で、懇親会だけでも出席のつもりで出発す
④-0
岡本 哲(東京)
柴田 武士(東京)
1-④
る。というのも、主催者の小田原医師会・辻内先生からペアー
テニスコートにて
日)
内 和人(小田原)
畔上 拓也(小田原)
④-2
及能 茂道(横浜)
蜷川 栄三(秦野)
が足りないので、ぜひ出席をと懇願されていたからである。
日
月
体調を崩され、テニスはまだ無理の矢嶋先生も出席し、会
話の方は絶好調なので心強い。
年
この調子なら、テニスも夢ではなさそうだ。
神奈川県医師テニス連盟理事会報告(平成
協議事項として、理事会の若返りについて話し合いがなさ
れ、実質的な責任者である理事長に中村豊東海大学教授(当
医師会中村副会長の弟)を推挙する旨、確認された。
④-1
菅沼 明人(静岡)
遠藤 徳之(小田原)
小生は、ここ数年、硬式・軟式共、練習をしていないので極
歳で走
医科学生を 名程招待した親睦会は、硬式とは比較になら
ぬほど内容があり、これは今後とも、大切に継続されるよう
かないか。
壮年より実力は上と思われるが、これも親睦とあきらめるし
70
尚、訃報もあり、藤沢選出の服部慎理事が平成 年 月
日に逝去された。矢嶋先生と学生時代にペアを組んでいたと
梶本 光要(静岡)
大澤 亮太(静岡)
前田 亮二(東京)
前田昭太郎(東京)
八木 剛平(茅ヶ崎)
児島 瑞夫(横浜)
力出場を控えている。
歳代は脚力があるが、
小田原に着いたら、丁度、雨がやんでいて、練習もソコソ
コに早速、試合に入る。小生の属する寿は、 歳以上と 歳
以上の先生がペアを組み、
は決まっている。
「アッ
ソフトテニスは ゲーム先取で、 試合のみだから、
という間」に終わってしまった。 歳代の寿は、 歳以上の
2
れるのは、小生のペアの佐藤先生のみ。故に戦う前から勝敗
70
1-④
28
いう優しい人物でした。
30
佐野 貴史(愛知)
後藤 慶暁(東京)
10
4
当日は雨となり、夜の懇親会のみ(ラ・シャーレにて)
月
納 会
期待している。
10
内・畔上
3
80
6
11
125
M
梶本・大澤
48
23
佐野・後藤
A
80
40
2
24
熟年 実年
70
25
一般 壮年
2
6
11
ボウリング同好会
(平成二十四年度活動報告)
鈴木盛彦
平成二十四年度のボーリング同好会は、毎月一回、第三木
曜日の午後八時から寒川町にある寒川ボウルにおいて月例会
を開催し、会員間の親睦を兼ねて、ゲームを行っております。
表 は、平成二十四年の一月から十二月までの優勝者氏名
と優勝スコア(三ゲームのトータルピン)、ハンデキャップ
ならびに、ハイゲーム者の氏名とハイスコア(一ゲーム)を
表にしました。
表 は、平成二十四年の一月から十二月までのアベレージ
の表です。
個人戦は三ゲームですが、終了後に気分を変えて、ボック
ス(四〜五名)でチームを作り、投球順番を決め、一人一球
ずつ順番に投げて二ゲームのトータルで優勝を争う団体戦も
行っております。「スペアー」や「ストライク」が出るとチー
ムメイトから大歓声が湧き、和気藹々とゲームを楽しんでお
ります。
た。大会はヨーロピアンスタイルで二ゲームトータルで行い
武川会長参加の下、三十九名で神奈中ボウルで開催されまし
部共催のボウリング大会が、平成二十四年十月二十日(土)に、
ム戦では、四十三チーム中 十四位、ダブルス戦では、茅ヶ
催されました。参加者は、百七十二名でした。鈴木は、四人チー
アピアにて、平成二十四年十月七日(日)、八日(月)に開
第七回平塚市医師会のスポーツ医学部会主催・ボウリング
ました。
崎市の山崎先生と組んで、八十六組中 三十六位でした。シ
ングル戦は、最後のゲームで二〇四を打ちましたが、九十五
位でした。
平塚市医師会ボウリング同好会は、毎月一回、第三木曜日
の午後八時から、寒川町にある、寒川ボウルにおいて月例会
長野勉さん、七位・遠藤和邦先生、八位・山田幸宏先生、十位・
西村猛先生、十三位・事務長の清水正明さん、十四位・武川
族の皆様、従業員の皆様方の御参加を心からお待ち申し上げ
を開催しておりますので、会員の先生はもとより、会員の家
三十二位・久保田毅先生でした。
ております。
第二十四回全日本医師ボウリング大会が、静岡市のボウル
務局の長野勉さんは、三位でした。
三十七名でした。鈴木は医師の部で十一位、準会員の部で事
われました。参加者は、医師会員十六名、準会員二十一名の
第四十三回神奈川県医師ボウリング大会が、平成二十四年
九月十七日(月・敬老の日)戸塚ボウリングセンターにて行
ただきます。
生が参加されました。結果は、成績紛失の為、割愛させてい
ウリング大会が開催される為、遠くは、岩手県から二名の先
日(日)行われました。十月にボウルアピアで全日本医師ボ
「第十二回 愛知・神奈川・静岡・東京医師ボウリング親
睦大会」が、静岡市のボウルアピアで、平成二十四年六月十
慶孝先生、二十五位・北山禎昭先生、三十位・久保田亘先生、
優勝は、151、193、計344、二ゲームハンデ 計
384で鈴木でした。二位・高山慶介先生、四位・事務局の
40
126
127
1
2
平成 24 年 年間アベレージ表
表2
平成 24 年 優勝・ハイゲーム者
表1
平塚市医師会ボウリング部
平塚市医師会ボウリング部
氏 名
年間トータル
アベレージ
36
6091
169.19
遠藤 和邦 先生
3
438
146.00
山田 幸宏 先生
3
433
144.33
鈴木 盛彦
ゲーム数
★★ 個 人 賞 ★★
開催日
(ハンディは除く)
医師会事務局・薬品会社(2 回以上参加者)
氏 名
ゲーム数
女性
優勝者氏名
3G 合計
HD
ハイゲーム
1G
H24.1.19(木)
鈴木 盛彦
492
60
小野(ケミファ)
185
H24.2.16(木)
鈴木 盛彦
544
60
橋本(バイエル)
207
H24.3.15(木)
長野(医師会)
627
75
鈴木 盛彦
210
H24.4.19(木)
鈴木 盛彦
535
60
橋本(バイエル)
187
H24.5.17(木)
長野(医師会)
592
75
長野(医師会)
189
年間トータル
アベレージ
H24.6.21(木)
長野(医師会)
623
75
長野(医師会)
186
長野(医師会)
30
5128
170.93
H24.7.19(木)
長野(医師会)
617
75
長野(医師会)
212
橋本(バイエル)
15
2384
158.93
H24.8.28(木)
鈴木 盛彦
587
60
鈴木 盛彦
204
6
917
152.83
H24.9.20(木)
長野(医師会)
617
75
長野(医師会)
203
田中(武 田)
18
2713
150.72
H24.10.18(木)
長野(医師会)
603
75
鈴木 盛彦
209
杉山(アストラ)
24
3590
149.58
H24.11.15(木)
長野(医師会)
603
0
田中(武田)
187
廣田(大日本)
18
2620
145.56
H24.12.20(木)
鈴木 盛彦
590
60
橋本(バイエル)
220
石山(ノバルティス)
21
2942
140.10
遠藤(アルフレッサ)
36
4856
134.89
小野(ケミファ)
15
2001
133.40
井口(中 外 )
18
2379
132.17
橳島(ベーリンガー)
21
2754
131.14
斉藤(アステラス)
15
1948
129.87
森(ファイザー)
9
1164
129.33
尾垣(第一三共)
15
1844
122.93
戸田(大 塚)
9
1103
122.55
堀内(第一三共)
6
707
117.83
15
1441
96.07
佐々木(第一三共)
小川(ノバルティス)
他9名参加有り
129
★★ チ ー ム 賞 ★★
開催日
H24.10.18(木)
優勝チーム
2G 合計
橳島(ベーリンガー)
1G 174
長野(医師会事務局)
2G 182
1G HD10 ピン含む
開催日
ハイゲームチーム
合計 356
ハイゲーム
尾垣(第一三共)
H24.4.19(木)
橳島(ベーリンガー)
斉藤(アステラス)
1G HD10 ピン含む
128
18 7
編集後記
平 成 年 度 は、 東 日 本 大 震 災 や 原 発 事 故 か ら の 復 興 が な
か な か 進 ま な い な か 竹 島、 尖 閣 諸 島 の 領 土 問 題 も 持 ち 上 が
り、円高、失業率の改善が認められず、景気が良くならない
状 態 が 統 き ま し た。 そ の た め、 年 末 に 行 わ れ た 衆 議 院 選 挙
で は 自 民 党 が 単 独 過 半 数 の 圧 勝 と な り、 円 高 改 善、 日 経 平
均株価も一万円台の王台に乗って景気改善が期待されてい
ま す。 民 主 党 が「 社 会 保 障・ 税 の 一 体 改 革 」 の 一 環 と し て
消 費 税 率 の 引 き 上 げ を 決 め、 今 後 消 費 税 増 税 分 の 使 い 道 に
社会全体で見守っていく必要があります。
)の5月 日の
明るい話題は、東京スカイツリー(634
開業で商業施設も含め半年で2792万の集客がありまし
た。 7 月 開 催 さ れ た ロ ン ド ン 五 輪 で は 史 上 最 多
個のメダ
22
ま せ ん で し た。 ま た、
月には京都大学の山中伸弥教授が
し ま し た が、 お 家 芸 の 柔 道 で は、 メ ダ ル ラ ッ シ ュ と は い き
ル を と り ま し た。 卓 球、 バ ト ミ ン ト ン で 初 め て メ ダ ル 獲 得
38
m
細 胞 を 開 発 し、 再 生 医 療 実 現 の 道 を 開 き
IPS
今 年 も 多 数 の 玉 稿 を 頂 載 し、 編 集 委 員 一 同 感 謝 し て お り
ました。
を作り出せる
ノ ー ベ ル 医 学・ 生 理 学 賞 を 受 賞。 様 々 な 組 織 や、 臓 器 細 胞
10
高山秀明
ま す。 次 号 も よ り 多 く の 原 稿 を お 寄 せ 下 さ い ま す よ う、 お
願い申し上げます。
編集委員
平塚市医師会
平成二十五年 八月
四十五号
内田 久則 遠藤 和邦 宮入 朗
高橋 昇司 高山 秀明
孟宗
発行日 発 行 電話
㈱コムプランニング
〇四六三 二
-四 〇
- 三一六
印 刷 130
24