安全安心社会研究所ワーキングペーパー WP-2007-002 2007 年 10 月 10 日 米国同時多発テロと犠牲者補償基金 林 敏彦∗ [email protected] 要 約 2001 年 9 月 11 日 同 時 多 発 テ ロ 発 生 か ら 11 日 後 、米 国 議 会 と 大 統 領 は「 航 空 運 輸 安 全 お よ び 航 空 シ ス テ ム 安 定 化 法 」を 施 行 し 、そ れ に 基 づ い て「 2001 年 9 月 11 日 犠 牲 者 補 償 基 金 」を 設 立 し た 。基 金 は 、33 ヶ 月 間 に 、犠 牲 者 の 97% の 家 族 に 総 額 1 兆 円 を 超 え る 補 償 金 を 支 払 い 、司 法 省 に 最 終 報 告 を 提 出 し て 活 動 を 終 了 し た 。 本稿の目的は、数多くの批判点や不整合性は残るものの、米国の政治的リーダ ーシップは、国民の悲嘆と共感の精神的エネルギーを迅速に法制化し、既に恐ろ しい運命を体験した大惨事の犠牲者家族に、金銭的困難が追打ちをかけることを 防いだ点は、高く評価されるべきだと論ずることにある。その目的のために、本 稿は犠牲者補償基金設立の政治的経緯、補償の実態、基金による最終報告書など の資料を分析する。 安 全 安 心 社 会 ワ ー キ ン グ ペ ー パ ー は 、当 研 究 所 の 研 究 成 果 を 速 報 し 、広 く 社 会 に 問 題 提 起 す る た め に 公 表 し て い ま す 。未 定 稿 で す の で 、著 者 の 承 諾 な く 引 用 す る こ と は お 控 え く だ さ い 。ま た 、本 稿 に 示 さ れ た 意 見 は す べ て 著 者 個 人 の も の で あ り 、著 者 が 所 属する組織のものではないことにご注意ください。 財 団 法 人 ひ ょ う ご 震 災 記 念 21 世 紀 研 究 機 構 安全安心社会研究所 ∗ 安全安心社会研究所所長・放送大学教授 i The Institute for Safer and Securer Society, Kobe, Japan Working Paper-2007-02 October 10, 2007 September 11, 2001 and the Victim Compensation Fund Toshihiko Hayashi ∗ [email protected] Abstract Eleven days after the September 11 t h terrorist attacks in 2001, the U.S. Congress enacted “Air Transportation Safety and System Stabilization Act” and authorized to establish the “September 11 Victim Compensation Fund of 2001”. During the 33 months of its existence the Fund awarded more than 70 billion dollars of government money to 97% of the surviving victim families for compensation. The final report is sent to the Department of Justice in 2004. This purpose of this paper is to argue that despite many shortcomings and inconsistencies with the legal status quo, one should appreciate the fact that the political leadership in the U.S. could and did turn the national sense of grief and compassion into a law, and prevented, at least in part, additional economic hardships from being imposed on the victim family’s already horrifying ordeal without a significant delay. To this purpose, the paper explores into the policy making debates in the Congress, the way the actual compensation scheme was administered, and the final report filed by the Special Master. ∗ Director, The Institute for Safer and Securer Society, and Professor of Economics, The Open University of Japan. ii 米国同時多発テロと犠牲者補償基金 安全安心社会研究所所長 林 敏彦 はじめに 2001 年 9 月 11 日 、 恐 ろ し い 一 日 が 終 わ っ た と き 、 ブ ッ シ ュ 大 統 領 は 就 寝 前 の 日記にこう記した。 今日21世紀の真珠湾攻撃が起こった。やったのはオサマ・ビン・ラディンだ と み ん な 思 っ て い る 1。 2004 年 7 月 26 日 、 10 人 の 委 員 か ら な る 「 合 衆 国 へ の テ ロ リ ス ト 攻 撃 に 関 す る 国 家 委 員 会 」( 以 下 、 独 立 調 査 委 員 会 と い う ) は 、 9/11 同 時 多 発 テ ロ の 最 終 報 告 書を発表した。報告書はテロ攻撃がアフガニスタンに拠点を置くイスラム過激派 の 19 人 の ア ラ ブ 人 に よ っ て 引 き 起 こ さ れ た も の で 、首 謀 者 は オ サ マ・ビ ン・ラ デ ィンだと断定した。 2001 年 9 月 11 日 午 前 8 時 46 分 、 ア メ リ カ は 一 変 し た 。 1 万 ガ ロ ン 以 上 の ジ ェ ット燃料を搭載し、時速何百キロものスピードで航行する一台の航空機がニュー ヨークの世界貿易センター北タワーに突っ込んだ。9 時 3 分には 2 台目の航空機 が南タワーに激突した。炎と煙が天高く昇り、鉄骨とガラスと灰と人間が落下し た 。毎 日 5 万 人 が 働 い て い た ツ イ ン タ ワ ー は 、90 分 後 に 2 棟 と も 崩 れ 落 ち た 。同 じ 朝 9 時 37 分 、 3 台 目 の 航 空 機 が ワ シ ン ト ン の 国 防 省 西 面 に 突 入 し た 。 10 時 3 分には、4 台目がペンシルバニア州南部の平原に墜落した。この航空機は、アメ リカ議会かホワイトハウスを標的にしていたが、アメリカが攻撃されていると知 った乗客の勇敢な行動によって、墜落させられた。 世 界 貿 易 セ ン タ ー で は 2,600 人 以 上 の 人 が 犠 牲 に な り 、 国 防 省 で は 125 人 、 4 台 目 の 航 空 機 で は 256 人 が 亡 く な っ た 。 死 者 の 数 は 1941 年 12 月 の 真 珠 湾 を 超 え て い た 2。 1 Dan Balz and Bob Woodward, “America’s Chaotic Road to War: Bush’s Global Strategy Began to Take Shape in First Hours After Attack,” Washington Post, January 27, 2002. 2 独 立 調 査 委 員 会 最 終 報 告 書 ( 2004)、 Executive Summary の 冒 頭 。 -1- 1. 経済的被害 独立調査委員会が日本軍の真珠湾攻撃になぞらえたように、米国がこの同時多 発 テ ロ (以 下 、9/11 と 呼 ぶ )か ら 受 け た 衝 撃 は 大 き か っ た 。そ こ か ら 米 国 の 反 応 は 、 政治的、外交的に対テロ対策を旗印に大きく転換していく。しかし、悪意による 人為的攻撃であったとしても、罪のない人々が犠牲になり、ローワーマンハッタ ン を 象 徴 す る 世 界 貿 易 セ ン タ ー( 以 下 、WTC)の ツ イ ン タ ワ ー が 崩 壊 し た 物 的 被 害 は 、 自 然 災 害 か ら の 被 害 と 大 き な 共 通 点 を 持 っ て い る 。 9/11 の 経 済 的 被 害 は ど のようなものだったのだろうか。 2002 年 9 月 4 日 に は 、ニ ュ ー ヨ ー ク 市 監 査 役 の ウ ィ リ ア ム・ト ン プ ソ ン が 9/11 の経済被害に関する報告書を発表した(以後、この報告書の推定をトンプソン推 定 と 呼 ぶ ) 3 。『 1 年 後 』 と 題 さ れ た 報 告 書 は 、 9/11 が ア メ リ カ 経 済 に 及 ぼ し た 影 響、ニューヨーク市予算に及ぼす影響、復興のための連邦政府支援について分析 した。 そ れ に よ る と 、 9/11 の ニ ュ ー ヨ ー ク 市 に お け る 経 済 的 被 害 は 、 ス ト ッ ク の 被 害 額 と そ の 後 の 雇 用 お よ び 市 内 総 生 産 の 喪 失 額 と か ら 成 る 。ト ン プ ソ ン に よ る 2001 年 9 月 か ら 2004 年 末 ま で の 被 害 推 定 額 は 表 1 の と お り で あ る 4 。 表1 WTC 攻 撃 に よ る ニ ュ ー ヨ ー ク 市 の 経 済 被 害 項目とタイミング 小 計 合 計 1. 経済被害総額 10 兆 円 ~ 11.8 兆 円 2. 失われた資産 3.8 兆 円 2a. 実 物 資 本 2.7 兆 円 2b. 人 的 資 本 1.1 兆 円 6.5 兆 円 ~ 8 兆 円 3 . 失 わ れ た 市 内 総 生 産 : 2001~ 2004 年 3a. 2001 年 ( 3 か 月 ) 1.4 兆 円 3b. 2002 年 1.9 兆 円 3 兆 ~ 4.4 兆 円 3c. 2003~ 2004 年 出 所 : Thompson (2002), Table 1, 1 ペ ー ジ 表1から明らかなように、世界貿易センターへのテロ攻撃がニューヨーク市に も た ら し た 経 済 被 害 は 、総 額 で 10 兆 円 ~ 11.8 兆 円 と 推 定 さ れ て い る 。偶 然 に も こ 3 William C. Thompson Jr., (2002) 以 下 す べ て の 金 額 は 、原 報 告 の ド ル 表 示 額 を 当 該 期 間 の 平 均 的 円 ド ル レ ー ト を 用 いて筆者が換算した数値である。 4 -2- の 経 済 被 害 総 額 の 数 字 は 、 1995 年 の 阪 神 ・ 淡 路 大 震 災 の 被 害 額 に 相 似 し て い る 。 し か し 、後 の 表 3 に 示 す よ う に 、阪 神・淡 路 大 震 災 の 被 害 総 額 10 兆 円 は 、表 1 中 の「実物資本」項目のみに相当する被害額である。 9/11 の 経 済 被 害 額 に つ い て は 、 発 災 直 後 か ら い く つ か の 機 関 が そ の 推 定 額 を 発 表 し て い る 。 GAO (Government Accountability Office)は 議 会 か ら の 要 請 に 応 え て 、 2002 年 5 月 29 日 現 在 で 得 ら れ た 7 つ の 期 間 の 8 つ の 報 告 を レ ビ ュ ー し て い る 5 。 それぞれの推定は、推定方法もカバーした被害の範囲、期間も異なっているため 直 接 比 較 は で き な い と し な が ら も 、GAO は ニ ュ ー ヨ ー ク 市 の 被 害 額 に 関 す る 主 な 推定として次をあげている。 ・ 市 監 査 局 は 直 接 ・ 間 接 被 害 を 11 兆 円 か ら 13 兆 円 と 推 定 6 ・ パ ー ト ナ ー シ ッ プ は 直 接 ・ 間 接 被 害 を 10 兆 円 と 推 定 7 ・ 州 予 算 局 は 直 接 被 害 、 財 政 負 担 そ の 他 を 6.8 兆 円 と 推 定 8 これらから見る限り、直接・間接の被害総額に係るトンプソン推定は他の推定 と大きくは異ならない。 さて、トンプソン推定では、インフラ等実物資本の滅失額の内訳を表2のよう に推定している。 表2 9/11 テ ロ 攻 撃 に よ る イ ン フ ラ 等 資 産 滅 失 額 項目とタイミング 小 計 小 計 A. 物 的 損 失 お よ び 被 害 2.7 兆 円 1. WTC タ ワ ー ( 再 取 得 費 用 ) 8,400 億 円 2. そ の 他 ビ ル 5,600 億 円 3. 地 下 鉄 ・ 電 話 ・ 電 力 5,400 億 円 4. 入 居 者 設 備 6,500 億 円 5. 民 間 負 担 の が れ き 撤 去・犠 牲 者 支 援 費 用 1,400 億 円 B. 人 的 損 失 : 労 働 者 の 遺 失 所 得 1.1 兆 円 出 所 : Thompson (2002), Table 2, 2 ペ ー ジ 6 7 8 計 3.8 兆 円 滅失資産価値合計 5 合 Government Accountability Office (2002) City of New York Office of the Comptroller (2001) New York City Partnership and Chamber of Commerce (2001) New York Governor and State Division of the Budget (2001) -3- こ こ で 、1995 年 の 阪 神・淡 路 大 震 災 の 直 接 被 害 額 を 想 起 し て お こ う 。兵 庫 県 が 震 災 直 後 に 推 定 し 、10 年 後 の 検 証 で も そ の 正 確 さ が 確 認 さ れ た た 直 接 被 害 は 表 3 の と お り で あ る 。 こ れ と 表 2 を 比 較 し て み る と 、 9/11 の ニ ュ ー ヨ ー ク に お け る 直 接的被害(ストックの滅失被害)は、阪神・淡路大震災のおよそ 3 分の 1 の規模 であったことが分かる。 表3 項 阪神・淡路大震災の直接的被害の状況 目 金 額 約 5 兆 8,000 億 円 建築物 鉄道 約 3,439 億 円 高速道路 約 5,500 億 円 公共土木施設 約 2,961 億 円 約 1 兆 0,000 億 円 港湾 約 64 億 円 埋立地 文教施設 約 3,352 億 円 農林水産関係 約 1,181 億 円 保健医療・福祉関係施設 約 1,733 億 円 約 44 億 円 廃棄物処理・し尿処理施設 約 541 億 円 水道施設 ガス・電気 約 4,200 億 円 通信・放送施設 約 1,272 億 円 商工関係 約 6,300 億 円 約 751 億 円 その他公共施設 合 約 9 兆 9,268 億 円 計 2. 人 的 資 本 の 滅 失 さ て 、 9/11 の 被 害 額 推 定 に お け る も う 一 つ の 特 徴 は 、 人 的 資 本 の 毀 損 を 失 わ れ た資産の一部に計上していることである。トンプソン推定ではそれは 1 兆円を超 えていたとしている。阪神・淡路大震災をはじめ日本の災害被害額推定において は、失われた人命を人的資本の毀損として計上する作業は行われていない。人命 を経済価値に換算することへの倫理的抵抗、被災者感情への配慮等がその背景に あると思われる。 しかし、人的被害の推定は 2 つの重要な意味を持っていた。第 1 は、本稿の主 -4- 題である「犠牲者補償基金」との関連において、連邦政府の財政支出にインパク トを与えた点、第 2 は、犠牲者の遺失生涯稼得賃金の割引現在価値として算定さ れた人的資本の規模から、その後のニューヨーク市経済に与えた間接的被害総額 の予想が立てられたという点である。では、人的資本の被害額はどのように推定 されたのであろうか。再びトンプソン推定に戻ってみよう。 言うまでもなく、不測の事態によって突然打ち切られた人生の「費用」は多面 的である。人は賃金や報酬を生み出す機械ではない。死者はあり得たかもしれな い人生のすべての機会を奪われ、子どもたちは父や母を失い、親は子を失い、夫 や妻を失った人々はそれでも生き続けなければならない。遺族は心の内に何十年 も癒されない傷を負う。残されたものにとってのそうした精神的苦痛だけでも社 会的費用としては計測不可能と言えよう。 しかし、死者が残した空白は、愛する者、残された者に耐えがたい悲しみをも たらすと同時に、社会全体に対しても、その人の働きがあってこそ生まれていた 生産物の減少という経済価値の滅失をもたらす。その意味では、失われた人的資 本の経済価値を推定することは無意味ではない。 9/11 に よ る 全 国 の 死 者 3,043 人 の う ち 、2,819 人 は ニ ュ ー ヨ ー ク 市 内 で 亡 く な っ た 。 死 者 の 年 齢 構 成 は 表 4 の よ う で あ る 9。 表4 年齢層 WTC 犠 牲 者 の 平 均 年 齢 と 残 存 勤 務 年 数 30 歳 以 下 31~ 40 歳 41~ 50 歳 51~ 60 歳 60 歳 以 上 総数 2,819 人 中 19.5% 36.8% 27.7% 13.0% 3.0% 100% 平均年齢 26.63 35.61 44.83 54.73 65.94 39.85 残存勤務年数 38.37 29.39 20.17 10.27 0.00 25.15 出 所 : Thompson (2002), Table 4, 7 ペ ー ジ こ れ ら の 死 者 の う ち 、 2,257 人 は WTC 内 に 勤 務 し て い た 人 々 、 415 人 は 救 助 作 業 中 に 亡 く な っ た 人 々 で 、 失 わ れ た 人 的 資 本 は そ の 合 計 の 2,672 名 に つ い て 計 算 さ れ た 。人 的 資 本 被 害 額 は 、こ れ ら の 人 々 が 65 歳 と 設 定 し た 退 職 時 点 ま で に 稼 得 し た は ず の 年 収 の 割 引 現 在 価 値 と し て 推 定 さ れ た 。WTC で 勤 務 す る 労 働 者 の 平 均 年 収 は 13 万 ド ル( 1,885 万 円 )と し た 。2000 年 に お け る マ ン ハ ッ タ ン 全 体 で の 平 均 年 収 は 7 万 ド ル ( 1,015 万 円 ) だ が 、 マ ン ハ ッ タ ン の 金 融 、 保 険 、 不 動 産 部 門 9 2001 年 8 月 末 時 点 。 犠 牲 者 に は 、 ア メ リ カ ン 航 空 11 便 の 88 名 の 乗 客 乗 員 、 ユ ナ イ テ ッ ド 航 空 175 便 の 59 名 の 乗 客 乗 員 、415 名 の 消 防・救 急 隊 員 、お よ び WTC ビ ル 群 の 内 部 あ る い は 落 下 物 に よ っ て 亡 く な っ た 人 を 含 む 。 お よ そ 50 名 の 死 者 は 年 齢 不詳のため、分っている犠牲者の年齢分布に合わせて分類されている。 -5- の 労 働 者 の 平 均 年 収 は 15 万 6 千 ド ル ( 2,262 万 円 ) だ っ た た め 、 こ の 平 均 年 収 も 控 え め な 推 測 値 で あ る 。 2,672 人 が 残 り 25 年 間 、 こ の 平 均 年 収 を 稼 得 し た も の と し て そ の 割 引 現 在 価 値 を 求 め る と 1.1 兆 円 と な る 10 。 ここで、比較のために阪神・淡路大震災によって失われた人的資本の価値額を 推定してみる。阪神・淡路の場合には、ニューヨークの同時多発テロの場合と異 なって犠牲者の詳細なデータベースは存在しない。そのため、推定は概算になら ざるを得ない。 1995 年 度 の 兵 庫 県 の 一 人 当 た り 県 民 所 得 は お よ そ 318 万 円 で あ っ た 。こ の 値 を 犠 牲 者 の 一 人 当 た り 平 均 年 収 と す る 。ま た そ の 年 の 兵 庫 県 民 の 平 均 年 齢 は 40 歳 で あ っ た た め 、 65 歳 を 退 職 年 齢 と 想 定 し て 、 残 存 就 業 年 数 を 25 年 と す る 。 そ う す る と 一 人 当 た り の 得 べ か り し 生 涯 年 収 の 割 引 現 在 価 値 は 7,950 万 円 と な る 。 こ れ に 犠 牲 者 数 6,434 人 を 掛 け る と 、 失 わ れ た 人 的 資 本 の 総 額 は 5,115 億 円 と な る 。 こ こ で ニ ュ ー ヨ ー ク と 神 戸 の 被 害 を 比 較 す れ ば 、 ニ ュ ー ヨ ー ク の WTC 事 件 は 、 実物資本の損害においては阪神・淡路の 3 分の 1 だったが、人的資本の損害にお いては阪神・淡路の 2 倍だったことが分かる。 こ れ は 、WTC 事 件 は 地 理 的 に 貿 易 セ ン タ ー の 第 1 タ ワ ー 、第 2 タ ワ ー を 中 心 と するローワーマンハッタンの一部に限定されていたのに対し、そこに勤務してい た 犠 牲 者 は 、通 称 FIRE と 呼 ば れ る 金 融 (finance)・保 険 (insurance)・不 動 産 (real estate) 業 に 属 す る 高 額 所 得 者 が 多 か っ た と い う 事 情 に 依 る 。 それでは、この人的資本の被害に対して、連邦政府はどのような政策をとった のだろうか。 3. 航空運輸安全及び航空システム安定化法 2001 年 9 月 21 日 、同 時 多 発 テ ロ 事 件 か ら 10 日 後 、下 院 運 輸 社 会 基 盤 委 員 会 委 員 長 を 務 め る ア ラ ス カ 選 出 の ド ナ ル ド・ヤ ン グ 議 員 が 法 案 2926 号 を 下 院 に 提 出 し た。法案は「米国航空運輸システムの継続的存在確保」を目的として、大統領に およそ次のような内容を要請するものだった。 テ ロ 攻 撃 に 使 わ れ た 航 空 会 社 に 対 し て 、総 額 100 億 ド ル( 1 兆 5,000 億 円 )を ① 上限とする連邦政府の融資を行う。 ② 連邦政府の一時的運行停止命令によって被害を受けた航空会社に対して、総 10 この推定値は、犠牲者の年収の年間上昇率と割引率とが等しいと仮定すれば、 遺 失 年 収 は 割 引 率 の 値 に か か わ り な く 一 人 に つ き 13 万 ド ル ×25 年 = 325 万 ド ル( 4 億 円 ) と な り 、 そ の 2,672 人 分 と 計 算 す れ ば つ じ つ ま が 合 う 。 -6- 額 5 億 ド ル ( 7500 億 円 ) を 補 償 す る 。 ③ 本件に関する財政上の措置は、グラム・ラドマン・ホリングス財政再建法の 緊急措置例外条項とする。 ④ 航空会社に対して、売上税納入期限延期を含む税制上の優遇措置を行う。 ⑤ テロ攻撃の被災者に対する補償を目的として、法務長官が所管し、スペシャ ル マ ス タ ー が 運 営 す る 補 償 プ ロ グ ラ ム を 設 置 す る 11 。 議会では、法案に賛成する議員から、米国航空業界に対する緊急支援の必要性 が訴えられた。支援の理由とされたのは主として次のような点だった。 x 航 空 運 輸 産 業 は GDP ベ ー ス で 全 産 業 の 10% を 占 め る 基 幹 産 業 で あ る 。 x 連 邦 航 空 局 ( FAA) が 全 国 の 商 業 航 空 輸 送 を 停 止 さ せ た 措 置 は 正 し い 措 置 で あ っ た が 12 、 そ れ に よ る 被 害 に 対 し て は 連 邦 政 府 の 補 償 が 必 要 で あ る 。 x 既に始まった航空会社の従業員整理で職を失う労働者への配慮が必要であ る。 x 航空輸送が再開されても直ちには旅客数は元にもどらず、航空会社は長期 的な経済負担に耐える必要がある。 ヤング議員は訴えた。 「われわれに課された重要な任務は、航空会社の健全性を回復させ、大小すべ て の 地 域 が 航 空 輸 送 サ ー ビ ス を 受 け 続 け ら れ る よ う に す る こ と で す 13 。」 オーバースター議員も訴えた。 「われわれが今夜ここに集まっているのは、航空史上の大惨事の一日があった か ら で す 。経 営 ミ ス を 犯 し た 一 つ の 産 業 を 救 う の で は な く 、ア メ リ カ の 民 主 主 義 、 自由、われわれの強大な経済のシンボルとしての航空会社が攻撃されたからなの で す 14 。」 反対意見もあった。マクダーモット議員は主張した。 「9 万人以上の労働者が満足なセーフティーネットも与えられていない中で、 11 米国のスペシャルマスターは通常、特別補助裁判官と訳され、技術的専門知識 を必要とする案件などに対して法的な判断を行い、裁判所に報告する。この場合は、 司 法 省 長 官 が 110 億 ド ル の 基 金 の 支 給 方 法 の 決 定 と 執 行 を 一 人 の ス ペ シ ャ ル マ ス タ ーに委託し、事業終了後スペシャルマスターは司法省長官に報告することとされた。 12 連 邦 航 空 局 は 、9 月 21 日 第 1 機 が WTC に 突 入 し て 22 分 後 に は 全 米 の 空 港 で 航 空 機 の 離 陸 を 禁 止 し 、 40 分 後 に は 着 陸 を 含 め た す べ て の 空 港 利 用 を 禁 止 し た 。 13 Avalan Project, House of Representatives, 20 ペ ー ジ 。 14 Avalon Project, House of Representatives, 21 ペ ー ジ 。 -7- 議会は航空会社の役員にゴールデンパラシュートを提供しようとしています。 ・・・航空会社がこの状況を脱するための『保釈金』を必要としていることは明 白です。しかし、雇用保険、従業員の訓練、退職者への健康保険、安全性などに 対するこれまでの航空会社の無責任な姿勢にもかかわらず、なぜ政府は彼らの肩 代わりをしなければならないのか。 ・・・こ の 法 案 に は 、将 来 の 市 民 の 安 全 性 を 保 証 す る た め の お 金 は 1 ド ル も 含 ま れ て い ま せ ん 。政 府 の 規 制 に 抵 抗 し 、団 体 交 渉 を 忌 避 し て き た の は 航 空 会 社 で は な か っ た で し ょ う か 。そ れ を 今 に な っ て『 保 釈 』 しろという。私は良心にかけて、労働者への救済条項を含まないこの法案に賛成 す る こ と は で き ま せ ん 15 。」 ディファジオ議員も反対した。 「議長、何十億ドルもの金を選ばれた少数の者に与え、何十万人もの人間に対 しては将来あいまいな援助を約束するだけの法案に対して、今夜拙速に行動する 必 要 は あ り ま せ ん 。」 ターナー議員は航空運輸安全および航空システム安定化法の本質的な部分を衝 いた。 「 こ の 法 案 で 最 も よ い 条 項 の 一 つ は 、こ の 議 会 が ス ペ シ ャ ル マ ス タ ー を 立 て て 、 すべての負傷者、すべての死者の遺族に対して経済的、非経済的被害の完全なる 補 償 を 行 お う と す る と こ ろ に あ り ま す 16 。」 法 案 が 議 会 に か け ら れ た の は 9 月 21 日 午 後 6 時 08 分 。 議 会 で の 論 戦 は 1 時 間 程 度 で 終 了 し 、評 決 の 結 果 、賛 成 356、反 対 54、棄 権 18、白 票 2 で こ の 法 案 は 無 修正のまま下院を通過した。同じ法案は上院でも審議された。上院での議論にも 賛否があったが、マケイン上院議員はこの法案の本質をこう説明した。 「今夜われわれが投票しようとしている法案は、航空産業に金融的支援を提供 するだけでなく、犠牲者補償のための連邦基金を創設し、航空産業の継続的操業 を補償するために潜在的な法的責任を限定することによって、この惨劇に対する 法 的 責 任 の 問 題 に 応 え よ う と す る も の で す 。」 「最も困難な問題の一つは、もしも裁判所が先週のテロ攻撃によって発生した 被害に対して航空会社に不作為や何らかの責任があると判断したとき、航空会社 が 負 う 莫 大 な 損 害 賠 償 責 任 の 問 題 で す 。」 「われわれは次の 2 つの不満足な帰結に直面しています。1)損害賠償保険で は損害賠償金がまかないきれず、航空会社は解散して資産を売却しなければなら ない、2)この惨劇で死亡したり負傷したりした犠牲者は何も補償が受けられな 15 16 Avalon Project, House of Representatives, 26 ペ ー ジ 。 Avalon Project, House of Representatives, 51 ペ ー ジ 。 -8- い。この法案の補償条件は決して完全ではありませんが、これら2つの受け入れ が た い 結 果 を 防 止 す る た め の 第 1 歩 な の で す 。」 「この基金の意図は、この未曾有の、予測不可能な、恐ろしい事件の犠牲者と その家族が、これまで耐え忍ばざるを得なかった恐ろしい苦痛に加えて、金銭的 困 難 ま で 耐 え な く て も よ い よ う に す る こ と な の で す 17 。」 両院での議論の中に、自然災害の前例との対比の視点は全く見られなかった。 すべての議論は、未曾有の、前例なき大惨事への対応というトーンで貫かれ、公 正さに対する考慮としては、事件で困窮する業界は多いのになぜ航空産業だけを 支援するのか、なぜ航空産業のレイオフされる従業員ではなくもともと高給を取 っ て い る 経 営 者 を 助 け る こ と に な る 支 援 策 を 講 ず る の か 、と い っ た 点 に 集 中 し た 。 これに対して提案した議員は、航空産業は米国の産業基盤をなす特別な基幹産 業 だ と 応 じ 、こ の 法 案 に よ っ て 航 空 会 社 の 役 員 給 与 は 引 き 上 げ ら れ る こ と は な い 、 と答えた。日本での審議なら必ず持ち出されるはずの弱者への配慮という社会福 祉的視点は、法案の中にも審議の過程にもまったく登場しなかった。 法案は上院も無修正で通過し、その夜のうちに大統領のもとに届けられた。翌 9 月 22 日 、 テ ロ 事 件 か ら 11 日 後 に 大 統 領 は 法 案 に 署 名 し 、 直 ち に 法 案 は 法 律 107-42 号 「 航 空 運 輸 安 全 お よ び 航 空 シ ス テ ム 安 定 化 法 ( Air Transportation Safety and System Stabilization Act、 以 下 ATS 法 と い う ) と し て 発 効 し た 。 4. 犠牲者補償基金 2001 年 犠 牲 者 補 償 基 金 ( Victim Compensation Fund of 2001、 以 下 補 償 基 金 と い う)は、上述の「航空運輸安全および航空システム安定化法」を根拠として創設 さ れ た 。そ の 目 的 は 、 「 2001 年 9 月 11 日 の テ ロ 攻 撃 の 直 接 的 結 果 と し て 、負 傷 ま たは死亡したすべての個人(死者の場合はその親族)に補償金を支払う」ことと された。 ATS 法 が 補 償 基 金 に 課 し た 条 件 は 次 の よ う だ っ た 。 1) 補償基金は、テロ攻撃犠牲者が、長期間の、不確実な損害賠償訴訟を行 わなくてもすむように、連邦政府が代わって補償する制度とする。 2) 司法長官が任命するスペシャルマスターが、補償に必要な手続きおよび 基本ルールを決定し、実行する。 17 Avalon Project, Senate, 18~ 19 ペ ー ジ 。 -9- 3) スペシャルマスターは、具体的な補償要件を決定する。 4) スペシャルマスターは、申請者の経済的および非経済的苦痛に基づいて 個別の補償額を決定し、受け取った保険金等は補償額から控除する。 5) ATS 法 は 、補 償 基 金 の 運 営 に 必 要 な 連 邦 資 金 の 確 保 を 認 め る 。ATSA は す べての申請者に対して支払われるべき補償の総額も、個別申請者に支払われ るべき補償の上限も設定しない。 こ う し て 、司 法 長 官 は ケ ネ ス・フ ァ イ ン バ ー グ を ス ペ シ ャ ル マ ス タ ー に 任 命 し 、 米 国 史 上 例 を 見 な い 犠 牲 者 補 償 基 金 は 、33 ヶ 月 の 時 限 で 、2001 年 11 月 26 に 発 足 し た 。フ ァ イ ン バ ー グ は 、年 月 3 年 足 ら ず の 犠 牲 者 補 償 基 金 の 活 動 を「 最 終 報 告 」 と し て 司 法 省 に 提 出 し た 18 。 5. 補償基準 ファインバーグと法務スタッフの最初の仕事は、補償基金の運用細則を決定す る こ と だ っ た 。ATS 法 は 、施 行 時 よ り 90 日 以 内 に 、司 法 省 が 補 償 基 金 の 細 則 を 決 定 す る よ う 求 め て い た 。 運 用 細 則 の 中 間 報 告 が 行 わ れ た の は 2001 年 12 月 21 日 、 補償基金はその日に窓口を開設し、スペシャルマスターと司法省が最終的に運用 細 則 を 決 定 し た の は 2002 年 3 月 13 日 だ っ た 。 運 用 細 則 は 、 補 償 金 の 受 給 要 件 、 補償金の推定方法、補償金から控除されるべき他からの支払い、簡素な申請手続 き 等 を 規 定 し た 19 。 <受給要件> 法 の 趣 旨 に 沿 っ て 、 申 請 で き る 者 は 9/11 テ ロ 攻 撃 時 あ る い は そ の 直 後 に 現 場 にいて、死亡または身体的に負傷を負った者、あるいはその家族とされた。現場 で身元が確認された人だけでなく、裁判所が発行した死亡証明も受給資格を満た す と さ れ た 20 。 <補償金の推定> 経済的損失は、個人の年収履歴とその将来予想とに基づいて推定された。年収 は 将 来 に わ た っ て 平 均 的 な GDP 成 長 率 と 同 率 で 上 昇 す る と 想 定 さ れ た 。現 在 価 値 18 Feinberg (2004), 3~ 4 ペ ー ジ 。 申請者が提出する書式の一部として、補償金の受け取りと引き替えに、航空会 社に対するいかなる民事上の損害賠償訴訟にも参加しないという誓約書への署名が 求められている。 20 2007 年 10 月 時 点 で 、 DNA 鑑 定 に よ っ て も 、 な お 1,000 名 近 く の 人 の 身 元 は 確 認されていない。 19 - 10 - に割り引く割引率は、長期国債の利率が用いられた。これは基本的に保険の論理 である。したがって、犠牲者の中で、比較的年収の低かった消防士などは補償金 が小さく、高額の年収を得ていたファンドマネージャーは高額の補償金を受け取 る こ と と な っ た 21 。 非経済的損失は犠牲者が被った苦痛に対する補償とされた。補償基金は、この 部 分 に つ い て は 個 人 別 に 異 な る 査 定 が で き な い と し て 、 死 者 一 人 当 た り 25 万 ド ル ( 3,750 万 円 )、 犠 牲 者 の 配 偶 者 と 扶 養 家 族 は 一 人 当 た り 10 万 ド ル ( 1,500 万 円)の補償金を決定した。 <控除条項> 生命保険金など他に補償金が得られた人については、補償基金からの支払いは そ れ だ け 控 除 さ れ た 。そ の 結 果 、基 金 が 査 定 し た 補 償 金 か ら 平 均 で 29%が 控 除 さ れ 、 連 邦 政 府 の 支 出 は そ れ だ け 縮 小 し た 。 33 ヶ 月 間 の 補 償 金 支 払 い 総 額 お よ そ 70 億 ド ル ( 1 兆 500 億 円 ) と 控 除 額 と の 対 称 は 表 の よ う で あ る 。 表5 種 類 犠牲者補償基金による補償推定額 経済的・非経済的損失 控除額 推定額 控除の損失推定額 に対する比率 死 亡 8,461,041,779 ド ル 2,464,780,777 ド ル 29.13% 負 傷 1,503,401,608 ド ル 450,247,073 ド ル 29.95% 合 計 9,964,443,387 ド ル 2,915,027,850 ド ル 29.25% 出 所 : Feinberg (2004), 10 ペ ー ジ こ う し た 補 償 金 の 査 定 方 法 に よ っ て 、犠 牲 者 補 償 基 金 は テ ロ 攻 撃 の 犠 牲 者 2,880 人 の 遺 族 お よ び 2,680 人 の 負 傷 者 に 対 し て 、総 額 70.49 億 ド ル( 1 兆 573 億 円 )の 補 償 金 を 支 払 っ た 。最 終 的 に は 犠 牲 家 族 の 97%が 補 償 金 を 受 け 取 っ た 。一 人 当 た り で は 、死 者 の 遺 族 は 平 均 200 万 ド ル( 3 億 円 )、負 傷 者 は 40 万 ド ル( 6,000 万 円 ) の 補 償 金 を 受 け 取 っ た 22 。 ここで死亡補償金を受け取った人の職種を見てみると、最も多いのが金融保険 不 動 産 業 の 1,669 人 、 次 い で 消 防 士 342 人 、 コ ン ピ ュ ー タ 技 術 者 130 人 、 公 務 員 105 人 な ど と な っ て い る 。 死 亡 補 償 金 受 取 額 を 犠 牲 者 の 職 種 別 に 見 て み る と 図 1 21 当然、高額補償金を手にした家族とそれを許した復興基金の補償方法には強い 批判が集まった。 22 死 亡 補 償 金 を 受 け 取 っ た 人 の 中 に は 59 カ 国 に お よ ぶ 外 国 人 も 含 ま れ て い た 。そ の う ち 最 も 多 く の 犠 牲 者 は 英 国 の 52 人 で 、2 番 目 が 日 本 の 23 人 だ っ た 。Final Report, 103 ペ ー ジ 、 Table No.6 参 照 。 - 11 - の よ う で あ る 。 平 均 200 万 ド ル と 言 っ て も 、 金 融 保 険 不 動 産 関 係 が 一 人 当 た り お よ そ 250 万 ド ル 、 弁 護 士 等 が 200 万 ド ル 超 で 、 あ と は 100 万 ド ル か ら 200 万 ド ル の 間 が 多 い 。負 傷 者 補 償 も 含 め た 全 体 で は 、最 高 額 は 一 人 860 万 ド ル( 12 億 9 千 万 円 )、 最 少 額 は 一 人 500 ド ル ( 7 万 5 千 円 ) で あ っ た 。 注 目 さ れ た の は 、 救 援 活 動 に 献 身 し て 犠 牲 に な っ た 消 防 士 が 一 人 当 た り 160 万 ド ル 、 警 察 関 係 者 が 150 万 ド ル で 、 高 額 所 得 者 と の 間 に 大 き く 差 が つ い た こ と だ った。 図1 $0 $500,000 職種別一人当たり死亡補償金 $1,000,000 $1,500,000 $2,000,000 $2,500,000 金融関係 弁護士等 軍関係 コンピュータ技術者 失業者 港湾局職員 通信・放送関係 消防士 医師・看護士 その他 建設業 緊急医療スタッフ 警察 飲食店 清掃 公務員 航空会社従業員 民間警備会社 退職者 学生 家政婦 出 所 : Feinberg (2004), 55 ペ ー ジ の デ ー タ を 筆 者 が グ ラ フ 化 し た 。 6. 犠牲者補償基金の自己評価 33 ヶ 月 間 に 1 兆 円 を 超 え る 資 金 を 配 分 し た 犠 牲 者 補 償 基 金 は 、最 終 報 告 書 の 中 で 、 自 ら の 活 動 を 自 画 自 賛 し 、 成 功 の 理 由 を 次 の よ う に 分 析 し た 23 。 ①代替的手段としての損害賠償の追求には不確実性と時間的遅延が伴う。 23 Final Report, 1 ペ ー ジ 。 - 12 - ②基金は犠牲者家族に補償金受給について詳細な情報を提供する異例な手段を とった。 ③基金は、申請を待つのではなく、犠牲者家族のところに出向いて事情聴取を するといった行動的なアプローチをとった。 ④基金は、裁判所での事情聴取に加え、申請者から個人的な思いを聞く機会を 設けた。 ⑤基金は、遅滞なく明確に補償金を支払い、犠牲者家族はそれによって問題の 「終結」を納得することができた。 しかしながら、犠牲者補償基金の残した課題も大きかった。最終報告は「第3 章 観察と教訓」で、犠牲者補償基金は正しい政策であったかについて、大きな 疑 問 が 3 つ あ る と す る 総 括 を 行 っ て い る 24 。 第一は、なぜ議会は、他に数多く人生の不運に見舞われる犠牲者が存在するに も か か わ ら ず 、今 回 少 数 の 者 を 対 象 に こ れ ほ ど 大 型 の 補 償 を 行 う 決 定 を し た の か 。 第 二 は 、人 口 全 体 の 中 の 少 数 者 に 補 償 す る こ と が 是 認 さ れ た と し て も 、な ぜ ATS 法は、犠牲者に個別事情に応じた異なる金額の補償金を認めたのか。そして第三 に 、今 後 も し 同 様 の テ ロ 攻 撃 が あ っ た と き 、議 会 は 、2001 年 犠 牲 者 補 償 基 金 を 前 例として同様な基金を設立すべきか、それとも、今回の措置は「前例のない歴史 的事件に対する特殊な対応」とすべきか。 こうした疑問に対して「最終報告」は次のような分析を行っている。第一の点 について米国民の多くが想起するのは、オクラホマシティにおけるテロ攻撃や 1993 年 の 最 初 の 世 界 貿 易 セ ン タ ー へ の 攻 撃 で あ る 25 。そ の と き の 犠 牲 者 に 連 邦 政 府は補償金を支払わなかった。 この点に関する最終報告書の説明によれば、テロリストが米国籍であるか外国 籍であるか、あるいは米国本土における外国籍の人物による攻撃であるかといっ た点は本質的ではなく、犠牲者補償は「未曾有の歴史的大事件に対する国民的共 感 」 に よ っ て 支 え ら れ て い た と い う 。 9/11 は 米 国 史 上 、 南 北 戦 争 、 真 珠 湾 攻 撃 、 ケネディの暗殺といった事件に匹敵する大事件で、 「 米 国 民 が 示 し 、共 感 し た テ ロ リスト攻撃への悲嘆、恐怖、深い怒り」の集団心理によって支えられていた。 第二の、個人ごとに異なる補償金というやり方にも問題はあった。消防士の未 24 Feinberg (2004) , 78~ 84 ペ ー ジ 。 1993 年 WTC の 駐 車 場 で 車 積 爆 弾 が 爆 発 し た 。 首 謀 者 は ア ル カ イ ダ に 財 政 支 援 を 受 け た と さ れ る イ ス ラ ム 系 の 8 人 で 、 死 者 6 人 、 負 傷 者 1,042 人 の 犠 牲 者 が 出 た 。 1995 年 に は オ ク ラ ホ マ シ テ ィ の 政 府 の 建 物 が 爆 破 さ れ 、168 人 が 死 亡 、800 人 以 上 が 負傷した。犯人は 3 人の米国人だった。 25 - 13 - 亡 人 が 「 な ぜ 、 英 雄 と し て 死 ん だ 私 の 夫 の 補 償 金 が 、 103 階 で 鉛 筆 を 使 っ て い た だ け の 証 券 会 社 の 人 よ り 100 万 ド ル も 少 な い の か 」と い う と き 、返 す 言 葉 は な か った。個人ごとの補償金の査定も時間がかかり、複雑でなかなか全員が満足のい くことはできない。計画的に生命保険をかけていた家族が政府の補償金から保険 金収入を差し引かれ、保険をかけていなかった家族と受け取る補償金の総額が変 わらないことも不公平だとされた。 そうした批判からは、全員一律に補償金を支払う方法の方が良かったかもしれ ないという考え方が浮かぶ。しかし、一律補償金となれば、その水準をどう決め るかが大きな問題となる。個別事情への配慮という声も高まるであろう。この問 題について「最終報告」は、将来類似の制度を作るときに考慮に入れるべき重要 事項と位置づけている。 第三の、将来のテロリスト攻撃に対する補償金制度の恒久化や前例化について 「最終報告」は、将来の議会判断をしばるべきではなく、類似の攻撃が起こらな いよう期待するしかない、と述べている。 7. 結語 犠牲者補償基金については、今日まで米国では学問的論争が続いている。保守 系 自 由 主 義 者 の 団 体 で あ る Federalist Society (2002)は 、 補 償 金 の 受 け 取 り と 引 き 替えに申請者に訴訟権の放棄を求めた基金のやり方を、選択の自由に対する重大 な 侵 害 と し て 批 判 し た 26 。 ジ ュ リ ア ー 二 元 ニ ュ ー ヨ ー ク 市 長 を 支 え る 保 守 系 の シ ン ク タ ン ク Manhattan Institute (2005)は 、犠 牲 者 補 償 基 金 は 、複 雑 化 し た 米 国 の 損 害賠償システムの悲劇的な落とし子だとして、損害賠償法システムの欠陥を指摘 し た 27 。 南 カ リ フ ォ ル ニ ア 大 学 法 学 部 の Gillian Hadfield (2005)教 授 も 、 同 時 多 発 テ ロ が 攻 撃 し た の は 米 国 の 法 制 度 だ っ た と 論 評 し た 28 。 シ ン ク タ ン ク の ラ ン ド ・ コ ー ポ レ ー シ ョ ン は Compensation for Losses from the 9/11 Attacks (2004)と い う 報 告 書 を 発 表 し 、9/11 テ ロ 攻 撃 の 犠 牲 者 補 償 に か か る「 保 険」 「義援金」 「政府資金」 「 損 害 賠 償 」の そ れ ぞ れ の 役 割 と 特 徴 を 詳 細 に 分 析 し た 29 。それによると、個人および企業を対象としたすべての補償制度を通じた補償 26 The Federalist Society for Law and Public Policy Studies (2002), The 9/11 Victim Compensation Fund: Overview and Comment, March 27. (http://www.fed-soc.org/doclib/20070326_VictimFund.pdf). 27 James R. Copland, Tragic Solutions: The 9/11 Victim Compensation Fund, Historical Antecedents, and Lessons for Tort Reform, January 13, 2005 (http://www.manhattan-institute.org/pdf/clpwp_01-13-05.pdf). 28 Hadfield (2005). 29 Lloyd Dixon and Rachel K. Stern (2004). - 14 - 金 総 額 は 380 億 ド ル( 5.7 兆 円 )、そ の う ち 保 険 は 196 億 ド ル( 2.9 兆 円 )、政 府 158 億 ド ル (2.4 兆 円 )、義 援 金 27 億 ド ル( 4 千 億 円 )で 、損 害 賠 償 は 事 実 上 0 だ っ た 。 補償の全体像を示したのが図である。 図3 同時多発テロに関連する補償の内訳 100万ドル 25,000 20,000 義援金 政府 15,000 保険 10,000 5,000 事業者 労働者 住民 精神的負傷 環境悪化による負傷 救急隊員死亡または重傷 民間人死亡または重傷 0 出 所 : Dixon and Stern (2004), Table 8.2, 135 ペ ー ジ の デ ー タ を グ ラ フ 化 図3で注目されるのは、犠牲者補償基金が個人と遺族を対象にしていたのに対 し 、 補 償 金 総 額 380 億 ド ル の う ち 、 最 も 大 き な 割 合 は 事 業 者 ( business) に 向 け られていたこと、事業者は補償のおよそ3分の2を保険でカバーしていたことで ある。 学 会 の 反 応 も 、犠 牲 者 補 償 基 金 を 設 立 運 営 し た 政 府 の 政 策 よ り も 、む し ろ 訴 訟 大 国 と い わ れ る 米 国 の 損 害 賠 償 法 シ ス テ ム の 批 判 に 向 け ら れ た 。 た と え ば 、 James Harris (2006) は 米 国 の 損 害 賠 償 法 は 矛 盾 だ ら け で 、 ル ー ビ ッ ク キ ュ ー ブ の よ う に 一 面 を 合 わ せ る と 他 の 面 が 不 揃 い に な る と し て 、補 償 に 無 責 任 原 則 を 導 入 す る ニ ュ ー ジ ー ラ ン - 15 - ド 型 の 総 合 的 社 会 保 険 制 度 の 導 入 が 望 ま し い と し た 30 。 ま た Tinari, Cahill and Grivoyannis( 2006) は 、 犠 牲 者 補 償 基 金 は 経 済 的 被 害 を 正確に査定していたかを問題とし、補償額は個人ごとに大きな差を示したことか ら、法廷経済学者とスペシャルマスターが公聴会で得た申請者の印象に左右され た 可 能 性 が 高 い と し て 、 公 正 さ の 視 点 か ら 将 来 へ の 課 題 を 残 し た と 結 論 し た 31 。 緊急事態における被害者補償のあり方については、これからも学問的研究が続け られるであろう。 本稿の総括としては、犠牲者補償基金の性格と意味について、次の点に注意し ておく必要があると思われる。 9/11 犠 牲 者 補 償 基 金 は 、 あ ま り に も 複 雑 で 長 期 間 を 要 す る 米 国 の 損 害 賠 償 法 ① システムを背景として、航空会社の賠償責任を政府が肩代わりすることを主 たる目的として設立された。 9/11 犠 牲 者 補 償 基 金 は 、 未 曾 有 の 大 惨 事 に 対 す る 国 民 の 精 神 的 エ ネ ル ギ ー を ② 政治が代弁する形で立法化され、犯罪被害者補償や自然災害被害補償などの 制度との整合性および連邦財政への負荷等の行政的配慮は顧みられなかった。 ③ 公平性をめぐる多くの議論は、類似の人為的災害との対比においてのみ行わ れ、規模を問わず自然災害被害への政府の対応については、まったく比較の 対 象 と さ れ な か っ た 。 事 実 、 2005 年 8 月 23 日 の ハ リ ケ ー ン 「 カ ト リ ー ナ 」 は 全 米 史 上 5 番 目 の ハ リ ケ ー ン で 、死 者 1,836 人 、経 済 被 害 812 億 ド ル( 1 兆 円 ) の 被 害 を も た ら し た が 、 連 邦 政 府 は 犠 牲 者 補 償 基 金 を 設 立 し な か っ た 32 。 ④ 犠 牲 者 補 償 基 金 は 、被 災 者 の 居 住 用 資 産・事 業 用 資 産 を 含 め 、す べ て の 損 害 を 補 償 し て お り 、日 本 で 議 論 に な っ た よ う な 、公 的 資 金 は 私 有 財 産 の 補 填 あ る い は 形 成 に 支 出 で き な い と す る 議 論 は 、立 法 過 程 に お い て も 、犠 牲 者 補 償 基 金 へ の 批 判 においても全く見られなかった。 ⑤ 当 初 被 災 者 は 、人 命 を 金 銭 で 補 償 し て も ら う こ と へ の 倫 理 的 抵 抗 か ら 、犠 牲 者 補 償 基 金 の 申 請 を 躊 躇 す る と こ ろ が あ っ た が 、 最 終 的 に は 犠 牲 者 家 族 の 97% が 補 償金の交付を受け入れた。 30 James C. Harris (2006), “Why the September 11 th Victim Compensation Fund Proves the Case for a New Zealand-Style Comprehensive Social Insurance Plan in the United States,” Northern University Law Review, vol.100, No.3. 31 Frank D. Tinari, Kevin E. Cahill and Elias Grivoyannis (2006), “Did the 9/11 Victim Compensation Fund Accurately Assess Economic Losses?” Topics in Economic Analysis & Policy, Vol.6, Issue 1. 32 学 会 か ら は カ ト リ ー ナ 基 金 を 創 設 す る 提 案 が あ っ た 。 た と え ば 、 Mitchell F. Crusto (2006), “The Katrina Fund: Repairing Breaches in Gulf Coast Insurance Levees,” Harvard Journal on Legislation, Vol.43, No.2 を 参 照 。 日 本 で の 問 題 意 識 に つ い て は 上 野 山 ・ 荒 井 (2007)を 参 照 。 - 16 - 法政治文化の異なる米国での政策手法をそのまま日本に導入することには慎重 でなければならない。しかしながら、国民の高揚した精神的エネルギーを大惨事 後 わ ず か 11 日 で 立 法 化 し 、必 要 な 1 兆 円 以 上 の 規 模 の 財 政 負 担 の 推 定 で さ え 後 回 しにして、遅滞なく被害者家族の生存者が経済的打撃で追い打ちをかけられない よう措置した政治のリーダーシップは、十分注目されるべきであろう。 参考文献 The Avalon Project at Yale Law School, September 11, 2001: Attack on America Congressional Record House – Air Transportation Safety and System Stabilization Act; September 21, 2001, Air Transportation Safety and System Stabilization Act – (House of Representatives – September 21, 2001) ________, Air Transportation Safety and System Stabilization Act – (Senate – September 21, 2001) City of New York Office of the Comptroller (2001), The Impact of the September 11 WTC Attack on NYC’s Economy and City Revenues, October 4. Lloyd Dixon and Rachel K. Stern (2004), Compensation for Losses from the 9/11 Attacks, Rand Corporation, (http://www.rand.org). Kenneth R. Feinberg (2004), Final Report of the Special Master for the September 11 th Victim Compensation Fund of 2001, Department of Justice, November 22. Government Accountability Office (2002), “Impact of Terrorist Attacks on the World Trade Center,” May 29. Gillian K. Hadfield (2005), “The September 11 th Victim Compensation Fund: ‘An Unprecedented Experiment in American Democracy,” University of Southern California Legal Studies Working Paper Series, Paper 3. National Commission on Terrorist Attacks Upon the United States - 17 - (2004), The 9/11 Commission Report: Final Report of the National Commission on Terrorist Attacks Upon the United States, Department of Justice, July 26, 2004.( 独 立 調 査 委員会最終報告書) New York City Partnership and Chamber of Commerce (2002), Economic Impact of the September 11 th Attack on New York City, November 2001, revised February 11, 2002. New York Governor and State Division of the Budget (2001), Rebuild New York – Renew America: The World Trade Center Attacks; Current Estimated Cost; and other supporting documents, October 9. William C. Thompson, Jr., Comptroller City of New York (2002), “One Year Later: The Fiscal Impact of 9/11 on New York City,” September 4. 上 野 山 智 也・荒 井 信 幸 (2007)「 巨 大 災 害 に よ る 経 済 被 害 を ど う 見 る か ―阪 神・ 淡 路 大 震 災 、9/ 11 テ ロ 、ハ リ ケ ー ン ・ カ ト リ ー ナ を 例 と し て ―」内 閣 府 経 済 社 会 総 合 研 究 所 、 April - 18 -
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