テクノロジーアートとしての映画/映像史サバイバル講座

デジタル世代のための
テクノロジーアートとしての映画/映像史サバイバル講座
~ラスコーの洞窟からゴダールまで~
Part.4
七〇年代アメリカン・ニューウェーブとアーティストスタイル
ソフトウェアでハードの限界を超える
今まで、アメリカン・ニュー・シネマを定義するときに、これまでにはないバイオレンス表現
や時代の検閲などハリウッド的なものを乗り越えて新しい映画が出て来たと言われていますが、
実はそれを可能にしてきた新しい技術とそれを操る人たちがあらわれてこれまで映画を別の次元
に進化させたたことに注目していきたいと思います。
最初に紹介するこの映画は『天国の日々』(78)です。夕方の淡い光の中をシルエットの人影
が佇む。これはすべて自然光で撮影されています。カメラマンのネストール・アルメンドロスは
スペイン生まれでキューバに移住して映画を学びました。フェデル・カストロの政治体制に反対
してフランスに渡りフランソワ・トリュフォーやエリック・ロメールのカメラマンになった人で
す。監督は『地獄の逃避行』(73)、『シン・レッド・ライン』(98)、『ツリー・オブ・ラ
イフ』(11)など独自の映像美で映画をつくり出すテレンス・マリック監督の作品です。これま
で見てきたようにハリウッド映画では、世界に通じる工業製品としての作品が作られてきました。
しかし、それを超える作家性が求められるようになって来ました。その変化をテクノロジーとク
リエータが生み出したテクニックから見ていきます。
今デジタル時代の激変が起きていまして、実は今日の講座の2日くらい前にデジタルシネマ周
りでもいろんなことが起きています。「マジックランタン・ファームウェア」というキャノンの
デジタル一眼レフカメラを、ファームウェア、要するにマイクロソフト・ウィンドウズでいう
アップデートみたいなことで独自のソフトウェアのプログラムを走らせることでハードの性能を
引き出すいわばハッキングの作業を、世界中のデジタルシネマ好きなアマチュアエンジニアたち
が集まってネットで意見交換しながら開発しているコミュニティがあります。それが現在メー
カーのキャノンが公式に出しているファームウェアよりもはるかに性能が良いプログラムをつ
くっています。公式には出力が H264、Mpeg4 という圧縮された映像しか出せないのを、マジッ
クランタンファームウェアでは RAW データというものすごくでかいデータでデータ圧縮のロス
が無いから最もきれいな映像を取り出せるようにした。データの量が多いから細部まで再現され
てポストプロダクションでクリエーターの望むように加工することができます。そのようなこと
がメーカーの思惑を越えて一般の人たちが新しい技術を使って表現を革新する時代に来ているの
です。
昔のハリウッドという一部の専門家しかカメラを弄れないとか調整できない時代が、今はこう
いう形で民主化されて一般の有志が集まってキャノンというメーカーの限界を越えてさらに映像
表現を広げていってマジックランタン・ファームウェアをインターネット経由でダウンロードす
れば、世界中の同じカメラを持っている人たちが 100 万円クラスのプロユースのカメラと同等
の機能を手に入れることが 30 万円のデジタル一眼レフでできてしまう。下手すると現在デジタ
ルシネマでインディーズ作品として映画館にかかっている映画よりも、高画質のものができてし
まう、そういう状況が今起きています。
70 年代のアメリカ映画で起きたことも同じようにハードの限界を人やアイディアといったソ
フトウェアの革新性で超えようとした時代だと考えています。
見えない映画のサイクル
今フィルムからデジタルへ移るというのは、技術を介したアートである映像(映画)メディア
の必然と言っても良いでしょう。技術が発達していくと、光学的レンズの問題とかフィルム感度、
再現力がどんどん良くなってきて表現力が上がっていく、それによって映画の形も変わっていく
のも必然だと思います。それが「見えない映画のサイクル」です。今、多くの人に見えているの
が、映画館で公開される最終的な作品の姿です。その作品を見て批評が生まれ作品の評価が映画
史に定義付けられて広まっていきます。一方の作り手の、クリエーターと呼ばれる人たちは技術
や技法や現場を知っています。逆に言うと現場を知っているから、美学的な言葉を連ねた批評に
対して「何も知らないで言ってやがる!」という言い方になってしまう。しかしいまの時代は小
型カメラでそれまで難しかった技術が誰でも使えるようになってきている。それを「プロシュー
マー」という言い方をします。「プロ」はプロデュースで生産、「シューマー」はコンシュー
マーで消費者です。日本語では生産消費者という言い方をします。作り手でもあり、同時に観
客・批評家でもある人、その両方ができる人たちがこれからの時代の主流になるだろうという考
え方です。
それはテクノロジーが進んで来ているからできるようになった。テクノロジーの進化も、観客、
メーカーの技術者、映画に出資して儲けようとするプロデューサー(興行主)が、こういうもの
を見たい、こんなものを作りたい、こういう映画で驚かせたら儲かるだろうという「欲望」から
スタートしている。作品だけを見て批評するのも美学的に面白く考察も大切ですが、今の時代、
映画が誰でも作れる民主化された時代に、もう少し幅を広げて映画を見て行くと面白く新たな発
見、より深い見方、創造ができるのではないかというのがこの講座の主張です。それは映画史百
余年で何度も繰り返されている、ほかのアート史とは違う映画史独自の必然と考えています。
絢爛豪華、テクニカラーの時代
まずこれまでの普通のハリウッド映画とは何だったのかを簡単に見ていきましょう。それは
「テクニカラーの時代」です。いわゆるクラッシック・ハリウッドの黄金時代、わかりやすく言
うと『オズの魔法使い』(39)『風と共に去りぬ』(39)『雨に唄えば』(52)という豪華絢
爛な映画を作っているときのハリウッドのスタジオで撮られる映画、最高峰の技術を使って作ら
れたカラー映画です。それを支えたのがテクニカラーなのです。皆さんが思い浮かべる普通のカ
ラー映画フィルムというと、撮影用のネガフィルムか今の劇場上映用のプリントフィルムを考え
ますよね。今はヴィデオとデジタルが主流だからそれもわかりにくいでしょうか。そもそも映画
も映像も、突き詰めると光と色をどのように扱うかという問題に行き着きます。それをどのよう
な解決方法を見出したかを知ることはフィルム、デジタルを問わず有効だと思います。
テクニカラー方式では撮影に 3 本の白黒フィルムが必要です。なぜ3本なのでしょうか。まず
撮影の時にレンズから入ってくる光をプリズムを使って赤緑青(RGB)の三色に分解します。
そうするとそれぞれの色に反応した3本の白黒ネガが出来上がります。それを再び合成すること
で色鮮やかなカラープリントを作るのです。しかしカラーの仕上がりは美しいがカメラ、撮影、
現像だけではなく、照明、セット、衣装、メイクもテクニカラー仕様にする必要があるので手間
とコストがかかる。
ジョン・フォードの初のカラー作品の西部劇『黄色いリボン』もテクニカラーで撮影されてい
ます。このときのカメラマンのウィンストン・C・ホークはカリフォルニア工科大学を卒業して
化学者としてテクニカラー社で三色分解システムの開発を進めその業績でアカデミー賞技術賞を
受賞していたテクニカラーの専門家だった。ジョン・フォードはロケが好きで砂漠のモニュメン
ト・バレーに出かけてが、条件が整わないからとなかなかホークはカメラを回さなかった。象徴
的なのはいまにも雨が降りそうな悪天候の中、騎兵隊の列がカメラに向かってくるシーンだった。
フォードが回せという指示を出すのにホークは抵抗する。それでもフォードは回せと怒鳴るので、
ホークはテクニカラーカメラに適した条件ではないのに撮影無理矢理撮らされた報告書に書いて
良いなら撮るといって回した。敵のネイティブアメリカンの捜索に失敗して戻ってくる騎兵隊の
遠くの地平線に1条の稲妻が映る名シーンとなり、ホークは 1949 年のアカデミー賞撮影賞(カ
ラー部門)を受賞した。これはクリエーターとエンジニアの最大のちがいだと思います。悪条件
でも最高の技術を超えた詩情を撮れると確信したクリエーターがジョン・フォードという監督が
いたことは重要だと思います。
1949年にコダック社がいまのイーストマンカラー方式、一本のネガでカラー写真が撮影で
きる方法を開発したために、サイレント時代のカメラが再び使用できるようになるなどコストダ
ウンができるようになった。同じ頃にテクニカラーの特許の期限が切れて独自技術を公開した影
響もあって、テクニカラーは次第に廃れて行きます。「悪貨は良貨を駆逐する」ということわざ
がありますが、性能が多少劣っている技術であっても、コストや便利さというそれを補うメリッ
トがあれば新しい製品が普及していきます。ビジネス用語では「イノベーションのジレンマ」と
いわれている現象です。フィルムからデジタルへの移行もこれとまったく同じ現象でしょう。
ちなみにビデオカメラでもテクニカラーの三色分解と同じ考え方の3CCD方式が使われてい
る。これはレンズを通った光をプリズムで分解して RGB の 3 つの受光センサーが感知してデー
タを合成して記録する方式だ。現在のビデオカメラの主流は CMOS センサー方式です。これは1
枚の大きなセンサーに RGB それぞれの細かいセンサーが埋め込まれています。これは映画の発
明者のリュミエール兄弟が 1893 年に考案したカラー写真のオートクローム方式に似ています。
オートクロームも写真に赤と緑に感光するデンプンの細かい粒子を敷き詰めて撮影したあとに合
成してカラーにします。CMOS が普及したのは大量生産が可能になって価格が下がったためです。
これをイノベーションのジレンマでしょう。
これもちょっと余談ですが、現在デジタルになって過去のフィルムやDCPのデジタルデータ
をどうやって保存するかが問題となっています。◯年にアカデミー技術賞を受賞したフジフィル
ムが開発したエターナルフィルムを使った保存方式は、テクニカラー技術の反対の方式で、カ
ラーフィルムを三色に分解して三本の白黒ネガに分けてそれぞれを保管します。この方法は、
ジョージ・ルーカスは『スターウォーズ エピソード4新たな希望』(76)を保管するときに
既に使われて、そのネガから◯年後に高品質の DVD が作成されました。
ヨーロッパからの波
製作の技術が確立して手間のかかる大型の工場の工作機械を扱うサイレント時代からのベテラ
ンばかりで業界が高齢化していく。ハリウッドは昔からコネ社会で新しい外からの血が入らない。
ユニバーサル映画の創設者のカール・レムリは息子に会社を譲った。 極端な例は別としても、
どの有力者と繋がっているかでものごとが決まる閉鎖的なファミリービジネス的な不思議な社会
です
大きなテクニカラーカメラだと外に持って遠くにロケに出るよりも、プリズムの調整など細か
い作業を正確に行うためには、スタジオの中で撮影したほうが、予算やスケジュールもわかりや
すく効率的で、専門的な多くの助手やスタッフがいて職能別に組合の規定があって分業している。
ハリウッドは撮影監督と実際にカメラを回すオペレーターは作業の担当が明確に分かれています。
実際の現場ではあいまいだったりします。逆に撮影監督をやらなくても名前だけ出す場合もあり
ます。そうなっていくとどんどんルーティーン化して、ハリウッド内でしか通用しない絵空事に
なってくわけです。車の撮影はスクリーンプロセスが用意されている。ニューヨークのセントラ
ルステーションも撮影所のなかにセットをつくりたくさんのエキストラを呼んで撮影をする。世
界の現実と乖離して行く。
そのときに世界にインパクトを与えたのがヨーロッパの波です。1950 年代の終りのフランス
で起こった助監督経験がない新人監督たちが大勢登場したヌーヴェル・ヴァーグ運動。手持ちカ
メラ、間接照明、ジャンプカット、…。ひと言でいうと素人っぽさが受けた。
アメリカ人でイギリスで活躍したTV出身のディレクター、リチャード・レスターが『ビート
ルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!』(64)『ヘルプ!4人はアイドル』(65)のビートルズ主
演のアイドル映画でポップな映像を駆使した映画を監督。既存のルールから外れたモンタージュ
を多用した映像は、いまだにミュージックビデオに影響を与えています。
ハリウッドの絢爛豪華だがモラル表現の自主検閲に抑圧されているとはちがい、リアルな世界、
特に性や政治や社会問題に対するハリウッド映画の明快さとは独特の表現をスウェーデンのイン
グマール・ベルイマン、イタリアのミケランジェロ・アントニオーニ、フェデリコ・フェリーニ、
ピエロ・パウロ・パゾリーニ。現実の世界と繋がったアート志向の映画の作り手たちの手法とそ
れに熱狂した観客の若者パワーがハリウッド映画を古くさいものにしてしまったのです。
テレビ電波という波
一方のテレビという電波の波も映画に衝撃を与えています。今までの映像メディアは映画しか
なかったけれど、そこに新しいテレビという映像メディアあるいはビジネスモデルが出現して支
持を得ている。映画側からいうとライヴァルの出現ですが、テレビの側からいうと新しい可能性
の出現です。これは現在のテレビとインターネットの関係性に近い気がします。
ハリウッドのきれいな35ミリで、美しいメイキャップを整えた美男美女を人工的な撮影スタ
ジオでスケジュールどおりに撮影するのではなく、アメリカの反対側の戦場の真実を16ミリの
小型カメラで自分ひとりでフィルムを装てんしてフォーカスをあわせて撮影しないとならない。
テレビという発表の場がなければ個人のアマチュア映像ですが、そこに配信できるプラット
フォームができたことで、本当の意味でメディアあるいは産業の可能性が一気に広がった。ちな
みに東京の五反田にある映画フィルムの現像所のIMAGICA、当時は東洋現像所と呼ばれて
いましたが、ここでベトナムから送られてきたニュース用16ミリフィルムを現像してアメリカ
に送っていたそうです。
ここで重要なことは、新しいメディアが出現したことで新たな人材が養成される場所が生まれ
たということです。日本ではテレビが出現したときに、映画人たちは電気紙芝居と揶揄していま
した。日活アクション映画のスターだった石原裕次郎は、日本テレビで連続刑事ドラマ「太陽に
ほえろ」を石原プロで撮影するとき、初日にセットで16ミリカメラをみて「なんだこのテケテ
ケカメラは」といったという。自分のプロダクションの製作だから多少の照れはあったかもしれ
ないが、映画人のテレビへの認識はそんなものだった象徴的な出来事だろう。
アメリカのテレビでも状況は変わらず、毎週の放送にあわせて粗製乱造になろうが次々と製作
しなければならない。そんな現場で鍛えられたのが、ロバート・アルトマン、ウィリアム・フ
リードキン、シドニー・ルメットなどの世代です。そもそもテレビがなかったのだから誰もテレ
ビ番組の作り方を知らない。最初はB級映画の製作プロダクションが請け負っていたが、そのう
ちにハリウッド映画以外の教育映画や産業映画あるいはラジオや演劇といった別分野から人材が
入ってきます。これはサイレント映画の初期に通じることなのが起きているのだと思います。
一方でハリウッド映画はそれに対抗するために戦略を練ってテレビに奪われて激減した観客を
取り戻そうとします。まず劇場ではテレビでは味わえない体験の3D、ワイドスクリーンです。
1950 年代後半から 60 年代にかけてハリウッドはテレビに対抗して大作主義を打ち出します。
海底の小さなブラウン管では見ることができない巨大なスクリーンにスターたちの競演で観客に
満足してもらうことを考えます。こうなるとある程度、素材は決まってしまう。戦争映画、大型
ミュージカル、聖書の物語を含む歴史劇です。その一方で製作費の削減のために、スタジオ撮影
もハリウッドから人件費の安いイギリスやスペインに移って行く。ランナウェイプロダクション
方式がはじまります。それは以下の作品群を見ても明らかです。『八十日間世界一周』(56)
『ウェストサイド物語』(61)『サウンドオブミュージック』(65)『アラビアのロレンス』
(62)『史上最大の作戦』(62)『大脱走』(63)『十戒』(56)『ベン・ハー』(59)『ク
レオパトラ』(63)。
ワイドスクリーンは、サイレント時代のフランスで作られた『ナポレオン』のときにクライマッ
クスで、3 つのスクリーンに三台の映写機で同時に上映するポリヴィジョン方式が採用されまし
た。近年では世界中でサイレント映画の特集上映が盛んで、この『ナポレオン』も当時のポリ
ヴィジョン上映が再現されています。横幅 35 ミリのフィルムというカンバスを横に広げるとい
う無理難題を解決するために様々な技術が開発されました。シネマスコープ方式は、元は第一次
世界大戦時にフランスで開発されました。それが○年後にハリウッドで実用化されたのです。シ
ネマスコープは被写体の映像が縦長に写る特殊なレンズ(アナモフィックスレンズ)を使い、映
像を縦長に圧縮して記録して、上映時には逆に横長に伸ばして見せるレンズをつけてワイドスク
リーンに映す方式です。映画監督のフリッツ・ラングは「ワイドスクリーンはヘビと葬列を撮る
にはちょうどよい」と皮肉を言っています。この他にもシネラマは三台のカメラで同時に 26 コ
マ撮影して、上映の時も三台の映写機で同時に映し出すことでワイドスクリーンにする。また
トッド AO 方式は70ミリフィルムを用いて 30 コマで撮影、6 チャンネルマルチサウンドで上映
されました。またパナヴィジョンは、35 ミリフィルムをスチル写真カメラのように横に走らせ
ることで、画面サイズの面積を広げて画質を上げようとしました。これはヒッチコックの 50 年
代の作品が有名です。やがてフィルムの解像度が上がるようになると、アナモフィックスレンズ
を使わずに縮小した横長サイズの画面で撮影・上映される現在の映画の形が定着するようになり
ます。
同じ頃 3D も流行しました。3D はすでに 1922 年に『愛の力』という作品が作られたという記
録が残っていますが、現在は行方不明です。1952~53 年の突発的なブームでは『アマゾンの半
魚人』、『肉の蝋人形館』などの見世物的な映画で使われます。ヒッチコックも『ダイアル M
を回せ』に挑戦しています。しかし2台の映写機を同時に1コマもズレないようにシンクロさせ
ることは当時の技術では難しかったために 3D は廃れていきます。しかし技術革新は止まること
がなくその後70年代 80 年代に『ジョーズ 3D』、『13日の金曜日 3D』、『悪魔の棲む家
3D』と細々と続けられて、2000 年代の再登場を待つことになります。
しかしこの当時は、ハリウッドが持つすべてのハードとソフトの技術を駆使してコントロール
の帝国の没落を止めようとしていました。
クロサワショック
ここでそんなハリウッドにトドメを刺したのが極東の小国、日本から現れた黒沢明の『用心
棒』です。この映画が世界に与えた影響は計り知れないほど大きいと思います。ヨーロッパから
の芸術映画が世界に与えたショックとはべつに、この痛快娯楽時代劇の元ネタは、ダシール・ハ
メットの『血の収穫』のハードボイルド小説ですから完結明瞭なまさにアメリカ的なストーリー
です。この練りあげられたフォーマットを、ハリウッドの西部劇が作りたかったイタリア人監督
のセルジオ・レオーネがうまくパクッてスペインにセットを作り、テレビの西部劇「ローハイ
ド」でスターになった若手俳優のクリント・イーストウッドを呼んで来て「名無し」のキャラク
ターを与えた。それがマカロニウェスタンを生み出し世界中に大ブームを起こして、アメリカの
本家の西部劇を古くさいものにしてしまった。
世界的にワイドスクリーン方式が普及していてマカロニウェスタンもワイド画面ですが、通常
は 4perf を使っているが、2 perf 分の縮小横長画面なのです。35ミリフィルムを使って、70
ミリのタテヨコ比を生み出す節約方法。これはテクニスコープと呼ばれるフォーマットなのです。
しかしこれだと70ミリの1/4の解像度ですから、大画面で上映すると画質が粗く落ちるわけ
です。でも当時の観客はきれいで豪華、しかし絵空事のハリウッド映画には飽きていました。実
際大御所のジョンフォードの西部劇も不評だったそうです。マカロニウェスタンはリアルで残酷、
血みどろだったので、テレビのニュースと同じ。だからテクニスコープのリアルさが受け入れら
れたのです。もうひとつ忘れてはならないのが、当時は検閲のせいで撃つ側と撃たれる側を同じ
一つのカットに入れて撃たれる瞬間を描くことはご法度だった。引き金を引くと次のカットでは
撃たれるリアクションにしなければならなかった。その約束事を壊したことでよりリアルな表現
が行えるようになった。こうして世界の映画でハリウッド的な映画美学が崩壊して新しい表現の
時代を迎えることになった。その役割を担った画期的な作品が『用心棒』だったことは特記して
おきたいと思います。
世代交代、アルチザンからアーティストへ
大きな言い方をしてしまうとハリウッドという業界人だけで映画を作る時代は終わりを迎えた
と思います。ハリウッドの中にいる人、要するに昨日も明日もテクニカラーの大きなカメラを準
備して操作することによって、私は映画人であり業界人である時代はもう終わろうとしているわ
けです。そんなきれいなだけの職人技に観客が飽きてしまって、次の映画の欲望を観客あるいは
プロデューサーが抱えているわけです。しかしその新しい時代に対応できる人材がどこにいるの
か。それはもちろんハリウッドの外にしかいないわけです。例えば大学の映画学科出身ならば、
スコセッシ、デパルマ、コッポラ、ルーカス。あるいはテレビというメシアが生まれたときにテ
レビCMも生まれます。そういうものを作る監督、カメラマン、俳優が現れてきます。彼らが映
画をつくるためにどこにたどり着いたかというと、ロジャー・コーマンのところですね。多くの
B級映画プロダクションの中で、ハリウッドの外側にいて、新しい観客の欲望を捉えたプロ
デューサーなのです。その実態は安く早く作らせるために、ハリウッドの外の新人を使ったとも
いえるでしょうが、そこにしかデビューのチャンスはなかった。それは現在ハリウッド映画の主
流になっているロン・ハワード、ジェイムズ・キャメロンまで繋がる人脈です。彼らは撮影所の
中の徒弟制度ではなく、低予算の制約の中で映画作りのすべてを自らの手で実地で学んできた世
代なのです。一般的にアメリカンニューシネマは『イージー・ライダー』(69)にはじまって
『スター・ウォーズ』(76)に終わるといわれています。反権力や暴力性のある映画だけではな
くて、もっとバラエティにとんだ作品が作られていることがわかると思います。これらはメ
ジャー作品として出てきた区分ですが、実際に作ってきた監督やスタッフ、キャストはロ
ジャー・コーマンのところで修行を積んでいるわけです。
特に技術のほうから見ると、ここに携わっている。カメラマンや技術スタッフはかなりの部分
で重なったりしているわけです。まるでヌーヴェル・ヴァーグのときのように仲間が集まった。
それぞれの個性は別々だが、新しい時代にふさわしい人材が集結して助け合った。
ハリウッドのぬるま湯の毎日定時に出社して、決められた仕事をこなすのではなく、例えばテ
レビ番組を3日間で撮影しなければならない。そんな過酷な環境で鍛えられて映画作りを知る。
あるいは最新のポータブルなカメラがあれば表現の幅がひろがり、高感度フィルムが使えればラ
イト機材が減る。無許可隠しカメラで大胆な撮影ができる。そういう人材や機材が現れたことで
アメリカンニューシネマという今までにない新しい冒険的な流れがハリウッドから現れたように
見えた。
これまでの業界の職業の中で腕を振るう人であるアルチザンから、アーティストへ。ひとり一
人が独立した技術を持って個性とスタイルのあるアーティストになったというのが、70年代映
画の特筆すべき変化です。要するに匿名集団であったハリウッドのなかの人という形から個人の
名前とスタイルが結びつけて考えられるようになった。これはヨーロッパから現れた作家主義と
同じことがほぼ十年遅れでアメリカで始まったといえると思います。
では今までのハリウッド映画のいかに映画をコントロールするかという部分からもっと派手で、
自分のスタイルに、コントロールから自由なパフォーマンスの表出に変わったことが大きいで
しょう。実は最初のほうで説明したヒッチコックやウェルズがやったことは十年前の先取りある
いはヨーロッパの波より先にやってしまったことが今ようやくぐるりとひと回転して追いついて
花開いたといえると思います。
汚しと反逆者
アメリカンニューシネマの作品をもう少し細かく見て行きたいと思います。70年代といって
もコッポラ、スコセッシ、ルーカス、スピルバーグの名前は何度も出てきた飽きていると思うの
で、ここでは敢えてあまり出てこない監督の名前をあげようと思います。ひとりはロバート・ア
ルトマン。彼の名前は知っているが好きな監督はといわれてすぐには出てこない渋い、そしてア
メリカンニューシネマに与えた影響はかなり大きな重要な監督です。
ロバート・アルトマンは元々ハリウッドの外側にいました。第二次世界大戦の戦場から帰って
きて地元で産業映画や教育映画を作っていました。そのあとにテレビに移って、60 年代に「コ
ンバット」で高い評価を得ると、ハリウッドから声がかかりました。そこで作られたのが『M★
A★S★H』(70)です。朝鮮戦争を舞台にした戦争病院のコメディですが、明らかにベトナム
戦争を意識している。これがカンヌ国際映画祭でグランプリを獲得したことでハリウッドのメイ
ンストリームに入ってくる。
70年代前半に『ギャンブラー』(71)、『イメージ』(72)、『ロング・グッドバイ』
(73)を撮ります。この三作の撮影監督がヴィルモス・ジグモンドです。彼は70年代だけでな
く映画史全体の中でも重要な現役のカメラマンです。彼は当時社会主義国家だったハンガリー生
まれです。大学で撮影技術を学んでいたのですが、そのころ68年にハンガリー動乱が起きて、
西側に行こうと盟友のラズロ・コヴァックスと一緒にアメリカに行きます。ラズロコ・ヴァック
スも『イージー・ライダー』の撮影をしています。ゴダールの映画で何度かその名前が出てきま
す。彼らはニューヨークにたどり着くが共産主義の国からきた外国人であるがために映画のユニ
オンに入れないから仕事もない。だから町の写真屋で現像の仕事をしてチャンスを探していた。
そしてロジャーコーマンのところやべつのB級映画製作プロダクションに行って低予算映画の撮
影をしてアメリカのシステムに馴染んでいった。
そうして既存のハリウッドに対して反逆的で実験的な映画を撮ろうとするロバート・アルトマ
ンと出会って作られたのが『ギャンブラー』、『ロング・グッドバイ』です。開拓時代の西部を
舞台にした『ギャンブラー』のほうは非常に実験的な映像を意欲的に作っていきます。それこそ
今はビデオもフィルムも高感度になって来て暗い室内でもライトをほとんど使わなくて、極端な
話ロウソクの光だけで照明できます。要するに西部劇の開拓時代だから電気の無いのは当たり前
ですが、ハリウッド映画では約束事としてライトを当ててそれっぽい照明をつくるのに、それを
わざとリアルに撮る。でもこんなことを普通のハリウッドの撮影スタジオで行ったら、これは商
品として成立しないからNGですが、この時代はそれが新しいアーティストとして、こういう個
性的なことができることを主張することで、アルトマンの力もあったでしょうが、『M★A★S
★H』でカンヌ映画祭グランプリを獲った、実現してしまった。そこには機材あるいはフィルム
がどういう風に使えるかとか現像所にどういう指示を出して共同作業をするか、過去に自分が体
験しているからできる。だからハリウッドの中で育った人には自分でカメラを操作して証明を決
めて現像がどこまでわかっているかわからない時代だった。
そこまでできるのは外側で自分で興味を持って自分のスタイルを作って広げて行ったことが大
きいと思います。これはロウソクの光だけでは映らないので、いわゆる増感現像ですね。デジタ
ルだとISO感度ゲインを上げる、暗くても写るがざらざらな画になる。普通はメーカーが推奨
や保障する使用の限界を超えてザラザラなんだけどそれがリアルだというようなことを納得させ
る、あるいは観客が納得してしまう。観客が求めているのはキレイキレイなハリウッドではなく
もっと汚なくしても良いからリアルなものを見たい、これまでのハリウッド映画では見ることが
できなかった光景、シーンを求めていた。それに対応できる大胆な技術をもったカメラマンが出
てきたということです。
もうひとつ、ジグモンドは撮影にフィルターとフラッシングという技術を多用する。通常の
フィルムでは記念写真のようにくっきりと色鮮やかな発色になるのがうそ臭く感じてしまう。ま
あそれは開発メーカー側からいうと当たり前のことですけど、これまでと同じ画一的で均質なハ
リウッドの商品ならば良いですが、自分のスタイルを作るアーティストには耐えられない。そう
するとどうやって汚すのか、どこまで破壊して自分の表現の可能性を広げられるのか、ただ汚い
だけだと実験映画になるので汚しの美学をどうやって生み出すかが彼のやり方になるわけです。
フラッシングというのは『アラビアのロレンス』を撮影したカメラマン、フレディ・ヤングが
シドニー・ルメットの『The Deadly Affair』(66 未)のときに発明したテクニックです。これは
もともと映画ではなくスチル写真のテクニックだったそうです。ルメットはこの成果を「色彩の
ないカラー」と呼びました。これは普通撮影は写す前に少しでも光が当てられるとかぶりといっ
て感光するので駄目になって使えない。だからブラックボックスや暗室を使ってフィルムチェン
ジを行う。フラッシングは撮影前に一度薄く光をフィルムに当てる。そして巻き戻して撮影をす
る。そうするとフィルムから鮮やかさが無くなり、くっきりとしたコントラストが無くなり、逆
に暗部のディテールが現れるようになる。きれいなハリウッド映画ではなく抑えた渋い色調が出
る。ジグモンドはフラッシングだけではなくたくさんのフィルターを使い、自分の好みの光と影
や色調の世界を作る。フォグフィルターで、スモークを炊いたように見せてコントラストをやわ
らげて影の部分が潰れることを防ぐ。
彼はそれだけではなく、新しく開発されたパナヴィジョンカメラを使い、スピルバーグの劇場
用映画デビュー作の『続・激突!カージャック』を撮影した。これはパナヴィジョンというアメ
リカのメーカーが開発した小型軽量で同時録音できる(モーター音が外に漏れない)カメラを、
かつてのヌーヴェル・ヴァーグが手持ちカメラで行ったことを遅れてはじめたわけで、それを大
胆に使おうとしたのがアルトマンやスピルバーグのような新しく登場した人たちです。彼らの要
求に応えることができた技術者がジグモンドです。基本的にハリウッドでは同録は現在も重視さ
れていません。それはスタジオの防音設備がきちんとした中で採ればいいし、採らなかったらア
フレコで何度も繰り返して録音すればよい。観客は良い映画、美しい映画を見に来ているので、
リアルな聴きづらい発音より明確な音を好む。その驕りが技術の進化を遅らせた部分もあるかと
思います。だから撮影所の外にカメラが出て撮影するとカメラを軽くする必要があるが、反対に
防音のためにブリンプ機能を強固な構造にしなければならないというジレンマにぶちあたる。車
の中にカメラが入ると何人もの助手は乗れない、撮影所に据え付けられた撮影用の車に役者を乗
せて背景をスクリーンプロセスで合成したほうが安全できれいだ。
アーティスト気質のカメラマンたちは監督の求めに応じてスタイルを変えることもできた。そ
れは様々な機材やフィルムについて知り抜いているからだろう。実際に『未知との遭遇』(77)
のときジグモンドが次の作品のために抜けたために、ラズロ・コヴァックスが追加撮影を引き継
いだが、まったく違いはわからなかった。その後ジグモンドは『ディア・ハンター』(78)で
アカデミー撮影賞を受賞しますが、そのときもベトナムは当時のニュースフィルム風に仕上げて
います。
ニューカラー派の勃興
ここでちょっと脱線しますがこれはスチル写真の話になりますが、「ニューカラー派」という
流れがあり、1976 年にアメリカ近代美術館MOMAで、写真家のウィリアム・エルグストンの
写真展が行われました。これはアメリカの近代美術館でははじめて行われたカラー写真による展
覧会でした。これは何を意味するかというと、芸術写真は白黒でなければ認められなかった不文
律を壊したわけですね。このときも賛否両論だったらしいですが、身の回りのありきたりの風景
のカラー写真を芸術として認められる時代がやってきた。これも70年代半ばという意味で映画
同様に象徴的だと思います。この頃のコダックの写真は発色は先程書いたように記念写真のよう
に派手だった。このときにエルングストンが使ったテクニックがダイ・トランスファー・プロセ
スです。これは簡単に言うと映画のテクニカラー方式と同じなんですね。1本の撮影した写真ネ
ガをフィルターで3つの色に分解して3本のネガに分離して、色味を細かく調整して再び1枚の
写真に仕上げる。映画のテクニカラーは撮影のときに 3 本のフィルムを使って色を分解する。贅
沢なもので、ダイトランスファーも手間とお金がかかるし、カメラやフィルムの性能やラボの技
術が上がってデジタルになりパソコンで調整できるので廃れて行きました。
光と色彩で描く
70年代の重要な撮影監督として、イタリア人のヴィットリオ・ストラーロがいます。彼はベ
ルナルド・ベルトルッチと長年コンビを組んで名作を何本も撮ってきました。なかでも74年に
撮影した『暗殺の森』はヴィルモス・ジグモンドも絶賛した作品です。光と影、カラーの寒色と
暖色の大胆な使い分け、未来派とファシズム建築の幾何学と美学を批評的に再現しました。この
アーティストスタイルを持った撮影監督は監督と撮影前に映像のヴィジョンを共有するために
「ルック」という言葉をよく使います。それは作品の雰囲気を表すために主に絵画を用いてリ
ファレンス(参照)にすることです。ストラーロとベルトルッチの場合、『暗殺のオペラ』はベ
ルギーのシュルレアリズムの画家、ルネ・マグリットの「光の帝国」を、『ラスト・タンゴ・イ
ン・パリ』では、タイトルバックにも使われていますが、フランシス・ベーコン。そういう言葉
では説明しきれないイメージを共有するために使います。70年代のアメリカ映画はリアルであ
ると共に独自のルックを持った作品がたくさん現れてきます。それまでの多くのハリウッド映画
のような安全な規格品とは異なる方向性です。その後ストラーロはアーティストスタイルにこだ
わるコッポラに招かれて、『地獄の黙示録』、『ワン・フロム・ザ・ハート』を担当して、その
あとに『レッズ』でアカデミー撮影賞を撮った。そして実績がこれだけあったのに外国人という
理由で拒絶されていたアメリカ映画撮影監督協会にようやく加入できた。だから彼が担当するメ
インタイトルの撮影監督では、ASC、ISC(イタリア映画撮影監督協会)の表記を見ることがで
きる。
ストラーロは、フラッシングを発展させて、撮影前だけではなく、現像の際にも使っている。
そのシステムを全部含めてローマのテクニカラー社の現像所と一緒に81年に「ENR」という
技術を開発した。ちなみに『地獄の黙示録』のフィリピンロケのときもフィルムはローマに空輸
されてストラーロに信頼する技術者(カラータイマーまたはタイミングと呼ぶ)によって現像さ
れた。ENRの手法は、いわゆる銀残しまたはブリーチバイパスと言われる、鮮やかなコントラ
ストの強いカラーの彩度を落とした映像を作り出す現像の技術です。デヴィッド・フィンチャー
の『セヴン』や『ゲーム』とかああいうダークな脱色した淀んだカラーの画面がブリーチバイパ
スの効果です。もう使うことがない技術ですが、フィルムには銀が含まれています。その銀が色
を感光するしないの部分があって、現像するときに通常は銀を洗い流すのですが、それをわざと
残すことによって彩度の低い、カラーと白黒の中間のような沈んだトーンの映像にすることがで
きます。現在はデジタルでこれをシミュレートして似たトーンを生み出します。この技術を最初
に生み出したのは日本の撮影監督宮川一夫と東京現像所が市川昆の『おとうと』のために大正時
代のレトロな雰囲気を出すために開発しました。そのような世界トップクラスの撮影監督、宮川
一夫の仕事については次回の Part.5 で取り上げます。
完璧主義のニューヨーカー
もうひとり、アーティストとしてゴードン・ウィリスを紹介します。彼はコッポラの『ゴッド
ファーザー』(72)やウディ・アレンのニューヨークを舞台とした『アニーホール』(77)
『マンハッタン』(79)の撮影監督を務めました。彼もCMからキャリアをはじめた人です。
『ゴッドファーザー』をよく見ると、室内では真上から証明を当てていて、マーロン・ブランド
演じるドン・コルレオーネの目が影になって見えない。スターの顔が見えないというのはハリ
ウッド映画ではありえないことですが、このスタイルを通すことができたのも彼の美学が支持さ
れたのだと思います。『ゴッドファーザー Part2』(74)は奇しくもテクニカラー方式の最後の
作品になりました。この作品を最後にアメリカではテクニカラーで作られる映画はなくなりまし
た。ハリウッド神話がという一つの時代が終わったといえるでしょう。他説ではロマン・ポラン
スキーの『チャイナタウン』(74)が最後のテクニカラー作品という話もあります。これもまた
テクニカラー方式、1本のフィルムを現像の段階で3色に分解してそれを再び1本にしてプリン
トする。さきほどのスチルカメラのダイトランスファー方式と同じです。
ウィリスに戻ると『大統領の陰謀』(76)はロバートレッドフォードとダスティン・ホフマン
の二人の主演のスター映画ですが、これはノンフィクションが原作なのでリアルなルックが求め
られた。特に新聞社が舞台なのでワンフロアをすべて蛍光灯の照明で行った。当時は蛍光灯の光
は緑がかった色になってしまうのをフィルターで補正していたが、このときは広いフロアのすべ
ての蛍光灯にフィルターを張って対応したという。技術力があるから監督のビジョンを明確にし
てプラス自分の美学を加味して斬新な映像化をすることができたのだと思います。。個人的にア
レンの『インテリア』(78)が好きなので、低予算のミニマルな作品ですがほとんど照明の
タッチだけですべての画面が構成されており細部が凝っていて充実した映画体験ができます。
孤高のテクニシャン、スタンリー・キューブリック
70年代、アメリカンニューシネマの流れとはちょっとちがいそれよりも前の世代であるスタ
ンリーキューブリックは、スチルカメラマン出身で技術の実験が大好きな人です。左右対称の構
図を決めて独立独歩でスキャンダラスは映画の実験を進めてきた。これがある意味70年代に
なってアメリカ映画が追いついてきたといえますが、キューブリックはその前にハリウッドを見
限ってイギリスに移住しているんでけれどね。キューブリックが映画を1本監督すると、関連し
た技術書が倍くらい分厚くなるというジョークがあるくらい技術マニアでした。
キューブリックといえばじゃないですが、スティディカム 。『シャイニング』(80)や『フ
ルメタルジャケット』(87)で使われたのが有名でしょう。ステディーカムの技術は映画史の
中で突然現れました。これこそが 70 年代以降の映画の形を製作的美学的にかえてしまった革命
であったといえるでしょう。ステディカム自体には『ウディーガスリーわが心のふるさと』
(75)から使われた。このカメラマンはハスケス・ウェクスラーは、ジョージ・ルーカスの
ヒット作『アメリカングラフィティ』(73)やドキュメンタリー風の劇映画『アメリカを斬る』
(69)で有名です。スティディカムはその後『ロッキー』(75)の夜明けのトレーニングの
シーンそして『シャイニング』と続きます。この頃は発明者でエンジニアのギャレット・ブラウ
ン自身がスティディカムオペレーターとして操作していました。スティディカムとはどういうも
のなのか。
簡単に言うとヤジロベーの原理に近いものです。カメラとカメラの下につけられた重りがバラ
ンスが釣り合っていれば手ブレが相殺される単純な仕組みでできている。動力も電気も使わない。
ただカメラとカメラと同じだけの重り必要なので倍の重さがありますだから、体力が必要です。
カメラのファインダーも覗くことができないその代わりにモニターを見ながらカメラを移動させ
る技術が必要です。普通レールやクレーンを使えない場所や設置する時間が要らなくなって手持
ちカメラに見えないから制作部演出部から予算と時間の節約につながることが重宝されてきた。
カメラを意識してしまう手持ちのブレみたいなことがなくなった。まさにハイブリットな画期的
な表現だと思います。これ以降、手持ちカメラとスティディカムは区別されつかわれています。
スティディカムは、三脚を外した手持ちカメラの弱点を解消して、大掛かりのクレーンでしかで
きなかったタテ軸のコントロールに成功した。
キューブリックがドルビーサウンドの実験を行っていたことはあまり知られていないでしょう。
それは『時計じかけのオレンジ』(71)のときに使われました。映画の音は、1929 年に『ジャ
ズシンガー』で使われたトーキーのヴァイターフォン方式からはじまります。この方式では上映
に合わせて音の入ったレコードから音が流されます。フィルムが古くなり短くなると音と画がず
れてしまう欠陥を持っていました。しかし当時の観客は熱狂してトーキーを支持しました。やが
てフィルムのパーフォレーションの脇に光学方式で録音されてプリントにサウンドトラックが焼
き付けられるようになり、ズレの問題は無くなりました。今では信じられないと思われますが、
ドルビーサウンドが現れるまで映画の音響はモノラル方式でした。何本かの超大作ではマルチサ
ウンド方式と称して、一部の劇場では左右中央にスピーカーを設置してステレオ音響を演出して
います。映画では現在も不文律として何人も同時に喋ることがありません。先ほどから破壊の先
駆者として登場するロバート・アルトマンは映画の音の再創造に着手します。それはワイヤレ
ス・マイクとマルチトラックです。アルトマンは役者に自然な動きをさせるためにワイヤレスマ
イクを取り付けます。また同時に話してもマルチトラックに録音すればダビング時に調整できま
す。このようにして最新技術を使って、これまでの業界のタブーである限界を越えていきました。
これにより観客はよりリアルな見たことのない映画の世界に引きこまれていきます。
ドルビーは当初ノイズリダクション(NR)システムとして音質を上げるために開発された。
それがその当時のハイファイサウンドを聞くステレオコンポの普及と伴って、映画にも進出した。
『スター誕生』(76)ではじめて全編にわたってドルビーシステムが採用された。決定的だった
のは77年から78年にかけての『スターウォーズ』と『未知との遭遇』。どちらもジョン・
ウィリアムズ作曲ですね。そして一気に映画館に普及した。その後ルーカスは THX という映画
館の音響認定基準を作り、映画館のサウンドの向上の普及を図った。その後、ドルビー・デジタ
ル 5.1 チャンネル、ドルビー・サラウンド 7.1 チャンネル、3D サウンドのドルビー・アトモスへ
進化している。
また『2001年宇宙の旅』(68)は現在のSFXの元祖です。この映画に特撮スタッフと
して参加したダグラス・トランブルは『未知との遭遇』に、彼のもとで働いていたスタッフは
『スターウォーズ』に参加してハリウッド映画の SFX 技術は大進化を遂げて行った。
『バリーリンドン』は18世紀の室内を再現するためにロウソクの明るさだけで撮影した。そ
のためにNASAが宇宙空間で宇宙飛行士が撮影できるようにツァイスに特注した絞りの開放値
が f0.7 という人間の目より明るいレンズを借りて映画カメラに取り付けられるように改造した。
自然光のパレット
リアルなルック、カメラマンと監督たちが追求したものリアルに見えるためにはどういうふう
なテクニックを使ったらいいかをメインに考えていくと、別の優秀なカメラマンのネストール・
アルメンドロスという人がいます。彼はフランスでエリック・ロメールやフランソワ・トリュ
フォーと組んで作品を撮ってきました。テクニックを使ってリアルに見せるより、リアルなもの
まま素朴に自然光をメインに大切にしてカメラを据える。どのように自然の光を捉えようかと言
う事を徹底的に追求した人でした。
それは美しいドキュメンタリーといいましょうか。ここでも技術で限界を超える挑戦が行われ
ました。そしてストラーロと同じようにひとりのハリウッドの監督がアメリカに彼を呼びます。
テレンス・マリックです。『天国の日々 』は 20 世紀初頭のアメリカ中部を舞台としており、そ
こには電気もない、ほとんど全編自然光で撮る。あるいはろうそくではありませんが夜間のラン
タンの火の光だけで撮影しています。
マジックアワーと最近よく聞かれるようになった言葉ありますが、日没の太陽が地平線より下
がっているかまだ空が少し明るい時間帯、日本語だと黄昏あるいは彼は誰になります。まるで印
象派のモネが描いた絵画のような光と影になります。要するに夜が訪れるまでの短い時間、どこ
から光が来ているのかわからないとても柔らかい光なります。このマジックアワーの撮影を多用
して、他には無い映像を作りあげました。また『クレーマークレーマー』(79)はニューヨー
クを舞台としたシリアスなドラマですが、この場合でも自然光やオフィスの蛍光灯を多く使って
います。同じニューヨークの風景を先程のゴードンウィリスとは違った光の捉え方ということは
比べてみると面白いと思います。
もう 1 人ニューヨーク出身の重要な監督としてマーティンスコセッシをあげます。彼は『タク
シードライバー』(76)ではゴードンウィリスの助手として仕事をしてきたマイケルチャップマ
ンと組みます。また 80 年代になるとスコセッシは、ドイツのファスビンダーのカメラマンだっ
たミヒャエル・バルハウスと組んで『アフター・アワーズ』(85)以降何本か撮ります。これ
もまたニューヨークのルックを各撮影監督がどのように描いているかを知ることができる面白い
比較となるでしょう。このような形で様々なアーティスト・スタイルが現れて、アメリカにも
ヨーロッパの映画美学の流れが入ってきてハリウッド映画のをリアルなルックに変えていきまし
た。印象派の画家たちがアトリエから外に出て風景を切り取り次第に自らの内面を投影するよう
になった絵画の歴史をなぞることが、映画史でも起きたと言えるかもしれません。それをハリ
ウッドの最新・最高の技術と資金力で世界に通じる商品にして行った。これが 70 年代の技術か
ら見たアメリカニューシネマの革命の正体だと言えるでしょう。
堕ちたアーティスト像
面白いことにハリウッドに行くとそれまで反逆児だったはずのアーティストたちがハリウッド
に飲まれてしまう現象がおきます。『イージー・ライダー』でせっかく自然光で全部できる美学
と技法をつくったのだけど、『ニューヨーク・ニューヨーク』では撮影監督のラズロ・コバック
が、全編凝りに凝りまくって、屋外もセットを組んで昔のハリウッドのスタジオ撮影を完璧に再
現をした。しかしこの映画 3 時間以上あって大コケしてしまった。誰も完璧な古典的なハリウッ
ド映画見たくなかったのにスコセッシが本当に撮りたかったのは、ニューシネマではなくてオー
ルドハリウッド映画だったことがよくわかります。コバックスの名誉のために言うと、その後
『ゴーストバスターズ』など他のハリウッドメジャー映画ではきめ細かいライティングによる美
しいハリウッドとヨーロッパスタイルを融合した映像を生み出しています。
またコッポラとストラーロのコンビも『地獄の黙示録』をフィリピンでロケをしていくうちに
どんどん予算が肥大化してしまいだれも映画をコントロールできなくなりコッポラ破産してし
まった。しかし彼は『ワン・フロム・ザ・ハート』を正反対に完全にスタジオ撮影で行った。こ
れはスコセッシにも似た衝動だったのでしょうが、これも成功しているとは言い難い作品です。
あるいはマイケル・チミノとヴィルモス・ジグモンドの『ディア・ハンター』のコンビが再び
組んだ『天国の門』(80)ではリアリズムを追求して本当に撮影のために街を 1 つ作ってし
まった。鉄道を敷設して博物館から蒸気機関車を運んで走らせた。撮影も完璧に時間をかけて凝
りまくって好き放題作った。しかしこれも 3 時間以上の大作映画になってしまって、興行的には
大失敗をしてしまって、グリフィスやチャップリンが創設したハリウッドの名門ユナイテッド
アーチストを潰してしまうことになった。これがある意味アメリカンニューシネマの終わりとい
われています。なぜハリウッドから自由になろうとした人たちが、ハリウッドの大作を作って駄
目になる現象が 70 年代の終わり起きたことは象徴的です。しかしこれを逃れられた人が 1 人だ
けいます。それはジョージルーカスです。
ルーカスの逆襲
実は彼だけがハリウッドに飲み込まれないで最後まで生き抜いた男です。コッポラにしてもス
コセッシにしてもハリウッドに最終的にはハリウッドに収まったのですが、ルーカスをハリウッ
ドの監督と呼ぶのは間違いでしょう。ルーカスはハリウッドの撮影所では映画を撮っていません。
基本的にはロケあるいは撮影はイギリス、VFX はサンフランシスコを拠点にしています。しかし
一方でルーカスが『スターウォーズ』を作って古典的なハリウッドを復活させたと言われていま
す。しかし彼自身は実験映画出身です。学生時代にドキュメンタリーを作って来ています。彼の
指導教官ハスケス・ウェクスラーは『ヴァージニアウルフなんかこわくない』の撮影でアカデ
ミー賞を獲っています。しかしその映像はそこまでのハリウッド的なものとは全く異なっている
のです。そして彼の友人である監督アーヴィン・カーシュナーもドキュメンタリー出身で、ルー
カスを指導しています。ご存知のように彼は『帝国の逆襲』の監督です。またウェクスラーは
『アメリカングラフィティ』の撮影を担当しています。今までハリウッドから門前払いをされて
いた資質を持っていた人たちが、ハリウッド映画を立て直したという皮肉な現象があると思いま
す。それが決定的になったは、『帝国の逆襲』でハリウッドの業界ルールに対して宣戦布告をし
て完全勝利を収める象徴的な出来事がありました。監督協会のルールでは監督のクレジッをアバ
ンタイトルの最後に出さないとならないのをルーカスはエンドクレジットの最初にしたのです。
このときに揉めてルーカスは監督協会を脱退した。しかしのちに復帰している。これまでのハリ
ウッドの既存の組合よりひとりの作家の力が強くなったといえるでしょう。彼は特撮技術のマエ
ストロとしてプロデュースして技術をコントロールできる。60年代にハリウッドに入れなかっ
たアウトサイダーたちが新しいハリウッドを乗っ取った。完全勝利をしたといえるでしょう。
『スターウォーズ』は低予算のSF映画としてハリウッドの誰も期待していなかった作品。イギ
リスのスタジオで撮られたから、脇役はイギリスの俳優が多い。これは60年代のスペインで
撮ったランナウェイ方式に似て、あるいはイギリスに自主的に亡命したキューブリックの姿勢に
も似ています。しかし実際にハリウッドに凱旋したのはルーカスとクリント・イーストウッドだ
けだ。
世界で共鳴し始めるアーティストたち
アメリカンニューシネマの成功によって 80 年代に入りアメリカとヨーロッパの作品レベルが
同じになったと言えるでしょう。今は忘れ去られているのですが 70 年代の終わりにコダック社
の上映プリント用フィルムがテクニカラーに比べて色が落ちてしまうという退色の問題が発覚し
てスコセッシを中心に世界中の映画監督や映画関係者を巻き込んで署名運動が起こり大騒ぎに
なったことがあります。最終的にコダック社が新しい退色しにくい新しいフィルムを開発するこ
とによって収まったのですが、このときスコセッシは、マイケルチャップマンと相談して『レイ
ジング・ブル』(80)を白黒で撮影しました。フランソワ・トリュフォーはネストール・アルメ
ンドロスと組んでコダックより退色しにくいと言われたフジフィルムを選んで『終電車』(80)
を撮影してフランスのアカデミー賞と言われるセザール賞を獲得しました。技術とアーティスト
スタイルが一緒に成熟したことで、世界の映画作家が連帯して共鳴し合う時代となったわけです。
ここでもメーカーの思惑の限界を超えてアーティストたちが自分の世界を作る工夫をすることが
起きているといえます。
では最後になりますが 80 年代映画はどこに行くのでしょうか。撮影現場にビデオモニターが
導入してきたという変化があります。 70 年代の絵画のルックからビデオモニター見ながらリア
ルタイムで考えることができるようになります。そのことによって製作のスタイルが変わってい
きます。それまでは撮影監督しか分からなかったファインダーの中の世界を全員が共有できるよ
うになったのです。そしてフィルムの感度があがったことにより、技法を使ってリアルにつくら
なくともそのまま写ってしまうようになるのです。そこに工夫していたアーティストスタイルが
技術によって民主化される現象が起きたと言ってもいいでしょう。スティディカムの多用による
複雑な移動撮影が映像空間を自由自在に広げていきます。同時フィルム感度が上がって少ない照
明でも写ることになります。それは逆に言うと自由度がありすぎてコントロールが非常に難しく
なったともいえます。現在のデジタルの時代になり新たな自由をどのようにして獲得するのかと
いう問題と課題が再び現れてきた。
そして 80 年代の新しいリアルは Part.1 で書いたエンタメ志向のインディーズ映画が世界中で
登場するニューウェーブが起こります。そしてもう一方では日本から始まっていたと思います。
それは多くの日本映画の巨匠と組んだカメラマン宮川一夫の話から始められるでしょうハイビ
ジョン技術一体型ビデオにより映画の新しい可能性を追求する時代が始まったのです。