賃労働は奴隷労働である。 そして、いま私たちは奴隷になってさえ生きられない時代にいる。 2014.10.31 「ほぼすべての大学生が「就活」によって終身雇用され、生活に必要最低限度の条件が揃 えられているなら仕事が生きがいであり、それをいっそう効率的にこなすための余暇が確 保されていればいいけれども」。これは先の文章(「賃金のために働くのか、働くために 賃金をもらうのか」)の一部である。これでは終身雇用された労働は賃労働でなく生きが いになりうるように見える。この一文が最も象徴的に表現しているように、先の文章には 決定的に欠けているものがある。賃労働に対する根本的な批判である。言い方を変えれば、 タイトルにもなっている「賃金のために働くのか、働くために賃金をもらうのか」わから なくなったという、あるジャバスタメンバーの先輩(新卒で就職し、その年に会社を辞め た)が無意識に発した言葉の深みを、鋭さを、意識のレベルで文章化する事と言ってもい い。 この先輩の言葉は、図らずも賃労働の本質を突いてしまっている。資本主義社会におい て、私たち労働者は人間ではない。商品、労働力商品である。資本家が私たち労働力商品 を買い、財を生産しサービスを提供する。生産の主体は労働者ではなく資本(家)である。 労働者は自らの商品としての使用価値を保つため、メシを食い、身だしなみを整え、健康 を維持し、スキルを獲得・維持していかなければならない。つまり「働くために賃金をも ら」わなければならないのである。 もちろん一方で「賃金のために働く」存在でもある。賃金を稼がなければ、その先に待 っているのは、飢餓だけでなく、侮蔑の言葉であり、社会的排除である。 「労働力の売却を唯一の生計の道とする労働者は、自分の生存を断念することなしには、 全購買者階級すなわち資本家階級を見すてることはできない。かれはあれこれの資本家に は属しないが、しかし資本家階級に属する。そしてその際、自分を片づけること、すなわ ちこの資本家階級において一人の買手を見出すことは、彼の仕事である」(マルクス『賃 労働と資本』) 19世紀のマルクスのこの言葉は、21世紀を生きる私たちの実感だ。私たちは「働く」こ とを強制されている。私たちのこの弱みにつけ込み、リクルートやマイナビは「生きがい」 という幻想をふりまいて、私たちを就活へと、強制された労働へと、現代の奴隷制へと追 い立てる。 私たちは断言すべきだ。賃労働は奴隷労働であると。これは前提であり、出発点である。 賃労働がつらいのは、それが奴隷労働だからである。就活がしんどいのは、それが自らを 奴隷として奴隷主に売り込む行為だからである。「自分を片づけること、すなわちこの資 本家階級において一人の買手を見出すことは、彼の仕事である」この言葉をもう一度思い 起こそう。 一方で、現実として私たちは、たとえ奴隷労働であっても、奴隷になりさえすれば生存 が保障されるのであれば、奴隷の地位に甘んじるかもしれない。そういう人が大半であっ た時代も、ごく限られた一時期ではあったが、あった。しかしそんな時代はもはや遠い過 去である。オイルショック、バブル崩壊、リーマンショックを背景としつつ(しかしそれ を直接の原因とするのではなく)、新自由主義(ネオリベラリズム)と称される改革によ って、雇用は不安定化し、それに対応すべきセーフティネットは見る影もなく、社会の富 は貧者から富者へ逆再分配されている。 私たちは、奴隷になってさえ生きられない時代にいる。 この事実から導き出される結論はただ一つである。 「奴隷解放」 私たちはここから始めよう。 補足①:私たちの奴隷状態は、賃労働の間だけにとどまらない。日常生活においては、商 品に対して従順な消費者であることを、そして時には債務者になることを要請される。大 学生活においては、企業(大学では“社会”と詐称される)が要請する“社会人基礎力” なるものを身に付けることを要求され続ける。私たちの生活全般が企業や商品に隷属させ られている。 補足②:労働者の定義としては、賃金労働者だけではなく、家事労働者や失業者も含める べきだ。家事労働は主に女性に押し付けられているが、かれらは労働力商品である夫や、 次世代の労働力商品である子供の(再)生産を行なっている。また資本に「使い潰され」 国家からも見放されたかつての労働力商品の世話もする。それに対する賃金は不払いの状 態で。また、資本主義社会は常に失業者を必要としてきた。日本のかつての高度成長期で さえ、山谷や釜ヶ崎などの都市スラムには常に潜在的な失業者がプールされていた。「労 働者」から「失業者」を切り捨てるわけにはいかない。失業者は潜在的な労働者であると 同時に、賃金労働者は潜在的な失業者であると言っていい。
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