10[12/21〜12/31]

パリ籠城期(1870年9 月18日〜1871年1月28日)におけるフランスとヨーロッパ-10[12/21〜12/31]
翻訳:横浜市立大学名誉教授 松井道昭
【501】
12月21日(火)
(戦況)
メクレンブルク大公によって指揮された軍団はル・マンをめざし北はシャトーダン Châteaudun 街道を、
中部はエピュゼーEpusay とサン=カレーSaint-Calais を、南部はシャトー=ルノーChâteau-Renault 街道
を通って前進継続中。
今のところ、サン=カレー街道を通る部隊がいちばん先頭を進んでいる。18 日、同部隊はドルエーDroué
でフランス軍をうち負かしたのちエピュイゼーで追撃戦を展開する。右翼は 17 日、ポワレーPoislay や
ラ・フォントネル La Fontenelle の近郊で会戦。
【502】 ヴェルサイユからの通信によれば、同軍も有利な出撃戦を展開中といわれる。左翼は 12 月 19
日になって初めてシャトー=ルノーChâteau-Renault 街道をヴァンドーめざして進軍を始めた。ポワレ
ーとラ・フォントネルはシャトーダンの西方 20 キロメートルに位置する村落である。シャトー=ルノー
はヴァンドームの南方 25 キロメートルにある、トゥールへ続く町である。
アミアン周辺ではヴィリエ=ブルトヌーVilliers-Bretenneux の戦いの後再編されたフランス北部軍と
マントイフェル将軍麾下のドイツ軍後衛とのあいだにくりひろげられる最初の衝突が起きた。砲兵隊と
ともにアミアンで出た 2500 人の偵察隊と衝突したポルツェ・ディヴォワ Paulze d’Yvoy 分遣隊の2大隊
がこれを撃退。死者がフランス軍の手中に落ちる。全部で 10 名以上が死亡または負傷した。この損失は
さして重大ではなかった。しかし、この衝突の結果、北部軍がドイツ軍の電報がアミアン占領時に報道
したほどに四散していないこと、そして、そうした四散を得るためには少なくももうひとつの大戦闘が
必要であることがわかった。ドイツ軍はそれを準備している。ル・アーヴルへの移動を延期してドイツ
軍はモンディディエに 2500 人の部隊を集中したが、ここに 11 月 27 日の戦闘における主力が駐留して
いた。
ロワール以南、ジアン Gien、ブリアール Briare、ブールジェ Bourges、ヴィエルゾン Vierson、モン
リシャール Montrichard、トゥール Tours での作戦について独仏両軍ともに正確な情報が得られないで
いる。
リヨン軍団はニュイの奪還に多大な犠牲をだす。セラーCeller 大佐は重傷を負った。
(イギリス。ブライト Bright 氏の辞任)
ブライト氏はイギリス閣僚の地位を辞任した。貿易局 Board of Trade の責任者は幾度となく、その同
僚とくにグラッドストーン氏から受けていた懇請があったため、彼は自分にとって健康回復に欠くべか
らざると見なしていた措置を執るのを今までさし控えていた。
ロンドンで広まっているある解釈によれば、ブライト氏の引退の本当の動機はイギリスがフランスの
ために干渉に、必要とあらば武力干渉に打ってでるべきというところにあった。断言できそうもないが、
異論の余地のないことといえば、それは人民階級において開戦時にドイツに対して同情的であったイギ
リスの同情がしだいにフランス側に移り、この気運は勝利者がその任務を遂行し、その意思を表明する
のにぶつかる障碍を諸新聞が目立たせるにつれ顕著になっていく。
ブライト氏はグラッドストーン内閣中で民衆思想の最も権威ある代弁者であり、他の閣僚はブライト
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氏が下層階級に鼓吹した信任から利益を受けた。著名な演説家で経済学者のこの引退はじっさい、現内
閣にとの弱体化を促すものである。
【503】すべてのイギリスの新聞はブライト氏の引退を惜しみ、彼に
誠実さと祖国愛のゆえに敬意をはらっている点では一致する。
(アイルランド)
グラッドストーン首相はこの不幸な国に対する力を回復させる使命を続ける。閣議決定によりすべて
のアイルランド独立主義のゆえの囚人は釈放された。一方、伝えられるところによれば、王妃の第三子
アーサー王子は副王としてダブリンに居住を定めるという。
独立派に与えられた大赦が手放しのものではないことを忘れまい。独立派の囚人は連合王国を離れ、
ふたたび足を踏み入れないという条件でのみその大赦の恩恵を受けるとされた。
(スペイン。オロサガ Olozaga 氏の召集)
スペイン議会は適当な時と場所で語ったことのあるオロサガ氏の召喚に没頭する。
この外交官の帰還について調べ、内務大臣は電信がわれわれに会議について伝えている略式指示によ
って判断するかぎり、かなり十分に曖昧な返答を与えた。にもかかわらず、彼は議会に返答する。スペ
イン議会はパリの国防政府は認知したが、今までのところ、共和政をけっして認めていない、と。
大使館はオロサガ氏の召喚ののち資格のないまま放置された。しかし、サガスタ Sagasta 氏はこの状況
から抜け出し、別の者に対しフランスは現在、マドリードに大使館を維持していない旨を伝えた。
(ドイツにおけるフランス人捕虜)
ドイツにおけるフランス人捕虜に関する計画について興味深い記事。
(戦争犠牲者)
プロイセン軍によって今日まで被った損害を示す 126 のリストがベルリンで公表された。
【504】以下
にその合計を示す。殺傷者は将軍 12 人、参謀 206 人、下士官 3 千人、兵卒 53,500 人。この巨大な数字
に行方不明者を加えると、人々を戦慄させる。なぜというに、欠員のなかに捕虜と脱走者、見分けがた
いほどの不具者と遺骸がある。算定された欠員は全部で 7 万人! ほどになる。何という血! これは一
大都市の人口に等しい。
(ローマの新制度、エピソード2話)
臨時政権の没落と新政府の樹立は数多くの事件により特徴づけられる。ローマ市民には長いあいだ自
由が欠けていたため、彼らのうちある者はその状況において生まれた変化を濫用する。宗教新聞はこれ
ら解放された若者の愚行を非難する。同紙は真っ赤になって怒り、叫び、奔走するが、今のところさし
たる効果を挙げていない。
ローカル色豊かで精神状態をよく示す以下の2つの事実。我々がその話を借用したのはその宗教新聞
である。…[中略]…
(あるアルザス人水夫として生まれ、…しかもフランス人ではない)
以下の驚くべきエピソードは『ベルギーの独立』紙の一通信によって集められたものだ。
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【505】
(役にたたないリスト)
ベルギー諸紙から得られる記事は、戦争障碍者の軽微なこと、ヨーロッパの前でフランスで演じられ
ているばかげた役割を明らかにする。この欠陥、この軽微――1 人の人物と彼が任命した人物によってつ
くられた――がパリの勇気と英雄主義によって償われたことにより恥に感じる理由はもはや存在しない。
(Deus hæc otia fecit)
スイスが帝政の敗残者でいっぱいのようだ。ジュネーヴは知事、名士夫人、その他官吏でいっぱいであ
り、ボナパルトの没落が彼らに閑を出したのだ。
(ある司教の献身)
シャロンで印刷された『マルヌの進歩』紙は伝える。すなわち、この町の司教メニャン Meignan 卿は
蒸気機関車に乗って日常の職務をするよう定められている名士のリストに自分を登録し、この嘆かわし
い労役に服務する家族の父にとって代わることを提案した。
【506】
(不人気の降伏)
ルーアンの降伏文書の第3条はフランスにおいて最も大きな憤激を惹き起こす。手許に文面がある。
「動員された 20~40 才のすべての市民は捕虜となり、プロイセンの将軍が必要と認めればプロイセンに
搬送される」
。
(ボナパルト派の論争、怒りと罵倒、貴重な商人、軽蔑ぶりの継続)
ボナパルト派の悔しさと怒りは絶頂に達する。とりわけ、ボナパルト一派を苛立たせることは、彼ら
がいなくても、また彼らの存在にもかかわらず、フランスを統治し教育することができるということだ。
したがって、国防という一大事業のために献身する人々をあらゆる手段を尽くして探しださねばならな
い。
『シテュアシオン』紙によって公開された手紙からの次の一節は彼らの慚愧とナポレオン三世の失権
以来なされた偉業を小さく見せることの不可能性を示している。
【507】
(ドイツ監督官の補佐)
ソーセージが現下の戦争で第一の役割を演じている。それはドイツ監督官にとって貴重な補佐となっ
ている。
【508】
12月22日(木)
(戦況)
『ベルギーの独立』紙の記事。
(パリ、情勢に関する朗報。平和的和解と和平交渉のための『タイムズ』紙の暗示)
世論はいつも極端に進む!…長いあいだ、パリは食糧枯渇寸前と考えられていた。当時、首都の運命
を待ち受けている運命、首都が降伏するのではないかといった必然性について広められた陰鬱な噂はな
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かった。プロイセン軍は彼らの飢餓こそが大都市の門を開かせるだろうということを確信していたため、
砲撃を容赦していたように思われる。
本日、魔術のように、また稲妻がとつぜん光を発するかのように、悲観的情報が極端に楽観的になる。
イギリスの通信はプロイセン司令部の良き友人の困惑と誤算について語る。彼らは確信するにいたる。
つまり、前進する代わりに後退している、と。砲撃のための準備はできていない。砲撃はおそらく無効
力であろう。
【509】最後に、飢餓に瀕していると見なされたパリでは自由にパン、ぶどう酒、馬肉を入
手している。
状況に関し得られる新たな情報は同時に敗者に直面している調子の変化を引き起こす。パリとフラン
スはなおまだ大胆かつ長期にわたって戦う能力をもつことは確実視されている。したがって、人々はそ
の点に関してより易しくなり、より少なくつっけんどんに、また都合のよいようになる。フランスにち
てはもはや以下のことは言われなくなっている。フランスがそれがどんなに厳しいものであってもなに
がなんでも講和に応じ、征服者の言いなりになることはプロインこそ疲弊し、倦怠と疲労の極点にある
のだ。最も強く弁護し、弱者に飛びかかる習慣。
現況においてプロイセン王はなお勝利者でいるだけのことだ。ゆえに、そこに形式がある。無遠慮に
パリを放置せよとは言われない。パリの武器はほどなく尽き、城壁の中では常にそれが消尽されつつあ
るということを。
フランスをそのばかげた抵抗と無用な抵抗のゆえに数日前に冷やかしたのもこの『タイムズ』紙であ
る。この態度の急変はパリが最良の防衛の条件を維持していることの疑えない証拠である。
しかし、このことは『タイムズ』に限らない。パリがなおまだ長期間防衛し、攻撃側をうんざりさせ
る能力があるということを声を振り絞って叫ぶのはすべてイギリスの新聞、すべてのヨーロッパの新聞、
ドイツの新聞ですらある。パリ備蓄が底をついたことを伝える電文をわれわれは受け取っていない。
1か月前、いたるところで抜きんでいたあらゆる不吉な見通しを読むとき、今日、パリ市民がおかれ
た恵まれた状況につい書かれた事柄を読むことで夢を見ているよう。
【510】…包囲の後、彼らを待ち受
けているのはその運命と栄光を羨むことである。
この前代未聞にして一致した急激な旋回の証拠として、以下に掲げるのは 12 月 12 日の『フランクフ
ルト』紙に掲げられた「パリの真実の状況について」と題する記事である。
(メッスの降伏)
バゼーヌ元帥にたいしすでに向けられたすべての証言――その最新の仮綴じ本はけっして国防を進め
はしなかったが――のいずれよりも決定的にし雄弁な新しい証拠が出処した。われわれが有罪証明とな
る新たな記事に関し『ベルギーの独立』紙は言う。すなわち、
「このニュースは参謀本部の1大佐から出
たものである。彼はメッスの捕虜であり、大領主にしてテュイルリー宮の旧友、北欧の強国駐在フラン
ス大使館の高位武官であった。さらにこの高級将校は近く【511】次々とメッスの包囲について完全な日
記を公刊するであろう。そして、この著書には彼の名が記されるはずである」
。
(プロイセンの勝利の継続の原因はどこにあるか?)
ドイツの通信員は本日、以下のごとく表白する。クールミエの戦いの後、パリ包囲軍は危機に瀕して
おり、ドーレル将軍が遅滞なくヴェルサイユに矛先を向けていたならば、首都の包囲は恐らく解かれた
であろう。通信員は続ける。もしメッスがあと15日もち堪えていたなら、ここの包囲も解かれていた
だろう。そして、フリードリヒ=カール軍はモーの手前に布陣したかもれしれず、パリの前で立ち往生し
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た可能性もある。
(戦争犠牲者)
ベルギーの新聞から借用した驚くべき記事。ドイツ軍がその根拠地に戻ってきて見出した悲痛な惨劇。
【513】
毎日、毎時間、戦災孤児と犠牲者の数が増大し、敬虔王、人道的国王、温情的国王が「余はパリでし
か講和に調印しない」
、すなわち、これら殺戮行為に終止符を打つことはないと叫ぶ。
(軍事教練。ゲリラ戦闘部隊の死刑、軍職剥奪の刑)
問題になっている事実はフランス南部、就中マルセーユとリヨンで苦しいセンセーションを巻き起こ
す。
(ドーレル将軍の退却、
『スタンダード』紙の暴露)
本日、フランスではドーレル将軍が正当にか不当にかプロイセン軍に対抗しうる優勢兵力をもってい
るにもかかわらず退却戦を挑んだかどうかだれもまだ知らない。イギリスの諸紙はこの問題に関し我々
よりよい情報をもっているようだ。少なくとも『スタンダード』紙は眉ひとつ動かさず、次の如く言う。
【514】
われわれが『スタンダード』紙が与える大きな信頼にもかかわらず、
「噂による」同様の事柄はオルレ
アンからドーレル将軍の退却において不明点があることを明らかにしているとは思えない。この作戦の
原因をちょうさするために任命された査問委員会はおそらくわれわれと同一見解であろう。…しかし、
だれがそれを知るか? それを構成するメンバーが抗議するであろうということを!…ところで、何も
答えてはならない…。なぜならセクトの精神がなさせようとするすべての事柄を言うことの出来る者が
見、言わしめるだろうか?
(オルレアンの司教とオルレアン州の最近の状況)
すべての者が堪えがたい活動、デュパンルーDupanloup のイニシアティヴの精神、その大きな影響を知
っている。価値ある者、そして中庸の人物がオルレアンの壁ないで今月の初めに繰り広げられた出来事
と同じ程度に重大で、重要な出来事において果たすことができ、また果たすべきであった役割について
知ることは恐らく奇妙であろう。こういうわけでわれわれはこの問題に関する情報において富んでおり、
著名な司教にして論説家に捧げられた情報から出ている以下の記事を集めてみようと思う。
【515】
(帝国軍隊の参謀)
帝国軍の参謀において戦争によって導き入れられた審査と変化。
【516】
12月23日(金)
(戦況)
新たな感情! 新たな心配!
パリ軍が出撃戦を挑む。そして、重要な軍事作戦がこの文章を書いている最中にも実行されているだ
ろう。
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われわれが語ろうとする出撃戦は 21 日におこなわれた。いつもと同じく交戦2国の解釈は互いに矛盾
する。われわれは双方の言い分に耳を傾けよう。パリに幽閉されている読者、侵略された諸県に閉じ込
められた読者は公衆の新たな苦悶と躊躇がどんなものであるかわかるだろう。
フランス側の解釈は気球によってもたらされた。最初にドイツの電文に語らせよう。
【517】…[略]…
以上が双方の解説である。真実であるためにわれわれは次のように言わねばなるまい。公衆はプロイ
セン軍本営から出た情報以上に、気球によってもたらされた情報に信を置こうとする。プロイセンはご
く最近、デュクロ将軍の出撃戦をあまりにしばしば、そして、あまりにも厚かましくも否認したため、
プロイセン発の電文はすべて信用を失っているのだ。
パリ周辺のこれら作戦はもっと重要な戦史の前奏となるだろうか? これもまもなく明らかになるこ
とだ。
北部軍から朗報。ほどなくこの面でもはや何も期待しなくなっているパリ市民は、この軍隊が未だル
ーアンにいると信じていた。マントイフェル軍を相手に勇敢に戦っているのを知ったら吃驚するだろう。
大きな戦闘がアミアン近郊で切迫している。ここにはノルマンディから来たすべてのプロイセン軍が溢
れている。
シャンジー将軍が混乱なくル・マンに到着。したがって、ブルターニュ軍に合流しパリへの道を辿る
ものと思われる。
ブルバキ軍のニュースはすばらしい。彼の軍隊は再編され意気回復した。オルレアン再奪還ののち優
柔不断と無気力を示したのはとりわけこの軍隊である。ブルバキ将軍は、われわれが思い違いをしてい
ないかぎり、
メッスの軍隊から逃れたクランシャン Clinchamp とビローBilot 両将により補佐されている。
状況が許せば好転することがわかるというもの。パリがあと何日もち堪え、わが軍がそれを開放し、
メッスとスダンの復讐をやってくれるであろう。
ガンベッタはつねに疲れを知らない。彼はシャンジー軍にいたかと思えば、今度はブルバキ軍にいる。
今や彼はリヨンにおり、ここには利用すべき莫大な量の軍事資源がある。いたるところで彼は勇気を鼓
舞し穏健派を奮い立たせ、激昂した人々を宥め、すべての者に愛国的息吹、勝利への確信を与える。
フランスは2人の人物、2つの個性がメッスとスダンの敗北という恥辱を起こしたことをけっして忘
【518】フランスが彼ら2人の
れないであろう。今やトロシュがパリにいて、ガンベッタは地方にいる.
偉大な市民に向かって契約する感謝の負債を否認できようか。彼らは彼らがフランスとその意思に対し
てつねにかつ完全に尽くすべき義務のあることを忘れることができるだろうか。
(Si vis pacem, para bellum)
当時のイギリス海軍省は軍艦 30 隻(全艦装甲)以上を擁するとともに、命令一下、出港できる 50 隻以
上の輸送船をかかえていた。
徴兵はひっきりなしである。連合王国のための日々の賃金の平均は 300 フランである。その翌日、新
兵徴募が武器庫においてなされている。
ルーマニアとセルビアにおけるロシア代表部の陰謀についての噂が流れる。
ロシアのジュラ Joula の大兵器廠が昼夜の別なくあらゆる種類の労働者1 万 5 千以上を働かせている。
トルコはこのロシアの行動に備え、エネルギーと意見の攻撃に対応。アジアのイミッド Imid にあるト
ルコ大兵器廠の従業員はヨーロッパ側から毎日増強され三倍に増やされた。
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(リヨン=コミューンの宣言)
リヨン市当局は万事好転しているとは見なさない。それは驚くべきことではない。フランスはフラン
スに個人的権力をなさしめた後退に数か月して戻ってくるであろう。しかし、われわれのみるところ、
共和主義原理の方向において九月四日以来なされたことはすでに一考に値する。今や知事・市長が彼ら
にふりかかる重大責務に不忠実であるべきなのか。彼らのうち、だれかが「共和国のために彼らが披瀝
しなければならない活動をその権力否定者に隠そうとつとめる」ならば、これらすべてのことはあまり
に真実となるだろう。しかし、短期間で改革を済ませる国がどこにあるのか? 帝政崩壊以降、確認すべ
き進歩と改革はリヨンのコミューンがボルドー派遣部に宛てて出した宣言を見てもあながち軽蔑と悲観
主義には値いしないのである。
この宣言はあらゆる無能者、すべての無気力、すべての裏切りの精力的抑圧を要求する。宣言は非難
する。帝政の思い出を呼び起こすような場所での猟官たち、無為懶堕でふんぞり返っている連中、義務
を忘れた役人を非難する。宣言はあらゆる階級の官吏について責任原理の適用を要求する。そして、こ
の点に関し喧嘩をふっかけるのはわれわれの役目ではない。宣言は次の精力的な言を述べて終わる
【519】
(侵略者の敬虔。ヴェルサイユの神殿)
フランスの侵略者、とりわけ柔和で人道的な領袖ヴィルヘルム陛下に関していわれる敬虔感情の噂を
紹介しておこう。毎日曜日、状況のせいでルーテル派の教会に模様替えされたヴェルサイユ城の礼拝堂
で祭事がとりおこなわれる。きわめて人道的にして敬虔な国王がお供を引き連れてこれに参席する。
『ジ
ュネーヴ新聞』でわれわれが拾い集めたこれら宗教的盛儀のひとつの描写は以下のとおり。
(可能なら見分けよ)
ド・ケラトリ氏がブルターニュ軍司令官に任じられるという噂が流れる。最近、コンリーConlie 兵営
の高級司令官に任命されたマリヴォーMarivault 氏はこの時は彼の命令下に入っている。
別の噂によると、ド・ケラトリ氏は状況について政府に説明するため、パリへ帰る手段を模索中であ
るそうだ。
(プロイセン国民の優越。カルル・フォークト Carl Vogt の意見)
【520】 プロイセン人は自分らが優秀だと評価しはじめる。哲学者・文学者らはプロイセンにおける教
育の発展に大いに貢献したが、彼らはプロイセンの組織とか気質といったものが真に自由主義的なすべ
ての思想、すべての制度に反対するものであることを最初に認める。カルル・フォークトが平和のため
の仕事においてシュトラウスの反仏的世論を喚起した同胞の一人に宛て、この問題に関し興味深い手紙
を書いた。プロイセン精神、プロイセンの教育、プロイセンの自由主義なるものがこの手紙において、
師の手でかつ教訓的であると同時に刺激的な形式において厳しく痛撃されている。
【521】
12月24日(土)
(戦況)
プロイセン軍の面々はクリスマスの悲しむべき祭りを過ごした。昨日、われわれはフェデルブ将軍と
マントイフェル将軍との間に戦闘が切迫していると語った。この戦闘はアルベールとアミアンのあいだ
のポン=ノワイエル Pont-Noyelle で起こった。その戦闘は朝 11 時から夕方6時まで続いた。最初に砲
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兵隊の戦闘があり、戦場の全体にわたる歩兵隊の攻撃によって終わった。
この勝利は大きな精神的効果をもたらすだろう。それに加わったわが軍の軍団は大部分が徴募兵と遊
撃兵から成り、初めて戦線に投入された部隊である。戦闘に対するこれらの態度と結果は、
「自由の憤激」
が最もふさわしい唯一の表現であることを示す。この確信は、敵砲兵隊による攻撃を浴びても、かつ状
況が課す責務に対しても、わが歩兵を陽気にするものとなろう。
21 日の出撃戦に関しわれわれはヴェルサイユ発の新たな電報を入手した。それらは 22 日付であるが、
以前と較べ少々曖昧であり、より簡潔である。プロイセン王によると、出撃戦は北部軍が接近している
という想定のもとにおこなわれたようだ。ステイン Stains とル・ブールジェは最初、フランス軍によっ
て占拠された――なぜヴィルヘルムは最初の至急報の中でそれを語らなかったのか?――が、彼によれ
ば2大隊すなわちエリザベートとオーギュスト大隊と2個の衛兵大隊によって奪還されたという。
プロイセン至急報は以下のように伝える。…[略]…
【522】
われわれはこれらの戦闘に関し、ザクセン侯からの別の電報も知っている。曰く。ザクセン軍団はフ
ランスの3個旅団に対しても破れず、最初に解放された2か所は激闘の末に奪還され、ザクセン第 18 旅
団は 600 人の捕虜を獲得したが、そのうち、フランス第2軍団 50 人の将校が含まれた。
フランス側からの至急報がないために、これらの事実の確認ができない。しかし、情報統制はこれま
で以上に必要だったであろう。なぜなら、プロイセン電報とりわけ最初のものは真実を伝えていないの
は明瞭で、また終わってもいない戦闘を勝利としているからだ。
2番めの至急報も同じように留保しなければならない。
われわれにとって明らかなことは、事件がまだ端緒についたばかりであること、そして、トロシュ将
軍が新たにドイツ軍に対し侵入域を企図したということである。
『デーリーテレグラフ』の報道を信じな
ければならないとするなら、パリを包囲するドイツ軍は 17 万を超えることはないということだ。パリに
は少なくとも 40~50 万の軍隊がいるはずだ。包囲軍が攻撃した相手は巨大なものである。用意された戦
闘はしたがって重大であり、おそらく論議あるところであり、そして、何ぴともその結果を予測できな
い。
(トゥールにおけるプロイセン軍)
フランスの前の臨時首都は、水曜日に城内に向けてなされたプロイセン軍からの砲撃を受けた。その
日以降、周知のように敵兵はシャトー=ルノーChâteau-Renault 方面に撤退したが、プロイセン軍が採
用したばかりの新しい戦略によってトゥールはおそらく占拠されていないもよう。以下に水曜日付電報
の委細。…[略]…
(ロワール軍の戦い)
『スタンダード』紙の次の通信文は奇妙で興味深い詳細を伝える。…[略]…
【523】
(リヨンでの民衆暴動、アルノーArnault 司令官の暗殺)
昨日、知事の発した至急報は、われわれの歴史の中で最悪の日々を思い出させる恐るべき罪悪が午前
中に発生したことを伝える。
【524】熟達した一共和主義者にして、しっかりした性格をもつクロワ=ル
ッス Croix-Rousse の国民衛兵大隊長がかたちばかりの裁判に続いて数発の銃弾を浴びて殺害された。
ガンベッタ氏は直ちにボルドーに対し、犯された罪は住民に値せず、彼は積極的に見せしめの裁判が
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おこなわれたがゆえに罪人を探索している、と電文で伝えた。
以下、われわれの不運と裏切りの狂人を毎日のようにフランスで、とりわけかくも印象的でかくも愛
国的な住民の真直中で生じた紛争に関するこの悲しむべき委細を掲げる。…[略]…
【525】
(国防に関する保守系新聞の態度)
派遣部に関し幾つかの保守系新聞の態度の見本。述べるのはフランソワである。
ほとんどの軍務を占めるべく民間人しか残っていないのは誰のせいか? メッスやスダンが没収され、
わが軍事的資源の枢要部が無力化した責任をガンベッタに帰すべきか、それとも共和政に帰すべきか。
さらに、
『ル・フランセ』紙それ自体がまったく別の言語で、ド・ブロジル De Brozile 氏またはコシャン
Cochin 氏が何らかの使命を帯び、すなわち、戦争の行為について述べる。
われわれは、たとえば彼らが、彼らの有事の 2 人に委任された軍事的司令に対し抗議した。
さらに現代の歴史において『ル・フランセ』紙の冗談や批判を完ぺきに無用のものに帰すひとつの事
実がある。それはアメリカ合衆国における南北戦争である。北軍、上下級の司令は大部分平和的な教師、
弁護士、卸売商人――彼らは必要に応じて戦士となるのだが――の手中にあるのではなかった。このよ
うにして指揮されたこれら軍隊は職業に不慣れであるゆえに敗れるどころか、
【526】南軍――ここでの
将校やまともな正規軍があったのだ――に十分互角の戦いを勧めているのだ。…そうだ! フランスに
おいても現在のところ、正規軍はもはや存在せず、地上の名誉と国防とが軍隊を速成的に編成すること
を余儀ならしめ、今日、合衆国と同じようにそれをなし、将軍を配置し…。
(コンリー兵営)
われわれはケラトリ氏とカレ・ケリズエ Carré Kérisouët 氏が活躍したおりにコンリー兵営について
語った。
『スタンダード』紙が今日集められた軍事力の状態に関しわれわれに提供した情報は以下のとお
り。
シャンジー将軍が現在、ル・マンで支援されているのはコンリー兵営である。
(プロイセン軍のシャンパーニュ占領)
プロイセンの轍は未だかつてないほどにこの不幸な地方に圧しかかり、この地方は開戦以来、侵略に
晒されたのである。以下、この地方の惨状が記されている。
(ヴェルサイユの物的生活)
この町の住民は現下の諸事件を未だそれほど味わってはいない。以下に重要な食料価格の一覧表。…
[略]…
【527】
(プロイセンの自由主義)
プロイセン政府はドイツ急進主義に対する厳しい措置を追求、ベーベル、リープクネヒトの逮捕に引
き続き、
『フォーリッシュ・ツァイトゥンク Vollische Zeitung』紙が「戦争に関し非愛国的記事」ゆえ
に没収されたとの情報。
(ヴェルサイユでのフランス人将校の葬儀)
12 月 17 日、第 32 連隊中将ゴダール Godard という人物が陸軍軍曹によりヴェルサイユに埋葬された。
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彼は 12 月 2 日に生起したパリ出撃戦に際し、午前 4 時銃撃で貫通創を受けた。彼は横たわったまま戦場
に残され、当夜、彼は非常に固く凍った。その日の翌日、まだ寒さが厳しく、その夜もまた彼は凍り、
次いで 2 日間は土は雪で覆われ、やがて吹雪となり、こうしてもう 1 日彼は夜を過ごした。月曜日の正
午半に彼が発見されたとき、未だ息があった。しかし、2 本の足が凍傷を負い壊疽を起していた。彼はブ
リーのクルーズ Creuse に運ばれ手厚い看護を受け、12 月 14 日まで生きながらえた。
(ひとつの流れ星、ケラトリ氏の幻滅と不成功)
共和政の元警視総監の運命は決定的にぐらついている。将軍職を辞したのち、告発・訴追の軍事裁判
の脅威を味わったのち――このことに関し将軍は沈黙を守り通したが――コンリー兵営の前司令官はブ
ルターニュ軍の司令官の職を引き受けると申し出た。しかし、彼の要求はほとんど支持を受けなかった。
12 月 20 日、ナントのクラブで彼の要求がどのように遇せられたかは以下の記事に見える。最初に、議長
職のカンタグレル Cantagrel 氏、彼はケラトリ氏を攻撃する。
【528】
(ボナパルト派の陰謀)
これらの陰謀は誰の目にも明白となっている。それらはしばしば闇の中で企まれる【529】
。しかし、
時々不注意のせいか、あるいはわざとか、赤裸々に公表される。
『ベルギーの独立』紙が公表した次の書
簡は数多の陰謀のなかの一つである。
(アルジェーの状況。安堵させるニュース)
わが植民地の状況に関しきわめて心配な噂が幾たびも駆け巡る。暴動が切迫していると報じられた。
しかし、以下の記事は外国の新聞『ポール・モール・ガゼット』がアルジェリアの植民地のようすを伝
える。
【530】
12月25日(日)
(戦況)
ドイツ軍は一昨日、ポン=ノワイエルで起こった衝突での勝利を自らに帰している。ドイツ軍は数の
点で劣勢にあったが、それにもかかわらずフランス軍を全戦線にわたって――ボーモンからダウルス
Daours までの中心点がポン=ノワイエルである――撃退したとのこと。プロイセン軍発の電報はフェデ
ルブ将軍の頑強な抵抗を讃える。同将軍はアリュ Hallu 以遠に撃退することで夜まで土地を守ったとい
われる。
フェデルブ将軍の至急報はあまりにも明瞭であるため、われわれにとってその真実味を疑うのは不可
能である。ドイツ軍の不満を前にして――それは日増しに強くなるが――プロイセン軍が直面している
状況では、同軍はなにがなんでも敗北を認めることできないのだ。したがって、彼らの敗北を隠すため
に嘘をつくという事実に注目しなければならない。さらに、ヴィルヘルム陛下はフランス軍が 11 月 10
日、パリの城壁を越えてシャンピニーに駒を進めたとき、拠点の再占拠を告げることにより模範を見事
に垂れている。
パリで先日生起した軍事作戦はほとんど何らの結果をもたらさなかった。双方から多くの火薬が投じ
られたが、どちらもさほどの損害やさほどの重大な戦果を挙げなかった。少なくとも今日まで受け取っ
た情報はこうである。
すなわち、
国王の電文によれば、
350 発の榴弾がプロイセン軍団の真直中で破裂し、
10
わずか 1 人のみが負傷したという。したがって、プロイセン軍は不死身であることがわかる。こんな国
王を戴くとはなんと幸せな兵士であることか!
こうした殺戮が終わると、意識は悲劇と変わるはずである。
(リヨン市の希望)
リヨンのコミューンはつねにそれについて語る。われわれにその苦情を述べるのはわれわれではない。
われわれは少々誇張され、惰性と無関心に燃えた熱意のほうを好む。小さな地方の行政は眠りこけ、衰
える傾向にあった。リヨン、マルセーユ、ボルドーのような大都市がはらはらさせ、勝利と解放に導く
道を彼らに示すのは悪くない。
リヨン=コミューンの直近の行為は、同コミューンが派遣部に「国防政府の閣僚のあいだで承認され
た『リヨンの市民』であり、
『共和主義思想の権化』と見なしうる“傭兵隊長”ことガリバルディに会見
するという希望である。
【531】
いうまでもなく、この意向はさまざまな党派およびさまざまな角度から歓迎されていない。
(パリの大砲の射程距離)
サンジェルマンの『タイムズ』紙通信員は 23 日、著名なホテル前のテラスでおこなわれたあるシーン
について書く。
同じ通信員はつけ加える。ヴェルサイユ官邸はモン・ヴァレリアンのいかなる大砲も届かないという。
つまり、砲台の突きだした部分から 9,400 メートルの距離にある。
(ガンベッタ氏の健康)
『ヘルキュール』紙の報道では、ガンベッタ氏は地方に到着して以来、彼につきまとう心配事、彼を
【532】
狙った攻撃、軍隊への彼の疑問などによっても、精力的にして力強い組織は動揺していないもよう。
これとは逆にリヨンからの報道によれば、以下の如し。…[略]…
(終わりよければすべてよし)
ド・ケラトリ氏はコンリー兵営の司令官の地位に残っているようである。かくして、われわれが前に
述べたあらゆる噂、あらゆる風聞は否認されたことになる。デ・ケラトリ氏を再登用したのはグレ=ビ
ゾワン Glais-Bizoin 氏である。よって、われわれが前に残念な手紙を公表したのは迂闊だったといわざ
るをえない。
(
『ドラポー』紙の宣伝の成功。ロベール・ミシェルの抗議)
国防政府に対し敵対的である『ドラポー』紙は成功を収めた。グラニエ氏は“九月四日の面々”にと
って困惑を与える人間になりたいと希望した。彼はフランス軍とその領袖たちから、彼らが崇敬の念と
同情を失うことを希望した。ところで、その逆のことが生じた。フランス軍の馴れあいに依拠した
ボナパルト派の復権のあらゆる計画に抗議するだけで満足せず、捕虜となった将校および兵卒は国防政
府に同調し、あらゆる点あらゆる手段でそれを攻撃した『ドラポー』紙に対し嫌悪感を表明。この問題
についてロベール・ミシェルが友人に宛てた手紙の抜粋を以下に示しておく。…[略]…
11
(プロイセンの悪行。残酷な処罰)
フランスにおける侵入の逸話のあいだに挿入すべきある悲劇的な物語。…[略]…
【533】
(プロイセン王の暗殺計画)
バイエルン人がいつか非常に敬虔で人道的な国王を攻撃したとの噂の流布についてわれわれは前に示
した。この噂はビスマルク氏を信奉する諸新聞によって否認された。
にもかかわらず、
『ジェールの未来 Avenirs du Gers』紙はその噂について極めて詳細な情報を伝える。
…[略]…
【534】
(ボナパルト派の陰謀。前知事の小冊子)
ユージェルマン氏は『シテュアシオン』紙上で彼のかつてのボナパルト派擁護の論陣を張っている。
前知事に関していえば、副知事も役人もそれぞれが現下の状況に関するその言を小冊子から借用する。
彼らのうちいずれも彼らなりに、なぜ帝政が崩壊したか、そしてそれを再建するにはどうしたらよいか
を力説する。
ロンドンから『ケルン新聞』に対し、最近出たばかりのこれら小冊子の一つに関し掲載された記事。
…[略]…
われわれが今までみてきたように、幾つかの新聞によれば、このような状況下で執筆しつづけている
のは前知事である。しかし、だれもその名、ボナパルト派の筆者の頭文字さえもわからないのである。
12月26日(月)
(戦況)
われわれはついにポン=ノワイエル事件に関するドイツ側とフランス側の解釈のあいだにある矛盾の
用語を入手した。
【535】フェデルブ将軍が勝利者で、しかも華々しい完全な勝利者であった。その日の
夜、夜陰に紛れプロイセン軍はひとたび放棄した村落を再占領した。この動きはフランス軍の知らぬ間
に、そして、孤立した1~2日後におこなわれた。
翌日 23 日に新たな交戦。フランスの新たな敗北を伝えるドイツ軍の電文にもかかわらず、土曜日、フ
ェデルブ将軍は消息のわからない敵を待ち伏せしたのだ。フェデルブ将軍の戦略はアラス方面への戦術
的撤退を含む。敵側から何らの攻勢もないのを見て、彼は移動の実行を命じた。このようにして、良き
側からすべてを観察し、自分らに都合よいように解釈するドイツ軍は、フランス軍が退却戦の展開中と
言えたはずなのにである。
この件に関するフェデルブ将軍の行動はあらゆる賛辞を超える。彼は最後の一兵卒まで大事にしたの
だ。彼は自分の乗馬が殺され、衣服はやぶれボロボロになった。英雄的行動を発露し、開戦以来驚くべ
き活躍をなしたのは、海軍歩兵隊の勇敢な態度であり、とりわけフランスの勝利に貢献したのは、ヴァ
ンセンヌ猟騎兵の果敢な行動と猛進であった。
23 日の戦闘はこのうえなく激越だった。厳寒著しく、軍隊に配分されたパンは凍っていて食べられな
いような代物だった。それにもかかわらず、軍隊は戦場に野営する。ほとんどの兵士がフード付き長マ
ントをもたなかった。その翌日、前の晩からの疲れと寒さの持続にもかかわらず、全員がしっかりと敵
を待ち受ける。ところで、われわれが前述したように、彼らが発した電文によれば、この日の勝利者の
ドイツ軍は身動きしなかった。
12
要するに、この事件は北部軍とその勇敢な司令官に大きな栄誉を与えるものである。
ブルゴーニュでは戦闘状態にある軍は 12 月 18 日のニュイ Nuits 事件以降、身動きできない状態にあ
る。この町の占領が多くの人命を失わせたにもかかわらず、ドイツ軍はその翌日以降、この町を出た。
以後、オータン Autun、アルネー・ル・デュク Arnay-le-Duc、エピネーEpinay のガリバルディの陣地を
前にしてドイツ軍は何らの行動もとらない。
ベルギーの新聞諸紙に発表されたドイツ軍の通信文は、フランス人の将軍とガリバルディのあいだに
横たわる齟齬関係と不和がフランス軍の東部戦線での敗北の原因であるとする。ガリバルディはあらん
かぎり罵倒されたが、志願兵の司令官として彼が戦場で戦功をたてたことが忘れられている。さらに、
リヨンのコミューンは【536】幾つかの地方でガリバルディに対して絶えず示される悪意について派遣部
に抗議した。
(アオスタ公のスペインへの出立)
未来のスペイン王は昨日、新しい王国へ赴くために家族と離れた。どのような方法で、この君主の選
挙がなされるかが知られている。この候補者がヨーロッパのあらゆるところで生起させた興奮と反感に
もかかわらず、スペイン国会に彼を推挙したのはプリム将軍である。
われわれは未来を予測しようとは思わないし、それをなすためのいかなる能力ももたないと思ってい
る。にもかかわらず、われわれはイサベラの後継者はおそらくさほど幸福ではないと言いきることがで
きる。一国民に人が押しつけられたとき、また、陰謀と野心で王座に上がるために手段を弄するとき、
嵐と人民蜂起の時が遠いものではないというのはほとんど確実である。いずれにせよ、アオスタ公が不
幸になり、彼の王冠の上に不運がのしかかるのを知れば、彼は己の野心や盲目のせいに帰するだろう。
なぜなら、彼は十分に警告が発せられているのだから。
九月革命の首謀者たちはよき役割をはたしたものだ。それは国民の新しい希望に関連し、彼らの国に
ひとつの政府を提供したからだ。彼らの統合、彼らの人気、彼らがスペイン国民に対して有する影響力
などは未だかつてないほどにスペイン共和主義の形態を基礎づけるところとなった。野心によって、敵
愾心によって、王制原理に対する物神的崇拝によって、彼らはそれを欲しなかった。彼らはいつの日か
自らそれを悔やむことだろう。
(モン=スニ Mont-Cenis の開通)
モン=スニの開通が昨日終了した。
4 時 25 分、測深機がバルドネシュ Bordonnêche から 7,080m、モダヌ Modane から 5,148m進んだとこ
ろの山の中心部で4mの厚さの岩床を貫き通した。
トンネルを分けていた最後の岩塊――12,228mの長きにわたって完全に穴をくり抜かれた――の崩落
を目撃した観客はこのうえなく狂喜した。このすばらしい工事の成功は技師士ソム・メレル Som Meiller
の栄誉である。
ところで、両国人民が殺しあいをしたり、不毛の闘争で多年にわたる労働の果実を無に帰したりする
ことなく、語の良き意味での有用かつ栄誉ある業績のために専心するならば、どんなことになるだろう
か。
(メッスとストラスブールの開城に関する査問会議)
ストラスブールとメッスの開城に関する査問会議が完全に結成された。
【537】その構成は以下のとお
13
り。議長はバラゲー=ディリエ Baragay-d’Hilliers 元帥、委員として師団の将軍フォルツ・グロスボ
ン Foltz-Grosbon、ド・マルタンプレーde Martimprey、プルセーPourcet 氏ら。
内務大臣は次のように決定する。陸軍省軍事法廷事務局担当のアギュロン Agulhon 氏は査問会議にお
いて秘書の役割をはたすことになった。
(アルノーAlnault 司令官の葬儀、ガンベッタ氏の参席、リヨンでの公共集会の禁止)
アルノー司令官の葬儀が盛大に挙行された。
ガンベッタ氏も秘書官スピュレル Spuller とともに参席。
儀式は純粋に民事としてとりおこなわれた。司令官の妻は気も狂ったかのように取り乱した。市は遺族
に援助することを決定するとともに、かくもドラマティックな状況下で逝去した勇士の 3 人の子供を養
育することにした。彼らに一時的に年金が授与されることになった。
公共集会と公共の示威行進が一時的に禁止された。法令によれば、
「できるだけ速やかに陰謀を防止す
るため、こうすることで外国とフランスの敵手を見分けるのは容易になる」
、と。
(合衆国でのフランス共和国大使)
今月 6 日、トレラール Treilhard 子爵が大統領に、国防政府は特派員にして全権大使としてアメリカ
合衆国に彼の信任状をもたせ派遣する旨の手紙を提出することを赦された。
『メッセージェ Messager』
紙は語る。
「トレラール氏は宮廷服を着用しなかった。彼は共和国の大臣にふさわしく単に黒服を着用し
ただけであった」
。
(メッス)
22 日付『メッサン messin』 紙は言う。
【538】
(ドイツにおけるフランスの捕虜、大量脱走の企て)
既述のように、噂によれば集団脱走の試みがあったようだ。ドイツからの通信はこれら噂について報
道する。…[略]…
(プロイセンの悪業)
(オートフェーHautefaye 事件)
開戦当時、フランスの一村落オートフェーで起きた惨劇が思い出される。地主ド・ムネーde Meneys
はプロイセンびいきである、と愚かにも下層民によって告発され、狂人の一団によって火炙り刑に処さ
れた。その裁判によれば、惨劇のあった当日、帝政こそが彼らを不道徳にし、白痴化してしまった田舎
者を示している。4 人が死刑判決を受け、16 人が刑期は様々ながら懲役に処された。判決文は以下のと
おり。…[略]…
【539】
(気球。科学的企ての思わぬ不幸)
12 月 22 日、アルジェリアの皆既日食を観測に行くため気球で出発したジャンサン Janssen 氏はサン=
ナゼール Saint-Nazeire の近くに降下した。不幸にも彼が地上に降り立ったとき、突風が吊籠を揺すり、
衝撃が激しかったため、すべての微妙な装置が壊れてしまった。それを交換できないためジャンサン氏
はその科学的遠征を取りやめにいたった。
14
(銃殺されたルイ=ナポレオン)
偶然とは奇妙なことをしでかすものだ。12 月 1 日、第 14 砲兵隊から組織された第 10 砲列指揮官で砲
兵の(ルイ)ナポレオンという名の男がバール Barres 兵営にある戒厳本部により死刑判決を受けた。
判決の結果は翌 12 月 2 日に武装した軍隊の前で実行に移された。
『プログレ・デ・アルデンヌ』紙によれば、不吉な名前でもって不幸な最期を遂げたものである。
(ヴェルサイユのクリスマスの晩餐)
ヴェルサイユ駐在の『スタンダード』紙通信員はプロイセン負傷兵の中でクリスマス晩餐会に参席し
王宮でおこなわれたシーンを描写。…[略]…
【540】
(犬に救出された兵士)
「人類の最良の友」の献身に関する記事(
『スタンダード』紙)
。
【541】
12月27日(火)
(戦況)
公衆向けに出されたノートにおいてフェデルブ将軍はポン=ノワイエル事件に関し積極的に主張を展
開する。そこにおいて彼の軍隊にとってのかなり勝利が述べられており、もし彼が北仏の要塞の方に退
却したのはけっして大きな敗北によるものではなかった。マントイフェル将軍は今までにないほどにポ
ン=ノワイエルの戦闘で敗北を目撃したことに固執する。外観は彼の計画的方針を補足しているように思
える。しかし、北部軍司令官の言葉はあまりにも明瞭であり、あまりにも形式的であるため、彼の真実
味に疑いを挿む余地はない。
われわれはシャンジー将軍が最も卓越し、最も確固たる退却戦のひとつに数えられるべき退却により
ル・マンに到着したことをすでに述べた。以下はル・マンから『スタンダード』紙に 12 月 22 日に送ら
れた通信文である。
(英露紛争、会議の招集)
朗報。ヨーロッパの全面戦争突入を遠ざける朗報!
1856 年条約の廃棄通告は会議に付託されることになった。外交会議の原則が承認されたという事実は
そのものとして平和維持に最も喜ばしい兆しの一つである。
最初に、列強特にイギリスが形式上フランスの共和制を承認にしないゆえに、フランスがこの会議に
参加することを拒絶したといわれる。さらに伝えられるところによれば、フランスは普仏紛争が検討す
べき問題の中に入っているならば会議結果にも同意しないであろうといわれる。
われわれはこれらの噂が本当であるかどうか知らない。確かなことは、その会議が来る 3 月 1 日に招
集され、かつジュール・ファーヴル氏がフランスを代表することだ。
【542】ひとたび列強が一堂に会し
たとき、目下の大問題すなわち普仏戦争にふれずにすませると、そして、新たな野蛮の群れによってフ
ランス国民が苦しめられているのにふれずにすませると、誰が考えようか? ヨーロッパ世論は大いな
る幻想を味わうか、あるいはその会議が今日のフランスを悲しませ、すべての人類と進歩の友を苦しめ
ている悲しむべき紛争を誘発させるかのどちらかである。
15
(スペインにおける王制派の熱狂)
新国王の即位によって一致と歓喜がこの国を支配するどころではなかった。嵐のような議論がスペイ
ン議会で巻き起こる。すなわち、この問題をめぐってこの国会が解散されるやいなや、プリムはこの人
物を新王制に欠くべからざるものとするだろう。そのための解散なのである。国王を据える必要と同じ
程度に麗しくよろしき必要に従って、すべての人が休息する権利をもつ。プリムの意見は票決で優勢で
あったため、議会は解散を宣せられた。しかし、共和派は票決に参加するのを拒絶。トペ-テ Topete 提
督すなわち九月革命の首謀者の一人たる彼は会議の席上で、自分は未来の治世に協力しないし、あらゆ
る役職を辞し、国家において占めている権威も放棄すると宣言した。共和派の主要な機関紙『エル・コ
ンバット El Combat』は次のように報じる。つまり、同紙は休刊する。国王が王座に就いたときはペン銃
砲に代わるだろうから、と。
いかなる平和、いかなる幸福がスペインにおいて王制およびアオスタ公の支持者さえもいたわってい
るかがよくわかるというものだ。
(プロイセンの論理)
すべての人がプロイセン兵士である。しかし、つねに論理的なプロイセン人はフランス人がそうであ
るとは認めない。あるプロイセン人は国旗の下で行進しながら、その義務を果たす。しかし、そのよう
にするフランス人はあらゆる罪、あらゆる凌辱に値する罪を犯す。
町を離れようとした約 15 万人のランス Reims の若者は軍隊をなし、自分らの逃亡を有利にするのに必
要な措置について共謀するためにこっそり会合をもった。
何某かの裏切者に告発され、彼らは逮捕され、棒で殴打の刑罰を下された。
(ボルドーにおける抵抗精神。反動へのひとつの返答)
昨日、国民衛兵の大規模な観閲式がボルドーでおこなわれた。
【543】1 万 5 千から 2 万の衛兵が参列し
た。
演説においてクレミュー氏は言った。共和政のみがフランスを救えるゆえに、政府は反動派のあらゆ
る暴力を抑圧するであろう、と。
国民衛兵と群衆は熱狂の環をつくって叫んだ。
「共和政万歳!」
将校たちは共和政を防衛すると誓った。
こうした表明は『フランセ』や『ガゼット・ド・フランス』のような幾つかの新聞における反動的記
事への雄弁な返答となろう。これら新聞は現下の選挙が直面する諸困難を知っているため、憲法制定議
会を声高に非難し、あらんかぎりの声を尽くして、国防政府は国を地獄と破壊に導くと叫ぶのである。
もう少し時間が経てば、これらの誠実で正直な新聞は九月四日の面々に文物破壊、プロイセンの貪欲な
責任を押しつけるであろう。何という憶測! 何という党派心であることか!
(気球)
ミュンヘン発の報道によれば、12 月 26 日、
『アウグスブルク新聞 Gazette d’Augsbourg』に、以下の
詳報が掲載された。パリの気球がバイエルンに降下したとのこと。
16
(プロイセン軍内部の陰謀)
ヴィルヘルムの血に飢え野心に満ちた政策がドイツ軍のすべての階級において多くの支持を受けてい
るかどうか、皆の者が怪しく思っている。あまりにも自分を見失い、あまりにも受け身的な恭順、あま
りにも完全な自己放棄を信じたがらないのだ。それが 19 世紀の今日、フランス共和政の眼前でおこなわ
れているのだ。したがって、至る所でホーエンツォレルン家の利己的で残酷な目的が今日のフランスを
占領している軍隊の真直中でおこなわれる抵抗についての噂が流布している。
【544】 カーンの新聞『共和主義自由演説家 Franc-Parleur républicain』は積極的に情報を伝える。
この情報は最近ヴェルサイユで発覚した陰謀について同紙に宛てられたものである。
【545】
(デュパンルー猊下のもとでのプロイセン軍)
ヴィルヘルムと同じく敬虔で人道的な国王の兵卒が聖職者に対し十分な敬意をはらうべできあると想
定される。少なくともオルレアンでのプロイセン軍の振る舞いはその逆の明白な証左となる。
良き情報源をもたない『ガゼット・ド・フランス』紙はこの問題について以下のように考える。…[略]
…
(コンリー兵営の徴用)
『モニトゥール・デュ・カルバドス』紙は 25 日付紙面でコンリー兵営の最終的撤収を伝える。軍隊は
戦闘の準備ができしだい、シャンンジー将軍の待ち受ける方向に移動し、その他はレンヌ方面に移動す
る予定。
(ロンドンのヒヤシンス Hyacinthe 神父、現下の戦争に関しての意見)
ロンドンに滞在中のヒヤシンス神父は同地で戦争犠牲者のために講演した。最後に彼はハノーヴァ
ー・スクエアで話す。フランスとドイツがおこなっている戦争が目的をもたない、かつ皆殺しの戦争で
あることを示し、政治的・宗教的・民族的理由があるかどうか吟味する。講演者は否定の結論を下した。
ドイツ人とフランス人の間に自然的敵愾心が、両立しがたい利害関係が存在することを彼は否定する。
彼によれば、ドイツ統一は完全にフランスの利害に一致するのだ。諸州に関していえば――その領有は
つねにライン両岸の渇望の的であったが――ヒヤシンス神父の目からすればライン諸州はアルザス=ロ
レーヌがドイツ領となるのを欲していないのと同様に、フランス領となることも欲していない。もしこ
れら2州が現下の戦争の結果として併合されるようなことがあれば、それは大きな不幸の始まりとなろ
う。しかし、神父は同様な併合がフランスをヨーロッパにおける地位を失わせるとは信じない。ドイツ
はアルザス=ロレーヌ両州をこの 2 州当事者に任せても勝つであろう。なぜなら、それらは両国民を結ぶ
絆であり、運河と同じくこれを通じて相互の考え方の交歓が可能になるからである。領土的解決は自然
がドイツに与えた役割、そして、本質的に道徳的であり、知的であり、工業的である役割からドイツを
逸らせることになるだろう。それと同時にそうした解決方法はドイツを軍国主義に、すなわち扮装を凝
らした専制政治――公然たる専制政治に近い――走らせる結果となるだろう。
宗教もまた、2 国民間の戦争の一因となる。なぜなら、一方がプロテスタント、他方がカトリックであ
るならば、双方の側にローマを中心としてもつ教皇権至上権思想に対する同程度の反発があるからだ。
カルヴァンのプロテスタンティズムが生まれたのはフランスであり、ボスエの熱烈なカトリシズムも同
様であることを忘れてはならない。
講演者は言う。すなわち、現下の戦況がヨーロッパに中心部における有力国の割愛、すなわちドイツ
統一に結果に結びつくとしても、それは文明にとって大きな利益となろう。このようにして神の目から
17
みて災禍は進歩に役立つことができる。
いうまでもなく、ヒヤシンス神父は遺憾なことにブルジョアの身なりをしている。
【547】
12月28日(水)
(戦況)
北部軍はベルギー国境の要塞方向へ転進を続行中。フェデルブ将軍はアラスに司令部を設置し、ま
わりに軍隊を集中する。マントイフェル将軍は北部軍が撤退するに応じてその場所を占拠する。にもか
かわらず、大量脱走させまい、とパリを監視している軍隊に対する予備部隊として役に立つには、同将
軍はあまりにも遠い所まで進んだものである。
ヴェルサイユを包み込む幾つかの軍事サークルをなすべくブルバキ将軍がブールジェで軍隊を再組織
したのに、同将は東部の方向に進軍しはじめ、ガリバルディと合流しヴェルダー将軍と交戦するとの噂
が流れる。リヨン市へのガンベッタ氏の登場はおそらくこの計画と関連するだろう。いずれにせよ、ド
イツ軍の通信線ではニーヴェルネ方面が弱体であり、そこからパリに向けるにせよ、シャンパーニュに
向けるにせよ攻撃的戦略をとるのは他方向へよりは易しいといえよう。
パリ城壁周辺での軍事行動はつねに世論の関心の的である。
『デーリーニュース』はヴェルサイユから
の電文を掲載。それによれば、パリ要塞の前線で 12 月 21 日以来野営している軍隊が退却を望み、その
露営地を撤退するもよう。
ともかく、包囲軍は敵があまりにも堅固に陣地を固めるのを放置するのが危険であると認めたことに
なる。アヴロン高地、ここの砲台からはシェル――つまりドイツ軍の大倉庫のあるラニーから1リュー
の処にある――を攻撃できるわけだが、その高地は規定どおりの攻撃の対象となりつつある。この位置
の砲撃は、ドレスデンでザクセン軍司令官からその日に受け取った電文によれば昨日朝に始まったよう
だ。
(スペイン、プリム暗殺計画)
スペインから重大ニュースが届く。人気のない通りで攻撃がおこなわれたのは、スペイン議会を出た
元帥が我が家にたどり着こうとした夕方であった。
【548】元帥は負傷した。この犯罪の下手人はわかっ
ていない。彼の政策いかんがこの攻撃の動機ではないと見られている。
哀れなスペインよ! あらゆる受難、あらゆる政治の怨恨の爆発に委ねられたるスペインよ! 新国
王はこの悲しむべき事実、彼の権力を憎むあまりの流血についてどう考えるのか。
(アメデ王子と教皇)
ローマ発の報道によれば、アメデ王子が教皇に面会したがっており、スペインに向け出航するまえに
祝別を求めたといわれる。しかし、一種の迷信めいた狂気が彼をとらえた。ケレタロの痛ましい悲劇を
生じせしめたのはメキシコに向かって発とうとするマクシミリアンに対し教皇から与えられた祝別でな
かったか。しかし、教皇猊下の祝別がふり向けられるのを誤解したせいでイタリア国民はピウス九世が
魔法使いではないかを思い浮かべた。この意見はローマにおける民衆のあいだで広く流布しているが、
ピッチ宮殿への信任を十分に示すものである。
カピトーレ宮ではウディノ将軍によるローマ引き渡しを思い出させる碑文がとり壊され、カドルナ将
軍によるローマの引き渡しを記念するラテン語碑文に代えられた。ウディノ―と同時に、カドルナは
18
civis rona nus…Uno avulso, non deficit alter!
(ロシアの軍備)
ロシアは常に軍備を増強する。
この国に導入されたばかりの国民皆兵の原則は全年齢あわせて 3,433,100 人の徴兵に従う数を増やし
た。その措置が遡及的効果をもたないため、兵籍に入る義務を有するのは、軍旗のもとに入るべき年齢
に達していない者しかいない。
徴兵を免れた者は規則、第一及び第二法人の商人、司教、聖職者、教皇などの計 941,900 人に上る。
(ボルドーにおける民心)
派遣部がボルドーで吸い込む空気はトゥールにおけるものとは正確に同一ではなかった。トゥールで
は正統王朝派およびカトリック的世論が立宗派をなしていた。一方、ボルドーではあらゆるニュアンス
の共和派が堂々と多数派をなす。しかし、ボルドー世論は物事を悪い面から見ている。したがって、そ
の世論は、フランスが敵に対ししっかりと団結して事に当たらねばならないその時に、防衛という事業
【549】
の妨げになり、不団結をもたらすものとして、あらゆる反対派を一時的に抑圧せよと要求する。
ボルドー市役所がこの思想に与し、そして、派遣部に対しさらに多くの精力を示し、抵抗や不和のあら
ゆる軽い気持ちを打破するよう代表を派遣した。その代表に面会したクレミュー氏は融和的で穏やかな
言葉で接した。
にもかかわらず、派遣部はボルドー市民の態度を悪い眼でみなかったこと、そして、新しい臨時首都
の市当局によって要求された勢力的な措置を採用するのに手間取らないように思われる。
(リヨンからのニュース)
この町からの報道によれば、この町では赤旗が常にはためいている。国民衛兵の抗議にもかかわらず
である。この色を主張したのは市当局であり、国民議会がフランスの新しい国旗を制定するまえそれを
維持するよう要求した。
国民衛兵は赤旗を仕舞い込むよう願うためにガンベッタの出勤の機会をとらえ請願文を提出した。…
[中略]… ガンベッタはまだ返答を与えていない。
(サン=カンタンの再占領)
勇敢で愛国的なこの町は開戦以来、3度めのプロイセン軍による占領を経験した。敵の誅求と軍事的
欠陥――この新たな占領を導いた――に関しての記事。
【550】
(プロイセンの自由主義)
『ベルギーの独立』紙はヴェルサイユとベルリンですこぶる評判が悪い。そのわけは以下のとおり。
まず、同紙はプロイセンの渇望と恥ずべき要求に対し挑戦しているからだ。第二に、何百人というフラ
ンス人将校が毎日、ボナパルト派再興計画に手を貸すのを拒絶するため宣言するのは同紙のコラムにお
いてであるからだ。
したがって、プロイセン官僚制度はベルギー紙に対する迫害という栄誉を言い渡したところである。
コブレンツの編集長ド・フレンツ M. de Frentz 氏は郵便局に対し、フランスの将校にブリュッセルか
ら『ベルギーの独立』紙を発送するのを禁止した。同時に、同局長はカフェおよび他の公共的場所の所
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有者にたいし、これら施設の常連に『ベルギーの独立』紙を読んで聞かせることも禁止した。不服従者
はすべて相応の処罰を科されることになった。
(ガリバルディに対する名誉の剣の贈呈。彼の拒絶の書簡)
ブザンソンの住民が名誉の剣の贈呈を申し入れたところ、ガリバルディ将軍は申し入れ者の代表に対
し、贈呈受け取りを拒絶した。
(王党派の陰謀、ボナパルト派の講和条約の暴露)
前皇后の周囲で講和条約に導くために企図されている交渉がとかく噂に上る。ナポレオン三世がこれ
ら陰謀に関わっているといわれる。
『バス=ピレネーの独立』紙の記事によれば、何人かの外交官や将軍
たちが往来しているもよう。われわれは情報を収集している。
【551】
12月29日(木)
(戦況)
本日は特に記すべき事項なし。
プロイセン軍による誅求の続行。おそらくクリスマスを彼らなりの流儀で祝おうとしたプロイセン軍
はサン=カレーの小さな村を略奪した。村における負傷者は特別慇懃かつ聡明に看護を受けた。
シャンジー将軍は、ヴァンドームにいるプロイセン軍司令官に対し、サン=カレーでのプロイセン軍が
おこなった暴行に対し抗議文を送った。
【552】
(パリ)
以下、日付は不明だが、新聞報道による首都の状況を示す。アヴロン高地の砲撃。
(スペイン、プリム暗殺の企図)
『タイムズ』のマドリード通信員は 27 日夕方、解散のための票決をおこなったばかり議会が閉幕し
たときプリム自身に起こった暗殺計画について以下のごとく報道する。…[略]…
【553】
(ローマ、旧行政府の吏員の無視献身ぶり)
教皇庁行政府の官吏は旧体制に忠実の模範を垂れた。彼らは新生イタリアでも新たな公務員の組織に
入り、かつて教皇庁に仕えたようにサービスを継続するよう懇請された。ほとんどの者は拒絶する。軍
隊のすべての将校のうち、わずか3名のみがイタリア軍の業務に就いた。財務省の官吏は9人を除き新
体制への協力を拒否。郵便行政では 80 人のうち 70 人が宣誓を拒否し、10 人だけが加わった。可哀そう
にも税吏についても同じような敵対傾向が見られる。税吏 80 人のうち 70 人が新政府のポストに就くの
を拒絶する。
【554】 少なくとも自分の信念に忠実な人々がいる。これは稀有なことであり、同様の事実に対し公表
するのが適切であると考える。廉直・忠実・公平無私・これらはすべての党派によってつねに名誉ある
ものとされ尊重されてきた。
(ド・ロベルド de Loverdo 氏の辞職)
派遣部近くのボルドー市役所の声明は実を結びつつあるようだ。他の措置のなかですべての官僚――
20
帝政下で権限を有し、それが終わったのち共和政に対し敵意をもつものと疑われた官僚――の更迭が要
求された。ド・ロベルド氏はこれをよく理解し、陸軍省において彼が占めていた職能を辞めたばかりで
ある。彼は引退の理由に健康上の理由を挙げている。しかし、すべての者は彼のことをよく知っていた
ので、かつてのボナパルト派への愛着が辞職の理由であると見なした。
同じくフレシネ Freycinet 氏の辞職が囁かれている。彼は陸軍省に勤務し、ガンベッタの右腕といわ
れる人物である。しかし、ガンベッタ氏はかくも有用かつ献身的な補佐官を辞めさせることに同意しな
い、と大方はみている。
ド・ロベルド氏は騎兵隊、歩兵連隊の長官であった。
(戦争犠牲者)
プロイセン軍がその勝利のために高くついた数値。バイエルンの権威筋によれば、28,600 人の未亡人
と 52,412 人の孤児が出たといわれる。ヴェストファーレンは 13,110 の未亡人と 29,973 人の孤児を、東
プロイセンは 16,319 人の未亡人と 29,428 人の孤児を、ハンザ諸都市は 8,612 人の未亡人と 11,715 人の
孤児をそれぞれ排出した。
数州に過ぎない数字だが、これでも不完全である。というのは、政府および市町村の援助を要求した
家族に関する者のみであるからだ。
(プロイセンの悪行、ジュベール Joubert 子爵の死)
『リールの記録 Memorial de Lille』紙に掲載された記事に次の書簡が出ている。悲しむべき、かつ限
りない関心をもって読まれるであろう。ルイ=フィリップ治下の旧閣僚の子息たるジュベール子爵の身に
対し、プロイセン軍によって加えられた罪。
(プロイセンの自由主義、ドイツ本営から1ジャーナリストの追放)
(反動的論争)
派遣部の敵がどんな武器を使えば相手に有効であるかをパリが知るのはよいことだ。査問委員会がス
トラスブールとメッスの降伏開城に関する事実を調査するために設置された。
『パトリ』紙がこの措置に
ついて返答として書いた記事。 …[略]…
【556】
『パトリ』紙が帝政やその手先たちの欠陥を償う――成功していないわけではない――ことを望んだ
人物に対してどんな論調で接したかわかるというものだ。
『パトリ』紙はメッスとスダンの開城をもたらした人物を非難と軽蔑をもって語るだろうか? われ
われはそれを疑う。愛国者の嫌悪や怒りを呼び起こすのは、悪意・軽蔑・憎悪が思うぞんぶんに幅を利
かせている、このような記事なのであり、したがって、これら記事に対してこそ暴力と追放によって人
が反応するものなのだ。
フランスとヨーロッパ全体は欠陥を直そうとする厳しく空しい努力を受け容れた人々の献身・愛国
心・活動を知っている。こういうわけだからこそ、われわれがいま読んだばかりの驚くべきかつ不正な
記事を裁く必要があるのだ。
(気球)
空中で舵を取る装置が真剣に取り沙汰されている。発明者の名をとってヴァレ Vallée と称されるこの
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装置はリヨンにおいて科学・実際委員会により実験された。以下、そのメンバーに署名した報告書であ
る。コカン Coquand 博士(地質学・鉱物学教授)
、ガス技師シコーSicaud 氏、建築技師クキラディ Ckiradi
氏、技師ローラン Laurent 氏、ブッシュ・デュ・ローヌ県防衛特別委員ロール Laure 氏、技師エコーHécault
【557】
氏である。
ヴァレ式エンジンの実験結果。
1. このエンジンは自重とかなりの重量を運ぶことできる軽飛行船から成る。そして、この日までに
なされたすべての事項を凌駕する。
2. この飛行船は技術的に操縦可能である。
3. 上昇および下降は随意で、ガスやバラストの減少なしにできる。
4. ヴァレ氏が考案した諸理論は確実で科学的法則にもとづく。
さらに、同委員会は次の見解を表明。すなわち、ヴァレ氏がその理論を実行に移そうとしたとき、彼
の装置は兵器として使用されるであろう。このようにして恐るべき兵器となるだろう。
他方、フィリップ・ブラノンとその会社の技師たちは手紙を 1 通公表したが、そのなかで彼らは自作
の新式気球または空中ポケットから成る発明について述べた。それを用いれば、パリとの通信が可能に
なるだけでなく、通信の維持も可能である。
彼らは言う。
「われわれの気球はもはや巨大で危険で取り扱いの難しいものではなくなる。その大きさ
はエガリテと同じものである。この気球は自由に上昇・下降し、順風や逆風にかかわらず進むことがで
きる。その速度は風の強さにもよるが、時速 4000mから 16,000mである。気球は乗員を別に2~3トン
を運搬できる。それは 1 トンの重量を運搬できる。すなわち、1500 人分の食糧である。1 日当たり 2 便
あれば、パリは 9 万人分の食糧を受け取ることができる。
」
(ブリュッセルにおける芸術的亡命、フォールの成功)
バリトン歌手フォールはブリュッセルで驚異的活躍をなしとげた。ベルギーの首都のこの問題に関す
る記事。
(捕虜と亡命者、感動的な2つのエピソード)
オーステンドは現在、ベルギー経由で入ってきたスダンのフランス人兵士をかかえている。
【558】こ
れらの捕虜がこの町に到着した時に生じた感動的エピソード。
(アレクサンドル・デュマ・フィスの、父に関する宗教的最期の手紙)
フランスがその損失に涙した偉大な作家にして、並ぶ者なき小説家の最期の瞬間に関するすべての事
柄が公表され公衆の関心を集めている。われわれが『リュニベール』紙に従ってその記事を集めたのは
そのためである。
12月30日(金)
(戦況)
地方に関して特記事項なし。
【559】 パリではアヴロン高地の砲撃が開始され、プロイセン軍は籠城軍の砲兵隊の無反応に驚く。
ガンベッタはリヨンを出てボルドーに到着。リヨンの国防の必要と関心が彼を呼び戻した。彼は種々
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の共和主義連隊のあいだにおける彼の滞在の良き印象を伝える。
(スペイン、プリムの死、トペト提督の舞台への返り咲き)
スペインから重大ニュースが入る。プリム氏は、われわれが述べた攻撃で受けた傷が原因で死亡。新
王が王座に就こうとしている――そのためにもプリムの助力が必要だったが――状況のもとでこの死は
重大な事実となる。スペインがいま直面している政治的・社会的不幸と困惑を増幅するのみ。
アオスタ公爵はその野心から要請された王権を受け容れたが、われわれは彼が公平無私と愛国的見地
においてそれを受諾したことを信じたい。新国王への第一歩において彼は自分を王座に就けた者の遺体
に出くわすことになろうとは! 彼の受諾が惹き起こした憎悪や怒りの悲しむべき、かつ雄弁な証言が
多々ある。プリム死去の知らせを聞いてトペートが九月革命を何らかの反動から救うべく新国王を迎え
にいくと申し出た。アオスタ公はしたがって、その候補に対して最も反感を懐いた男によって迎え入れ
られ、祝辞を述べられることになるだろう。
(死刑判決。ゲリラ司令官の罷免)
われわれは前に敵前逃亡を企てたゲリラの司令官の罷免に関する印象的でありともに不吉な詳細につ
いて述べた。彼を逮捕させ、司令官シュネーChenet の有罪にいたった諸事実について全部が全部明らか
ではないように思われる。ガンベッタ氏がこの件に関与し、彼の命令にもとづいて判決執行停止がなさ
れた。ツーロンからこの問題に関する報道。
【560】
(ムードンの城館)
この恐るべき戦争はどれだけか多くの廃墟を積み上げたことか! 見違えるほどに変わり果てたのは、
別荘が凝りと上品さを誇り、豊かで景観の優れたパリ郊外である。ムードンの城館はほとんど破壊され、
もはや見る影もない。
『ケルン新聞』に書き送られたパリ市民の散歩道の哀れむべき惨状についての記事。
(不幸は善なり!)
ベルギーの新聞によれば、悪天候にもかかわらず、ブイヨンとスダンに向かっていた旅行者の数は減
っていない。スダンの事件がルクセンブルク鉄道においてリブラモン駅での切符売上げは 1869 年に2万
フランであったものが、1870 年の同じ 12 月において 24 万フランにのぼった。ポワおよびヌフシャトー
の駅でも同様のことがいえる。それは「不幸は善なり!」ということだ。
(1 英人の博愛)
イギリス国民というのはその利己主義、その商業主義精神で有名であった。しかし、これがイギリス
人の一般的な国民性であっても、幾人かの例外はあり、その博愛のゆえに、かつ、ありとあらゆる国家
の苦しみを和らげるための慈悲ゆえに引用に値する。ベルギーの新聞からわれわれが引用した幾つかの
興味深い記事を以下に掲載しておく。…[略]…
【561】
(ドイツにおける戦争の人気。プロイセンの兵士からの手紙)
諸新聞がフランスに対する侵略者のより詳細な感情について雄弁な記事を掲載している。
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(現下の諸事件に関するジョルジュ・サンドの書簡)
諸新聞は現下の諸事件に関するこの著名な女性の書簡を公表。ジョルジュ・サンドの偉大な精神、偉
大な叡智はプロテスタント的・哲学的なドイツがフランスに対し執り続けてきた血塗られた野心的行動
を考察する。彼女は偉大な諸国、特にイギリスの無気力と中立性を説明しない。ヨーロッパにおけるほ
とんどすべての国家の政治制度が――全部が全部とまではいわないが――近代的政治原理と対立する時
代遅れの色褪せたものとなっており、同時に、進歩的・民衆的思想の最初のひと吹きで消し飛んでしま
う運命にあることをジョルジュ・サンドは忘れている。
ヨーロッパの偉大な諸政府は未だ王制である。それらはなおまだその基礎に何らかの家族の意志と利
害を据えている。それらはなおまだ、しばしば野心的で致命的に利己的な王朝の手に、責任のない、か
つ永続的な権限を引き入れている。仕事・廉直・公平無私・市民的道徳・友愛と団結の諸原理などは彼
らの眼中にはない。
【562】そこから、知的でない利己主義・不和やわれわれが当面している兄弟殺しの
紛争が起こるのだ。
さらにかくも心が豊かで、かくも有能な婦人がイギリスのある婦人に宛てた手紙。
12月31日(土)
(戦況)
アヴロン高地が 12 月 29 日の日中抵抗を受けずにプロイセン軍によって占領された。フランス軍はす
でに撤退していた。トロシュ将軍のこの行動に関し喧しく論じられている。ある者はそこにプロイセン
軍の兵器を前にしてフランス砲兵隊の劣勢の証明を見る。またある者は、この放棄は今後の諸事件がそ
の理由をあきらかにするであろうし、戦術的考察によって籠城軍によっておそらくなされたもの、と評
価する。
リールとボルドー発の至急報の内容を信じると、シャンジー将軍とブルバキ将軍が攻勢に出たらしい。
前者はロワール側から後者は東部方向からである。敵がル・マンの南東において敗れたのは多くのエネ
ルギーと幸運からである。一方、敵軍は傷病兵を多数抱えていたためオセールを撤退せざるをえず、ブ
ルゴーニュのディジョン、グレーを撤退し、大急ぎでウズール方面へ撤退せざるをえなかった。
これらの事実は確認されるのか、あるいは否か、われわれがまもなく迎えようとする 1 月になれば、
パリの解放が焦眉の問題となるだろう。その苦悶と窮乏は包囲が長期化するにつれ大きくなるはずで、
その見地から軍事的駆け引きの焦点となるのは避けられない。
(イギリス)
ブライト氏が商業相の後任として現職のアイルランド相のチチェスター=フォーテスキュー
Chichester-Fortescue 氏が任命された。前陸軍大臣のド・ハーティントン de Hartington 伯爵がアイル
ランド相に着任。
(県議会の解散。この措置に対する抗議。その存在理由)
活発にして極めて精力的な共和主義的プロパガンダの中心地ボルドーへの派遣部が移動して以来、派
遣部が発令する諸法令の目的が容易化する。ボルドーの世論は、ボナパルト派に属しあるいは出自の前
官僚とあらゆる政体の維持に敵対的態度を明らかにする。かくて、帝政下で選出された県議会を解散し
たのは、こうした挑戦的感情に答え、ボナパルト派再興のあらゆる企てを防止するためであった。
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県議会に代わって県内カントンにある同数のメンバーから政府によって選出された特別委員会に諸権
限が付託された。
『フランセ』紙は有権者の自由投票を阻止するこの措置に抗議し、通常の投票による新議会の選出を
要求する。
…[中略]…
フランスはボナパルト王朝を拒絶する。帝政と同調してきた議会を一時的に解散するのは当然なこと
であろうか? 県議会は普通選挙の付託を受けている。
(ボナパルト王朝の復権に反対する軍事的抗議とプロイセンの自由主義)
『ベルギーの独立』紙は主張する。つまり、フランスの将校がドイツに幽閉されている捕虜と協力し
てボナパルト王朝の再興するあらゆる企てをなさぬようコラム欄を閉じることを。
(合衆国と九月四日共和政。パリの 10 月 31 日事件に関するウォッシュバーン Washburne 氏の至急報)
(軍人。シャンジー将軍の略歴)
(次 http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/maquest11.pdf)
(c)Michiaki Matsui 2015
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