視覚的知性の大学へ

【応募作品】
視覚的知性の大学へ
藤田 直哉
博士課程在学中(リース・モートン研究室)
キー ワー ド:モニタ、知性、書物
概 要 :モニタ上で活字(電子書籍)を読む機会が増えていく世界において、「読書」経験の質は変化し、
人文“知”そのものが変化する。大学は、それに対応すべく再編成するべきである。
iPhone や iPad の人気アプリをダウンロードし、片っ端から色々なゲームをやったり画像をぐ
るぐる動かしたり twitter や facebook でソーシャルな活動をしてみた。 その結果、字が読めなくなった。 小説や、論文を読むのが苦痛になってくる。
『失われた時を求めて』や『資本論』というような
大部ではない。わずか四百頁の文庫本すら苦痛に思えてくる。 モニタ上で活字を読むという経験は、活字以外のものに興味が惹かれる誘惑が多い。ウインド
ウは複数開くことができる。Twitter を見たり、書き込んでしまう(研究室では多くの学生がパ
ソコンにおいて、このようにマルチウインドウで作業をしている)。 すると、一冊の本に集中して「直線」的に視線や思考を運動させることに抵抗を感じるように
なってくる。視線も思考も、散逸するようなものを好むように変化してしまっているのだ。 コンピュータのモニタは、白と黒の文字に集中させることに向いていない。色も出る、音も出
る、動く、ゲームもできる、会話も出来る、そんな装置で、
「字」だけというのはいかにも貧しく、
そっけない。文学を愛していたはずなのだが、電子端末で芥川龍之介を読んでいるのに耐えられ
なくなって、途中でアプリで遊んでしまう。 わたしは文学を愛してなどいなかったのか? などと嘆くが、本の形になると、ちゃんと読め
るのだ。一安心。と思いきや、読みながら常に電子端末とその向こうにある「ソーシャル」が常
に気にかかる。 文献を読み込むために、どこか電話回線のない湖畔の別荘に半年ぐらい閉じ込められたい、と
本気で願うようになった。 電車に乗っていても、本を読んでいる人間は少数だ。携帯ゲーム機やスマートフォンをいじっ
ている人間が多数だ。 このようなメディア体験は思考の質を変える。これは、本の愛好者としてはとても残念である。
しかし、それはきっと不可避だ。 このような状況で、大学や、人文知の担える役割とは一体何なのだろうか。 電子端末や情報環境から身を引き離し、書物や言語ベースの人文的知性を鍛える場所になって
いくべきなのか。 それとも、このようなメディア環境によって人びとの思考方法が変わるということを不可避の
事態と認めたうえで、その先に可能な知や学問のあり方を考えるべきなのか。 大学や人文知が、確固とした権威であれば、メディア環境の変動に対する「重し」として機能
することもできるだろう。 しかし――この情報環境の変動が、本当にグーテンベルグの活版印刷の発明に匹敵する変容な
のだとすると、旧来の「知」に拘泥することは、当時無意味に「写本」にこだわった人びとと同
じなのかもしれない、という疑いも胸に湧くのだ。 情報環境や情報端末が普及する流れが変わらなければ、電子書籍に移行するのも時間の問題で
あると言われている。そこにおいて文字は圧倒的に不利だ。 モニタ上において、文字もヴィジュアルも音楽もゲームも、学術論文もアニメも掲示板も SNS
も、ヴィジュアルとして等価である。さらに、
「情報」とはその質の違いを考慮しない。情報的還
元を経た上で、哲学書なり古典文学がまだ権威や価値を維持しえるかどうか。「権威を維持する」
だけならともかく、現代の社会に直接影響を与える“生きた”ものとできるのか―― 訴えかける方法を変える、というのはひとつのアイデアである。SNSを用いたり、マスメデ
ィアを用いたりして、旧来の「知」を咀嚼しやすいように提供する。そのような形で「生きた」
ものに変換する努力は既に行われている。 だが、そのもっと先、にモニタや情報環境が作り出す思考に適合した新しい「知」の体制を構
築するという可能性はないだろうか? 「言語的知性」や「数学的知性」だけではなく、
「視覚的知性」に近付いた知性そのものを評価
し、そしてそのような知性を生かす回路は作れないだろうか? 根本的に変容してしまった「知
性」とは何かを巡る齟齬を生める役割を果たす組織がひとつぐらいあってもいい。万が一、その
「視覚的知性」がただの知的な訓練不足ではなく、新しい種類の知性であった場合、それを評価
できなかった場合の損失は学問にとって少なくはないからである。 それは根本的に未知な学問であり、評価方法も制度の作り方も未知である。でも、ひょっとする
とそこは、既に存在するのに「知性」と看做されなかった知性が集まり、何か未知なものを創造
していく場になるかもしれない。その「知性」を生産的な「知性」と看做す可能性を切り捨てな
いことが、学問もしくは人文知そのものの生き残り、あるいは使命を果たす上で、重要なことで
はないのだろうか。