『フランス哲学・思想研究』 第21号 書評

大西 克智著『意志と自由― 一つの系譜学』
書 評
大西 克智著
『意志と自由―一つの系譜学』
(知泉書館、2014 年)
本書は、パリ第1大学に受理された博士論文を下敷きとしながらも、
「実質的には書下ろしの論
考」とのことである(
「はしがき」
)
。主たる標的はデカルトの意志論あるいは自由論(第4章、第5
章)で間違いないものの、議論は、デカルトのコーパスを越えてジェズイットの形而上学(第2章、
第3章)にまでに遡る。というのも、深刻な誤解が、デカルトについて意志あるいは自由を論じる
言説を支配しつづけてきているからであり、その誤解がジェズイットの形而上学に根差しているか
らである。なるほど、デカルトにしても、ジェズイットにしても、意志の働きの核心に「非決定
indifferentia」を置こうとしている。しかし、大西氏の看破するところ、両者の「非決定」は決して
同じものでない。というわけで、本書で辿られる「系譜」―アウグスティヌスからジェズイット
を経てデカルトに至る―には「捩れ」がある。
以下、大西氏の展開する議論を、その主要な点について、簡単に再現してみよう―もちろん、
評者の理解の及ぶ範囲で。その後、評者の感想を記す。
■■■
意志の働きに自由を認めるのは何もデカルトに限ったことではないにせよ、無差別さ indifferentia
まで認めようとするのはデカルトに固有―唯一ではないにせよ―のことと考えられてきた。ト
マスも、マルブランシュも、ライプニッツも、
「デカルトのように欺く神を想定することを許し、
神への従属を免れさせるような無差別の自由を人間に認めることはなく、また知性の同意の傾向に
逆らってそれの反対を意志しうるような積極的な能力を人間が持つとは考えていない」(小林道夫
『デカルト哲学の体系』、勁草書房、1995年、240頁)からである。
確かに、
『哲学原理』は、人間に「積極的な能力」―意志という働きの無差別さ、あるいは、
非決定―が具わっていることを強調しているし、それどころか、称揚してさえいる―「人間の
最高の完全性は自由にすなわち意志によって行為するということであり、これによってこそ人間は
賞賛または非難に値するものとなる」(第1部、第37節)。有名な「方法的懐疑」あるいは「誇張懐
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大西 克智著『意志と自由― 一つの系譜学』
疑」を遂行できるのも、デカルト本人の認めているとおり、意志という働きに非決定があることの
証拠なのだろう。しかし、それなら、
「第4省察」で、非決定が「自由の最低段階」に位置づけら
れているのはどういうわけか。非決定であることが少ないほど自由である、というのはどういうこ
となのか。
意志は、明証知に自発的に同意できるから自由なのか、それとも、明証知にすら同意せずに非決
定でいられるから自由なのか。自発性と非決定、度合いの差を認めるにせよ、どちらも自由であ
る、と断ずる―デカルトがそう断じている、として―ことに矛盾はないのだろうか。矛盾はな
くとも、折り合いの悪さは否めないだろう。事実、その折り合いの悪さを「
〔デカルトの〕神学的
折衷主義」というテーゼにまで仕立て上げたのがジルソン(『デカルトにおける自由と神学』)であ
る。以降、デカルトについて意志あるいは自由を論ずることは、ジルソンに挑戦することでありつ
づけてきた。しかし、ジルソンに挑戦するためには、ジルソンと同じ土俵に上がらなければならな
い。すると、ジルソンの解釈を最終的に退けるにせよ、ジルソンの問題設定を受け入れているとい
う意味で「ジルソンの呪縛」(本書、22頁)に囚われたままである。
「ジルソンの呪縛」に囚われていると、意志について、競合する2つの定義を読み取りたくなる。
なるほど、
「第4省察」には意志の定義が2つあるように見える。
意志とは、
(I)同じひとつのことを、することが、あるいはしないことがわれわれにはできる、
ということにのみ存するものである。あるいはむしろ、
(II)知性によってわれわれに提示さ
れるものを肯定し、あるいは否定するために、ないしは追究し、あるいは忌避するために、い
かなる外的な力によっても決定されてはいないと感ずるような仕方でわれわれがみずからを赴
かしゆく、ということにのみ存するものである(この一節(AT VII 57)の解釈は、本書、第5
章、第3節)
。
定義(I)は非決定で意志を定義しているように見えるし、定義(II)は自発性で定義しているよ
うに見える。実際、ベサッド(
『デカルトの第1哲学』
)も2つの定義を読み取っており、デカルト
に定義(I)を棄却させ、定義(II)を採用させている。一方を捨てて他方を採るのだから、2つの
定義は競合関係にある。すると、ベサッドも「ジルソンの呪縛」に囚われているわけである(本書、
381-385頁)
。また、2つの定義のそれぞれ該当する局面―行為遂行の前/間―を区別して解決
を図ろうとする小林(
『デカルト哲学の体系』
、239頁)にしても、2つの定義の競合関係を受け入
れているのだろう。さもなければ、局面を区別する必要などないのだから。すると、小林も「ジル
ソンの呪縛」に囚われていることになるのかもしれない(大西氏による小林への言及はない)。
「ジルソンの呪縛」を解いて意志論も自由論も全面改訂しようと狙う大西氏は、2つの定義の間
に競合関係を認めない。定義(II)が定義(I)を補っているものと解釈する。だから、大西氏にと
って、意志の定義はひとつしかないわけである。定義(II)で補強されている定義(I)こそ、正真
正銘、デカルトによる意志の定義である。それでは、デカルトは、意志という働きの自由を「非決
定」で定義しているのか。そのとおり。ただし、ジェズィットの提唱する非決定―「反対項選択
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大西 克智著『意志と自由― 一つの系譜学』
能力」―ではない。デカルトの唱える非決定の正体は、自己決定あるいは自律である。しかし、
非決定であることが〔自己〕決定である、とはどういうことか。
外側からの働きかけに対して非決定である間も、内側では自分で自分を決定している、というこ
とである。デカルトは、意志が働くことの内側を見据えている―「内在志向的」―わけである。
それに対して、選択肢を外側から突きつけられることを前提するジェズイットは、意志が働くこと
の外側に目を奪われている―「外挿的」―のである。そして、外向きであるかぎり、内側から
のブレーキが利かず、
「放恣」―「悪魔的」な意志―に陥りかねない。しかし、デカルトの意志は、
自分で自分を抑えられるので、非決定でありながら「放恣」に陥ることがない―「エゴイズムの
影は……見極めることが「ほとんどできない」ほどに薄い」(本書、378頁)。
内側で下される自己決定が外側からの働きかけに対して非決定でいられるのは、その働きかけか
ら独立しているからである。自己決定は、外なる対象が表象されるよりも先に働く―外的宇宙が
表象される〔「知覚」〕よりも意志の働きが表象される〔「覚知」
〕ほうが先である―のである。つ
まり、対象性に囚われる以前の思考があることになる。そのような思考の自律的な働きを支えてく
れる「みずからを決定する実象的で肯定的な力能 puissance réelle et positive」が確かに感じられるか
らである。その確信を、大西氏は<デカルト的感覚>と呼ぶ。
しかし、
〈デカルト的感覚〉を客観的な妥当性に基づいて正当化することはできるのだろうか。
というのも、外的対象が提示される前から思考するのは、恩寵論争をさておいても、余分―「過
剰」
(本書、
349頁)―なことではないだろうか。自己決定を下す力能に「汎通性」が認められるや、
その「過剰」さはますます際立たってくる。いったい、アプリオリな自己決定が下されていること
を他者に対して説得できるための証拠はあるのだろうか。アプリオリな決定であればこそ、その働
きを外からの直接の観察で捉えることなどできるはずがない。それなら、アプリオリな自己決定を
発見することでしか得られない価値のあることを示さなければならないだろう。どんな価値がある
のか。
大西氏は、デカルトが意志の自由を論ずることの狙いを「知恵の探究」にあると見定めている
(本書、349-354頁)。この点で、大西氏は小林に合流する―「デカルトにおいては誤謬論あるい
は判断論は道徳論に結合する」
(『デカルト哲学の体系』
、230頁)。自然哲学はもう問題でない。人
間の意志に自由を認めようとするデカルトは、それによって人間的な倫理学―「平板化した「欠
損」〔悪の由来〕
」(本書、414頁)―の可能性を切り拓こうとしているのである―「主観の開
け」
(本書、304頁)。しかし、自然哲学を支配する決定論が、そのような可能性を許してくれるの
だろうか―思考は動物精気の運動に決定されているのではないのか。というわけで、最後(補
章)
、大西氏は「受動なる意志という背理」(本書、423頁)の解明に挑む。そして、意志の働きが
「情念の核となる情動性を支える役目を果たしている」
(本書、437頁)ことを突き止める。すると、
意志の働きは「余剰」物ではないわけである。意志による自己決定―「能動と受動の向こう側」
(292頁)―がなければ、能動も受動もないのだから。
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大西 克智著『意志と自由― 一つの系譜学』
■■■
意志論あるいは自由論の難しさは、大西氏自身、重々承知しているようである―「意志の自由
という問題は、哲学の他のテーマには類例の見当たらない不透明性を抱えている」
(本書、333頁)。
その「不透明性」の核心にあって永遠の闇に包まれているのが「非決定」ではないだろうか。事実、
大西氏の指摘どおりなら、
「非決定」を巡る誤解が、デカルトにおける自由意志論に「百年の困惑」
(本書、17頁)を強いてきたわけである。本書は、大西氏が「非決定」について考え抜いた末の到
達点である。考え抜かれていることの証拠として、本書には明確なコンパスが具わっている―ど
の議論にしても、目指すところは明確に定まっており、おかげで、読者が筋道を見失うことはない
だろう。
とはいえ、本書が簡単な読み物であるなどと言うつもりはない。本書は優れて形而上学的な試み
〔の追跡〕である。その筋道は、見失われることはないにしても、簡単に消化できるようなもので
はない。「決定されていないから自由」という〈実感〔自然〕の論理〉を下るのではなく、その〈自
然性という坂を遡る〉のが狙いである。上り坂なので、当然、進みはゆっくりしている――引用さ
れながら放置されたままで終わるテクストはひとつもなく、その隅々まで、懇切丁寧に解説が施さ
れる。
それもこれも、心理学的な事実―〈決定されていないから自由〉―を越えて、その可能性の
条件を解明するためである。そして、そのような解明に苦労しなければならないのは、そこに人間
的な倫理学の可能性が切り拓かれるかもしれないからである。しかし、本当に切り拓かれるのだろ
うか。なるほど、デカルトの場合、切り拓かれるとしたら、
「完全にわれわれ自身の力の内にある
と言えるものはわれわれの思惟の他にない」
(
『方法序説』第3部)のだから、内側に切り拓かれる
しかないのだろう。心の内側に形而上学的な地平が切り拓かれなければならない。しかも、「魂が
完全な認識をもつことができないようなものは何もない」
(「1647年2月1日付シャニュ宛書簡」)の
だから、見込みがないわけではない。切り拓かれるべき形而上学的地平に神が善の範型を置いてお
いてくれればよいのである。だから、神の善意を期待できるデカルトにとっては、倫理学の可能性
を内側に切り拓こうとする選択は悪くなかったのかもしれない。そこに、道徳的行動を導いてくれ
る指針が見つかる見込みはありそうだった。
しかし、善なる創造主に対する信仰が失われてしまえば、苦労して形而上学的地平を切り拓いた
ところで、そこに善の範型が見つかる保証などないわけである。あるいは、それでも、数学的真理
が見出されるように、善そのものも直観されるのだろうか。デカルトが「内在志向的」な思考を経
て切り拓こうとしている倫理学は、言わば、「数学者の倫理学」と言えよう。そのような倫理学の
豊かさ―あるいは、貧しさ―についてアプリオリに判断することはできない。歴史に学ぶべ
く、デカルトを継いで「内在志向的」な思考を展開する系譜がさらに辿られなければならないだろ
う。その系譜は、またも「捩れ」て「外挿的」思考に陥ってしまうのだろうか。いずれにせよ、今
後、大西氏が「系譜」の続きを辿ってくれることを期待するものである。
(沢崎 壮宏)
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中田 光雄著『創造力の論理 テクノ・プラクシオロジー序論
―カント、ハイデガー、三木清、サルトル、・・・・・・ から現代情報理論まで』
中田 光雄著
『創造力の論理 テクノ・プラクシオロジー序論―カント、
ハイデガー、三木清、サルトル、・・・・・・から現代情報理論まで』
(創文社、2015 年)
独仏語圏のさまざまな知見を自在にまたぎ、さらに古代ギリシャから二一世紀の情報哲学や技術
論までをも射程に修めて、想像力、構想力、そして創造の問題を考察した型破りな論考である。論
及される対象もカント、ハイデガー、三木清、サルトル、バシュラール、シモンドン、ボーム、ア
リエティ、P・レヴィと、まずは網羅的といっていい。想像力という主題は、筆者も第二著(
『来
るべき思想史』
)で中心に据えたことがあるが、芸術論、技術論、認知の問題など、多種多様な主
題系へと豊かに分岐してゆく可能性を秘めたものである。とはいえ中田氏はあえて、このテーマを
芸術問題に還元しがちな「通常のアプローチ」を拒否し、「より厳しい現実状況の直中」で考え直
すことを試みるのだという。こうした拒否の態度は、たんなる古典テキストの解釈にとどまらず、
あくまでも現実社会への関与や影響という観点から哲学を捉えようとする、氏の一貫した姿勢の現
れでもあるだろう。
その遠大な思索の道のりを順に遂っていこう。第1章、
「基準の創定、世界の賦活―カント」は、
まずカントの反省的判断力に着目するところから始まっている。周知のように、あらかじめ与えら
れている一般的なもの(Allgemeine)が、特殊なもの(Besonders)を包摂し、回収する「規定的判
断力」に対し、
「反省的判断力」においてはまず《特殊なもの》が与えられ、そこから上昇、もし
くは遡行するように《一般的なもの》が多様に見出されていく。《特殊なもの》から出発し、複数
の一般へと遡るという発想は、やがてボームに言及した第7章で詳しく展開され、最後にレヴィを
扱った章においても敷衍されることになるが、
『判断力批判』のカントのうちにすでにこうした観
点の萌芽を探ろうというのである。
中田氏が提唱する新理論、テクノ・プラクシオロジーの「序論」に当たる本書では、技術という
主題もむろん重視されている。カントの批判主義哲学は、素朴な常識においては客観的な実在事
象(fact,fait,Factum)であるものを、人間的・超越的主観の所為(fatio,facere,faire)としてわざわざ
捉え直す性格をもっている。(p.14)自然と技術がアナロジーによって捉えられ、両者が重ねられ
るこうした事態は、一見すると今日メイヤスーが相関主義の名のもとに批判している発想そのもの
にも見えるが、しかし氏はむしろ、
《技術》や《技巧》という概念をあえて経由しつつ、物的対象
をたんに人間主体に従属させて終わらせるのでない着想を、カントのうちに見出そうとするのであ
る。―そのための足掛かりとして注目されるのが、
《特殊なもの》から出発しつつも、ただ《一
般的なもの》に解消されるだけではない、先の「反省的判断力」の創造的な働きである。―物的
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中田 光雄著『創造力の論理 テクノ・プラクシオロジー序論
―カント、ハイデガー、三木清、サルトル、・・・・・・ から現代情報理論まで』
対象はそれゆえ「技術・技巧態」として捉えられるが、
《特殊なもの》をそこに見たうえで、なお
もそこから《一般的なもの》を多様なかたちで導いていくというプランが、ここではあくまでもカ
ントをめぐる思索のうちで提示されることになる。物的対象、《特殊なもの》、《技術》による触発、
そしてそれらの創造的な更新というテーマは、本書の全体で繰り返し姿を変えて採り上げなおされ、
次第に練り上げられていくことになるだろう。
構想力(Einbildungskraft)そのものについての言及も印象的である。「悟性による(被−)統整・
統制とは別に、それを超え(über)るかたちで(逆に)悟性に「名状しがたいまでの多数・多様な
諸要素」
(上記、KUK, 49,pp.169,172-173)をさらに付加・加担させ続け、
「自成的で豊かな未開
展の素材」
(上記、KUK, 49,p.171)を供することによって、悟性・認識力を「より豊かに活性化・
賦活」
(上記、KUK, 35,p.137していく)」(p.41)という、構想力の創造的な働きがここでは強調
されている。注目されるのはあくまでも、《事象による触発》という事態であり、またそれが統合
的な悟性に刻印し続ける、
《〈多〉性》といったものである。
《特殊なもの》から《一般的なもの》
が多様に導かれるという場合の、その多様さこそがここでは構想力の名のもとに強調されるのであ
る。
二〇世紀において、カント哲学の構想力(Einbildungskraft、想像力)というテーマ自体に、そ
もそも注意を喚起した、ハイデガーについての論述(第2章 世−開・リヒトゥングへと「構」
え「想」う―ハイデガー)、また三木清の『構想力の論理』についての考察(第3章〈exhibitio
originaria〉世界の根源的―自己形成―三木清)も、それぞれに示唆に富む。前者では先の《事象
による触発》の存在論的な意味が探られ、後者においては、《技術》の問題が再びクローズアップ
されているのが筆者には興味深かった。
第4章、第5章で、サルトルとバシュラールの想像力論にかなりの紙数が割かれているのも、本
書の大きな特徴である。ともにフランスの思想家である彼らにとって、想像力の問題は何よりも
image に関わるものであるが、当然ベルクソンを背景とした独特の思索の伝統がそこには横たわっ
ている。このとき登場するのが、非実在や無を想像力との関わりでどう考えるかという問題である。
サルトルにあっては、非実在的な「イマージュとしての対象 objet imagé」という主題が現れるのが
目を引くが、バシュラールにおいても「想像力は、語源が暗示するように現実のイマージュを形成
する能力ではなく、現実を越えそして現実を歌うイマージュを構成する能力なのだ」という風に語
られる。常識的な意味では《物質》ですらないバシュラールの《物質的想像力》の対象について、
いくぶん留保をつけつつも、中田氏はその存在論的な意義を探ろうと試みている。
第6章でシモンドンが語られ、第7章で理論物理学者のボーム、結でP・レヴィが論じられるよ
うになると(第8章のアリエティは、考察としては未完で置かれている)、これまでやや禁欲的に
語られていた技術の問題と想像力の関わりが、いよいよ今日的な技術、科学、情報論をも視野に収
めつつ多角的に論述されることになる。
そのうちのシモンドンにとっては、イマージュは何よりも生命活動の本質をなす、さまざまな
《先取り行為》
(anticipation)の足掛かりとなる、
《半 - 具象的なもの》であり、彼によればそれは、
「抽
象と具象の中間態として、行動的要素、認知的要素、情感的要素を、いくつかの要約線のうちに綜
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中田 光雄著『創造力の論理 テクノ・プラクシオロジー序論
―カント、ハイデガー、三木清、サルトル、・・・・・・ から現代情報理論まで』
合する。(中略)イマージュのみが、適当に具象的であることによって現実への忠実を可能にする
と同時に、適当に抽象的であることによって主体を状況の過剰な複雑さから超越させ、行為におけ
る統制機能をはたす」(p.295)ものである。このような《先取り》は、技術においても有用な役割
を果たしており、たとえば「イカロス伝説」において先取りされた「翼」という目標イマージュは、
飛翔のための技術的な発明という行為においても、統制機能をはたすことになるだろう。―この
場合、「適当に抽象的である」ことと、具象的で技術的な対象であることはある種のループを描き
だすが、それこそがまさに技術の創造における《先取り》という事態なのだ。―カントの反省的
判断力を考察した際に見出された、
《特殊なもの》としての《技術・技巧態》による触発、賦活と
いう主題が、ここでは(先取りとループによって)自らを豊かにし、「非 - 人工的」で「自然な」
ものになっていくといわれるさまざまな「技術的な対象」のうちに、再発見されることになる。
第7章で語られるボームの外現秩序、潜勢秩序という概念もまた、自然科学の立場から、それ
までの議論を裏打ちしてすっきりした展望を与えるものだ。対象とは人間が事象からなんらかの
規定によって「裁ち上げる」ものであり、このとき対象とともに現れているものを《外現秩序》
(explicated order)、いまだ明確化される以前のものを《潜勢秩序》
(implicated order)と呼ぶべきで
あるとボームは主張する。カントの場合、ある規定的判断力によって統括されている集団 A と、そ
の成員になっていないbがあるとき、bが成員であるような全体 B を構想し、また A、B、そして
C..
.等が成員になるさらに上位の全体を構想するのが反省的判断力である、と中田氏は指摘する
が(pp.326-327)、ボームが《潜勢秩序》という概念によって表現しているのも、このようなある
上位の全体であり、さらにはそうした潜勢的な全体が複数、多元的に相互調整(氏の表現によれば、
「協律」)し合う状況なのであろう。
反省的判断力が、こうした「潜勢的な全体」を複数、共存させつつ開示するものであるとすると、
結において現代の情報哲学者P・レヴィの名が召喚されるのは、むしろ当然の成りゆきといえる。
レヴィが提示しているヴァーチャル化(virtualisation)という概念、そこからのアクチュアル化の
反復的な作用は、その著作『ヴァーチャルとは何か?』において、彼自身が「ひとつの対象物をヴ
ァーチャル化するとは、それにかかわる一般問題を見いだし、その対象物をその問題の方向へと変
容させ、最初にあったアクチュアリティを新たな問題への解答として再定義することなのである」
(p.376)と述べていることからも明らかなように、具象的な対象から問題領域としての《一般》を
抽出し、それを通じて最初の対象を再定義し、また別種のアクチュアルな対象(多くは技術的対象)
を成立させる、ループ的で多分岐的な運動である。
《一般》としてのヴァーチャルは、ミシェル・
セールが《フォーマット》と呼んだものとも深い繋がりを持つものだが、これがカントの反省的判
断力や、シモンドンのイマージュ論、ハイデガーや三木清の構想力論とまで理論的に交錯するとな
ると、なかなかに圧巻である。筆者としては、文字通りの想像力論ではないが、C・S・パースの
理論との対話も可能ではなかったかと思える。また本書では、論述対象のラインナップは時系列に
沿っており、飛躍のない着実な議論が展開されているが、後半、終盤で繰り広げられる話題との参
照関係がさらに縦横に示されていれば、読み進めるうえでかなり有り難かったかも知れない。とも
あれ、壮大な構想のもとにエネルギッシュな著作を送り続ける中田氏の力量には、はるかな後学と
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中田 光雄著『創造力の論理 テクノ・プラクシオロジー序論
―カント、ハイデガー、三木清、サルトル、・・・・・・ から現代情報理論まで』
して感嘆せざるを得ない。
(清水 高志)
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小手川 正二郎著『甦るレヴィナス―『全体性と無限』読解』
小手川 正二郎著
『甦るレヴィナス―『全体性と無限』読解』
(水声社、2015 年)
レヴィナスはある対談で、「私がフッサールを、したがって還元の諸規則などを引き合いに出す
ことについて言えば、ひとはこうしたものをそのまま真似することをしなくとも、その精神にし
たがうことができるのです」と語っていた(E. Levinas, Humanismus des anderen Menschen, übersetzt
und mit einer Einleitung versehen von L. Wenzler, Meiner, Philosophische Bibliothek Bd. 547, S. 131)。表
明されているのはフッサールに対する忠実さ、より精確に言えば「裏切りにおける忠実さ」(F.-D・
セバ)である。それは、若き日にフッサール現象学を「生きている哲学」として研究して以来、レ
ヴィナスがフッサールに対してとりつづけた態度であると言ってよい。同じ態度で、本書の著者・
小手川正二郎氏はレヴィナスを読解する。レヴィナスを「ユダヤ的思想家という名のもとに偶像
化」することも、その思想を「デリダ的読解によって不完全とみな」すこともせず(339頁)、「批
判的かつ謙虚な態度でもって、レヴィナスの思想を『生きている哲学』として考察」
(22頁)する
こと、それがまさに、本書がみずからに与えた課題である。
本書は、著者が2012年に慶應義塾大学に提出した博士論文「人格と真理―レヴィナス『全体
性と無限』の理性論」およびその後に発表した諸論文をもとにしたものである。その副題が示すよ
うに、本書は、後期思想も視野に収めつつも、その読解の焦点をレヴィナスの第一の主著『全体性
と無限』に絞っている。それは、本書の考察を主導する問いに答えを与えるためには、『全体性と
無限』それ自体を体系的に読み解く以外に手段がないからだ。第2章の表題が端的に述べているの
が、その問いである―「レヴィナスの思想は『他者』論か」(57頁)。これは、
『全体性と無限』
に「西洋哲学が抑圧してきた『絶対的に他なるもの』を救い出すことを目指す『他者論』」
(19頁)
を見ようとする読み方(デリダ「暴力と形而上学」の影響のもとになされるという著者の理解から
「デリダ的読解」と呼ばれる)への異議申し立てである。こうした問題設定にあるのはしかし、単
なる論争的態度ではない。著者の目的はあくまで、レヴィナスの哲学の意義、とりわけ倫理をめぐ
るその主張の意義を明らかにすることにある。では「デリダとは別の仕方で」
(20頁)なされた著
者の読解がレヴィナスから何を引き出したのか、以下で辿ってゆくことにしよう。
本書は第1 ∼ 4部から成り、これらは『全体性と無限』の第一∼四部にゆるやかに対応している
(以下、アラビア数字と漢数字を上記のように使い分ける)
。第1部は、第一部からレヴィナスの哲
学の方法、企図、構成、基本的な構えを引き出す。第1章では、現象学から「神学」への「逸脱」
(ジ
ャニコーの批判)および志向と対象の相関関係に先立つ「最も直接的に与えられるもの」への現象
学の「乗り越え」(「現れざるものの現象学」の見方。本書ではデリダ的読解の一種に位置づけられ
― 269 ―
小手川 正二郎著『甦るレヴィナス―『全体性と無限』読解』
る)、どちらにも縮減されないレヴィナス独自の現象学的方法が、概念の「具体化」と「存在論的
言語」という記述法に支えられたものとして明らかにされる。そしてこうした現象学の発展的継承
が、真偽を問いえない「現象」と、他人から私へ向けて主題化されているがゆえに真偽が問題とな
る「所与」という区別を導くことが示され、かくして「『知』や『真理』を『他人との関係』から
捉え直すことで、その真正な意味を再考」(52頁)するという『全体性と無限』の企図が詳らかに
される。第2章では、
「絶対的に他なるもの」に向かう「形而上学的欲望」の概念を提示する第一
部冒頭部の詳解を通じて、ここでの「絶対的に他なるもの」としての〈他者〉(l Autre)の概念は
形式的なものに過ぎず、この概念の正確な意味は、その「具体化」、すなわち第三部でなされる「他
人(人間としての他者)
」
(autrui)との関係の分析を通じてのみ理解される、という『全体性と無限』
の構成が強調される。著者の見立てでは、デリダの読解はこの点を見誤っているのである(デリダ
的読解の詳細な批判は第3部でなされる)。レヴィナスのブーバー読解を分析する第3章では、レヴ
ィナスはブーバーにおける自他関係の対称性を批判しているという従来の解釈によって隠されてい
た、二人の本来の対立点が自我論と真理論であることが明らかにされる。自他の人格的関係の存立
には「他人と世界からの『自我の分離』」(79頁)が不可欠であるという発想と、言表内容の真理
性は他人から自我への発話によって定められた「所与」に関する「自我から他人への応答内容の真
という性格」
(83頁)に条件づけられているという考え方によって、レヴィナスはブーバーから離
れるとする著者の議論は明瞭かつ堅実なものである。
第2部は、第二部におけるハイデガーとの対決を読み解きながら、レヴィナスの自我(主体)論
と真理論を掘り下げる。第4章はまず、
『存在と時間』が展開する、事物を範とする、世界から孤
立した基体という伝統的主体概念への批判と世界内存在としての現存在の概念を参照項として、レ
ヴィナスが「定位」概念を用いて主体の「もの」性を論じるときの狙いが、自己身体のもつ「様々
な影響を被ったり支障をきたしたりする重荷ないし障碍としての性格」(98頁)と、そうした「身
体の内への主体の閉塞という側面」
(97頁)を積極的にとらえることに存することを示す。次いで、
こうした身体性にもとづく享受が成就する「各人の身体に固有な感覚内容がその実質をなす個別的
生」
(106頁)によってレヴィナス的主体性が特徴づけられ、これがハイデガーの事実性概念との
対比を通じて「ハイデガー自身が切り開いた主体の抜本的な捉え直しを押し進める」
(同頁)もの
として位置づけられる。さらに、第二部における、世界との「馴染み」が「女性的なもの」として
の他人との「親しみ」によって可能になるとする議論、フェミニストから多くの批判を寄せられた
この議論が、自己へ収斂する道具連関と共存在を結びつけるハイデガーとの対決として詳解される。
第5章は、レヴィナスに帰される「存在は悪である」というテーゼ(文言自体は『時間と他者』に
由来する)の内実が、真理の不在を悪とする見方にあることを明らかにする。初期レヴィナスのテ
クストを参照してこのテーゼを「存在だけしかないことが悪い」(119頁など)という言明へ再定
式化した上で、『全体性と無限』の三つの分離概念―自己の存在からの分離(享受)、世界からの
分離(表象)、他人からの分離(対話)―を、『存在と時間』における存在と真理の等根源性を問
いただすものとして解釈することを通じて、「理解の枠組みを自我と共有していない〈他人〉によ
る自我のあり方の刷新、およびこの〈他人〉に対する自我の理解の正当化」(137頁)という真理
― 270 ―
小手川 正二郎著『甦るレヴィナス―『全体性と無限』読解』
論を引き出す考察は、やや図式的ではあるが示唆に富むものである。
第三部で展開されるレヴィナスの理性論を考察する第3部は、「本書の読解の核」
(24頁)をなす。
著者は、デリダ的読解とそれにもとづくレヴィナス批判を1/〈他者〉を目指すという課題からレヴ
ィナスは不当にも他者を「他人」に限定してしまっている、2/ レヴィナスは「他者への暴力」を批
判しつつも、他者への暴力に与してしまっている、3/ レヴィナスは「倫理」
(自他の二者関係)と「正
義」(自我・他人・第三者の三者関係)を対立させており、他人を無条件に尊重するべきか他人と
第三者を公平に扱うべきかというアポリアに陥っている、という三点にまとめた上で順に第6 ∼ 8
章で批判の俎上に載せていく。第6章は、第三部における〈他者〉概念の「具体化」の検討を通じ
て、他人との対面は、自我へ宛てた他人の発話において、自我によるその発話内容の一方的な把捉
を問い直し「発話内容の理解を方向づける決定的な契機」(155頁)を成すものであり、こうした
発話の意味の方向づけ、すなわち「他人との対話に先立っては知りえなかった〔中略〕『私』の新
たな知の契機」(157-158頁)がレヴィナスによって〈他者〉と呼ばれていることを示す。デリダ
の理解とは異なり、レヴィナスは他人との具体的な関係の分析を通じて〈他者〉という問題系に至
っている、というわけだ。さらに、
「〈他者〉としての他人」(Autrui)を迎え入れる能力としての
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レヴィナス的「理性」は「暴力的な仕方では動かされることがない能力」
(169頁)であり、かつ「自
らの理解の問い直しから出発して他人の発話内容をよりよく理解する」(172頁)能力である、と
いうテーゼが提示される。第三部の「暴力」論を扱う第7章では、デリダが「他者への暴力」への
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批判を読みとるのとは違って、第三部では暴力は「もっぱら自我の自由を毀損する契機として問題
化され」
(185頁)ており、眼目は「いかにして他人が自我に非暴力的な仕方で働きかけうるのか」
(同頁)を示すことにあるというテーゼが提出される。レヴィナスは現前する他人に対する私から
の一方的な力の行使という狭い意味で「他人に対する暴力」を考えており、したがってレヴィナス
の言う「殺人」がこの意味での暴力に含まれるとは言えないという読解も含めて、本章の議論は説
得力があるものである。第8章では、レヴィナスが「第三者」という語で、もう一人の他人ではな
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く、
〈他人〉に含まれる「私に正しい応答を要求してくる〔中略〕
『人間性』という審級」
(200頁)
を考えているという大胆なテーゼが提示される。デリダが考えるのとは違って、レヴィナスにおい
て対面する他人の尊重と正義の要請は区別されておらず、他人との倫理的関係において要求される
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のは「この他人のために正しい応答を模索すること」
(255頁)なのであり、それが自我が「理性
的である」ことの意味であるという著者の結論は、レヴィナスの倫理思想が有する重要な可能性の
一つを引き伸ばしたものとして意義深い。
第4部を構成する3つの章はそれぞれ、第四部のエロスの現象学、後期レヴィナスの思索の位置
づけ、本書の要約と「レヴィナス的倫理学」の素描に充てられる。第9章は、ジャニコーとフェミ
ニストからの批判に応答する形で、エロスの現象学を現れざるものの現象学とは別の仕方で読解し、
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その意義を、対話という理性的な次元とは異なる「愛という情動的な次元で感じられる他性」
(228
頁)を記述するという点に見定める。第10章は、後期レヴィナスの思索を『全体性と無限』から
の「転回」とみなす解釈に抗して、『存在の彼方へ』の支柱をなす1/〈同の内なる他〉という主体
性概念と2/〈責任の無起源性〉という考え方を、本書が究明してきた1/〈他人〉による分離した自
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小手川 正二郎著『甦るレヴィナス―『全体性と無限』読解』
我のあり方の逆転という見方と2/ 他者による自我への非暴力的働きかけという考え方の「深化」と
して位置づける。終章では、著者自身によって本書の内容が要約され、課題が登録されたのち、1/
障碍者との係わり、2/ 胎児との係わり、3/ 動物との係わりに関する現代的諸問題においてレヴィナ
スが何を語りうるかという観点から、レヴィナスの思索の評価が試みられる。来たるべき「レヴィ
ナス的倫理学」
、とくに動物との係わりをめぐるレヴィナス的発想の素描は、デリダの動物倫理思
想が関心を集めている近年、少なからず示唆を与えるものだろう。
簡素な要約にとどまるが、以上のように本書は「自我による他人の理解」
(22頁)という、
『全
体性と無限』に「他者論」を見ようとする立場からすればおよそ承服しえないだろう主題から、理
性論を中心として同書を読解している。ブーバーとハイデガーへのレヴィナスの批判を分析する際
の明瞭な論点整理やテクストの丹念な読解などによって支えられて提示された大胆なテーゼ、とり
わけ第8章のそれは、レヴィナスの思索の重要な一面を引き出したものとしてその意義が明記され
ねばならない。また、レヴィナスの倫理思想がアクチュアルな応用倫理的問題において有するポテ
ンシャルを、素描ではあるが示したことも、本書の意義であろう。
不満や疑問がないわけではない。とくに提示された具体例に関しては、少なからぬ疑念が浮かん
だ。だがここではそうしたものは措いて、二点、本書全体に関わる指摘をしたい。1/ 他人との関係
をめぐるレヴィナスの記述に特有の入り組んだ表現が、本書ではほとんど素通りされてしまってい
る、と評者には思われた。典型的な例を挙げれば、「発話は何よりもまず教えそのものを教える」
(TI, Livre de poche, p. 65-66)や「命令せよと私に命令する命令」(TI, p. 234, 本書202頁)といっ
た表現である。直ちには理解しがたく、丁寧に解きほぐす必要のある表現なのだが、本書では注釈
の対象になっていない。これは本書が『全体性と無限』の「体系的」な読解を試みるものである以
上不可避なことかもしれない。とは言え、こうした錯綜した表現でしか言い当てられない事柄があ
り、それこそが「具体化」と「存在論的言語」という方法が適用された成果としてレヴィナスの思
索の独創性を形作る。そうであるなら、
「レヴィナスの言葉を筆者なりに『具体化』すること」
(338
頁)を試みた本書に、複雑なレヴィナスの表現それ自体の更なる詳解を求めても、おそらく不当で
はないだろう。
2/「デリダ的読解」に関して。本書はレヴィナスに「他者論」を見るという点をデリダのレヴィ
ナス読解の根本に据えている。しかし、多くの論者が述べているように、デリダのレヴィナス解釈
はこの点に限られるわけではなく、その眼目はむしろ、レヴィナスは経験的なものと超越論的なも
のを区別しておらず、それゆえ自らの記述を正当化することができないという点にある(典型例は
L’écriture et la différence, p. 183)。デリダがレヴィナスを「経験論」と断じるときに念頭に置いてい
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るのも、顔を「どんな対象よりも直接的に自我に与えられるもの」(本書153頁)と見る解釈とい
うよりもむしろ、経験論は〈すべての認識は経験に由来する〉という自らの原理を正当化できない
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ため「学問的に基礎づけられた理論としてのそれ自身の可能性を廃棄する」
(Hua XVIII, S. 94 :『論
理学研究』第一巻第五章第二五、二六節への補遺)というフッサールの経験論批判であり、つまり
上と同じく記述の正当性の問題なのである。たしかに本書も、
「暴力」概念を扱う第7章において、
デリダが「〈他者〉ないし他性について、伝統的な哲学とは異なる仕方で語ろうとするレヴィナス
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小手川 正二郎著『甦るレヴィナス―『全体性と無限』読解』
自身の困難」
(178-179頁)をも問うていることを指摘しているのだが、本書ではこの点について
のレヴィナス/著者の応答は提示されない。その限りで著者の読解は、デリダ的読解の半面にしか
応答していないことになるのではなかろうか。本書の読解の正当性を否定したいのではない。そう
ではなく評者が問いたいのは、著者が引き出したレヴィナスなら、上に記したようなデリダ的読解
のもう半面に対してどう応えうるのかということである。――ひるがえって第一の指摘に戻れば、
これは、本書のようにレヴィナスを読み取った著者ならレヴィナスのテクストについてさらに何を
語りうるのかという問いに帰着する。以上二つの問いという形で小手川氏の研究の更なる展開への
期待を表明して、この評を終えることにしたい。
(平岡 紘)
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澤田 直編『サルトル読本』
澤田 直編
『サルトル読本』
(法政大学出版局、2015 年)
法政大学出版局より刊行されている『読本』シリーズに『サルトル読本』が加わった。編者はと
りわけ今世紀に入ってからサルトル研究を牽引してこられた澤田直氏である。
本書は日本におけるサルトル研究の先駆者とフランスの哲学者らによるエッセイ、国内の研究者
らによる鼎談を導入に(第 I 部)、専門研究として、国内外における近年の成果を踏まえたサルト
ル哲学にかんする論文(第 II 部、第 III 部)
、文学・芸術論を対象とした論考を収め(第 VI 部)
、サ
ルトル研究の今を伝えている。またそれだけでなく、サルトルと他の哲学者たちとの関係を解き明
かす多彩な論考が並び、それらを通じて、現代思想に振り撒かれたサルトルという「花粉」(フラ
ンソワ・ヌーデルマン。第 I 部収録「サルトルの花粉」
)が歴史の舞台でいかなる果実を実らせて
きたかを一望することができる(第 IV 部、第 V 部)
。「新しいサルトル像」を提供するという本書
の目的にふさわしい構成だといえよう。以下で内容を紹介するが、全二七点にのぼるすべてのテク
ストを平等に取り上げることはできない。本書評ではいくつかポイントを絞りつつ、各部の内容を
見てゆくことにしたい。
第 II 部、第 III 部からは、主に遺稿『倫理学ノート』が出版された1980年代以降、国内外で継続
的に研究されている「倫理」の問題を扱った論文を中心に紹介しよう。サルトルの倫理学は、おお
まかに見て、回心論、人間の疎外、贈与論等の多様なテーマを含んだ第一の倫理学、歴史のただな
かにおける新たな倫理の創造を模索する第二の倫理学、対話論的展開を遂げた晩年の第三の倫理学
からなるとされる。いずれも著作の形では残されておらず、未決定稿の解釈および計画放棄の理由
をめぐって研究が続けられている。
清眞人氏は、サルトル倫理学の鍵概念のひとつである「回心」を主題に据え、いわゆる共犯的反
省から純粋な反省への移行を〈ナルシシスムの解体〉として提示する。清氏は、対自としての自己
が、〈他者〉を通じて把握された「自己へと疎外」される構図を描き、この疎外の解除の過程とし
て『存在と無』から『倫理学ノート』、
『弁証法的理性批判』を貫く太いラインを浮き彫りにする。
こうして、サルトル倫理学は絶えざる自己関係の悪循環を断ち切る試みとして解釈される。
水野浩二氏は第二の倫理学の内実を、「倫理的案出」概念に注目しつつ的確にまとめる。具体的
歴史のなかでの倫理を問うこの時期の試みについては、既に氏の著書『サルトルの倫理思想』
(法
政大学出版局、2004年)でも解説されている。ある主体が惰性的な規範、道徳との緊張を生きつ
つ、状況に即して独自の判断を行うことが「案出」と呼ばれ、新たな倫理の創出として描き出され
る。氏の論考は第二の倫理学の時期におけるサルトルの思想の時系列的な変遷を追うというよりも
― 274 ―
澤田 直編『サルトル読本』
むしろ内容の紹介に務めているが、1961年のローマ講演が『主体性とは何か』(白水社、2015年)
として邦訳され、1964年の講演記録が先頃出版されたことをうけて、本論考を出発点とした第二
の倫理学内部における発展史的研究が進められることが期待される。
森功次氏は、初期から中期までにかけて美と倫理の概念が辿った変遷を整理した後、中期道徳論
が芸術制作をモデルとしている点、さらに、自由が具体的な他者関係のなかでの「程度問題」とし
て考えられるようになった経緯を解説する。そして、芸術を範とする倫理的関係が、現存する社会
の改善を経ないことには成り立たないとサルトル自身が自覚したという点に、道徳論放棄の理由を
見出す。サルトルが他者との相互承認にかかわる議論を文学において追求した点はしばしば指摘さ
れるが、氏の論述はそれにとどまらず、
『倫理学ノート』にみられる芸術論の深化を捉え返すことで、
道徳論が未完に終わった内在的な理由を説得的に提示している。
根木昭英氏による論文は、ジャン・ジュネを対象とした評伝『聖ジュネ』を典拠として、サルト
ルの「詩的態度」の特性を跡づける。根木氏は、『存在と無』において人間的現実の理想として提
示された〈自己原因になること〉(即自 - 対自の実現)を詩人の実践と重ねあわせる。詩人は現実
と虚構の二項対立を、自らの実践を通じて「偽の総合」へと至らしめる。だがこの試みは同時に挫
折に終わることが運命づけられている。さらに、自身の試みが破綻に終わることを織り込み済みで
他者と(不可能な)コミュニケーションを企てる点に、詩人の特異なナルシシスムが見出される。
こうして詩人は二重の意味で挫折を余儀なくされるが、まさにそのことにより「無益な受難」とい
う人間の条件を先鋭的な仕方で体現する、ある種の理想像となる。
上記の論考のほか、
『存在と無』の受容史を丁寧にまとめた谷口佳津宏氏による論文、主に『弁
証法的理性批判』を扱う北見秀司氏、竹本研史氏による研究、サルトル哲学に内在するエピステモ
ロジーの可能性に光を当てた生方淳子氏による論考、現代における知識人問題の再考を促す永野潤
氏の論文が収められる。サルトル解釈の現状と問題構成を伝える第 II 部、第 III 部は広範な論点を
押さえ、バランスの取れた構成をもつ。ただ一点のみ述べるなら、サルトル自身のもつ多様性をさ
らに際立たせるためにも、近年見直されつつある現象学者としての業績や、反人間主義的な性格を
もつ最初期の小テクスト群を扱う論考なども収めてほしかったように思う。
さて、先に紹介した森論文、根木論文が証示するように、サルトルにおいて思想と芸術、倫理に
かんする思索と実際の創作的行為は切り離し難い関係に置かれる。続いて取り上げる第 VI 部の論
考も、こうした領域の横断性を体現したものである。
永井敦子氏はサルトルの美術批評の射程を、『想像力の問題』以降の理論的側面の発展と、作品
受容(者)の社会的機能にかんする思想の深化に注目しつつ推し測る。著者によれば、サルトルの
美術評論は、社会状況への積極的なコミットを開始する第二次大戦後にあらわれはじめ、共産党と
の同伴期に最も多くなる。とくに同伴期の評論では、イデオロギーに従っていわば紋切り型の態度
で作品を評価する態度が批判され、芸術作品の受容可能性を多くの人へと開いてゆく姿勢に価値が
置かれる。また、戦後の美術評論ではしばしば明確な指示対象をもたない抽象芸術が扱われるが、
永井氏はこうした批評のなかに、初期想像力論において導入されていた図式的な代理表象モデルか
らの離脱を見出す。実際の作品に触れることで、サルトルは知覚対象と指示、存在と不在、作品と
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澤田 直編『サルトル読本』
周囲という二項関係の揺らぎを発見してゆく。氏の論考は、具体的な対象との出会いのなかで自ら
の築いた枠組みを壊しつつ新たな理論を発明してゆくサルトルの創造の現場を垣間見させる。
翠川博之氏はその全貌が未だ明らかにされざるサルトルの演劇論を、講演や短いテクストとして
残された断片的な資料から復元し、整合的に再構成する。その論述によれば、サルトルは感情移入
による舞台との同一化を警戒しつつ、「あたかも他者のように」自己を見る契機として演劇を活用
したという。翠川氏は「参加」と「距離」の側面に注目しつつ、世阿弥にちなんでサルトルの演劇
理論を「離見演劇」として概念化する。そこで提示される関係性には、狭義の芸術鑑賞論に限定さ
れない、サルトルの状況に対する態度が透けて見える。同じく世阿弥の「離見の見」を着想源とし
たものにレヴィ = ストロースの論文集『はるかなる視線』があるが、通常、相反するとされる二人
の思想家の姿勢に響きあう点が見出されることは興味深い。また、論文中ではサルトル自身が取り
上げるブレヒトの「異化」概念との比較、神話としての演劇の作用なども論じられるが、これらの
論点はロラン・バルトの演劇論とも関連づけうるものであろう。
このほか、第 VI 部には黒川学氏による『家の馬鹿息子』読解と、下で取り上げる編者の澤田氏
による論考が収録されている。そこで問題となるのは、サルトルの後期思想のもつある種の「廃
墟」性、その上に立ち上る全体性というイメージである。
第 IV 部、第 V 部からはサルトルが二〇世紀の「思想の分水嶺」(ジャン = リュック・ナンシー。
第 I 部収録「分水嶺としてのサルトル」
)となった場面を取り上げたい。ここでは、後の人間中心
主義批判につながるハイデガーとの「ヒューマニズム論争」を扱う齋藤元紀氏の論文と、実存主義
と構造主義との関係が俎上にのせられる井上たか子氏によるボーヴォワール論を取り上げる。
齋藤氏はサルトルとハイデガーのあいだに生じた「間接的な対話」の含意を再検討する。両哲学
者の「想像力」
、「無」
、
「他者」にかんする理解の相違が検討された後、
「ヒューマニズム論争」の
最大の争点が歴史的意識の相違にあったと論じられる。さらに、構造主義の台頭以降あらわれたサ
ルトル批判の定型がこの論争をきっかけにして形成されたこと、現存在の性的差異をめぐるハイデ
ガーの批判的再読の契機が、サルトルによるハイデガーの人間的解釈のなかに既にあらわれていた
ことなどが指摘され、この論争が現代においても等閑視できないと強調される。
井上氏は『第二の性』の成立経緯を詳細に取り上げつつ、同書が置かれていた歴史的文脈を復元
させる。論考ではボーヴォワールがサルトルとのやりとりのなかでその大著を彫琢してゆく過程が
記述されるが、その際、レヴィ = ストロースの人類学とのあいだに保っていた両義的な関係に触れ
られる件が目を引く。ボーヴォワールは人類学の成果が提示する「原始社会」の構造分析を素通り
できない思考の課題として引き受けつつ、そこに実存主義的な観点から解釈を与え直す。この姿
勢のなかに『弁証法的理性批判』におけるレヴィ = ストロース評価の前哨戦的な性格を、さらには、
その後に続くレヴィ = ストロースによるサルトル批判の予感を読みとることができる。
このほか、第 IV 部、第 V 部には肉の思想をめぐってメルロ = ポンティとの隠された関係を探る
論文(加國尚志氏)、植民地主義をめぐるファノンとの関係を再検討する論考(中村隆之氏)、バタ
イユとの近さとなおも残り続ける距離を論じた岩野卓司氏による論文、合田正人氏によるレヴィナ
ス - サルトル - ドゥルーズをつなぐ多島海的な論考、精神分析をめぐる番場寛氏による論考、檜垣
― 276 ―
澤田 直編『サルトル読本』
立哉氏によるドゥルーズのサルトル評価を主題とした論考が収められる。また、サルトルの影響を
受け独自のエコロジー思想を展開したアンドレ・ゴルツにかんする鈴木正道氏の論文は、未だ専門
研究が少ないこの思想家の業績を紹介する貴重なものだといえるだろう。
以上が本書のおおまかな内容である。さて、冒頭でふれたように本書は「新しいサルトル像」を
提示することを目的としていた。それは一体どのようなものだっただろうか。編者の澤田氏は、第
I 部の鼎談および自身の論考のなかで、サルトルの魅力を「広大な建築物を透視させる廃墟」(384
頁)のイメージに仮託しつつ率直に語っている。そこでは、テクストのもつ「論理の飛躍」
(40頁)、
「断章、断片化」の傾向(383頁)
、「破綻」(52頁)にみえるものすらもポジティヴに捉え直される。
さらに「全体化」概念が常に「脱全体化」をともなってあらわれる点が同時に指摘され、はっきり
とした実像を結ぶ統一体というよりもむしろ、まとまりを作ったそばから解体してゆく、不安定な
多様体のイメージが浮かび上がる。これは、これまで描かれてきたサルトル像を刷新する斬新なも
のだが、現在サルトル研究に取り組む評者としても説得させられるものであるし、論文執筆者の幾
人かはこの態度への共感を示している。では、一体何がこの像の転換を可能にしたのだろうか。
私見によれば、それはサルトルが存命中であった当時の研究と並置したときに際立ってくる。今、
評者の手元に1966年刊行の論文集『サルトルの全体像』
(ぺりかん社)がある。
『読本』と近い目
的をもつこの書物から、サルトルの「全体像」について記述する「サルトルと現代」を取り上げて
みよう。テクストの半ばで著者の竹内芳郎氏は、分業化する人文学研究に警鐘を鳴らしつつ、哲学、
文学、政治という異質にみえる三領域の交錯点を探り、その総合の末にあらわれるサルトルの姿を
捉えようと試みている。同書に収録された他のいくつかの論考では、書き手の現在において与えら
れたテクストを出発点としつつ、サルトル自身の新たな企てによって、今あるサルトル像が更新さ
れることに期待がかけられる。誤解を恐れずにいうなら、竹内氏が述べる「現代的」という言葉に
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は、現代に連なる直近の未来が包み込まれているのだ。この事態を別様に表現するなら、当時の研
究者たちはテクストを読み解きつつ、少し前を歩むサルトルの未来に向かって光を投げかけ、その
向こうであらゆる論点が有機的に絡みあい、総合され、はっきりした実像を結ぶようなただ一つの
点を探ることを課題としていたのである(現代と称して未来に力点を置くこの見方は、サルトル
を「同時代人」と見なす言説がしばしば狭義のサルトル研究とのあいだに緊張を生んだ、というエ
ピソードとも呼応する)。しかし今、かつてそこに実像が結ばれると思われていた未来の側に立つ
われわれは、同じ光学装置を用いながら、サルトルというプリズムのこちら側で過去に向かって数
多の光を投影するほかない。未来から過去へと目を向けるとき、廃墟のごときこの歪なプリズムは、
投げかけられた光線を分散させ、屈曲させつつ、その戯れのなかから無数のイメージを描き出すだ
0
ろう。そして、こうした遡行的操作が、投げかけた光の拡散を通じて、サルトルという資料体のそ
0
0
0
0
0
0
0
れ自体における存在を露呈させる。その結果あらわれてきたのが「廃墟」としてのサルトルなので
はないか。だが、ここで歩みを止めてノスタルジーに浸るべきではないだろう。遡行的操作を通じ
てあらわれたイメージから、今われわれは何をつかみとるべきか。本書が提示する魅力的なサルト
ル像の数々をきっかけとして、あらためて考えてみたい。
(赤阪 辰太郎)
― 277 ―
『ドゥルーズ 没後 20 年 新たなる転回』
『ドゥルーズ 没後20年 新たなる転回』
(河出書房新社、2015 年)
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-1995)の没後20年にあたる2015年には、スリジー・
ラ・サールでのコロックの開催や国内外での著作、ドゥルーズの書簡や書評などを集めた Lettres
et autres textes の刊行があった。
『ジル・ドゥルーズ 没後10年、入門のために』(河出書房新社、
2005年)に続き、この節目の年に本書は刊行された。
本書は、三つの対談と十三本の論考、「主要著作ガイド」、
「ガタリの著作を読む」、
「文献案内」
、
「ドゥルーズ著作一覧」からなる(各対談者と論文執筆者、およびドゥルーズ研究の動向については、
檜垣立哉氏の「ドゥルーズ歿後二〇年の〈世界的現在〉」と堀千晶氏の「文献案内」に詳しい)
。本
書は、その全体を通じて、着実に積み重ねられてきた研究の成果を伝えている。特に、本邦の研究
を牽引してきた代表的な論者による対談は、ドゥルーズ研究に関する近年の状況をまとめつつ、今
後の研究に向けての展望を開くものである。また、六つのテーマ(「文学者が読むドゥルーズ」「展
望」
、「生成」
、
「内在」、「動物」、「闘争」)に割り当てられた多彩な論考は、様々な観点からドゥル
ーズ(とガタリ)の哲学に光をあてており、その思考の多様性を浮かび上がらせている。本書評で
は、紙幅の都合からその全てを扱えないため、本邦とフランスの論者に焦点を絞る。三つの対談と
五つの論考を通じ、雑駁なかたちにはなるが、今後のドゥルーズ研究に向けての幾つかの論点をみ
ることとする。
小泉義之氏と千葉雅也氏の「ドゥルーズを忘れることは可能か―二〇年目の問い」と題された
対談では、これまでのドゥルーズ研究と近年の思想的状況の整理を通じ、今後の研究に向けての幾
つかの論点が提示される。小泉氏は、ドゥルーズ哲学のクロノロジカルな変化に着目し、『哲学と
は何か』において概念創造を果たせなかったドゥルーズの「絶望」する姿を示す。この変化を受け
止め、小泉氏は、『シネマ』におけるイマージュ一元論やベーコン論における感覚の存在の理論に
みられる「感性主義的経験論」に活路を見い出している。千葉氏は、「接続的ドゥルーズから切断
的ドゥルーズへ」という、有限性の理論に着目する自らの方針を提示する。ここには、「大いさ」
や「流動的」ではなく、「断片的」というテーマにこだわったドゥルーズ哲学の活用が目指されて
いる。この対談では、さらに、
「ドゥルーズを忘れろ」と語るギャロウェイへの批判的応答や「俗
流化」した超越論的哲学としての社会構築主義への批判、近年の思潮のなかでのドゥルーズ哲学の
意義の検討がなされる。特に、後年のドゥルーズの超越論哲学でも政治哲学でもなく感覚論に着目
する小泉氏は、これとオブジェクト指向存在論との接続可能性を提示している。「
「フォーゲット・
ドゥルーズ」はまだ早い」と語り、現代の思想的動向の中でドゥルーズを読むことの意義を問う両
氏の対談は、これからのドゥルーズ研究の端緒を開いている。
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『ドゥルーズ 没後 20 年 新たなる転回』
宇野邦一氏と鵜飼哲氏の「概念の力と「地理哲学」―ドゥルーズを読みなおすために」と題
された対談では、『哲学とは何か』を中心に、ドゥルーズ再読にあたっての手掛かりが提示される。
両氏の対談は、『哲学とは何か』の「嗜好」から出発して、「器官なき身体」
、「概念」、「形象」とい
ったドゥルーズ哲学の中心的な概念をめぐって展開される。そのなかで、「ギリシア」と「オリエ
ント」といった「地理」をめぐるドゥルーズとデリダの関係や、現象学との距離(フッサールやハ
イデガーへの態度、現象学的美学を作り上げたマルディネへの高い評価)、
「概念」と本質的な関係
をもつプロティノスの「観想」やリュイエの「俯瞰」などが取り上げられる。この対談で、鵜飼氏
は、『哲学とは何か』と『意味の論理学』における「嗜好」に着目し、「概念創造」や出来事の到来
に先立つ段階についての「真ん中の問い」を立てている。プロティノス的な観想と結び付けられる
概念創造における、能動性や意志が問われるのである。宇野氏は、さらに、
「真ん中の問い」を「永
劫回帰」や「賽の一擲」、「非人称的次元での選択」といった問題と接続する。概念の創造や出来事
の実現がこれからなされるべきことならば、この対談で語られるように、
「嗜好」をはじめとした
創造の前提的な概念から問いを立てるべきであろう。
江川隆男氏と堀千晶氏の「絶対的脱領土化の思考」と題された対談では、ラプジャードの『ドゥ
ルーズ 常軌を逸脱する運動』の検討からはじめて、ドゥルーズ哲学における「〈脱〉化の運動の
論理」が論じられる。江川氏は、ドゥルーズの著作を一様に扱うラプジャードの形式主義的な手法
を批判し、『差異と反復』と『千のプラトー』の思想的差異の重要性を指摘する。氏は、表現の理
論の〈三〉と、並行論の〈二〉あるいは〈四〉として両著作の差異を定式化し、これをもとに、言
語的な表現の理論で書かれた『スピノザと表現の問題』ではなされえない『エチカ』の脱構築的読
解の可能性を開く。この対談ではさらに、ドゥルーズの〈脱〉化の運動の論理として、
「ダイアグ
ラム論」、
「無様相の論理」、そして「副言(vice-diction)」が検討されていく。特に、こうした抽象
度の高い理論が、「日々の論理」、「抵抗の論理」として、語られることは印象深い。江川氏は、副
言により、日常の生活が何かに抵抗する非共可能的な世界になることを、「非 - 戦闘的なゲリラ」
になることとして論じ、これを、「対言(contra-diction)」とは異なる仕方での集団化の方法として
提示している。この対談は、江川氏の『アンチ・モラリア』の導入としても読めるのだが、そのな
かでも着目すべきは、ドゥルーズ哲学上の転回についての解釈が簡潔に提示されている点であろう。
これまでの幾つかの研究でも、ガタリとの共同作業以降、ドゥルーズ哲学で発生が論じられなくな
ることが指摘されてきた。江川氏は、この転回を上述のように定式化し、発生的な考えが依拠する
様相の思考(潜在性からの現働化あるいは現働性からの潜在化)ではない「反転可能性」
、無様相
の思考の威力を説明している。ここから、
『千のプラトー』の哲学的成果、その特異性を捉えるこ
とができるだろう。
近藤和敬氏の「ドゥルーズに影響をあたえた哲学者たち―「プラトニズムの転倒」をめぐる」
では、ドゥルーズの哲学史・文学批評読解の歪みの原因が「プラトニズムの転倒」というプログラ
ムにあることが指摘される。この論文では、ベルクソンの差異と運動性の〈異〉と〈動〉と、通俗
的なプラトン哲学の〈同〉
(「イデア的な不動のもの」
)と〈静〉(「同一性」
、「同等性」
「類似性」
)
の対置から出発して、プラトニズムの転倒に関する哲学者らが挙げられる。特に、近藤氏は、後期
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『ドゥルーズ 没後 20 年 新たなる転回』
プラトン哲学によるプラトニズムの転倒に着目し、「あらぬものがある」(「シミュラクル」)にかか
わる霊魂論の伝統に存在の一義性を結びつける必要性を論じる。氏は、『ティマイオス』にみられ
るシミュラクルを介した「霊魂論的産出」の系譜として、ストア派、新プラトン派という線を浮き
彫りにし、その影響を考慮したうえで、ドゥルーズのスピノザやライプニッツ論の特異性を評価し
なければならないとする。この論文では、初期ドゥルーズにみられる通俗的なプラトン哲学理解か
らの脱却に寄与したと目される哲学者や、「超越」に回収されない「内在」の議論が新プラトン派
の影響下に保持されるというドゥルーズの哲学史観を準備したとされる哲学史家が示されるなど、
ドゥルーズに流れていた思想的水脈を辿るうえで重要な考察が与えられている。
アンヌ・ソヴァニャルグ氏の「リゾームと線」では、接続と異質性によるコード化とそこからの
非意味的で非言語的な記号論の成立が解明される。氏は、「モル的」
(コードの硬直化と切片化)と
「分子的」
(コードの解きほぐし、一方のコードから他方のコードへの横断)の区別から出発し、本
性上の差異をもった線の共存の理論として、「マルコフ連鎖」の重要性を明らかにする。マルコフ
連鎖とは、統計的な処理により得られる変数(たとえば、フランス語の h の前には、50%の確率で
c があるなど)を用いて形成される連鎖であり、部分的に依存的な連鎖である。マルコフ連鎖にお
ける流れのコード化は、非シニフィアン的で、半偶然的秩序を生み出すのであり、ここから、異質
なもの同士の接続の理論、非意味的な記号の理論が説明される。この論文では、本邦ではあまり紹
介されていないマルコフの分析の多産性を示したリュイエの思想的寄与分が明らかにされ、
「リゾ
ーム」概念が理論的に解明されるなど、重要な成果が上げられている。
フランソワ・ズーラビシヴィリ氏の「カントとマゾッホ」では、ドゥルーズがマゾッホを「臨床
医 - 芸術家」として論じたことによりもたらされた、
「批評」と「臨床」の結びつき、および哲学
的営為の転回が描かれる。氏は、既にそうであるものへの「なぜ」ではなく、
「到来したのは何か」
という問いへの答えとしての差異を明らかにすることが、哲学の使命になると論じる。つまり、哲
学は、二つの論理の間の飛躍、それを「証し立てるシーニュの感受」を要請するようになるのであり、
そのとき、
「哲学者 - 学者」ではなく、「哲学者 - 芸術家」の関係こそが問題となるのである。この
論考では、芸術家とともに哲学することの意味が描かれ、さらに、マゾッホによる権利と感性論へ
の欲望の迎え入れがカントの乗り越えとしてまとめられている。この論文では、マゾッホが中心的
に扱われるが、ズーラビシヴィリ氏自身が示す通り、他にも検討されるべき芸術家は多い。プルー
ストやアルトーといった他の文学者のみならず、絵画や映画、そして音楽における芸術家にドゥル
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ーズが何を見出したのかを、あるいはシーニュを作り上げた「哲学における芸術家」としてのドゥ
ルーズを、今一度明らかにする必要があるだろう。
ジャン=クリストフ・ゴダール氏の「1960年という瞬時におけるドゥルーズ―思考のあらた
なイマージュ?」では、ドゥルーズによって提起された「思考のあらたなイマージュ」の解明が試
みられている。ゴダール氏は、ドゥルーズの独断的イマージュ批判にみられる「思考のあらたな
イマージュの要請」と「イマージュなき思考という病理的事態」の二極性に着目し、これを、「イ
ポリット - アルトー」
、「ブルクハルト - ニーチェ」
、
「教師 - 分裂症」といった二項式と重ねあわせる。
ここからさらに、ベーコン論における二つの相反する運動の共存からなる「形象」概念が援用され、
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『ドゥルーズ 没後 20 年 新たなる転回』
思考についての別のイマージュの要請とイマージュなき思考からなる緊張関係こそが、1960年代
における「哲学的瞬時(moment)」が反復するものであると論じられる。この論文では、フィヒテ
を解釈するイポリットや独自のリズム論を形成したマルディネといった当時の哲学者がドゥルーズ
に与えた影響も示されている。特に、ベーコン論や芸術と哲学の関係への言及が散見する本書にお
いて、後者についての記述は興味深いといえるだろう。
廣瀬純氏の「悲劇的なこの世界では哲学が直ちに政治になる。―一九六九年、スピノザからス
トア派へ」では、
「恥辱的妥協」を誘因とした政治哲学の可能性が示される。廣瀬氏は、
『カフカ』
以降繰り返し論じられる「人民形成論」の理論的骨格が、
『スピノザと表現の問題』の「共通概念」
論と『意味の論理学』における「傷」論によりすでに完成されていたと仮定する。この論文では、
共通概念の形成と傷の「対抗 - 実現(contre-effectuation)
」により、全自然的観点への到達がなされ、
大域的に形成される人民が表現されると論じられ、さらに、
『意味の論理学』におけるスピノザ主
義の「激烈化」
、
「悲劇化」が描かれる。
『スピノザと表現の問題』においては、受動的に経験される
出会いのなかにもわれわれにとってのよいものがあるとされるが、
『意味の論理学』には、わるい
出会いが溢れかえっている。ここに、廣瀬氏は転換を見出す。出会いが受動的「だからこそいっそ
う」
、身体の傷を非身体的表面において実現し直すことへ導かれるのである。ストア派論においては、
理性の増大という議論は捨てられ、
「意志的直観」により全自然的観点が一気に得られることにな
る。この論考は、
「どこを向いても、すべてが悲しげにみえる」
(
『意味の論理学』上巻、小泉義之訳、
河出書房新社、2007年274頁)と語るドゥルーズの「絶望」を出発点にしているといえる。絶対的
な受動性を思考の誘因とし、対抗 - 実現論を人民形成という政治的実践として取り上げ直す廣瀬氏
の試みは、
『スピノザと表現の問題』と『意味の論理学』の表現の理論の再検討を迫るものである。
本書評では取り上げられなかったが、この他に、ブラジルや韓国におけるドゥルーズ研究を伝え
る論考(ペテル=パル・ペルバルト氏と李珍景氏)、ドゥルーズ哲学にイスラム哲学を発見する論
文(ローラ=U・マークス氏)
、「超正常性」や「創造的逆行」から動物への生成変化を解明する論
文(ブライアン・マッスミ氏)、ドゥルーズが人間の固有性を「愚かさ」により考えていたことを
デリダの脱構築的読解とともに批判的に明るみに出す論考(パトリック・ロレッド氏)が収められ
ている。また、ドゥルーズによる文学論ならぬ文学者によるドゥルーズ論(笙野頼子氏、荻世いを
ら氏)は興味深い試みといえるだろう。
以上のように、本書の多彩な論考は各々の観点から、ドゥルーズ(とガタリ)の哲学を切り取
り、ときに齟齬をきたしつつも共鳴し合う特異性を描き出している。『意味の論理学』にならうなら、
観点は発散に対して開かれ、これを肯定するのであり、各観点に対応するのは別のドゥルーズ(と
ガタリ)の哲学といえるだろう(同上、302頁)。しかしながら、われわれはここで満足すること
はできない。
「出来事は、われわれを待ち受け、われわれを待ち焦がれ、われわれにサインを送る」
(同上、258頁)からである。セリーがある特異性の近傍から別の特異性へ向かうように、本書が
提示する論点から「新たなる転回」へ向けて再び出発するよう、われわれは誘われているのである。
(平田 公威)
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清水 高志著『ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークまで』
清水 高志著
『ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークまで』
(白水社 2013 年)
セールの研究の困難さの一つには、戦略的になされている直線的に進まない筆運びにあると思わ
れる。そのあまりにもレトリックに富んだ文体は、セールをフランス現代思想において唯一無二の
存在として特徴付けるものであるのと同時に、その思想を明確に把握することを難しくさせている
ことも確かである。これまでの日本におけるセールに関する先行研究は、セールのこの独自のスタ
イルをむしろ鑑賞し、哲学的エッセイとして捉えるものが主流であった結果、セールの思想の研究
はともすると自閉的なものにとどまっていた。これに対し、清水氏のアプローチは全く異なったも
のといえる。そのレトリカルな文体からは距離を置き、セールのとっている哲学的戦略を明確にと
らえ、複数の著作にまたがり異なった視点から描かれる同一の主題を、横断的に把握しようとする
ものである。本書に先立って清水氏が2004年に出版した『セール、創造のモナド­ライプニッツか
ら西田まで』では、氏はセールの哲学を前提となっている哲学史上の諸問題系と繋げることで、セ
ールの思想の哲学史における立ち位置を明確化した。これに続く本書は、より深くセール自身の思
想に踏み込み、その固有の全体像を捉え、さらにセールの影響を受けて発展している諸思想を参照
しながら遡及的にセールの独自性を把握しようと試みるものである。
その上で、本書では、清水氏はセールの思想に通底する「一と多」という主題を見て取り、この
主題を中核にセールの博士論文でもある1960年代の『ライプニッツのシステムとその数学的モデ
ル』から2009年の『作家、学者、そして哲学者は世界を一周する』までを読み解いている。本書
の縦糸をこの「一と多」という主題だとすれば横糸となっているのは、セールの幅広い活動領域を
示すようなライプニッツ論、科学認識論、美学、暴力論、自然論、そして現代思想において発展著
しいアクター・ネットワーク論などの各論である。清水氏は、これらの膨大な領域でのセールの足
取りを渉猟しつつ、セールが微細に組み上げている「一と多」のネットワークを詳らかにしていく。
本書は「人文学・美学」、「エピステモロジー」、そして「人類学」と題された3部から構成され
ている。まず、第1部の「人文学・美学」で清水氏が取り上げるのは、1982年の『生成』である。
氏は、
「一と多」というセール哲学の主題はここにおいて中心的に論じられているとしている。セ
ールが『生成』において指摘するのは、我々の思考は常に「一なるもの」という単一性を手掛かり
としている、ということである。
「多なるもの」を「一なるもの」という「括り」に包摂するとい
うプロセスを経て初めて、対象は我々の思考に与えられるのであって、また我々はそのようなプロ
セスこそが合理的なのだとしてきた。しかし、このような「括り」はあくまで人為的なものであり、
世界の多様性は我々の思考から常にとり落とされてしまっている。翻って考えてみれば、多様なも
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清水 高志著『ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークまで』
のを「一なるもの」に包摂するこの括りこそが、我々に対象を与えることによって、我々をその対
象を思考することが可能な主体にさせているのだ、と清水氏は指摘する。従って、ここに対象が主
体に従属するという、従来の包摂関係への転倒が生じることになる。主体こそが、本来主体が観察
を行う以前からある多様な世界に取り巻かれているのである。主体に先立つこの多様性を指し示す
ために、清水氏はセールの「あるがままの多」という言葉を用る。この「あるがままの多」は主体
が与える「括り」に一方的に包摂されてしまうのではなく、与えられる様々な普遍的な「括り」を
同時に含み、相互に結びつけるような「媒介」的なものである。この時、この対象を捉える主体も
また複数の「括り」を与える複数的なものとなる。そして、
『生成』の論点の中核は、このような
「一つの対象のまとまり」と複数の主体の関わりという「一と多」の関係において、この複数の主
体が相互にどのように関わっているのか、という点にあり、セールは、それを複数の主体の相互牽
制という観点から観察している。従って、氏によれば、この「一と多」という問題設定は、単に世
界の多様性を素朴に示すものではなく、このような関係性において複数の主体が取り結ぶ関係を描
き出すことを目的としている。このように「一と多」の往還関係において、主体と対象とが互いを
普遍化しつつ個別化しながら複数で共存することを担保する「一と多」の往還関係というモチーフ
が、これ以降の様々な論点においていわば繰り返し現れ変奏されていくことを読み取っていくとこ
ろに、清水氏のセール読解の特色はある。
この「一と多」の往還関係は例えば、ライプニッツに対するセールの解釈にも見て取ることがで
きる。セールはライプニッツの多元主義を継承しつつ、その神による予定調和からは距離を取り、
重点が置かれるのはむしろ、我々が実際に感受しうる多様な表象とそれによる統一性である、と清
水氏は指摘する。現実に実際に存在する物質がいかに多様なものとして捉えうるのか、ということ
を主体と客体の間での「一と多」の往還関係に基づいて考察することによって、物質の表象のレベ
ルでの差異性が共̶可能的にさせる構造を見出し、この構造に基づいて差異性をより離散的に具体
的に捉えることが可能になる。それは氏によれば、「ライプニッツ哲学を裏返しにしたような世界
像」
(52)であり、
「「調和があるところに精神がある」のではなくて、
「往還関係があるところに
物質がある」のがセールの考え方」(53)なのである。
さらに「一と多」の往還関係は暴力論へと発展していく。その課題は、どのように暴力を可視化
し、またそれを避けるのか、というものだ。そこで提示されるのは、
「あるがままの暴力」の可視
化の困難さである。セールは、暴力もまた「一なるもの」に回収され、暴力の本質であるはずの多
対多の暴力を可視化する手段は考察されてこなかったと指摘する。そこで、清水氏は「一と多」の
関係に基づき、暴力による闘争の本質は同じ場所を奪い合うところにあることを明らかにしている。
そこで、氏は、『自然契約』を取り上げ、セールにおける場所の分析へと歩みを進める。ここでは、
このような人間間の闘争の背後に、そして先立って自然がある、ということが論じられている。セ
ールは人間による闘争を主体的な暴力とした上で、この主体的な暴力が実は自然という客体的な暴
力に取り巻かれていることを指摘している。
そして、清水氏は、この自然と人間の関わりにおいて、科学の対象を研究者がどのように捉える
のかという問題に言及する。先に述べたような物質と表象における「一と多」の往還関係は、科学
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清水 高志著『ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークまで』
の対象と複数の研究者の集団に読み替えられる。科学的な対象は科学者たちによって見出されるの
だが、その見出された対象によって複数の研究者の行動が相互に牽制されることによって科学は客
観的なものでありえるのである。セールは素朴に科学の対象が語りかけることに耳を傾ける姿勢は
かえって反証可能性を生まず、研究者の側からの一方的な科学的対象の構成に帰してしまうとする。
相互牽制を通じ、科学的対象の多様性が担保され、科学的対象と研究者集団の間の相互的な作用が
留保されるべきなのだ。清水氏はさらに、このセールの主張をアクター・ネットワーク論、特にブ
リューノ・ラトゥールと比較している。ラトゥールの議論はセールに強く影響を受けつつ、端的に
言えば人間と物の関わりを社会学的に考察するものである。氏は、ラトゥールの議論を自然を介在
させた最初の社会学として評価しつつも、それがともするとセールの議論を単純化し、セールにお
いては離散的なあり方で共­可能的なあり方をする科学的な対象それ自体を、近代という時代に対
する批判の根拠としてしまっていると指摘している。
第2部の「エピステモロジー」では、清水氏はセールの博士論文でもある『ライプニッツのシス
テムとその数学的なモデル』を取り上げ、そこでの「一と多」の問題を論じている。セールがこの
本で探求しているのは、ライプニッツ哲学における多元主義においては、多極的なもの相互が取り
結ぶ関係はどのようなものか、という問題である。その上でセールが提示する仮説とは、ライプニ
ッツ哲学において、体系は諸学問の単なる総和ではなく、それぞれの学問がその都度その都度相応
の変形を伴って全体としてのシステムを形成している、というものである。つまり、その度に叙述
が異なりつつもそれを一括するような高次な形式的な論理が存在しているともいえる。システムを
演繹的思考の結果構築されるものとする一般的なモデルとは異なり、システムにたどり着くには複
数のアプローチが可能であるとみなされているのだ。この複数のアプローチの結節点が学的対象で
あり、これらの複数のアプローチは相互に参照されている。従って、「一と多」の往還関係に従っ
て考えるならば、学的対象は複数のアプローチの結節点である意味で諸アプローチと「一と多」の
関係をなす。また一方で学的対象そのものもそれ自身として個別的で離散的なあり方をする「多な
るもの」でもある上で、ここにもまたセールは「一と多」の往還関係を見出している、と清水氏は
示唆する。「そして、学的対象である結節点は、また別の学的対象にアプローチするための事項群
に繰り込まれる上で」
(154)この諸学的対象と諸アプローチが織りなすネットワークは潜在的に
ライプニッツ的な「一と全体」についての考察になり得るのである。
さらに清水氏は、セールのライプニッツ解釈の中でも、このアプローチ間の相互参照という問題
を考察するべく、
「ヘルメス」シリーズの第2巻『干渉』を取り上げる。清水氏によれば、
『干渉』
においてセールは、この往還的システムを当時の学問的状況に適用することで、より具体的に展開
させている。そこには、学問領域は相互に分断されたものではなく、網の目をなす連続体として考
察されるべきだ、というセールの構想がある。これまで繰り返し触れられてきたように、学問の総
体は連続的な構造を持つのと同時に、個別の学問域の個体化の原理が働いており、各学問領域は普
遍性と特殊性を同時に持ちうる。さらに、セールは『干渉』において学的対象の問題と結びつけて
物質の問題を論じてもいる。セールは、物質が人間の知にとってどのような役割を果たしているの
かを哲学史をさかのぼって考察することで、デカルト的な主体による経験の支持体としての受動的
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清水 高志著『ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークまで』
な物質でも、バシュラール的な伝播の現象を観察するための媒体としての物質でもない独自の物質
観を提示している。セールによれば、主体が行っている対象の認識や行動は、むしろ対象の構造や
情報から対象相互の関係を見出すことにある。人間はあくまで介在的な存在過ぎず、諸物質は主体
の認識に回収されることなく、独自に能動的でありながら受動的なあり方で相互に関係を取り結ん
でいるのだ。従って、そこで構想されるのは、人間的な主体であるどころか、このような「知」を
相互にやり取りする物質がなす「全域的主体」(179)だといえよう。
第3部においては、清水氏はセールにおける人類学的考察へと言及する。氏がまず取り上げるの
は、
『パラジット』に論じられる奇食の現象に対するセールの文化論的論考である。セールは、交
換という関係に着目する。交換とは、余計なものを腐敗する前に追放しようとする腐敗への抵抗で
ある。そのままでは腐敗してしまう商品を交換することで、腐敗することで変化してしまう実体か
ら、交換されるという関係自体に重心が移ることによって、我々は腐敗に抵抗しようとする。そこ
で、腐らないものとしての一般的等価物である貨幣が登場する。貨幣は元来それ自体として価値の
ないものであるはずなのだが、異なるものの間に等価性を生み出し、この交換という関係に奇食す
る。交換が一般化するにつれ、貨幣は「腐らない貨幣」であるがゆえに貯蓄可能なものとして実体
化していくのである。従って、貨幣は交換という網の目の結節点をなし、複数の交換の経路に干渉
しながら新たに組み合わせる(=等価にする)ことで新たな価値を生み出す。清水氏はセールのこ
の奇食者をめぐる論考のモチーフがこれまで述べてきた主題と共通の構造を持っていることを指摘
しつつ、その宗教的、神話的な起源を明らかにするものとしている。
ついで清水氏が取り上げるのは2009年に刊行された『作家、学者、そして哲学者は世界を一周
する』である。清水氏がこれまで本書で取り上げてきたものと比べると比較的最近刊行されたもの
と言えるだろう。この本を清水氏は、
「今日の人類学に対するセールによる応答」
(229)と評して
いる。セールは、フィリップ・デスコーラの『自然と文化の彼方に』における文化ごとに異なる自
然と人間社会の相互作用の4つの類型化に着想を得、むしろその類型の混合的なあり方を探ってい
る。デスコーラは自然と人間の文化による捉え方の違いを「一と多」の現れ方の違いとして類型化
しながら、その結びつきを総合的に捉えようとする。清水氏によれば、この本でセールはデスコー
ラの理論を前提としつつも、その視点は自身の根ざす西欧文化へと向かい、むしろ西欧文化自体が
一枚岩ではなくこれらの異なる類型を内部に含むという異質性を明らかにすることを試みる。セー
ルはデスコーラの類型論を諸文化の生成論として読み替えるのである。従って、セールはデスコー
ラが類型化しようとした「一と多」の結びつきを、個別の文化を構成する個人という具体性により
注視することで、単一の「一と多」の関係を解体し、複雑化し、複線化しようとする。清水氏はこ
の試みの元で、科学や芸術が実際に生成される場で、どのような自然と人為の関わりが起きている
のかをセールは分析するのだとしている。このように、清水氏の読解のもと、様々な主題に及ぶセ
ールの思想は一見無関係に見えながら根底では深く絡み合い、それぞれがそれぞれの視点からセー
ルの哲学という一つの総体を語っていることが示されている。
本書は、未だなんらかのテーマに応じて部分的に言及されることにとどまっていることの多いセ
ール哲学の内部に深く入り込み、その思想の展開を追うことを通じて、セールの哲学それ自体に一
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清水 高志著『ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークまで』
つの一貫した読解の可能性を示している点で、これまでにない、非常に重要な研究書といえる。ま
た、巻頭と巻末に付された略伝と年表は、これまでまとめられた形で示されてこなかった今日まで
のセールの足取りを知る上で資料的な価値も高い。これは、しばしば言及対象に注釈がなされない
ことの多いセールの著書を補う形で付された本書の注にもいえることである。本書をきっかけとし
て国内のセール研究がさらに発展することを願う。
(縣 由衣子)
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金森 修著『科学思想史の哲学』
金森 修著
『科学思想史の哲学』
(岩波書店、2015 年)
ここ数年、エピステモロジー(フランス科学認識論)と呼ばれるフランスに固有の科学哲学的伝
統に関連する書籍の出版が目立つようになった。その立役者であり、90年代初頭から本邦でのエ
ピステモロジーの紹介に努めてきた金森修氏の科学論の主著、そして生前に出版された最後の著作、
それが本書である。
本書は、
「エピステモロジーから科学思想史へ」というスローガンのもとに、著者の既発表の論
攷や小文をまとめた論集であり、科学思想史という企ての見取り図(第一部)、生物学における概
念史を事例としたエピステモロジーの実践編(第二部)
、エピステモロジーの外部に焦点をあてた
科学思想史の実践編(第三部)、そして、一見すると本書の主題とは関係なさそうに思えるが、主
体なしの認識論というエピステモロジーの重要な側面に著者独自の視点から取りくんだ〈私〉の問
題(第四部)、という全四部から構成される。また本書は、エピステモロジー的な実践を具体的に
例示した『科学的思考の考古学』
(人文書院、2004年)、科学思想史を実践した『知識の政治学』
(せ
りか書房、2015年)、という別の科学論的主著ともゆるやかに連関しており、これら一連の著作群
の全体として〈科学思想史〉という試みが提示されている。
一般的な概略はこの程度にして、本書の具体的な内容の検討に入っていきたいと思う。まずは、
「エピステモロジーから科学思想史へ」というテーゼの内実を確認しておこう。
著者の規定によれば、エピステモロジーとは、個別科学の歴史的過程を追跡することで、科学的
概念の意味と射程を掘り下げる学問である。それは、〈科学史的な科学哲学〉ないしは〈科学哲学
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的な科学史〉とも言われる。また、より抽象的には、「非実存主義的で主知主義的な相貌を帯びた
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現代的な観念論」(75頁)という定義が与えられもする。こうした諸特徴のなかでも、著者にとっ
てとりわけ重要なのは、「学問的知識の妥当性の最終根拠を〈自然の条理〉そのものの中に見出そ
うとはしない」
(74頁)という特徴だろう。自然の一般的秩序を措定しないというエピステモロジ
ーの特徴は、自然主義的な諸潮流を相対化するために重要な視座を与える。よく知られているよう
に、自然主義とは、基盤となる階層を存在論的に措定し、そこから演繹的に推論を進めることで知
識を得るという立場である。それゆえ、自然主義者の〈言説空間〉は、基盤として措定された階層
によって限定される。これに対して、エピステモロジーは、そのような基盤となる階層を措定せず、
概念や理論のネットワークのなかで、主客の認識関係が変遷していく様を追跡する。それは、科学
のメタ的考察を可能にする視点である。このようにして、エピステモロジーは、自然主義的な〈言
説空間〉を相対化する。
― 287 ―
金森 修著『科学思想史の哲学』
しかし、著者の見立てによれば、エピステモロジーにもある限界がある。具体的に言えば、その
限界とは、エピステモロジーに内在する一つの傾向、概念や理論のネットワークを重視するあまり
に、科学外的因子を二次的なものと見なすという傾向のことである。ここで科学外的因子と呼ばれ
るものの多くは、社会的なものと形容される因子である。それゆえ、
『知識の政治学』では、エピ
ステモロジーの限界は、その〈基本的ノンポリ性〉だとも言われる。もちろん、このような自己限
定が働くことで、エピステモロジーがそれなりに意義のある学統を堅持してきたことを、著者は認
めている。しかし、社会的、政治的、経済的文脈と無関係には語ることのできない現代の科学を取
り巻く状況のなかでは、エピステモローグも科学外的因子を二次的なものだと切り捨ててすますこ
とはできない。科学的波及効果が日常化した現代において、エピステモロジーの内在的特性の一つ
を放棄すること、あるいは、エピステモロジーを知的準拠点としつつも、そこから「後一歩」
(67
頁)踏み出してみること、そうした勇気が求められる。「歴史的言説の中に立ち上げられる無数の
真と偽を、一種の政治的文脈の中で捉え直す」(55頁)というフーコー主義に身を委ねつつ、著者
は大胆にもその一歩を踏み出す。そして、その実践として、〈科学思想史の哲学〉なるものが提示
されることになる。それは、エピステモロジーの外部を示してみせることによって、その〈言説空
間〉を相対化する試みであると言えるだろう。
これまで見てきたように、
「エピステモロジーから科学思想史へ」というテーゼは、さしあたり、
科学的な〈言説空間〉の二重の相対化を含意するものとして理解できる。このような見通しのもと、
改めて本書の各パートを位置づけるのであれば、第一部はその基本的方向性を示し、第二部が第一
の相対化を、第三部が第二の相対化を実践するものだということになる。第四部は、ある意味では、
そのような相対化を可能にする足場となる理論であり、本書の根幹をなす部分だと言っても過言で
はない。
さて、第一部については、これまで確認してきた本書の基本的方向性を通して、一応の概説は与
えられたとしておこう。本稿の以下では、第二部所収のベルクソン論、次いで、第三部所収の寺田
寅彦論に光をあてることで、本書への限定的接近を試みる。このような論述形式をとるのは、俯瞰
的な概略に終始するよりは、いくつかの論攷に焦点をしぼって考察を加えた方が、本書およびその
周辺著作が向かう方向性をクリアに提示できると思われるからだ。また、ここで検討対象とする二
つの論攷は、金森哲学を追跡する際に重要な意味をもつが、科学社会論的な文脈や、狭義でのエピ
ステモロジーの文脈とはほとんど関係しないがゆえに、本書を一般的に評価する場合には、見過ご
されてしまう可能性が高いものだと言える。それゆえ、これらの論攷を考慮に入れて〈科学思想史
の哲学〉という企てを見定めるような言説場をあらかじめ構築しておきたい、という理由も少なか
らずある。
先に述べたように、第二部は、
「エピステモロジーの実践」という標題の通り、生物学という具
体相におけるいくつかの概念の変遷をたどりつつ、それらの科学的概念に哲学的照射を施した、エ
ピステモロジーの実践的な事例集である。ただし、第三章「血液循環の認識論」、第四章「〈内分泌〉
の概念史」と比べると、第五章「『創造的進化』と〈生命の形而上学〉」は、ネオ・ラマルキズムと
いう概念に焦点を合わせつつも、それがベルクソンの思弁的進化論と交差する場面に強調点がある
― 288 ―
金森 修著『科学思想史の哲学』
分、幾分浮いた印象を受けるかもしれない。もちろん、進化論の諸学説を批判的に考察しつつ、自
身の思弁的進化論を構築する、『創造的進化』(以下、『進化』
)第一章でのベルクソンの仕事は、直
接的にエピステモロジーの系譜に位置づけることが難しいとはいえ、それと響き合うところがある
のも確かであり、そうである以上、エピステモロジーの変奏としてベルクソンをとりあげてみるこ
とにさほど問題はない。しかし、評者の見立てでは、第五章のベルクソン論は、エピステモロジー
の一事例としてのみ第二部に置かれているのではなく、エピステモロジーから〈科学思想史の哲
学〉へと踏み出すための踏切板のような役割を与えられているように思える。なぜそう言えるのか
について、著者とベルクソンとの関係の変遷をたどりながら確認していきたい。
著者は、まったく同じ主題で、何度かベルクソン論を執筆している。最初に執筆された「ベルク
ソンと進化論」
(『現代思想』
、青土社、1994年)では、科学的な言説空間から脱線していくベルク
ソンの姿勢に対して、やや否定的に論じられる箇所も見受けられる。だが後に、このような見方に
対して、著者自身の手によって批判的な眼差しが向けられることになる。それは、『自然主義の臨
界』
(勁草書房、2004年)所収の「ベルクソンと進化論」第二版に付け加えられた「自己破壊的な
序文」でのことだ。著者はこの序文のなかで、現代科学の観点から一方的にベルクソンの言説を捨
象してしまったことを自戒しつつ、こう言っている。「科学的知見を題材にしながらも、それから
出発していろいろな思弁的仮説や創造的知見をたてること、そしてその種の議論が住み着く半ば実
証的で、半ば非実証的な議論の領域、それこそが、私がいま仮に〈臨界領域〉と呼んでみせた言説
空間そのものなのだ。その意味で、
『創造的進化』は、いまからほぼ百年も前に構築された、偉大
な〈臨界領域〉の具体事例なのである。[……]以下の論文は、その意味ではまだ自分の言説場を
探しあぐねていた当時の私の、ためらいと逸脱の記録でもある」
(『自然主義の臨界』
、157頁)
。完
全に実証的な言説空間でもなく、完全に非実証的な言説空間でもない、それらの〈臨界領域〉とい
う言説空間、それは以前の著者には欠落していた視点であると言われる。そして、本書に収録され
た第三のベルクソン論において、このような視点が先鋭化されることになる。著者は以下のように
述べている。「もし仮にわれわれが現代においても『創造的進化』の中に数多くの学ぶべき着想が
あると感じ取ることができるとするなら、それは、この著作に潜む科学外的所与の存在にも拘らず、
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ではなく、むしろその反対に科学外的所与のおかげでそうなのだ、と主張したいくらいである。ベ
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ルクソンの思弁的進化論は、メタ科学的考察の卓越した具体例の一つであり、より簡潔に述べるな
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ら、その語源的含意を保存したままでの〈生命の形而上学〉なのである」(155-156頁)。この記述
が示唆するように、本書第五章で著者がベルクソンに依拠しつつ語るのは、科学的言説の作用体と
しての知性の統制を逃れていく局面、科学的な言説空間の〈外部〉である。それは、科学外的因子
を二次的なものと見なすあらゆる認識論を相対化する。
第五章末尾の記述を見る限り、自然主義的なものの見方がますます避け難いものになりつつある
現代において、著者が自然主義を相対化する一つの可能性をベルクソンに賭けていることは間違い
ない。管見ではあるが、著者がエピステモロジーの境界線上に位置する哲学者に対して、反エピス
テモロジー的な言説を構成するものとして、積極的な価値付けを行うのは、一連のベルクソンをめ
ぐる論攷だけではないだろうか。この一事だけでもそれなりの論拠となると思うが、付言するので
― 289 ―
金森 修著『科学思想史の哲学』
あれば、すでに確認した通り、ベルクソンに対する著者の評価は、はじめから一義的に定まってい
たわけではなく、著作活動の過程で徐々に変化していったのであり、ベルクソンとの真摯な対話を
通して、著者がエピステモロジーから「後一歩」を踏み出す勇気を受け取ったという可能性は少な
くない。それゆえ、第五章のベルクソン論は、金森哲学の変遷をたどるための資料的価値をもつと
いう意味でも、きわめて重要な論攷と言える。
ベルクソン論を媒介した後、第三部では、エピステモロジーそのものの存立基盤をゆるがすよう
な仕方で、つまり、その〈外部〉を徹底して示してみせることで、それを科学思想史というより広
範な言説空間へと導きいれる試みが実践される。この文脈では、人類学、宗教学、教育学という領
域に定位しつつ、科学思想史的な問題関心が発動される第七章から第九章までの論攷が、とりわけ
重要である。しかし、ここでは、こうした科学思想史の実践的事例ではなく、寺田寅彦についての
短い小文に着目したい。それは、寺田論において、もっとも明快な仕方で、科学的な言説空間の限
定性が示され、さらには、そうした限定的な言説空間が私たちの日常世界を浸食する様が描かれて
いるからである。
まずは、博士論文「日本の竹製管楽器、尺八の音響学的研究」において、寺田が尺八の歴史につ
いての記述からはじめたことに言及しておきたい。尺八を見たことのない文化圏の読者を想定する
のであれば、尺八という楽器の一般的概説を導入部に据えることには、論文の作法としても特段の
問題はないと言える。しかし寺田は、
「足利幕府」や「虚無僧」といった、常識的な観点からすれば、
尺八の音響学的研究という論文の主題には何の関係もないと思われる記述にかなりの紙幅を割いて
いる。一見すると蛇足にしか見えないこうした記述には、
「日本人の物理学」を構築するという寺
田の野望が込められている。それは、日常身辺に生起する現象を日本人の眼を通して捉えることで、
普遍性ないしは客観性を構築する試みであり、自然の一般的秩序を記述する西洋的な物理学に対す
るアンチになっている。
この博士論文から出発して、寺田は次々と日常身辺の様々な対象に考察を広げる。寺田物理学が
「趣味の物理学」や「小屋掛け物理学」と称される所以である。繰り返すが、常識的な観点からす
れば、寺田物理学はきわめて異質で不自然な物理学に思える。しかし、著者の主張に即して言えば、
本当に不自然なのは、寺田物理学を不自然だと判断する私たちの経験の方である。どういうことか。
現代科学は、日常生活の質的直観からは完全に乖離した場所で、実際の知識生産をしている。それ
は、経験科学が、その成立過程において、日常の曖昧模糊とした経験を切り捨て、半ばそれを人工
化する仕方で役立てる術を生み出したことに由来する。しかも、私たちの〈日常的経験〉はすでに、
科学によって〈半ば人工化された経験世界〉にすっかり毒されているとも言われる。寺田物理学が
異質的なものに見えるということ、それは、私たちの経験が科学によってすっかり等質化されてい
るということを意味している。
寺田物理学は、科学によって人工化された経験から、〈日常的経験〉へと撤退する。それは、西
洋的な物理学とは「逆向きの眼差しを一瞬設定してみること」(314頁)によって、そこから閉め
出された〈外部〉を回復する試みにほかならない。著者が寺田に共感の意を示すのはこの点におい
てである。そこでは、西洋的な物理学とは別の自然観が提示される。寺田物理学は、いわば、自然
― 290 ―
金森 修著『科学思想史の哲学』
を複数化してみせる、そういうオルタナティヴである。また、その先にある「日本人の物理学」と
いう企ては、エピステモロジーというフランスに固有の学統を日本において引き受けるという困難
な道のりを歩んだ著者に、重要な霊感を与えるものだったのではないか、という評者の推測を付言
しておきたい。
さて、本稿では、かなり限定的な仕方で、〈科学思想史の哲学〉への接近を試みてきた。書評と
いう書き物の性質を鑑みるに、あまりほめられたものではないのは承知の上で、このような論述形
式をとってきたのには、先述した理由のほかに、著者との個人的な想い出が関係している。私が金
森氏とはじめて出会ったのは、「ベルクソンと災厄:今、『道徳と宗教の二源泉』を読み直す」とい
うシンポジウムでのことだった。2011年秋のことである。『二源泉』の執筆経緯と、3.11以後の日
本という状況を重ねてみると、このシンポジウムは画期的な試みであったと思う。しかし、率直に
言って、当時の私には、3.11以後の日本という時空的限定のなかで、フランスの哲学・思想を引き
受けるということは、それほど自明なものだとは思えなかった。この半ば馬鹿げた違和感のような
ものに対して共感の意を示してくれた哲学者がいた。彼は、今後哲学の道に進むのであれば、その
ことを真剣に考え抜くようにと叱咤激励してくれた。それが私にとっての金森修の原風景である。
本稿で、ベルクソンというフランス人と寺田寅彦という日本人についての論攷に焦点をしぼった
のは、金森氏との邂逅をめぐる一連の想い出に突き動かされてのことである。この個人的な想い出
ゆえに、それなりにオリジナルな読みが提示できていれば幸いである。
(米田 翼)
― 291 ―
渡名 喜庸哲・森元 庸介編著『カタストロフからの哲学 ジャン=ピエール・デュピュイをめぐって』
渡名
喜庸哲・森元
庸介編著
『カタストロフからの哲学 ジャン=ピエール・デュピュイをめぐって』
(以文社、2015 年)
本書は二〇一四年に慶応大学で行われたシンポジウム「ジャン=ピエール・デュピュイの思想圏
―カタストロフ、科学、技術、エコノミー」をベースに書籍化されたものである。発表を行った
渡名喜庸哲、中村大介、森元庸介の論考と、コメンテーターを務めた西谷修の論考が収録されてい
る。『ありえないことが現実になるとき』等で、想像を絶するかたちで到来する破局を思考する仕
方を論じ、また『チェルノブイリ ある哲学者の怒り』等で、すでに起きた破局について論及する
デュピュイの著作は、本邦においては東日本大震災以降、翻訳が立て続けに出版されるとともに脚
光を集め、その意義が問われている。だが本書において、デュピュイの思想が日本を襲った未曾有
の出来事に重点をおいて考察されることはない。『カタストロフからの哲学』とは、すでに破局を
経験している国での、それ以後の哲学という意味合いは薄いようだ。実際、本書において破局は過
去の出来事としてではなく、これから起こる出来事という未来を起点にして論じられるのであり、
それは、各執筆者が考察するところのデュピュイの破局論の性質に起因しているように思われる。
破局論はこれから起こる破局という未来を思考し、その未来から出発して現在を「終局へと雪崩れ
てゆく過程として」
(一五二頁)考察するものなのである。このような破局についての考え方を注釈、
解釈し、その意義を問うことが本書の狙いであるかと思われる。
西谷の序論は、デュピュイがこれまで取り組んできた問題を概観しつつ、その思考のスタイルが
どんなものかを明確に浮かび上がらせている。理工科学校出身で、経済学、認知科学、社会学、政
治学等の多領域を横断するデュピュイの著作は、哲学者のテクストへの論及は乏しく、科学や経済
学の理論への言及や、時事問題の批評、はたまたテクノクラートの談話への言及によって論述が展
開するがゆえに異色とも言える。デュピュイの論述のスタイルを西谷は次のように形容する。「あ
る領域の専門家になるのではなく、参与観察者のようにして、それぞれの学問的領域に踏み込んで
ゆく」
(八頁)。あたかも人類学者のように、その領域の知を観察吟味するのだが、しかし、それ
は、その知に寄り添うためではないと言う。その知の限界、
「その論理を成り立たせている「未来」
の組み込み方そのものの矛盾や限界を、その知の含む社会形成的な役割を見ながら、いわば人間学
的に明らかにする」。このように言って、西谷はデュピュイの仕事の核心に読者を一挙に近づける。
科学・技術の進歩がより良い社会を形成するとしても、その進歩を含んでいる。(原子力産業と原
発事故との関係をみれば分かるように)
。デュピュイは、破局へと至るプロセスの兆しを様々な典
型例を通して提示するのだが、そのとき強調されるのは、科学者、技術者、そしてわれわれは起こ
― 292 ―
渡名 喜庸哲・森元 庸介編著『カタストロフからの哲学 ジャン=ピエール・デュピュイをめぐって』
りうる破局という未来を未だ信じていないということである。西谷は、ここにデピュイの著作を理
解するためのポイントがあると言う。破局を切迫したものと感じ、未来がなくなるという事態にお
いて未来を捉え、この「未来の不在」から出発して、現在時を、それによって未来が不在になる危
機の位相として捉えるのがデュピュイの試みなのであり、そして、それは読者に破局を「「信じさ
せる」ために時間意識を変えることを提案する」ためなのだと西谷は言う(三〇頁)
。ここから推
察されるのは、破局論において時間が論じられるのなら、それは時間意識へのある種の介入という
かたちをとるのではないかということである。
続く渡名喜の論文では、破局論における時間の問題が、破局の捉えがたさを主要な論点において、
考察されることになる。「「カタストロフ」はその「後」から見ればある種の必然的なプロセスに基
づいているとはいえ、その「前」において予期することができない(…)
」
(七〇頁)。破局は、観
察されて初めて、
「可能であった」と理解され、それが生じたプロセスが事後的に検証されるので
あり、それが生じる前は、「ありえないこと」と感じられ、計算、コントロール不可能な「偶然」
に左右されるものと思われる。予測しえない当事者にとって破局は偶然の要因が重なって生じたと
思われるとしても、それが生じてしまえば事後的には必然なのだ。当然ながら、偶然に翻弄されつ
つ必然的に破局に陥る様を描く運命論がデュピュイの破局論ではないのだろう。デュピュイの破局
論の主眼は、この「必然」と想定された未来から翻って、現在を破局へと向かう過程としてとらえ、
それと同時に、この破局(すでに必然であると想定された破局)への道筋を回避する「自由」の糸
口をつかむことなのだ。「運命と自由、必然と偶然の絡み合い」
(七九頁)というイメージによって
主張される破局論の意義とはそのようなものなのだろう。だが、そこには破局の未来を必定とする
と同時に、それを解消可能とするという矛盾をはらんだ主張があるゆえに、破局論が自らの言説を
どのように支えているのかという関心が出てくる。
運命と自由の両立という発想は、時間論という観点から検討されているように思われる。「最悪
の事態を想定し、そこから懐古的に「前未来」に戻り、その時点からさらに最悪な事態が起こら
ないようにする」(八二頁)という試みのうちには、いくつかの時間に関する操作があると言える。
1)破局の可能性が生まれるのは、それが生じた後である。破局の可能性は、未来から考察される。
2)破局を未来に設定し、思考を通じて破局が起きた後の視点から、それ以前の時間(未来にとっ
ての過去)を捉えようとする。未だない「以後」から生じた「以前」へと遡行するかのようにして、
未来の破局の痕跡を現在(未来にとっての過去)に見いだし、破局を回避する。1)可能性は未来
から生じるという考え方、2)未来から過去への遡及という発想のうちに破局論の時間性の問題が
あると思われる。
ただ時間性の議論はそこではまだ終わらないようだ。破局が回避されるためには、破局は必定と
信じられなくてはならない。なぜなら、破局に切迫性、現実性がない限り、破局を生み出すような
要因を探し出す作業はなされないから。破局を解消するための言説は、破局が起こらないことを望
みつつ、この望みを打ち消しながら、それが起こると語るのだろう。ここから破局論における論述
の特色は次のようなものと推察される。1)未来の破局を必然と想定しつつ、それを回避するため
に現在時の自由を認めること。そのとき、破局を語る言説は、自らが語るものの解消を目的として
― 293 ―
渡名 喜庸哲・森元 庸介編著『カタストロフからの哲学 ジャン=ピエール・デュピュイをめぐって』
いる。2)もし破局論が破局論であるならば、破局は、避けられなくてはならないにもかかわらず、
不可避でなければならない。このように、破局論は自らの言説の目的を打ち消すことによって成り
たっているのである、以上を時間という観点からパラフレーズすると、1)想定された未来から現
在(未来にとっての過去)へと遡行する。それは出発点となる未来の破局を不在にするためである。
2)しかし破局の未来は不在であってはならない。デュピュイの考え方に則れば、破局という未来
がなければ、破局へと至る可能性も生じえないし、破局へと至るプロセスも思い描かれることはな
いのである。つづく中村の論考では破局論における時間の問題がシステム論を背景にして論及され
るのだが、そこでデュピュイにおける時間論が、時間意識への介入の問題としてクリアにされてゆ
くように思われる。
破局論、そしてその時間論の背景には「偶然性やノイズから秩序が創発する」ようなシステムの
形成過程についての考えがあると中村は言う。偶発的な出来事によって形態に劇的な変化が生まれ、
生命が複雑化の過程をとるとき、それは何らの法則性も持たないように見える。しかし、観察者の
視点および時間(物語コード)を導入すると、そのつど、生成段階における諸階層の変遷を、シス
テムを形成するプロセスとして見ることができる。この「外部観察者」の水準こそが破局論におけ
る時間の問題を理解する鍵になると中村は強調する。この観察者は少なくとも二つの時点での段階
を関係づけねばならず、破局論においては、それは破局の未来とその過去ということになるのだろ
う。ノイズに対応した何らかの秩序が形成されると観察されるとしたら、それは観察者が秩序が形
成された未来の観点から見ることによる。「過去は予測された未来に規定され、そこから意味を受
け取る」と同時に「当の未来はその意味に反応した過去が因果的に生み出すものに他ならない」
(一二〇頁)と中村は言う。このような時間が意義を持つのは、通常の時間(デュピュイが「歴史
の時間」と呼ぶもの)というものを想定し、それと比べる限りにおいてであると思われる。通常、
「現在の行動は過去に影響を及ぼさない」、
「現在の行動は未来に対して影響を及ぼす」(一一五頁)
と考える。しかし破局論は、過去を変更できるとするし、未来は固定され既に決まっているとも考
える。すでに見たように、破局論は、未来を必然と見なしつつも、過去(未来にとっての過去とい
う限定された意味での過去)を変更可能とみなすのだが、この変更の可能性は、破局が回避されず
に必ず起こると考えられる限りにおいてなのである。これが「破局論のパラドックス」であるとさ
れる。
このパラドックスは、時間に対する二重の操作によって成り立っているように思われる。1)ま
ず破局の未来を必定と想定する。それによって破局を生み出す可能性が過去に生じる。この過去、
未来から見られた過去こそが、観察者が身を置く現在であり(たとえ、その視線が未来から過去へ
と注がれるものとして想定されるのだとしても)
、この現在において観察者は破局の可能性を、そ
れを回避するために、調査するのである。こうして破局論は、過去→未来という不可逆性を括弧入
れし、過去の修正、破局からの「救済」を想定する。2)しかし破局が回避されるためには、
「そ
れは必ず起こる」として破局の到来が動かしがたいものとして信じられなければならない。こうし
て1)で肯定された救済のための時間が括弧入れされる。ここで気づくのは、救済されないものを
必要としている破局論の構造である。
― 294 ―
渡名 喜庸哲・森元 庸介編著『カタストロフからの哲学 ジャン=ピエール・デュピュイをめぐって』
デュピュイの破局論において、すでに起きた破局というものは問題になりえないのではないかと
冒頭で述べた。想定された破局とともに自らの死、他者の死を考えるとしても、破局論は、その破
局を回避するための思考法である。破局の犠牲者は、「救済」されねばならず、それゆえ救済され
ざる者は問題になりえないといえる。たが、今見たように、破局論は破局論であるかぎり救済の不
在という可能性を前提としているとも思われるのだ。
破局論はすでに起きた破局と無関係であると考えることはできない。デュピュイはすでに起きた
破局がアポカリプスという未来を書き込むとも述べていた(
『聖なるものの刻印』邦訳二八五頁)。
ここから、未来は過去から読み解かれるとも言えのではないだろうか。たとえば、チェルノブイリ
の大惨事に基因する死者数を公式総括が切り詰めることによって「死者を隠す」ことにデュピュイ
は憤慨していた。またデュピュイが原爆を必要悪として「合理的」判断において捉える言説(戦争
を早く終わらせるため、抑止力になるため)を批判するとき、問題になるのは核による破局の脅威
が信じられていないということである。修正される危機にある過去から破局を読み取ることも破局
論のひとつの仕事なのであろう。いずれにせよ、破局論において、救済の不在という過去の位相も
また重要な役割をなしているように思われるのである。この救済の不在についての解釈が「選別」
という観点から試みられるのが森元の論文である。
まず冒頭で一挙に、破局論は「救済の可能性を描き出す」ものであると同時に、この破局論の中
心には救われない可能性があることが明確にされる。森元によれば、破局というものを考えるとき、
その破局は他者に属する事柄であり、それを考える者はすでにして「救われた者」だと言う(一五三
頁)
。そして森元は次のように言う。「ついに救われずに打ち捨てられるだろう者たちの存在は、考
えているわたくしたちの意識の閾下に沈んでいるかもしれない」
。救われない他者、救済が不在で
あった過去というものは、破局論においては問題になりえないということなのだろうか。それはな
ぜか。破局を語る観察者は、破局を自らの前方に位置づけ、破局へといたるプロセスの中に自らを
位置づける。であるなら、回避されずに破局にいたる人、破局の犠牲者とは過去の人々、他者たち
ではない。それは「私」ないし「われわれ」なのだ。デュピュイは次のように言っていた。「賢明
な破局論とは、心のうちではわれわれ自身が自分たちに起こることの唯一の原因だと思いながら、
あたかもわれわれが運命の犠牲者であるかのようにみなすという、ひとつの奸計である」(
『聖なる
ものの刻印』邦訳七〇頁)。破局論が語る犠牲者とは、「われわれ」自身なのであり、破局論は「わ
れわれ」を救うために、破局の未来を想定するのである。結局のところ、破局論における救済の不
在の位相にあるのは「われわれ」なのであり、また救済されるのも「われわれ」なのだ。
興味深いのは、森元がこの救済の不在の問題を、救われる者/救われない者という選別の問題を
起点にして論じている点である。なぜ、私が救われ、他者は救われなかったのか。あるいは、「わ
れわれ」のうち、誰が救われ誰が救われないのか。このように救済を問う破局論のうちに犠牲の問
題が含まれていることが示唆されるのだが、しかし森元は、犠牲の選別についての問いは、デュピ
ュイにおいて生じえないと言う。森元は、デュピュイが好む「良きサマリア人」のたとえを引きつ
つ、救うべき隣人についてえり好みしないような人間というものを思い出させる。苦しむ者が誰で
あろうとそれを救うべきであり、苦しむ者を前にしたら、誰でもそれを救わなければならない。「誰
― 295 ―
渡名 喜庸哲・森元 庸介編著『カタストロフからの哲学 ジャン=ピエール・デュピュイをめぐって』
が愛すべき隣人であるのかをあらかじめ決めることなどできない」(一七九頁)。救われる者も救う
者も「誰でもよい」。ここから、破局論における主体性の問題は未規定性のうちにあるとも思われ
るのだが、この未規定性が破局論の時間性の特徴の一つを明らかにするように思われる。いつ誰が
誰によって救われるのか分からないという意味での未来の未知性、それが「未来の不在」と表裏一
体をなすということである。
(本間 義啓)
― 296 ―
林 洋輔著『デカルト哲学と身体教育』
林
洋輔著
『デカルト哲学と身体教育』
(道和書院、2014 年)
本書はデカルトの哲学を教育、それもとりわけ身体教育の側面から読み直そうという研究書であ
る。本書は林洋輔氏が筑波大学へ提出した博士(体育科学)学位請求論文「デカルト哲学における
『身体教育』への指標̶心身関係論を機軸として̶」をもとに、
「大幅に圧縮し、改稿した」
(269頁)
ものであるが、その狙いは、体育哲学分野において主にその「心身二元論」を理由に常に批判され
るべきものとして位置付けられてきたデカルト哲学の心身関係論について、デカルトの原典を改め
て読み直すことによって再考を促し、改めて体育哲学の基礎を捉え直そうというものである。著者
は日本体育学会浅田学術奨励賞を受賞するなど、新進気鋭の体育・スポーツ哲学研究者であり、デ
カルト哲学研究者であるが、著者の狙いは、体育哲学分野における心身関係論の諸前提の問い直し
に留まらず、体育哲学、身体教育の視点からデカルト哲学の読み直しをも図ろうというものである。
すなわち、従来も盛んに研究されてきたような「心身の実在的区別」および「心身の合一」
(45頁)
に関わるデカルトの心身関係論を体育哲学の先行研究とそこから浮かび上がる課題と結びつけて改
めて精査し論じるだけでなく、教育哲学の観点から、デカルトの教育論および身体論に関わるテキ
ストを分析し、そこからデカルト哲学において教育論、さらには「身体教育(体育)論」(iv 頁)
を描くことができないかと著者は企てる。著者の言を借りれば、このような検討を通して、<デカ
ルト哲学における身体教育論の成立可能性>(3頁)を明らかにすることが本書の最終目標である
とされる。
本書は著者による要を得て簡潔、また同時に網羅的な先行研究の整理に一つの長所があり、教育
学、さらには体育哲学に関して完全に門外漢である評者にも、当該分野の現在の研究状況および喫
緊の課題について学ぶことができた。とはいうものの、本書は体育哲学の基礎に関わる諸問題を扱
うものであるため、門外漢である評者には身体教育論の研究分野における本書の意義については十
分に評することができない。したがって、以下では主にあくまで哲学研究の視点から、限定的に本
書を追っていくということにしたい。
デカルトには主に教育を主題として論じた著作はなく、また「教育論」と呼べるような纏まった
論考も存在しない。著者が指摘するように、主著の一つと言える『哲学原理』が当時のスコラ哲学
の教科書に代わるものとして当時の教育機関において用いられる意図で書かれたことから間接的に
推測することや、様々な著作に散見される教育学的に解釈しうる主張をつなぎ合わせて再構成する
しか、デカルトにおいて「教育論」を語る手段はない。その意味で、デカルト哲学において「教育
論」の成立可能性を探ろうとする著者の試みは挑戦的で野心的だと言える。また、それでも、デカ
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林 洋輔著『デカルト哲学と身体教育』
ルトの「教育論」に関しては、著者の先行研究整理に見られるように、すでに Perkinson や Garber
などが部分的に論じているが、著者がその可能性を探ろうとするのはとりわけ「身体」教育論であ
り、よりいっそう困難な課題であると言える。
しかしその一方で、例えば初期に書かれた『精神指導の規則』からしてすでに「精神を導くこと」
が述べられる通り、自己の判断力を磨いたり、精神を修練したりといった、いわば「教育」的な論
点が常にデカルト哲学に存在し、それがデカルトの哲学体系とおそらく密接に関わっていることは
確かである。著者は、こうしたデカルトの、著者の言を借りれば「自己教育」のモチーフは先行研
究においてすでに確認されたものとして、さらに一歩を進める。すなわち、教育の対象は心身合一
体としての主体であり、「主体の実生活を舞台としてデカルト哲学に対する教育論的接近が検討さ
れるならば」
(25頁)、他者との関係に着目したデカルトに対する教育論的な検討がなされるべき
であり、
「デカルト哲学における教育論の実質は自己教育に留まるものではない」(同上)とするも
のである。つまり、著者は自己の修練という事態を越えて、他者との関係に基づく教育論をデカル
ト哲学の中に、とりわけエリザベト宛書簡や『情念論』を通して見出そうと試みる。
したがって、著者の試みは二重に挑戦的であり、従来の教育哲学やデカルト研究に対し、(i)他
者との関係を通じた、
(ii)「身体」教育論をデカルト哲学の中に見出そうとするものであり、しか
もそれを事象中心の研究ではなく、デカルトのテキストの読解を通じて描き出そうとする点に本書
の特徴がある。限られた紙幅では著者の議論を詳細に提示することはできないが、以下、その概要
を簡単にではあるが見て行きたい。
序章では上述した本書の問題設定について論じられる。体育哲学分野においては「体育の場にお
ける主体が拠って立つべき心身関係の前提」をめぐる議論が続けられており、そこでしばしば安易
に批判され続けてきたデカルトの「心身二元論」を再考する要請が、体育哲学の研究史においても
現在求められている旨が論じられる。また、デカルト哲学への教育論的接近に関して先行研究が丁
寧に検討され、自己教育という論点の下での研究の蓄積は見られるが、他者が介在する教育という
論点は十分に考えられていないこと、また身体教育という論点に関してはそれが成立しないと論じ
る論者に対してデカルトの心身関係論に対する無理解が批判され、デカルトのテキストを読み直す
ことから改めて身体教育論の成立可能性を問わねばならない旨が論じられる。
第一章では、従来の教育学の先行研究において、デカルトの心身観が不当に理解されてきた背景
を踏まえ、デカルト哲学における心身関係論が改めて検討される。永遠真理も神が創造したとする
デカルトのいわゆる「永遠真理創造説」がデカルトの形而上学および自然学の「根本に位置する」
(34頁)ものであることが論じられ、『哲学原理』のテキストを引き合いに出しながら、主体の心
身関係においてもこの説が基盤にあると論じられる(36-39頁)。次いで、従来の教育学による安
易なデカルトの「心身二元論」批判が批判され、「精神と身体が実体として密接な結合を果たす」
、
「実体の合一」
(49頁)がデカルトにおいて思索されており、このことを踏まえる必要性が論じら
れる。続いて、心身相関について検討がなされ、批判されがちである精神と身体の因果関係も、物
理的因果性と異なる心的因果性について考察することによって肯定的に論じられる。また、主体に
おいて感覚が生じるのは「実体の合一」および「心身の合一」(84頁)を前提とする場合のみであ
― 298 ―
林 洋輔著『デカルト哲学と身体教育』
ることから、主体の実生活を基盤とした身体教育においても、この「実体の合一」および「心身の
合一」がその理論的前提とならねばならない(84頁)ことが論じられる。
次に、第二章では、デカルト哲学の身体教育における展開可能性を論じる前提として必要な、デ
カルトの身体観に関する自然学的な説明が試みられる。デカルト哲学における身体観について、身
体の性質である「可分性」
「形状性」「運動性」という各観点から検討していくという、著者が教育
哲学研究者である佐藤臣彦氏から引き継ぐ「カテゴリー論的方法」
(113頁)を用い、主に『哲学
原理』や『世界論』、『人間論』等に依拠しながら、自然学的なデカルトの身体観について改めて検
討していく。等質的な物質からなるデカルトの自然説明から論じ始められ、人間の身体においても
その機械論的な説明が徹底されていることを、身体を巡る動物精気や熱機関として捉えられる心臓
の説明、また身体の発生の問題を通して明らかにし、またこうした自然の様々な運動が主体の感覚
を生じさせることが、物体の「向感覚性」(168頁)の名の下に説明される。
第三章は、いよいよ本書の課題である、デカルト哲学における身体教育論の展開可能性が論じら
れる。最も著者独自な議論を展開している部分はこの第三章と言え、本書の中心部と言ってよいだ
ろう。教育の目的が被教育者における「善の獲得」にあるという教育思想史の知見を用いながら
(190頁)
、身体の修練を行うことを通じて力や器用さなどの「身体の完全性」を自らのうちに感得
し、そのことによって満足を得ることができるとの『情念論』の記述から(197頁)
、
「身体の完全
性」も善の一つであり、したがってデカルトにおける「身体教育の目標」を、善としての「身体の
完全性」の獲得であると論じる(同上)。続いて、情念を引き起こす外的な諸対象が「他者」であ
るという著者の解釈を通して、そのような身体教育論は他者の介在のもとで成立するという見解が
示される(206頁)。次いで、「情念の統制による身体運動の改変」(217頁)が論じられる。これ
は例えば、戦場を前にし、恐怖の情念により足がすくんでしまう、といった事態に対して、武勲に
より得られる名誉を考えること等により、そうした身体の構えを別様にすることによって説明され
る。最後に、著者は『情念論』における「感謝」の情念に注目する。というのも、「
「感謝」を感じ
た他者への報いとしての行動は「善」を求める欲望を伴うものであり、その行動の実質には「善」
である「身体の完全性」を求めることも含まれてよいからである」
(251頁)。著者は「感謝」の情
念に、主体が他者との交わりのなかで任意の身体運動を習得する際のきわめて重要な位置を与える
(同上)
。
以上、概括的に纏めるならば、第一章が心身関係論についての基礎研究、第二章がデカルトの自
然哲学を背景とした身体観の分析、そして第三章がそれまでの議論を承けてデカルト哲学における
身体教育論の成立可能性を探る論考、と概括することができるであろう。最後に、若干のコメント
を付しておきたい。
1)まず第一章のデカルトの心身関係論に関して、永遠真理創造説がその根底にあることが述べ
られているが、この説に関しては様々な解釈がありうるし、身体教育論ということで心身関係論は
最も重要な主題であると思われるので、この解釈の妥当性に関して先行研究のより詳細な検討およ
び批判も含めた、その根拠付けに関してのより展開した議論の必要性を感じた。また、著者は著者
の言葉でいう「実体の合一」と「心身の合一」を区別しているように思われるが(2つの心身観と
― 299 ―
林 洋輔著『デカルト哲学と身体教育』
いう言い方もなされる(84頁))、このことについてはもう少し記述が欲しかった。
2)著者は身体教育について、「身体を通じた教育的な働きかけ̶言うなら身体を通じた主体の
育成̶」と規定しているが(本書206-207頁)、本書で主に『情念論』の分析を通して著者が提出
しているのは情念の統御を通じた身体の(習慣の)育成であり、例えば本書でデカルトも例えに出
すものとして引き合いに出される、フェンシングやテニスの修練を典型とするような身体教育と同
等視できるのだろうか。特定の身体動作を、身体動作自体の修練によってより洗練させていくのが
狭い意味での身体教育ではないのかと門外漢の評者には思われる。著者が分析している『情念論』
での情念の統御は、情念が主体に起こった際に別の対象を思考するなど、精神の努力を通して対象
と情念の結びつけを変更しようという行いであって、その結果としてその情念に結びついた特定の
身体動作へと対象の関連付けが変わるという話である。すなわち、精神の努力によって身体習慣の
変更を促すような教育、つまり精神から身体へ働きかける教育であって、著者の身体教育の規定で
あるところの「身体を通じた主体の育成」とは言えないのではないか、という印象を抱いた。情動
教育と身体教育を関連させることは興味深い論点ではあるが、デカルト哲学での記述と、実際の身
体教育実践をもう少し関連付ける必要があるのではないだろうか。
3)「
[感覚を動かす]対象(objet)がわれわれを害したり益したりしうる多様な仕方」
(AT XI,
372)という『情念論』のテキストにおける「対象」を、
「主体と利害関係のある<他者>」(本書
206頁)と読む著者の解釈は非常に大胆な解釈だと言えるが、そのテキスト解釈には若干の困難が
あると評者には思われた。ここは運動によって感覚を刺激するような、あくまで身体に関わるよう
な対象が問題になっていると通常解釈されるであろう箇所だからである。ただし、『情念論』にお
いてデカルトが、著者の挙げる「愛」や「感謝」の情念に代表されるように「他者」を織り込んで
議論を展開していたことは疑いなく、他者との情動の関係が主体の育成においてデカルトの念頭に
あったとする著者の議論展開は十分に妥当でありうるし、非常に示唆に富むものである。
概括すると、前述したように、デカルトの哲学において自己の修練、著者の言葉で言えば「自己
教育」が重要な役割の一つを果たしていることはもはや定説と言ってもよく、待たれる研究はデカ
ルトの哲学体系と自己の修練が具体的にどのように関わっているかについてのより精細な分析だと
思われるが、本書の研究はその自己の修練を他者関係にも拡張し、また一般にデカルトの自己修練
ということで考えられている精神的な修練だけでなく身体の修練をデカルト哲学において考察しよ
うという、著者の丁寧で明晰な先行研究整理から導かれるきわめて野心的でかつ挑戦的な論考であ
ると言える。本書の意義は、まず、教育哲学の専門家から、デカルトの身体教育論に関して、おそ
らく初めて本格的な構築が試みられた、という先駆性にあろう。デカルトの教育論的モチーフや自
己の修練という事柄に関して、教育学の議論的枠組や先行研究からアプローチできることは、大き
なメリットであろう。評者も学ぶところ大であった。また、学校科目としての「体育」における、
跳び箱や鉄棒などを用いつつ特定の身体運動の習得および向上を目指す狭義の身体教育だけでなく、
情念の統御の仕方の習得や、それによる運動能力の向上および生活の質的向上を目指す広義の身体
教育というものが考えられ、かつデカルト哲学においてその可能性が思考されうるならば、その試
みはきわめて挑戦的であり、テキスト研究だけではない事象の研究としての哲学研究への展開可能
― 300 ―
林 洋輔著『デカルト哲学と身体教育』
性も豊かに含んだ論考であると言える。本書では哲学史研究としてテキストにできるだけ寄り添お
うという著者の姿勢が見られたが、具体的な身体教育実践をデカルト哲学と関係させて構築してい
くような、著者の向後の研究への期待を感じさせる。
(今井 悠介)
― 301 ―
大崎 博著『ベルクソンの道徳・宗教論』
大崎
博著
『ベルクソンの道徳・宗教論』
(成隆出版、2015 年)
ベルクソンの道徳論と宗教論を、特に『創造的進化』と『道徳と宗教の二源泉』に重点を置いて
検討した著作である。その際著者は『二源泉』に至るまでの講義録などからもベルクソンの考察の
歩みを丁寧に跡付けている。もちろん、それにとどまることなく、ベルクソンの思想全体、さらに
は彼を取り巻く古今の哲学史にも広範囲に目配りして、意欲的にベルクソン解釈を展開している。
序文でまず著者は、純粋に思弁的に考察する形而上学の伝統全体を批判し、経験に基づいて事象
そのものの具体的な屈曲に寄り添おうとするベルクソンの、方法論上の特徴を強調している。ベル
クソンが把握しようとしている意識の持続、運動、生命のエランといった実在は、知性や概念によ
っては把握不可能であるが、しかしながら言語表現以前のカオス状態にある実在でもない。ベルク
ソンは実在を静態的にとらえるのではなく、その生成変化をそのものとして把握しようとしている
のである。
著者はこのようなベルクソンの思考法を発生論的(génétique)方法と名付ける。『創造的進化』
において生命の起源から出発して、生命そのものに内在する力として進化を規定したベルクソンは、
『二源泉』においては道徳と宗教を発生的起源に向って遡源していき、起源として創設した原型的
なモデルを構想している。著者は、『二源泉』においてベルクソンが、問題全体を発生の視座から
検討しようという姿勢をとっているのであり、発生の起源から見た道徳と宗教の本性を記述してい
る、と主張する。そこで明らかになるのは、道徳現象の発生論的地盤である。倫理・道徳の基盤は
理性的秩序の中にあるのではなく、我々が生を共同で営んでいる日常的な生活世界にあるのであり、
そこでは非体系的な知、言わば生きられる知として経験的に習得された道徳現象が生成消滅を繰り
返している。そこには既に非顕在的な生きられる原理が存在しているのである。著者はここで、ベ
ルクソンが理性主義・主知主義的な道徳論ではなく、情動の重要性に着目している点に注意を喚起
する。ベルクソンにおいては閉じた道徳の持っている禁止と拘束の力と開いた道徳の持っている創
造と熱望の力とが道徳的行為を生み出す原動力であり、これらを駆動している情動が道徳を前へと
推し進めていくのである。
第2章は、これらの発生論的方法が社会的責務の起源解明に適用されるプロセスの分析に充てら
れている。責務とは従前の道徳論が試みてきたように合理的要素に解消しうるものではなく、生命
の必然による生命論的な秩序に属するものである。ベルクソンは、社会的責務を、主体性を持った
個人がエゴイズムに陥るのを防ぐためにその自由に制限を加えて拘束するためのもの、とは考えな
い。むしろ自我の内に胚胎した社会性、社会的自我こそが個々人を自分自身へと結びつけ、我々
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大崎 博著『ベルクソンの道徳・宗教論』
が安定して我々自身であることを可能にするのである。このようなベルクソンの道徳観を、著者
は「習慣・責務・成員・社会は全て生命論的秩序によって結び付けられている」と概括する。著者
は閉じた道徳という概念を、現在の社会から一層単純な原始的な社会まで発生論的に遡行して、道
徳と社会の関係が自然な形で見出される状態を仮構し、そこから構想されてきたものである、と解
釈する。そして、現実の道徳の大半は発生論的に閉じた道徳という特性を刻印されているのであり、
この道徳が道徳たる限り持つ発生論的必然性がベルクソンによる道徳批判の最も重要な論点である、
と位置付ける。
著者が強調するこの「発生論的」な性質とは、では、開いた道徳にも適用されるものなのだろう
か。著者は開いた道徳の源泉を、次のように概観する。それは生命の産出力そのものからやって来
るのであり、種々に分化するもとの生命はすべてに共通した産出的な力としてのエランである。す
べての個々人へと絶対的に開いた道徳精神は、生命の基にあるその「本源の力」との接触によって
汲み出されるものである。この本源の創造的な生のエランは能産的自然、母なる自然である。確か
に、開いた道徳とは既に完成した実体として我々の観察・分析に供されるようなものではなく、理
念的に構想された極限であるとされている。それは、特権的な個人によってのみ創造されうる極致
ではあるが、その個人は生の根源からエネルギーを汲み取る、いやむしろ、生そのものがある個人
を通じて限界を突破し、全く新しい段階へと進化を遂げるのである。では、このような生の根源的
エネルギーを、ベルクソンは「発生論的」に把握している、と著者は考えているのだろうか。それ
とも、発生論的制約は閉じた道徳のみをその淵源から規定しているのであろうか。著者は閉じた道
徳と開いた道徳とを、現実の道徳の可能性を二つの異なる方向に極限状態まで延長した純粋概念と
して一体的に捉えており、著者の主張するベルクソンの発生論的方法論もまたその全体に関わるも
のと考えている。しかし一方で、開いた道徳とは発生論的必然性を突破したところで初めて可能に
なるものとも解釈しているようにも見え、その位置づけはそれほど明瞭ではないように思われる。
これは、筆者の言う発生が時間的に遡った種の進化の始源を意味するのか、個々の生命に内在する
潜在的エネルギーを指すのか、評者には測りかねるからである。
第3章は静的宗教に充てられている。先にベルクソンが道徳的責務の起源に遡源して創設した解
釈モデルを分析した著者は、ここでは同じ方法を宗教の本性に援用する。そしてベルクソンと共に、
宗教の起源を経験的諸事実に基づいて原始社会の心性にまで遡る。その起源にあるのは、我々自身
の精神の底に流れている、進化の過程を通じて変わらない原始心性である。著者は『創造的進化』
における生のエランによって進化の系列の末端にヒトとして分化した生命、その進化の先に静的宗
教による仮構機能を位置づける。生命と物質を自己の持続の内に包摂し、内的な自己産出能力を持
った有機的存在たる自然が、防御反応として、生命論的に必要不可欠なものとして宗教を生み出し
たのである。
最後に第4章では開かれた宗教の先端にある神秘主義へと進む。生命の進化の流れの内で知性の
出現に伴って、謂わば出現してくるべくして出現してきた宗教は、しかし、動的宗教という全く新
しい段階に至る。著者はここで、ベルクソンの宗教論が議論の根拠づけに常に立ち戻って来ると
ころとして、
『創造的進化』に再び我々の注意を向けさせる。人間という種におけるエランの停滞、
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大崎 博著『ベルクソンの道徳・宗教論』
エランの自由な創造的展開は『創造的進化』の論理そのものであり、動的宗教の本性は『創造的進
化』のエランの観念に重ねられているのである。もっとも、『創造的進化』における神は「不断の
生命であり、行動であり、自由である」もの、存在する全てのものがそこから生まれてくるような
源泉、連続的湧出の働きであるのに対して、『二源泉』の神は、そのような生命の創造作用の源泉
としての神であると同時に、現在も生きて働いている力、永遠に万象と共にある神、愛である神で
ある。さらにそれは、自己意識的な人格神であり、超越神である。ここでもまた、著者が「発生」
の語を進化の始点からの連続的変化の意で用いるのか、それとも現在も常に再創造し続けるダイナ
ミックな生の働きの意味で用いるのかによって、著者の言う発生論と動的宗教の関係は多様に解釈
され得よう。またそれは、静的宗教と動的宗教を一体的なモデルの両端に位置づけるのか、それと
も両者の間の根源的な断絶・飛躍にこそベルクソンの宗教論の本質を読み取るのか、というベルク
ソン解釈の行方にも関わってくることになるだろう。
ともあれ、粘り強くテキストに寄り添い、丁寧に解説する姿勢から、著者のベルクソン哲学に対
する深い愛情を感じさせる著作であった。
また、巻末に付された23ページにもわたるベルクソン研究関連の文献一覧は大変参考になった。
(並べ方に筆者のどのような意図が込められているのかは不明だが。)あらためて振り返ってみると、
ベルクソン哲学はパスカルやカントなどの先行する思想史の中に位置づけられ、またデュルケムや
ジェームズ、九鬼周造などの同時代人と比較され、さらにはハイデガーやマルセル、レヴィ=スト
ロースなどに与えた影響の面から評価され、シュンペーターやアインシュタインといった多様な分
野との関係の中で検討されてきた。また、哲学の分野にとどまらず、医学・生理学、宗教学、仏教、
言語学、文学、美学などの広範囲な領域にわたった研究がなされて来ており、戦後の日本における
豊饒なベルクソン研究の積み重ねに今更ながら感慨を深くした。また外国語文献は20世紀以来の
広範囲な書誌情報が挙げられており、ベルクソン研究を志す読者にとって親切な配慮がなされてい
る。
(小関 彩子)
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福居 純著『デカルトの誤謬論と自由』
福居
純著
『デカルトの誤謬論と自由』
(知泉書院、2014 年)
デカルトの自由論には、『省察』と『哲学原理』の二つの著作のあいだに一見したところ矛盾と
もみられる差異がある。福居純による本書『デカルトの誤謬論と自由』は、両著作のこの差異を、
誤謬論と自由に関する両著作の論証法の差異に帰着させることによって、それらが矛盾ではないこ
とを示そうとするものである。
著者自身によれば、この著作は「デカルトの誤謬論と自由概念に関して、同じ形而上学的著作で
ある『省察』と『哲学原理』
(第一部)との記述を比較検討したもの」(p. 181) である。このような
比較検討を筆者が行なうことになった動機は、著者の『デカルトの「観念」論―『省察』読解入門』
( 知泉書館、2005年 ) に対する小林道夫による書評 (「フランス哲学・思想研究」第11号、2006年 )
中の指摘であるという。そこで小林は次のように指摘している。
「『省察』では、神の存在証明が出
現した後は、「非決定の自由」は「不決定」ということであって、精神の弱さを証するものとして
消極的に解される。しかし、
『哲学原理』では、同じ「非決定の自由」が、神の存在証明、および
その後の明証性の規則の定立の後において、全面的に肯定されている。この点を筆者はどう解する
のか。」この指摘によって小林が筆者に解決を促している問題は、デカルト哲学の解釈上、非常に
有名な問題の一つである。本書を紹介するにあたって、この問題を簡単にまとめたうえで、その解
釈史についても最小限見ておきたい。それが、本書の独自性を示すのに役立つであろうからである。
まず、デカルトが言うところの意志の自由には、二つの種類のものがある。第一に、自発性
(spons, spontaneité) の自由である(本書では「内発的同意の自由」と呼ばれているので、以後はそ
れにならう)
。これは、何らかの決定や判断を行う際に、内発的な何らかの傾向性(たとえば、明
証知に対する同意の傾向性)のみにしたがい、外部からは何らの強制も受けていないことを特徴と
するような自由である。第二に、非決定 (indifferentia, indifférence) の自由である。こちらは、何ら
かの決定や判断の際に、自分の内部の傾向性も含め、何によっても傾向づけられることなく決定あ
るいは判断できるという自由である。次に、問題となるのは、後者の自由、非決定の自由が、デカ
ルトの懐疑においてどのような位置を占めるかについて、1641年の『省察』と1644年の『哲学原
理』では、少なくともその記述の仕方において明らかな相違があり、一見したところ矛盾している
ように思われる、ということである。すなわち、
『省察』においては、神の存在とともにその神が
欺瞞者ではないということが明らかとなった後では、われわれは明晰判明な認識に信をおくこと
ができる(真理の基準としての「明証性の規則」)ので、重要なのは「内発的同意の自由」である。
他方の非決定の自由は「もっとも低い段階の自由」として消極的にしか評価されない。しかし、
『哲
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福居 純著『デカルトの誤謬論と自由』
学原理』では、神の存在証明がなされ明証性の規則が確立された後でも、
「われわれが多くのことに、
意のままに、同意することも同意しないこともできるということは、きわめて明白である」(『哲学
原理』第1部第39節)とされ、非決定の自由がいまだ積極的に評価されているのである。
この問題への解釈として古典的に名高いのは、ジルソンによるデカルトの立場を「神学的折衷主
義」であるとするものである。すなわち、『省察』を著わした際のデカルトは、アウグスティヌス
主義をとるジビューフの見解に同調し、
「非決定の自由」に重点を置くモリナ主義の思想に反対し
ていたので、
「内発的同意の自由」の重要性を強調した。それに対し、『哲学の原理』はイエズス会
の学校における教科書となるべく書かれたものであるから、この会派の重視する「無差別の自由」
が賞揚されることになった、というのである。
ジルソンのこのような見解に対しては、さまざまな反論がなされてきたが、デカルト研究の大家
であるアルキエやゲルーも、ジルソンとは異なった解釈を提出している。アルキエは『省察』と『哲
学原理』のあいだにデカルトの人間理解が深まり、自由の概念も変化した、と考える。また、ゲル
ーは、
『省察』以降選択する能力、つまり非決定の自由として、デカルトの自由の概念は一貫して
いるとする。しかし、形而上学的真理を示すことを目的とする『省察』では「内発的同意の自由」
が強調され、自然学者に偏見を捨て去らせることを目的とする『哲学原理』では、少しでも疑わし
いものに同意しないという「非決定の自由」が強調されるのだ、とする。もちろん、日本でもこの
問題はデカルト研究者たちによって取り組まれている。筆者にこの問題を指摘した小林は『哲学原
理』の後で書かれた書簡を援用して、真理や善の認識を欠いているという消極的な非決定と、二
つの相反する事柄の一方に決定するという意味での積極的な非決定を区別し、『省察』で「最低段
階の自由」とされているのは前者であるとしている(『デカルト哲学の体系』
、勁草書房、1995年)。
また、本書と同年には、大西克智による『意志と自由―一つの系譜学―』( 知泉書館、2014年 )
が出版されている。この著作では、この問題そのものを「ジルソンの呪縛」とし、アウグスティヌ
ス以降の自由意志論を掘り返すことによって、デカルトがジルソンの考えたような枠組みでは考え
ていなかったことを示すという野心的な企てがなされている。
では本書は、
「内発的同意の自由」と「非決定の自由」をめぐるデカルト解釈の問題に、どのよ
うな解答を示そうとするのか。筆者は「あとがき」で次のように言う。
「デカルトの〈自由〉概念
に関する『省察』ならびに『哲学原理』に内在する固有の論理を追求しようとする著者の立場から
すれば、ジルソンの神学論争にかかわるこの考証は外面的なもののように思われたため、触れない
でおくことにした」(pp. 182-183)。ここで著者がはっきりと言っているように、本書では、デカル
トの両著作それぞれにおける「固有の論理」をたどっていくことで、問題を解決する試みがなされ
る。そのため、本書ではデカルトの受けた思想史的な影響について語られることはないし、他のデ
カルト研究者の解釈への言及もごく少ない。デカルトのテキストの丁寧な解釈とその内在的論理の
探究がただひたすらなされていく。
では、
『省察』と『哲学原理』の固有の論理とは何か。第一章「はじめに」で、まず『省察』に
ついて著者は、デカルトの書簡から引用したうえで「『省察』を読むに当ってもっとも肝心なことは、
それが「理由[根拠、推理]の秩序」に依拠して書かれている、ということに注目することである」
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福居 純著『デカルトの誤謬論と自由』
(p. 6) と述べる。「理由[根拠、推理]の秩序」とは、最初に提示されるものがいかなる後続のもの
の助けもまたずに認識され、それ以外のすべてのものがただ先行するものによってのみ論証される
ように配列することである。それに対して『哲学原理』は、
「題材の秩序」に従っている、と著者
は言う。著者はさらにこれを言い換えて、『省察』が「分析」的な真理の発見の道に従うのに対し、
『哲学原理』は「綜合」的に自らの体系を語っている、としている。そして、この論証法の違いが、
両著作の自由についての取り扱いの違いを生んでいる、と言うのである。
その論証法の違いは、論述の順序のどのような相違として現われるか。著者はそれがデカルトの
誤謬論とデカルトは、誤謬とは知性の認識する範囲を超えて意志が肯定ないし否定を行なうことに
起因すると考える。言ってみれば、意志が自由であるがゆえに誤謬が存在するのであり、その意味
でデカルトの誤謬論と自由論は関係している。その誤謬論は、一方の『省察』では私のもつ神の観
念という結果からのア・ポステリオリな神の存在証明の後、ア・プリオリな神の存在証明(いわゆ
る「存在論的証明」)の前に置かれ、いわば二つの神の存在証明に挟まれている。他方、
『哲学原理』
ではア・プリオリな証明が論じられた後すぐにア・ポステリオリな証明が続き、誤謬論はその後に
位置付けられている。著者はここに両著作の自由論の差異を見ることになる。
第二章「
「第四省察」の誤謬論と自由」では、『省察』の誤謬論が論じられるとともに、そこで
の「非決定の自由」と「内発的同意の自由」の意味が明らかにされる。著者によれば、デカルトの
誤謬論の本質は「神は欺瞞者でない」という彼の形而上学における認識である (p. 13)。その意味で
「この私」は「本来誤るはずのないように創られている」(p. 22) のだが、その私がなぜ誤るのかが
誤謬論の問題である。この問題に対し、著者は、神のもつ非決定の自由を根拠として、
「私は誤ら
ない」という必然的事態を措定することの神にとっての偶然性をもって答えとする。
そして、人間のもつ非決定の自由は筆者によれば〈私は誤ることもありつつあり得るものとして
誤らない〉という事態に要約される (p. 55)。この自由は内発的同意の自由との対比において「自由
のもっとも低い段階」とされるとはいえ、人間の自由の「通常の在り方を語るもの」、
「支配的部分」
をなす、と筆者は言う。
第三章「
『哲学原理』の誤謬論と自由」は、本書の中で分量においても最大の章であり、内容に
おいてももっとも重要である。この章では、ア・ポステリオリなものとア・プリオリなもの、二つ
の種類の神の存在証明と誤謬論の論述の順序の、『省察』と『哲学原理』との相違から、両著作に
おける二つの自由の扱いの違いが導出されている。章のタイトルは「『哲学原理』の誤謬論と自由」
ではあるが、証明についての解説の順序は『省察』のもの(
「第三省察」におけるア・ポステリオ
リな証明から「第五省察」におけるア・プリオリな証明(存在論的証明)へ)をたどり、また、簡
潔な『哲学原理』の記述は『省察』の記述で補完される。その検討の中で、ア・プリオリな証明は
ア・ポステリオリな証明によって基礎づけられており、その意味で、前者の仕方で証明される神は
後者のうちにも暗々裡に語られている、と著者は考える (p. 121)。そして、
『省察』それらの証明
が述べられる「第三省察」と「第五省察」のあいだに、誤謬論と自由の語られる「第四省察」が置
かれている。しかし、『哲学原理』では、ア・プリオリな証明がア・ポステリオリな証明の前に(著
者によれば前者が後者から「分断されて」(p. 166))置かれている。そして、誤謬論はその後に述
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福居 純著『デカルトの誤謬論と自由』
べられることになる。この違いが自由についてどのような違いを生むか。著者が着目するのはア・
プリオリな証明、つまり存在論的証明において決定的な、必然的存在を本質に含むものと、可能的
存在をしか含まないものの区別である。筆者は、前者に対する肯定を内発的同意の自由、後者に対
する肯定を非決定の自由と結びつける。そして、一方の『省察』において、ア・プリオリな証明が
なされる前の「第四省察」では可能的存在をしか本質に含まないものの吟味が十分なされていない
から、非決定の自由は「自由のもっとも低い段階」とされ、内発的同意の自由が前面に出てくると
著者は考える。他方、二つの種類の証明がまとめて述べられる『哲学原理』では、非決定の自由が
もっぱら支持されるのだ、と著者は述べるのである。そして、第四章「おわりに」では、非常に複
雑で周到な道をたどった著者の論述が、まとめて述べられる。
では、デカルト哲学における自由と、その記述の『省察』と『哲学原理』の両著作の差異につい
ての解釈史上、本書はどのような位置をもつだろうか。先述のように、著者はその差異の原因をジ
ルソンのようにテキスト以外に求めることはしない。また、著者は言及していないがアルキエの解
釈におけるような自由概念の深化も認めないし、ゲルーのように記述の差異の原因をそれぞれの著
作の目的に帰することもしない。また、小林のように『省察』においても非決定の自由は重視され
ている、という仕方で問題を解消しようともしないし、大西のように内発的同意や非決定の自由の
概念を歴史的に考えるということもしない。著者は、あくまでもデカルトのテキストの中で、それ
ぞれの著作の論証法の差異に、記述の差異の原因を見るのである。
そのため、同様に先述のように、本書はデカルトの著作の非常に詳細で丁寧な検討からなってい
る。もちろん、ごく少数の言及以外にも、著者がこれまでの研究史を踏まえていることは論述の
端々から明らかである。しかし、哲学の論文を書くことが、ともすれば従来の注釈に対する同意や
反論の表明となってしまうことのある評者には、著者の綿密なテキスト読解に徹する姿は見習うべ
きであると強く感じられた。
ただ、第二章で『省察』の「第四省察」において、非決定の自由が、内発的同意の自由と比べて
低い段階だとしても「人間的自由の支配的部分」をなしていると積極的に評価されているのに対し、
その後の第三章と第四章では、『哲学原理』との差異の関係で、「第四省察」では非決定の自由が積
極的に評価されていない点は、記述上の問題とはいえ少々気になった。また、本書の題名でもある、
「デカルトの誤謬論と自由」の問題はデカルト研究の上で非常に重要であるので、この問題を勉強
したいと考えているが予備知識が足りない評者のような読者のためにも、他の研究者の解釈や解釈
史への言及があればより親切であったろうと感じる。しかしこのことは、デカルトのテキストの粘
り強く強靭な読解をその本質とする本書の価値をいささかも減ずるものではない。
(竹中 利彦)
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