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パリ籠城期(1870 年 9 月 18 ⽇〜1871 年 1 月 28 日)におけるフランスとヨーロッパ-2[10/1〜10/9]
翻訳:横浜市立大学名誉教授
松井道昭
10月1日(土)
【38】(戦況)
シャラントンに対するプロイセン軍の空しい攻撃に関する噂。このニュースを信じさせるもの
はグルネーGournay に溢れるプロイセン軍傷兵の数である。
ベルリン発のニュースによれば、パリの守備隊は9月30日に出撃戦を試み、プロイセン第6
軍団を攻撃。同時に3個大隊がプロイセン第5軍を攻撃し、ある1旅団が第11軍団に対し示威
進軍を敢行。皇太子は包囲軍の利益に供する事件に関与した。
包囲軍の地位に語るドイツ側の某通信は以下のように伝える。すなわち、プロイセン王太子と
ザクセン王太子はそれぞれの参謀本部を設立し、前者はヴェルサイユ城に、後者はグラン=トラ
ンブレーGrand-Tremblay の城に、したがって、それぞれパリの西南部と北東部を制圧する。
この位置は二重の性格をもつ。つまり、そのひとつは防御的である。すなわち、二個の参謀本部
設立は相互に協力し合い、それぞれの方面軍の機能の継続を保証するという意味においてそうで
ある。第二にそれは攻撃的である。直面する要塞に対するのみならず、攻城工事の牽制攻撃を試
みる突撃軍に対しても2つの軍隊の攻撃を繋ぐ目的を有するという意味でもそうだ。
(ジュール・ファーヴル氏に対するビスマルク氏の反論)
【39】
ビスマルク氏はフランスを第二級の国家に引き下げんとする意図を否定。それは十分
にありそうなことではあるが、これらの言葉は彼の口にのぼらなかった。数多くの新聞は、これ
らの言葉がたとえ発せられなかったとしても、彼の表明した意図は少なからず氏の意図に含まれ
ることに注目する。ナポレオン三世の失権ののちにフランスに対する彼の振る舞い、彼が課した
講和条件、現下の諸事件について大部分、そして、無二のフランス国民に対する凌辱から成る条
件がこれのなによりの証拠となる。
(パリ)
プロイセン軍の電報はつねに、パリで9月24日と25日に起こった銃殺刑につづく騒動に関
し噂する。その電報はこれらの争いを選挙の延期に帰している。しかし、他方ツールでは事情は
よく知られている。同市から24・25日以降、首都で秩序が保たれているとのニュースが伝わ
っている。ゆえに、プロイセン軍は実情を調査したように思われる。そのようなことは彼らに一
度ならず生じるであろう。
(謎の死)
フランスとベルギーの大多数の新聞はある謎の死亡について語る。2人のうち1人は負傷し、
もう1人は死亡した。この死に対して最も恐るべきことがおこなわれた。その名前や肩書に関し
死罪をもって秘匿にされたが、その遺体に近づいたごく少数の人々に対してその旨命じられた。
(信じられない電報)
フランス北部とベルギーにおいて昨日、驚くべき感動が起きた。仏軍がパリの城壁の中で大勝
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利をおさめたとの報道がそれだ。この騒動は別の虚報によって補強される。
曰く。ヴェルサイユは奪回された。プロイセン軍は潰走中。数多くの砲兵隊が捕獲される。モ
ン・ヴァレリアンで6千人が捕虜となり、3万人が無力化される。67挺の機関銃が没収される。
プロイセン参謀が捕虜となる。
この電文内容はまったくのデタラメであるが、ヴァランシエンヌの市壁に貼りだされ、そこか
らその偽情報が北仏とベルギーへ広がったのである。
(オータン Autum 群庁の小さなポスター)
【40】(イギリスにおける共和派集会への派遣団からの返答)
国防政府はイギリスにおける各種の集会の責任者に対し、以下のごとき返書を与える。[ガス
トン・クレミューの署名]
(ジェルセーJersey での私的会合)
『ベルギー独立』紙によって公表された次の書簡は、男女から成るボナパルト派によるジェル
セーでもたれた興味深い集会について告げる。[略]
10月2日(日)
【42】(戦況)
戦地からのニュースは届かず。ランスからの報告によれば、ソワソンの守備隊のいくつかの出
撃戦がプロイセン軍によって抑制されたとのこと。
ストラスブールからの報告によれば、プロイセン軍が捕獲した戦利品はかなりにのぼる。すで
に1,070門の大砲が確認されている。200万フラン(国有財産)が銀行で発見された。ま
た、所有主の不明確な別の800万フランもあった。そこで発見された弾薬類も多量。
(状況)
戦況も重要な政治的ニュースも今や公衆に届かない。しかしながら、パリの態度とそれの抵抗
がもつ時間はつねに最も多様な評価の対象でありつづける。プロイセン発の情報とは裏腹に、首
都で秩序が維持されており、さらに抗戦の精神はそこで絶頂に達している。これら縁起のよい、
事実に反する噂や憶測も限りなくある。
一方、地方でパリ解放に必要な要素を探すための努力もなされている。不幸にして、部分的な
エネルギッシュな組織化のいくつかの行動を除けば、いたるところで団結と活気の欠如が感じら
れる。国民の総力を糾合し、それを戦闘に差し向けるには強力な才腕が必要であろう。しかし、
このような才腕はどこにも感じられない。たしかに、個々の努力や私的な奮闘ぶりは数多く見受
けられるが、それにしても、同一の計画に従い、共通の目的をもつ同一の指揮官のもとに行動す
る大衆というものが存在しない。しかし、このような意気、このような共通の行為が世界平和と
フランスの解放のためにやがて起こることが望まれる。
ヨーロッパの新聞は何が未来の平和の条件となりうるかを始終論じる。アルザスとロレーヌの
併合 ― 時代遅れの野蛮な権利 ― に関連し各紙の結論は、野蛮な力の要求を前にして屈服する
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程度に応じて、あるいは近代的公権利に応じて、住民の意志に反して住民を併合する権利を否定
する度合いに応じて異なる。金銭による賠償に関しては、フランスがそうすべきことについてす
べての新聞が一致する。
諸外国の宮廷に対するティエール氏の使命についてはあまり期待されていない。人道的発言や
人間性が、たとえどんなに説得力があるものであっても、国王やツァーに取りすがって成功をお
さめる機会をもつのは【43】野蛮な勢力が全盛の時代においてではない。最も巧妙な外交や最
も雄弁な演説家以上に、今少しの砲兵隊と重大な軍事的勝利がフランスにとって必要であると思
われている。今のところ、力が世界の支配者である。正義と権利が復権するとは思われていない。
にもかかわらず、そのような状況はいつかは来るであろう。なぜというに、虐殺・殺戮、廃墟は
もう飽き飽きしたからだ。
(ローマ)
明日に予定されている人民投票の準備においてまったく平穏であると伝えられている。教皇は
住民がこれに関与するのを禁じたと言われている。
(気球)
『ル・コンスティテュショネル Le Constitutionnel』紙がリュッツ Lutz 氏の旅行について以
下の詳説を伝える。[略]
【44】(謎の死)
プロイセン高官が狙撃兵によって殺害されたことが明らかになったようだ。ヌフシャトー発の
電報によれば、黄金のラシャに包まれた鉛の棺が多数の将校とメクレンブルクの3千人の兵士に
よって護送され、9月29日ツール(Toul)を通り過ぎた。あと2つの棺がしばらくしてから到
着した。この高官とはだれのことか?
(北部と西部の要塞の状態)
ストラ スブールの奪取以来、北部と西部の要塞をめぐる今日の情勢。ストラスブ ー ル
Strasbourg、ツール Toul、プティト=ピエール Petite-Pierre、エヒテンベルク Eichtenberg が
時期の違いこそあるが包囲の末に落城。ウィサンブールも猛攻を受けたのち開城。アルサール
Harsal、スダン Sedan、ラン Laôn、ヴィトリ=ル=フランセ Vitry-le-Français も短い抵抗の末
に陥落。全部で9か所の要塞が陥落。今なお14か所の要塞が抗戦中。すなわち、ファールスブ
ール Phalsbourg、メジエール Mézière、ティオンヴィル Thionville、ビッチュ Bitche、モンメ
ディ Montmédy。以下は包囲を受けている城。ヴェルダン Verdun、シュレスタット Schlestad、
ヌフブリザッハ Neufbrisah、ロンウィ Longwy、ソワソン Soisson、カリニャン Carignan。な
お、ベルフォール Belfort は自由である。
(包囲後のパリ周辺のようす)
ヴェルサイユから『タイムズ』紙に宛てられた通信(9月30日)による詳細。[略]
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10月3日(月)
【45】(戦況)
ストラスブールを包囲していた軍隊がフランス国内を進軍中であるという報道が流れる。この
軍隊は 2 軍団に分かれ、一つはリヨン方面へ、もう一つはパリ包囲の増援に向かうとのこと。
10 月 2 日付のコルマールからの電報。敵はミュールーズに到るまでライン川河畔を掃討。敵
軍はこの町をめざし、そしてシュレシュタットをめざして進軍中。
2 日付ヴェルサイユ発の電報によれば、9 月30日の戦闘における仏軍の損失は死傷者1,20
0で、そのうちギュラン Gulhan 旅団の将軍も含まれる。この戦闘において仏軍側は負傷を免
れた300人の捕虜を出す。
プロイセン軍についていえば、80人の戦死者と120人の負傷兵、死者の中に8人の将校が
含まれる。
10月1日と2日、要塞から数発の砲弾が発射されたのみ。
【46】(ツール、憲法制定議会選挙)
ツール派遣部は憲法制定議会の選挙に関し宣言を発令した。この宣言によれば、10月16日
に予定された選挙は11月2日に延期されたのち、選挙は予め指示された日におこなわれるであ
ろう。選挙が延期された理由は、休戦ならびに戦争の終結のためのあらゆる希望がビスマルク氏
による受け入れがたい提案で挫折したため。
本日、2日付の宣言、総選挙が宣言される。政府が解放に導くためのパリ市民の勇気と献身に
訴える日のまえに議会が召集されるはずである。
宣言はまた言う。選挙は完全に自由選挙に拠るべきであり、状況の重大さが求めるところの秩
序と静穏が要求される、と。
(ローマ)
昨日、ローマ市民はイタリアへの併合に関し投票した。投票を拒絶せよという教皇の呼びかけ
にもかかわらず、
「ノン」と投票した者が幾人かいた。レオニーネ Leonine 市を含めないでロー
マ市民は40,805が「ウィ」で46、が「ノン」と回答した。ローマの5つの街区を入れて
地方の投票は6,406が「ウイ」、42が「ノン」であった。
『イタリー』紙が伝えるところによれば、かつて教皇領であった王の代理官の地位にラ・マル
モラ La Marmora 将軍がまもなく任命されるであろう、と。国民投票の結果を受け入れたのち、
ヴィットーレ・エマヌエーレ王によって法令が承認されるであろう。
(ド・カトリノー de Cathelineau と国防政府)
(現下の事件に関するガリバルディの2つの書簡)
『ポール・モール・ガゼット』紙はガリバルディの書簡を公表。
【47】(失踪、再発見)
内閣倒壊後に失踪中のオリヴィエ氏の消息について情報が入る。ある者はイギリスに滞在中と
言い、またある者はフランスに残留し療養所で静養中と言ううわさが飛び交っていた。どちらも
まちがっていた。9月28日付イタリアからの書簡は、オリヴィエ氏と彼の兄弟がそこに居ると
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伝える。70年1月2日に内閣を組織し、今までにないほどに秩序と自由の同盟をつくり、さら
に帝国を救済するはずのこの人物は今や、イタリアの政治家の中でフランスのための加担者を探
すのに躍起になっている。オリヴィエはラタッツィ Ratazzi 氏およびリカソリ Ricasoli 氏と
次々に会見をした。色よい返事がもらえなかったため、彼は己の首相時代の歴史について2巻本
を著わすことを計画。
公私にわたる諸事件の表と裏がオリヴィエ氏から(まともな)鑑識眼を奪ったはずだが・・・
はたしてどうなるか。
(奇妙な抗議)
『ランデパンダンス・ベルジュ(ベルギー独立)』紙はドヴィエンヌ Devienne 氏からエマニ
ュエル・アラゴ(政府閣僚)へ宛てた書簡を公表。この著名な行政官は、皇帝のためを慮ったマ
ルグリット・ベランジェ[艶聞]事件への己の干渉に端を発する、世人が彼にたいしていだく侮
辱に抗議する。彼は釈明を約束する。
【48】(講和の訴え)
ド・ガスパラン De Gasoarin 夫人の講和に対する雄弁な訴え。
10月4日(火)
(戦況)
テレー Thailley 近郊のフォンテンヌブローの森におけるかなり大きな交戦があったとの噂が
流れる。ボローニュ Bologne、ニベル Nibelle、シャンボン Chambon において120人の槍騎
兵によって徴発がおこなわれた。そこにおいて住民とプロイセン軍とのあいだに騒動がもちあが
る。
ツール発の電報によれば、朝一時からランブイエ近くのエペルノン高地で激しい射撃音が聞か
れた。正午過ぎの25分間に4発の砲弾が同市内に撃ちこまれた。
砲兵隊はエペルノンに対して砲撃。結果はまだ知られていない。国民衛兵と遊動隊はいたると
ころで待ち伏せし、マレシェルブは落ちつきはらっている。
400人のプロイセン兵がラフェルテ Laferté を占拠。彼らは近辺を略奪。ロンドン 経由で
フェリエールを経由してのメッスからニュースが飛び込む。フェリエールからの電報によれば、
クマーKummer 分遣隊が一昨日、前線で激戦を経験し、敵兵は大きな損失を伴って撃退された
という。
ロンドン発の電報によれば、フェリエールから知らされた事実を明確に確認すること。プロイ
セン軍は日曜日、フランスによってモーゼル川に架けられた橋を破壊したと言われる。彼らはム
イイ=レ=メッス Mouilly-les-Metz トムイイを焼き討ちにした。
ベルフォールの包囲の予想についてスイス連邦議会は第9遊動隊による国境の閉鎖を命じた。
【49】
『タイムズ』紙の通信員ラッセル氏によるヴェルサイユに駐営プロイセン大本営からの最
新の手紙によれば、1日後から独軍にとって有利に展開するであろうと報じている。これらの手
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紙によれば、プロイセン軍はパリで起こるであろう抵抗をものともせず、冬季中占領するという
危険と取り組んでいるもよう。同軍の命綱と言うべきヴォージュの峠が雪で覆われるのは確実だ
というのに、である。
(ツール)
フリション提督の陸相就任辞退に関する報道。にもかかわらず、同氏は政府閣僚および海軍大
臣としては留任するもよう。ルフォール Lefort 将軍が陸軍省を統括する見込み。
(南仏同盟)
Rhône, Isère, Drôme, Gard, Ardèche, Var, Vaucluse, Hautes-Alpes, Alpes-Maritimes, Loire,
Haute=Loire の諸県から成る南仏同盟は、ツール政府が真実の国防のための政府であるという
条件でのみ同政府に対する敵対行動を控え、命令に服するだろうと表明した。
南仏同盟に似た同盟の創設について各方面から情報が寄せられている。しかし、共和派におい
てこれら連盟の有効性や便宜については一致がないと言われる。これは場合によってはフランス
の分解もしくは解体とまではいかないにしても、少なくとも嘆かわしい紛争や競合を招き寄せる
惧れがある。
第1共和政はフランスの統一と不分割性を求めた。その業績に抗うべき時が訪れたとでも言う
つもりなのか。
(ティエール氏の旅行)
昨晩の聖ぺテルスブルクからの報道によれば、ティエール氏は昨日、ウィーンに向かったとい
う。彼は前夜、Tzarskodë-Selo 城で皇帝と夕食を共にした。
(謎の死)
ドイツからの書簡によれば、狙撃兵の銃弾によって斃れた高官の死が確認された。ある者は高
官とは国王その人であると言い、別の者はモルトケであるともいう。その名前は、この死につい
て語られた日以降、いかなる文書にも載せられていない。
(ロシアの武装とその否定)
【50】ウィーンに広まっている噂。軍事行動とロシアの武装、それにまつわるあらゆる計画に
関しての噂が否定された。
(プロイセンの怒り)
プロイセンびいきのジャーナリストは数日来、フリーメーソン団特にベルギーのフリーメーソ
ン団に対し怒りを露わにする。この怒りの原因は以下にある。つまり、ブリュッセルの『ル・グ
ランドリアン Le Grand-Orient』紙が、プロイセンはいかなる場合においてもアルザス、ロレ
ーヌのいずれの部分もフランスから割譲を受けることができないと伝えたことに発する。
(聖ジョルジュ風の騎士とツァーの世俗政策)
ロシアの武装についてひろまる不穏な噂につづき、ある種の装飾 ― それはフォン・モルトケ
氏に与えられた聖ジョルジュ様式の装飾である ― に関し多くの者が自問自答する。プロイセン
将軍を装飾するにあたって、ツァーはフランスに背を向けた感情を示すというのだろうか。
アレクサンドル皇帝におけるこのような感情を知ってもだれも驚かないであろう。共和主義原
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理の代表とロシアおよびポーランドその他の国々のツァーとのあいだに相互理解が困難である
のは今に始まったことではない。
(フランス人のベルギー亡命)
フランス人亡命者がベルギーの町ガン Gans に溢れているという報道。その町は全体的にフ
ランドル語しか話さない。その性格と言語によってフランス風である町リエージュで亡命者が一
人もいないというのに、である。
ある説明によれば、この事実を、フランスを離れた多数の者は1815年におけるナポレオン
のフランス帰還を生じさせた亡命を想起させたことに帰している。この時、ルイ十八世とフラン
スの正統王朝派[ブルボン派]が亡命地として選んだ町がガンであったことは知られている。
ブリュッセルにも多数のフランス人が在住していることを指摘しておこう。そこで、彼らは
Spa, Ostende, Mons, Tournai で『エコー・フランセ l’Echo Français』 なる新聞を発行した。
(ツールにおけるストラスブールの防御者)
ウーリッヒ Ulhrich 将軍がツールに到着。そこで彼は政府代表部から彼の武勲を称揚する熱
烈な歓待を受けた。
(皇后のパリからの逃亡)
ハンガリーの新聞『ル・ロイド le Lloyd』紙は興味深い記事を掲載。それは皇后の逃亡につい
ての未発表記事である。
【51】
(ビスマルクの回状)
ドイツの新聞は北ドイツ連邦の代表に対し、フェリエールでのファーヴルがなした報告の問題
についてのビスマルク氏の所見を掲載した。
この所見はいくつかの点にわたってジュール・ファーヴル氏の発言を訂正している。ビスマル
ク氏に拠ると、休戦条件は容易に許容できるものであったと述べる。仏政府は占領地区の真只中
で国民議会を選出する機会をとろうとしないで、そのことによって講和締結に反対する諸困難を
維持しようとする口実を設けた。仏政府はフランス世論に耳を貸そうとはしなかったのだという。
自由な総選挙は講和に味方するであろう。本回状に目を通すかぎり、万事がパリ政府の責任で
あるかのような印象を放つ。
(ボナパルト派の論戦)
新聞は『ラ・シテュアシオン』紙が校正刷りのかたちで、大部分のヨーロッパ主要大新聞に送
った弁護文に関し大騒ぎを起こす。これはビスマルク氏に宛てた一種の注釈であり、ヴィルヘル
ムシェーエの虜囚が講和条件に関し彼の見解を明らかにしたもの。そこで、ナポレオン三世の復
位が狙われており、【52】また、独仏両国による即時講和がやたらに称揚されている。
「ナポレオン三世の思想」と題するこの奇妙な作品は前皇帝によって副官ガステルノー
Gastelnau 氏に与えられたものである。フェリエール会見のやりとりがヴィルヘルムシェーエ
に伝わるのは9月26日のことである。
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10月5日(水)
【52】(戦況)
本日、プロイセン大本営がヴェルサイユに設置された。大本営ならびにアルザス発の電報の受
取地はこれまでのアグノーHaguenau からストラスブールに移された。
プロイセン当局はブルバキ将軍がメッスに再入城することを許可し、メッスに王妃が言づけた
件のメッセージを届けた。
4日、フォンテンヌブローからの電報によれば、仏軍はシャイイ Chailly において多数のプ
ロイセン分遣隊、騎兵、歩兵を撃破した。プロイセン軍はフォンテンヌブロー方面に進軍中であ
った。60人のプロイセン軍が殺害または戦闘不能に陥った。
シャルトルからの報告によれば、プロイセン軍は昨日、エペルノンに入った。大勢の敵を前に
して仏軍は英雄的に戦ったのち退去した。同軍は遊動隊、国民衛兵、義勇兵から成っていた。
昨日付のザールブリュッケンの電報はバゼーヌの側からする絶え間ない出撃戦を示唆してい
る。この将軍は皇帝のために働くと宣言していた。気球が毎日、メッスから飛来。【53】
(状況)
講和はなしえないであろう。講和はプロイセン軍がアルザスとロレーヌの割譲要求に固執する
かぎり、大部分のフランス人にとって受け入れがたいものとなるだろう。ここに状況を解くカギ
がある。とはいえ、戦争を継続しなければならないフランスは侵略に対してまともな抵抗する能
力があるだろうか。フランスはよく訓練され、優れた軍隊をもっているだろうか。十分な数の砲
兵隊はどうか。深遠な術策、特にプロイセンの戦略家の練り上げた術策をへこますのに十分な、
機略に通じた聡明な将軍を備えているだろうか。
従うべき計画は? それは何か? 何をもつのか? 各新聞はそれ自身の計画を提案する。し
かし、祖国の子らを勝利に導くことによりフランス救うはずのフランスの参謀総長は目下執行中
の軍事作戦を実現するための計画をもっているだろうか。それを保持していることを信じたい。
しかし、これまで言われたり書かれたりしたすべてのことから察するに、フランスは語の真の意
味での将軍も兵卒ももたず、敵侵略から国土を守りぬくに値する重要な計画ももたないように思
われる。ツールの諸新聞は無秩序、軍事行動の不安定さ、将校の無能と怠慢、下級将校の浮薄な
習慣と権威のなさ、正規兵の品位を貶める日常的な飲酒と物乞いという恥ずべき行為を非難する。
もしこれらが真実であるとすると、
『世紀 Siècle』紙のような新聞がこの意味で語るとき、臨時
政府がフランスの壮健な男子を栄誉ある目的にどのようにしてたち向かわせるのか疑わしい。こ
のような不利な条件下において臨時政府は科学技術、力強い組織、完全無欠の訓練、さらに数の
うえでの優勢な敵をどのようにして打ち破ることができようか。
希望の実現によってフランスを解放しようとする努力は空しい結果に終わりはしまいかが気
遣われ、同時に、幾人かの緊要性と愛国心に揺り動かされ、侵略の恥辱からフランスの国土を解
放するという栄誉を付託された大部分の軍隊が無気力状態におかれるか、ないしは腐敗するまま
放置されているのに対し、なんら有効な手立てを欠いていることが気遣われているのだ。
希望のもてる唯一の仄かな光は、状況の危機と企図すべき責務の諸困難について幻想をいだか
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ない人々に残されている。パリとメッスがプロイセン軍をなおまだ食い止める余力を保持してい
ること、この間にフランス全体が根本的に危機意識をもつことによって、メッスとパリに籠城す
る軍隊の救援に向かうべく北部と南部で強力な軍隊を組織することである。
(ローマ)
この町について教皇が貴族の守備隊とスイス人守備隊を保持していると書かれている。【54】
セザリーニ Cesarini 皇太子がフィレンツェから帰還。彼はカルドナが直ちに構成した徒党に加
わる。ドリア Doria 皇子は新たな事物がもたらした秩序に同意する。
宗教新聞はローマ貴族の幾人かのメンバーがイタリアの統一に与えた同意に驚愕した。外国人
によっておこなわれたいくつかの騒動についてのニュース。サン=ヴァンサン・ド・ポールの3
人の姉妹が通りで暗殺されたとの噂が流れる。ピオ九世 PieXIX がマルタ島またはアントウェル
ペンに向け出発したことが公表される。
(ブルバキ事件)
ブルバキ将軍はバゼーヌ軍で指揮を執るべく出かけたと言われる。「きわめて奇妙な物語 Une
histoire très-étranger 」というタイトルで『ポール・モール・ガゼット』紙は次のような物
語を掲載した。ここにおいてブルバキ将軍がメッスに戻った理由が説明されている。
(南仏同盟)
南仏同盟の委員会は機能を維持する。ツール政府は今後、国防ならびに祖国の安全に必要な措
置のイニシアティヴをとるであろうと声明し、この南仏同盟を承認した。今日までに同盟は執行
委員会、財政、起草の各委員会を指名した。
【55】各委員会は市民エスキロス Esquiros の統制下
にあり、週2回の会合をもつ。執行委員会は特に軍事を担当する。委員会の構成はマリーMarie、
ブヴァリエ Bouvalier、ブリッシーBrissy などの市民から成る。市民ボーム Baume、タルディフ
Tardif、ジャンスル Gensoul らは財政を担当。起草委員会は市民ブロシエ Brochier、ギュスタ
ーヴ・ナケ Gustave Naquet、ルヴディエ Rouvdier が構成する。
(ヴィルヘルムシェーエからのニュース)
ドイツの新聞はヴィルヘルムシェーエにおける皇帝の生活ぶりと居住についての記事でいっ
ぱいである。彼の地位はけっして虜囚のそれではない。彼はまったく自由に徒歩と馬車で外出す
ることができるし、ごく最近では真に帝政的な気紛れ事、閲兵の気紛れ事をして過ごす。すなわ
ち、彼は一日の大半を城の庭園で過ごす。プロイセン軍の完全装備の3軍団はこの閲兵を受け、
ナポレオンの面前でテュイルリーあるいはシャン・デ・マルスでは未だかつて見たことのないよ
うなすばらしい縦列行進を見せた。贅沢、眼、彼を取り巻く参謀、彼に保証される主権者として
の慰みごと、これらすべては次のようなことを連想させる。ビスマルク氏はその国の歴史におい
て9月1日も4日もなかったかのように、フランスを代表するかのように振る舞う。すなわち、
ヴィルヘルムシェーエの囚人と早期講和の考えをもっているのではないか、と。
(デュクロ将軍に対するプロイセン軍の告発)
プロイセン軍兵営ではデュローDurot 将軍への非難が高まっている。というのは、プロイセン
軍に対してもはや抵抗できないという名誉ある演説をした後で、彼がポンタ・ムッソンから逃亡
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したからである。プロイセンの新聞はもし将軍がパリに戻ったら、彼は「砂の上で」銃殺される
ことを予期すべきだと述べる。
(第一アルジェリア歩兵、仮の・・・その他)
『ベルギーの独立』紙は第一アルジェリア歩兵団連隊長バラシャン M. Barachin に対する精
力的な抗議を公表。その中身は次のとおり。ごく最近創設された臨時の第一アルジェリア歩兵団
― パリ軍の最初の出撃戦で怯懦であった ― と、マク=マオン師団麾下でバランシャンが連隊長
をっとめた、ウェルト Woerth およびフレッシュウィレル Froeschwiller で戦功を挙げ、「唯一
の、真実の、無比の第一アルジェリア連隊」とでは名称が紛らわしいからだという。
一方、同じ連隊のあるアルジェリア兵団はベルギーの新聞に、第一歩兵団の潰走の噂を中傷と
してその噂を流した張本人に理由を質したいと書き送る。
ベルギーの新聞は、アルジェリア歩兵団に答えて曰く。新聞は挑戦状をトロシュ将軍に宛てて
おり、彼がこの噂の最初の作者であり、最も大きな責任を負っている。【56】
(奇妙な死)
この著名であり、また知られざるを人物の影のマスクと名はルイ十四世の囚人の例と同じよう
にまもなく明らかになるであろう。今問題になっている高官に関して、まったく新しい解釈があ
らわれた英国の新聞『ナッサウ公爵』によると、故人は金のラシャで覆われ、ヴュルテンベルク
人の3千の兵士によって護送され、2日前にツールを通り過ぎた、という。
(オルレアンにおける紛争)
オルレアンからの出撃はこの町の知事とポレス Polhès 将軍=軍隊の司令官とのあいだで紛
争が起こった。ポレス将軍が敵軍がまだ数のうえで多くないのに大急ぎで退却したことを知事が
非難したにつづいて、将軍は弁明して曰く。オルレアンの放棄は知事の面前でおこなわれた作戦
会議において全員一致で決定されたことだ、と。
しかし、これについて知事は答える。ポレス将軍に対して、プロイセン軍が数において圧倒的
に優勢になったときは戦闘を継続するに及ばないと述べたはずだ、と。ところで、将軍がこの点
について正しい情報を得ていなかったことが判明。オルレアンの市議会とともに知事は市のあま
りにも性急な放棄に抗議し、敵が現われた場合は精力的な防御を組織するのが当然だと評価した。
(ケルサローム Kersalaum 将軍)
オクセール Auxerre からの通報によると、ケルサローム将軍が穏健主義と反共和政への陰謀
のカドで人民によって逮捕された。
10月6日(木)
【56】(戦況)
5日夕刻、シュヴィリーChvilly 発のルヨーReyau 将軍の報告によれば、5日朝、騎兵隊と歩
兵隊から成る3個旅団と3個略式砲兵隊がツーリ Toury に向かっていることを確認した。
タシス Thassis に7時に到着した1軽騎兵隊は1村落を包囲し、敵砲兵隊をものともせずバ
10
イエルン近衛連隊から5人の捕虜を解放し大砲10門を捕獲したが、そのうちいくつかはフラン
スのものであることが判明。
前線での動きは継続中。ルセーRessaye 旅団は右側からツーリの村を回る。400~500
人から成る強力な騎兵隊は2千人の歩兵に支援されていたが、
【57】パリに大急ぎで退却しなけ
ればならなかった。
仏軍はツーリから3~4時間、敵を追撃。軍隊は疲労し、前線での動きはしばらく止まる。
ルヨー将軍は147頭の羊を含む家畜を取得し、それをアルトネーArthenay に導く。
ツーリの占領につづいてプロイセン軍は急いでピティヴィエ Pithivier の町を放棄した。ウェ
ルダー将軍の報告によれば、ストラスブール包囲戦での9月21日来のドイツ側は死者30、負
傷者195の損失を出した。
包囲の全期間中、ドイツ側では906人の死傷者を出し、うち43人の将校がそれに含まれた。
マンス Mans 発6日の電報によると、敵は優越する兵力と砲兵隊をもってパシー=シュル=ウ
ール Pacy-sur-Eure とヴェルノン Vernon を占領。国民衛兵の果敢な抵抗ののち、この2都市
は降伏。
(ローマ)
教皇庁がイタリアの統一に対し近々同意すると思しき徴候を表わす重要なニュースが今日、こ
の町からわれわれの許に達する。ピオ九世は新政府が月額5万2千エキュを受け取ることを認め、
かつての費用を放棄する見込みとのこと。
国民投票の結果がフィレンツェのヴィットリオ=エマヌエーレに献じられるのは九日の予定。
カリニャン、アンベール、アメデの諸皇子は王によるローマの代表の受諾を迫られるであろう。
一方、国民投票に即応して全教皇国家にわたる票決がおこなわれ、ほとんどが「諾」の回答を
与えた。票決結果はヴレトリ Velletri についていうと、10,912の「諾」に対し、56が「否」
であった。
『タイムズ』紙は、外交部はカドルナ将軍に対しローマ占領のおりは活発に代表団を送った。
(気球)
3番目の気球に搭乗してツールに到着したティサンディエ Tissandier 氏は『コンスティテュ
シオネル』紙にその旅行についてきわめて興味深い物語を掲載。
【58】
【59】
(ブルバキ事件)
ブルバキ事件が盛んに世間を騒がしている。なぜこの将軍がいとも簡単にメッスを脱出するこ
とができたか人々は理解できない。また、包囲軍が将軍たちと皇后間に連絡する便宜を与えたこ
との利害関係も理解されない。さらにまた、フランスがすでに共和政体を標榜しているにもかか
わらず、バゼーヌ将軍とその軍隊が依然として摂政に眼を向けているかも理解されないのである。
ライン軍の本営は国防政府に参画することなく敵と交渉するつもりであろうか?
将軍は29
日、すなわちブルバキがロンドンに到着した2日後、同将軍がブリエーBriey まで脱出作戦を指
11
揮していた、と速達便で知らせたツール政府をわざと裏切るつもりなのだろうか?
(プロイセンの自由主義)
ヤコビーJacoby なるドイツの勇気ある民主主義者は領土拡大政策に反対したかどで、また併
合された住民に同調したかどで投獄されたが、彼は最近、ビスマルク氏に不当にして恣意的な拘
禁に対し抗議文を送った。
(ドイツの統一)
ドイツの統一に関する交渉がひきつづきおこなわれている。デルブリュック Delbrück 氏がま
ず最初にバイエルンとヴュルテンベルクで交渉する。今日の噂では、この政治家はミュンヘンで
おこなわれた結果を伝えるために国王の参謀本部とビスマルク伯の許に旅行する予定であるが、
そこで新たな指示を求める意向らしい。
一方、ミュンヘンからの電報によると、バイエルンとヴュルテンベルクは現行憲法を基礎にす
る北ドイツ連邦に入ることを拒絶した。これら2国は北ドイツ連邦の新連邦への改組を要求した。
そうでなければ、これら2国は北ドイツ連邦との軍事的同盟で満足するであろう。
【60】(ガリバルディ)
フィレンツェ政府はイタリア軍の将軍のリストからガリバルディの名前を抹消した。それはプ
ロイセンと諍いを回避するためである。1866年の戦闘以来、同将軍は軍隊の将軍から抹消さ
れるよう要求しており、それが今実現したのである。
(ストラスブールの知事の脱出)
噂ではストラスブールの共和派知事ヴァランタン Valentin 氏はプロイセン軍の到着前に同
市を離れることができた。ストラスブールが包囲されたとき知事に任命されたが、数多くの危難
のせいで居所を得ることができなかったのである。
包囲が兵士の夕食中に中断されたことが明らかになった。農民の扮装をして9月22日1~2
時の間に彼はプロイセン前線を横切り窪地に身を潜めた。彼は泳いでそこを抜けた。仏軍がくり
返し彼に狙いを定めたが、弾丸は当たらない。彼は彼らに自分を上陸させ捕虜にしてほしいと叫
んだ。しかし、冷笑と弾丸での返答を受けた。ついに彼は兵営の一歩のところまで到達した。そ
こは城塞からの銃撃を逃れるのに好都合の場所だった。ここで彼は投降を勧められた。ウーリッ
ヒ将軍の前に連行され、彼は彼の衣服の袖を上げて、自身が知事であることを証明する公文書を
取り出したのである。
(稀有な減刑)
ランの前知事フェラン Ferrand はラン城塞の爆発後も場所にとどまり、軍法会議により死刑
判決を受けた。
フェラン氏はランス大司教ランドリオーLandriot 猊下の仲立ちによってこの刑から減刑さ
れた。フェランは戦争の捕虜としてコブレンツに護送された。
(マクマオン)
マクマオン元帥の居所はヴィースバーデン Wiesbaden で明らかにされる。元帥はブイヨン近
くのプシュ=オ=ボワ Poussyu-aux-Bois になおまだとどまっており、傷の手当てを受けている
12
もよう。
(ナポレオン三世の思想)
9月26日。ロンドンの『シテュアシオン』紙が皇帝直筆のものとして公刊した弁駁書の原文
がここにある。われわれはこの刊行について声を大にして何かを語ろう。これは限りない興味を
呼ぶものとなろう。彼がおこなった完全な失敗をみれば、この業績の真の起源は明らかになるだ
ろう。彼が非難されるときですら、否定はできない。さらにフランスへの間接的なこの表明にお
いて思想の一部とお決まりの文言に出会うことだろう。
【61】
10月7日(金)
【62】(戦況)
パリ南部および西南部でのプロイセン軍の動きがひっきりなしに報道される。こうした一連の
動きの意味するところは一般に無視される。住民の士気を沮喪させ、パリ包囲軍の補給を確保す
るためでないとするなら、シャルトル街道によってツールを威嚇し、ツールとルーアンおよびア
ミアンの連絡を邪魔することが考えられよう。
シャルトルの町は昨日、バーデンの騎兵と砲兵によって占領された。ミュールーズにいた軍隊
はアルトキッシュ Altkich 方向に移動し、ストラスブール包囲に参画した軍隊はパリに移動す
ると見られ、新たな1万7千の兵が対パリ作戦に加わるため形成されつつある。
【63】
シャトーダン Châteaudun からの速報の述べるところによれば、義勇兵と、総動員令によっ
て応召された国民衛兵によってプロイセン軍はジャンヴィル Janville とその近郊で撃退された。
昨日、彼らはタンクランヴィル Tancrainville を焼き討ちする。すべての市町村はジャンヴィル
に進軍することを要求。
エペルノンは完全に自由であると言われる。ランブイエは3千のプロイセン軍によって占領さ
れる。
オーブ Aube 県は完全に自由である。
6日、1日中、ラン Raon とブリュイエールの中間で激戦が交わされた。対するプロイセン軍
は砲兵隊8千~1万を擁する。結果は不明。デュプレ Dupré 将軍が負傷。われわれは陣地を死
守。
国民衛兵が軍隊に入営。
速報曰く。敵軍がヌフ=ブリザック Neuf-Brisach に進出。シャランプ Challampe に近い村
落は大勢の軍隊によって占領される。
ジゾン Gisons に到達したプロイセン軍は国民衛兵によって撃退される。
敵はソワソン Soissson 包囲のため、サン=カンタン Saint-Quentin 方面への進出を断念した
ように思われる。
13
6日、ザールブリュッケン発の報道によると、サン=テロワ Saint-Eloi 要塞の砲撃は激しく
反撃された。
フランクフルトの一新聞はこう伝える。すなわち、ビッチュ要塞に毎日2千発の砲弾と榴弾が
撃ち込まれたが、そこには24個連隊が駐屯しているといわれる。包囲軍は1個連隊を堡塁の射
程距離内におき、一斉射撃で仏軍を城壁から引き離した。高地に配備されたバイエルン6個連隊
は甚大な被害を受けた。街路のすべてが破壊され、ほとんどの住民が要塞内に避難する。兵営と
岩山にあった礼拝堂の病院は廃墟と化した。
(マント Mantes におけるプロイセン軍)
以下に示す書簡はマントにおけるプロイセン兵の行為と振る舞いについて興味深い細部を伝
える。[省略]
【64】
【65】(ブルバキ事件)
ブルバキ将軍のメッス単独脱出行為とバゼーヌ兵営への単独ではない帰還は各種の論議の的
となっている。ライン軍の司令官とプロイセン参謀部との間に摂政を皇位に就けるということに
関し共謀でもあるのだろうか?
あるいはこれはまったくの、フランス軍にとってもプロイセン
軍にとっても眼前で演じられた巨大なミステリーなのか。誰かしら悪漢が役割を演じたのか、そ
れについては何人もわからない。
(ツール)
ツールではフリション提督が陸軍大臣就任を辞退したことですべてが当惑状態に陥る。そのポ
ストは最も難しく、したがって、ほとんどだれもその重責を引き受けたいとは思わない。そこで、
軍事問題を指揮するために7人から成る委員会が任命されたと言われる。
『コンスティショネル』紙は、このような措置が「軍事問題」に必要な指揮系統の統一や迅速
さにとってなんら障害にならないようにという主旨の見解を掲載した
(ツールにおけるウーリッヒ将軍)
『リュニオンl’Union 』紙はストラスブールの防衛者の存在がツールで惹き起こした興奮に
ついて伝える。
【66】
(ベルギーにおけるフランスの捕虜)
ベルギーのベヴェルローBeverloo 収容所に拘留されたフランス兵捕虜によって企図された脱
走計画が発覚。彼らは逃亡を容易にするため収容所に放火する予定であった。ベルギー当局はそ
の秘密の漏えいを入手し、すべての捕虜に対し無差別に厳戒態勢に敷いた。
(世論の前にする将軍たち)
いたるところで将軍に対する世論の「怒号」が聞かれる。このような軍事的司令官は多くの町
でそこの住民からあらゆる種類の不平不満をもって迎え入れられる。人々は彼らを信用せず、事
の是非は別として現下の敗戦を彼らの責任に帰している。
【67】(リヨンにおける軍・民当局間の紛争)
14
将軍および軍将校を民政当局の指揮下におくことを命じた政令がこの町でなにがしかの扇動
を惹き起こした。マジュール Majure 将軍はこの政策に従うことを拒絶。シャルメル=ラクール
Challemel-Lacour 知事は、したがって、将軍の逮捕をおこなうべく国民衛兵の数個大隊を召集
したが、これゆえに一種の暴動の様相を呈してきた。将軍は無抵抗のうちに逮捕された。ツール
政府の政令は ― 知事の命令下で出したが、2度も彼に訴追された― 実施されなかった。
知事は将軍の逮捕の翌日に貼られた宣言によってリヨンは住民に真実を知らせた。最初、将軍
の抵抗の原因を知らない群集は威嚇的態度に出た。激高した群集が将軍のいるアパートに侵入す
るのを防ぐため、知事の精力的な措置を必須とした。しかし、彼の振る舞いの原因を彼らが知る
とその騒動は鎮まった。
(ボナパルト派の論争)
いくつかのイギリスの新聞がピエトリ Pietri の書簡を公表。その書簡のなかで、
「ナポレオン
の思想」と題する記事は信用のおけない《記録》であるという。
にもかかわらず、以下のことが確かめられた。すなわち、『シテュアシオン』紙に載せられた
この作品は皇帝直筆と伝えたのはド・ガステルノーDe Gastelnau 将軍である。ボナパルト派の
面々はしたがって、この点では一致している!!!
同じ記録に関するもうひとつの暴露を示そう。言われるところによれば、この記録はヴィルヘ
ルムシェーエの皇帝の通信員によってビスマルク自身に最初に送られるはずだった。ところが、
フェリエール発の電報によると、前皇帝からこの種の資料はなにも受け取っていないという話だ。
これの公刊でもってケリをつけるべく、ほとんどすべての新聞はそれをボナパルト派の復位の
企図のアドバルーンと見なしたことを言っておきたい。今日、フランスおよびヨーロッパで の
不首尾のゆえに、世望を失っているボナパルト派の復位である。
10月8日(土)
【68】(戦況)
7 日、プロイセン軍のヌフ=ブリザック攻撃の報道。ブリザック要塞は大砲によって活発
に応戦。
プロイセン軍の前衛はドルーDreux に到達。同軍はモンタルジ Montargis に 5 千人の軍
団がいることを知らせた。
プロイセン軍がエタンプ Etampes に集結。昨日、縦列行進中の敵はラ・フェルテを通過
し、エタンプとヴォーヴ Voves 方面に進む。
昨日、午後 2 時、バゼーヌ軍出撃の報道。激烈な戦闘が夜まで続く。主会戦が起きたの
はクンマーKummer 師団のいるウォルピュイ Worpuy である。仏軍は敗退したもよう。
同日の同じころ、仏軍はモーゼル右岸沿いにプロイセン第1軍団と第10軍団に対しい
くつかの師団を投入。
ヴィユ=ブリザックは夕刻 9 時から 11 時半まで砲撃を浴びる。この町は三方から火の手
15
が上がる。
サン=カンタンの知事はプロイセン軍の接近を打電し、激烈な抵抗の準備を完了した。
ヴェルダン包囲が始まる。守備隊は 4 千。
(状況)
ブルバキ将軍が単独で出入した事実についてビスマルク伯爵およびヴィルヘルム王から
出たと思しきいくつかの意見が飛び交う。ヴィルヘルムシェーエの虜囚の表明の公刊――
これらすべてはボナパルト派の再興計画のタイミングを懸念させるものだった。しかし、
ヨーロッパ全体、特にフランスとドイツがフランス国民の運命をボナパルトの手に委ねる
意向を歓迎する主旨の思想に対し反発の態度を示したことはプロイセン外交部やボナパル
ト派の策士の眼を開かせ、このような計画を実現するのは不可能であることを察知しなけ
ればならなかった。したがって、この種の思想は束の間のものと信じられた。
一方、臨時政府の派遣部を構成している人物が、かれらに付託された責務に堪えうるか
どうか、そして、国防の組織化に任じられた人物がそうでなければならないと同様に、組
織能力の才があるかどうか疑問視されている。最も評判の悪い彼らの行為のひとつ、それ
はどう考えてみても、今月 16 日に憲法制定議会選挙をおこなうべく選挙民を集める政令で
ある。じっさい、多数の理由がこれらの選挙の実施を不可能にするように思われ、すべて
の精神はその集会と同様に、
【69】議員指名を妨害するであろう真に克服できないいくつか
の障碍に強く打たれたのである。
まず、いくつかの県が投票できるであろうか? 次に、代議士はどこに集まるのだろうか?ツ
ールか? しかし、そこに到着するのにパリ選出の代議士はどうするのか? あるいは、パリは
代表を見送るのか。
他方、この時フランスは大混乱に陥る。東部、北部、パリは中央部に対し策をめぐらし、そし
て、まもなくノルマンディ、ボースはブルターニュ、ポワトゥー、ボルドレーに従うであろう。
これら地域のすべてのフランス人はどのように投票するのだろうか?
あるいは、彼らは棄権す
るだろうか?
次に、この時選挙をおこなうことは、諸事件が彼らに課した大きな懸念からフランス人の眼を
逸らすことにならないか。つまり、ほとんどの場所で、老人および廃疾者のみが投票所にいける
のだから、国防の必要性とフランスの命運への懸念から《解放する》ことになろう。要するに、
あらゆる方面からの、派遣部の政令が出会う主な反対とはこのようなものである。さらにもう一
つの疑問を述べておこう。クレミューCrémieux やグレ=ビゾワン Glaiz-Bizoin のような聡明に
して公政務に献身的な人物に件の政令をこれらの困難を圧して実行させるに値するどんな重大
な理由があるというのか。
(バゼーヌ元帥と世論)
メッスで世紀している出来事はつねに謎めいている。言われるところでは、バゼーヌによって
なされた最近の出撃戦において仏軍は150~200頭の牛を奪取した。この奪取事件は多くの
者の好奇心をそそる。『ケルン新聞 Gazette de Cologne』は不審の眼を――フリードリヒ=カー
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ル公がメッス軍を温存するため何らか秘密の理由を保持しているのではないかといった不審の
眼を――向けている。同紙は言う。
「少しばかりの好意の念をもつフリードリヒ=カール公の態度から連想されることは、パリを
包囲し自身の力で同市の食糧を調達したアンリ四世の二の舞になることが容易に読み取れる。仏
軍師団の前に家畜の群れを追い込む。この普軍師団は、ストラスブールが直面した困窮について
われわれが知っている情報の真只中で、反対に慰撫に値する見世物を提供するのだ。これと比較
すると、メッスは真の意味の天国である。」
いかなる理由があろうとも、共和国および臨時政府と取引することを望まないビスマルクはバ
ゼーヌと講和を結ぶことができればこれ幸いなり、と思っている。1848年、オーストリアが
ラデツキー兵営 Radetzki に追い込まれたと言われるように、1870年のフランスはバゼーヌ
の兵営の掌握するところとなろう。プロイセンが講和を結ぼうとするのは、この兵営の司令官の
資格すなわちフランス総督の資格を有する彼とのあいだにおいてであろう。
【70】(ティエールの旅行)
ティエールと彼の使命について何も新しい情報はない。聖ペテルスブルクにおける彼の失敗は
明白である。少なくともフランスの利益を慮ったロシアの干渉(への期待薄)に関してはそうで
ある。しかし、視点を転じると、この著名な外交官の旅行は徒労とはならないだろう。彼は、講
和の締結後に成立するであろうヨーロッパ会議の種子を植えたことになる。ティエール氏および
オルレアン派の主要な願望がそこにあることは久しい前から知られている。聖ペテルスブルクか
らの帰路、ティエール氏はイタリアへ向かった。
『タイムズ』紙はティエール氏の使命がとりわけイギリスで成功する見込みがまったくない理
由を説明する。
「ヨーロッパ列強の均衡はかなり巨大なものであり、このような断言[対英交渉の挫折]はフラ
ンスにとってさして心配するに及ばない。われわれはそれと同じ理由にもとづいて政治的嫉妬心、
商業的嫉妬心を公然とかなぐり捨てることを認めた。」
(気球)
4 番目の気球に関する興味深い記事。[省略]
【71】
(マドリード)
マドリードの共和派の総裁はその教書を公刊した。憲法制定議会を招集することは政府の拒絶、
およびコルテス(議会)の常時開会の拒絶に対する精力的な抗議である。内閣長官に対する攻撃
はきわめて辛辣なもので、宣言の結論は連邦共和制の必要性を謳っている。
(ローマ)
ローマの州都における国民投票の全体的な結果は以下のとおり。有権者数167,548、投
票者135,291、賛成133,681、反対1,507、無効103。
(マルセーユ)
マルセーユはリヨンの鎮圧を知って喜ぶ。しかし、リヨン当局によって釈放されるやいなや、
17
クリュズレ Cluseret 将軍は南仏の革命家の同盟を組織するためマルセーユに赴いた。彼がエク
ス Aix で逮捕されたと聞く。確実なことは、市民のあいだに不和の種を蒔き、保守派を驚かせ
るジャコバン派と社会主義者の扇動がその温床において効力を温存し、かくてプロイセン軍を利
しうるということだ。
リヨン、マルセーユという地方の二大都市の状況はストラスブールの不幸な町を無支援状態に
放置するのに少なからず貢献した。リヨンはその市壁の中と郊外合わせて 3 万の精鋭軍を擁す
る。マルセーユとツーロンはとりわけリヨンの小規模軍隊と合流できる守備隊をかかえている。
6 万の軍隊で包囲されたストラスブールを解放するのに、これだけの軍勢があれば十分である。
ストラスブールはまだ 7 千の守備隊をもっているため、欠乏しつつあった弾薬を搬入すべく包
囲網の一角を突き崩すだけで十分であったのだ・・・。
(ジュネーヴにおける亡命)
イサベラ女王はマルフォリ Marfori 知事に付き添われジュネーヴに到着。女王はブリュンス
ヴィク Brunswick 公、ナポレオン公が住み、プランジャン Prangins が売却した館に投宿。
【72】
(反ボナパルト派のジラルダン)
ロンドンにおいてナポレオン三世を王位に復させる目的で公刊されている新聞『シテュアシオ
ン』紙はド・ジラルダン氏をボナパルトの復位の支持者に予定していた。『プレス』紙のかつて
の編集主幹が『リベルテ』紙によって公表された書簡でこの陳述に答えた。
10月9日(日)
【74】(戦況)
サン=カンタンで交戦。同市は抵抗の末に降伏し開城。アナトール・ド・ラ・フォルジュ知事
は片手に剣を持ち現場に急行し、「武器を取れ」と叫ぶ。武装住民の数は増え、労働者は武器店
で武器を買い込み、すべての者が敵に向かって進む。運河の近くにバリケードを構築した。イル
Isle のフォブール[郭外町]は通常の攻撃に対し3時間持ちこたえた。
プロイセン軍は後退。包囲側はいくか損失を被る。知事は脚を負傷。プロイセン軍は甚大な被
害をだした。周辺一帯を偉大な英雄主義がつつみこむ。アム Ham からの電報によると、サン=
カンタンで撃退された1万2千のプロイセン軍はリブモン Ribemont に退却。
パリの義勇兵が150人のプロイセン騎兵隊をアプリス Ablis へ潰走させ、60人の捕虜を馬
といっしょに捕獲。
アルトノワ Arthenoy の市長報告によれば、この地方一帯で700~800の義勇兵がプロイ
セン軍を撃退する。
(ガンベッタのアミアン到着)
アミアンからわれわれの許へ新しい大きなニュースが飛び込む。臨時政府の勇気ある内務大臣
ガンベッタ氏が昨日、この町の近くに気球で降り立つ。彼の気球旅行は多くの危険を伴った。彼
18
は2度もプロイセン軍の手に落ちるような危険を味わう。幾度となく敵側からする銃撃が気球の
近くにまで達し、ガンベッタ氏の腕を銃弾がかすめた。しかし、彼が幸運だったのはアミアン近
郊に降り立ったことだ。そのため、大歓呼でもって彼を迎え入れた愛国的人民の真只中に降り立
つ結果となり、彼に目的地へ出発すべき手段を与えた。ガンベッタ氏は国防の組織化と、それま
で欠如しているとみられた情熱と団結をもたらすという使命を携えてツールに発った。
【75】ガンベッタの到着が北仏において激発させた熱狂についての詳述を以下に紹介しておく。
ここでの愛国心はその時鈍くなっていたのである。『ベルギー独立』紙に宛てられた8日付の通
信においてわれわれはそれを確かめるであろう。[省略]
(ガリバルディのマルセーユ到着)
ガンベッタのアミアン到着と同じ日、ガリバルディがマルセーユに到着したとの報あり。当地
で市民は彼を熱狂的に迎え入れた。著名な傭兵隊長は彼の銃剣をフランス共和国のために振うた
めに来訪したのである。
この犠牲的精神とこの勇気はフランス国民の愛国熱を刺激するであろうか。そして、すべての
努力を強力にし、本気の、迅速な、中身の濃い国防の組織化へ傾注させることになるだろうか。
(知事の勇気ある英断)
サン=カンタンの知事ド・ラ・フォルジュ氏の行動――彼の陣頭指揮はプロイセン軍を退却に
追い込んだ――はいたる処で良き結果を生んだ。文官は軍官よりよく戦うということか? 今日
まで正規軍の将軍や軍隊の退却の話ばかり聞かされてきた。ここではプロイセンを敗北させ、最
終的に退却を余儀なくさせたのは住民、すべての武装市民、大急ぎで結成された住民の先頭に立
ったのは知事であった。サン=カンタンのこの防衛は以下のことを示す。すなわち、抵抗はいた
る処で可能であり、愛国心と自己犠牲の精神は一定の条件下では特殊な習慣や知識よりも多くの
ことを鼓吹するということ、を。
プロイセン軍が敗退したことや、サン=カンタンで被った敗北がいかに取るに足りないもので
あっても、今後生じる軍事的衝突に対する吉兆としてあらゆる処で大喜びをもって迎え入れられ
たことはこれまで聞いたことのない話である。
【76】
(謎の死)
ポワティエのある住民はマルヌ県のヴィトリ=ル=フランセ Vitry-le-Français から以下の内
容の手紙を入手。[省略]
(奇妙な逮捕)
ローヌ県のリュッツ Lutz 氏(国防政府の特別委員)は2度目の気球によってパリを脱出した
が、ブザンソンで悲しむべき冒険を体験。
(否認)
バゼーヌ元帥が皇后名代のかたちで臨時政府の協力なしに講和を結ぶべくプロイセン政府と
交渉に着手したことをベルリンは否定。こうした噂が誤報であることの証拠としてプロイセンの
新聞は、仏軍と包囲軍間でメッスで展開中の数多くの交戦の実例を引用する。
19
(ドイツの統一)
『ヴュルテンベルク官報 Moniteur wurtembergeois』紙はプロイセン政府の官報がわれわれ
にあいまいにしたままにしているドイツ統一問題の現況に関する具体的な最初の情報を提供。ス
テュットガルトの官報の記事によれば、ヴュルテンベルク王はドイツの政治的再建に遅滞なくと
りかかる必要性を認め、そして、以下の諸原則を基礎にそのための協力をおこなう用意があるこ
とを認めた。
【77】
1. 憲法問題について南と北との間に国際関係の変更
2. ドイツの中央権力との憲法的統一
3. 共通の立法院と単一の軍隊
(ブルバキ事件とボナパルト派の論争)
10月8日付ロンドン発の情報によると、M.N.の奇妙な話とブルバキ将軍のイギリスへの
旅行の話はイギリスの新聞の論議の的でありつづけている。
(戦争の犠牲者)
プロイセン政府によって今日にいたるまでに発表された損失のリストは以下のとおり。
死者・・・・・2将軍、43高級将校、
477将校、 7,675下士官と兵卒
負傷者・・・・7将軍、99高級将校、1,447将校、32,945下士官と兵卒
行方不明・・・1大佐、
合計・・・・・
12将校、
2,888将校
5,860下士官と兵卒
46,480下士官と兵卒
ドイツ側の要塞に拘禁されている仏軍捕虜の数は110,020人にのぼる。
(次
http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/maquest3.pdf)
(c)Michiaki Matsui
2014
20