14 近代オリンピック 120 年 牛村 圭 ドーピング不正問題 南米大陸初の開催となるリオデジャネイロ五輪が幕を閉じた。現 地の治安や昨年来のジカ熱への不安が解消されていないことに加 え、ロシア選手のドーピング問題への対応で世界は大きく揺れてい る中での開催だった。4年に一度のスポーツの祭典の開幕を心待ち にしながらも、誰もがどこかにこころ休まらない思いを感じて迎え たオリンピックとして記憶に残るものと思われる。 内部告発により、不正は個人やチームのレベルにとどまらず、 大国ロシアが大きく関わる組織ぐるみのものだったことが判明し た。 「世界反ドーピング協会」 (WADA)によるロシア選手全員のリ オ五輪への出場不可という勧告を受け、「国際オリンピック委員 会」 (IOC)の判断が注目されたが、IOC は各種目の国際競技団体そ れぞれに当該種目に関わる裁定を委ねる決定を下したため、ドーピ ング不正の内部告発の発端となった陸上競技は五輪参加不可と確定 したものの、種目によってはロシア国籍のアスリートに五輪参加の 道が残ることとなった。煮え切らない IOC の最終決定には失望し た、という批判が少なからずあがった。大国の面子を考慮しなけれ ばならないような IOC の決定には、オリンピックへの国際政治の影 ©2016 Institute of Statistical Research 近代オリンピック 120 年 15 響を容易に見て取ることができた。 テレビや新聞のトップニュースがオリンピックを報じるのは、次 回開催地の決定や、開会式などの式典、あるいは驚異的な新記録樹 立―たとえばメキシコ五輪(1968年)でのボブ・ビーモンによる 走幅跳8m90、北京五輪(2008年)時のウサイン・ボルトの100m 9秒69、さらにはミュンヘン五輪(1972年)時のパレスチナ・ゲリ ラによるイスラエル選手襲撃(11名が死亡)といった事件、がほと んどだった前史を思えば、世界の主要紙が一面で報じた今回のドー ピング不正問題の重大さがわかる。 トップレベルのアスリートによるドーピング不正に、前例はあ る。ソウル五輪(1988年)100mを9秒79という当時の世界新記録 で制し喝采を浴びたカナダのベン・ジョンソンは、筋肉増強剤(蛋 白同化ステロイドのスタノゾール)使用の陽性反応が出て、表彰式 で得た金メダルを即座に失った。『ニューヨークタイムズ』紙は、 Johnson Stripped of Gold の見出しを第一面に掲げ、異例の事 態を速報した。また、自らドーピングの過去を告白し、獲得した 数種のメダルを失った米国の女性スプリンター、マリオン・ジョー ンズの例もただちに想起されよう。こういう事例は、コーチも関 わるものの、個人レベルでの不正だった。チームレベルでのドーピ ング不正が噂されたのは、1990年代からシドニー五輪(2000年) にかけて世界の女子長距離界を席巻した中国の馬俊仁コーチが率い る「馬軍団」だった。なお、国家ぐるみの先例としては、東西冷戦 時代の旧東ドイツをはじめとする東欧諸国の競技者によるドーピン グの噂があげられる。ベルリンの壁崩壊後の関係文書の流出・開示 により、噂はほぼ実証されたといってよい。 オリンピックで好結果を得るために国家が主導してドーピング という不正を行っていた、また、不正を指弾されたが決して肯じえ ない大国の面子を配慮した裁定を IOC が下した、という今回の事 ©2016 Institute of Statistical Research 16 学際 第2号 例を目の当たりにすると、スポーツの祭典であるオリンピックは国 家という存在の強い制約の下に実施されているという紛れもない事 実を、改めて思い知らされる。本稿では、国家をはじめとする複数 の視点を主軸に据え、120年を迎える近代オリンピックの歴史を、 オリンピックの華といわれる陸上競技を通して、少々顧みることと したい。 オリンピックは文明国競技者の集い 古代オリンピック発祥の地であるギリシャに敬意を払い、第1回 近代オリンピックがアテネで開催されたのは19世紀末の1896年の こと、13カ国の参加だった。その後、参加する国や地域の数は、日 本が初参加した1912年の第5回ストックホルム大会は28、1964年 の第18回東京大会は93と増えていき、2004年のアテネ大会ではつ いに200を超えた。今日オリンピックに言い及ぶとき、参加国数や 国別メダル獲得数を表に掲げ、国別対抗という観点からみることは 多いものの、第3回セントルイス大会までは、参加競技者が個人ま たはチームとして申し込むかたちをとっていたことは、あまり知ら れていない。所属する国の国内オリンピック委員会(NOC)を通し ての参加という今日の形式は、1908年の第4回ロンドン大会に始 まった。 そのロンドンオリンピックを大阪毎日新聞社から派遣されて観 戦した相島勘次郎記者は、 「兎に角世界一等国の伍伴に列せんとする には軍艦の数ばかりではいかぬ此の次には日本も彼の運動同盟に加 はり選手を送る様にしたいものである」との一文を含む記事を本社 に送った。 「世界一等国」の仲間入りをするためには軍事力だけでは 不十分、 「かの運動同盟」すなわちオリンピックへの参加も「一等国」 の重要な条件だと主張した。 「一等国」とは「文明国」だったことを 考えるなら、文明の視点からスポーツの持つ意義を説いたとも読め ©2016 Institute of Statistical Research 近代オリンピック 120 年 17 よう。 近代日本のオリンピック参加は、前記のように次のストックホル ム大会で実現した。相島記者の願いはかなった。1909年春、IOC会 長のクーベルタンから駐日フランス大使を介して IOC 委員への就 任を打診され、それを引き受けた柔道家であり教育者だった嘉納冶 五郎のもとへは、次回のストックホルム大会への参加勧誘が1910 年に届いた。明治の末年のことである。急ごしらえの大日本体育協 会主催のもと、開催前年1911年晩秋に選考会を実施し、三島彌彦(東 京帝大学生、短距離) 、金栗四三(東京高等師範生徒、長距離)の2 名を選出した。 翌年5月、東京新橋駅を後にした三島と金栗は監督の大森兵蔵夫 妻とともに鉄道で敦賀まで進み、そこからウラジオストックまでは 海路、その後はシベリア鉄道を利用して西へと向かい、日本を発っ ておよそ半月後、かの地に到着した。開会式ではスウェーデン国王 の開会宣言に先立ち、同国オリンピック委員会会長の皇太子がスピ ーチに立った。そこには以下の発言があった― 「運動競技が目指すのは、恵まれた少数者ではなく、全国民の体 格の向上であります。……各国の競技者が一堂に会し、その力を 試すため平和のうちに競い合うのはきわめて自然な流れであり ましょう。……一番重要な運動競技の大会は、4年ごとに開催さ れるオリンピックにほかなりません。オリンピックのみ、各文明 国の競技者を集めるに足る重要性を有するのです」。 オリンピックは文明国競技者の集いであるという高らかな宣言 であった。なお三島も金栗も満足のいく結果を出せずに、日本のア スリートたちの夏は終わった。 背負う国への誇り、そして反発 スポーツで文明諸国が鎬を削ったストックホルム大会ののち、 ©2016 Institute of Statistical Research 18 学際 第2号 1914年には第一次世界大戦が勃発し、「文明国」は軍事力で争うこ ととなる。次期開催が決定していた1916年のベルリン大会は中止の やむなきに至った(三島と金栗は、ストックホルム大会を終えると ベルリンの視察に出向いていた)。戦間期ののち、戦争による返上や 中止は、1940年の東京大会、東京大会から変更されたヘルシンキ大 会、そして1944年のロンドン大会、と続いた。なお、大会そのもの の中止ではないが、旧ソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻に抗 議しての西側諸国の多くがボイコットした1980年のモスクワ大会、 この報復とされる東側諸国の不参加があった1984年のロサンジェ ルス大会、という例もある。いずれも、世界大戦や地域紛争が引き 起こした国際政治の展開にオリンピックが翻弄された実例として、 オリンピックの歴史に刻まれている。 近代オリンピック120年の歴史のなかでは、こうして中止された 大会や開催が危ぶまれた大会もあったが、いったん開催となり競技 が実施されれば、勝者は掲揚される国旗のもとでのメダル授与のセ レモニーに臨んだ。背負う国への誇りを勝者に感じさせる場面が、 世紀をこえて繰り返されてきた。日本の金メダル第1号は、1928 年の第9回アムステルダム大会での織田幹雄(三段跳)だった。こ のとき、先立つ第8回パリ大会で6位入賞の実績こそあったが掲揚 する規格の日章旗の準備がなく、規格外の大きな国旗がはためくこ ととなった。日本は、この種目でロサンジェルス、ベルリンと3連 覇を果たす。ロス大会の覇者の南部忠平の誇りは、その著書の『紺 碧の空に仰ぐ感激の日章旗』のタイトルに如実に表れている。もっ とも、統治下にあったため統治国日本の選手として出場せざるを得 なかった朝鮮の孫基禎(ベルリン大会、マラソン金メダル)のよう な場合は、思いは別であったに違いないのだが。 また、国の代表として臨み見事メダルを手にしながらも、その自 国へ反発する思いを表彰式の場で表現したアスリートもいた。IOC ©2016 Institute of Statistical Research 近代オリンピック 120 年 19 が禁じる政治活動と見なされる行動であったため、処分を受けるこ ととなったのだが。1968年のメキシコ大会男子200m走では、金と 銅のメダルを獲得したアメリカの黒人選手(トミー・スミスとジョ ン・カルロス)が表彰台で黒手袋をはめた手を突き上げ、国内での 黒人差別への抗議の意志を表明し、選手村からの追放処分を受けた。 同大会では、金・銀・銅を独占した男子400m走でも、リー・エヴ ァンスら3人のアメリカ黒人スプリンターが、黒のベレー帽を被っ て表彰式に臨み、表彰台ではそれを手にとって振ったのだった。こ のメキシコ大会は、米国の黒人選手たちが短距離3種目などで次々 と世界新記録を樹立した一方、その黒人選手たちが自国で黒人が置 かれた立場を世界に知らしめようとした場としても記憶される大会 となった。オリンピックは、国際政治の展開に翻弄されるだけでな く、国内政治が抱える問題を国際社会へ向けて顕在化させる場にも 成り得たのだった。 アマチュアリズム消失への2形態 オリンピックという同じ名称を持ちながらも、今日のオリンピッ クは昔日のそれとは大きく異なる諸特徴を有している。すでに見た ドーピング問題がその一つである。ドーピングによる失格第1号は、 1972年のミュンヘン大会時の米国競泳選手といわれている。幼時か ら服用してきた喘息対応の薬の成分に、交感神経興奮剤のエフェド リンが含まれていたため、失格処分を受けた。その8年前の東京五 輪開催時には予想もできなかったオリンピックに関わる変化の第一 歩が、ミュンヘンで始まったことになる。 オリンピックの性格を大きく変えたまた別の要因が、アマチュア リズムの消失であることには言を俟たない。オリンピックに参加で きるのはアマチュアに限る、という一項が参加規定に加えられたの は1908年の第4回ロンドン大会の時だった。第二次世界大戦後、20 ©2016 Institute of Statistical Research 20 学際 第2号 年間にわたり IOC 会長を務めたアベリー・ブランデージがアマチュ アリズム信奉者であったため、オリンピックの神聖化が時に見られ るものの、参加資格のプロ/アマ、という区分はさほど厳格でない 時代のほうが長かったとも言えよう。オリンピックとはプロ選手に は参加がかなわないアマチュア・アスリートの祭典であった、と聞 いて一驚する者は、もはや少数派ではないだろう。アメリカのプロ バスケットボール(NBA)のスターであるマイケル・ジョーダンを 擁する「ドリームチーム」と呼ばれたプレーヤーたちの参加があっ たのは、1992年の第25回バルセロナ大会だった。このスペイン五 輪からすでに四半世紀ほどを閲する。ドリームチームの場合は、プ ロの選手たちが、アマチュア・スポーツの祭典とされていたオリン ピックに同じ立場で参加した事例とみなせる。つまり、同一競技種 目にアマチュアとプロとがそれ以前は併存していたのだが、その垣 根が撤廃され、最も強い者がオリンピックに参加するという形態に 変わったことを意味する。バスケットボール、野球、サッカー、テ ニスなどがこの範疇に入る競技だろう。 一方、プロとアマチュアの併存はなく、アマチュア競技者がプロ 選手やそれに近い立場となることによりプロとアマの垣根が消失へ 向かった競技種目もある。カジノ賭博に関わったため五輪への道を 断つこととなった若手バドミントン競技者は、 「子どもたちに(テニ スではなくバドミントンでも食っていけるという)夢を見せたい」 として派手なファッションや高価なアクセサリーを身につけていた ことが報じられた。実業団所属でありながら報奨金等の多額の別収 入があったことが「派手な」生活を支えていたのであり、昔日の実 業団所属選手には思いもよらない「厚遇」を受けていたことが判明 した一件でもあった。 陸上競技もまたアマチュア競技者がプロ化へ進んだ典型である。 見方を変えるならば、バスケットボールや野球とは異なり、陸上競 ©2016 Institute of Statistical Research 近代オリンピック 120 年 21 技者はたとえオリンピックで月桂樹の栄誉に浴しても、プロの業界 という選択肢がなかったことを意味する。実際、日本を例に考えて みるならば、国民的スポーツの野球にはプロ野球が存在し、高校や 大学、さらには実業団で好成績を残したプレーヤーにはプロの世界 からの勧誘がある一方、陸上競技者はいかに優秀であろうとも学生 の身分を卒業したのちは教職に就いたり実業団に職を得て生計を維 持しつつ、競技を続けるしか術はなかった。東京、メキシコと2大 会連続出場した飯島秀雄というスプリンターは、100m10秒1の日 本記録をひっさげてプロ野球のロッテオリオンズに代走専門要員と して入団したものの、別世界での活躍はかなわず、数年で野球界を 去った。 陸上大国アメリカの場合には、駿足を活かしてのプロフットボー ラーという選択肢があった。しかし、入団こそ果たしはしたものの、 東京五輪で男子100mを制したボブ・ヘイズのように NFL でも戦績 を残した元陸上競技者は圧倒的少数だった。他種目へ転向した陸上 競技者のその後の軌跡をたどれば、たとえ一芸に秀でていたとして も異業種での活躍は難事だったことがわかる。 International Athletic Associationという冒険 いまや知る人ぞ知る、という存在になった感があるが、陸上競技 にもプロ団体を設立しようという動きがアメリカであった。1960 年代後半のことである。そして実際、ミュンヘン・オリンピックの のち1972年、International Athletic Association(IAT)の団体名 を掲げて活動を開始した。この IAT 設立への前史や活動状況につい ては、Joseph M. Turrini, The End of Amateurism in American Track and Field (University of Illinois Press, 2010) が1章 (International Track Association and Financial Opportunities, 1968−1980)を割いて詳述している。 ©2016 Institute of Statistical Research 22 学際 第2号 IAT の設立に参加したのは、メキシコ五輪で棒高跳びを制したボ ブ・シーグレン、同五輪1500m銀メダルのジム・ライアン、ミュン ヘン五輪砲丸投げ6位のブライアン・オールドフィールド、さらに 先述のメキシコで400mを世界新記録で制したリー・エヴァンスと いった錚錚たる面々であった。IAT の中心となったのは、マイケル・ オハラという人物だった。陸上競技者ではなかったが、バスケット ボールやアイスホッケーの既存プロ団体に対抗する新団体を設立し て名を挙げた経歴を有していた。オハラは、所属アスリートには定 期給に加え記録に応じた臨時給も支給し、TVコマーシャルなどへ の出演も自由とした。テニスやゴルフのように全米をツアーで回る 形式も採用した。当時アメリカでアマチュア競技を統率するのはア メリカ体育協会(AAU)という強い権限を持つ団体であり、オハラ は IAT の活動が AAU の競技日程と重ならないようにするなど配 慮して、IAT の運営を行うことに腐心した。 本格的なプロ陸上団体の試みであった IAT は、1976年のモント リオール・オリンピックののち、活動を終える。両五輪の間に咲い た徒花のような存在に見える IAT の失敗の原因は、① テレビ放映 権を売ることによって獲得する収入を得られなかった(テレビ局側 が AAU に遠慮したためと言われる)、② モントリオール大会のの ち、新たなスター選手の獲得がかなわなかった、というのが世上の 解釈である。だが、果たしてこれがすべてであろうか。 先述のボブ・シーグレンとスティーヴン・スミスとの棒高跳びの 接戦は、IAT ツアーの目玉の一つであったし、ブライアン・オール ドフィールドのように砲丸投げで当時の世界記録を凌駕する記録を 出した競技者もいた。だが、アマチュア時代のように年数回の競技 会にコンディションをあわせて臨むのとは異なり、広大なアメリカ の国土を転戦することとなれば、好記録の維持を望めないのは目に 見えている。興行側も、数少ない女子スプリンターとオールドフィ ©2016 Institute of Statistical Research 近代オリンピック 120 年 23 ールドとを30m走で競わせるなどのアマチュア競技会では見られ ない趣向を凝らし、エンターテインメント性を加味することにも努 めたものの、陸上競技の魅力は、記録更新に尽きるといってよい。 ゴールド・メダリストたちが、国内予選なら落選するような凡記録 を連発するのを目にすれば、観客の足が競技場から遠のくことは、 厳しいながらも当然の帰結だっただろうと思わざるをえない。 IAT は、昭和49(1974)年の春季シーズンに来日し、その前年に 全天候競技場に生まれ変わった国立競技場を駆けめぐった。そこに は、シーグレンやオールドフィールドのほか、ミュンヘンで800m を制したディヴィッド・ウォットルの顔もあった。日本の陸上専門 月刊誌である『陸上競技マガジン』 『月刊陸上競技』は、ともに5月 発売の6月号で特集を組んで詳細に報じた。メキシコやミュンヘン の五輪で活躍した一流アスリートの走・跳・投を間近で見た日本の 観客は感激したものの、その記録にはあまりこころ動かされなかっ たであろう。「やって来た プロ陸上」という特集を組んだ『陸上競 技マガジン』も「豪華メンバーが勢ぞろい―しかし内容は」という 記事を載せざるを得なかった。テニスやゴルフとは異なり、記録と いう誰もが把握できる指針が入り込むと、いかにスター選手が出場 しようとも競技会の質の良し悪しは一目瞭然である。記録がすべて という競技の質を高いままで維持することはきわめて難しいことを 図らずも教えたのが、IAT という冒険だったのではなかろうか。 結びにかえて――コマーシャリズムの最たる弊害とは 20世紀末からのオリンピックを考える際、看過できないもうひと つの要素はコマーシャリズムであろう。 materialism という語が、 「物質主義」という原義に加えやがて「物質偏重主義」というマイ ナスの語義を持つようになったのと同様に、 commercialism の語 もまた負の響きを奏でることが多い。スポーツ・ジャーナリスト小 ©2016 Institute of Statistical Research 24 学際 第2号 川勝の『オリンピックと商業主義』(集英社新書、2012年)は、オ リンピックに見られるコマーシャリズムへの世上の誤解を説く好著 であり、参考になることが多い。たとえば、1984年のロサンジェル ス五輪の折、聖火リレーを1kmあたり3,000ドルで販売したことを 負のコマーシャリズムと批判する向きがあるが、それは的を射てい ないという。アメリカ国民のオリンピックへの関心が低かったため それを高めようとして考え出された企画だったこと、さらに収益は すべて YMCA などの非営利団体へ渡り、スポーツ行事開催に使わ れ、IOC や実行委員会の収益にはならなかったことを紹介してい る。世間には、コマーシャリズムといえばただちに負の側面を想起 するきらいがあるが、これなどその典型例であろう。先入観を排し て事実に向きあう姿勢が求められる。 上掲書で著者が説くことによれば、オリンピックに見られたコ マーシャリズムの最大の弊害は、アメリカのテレビ局からの膨大な 放映権料を獲得するために、アメリカの生活時間帯にあわせて競技 時間帯を設定したことだった。ソウルや北京の大会では、午前に予 選や準決勝、夕刻に決勝という慣例が破られ、午後早い時間帯に決 勝が行われるという異例のプログラムが組まれた。 コマーシャリズムの浸透は、アマチュアリズムの消失同様に、も はや抗し得ない事実である。4年後に迫った2度目の東京五輪は、 その弊害から少しでも自由な大会となるように、と願わざるを得な い。 (うしむら けい 国際日本文化研究センター教授・ 総合研究大学院大学教授[併任]) ©2016 Institute of Statistical Research
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