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創業50周年を迎えて
社長・岡畑精記
昭和20年7月の米軍B29による空襲で和歌山市
はほぼ全焼し、市の経済と市民の生活は壊滅的な
打撃を受けました。そしてその1カ月後に日本は
終戦を迎えました。
社の憲法」という経営理念を着実に実践してこら
れました。
しかし事業の成長は創業者1人で成し得るもの
ではありません。創業者と生活をともにし、日々
創業者岡畑圭吾は、終戦後わずか5カ月の昭和
薫陶を受けた幹部社員が時代の変化を誤ることな
21年1月に和歌山市郊外の野崎の地に家族7人が
く捉え、時代に応じた変革を実践してきたことが
やっと雨露をしのげる小さなすみかをつくるや、
50年の歴史を作り上げてきたのです。
早速に岡畑商店として事業を興しました。まだ硝
現在の日本は、終戦直後の日本のおかれた立場
煙の残る和歌山での事業活動は限られており、当
に一面相通じるところがありましょう。しかし21
時の苦労は、社内報『若葉』に述懐されておられ
世紀を目前にした日本の役割は、かつての一国の
ます。
利益の追求から相互利益への貢献へと変化してい
それから50年、日本は世界に類を見ない経済発
ます。世界の経済は地球単位で進みつつあります。
展を遂げました。当社も日本の経済成長とともに
グローバル経済の中で専門商社は新しい存在価値
歩み、多くの得意先の支援に支えられて、創業50
を見いだして行かねばなりません。
周年を迎えることができました。
振り返ってみますと、この道は決して平らなも
過去の歴史の中に将来はありませんが、瓦礫の
中に光を見いだした創業者の精神を現在に再現し、
のではありませんでした。現在あらゆる産業に関
新たな創業を試み続けることが、次の100周年へと
わりを持つ化学品販売を事業として選んだ創業者
繋ぐ私たちの仕事であろうと思います。
の先見性と、他に心を移すことなく化学専門商社
50周年史の編集を通じて、当社の歴史を改めて
に徹してきた諸先輩の努力が岡畑興産の今日の礎
振り返ることができました。50年の歴史を創って
となっています。
こられた社員の皆さんの努力に深くお礼を申し上
先代は卓抜した経営哲学に基づき「誠実はわが
げます。
1
創業者二人
在りし日の会長夫妻と岡畑圭吾歌集『枇杷の里から』より抜粋の歌7首(下)
慣可
習能
吾性
をに
悩挑
ま戦
すな
さ
む
は
標
語
の
み
古
き
2
は新
ボ入
ロの
に社
て員
通ら
ふ大
型
の
車
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ひ
古
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社
員
は三
つ支
よ店
くめ
吾ぐ
がり
胸て
を聴
打き
つし
社
員
ら
の
願
ひ
く仕
る事
る一
社途
員に
に頑
謝す
せぎ
りる
老
わ
れ
を
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へ
て
一一
つ願
吾寺
がの
社地
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未の
来前
に
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づ
き
て
願
い
は
な三
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し五
に年
風の
花業
のを
舞譲
ふり
て
わ
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肩
の
軽
く
守海
ら図
むな
新き
春大
光洋
命な
芒れ
にど
若
き
ら
の
航
路
見
くの企業はその姿を消している。その中
実務派の先代とは対称的に先代夫人は
和歌山県海草郡仁義村(現・下津町)の
で現在まで企業として存続させてきた先
長期的なビジョンを持って行動する人で
農家の5人兄弟の末子として生まれた。
代には尊敬の念を抱かずにはいられない。
あった。
創業者岡畑圭吾は1905年(明治38年)、
終戦後、疎開先からいち早く和歌山へ
仁義村は和歌山市から南へ十数キロの山
仕事を第一とし、無理、無駄は一切行
深い所で、先代はそこから毎日徒歩で学
わず、
「誠実はわが社の憲法」という社訓
帰るべく画策し機を逃さず実行に移した。
校へ通ったという強い意志の持ち主であ
を自らが実践し、現在でもこの精神は全
先代は社内報「若葉」の『亡き妻の思い
った。
社員に引き継がれている。
出』の中で「この先見性は誉めて良いし、
当時の田舎の農家にとって、中等教育
創業20周年の式典において「母は厳格
疎開先からの引越しが仮に数年も遅れて
を受けさせるということは経済的に容易
な躾をしてくださった。今日の私の生活
いたら、それを取り戻すことはなかなか
ではなかったが、両親、兄弟の理解と協
態度を培ってくださったのは、この母で
容易ではなかっただろう」と記している。
力によって県立和歌山商業を卒業、その
あります」と本人自らが語っているよう
また現在和歌山、大阪等の土地が当社
後中国に渡り中国産品の輸入に携わって
に、幼少からの家庭環境、教育がその人
にとって大きな資産となっているが、そ
いた。思えば先代の海外取引への思いは
となりに大きく影響を与えている。事業
の購入に奔走し、大阪の土地の持ち主が
既にこの頃から芽生えていたのであろう。
精神、実行力、自己管理能力に優れてお
一度は売り渡しを承知しながら、急に断
り、先代はまさに実務の人であった。
ってきた時にねばり強く交渉し、土地購
1年ほどして日本に戻り、兄、岡畑幾
入を成功させたのは同夫人であった。
之助、馬場英次郎とともに合名会社岡畑
一方、先代の妻であり同時に取締役と
染料店の経営に参画、20年間にわたって
して初期の事業経営に深く携わったミサ
その実行力、行動力はまさに男顔負け
両氏の下で商売の仕方を学んだ。しかし
オは、1911年(明治44年)米国カリフォ
であったと言えるが、その半面大変に思
太平洋戦争下における企業整備で同社も
ルニア州に生まれた。5才の時に帰国し
いやり深く、社員に対しての心遣いはは
廃業せざるを得なかった。
たがその後両親が幼い子供達を残し再び
かり知れないものがあった。
戦火により和歌山市は壊滅的な被害を
渡米したため、幼年時代は叔父、叔母の
創業当時の岡畑は全寮制であり、社員
受けたが、先代が終戦後5カ月を経ずし
下で暮らし、人一倍両親の愛情を求め、
は子供と同様であった。戦後の物不足の
て岡畑商店を創業したのは1946年(昭和
他人の間での苦労を味わっていた。
時代に食糧や衣類を調達し、小遣いを与
21年)1月、40才の年であった。
両親は帰国後酒造業を営んでいたが、
え、結婚や出産の面倒など全て、苦もせ
ずに引き受けていた。
戦後の混乱期はあらゆる商売で中小メ
ミサオは女学校に通いながら帳簿付けや
ーカー、問屋、販売業が乱立した時代で
店番などを手伝っていた。6人姉弟の中
1963年頃には会社の仕事には直接タッ
あったが、化学品業界も同様で正に雨後
の女1人であったが、母、久の躾は厳し
チすることはなくなったが、常にその将
の筍のように何百、何千という会社が設
く、朝食の支度や掃除が終わらなくては
来については心をくだいていた。
立された。誰にでもチャンスがあり、そ
登校させなかったという。仕事好きで手
先代と夫人は岡畑にとってはまさしく
の機に乗じて一儲けできた時代であった
早く、几帳面な性格はその頃に身につい
車の両輪であり、どちらが欠けていても
が、その後の熾烈な競争や変化を経て多
たものであろう。
現在の岡畑は存在しなかったであろう。
1951年頃の岡畑一家
1970年の新年式で挨拶する会長
1989年8月、加太にて
3
1946∼51
(昭和21∼26年)
1946年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 1
岡畑圭吾、岡畑商店創業
1951年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 1
株式会社岡畑商店設立、資本金100万円
終戦から創業まで
当社の創業は、疎開先の海草郡仁義村
給が絶えており、人びとは甘味に飢えて
から和歌山市野崎へ移転した時に始まる。
いた。化学工場では甘味料としてのズル
和歌山市の旧居は終戦1カ月前の空襲
チンやサッカリンの製造をしており、ト
で焼失、戦後は米進駐軍の物資の集積場
ロールやブロムエチルなどが引っ張りだ
に接収されて立ち入り禁止となり、やむ
こであった。
を得ず妻の生家近くの芋畑を借りて10坪
1950年(昭和25年)頃の本社
向かって右のバラック小屋が1946年(昭和21年)
に防空壕の資材で作った戦災住宅
余りの戦災住宅を建てて仮住居とした。
時男はカーキ色の国民服、女はモンペ姿
これが現在の野崎165番地の本宅の前身
であった。焼け残った染工場では配給さ
で、移り住んだ1946年(昭和21)年1月
れた白布や戦時色のカーキ色を染め替え
26日を当社の創業記念日とした。
るために、黒色の染料が重宝がられ、ダ
当時は食糧を求めて人びとが必死に生
イレクトブラック百斤(60kg)が綿糸1
きのびていた時代であり、当社も商売の
梱包と交換されたと言われ、闇値では16
対象を食糧になる澱粉から衣料日用品、
万円もすると噂されていた。なかでも戦
肥料類まで取り扱って無我夢中で生き抜
災を免れた毛布の泉大津、タオルの泉佐
いてきた。
野、注染の毛穴などは活気があり重要な
トラック輸送
1946年に旧紙幣が廃止されて新円との
復興の起爆剤・会社の設立
1947年には物価が14倍、1949年には60
なる新円の獲得に奔走した。私はガラス
倍となり、大変なインフレ時代であった
の破れたままの南海電車で大阪や泉州の
が、同年のドッジ勧告でインフレも下火
旧知を訪ねて染料や石鹸、肥料等を現金
となり、シャープ税制による不況で倒産
で仕入れ、運送屋からチャーターしたト
が続出した。
ラックには社員が上乗りして和歌山から
そのような状況下で1950年に勃発した
泉州・大阪を往復して荷物の集荷・配送
朝鮮戦争は、不況にあえぐ日本経済の救
をするのが毎日の仕事であった。
世主となった。朝日加工株式会社が防水
統制品である食糧や繊維、薬品類は厳
加工の大量特需を受け、その原料をうけ
持った当社もその恩恵を受けて儲けさせ
てもらった。
しい取り締まりにもかかわらず闇取引が
当社が商売を始めた頃は商いも少なく、
横行し、現金よりも物々交換が要望され
帳簿に載せるほどのものはなかったが、
るという異常な状態であった。
だんだんと取引が増え、税務対策の面で
戦後一番不足していたのは食糧で、1
も個人企業より会社組織のほうが良いと
日2合の配給では栄養不足となるほかな
いうことで、1951年(昭和26年)1月に
く、副食や代用食品の確保に狂奔してい
株式会社岡畑商店を設立するに至った。
た時代だった。戦中から久しく砂糖の配
(社内報「若葉」
『終戦直後から創業への道』より)
1947年
1948年
2
金融緊急措置令(新円発行・旧円封鎖)
4
独占禁止法公布
1
3
物価統制令公布施行(価格等統制令廃止)
5
日本国憲法施行
3
芦田均内閣(∼1948.10)
5
第1次吉田茂内閣(∼1947.5)
5
片山哲内閣(∼1948.2)
6
昭和電工事件
8
持株会社整理委員成立(財閥解体開始)
7
公正取引委員会発足
GHQ、日本の綿工業に6億円の融資許可
8
GHQ、制限付民間貿易許可
12
4
得意先であった。
交換が始まると、家内は商売の原動力と
食糧・衣料不足
1946年
次いで不足していたものは衣料で、当
10
帝銀事件
第2次・第3次吉田茂内閣 (∼1952.10)
営業マン、機動力は自転車
唯一の三輪オートバイ
孝子峠で松茸狩り
単車第一号はBMW
配達はリヤカー、自転車の運搬車(太いタイヤ
で80キロくらい積めた)で、硫酸(土瓶30キロ
入り)などは馬力車で行った。1950年頃に三輪
オートバイ(水島)が入り川本・岸・西田が運転
免許を取得、オートバイ配達が主体となった。
泉州には各地の得意先に荷物を預けてトラック
で集荷後、営業員や配達専門員が自転車で配達し
た。トラックには都合のつく社員が交代で添乗し
た。当時のトラックは薪・木炭ガスのエンジン車
で、朝の始動準備が大変でよく手伝った。また老
朽タイヤと荷重積載で日に1、2回のパンクは覚
悟の上であった。
物価統制のために大阪∼和歌山26号線に検問所
が設置され積載品のチェックがあり、輸送証明の
ない統制品は没収されるため検問をうまく通過す
るのに添乗員は苦労した。
社内旅行・伊勢
食料品・衣料品の入手が困難な時代であった
が、社長夫人の努力により、食事に困ることなく、
毎朝、弁当をつくってもらい外交にまわった。
春秋には運動会、松茸狩り、ハイキング、バス
旅行等を楽しむ家族的な会社。
業務拡張のため薬品倉庫・染料倉庫を建築
1949年
2
東京証券取引所、大阪証券取引所設立
3
ドッジ公使超均衡財政(ドッジライン)
4
11
唯一の娯楽マージャン
1950年
4
1951年
日本製鉄の4分割で八幡製鉄、富士製
4
東レ、ナイロン技術導入
鉄が発足
5
電力会社発足(電力再編成完了)
強調
4
公職選挙法公布
7
持株会社整理委員会令廃止
1ドル 360円の単一為替レート設定
6
朝鮮戦争勃発による特需景気、統制撤
9
対日平和条約、日米安全保障条約調印
湯川秀樹博士、ノーベル物理学賞受賞
廃相次ぐ
10
電力不足が深刻化
5
1952∼56
(昭和27∼31年)
1952年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 1
大阪連絡所開設(東区平野町2丁目)
10 本社事務所改築
1954年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 3
京都連絡所を左京区に開設
1952年に改築された和歌山社屋・2階に独身寮
独身寮
休日は毎月1日と15日の2回で、午前中は畑仕
事。午後は外出したが、映画かビンゴゲームくら
いしか娯楽はなかった。
全寮制で門限は17時、躾も厳しく礼儀・作法に
ついては得意先でも定評があった。
事務所。正面右手奥に試験室。
当初得意先からの依頼色合わせは担当社員が行
っていたが、宮本が入社し試験室を開設。半年ほ
どで浜が引継ぎ、その後浅見の入社によって依頼
試験に積極的に対応できるようになった。当初は
仕入れした染料の濃度測定が最も重要な仕事であ
った。
1952年
1953年
1
李承晩ライン宣言
2
NHK、テレビ本放送開始
5
財閥商業使用禁止等の政令廃止
4
日米通商航海条約調印
6
会社更生法公布
5
第5次吉田茂内閣(∼1954.12)
8
日本、IMF・世銀に加盟
9
独禁法改正公布施行(合理化、不況カ
10
6
第4次吉田茂内閣(∼1953.5)
ルテル容認)
大阪に事務所を開設し、そして事業の中心に
岡畑商店設立当時からいち早く事業を
の隣で住友財閥発祥の地と縁が深く、大
開拓した泉州地域への商品の出荷・配送
きさも格好であった。何時の時代も良い
は、トラックを借り切って行っていた。
土地は高い。この土地も当時としては非
当時大阪では商品の集荷場として、三栄
常に高価で何人もの買い手がつき値段が
薬品貿易の店先を使わせてもらっていた
つり上がり、それこそ清水の舞台から飛
が、いつまでもそのようなわけにもいか
び降りる覚悟で購入に踏み切った。さま
ず、また商売の進展とともに、和歌山や
ざまな要因が重なり交渉は難航したが、
泉州だけでは時代の波に取り残されてし
会長夫人が奔走して手に入れることがで
まうということで、大阪に事務所を設立
きたという。1959年のことであった。
することとなった。
その後、業績も順調に推移し、1964年
1952年(昭和27年)1月、平野町2丁
創業20周年を機会に同地に大阪営業所新
目にバラックを借りて連絡事務所を開設
社屋の建設を決定し、10月10日東京オリ
した。事務所は2坪ほどのコンクリート
ンピック開会式の日、快晴の下で竣工式
も打っていない土間に机が1つ、ノート
を挙行した。
1冊、古封筒が大事なメモ用紙で、それ
創業以来、本社所在地は和歌山市にあ
に指示命令事項を書いてトラック屋に渡
る。大阪を中心とした仕事が増えるに伴
すというような状態だった。
い、営業は勿論、本社機能も大阪が中心
その後平野町1丁目の倉庫精錬の事務
となり、1966年に大阪事務所に管理部を
所を購入して移転、だんだんと社員も増
移した。1979年、和歌山に残してあった
えていき、1957年1月に大阪連絡所を大
財務経理部門を大阪に移し、銀行取引も
阪営業所に改称した。この頃本社でも部
大阪を主体にして以来、大阪が実質的な
課長制が導入され、企業としての形態を
本社となった。また業務の本格的な電算
整えていった。
化に踏み切ったのもこの時期で、会長の
しかし大阪事務所には荷物の置場がな
く、荷物の積卸しにも周囲に気を遣いな
進取の気性がうかがわれる。
大阪事務所には大きな前庭がある。
がらの作業で、雨が降ってくるとテント
元々は前庭の部分にさらに大きな事務所
をかぶせるやらカーテンを引くやらと大
を建てる計画であった。40周年記念にビ
変な騒ぎになる。そこで南久太郎町に100
ルの新設を検討したが、テナントの確保
坪ほどの土地を購入し、移転した。2年
が難しいことから新設をあきらめ、1990
足らずの短い間ではあったが、1階を事
∼92年にかけて事務所の大幅改装を行っ
務所、2階を寮として使用し、その間に
た。改装にあたっては、貿易問屋にふさ
現在の本社の所在地である島之内に土地
わしい、社員に快適な事務環境を創るこ
を購入した。
と、周囲の環境を考慮した、美しい建物
当時、化学品の問屋は船場に事務所を
であることを基本のコンセプトとした。
構えており、長堀地区は商業の中心地か
新進のインテリアプランナーの協力を得
らやや離れていた。目を付けた土地は島
て、古い事務所は斬新な外観の新しい建
久太郎町当時の大阪営業所
之内にあって、歴史に名高い住友銅吹所
物に生まれ変わった。
1954年
1955年
1956年
3
ビキニ水爆実験で第5福竜丸被災
3
第2次・第3次鳩山一郎内閣(∼1956.12)
5
水俣病患者公式確認
7
旧三菱系4商社合併、三菱商事新発足
7
初のトランジスターラジオ販売
5
原子力3法公布
10
臨時肥料需給安定法等公布(肥料2法)
9
日本、ガットに加盟
8
経済白書「もはや戦後ではない」と規定
12
第1次鳩山一郎内閣(∼1955.3)
12
原子力基本法、原子力委員会設置法公布、
12
石橋湛山内閣(∼1957.2)
この年、スモン発生
12
日本、国連加盟
後半から神武景気
7
1957∼61
(昭和32∼36年)
1957年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 3
大阪連絡所を大阪営業所に改称
1960年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 1
3
独身寮(あづま寮)竣工
オランダボンド化学社と染料の総代理
店契約を締結
1959年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 10
日蘭貿易株式会社設立
12
北陸出張所開設(金沢市観音町)
名古屋営業所
松下電工初荷風景
早くから貿易事業に取り組む
1960年(昭和35年)春、先代は塗料新
聞の視察団に加わり、初めて欧州へ視察
の旅に出た。その旅行の間に既に代理店
関係のあったオランダのボンド化学社や
イタリアのアクナ社、ドイツではバイエ
ル、ヘキスト社を訪問し、外国企業の規
模の大きさに感銘を受けた。
海外取引に興味を抱いた会長は同年10
月に福徳産業の秋山社長、巴物産の安藤
社長と3人で日蘭貿易株式会社を設立、
化学品の輸出入を本格的に手がけること
米国工場視察
となった。当初はイタリア、アクナ社の
の地域でも本格的な営業活動を行うまで
染料を輸入、その後オランダ、ボンド化
には至らなかった。
学社の含金染料、さらには西独、グルナ
その後日蘭貿易は当社の100パーセント
ウ社の合成糊剤を輸入販売、同時に繊維
子会社となり、細々とではあるが貿易を
染色バインダー等を台湾、韓国他、東南
行っていた。1978年に当社の事業の柱の
アジア諸国に輸出した。
一つとして、貿易業務に本格的に取り組
1963年(昭和38年)に東南アジアを視
むことになり、東京支店に貿易部を設立、
察、台湾、香港、バンコック、ボンベイ、
日蘭貿易が行っていた業務を引き継ぎ、
マニラ各地の染色工場を回り、染料、薬
最終的には日蘭貿易は休眠会社となった。
品の需要を痛感して帰国する。
しかし、先代が1960年代からアジアへ
1964年(昭和39年)にはマニラに駐在
の事業展開を目指していたことは慧眼で
員を送るなど貿易事業に高い関心を示し
あり、今日の当社の海外取引の礎となっ
ていたが、残念ながら人を得ず、いずれ
たと言えよう。
1957年
1958年
2
第1次岸信介内閣(∼1958.6)
3
9
国産ロケット1号機カッパーC型の発
4
東レ、テトロン生産開始
射に成功
5
アラビア石油設立
6
第2次岸信介内閣(∼1960.7)
12
日ソ通商条約調印
11
8
日中民間貿易協定調印
東京・神戸間、特急こだま運転開始
1961年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 松下電工株式会社大阪化材営業所と代
理店契約締結
繊維染料の時代
戦後の繊維は衣料の回収ボロ屑の再生
だけに染工場の再開が他地区より早かっ
から始まった。ボロ屑を薄色と濃色に色
た。当社の得意先は糸染工場で、毛布生
分けして、濃色は黒や茶色に染め、薄色
地用の糸を薄茶色に染めるための染料を
はさらにハイドロ・ロンガリット等で脱
いち早く供給できた地域であった。
色し鮮明な色に染めた後、反毛して手編
・和歌山地区
み毛糸や毛布等の混紡糸として使用され
和歌山は元来綿ネルの主産地であった
た。どんな繊維でも糸にすればすぐ売れ
が、ほとんどの工場は戦災を受けており、
たため、染色の心得のある者は釜一つで
和歌山染工以外は戦後再建されたり、新
家内工業として始められる時代であった。
設されたものであった。
当社に関係の深い戦後の繊維産業の状
和晒業界(ゆかた注染)
戦後の衣料不足で寝間着用に過ぎなか
況を見ると以下の通りである。
った綿ネルが衣料にも用いられ、1945年
・泉南地区
から55年にかけて和歌山は捺染王国とい
泉州地方は戦災を受けておらず取り扱
われた。当時日本の綿プリントの90パー
っているものも生活必需品が多かったの
セントは和歌山で染められているといわ
で、戦災を受けていた和歌山よりひと足
れ、プリントマシーン1台あたり、1日
早く操業を開始していた。また会長が岡
4万メートルもの量が捺染されていた。
畑染料店時代にいち早く泉州地域の得意
染料はナフトール、アニリンソルト、パ
先を開拓しており、馴染みも多く仕事の
ラミン等が大量に使用され、後にはラビ
着手には好都合であった。
ットゲンピグメントの全盛時代を迎えた。
樽井・尾崎地区は昔から足袋の底地に
その頃は染料は全くの売り手市場であ
用いる“紋羽(もんぱ)
”の生産地であっ
り、染工場もよく儲かった時代であった
た。当時の紋羽工場は生活必需品である
から、原料が入手できさえすれば、問題
脱脂綿の製造も行っており、これらの工
なく商売ができた。ナフトール染料等の
場に晒粉、硫酸、苛性ソーダ等を供給し
取引では、需要家が一席設けてメーカー
ていた。
を招待したほどであった。しかし由良精
泉佐野地区は主にタオルの生産地であ
工が三井物産の系列に入ったのをきっか
り、糸染工場が多くタオル用の糸の晒と
けにして、戦後雨後の筍のように続出し
染色が行われている。戦後すぐに配給さ
た中小企業のメーカーが整理統合され、
れたタオルは、生地そのままであったが、
染料メーカーの戦後は終わった。
だんだんと世の中が落ち着いてくるにつ
れて晒や色糸の要望が多くなってきた。
ナフトールを主とした染料の販売競争
の時代になって各メーカーが染料部長を
晒も糸晒から反晒になり、漂白剤は晒
第一線に送り拡販に狂奔した結果、染料
粉から晒液になり、次いで次亜塩素酸ソ
の値下がりの泥沼時代に入った。数度の
ーダ、過酸化水素漂白と変化してきた。
協定を繰り返して、1960年(昭和35年)
・泉北地区
には合理化カルテルが認可され、その後
泉大津地区も戦災を受けず、綿・スフ
ゆかた地の天日乾燥
毛布、紡毛毛布など生活に密着した商品
1959年
1960年
7次に及ぶカルテルが1971年まで続いた。
(社内報「若葉」
『終戦直後から創業への道』より)
1961年
1
メートル法施行
1
政府、貿易為替自由化の基本方針決定
4
皇太子結婚式
1
日米新安保条約・地位協定調印
自由化決定(貿易の自由化開始)
4
7
ソニー、トランジスタテレビ発売(世界初)
第1次・第2次池田勇人内閣(∼1963.12)
11
この年後半から岩戸景気
閣議、所得倍増計画を決定
11
11
12
10
日銀貸出残高、日銀券発行高を初めて
上回る
通産省、徳山・水島の石油化学センタ
ー設立認可
第1回日米貿易経済合同委員会開催
9
1962∼66
(昭和37∼41年)
1962年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1963年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
2
名古屋出張所開設(名古屋市中区大須)
3
2
資本金400万円に増資
4
6
東京出張所開設(新宿区矢来町)
7
北陸出張所移転(金沢市東山1丁目)
6
社内報“若葉”創刊
大阪営業所移転(東区南久太郎町)
7
白鷹神社祭祀
12
西独グルナウ社と油剤および糊剤代理
店契約を締結
12
ロゴマークとロゴタイプ
ロゴマークは社名変更に伴い社員から募集した
もの。谷本新吉が創業者である会長の名前の「圭」
の字をデザイン、現在も封筒、名刺等に広く使わ
れている。
東南アジアと輸出貿易開始
社名を岡畑興産株式会社に改称
ロゴタイプは従来から縁のあった高名な書家の伊
藤東海先生の作によるもの。
社名改称記念式典後の記念撮影
創立20周年式典で挨拶をする岡畑圭吾
東京オリンピック開催の年に新社屋が竣工
1962年
1963年
2
東京都、世界初の1000万人都市に
4
通産省、綿紡の操短率36.3%に引上げ
告示
11
ケネディ米大統領暗殺、初の日米間テ
11
大蔵省、貿易外取引管理令公布(貿易、
レビ宇宙中継で受信
各産業に不況拡大
11
10
日中貿易覚書調印(LT貿易始まる)
為替の自由化進む)
12
第3次池田勇人内閣(∼1964.11)
1964年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1965年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1966年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1
貿易課新設
3
開発部設置
1
創業20周年記念式典挙行
2
資本金600万円に増資
5
営業部設置
4
資本金2,400万円に増資
5
資本金1,200万円に増資
11
資本金1,800万円に増資
12
和歌山営業所開設(本社所在地に併設)
7
東京出張所移転(千代田区神田須田町)
12
化成品部を新設
12
機構改革により管理部新設
10
大阪営業所新築(南区大宝寺町東之丁)
10
技術部を大阪営業所内に移転
販売戦略は地域に根をおろす
創業時から1960年代までの当社の事業
の中心は繊維染色資材の販売であった。
和歌山は世界でも屈指の綿布、染色加
工産地であったが、和歌山市場は既に先
力する一方で活路を他の繊維産業地域に
1962年に名古屋出張所、東京出張所を開
求め、繊維産業の主要な地域である泉州
設、将来は新幹線の停車駅全てに営業所
大阪、北陸地域、また名古屋、東京へと
を展開するというのが先代の口癖であっ
徐々に事業を拡大していった。
た。いずれの地域でも土地を購入し事務
発の販売会社が主要な市場を占有してお
地域に根をおろすには、その地に事務
り、後発の当社が入り込む余地は限られ
所を設けることが必要であるという先代
屋の拡大政策の流れを汲んだものであり、
ていた。また仕入先の確保にも大きな苦
の方針に従って1960年(昭和35年)
、金沢
当時購入した不動産は現在ではいずれも
労があった。そこで和歌山での販売に注
市に北陸出張所を開設した。その後、
貴重な資産となっている。
北陸支店(1970年当時の北陸出張所)
名古屋支店(1962年当時の名古屋出張所)
東京支店(千代田建機ビル)
所を建てるという方針は、当時の染料問
当社は1954年(昭和29年)頃から北陸への進出
1960年北陸出張所を開設後、1962年(昭和36
当社の主要な仕入れ先の本社は東京にあり、幹
を計画、当時北陸線は単線で急行も少なく、夜行
年)12月に名古屋出張所を計画、翌年2月には開
部との交流と相互取引の推進のために社長が月に
列車に乗り富山、石川、福井、新潟等、北陸一円
設というあわただしさであった。
一度訪問していたが、本格的に東京での事業を広
を半月ほどかけて出張しては、大阪に戻るという
繰り返しであった。
当時、名古屋は排他的な土地柄であると言われ
た。特に染色関係への販売が難しく、もっぱら当
げるべく、1962年(昭和37年)6月、新宿区矢来
町に東京出張所を開設した。
北陸地域はその頃、化繊から合繊に移行中であ
社の二次店として染料、助剤の販売をしていた三
その後1964年に千代田区神田須田町、1969年に
り、昼は会社訪問、夜は家庭訪問と昼夜を分かた
福商店経由で染色関係の販売を行っていた。並行
中央区茅場町に移転した。開設当初は大日精化と
ず仕事に専念、その努力の結果、次々と取引がで
して当社の仕入れ関係のメーカーである東亜樹
の取引が売上の殆どを占めていたが、花王石鹸、
き、1960年(昭和35年)12月に北陸出張所開設の
脂、二村化学、松下電工等も紹介してもらい、
日本化薬、住友化学等と取引が始まり、1973年に
運びとなった。
徐々に取引が始まった。
は東京出張所を営業所に昇格させた。
出張所は、観音町の4坪程度の仮店舗に机2つ
しかし、当初予定した染料の販売は難しく、新
業容の伸張とともに1976年に東京営業所を東京
に応接椅子が2脚、社員は所長を含めて3名の小
部門の樹脂成型業界の開発を行い、ポリエチレン、
支店に昇格、1977年には事務所を八丁堀に移転し
さな所帯で発足したが、1962年には本町に1軒屋
等樹脂原料販売のほか、松下電工と熱硬化性樹脂
た。1978年、東京支店に貿易部を開設し、海外取
を買い取り移転、人員も2名増員して本格的に活
の東海地区共同開発を行うこととなった。
引の窓口とした。経済の東京一極集中が進み、花
動を開始した。
1973年、高畠に事務所を新築し移転、同時に北
その後、1972年に名古屋出張所を営業所に、
1977年には北陸、東京営業所とともに支店に昇格、
王の仕入窓口が東京に一本化されたことに対応す
るなど、東京支店の重要性がさらに増した。
陸出張所から北陸営業所に改称した。また1977年
名実ともに岡畑興産の中京地区の拠点となった。
またスポーツシューズ材料分野で海外ユーザー
には北陸営業を北陸支店に昇格、1992年には金沢
大阪に次いで歴史のある名古屋支店は、1996年
との新規取引が東京支店を核として進展、業容は
9月、地域専門家として、よりきめの細かいサー
ますます拡大し、1984年に中央区京橋、そして
ビスを提供するために分離独立し、オカハタ東海
1993年に現在の中央区新川に移転した。今日の当
株式会社として新たな一歩を踏み出した。
社の発展を見ると東京出張所を開設した意味は大
支店に名称を変更して活動を行ってきた。
1995年には、より地域に密着した営業活動を実
践するため金沢支店を分離独立させ、オカハタ株
式会社を設立し、現在に至っている。
きく、東京支店なくして当社の飛躍はなかったと
言えよう。
1964年
8
米空軍、北ベトナム爆撃
9
名神高速道路開通
10
東海道新幹線開業
10
東京オリンピック開催
11
第1次佐藤栄作内閣(∼1967.2)
1965年
3
1966年
山陽特殊製鋼、負債 480億円過去最大
3
の倒産
3
大型航空機事故多発(2∼3月)
4
ベ平連初のデモ行進
4
中国解放軍「文化大革命」の呼称使用
6
日韓基本条約等に調印
11
閣議、戦後初の赤字国債発行を決定
10
日本の人口1億人突破
東京・大阪両証券取引所で戦後初、国債
を上場
11
1967∼71
(昭和42∼46年)
1968年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
12
12
1971年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
西脇連絡所開設(兵庫県西脇市)
1969年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 6
1
大阪建材課を新設
開発部を新設
大阪営業所泉大津連絡所開設(泉大津
春日町)
7
東京出張所移転(中央区日本橋茅場町)
繊維から樹脂へ
創業時から10年余り、当社の事業の中
染料の販売には自ずと限度があり、企業
心は和歌山にあった。当時和歌山営業所
の成長には他の分野への進出が必要であ
には4つの課があり、それぞれ和歌山繊
った。住友化学には当初染料の直接取引
維、泉州、和歌山皮革、大阪を担当して
を申し入れたが難しく、同社の新規事業
いた。
であった化成品中間物の直接取引を認め
繊維は戦後の日本の花形産業で、和歌
山は日本を代表する綿布の染色加工産地
であり、大きな染料の需要地であった。
られ、和歌山地区をはじめとして同社と
の深い取引きが始まった。
1959年、安宅産業が米国US I社のポリ
和歌山の大手企業や大阪地区は大手の
エチレンの販売を日本で開始し、当社も
一次店が市場を押さえていたため、当社
安宅産業の二次店として合成樹脂の取扱
は泉州のタオル産地に目をつけ、社長自
いを始めた。その頃になると主力であっ
ら営業に奔走し一時は業界を席巻した。
た繊維染料販売は、業界の低迷とともに
現在でも当社は同地域で最大の販売シェ
成長が鈍り、当社の収益も年々低下して
アを持っている。
いった。
当時の販売ルートはさまざまで、主力
1963年、大阪営業課を化成品課と改称
の染料は一次問屋からの仕入が多く、製
し、住友化学の中間物と合成樹脂を担当
造メーカーとの直接取引を常に目指して
した。その後業績の向上とともに化成品
いた社長の方針で、直接仕入メーカーの
部、樹脂部として独立し、当社の新しい
開拓に注力した。
柱として成長した。
花王石鹸(現・花王)
、松本油脂製薬等
1965年には開発部を設置し、新規事業
との直接取引もこの時代に始まった。し
としてウレタンや合成木材等の開発・販
かし主力の染料の販売ルートは非常に強
売を担当した。これらの新規分野の開発
固で、日本化薬との直接取引が認められ
は当社の発展に大きく寄与したが、同時
た時の社員の喜びは大変なものであった。
に新しい仕事でもあり、リスクを抱える
販売ルートに多くの障害があった繊維
ことも多かった。
当時をしのばせる花王株式会社和歌山工場及び自動倉庫
1967年
12
1968年
2
第2次佐藤栄作内閣(∼1970.1)
4
小笠原返還協定に調印
4
美濃部亮吉、東京初の革新都知事に
8
ソ連等5カ国がチェコに侵入、全土制圧
6
閣議、資本取引自由化の基本方針決定
8
公害対策基本法公布施行
この年イザナギ景気、3C(カー、ク
8
ASEAN発足
ーラー、カラーテレビ)時代始まる
12
3億円強盗事件
拡大期の投資とリスク
1965年頃になると、当社の事業の中心
ル株式会社として1973年に分離独立した。
1976年3月に樹脂部門の大手得意先の山
は大阪に移っていった。当時日本経済は
同社はその後、オイルショックの時代に
本具産業株式会社の経営悪化が表面化し
高度成長に沸いた時代で、自動車、電気、
業容を回復して優良企業となった。
た。当社は同社に10億円近い債権を持っ
重化学工業等はいずれも世界規模で大型
また経営問題を抱えていた泉州グラビ
ており、これは当社の1カ月の売上に相
設備投資を行い、輸出を中心にして大き
ア株式会社には、藤原常務(当時)が派
当する金額であった。同社が破綻をすれ
な成長を遂げた。また石油化学コンビナ
遣された。泉州グラビアは藤原社長の経
ば、当社も連鎖倒産に追い込まれかねな
ートが続々と完成し、化学工業もこの時
営哲学と献身的な経営努力、そして特殊
いほどの危機であった。
代に未曾有の成長を遂げた。
な紙印刷技術が評価されて経営を回復し、
しかし1971年、ニクソンショックと呼
ばれるドルの金本位制からの離脱が行わ
同社へ追加投資を行うか、援助の打ち
現在では業界を代表する優良企業となっ
切りをするか、先代は極めて難しい決断
ている。
をしなければならなかった。夫人の「最
悪の場合は終戦直後に立ち返ってゼロか
れ、長年続いた1ドル360円から変動相場
また繊維部門では1976年、和歌山の得
に移行した。また1973年にはオイルショ
意先である吉田染工と梶井綿業と当社の
らやり直しましょう」との励ましもあり、
ックが勃発し、安価で潤沢な石油供給の
三社で貴志川工業株式会社を設立し、高
先代は援助の打ち切りを決意して、花王
時代が終わりを告げた。海外への輸出を
級綿ニットの染色事業を興した。
株式会社の丸太社長(当時)に事実をあ
りのままに打ち明けて相談をした。
中心にした日本の産業は、大きな方向転
高級綿ニットは当時は市場ではまだ十
換を余儀なくされた。変動の時代を迎え
分な評価を受けておらず、技術的にも非
同氏は先代の判断に賛同され、当社を
た日本経済は、高度成長のひずみが吹き
常に高度な繊維加工であったため、創業
支援することを約して、その場で紀陽銀
出し、多くの企業が倒産した。
当初は操業率も低く不上がり品が多発し
行の山東頭取(当時)に電話をされ、紀
て、多難なスタートであった。
陽銀行に協力の依頼をしてくださった。
当社にもその影響は及び、興人、永大、
ボスロン、共和等の大手企業のみならず
しかし吉田社長の経営哲学は、一貫し
その結果、山本具産業は倒産し、当社
中小企業にも倒産が多発し、当社も多額
て高級品製造技術を追求し、スニーカー
は多くの不良債権を抱えたが、紀陽銀行
の不良債権を被った。
で働ける夢の繊維加工工場づくりを目指
と花王の両社からの全面的な支援のおか
樹脂製品の販売先であった大化プラス
した。同社は現在、高級綿ニット加工の
げで、主要な仕入先からも変わらぬ支援
チック株式会社の経営が悪化し、当社の
最優秀企業として業界を代表する会社に
を得て、創業以来の最大の危機を乗り切
樹脂製品販売部門と合体し、岡畑ケミカ
なっている。
ることができた。
和歌山の中間物製造工場群
泉州グラビア株式会社
貴志川工業株式会社
1969年
1970年
1971年
5
東名高速道路開通
1
第3次佐藤栄作内閣(∼1972.7)
6
3
赤軍派、よど号ハイジャック事件
7
7
日本の国民総生産、西独を抜き、西側で2位
厚生省、DDT、BHC等の新規許可を一時停止
米国アポロ11号飛行士、初の月面着陸成功
3
アジア初、万博が大阪千里丘陵で開幕
9
厚生省、キノホルム販売中止を通達
10
厚生省人工甘味料チクロの使用禁止決定
この年公害論、環境論、都市問題盛ん
8
ニクソンドル防衛策発表、ダウ平均株
8
政府、変動為替相場制に移行を決定
価史上最大の暴落(ドル・ショック)
12
10カ国蔵相会議、多国間通貨調整決着
(1$=¥308、金1オンス38$)
13
1972∼76
(昭和47∼51年)
1972年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 1
11
7
名古屋出張所を名古屋営業所に昇格
名古屋営業所移転(名古屋市中区松原)
1973年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 1
東京出張所を東京営業所に昇格
1
岡畑ケミカル株式会社設立
北陸出張所を北陸営業所に昇格、移転
(金沢市高畠2丁目)
1974年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 1
大阪営業所を大阪支店に昇格
泉大津連絡所を泉州営業所に昇格
4
資本金2,880万円に増資
貴志川工業株式会社の設立に参画
新年式
和歌山営業所新倉庫完成
社員旅行(伊勢神宮)
1972年
14
1973年
3
通産省PCBの生産・使用禁止を通達
1
ベトナム和平協定調印
5
沖縄の施政権返還、沖縄県復活
2
国際通貨危機再燃、為替市場閉鎖
6
田中角栄通産相「日本列島改造論」刊
10
第4次中東戦争勃発、オイル・ショック
7
第1次・2次田中角栄内閣 (∼1974.12)
12
日銀調査卸売物価指数、前月比7.1%上昇
9
日中国交正常化
1975年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 4
資本金3,456万円に増資
7
和歌山営業所新倉庫完成
9
東京営業所を東京支店に昇格
大沢商会にコードレ製品の採用決まる
1976年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 1
泉州営業所新社屋が落成
5
会長夫人岡畑ミサオ逝去
産業と興産は良きライバル関係
岡畑産業と、岡畑興産はいずれも和歌
社も二次店ながら安定した取引を行って
山市に本社を持つ化学品の販売会社であ
いた。しかし紀和化学、東洋インキなど
る。得意先で興産と産業との関係を聞か
でも水性のピグメントレンジカラーを製
れることも多い。
造販売することになり、岡畑産業がその
創業の時代から「興産」
「産業」と呼び
北陸営業所落成
名は違うものの、同じ「岡畑」の社名を
顔料大手メーカーの大日精化に企業化を
持ち、同じ産業分野で販売を行ってきた
もちかけた。同社の分散技術を応用し、
両社は良きライバル関係にあった。
1953年(昭和28年)に水性のピグメント
先代は1966年(昭和41年)の岡畑興産
泉州営業所落成
1974年
1
閣議、石油・電力の第2次使用節減対
カラー“ニュー・ラクチミン・カラー”
20周年祝賀式において「
(前略)卒業後1
を上市し、当社が一手販売することにな
カ年、中国に渡り、帰ってから兄、岡畑
り再び熾烈な販売競争となった。
幾之助(当時岡畑産業社長)のもとで20
その他の商品に関してもライバル関係
年間、商売のやり方、勤労の尊さを身を
は変わることなく、染料助剤では岡畑産
もって薫陶を受けたのであります。
(中略)
業は第一工業、三洋化成、当社は花王、
今日岡畑産業とは、相協力し合って同じ
共栄社、松本油脂。酢酸等は産業は窒素、
商売を仲良くやっているわけで、今日あ
当社は日本合成、過酸化水素は産業が三
るは父母のおかげであり、兄達のおかげ
菱瓦斯化学、当社は東海電化。カルキは
であると、心から感謝いたしている次第
産業が三菱江戸川、当社が東亜合成、ソ
であります(後略)
」と述べているが、正
ーダ関係はともに東洋曹達と相乗りの形
に互いに切磋琢磨して事業を進めてきた
となっているが、さまざまな商品開発・
50年であったといえよう。
販売でしのぎを削っていた。
そのことは両社にとっては熾烈な競争
最も熾烈な競争は石鹸である。岡畑産
であったが、地域産業の発展にとっては
業と第一工業製薬が協同で販売していた
大いに価値あることであった。
玄武マルセル石鹸は、当時日本中を席巻
当社のメーカーとの結びつきとともに
していた。そこに興産が花王と組み花王
両社の取引状況を追ってみる。染料販売
マルセル石鹸を販売し、販売合戦を演じ
では当時岡畑産業は三菱化成の染料を販
た結果、泉南、泉北地区で当社が売上を
売、当社も直接仕入メーカーを確保すべ
伸ばしたという逸話がある。
く努力をした結果、日本化薬の野間常務
しかし、両社とも経営者が2代目、3
(当時)のはからいで同社の代理店となる
代目に引き継がれ、社会も新しい時代を
など、互いに和歌山の染料市場のシェア
迎えると、同じ化学業界の中でも活動地
争いに明け暮れていた。
域や専門分野が徐々に変化してきた。現
顔料が捺染に使用されるようになった
在では両社はライバル関係を越えて協同
のは、西独のアクラミン(水性ピグメン
の時代となり、互いに地域物流を合理化
トレンジカラー)が最初であった。アク
し、市場情報の交換を頻繁に行うなど、
ラミンの販売には競合会社が少なく、当
共存共栄を目指している。
1975年
1976年
3
策決定
74年の実質成長率が1.8 % 減、戦後初
2
米上院委員会でロッキード事件表面化
めて
5
資本自由化完了
7
ロッキード事件で田中前首相逮捕
1
小野田元少尉ルバング島で発見される
8
六価クロム公害汚染発覚
5
大気汚染防止法成立
8
日本一長い車用、恵那山トンネル開通
12
代理店として拡販した。当社も対抗上、
12
福田赳夫内閣(∼1978.12)
三木武夫内閣(∼1976.12)
15
1977∼81
(昭和52∼56年)
1977年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 1
10
和歌山、名古屋、北陸各営業所を支店
に、西脇連絡所を出張所に昇格
2
高野口出張所開設
3
福井出張所開設
4
東京支店移転(中央区八丁堀2丁目)
ニューヨークに駐在事務所開設
帝人コードレの本格的な販売開始
1978年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 4
大阪支店樹脂課と建材課を統合し、樹
脂建材課を設置
7
貿易部新設
和歌山支店を改装移転
佐野顧問の思い出
1981年3月、岡畑圭吾より現社長岡畑
(2)多少のお金をもらって口を封じられ
精記へと経営が引き継がれた。先代は自
るのは困るので無給にすること(3)良
ら後継者に経営学を授ける、という人で
いと思ったことは必ず実行すること、で
はなかったために、現社長は社外に経営
顧問としての人材を求めた。
多数の人びとに助けられたと現社長は
あった。最初は易しいと思っていたが、
(3)が一番難しいことだと身にしみて分
かったと社長は後に述べている。
述懐するが、中でも公私ともに多くの助
「同氏からは販売戦略、中期計画、収
言を得た佐野恒一氏は、忘れることので
益目標、給与レベル、新規商品開発、社
きない人物である。
員教育等経営の原理・原則の他、秘書の
佐野氏は大学を卒業後、花王石鹸株式
使い方、ホテルの泊まり方、接待の仕方、
会社(現・花王)に入社し、研究所長、
店や車の選び方など、まさに人生そのも
化学品の支配人、経営担当取締役、シス
のを学ばせてもらった」と岡畑精記は述
テム担当取締役、専務、監査役等を歴任
べている。
された。薬学博士でもあり、丸田元社長
また同氏はコンピュータにも一家言を
らとともに、花王の化学品の今日の礎を
持っておられ、15年ほど前に将来パソコ
作り上げた優れた経営者であった。同氏
ンの時代が到来することや、当社の管理
は1981年に花王石鹸の監査役を退任、そ
部門の規模や理想の姿について意見を述
れを機に社長の懇請をうけて顧問を引き
べられたことが今、現実となっており、
受けて戴いた。
氏の原理・原則の上にたった先見性には
顧問就任を承諾するにあたって同氏は
3つの条件を提示された。
(1)年齢のこ
改めて敬服させられる。残念ながら同氏
は1993年7月に逝去された。
ともあるため契約は1年単位とすること
在りし日の佐野顧問(右から3人目)
1977年
1978年
1
ロッキード初公判
5
新東京国際空港開港
4
不況カルテルの認可相次ぐ
8
日中平和友好条約調印
7
領海12カイリ・漁業専管水域 200カイ
10
リ実施
11
16
中国、文革終結宣言
東京外国為替市場で1$=175円50銭の
最高値
1
第1次大平正芳内閣(∼1979.10)
1979年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 1
9
1980年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
泉州営業所を泉州支店に昇格
10
総務部と管理部を統合し、総務部を新
1981年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
設、大阪に移転、総務課・経理課・管
2
理課を設置
10
大阪社屋を改装、本社機構を大阪社屋
染料部に技術センターを新設
営業管理部を新設、営業情報・販促業
務を担当
3
に移転
岡畑圭吾が代表取締役会長、岡畑精記
が代表取締役社長に就任
経験は最大の教育者
社員の教育は、常に企業の最大の課題
である。創業時代は全社員が同じ寮で寝
語学を学ぶ決意をした社員も多い。この
食をともにした家族のような生活の中で、
制度は1995年まで続けられ、延べ24人の
社長の厳しい教育が連日行われ、毎日が
社員が海外旅行を体験した。
教育の場であった。
新年式(81年)
れたが、当社の理念に沿った社員を育て
いに顔を合わせることが少なくなってく
るには幹部社員によるO J Tに加えて、専
ると、部門同士の交流も少なくなり、社
門家の助力を得た手作りの教育カリキュ
内でも同じ言葉が違った意味を持つよう
ラムが必要であると感じるようになった。
安宅産業の先輩の岩谷氏からはO J Tの
問屋の仕事は得意先の間で良いコミュ
重要性を学び、同氏の紹介で住友金属鉱
ニケーションをすることだが、サービス
山の経営幹部であった吉田耕生氏を当社
の意味も部門によっては全く異なった意
の教育担当顧問として迎えた。同氏の紹
味を持つことがあり、
「共通の言語、共通
介によって、教育コンサルタントの中島
の理念」づくりが1975年頃の教育の課題
哲夫氏が当社の教育プログラムを担当し、
となった。
当社の社員教育は新しい時代を迎えるこ
「共通の言語、共通の理念」づくりは、
営業研修
社外での専門機関研修は継続的に行わ
事業の拡大につれて事務所が増え、互
になってきた。
夏季総会(81年)
の必要性を実感し、異文化に触発され、
とになった。
基本的なマナー研修から毎年行われる幹
当社は中島教育顧問の下で定期的に幹
部、中堅管理職研修までのさまざまな教
部社員及び全社員の教育研修を始めた。
育機会をつくって実践された。
同顧問の指導で合理的で明快な目標管理
また国際化が進むとともに海外の企業
制度、新しい評価制度、さらに年俸制度
との取引が徐々に増え、英語や中国語な
への移行を含んだ新給与制度等が検討さ
どの語学の修得も不可欠の課題となった。
れ、1996年度から正式に導入された。
同時に貿易実務の教育も行ったが、担当
いずれも新しい時代の要請を先取りし
者であった浜田顧問の存在は忘れること
た優れた制度で、当社の理念の実践を側
ができない。同氏が作成した貿易マニュ
面から支える優れた制度として定着する
アルは、当社の貿易の基本テキストとし
ことが期待されている。
て今も使われている。
しかし、何よりも重要な教育は、仕事
語学教育は派遣外人教師による社内教
を通じて社員が自ら学ぶことである。当
育、社外教育研修への補助や、TOE ICテ
社には優れた得意先が多い。優れた企業
スト結果に対するボーナス加点等、さま
には優れた目標があり優れた社員がいる。
ざまな形で行われた。
最大の教育は、良い得意先に信頼される
社員の海外派遣も広い視野で社員の教
育を目的としていた。中でもユニークな
仕事に挑戦することで、自らを高めるこ
とに挑戦することであろう。
試みとしては、1988年に始められた新入
予定社員の海外旅行制度がある。自分で
幹部研修
計画し、単独で海外を旅することで言葉
1979年
1980年
1981年
1
第2次石油危機始まる
2
中国残留日本人孤児、初来日
3
国鉄経営再建特別措置法施行令公布
1
大清水トンネル開通(世界最長山岳ト
6
大平首相死去、同日選挙で自民党圧勝
3
中国残留孤児初来日
ンネル)
7
鈴木善幸内閣(∼1982.11)
5
日米、乗用車対米輸出規制で合意
粗鋼生産高1億1150万トン、世界1位
6
改正商法公布
6
11
省エネルギー法公布、省エネルックお目見え
12
第2次大平正芳内閣(∼1980.6)
17
1982∼86
(昭和57∼61年)
1982 年- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 7
総務部を経理部と総務部に分割、経理
1984年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 4
泉州支店を繊色化学品部に改称、技術
センター設置
部を1課、2課、システム課で構成
営業管理部を廃止、業務部を新設
9
東京支店移転(中央区京橋3丁目)
1983年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
9
和歌山支店移転(和歌山市南汀丁)
7
4
新管理職制度の実施
10
紀泉ターミナル株式会社を設立
韓国・台湾にコードレ輸出開始
創業40周年記念式典
技術センター設置(繊色化学品部)
白鷹龍王大神
白鷹龍王大神は故岡畑会長夫人と親交のあ
った故松本晃明師により当社の守護神とし
て、「商売繁盛と隆盛、当社の健康と安全
(息災延命)」を祈願し、1964年春、和歌山
の本社(当時)に社殿を建立してお祀し、そ
の後、1975年9月に和歌山支店の構内に還
宮された。大阪社屋屋上の社殿は、1964年
11月、社屋竣工後まもなく祭祀されたものを
創業40年の記念行事の一環として1985年9月
に新しく建立したものである。
社殿は和歌山市加太町在住の宮大工、藤井
秀楠、勝明親子の両師によるもので、お社の
建立方法は「流造り」と云われる。
1982年
1983年
6
東北新幹線開業
5
サラ金規制2法公布、サラ金禍激化
9
国鉄、電電、専売公社の改革をめざす
6
初の比例代表制による参院選、自民安
行政改革大綱閣議決定
18
定多数確保
11
第1次中曽根康弘内閣(∼1983.12)
10
国鉄赤字ローカル線廃止第1号
11
上越新幹線開業
12
第2次中曽根康弘内閣(∼1986.7)
1985年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
11
NATR(豪州)向け住友金属鉱山伸銅製
台湾よりシューズ用アッパー縫製品の
品輸出開始
輸入開始
N ATRへ東洋ラジエーター株式会社の
AKS(韓国)とLASの取引開始
技術契約仲介
優良申告法人として和歌山税務署から
1986年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
初の表敬を受ける
1
創業40周年記念行事挙行
豪州ケントン社との取引開始
2
KCC社コークスの輸入開始(日本へ
のコークス初輸入)
9
関西繊色化学品部を改組、南大阪支店
に昇格
9
10
白鷹龍王天神和歌山新神殿建立
台北事務所設立(台北市南京東路)
「貿易問屋」への道
1976年(昭和51年)当時の経営は支店
同部内ではこれら取引先との仕事を継
独立採算であった。大阪と東京はもとよ
続し、東南アジアの製靴工場へ人工皮革
台湾にそれぞれ駐在している。
.
また人財の育成の他、海外にブレーン
り泉大津、和歌山、名古屋、金沢の6支
の供給を行うため、新たに輸出取引を行
を求めたことも貿易取引拡大の大きな要
店は個別の事業体として運営されていた。
うことになり、韓国の I S A 社、台湾の華
因となっている。英国のロイ・ラッセル
関西では繊維加工剤や樹脂、中間物を、
彦社と代理店契約を結び、1983年に台湾、
氏、韓国の張吉祥氏、香港の邵公全氏が
東京は中間物と花王との取引が主体であ
韓国にコードレの輸出を開始した。
公私ともに岡畑の貿易取引を支援してく
れたことも、異文化との交流を容易にし
ったが、将来化学品の問屋として発展す
円高の進行とともに、東南アジアでの
るためには、貿易取引が不可欠であると
貿易取引が本格化した。1985年には台湾
判断して、東京支店は新たな取引先を海
よりシューズ用アッパー縫製品の輸入を
取扱い商品が専門化し商圏も広くなる
外に求めた。
開始、また同年豪州ケントン社との取引
と、多岐に亘る商品を貿易部という1部
門として括ることが難しくなってきた。
てくれた。
貿易取引を行うために1976年現社長の
を開始、N ATR(豪州)向け住友金属鉱
先輩で、安宅産業のメルボルン支店長を
山伸銅の輸出や自動車用ラジエーター周
そこで1988年に営業部を6グループに
経験している上田徹(現・ケントン社長)
辺材料販売等、商品・商圏の拡大に努め
改組し、各部門ごとに貿易取引を行い、
に入社を懇請し、東京支店内に貿易部を
た。その結果、1985年度の貿易取引高は
貿易部はパイオニアグループと改称し、
新設し、上田は取締役として社員教育と
9億円となり、総売上の6パーセントを
新規海外取引業務を行うこととなった。
ともに貿易取引拡大を目指した。
占めるまでになった。
貿易部設立から10年が経過したこの年、
貿易部は当時、関連会社の日蘭貿易が
.
貿易取引拡大に伴い、人財の養成が大
行っていた染料及びその助剤の東南アジ
きな課題となってきた。貿易分野に進出
アの国々との貿易引継ぎと、上田の得意
するということは、商品や取扱分野を変
な豪州との取引から始めた。
えるだけでなく業態を変えることであり、
こを核として東南アジア各地へ貿易の拡
会社の風土を変えるということでもある。
大を図るとともに欧米ではウィットフォ
格的に貿易取引を行うことになり、米国
言葉の問題はもちろんのこと、異文化と
ード社(米)
、ソー・ケミカル・インター
の化学品輸入ソースを求め、米国メイプ
の相互理解等、さまざまな課題を乗り越
ナショナル社(英)との業務提携等、岡
ロ社の山田社長とともに米国の化学品会
えなければならなかった。
畑の貿易取引は世界各地に広がり、貿易
1980年、岡畑精記が社長に就任し、本
「貿易問屋」として岡畑は大きく前進する
ことになった。
その後台湾、中国に支店を設立し、そ
語学や貿易実務は社内の研修で教育で
部設立から18年を経た1995年には海外取
その当時、貿易は大手商社の独壇場で、
きるが、商慣習やその国の文化や人びと
引が全社の50パーセントを占めるまでに
専門問屋は国内の販売を主体として行う、
を知るには、やはりその地で生活をする
なった。
いわば「棲み分け」の時代であった。国
必要があると考え、将来の海外との事業
また専門商社が貿易に手を染めること
内専門問屋の岡畑が敢えて貿易取引に進
の核となる人間を育てるために、将来あ
は新事業へのパイオニアであり、岡畑に
出することは、岡畑にとっては大きな挑
る若い社員を海外へ駐在させることとし
新しい事業を根づかせてくれるという意
戦であった。
た。その第一号として1987年にアメリカ
図で名付けられたパイオニアグループは、
社を訪問する日々が続いた。
米国との取引は遅々として進まなかっ
デーボス社に派遣された光山は、3年半
当社の貿易問屋への転進に大きく貢献し
たが、その頃から円高が徐々に進行し、
余りにわたって同社に勤務し、語学、商
たが、1996年の新組織への改革を機に豪
日本で取引を始めていたスポーツシュー
習慣、米国の文化を身を持って学んだ。
州の取引を専門とする株式会社ケントン
ズ取引先が製造拠点を韓国・台湾へと移
その後張野、扇野、高岡が韓国、加藤
転していった。
が英国、一ノ瀬(現・上海支店勤務)が
1984年
1985年
として、分社独立した。
1986年
1
日米農産物交渉開始
4
NTT、日本たばこ産業発足
4
経構研「前川レポート」提出
4
初の第3セクター、三陸鉄道開業
5
男女雇用機会均等法成立
7
第3次中曽根康弘内閣(∼1987.11)
8
日本専売公社民営化5法成立
8
日航ジャンボ機御巣鷹山に墜落
電電公社民営化3法成立
8
三光汽船、負債5200億円で倒産、戦後最大
特別措置法施行
9
プラザ合意、ドル高から円高の時代へ
この年、いじめ問題多発
12
10
企業60歳定年を義務づける中高年雇用
19
1987∼91
(昭和62∼平成3年)
1988年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 2
CS RC(カーボンブラック)の総代理
1989年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 12
WHITFORD社(XYLAN)の輸入総代理
店契約
店権獲得
4
営業部門を6グループ制度に改組
RHNVET社(豪州)の飼料添加物製品
7
台北事務所移転(台北市忠孝東路)
岡畑ケミカルを併合
の輸入総代理店権獲得
3
名古屋支店移転(中区錦1丁目)
9
台北フォーラム開催
輸出情報発信基地−台中支店
当社が貿易取引を販売戦略の一つとし
1994年、世界の有名ブランドが集中し、
て定めた1980年半ばは、日本全体が輸出
靴産業のメッカといわれる台中市に事務
指向の時であった。当時貿易部は、関連
所を移転し、顧客への十分なサービスの
会社の日蘭貿易の業務を引き継いで、韓
提供を行える体制を整えた。
国・台湾に化学品を輸出していた。
1980年代、台湾では靴産業は繊維に次
スポーツシューズ分野に本格的に参入
ぐ2番目の輸出産業であり、重要な産業
する1980年代後半は円高が急速に進み、
であった。優秀な人材が集まり、積極的
貿易も輸出指向から輸入指向へと変化し
な経営者の下で飛躍的に成長を遂げてい
ていった。化学品の原料は東南アジアを
た。しかし80年代後半になると日本と同
主な供給国とし、日本はその輸入国とな
様に台湾でも「3K」が嫌われるように
った。
なったこと、NTドル高により国際価格
その一方でスポーツシューズ材料の分
競争力が低下したことから台湾企業は中
野では、円高の進行とともに製靴拠点が
国、インドネシア、タイなどに製靴工場
東南アジアへ移り、良質の人工皮革を東
を移転し始めた。
南アジアの各国に点在する工場へ販売す
る仕事へと変化していった。
現在の台湾スポーツシューズ業界は世
界の最高レベルの製造技術を有し、商品
当社の台湾貿易は1984年頃から台湾の
開発の拠点となり、スポーツシューズの
華彦社を代理店として活動を行っており、
製造は主に中国の華南地区、タイ、イン
現上海支店長の堀崎は1986年から同社に
ドネシア等で行われている。また最近で
駐在し、台湾との貿易拡大に従事してい
はベトナムが新しい生産拠点として注目
た。米国に続き日本でも健康ブームを迎
され始めている。
えてスポーツシューズ需要が大きく伸び
当社の台中支店は、世界のスポーツシ
ていた時期であり、当社のスポーツシュ
ューズの開発拠点である台湾台中市及び
ーズ材料分野も大きく伸張した。
東南アジア一円の靴製造会社をカバーす
そこで岡畑独自の販売網を築く必要性
ることによって、世界のトップグレード
から、当社独自で台湾及び中国への販売
のスポーツシューズ材料の最新の情報セ
チャンネルを作ることになり、1988年に
ンターとして活動を行っている。
華彦社の了解を得て台北に当社の事務所
を設立、堀崎は初代事務所長となった。
当初は化学品及びスポーツシューズ材
料の取引が半々であったため、事務所は
化学品の取引先が集中している台北に置
き、スポーツシューズ材料の中心である
台中には出張で対応してきた。
しかし徐々に仕事の中心がスポーツシ
ューズ材料の販売に移ってきたため、
1987年
20
1988年
2
NTT株 160万円の初値
3
4
国鉄分割、民営化
4
ココム裁判で東芝機械、有罪判決
地価公示で東京都の地価過去最高の高騰
9
新電電発足
4
瀬戸大橋開通
10
ニューヨーク株式市場株価暴落
7
リクルートコスモス事件
11
竹下登内閣(∼1989.6)
11
電子材料グループを新設
1990年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 1
台北事務所を台北支店に昇格
2
支店制からグループ制に移行
6
代表取締役会長岡畑圭吾逝去
7
代表取締役会長岡畑圭吾の社葬挙行
1991年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 4
管理部門をマネージメントサポートグ
ループへ名称変更
6
創業45周年記念行事挙行、C.I.変更
ケムスペックに出展
10
マンチェスターに駐在事務所開設
タイ、インドネシアにコードレ輸出開始
輸入基地・上海支店
当社では化学品は原料を海外に求める
仕事が中心となると考えていた。そこで
1978年頃から「友好商会」を通じて中国
CI変更
大手商社は駐在員を派遣していたが、
日本の化学品専門商社はまだ中国には進
商品を日本へ紹介していた。
出していなかった。当社は1993年にいち
問屋の強みは日本の国内に顧客を持っ
早く上海に事務所を設立し、中国人社員
ていることであり、良い商品を的確な条
を得て、本格的な仕入調査活動を始めた。
件で供給すれば道が開けると信じて仕入
当社の上海事務所のスタッフは、北は
活動を続けたが、中国では日本人だけで
黒竜江省から西はウイグル自治区まで、
の情報収集に限界を感じることも、また
数百社に及ぶ中国各地のメーカーを訪問
事実であった。
し、中間物、染料、農薬の中間物を中心
分野は伸張するものの、化学品分野は台
湾の市場の成熟化もあって伸び悩んでい
とした化学品の供給先を捜し、優れた工
場の探索にあたった。
その結果、現在では江蘇省、浙江省、
た。1990年代に入ると台湾ドル高となり、
山東省を中心に、中間物及び特殊化学品
多くの台湾企業が中国、インドネシアや
等の原料を数十社から購入して、中国化
その他の東南アジア諸国へと製造拠点を
学品の輸入では日本でもトップの企業と
移していった。
して認められるようになった。
当社社員の宋は外省人(中国本土から
台北フォーラム開催
った。
の工場や公司を定期的に訪問し、中国の
一方、台北支店ではスポーツシューズ
ケムスペックに出展
良な工場を選ぶこということが可能にな
1995年には上海に事務所を購入して、
台湾に移り住んでいる人びと)で山東省
より現地に密着した営業展開を開始、同
や江蘇省に親戚、知人がいることから中
時に日本で輸入開発チームを作り、輸入
国でのビジネスを熱望、中国市場開発担
開発専任者を設けて輸入の促進を図った。
当として中国貿易に携わることになった。
現在上海支店では9人の社員が活動を
1991年、宋は北京、青島、上海、南京
行っており、特殊化学品、中間物等の日
を訪問した。するとそれまで日本人単独
本への輸入及び情報の発信基地として当
の調査で分からなかったことが、宋が参
社の中国・アジア戦略の重要な役割を果
加したことでまるで霧が晴れるようにわ
たしている。
かり始め、改めて中国との化学品貿易の
可能性の高さを認識した。
当時、中国貿易取引の窓口は貿易公司
が行っており、日本での情報収集は貿易
公司のルートに限定されていたが、宋を
代表とする当社社員が直接工場を訪問し、
生きた情報が集まるようになった。そし
て今まで入手が困難であった化学品の確
保が可能になり、多数の工場の中から優
会長社葬挙行
1989年
1990年
1991年
1
昭和天皇崩御、皇太子即位、平成と改元
2
第2次海部俊樹内閣(∼1991.11)
1
湾岸戦争の多国籍軍支援、90億ドル決定
4
消費税スタート
3
ソ連、ゴルバチョフを初代大統領に選出
4
地価税が参院本会議で可決
6
天安門事件
8
湾岸戦争勃発、石油高騰
8
6
宇野宗佑内閣(∼8.8)
8
第1次海部俊樹内閣(∼1990.2)
10
東西ドイツ統一
12
宮沢喜一内閣(∼1993.8)
ゴルバチョフ大統領、辞任表明しソ連
邦消滅
21
1992∼96
(平成4∼8年)
1992年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 6
9
1993年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
THOR CHEMICAL と総代理店契約を
2
上海事務所開設(上海市中山西路)
結び本格的に販売を開始
4
資本金 6,912 万円に増資
北陸支店を金沢支店に名称変更し移転
7
中国化学品グループ新設
(金沢市広岡2丁目)
12
東京支店移転(中央区新川1丁目)
三菱化成(三菱エンジニアプラスチッ
ク)と代理店契約
電算化から情報ネットワークへ
当社の電算化は1968年に始まった。ま
に向上した。当社も1985年に主要支店に
ず和歌山、大阪事務所に東芝 TOSBAC-
オフコンを導入、分散処理による現場処
T100 を導入、売上、利益、在庫、売掛等
理の単純化とスピードアップが図られた。
の経営データの作成と活用を目指した。
コンピュータの進歩は経理や業務を中
当時システム開発を担当した片山は
心とした計数管理が主であったが、1988
「コンピュータの知識もなく徹夜で勉強し
年頃に問屋機能の柱である情報の共有化
ては導入先のコンピュータ会社と打ち合
わせをする毎日であった」と振り返る。
や現場業務の合理化に目標を定めた。
問屋の情報は個人的な人間関係に頼っ
本格的導入決定5カ月後に1972年新シス
ており、貴重な情報は口伝えが中心であ
テムは完成した。大阪支店の3階に新設
ることが多く、書面によるファイルもあ
した電算室で本格的な電算化の幕が開い
まり重要視されていなかった。しかし
た。その後大阪の管理業務の電算化から
「顧客に優れた情報を提供する」という当
全社レベルでの導入を検討、1976年に全
社の理念を実現するには、社員各自の持
社の電算化システムが完成した。
つ情報を組織的に蓄積、共有し、互いに
1978年に利益管理が課別決算に変更さ
活用することが不可欠であった。
れた。同時に電算システムの抜本的な見
情報の共有化を目指して当社は1987年
直しに着手した。それまでは部門の販売
に電子ファイルを導入、1990年には全社
利益の把握だけで経営判断ができたが、
員ワープロ一台の体制を敷き情報の文書
多くの支店ができ、取引の多角化が進む
化を始めた。さらに1993年、社内の電子
と新しい利益管理の方法が必要となった。
メールネットをNIFTY SYSTEMで作り
課を利益の一単位として一つの会社の
上げたが、社内システムとしては多少の
ように、販売利益、在庫、金利、販売経
費等を賦課した「課のプロフィットセン
難点があった。
折からグループウェアが開発されると、
ター化」で、毎月の課別の経常利益等の
当社はいち早く最先端システムであるロ
経営データが月初めに把握でき、経営上
ータス社のNOTESシステムを採用、社内
の大きな変革となった。
にLANを作り、社員一人に一台のパソコ
新しい経営方針に伴う経営システムは
ンを提供した。当社はこのシステムを社
1980年、日立 L330/4 により開発された。
内のコミュニケーションとデータベース
並行して関西の3支店をオンラインで結
の基本に据えて「連楽くん」と名付けた。
び、受発注、在庫管理等をリアルタイム
毎日の営業活動で得られた情報は「連
で行い、1982年には完全な課別決算制度
楽くん」に蓄積され、当社のデータベー
が実施された。新システムは課別独立採
スとして提案営業の要となりつつある。
算を基本として、営業部門決算、本社決
これらのデータベースは当社発展の鍵を
算、資金管理等を網羅する膨大なもので
握っており、その活用に20代の社員を中
あった。
心に普及委員会と活用委員会は知恵を絞
コンピュータの開発が大型機中心から
っている。
小型化へ進むとオフコンのレベルが格段
1992年
3 国土庁の地価公示、17年ぶりに下落
6 PKO協力法、衆院本会議で可決、成立
7 92年上半期、不況型倒産増加、前年比
40%増
10 佐川急便事件で金丸自民党副総裁辞職
22
1993年
6 皇太子、小和田雅子さん結婚
8 細川護煕内閣(∼1994.6)憲政史上初
の女性衆院議長に土井たか子就任
11 10月の完全失業者数176万人、失業率2.7%
12 ウルグアイラウンドで米市場開放を受入れ
1994年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1995年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1996年 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1
精密化学品グループ新設
1
組織改革
1
岡畑繊化株式会社設立
4
和歌山支店移転(和歌山市野崎)
1
金沢支店を分離独立、オカハタ株式会
2
岡畑ケミカル株式会社設立
6
マンチェスター駐在事務所閉鎖
社を設立
4
創業50周年式典挙行
7
台北支店を台中に移転(台中市大隆路)
LOTUS NOTES を情報データベースと
9
オカハタ東海株式会社設立
8
台中支店に改称
して採用
12
上海事務所移転(上海市淮海中路)
創業50周年・グアム社員旅行
創業50周年記念行事の一環として行わ
続いて個会社代表の杉本社長(岡畑繊
れたグアム旅行は関連個会社を含む全社
化株式会社)、社員代表の北井 TL から思
員94名が2班に分かれて参加、1班は
い出話やエピソードの披露と今後への決
1996年5月23日∼26日、2班は5月25日
意の表明が行われた。
∼28日の3泊4日として出発、観光やゴ
ルフ、マリンスポーツ等を楽しんだ。
て長年の良きパートナーであるKS 商事張
全社員が揃った25日に宿泊先のフジタ
代表に乾杯の音頭をお願いした。同氏の
タモンビーチホテル内のサパークラブで、
次回の記念旅行はぜひ韓国の済洲島にと
韓国K S 商事の張代表ご夫妻を招いて創業
の提案に会場は大きな拍手に包まれた。
50 周年記念パーティーが開催された。
午後6時半GMS森川の司会でパーティ
THOR CHEMICAL と総代理店契約を締結
第一部のセレモニーの締めくくりとし
第二部は記念パーティー委員に司会を
バトンタッチし、各グループの紹介、ポ
ーは始まり、岡畑社長が挨拶に立った。
リネシアンショー、ビンゴゲーム等盛り
社長は全社員の日頃の努力に感謝すると
だくさんのアトラクションに満場笑顔の
ともに、50年間に在職された多くの諸先
渦であった。
輩の苦労と努力に対して敬意と感謝の念
を忘れてはならないと強調した。
岡畑の仲間が一同に会してあちらこち
らで話しの花が咲き、和気あいあいのう
また本社の貿易問屋への特化と6社の
ちに時間が過ぎていった。石原相談役の
個会社の専門分野、ニッチ分野、地域密
先代への敬愛と感謝の思いを込めた閉会
着型経営による協調体制の相乗効果によ
の挨拶は列席の人々に深い感動を与え、
り、安定した成長を目指すという力強い
名残りつきぬ思いの中でパーティーの幕
所信の表明を行った。
は閉じられた。
1995年
1 阪神大震災
3 地下鉄サリン事件発生
11 APEC大阪で開催
1996年
1 橋本龍太郎内閣
8 O-157各地で猛威
THOR CHEMICAL JAPAN 開設
電算室
1994年
6 ニューヨーク外為市場で円高進み、1
ドル100円を初めて割り込む
6 製造物責任(PL) 法成立
6 村山富市内閣(∼96年1月)
9 関西国際空港開港
23
当社を支える三つのグループ
1.精密化学品グループ
和歌山の重要な産業は繊維、木材、皮
法が制定され、新規商品の開発が厳しく
めて上海に事務所を開設し、中国人の専
革であったが、戦後新しく勃興した産業
規制され、新規物質の開発には莫大な初
門家を採用して地道な仕入活動を始めた。
に中間物産業がある。戦後和歌川に沿っ
期投資と時間を要するようになった。
1990年代になり大幅な円高が進行する
た小雑賀地区を中心とした地域に、大小
1980年代になり、円高が進行した時に
とともに、化学品の価格の世界水準化が
数十社に及ぶ中間物工場が設立され、和
は、輸出比率の高い和歌山の中間物メー
進んだ。それをきっかけに日本の化学メ
歌山は世界の中間物のメッカと言われる
カーの将来を危惧する声もあったが、見
ーカーは海外に安価な原料を求めるよう
までになった。
事に難関をくぐり抜けてきた。当社の中
になり、中国の化学品が積極的に検討さ
中間物は染料や顔料の生産に不可欠な
間物部門はそういった強力な和歌山地区
れ始めた。しかし中国からの供給は予想
材料で、染料や顔料を扱っていた当社は、
のメーカーを核として、染料、顔料、樹
しない数多くの障害が発生し、その都度
関係の深い中間物メーカーの中間物販売
脂添加物、農薬等に販売分野を広げて、
迅速に問題を解決することに奔走せねば
を手がけ、大阪、東京、さらには台湾に
当社の特色ある販売部門として成長した。
ならなかった。上海支店の中国人社員と
中間物販売網を伸ばしていった。
当時染料販売には厳しい代理店制度が
あり、当社は長い間どのメーカーの一次
円高がさらに進行するに従って繊維製
ともに中国各地の工場に出向き、直接知
品の輸入が増加し、日本での繊維染色加
り得た生きた情報は、日本のユーザーか
工量は減少の一途をたどった。
ら高い評価を得ることになった。
住友化学は海外原料調達を戦略的に考
店にもなれなかったが、創業者の執念が
1988年の台北事務所開設を機に海外で
実り、1960年頃日本化薬の一次代理店と
の本格的な市場開拓に再度挑戦したが、
えており、タイミングよく当社は同社の
認められ、同社に染料中間物の販売を始
台湾での市場は既に先発の販売会社に握
支援と協力を得て、中国からの中間物の
めた。
られており、後発の当社にはビジネスチ
調達に参画することができた。このこと
ャンスは限られていた。
が当社の上海事務所の活動のレベルを向
また住友化学は染料の代理店としてで
はなく、化成品部門として代理店の門戸
中国取引との取組みは、貿易部設立当
上させ、現在では上海事務所は中間物を
を開いてもらうことができた。当社は住
時から定期的に出張をして輸入開拓を行
中心とした化学品の重要な供給窓口とな
友化学が生産した基礎中間物を和歌山の
っていたが、1990年に台北支店が中国市
っている。現在、同グループの取引の50
中間物メーカーに納入し、さらに製品を
場探索に参加をするようになって大きく
パーセントが海外取引で、その90パーセ
日本化薬や大日精化、また住友化学など
前進した。
ントが中国との取引となっている。
に販売した。
中国は世界でも有数の繊維生産国であ
中国と並行して調査活動を行ってきた
り、染料の生産も大きい。従って主要な
インドは、将来特殊な中間物で中国に匹
を続け、品質、価格ともに世界でも最も
中間物はほとんど国産化されていたが、
敵する供給国となるか、もしくは中国と
競争力のある産業として輸出市場に進出
その生産地は散在しており、信頼のでき
棲み分け共存する、世界有数の中間物の
し、欧米でも高い評価を得ていた。当社
る中間物工場を見つけることは容易なこ
供給国になる可能性がある。
も関連貿易会社の日蘭貿易を通じて中間
とではなかった。台北支店と協力して、
現在、当社はボンベイに上海事務所と
物を東南アジアに輸出していた。
しらみ潰しに中国各地の工場を訪問した。
同様の機能を備えた代理店を設置し、活
しかし1970年代になると環境保全が大
中間物は多品種にわたって技術レベル
動を行っており、上海、ボンベイ、日本
きくクローズアップされ、日本の中間物
が求められる上に労働集約的な要素が強
の3元ネットワークを作り、中間物の国
メーカーは多大の公害処理対策投資を行
い。中国がその強みを発揮できる産業と
際流通に機能する特色ある販売部門の実
わねばならなくなった。1973年には化審
判断して、本格的な輸入開発の推進を決
現に向けて具体化を模索している。
和歌山の中間物産業は多様化と高度化
24
2.機能化学品グループ
1950年代、和歌山は日本の代表的な産
社となった。その生産品目は豊富で多岐
業であった綿糸布染色産業のメッカとし
にわたり、当社が提供する化学品も花王
て賑わっており、1951年に勃発した朝鮮
の業容の拡大とともに多様化していった。
戦争の特需で繊維加工業は未曾有の好況
日本での消費市場の拡大とともに、家
に沸いた。当社も繊維染色資材が事業の
庭用品メーカーはますます新規開発商品
中心として大きく伸張し、今日の当社の
による市場の拡大に凌ぎを削るようにな
事業基盤を築いた時代であった。
り、その中心的存在となった花王は数々
繊維染色では染料とともに染色助剤や
その他の工業薬品を大量に使用しており、
のヒット商品を生み出した。
当社は花王の企業戦略をいち早くキャ
当社は花王石鹸、松本油脂製薬、共栄社
ッチして、新規の化学材料の提供を行っ
等の助剤を手広く取り扱って、仕入先を
た。合成洗剤における無リン化やコンパ
広げていた時期でもある。事業家であっ
クト化、濃縮液体洗剤等はその代表的な
た創業者は、繊維部門以外への事業の拡
例といえる。また、1981年頃には生理用
大を図り、その足がかりとして花王石鹸
品や紙おむつの材料にパルプの代わりに
(現・花王)への化学材料の販売を始めた。
吸水性ポリマーが使用されるようになり、
の当社のスローガンであった。韓国の愛
また取引のグローバル化は、1980年代
花王の主力工場と研究所は和歌山市に
同商品は劇的な成長を遂げた。当社は吸
敬油脂グループと懇意な関係にあり、
あり、同社の製品販売を通じて人的な関
水体原料のアクリル酸モノマーを花王に
1985年には同社の洗剤原料の日本での販
係も深かったため、花王石鹸への石鹸や
納入し、現在では同社との取引額の25パ
売を開始した。当初、日本では韓国原料
洗剤の原料の販売は順調に拡大した。ま
ーセントを占めるまでに至った。
の評価は高くなかったが、同社の品質改
た同社の化学品部門が、米国アトラス社
花王は常に時代を先んじた商品開発や
良の努力が次第にユーザーに評価される
と合弁で繊維用途以外の界面活性剤の市
仕事の仕組みを提案している。同社の化
とともに、円高にも助けられて取引が
場開発を開始するや、同社に協力して大
学品部門では将来のあるべき販売の仕組
徐々に拡大し、現在、同社は韓国での最
阪や東京地区でのユーザー開発に日夜奔
みとして、代理店と製造会社との適正な
も重要な取引先となった。
走をしてきた。
役割分担方針を打ち出した。それは花王
一方、ヨーロッパでは1989年に英国人
は研究開発、製品企画、マーケティング、
ロイ・ラッセル氏を顧問に迎え、スペシャ
との相互取引を担当してきた花岡は「花
製造に注力し、代理店は花王の営業部門
リティケミカルの輸入の検討を始めた。
王を担当することは、当社の営業マンの
としてユーザーケアーを担当するという
英国ソー・ケミカル社とは1991年総代理
登竜門であった。花王の化学品では煙突
ものであった。
店契約を結び、塗料や水性エマルジョン
1968年に入社し29年間、主として花王
分野への防菌、防かび剤の販売を行った。
のあるところは全て顧客と思えとの方針
その初仕事として、従来花王が直接取
で、積極的な市場開発を行った。花王を
引していた日本ゼオンを当社が担当する
1994年にはソー・ケミカルジャパンが設
担当して営業の基本、商売のイロハを勉
こととなった。年間数億円にのぼる取引
立され、現在英国で駐在経験を持つ当社
強した」と話す。
であり、同社の重要な機能原料であるこ
の加藤が出向し、同社の代表者として活
花王は日本で最初に合成洗剤を販売し
とから、当社がその役割を十分果たせる
躍している。同社が泉大津に研究室を整
て以来、繊維用洗剤にとどまらず家庭で
のか不安もあったが、2カ年の試行期間
備して以来、ユーザーの信頼を得て、同
使われるあらゆる用途の洗剤、柔軟剤、
を経て日本ゼオンと花王の両社から当社
社は日本での防腐剤の最大のサプライヤ
漂白剤、シャンプー、リンスなどを次々
の営業活動に高い評価を得て、この試み
ーになりつつある。
と開発し、日本を代表する家庭用品の会
は成功した。同時に化学品の販売代理店
また同グループは中国からの基礎化学
の機能を再思考する大きな転機となった。
品の輸入取引を開始、1996年にはパイオ
1991年には10年の歳月をかけて神戸製
ニアグループから委譲を受けて、豪州ラ
鋼所と共同開発したアルミ圧延油が商品
ンヴェット社の競走馬用の特殊飼料及び
化され、将来の主力商品の一つとして期
米国ウイットフォード社のフッ素コーテ
待されている。現在花王との相互取引は、
ィング樹脂の輸入販売も加わった。現在
機能化学品グループの約50パーセントを
貿易取引は同グループの30パーセントを
占め、同グループの柱となっている。
占め、事業の大きな柱となっている。
25
3.機能材グループ
1960年代半ばの高度成長時代に合成樹
靴のような「ものづくり」の経験者は乏
脂は急成長を遂げた。当社は1959年にPE
しかった。そこで1981年、「ものづくり」
樹脂の販売を始めて以来、フィルム分野
に詳しい西野を本社に迎え、各部門に分
に目標を定めて、原料の納入と製品の販
散していた機能を一つにまとめてスポー
売を組み合わせた販売戦略でシェアを伸
ツシューズ用の化学材料分野に本格的に
ばした。またビニロンや特殊な繊維包装
取り組んだ。
材料に目をつけ、製品販売に注力すると
スニーカーという言葉が使われ始めた
ともに、ポリエステル不織布を布団袋用
頃であり、その後、健康への関心が高ま
途に開発する等、末端市場開発を中心と
るにつれてジョッギング、クロストレー
した販売を強化していった。これらの事
ニング、アウトドアーなどの多くのスポ
業は現在も当社と新生岡畑ケミカル株式
ーツシューズコンセプトが生まれた。
会社の中心となる事業として育っている。
西野は当時を振り返って「スポーツ業
1970年代半ば、樹脂部門はスポーツシ
界に特化し、国内のブランドメーカーの
的なシェアを誇っており、当社も1977年
ューズ用の機能化学材料の販売によって
開拓を開始して1年、社長の命で1982年
まではクラリーノを取り扱っていた。帝
大きな変化を遂げた。当時、花王の反応
2月厳冬のシカゴで開催されていたスポ
人は靴素材としてのコードレの研究開発
型ウレタンの市場開発に参加し、スポー
ーツシューズの国際見本市を見学した時
に強い熱意を傾けており、当社社長は同
ツシューズの靴底材としてのウレタンの
に、米国での市場の大きさと商品の斬新
社の将来性に着眼し、帝人コードレの販
機能に着目したことに歴史はさかのぼる。
さに仰天した。日本では年間2千万足足
売に参画した。当時、帝人コードレは部
1976年、大学のアスリートの練習用の
らずの市場しかなかったが、米国では2
材としては評価されていたが、アッパー
靴底としてウレタンを採用したのが商品
億足の市場があった。しかも全く知らな
としては大手ブランドメーカーには認知
化の最初であった。ウレタンは軽くて丈
いブランドがたくさんあり、その一つに
されておらず、業界で帝人コードレを認
夫でしかも安価であったが、スポーツシ
ナイキ社があった。当時まだ日本では知
知させることが帝人と岡畑の共通の大き
ューズ材料としてはまだ一部の専門競技
名度は低かったが、米国では既にトップ
な目標であった。
者の道具であった。
ブランドであった」と話す。
西野は「当社も全く未知の市場であっ
たし、帝人さんにとっても「人・物・金」
東京でウレタンを担当していた久保は
当社は機能を求めるスポーツシューズ
従来の販売方法を改め、スポーツのブラ
には、機能を発揮する化学材料を多く使
のかかる商品開発に注力することは、大
ンドメーカーをターゲットに定め、スポ
うことになると確信を持って、この市場
きな決断であったに違いない。しかしお
ーツシューズ用化学材料の売り込みを開
に挑戦をした。ゴム、綿キャンバス、皮
互いの気持ちをひとつにして、まさに寝
始した。テニスラケットのトップブラン
革等の天然素料とは異なった当社の本業
食を忘れて市場開発に没頭した。大きな
ド「ヘッド」を販売していた大沢商会に
である化学材料をこの業界に紹介すれば
厚い壁への挑戦だった」と振り返る。帝
ウレタンソールのテニスシューズの企画
ビジネスチャンスはある、と確信して全
人コードレの商品は両社の懸命の努力の
を提案し、大ヒット商品となった。これ
く未知の市場に飛び込んだ西野は、ソー
結果、徐々に市場を拡大していった。
が当社がスポーツシューズ材料に本格的
ル用素材として反応性ウレタンTPUを、
に取り組むきっかけとなった。また靴底
アッパー用として帝人コードレを武器に
ーとなってスポーツシューズの市場が世
材と並行してアッパーに使われる人工皮
自らブランドメーカーに足を運び、精力
界中で拡大した。また円高の進行や国内
革も取り扱うことになった。
的にプレゼンテーションを行った。
のインフレの伸長でスポーツシューズの
当時の当社の取引は材料販売が主体で、
26
1980年代になると、ナイキ社がリーダ
その中の一社にナイキジャパンがあっ
供給国は韓国、台湾が中心となった。当
た。当初はソール用素材及びユニットソ
社も海外市場での販売を目指し、1983年
ール販売が主であったが、ナイキの各部
世界でも有数の靴輸出国であった韓国に
署の人びとと知り合うことになり、その
帝人コードレ及びソール用素材の販売を
後の同社への帝人コードレ販売に大きく
試みるが、失敗。試行錯誤の上、ブラン
役立つことになった。
ドメーカーへのプレゼンという原点に立
スポーツシューズ業界ではクラリーノ
ち戻った結果、1984年にコードレスエー
が人工皮革の代名詞として高名で、圧倒
ドタイプがナイキに採用され、韓国への
海外顧問
本格的な輸出が始まった。
1981年3月に創業者岡畑圭吾より現社長岡畑精記へ経営が引き継がれ、当社は本格的
この経験を礎にして、当社の販売戦略
に「貿易問屋」への道を歩み始める。今日当社の貿易取引が50パーセントを占めるまで
が根本から変更された。ブランドメーカ
に至るには社員の努力に負うところが多いが、社外から多くの協力支援を戴いたことを
ーの企画開発部門とのコンタクトによっ
忘れてはならない。当社の変革に貢献してくれた海外顧問の3顧問を紹介しよう。
て靴の企画段階から材料開発に取り組み、
開発された新材料を東南アジア各地に点
在する製靴工場に適時に供給することが
仕事の中心となった。
世界をリードしているナイキ社は、天
張吉祥氏
同氏は現社長が安宅産業時代に得意先であった韓国の
代表的化学企業である愛敬油脂時代から30年にわたる知
己で、日本語に堪能な優れた経営者である。
然皮革では表現できない新しい素材とし
同社の関連企業で世界的なフタール酸のメーカーとな
て、世界に先駆けて人工皮革を同社の戦
った愛敬油化社長を退任後、同氏の長い日韓関係の知見
略商品に採用した。同社の方針に助けら
を活かすべくKS商事を設立する際に当社社長が協力し
れて帝人の材料開発は進んだ。
たことから同氏には当社の韓国代表社としてさまざまな
世界を風靡したバスケットシューズの
アドバイスを願っている。
エアージョウダンシリーズでは、大方の
また当社社員3人が韓国に駐在した際に、同氏には後
予想を裏切って帝人コードレの黒いヌバ
見人として公私ともに面倒を見ていただき、当社の社員
ック反が採用され、
「バスケットシューズ
は韓国の文化習慣、言葉を身を持って学んだ。
は白」との概念を打ち破って空前のヒッ
ト商品となった。同シリーズは10代目を
ロイ・ラッセル氏
迎えたが、現在でも最高のブランドとし
同氏はオックスフォード大学で化学を専攻後、I C I 社
て人気が高く、帝人コードレの開発素材
に入社。日本の I C I 駐在も長く、駐在の際は旭ガラスと
がこのヒット商品を生んだと言っても過
の合弁会社の社長を務めた知日親日家である。
言ではないだろう。
市場の拡大とともに、より適切な生産
地を求めて、生産拠点は東南アジアに拡
大していった。韓国、台湾、中国華南地
区、タイ、インドネシア、比国、さらに
1985年にI CIを退社後、化学コンサルタント会社を設立
した。現社長の知人の紹介で当社のヨーロッパ代表者と
して欧州からの化学品輸入開発を担当している。
また当社の加藤が英国に駐在する際には同社の社員と
してヨーロッパの化学事業の調査を担当した。
はベトナムに至る東南アジアは、現在で
同氏は化学の知見のみならず優れた人物で、当社の社
は世界の最大のスポーツシューズの生産
員は同氏を通じて英国を学び、ヨーロッパをかいま見る
地となっている。
ことができた。
台湾台中市はかつての製靴産業の中心
から、世界のスポーツシューズ開発のメ
邵公全氏
ッカに変身した。当社の台中支店はその
同氏は香港を拠点とする香港華僑貿易商社の2代目経
中心に位置し、世界で最も新しいスポー
営者で英国オックスフォード゙大学と米国オハイオ大学を
ツ靴材料の情報が集まっている。また東
卒業。香港に在住し、中国を中心に広く東南アジア貿易
南アジアの重要な製靴拠点各国には、そ
を手がけている。
れぞれの国の事情に詳しい優れた代理店
網が完成した。
スポーツシューズの需要は鈍化してい
るものの、帝人コードレを初めとする化
また、香港の若手経営者の代表として、香港政庁や日
本の財界にも広い人脈を持つ。香港を視点として見る同
氏の中国の観測は、日本人にはない鋭い視点があり、当
社の中国貿易について貴重なアドバイスとなっている。
学品機能材料は依然として大きな成長が
見込まれている。当社は世界で最も優れ
たスポーツシューズ材料商社として、さ
らなる飛躍を目指している。
27
海外駐在を体験して
こ
れ
か
ら
も
韓
国
と
の
交
流
を
深
め
た
い
!
張
野
張野嘉幸(1989年6月∼90年6月)
私はソウルオリンピックの翌年
1989年6月から約1年間、韓国のソ
ウルに駐在した。それまでも何度か
出張で韓国に行ってはいたが、駐在
員として韓国人の家庭での下宿暮ら
しとアパートで1人暮らしを体験し
たことで、新しい発見や経験ができ
たことは、本当に良かったと思って
いる。
K S 商事の事務所では張代表、崔
氏に大変お世話になり、韓国経済や
歴史など多岐にわたって教えて戴い
た。一般的に韓国は近くて遠い国と
いうイメージを持っている人が多
い。私を含め日本人はあまりにも韓
国や日韓の歴史に関して知らないと
いうことが、その原因の一つになっ
ているのではないかと痛感した。
韓国と日本は共通点が多く、今後
﹁
同
じ
目
線
で
物
事
を
見
る
努
力
﹂
を
韓
国
で
学
ん
だ
⋮
。
ければならない。そのために今後も
チ、プルゴギ(焼き肉)
、チマチョ
ゴリ(民族衣装)などいろいろある
と思うが、韓国と日本の悲しい歴史
を詳しく知っている人は少ないかも
知れない。それまでも何回か出張で
行ってはいたが、
「行く」と「住む」
とでは大きな違いがあった。
「話にならない」とよく言うが、
言葉ができなければリンゴ一つ買え
ない。幸い私の周りにはたくさんの
先生がいた。特にK S 商事の崔さん
は一番の先生で、休みの日にはテニ
ス、カラオケ、サウナといつも私に
つきあってくれた。張社長一家には
息子のように可愛がって戴き、ソウ
ル・ライフを楽しむことができ、同
時に言葉も覚えることができた。
侵略の話、北との統合の話、女性
の話などさまざまなテーマで話をし
ますます互いに理解を深め、協力し
あって国際社会を引っ張っていかな
扇野誠造(1990年7月∼92年3月)
韓国といって思い出すものはキム
扇
野
ながら、
「日本人である自分」を強
く感じた。
「日本人の自分」が客観
韓国の人びとと交流を持ち続けると
的に物事を見ているようでは「住む」
ともに、駐在中に覚えた韓国語のレ
意味がない。せっかっく「住む」機
ベルアップにも努力をしていきた
会を与えられたのだから、同じ目線
い。
で物事をみる努力をしよう。そう心
高岡正浩(1993年3月∼95年12月)
人
韓国も今では日本と肩を並べる
の
優 「アジアのリーダー的存在」になっ
し た。人びとの生活も豊かで、外国人
さ もほとんど不自由なく暮らすことが
と できる。
コ しかしこの豊かな生活をつかみ取る
ミ ためにかなりの歳月を費やしている
ュ のは歴史が物語る通りである。中で
ニ も日本との深い傷を癒すにはまだか
ケ なりの時間が必要である。
ー そのような中で、当然のように身
シ 構えて着任した私は韓国の人びとが
ョ 日本人を含む外国人に大変親切であ
ン ることに驚いた。八百屋、雑貨屋な
の どでコミュニケーション に悪戦苦闘
大
切 する私に親身に対応してくれたこと
さ は大変に印象的であった。
を 何よりの思い出は家族とともに済
痛 州島、ソウルで過ごしたこと。KS
感 商事の張社長、崔さんのはからいで
! 市場での買い物、料理、観光と貴重
な体験をさせて戴いた。
赴任当時は辛目の食事に苦労した
高 が、今では香辛料を入れないと満足
岡 できないほどになり、懐かしい思い
出となっている。
に決めて韓国で暮らした。韓国のめ
ざましい躍進もこの目で見ることが
でき、貴重な体験をさせてもらった
と感謝している。
家族と韓国の旅
(左から三番目)
28
台
湾
で
学
ん
だ
こ
と
を
ベ
ー
ス
に
中
国
で
奮
闘
中
で
す
。
一
ノ
瀬
一ノ瀬 久(1992年2月∼94年7月)
赴任当時43才の私には「中国語」
という難関が待ち受けていた。私生
活は中国語を優先させ、夜は語学学
校、休日は台湾人のたまり場へ足を
向ける毎日であった。恥と苦しみの
生活は現地社会を知る絶好の機会と
なり、彼らが幼い頃から生活の中で
金銭感覚を身につけるさま、自己欲
達成のための執拗な手段の行使、家
族愛の強さ、現実重視の考え方等を
教えられた。
台北支店(当時)は東京の銀座に
あたる台北市忠孝東路四段の大通り
に面し、朝夕のラッシュ時に大量の
﹁
準
備
の
大
切
さ
﹂
を
身
を
持
っ
て
体
験
。
バイク、車、バスが行き来する光景
は異様にさえ映る。しかし裏通りに
入ると商店が所狭しと立ち並び、さ
光山冬樹(87年5月∼91年1月)
米国駐在員として医薬中間体輸入
専門商社であるデーボス・ケミカル
に赴任した。
「言葉の重要性」を認
識せず、「いざとなったら喋れる」
と事前準備を充分に行わず出発の日
を迎えた。
事件は飛行機を降りた空港で起こ
った。迎えに来ていた副社長のサイ
デンバーグ氏と話しをしようにも何
を話しているのか全くわからず、焦
れば焦るほど耳と口の筋肉が硬直し
「金縛り」状態に陥ってしまった。
その時、出張を兼ねて同行していた
加藤さん(THOR JAPAN 勤務)に
助けられたことが今でも頭から離れ
光
山
ない。
赴任して間もないある日、いつも
まざまな生活の匂いが感じられる。
と同じ服装で出社すると社長のロビ
一夜にして店が変わることもしばし
ンス氏に部屋に呼ばれた。
「日本の
ばで、1年もすると道を間違えたの
ビジネスマンは何色の靴下を履くの
では、と錯覚するほどである。
「今
か。白い靴下は子供や学生が履く物
が悪ければ将来はない」の即決力と
だが。君の意志に任すが…」と言い
金儲けのためならば何事にも挑戦す
ながら私の靴下に目をやった。週に
る意欲と行動力には目を見張る。
一度の洗濯さえままならない私はス
政治、経済始めあらゆる分野で地
球規模で物事が進んでいる今日、海
ーパーマーケットのレジに黒の靴下
を積み上げた。
習
慣
の
違
い
は
あ
た
り
ま
え
、
理
解
と
努
力
が
国
際
人
の
第
一
歩
。
加藤修治(1991年10月∼94年6月)
英国駐在から戻って1年半たっ
た。在英中に特に印象に残ったこと
を幾つかまとめてみる。
1.契約の社会である
契約書、覚え書き、会議の議事録、
打ち合わせメモなど書類にして残す
習慣が徹底している。
2.顧客訪問回数が非常に少ない。
毎週訪問するような顧客はほとん
どないが、一回の訪問が長く効率的
に話をする。そのための事前準備を
徹底する。
3.ビジネスの話はオープンである
聞きたいことは秘密と思えても遠
慮なく聞けば教えてもらえることも
ある。
4.物価が安い。
5.
“VALUE OF MONEY”の精神
が徹底している。日本人の感覚では
ケチと思えるほど倹約の精神が徹底
しており、使い捨てはせずほとんど
の物には中古市場がある。
以上ほんの一例ではあるが、さま
加
藤
ざまな習慣の違いを悪いと決めつけ
たり、面倒くさがらずに理解し、客
観的に対応する努力をすることだと
外に対する理解と交流は不可欠であ
日本の欧米化によって、アメリカ
思う。最後に日本からサポートして
る。その拠点に自らを置くことがで
生活に違和感を感じる人は少ないと
くれた皆さん、ラッセルさん、事務
きたことに対して喜びを感じるとと
思うが、何ということもない事件で
所を貸してくださった THORの方々
もに上海支店勤務でその経験を活か
その違いを考えさせられた。
に感謝!
すべく奮戦中である。
29
人と人とのつながりを求めて
一方会長夫人は、陶器、染色、金工、
当社の50年の歩みの核を成すものは
ックの愛好家のお得意先の家族とともに
「人と人とのつながり」である。戦後の
木工などに造詣が深く、伝統工芸品の収
楽しみ、仕事だけでなく地域の一員とし
焼け野原から事業を興した先代は事業一
集に情熱をかたむけた。一時期は贅沢で
て「人と人とのつながり」を持つことを
本の実業家ではあったが、「誠実はわが
はないかと思い悩んだこともあったが、
奨励している。
社の憲法」を掲げ、公私ともに人の和、
質の高い作品を収集することによって良
また美術では版画を中心としたコレク
人のつながりを重んじていた。
いものが残り、作家の創作活動が持続さ
ションを行い、社屋の一部をギャラリー
れるのではないかという知人の言葉に勇
スペースとし展示を行うとともに、働き
多くの便りを書き、自ら撮影した写真に
気を得て、さまざまな分野の良質な作品
やすい職場環境にも配慮している。
達筆なメモを添えて友人に送った。晩年
を買い求めた。
会長は名文家でもあり、日記を付け、
「人と人とのつながり」は会社だけで
は和歌に手を染め、旅先などで自由な手
芸術に対する思いは美術だけではな
なく、地域の活動に参加することによっ
法で、折々の心情を率直な筆に乗せて数
く、音楽にもこめられた。和歌山出身の
ても得ることができる。当社は個々の社
多くの作品を残すなど、芸術に理解を示
ピアニストの杉谷昭子氏は、ドイツを中
員の活動に対しては、社会活動援助金と
し、文芸に深い素養を持っていた。
心としてヨーロッパで演奏活動を続けて
いう補助金制度を設け、社会事業に参画
いる優れた芸術家であったが、日本では
している社員に資金援助を行ってる。ま
の生活をシーツなどのあるだけの材料に
演奏機会に恵まれることが少なかった。
たヨット、テニス、野球、スキーなどの
記録したヘンリー杉本画伯の数多くの作
同氏の母上が隣の小学校で教員をされて
スポーツを通じて社員の親睦を図ること
品を紹介し、和歌山、東京、広島で個展
いた縁で会長を訪ねてこられ、それ以来
も行っている。
を開いたのも会長の英断であった。
会長は杉谷さんの演奏活動には常に援助
米国で活躍し、戦争中米国の収容所で
当時は収容所の体験を率直に語ること
を惜しまなかった。
仕事だけでなく芸術、スポーツ、地域
活動を通じてさまざまな価値観を持った
はそれほど自由ではなく、絵画の展示に
会長及び会長夫人の思いは現社長に引
人々と出会い、学び、経験することは当
賛成する人は少なかったが、ヘンリーさ
き継がれている。音楽では杉谷氏だけで
社の企業理念のひとつである「会社人で
んの人柄に惚れこんで、展示会の成功に
なく、クラシックを中心とした若手の演
ある前に良き社会人であれ」を実践する
尽力し、ヘンリーさんとは終生の友人と
奏家にその支援の輪がひろがっている。
ことである。
なった。
演奏会は社員の家族や友人、またクラシ
大阪社屋・ギャラリースペース
大阪支店1階
東京支店玄関
30
左上・ヘンりー杉本氏、和歌山文化賞受賞記念パーティ 右上・杉谷昭子氏 中央・モスクワ室内管弦楽団リハーサル風景(バイオリン:ナタリア・コルサコヴァ)
↑ヨットクラブ
野球クラブ
テニスクラブ 31
ネットワーク
専門化・地域化・国際化を目指して個会社を創る
販売業は時代の変遷とともにその姿や役割を真っ先に変
に独立した紀泉ターミナルを含めて合計6社が岡畑グルー
プを構成している。いずれもが5∼10名の社員で一店舗で
えていく宿命を持っている。
当社も成熟する日本の産業界での役割を考えてきた。販
業務を営んでいる。社員は全員が当社を離籍して新会社の
売業の将来を思考する当社は化学品専門問屋の歩む道とし
社員となり、会社の株主となっている。新会社は岡畑興産
て、(1)分野の専門化、(2)地域の専門化に特化すること、
時代のお得意先を継承して、さらに信頼を得て伸び伸びと
(3)国際取引に対応できる企業となること、という3つの役
活躍をしており、近い将来にはいずれの会社も地域を代表
割を挙げている。しかし、それら3つの役割を同時に満た
する問屋に成長する期待が大きい。
当社では関連会社を個会社と呼んでいる。子供会社でも
すことは非常に難しい課題であった。
国内では輸入の増加と価格破壊が進む中で、逞しく企業
活動を広げる優れた企業も多い。当社にも、成熟した伝統
なければ、小さな会社でもない。独立した事業体として各
社が個性ある事業展開を、との期待が込められている。
また全ての個会社が岡畑興産の情報を利用できるよう
的な分野での専門家や、地域に根ざした深い人脈を持った
社員が多く働いている。当社にとって、専門化、地域化、
に、興産の情報ネットワーク「連楽くん」とパソコンで連
国際化という3つの要素を満たす方策が分社であった。
携されており、情報のシナジー効果も大いに活用できる。
1995年から1996年にかけて5社が分社独立し、1984年
紀泉ターミナル株式会社(和 歌 山 市)
同社の設立は1984年にさかのぼり、当
各社を紹介しよう。
していた部門であった。
関西は綿布帛染色加工やタオル、毛布
史のある支店であった。
東海地区の得意先には繊維染色部門、
などの主要産地であるが、円高が進むに
化学品、樹脂原料と幅が広く、特色ある
同社は当社の和歌山地区の物流部門を
つれて輸入製品が増加し、繊維加工業は
堅実な中堅企業が多い。多様な分野をこ
独立させて、本格的な化学品物流専門会
大幅に減少した。同社は1996年1月に独
なすために、地域専門家としてよりきめ
社として発足した。
立し、事務所を岸和田に設け、関西一円
の細かい人脈サービスを提供しており、
にきめの細かい販売を行い、市場の縮小
成長が期待される。
社の分社では最も早い時期に行われた。
事業所は創業本社の土地に倉庫を建設
し、化学品を中心として、安全輸送をモ
にも拘わらず着実な成果を上げている。
株式会社ケントン(東京都中央区)
ットーに活動を行っている。現在では和
歌山市の化学品物流では最大手として得
意先から信頼を得ている。
オカハタ株式会社(金 沢 市)
旧金沢支店は1995年1月、オカハタ株
式会社として再出発をした。
岡畑ケミカル株式会社(和 歌 山 市)
上記の販売会社5社は、いずれも地域
樹脂フィルムを主体とする繊維包装材
密着型の企業として分社が行われた。株
料や不織布加工製品の需要家は関西地域
式会社ケントンは国際化の中で、社長上
に広く点在しているが、和歌山は家庭雑
田徹の得意とする豪州市場をターゲット
貨品を中心としてその重要な一角を占め
に絞った貿易会社として独立した。
ている。
上田徹は安宅産業でメルボルン支店長
北陸地域は世界の合成繊維加工のメッ
樹脂原料を販売するために製品販売を
を務め、自他共に認める豪州シンパであ
カであり、繊維加工材の販売と樹脂原料
始めたのがこの事業の始まりだが、包装
り専門家で、その広い人脈を活かして豪
販売が主体であったが、同地区の電気機
の多様化や機能化が進み専門分野できめ
州産の石炭と日本のコークスの委託バー
器分野に販路を広げ、金属と樹脂複合品
の細かいサービスが必要となり、分社に
ター取引など大手商社でも手がけること
を中心とした新事業の成長が著しい。
よる機能化を目指して1996年2月独立し
のできない、国際的で専門性の高い取引
和歌山市に事務所を開設した。
を作り上げている。また自動車部品ラジ
岡畑繊化株式会社(大阪府岸和田市)
繊維染色は当社の創業の仕事で、当社
エーター用の特殊金属材料や電子材料な
オカハタ東海株式会社(名 古 屋 市)
の成長と収益を支えてきた時期も長かっ
旧名古屋支店が1996年9月に独立分離
た。繊維事業は隆盛時には和歌山泉大津
し発足した。東海地区には繊維、自動車、
ほか西脇、高野口、福井などに販売拠点
機械、陶器、ゴムなど幅広い製造業があ
を広げ、最盛期の1977年には約30人を擁
り、当社の支店としても大阪に次いで歴
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ど、非鉄分野での輸出も順調に進み、特
徴ある貿易専業会社として関係者の間で
高い評価を受けている。
岡畑ケミカル株式会社
オカハタ株式会社
岡畑繊化株式会社
オカハタ東海株式会社
岡畑興産株式会社
紀泉ターミナル株式会社
〒542 大阪市中央区島之内 1-5-6
株式会社ケントン
TEL 06-251-8252
FAX 06-251-8278
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