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パリ籠城期(1870年9 月18日〜1871年1月28日)におけるフランスとヨーロッパ-9[12/11〜12/20]
翻訳:横浜市立大学名誉教授 松井道昭
12月11日(日)
(戦況)
昨日も戦闘があり、一昨日もまたロワール軍においておこなわれた。われわれが前に書いたよ
うに、同軍の状況が幾つかの新聞が騒いでいるほど絶望的ではない証拠がある。われわれはこの
ことは認めよう。つまり、敵兵を阻止するためのわが軍の努力は初期の結果を達成できなかった
ことを。
【440】しかし、抵抗は長期にわたり果敢におこなわれた。もしドイツ軍が進軍するとし
ても、ゆっくりと大きな犠牲をはらってのみ可能である。
『ベルギーの独立』紙が本日の報告の中で軍事情勢がどうなっているかを語る。
(バゼーヌ元帥の証拠の書簡)
あらゆる不吉なケースが否定される。それはあらゆる側面からも防ぎきれない悪いケースでは
ない。したがって、彼にふり向けられた告発や嫌悪感を前にしてバゼーヌ元帥を包む沈黙は明ら
かにならない。
【441】元帥の友人すらも彼の執拗な沈黙に苦情を並べる。だから、元帥に分はな
い。
彼の書簡についても、われわれは攻撃についても大いに弁護をしてきた。この書簡を最初に読
んだのは『ノール Nord』紙である。
(東部戦線。奇妙なエピソード)
われわれはガリバルディが先月の 26 日、プロイセン軍に対して浴びせた血腥い敗北の時間と
場所を示した。われわれが述べないこと、まだ知らないこと、実をいえばこの事件において一部
の勝利軍が取り乱して逃亡した一瞬、すなわち「潰走中」の敵を前にして大混乱の一瞬があった。
『スタンダード』紙においてこの奇妙な遁走曲の問題に関してわれわれが見出す奇妙な詳細は以
下のとおりである。
【442】
(フランス人モルトケ、『スタンダール』紙の悪い噂、軍事統制)
『スタンダード』紙によれば――いうまでもなく、発言を統制するのはわれわれにはできない
――われわれはプロイセン軍同様、ある戦略家をもっている。とげとげしさと軽蔑でいっぱいの
以下の数行においてイギリス新聞がわがモルトケについて書き、われわれのために真実の暴露を
おこなう。
『スタンダード』紙はフランスに同情的な新聞である。ロワール河畔でのわが軍の最近の敗走
について同紙は気にかけている。そこから、先ほどみたばかりの辛辣な議論が始まるのだ。軍事
的諸事件がやがてわれわれにとって――祖国のためにあらゆる努力とあらゆる知識を動員する者
にとって――より少なくより寛大な結果を見る機会を与えるであろうことに期待しよう。
われわれはあらゆる等級の官吏の責任の原則を声高に宣言するとき、またこの原理が日々の風
習や実践において根を下ろすとき、この残念さや感じやすさはもはや生じないであろう。文官・
軍官の別を問わずどのような等級の者であれ、各官吏は彼に委任された利害の管理を考慮するこ
とを誇りとするであろう。
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この世の事物がつねにそうであるように、この方法での行政は不便宜を伴う。しかし、そこか
ら結果するところの公共の良き行政にとって好ましい効果はことさら強調される諸困難と諸々の
不都合を償って余りあるものといえよう。
(トゥール、アンドル=エ=ロワールの県庁所在地、臨時首都トゥールでの通信員の別離)
トゥール市はフランスの臨時首都としての資格と便宜を奪われた!
パリを奪われ、ヨーロッパにおける衆人注視の的であり、祖国解放のために執られたすべての
努力の出発点であり、イタリア大通りやヴァシェット Vachette と並んで世界中に知られたマイ
ル Mail やブル・ドール Boule d’Or の散歩道を見たのち、単なる県庁所在地に戻るとはなんとい
う失墜であることか!…これら勇敢なトゥール人を不審冒涜のかたちで語るとは!
【444】
(東部フランスにおけるプロイセン軍)
敵に侵略された地方においても執筆が可能であれば、わが軍が国内の様相についてできるかぎ
りの事実を完全に反映することを望む。それゆえに 11 月末東部の婦人によって書かれた次の手
紙を集める。そこに人々はより重大でより切迫した関係がわれわれに与えていない内部の細かな
事実を見出すであろう。にもかかわらず、それはフランスの苦悩を知りたいと思う者にとってそ
の代償は極めて大である。
【445】
(ある槍騎兵)
敗者の感情や関心を今まで見てきた。ところで、今や勝者の考えや願望はどんなものだろう。
倦怠感と講和の願望が両陣営において等しい程度にあるのを見るだろう。
重要な事実。これから読み上げる手紙、2国民間のこの兄弟殺しの戦争を終結できる差し迫っ
た必要を示す手紙が『ケルン新聞 Gazette de Cologne』に掲載された。
これらすべてが意味するところはこうだ。すなわち、もし戦争が継続するならば、その罪悪は
なにがなんでもアルザス=ロレーヌを保持しようとするビスマルク氏とヴィルヘルム王の傲慢と
野心にあることになる。
…[中略]…
【447】
(ド・ショードルディ De Chaudordy 氏の回状)
現下の戦争におけるドイツ軍による口にするのも憚れるやり口はド・ショードルディの回状に
おいて諸国民と政府の注視のもとで非難された。その回状は 11 月 27 日に書かれ、外国における
フランスの代理官に宛てられたものである。いたるところで侵略を印象づける廃墟や罪悪を前に
して、ド・ショードルディ氏は正当にも次のように評価する。すなわち、行動すべき政府の注意
にこれらの事実を知らしめるべき行為について同氏が責任をとることは有用である、と。
簡潔で興奮した用語で起草されているため、ド・ショードルディ氏の回状は「忌避できない調
査」によってドイツ軍の責任に帰される諸事実のみを批難する。今日、何ごとが起ころうとも、
諸国民・諸国政府が干渉しようとしまいと、この回状はフランスの叫喚・殺戮・掠奪としてドイ
ツにより踏みつけられた人権、正義、感情のための崇高な要求として歴史にとどめられるであろ
う。
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(ヴァルダーゼーWaldersee 伯爵の死)
これまで秘密に付されていたブルジェーの戦いのエピソードに関する『ベルギーの独立』紙の
報道。
ブルジェーで捕虜となった幾人かのフランス人将校は『ベルギーの独立』紙にすでに次のよう
に書き送った。すなわち、ヴァルダーゼー伯爵は「プロイセン軍旗を振りかざしてブルジェー門
を守っているバリケードを乗り越えようとしたとき、律儀な敵の銃火を浴びて斃れた。
(派遣部と同盟の関係)
何にもまして侵略を撃退し、単一の指導、単一の旗の下に協力する必要性に関心が集まってい
る。【448】
12月12日(月)
(戦況)
ついに判明した。パリは静かで英雄的態度を維持し、トロシュ将軍は威厳があり、堂々とした
言動をなす。オルレアンでのわが軍の最近の敗北に関してプロイセン軍参謀本部の通信への返答
として、同将軍は多大なる敬意をはらう。敵の司令官は、パリが旗をたたみ、その解放の見込み
のないことを語って市門をひらくことを希望していた。ところで、凶報とプロイセン軍の誇張に
もかかわらず、パリは徹底抵抗の意思を堅持している。この問題についてドイツ軍がパリへの入
城に関してすでに被った欺瞞を思い起こそう。この入城は最初9月に想定されていた。つづいて、
彼らのいわゆるライプチッヒ会戦の日に一致させるため 10 月まで遅らされた。今日ではパリ市
民の抵抗力を前にして幸運な砲撃の場合でさえも、ドイツ軍の真直中において――われわれは思
慮分別のある人々、知識人のことを言っているのだが――パリの降伏がいつの日になるか当てよ
うとする人はどこにもいない。
怒りと軽蔑がルーアンで爆発。時まさにプロイセン軍との争闘がなかった、と人々が耳にした
時のことだ。
【449】市当局と敵の間で妥結したとされる施策を公告に来た一人の市会議員は不満
と不平の渦中で迎え入れられた。いくつかの銃撃が彼に加えられた。市庁舎にいた市会議員にも
同様に銃撃が加えられた。要するに、最も熱心で最も愛国的な部分は、進取の気象の欠如と愛国
主義と抵抗の範を垂れるべき者の精力の欠如を声高に叫んで抗議した。
ディエップがプロイセン軍によって占領される。ル・アーヴルからのニュースによれば、同市
は侵略者に対して頑強に抵抗していると伝えられる。
11 月 26 日のオータン事件の時、何某かのランクの遊動隊において発生した混乱についてわれ
われはすでに知らされている。
ガリバルディがこの事件の後に部下に読ませた軍命令において、彼は野戦隊および山岳砲兵隊
に対して、バス・ピレネーおよびアルプ・マリティム大隊に対して、動員された国民衛兵に対し
て、第四旅団の志願兵に対して、ジェノヴァ軍団に謝辞を述べたのち、次のようにつけ加えた。
(パリの最近の戦闘、戦場の特徴)
12 月 2 日の戦場における『タイムズ』紙からの抜粋。
【450】
(ボースでのプロイセン軍)
親しい知人に宛てられた次の書簡は敵によって侵略された哀れな住民の上に圧しかかる。誅求
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と苦難の中を生き抜いたドラマティックな報告である。何という惨劇! 何という苦悶! いかな
る人間がこのような不幸を人類の上に爆発させることができようか!
ひと言でいえば、
「 不正にして暴力的な領土拡大の思惑をプロイセンの司令官に諦めさせること
がこうした落涙を止めさせるであろうし、これらの荒廃とこれらの廃墟の第一の原因を抑止する
ものとなろう。
ボースのある地主はこう語る。
【451】
(臨時首都ボルドー)
ボルドーの選択はまちがっていないし、反対もなかった。いくつかの都市がトゥールを継ぐと
いう栄誉を獲得しようと画策した。トゥールを離れ、政府所在地をさらに南方に移動することが
問題となっているとき、トゥール派遣部の躊躇についての次のように書かれている。
(ローマの騒動)
9 月、なんらかの騒動が発生。公に広まった噂には少々誇張がある。ランツァ Lanza 氏はフィ
レンツェの高等法院に対し、こん棒またはナイルにより幾人かが負傷した騒ぎだと報告。やがて
平穏が回復する。
にもかかわらず、幾つかの点で政治的騒動が遺憾な事実を引きずる。マッチニ派の新聞『イル・
トリブノ』からわれわれが抜粋した2篇の記事を以下に掲げておく。
(ナポレオン公の上品な存在、あるエピソード)
ヴォーVaud 郡が『プープル』紙に宛てた書簡によれば、従兄ジェロームとその家族をベルギ
ーおよびオランダにまちがって旅行させた。公爵は隠遁生活を送り、ベルジュリーBergerie とい
う名で良く知られたプラニャン Prangins の別荘に隠遁しているという評判だ。
【453】
12月13日(火)
(戦況)
プロイセンの電報の虚偽と誇張は現下の戦争を研究する歴史家にとって無上の楽しみとなろう。
いつでもプロイセンの高官は広く万人に彼らの敵の完全にして公式の真実の絶滅を告げる。そし
て、生きながらえると見られるこれら敵は銃火と砲火で彼らの破壊のニュースを否定するために
いつも現われるのだ。ロワール軍が撃破され絶滅されたと書かれたのはいったい何度にわたるこ
とか!…ロワール軍はまだちゃんと生き残っている。11 月 28 日から今月 10 日までおこなわれ
た日々における連続的な激戦にもかかわらず、ガンベッタ氏がシャンジー司令官の本営から 10
日にその部下に送った電報は以下のとおり。
【454】
フランス全土での抵抗の組織化が続けられている。北部、南部、西部、東部は敵軍に隣接もし
くは直面しているにもかかわらず、考えられうるあらゆる努力をはらって最も重要な兵力の増強
に努める。リールでは軍隊の集結がなされていると聞く。そこでは愛国的情熱と最後の勝利への
信念が爆発的かつ驚くべき自発性をもって示されている。リヨン、マルセーユ、ボルドーからの
情報に拠れば、3~4週間のうちに 40 万の軍隊が訓練、装備も整い、砲兵隊やそれに釣り合う
騎兵隊も具備しつつ北部に進撃する準備できるといわれる。
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内相兼陸相が最近宣言した崇高な努力のおかげで、あらゆる努力が整いつつある。最近の軍事
的事件を遅れさせることができなかったのはなんと不幸なことか!…結果が完全な潰走とオルレ
アンおよびパリ近郊でのプロイセン軍の真実の壊滅に連なったであろうことを誰ぞ知る!
しかし、もしフランスが望むなら、また、もしフランスが徹底抗戦の道を断固として決意を以
って進み続けるなら――メッスやスダンの敗北に躊躇することなく――そして、もしフランスが
自らを強化すべく執拗な努力をはらい、新たな戦闘に慣れるならば、われわれが最近得ようとし
た大勝利はまったく異なったものとなっていたであろう。
このような意見は単にフランス人愛国者のそれにとどまらない。多くの中立国の見方でもおお
かたそのようである。ロンドンの『スタンダール』紙の記事を見よ。
いま少しの努力、いま少しの勝利があれば、フランスは救われるであろう。戦争の諸事実はい
ま は そ れ ほ ど 重 要 で は な い 。 モ ン メ デ ィ Montmédy は 再 包 囲 さ れ た 。 フ ァ ー ル ス ブ ー ル
Phalesbourg が攻撃され、ビッチュ Bitche もおそらく同じ運命を辿るだろう。アルザス=ロレ
ーヌを我が物としたビスマルク氏は何が何でもこの2州があらゆる抵抗力を失い、【455】、あら
ゆるフランス軍を無力化することを望んでいるらしい。
ラン Laon で会戦があったとの噂が流れている。間もなく真相は判明するだろう。
(パリ)
砲撃はつねに軍命令の中にある。ウィレム・メイヤーWilhem Meyer の通信は破壊道具が準備
されているとわれわれに伝えてきた。
(フランス軍によるアム Ham の奪取)
北部の新聞記事によれば、アム奪取に関する興味深い事実が起きた。
【456】
(ハベムス・コンフィテンテム Habemus confitentem …Germaniam ドイツ時の国防への称賛)
良識と人類愛の感情が正義と真実のあらゆる観念を窒息さえなかった敵手に発見するのは稀で
あり、僥倖というべきである。それゆえ、次の行論を集められたのは幸運である。われわれは『ケ
ルン新聞』によって公刊された通信を引用しよう。
これらの記事は現下の戦争が導いた野蛮行為や非人道的行為に対する間接的な抗議となってい
る。さらに、それらは共和国の軍隊の勇気・祖国愛がとった可能なかぎりの雄弁と誠実にして公
平無私の賛辞ともなっている。にもかかわらず、フランスのあらゆる抵抗が無力であり、批難さ
れるべきであるという通信員の見解についてわれわれはあらゆる留保をおくのは言うまでもない
ことだ。
(ドーレル将軍の引退を弁護する見解。パリの解放を結論づけるイギリス紙の評価)
【457】
オルレアンの撤退の翌日に書かれた次の新聞。ヨーロッパの軍事サークルの多くに流
布している噂。つまりロワール軍を待ち受けている運命とフランス軍の勝機に関する幾つかの意
見をわれわれは集める。
(ヴェルサイユのモルトケ将軍)
ヴェルサイユの華麗な城はプロイセン参謀本部の完全な意のままになっている。ここは幾人か
の将軍が愛好する散歩道となる。『ジュネーブ新聞 Journal de Genève』 の通史人がごく最近お
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こなった訪問記を以下に引用しておく。
【458】
(プロイセンの自由主義)
プロイセン軍に占領されたブルゴーニュのある町で司令官が記者を呼び寄せ、プロイセンにと
って有利なかたち執筆することを条件として新聞の刊行を許可する提案をおこなった。すべての
者は拒絶したため、彼らは鉄道に乗せられてドイツに召喚されたとのこと。
(志願兵)
ボムボネル Bombonnel はブルゴーニュで疲れを知らない志願兵との戦いを再開した。志願兵
らは鉄道線に沿って敵の連絡を絶ち、食料を奪取し、兵員と物資を運ぶ列車を脱線させることに
没頭した。最近、ボムボネルはシャティヨン=シュル=セーヌと幹線を結ぶ地点ラヴィエール
Ravières 下でニュイ Nuits,橋を爆破した。
(合衆国)
ワシントン発の報道によれば、トレラール Treilhard 子爵は臨時政府から合衆国におけるフラ
ンス政府の彼の指名を確認する電報を受け取った。
ベルトゥミーBerthemy 氏はヨーロッパに早期に帰るため、この電報で彼の後継者を認めるう
えで十分に願っているようだ。しかし、首相はまだそれはなされておらず、トレラール氏が彼の
委任状を彼の許にもたらす蒸気船の到着を待たねばならないと返答。
【458】
12月14日(水)
(戦況)
プロイセン軍がパリ市民の熱意と勇気を凍らせるため最近おこなった試みに表れる悪意を人々
は嘲笑している。決定的にヴェルサイユ大本営のこれらの輩は強くはない。パリにいると思しき
ラヴェルテュジョン Lavertujon 氏の名の至急報を示すことによって彼らがなした以上にひどい
まちがいを犯しうるだろうか?
こうしたやり方は厳めしく威厳があるので、
【459】また、これ
のプロイセンの天才の重くどっしりした代表たちはつづいてフランス人の浮薄さや軽薄さを非難
するのに鮮やかである!
彼らの悪意と悪ふざけの試みは今後その行為を少々留保つきで、かつ
見分けのつくかたちのものとなるだろう。モルトケとビスマルクほどの人物は、木っ端役人が彼
らの偉大な栄誉や利益のために企図した、笑止千万で恥ずべき手段をどう考えているのだろう
か?
これらの御方は言われるほどの威厳があり誠実であるだろうか?
いずれにしても――なされたこと、非常に僥倖なこと――それは、パリ市民がプロイセンの真
実味やパリ市民のあいだに流布させようと求めているニュースについてどうすればよいかを承知
している事実である。フランスは抑圧されている。確かにそうだ。しかし、それは一時的だけの
ことにすぎない。フランスは精力的な報復戦を準備しており、パリが示した大胆さと沈着ぶりと
は、こうした考え方を裏づけるものだ。
パリの抵抗がどれほどロイセン軍を困惑させたかしれない。彼らは途方に暮れ、呪いもこの町
には効果なく、その成功のつねに大きくなりつつある堤防をつくり、メッスおよびスダンの簡単
な勝利に決定的に危うくさせるのみである。戦争の当初、そしてボナパルト派の降伏の翌日、彼
らが言うところでは、パリはビンにすぎないはずだった。けれども、不幸にしてこのビンはそれ
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を運び、それを飲み干すはずの者を脅威に晒している。しかし、最後にパリ市民は何を待ってい
るのか?
彼らはなおまだ希望を捨てないのか?
あらゆる調子で諸新聞、ドイツに身を献じる
ドイツとイギリスの通信員は自問する。ドイツ軍の殿方が待っているものは、彼らが溶かされ絶
滅されることである。地方の兄弟が迎撃の準備ができているとき、彼らは諸君に、諸君がスダン
以来のフランスを覆った廃墟と血の潰走を要求するであろう。
新しい実験が地方のこの時に根を下ろす。すなわち、それは困難である。幾つかの点でニュー
スを得ることは絶対的に不可能である。今日までトゥールはほとんどの一大中心地と直接の連絡
をとっている。けれども、今や北部、東部、中部が侵略軍の手中にある。もはやこれらの地域か
ら直接的にニュースを手に入れることはできない。他方、ボルドーは世の果てにあり、南部との
直接的連絡がある。通信に対するこうした障碍は一つの困難、一つの難儀である。人々は今まで
以上に、これこれの喪失や外界との隔絶が引きつづけば、日々の連絡の欠如がパリ市民にとって
どんなものかを理解しつつある。
以下、本日のニュース。
ヴェルサイユからの至急報によれば、ボージャンシーBeaugency 近郊のドイツ軍に対して4か
【 460】
月間戦いを挑んだシャンジーChanzy 軍は思いがけなくブロワ、トゥール方面に退却した。
モンメディーMontmédy の砲撃が始まった。ファールスブール Phalsbourg の要塞は長い間抵抗
したが、ついに降伏。ビッチュ Bitche はまだ抗戦中。
(パリ砲撃とプロイセン王の嫌悪感、かかる嫌悪が重大であること)
『デイリーテレグラフ』紙はパリ砲撃に関して次の詳細を公表。
プロイセン王にとってパリ砲撃が高くつくものであれば、自称人類愛的な彼の感情を満たすべ
き簡単な方法を彼はもっている。
「それは金銭で支払われる補償で満足し、アルザス=ロレーヌの
暴力的かつ不正な併合を放棄することである。」
しかし、この方法は最も簡単である。それは正義であり、誠実さですらある。したがって、彼
はそれに従わないであろう。そしてピラト Pilate 同様に、否、彼と同じ成功をもってヴィルヘル
ムは彼の片意地と口にするも恥ずべき要求が流した血で手を洗うであろう。
『デーリーテレグラフ』紙は、80 か所の要塞が「来週に始められる」パリ砲撃の準備を進行中
であることを告知する至急報を受け取った。
『タイムズ』紙はモン・ヴァレリアンには 9000 歩の射程をもつ巨大な大砲が配備されている
という。
(ロワール軍、その状況、ドイツ筋からの情報)
【461】ドイツのある通信は斥候隊がすでに達成したブロワ方面への移動前におけるロワール軍
の状態について述べる。
これら情報は極度に悲観的である。ヨーロッパの新聞に流布する噂について正確な情報を得る
べくわれわれはそれを収集する。プロイセン軍の最近の勝利――勝利があったとして――は高い
ものにつくだろう。ロワール軍がその移動のイニシアティヴをとるや否や、ロワール軍は補給を
おこない、戦争に慣れた状態で、かつ新兵力で再攻撃できるのだ。よって、平静かつ信頼して、
生起する諸事件を待つことにしよう。
人はつねに以下のことを忘れている。戦争に慣れた軍隊はつくられるものではないこと、ドイ
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ツの軍事力を無力化し、かつ打ちのめせるのは一瞬のうちではないことである。
(アミアンにおけるプロイセン軍、謎の死の解明)
アミアンからリールの『プロパガトゥール』紙に宛てられた次の通信はわれわれにアミアンに
おけるプロイセン軍の占領に関する興味深い詳細を伝える。すなわち、同通信は葬儀および、ご
区最近世間を騒がせた高官の謎の死の風聞についても情報を提供する。【462】
(ルーアンにおけるプロイセン軍)
ルーアンが 1200 万フランを課されたのは真実ではない。おカネでの徴発はおこなわれていな
い。とはいえ、同市は 2 万足の長靴と 8 万枚の毛布を供給する義務を負った。その他の現物徴発
についてはいうまでもない。
高級将校は「フランスおよび英国ホテル」に起居。彼らはたらふく飲食に明け暮れする。勘定
の支払いを負ったのは市当局である。
言うまでもなく敵はすべての馬を徴発した。敵はその意図がルーアンで越冬することを高らか
に宣言した。プロイセン守備隊は 8 千から成る。2 万以上の兵士が現にこの町を占領している。
その町を通過した軍隊は 5 万人である。
【463】
(ボルドー派遣部、移動に関する詳細)
トゥール人がいかに計算高く、投機の化身だとしても、彼らは勇敢ではない。オルレアンの再
占領を聞いた彼らはひどいパニック状態に襲われ、敵が城門に現われたかのように我先に町を逃
れた。…派遣部自体はその重大さにもかかわらず同様に熱く、ひどい驚愕の影響を被っているよ
うに思われる。
遷都前夜のトゥールの様相と遷都そのものの事実に関して極めて興味深い詳細が以下にある。
われわれはこのニュースを『ジュネーヴ新聞 Journal de Genève』から借用した。
【464】
(プロイセンの自由主義)
『アミアン新聞 Journal d’Amiens』の主幹ジュネーJeunet 氏とティロワ Tilloy 氏はプロイセ
ンの手中にある。プロイセン軍は彼らをプロイセン王ならびプロイセン軍に対する誹謗中傷のか
どで逮捕した。同軍は釈放金として 5 万フランを要求した。
(ある英雄的行為)
本日、ヴォージュでラマルシュ Lamarche の志願兵を指揮しているのは一少女だった。彼女は
アントワネット・リクス Antoinette Lix という。父は軍人であり、彼女はコルマールで生まれた。
彼女は非常に優れた教育を受け、ワルシャワのある家族の家庭教師として迎え入れられた。最近
のポーランド反乱が爆発したのは彼女のワルシャワ滞在時だった。X 伯爵を目撃したのち――X
伯爵はこの家族の一員だったがシベリアへ――彼女は彼が守ろうとした利害に強い感動を受け、
男服を着用してゲリラ戦に参加し、他の国民軍とともに戦った後ドレスデンに逃亡した。彼女の
里に戻ってきて彼女はラマルシュの郵便局に仕事を得た。この町は久しい前から志願兵の一隊を
保持していた。開戦と同時に彼女にこの志願兵の司令の役が回ってきた。本日彼女は彼女がポー
ランドの森で 1 年を過ごしたような生活をジュラで味わっている。
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(戦争犠牲者)
オルレアンとトゥールのあいだの地方は筆舌に尽くせない状況にあるらしい。4 度も続いて同
地方は軍隊によって荒らされた。村落と農場は焼かれ、街は廃墟と化した。
【465】道路は兵士の
死骸や凍死した馬で覆われている。すべての家屋は廃墟となったそれですら負傷したドイツ人で
いっぱいである。
12月15日(木)
(戦況)
われわれはまたも緊張のない時間帯に入っている。最近ではあまりにもふつうのものとなった
重大事件はわれわれにいま一度の空白をもたらす。曖昧な噂、あちこちでの軽い偵察戦、交戦軍
の進撃と退却の情報、すべての国とすべての徒党の戦略家の推測――これらが最近の年代記作家
にとって日々のさもしい糧となっている。実をいうと、この獲物料理はいかにつましいとはいえ、
報告しなければならない敗北や惨劇よりまだましである。
予測できない動き――それはきわめて敬虔な国王陛下によって使われた用語であるが――シャ
ンジー将軍指揮下のロワール軍のブロワおよびトゥール方面への予期せざる動きは確認され、ボ
ルドーからの至急報によっても直接的に裏づけられる。この至急報は 9 日と 10 日の戦いについ
て幾つかの情報を与えた後、敵軍がロワール左岸での移動を宣したようであるとつけ加える。シ
ャンジー将軍が今度は西南方面へ退却することを決心したのはおそらくブールジュへの退却戦を
切断されるのを懼れたためと推察される。
ル・アーヴルは防衛体制が整っている。マントイフェル軍は今日まで固守に対し何らの知識も
もたずに同地の周辺で作戦行動を起こす。ディエップを短期間の占領ののち撤退。ル・アーヴル
の対岸つまり左岸に位置するオンフルール Honfleur は、1 万から成るフランス軍団がポン=レヴ
ェク Pont-l’Evêque の地を奪取に来たとき、脅威に晒された。しかし、プロイセン軍は撤退。
リール発の至急報は、フェデルブ Faidherbe 将軍指揮下の北部軍によるラ・フェール La Fère
の奪回の噂を伝えていた。しかし、このニュースは何ら確認されていない。【466】したがって、
こうした幾千倍もの誇張されたニュース――歓喜の絶頂から恨みや落胆に移る公衆を疲労させ楽
しむ――のあいだにそれを置く必要がある。
プロイセン軍はブロワを占領。この結果はシャンジー将軍の軍隊がこの転進のイニシアティヴ
をとりつづけるため、そして、ブルバキ将軍の軍隊と連絡をとりつける保証をもつため撤退した
ときから予測に難くない事実であった。
新しい参謀にとって名誉ある事実はつねに実現されている。すなわち、ブロワに進出しようと
するプロイセン軍の頑強な抵抗と勇敢な戦いで 7 日間もそれをなしえなかった。そして、堅い団
結を示し、潰走中といわれるプロイセン軍の精鋭を抑止したのはこの軍隊、この将軍である。
モンメディは昨日降伏した。プロイセン軍は 12 月以来同市を砲撃していた。52 人の将校、1839
人の兵卒が捕虜となり、砲 63 門が捕獲された。
(パリの砲撃、プロイセン王の当惑)
ドイツ軍はパリからニュースを受け取っていない。砲撃の問題はつねに真のシーソー状態にお
かれている。ある者はそれを確実だとし、今月 19 日(月)に始まるといい、またある者はパリ
砲撃の可能性すら否定する。事実はこうだ。国王陛下はきわめて敬虔であり、きわめて人道的で
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あって、非常に悩んでおり、また、聖なる精神が彼によき忠告を吹き込むことで奉仕していると
いうことだ。
彼がパリ砲撃しないならば――それが政治的理由であれ、不可抗力のためであれ――彼の臣民
はパリ市民にその償いをさせると言う。もし彼が砲撃するならば、恐怖の叫びがいいうるすべて
のことにもかかわらず、パリにおいて多くの国民の集合する場所を、すべての文明国が多かれ少
なかれ関心をもつ生存と繁栄の光明をこれまで見てきたヨーロッパ人が心底を揺すぶられるであ
ろう。
しかし、他方であらゆる予測とは反対に、パリがきわめて敬虔にして人道的な国王の手中に落
ちるならば、彼は何をするだろうか。彼はどのように政治をおこなうのか?
ブールを尊重することができる。しかし、パリはどうか?
メッスやストラス
そして、とりわけ長期にわたる包囲
の恐怖を犠牲によって異常に興奮したパリをどうするのか?
何が起ころうとも、パリ包囲――究極的に「ドイツの栄誉」に終わる――がおそらくはやがて
押し寄せ、ドイツの野心と渇望を処罰する暗礁となるであろうと言いうる。
(交戦国に対する中立国の義務)
【467】
幾つかの中立国は中立国の領土で発見される交戦両国の軍隊に属するすべての軍事力
を監視する義務を負うものと確信している。フランスと中立国における幾人かの宣伝家たちはこ
うしたやり方での中立性の理解や行使に対してすでに抗議した。なぜというに、こうした解釈や
行使は今までのところ、フランス軍を犠牲にし、プロイセン軍を利するだけの結果に終わるから
だ。
今までのところ、交戦国に対する中立国に降りかかる義務の問題が特に現実のものとなってい
るベルギーでは、最も活発で最も根拠のある抗議がフランス兵士の侵入について議会でおこなわ
れている。幾人かの演説家――その中にはわれわれはブリュッセル選出の代議士ドムール
Demeur 氏とベルジェ Bergé 氏を引きあいに出さねばならない――は、何をさておき正当化でき
ない罰として個別的自由に対する攻撃として高度に憲法違反の恣意的施策である交戦国の侵入を
非難した。しかし、プロイセン軍の無比の力とビスマルク氏の要求に対する敬意から、ベルギー
政府は今のところ静観し、唯一罰を犯した兵士、不幸な兵士から、その自由を奪うことに執着し
ている。
幸いにして、ベルギーの正義は解決を迫られている。諸個人の自由と権利を前にしてその決定
が交戦両国のどちらに義務を課し不親切に扱うのかを問うことではない。
さて、いかなる条件下でこの点の国際的公権力は裁判所で尊重されるのか。数日前、フランス
の下士官 2 人ヴィクトル・カレーVictor Carré とテオドル・ゴーロン Théodore Gaulon――両名
とも第一工兵連隊の軍曹だったが――メッスで捕虜となり、ドゥーツ Deutz 要塞から幸運にも脱
出し、ベルギーの親切心を当てにこの地に足を向けた。彼らはそこで自由の身となり、3日間そ
こに滞在し、ブルジョワに扮装し、通行証を携帯してリールに向け出発しようとした。けれども、
彼らはブリュッセル南駅の桟橋で逮捕された。自分らの逮捕も観察も理解しないこれら 2 人の下
士官の苦情にもとづいて、ブリュッセルの初審裁判所がベルギー政府によるフランス兵士のフラ
ンスへ行くための越境に関する所定の法規の合法性を根拠に無罪と宣告した【468】のである。
現在、ガン Gand の城壁に監禁されている 2 人の工兵下士官の要求を支持したのはブリュッセ
ルの控訴院の弁護士レオポルト・ウィルボーLeopold Wilbaux 氏である。
いうまでもなく、われわれはこの事件について戦時における中立国の権利と義務の定義の見地
10
から重要になりつつある決定と、われわれと同様の作品において進んでいるとみなされる決定を
集めようと思う。
(普仏戦争とオーストリアの労働者)
オーストリアではイギリスと同様に、ヨーロッパ征服および支配の野望から、最も活発にして
最も大胆なプロイセンがフランスに対しておこなっている非人道的で残忍な戦争に対し抗議を発
したのは労働者階級の胸中からである。愚鈍・怯懦・盲目ないしは利己主義によって政府はそう
した抗議を眠らせた。中産階級は静観を決め込み、その見世物が感情的爆発を招くのを見る。
幾千人もの人物から成る労働者の集会はウィーンの場末でごく最近、戦争継続に対する爆発的
決意を表明した。同集会は要求する。すなわち、オーストリア政府がフランス共和国を承認する
こと、フランスの領土的保全と平和の回帰を保証するよう同政府が務めることを。
その決意は以下のとおり。
「 スダン以後の戦争の継続はドイツ国民に対するひとつの裏切りであ
り、政治的・経済的・社会的見地からする人類に対する罪悪である。」集会はマルセイエーズを歌
って散会した。
(プロイセン軍のメッス占領、あるエピソード)
11 日後、プロイセンの一人の歩哨が銃殺された。数人の容疑者が逮捕され、下手人が発見され
ない場合、町が 6 万フランの罰金を払わねばならないとされた。私宅で秘匿された多くの銃と弾
薬包の箱が発見された。
【469】
(プロイセンの自由主義)
今日、ビスマルク氏とモルトケ氏がおこなっている野蛮にして非人道的な仕事はいつもバラ色
というわけにはいかない。
世界に冷酷な掠奪、予め計画された掠奪、敵と戦い、敵を陥れる手段として導入された掠奪の
恐るべき光景を与えるためには、文明化された 2 国民間の現下の戦争とドイツ国民の「温厚さ」
を必須とした。すべての戦争において過剰な興奮・憤怒の帝国のもとにおける兵士はその敵兵の
生命と財産を軽んじる。その上官たちはこれらの非人道的・無用の行動を一方では嘆きつつも大
目にみている。今日、兵士は掠奪をせず、放火をせず、盗まず、本能や飲酒と怒りから掠奪はし
ない。彼は命令によって襲撃し、放火し、犯し、略奪する。それを止め、命令し、その期間と程
度を決定するのは参謀であり将軍である。世界中が心を痛めた獰猛さについてしばしば世の語り
草となっているトロップマン Tropmann でさえ今ではしがない動きとしか見なされない。プロイ
セン軍の参謀本部の殿方は大きな働きをしておられる。彼らにとっては一家族を絶望の淵に追い
込むなど児戯に等しいのだ。彼らが攻撃し、廃墟と悲しみをもたらすのは村落全体、小さな町、
大きな町に対してである。
しかし、前に幾人かが言ったように、一国および一国民の死刑執行人の仕事というこの気高い
仕事はいつもバラ色というわけではない。恥辱を超えて悔恨を超えてこれら野獣はなおまだ飽き
たりないのだろうか?
歴史の前での責任を超えて復讐と仕返しの気遣いがある。彼らは息子の
怒り、父の、母の、配偶者の、愛人の怒りを恐れている。したがって、彼らは警戒と警護に取り
囲まれている。彼らはバリケードを張り巡らす!
すべてが怯え不安に苛まれている!
この問題について『タイムズ』紙の通信員はヴェルサイユでこの町の表情を 12 月 10 日付で書
いている。
11
【470】
(プロイセン軍によるオルレアン再占領、『タイムズ』紙の報告)
プロイセン軍のオルレアン再占領は極めて悲痛な光景を挺する。
『タイムズ』紙の通信員がその
よようすについて記述する。
【471】
12月16日(金)
(戦況)
重要なニュース。欠乏状態が頂点に達する。
ル・アーヴルは完全に解放され、現に多数のフランス軍により囲まれている。『スタンダード』
紙がプロイセン軍によるディエップの一時的占領について書く。
フランス中部で作戦行動を展開しているはずの軍隊については何らニュースなし。
オルレアン撤退とボージャンシーの戦闘以後、ロワール軍は二分され、ル・マンからブールジ
ュまでの防衛線を形成する。度重なる会戦、しかもけっして決定的ではない会戦がこの防御線の
幾多の地点で起こった。
『モニトゥール』紙の述べるところによれば、それら会戦で決着はつかな
いだろう。敵の位置はよく知られていないが、しかし、シェール Cher とヴィエルゾン Vierson、
ロワール川沿いのロモランタン Romorantin、モンリシャール Montrichard、シャンボール
Chambord、ブロワ Blois の峡谷に出没したといわれている。
噂によれば、開戦当初は大佐にすぎなかったといわれるロワール軍新司令官の登場が心待ちに
されている。行動の人と噂され、重任に完璧に堪えうる人という評判。
(ドーレル将軍の引退、この軍の動きに対して都合の悪い『タイムズ』紙の意見)
オルレアンでのドーレル将軍の一連の行動に関してはつねに矛盾する意見がある。
【472】われ
われが前に述べた解釈では、同将軍は退却戦でその軍隊を救出したということだった。以下、こ
れとは逆の解釈――『タイムズ』紙の一通信にそれをみることができる――を掲げておく。同通
信員によれば、自分が集めた情報ではロワール軍の高級将校は称賛に値するけれども、兵卒はこ
の軍隊のおかれた特殊な状況にまで達していないと述べた。
次いで、同通信員はフランス軍による、同軍がこの町から持ち去った物資を携えてオルレアン
撤退を指揮した監督や混乱による措置を批判する。
(ボルドー派遣部、その設置に関する詳細)
トゥールからのボルドーへの政府の移動はそれ自体が重要であり、かつ現下の戦争の歴史にお
いて特筆すべき事実である。それに関連するすべてのこと、それを導いた状況に関係するすべて
のこと、…は歴史ではないとしても、少なくとも現下の諸事件の年代記に属する分野である。
われわれがすでに蒐集した通信と併せ、次の通信文は読者がこの移動の困難と困惑についてで
きるかぎり正確で完全な理解をもつのを可能にするであろう。これはつねに『ジュネーヴ新聞
Journal de Genève』の通信である。
【473】【474】
(ローマの騒動)
12 月 9 日付ローマから入手した『イタリア』紙は同日、この町で発生した小紛争について以下
のようなもようを伝える。それはすでにフィレンツェの議会で問題になっているとのことだ。
12
【475】
(エトルタ Etretat におけるプロイセン軍)
プロイセン軍は何も尊重していない。したがって、パリ市民によく知られている小さな町――
パリ市民がそこに多くの村落、小集落、中心地をつくったので――を占領したのはしごく当然の
ことだった。パリのコロニーは同軍が近づくにつて、大慌てで逃亡した。ほとんどはル・アーヴ
ルに逃げ込み、ここからなにがなんでもイギリスやベルギーへの船出を希望した。
この問題について 15 日付エトルタの町からの情報。
(東部フランスにおける人質)
フランス海軍は商船に属するドイツ商船の船長の幾人かを皆殺しにした。プロイセン政府はこ
れらの逮捕からなされたことを確認し、物資を管理する原則があるにもかかわらず、抑留されて
いるフランス海軍の処置に報復するため、そして捕縛された船長の投獄を止まさせようとの期待
のもとにプロイセン軍を東部フランスの幾つかの町の名士を人質として逮捕した。『ケルン新聞』
においてこの問題についてわれわれは以下のように読み解くことができる。
(戦争犠牲者、2 人の薄幸者)
戦争犠牲者は社会のすべての階級にわたって多い。しかし、あらゆる不幸は等しい程度で公衆
の憐みを惹かない。だれも次の物語に関し感情をもたないで読むことはできないだろう。われわ
れは『スタンダード』紙に宛てられた西部フランスからの一通信においてこれを収集した。
【477】
(ド・サン=ヴァレリーDe Saint-Valéry 氏の鳩)
『パトリ Patrie』紙主幹の鳩がダゲール Daguerre のそれのように著名人の…。
なぜかトゥールの郵便行政はアルシメード Archimède を導いた鳩は公共の財産であると信じ
る。ところで、これら家禽類はド・サン=ヴァレリー氏の私物であった。彼は自分のためにそれ
を飼っていたのだ。そこから、ド・サン=ヴァレリーが政府に帰属する鳩を手放すことを拒絶し
たという噂が新聞で広まった。
ド・サン=ヴァレリー氏自身によってベルギーの新聞に宛てられた書簡は以下のとおり。
(スペイン新王妃の伯父のひとり)
【478】
12月17日(土)
(戦況)
あらゆる幸運がすべての人々の許に飛び込む。まず、この報告の手始めに次の宣言を引用して
おこう。すなわち、非常に高貴であるとともに、非常に強力かつ敬虔で非常に人道的なプロイセ
ンのドイツ皇帝はその忠実な臣民および兵士に宛てて以下の宣言を発した。国王の宣言は今月 6
日付となっている。…[中略]…
すべてのこれら美辞麗句は以下のことを明らかにする。すなわち、陛下の兵士は何千という彼
らの生命または健康を犠牲にしての【479】
「ドイツの栄光」に対して何ら積極的なものをもたら
さない「既得の成功」に疲弊していること。第二に、弱体化しつつある「ドイツ的激情」を刺激
するためにプロイセン軍がその疲労と月桂冠が不毛のままだという落胆すべき意向を揚棄するこ
とを防ぐことが望まれている。ゆえに、現下の戦争がとりわけスダン以来ドイツが自らに課した
流血と犠牲を交換にいくばくかの金銭・いくばくかの州をもたらすようさらなる努力をなすこと
13
が求められている。…あたかもプロイセンの 10 分の9もの兵士がアルザス=ロレーヌの併合と、
今後拡大が見込まれる戦争出費とをひどく待ち望んでいるかのように。もし彼らがそれを達成し
てのち見ものといえば、未来のドイツ皇帝とその廷臣たちのリストであろう。
プロイセン軍が今日あまり熱心でないとするなら、ドイツ国民はさらにいっそう熱心でないこ
とになろう。戦争をおこなうことの空しさは後備兵の再遠征を起させた。この措置は国民の不満
と怒りを激発させた。とりわけ囁きや単なる抗議に限定されない。少なくともわれわれがベルギ
ーの新聞で読むものは以下の如し。…[中略]…
一方、フランクフルトのある新聞は敢えて、
「ドイツの意志およびその利害に逆らって」追求さ
れていると書いた。同紙――その気になっており、おそらくは世論に支えられていると思われる
が――は皮肉にもプロイセン王に対しフランスに留まることを助言する。そこでは彼の生命は彼
のドイツ帰還後におけるよりも安全であろうから、と言う。
この言葉とこれらの事実は彼らの雄弁と情報を物語る。それらが示そうとすることは以下のと
おり。すなわち、国王は人類の権利・正義・感情を犠牲にして彼らの気紛れやその助言者とお気
に入りの計画を実行に移すことによって利益を得るということだ。もしヴィルヘルムが臨時政府
を申し出たとき、講和に応じるならば、彼は賢明で正当で偉大な君主としての評判を勝ち得たで
あろう。さらに、…
今や、スダン以来流されたあらゆる血の責任は彼にある。彼の名はすでに今日でさえ、戦争の
【480】また、まったくあり
真実の開始者たる前皇帝以上に嫌われており、もし不可能でもなく、
そうでもないこと、すなわち決定的勝利が彼の軍隊に欠けていれば、その国民の憤激と憤怒は私
生活に及び、王冠を帝冠に取り換えようとする目的は外れ、王冠そのものを危険に瀕せしめるで
あろう。
したがって、国民はいつその仕事を自身でなすであろうか?
ゆえに、2~3の野心ある皇帝
――他の野心家、他のエゴイストにとって代られる――の手中でもっぱら帰属するイニシアティ
ヴを彼らがいつ譲位させるのをやめるのか?
ザールブリュッケン以来の流血の果実は失われな
いであろうこと、多くの悲しみ、多くの廃墟の思い出によって表われた一陣の反省が人民の思想、
人民の利害、すなわち、誠実さ・勤労・正義に敵対するすべてをひっくり返すであろうことに期
待をかけよう。
しかし、これらの反省は戦争の舞台からさえわれわれを遠ざけさせた。したがって、ほとんど
重要でない2~3の事実を収集しよう。
プロイセン軍の補給を妨害するために、ルーアン、ディエップ、フェカンは包囲状態にある。
船舶が出発するのに 11 日もかかった。
ロワール軍についていえば、一新聞による次の記事。
…[中略]…
モンメディでプロイセン軍は 65 門の大砲を捕獲し、3 千人の捕虜を得た。彼らは 237 人のド
イツ捕虜を解放した。
ベルフォールは精力的に抗戦中で数多くの出撃戦を試みている。ボモン=グラン=ボワ
Bosmond-Grand-Bois の森とアンセルナン Anselnuns の村がわれわれの手で確保された。
わが軍の損失は 2 人の将校、79 人の兵卒が殺害されたが、敵は 1 人の将校と 90 人の殺害であ
る。
【481】
(パリに関するドイツ人の感情)
14
噂によれば、この大都会は次週月曜日に砲撃されるとのこと。このことは電文でも文書でも各
方面から言われている。ハンス・ヴァッヘンフーゼン Hans Wachenhusen の『ケルン新聞』宛
ての以下の通信はパリを巡る現況と包囲軍に対して新たな光線を投げかけている。
【482】
(ファールスブールの攻防)
リールの『プロパガトゥール』紙に次の興味深い物語が掲載されている。
(一頭の馬、プロイセン軍の処方)
アルトキルヒ Altkirch で銃撃で殺害された槍騎兵の一頭の馬は犯人――犯人がいるとして―
―が同村に所属するのではないかという証拠があるにもかかわらず、アルトキルヒの次の資料に
より責任あるとされた。
【483】
フランスの侵略者・掠奪者の意見についてフランス人はひと言もいうことなく、パンドラとと
もに歌いつつ、殺害・掠奪されるがまま放置されることになろう。
(デュパンルー猊下の許におけるプルイセン兵)
オルレアン司教区の客人であった一目撃者はデュパンルーのところでのプロイセン軍の到着の
もようを伝える。
【484】
(ビスマルク…公)
ビスマルク氏は歴代諸王がそのお気に入りや臣下に授与した玩具のひとつをプロイセンから受
領しないためプロイセン王のために大きな奉公をしている。
(叔父と甥)
『ゴーロワ』紙からの通信。
12月18日(日)
(戦況)
今日漁るべき興味深い事実はほとんどない。伝え聞くところによれば、プロイセン軍とシャン
ジー軍のあいだでふたたび戦闘が始まったとのこと。この事件はヴァンドーム直前で 15 日に発
生したようだ。シャンジー将軍はメクレンブルク大公と対峙しているものと思われる。後者は夜
まで攻撃を仕掛けた。にもかかわらず、ヴェルサイユからの電文を信じるならば、フランスの将
軍は 16 日、ヴァンドームを撤退したもよう。ゆえに、ロワール軍がいまだピンピンしており、
十分に調子を整えていことを今一度確認しよう。
アミアンとボーヴェが撤収されている。ル・アーヴルはそうではない。その防備施設とセーヌ
に匿われているため、この町は一時的にあらゆる攻撃から保護された。
【485】その区域に現われ
た敵軍はイヴトーYvetot に力を集中した。
ラングル Langres 近郊のロンジョーLongeau で 12 月 16 日、同地の守備隊と偵察隊のあいだ
で交戦がおこなわれた。プロイセンの至急報はその会戦のもようを自軍に有利に報じている。
その任務の水準にまで示していない 2 人の将軍に関して精力的な措置が講じられた。彼らのう
ちの一人モランディーMorandy 将軍は免職された。もう一人ソル Sol 将軍は尤もらしい理由もな
15
く大急ぎで更迭された。彼はオルレアン再占領とプロイセン軍の中部フランスへの進駐の報に接
するや否やトゥールを撤退したといわれる。
これらの措置は少々非難を巻き起こした。フランスと国防政府の敵があらゆる意味でそれに注
解し、彼らを人前で嘲笑した。彼ら敵は必要欠くべからざるものである。すべての著名将軍は囚
人である。新しい人物を少々急いで、そして有能な人物を任用しなければならなかった。それ以
来、ここかしこで無能力、明白な無価値――それゆえに科学性と精力を欺瞞することがある――
があったにしても驚くべきことであろうか?
そうでないからといって、罪ある人物を牢屋にぶ
ち込むべきであろうか。
噂では共和政は将軍の一大「浪費」をなしているという。メッスとスダンの後、ほんの僅かの
時日でかつ大成功をもって軍隊とその将校を組織化できたのはどの政府、どの国民であるかを知
りたい。それこそ正式名称の国防政府ではなかったか。帝国軍隊の生き残りの中に「屑」が多く
いたとしても、その責めは誰が負うべきか?
無能者と嫌疑者を遠ざけるべきか?
『タイムズ』紙が伝えるところでは、ヴェルサイユでは幾つかの暗殺事件が起こったらしい。
イギリスの新聞は詳細を伝えていない。しかし、このような攻撃の目標になりえたのはどんな人
物であるかを洞察するのに慧眼を必要としない。
(パリ)
運命の日が近づいている。明日こそ、最も麗しき、最も豊かで、最も知的な町に対する砲撃が
始まるだろう。最後の一瞬までわれわれは彼らドイツ軍が好き意図を持していてほしいと願う。
今に至るまで、パリはすべてのその計画を挫折させた。ドイツ軍は 9 月 14 日に入城するはずで
あった。そして、次に 10 月 18 日に変更された。ところで、今は 12 月 18 日、果たして最初の包
囲から遥か隔たっている。
【486】数種の新聞が主張する。砲撃――彼らは有能な軍事当局に拠り
――はたとおこなわれても無駄だ、と。プロイセン王はしたがって、絶望的に彼の非人道的果実
を摘むという残酷な行いをするであろう。彼らはかつて飢餓を当てにしたが、今や何も当てにな
るものはない。すべての側から裏切られ、ドイツ世論の圧力にも圧され、砲撃という名のこの恐
るべき手段を多分執るのであろう。今もなおパリには多数の婦女子が残っているが、彼らを怖れ
させ、その多数を殺戮して父・兄弟・配偶者・恋人を説得することは有効であろう。したがって、
彼は試みるだろう。けれども、成功するだろうか?
されたほどの恐怖を呼び起こすであろうか?
しかし、血を流すであろうか。それに期待
ゆえに困惑と懸念がヴェルサイユで膨れあがる。
この問題について参謀本部から『タイムズ』紙に宛てた次の記事がある。
…[中略]…
(モンメディの砲撃とプロイセン軍の入城)
この不運な町――驚嘆すべき英雄主義と堅忍不抜さの後にプロイセンの手中に落ちた――につ
いて次の記事が書かれている。
【487】
(賢明な町、よき振る舞いの証拠)
われわれは『デーリーニュース』紙の伝えるところにより、アミアンの住民の一部が北部軍に
よりその城壁の近くでの交戦時に見せた利己的で非愛国的な振る舞いについて前に知らせた。そ
れ以来、アミアンは敬意と国民の感謝の新たな称号を獲得した。町と城塞にプロイセン守備隊が
いたため、住民はフランス的ではなく、その威厳、その名誉の気遣いなくフランスの敵に共感を
16
覚えなかったため、住民はよき振る舞いの名に値した。彼らにとって名誉あるこの証拠は実質的
全能の権力すなわちプロイセン筋そのものによって与えられた。アミアンの、フランスの町の住
民は汚辱で怯懦だと刻まれ、占領軍の司令官によって晒台にさらされた。
(気球)
18 日、ナッサウ Nassau 公国領、敵の真直中に気球が降下。ナッサウのヘルボルン Herborn
の近郊、ジン Sinn から『ケルン新聞』に寄せられたこの問題に関する情報。…
【488】
(東部フランスにおける人質)
プロイセン軍は彼ら取得し、そしてオート=ソーヌ県およびコード・ドール県の貴人 40 人の
人質に満足しない。彼らはフランスの艦船がドイツ人船長を囚人としたため、同数の者を捕虜と
することを望んだ。それだけで済まなかった。人質はドイツ商船で生じた損害額に応えるべきこ
とを家族に示唆した。
監禁すべく 12 月 14 日、ブレーメンに到着したオート=ソーヌの人質の中にはザビエル・ド・
モンテパン Xavier de Montépin 氏がいた。彼は『石膏娘 Fille de Plâtre』と多数の小説および
戯作で著名である。
(プロイセンの自由主義)
県会議員のスプレーSouplet 氏、
『斥候 guetteur』紙の主幹クリスティーヌ・ポット Ch. Poette
氏はともにサン=カンタンの市会議員であるが、フランス軍の到着時でプロイセン軍によって誘
拐された。
サン=カンタンの住民はアミアンの住民ほどに「賢明」ではなかったのだ。
(ギリシャ)
ギリシャは内閣の危機を迎える。旧内閣は解散によってしか支えることができなかった。国王
は解散を認めず、よって新内閣は以下の陣容で組閣された。議長として内相のクムドロス
Coumoudouros 氏、法相コテスタフロッス Cotaestavtros 氏、陸相ボルツァリス Bortzaris 氏、
蔵相ソチロピュルス Sotiropulus 氏、外相クリトポロス Christopolos 氏、海軍・宗教相パルギロ
ス Pargyros 氏の面々。
【489】
12月 19日(月)
(戦況)
『ベルギーの独立』紙の記事。…
われわれはアミアンからの撤退について述べ、この町が敵前逃亡のゆえにプロイセン軍当局に
与えた賛辞について述べた。
ドイツ軍当局もボーヴエ市を撤退。彼らは 25 万フランの徴発物資、すなわち 100 袋の小麦粉、
300 袋の大麦を駅に放置したまま大急ぎで市を離れた。彼らはその際に相応の罰則付きでこれら
の物資に手を触れぬよう言い遺した。
17
(パリ)
砲撃に関する何らの噂もなし。われわれの領主にして主人たるプロイセン軍の債務にいま一度
の欺瞞行為あり。
【490】メッスとスダンの勝利にもかかわらず、また、敵対関係が始まって以来、
同軍が蒙ったあらゆる種の月桂冠にもかかわらず、哀れな悪鬼はまったく困惑しきっている。彼
らはもはやパリについて考えることも言うこともできなくなっている。彼らはパリを飢えさせ、
騒動のおかげで制圧する予定でいた。これらの手段を彼らは失った。彼らは他の手段、すなわち
もっと強力な手段を考案し、小規模な砲撃を約束した。…しかし、この手段をもってしても他の
手段と同じく、少なくとも今のところうまくいっていない。砲撃の延期は重大であろうか?
れが始まるのは復活祭または聖霊降臨祭の時だろうか?
そ
継戦に我慢しきれなくなり、ただ一つ
のこと、すなわち「何がなんでも講和」しか望まなくなっている。これら哀れなドイツ人家族の
目を眩ませるために「この軍事的演出」を延期しないのか?
包囲軍の真直中に混乱をもたらすこと――それはパリで短い期間捕虜となっていたプロイセン
の将校――捕虜交換で帰還した――がその滞在について報告した印象である。彼らは、
「看守」が
彼らに与えた贅沢な夕食、存在した豊富、とりわけ住民の旺盛な抵抗精神について目撃した事柄
に驚愕して帰ったのである。彼らは完璧な慇懃さついて、さらに自分らが受けた如才なさと軽妙
に満ちた寛大さに関し止めどなく話す。プロイセンはかくも愛すべき人々を、しかもその敵に対
し寛大で情愛を込めて扱う人々を砲撃はしないだろう。
「ドイツの才能」が窮地――パリ市民の堅忍不抜さと愛国心がもたらした――から抜け出すた
めに試みようとする手段について静かに信頼をもって願望しよう。
(ソニス Sonis の将軍)
オルレアン城壁のなかで起こった戦闘以来、同将軍についてしきりに語られている。われわれ
はこの勇将に関するコメントを『ギエンヌ』紙の要約を借用しよう。
【491】
(ディジョンにおけるプロイセンの占領)
(気球)
以下の詳細は 12 月 19 日の『セーヌ・エ・ロワールの進歩 Progrès de Seine-et-Loire』紙から
の抜粋。
【492】
(マインツ、コブレンツ、ケルンにおけるフランス人虜囚。グローカイユー陸軍病院の前病院長
の報告)
ライン河畔でのフランス人捕虜の状況に関し悲痛な詳細がイギリスの新聞によって伝えられた。
かくて、ブリュッセルのフランス人租界地の数人が緊急的な手段で大急ぎ 2 万2千フラン相当の
金額を掻き集めた。主だった出資者の一人ウォルムス Worms 博士は自ら出頭し、自分の費用で
援助を割りあてた。
『ベルギーの独立』紙によれば、われわれは彼がその出資者になした報告をなすことができる。
ケルン、コブレンツ、マインツの間で現物および現金ですでに配分された義捐金の報告がこれに
つけ加えられる。約5千フランの残高はランディシュト Landishut、ウルム Ulm、インゴルシュ
タート Ingolstaat、ラシュタット Rastadt に拘禁された捕虜のあいだで配分された。
18
【493】【494】
(ボルドー派遣部、その設立)
『シエークル』紙はボルドーの政府派遣部の設立について次の詳報を公表。
(フランスと亡命フランス人の不幸)
祖国の不幸は最も遠い国においても辛い反響をもつ。合衆国、カナダ、南米のフランス人はす
でに落ち着かず、われわれの救援を念慮している。しかし、最も熱心さと最大の愛国的悲痛の情
けを示すのはカリフォルニアである。最後にシカゴのフランス人はその希望と悲しみに哀悼を表
明すると同時に、相当額の資金援助を申し出た。サンフランシスコから 11 月 15 日発『ベルギー
の独立』紙に宛てられた通信を以下に示しておこう。
【495】
人は以下のことに気づくであろう。すなわち、外国に住むフランス人および国を出ているフラ
ンス人は程度の差こそあれ、争闘に無関係であり、就中フランスの名誉および安寧を気遣ってい
る党派の分裂は一般に徹底抗戦に賛意を表する。
(Et nunc erudimini)
諸王が絶え間なく注視しているリスト。玉座から追われた君主のリスト。十分であることがわ
かろう。
(スペイン、国王の選挙に愛する抗議。アメデ一世の入城)
イサベラ二世ののちアオスタ公のスペイン王位への就任選挙に反対しているドン・カルロス氏
は、アオスタ公の即位は自己の世襲権と、祖父が統治してきた人民の利害に対する簒奪であると
決めつける。申し述べられた苦情の中にはスペイン議会によってなされた侮辱も含まれる。
新国王がその王国に入国するのはクリスマスごろと言われる。外国使節団のレセプションの際
に国王が最初に国王の政務を行使するのは新年のころとなろう。
(ボナパルト派の亡命の詩と歓び)
フランスがその名誉と威信を救うために戦いが薄れているとき、ボナパルト派の亡命者たちが
スイス、イギリス、ベルギーで劇場に現われ、娯楽場に出没している。ユージェルマンのごとき
人物は同時にお世辞の詩を作る。『シテュアシオン』紙の重要な主幹が著名なデジャゼーDéjazet
に献じた詩を以下に示しておこう。
【497】
12月20日(火)
(戦況)
軍事的事件はない。したがって、われわれは戦略家にエールを送ろう。ドイツ本営が軍事作戦
場を縮小するのに採用すると思われる計画がそれだ。われわれが昨日示唆した計画に関して彼ら
のうち一人は以下のように書く。語っているのはウィリアム・メーヤーである。
参謀本部長は提案し、神が差配する。諸事件の続発していることをみれば、プロイセン軍に彼
らの計画を実施できるかどうかわかるだろう。パリの周囲に二番めの包囲網を張る、と彼らが語
ったのは今に始まったことではない。
【498】この第二包囲網は一部分すでに存在する。単に今月
初の軍事的事実はプロイセン軍にその包囲網の維持を許さなかったし、シャンジー将軍の確実で
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沈着な退却により、敵はその位置から退却し、作戦のサークルをかなり拡げることを強制した。
ところで、シャンジー将軍はつねにいる。各一日の遅れ、日一日の戦闘がその軍隊を慣れさせ強
化させる。少々注意しよう。ロワール軍が新たな敵に対し、その戦略を変更し、おそらくはその
位置の変更を余儀なくさせるのは疑いない。
戦闘の事実。バーデン軍によってニュイ Nuits が奪回されたもよう。バーデンのヴィルヘルム
は頬に軽い傷を負った。
プロイセン軍はノルマンディを撤退したが、そのため、敵は新たな打撃を加えられることにな
った。
(新たな黒点)
ルクセンブルクの事件はイギリス新聞紙上でもちきりである。ロンドンの新聞上でビスマルク
氏の註解が生ぜしめた数多くの評価について全部を語る余裕はわれわれにない。要するに、これ
らの論議とりわけ事態の真相の総体についてわれわれが頼りとすべき事柄は、この首相は「今の
ところ」この大公国に対してなんら確定的計画をもっていないということだ。彼はルクセンブル
クの中立がモルトケ将軍の何らかの戦略目的に対立する局面を揺るがすと言うにとどめた。
そこから結論できることは、プロイセンの何個師団による同国の一時的占領ということであっ
て、事態の政治的側面すなわち併合の問題は保留されたままである。この占領はおそらく、ロン
ドンで開かれるはずのヨーロッパ列強会議で取りあげられるであろう。
(プロイセンの自由主義)
フランスにおいて誰かがわれわれにいま一度、戦後にプロイセンのリベラリズムについて語る
かどうかをわれわれに確かめたいと思っている。かつていくつかの条件下でかくも有名になった
この自由主義は新たな事実によって確認された。われわれは社会主義派の代議士がスダンでの皇
帝政治の崩壊後、継戦に抗議したその熱意と勇気を指摘した。ある瞬間において彼らの意見を支
配した喧噪や罵詈雑言にもかかわらず、これら極左派の面々が展開した賢明で人道的な理論につ
いてわれわれはすでに述べた。多くの勇気、多くの独立心がプロイセンのような自由国家で代償
なしに残ることはありえない。これらの勇敢で大胆な権利の闘士はベーベル Bebel、リープナッ
ク Liebnack、ヘプナーHebner 氏であり、彼らは直ちに逮捕され、大逆罪で告発された。
【499】
もし彼らがビスマルク氏の現下の大量殺戮や才能をやたらに称賛していたとしたら、
何ゆえに彼らを満足させることができようか。しかし、彼らは平和を賛美し、兄弟殺しの戦争を
非難したといって、彼らにあてがうべき処罰はあるだろうか!
これこそ正義と呼ぶべきものだ。
ゆえに、これらの虚言、これらの偏見はいつ一掃されるのだろうか?
(ロワール軍の戦闘、あるエピソード)
ロワール軍は最近の会戦で多くの人命を失った。ドイツ軍は被害僅少である。
『デーリー・テレ
グラフ』におけるこの問題に関する記事。
(気球)
気球「パルマンティエ」号が 16 日、マルヌ県でプロイセン軍の真直中に墜落。しかし、幸い
なことに、ナッサウ公園に着陸した飛行士は公式至急報と鳩を取り出すことができた。同様にも
うひとつの気球「ダーヴィ」がソーヌ・エ・ロワール県で一昨日降下を開始した。したがって、
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まもなくパリからの公式で確実なニュースが入手できるだろう。それはきわめて幸運事である。
なぜなら、すでに誇張と悪意が最も陰鬱な噂を拡散しているからだ。恐るべき事柄のなかで他の
噂によれば、新たな蜂起がこの町を血塗れにし、ブランキが殺害され、フルーランスが負傷して
収監されたという。新たな旅行者によって数多の情報を得た電報がすでにこのような陰鬱な噂を
否定――その「目的」と「出所」を見極めるのは簡単である――したのはいうまでもない。
(ドイツにおけるフランス人捕虜)
【500】
11 月 28 日付『モニトゥール・プロイセン』によれば、ドイツに拘留されながら負傷
していないフランス人捕虜の数はロワールの戦いの間に 303,842 人の兵卒と 15,253 人の士官に
のぼる。
フランス政府によって捕虜とされたドイツ商船の人質としてフランスにおいて誘拐された 40
人の名士はその抑留地ブレーメンに 14 日到着。彼らは1士官の護衛を受け、彼らの家族、彼ら
の召使を伴っていた。
ドイツに抑留されている 32 万のフランス人捕虜の通信は郵政局に巨大なニーズを生じせしめ、
また、虜囚への資金の送付は最近の1週間だけで 37 万 5 千フランに上る。
(スペイン)
なにがなんでも国王を必要とした!…
それは与えられるであろうが、事態はいっこうに好転
しない。
マドリードからのニュースはつねに新国王の順境を伝える。そして、起こった諸々のデモを前
にして民軍の武装解除の意図はプリム将軍に由来するとされる。この措置は新主権者の人気を高
めるものでないことは確実である。
(ドイツにおける戦争人気)
ケルンと同じくエクス・ラ・シャペルでも 40 才の後備軍の召集が訴えられたことを機に重大
な騒動が勃発。ここでもまた秩序を回復し、政府の命令を実行するのに軍隊出動が必要となった。
(ベルギーへのフランス人の亡命)
ブリュッセルへ亡命したフランス人の中にパリ社交界で著名な高貴な夫人が含まれる。他の者
の中にはボヴォーBeauveau 公爵夫人、カストリ Castrie 公爵夫人、ワレフスカ Walewsuka 伯爵
夫人、オグアド・ド・ゴスラン Oguado de Gosselin 伯爵夫人およびその他数名のボナパルト派
および正統王朝派の社交界と花柳界の有名人物が含まれる。ブリュッセルの商業はかつてないお
祭り騒ぎに包まれている。
(『ドラポー』紙の成功)
カサニャック Cassagnac 父の高貴な機関紙『ル・ドラポー』紙は、『ベルギーの独立』紙が公
表し、ドイツに抑留されているフランスの将兵によって署名された反ナポレオンの抗議に対する
ボナパルト派の反声明に抗議する。カサニャックのこの試みは大きく合法的な成功をおさめた。
幾日かの尽力の後、彼は一将校の署名を得た。
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【501】
(戦争犠牲)
ドイツは現下の戦いに高い犠牲をはらっている。若者の多くが犠牲になった。20 幾つもの連隊
で、開戦時に指揮していたほとんどすべての将校を失った。近衛兵についてベルリンを発った連
隊長(陸軍大佐)の幾人かがようやく生き残っただけである。ヴュルテンベルクの外務大臣はそ
の 2 人の息子を今度の戦争で失った。バイエルンの1分遣隊は 3 日間で 200 人の兵卒と 48 人の
士官を失った。バイエルンの1大隊は 2 日間に 320 人が戦闘不能となり、戦争が始まって以来、
72 人の将校を失い、最初、指揮していた者では僅か 3 人しか残っていないというのはこの連隊に
属する。
(次 http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/maquest10.pdf)
(c)Michiaki Matsui 2015
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