甦る「初期中世」の記憶

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甦る「初期中世」の記憶
―活発化するヨーロッパの中世史学―
大月 康弘
「キリスト教とヨーロッパ」という主題
ヨーロッパ世界におけるキリスト教の影響。そのようなテーマを
掲げる歴史研究/叙述は昔から少なくない。
ミラノ勅令(313年)によってコンスタンティヌス大帝がキリス
ト教を公認したことが、その後の「世界」を方向づけ、
「ヨーロッパ
統合」の起点となった、との認識は、いわばヨーロッパ史学の常道
であるし、800年のクリスマスの日にフランク王カールがローマの
聖ペテロ教会で戴冠された事実に、
西欧世界におけるローマ帝国
(こ
の場合「キリスト教ローマ帝国」
)の復活を看取するのは、フランス、
ドイツ、イタリアばかりか、われわれ日本人の歴史理解においても
常識となっていよう。
そのとき私たちは、自ずと、過去のある要素が、その後の世界を
かたちつくる、あるいはその後の社会の歩みを方向づけた、と想定
しているように思える。歴史の因果連関を、いわば後づけ的にさか
のぼって、論理的に構築しようという意志が、そこにはある、と言
ってよいのではないだろうか。
ところが、古代ローマ社会分析の碩学ポール・ヴェーヌは、これ
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学際“ZERO”号
とは別の歴史哲学的認識を示してわれわれを啓発する。1)社会とい
うのは、いわば歴史の織りなす堆積物であり、現存する世界の構成
要素の何ひとつとして、あらかじめ何か規定的な意味(力)をもっ
て立ち現れることはなかった、と。
ひとつひとつの事件や要素が、その都度の政治的・社会的力学に
よってその社会の動静に影響する、とヴェーヌは説く。従来の歴史
学で前提されていたような明示的な原因や影響などといったものを
特定することはそもそもからしてできない、というのである。だか
らこそ、ヴェーヌは次のように言ってのけるのだった。
「キリスト教であれなんであれ、ヨーロッパには根などない。
ヨーロッパは予見不可能な諸段階を経てできあがったのであり、
その構成要素のどれひとつとして、他のものと同様に本源的なも
のではないのだ。ヨーロッパはキリスト教の中であらかじめ形成
されたわけでもなく、ある萌芽が成長したものでもなく、一つの
後成の結果なのである。」
リヨンとヴィエンヌで考える
リヨンとヴィエンヌ。電車で30分ほどであるから、距離にして
30kmほどだろうか。ローヌ渓谷の町ヴィエンヌからすると、リヨ
ンはローヌとソーヌの中州を中心に開けた平野の町である。両都市
の間は、ローヌ河に沿って走る鉄道と道路が古代以来の河川交通に
代わる地域の動脈になっているが、見たところ往来はそう多くもな
さそうだ。車窓には、食品加工や建築部材加工の拠点とおぼしき工
場が点在しており、フランス国内はもとより、広くヨーロッパ経済
に向けた生産活動が行われている、とは、リヨンの町の人から聴い
た話である。
フランス中南部のこの二つの町を訪ねたのは、ローヌ・アルプ県
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の経済的役割に関心があったからでもあったが、何よりこの地域が、
古代ローマ帝国における「文明」Romaと「蛮族の土地」Barbaricum
の境域だったからである。
今でこそリヨンに軍配が上がるが、リヨンとヴィエンヌは、古代
ローマ期にあって、ともにライバルだった。ルグドゥヌムLugdunum
と呼ばれたリヨンこそ、
「文明」圏の最先端基地だった、とリヨンの
人は言う。だからこそ、中世になってこの世がキリスト教化される
と、リヨンには大司教座が置かれ、ローヌ・アルプ地帯における「文
明」の拠点とされたのだ、と。
確かに、ローマ民主政以来、リヨンより先(北方)は、いつどこ
からともなく襲い来る「蛮族」集団と一戦を交えることを胸に刻ん
だ勇敢な軍団の将兵たちの世界だった。生命を的にして進む覚悟を
もった者にこそ相応しい「野蛮」な世界が、その先(北方および北
西地帯)には広がっていた。秩序の緩い、あるいは無秩序な世界、
つまりはタキトゥス『ゲルマーニア』、カエサル『ガリア戦記』が伝
えるような素朴な社会がひろがっていた。ローマ人からすれば、こ
の「野蛮」な世界で武勲を立てれば英雄と讃えられ、栄達を遂げる
ことのできる土地にほかならなかった。現地の部族集団から徴用し
よしみ
たガリア軍団と 誼 を通じれば、帝位を狙うことすら可能となる武
力を手にした。
ヴィエンヌもまた、ローマ文明の香りを色濃く残す古都である。
神殿(パンテオン)をはじめ、広壮な劇場(テアトロ)、浴場(テル
マエ・ロマエ)、馬車競技場(ヒポドローム)といった史跡は、この
町がかつてローマ文明の拠点であったことを物語る。
「ユリアヌスがひそかに神々の呼びかけに違いないと思うよう
な出来事が、不思議とガリアに足を踏み入れてから、続いて起こ
っていたのだった。……ヴィエンナの町では、盲目の老婆が、こ
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んどの副帝(ユリアヌスのこと:引用者註)は、ヴィエンナにふ
たたびギリシア神殿を再興するだろうと予言した。それはローマ
最盛期以来、神殿や円形闘技場や劇場にめぐまれたヴィエンナの
人々に、ことさら強い印象を与えた。」(辻邦生『背教者ユリアヌ
ス』第7章「神々の導くところ」から)
かつてルテティア・パリシオールム(現在のパリ)にあったユリ
アヌスがガリアの民に推されて帝位を帯びたとき、ある種の啓示を
得たとされるのもこのヴィエンヌ(ラテン名「ヴィエンナ」)の町だ
った。のちに異教の復活を果たすユリアヌスとヴィエンヌとの、あ
りうる邂逅の風景を、作家は情感豊かに描いていた。
ガロ=ロマンGallo Romanとは、ガリア原住の民がローマ文明と
接触して、これを独自のかたちで受容した文化形態の総称である。
今でもヴィエンヌの人びとは、この町がブルグント族の都市であっ
たことを誇りとしており、鄙びた町の雰囲気に比べるといささか立
派な佇まいのガロ=ロマン博物館Musée Gallo Romanは、この町の
住民が、部族固有の文化に併せてローマ文明を受け入れ、独自の地
域文化を展開したことを豊かに展示していた。
他方でヴィエンヌの町は、1887年まで『聖なる都市ヴィエンヌ』
Vienna civitas sanctaなるモットーを掲げている。それは、この町
が中世になってキリスト教世界の拠点であった、と誇る市民の矜恃
を伝えていた。
「初期中世」の風景
ヴィエンヌは、ブルグンド王国(443―534年)の中心都市であり、
いわゆるブルグント戦争(523年)後にメロヴィング朝のフランク
王国に占領された都市である。ここでその政治史に立ち入ることは
2)
いま注目したいのは、ヨーロッパの歴史学界で、これ
しないが 、
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らの境域研究がますます活況を呈し、また各地の実相を踏まえた
「古
代から中世」の変容過程に関心が注がれていることである。
ピーター・ヘザー(Peter Heather、ロンドン大学)や、ブルノ・
デュメジル(Bruno Dumezil、パリ第十大学)は、この分野で精力
的に活動する研究者である。3)彼らの一連の著述は、種々のゲルマ
ン人部族社会が合従連衡をしながら、やがてローマ帝国と出会い、
包摂される物語を紡いでいる。その通底するトーンは、実力行使の
武力衝突を経験しながらも、ローマ帝国の文明、また後にはその内
部から湧き上がったキリスト教の信仰に包摂された、と認識する点
である。
彼らによれば、1∼6世紀の西欧に定住したゲルマン人諸部族
は、ローマ帝国との政治・文化交流を重ねて、独自の歴史を刻んだ。
その者たちは、今日のヨーロッパ世界を担う人びとの祖先といえる
が。ヘザーもデュメジルも、19世紀以来の学問伝統に近時の研究の
最新成果を盛り込みながら、古代末期から中世初期にかけてのゲル
マン人諸部族の動勢について的確な展望を与えようとする。
ギリシア・ローマ世界との接触、文明世界がみた「蛮族の土地」
Barbaricumに関する記述、その記述のあり方、後期ローマ帝国(4
∼6世紀)への諸部族の平和的定住、西ローマ帝国消滅(476年)
後の自立的な部族国家建設、等々の記述は、中世ヨーロッパ社会の
根底における社会変容の諸相を手堅く紹介して、誠に興味深い。
....
諸部族は、やがてカトリックに改宗する。すると、この新たな文
.............
化的枠組において種族が混淆し、ここに新しいアイデンティティが
生まれたというのである。現代ヨーロッパの基礎をかたちつくった
とされる中世世界の基層文化論にまで論及する一連の研究は、歴史
学の最新課題(心性論、日常生活の形態論、等)にも挑戦して、新
鮮に映る。
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ヨーロッパ社会の「個」の問題
現代ヨーロッパがキリスト教世界を基層としている、とは、いわ
ばわれわれの常識であろう。EUもまた、中世以来のこの文化的版図
を基礎としていることは明らかだ。歴史決定論から注意深く距離を
置くヴェーヌにしても、
「西洋人というわれわれ」が本質的にキリス
ト教の影響下にあることを否定するものではない。いわく「キリス
ト教によって教育されたわれわれの精神にとっては、宗教と死後の
運命のあいだの関係ほどなじみ深いものはありません。‥‥それは
古代ギリシア・ローマの異教にはほとんど知られていません。
(中略)
キリスト教徒だけの問題です」と、正直に語っていた。4)
死後の運命(あの世)と私の関係。この比類なく「個」の世界こ
そが、ヨーロッパの基底にある、とヴェーヌは説く。それは、ヨー
ロッパ思想史におけるキリスト教の役割について論じた、坂口ふみ
『<個>の誕生―キリスト教教理をつくった人びと』で、印象深く
語られていた事柄だった。
坂口は、言葉が本来的に共通なものを語ろうとする性質をもち、
このことからして本来ネガティプな存在としてしかあり得ないはず
のそれぞれの「個」が、ヨーロッパにおいてそれ自体として注目さ
れたこと、そしてやがてポジティヴな意義を獲得していったことに
驚きを表明したうえで、次のように述べていた。
「私はその物語を書いてみたいと思った。これはジャンルの入
りまじった書物になる。しいて分類すれば、エッセイのようなも
. ........... .....
のだと思う。(中略)「個」の理論などというものは、もともと奇
........ ....................
妙な混滑体である。あらゆる理論をのがれる唯一で具体的なもの
......
の理論である。」5)(傍点は引用者)
キリスト教の教理に支えられた「個」より成るヨーロッパ社会が、
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ローマ文明と「蛮族の世界」の境域を跨いで、一つの「新しい世界」、
つまりキリスト教世界に人びとを包摂したことは、紛れもない歴史
の事実だろう。
「新しい世界」は、異なる要素(個性ある「個」や、個々の部族
集団)から成る「この世」を、その構成員/構成集団に通貫する「あ
の世」と個別に関係させることで、観念的なレベルである種の統合
を果たすことができた。だからこそ、坂口にとっての語りのスタイ
ル、つまり「私的な体験と、もっとも一般的抽象的な理論や公的制
度との間にある、ある連繋」が、「私」や、
「私」の友人である「彼
女」をとりまく個別のストーリーとして語られるのである。それぞ
.....
れのエピソードは、それ自体が歴史の事実として現存したし、歴史
現象としても個別的な永遠性をもって語られるべき事柄と考えられ
たのである。
キリスト教が浸潤した時代。人びとが持っていた「個」へのまな
ざしと、キリスト教教義論争のなかで生まれた「個」という言葉の
含意を、今、改めて考えたいと思う。
「キリスト教とヨーロッパ」と
いった大文字の歴史ではなく、人びとの自己認識と存在態様のあり
方が漸進的に変容した。その過程の分析は、たしかに「私たちの世
界」と無縁ではない。もとより、もはや統合原理としての宗教は、
無力と言わざるをえないであろうが、それは、多様な人びとの自我
が、それぞれの欲求をもってぶつかり合い、諍いあう今日世界を考
えるとき、明日への活路を見いだす合わせ鏡となる可能性を秘めて
いるのかもしれない、と思う。
〈註〉
1)ポール・ヴェーヌ『「私たちの世界」がキリスト教になったとき』岩波
書店、2010年、179頁。
2)クロティルダは、ブルグンド王国(443―534年)の王女であった。492
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年か493年に、彼女はクローヴィス1世と結婚した。叔父のブルグン
ド王グンドバットは、姪の結婚を阻止しようとしたが、クロティルダ
は馬にのって全速力でクローヴィスのもとに急ぎ、結婚が成立した(ル
ネ・ミュソ=グラール『クローヴィス』白水社、2000年、65頁)。夫と
なったクローヴィスは496年に洗礼を受けてカトリックに改宗する
が、これにはクロティルダの存在が重要な意味をもった。クロティル
ダとクローヴィスの間には4人の子が生まれる。523年、彼女は息子た
ちを焚き付け、グンドバットの息子であるブルグンド王ジギズムント
と対決させ、ブルグント戦争を引き起こした。
3)近時の代表作のみ挙げれば、Peter Heather, Empires and Barbarians:
Migration, Development and the Birth of Europe, London,
Macmillan, 2009; id., The Restoration of Rome : Barbarian Popes
and Imperial Pretenders, London, Oxford University Press, 2014;
Bruno Dumezil, Les racines chrétiennes de l'Europe : Conversion et
liberté dans les royaumes barbares V e-VIII e siècles, Paris,
er
e
Fayard, 2005; id., Des Gaulois aux Carolingiens (du I au IX
siècle), Presses Universitaires de France, 2013.
4)ポール・ヴェーヌ『歴史と日常』法政大学出版局、2002年、74頁。
5)坂口ふみ『<個>の誕生』岩波書店、1996年、vi頁。
(おおつき
やすひろ
©2015 Institute of Statistical Research
一橋大学大学院経済学研究科教授)