お金のルールを変えなさい! - ベーシック・インカム実現プロジェクト

お金のルールを変えなさい!
~国から毎月 13 万 8 千円を無償で支給してもらう~
ベーシック・インカム実現の会
コーディネーター
奥原
啓成
著
現代のような分業社会では、自分一人だけの幸福なんてありえない。
あなたが豊かになりながら、みんなを豊かにし、日本を変える秘策!
選挙に行かない 4000 万人が団結すれば、誰もがお金のために働かなくても生
きていける社会が、一瞬で実現できるのです。
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目次
はじめに
「お金自身について考えてみること」=「お金に困らなくなること」
利子に仕掛けられたトリック
お金は神なり
原発の恐るべき実態
原発を始めた隠された理由とは
原発に代わるクリーンエネルギー
お金が人を幸せにする道具となるために
第1章
経済成長すれば暮らしは本当に豊かになるの?
ますます尊い神サマとなっていくお金
本当は交換の道具にすぎないお金
働かざる者こそ食いまくっている
働く者も食えるとはかぎらない
第2章
しょせん経済は人間の営み
大人=子ども+ヨロイ
生きることの不安を癒すもの
それがなければ、お金の経済は一瞬で崩れるのです!
現実は憲法違反の「職業選択の不自由」
第3章
毎月 13 万 8 千円は毎年 193 兆円!
循環すればするほど増えていくお金
お金はどのように生み出されるの?
なぜ国民の給料を倍にすることができたのか?
ただの紙切れの一万円札に、なぜ一万円の価値があるのでしょうか?
「GDP の大きさ」=「豊かさ」なのでしょうか?
第4章
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なぜ世界には飢えに苦しむ8億人もの人がいるのでしょうか?
質の経済、中身の豊かさの経済とは?
私たち一人一人は生活芸術家になります
ベーシック・インカムの財源はどこにある?
「三方良し」の精神とベーシック・インカム
ベーシック・インカムの財源はここにある!
第5章
日本自身がお金を貯めこむメタボ体質
もっとも信頼できないのは国の会計
政治家の言葉にごまかされないために
儲けが目的でない国に利子は払えない
バブル崩壊の後始末に国民のお金が使われた?!
「お金を刷る」=「インフレ」の大誤解
おわりに
怠け者にベーシック・インカムを渡してもいいの?
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はじめに
~「お金自身について考えてみること」=「お金に困らなくなること」~
世の中にはお金に関する本がたくさん出ています。
その多くは、株などの投資、会社を起業する方法や、これから儲かりそうな分野のビジネ
ス情報を述べたものだったり、あるいは自分の能力や市場価値を高めるための知識を提供
したり、様々な成功哲学を述べたものだったりします。
これらの本に書かれてあることを実践すれば、誰でも収入をアップできる、お金持ちにな
れる・・・。
でも、それらを実践してお金持ちになった人なんて、めったにいないのではないでしょう
か・・・?
相変わらず、変化のない今を過ごしながら、バラ色の未来を夢見続けている。成功してお
金持ちになれる人の存在が奇跡だから、これらの本も売れているのでしょう。
と同時に、これらの本はあなたがお金持ちになれない理由をはっきり教えてくれる点も魅
力的です。
世の中にはお金を湯水のごとく使う大富豪もいるのに、なぜ自分はお金持ちでないの
か・・・?
その原因も分からず、お金に悩む日々を送ることほど不安なことはありません。
「自分がお金持ちでないのは、会社に雇われている身分だからだ。会社を立ち上げること
さえできれば自分も・・・」
「自分の能力が足りないせいだ。きっと英語がペラペラ話せるようになれば、高い給料で
雇ってくれる会社もいっぱいあるにちがいない・・・」
自分がお金持ちでない理由だけでも分かれば、多少は不満な現状にも納得できますし、不
安な心も落ち着きます。
答えが分かれば手の打ちようもあります。
そういった安心を与えてくれる面でも、これらの本の需要があるのでしょう。
でも、それらのアドバイスが間違っていたとしたら・・・。
その可能性がないとは限らないのです!
たとえば、いくら自己投資をしてスキルアップしても、そう簡単にはお金に結びつかない
でしょう。どの分野にもライバルはたくさんいますし、自分より賢く、才能豊かに生まれ
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ついた人は、星の数ほどいる悲しい現実にも気づかされるでしょう。必要とされる知識、
技術も、時代とともにどんどん変化しながら、増え続けています。それは、学ぶスピード
よりもはるかに早い・・・。お金に結びつく前に人生が終わってしまいそうです。こんな
状況で儲けることができるのは、資格取得のための教材を販売する会社くらいでしょう。
しょせん株などの投資もゼロサムゲーム、儲かった人と同じだけ損した人がいます。お金
を失う人がいて初めて、お金を儲けることも成り立つゲームです。だから、儲けることが
できるのはゲーム参加の手数料をとる胴元と、圧倒的な情報力、資金力を持った一握りの
人たちでしょう。この人たちは、甘い言葉で私たちを誘惑します。だって損してくれる人
がいなければ、儲けることはできないのですから・・・。
もっと突っ込んで考えてみると、これだけお金に関する本が出版されていながら、どの本
も現在のお金のあり方を当たり前の大前提として、その中でお金を儲ける方法を述べたも
のがほとんどです。
しかし、現在のお金のあり方こそ、あなたがお金持ちになれない原因であったとしたら・・・。
「敵を知り己を知らば百戦危うからず」という言葉があります。今まで私たちがお金持ち
になれないのは、自分に原因があると考えてきました。だから、お金自身について考える
なんて思いもおよばず、お金を稼ぐために自分をどう変えればよいかについて苦労してき
たはずです。
でも、これだけ自分について考え、お金を稼ぐ努力もしてきたのに、相変わらず多くの人
がお金持ちになれないのは、本当は自分が原因なのではなく、敵の方に原因があったから
ではないでしょうか・・・。
敵であるお金(私達を悩ませたり困らせたりするやっかい者というぐらいの意味での敵で
す)の真実の姿を知らないから、振り回されてしまっているのが現実ではないでしょう
か・・・。
もしそうならば、
「お金自身について考えてみること」=「お金に困らなくなること」です。
~利子に仕掛けられたトリック~
実は、お金の本質について考えた大先輩に、日本では「モモ」の作者として知られるミヒ
ャエル・エンデという人がいます。「モモ」は 30 カ国以上の言語に翻訳され、子供から大
人まで世界中の人たちに愛され読み続けられている物語です。そのストーリーを簡単に紹
介しますと・・・
ある街の古びた劇場に、モモという少女が住みつくようになりました。
その街の人々は貧しくとも心豊かに暮らしていましたが、ある日、時間貯蓄銀行から来た
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という灰色の男たち(実は時間泥棒)が訪れます。彼らは、時間を節約して時間貯蓄銀行
に時間を預ければ、利子が利子を生んで人生の何十倍もの時間を得ることができるという
営業トークで人々を誘惑します。しかし、その誘惑にのせられ時間を預けた人たちは、人
生にゆとりを持てるようになるどころか、働いても働いても豊かにならず、どんどん余裕
のない生活に追い込まれていったのです。そして、モモは時間泥棒たちと闘い、盗まれた
時間を人々に取り戻す・・・。
こんなお話なのですが、なぜ人々は時間を貯蓄したにもかかわらず、どんどん余裕のない
生活に追い込まれていったのでしょうか?
貯蓄された時間に利子がついていけば、あり余るほどの時間やゆとりが手に入るはずです。
そこに、利子に対するエンデの鋭い視点、問題提議があります。
私たちは、お金を借りたら利子を取られるのは当然だと考えています。
もし、自分がお金を借りなければ、お金を貸してくれた人は、そのお金を使って何らかの
欲求や楽しみを満足させることができます。それを我慢してもらってお金を貸してくれた
のだから、我慢してもらったぶん利子を払うのは当然だと・・・。
しかし、よくよく考えてみると、利子ぶんのお金は世の中に存在しないのです。
とは言っても、このことはとても見えづらいことなので、たとえ話を使って説明したいと
思います。
昔々、自給自足をしながら、生活に不足するモノがあったときには、物々交換して暮らす
100 人の村がありました。
ある日、一人の男が未来からタイムマシンに乗って、その村にやってきました。
その男は物々交換の不便さを見て、かわいそうに思い、お金の使い方を村人に説明し、持
っていたお金を貸してあげることにしました。
最初は半信半疑だった村人も、実際にお金を使ってみると大変便利で、とても気に入りま
した。
今までは、物々交換でお互いが満足するよう話をまとめるために大変な時間がかかってい
ましたが、お金があればスムーズに事は運びます。
お互いのニーズが合わないために物々交換できなかった取引きも、お金があれば成立する
ようになりました。持ち運びにも便利です。
こんなわけで、お金は村人たちの生活にすっかり定着しました。
そんな状況を見て、未来から来た男はこう言いました。
「私は皆さんにこんなに便利なお金を 10 万円ずつお貸ししました。だから、お礼として1
年後には 1 万円ずつ利子というものをつけて返してください」
素直な村人たちは、彼の言うことはもっともだと思い、快くそれを受け入れました。
すると、1年後にはどうなったでしょうか・・・?
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1人につき 10 万円ずつ貸したので、100 人の村には 1000 万円のお金はあります。
でも、利子ぶんの 100 万円は存在しないのです。
それなのに、存在しない利子を返していくということは、いったいどうすればいいのでし
ょうか?
どこからか奪い取ってくるしかないじゃないですか!
~お金は神なり~
つまり、利子の存在を認めている現在のお金のシステムには、お互いにお金の奪い合いを
させてしまうトリックが、もともと隠されているのです。
利子を他の国から奪うから、大量生産、大量消費、大量廃棄のぜいたくな暮らしを続ける
先進国と言われる国々がある一方、飢えに苦しむ何億人もの人々を抱えた発展途上国と言
われる国々を生み出しています。
あるいは、利子を自然から奪うから、地球規模での環境破壊が進み、地球自身の存続を危
うくしています。大規模な森林伐採による砂漠化、化学肥料や農薬を使った効率最優先の
農業は土地の力を回復不可能なまでに奪ってしまいます。大量の廃棄物のたれ流しにより
海や川や大気はどんどん汚染されています。
その結果、昔は必要なかった空気清浄機や、ガソリンよりも高いミネラルウォーターが生
活必需品となってしまいました。
それで売上げが伸びたからと言って、果たして私たちの生活が本当に豊かになったと言え
るかどうか・・・。
エンデは言います。
「お金には神がもつ特質がすべて備わっています。お金は人を結びつけもすれば、引き離
しもします。お金は石をパンに変えることも、パンを石に変えることもできます。お金は
奇跡を起こします。お金の増殖は不思議以外の何ものでもありません。それに、お金には
不滅という性質まであるのですから。」(『エンデの遺言』 NHK出版)
どんな絶世の美女も年をとれば、その美しさは老いによって失われるでしょう。
私たちだけでなく、この世に存在するすべてのモノは老化から逃げることはできません。
しかし、お金だけはインフレ(お金の価値が下がり、その分モノの価値が上がること)の
影響を考えなければ、まったく老化しないのです。
不老不死は神でしかありえません。
まさに、お金は神なのです!
だから、
「人は理想だけでは生きていけない。まずはお金がなければ・・・」とよく言われ
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ます。
そして、「一人前」とは「経済的に自立していること」なのです。
経済的に自立できていない人間は、
「いつまでたっても学生気分がぬけない」とバカにされ
ます。一人前の大人として見てもらえません。そんな人でも、たまたま運よくお金持ちに
なれば、世間の評価は軽蔑から賞賛へとガラリと変わります。その人自身の中身は何も変
わらないのに・・・。
結婚相手を選ぶにしても、
「経済力があること」
「年収○○万」を基準にする人は多いです。
そんな人は決まって「愛だけじゃ結婚生活はうまくいかないのよ」と言います。
「お金」=「神」の世の中では、
「お金を稼ぐ能力がある人、お金持ち」=「神に愛された
立派な人、善人」でしょうから、当然なことかもしれません。
逆に、「貧乏人」は「神に嫌われる不道徳な者、悪人」ということになるのでしょう。
しかし、本当にお金は神なのでしょうか・・・?
~原発の恐るべき実態~
東日本大震災(被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます)以降も全国各地で強い
地震が多発し、改めて日本は地震大国であると痛感させられました。
そんな日本に原発は 54 基もあるのです。
これまでもチェルノブイリ原発事故、スリーマイル島原発事故、美浜原発事故など、信じ
られない大事故を起こしながら、その教訓が活かされることなく、私たちは原発を増やし
続けてきました。
もうこれ以上あやまちを繰り返さないために、今度こそ、国民全員が原発について正しい
知識を得る必要があります。
そして、一致団結する必要があるのです。
バラバラの一人一人が、それぞれ原発を止めなければと思っていても、何も変わりません。
なぜなら、日本の未来は選挙で決まるのですから・・・。
一人一人に与えられた一票一票が結集して初めて、私たちは日本を変えることができるの
です。
ここに、20 年間、原発で現場監督として働いた、平井憲夫さんの手記があります。
この手記は、原発賛成派の偉い学者さんたちから、
「ほとんどウソ」
「バカバカしい」
「素人
同然の知識」と笑い飛ばされ、批判されたものです。
しかし、今回の福島第一原発事故は、そんな原発の専門家たちの言葉よりも、いのちを削
りながら現場で働いていた平井さんの言葉の方が正しかったことを証明するものだったの
ではないでしょうか・・・。
ソフトバンク株式会社の孫正義社長が、以前、ツイッターで「全ての人々に読んで欲しい。
皆で世界中の言語に翻訳しませんか?」と書かれていたので、すでに読まれた方も多いか
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もしれませんが、その一部分だけでも知らせたく、抜粋して紹介したいと思います。
「具体的な廃炉・解体や廃棄物のことなど考えないままに動かし始めた原発ですが、厚い
鉄でできた原子炉も大量の放射線をあびるとボロボロになるんです。だから、最初、耐用
年数は十年だと言っていて、十年で廃炉、解体する予定でいました。しかし、一九八一年
に十年たった東京電力の福島原発の一号機で、当初考えていたような廃炉・解体が全然出
来ないことが分かりました。
(中略)放射能だらけの原発を無理やりに廃炉、解体しようと
しても、造るときの何倍ものお金がかかることや、どうしても大量の被曝が避けられない
ことなど、どうしようもないことが分かったのです。
(中略)机の上では、何でもできます
が、実際には人の手でやらなければならないのですから、とんでもない被曝を伴うわけで
す。ですから、放射線がゼロにならないと、何にもできないのです。放射能がある限り、
廃炉、解体は不可能なのです。人間にできなければロボットでという人もいます。でも、
研究はしていますが、ロボットが放射能で狂ってしまって使えないのです。結局、福島の
原発では、廃炉にすることができないというので、原発を売り込んだアメリカのメーカー
が自分の国から作業者を送り込み、日本では到底考えられない程の大量の被曝をさせて、
原子炉の修理をしたのです。今でもその原発は動いています。最初に耐用年数が十年とい
われていた原発が、もう三十年近く動いています。そんな原発が十一もある。くたびれて
ヨタヨタになっても動かし続けていて、私は心配でたまりません」
「先進各国で、閉鎖した原発は数多くあります。廃炉、解体ができないので、みんな『閉
鎖』なんです。閉鎖とは発電を止めて、核燃料を取り出しておくことですが、ここからが
大変です。放射能まみれになってしまった原発は、発電している時と同じように、水を入
れて動かし続けなければなりません。
(中略)放射能が無くなるまで、発電しているときと
同じように監視し、管理をし続けなければならないのです」
「それから、原発を運転すると必ず出る核のゴミ、毎日、出ています。低レベル放射性廃
棄物、名前は低レベルですが、中にはこのドラム缶の側に五時間もいたら、致死量の被曝
をするようなものもあります。そんなものが全国の原発で約八十万本溜まっています。日
本が原発を始めてから一九六九年までは、どこの原発でも核のゴミはドラム缶に詰めて、
近くの海に捨てていました。その頃はそれが当たり前だったのです。
(中略)現在は原発の
ゴミは、青森の六ヶ所村へ持って行っています。全部で三百万本のドラム缶をこれから三
百年間管理すると言っていますが、一体、三百年ももつドラム缶があるのか、廃棄物業者
が三百年も続くのかどうか」
こんなにも恐ろしい原発を、なぜ日本は始めてしまったのでしょうか?
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~原発を始めた隠された理由とは~
実は、日本には原発を始めたい理由があったのです。
日本の電気料金は、必要経費のすべてを電気料金に組みこめることになっており、電力会
社の儲けは、その必要経費に 3.5%を掛けたものと決まっています。
したがって、1 兆円ものお金をかけて造られた「高速増殖炉もんじゅ」という原発は、そ
の 3.5%の 35 億円が電力会社の儲けとなるわけです。
つまり、原発のような建設に巨額のお金がかかるものを造れば造るほど、電力会社は儲か
るようになっているのです。
「原発は必要だ」
「原発は安全だ」とCMするたび、それも必要経費と認められて電力会社
の儲けとなります。
その結果、とうとう日本の電気代はアメリカの 3 倍高くなってしまいました。
もちろん、原発を造る会社も儲かるでしょう。
原発一基あたり 5000 億円~6000 億円ものお金が必要なのですから・・・。
そして、原発を造りたい本当の理由であるお金儲けを隠すために、もっともらしいウソが
テレビや新聞、専門家たちの口から主張されたのです。
「このままでいくと、石油は 30 年で無くなってしまう。だから原発が必要だ」とテレビや
新聞は騒ぎたて、
「放射能という毒物は、いずれ科学技術が解決するから心配ない」と原発
の専門家たちは断言して、原発は始められました。
しかし、40 年たった今でも石油はいっこうに無くなる気配もなく、それどころか、石油の
埋蔵量はどんどん増えています。
それに人間は、相変わらず放射能という毒物を、どうすることもできないままでいます。
テレビや新聞の言ったこと、専門家たちの言ったことは大ウソだったのです。
すると今度は、
「二酸化炭素が地球温暖化の犯人だ。二酸化炭素を出さない原発はクリーン
なエネルギーだ」と、テレビや新聞で言われるようになりました。
このような「二酸化炭素温暖化説」にも、いかがわしさを感じずにはいられません。
しかし、福島第一原発事故前までは、この怪しげな「二酸化炭素温暖化説」を追い風に、
世界じゅうで原発ブームが起こっていたのです。
このブームに合わせるかのように、日本の資源エネルギー庁からも、すでに計画されてい
る 14 基の原発が新たに完成しても、まだ 20 基の原発が必要というシュミレーション結果
が提出されました。
子どもの数がどんどん減っている日本で、どうして今以上の原発が必要になるというので
しょうか・・・。
インド、中国、ベトナムで生まれつつあった巨大な原発市場で設けようと、ロシア、アメ
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リカ、フランス、日本は必死でした。
日本の総理大臣も原発の営業マンとなって、これらの国々を訪問しました。
そのとき、日本の総理大臣は、原発には核廃棄物の問題、安全性の問題があるけれども、
そこをしっかり支えれば、原発は地球を守る、いのちを守るために欠かすことができない
エネルギーだと言いました。
でも、原発が地球を守る、いのちを守るなんて大ウソだったのです。
福島第一原発事故後、私たちは安心して水道水を飲めない、農作物や魚介類を食べられな
くなりました。
テレビは「ただちに健康に危害を及ぼすものではない」と「ただちに」という言葉を繰り
返しました。
「ただちに」でないけれども、10 年後には私たちの健康に危害を及ぼすのでしょうか・・・。
~原発に代わるクリーンエネルギー~
原子力は二酸化炭素を出さないクリーンなエネルギーなんていうのも大ウソです!
ウラン鉱石を採掘するときも、それを精錬し濃縮するときも、燃料棒に加工するときも、
原発を建設し運転するときも、原発に必要な揚水発電所の建設や運転にも、核廃棄物を管
理するときも(その管理期間は何十万年にもなります)、原発には大量の石油が必要になる
のです。
原発の電気代は安いと電力会社は言っていますが、その電気代には核廃棄物の莫大な処理
費用がまったく入っていませんから、それも大ウソなのです。
そんな危険なものを造らなくても、実は、東京電力が東京大学に調査させたデータがあっ
て、それは、犬吠崎の沖合いに風車を造れば、その発電量はなんと東京電力の年間発電量
に等しいというものだったのです(すでにコストの問題、風車の羽で鳥を死なせてしまう
問題を解決するアイデアも出されています)。
あるいは、家電を省エネ製品に買い換えるだけで、電気代を半分にすることもできます(た
とえば、今の省エネ冷蔵庫は 20 年前の冷蔵庫の 10 分の 1 の電気代しかかかりません)。
その気にさえなれば、私たちは原発なしでじゅうぶん豊かな生活をしていけるのです。
それなのになぜ、電力会社や原発を造る会社の人たちは、原発が必要だと言うのでしょう
か?
彼らは、原発がいのちを守るものでないことを、核廃棄物の問題、安全性の問題は解決不
可能なことを、知らないのでしょうか・・・?
いいえ、きっと電力会社や原発を造る会社の人たちも、そのことを正しく知っているのだ
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と思います。
でも、いのち以上にお金儲けが大切にされてしまうのです。
そして、そんな企業の態度と私たち一人一人の態度も同じではないかと思うのです。
私たちもお金がなければ生活できないという不安に追いたてられ、生きていくためのお金
を稼ぐことに必死です。
お金のために自殺してしまう、罪を犯してしまう人がいます。
お金のためにウソをつかざるをえない、お金のために好きでもない仕事をせざるをえない、
お金のために思いやりを犠牲にせざるをえなかったことは、誰でも身に覚えのあることな
のではないでしょうか・・・。
いのちよりも思いやりよりも優先されてしまうお金とは、いったい何なのでしょうか・・・?
~お金が人を幸せにする道具となるために~
エンデはこんなことも言っています。
「たしかロシアのバイカル湖だったと思いますが、その湖畔の人々は紙幣がその地方に導
入されるまではよい生活を送っていたというのです。日により漁の成果は異なるものの、
魚を採り自宅や近所の人々の食卓に供していました。毎日売れるだけの量を採っていたの
です。それが今日ではバイカル湖の、いわば最後の一匹まで採り尽くされてしまいました。
どうしてそうなったかというと、ある日、紙幣が導入されたからです。それといっしょに
銀行のローンもやってきて、漁師たちは、むろんローンでもっと大きな船を買い、さらに
効果が高い漁法を採用しました。冷凍倉庫が建てられ、採った魚はもっと遠くまで運搬で
きるようになりました。そのために対岸の漁師たちも競って、さらに大きな船を買い、さ
らに効果が高い漁法を使い、魚を早く、たくさん採ることに努めたのです。ローンを利子
つきで返すためだけでも、そうせざるをえませんでした。そのため、今日では湖に魚がい
なくなりました。競争に勝つためには、相手より、より早く、より多く魚を採らなくては
なりません。しかし、湖は誰のものでもありませんから、魚が一匹もいなくなっても、誰
も責任を感じません」(『エンデの遺言』NHK出版)
そして、エンデは「人々はお金を変えられないと考えていますが、そうではありません。
お金は変えられます。人間がつくったのですから」と訴え続けたのでした。
どうやら私たちは、神ならざるものを神にしてしまっているようです。
本書では、お金の正体をしっかり見つめ、真正面からお金と向き合うことにより、誰もが
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お金の苦しみから解放され、生活のためのお金に不自由しなくなる、そして、全ての人が
豊かに暮らせるようになるための、意外な方法を提案しています。
現在のお金のシステムに組み込まれている、限られたお金をめぐる競争は、私たちに自分
だけの豊かさを追求させます。
「自分、何より自分の家族にはひもじい思いをさせたくない」
と、私たちは必死になって競争しあってきました。
痛ましいほど、お互いに身も心も傷つけあってきました。
テレビをつければ、悲しくなるようなニュースばかりです。
もう、こんなお金のあり方はこりごりではないですか・・・。
今こそ、そんなお金のあり方を変えるときです!
何よりいのちと思いやりが大切にされる社会を実現させるために・・・。
それが、自分に豊かさをもたらしてくれることにもなるのです。
その方法のひとつが、国から毎月 13 万 8 千円、無償で支給してもらうことです。
この無条件の生活保障は、ベーシック・インカムと呼ばれ、エンデもその実現を夢見てい
ました。
東京 23 区に住む 20 歳から 40 歳までの 1 人暮らしの人の場合、最高 5 万 3700 円の家賃
込みで、生活保護費は 13 万 7400 円となっています。
その額を国の定める最低生活費と考え、生活保障の額を 13 万 8 千円としました。
子どもには、その半額を支給する考えですので、両親と子ども1人の家族の場合、毎月 34
万 5 千円の支給となります。
これだけの生活費があれば、とりあえずお金の心配なく、私たちは暮らしていけるのでは
ないでしょうか?
お金のためにいのちや思いやりを犠牲にせずとも、生きていけるのではないでしょうか?
お金の心配なく生活できることは、何より現在のお金のシステムに組み込まれた競争のマ
イナス面を打ち消してくれます。
そうなったとき初めて、私たちは思いやりある暖かな社会の中で、いのちの優しさに包ま
れて生きることも可能になるのではないでしょうか・・・。
しかし、この無謀とも思えるアイデアを聞いて、皆さんには驚きと疑問がどっと湧き出て
きたことと思います。
「毎月 13 万 8 千円なんて、この借金だらけの国のどこから、そんなお金が出てくるんだ
い?」
「働かなくてお金なんかもらってもいいの?」
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そんな疑問が湧き出た時点で、お金のマジックにひっかかっているのです。
今の日本が、全国民 1 億 2700 万人の生活を支えられないと思いますか!
今の日本に、それだけの生産力がないと思いますか!
日本はそんな頼りない国ですか!
もし、日本にその力があると思うのにできないというなら、お金という道具の使い方を間
違っているだけなのです。
自信をもってそう言える理由を、これから精一杯お話します。
「そんなバカな・・・」
「夢物語みたいなことを・・・」
そう思われた方こそ、ぜひ最後までお付き合いください(笑)。
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第1章
~経済成長すれば暮らしは本当に豊かになるの?~
テレビのニュース番組を見たり、新聞を読んだりすれば、そこには必ず「経済成長」
「景気
回復」という言葉が飛びかっています。
また、経済の成長ぐあいや景気の回復ぐあいを確認するために、GDP というものが使われ
ています。
GDP とは 1 年間の国内全体の儲けを合計したものです。
たとえば、八百屋さんがトマトや人参やじゃがいもなどの野菜を 10 万円で仕入れて、15
万円で売れば 5 万円の儲けが生まれます。ケーキ屋さんが卵やバターや牛乳や小麦粉など
の原材料を 15 万円で仕入れて、30 万円で売れば 15 万円の儲けが生まれます。その国内全
てで生まれた1年間の儲けを足したものが GDP です。
そして、過去の GDP と現在の GDP を比べることによって、経済が○%成長したとか、○%
縮小したとか、景気が回復しつつあるとか、景気が冷え込んでいるとか判断されるわけで
す。
ところで、なぜ経済成長や景気が大切にされるかというと、経済がどんどん成長していけ
ば、新たな仕事もどんどん生まれて、会社は働いてくれる人がたくさん必要になってきま
す。すると人手不足になって、会社は高い給料を支払ってでも働いてくれる人を雇おうと
します。その結果、給料はどんどん上がるし、失業者もいなくなって、全ての人が豊かに
暮らせるようになる・・・こう考えられているからです。
しかし、本当に経済が成長すれば、私たちの暮らしは豊かになるのでしょうか?
ひと昔前、現在の JR が国鉄と呼ばれていた頃、私たちは切符を窓口にいる駅員さんから
購入し、改札口では駅員さんが切符を1枚1枚切ったり、切符を回収していました。
乗り越した場合は、駅員さんが差額を計算して精算も行っていました。
しかし、今は機械で切符を購入するし、改札口も機械に切符を通す、乗り越しの場合も機
械が精算してくれます。
駅員さんの代わりに機械が全部やってくれるのです。
つまり、いくら JR の利用者が増えて売上げが上がろうと、機械化によって仕事の効率が
上がったぶん、人手不足どころか、逆に、人間がどんどん必要なくなっているのです。
銀行だって ATM の登場によって、振込みや預金の引出しなど、窓口係の代わりに機械が
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やってくれるようになりました。
コンビニやスーパーだって、商品の金額をいちいち確認しながらレジに打ち込まなくても、
今では商品についたバーコードを機械が勝手に読みとってくれるようになり、とうとうセ
ルフレジなんてものも普及し始めています。
そうなると、ますます人間は必要なくなってしまいます。
そして、このような機械化は、インターネットの普及もあり、全ての産業において、驚く
ほどのスピードで進んでいることなのです。
これでは、どんなに経済成長しようと、それ以上に、機械化によって人手が必要なくなっ
ているのですから、私たちの給料が増えることも、失業者がなくなることも、ありえない
ことになってしまいます。
機械化のおかげで生産力は向上し、社会にはモノやサービスがあふれるようになる一方で、
私たちは、どんどん貧しくなっていく・・・。
そんな不思議なことが起こっているのです。
戦後の焼け野原で、生産のための機械設備を失い、その労力をほぼ人間に頼っていた頃の
日本ならば、経済成長すればするほど多くの人手も必要になって、それがまた給料を押し
上げ、失業者をも解消したことでしょう。
そのうち、機械が生産現場にどんどん進出するようになり、
「将来はロボットや機械が人間
に代わって仕事をするから、人間の仕事はなくなってしまう」なんて、ささやかれ始める
ようになりました。
そのときは、誰もがまだ夢物語のように感じていましたが、今まさに、その夢物語が現実
となって迫ってきているのです。
と同時に、私たちの仕事やお金に関する価値観も、180 度の転換を迫られているのです。
~ますます尊い神サマとなっていくお金~
魚や野菜やパンなどの食品は、消費期限を過ぎれば食べることができなくなります。
だからスーパーでは、消費期限間近の野菜や果物が、半額で売られていたりします。
消費期限を過ぎれば無価値となってしまうからです。
もちろん、パソコンやテレビのような電化製品も、やはり、何年か使っていれば故障もす
るし、傷んできます。
しかし、お金だけは時によって価値が損なわれることはないのです。
不老不死は神にしかありえない特性ですから、時の支配を受けないお金を、神のように私
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たちが思ってしまうのも当然のことだと思います。
でも、私たちがお金を神のように敬ってしまう理由はこれだけではないのです。
実際、お金は神であるかのようにも振舞っているのです。
「一寸先は闇」とよく言われるように、今は順調であっても、この先、何が起こるか分か
らないのが、私たちの人生です。
生きることには必ず不安がつきまとうものです。
「もし病気になって働けなくなってしまったら・・・」
「会社を突然クビになってしまった
ら・・・」と、考え始めたら将来の心配事にはキリがありません。
そんな底なしの不安を癒してもらいたくて、私たちは目に見えない、存在のあやふやな神
や仏にも祈るのでしょう。
しかし、お金こそ、私たちにとって目に見える、もっとも存在の確かな神なのです。
まず、私たちは生きなければならない。
生きるためには衣食住は欠かせないものです。
欠かせないなんて甘いものじゃなく、充分な衣食住が与えられなければ、ちっとも生きる
ことができない。
そんな大切なものであるにもかかわらず、私たちはお金がなければ食べ物も衣服も住居も
手に入れることはできないのです。
お金という神だけが、その全てをもたらしてくれるのです。
つまり、お金は私たちの生死を左右する・・・。
まさに神ではないですか!
だから、私たちは将来の不安に備えて、存在の確かな神であるお金を、少しでも多く蓄え
ておこうとするのでしょう。
すると、世の中に流通するお金が少なくなって、希少となったお金の価値は高まります。
その結果、お金はますます尊い神サマとなっていくのです。
お金の価値が高まる原因はそれだけではありません。お金で交換できるモノやサービスが
増えても、お金の価値は高まります。
本だけ交換できる図書券よりも、お金の方の価値が高いのは「何でも」交換できるからで
す。
つまり、
「何でも」の部分が増えれば増えるほど、さらにお金の価値は高まっていくことに
17
なります。
すると、私たちは神の力を増したお金をますます蓄えておきたくなる・・・。
そうなると、モノやサービスはあふれているのに、世の中に流通するお金は少なくなって、
ちっともモノやサービスが売れなくなりますから、不況になります。
不況になると、私たちの給料も少なくなって、ますます私たちはお金を使わなくなります。
それは、私たちを全く幸せにしないサイクルです。
そして、お金自身が持つ貯めこまれやすい性質そのものを変えないかぎり、この負のサイ
クルからの脱却は難しいのです。
~本当は交換の道具にすぎないお金~
お金は使われて初めて、意味が出てくるものです。
お金自身は食べることも、着ることも、ましてや、お金の上で雨露をしのぐことも、寝泊
りすることもできません。
食べ物、衣類、住まいなど、生活に必要なものと交換できなければ、お金自身は全く意味
のないものです。
それなのに、そんな交換の道具にすぎない、それ自身は煮ても焼いても食えないお金を、
どうして私たちは貯めこんでおこうとするのでしょうか・・・?
おそらく、生活必需品の大部分を自給自足で調達し、不足するわずかなものだけをお金で
購入していたような時代には、今のようにお金を貯めこむことをしなかったでしょう。
我が家の倉庫がいっぱいになれば、もう充分。
倉庫に保管できる以上のものは、消費し尽せないで腐らせてしまいますから、それ以上モ
ノを貯めこもうなんてしなかったはずです。
そのような時代は、自然災害などで農作物が不作となって、いつ飢え死にしてしまうかも
分かりませんから、何よりも食料の確保が大切だったと思います。
食料不足となれば、どんなにたくさんお金を持っていたって、全く役に立たないのです。
だから、自給自足の時代では、決してお金は将来の不安を解消してくれるようなものでは
なく、とりあえず倉庫がいっぱいになればよく、お金を貯めこむこと自体に魅力はなかっ
たはずです。
ところが、現代のような分業社会ではどうでしょうか?
各人あるいは各国が役割分担して仕事するようになり、生産力は飛躍的に高まりました。
18
そのおかげでモノはあふれるようになり、自然災害によるリスクも各国に分散され、食料
不足で飢え死にしてしまう恐れを、私たちはあまり感じなくなりました(今日でも多くの
貧しい国々の人たちが餓死するという悲劇が起こっています。でも、その食料不足の原因
は生産力の問題ではなく、お金の問題なのです。この点については、後ほど詳述します)。
と同時に、私たち一人一人は、この巨大な分業社会の小さな小さな歯車みたいになってし
まいました。
分業社会が巨大になればなるほど、個人の力はどんどん無力になっていく・・・。
そんな感じを抱くようになりました。
生活に必要なものは全部、自分以外の他人の手によって作られているのが分業社会ですか
ら、私たちがそう感じてしまうのも当然なことなのです。
ほぼ自給自足だった時代は、生活必需品の大部分を自分で生産し、生活に不足するわずか
なものだけをお金で購入していたのに、分業社会では生活必需品のすべてをお金で購入し
なければならなくなったのです。
つまり、お金がなければちっとも私たちは生きることができない。
分業社会では、何よりお金が大切なものになってきます。
だから、私たちは少しでも多く、その大切なお金を蓄えておこうとして、世の中に流通す
るお金を少なくしてしまうのです。
機械の登場により、ますます豊富な種類と量のモノが生産できるようになるにしたがって、
「何でも」交換できるお金の価値もますます高まっていきました。
そんなお金を私たちはもっと多く蓄えておこうとするので、世の中に流通するお金をさら
に少なくしてしまいます。
また、機械が人間の代わりに働いてくれるようになったぶん、生活費を稼ぎ出していた人
間の仕事は少なくなってしまい、私たちの大切な給料を少なくしてしまいました。
給料が少なくなれば、私たちはお金をより慎重に使うようになりますから、世の中に流通
するお金もいっそう少なくさせてしまいます。
いくらモノが豊富にあっても、お金がなければ、私たちは何も手に入れることができませ
ん。その一番大切なお金が不足して困るようになったのです。
お金の不足が、それ自身は煮ても焼いても食えないお金を神にしているのです。
今日では食料不足による飢死の不安は、お金不足による飢死の不安に取って代わり、自給
自足時代の先祖たちが、食料を倉庫に保管していたように、分業時代の私たちは、銀行口
座にお金を貯めこむようになりました。
しかも、お金は腐らないし、場所もとらないから、これでいいという限度もなくなりまし
た。
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食料不足が問題だった時代は、決してお金がモノ以上に大切にされることはなかったの
に・・・。
~働かざる者こそ食いまくっている~
では、どうして世の中に流通するお金が不足するように、お金は働いてしまうのでしょう
か?
お金をそのようなあり方にしてしまっている究極の原因は、いったい何なのでしょう
か・・・?
それは、私たちの考え方です!
意外に思われるかもしれませんが、私たちの考え方がお金に反映され、お金のあり方を決
めているのです。
そこには「収入は労働の結果生じるもの」=「働かざる者食うべからず」という、私たち
の根深い思い違いがあります。
だから、世の中に流通するお金が不足してしまうのです。
ましてや、機械が人間の代わりに働いてくれたぶんのお金を、みんなで分かち合おうなん
て誰も思いつかない・・・。
ユーロ(ヨーロッパ共通通貨)の誕生に貢献し、地域通貨の研究者でもあるリエターさん
の本に、とても興味深い記述があります。(『マネー崩壊』日本経済評論社)
「利子は、大多数の人々からある少数の層へ経済的な富を絶えず移動している。最も富裕
な層の人々や組織は、利子のつく資産を所有している。彼らは、誰か交換の手段を必要と
している人に資産を貸し、順当に利子を受け取る。一九八二年のドイツで行われた研究は、
利子による富裕層と中産階級層など各層間での富の移動を最も端的に示している。」
「最終的な差し引きでは、そのトップ一〇%のクラスが三四二億マルク(1980 年頃の 1 マ
ルク=100 円として計算すると 3 兆 4200 億円になります 筆者註)を残りの九〇%の世
帯から受け取っている。このグラフがはっきりと示しているのは、下層階級の八割から上
層階級の一割の人口へ、体系的な富の移動があったことである。しかもこの移動は、マネ
ーシステムそれ自体が起こしたもので、大きな所得格差を正当化するときによく言われる
ような、個人の能力差や勤勉さの格差とは全く関係のない話なのである。」
なんとトップ 10%の人たちは、まったく働かざるのに、毎年、3 兆 4200 億円ものお金を、
残りの 90%の人たちから貢いでもらっているのです(お金の単位も億とか兆になると、な
かなか想像もつかず、実感もわかない金額となりますが、次のように考えれば、少しはイ
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メージの参考になるかもしれません。1万円札はピン札状態で厚さ 0.1 ミリ、重さ 1 グラ
ムだそうです。すると、1億円では長さ 1 メートル、重さ 10 キログラムとなり、1 兆円で
は長さ 10 キロメートル、重さ 100 トンにもなります)。
さらに腰を抜かして驚いてしまうような言葉が続きます。
「アメリカでは現在、
『上層階級の一%の人々が大多数層にあたる九二%の人々の所得を合
わせた以上の富を所有』している。」
「世界的には、高所得者四四七人の資産を合計した額は、全世界人口の実に半分の人の年
収を合計した額を超えている。」
まったく働かざるにもかかわらず、毎年、毎年、真面目に働く人たちから貢いでもらった
おかげで、こんなにも貧富の差が開いてしまっているのです。
「働かざる者こそ食いまくっている」のが現実なのです。
~働く者も食えるとはかぎらない~
それなのに、なぜ「働かざる者食うべからず」と、もっともらしく言われるのでしょうか?
私たちは自分が働いて、つまり、自分の労働力を会社に売って、その代わりに会社から給
料をもらっていると考えます。そのお金で、私たちは生活に必要なものを買うことができ
るのだと・・・。
でも、本当にそうなのでしょうか?
たとえば、あなたが居酒屋の接客係だったとします。しかし、あなたが接客係としてお客
さんから注文をとったり、お客さんに料理を運んだりできるのは、あなた以外の多くの人
たちの仕事に支えられているからです。
居酒屋ができるまでには、物件を貸してくれる大家さん、その物件を仲介してくれる不動
産屋さん、内装工事の人、テーブルや椅子、照明器具、調理器具を作り、販売してくれる
人たち・・・など、数え切れないほど多くの人たちの仕事に支えられています。
また、居酒屋の営業には、料理人、野菜やお肉や魚などの食材を生産してくれる人、それ
らの食材を市場まで運ぶ人、市場で売る人も必要です。もちろん電気、ガス、水を提供し
てくれる人たちも欠かせません。
このように、多くの人たちの仕事に支えられて、居酒屋の接客係という仕事は可能になる
わけです。
つまり、あなたの給料は、あなた以外の多くの人たちに支えられているのであり、と同時
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に、あなたの仕事もまた、あなた以外の多くの人たちの給料を支えているのです。
あなたが接客係として注文をとらなければ、その居酒屋は、給料も家賃も支払えない、食
材もお酒も買うことができないのですから。
また、あなたが手にした給料も、買いたい食料や衣服や家具や電化製品や化粧品などのモ
ノがお店になければ、まったく意味がないものです。
自分が買いたいモノを作ってくれる人たちがいるからこそ、お金に交換の道具としての価
値も出てくるし、生きていくこともできるわけです。
現代のような分業社会において、自分が生きることができるかどうかの生命線は、なんと、
自分以外の他人の手にいっさいゆだねられていたのです。
お互いが自分以外の他人に生命を託しあっている・・・。
それが分業社会の実態です。
よって実際は、「働く者も食えるとはかぎらず」なのです。
だって働いてくれる他人がいなければ、自分はまったく生きることができないのですか
ら・・・。
そこに隠れた不安があるのです。
その不安の根っこに、人間不信があるのです。
その人間不信が、私たちに「働かざる者食うべからず」と言わせます。
それは一種の脅し文句でしょう。
つまり、お互いがお互いを、強制的に働かざるをえないように、マインド・コントロール
しあっているとも言えるではないでしょうか・・・。
機械化によって人間の仕事は減り、働きたくても働けず、食うことができない状況で、私
たちは「働かざる者食うべからず」と、お互いを脅しあっているのです。
東日本大震災後、私たちは「絆」の大切さを学びました。
分業社会とは、一人では生きてゆけぬ社会、みんなが助け合って生きてゆく社会・・・。
だからこそ、「絆」が何より大切となるのです。
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第2章
~しょせん経済は人間の営み~
分業社会の奥にある、お互いの人間不信は「働かざる者食うべからず」とお互いを脅しあ
い、お互いを強制的に働かせることで生きることの不安を解消しようとしています。
そのうえ、利子が生むイス取りゲームのような競争社会も、人間不信をさらに増幅させ、
機械化による給料の減少が、さらに追い討ちをかけるように競争を激しいものにしていま
す。
そんな不安の渦の中で、私たちは生きているのです。
いったい私たちは、どうしたらいいのでしょうか・・・?
お金を不足させ、お金を神にしてしまう根本の原因に、どうやら私たちの人間不信や、生
きることの不安があるようです。
経済といっても難しく専門家の仕事のように考える必要もなく、しょせん人間の営みでし
ょう。
ということは、人間不信や生きることの不安を感じてしまう人間とは何者かという視点に
立って、経済問題を考えてみることが何より必要なのではないでしょうか・・・。
経済学も人間学の一部、その視点に立って私たち自身を見つめなおすときに、解決策は自
ずから明らかになってくるに違いありません。
その視点から考えてみると、私たちが人間不信を感じてしまうことの方が自然なことで、
私たちが信頼しあっていることの方が不自然なことのように思われます。
にもかかわらず、私たちはお互いを信頼する気持ちの方が、なぜか不信感よりも強いので
す。
他人の考えを想像することはできても、それが正解かどうか決して分からないのに、それ
ゆえ、他人の言葉や表情や態度は、決して信じることができないものなのに、それでも私
たちは基本的に人間を信頼してしまう不思議さ・・・。
その証拠に、多くの人が人間不信のあまり精神を病むなんてこともなく、たくましく生き
ています。
とにかく人類が滅亡もせず、今日まで存続していることこそ、何よりの証拠でしょう。
誰もが騙され、裏切られたり、ひどい仕打ちを受けたり、憎しみ、怒り、悲しんだ経験が
あるにもかかわらず、それでも私たちは基本的に人間を信頼しているのです。
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これはいったいどういうわけでしょうか?
~大人=子ども+ヨロイ~
その問いについて、哲学者の鷲田清一さんは、次のように言います。
「それでも死なないでいられるのは、あるいはひとをかろうじて信頼できるのは、じぶん
が生まれたとき、たとえ親に棄てられても、それでも生きてこられたのは、生まれたとき
にわたしがここにいるというそれだけの理由で、だれかになんの条件もつけずに世話をさ
れたという確信をどこかでもっているからだ。それがあるかぎりひとは死なないでいられ
る」
「ひとは生まれてからかなり長いあいだ、だれかに食べさせてもらう、うんこの後を拭い
てもらう、からだを洗ってもらう、別の場所に移動させてもらう、寝かしつけてもらう。
まるごと存在の世話を享けるのだ。成長したらいつも条件つきになる。
『もし~したら、こ
れしたげるからね』というふうに。しかし赤ちゃんのときは、たとえコインロッカー・ベ
イビーであっても、<わたし>がここにいるということだけで、だれかがなんの条件もつ
けることなく関心をもってくれ、世話をしてくれる。いや、してくれた。だからいま<わ
たし>は死ぬこともなくここにいる。<わたし>がいまここにいるということがその証だ
から、ひとはたとえひとのひどい裏切りにあっても、それでもめったに倒れずに生きてい
ける。このわたしを<わたし>としてそのまま肯定してくれる他者がいるということ、他
者によるその無条件の肯定の経験が、ひとへの最後の信頼というものを支えてくれている」
(『<弱さ>のちから』講談社)
私たちが死なないで生きていけるのは、無条件に自分が丸ごと愛された経験があるから。
裏切られてなお人間を信じることができるのも、無条件に自分が丸ごと受け入れられた確
信があるから・・・。
その無条件の肯定が足りなかったぶんだけ、私たちは人間不信に陥ったり、生きることの
不安を抱えこんでしまったりするのでしょう。
そのぶん私たちは自分の身を守ろうとしてしまう・・・。
「働かざる者食うべからず」と冷酷なことを言い合ったり、法律や教育で何をしでかすか
分からない他人の行動を縛りつけたりしてしまうのです。
自分の身を守るためにはヨロイが必要です。
そのヨロイは知識であったり、お金であったり、地位や権力であったり・・・。
自分の身を守るために、私たちは「強くならなければならない」
「成長しなければならない」
「進歩しなければならない」と教えられます。
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だから、無力で弱いことは悪とされるのです。子どもは未熟とされ、教育によって成長さ
せ、一人前の強い大人にしなければならないと考えてしまいます。
そして、人間不信や生きることの不安が残ったぶんだけ、競争社会にもなっているのでし
ょう。ヨロイは戦いのために必要なものだからです。
無力、弱さに対する私たちのマイナスイメージも、人間不信から生まれたものかもしれま
せん。人間不信のために、私たちは自分の身を守る必要が出てきます。
素っ裸の自分にヨロイをつけるようになります。
もっと力をつけようとし、もっと強くなろうとし、もっと成長しようと努力します。
そのとき、無力、弱さは否定すべきものとなってしまうのです。
子どもが成長して大人になると言っても、実は、大人=子ども+ヨロイにすぎないのかも
しれません。
~生きることの不安を癒すもの~
人間は、無力で弱いことを克服するために、いっそう頑丈なヨロイをつけるために、知恵
を鍛えてきました。
しかし、その知恵は、いのちの上に芽ばえた小さな小さな存在にすぎないものです。
まず、いのちの活動があって、そのいのちの活動のうえに、
「わたし」という意識がいつの
まにか芽ばえ、その「わたし」から知恵の働きも生まれてきます。
つまり、いのちあっての「わたし」であり、決して「わたし」あってのいのちではないの
です。
それなのに、
「わたし」を支える母なるいのちを、こざかしい人間の知恵は、無力で弱いと
決めつけたり、優劣をつけたり、「私は生きる価値のない人間だ」「私は何の取り柄もない
人間だ」なんてバカなことを考えさせたりしてしまうのです。
そうではなく、無力で弱いことを守るために、いのちをいっそう輝かせるためにこそ、人
間の知恵はあったのではないでしょうか・・・。
ならば、私たちが目指すべきことは、ただひとつです。
それは、この世から人間不信や生きることの不安が一切なくなるまで、無条件に一人一人
をどこまでも大切にしていくこと。
このことこそ、東日本大震災で学んだ「絆」を太く、強く、育んでゆくことではないでし
ょうか・・・。
25
まさに、聖書にでてくる「愛」もこのような意味だと、本田哲郎神父も本の中で語られて
います。
「親子の愛、夫婦の愛にしても、いつか薄らいでいったり、時には無くなってしまうとい
うこともあるわけです。友達同士の関係でも、いつしかその友情が薄らいだり、長く会わ
ないでいると、消滅してしまうこともありえます。それが自然なのです。だれのせいかと、
自分をせめたり、相手をせめたりすることではないはずです。愛情や友情はやはり一時的
なものでしょう。ところが、聖書に出てくる、
「愛」と訳しているギリシア語は、エロス(親
子の愛、夫婦の愛のことです 筆者註)でもなければフィリア(友情のことです 筆者註)
でもありません。
「アガペー」です。そのアガペーはなにかといえば、いちばん平たいこと
ばでいえば、
「大切にする」ということです。好きになれない相手かもしれない、でも大切
にしなさい。自分自身が大切なように、隣人を大切にしよう。愛情が薄れ、友情が失われ
たとしても、その人をその人として大切にしようとすること、これこそ人間にとって大事
なことだ、と。そして「神は愛である」という聖書に出てくることばも、神は愛情そのも
のだといっているのではなく、神は人をその人として大切にする方である、と理解すべき
だったのです。」(『釜ヶ崎と福音』 岩波書店)
ただ大切にするのではなく、その人をその人として大切にするのです。
その人をその人としてとは、何の条件もつけないでということでしょう。
わたしやあなたが、ここにいるというそれだけの理由で、何の条件もつけずに、そのまん
ま丸ごと大切にするということです。
それは、誰もがそうされたいと心の奥で願っていたことではないでしょうか・・・。
つまり、お互いを無条件に大切にしあうことだけが、私たちの社会にある人間不信や生き
ることの不安を癒してくれるのです。
それが結果として、世の中からお金の不足をなくし、誰もがお金に苦しむことなく、安心
して暮らせる社会をもたらすことにもなるのです。
では、お互いを無条件に大切にしあうために、私たちにできることは何なのでしょうか?
それは、無条件に一人一人のいのちを保障するということです。
無条件に一人一人のいのちを保障するということは、無条件に一人一人が生きることを保
障するということ、無条件に一人一人の生活を保障するということ、無条件に一人一人の
生活を支えるためのお金を保障するということなのです。
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この保障はベーシック・インカムと言われています。
~それがなければ、お金の経済は一瞬で崩れるのです!~
分業社会とは、自分のために働いてくれる他人がいなければちっとも生きていけないシス
テムです。
その不安から逃れようと、「働かざるもの食うべからず」とお互いを強制的に働かせあい、
いつのまにか、自分の労働でしか自分の給料はもらえないと思ってしまったのです。
給料をもらえるものだけが労働だと思ってしまったのです。
しかし、実際はどうでしょうか?
給料がもらえる労働は、給料がもらえない労働に支えられて成り立っているのではないで
しょうか?
お金の経済とは、お金がもらえない経済にすっかり依存していて、その土台のうえに築か
れたものではないでしょうか・・・?
たとえば、現在の自分があるのも、親が毎日、毎日、料理を作ってくれたり、お洗濯をし
てくれたり、お掃除をしてくれたり、学校の宿題を見てくれたり、病気の時には寄り添っ
て看病してくれたり・・・。
そういう無償の子育て(労働)に支えられてきたからでしょう。
つまり、お金の経済は無償の子育て(労働)にまったく依存して成り立っていると言える
のです。
若い頃、下っ端の労働者として働いた経験から、時代のトレンドをユニークな視点で予測
するアルビン・トフラー教授は、このことをおもしろく指摘しています。
「雇い主は従業員の親にどれほど依存しているかをめったに認識していない。筆者は企業
経営者にこの点を認識してもらうために、品のない質問ではあるが、単純な問い掛けをす
ることが多い。
『従業員が下のしつけを受けていなかったとしたら、生産性はどうなるだろ
うか』。これを『おまるテスト』と呼んでいる。企業経営者は普通、これを当然のことだと
考えているが、実際には誰かがしつけたのである。まず確実に母親がしつけている。もち
ろん、子育ては下のしつけだけではない。何年もかけて、大量にエネルギーと頭を使って、
子供が将来に仕事につけるように教育している。もっと一般的にいえば、他人と協力して
働くために必要な手段を獲得できるようにしている。なかでも重要なものに言葉がある。
言葉で意思疎通ができなかった場合、労働者はどこまで生産的に働けるだろうか」(『富の
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未来』講談社)
もし、私たちが言葉も話せない、下のしつけもされてないとしたら、誰もお金の経済が機
能するとは思えないでしょう。
思いやり、信頼、感謝、礼節、いたわり、協力、団結・・・。
これらが両親だけでなく、子どもが成人するまでに出会うたくさんの人たちの、無償の子
育てによって伝えられるからこそ、お金の経済は機能することができるのです。
これらが無償の労働として多くの人たちに実践されているからこそ、お金の経済は機能す
ることができるのです。
こうした無償の子育て(労働)がなくなれば、お金の経済は一瞬で崩れてしまうのです。
ということは、土台の思いやりを支え、育んでいくことが、何より大切なのです。
別の視点から見れば、自分のために働いてくれる他人がいなければ生きられない分業社会
も、他人を生かすことが自分を生かすこととなる社会ということでしょう。
そもそも、思いやりなしでは生きていけぬ社会だったのです。
だからこそ、ベーシック・インカムによって、無条件に一人一人の生活(衣食住)を保障
することが大切なのです。
「衣食足りて礼節を知る」という言葉も、一人一人のいのちが無条件に大切にされ、一人
一人の生活がしっかりと保障された後に、礼節の心である思いやり(礼節とは、お互いが
心地よくお付き合いできるようにと、思いやりの心から育まれてきた交際のテクニックだ
からです)は出てくるものだということでしょう。
まず、食べることができていなければ、生きることがギリギリならば、思いやりを出すこ
とは難しいのです。
すべてはベーシック・インカムから始まります。
*利子が未来の利益の先取りならば、ベーシック・インカムによって生活を保障すること
は、その土台の思いやりを支える先与えとなるでしょう。それは、利子のマイナス面をプ
ラマイゼロにして、打ち消すことにもなるのです。
~現実は憲法違反の「職業選択の不自由」~
日本国憲法第 22 条では、「職業選択の自由」が認められています。
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しかし、現実は憲法違反の「職業選択の不自由」ではないでしょうか?
なぜなら、生きるためにお金を稼ぐこと、そのために働くことが強制された社会では、た
とえ働きたくないような職場や不愉快な仕事であっても、働かなければならないからです。
ましてや妻や子どもたちを抱え、この先、何十年もマイホームのローンを払い続けなけれ
ばならない状況ならば、なおさらでしょう。
たとえば、どのラーメン屋さんでラーメンを食べるか、私たちには選択の自由があります。
選択の自由があるということは、拒否する自由があるということです。
すると、なかなかお客さんが食べに来てくれないラーメン屋さんは、麺やスープの味付け
を工夫したり、価格を見直したり、愛想よい接客を心がけたり・・・と、必死の営業努力
をしなければならないでしょう。
もちろん、すでに大繁盛のラーメン屋さんも、お客さんにリピートして食べに来てもらう
ためには、たゆまぬ努力が必要です。
その選択の自由がもたらす自由競争の結果、私たちはもっと美味しいラーメンを、もっと
多くのお店で食べることができるようになるでしょう。
そうして、私たちの選択の自由度もますます高まっていくのです。
でも、職業選択に関して、私たちに拒否する自由はほとんどありません。
「働かざる者食うべからず」の社会、それどころか「働きたくても働けず、食うことがで
きない」社会で職業を拒否することは、ただちに生きていけなくなることを意味するから
です。
そんな社会では、雇っていただくだけでありがたいこと、ましてや職業を選ぶなんてこと
は無礼なことでしょう。
職業を拒否する自由がないとき、そこに「職業選択の自由」もありえません。
そして、ベーシック・インカムだけが、私たちに真の「職業選択の自由」をもたらすので
す。
ベーシック・インカムによって、私たちが働かなくても生きていけるようになって初めて、
私たちは自分の意に沿わない職業を、堂々と拒否することができるようになるからです。
こう考えると、
「ベーシック・インカムを支給すれば、誰も働かなくなるのではないか」
「ベ
ーシック・インカムは私たちの働く意欲を奪ってしまうのではないか」という心配は、ど
うってことないことだと分かります。
このような心配は、今の仕事があまりに不愉快なものが多く、我慢して働いている人、苦
痛を感じながら働いている人がいかに多いかということにすぎないからです。
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「職業選択の不自由」社会の価値観に毒されているだけ、あまりに楽しくない仕事が多す
ぎるということだけなのです。
エンデもベーシック・インカムについて、次のように言及しています。
「ともかく、生活を保障するだけの一定額が各人にあたえられる。そのうえでね、もっと
仕事をしたいかどうかは、自分で自由に決めればいいようにする。馬鹿げた結論と思うだ
ろう。それは承知している。けれどもね、たいていの人は仕事をするだろう。それどころ
か、よろこんで、自分からすすんで仕事をするだろう。そうぼくは信じてもいる」(『オリ
ーブの森で語りあう』岩波書店)
ベーシック・インカムによって、真の「職業選択の自由」が私たちにもたらされた時、
「特
に働かなくてもいいのだが、それでも働きたい」という、職場や仕事がどんどん出てくる
ようになるでしょう。
私たちが職業を拒否する自由を持ったとき、どうしても働き手が欲しい会社は、魅力的な
職場作りに努力せざるをえなくなりますから・・・。
今より、もっと喜んで、いきいきと、楽しみながら、意欲的に、私たちが働くようになる
ということなのです。
*憲法とは、ちょっとでも油断すると暴走し、国民の権利を奪おうとしてしまいがちな国
家権力という怪物から、国民の権利を守るためにあるものです(だから、学校で習った国
民の三大義務、すなわち、普通教育を受けさせる義務、勤労の義務、納税の義務は間違い
です。正しくは、普通教育を受ける権利、勤労の権利、納税して住みよい社会を作る権利
を国民は持つということです)。
30
第3章
~毎月 13 万 8 千円は毎年 193 兆円!~
ベーシック・インカムによって、将来の生活に対する不安が癒されるならば、お金を貯め
ようとする私たちの欲求も少なくなり、お金を持つことではなく、お金を使って何をする
かが大切になってくるでしょう。
お金持ちというだけで、偉いとか立派だとか、周囲にチヤホヤされることも、経済力のあ
ることが結婚の重要な条件となることもなくなるはずです。
お金の魔力が消えてしまうからです。
「世の中にはお金で買えないものがある・・・」
「世の中にはお金より大切なものがある・・・」
その言葉に一抹の真実を感じながらも、どれほど私たちはその真実に裏切られ、虚しさを
感じてきたことでしょうか・・・。
そうは言っても、私たちが生きていくためには、どうしてもお金が必要だったのです。
その理想と現実の矛盾に苦しみながら、お金より大切な思いやりや優しさを、私たちは、
犠牲にせざるをえませんでした。
たとえば、福島第一原発事故後の政府の対応はどうだったでしょうか・・・?
漏れた放射性物質がどこに飛散するかを瞬時に割り出す SPEEDI(スピーディ)というシス
テムがありますが、2011 年 3 月 12 日の福島第一原発 1 号機の爆発が起こる前に、そのシ
ュミレーションをしたにもかかわらず、その結果を米軍だけに知らせ、福島の住民には知
らせませんでした。
福島第一原発の 1・2・3 号機のいずれもメルトダウンを起こしていたことを発表したのは、
事故発生から 2 か月以上も経過してからのことでした。
31
これまで日本には放射能に関する飲料水基準がなく、放射性ヨウ素 10 ベクレル/㎏、放射
性セシウム 10 ベクレル/㎏という、WHO 基準に準拠していましたが、厚生労働省は「放射
能汚染された食品の取り扱いについて」という通知を出し、飲料水の基準値を放射性ヨウ
素は 30 倍、放射性セシウムは 20 倍に引き上げたうえで「基準値より下回っているので安
全だ」と報じました。
安部芳裕さんの本にも、次のような衝撃の事実が書かれています。
土壌調査もまるでイカサマです。放射性物質は空中に舞い上がり、風に運ばれて、塵や水
滴、花粉や黄砂などにくっついて地表に降り積もります。ですから、土壌の汚染を調べる
とき、本来は表面の部分(深さ 2 ㎝)を採って調べるものです。IAEA(国際原子力機関)
が原発から 40 キロ離れた飯館村の土壌を計測したところ、1 平方メートルあたり 2000 万
ベクレルという汚染が計測されました。これはチェルノブイリの最高数値 380 万ベクレル
を 5 倍も上回る酷い汚染です。そこで政府がとった対応は、1 平方メートルたりの計測を
やめ、土を深く掘って、1 キログラムあたりの計測にしたのです。農水省の水田放射能調
査でも、土の表面から 15 ㎝下の土壌を採取し、放射性セシウムの濃度を測定していました。
だから、国際的に単位はベクレル/㎡なのですが、日本ではベクレル/㎏です。当然、汚染
濃度は薄まります。(原発大震災の超ヤバイ話 ヒカルランド)
どうして、こんな理不尽すぎることが、まかり通ってしまうのでしょうか・・・。
すべては、いのち以上にお金儲けが大切にされてしまう、そんなお金のあり方に原因があ
るのです。
そして、私たちが生きていくためのお金を保障すること、すなわち、ベーシック・インカ
ムの実現こそ、この矛盾のたったひとつの解決策なのです。
スイスでは、国民一人あたり毎年 3 万 3 千ドルの支給とするベーシック・インカムの導入
をめぐり、およそ 2 年後に、国民投票が実施されますが(1 ドル=102 円で換算すれば、毎
年 336 万円、毎月 28 万円の支給となります)、当面の目標額として、毎月 13 万 8 千円(18
歳以下は、その半額の 6 万 9 千円)のベーシック・インカムの支給を考えています(国の
定める最低生活費と同額のもの)。
その場合、日本の人口が 1 億 2700 万人(そのうち 18 歳以下は 2000 万人)として計算す
ると、毎年、総額 193 兆 4500 億円(毎月 10 万円の場合は、140 兆 4000 億円。毎月 12
万円の場合は、168 兆 4800 億円)のお金が必要となります。
32
「そんなこと言ったって、ベーシック・インカムの財源となる 193 兆 4500 億円ものお金
はどうするんだ?日本には 1000 兆円もの借金があるというのに・・・」
「この借金だらけの日本のどこに、それだけのお金があるの?」
当然、誰もがこれらの疑問を持たれたことだと思います。
~循環すればするほど増えていくお金~
実は、私たち一人一人がお金を貯めこむことなく、お金をスムーズに循環させることによ
って、私たち一人一人はお金を増やすことができるのです。
お金の回転率を高めることによって、新たなお金を作り出すことができるのです。
シルビオ・ゲゼルという経済学者がいました。
彼は、あらゆるモノが老化するように、お金もまた老化しなければならないと考えた人で
す。お金だけ老化しないからお金は神のように崇められ、人々は買った瞬間から価値が減
ってしまうモノよりも、価値の減らないお金を好んで貯めこもうとします。
しかし、お金は生きるために、あるいは、何かをするために必要なモノやサービスと交換
する道具に過ぎないのです。
お金がただ貯められるとき、お金は交換の道具として働くことはできません。
そして、お金が交換の道具として働いてくれないとき、私たちは生きるために必要なモノ
やサービスを、手に入れることができなくなります。
だから、お金はよく血液にたとえられます。
血液が全身をくまなく循環しながら、酸素を運び、それを二酸化炭素と交換したり、栄養
を運び、それを老廃物と交換してくれるからこそ、私たちは生きることができます。
その血液が循環しなくなれば、私たちの肉体はすぐに機能停止してしまうように、お金も
循環しなくなれば、経済はすぐに機能停止してしまうのです。
それなのに、お金だけに与えられた老化しないという特権が、お金を循環させまいとする
のです。
私たちにお金を貯めこませようとさせるのです。
貯める道具としての働きと交換する道具としての働きは両立しません。
お金を貯めこむとき、お金を交換の道具として使うことはできませんし、お金を交換の道
具として使うとき、お金を貯めこむことはできないからです。
私たちは、どちらかの機能を選択してお金に与えなければなりません。
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でも、正解は最初から決まっています。
どんなにお金を貯めこんでも、働いてくれる他人がいなければ、お金と交換できるモノや
サービスを生産してくれる他人がいなければ、私たちはちっとも生きていけないのですか
ら・・・。
自分がお金を貯めこめば他人が生きづらくなり、他人が生きづらくなれば自分もまた生き
づらくなるのです。
にもかかわらず、私たちがお金を貯めこんでしまうのは、将来のいつか私たちが生きづら
い事態に陥ったときに、お金が支えてくれると思っているからでしょう。
そうではなく、お互いが安心して支えあって生きていける社会にすればよいだけなのです。
そのために、お互いを大切にしていく、思いやりを育んでいくのです。
そう考えたシルビオ・ゲゼルは、お金が交換の道具としてちゃんと働くように、毎月何%
かお金が老化し、老化したぶんの印紙を毎月買って、それをお金に貼らなければ価値が減
ってしまうスタンプ通貨というものを考案しました。
その奇想天外なアイデアは、オーストリアのヴェルグルで本当に実現されたのです。
1932 年のヴェルグルは深刻な不況のため、工場はどんどん閉鎖され、失業者は町にあふれ
かえっていました。そのため、まったく税金も納められない町は、破産へと一直線に向か
っていたのです。
そんな進退極まった状況で、「労働証明書」といわれるスタンプ通貨が発行されました。
この「労働証明書」は毎月 1%ずつ老化していきます。だから、毎月 1%ぶんのスタンプを
買って「労働証明書」に貼らなければなりません。
その「労働証明書」の裏面には「諸君、貯めこまれて循環しない貨幣は、世界を大きな危
機、そして人類を貧困に陥れた。経済において恐ろしい世界の没落が始まっている。いま
こそはっきりとした認識と敢然とした行動で経済機構の凋落を避けなければならない。そ
うすれば戦争や経済の荒廃を免れ、人類は救済されるだろう。人間は自分がつくりだした
労働を交換することで生活している。緩慢にしか循環しないお金が、その労働の交換の大
部分を妨げ、何万という労働しようとしている人々の経済生活の空間を失わせているのだ。
労働の交換を高めて、そこから疎外された人々をもう一度呼び戻さなければならない。こ
の目的のために、ヴェルグル町の『労働証明書』はつくられた。困窮を癒し、労働とパン
を与えよ」と書かれてありました。
その結果はどうだったのでしょうか・・・?
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「『労働証明書』が流通していた 13.5 ヵ月の間に流通していた量は平均 5490 シリング相
当に過ぎず、住民一人あたりでは、1.3 シリング相当に過ぎません。しかしながら、この『労
働証明書』は週平均 8 回も所有者を変えており、13.5 ヵ月の間に平均 464 回循環し、254
万 7360 シリングに相当する経済活動がおこなわれました。これは通常のオーストリア・
シリングに比べて、およそ 14 倍の流通速度です。回転することで、お金は何倍もの経済効
果を生み出すのです。こうしてヴェルグルはオーストリア初の完全雇用を達成した町にな
りました。
『労働証明書』は公務員の給与や銀行の支払いにも使われ、町中が整備され、上
下水道も完備され、ほとんどの家が修繕され、町を取り巻く森も植樹され、税金もすみや
かに支払われたのです」(『日本人が知らない恐るべき真実』 晋遊舎)
しかし、オーストリアの中央銀行から、国の通貨システムを乱すという理由で禁止通達を
出され、裁判をして闘ったものの敗れてしまい、翌年、廃止させられました。
そして、完全雇用だった町も、再び 30%近い失業率になってしまったのです。
~お金はどのようにして生み出されるの?~
まず、お金を印刷するという方法があります。
そして、銀行の信用創造と言われる方法があるのです。
普段、私たちが利用している銀行は、預金額の一定割合(仮に 1%とします)を残してお
けば、残りの 99%までのお金を貸し出すことが認められています。
つまり、あなたが友人から預かった1万円のうち、100 円だけ手元に置いておきさえすれ
ば、残りの 9900 円を勝手に他の誰かに貸すような、一般的には不道徳と思わざるをえない
行為が、銀行だけに特別に認められているのです。
さて、この銀行だけに認められた特権は、お金のシステムに何をもたらしたのでしょうか?
もし、あなたが 1000 万円の中古マンションを購入するために、ローンを組んだとします。
銀行はローン契約に基づいて、あなたに代わってマンションの販売会社に 1000 万円を支払
ってくれます。すると、マンションの販売会社は受け取った 1000 万円を、他のどこかの銀
行に預金として入金するでしょう。すると、その銀行は新たに増えた預金の 99%までを貸
し出すことができるのです。その 99%のお金も、再び、他のどこかの銀行に預金され、そ
の銀行は 99%の 99%にあたる 98.01%までのお金を貸し出します。するとまた、その銀行
は・・・と、これらの行為が最大限に繰り返された結果、なんと、最初の 1000 万円だった
お金は、最終的には 9 億 9000 万円のお金になっているのです。
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これは、私たちが同時に預けたお金を返せと言わないだろうという不確かな信用、たとえ
同時にみんなが預けたお金を返せと言ったときでも、私のぶんだけは無事返されるに違い
ないという、これもまた危なっかしい信用(基本的に私たちは自分のことは楽観的です。
交通事故とか日常茶飯事ですが、まさか自分がそんな目に遭うことはないだろうと思って
生活しています)の上に成り立っています。
そして、もし、この取引きに関わった人たちが借金の全部を返したならば、このシステム
は、今度は逆に作動し始めて 9 億 9000 万円だったお金は、最初の 1000 万円になってしま
うのです。
つまり、借金を返すということは、信用創造によって増えたお金も世の中から同時に消え
ていくということです。
個人的に考えれば、詐欺まがいと思われる行為ですが、社会的に考えれば、このおかげで、
銀行は必要に応じてお金を 99 倍まで増やせたり、99 分の 1 まで減らすことができるとも
言えるわけです。
臨機応変、かつ、伸縮自在に、私たちの必要に応じてお金の量を調節できるとも言えます。
しかし、このシステムは使い方次第で、吉にも凶にもなりうるものです。
高度経済成長期における日本経済の目覚しい発展は、まさに、このシステムをプラスに働
かせた結果と言えるでしょう。
システムがプラスに働いたのではなく、信用創造のシステムを、計画的、かつ、意図的に
プラスに働かせたのです・・・。
~なぜ国民の給料を倍にすることができたのか?~
1958 年、池田勇人元首相は「所得倍増計画」を打ち出し、10 年で国民の所得を倍にすると
発表して、国民を驚かせました。新卒の初任給を 20 万円とすれば、それを 10 年で 40 万円
にすると言ったのですから、国民が驚いたのも無理はないでしょう。
その結果はどうだったでしょうか・・・?
毎年 10%もの経済成長が続いた結果、なんと、10 年で国民の所得は倍増どころか、2.5 倍
増になったのです。
戦後、モノ不足で貧しかった頃の日本は、全ての国民にじゅうぶんな量のモノを行きわた
らせることが、国家の緊急な目標であり、国民全員の切実な願いでもありました。
松下電器の創業者、故・松下幸之助さんも「公園などで水が無料で飲めるのは、水が豊富
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にあるからだ。この豊富にある水のように、モノを国民に行きわたらせよう」と、
「水道哲
学」を唱えられましたが、それは、国民全員の夢でもあったと思います。
その目標のもと、国は銀行の信用創造の力を使って、お金をどんどん生み出していったの
です。
ただし、生み出されたお金が生産力を高めることに使われるように、非常に注意深くコン
トロールされました。
新たに生み出されたお金が、株とか土地投機などの生産的でないことに、流れすぎないよ
う細心の注意がはらわれながら、お金はどんどん創造されたのです。もし、お金がモノと
のバランスを考えることなく、どんどん増え続けたならば、インフレ(お金の価値が下が
り、そのぶんモノの価値が高まること)になって、お金はただの紙切れになってしまうで
しょう。
でも、新たに生み出されたお金が生産力(実は、生産力にも量と質があります。後で詳し
く説明します)を高めることに使われる限り、お金が紙切れになってしまうことはないの
です。
みんなが欲しいのに生産が追いつかないとき、プレミアがついてモノの値段はどんどん高
くなります。
ということは、お金がいくら増えても生産力も同じように高まって、私たちの欲するモノ
がじゅうぶんに提供できているならば、値上げ、すなわち、インフレにはならないのです。
また国は、企業がより生産力を高めるため、新たに必要となるお金を株ではなく、銀行の
借り入れで調達させるようにしました。なぜなら、銀行の信用創造のように、株には新た
なお金を作り出す力がないからです。
それに、株の配当金を少しでも多くもらいたい株主の存在は、急いで生産力を高めたい企
業にとって、目の上のたんこぶでした。
企業は配当金を株主に支払うよりも、そのお金をさらに生産力を高めることに投資したか
ったからです。
そこで、グループ企業で株式を持ちあって、株主の経営に対する発言力を抑えることによ
り、企業の利益が株主に奪われることなく、さらに生産力を高める投資に使えるような工
夫もされたのです。
このように、新たに生み出されたお金が、さらなる生産力の向上に使われるように、注意
深くコントロールされながら、お金がどんどん増え続けた結果、10 年で国民の所得が 2.5
倍になるという快挙も生まれたのです。
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ここで勘違いしてはならないことは、10 年で国民の所得が 2.5 倍になったのは、経済の成
り行きにまかせてそうなったのではなく、私たちが目標を持って意図的にそうしたのだと
いうことです。
このことが、ベーシック・インカムを実現する重要なヒントにもなってくるのです。
~ただの紙切れの一万円札に、なぜ一万円の価値があるのでしょうか?~
「所得倍増計画」では、お金をどんどん増やし続けたのに、その増えたお金を生産力を高
めることに使うことで、お金を紙切れにさせてしまうことなく、国民にモノの豊かさをも
たらしました。
そもそも、ただの紙切れにすぎない一万円札に、なぜ一万円の価値があるのでしょうか?
たとえば、銀行から借金をするときには、土地が担保とされたりします。
では、一万円札は何が担保とされて、一万円という価値が保証されているのでしょうか?
ひと昔前は、ゴールドがお金の担保とされていましたが、ゴールドがお金を保証するもの
でなくなった今、お金の担保とされているものは、いったい何なのでしょうか・・・?
一万円札、五千円札、二千円札、千円札には、表に日本銀行券(その下に小さく日本銀行)、
裏に NIPPON GINKO と印字されています。
つまり、お札は日本銀行券なのです。
すると、日本銀行の財産が担保となって、お金は発行されているのでしょうか?
しかし、たとえ日本銀行が持つ財産を裏づけにお金が発行されていたとしても、民間銀行
が持つ信用創造の働きによって、お金はその何十倍にも増えるわけですから、とてもお金
の担保と言えるようなものではありません。
それでは、担保もなくお金は発行されているのでしょうか?
私たち全員が一万円札には一万円の価値があると幻想を抱いているだけ、その幻想がお金
の価値を支えているにすぎないのでしょうか・・・?
いいえ、ちゃんとお金の担保はあります。
縁の下でしっかりとお金の価値を支えているものがあります。
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それは、日本という国の国力です。
国力というのは、国民一人一人の団結から生まれる生産力です。
約 500 兆円という GDP、これだけのモノやサービスを生み出すことのできる国民の絆、あ
るいは、その絆への信頼が担保となっているのです(お金の価値がなくなるのは、お金で
買えるモノがなくなったときです。そうなれば、お金を持つ意味自体がなくなってしまう
ので、お金の価値もまたなくなるのです。このことからも、お金で買えるモノをどれだけ
生産する力があるかどうかに、お金の価値は支えられていることが分かるでしょう)。
巨額な国の借金の存在や、このままでは日本は破産してしまうという悲観論が、さんざん
マスコミで流されているにもかかわらず、それでもなお、私たちは一万円の価値を信じて
います。
たとえ国の借金がどれだけあろうが、先の見えない不況が続いていようが、頭では不安を
感じながらも、心の奥では必ず乗り越えることができると、国民一人一人の絆から生まれ
る生産力を信じているのです。
そのことが、ただの紙切れに過ぎない一万円札に、一万円という価値を保証するのです。
もし約束の守られない、詐欺や盗みなどの犯罪が横行する社会、そのために、決してお互
いを信頼することのできない社会であったらどうでしょうか・・・?
こんな社会では、お互いの絆から生まれる生産力も信頼しようがありません。
ということは、不信感から「働かざる者食うべからず」と、お互いを脅しあうことこそ、
インフレを引き起こし、お金をただの紙切れにしてしまうことだと言えます。
そして、ベーシック・インカムによって、無条件に一人一人のいのちを大切にし、お互い
の信頼を支えることこそ、お金の価値を支えること、決してお金を紙切れにしないことだ
と言えるのです。
さて、500 円硬貨、100 円硬貨、10 円硬貨、5 円硬貨、1 円硬貨を見てください。そこには、
日本国と刻まれています。日本国民の絆から生まれる生産力、その生産力に対する信頼が
担保だという意味でしょう。
これが正解です。
決してお金は日本銀行券ではないのです。
~「GDP の大きさ」=「豊かさ」なのでしょうか?~
また、生産力という言葉は、量と質の両方を含むものだということを忘れてはなりません。
この点から考えると、国の生産力を表すとされる GDP には、重大な欠陥があることになる
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のです。
たとえば、コメが不作でキロ当たり 1000 円。でも、購入者の不満を GDP は表現しません。
こだわりのコメでキロ当たり 1000 円。でも、購入者の満足を GDP は表現しません。
単純な儲けの合計にすぎない GDP は、不満と満足の両者を一緒にしてしまう、両方とも同
じように増えたと計算してしまうのです。
つまり、GDP は生産されたモノやサービスの中身、質を表さないのです!
このことを頭の片隅に入れたうえで、なぜ日本経済が行きづまってしまったのか、なぜ日
本経済はなかなか不況から脱出することができないのかを考えてみたいと思います。
戦後の日本経済は、おもに銀行の信用創造システムを使って、どんどんお金を増やし、そ
の増えたお金が企業のさらなる生産力拡大に使われるよう誘導することによって、驚くほ
ど豊かな国民生活を短期間で実現させました。
ただ、このシステムを使ってお金をどんどん増やすには、企業が生産力拡大のために、銀
行からどんどんお金を借りてくれなくてはなりません。
ところが、あるときから「なかなかモノが売れない」と売る方は言い始め、
「なかなか欲し
いモノが見つからない」と買う方は言い始めました。
このとき、モノ不足時代からモノ余り時代への転換が始まっていたのです。
とりあえず、生活に必要なモノは国民にほぼ行き渡って、それ以上、モノが売れにくくな
ってしまいました。すると、企業の業績は思うように上がらなくなります。ライバル会社
との激しい値下げ競争が始まります。その競争に勝ち残るため、企業はリストラを含めた
徹底的な経費削減、スリム化に努めます。生産力拡大のために新たな投資をする必要も少
なくなって、銀行から借金をする以上に、銀行に借金を返済するようになります。
その証拠に、銀行の貸出し残高も 1998 年からどんどん下がり始め、20 年後の 2008 年には
約 150 兆円も少なくなっています。それだけ借金が銀行に返済されているのです。
そうなると困ったことに、信用創造のシステムは逆に作動し始めて、世の中に流通するお
金はどんどん少なくなり、ますます世の中は不景気となってしまうのです。それは、さら
に過酷な経費削減を企業に強制します。
つまり、生産力の拡大がない限り、信用創造のシステムは私たちをますます貧しくさせる
方向に働いてしまうのです(ここにも、信用創造のシステムは、国民によって、しっかり
監視されなければならない理由があります)。
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ここで大切なのは、この生産力の拡大が量の面での拡大であったということです。
つまり、生産力を量の面で拡大させようと企業は努力してきましたが、生活に必要なモノ
が国民にほぼ行き渡った結果、量の面での拡大が難しくなったのです。
それなのに、いまだにモノ不足時代の経済学を使い、あいかわらず量的な規模の拡大を求
め続けても、うまくいくはずがありません。
量から質の経済へ。
見かけの豊かさではなく、中身の豊かさの経済へ。
しかし、質の経済を支えるお金が、世の中に足りないがために、私たちは、脱皮しきれな
まま立ち止まっているのです。
41
第4章
~なぜ世界には飢えに苦しむ 8 億人もの人がいるのでしょうか?~
量から質の経済へ転換しなければならないと言ったって、世界には、まだモノ不足で貧し
い国があるではないかと思う方もいらっしゃるでしょう。
しかし、それはモノ不足が問題なのではなく、お金のシステムが問題なのです。
エンデは次のように述べています。
「たとえばエチオピアのような国ひとつを見てみても、西側諸国からの借金の利子を払う
ためだけに、自国で産出する食肉全部を輸出にまわさなければならない。彼らが飢えに苦
しむのは、そういう仕組みからです。あの人たちは、本来自分でたべていけるだけの力を
もっているのに、こちらの繁栄社会の私たちが、日々の食卓に肉料理を並べられるように、
すっかり輸出することになる。ここに私たちの経済システムの、おそるべき・・・・・・
あえていいますが犯罪性がかくされています」(『エンデと語る』朝日新聞社)
これは、どういうことでしょうか・・・?
1973 年から 75 年にかけて北の豊かな国々は、不景気のために多くの失業者を抱えてしま
い、国内で商品を売ることが難しくなりました。そこで、南の貧しい国の人たちが自分た
ちから商品を買ってくれるように、
「もし、自分たちから 100 万円の商品を買ってくれるな
ら、そのぶんのお金を低い金利で貸してあげますよ」と、好意的な条件でお金を貸すこと
にしたのです。
実は、北の豊かな国々が経験した不景気は、量の経済の行きづまりに基づくものでした。
生活に必要なモノはほぼ国民に行き渡ったため、それ以上、国内でモノが売れにくくなっ
てしまったのです。
そこで、北の豊かな国々の人たちは、南の貧しい国々へと量の経済を拡大していくことで、
この不景気から脱しようと考えたのです。
それは、貧しい国々の人たちのためを考えてのことではなく、自分たちのためを考えての
ことでした。
それだけではありません。
貸し付けられたお金のほとんどは使い道が指定されていました。南の貧しい国々にある豊
富な天然資源を発掘し、それを北の豊かな国々に運ぶための道路、鉄道などが最優先で建
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設されたのです。
そのうえ、当初は低かった金利も、アメリカとイギリスの金利に連動するよう設定されて
いたため、両国の勝手な都合で金利が上げられたとき、南の貧しい国々の借金は、一気に
3 倍以上ふくれあがってしまったのです。
その結果、南の貧しい国々の人たちは、自分たちが生きていくための生産ではなく、その
借金を返済するための生産をせざるをえなくなりました。
そして、大量のコーヒー、砂糖、綿花、ココア、天然資源などが、借金返済のために、北
の豊かな国々へ輸出されたのです。
でも、それは必要以上に多くの量が輸出されました。
市場にあふれた輸出品の価格は暴落し、借金を返済できなくなった彼らは、返済のための
借金をしなければならなくなりました。ますます減り続ける収入で、ますます増え続ける
借金を返さなければならなくなったのです。
結局、南の貧しい国々の人たちのために、一度も使われなかったお金の返済を彼らはして
いるのです。北の豊かな国々の経済システムを維持するために、南の貧しい国々へと量の
拡大を求めた結果、それは起こった悲劇なのです。
~質の経済、中身の豊かさの経済とは?~
量の経済の拡大が悲劇をもたらすならば、もう一方の質の経済、中身の豊かさの経済はど
うなのでしょうか?
まず、質、中身の豊かさの意味から考えてみたいと思います。
佐藤初女さんという女性がいます。岩木山のふもとで憩いと安らぎのための家「森のイス
キア」を主宰され、そこに訪れた人たちにもてなされる初女さんの手料理は大人気です。
彼女は「地球交響曲 第二番」という映画にも出演されていますが、龍村仁監督が撮影時
の出来事を次のように語った文章があります。
「映画のファーストシーンで、先生がイスキアの裏の雪の中からふきのとうを掘り出され
るシーンがあります。このシーンだって、その日の夜の私達の食事に、ふきとうの味噌和
えをつくってくださるために始まったシーンでした。
(中略)ところが、その初女先生のふ
きのとうの採り方を見ていて、私は胸が熱くなるほどの感激を覚えました。スコップか何
かを使ってサッと採られるのだろうと思って見ていると、なんと先生は、小さな枯れ枝を
使って、シャカシャカとさわやかな音を響かせながら、まだ雪の下にあるふきのとうのま
43
わりの雪をやさしく取り除き始めたのです。
『なんと、“めんどくさい”採り方をされるの
だろうか』、そう思った瞬間、私は、先生が作られた梅干し入りのおむすび一個が、なぜ自
殺まで決意している人の心を癒し、生き続ける希望や勇気を与えるのか、の理由がわかっ
たような気がしたのです。それはこういうことです。先生は、このふきのとうを今晩のお
かずのための単なる食材(モノ)とは決して思っておられない。先生は、このふきのとう
を、自分と全く変わらないいのちを持った存在であると、あるいは自らのいのちを、食べ
る私達のために与えてくださる尊い“神からの贈り物”とさえ思っておられる。ふきのと
うがいのちであるかぎり、ふきのとうにも必ず“心”がある。そのふきのとうの“心”に
なって考えてみると、初女先生の“めんどくさい”採り方の意味がよくわかってくるので
す。このふきのとうは、半年もの長い間、三メートル近い雪の下でその重さと寒さに耐え
ながら、春の訪れを待っていました。そして春が近づいて、頭上の雪が少しずつ解け始め、
(中略)
『ヨシッ!もうすぐ春だ。これからボクはウンと大きくなろう』そう思ったふきの
とうは、喜びと共に全身にいのちの力をみなぎらせ始めます。もしその時突然、無骨で恐
ろしげなスコップが頭上から振り下ろされてきたらどうでしょう。ふきのとうは、恐怖の
ために一瞬に身を縮め、
『さあこれから大きく元気に育とう』と思っていた“喜びの心”は
一気にどこかへ吹き飛んでしまいます。ところが初女先生のように小さな枯れ枝でやさし
くまわりの雪を取り除いてくれる人がいたらどうでしょう。ふきのとうは、
『あれあれ、雪
が解けるまでもう少しがまんしてなきゃいけない、と思ってたのに、陽射しがどんどん強
まってくるぞ。ヨシッ、それならボクはもっと早く大きくなろう』とますます生命力(喜
びのエネルギー)を活性化させてゆくでしょう。
(中略)初女先生はこのふきのとうをお料
理する時も、全く同じ態度です。だから、ふきのとうに宿っていた喜びのエネルギー、す
なわち見えない生命力(心)は、表面の姿形こそ多少変わっても、そのままに活き続け『オ
イシイ!』という感動と共に私達の体に入り、今度は私達自身の生命力を活性化してくれ
るのです」(『おむすびの祈り』集英社文庫)
これほど質、中身の豊かさの意味が、的確に表現された文章はないと思いましたので、長
く引用させていただきました。
つまり、質、中身の豊かさとは、思いやりが生み出すものなのです。
そして、思いやりとは、手間、ヒマをかけることなのです。
初女さんの手料理を食べたいと、
「森のイスキア」には全国から多くの人たちが訪れるそう
です。どんなに交通費や時間や労力がかかっても食べたい、それ以上の価値を認める人た
ちが全国にたくさんいるのです。それほど初女さんの手料理は、食べた人の心を豊かにし
てくれるのでしょう。
そして、心を豊かにしてもらったことに対して、私たちは感謝の気持ちをお金に添えて捧
44
げるのです。
だから、質の経済に安売りはありません。
量の経済では、「少しでも安く」が求められますが、質の経済では、「少しでも高く」と仕
向けられます。
たとえば、数ある引越業者さんから見積もりをとって、一番安い業者さんを選んだつもり
が、引越業者さんが汗水たらして荷物を運ぶ姿を見て、思わず感謝のチップをあげてしま
うようなものです。
「少しでも安く」が求められた結果、価格が安く、儲けが少なくなれば、単純な儲けの合
計にすぎない GDP もまた少なくなります。量の経済自体に経済を停滞させ、不景気を作り
出す要因があるのです。
逆に、値切ろうなんて思わせない、
「少しでも高く払いたい」と私たちを仕向けさせる質の
経済は、経済を成長させ、好景気を作り出す要因がもともとあるのだと言えます。
質の経済とは、思いやりが主役の経済なのです。
*量の経済では何より効率性が求められます。
少しでも安く、安定した品質のものを、大量生産によって消費者に提供するためには、効
率的でなければならない、ムダを省かなければならないからです。
でも、効率を求める、ムダを省くということは、手間、ヒマがかかることを、どんどんな
くすということでしょう。
それは、思いやりをなくすということ、心の豊かさをなくすということだとも言えないで
しょうか・・・。
その証拠に、モノが豊かになればなるほど、私たちは満たされない何かを心の中にますま
す強く感じてきました。どんなにモノに満たされても、私たちの心の乾きが満たされるこ
とはなかったのです。
けれども、戦後の貧しく、生きることが精一杯だった時代は、まず、生きるためのモノを
大量に生産し供給することが、何より緊急なことだったのです。
そのおかげで、やっと今、心の豊かさを求めることのできる時代になったとも言えるでし
ょう。
量の拡大には限界がありました。
でも、心の豊かさの拡大には限界なんてありません。
どこまでも私たちは豊かになることができるのです・・・。
~私たち一人一人は生活芸術家になります~
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その思いやりは自分自身にも発揮されます。
より心地よい食事、より心地よいインテリア、より心地よいファッション、より心地よい
雑貨、より心地よいカラダ・・・。
生活が芸術となり、そこから新たな産業も生まれてくるでしょう。
つまり、初女さんのふきのとうに対するような、細やかな感性や思いやりを土台にして、
より心地よい生活が創造されていくのです。
作家の三木清も「芸術家が芸術作品をつくるのと同じように、我々は我々自身と我々の生
活を作るのである。すべての生活者は芸術家である」と生活芸術を提唱し、大切なのはモ
ノの量の豊かさではなく、モノを使う自分にとっての意味や価値、つまり、質が大切なん
だと訴えた人です。
「新しい生活文化の形成には生活に対する積極的な態度がなければならないが、それは何
よりも生活に対する愛というものである。生活に対する愛、-このヒューマニズムがあら
ゆる生活文化の根底になければならぬ。この愛は生活をより善く、より美しく、より幸福
にしてゆくことを求めるであろう」(『三木清全集』岩波書店)
生活への愛とは自分自身への思いやりと言いかえることができると思います。それが、よ
り心地よい自分自身のあり方や生活を求める心となり、そのための手間、ヒマを惜しまぬ
行動となり、生活を芸術にまで高めていく、一人一人を生活芸術家にしていくのです。
ベーシック・インカムは、私たち一人一人の生活芸術活動を支える資金でもあるのです。
こうして、思いやりがじわじわ育ってくると、水の質を高める、空気の質を高める、エネ
ルギーの質を高める・・・といったことにも、私たちの関心は広がっていくでしょう。私
たちを包みこむ自然や環境まで、我が事のように感じられるほど、私たちの思いやりは大
きく育っていくのです。
たとえば、日本の水道水の 75%は米国生まれの急速ろ過方式で作られています。硫酸アル
ミニウムなどの薬品で水の濁りを取り除いた後、砂でろ過した水を塩素で殺菌する方法で
す。大量の化学薬品を使って、非常に短時間で飲み水を作ることができるので、急速ろ過
方式と言われています。
この急速ろ過方式に使われる塩素は、すぐに有機物とくっついて、トリハロメタンなどの
毒物を作り出してしまいます。
にもかかわらず、その使用量の上限値は定められていないのです。
そもそも、毒物を作り出してしまうような物質を使うべきではないでしょう(ゴミの分別
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収集にしても、資源物理学者の槌田敦さんの主張するように、後からゴミとなった段階で
分別するのではなく、最初から資源の段階で分別しておいて、毒となる物質を使わないよ
うにすることが大切です。しかし、今なお、毒物のアスベストが使われ続ける背景には、
アスベストに代わる他の断熱材の値段が非常に高いという理由があります。そこで、槌田
さんは毒物や処理が困難な物には高い税金をかけることを提案しています。もし、アスベ
ストにかかる税金が高くなり、他の断熱材よりも値段が高くなれば、アスベストは自然と
使われなくなりますし、アスベストに代わる断熱材の研究、開発も進むからです)。
おかげで、塩素くさい、カビくさいと言われる水道水ですが、戦前は、微生物の力を借り
てゆっくり浄化する英国生まれの緩速ろ過方式で作られていました。自然界では、川の砂
利や石に住む微生物や藻が、水をきれいにしてくれます。その自然の浄化システムを再現
し、微生物による浄化のための時間をじっくりとかけてやることで、もっと安全でおいし
い水が作られていたのです(現在でも水道水の 5%は、この方式で作られています)。
ベーシック・インカムによって、私たちの手間、ヒマが支えられるとき、再び、安全でお
いしい水が作られるようになることでしょう。
~ベーシック・インカムの財源はどこにある?~
さて、現代は医療の進歩により、多くの人たちが長生きするようになったため、両親が亡
くなった後、その遺産を相続する子どもたちの年齢も高齢化しています。
だいたい 60 代で相続する場合が一般的かと思われますが、そのときには、すでに子育ても
終わり、自宅のローンも払い終わって、悠々自適に年金暮らししている頃なのです。
つまり、もっともお金が必要なときに相続されないで、たいしてお金の必要もなくなった
ときに相続されるという不都合な事態が起こっているわけです。
すると、相続されたお金はほとんど使われることなく、孫たちに相続されることになるで
しょう。
しかし、その孫たちもまた、相続する頃には同じような高齢になっていて、やはり、その
お金は使われないまま、ひ孫たちに引き継がれてしまうのです。
そのため、いったんお金が貯めこまれてしまうと、そのお金は、なかなか世の中に戻され
ることがないのです。
私たちが、生きるために必要なモノやサービスを、買うためにはお金が必要なのに、その
お金が、慢性的に不足しがちという困った状況になっているわけです。
すると、買いたいモノやサービスがあっても、買いづらくなってしまいます。
ちょっとしたぜいたくも、我慢するようになります。
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それは、会社の売り上げや私たちの給料を減らし、世の中を不景気にします。
売上げの減った会社は、コストを切り詰めようとします。
給料の減った私たちは、もっと節約しようとします。
そのことが、ますます不景気を加速させてしまうのです
つくづく、お金を貯めこむことは問題なのです。
だからこそ、お金が貯めこまれすぎることを防ぐための仕組みが必要なのです。
その方法は、ふたつあります。
ひとつは、ベーシック・インカムによって、誰もがお金の心配なく、生活できるようにす
るということです。先行きの見えない人生を生きる私たちは、その不安から、お金を貯め
こもうとします。でも、ベーシック・インカムによって、一生、生きるためのお金が保障
されるならば、過度に、お金を貯めこむこともしなくなるでしょう。
もうひとつは、税というシステムを活用して、お金が貯めこまれすぎることを防ぐという
ことです(税はシンプルで分かりやすいものであるべきでしょう。複雑怪奇な方が、国民
を騙すには便利でしょうが、だからこそ、小学生でも騙しようがないほど、税も国家予算
も明快なものにすべきです)。
ということは、貯めこまれたお金にだけ課税するようにして、それ以外の税は全部ゼロに
したらよいのです。
日本には約 5330 兆円もの、個人、企業が所有する現金や株などの金融資産や不動産とい
う貯めこまれたお金がありますから、それに対して課税するということです。
せっかく汗水たらして得た給料なのに、所得税なんか取られてしまったら、頑張った自分
へのささやかなごほうびもできません。
消費税なんか取るから、買う気も失せてしまうのです。
結局、所得税も消費税も、お金を貯めこむ方向に、私たちを働かせてしまっているのです。
~「三方良し」の精神とベーシック・インカム~
また、個人の資産というものは、自分の子どもたちのために、貯められるものでもあるで
しょう。
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でも、私たちが忘れてはならない大原則があります。
分業社会においては、みんなが一緒に豊かになることが大切ということです。
お互いが自分以外の他人によって生かされている社会では、他人にも生きるためのお金が
なければ、自分にだけどんなにお金があっても、生きていくことはできないからです。
つまり、自分の子どもたちにだけお金を残しても、それが彼らの生活を保障してくれるこ
とにはならないのです。
それに、自分の子どもたちはお金だけで幸せになれるのではありません。
自分の子どもたちを安心してゆだねることのできる社会、思いやりあふれる社会こそ、彼
らに揺るぎない幸せをもたらしてくれるものでしょう。
どんなにお金を残しても、自分の子どもたちが信頼や思いやりや優しさのまったくない社
会で生きなければならないとしたらどうでしょうか?
決して安心して死ぬことはできないはずです。
親が子どもたちに遺産を相続させたいのは、自分が死んだ後も、彼らに幸せであってほし
い、生活に困るようなことがあってほしくはないという親心からでしょう。
であるならば、ひたすら子の幸せを願う親心を叶えてくれる最良の方法は、ベーシック・
インカムを実現させること、そのためのお金のぶんだけ少しずつ世の中に戻すことなので
す。
ベーシック・インカムが育む思いやりや優しさこそ、自分の子どもの幸せを守ってくれる
ものなのですから・・・。
そして、ベーシック・インカムによってみんなの生活が保障されるからこそ、みんなに支
えられてある自分の子どもたちの生活もまた、保障されることになるのです。
企業の資産も、将来の経営不振に備えて、貯蓄せざるをえないものでしょう。
でも、その大切な貯蓄のほんのわずかでも、ベーシック・インカムの財源として活かされ
たならば、それは、企業にとって最も頼りとなる保険になるのです。
いくら会社にお金を貯めこんでも、残念ながら、そのお金に会社の経営不振を救う力はな
いからです。
近江商人の経営哲学に「三方良し」の精神があります。
「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つの「良し」です。
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本書で、「居酒屋ができるまでには、物件を貸してくれる大家さん、その物件を仲介して
くれる不動産屋さん、内装工事の人、テーブルや椅子、照明器具、調理器具を作り、販売
してくれる人たち・・・など、数え切れないほど多くの人たちの仕事に支えられています。
また、居酒屋の営業には、料理人、野菜やお肉や魚などの食材を生産してくれる人、それ
らの食材を市場まで運ぶ人、市場で売る人も必要です。もちろん電気、ガス、水を提供し
てくれる人たちも欠かせません。このように、多くの人たちの仕事に支えられて、居酒屋
の接客係という仕事は可能になるわけです。つまり、あなたの給料は、あなた以外の多く
の人たちに支えられているのであり、同時にあなたの仕事もまた、あなた以外の多くの人
たちの給料を支えていることになるのです」と書きましたが、「世間良し」の世間とは、
この居酒屋の接客係を支える多くの人たち、その多くの人たちもまた、別の多くの人たち
に支えられ、その別の多くの人たちもまた、さらに別の多くの人たちに支えられ・・・こ
のネットワークの無限の広がりのことなのです。
つまり、売り手となる企業にだけ、お金があっても仕方がないのです。
買い手となる人たち、世間の人たちにもお金がなければ・・・。
ベーシック・インカムによって、買い手となる人たち、世間の人たちの生活が保障される
からこそ、売り手である企業の経営もまた保障されるのです。
~ベーシック・インカムの財源はここにある!~
また、お金が、非生産的なマネーゲームに、使われることを防ぐ必要もあります。
お金が、株や不動産などのマネーゲームに使われた結果、バブルは崩壊し、私たちは長引
く不況に悩まされました。いまだに、その後遺症から脱け出しきれないでいます。
マネーゲームは、手持ちのお金を何十倍にも増やして、興じられています。
でも、本書で指摘したように、生産力の裏付けのないことにお金を注ぎこむことは、お金
を紙切れにすることなのです。やがて、バブルがはじけるように、生産力に見合った状態
へと、引き戻されるに決まっています。
そのとき、バブルがはじけて生じた、巨額の赤字を穴埋めするために、私たちの日々の暮
らしを支えるお金が、使われるから問題なのです。
突然、私たちが、生活に必要なモノやサービスを買うお金が、消えてしまうことになるか
らです。
それは、私たちをどん底の不景気に陥れます。
だから、そんな過ちを二度と繰り返させない、仕組みづくりが大切なのです。
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その観点から、為替取引税(トービン税)のアイデアは有効で、とても共感できるもので
す。以下、安部芳裕さんの「おかねの幸福論」より抜粋します。
現在、世界中を混乱に陥れているのは貪欲な金融資本主義です。電子信号となったマネー
が一瞬たりとも休むことなく世界中を駆け巡り、利益を追求していきます。為替市場の変
動を利用してマネーでマネーを稼ぐ金融経済は、モノやサービスの取引をおこなう実物経
済よりも巨大に膨れ上がり、その影響を実物経済が受けるようになっています。一年間に
おこなわれる為替取引は約 1845 兆ドル(2010 年)、これは世界の GDP の合計の約 30 倍、
世界の貿易額の約 48 倍にもなっています。1 年間に取引される日本円は約 3 京 3025 兆円
で、これは日本の GDP の約 60 倍であり、貿易額の約 223 倍。この為替取引の 99.6%以上
がマネーゲームであり、貿易取引には関係ありません。もし日本円の為替取引に、売り手
と買い手の双方に 0.5%ずつ、計 1%を課税すれば、年間に約 330 兆円の税収が生まれます。
(抜粋は以上)
経済学博士にして社員 800 人を抱える会社の経営者でもあるビル・トッテンさんも、次の
ように言います。
日本政府は、日本国民の買い物に対して 5%(2014 年現在、8%)もの消費税を課している。
水や食料といった生きるために必要なものを買うにも、われわれは 5%(2014 年現在、8%)
の消費税を払わなければならないのだ。生活必需品、いや生存必需品ですら税金がかかっ
ているのに、円の投機的売買に 1%の税金をかけられないことがあるだろうか。
(アングロサクソン資本主義の正体 東洋経済新報社)
このトービン税と資産税から、毎年、ベーシック・インカムを実現するお金ぶんが、国民
の手に戻ればよい、そして、お金が貯めこまれすぎることなく、循環するようになればよ
いのです。
決して私たちをお金の奴隷とさせないように、私たちの思いやりと優しさを育むお金であ
るように、必要以上にお金が貯めこまれることがないような仕組みを作っておくのです。
つまり、所得税、住民税、市民税、相続税、贈与税、法人税、酒税、ガソリン税、タバコ
税、自動車重量税、自動車取得税、ゴルフ利用税…etc など、現行のすべての税を廃止し、
資産税と為替取引税(トービン税)の二つだけに絞るということです。
社会保険や税金から社会保障給付金として総額 99 兆 8500 億円が給付されていますが、経
済評論家の山崎元さんの試算によれば、そこから医療費の 30 兆 8400 億円を差し引いた 69
兆円をベーシック・インカムにおきかえることができ、毎月 4 万 6000 円のベーシック・
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インカムは、一円も増税することなく実現可能だとしています。
京都府立大学の小沢修司教授も、毎月 5 万円程度のベーシック・インカムならば、今の税
制のままで実現できると試算しています。
仮に、ベーシック・インカムが実現できるように、資産税、トービン税の税率を定めてみ
ますと…。
資産税 3%で 160 兆円、トービン税 0.2%で 66 兆円、合わせて 226 兆円の税収となります。
一般会計予算を 90 兆円とすると、差し引き 136 兆円をベーシック・インカムの財源とす
ることができます。
その 136 兆円に、現行のまま、ベーシック・インカムにおきかえ可能な 69 兆円を足すと、
205 兆円となり、毎月 13 万 8 千円のベーシック・インカムを実現できるばかりか、おつり
まで出ることになります。
月額 13 万 8 千円のベーシック・インカムは、決して夢物語ではないのです。
*ここでは、ベーシック・インカムを実現させる財源として、資産税とトービン税を検討
しましたが、他にも素晴らしいアイデアは、たくさん見つかることでしょう。
だから、ベーシック・インカムを実現する方法については、こだわりません。
何より大切なのは、ベーシック・インカムの奥にある、世界中から人間不信や生きること
の不安がなくなるまで、とことん、一人一人のいのちを無条件に保障し続けるという思想
だからです。
そのためのベーシック・インカムであり、ベーシック・インカムの実現でしか、世界平和
に至る道はないとも思っています。
だから、「お金が足りないから、ベーシック・インカムは実現できない」と言う人がいた
ら、その人の言っていることは本末転倒なのです。
その時点で、お金のトリックに引っ掛かっているのです。
お金は人間を幸せにするためにあるもの、そのために人間が発明した道具でしょう。
人間はお金の奴隷なんかでないはずです。
お金のために人間の尊厳が守られないことがあってはならないのです。
ベーシック・インカムが実現するように、そして、人間の幸せのために、ちゃんとお金が
働くように、お金のルールをうまく変えたらいいだけなのです。
*資産税について、タンス預金されたら徴収できないのではないかという疑問もあると思
います。その点に関して、元日銀マンの白川浩道さんの「消費税か貯蓄税か」(朝日新聞
出版)に、とてもユニークなアイデアが書かれていますので、以下、紹介します。
52
「米国の経済学者グレゴリー・マンキューがデフレ対策としてユニークな提案をして話題を
呼んだ。中央銀行が毎年くじ引きで0〜9までの数字を一つ選び、シリアルナンバーの下
一桁がそれに合致した紙幣を無効にするというものだ。紙幣で保有していると、価値が毎
年平均10%下がることになる。どの数字が当たるか、誰にも事前にはわからない点がミ
ソだ」
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第5章
~日本自身がお金を貯めこむメタボ体質~
日本は「モノ作り大国」と言われ、
「メイド・イン・ジャパン」の商品を世界中にせっせと
売りこんで、たくさんのお金を稼いできました。
日本の商品が外国に売れると、受け取った外国のお金を円に交換しなければなりません。
つまり、外国のお金(その多くはドルです)を売って、その代わりに日本円を買うという
ことです。
その結果、売られ続けたドルはどんどん安くなりますし、買われ続けた円はどんどん高く
なります。日本は「メイド・イン・ジャパン」の商品を売ってばかりいたため、円はどん
どん高くなっていきました。すると、日本から輸出される商品の価格も高くなり、外国の
商品との価格競争に負けて売れにくくなってしまいます。それは困ると日本の輸出企業に
泣きつかれた政府は、高くなりすぎた円を売ってドルを買い続け、円を安くするための努
力をしてきました。そうして買い続けたドルを、とうとう日本は 100 兆円以上も積み立て
てしまったのです。
「お客さまは神サマ」という言葉は、国同士の関係にも当てはまります。
やはり、自国の商品をいっぱい買ってくれる国が神サマなのです。
そんな国は何としても守ろうとするでしょうし、大切にもするでしょう。その国が自国の
商品をいっぱい買ってくれるおかげで、自国民は豊かな生活を送ることができるからです。
一方、お金を貯めこんでいるばかりの国は、かえって滅んでくれた方が都合よいことにな
ってしまいます。たとえば、日本が積み立てた 100 兆円以上のドルの多くは、アメリカの
国債(国がお金を借りる際に、その証拠として発行する証券です。国はお金を貸してくれ
た人に利子をつけて返します)に投資されていますが、それはアメリカにとっての借金で
すから、借金取りはいなくなってくれた方がありがたいのです。
つまり、お金を貯めこんでいるばかりいる国は、国防の面でも大変なリスクを抱えている
ことになります。
そうではなく、せっかく円が高くなったのですから、海外旅行にもどんどん行って、日本
人の細やかな感性を活かして、世界中のいいものをどんどん掘り出し、買うようにしたら
よいのです。
それなのに、政府はまったく逆の努力をしているのです。せっかくの円高の恵みで国民は
豊さを味わうことができるようになったにもかかわらず、その国民の楽しみを奪ってまで、
わざわざ政府が円を売りドルを買い続けているのです。
そんなことは国民にまかせたらよいのに・・・。
54
こうして政府は 100 兆円以上ものドルを積み立ててしまい、そのお金の多くはアメリカの
国債に投資されて、今、日本にはないのです。
つまり、今すぐ国民が自由に使えるお金ではないということです。
しかも、円高を安くするためにドルを買い続けたお金は、国民の預貯金からまかなわれて
いるのです。
どこの国も中央銀行が新たにお金を刷って、そのためのお金を調達している(なぜなら、
円の量が少なくドルの量が多いから円高でもあるので、もし円高ならば、新たにお金を刷
って円の量を増やすことが、円を安くするためには効果的となるからです)にもかかわら
ず・・・。日本も 1999 年まではそうしていたのに、いつのまにか国民の預貯金が使われ
るようになりました。
これでは、日本の国内で循環していたお金がどんどんアメリカに流れ出てしまうことにな
り、お金不足となった日本は、もっと不況になってしまいます。
当然、国民の預貯金からまかなわれたお金は、中央銀行が新たに刷ったお金に移し変えら
れるべきでしょうし、それを、ベーシック・インカムの財源として、国民に返すことは、
もっとも筋の通ったことではないでしょうか・・・。
もし、その半分の 50 兆円が、臨時ボーナスとして国民に支給されたとしたら、どうなるで
しょうか?
国民一人当たり 42 万円の臨時ボーナス(18 歳未満は半額の 21 万円)です。
国民は、臨時ボーナス 42 万円のうちの 4 割を貯蓄にまわして、残りの 6 割を買い物や旅行
などの消費にまわしたとします。
A さんが 42 万円の 6 割である 25 万 2 千円を消費にまわし、そのお金が B さんの所得とな
り、B さんもまた 25 万 2 千円のうちの 6 割である 15 万千2百円を消費にまわし、そのお
金はまた C さんの所得となり、Cさんもまた 15 万千2百円のうちの 6 割を・・・と繰り返
すと、最初の 42 万円は 2.5 倍の 105 万円に増えることが分かります。
すると、50 兆円の臨時ボーナスはGDPを 2.5 倍の 125 兆円増やすことになり、500 兆円
だったGDPは 625 兆円となって、25%増えることになります。
しかし、GDPが 25%増えたくらいでは、インフレにはならないのです。
東西ドイツが統合されたとき、西ドイツ経済は 6250 万人の西ドイツ市民だけでなく、新た
に増えた 1750 万人の東ドイツ市民ぶんの商品も、ただちに供給することができました。
どんな商品も品切れや品薄になることはなく、もちろん値上がりもインフレもなく、あら
55
ゆる商品を速やかに供給できたのです。
28%増となる 1750 万人ぶんの商品を、西ドイツ経済は問題なく供給できたのですから、G
DPが 25%増えたくらいでは、日本経済もインフレになるわけがないのです
(補足)敗戦直後、中央銀行である日本銀行は、大量の不良債権を抱えて身動きできなか
った銀行を救いました。銀行が抱えた紙切れ同然の大量の「戦時国債」を高く買い取るこ
とで、新たなお金を大量に刷ったのです。
そのお金は、道路や橋を造ったり、工場を建てたり、生産力を高めることに使われました。
おかげで、日本は、戦後の焼け野原から、奇跡的な復興を成し遂げることができたのです。
お金を刷るなんて言うと、決まってインフレが起こって、お金が紙切れになってしまうと
いう心配の声が聞かれます。
でも、高度経済成長期の日本も「所得倍増計画」を打ち出し、経済の規模を 10 年で 2.5 倍
にするほど大量のお金を作ったのです。
それでも、インフレになってお金の価値が下がることはありませんでした。
新たに生み出されたお金が生産力を高めることに使われたので、消費が増えたために生産
が追いつかなくなって、モノの値段が高くなってしまうこともなかったからです。
もし無限にモノを提供できるならば、無限にお金を刷っても、そのために、お金の価値が
下がって紙切れになってしまうことはないでしょう。
要は、モノとお金のバランスだからです。
ということは、東日本大震災の復興財源も、税でまかなってはならないのです(2013 年 1
月より『復興特別所得税』が課せられています)。
内閣府による被害額の推計は 16 兆 9000 億円にものぼりますが、それだけの富と、その富
がもつ生産力が失われたわけですから、敗戦直後の日本と同じく、新たにお金を刷ってま
かなうべきなのです。
それを税でまかなうことは、世の中からお金を不足させることになるのです。
~もっとも信頼できないのは国の会計~
日本が円高を阻止するためにドルを買い続け、積み立ててしまった 100 兆円以上ものお金、
約 6 年ぶんの年金給付額に相当する 250 兆円ものお金・・・。
これらのお金の存在を、私たちがなかなか知る機会がないのは、なぜでしょうか?
国の予算は 90 兆円なのに、その何倍ものお金が積み立てられていたなんて、どうしてこん
な重要な情報が、めったに国民の目や耳に入ってこないのでしょうか・・・?
実は、日本には「一般会計」と呼ばれる基本的な予算の他に、17 種類の「特別会計」と呼
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ばれる予算があります。積立金は、その「特別会計」の中に存在するのです。
おまけに「一般会計」は総額 90 兆円の規模なのに、表に出てこない「特別会計」はその
4.4 倍の 400 兆円もの規模を持っています。
また、予算以上に、その予算が最終的にどう使われたのかという決算も大事であるはずな
のに、なぜかその大事な決算が、日本では話題になることがほとんどありません。
本当に国民が決めたとおりに予算が使われたかどうかをチェックすることは、国民が決め
たとおりに予算が使われなかった場合に、私たちが政府の責任を問う権利を行使するため
には、当然、必要なことです。
もし、その国民の権利が守られていなければ、政府は適当に予算を決めておいて、やりた
い放題に国民の税金を使うことが可能になってしまいます。
それにチェックを通じて、予算に計上された経費の使われ方は、果たして有効だったかど
うかを反省することもでき、今後の予算を決めるときに、その教訓を活かすこともできま
す。
それなのになぜ、それほど大事な決算がこれまで重要視されることがなかったのでしょう
か・・・?
それは、
「一般会計」と「特別会計」を混同し、その間のお金のやりとりまで可能にしてい
ることが原因なのです。
さらに、17 種類の「特別会計」の間のお金のやりとりも可能なため、お金の流れが複雑怪
奇、不明瞭になりすぎて、とても国民が理解できるような会計になっていないからです。
このような状況では、会計 A のお金を会計 B に移して、その会計 B のお金が会計 C に使わ
れるといった複雑なお金のやりくりが可能となり、結局、お金が何にどのくらい使われた
のかということが、まったく分からなくなってしまいます。
国の会計検査院からも、
「資金の動きの全体が分かるものは示されていない」とコメントさ
れるくらいですから、そもそも会計の専門家でない国民の手に負えるようなものではない
のです。
おそらく、決算の重要性はじゅうぶん分かっていながら、誰もそれを理解することができ
なかったため、これまで話題にされることもなかったのでしょう。
「一般会計」は、一年単位で会計処理できるものを扱い、税金でまかなうことが決められ
ています。
その歳出(国の支出のこと)のほとんどは人件費であり、その他、光熱費、家賃、消耗品
代などの諸経費です。
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だから、毎年、どのくらいお金が必要なのか予測できますし、予算をたてて、そのぶん、
国民に税負担をお願いしているわけです。
「特別会計」は、一年単位で会計処理できないものを扱います。
たとえば、会社でも社用車やパソコンを購入すれば、それらは、数年間にわたって会社の
売上げをあげるために役立ち続けるものですから、一年で会計処理することはしません。
だから、社用車やパソコンの購入費を、会社のために活用された数年間に分けて、会計処
理する必要があるのです。
国家も同じで、道路、橋、ダム、堤防、役所などの建設費用は、何十年も使うものですか
ら、それらを一年で会計処理することはしません。
ゆえに、それらの費用は税金でまかなうのではなく、
「国債」、
「特別会計」でまかなうこと
が定められているのです。
それに、新たな富を生み出すことに使われるものですから、それを税金でまかなっては、
世の中からお金を不足させることにもなるでしょう。
つまり、「一般会計」と「特別会計」の二つを、決して混同してはならないのです。
だから「財政法」にも、
「国が特定の事業を行う場合、特定の資金を保有してその運用を行
う場合その他特定の歳入を以て特定の歳出に充て一般の歳入歳出と区分して経理する必要
がある場合に限り、法律を以て、特別会計を設置するものとする」と定められています。
なかなか分かりにくい文章ですが(笑)、つまり、一年で会計処理できるものと、一年で会
計処理できないものを混同すると、お金の動きが分かりづらくなるから、会計を分かりや
すくするため、「一般会計」から区分する必要がある場合に限り、「特別会計」を設置する
と書かれてあるのです。
それなのに現実は、「一般会計」から毎年 40 兆円ほどのお金が「特別会計」に移されてお
り、その「特別会計」では毎年 40 兆円ほどのお金が余っています。
そのため、「一般会計」では毎年 25 兆円ほど発生する赤字をまかなうために、新たに「赤
字国債」を発行して借金を増やし続け、その償還費用(満期になった国債の元金を返済す
ること)も「一般会計」から支払うといった、ぐちゃぐちゃな資金繰りが為されています。
ちっとも「一般会計」と「特別会計」が区分されておらず、
「財政法」違反が、まかりとお
っているのです。
ベーシック・インカムの実現には、
「財政法」が定めたとおり、
「一般会計」と「特別会計」
が、明確に区分されていることが大前提でしょう。
58
そうしなければ、ベーシック・インカムのためのお金が、適当な言いわけにごまかされな
がら、複雑怪奇なお金のやりくりでうやむやにされてしまい、結局、国民の手に分け与え
られなかったというリスクが、依然として存在し続けることになってしまいますから。
~政治家の言葉にごまかされないために~
「国の借金は 1000 兆円もあるから、まず国のムダ遣いを減らします。そのうえで増税させ
てください。そうしなければ国は破産してしまう」と、政治家は言います。素直に政治家
の言葉を信じるしかない国民は、国の予算の 10 倍以上の借金があるなんて、増税もやむを
えないと思わされてしまいます。国のムダ遣いを減らすということは、国から私たちへの
サービスが減るということなのに、それでもかまわないから借金だらけの日本を何とかし
なければならないと、国民はけなげに思っているのです。
しかし、その政治家の言葉は真実なのでしょうか?
国の会計が国民に理解できないものとなっていて、政治家の言葉が真実かどうか判断する
ための情報が国民にないために、もしかしたら国民はごまかされているのではないでしょ
うか・・・?
複雑な国の会計をよくよく眺めてみれば、国の純粋な借金は 1000 兆円ではなく 250 兆円~
300 兆円の間だと分かります。
国は 1000 兆円もの借金と同時に、莫大な資産も抱えているからです。
日本のGDPは 500 兆円ですから、たとえて言えば、年収 500 万円の人が 250 万円~300
万円の借金を抱えている状態でしょう。
これなら何とかなりそうではないですか!
それに日本の場合、外国から借金をしているわけではないのです。
外国に借金しているならば、そのお金を返せなければ破産となるか、その借金を踏みつぶ
そうとすれば戦争となるでしょう。しかし、日本は外国にではなく、そのほとんどを国民
に借金しているわけですから、これは家族に借金しているようなものなのです。
つまり、ちっとも日本は国家破産するような状況ではないのです。
それなのに、どうして政治家は国の危機をあおるのでしょうか・・・?
政治家は自分に投票してくれた人たちのために、一生懸命働くものです。そうしなければ、
落選して無職になってしまいますから・・・。
だから、もし大部分の国民にとって日本が生きづらい国になったとしても、その政治家を
応援する誰かにとっては都合よい国なのです。
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きっと国の危機をあおるのは、その誰かの利益となっているのでしょう。
政治家は国民の代表ではないかと思われるかもしれませんが、実際は、当選した政治家に
投票した人たちの代表にすぎません。
なぜなら、民主主義は多数決のシステムを前提に成り立っており、落選した政治家に投票
した人たちの意見が採用されることはないからです。
つまり、どんなに素晴らしい政治的なアイデアも、少数の賛同者しか得られないならば、
決して実現することはないのです。
多くの賛同者を集めるためには、お金も労力も時間も必要になってきますが、毎日の生活
で精一杯の私たちには、なかなかそのゆとりがありません。
だから、私たちの多くは「自分の一票なんてたかがしれている」と、政治に無関心を装わ
ざるをえなかったのでしょう。
国政選挙の投票率はだいだい 60%弱ですから、40%の国民が自分の一票で政治を変えるこ
とは不可能だと思っていることになります。
そして、実際、その通りだと思います。
しかし、多数決のシステムを前提に成り立つ民主主義の欠点も、視点を変えてみれば、
たとえ少数者の一票であっても、その一票一票が集まれば、私たちは、偉大な力を発揮で
きる、思い通りの日本を実現できるということなのです。
にもかかわらず、今が、あなたにとって、理想の世の中でないならば、その理由はたった
ひとつ・・・。
私たちに、アクションが欠けていたからです。
つまり、一票一票を集め、偉大な力に変える努力が・・・。
~儲けが目的でない国に利子は払えない~
それにしても、日本はいつから借金体質の国になったのでしょうか?
1965 年 11 月、法律の改正によって、それまで禁止されていた国債の発行が認められ、戦
後初となる国債が発行されました。
そのときからです。日本が借金体質となったのは・・・。
それまで国債の発行が禁止されていたのは、国が借金をし、その利子を払っていくことの
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危険性がじゅうぶん理解されていたからです。
国は企業のように儲けることが目的ではありません。儲けることが目的の企業ならば、そ
の儲けの中から利子ぶんのお金を返済することも可能でしょう。
しかし、国は国民の福祉や教育、生活環境を改善するための事業を行うのです。儲けを目
的とする企業では実現できない事業だけれども、国民の生活を豊かにするためにはぜひと
も必要な事業を国は行うのです。
つまり、儲けを度外視して行われる国の事業にかかるお金が、利子のつく借金によってま
かなわれること自体に無理があり、国を赤字体質にしてしまう原因があるのです。
では、戦後初の国債が発行されるまで、なぜ政府は借金することなく国を運営することが
できたのでしょうか・・・?
それは、銀行が信用創造によって生み出すお金の量と、そうして生み出されたお金が生産
的なことに使われるよう管理することによって、経済の規模を大きくしてきたからです。
そうすれば、そこから生み出される税収も自然と大きくなりますから、国の事業に必要な
お金も自動的にまかなうことができたのです(国債は銀行の信用創造のようにお金の量を
増やしません。すでに、世の中に出回っているお金から、調達されるからです。ここにも、
世の中に循環するお金を不足させる大きな原因があります)。
池田内閣で打ち出された「所得倍増計画」によって、国民の給料を 10 年で倍増どころか
2.5 倍増にできたのも、それを可能にする大量のお金を新たに作り出したからです。
新たにお金を作り出しただけでなく、インフレとなってお金の価値が下がらないよう、お
金の量と使われ方も慎重にコントロールされました。
つまり、国の経済を大きくすること(=国民の生活を豊かにすること)で、国はその事業
に必要なお金を調達してきたのです。
そのお金は再び国民の生活を豊かにすることに使われて、それがさらなる税収アップとな
って国に戻ってくる・・・。
このような好循環を作り出したおかげで、国民の生活を 10 年で 2.5 倍も豊かにするという
奇跡が可能となったのです。
国債が発行されるまで、
「国民の生活を豊かにすること」と「税収」は、密接なつながりを
持っていました。
まさに、「政治」=「国民の生活を豊かにすること」だったのです。
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しかし、安易に国債を発行するようになって、銀行が信用創造によって生み出すお金に国
は無関心となり、お金は非生産的なことに使われるようにもなりました。
そうして、起こるべくしてバブルは起こり、はじけ飛んでしまったのです。
~バブル崩壊の後始末に国民のお金が使われた?!~
早稲田大学大学院の野口悠紀雄教授の推計(詳細は『戦後日本経済史』新潮社)によれば、
バブル崩壊によって発生した不良債権の処理のために、約 49 兆円ものお金が国民負担でま
かなわれたとのことです。
バブルとは、非生産的なマネーゲーム経済(お金そのものが商品として扱われる経済。私
たちの日々の生活とは無関係の経済)にお金が流れすぎた結果、生じるものです(お金が
交換の道具であることを忘れてマネーゲームで遊んでいるのは、それ以上の感動を与えて
くれるモノやサービスを、まだ私たちが充分に生み出すことができていないからだとも言
えます。マネーゲームで遊ぶお金がなくなるほど、思いやりを育み、質の経済を豊かにし
たとき、お金自身が商品となることもなくなるでしょう)。
そのバブル崩壊の後始末に、実体経済(お金が交換の道具として使われる経済。私たちの
日々の生活を支える経済)のお金が使われてしまうと、大変困ったことになるのです。
バブル崩壊によって発生した不良債権が問題となるのは、交換の道具としてのお金、私た
ちの日々の生活を支えるお金を、銀行が創造できなくなるからです。
その機能を回復させるために、もし実体経済のお金が使われてしまったら、私たちの日々
の生活を支えるお金、交換の道具としてのお金が足りなくなって、私達はますます貧しく
なってしまいます。
そんなことをしなくても、敗戦直後に大量の不良債権を抱えて身動きできなかった銀行を
救ったように(銀行が抱えた紙切れ同然の大量の『戦時国債』を、中央銀行である日本銀
行が高く買い取ったのです。お金を自由に発行できる中央銀行は、不良債権に悩まされる
ことはありません)、ただ中央銀行が、新たなお金を発行して、その不良債権を買い取って
やればよいだけなのです。
そんなにお金を増やしたらインフレになってお金が紙切れになってしまうと心配されるか
もしれませんが、実体経済に流れるお金の量は少しも増えることにならないので、ちっと
もインフレの危険なんてありません。
帳簿のうえの数字の書き換えにすぎないからです。
お金を刷るなんて言うと、決まってインフレが起こってお金が紙切れになってしまうとい
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う心配の声が聞かれます。
でも、高度経済成長期の日本は「所得倍増計画」を打ち出し、経済の規模を 10 年で 2.5 倍
にするほど大量のお金を作ったのです。
それでも、インフレになってお金の価値が下がることはありませんでした。新たに生み出
されたお金が生産力を高めることに使われたので、消費が増えたために生産が追いつかな
くなって、モノの値段が高くなってしまうこともなかったからです。
もし無限にモノを提供できるならば、無限にお金を刷ってもお金の価値が下がって紙切れ
になってしまうことはないでしょう。
要は、モノとお金のバランスだからです。
そんな心配しなくても、日本には国民の給料を 10 年で 2.5 倍にするほど大量のお金を作っ
ても、慎重にモノとお金のバランスをはかることによって、お金の価値を下げずに国民の
生活を豊かにしたノウハウと実績があるのです。
~「お金を刷る」=「インフレ」の大誤解~
貧しい時代とは、生産力不足でモノ不足ということです。
お金と交換できるモノ自体が不足しているため、交換の道具としてのお金にもあまり意味
がなくなるのです。
つまり、お金の価値はとても低い・・・。
そんな時代に、たくさんのお金を刷ってしまえば、もともと低いお金の価値はさらに下が
って、紙切れとなるに決まっています。
経済学の理論も、次のように教えています。
ある商品を欲するお客さんが増えすぎると、企業は生産が追いつかなくなってその商品は
品薄になってしまう。すると、お客さんは高いお金を支払ってでもその商品を欲しがるの
で、企業はその商品を値上げするだろう。値上げされると、より利益の大きくなった商品
を、他の多くの企業もいっぱい生産して儲けようとするので、しだいに品薄の問題も解消
され、その商品は適当な価格に落ち着くだろうと・・・。
つまり、お客さんが欲するだけの商品を企業が生産できない、そのための生産力が不足す
るときにインフレなると考えられています。
しかし、あらゆる産業において機械化の進んだ今は、国民が欲するモノをじゅうぶんに提
供して余りある圧倒的な生産力があるのです。
「生産が追いつかなくて大変だ!」なんていうのは、実は、企業にとって嬉しい悲鳴(そ
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んな嬉しい状況も、圧倒的な生産力の前ではたちまち解決されてしまいますが・・・)で、
そんなことより、売れ残りの在庫を抱えてしまうリスクの方が心配で、企業は生産を控え
めにせざるをえないのが実態でしょう。
もはや、現代はインフレが心配されるような時代ではないのです。
「経済コラムマガジン」
(http://www.adpweb.com/eco/)には、とても興味深い記事が書か
れています。
「著者の知人にコンビニを経営している人がいる。以前、この人から『今日コンビニで売
れているのが 300 円の弁当として、もし弁当の売れ筋が 500 円になったらGDPはそれだ
け増えるのではないか』という質問があった。筆者は『いや、全くその通り』と答えた。
さらにこの人は『コンビニの弁当工場では、今の弁当生産ラインを変えることなく 500 円
の弁当を作ることができる。今日、不景気だから 300 円の弁当を作っているだけなんだ。』
と言っていた。現実の経済社会では同様なケースが数限りなくある。車だって高級車の製
造ラインでもっと安い車を作ることがある。そば屋は『天麩羅そば』が売れず、
『かけそば』
ばかり出て売上が落ちている。すしだって『回転すし』で良いという世の中である。また
同じすし屋でも、
『並』ばかり注文されれば売上が落ちる。床屋もカットだけで良いという
客が増えれば、床屋の実入りが減る。つまり人々の所得が増え、同じ消費でも価格が高い
が質の高い消費がなされるなら、国内総生産(GDP)は増える。ところがコンビニで安
物の 300 円から 500 円の高級弁当に消費が移っても、弁当工場は難無くこれ対応し、明日
からでも 500 円の弁当を供給できる。需要が増えるといっても、安い 300 円弁当が二倍売
れるということではなく、日本のような成熟した消費社会では、値段は高いがより質の高
い物が売れることが十分考えられる」
つまり日本経済は、いつでもモノ不足になることなく、質を高めることでGDPを上げる
準備が整っているのです。
そのお金が足りないだけなのです。
そのうえ、お金が足りないばかりに、品質を維持したまま価格を下げる必死の努力を、日
本の企業は今日まで続けているのですから、まったくインフレなんてなりようがありませ
ん。
インフレが問題なのではなく、ただ、お金が足りないことだけが問題なのです。
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おわりに
〜怠け者にベーシック・インカムを渡してもいいの?〜
鳩山政権のとき、15 歳以下の子どもを持つすべての保護者に、子ども手当てを支給するこ
とに対して、
「そのお金をパチンコに使ってしまうような親に渡してしまったらどうするん
だ」という批判がありました。
当然、
「怠け者にベーシック・インカムを渡してもいいのか」という批判も出てくることで
しょう。
そのような批判をする人たちの言葉の奥には「私は子ども手当てをパチンコに使うような
悪い親ではないが・・・」
「私はタダ飯を食ってるような怠け者ではないが・・・」という
メッセージも含まれている気がします。
少し厳しい言い方をすれば、「自分は良い親であり、働き者の人間であるけれども、他人
は・・・」という善人の優越感が隠されているように思います。
そして、その心はとても冷たく感じます。
僕には、家に引きこもって、まったく働くことをしなかったおじさんがいました(後に、
交通事故の後遺症で精神病になったと聞かされました)。
そんなおじさんが子どもの頃の僕は大好きでした。そのおじさんの前では、思いきりわが
ままが言えたし、甘えることもできました。どんな僕も、道徳的な価値観で裁くことなく、
そのまんま全部受けとめてくれたからです。
今にして思えば、交通事故でおじさんが失ったものは、人を道徳で裁く心だったのかもし
れません。それを周囲の人たちは精神病と言いました。
でも、道徳的な価値観がなくなったおじさんには、何とも言えない安らぎといのちの優し
さだけがありました。おじさんがいる空間は、子どもだった僕が心から落ち着ける場所だ
ったのです。他の大人たちにはないものが、おじさんにはありました。
道徳というものは、本当に善いものなのでしょうか・・・?
江戸時代の国学者である賀茂真淵は、一人一人の異なる心がありのままに表現され、何ら
道徳的な判断を加えられることなく、それが真心としてそのまんま肯定される世の中を理
想としました。
しかし、誰もがありのままの心をストレートに表現してしまったら、その自分勝手でわが
ままな心同士は衝突しあって争いとなり、かえって世の中は混乱してしまうのではないで
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しょうか?
その疑問に賀茂真淵は次のように答えています。
「一人一人の人間の心は、同じように見えてまったく異なるものである。そんな心を人間
の頭で考え出した道徳で、一律にコントロールしようとするのが、そもそも無理な話で、
しょせん説得されるのは心のうわべにすぎない。その結果、心の奥底に抑圧され続けたあ
りのままの心が、もはや抑圧しきれなくなって爆発するとき、もっと大きな悪や悲劇を世
の中に生み出してしまうだろう。ところが、もし、ありのままの私からあふれ出てくる切
実な思いが、大らかな心で受け入れられる世の中だったならどうだろう・・・。たとえ、
その心が悪を含んでいたとしても、道徳というタテマエに隠されることがないから、その
悪はすぐ誰の目にも明らかとなって、簡単に対処することができるはずだ。つまり、どん
な悪事も一日の乱で治まってしまうために、世の中が大きく乱れることもないのだよ」
と・・・。
「お金をパチンコに使ってしまうような親に、子ども手当てを渡してしまったらどうする
んだ」
「怠け者にベーシック・インカムを渡してもいいのか」という批判は、両方とも「怠
けること」=「悪いこと」という道徳的な価値観から生じたものでしょう。
自分以外の他人によってお互いが生かされている分業社会では、私たちは自分のいのちを
自分以外の他人に依存しあって生きています。その不安を克服しようと、私たちは「働か
ざる者食うべからず」と脅しあっていると書きました。
つまり、
「働かざる者食うべからず」という道徳の裏には、生きていくことの不安が隠され
ているのです。
同じように、「甘えるな」「クヨクヨするな」「目標を持ちなさい」「努力しなさい」といっ
た道徳も、その奥には、そんな人間の不安が潜んでいるのではないでしょうか・・・。
その不安が教育ママや教育パパにもさせるのかもしれません。
彼らが甘えや弱さを許せないのは、強くなることで不安を克服しようと考えているからで
す。目標を持つことや努力が大切なのは、強くなるために欠かせないものだからでしょう。
でも、そのような道徳では、不安を根本的に解決できないのです。
不安を強くなることで克服しようとみんなが頑張れば頑張るほど、強い者しか生きられな
い、弱肉強食の世の中になってしまいます。ますます生きることが難しい世の中になって
しまうのです。
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これでは努力して強くなったぶん、同じように生きづらさも強くなってしまうことになり、
いつまでたっても私たちの生きる不安が解消されることはないでしょう。
結局、道徳に不安をなくすことはできないのです。
そうではなく、私たち一人一人は支えあってしか生きられない、かよわい存在であるとい
う事実を受け入れるだけでよいのです。
その事実を認めようとしないから、いつまでたっても不安はなくならないし、その事実に
逆らって強くなろうとするから苦しむのです。
本当は人間の弱さは悪なんかではなく、私たちがかよわい存在であることこそ、神サマの
恵みなのでしょう。
なぜなら、その弱さから思いやり、優しさ、慈しみ・・・という美しい心は生まれてくる
からです。
弱さこそ思いやりを生み出す土壌なのです。
もし人間がこれほどまでにかよわい存在でなかったら、世の中に思いやりなんて必要なか
ったし、存在もしなかったのでしょう。
弱さは憎むべきもの、克服すべきものではなかったのです。
弱さを忘れたとき、私たちはもっとも冷淡な人間でいられるのでしょう。
そして、もし神サマがいらっしゃるとすれば、神サマこそ宇宙でもっともかよわい者なの
です。もっともかよわい者であるからこそ、神サマはもっとも思いやり、優しさ、慈しみ・・・
といった美しい心をお持ちなのだと思います。
そんな弱さこそ何より尊いものと考え、
「そのまんまでいいよ」と無条件に受け入れる・・・。
それが、ベーシック・インカムなのです。
ある 17 歳の少女の切実な言葉を綴った文章があります。
「自分を愛せない、大切にできない者に、果たして他人を思いやることができるでしょう
か。命の大切さが伝わるでしょうか。人はだれでも、抱きしめて受け止められた記憶がな
くてはならないと、心から思います。私は毎日、こんな言葉を待ち続けているような気が
します。
『悪い子でもいいよ。何もできなくてもいいよ。役になんか立たなくていいよ。生
きていてくれさえしたら、それだけで、愛してあげるよ。見ていてあげるよ』」
(『ついてい
く父親』春秋社)
ベーシック・インカムが実現したとき、少女が待ち続けている言葉は世の中に満ちあふれ
ることでしょう。
そのとき、私たちは心からありのままの自分を愛することも、大切にすることもできてい
るはずです。
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