第 8 回館長講座 「フランスとドイツの博物館」

第 8 回館長講座
「フランスとドイツの博物館」
司会:こんにちは。本日は、大変お足元の悪い中、東北歴史博物館までおいで頂きまして、
誠にありがとうございます。
本日の「館長講座」は、
「フランスとドイツの博物館」と題しまして、第 8 回の講座です。
「ミロのヴィーナス」がなぜ、パリのルーヴルにもたらされたか、などの草案も含めま
して、鷹野館長よりお話を頂きます。それでは、よろしくお願いします。
館長:皆さん、こんにちは。今日は本当にお足元の悪い中、おいで下さとどうもありがと
うございます。
前回はイギリスでしたので、今回はフランスとドイツということなのですが、ルーヴル、
それからオルセー美術館、ドイツのドイツ博物館とペルガモン博物館というところを中心
にお話ししようと思います。
まず、ルーヴル美術館ですが、ルーヴル美術館は最初からルーヴル美術館だったわけで
はないわけで、ルーヴルに資料が集まって行く前段階というのがあります。まず、フラン
ス王室のコレクションの時代がありまして、16 世紀の始め、フランソワ 1 世という王様の
頃から、同時代のイタリアの絵画をフォンテーヌブロー宮殿に集めていきまして、フラン
ス国王の「絵画室」という部屋を作りました。そこに集められてあったのが、この左の写
真の「モナ・リザ」や右側のレオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」などの絵が入と
おりました。
太陽王といわれたルイ 14 世の時代には非常に積極的な芸術振興政策が取られまして、収
集品が増加して行きますが、ルイ 14 世の時に先程フランソワ 1 世が作った絵画室、これが
ルーヴル宮殿のほうに移されます。ただそれもですね、1678 年に宮廷自体がヴェルサイユ
宮殿に移ることになりまして、ルーヴルの絵画室にあった多くの絵画もヴェルサイユのほ
うにはこばれていきました。
この頃には王の絵画室のコレクションが非常に増えて行ったわけですけれども、16 世紀
のイタリア絵画、それから 17 世紀のフランス、オランダ、イタリアなどの絵画が購入され
ていきます。
1765 年に、ディドロという人が「百科全書」を作るわけですが、その「百科全書」のル
ーヴルの項目の中で、ルーヴル宮殿を美術館化してグランド・ギャルリーを絵画展示スペ
ースにして王室の美術コレクションを公開しようと、そういう提案をしまして、これがル
イ 15 世に認められてルーヴル美術館への移行が始まるわけです。
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その後、1789 年のフランス革命の時に、大規模な美術品の国家所有への集中ということ
が行われていきます。
歴代の革命政権がルーヴル宮の中に広範な内容を持つ美術館を作ろうという、それ以前
からの計画を実現しようとしていきます。
1789 年の 11 月 2 日には教会の財産を没収するという命令が出まして、これによって、
教会に所有されていた美術品の国有化が図られました。
1791 年に召集された国民議会は、そこで中央美術博物館としてルーヴルを活用しようと
いうことが決定され、その後、1793 年の 8 月 10 日に「共和国立美術館」という形で一般
に公開されるようになっていきます。
これまで、美術館とか博物館は、ごく限られた人たちの間に公開されていたのですけれ
ども、この共和国立美術館は、全く一般の人にも公開されたというものであります。
1796 年の、グランド・ギャルリー、この場所はあとで紹介致しますけれども、ここはい
ったん閉鎖されます。革命政府はイタリア方面軍司令官のナポレオン・ボナパルトに対し、
イタリアにおける美術品の収奪を指令します。このナポレオン、積極的にこの指令を実行
していきます。
そして 1798 年には、
ヴェネツィアやローマに対して美術品を要求して獲得していきます。
7 月 26、27 日の両日に渡と、ロベスピエールの失脚 4 周年という記念日に、イタリアから
収奪してきた美術品がパリに到着しまして、その祝典が行われていきます。
この写真の「ベルヴェデーレのアポロン」は現在はバチカンに入といますけれども、そ
の他にヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の上の 4 頭の青銅の馬もこの時、持って来られ
てしまいました。
絵画ではラファエロとかコルレッジオなどのイタリアの 16 世紀の作品がイタリアにおけ
る収奪の対象になっていました。
これを受けて、1800 年には古代ギリシャ・ローマの彫刻展示室というのがプチ・ギャル
リーのほうに設けられました。
このフランス革命を経て、これまでの王室の美術品コレクションが一般に公開されたこ
とは、美術館だけではなくて、動物園や植物園の発達にも非常に大きな影響を与えたとい
われます。
パリ動物園はルーヴルと同じ年に開園していますし、ベルリンの植物園、それからロン
ドン郊外のキュー植物園、こういったところが公開されるのですが、これらは宮廷に所属
していた庭園などが公開されて、動物園や植物園となっていったというものです。
そのナポレオンの時代ですが、1803 年にナポレオンはルーヴルの不法占拠者、これは勝
手に住まいにししまといた人がいたようなのですが、そういった人達を追放して、さらに
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戦争ごとに持ち帰と来た、略奪してきた、というんでしょうか、戦利品をここに集めて、
ルーヴルをナポレオン美術館と名前もあらためて公開していきます。
この写真の「メディチのヴィーナス」がルーヴルに入ります。これは現在、ウフィッツ
ィ美術館の中にあります。
また、1806 年から 1807 年にかけては、ドイツ、オーストリアの各地から、美術品を収
奪してきまして、プチ・ギャルリーの古代ローマ・イタリア彫刻展示室も拡張されていき
ます。
ナポレオン美術館の時代の絵が残といますが、これを見ますと、ここに犬がいるんです
ね。だから、美術館といとも現代の美術館とは全く違う、中を犬が走り回るというような
状況でもあったようです。
1810 年から 15 年ぐらいにかけては、このナポレオン美術館の最盛期でありましたし、
その前、エジプト遠征の過程で、ロゼッタ・ストーンが見つかっていた、というお話は前
回、お話し致しました。
ナポレオンはいったん、失脚しまして、地中海のエルバ島に流されるわけですが、そこ
から脱出をして、またもう一回帝位に着く、と。…まぁ、百日天下といわれますが、それ
を経て、その後また、大西洋の絶海の孤島というんでしょうか、セントヘレナ島に流され
るわけですね。ナポレオンが完全に失脚した後は、ナポレオンが奪ときた各地からの返還
要求が非常に強硬になります。ナポレオンが収奪した時の状況とか、あるいは作品の保存
状態とかで、いろんな条件があと、返還の業務はいろいろ錯綜していたようですけれども、
大体 2000 点以上が戻された、ということでした。
ナポレオンの奪ときたもののうち、2000 点近くが元のところに戻されたわけなんですが、
中にはこれもお話ししましたロゼッタ・ストーンのような、それと全く関係のない、本来
エジプトに戻るはずのものが戻らずにイギリスに取られたというようなこともあったわけ
です。
この頃のヨーロッパ諸国の植民地に対する認識というのは、これはナポレオンと変わら
ないところがあった。20 世紀になってもそうなんですけれども、後でお話しするドイツの
博物館の例にも見られますけれども、発掘とか見つけた文化財などを、もともとの場所か
ら持ち去としまう、略奪に近い行為を当然とするような風潮があった、これは否定できな
いところですね。
戦争や武力を背景としたものだけでもなくて、古物愛好家とか、それから考古学者らの
所業も、半ば略奪に近いものが見られたわけです。
これはこの頃だけの話ではなくて、つい最近でもそうですね。これも、前にお話ししま
したドイツのナチの侵略もそうでしたし、ソ連軍もドイツに入と自分たちのところに持っ
て行としまったとか、最近は湾岸戦争の時にイラクがクエートの博物館を略奪したとか、
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そんなことがたくさんあったわけです。悲しい出来事だったわけですね。
19 世紀になりまして、王政復古期に絵画部門が非常に充実してきます。この時期にルー
ヴル入りした作品は、ルーベンスの「マリー・ド・メディシスの生涯」とか、ジェリコー
いかだ
の「メデュース号の 筏 」、とか、ドラクロワの「キオス島の虐殺」というような有名な絵画
が入といますし、後でお話しします「ミロのヴィーナス」、これも 1821 年にルーヴルに入
といます。
1826 年にはロゼッタ・ストーンのエジプトのヒエログリフを解読しましたシャンポリオ
ンを責任者としまして、古代エジプト部というのが創設されていますし、1847 年には、古
代アッシリア展示室も開設されていきます。
ナポレオン 3 世の時期にはルーヴル美術館、非常に機能が充実していきます。
1862 年にはイタリア 14 世紀 15 世紀の絵画が大量に購入されますし、1863 年、
「サモト
ラケのニケ」の彫刻、これが収蔵されていきます。…これですね、階段を上がと行と見上
げると、圧倒的な量感に圧倒される思いがあります。
1881 年には古代オリエント部が創設されまして、やがて彫刻部が工芸美術部から独立す
るということがありました。
ちょっと飛んでしまいますが、20 世紀になって、第 2 次世界大戦の前後くらいからまた、
収蔵品が着実に増加していきます。
1985 年から 1989 年にかけて、当時のミとラン大統領のもとで「グラン・ルーヴル・プ
ロジェクト」
、大ルーヴル計画というのでしょうか、そのもとで大改築がされます。
ルーヴル宮殿にあった大蔵省などの政府機関を移転させて、ルーヴル宮殿全体をルーヴ
ル美術館にして行こうという計画でした。実際には宮殿全部が美術館になったわけじゃな
いんですけれども、その計画の中心が、I.M.ペイの設計によるガラスのピラミッドで、これ
が中庭に置かれて、その直下に美術館の出入口が作られる。店舗や食堂部門を結ぶアネッ
クスが作られる、近代的な美術館になっていきます。
ミとラン大統領のもとで、行われたわけです。チュイルリー庭園のほうから入った三角
形のピラミッド、ここから出入りするようにしまして、この地下を有効に活用しようとい
うことになっていったわけです。
なお、この改造計画の中で古い部分の中世のルーヴルの砦の遺構なども発掘されて、現
在公開されております。
こちらがセーヌ川、ルーヴル美術館の全貌であります。
このルーヴル美術館ですが、これはもともとルーヴル宮殿だったわけです。ルーヴル宮
殿も最初から宮殿だったわけではありませんで、変遷があります。最初から美術館や宮殿
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とりで
だったわけではなくて、最初はセーヌ川のもとに作られた 砦 だったんですね。その砦がだ
んだん大きくなって大きく拡張されていと、宮殿になっていきます。
まず、西暦の 1200 年頃、フランス国王のフィリップ 2 世は、パリを囲む城壁の補強の為
にその西側、セーヌ河のほとり、ルーヴルという土地だったそうですが、このルーヴルと
呼ばれるあたりに正方形の砦を作ります。
この砦、赤いところですね、砦の真ん中に丸い塔が建てられます。これは、財宝とか古
文書などを収蔵する為に作りました。
1360 年頃、このルーヴルの西側に新たな城壁が築かれました。それによって、ルーヴル
の一帯はパリ市内の内側に閉じ込められるようになっていきます。そうしますと、軍事的
な役割、砦としての役割というのを果たさなくなってくるわけですね。
さらに当時の国王のシャルル 5 世、これがルーヴルを改築して、自分の城としていまし
た。
16 世紀の前半、国王のフランソワ 1 世と息子のアンリ 2 世の時代にさらに改築がされま
して、真ん中にあった大きな塔が取り払われまして、それから西側の部分も壊されまして、
ルネッサンス様式の新しい建物になりました。
よくろう
16 世紀の後半、後にプティット・ギャルリーと呼ばれるこの翼廊が作られます。のちに
セーヌ川に沿った城壁とこれがつなげられていきます。カトリーヌ・メディシスによりま
して、城壁の西にチュイルリーの宮殿と大庭園が作られていきます。
17 世紀の初頭、チュイルリー宮殿を南に向けて拡張していきまして、セーヌ川沿いの城
壁跡に長さ 460 メートルのグランド・ギャルリーが建てられます。
ルイ 13 世の時代にクール・カレの造営が始まります。ルーヴルの西側の翼の部分が 2 倍
に伸びまして、新しく北側の翼が付け加えられます。そうなりますと、もともとの中世の
砦はもう、東の翼廊だけにしか残といないということになりました。
ルイ 14 世の治下、中世に建てられていた東翼の部分のところが取り壊されまして、一辺
約 100 メートルのクール・カレが完成します。チュイルリー宮の北側のほうに、こちらの
ほうに拡張されるという状況です。
ナポレオンⅠ世の時代ですが、このチュイルリー宮殿とルーヴル宮殿を結ぶようにして、
両サイドから拡張工事が始まって行きます。チュイルリー宮が皇帝の居城となりまして、
この東側の部分の真ん中にカルーゼルの凱旋門が建てられます。これは、今でも残されて
います。
ナポレオンⅢ世の時代、チュイルリー宮殿とルーヴル宮殿を北側でつなぐ工事をしまし
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て、さらに宮殿のこの内側の部分ですね、ここには中庭を持つ建物が、たくさんいくつも
作られていきます。ナポレオンの中庭、ですね。クール・ナポレオンを囲むようにして、
城壁が、建物が出来ていったわけです。
その後、1871 年のパリ・コミューンの時にチュイルリー宮殿が火災に遭いまして、1882
年には取り壊されます。
その結果、現在のようなルーヴル宮殿全体が西側に開けた形になります。そうして、チ
ュイルリー公園とシャンゼリゼ大通り、そしてその先には一直線に伸びるパリの大動脈の
上に位置するという現在の状況になったわけです。このはしのずうっと先のほうにコンコ
ルド広場があとシャンゼリゼ大通りにつながっていくわけです。
さて、
「ミロのヴィーナス」が 1821 年にルーヴルに入りましたが、そのいきさつを紹介
します。
これは農夫の思いがけない発見によるということです。ギリシャのエーゲ海には、多く
の島があります。その中のひとつ、ここがミロ島です。メロス島という古代の名前もあり
ます。
1820 年の 4 月 8 日、3 月末とか 2 月末という説もありますが、一般に認められているの
は 4 月 8 日ということです。
この農夫のイオルゴス、息子のアントニオ・ボトニスと一緒に畑を耕していました。
かん ぼく
耕していたところには多くの灌木がありまして、この灌木の一本を抜きますと、そこに
大きな穴が開いているのが見つかりました。この穴をのぞいて見ますと、深い洞穴が続い
ている。
そしてその洞穴をのぞいてみると、見事な彫刻像があるのに、気が付きました。
ギリシャでは最も良いと言われているパロス産の大理石で作られているもので、高さが
204 センチある裸体の女性像でした。腰から下には、衣をまとといる像が見つかりました。
これと同時に 2 個の、…3 個の、というのもありますが、ヘルメ像、その他、2,3 個の
大理石の破片も出て来ています。
これを見たイオルゴス、ただちに抱きとって、じっと見つめる。気持ちは良く分かりま
すね。確かに名作に違いない。このあたり一帯には、ギリシャ・ローマの遺跡がたくさん
あるということは、土地の人間なら良く知といることだったわけです。ですから、イオル
ゴスはこれで大儲けしようと考えたわけですね。
しら
ところが、まぁ、これは隠しておけるわけではなくて、報せがすぐに拡がりまして、フ
ランスの代理領事のルイ・ブレストの耳に入ります。このブレストは、「この地域で古代美
術を発見したような場合は、ただちに購入せよ」という指令を受けていたわけです。そこ
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でブレストに購入を持ちかけます。
イオルゴスはこれはふっかけなきやっていうことでしょうか。少なくとも、25000 フラ
ンでなきゃ譲るわけにはいかない、そんな大金は、このブレストのもとには無い、自分で
は払えない、というわけで、ブレストはスミルなっていうところの総領事に報告をしまし
た。そこから、コンスタンチノープル、今のイスタンブールですね、そこの公使リヴィエ
ール侯に報告がいきます。
その指示だったのでしょう、ミロの港にはフランスの軍艦「ラ・シュブレット」号が到
着します。この船の乗組員の中にデュモン・デュルビルという若い少尉がいました。
このデュルビル少尉、ギリシャ通でありまして、なかなかの学識のある人でありました。
ブレストが早速この少尉を連れて、問題の彫像を見せたわけです。デュルビル少尉いわく、
確かに名作だ。これはめったにない珍しいもので、おそらく勝利のヴィーナスに違いない
だろう、という事を言いました。
そしてデュルビル少尉がコンスタンチノープルに行きまして、公使のリヴィエール侯に
面接しまして、自分で書いた略図なんかを示してですね。この像が誠に美しく、まさにヴ
ィーナスに違いない、ということで説得したわけです。
公使リヴィエールも非常に感動しまして、ためらわずに自分の金でこれを買うことにし
ようということで、書記官のマルセリュスという人をミロの島に赴かせます。
ミロの島では、依然としてイオルゴスがまだ、ヴィーナスを持っていたわけですね。さ
らにそれを伝え聞いた僧侶のオイコモノス・ベルキという人が、この彫刻を手に入れよう
としました。
このオイコモノス・ベルギという人は寺院の収入を管理する役目であったそうで、この
地域の専制的な代官と組んで、非常に住民たちを恐れさせたという男だったようです。権
力を笠に着て威張といた、というか、収奪した人でしょうかね。
このオイコモノスはイオルゴスに向かと、もしこれがトルコ政府の耳にでも入ると、多
分、ただで取り上げられちゃうよ、と脅かしまして、それくらいなら、自分に渡せ、と言
ったんですね。
そこで、運び出す為のトルコの船も用意しまして、そのあたりに待機させていました。
現地にいたフランスの領事のブレストもこう言われたら、もう見ているしかなかったの
ですが、ちょうどその時、マルセリュスの乗ったフランスの軍艦シュブレット号が、また
やって来たわけです。
まさにトルコの船とフランスの船との間で取り合いになるかと思われたんです。
ギリシャ人オイコノモスの一派は、この彫像を運ぶ事を急がせまして、彫像がまさに担
がれていくというところに、シュブレット号が到着しました。フランスのブレストは岸に
降りて、フランスの兵隊を呼び寄せて、そこでフランス兵とギリシャ人の間での乱闘にな
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りました。
フランス兵が優勢でしたので、ミロの彫像はフランス側に奪われました。
その後、1821 年にこのシュブレット号でヴィーナス像は南フランスのトゥロン港に到着
しました。
公使のリヴィエールによって、
フランス国王ルイ 18 世のもとに捧げられまして、
ルイ 18 世はこれをルーヴルに寄付したわけです。
日本にも来たことがありますが、私は東京国立博物館では多分、見てないと思うんです
が、幸いにして、フランスのルーヴル宮殿では、こういう状態で写真を撮れました。写真
が撮れるということは、私一人しかここにいないということで、連れは居たんですけれど
も、こういう環境で見ることができるという、非常に贅沢な瞬間というのを味わいました。
ルーヴル美術館のインフォメーションセンターでもらえるマップを集めてみました。フ
ランス語、英語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、それから日本語、中国語、それか
ら韓国語というか朝鮮語、それから、最後はどうもアラビア語だと思うんですが、残念な
がらこれは全く読めません。ルーヴルと中国ではこうやって書くのですね。
そのマップに示されているところです。ここにピラミッドがあとここから入と行く。他
にも、入口がありまして、一度ここに並んだことがありますし、ここに並べと言われて、
並んでいたけれども、その日は職員のストライキで結局、昼まで入れなかった、という思
いをしたことがありました。
ルーヴルの地階です。マップを見ながらこんな、ピラミッドから中に入といくと、ここ
に入と行くんですね。ここにインフォメーションがありまして、マップはここでもらえま
した。このあたりがフランス彫刻、中世のルーヴルの遺構が残されて、さっきの丸い建物
の遺構ですね。壁の跡が残といます。それから、こちらがフランスやイタリアの彫刻など
が並んでいるところです。地階の雰囲気は、こんな雰囲気。
上の階に行きますと、こんな配置ですね。このところにフランスの彫刻があります。
「ミ
ロのヴィーナス」はここにあります。入ったら、一目散にここに来るというのでしょうか
ね。
それから、イタリア彫刻が。ここのところか、ここにはミケランジェロの「囚われの身
瀕死の奴隷」という彫刻。ミケランジェロの彫刻というのは、たくさん見ると私は飽き
てきた気がしました。どれ見ても、みんなこんな感じで、体をひねといるんですが、ま
ぁ、しかし、彫刻はたいしたものだと思います。
ひつぎ
それから、こちらのほうにエトルリア文明、有名な「エトルリアの夫婦の 棺 」です。仲
良く肩を抱いて、一緒にお棺に入ろうね、という姿なんでしょうか。最近は「一緒のお墓
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に入りたくない」と奥さんもだいぶ居ると聞きますけど(笑)、この時代はどうだったのでし
ょうかね。それから、こっちのほうは、中近東、それからエジプトの美術が並んでいます。
それから、2 階は絵画ですね。ちょっとずれているので、スライドの左のほうにキャプシ
ョンがあるのですが、見えません。有名なエジプトの書記座像だとか、それから、ここの
ところは王冠が並んでいる。これとは違いますけど、そのうちのひとつ。
3 階にいきますと、フランス絵画がたくさん並んでいる。こちらのほうはドイツやフラン
ドル地方の絵画などがあります。
フェルメールの「レースを編む女」、それからアングルの「トルコの浴場」、ラ・トゥー
ルの「いかさま師」
、というような絵が並んでいるところです。
ルーヴルはこれくらいにしまして、もう一つのオルセー美術館、これも日本の人には非
常に人気のあるところといといいでしょうか。
もともとオルセー美術館は、鉄道の駅でした。オルセー駅は、終着駅をなるべく都心に、
都市の中心に近づけたいという要請から作られたところです。
オルレアン鉄道という鉄道がこのオルセーというところに土地を手に入れまして、作り
ました。ここにはもともと会計検査院の建物があと、それが先程のパリ・コミューン、1871
年のパリ・コミューンで焼けたオルセー宮殿の廃墟となっていたところでした。
鉄道の駅としての建物が 1900 年の 7 月 14 日に落成しています。しかし、既存の鉄道も
だんだん経営が困難になっていって、1939 年には鉄道線としての交通が打ち切られること
になります。
このオルセー駅を 1973 年以降、フランス美術館局の意向にこたえまして、ポンピドー政
権のもとで美術館への改築が始まりました。
そして、19 世紀後半の芸術を集めた美術館となっていきます。これが、駅の時代のオル
セー。これが美術館になってからの建物です。そのまま利用しています。あとで、駅の名
残りは何か所か紹介させていただきます。
これも、マップです。0 階になっていますけど、日本風に言いますと 1 階ですね。
左側が出入口。ここからこう入と行きます。ここに、どこの部屋に誰の絵があるよ、と
いうことが書いてあるんですけれども、アングル、ドラクロワ、とか、マネ、モネとか、
ルノワールとかですね、おなじみの名前が並んでおります。
学校の美術の時間に美術の教科書なんかでも見たような絵が、たくさん並んでいるわけ
ですね。
ここは中二階みたいなんですけれども、アカデミズム、自然主義とか、印象主義、アー
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ルヌーボーなどの絵画などが並んでいますし、彫刻もテラスには置かれています。
飛びまして 5 階。このフロアに印象派の絵がたくさん集められています。オルセーには
私、2 回行ったことがあるんですけれども、1 回目は 2007 年で、この時はこの美術館の中
で写真は撮とも良かったんですが、その次、2012 年に行った時には、このフロアももちろ
ん、写真撮影は禁止ということでした。
どうしてそうなるのか、良く分からないのですが、イタリアの博物館でよく経験したの
ですけれども、ある時まで写真撮影が良くて、ある時から突然だめになっちゃった、とい
うことがよくありました。
ここ、オルセー美術館は絵画などが多いわけですから、写真撮影禁止というのはしかた
ないかなって思わないことはないのですけど、ちょっと残念でした。
このオルセーの外観、こちらは入口のところです。
それから、駅だったという名残りがありますので、これを見ると、そのちょっと前の、
この時計はまだそのままだし、それからもう一つ、反対側のところに時計が、ドアに向け
た時計があります。それから、建物の屋根を支える構造というのは、鉄骨を使ったものが、
そのまま残されています。こういうものを上手く使と、美術館に改装したんですね。
2012 年の時にこのレストランでランチを食べました。その時のメニューです。値段は忘
れましたが、時間で見ますと、ランチタイムが 11 時 45 分から、2 時 45 分まで。ディナー
が木曜日だけですが、7 時から 9 時まで。それから、ティールームお茶の時間が 3 時から 5
時まで、木曜日以外、というふうな時間が示されていました。
フランス料理、結構おいしかったです。デザートにアイスクリームを頼んだら、3 種類出
てきて、体のことを考えずに、全部食べてしまいました。
次に、ドイツです。
ドイツ博物館、ここは何回も紹介させて頂いておりますけれども、1906 年にできた博物
館です。この博物館は、この写真の人、オスカル・フォン・ミラーという人の熱意と情熱
によって作られた博物館です。このミラーは 1879 年にパリで工芸院博物館を見て、ロンド
ンのサウスケンジントン博物館、これは現在はロンドンの科学博物館とヴィクトリア・ア
ンド・アルバート美術館になっているんですけれども、その、ふたつに分かれる前のサウ
スケンジントン博物館、これを見て、非常に強い印象を受けました。
それらを見てミラー自身が、ドイツの発展と繁栄の為には大規模な技術博物館が必要だ
という考えを持ちまして、その設立を広く訴えます。その結果、1906 年にドイツ博物館が
仮展示がミュンヘン大学の中に開設されます。現在の場所に正式に開館するのは、第 1 次
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世界大戦の影響もあったということで、1925 年のことです。
ミラーは 1881 年にパリで国際電気博覧会、世界最初の電気の博覧会なんですが、それを
見まして、そこで電気の技術というものが人間生活に非常に大きな影響を及ぼすという事
に感動します。そこで翌 1882 年にミュンヘンで国際電気博覧会を自ら開催しました。
81 年のパリの博覧会では、エジソンの白熱電灯が出品されて注目されました。ミラーは
パリの博覧会の時に、長距離送電、電気を送ることの実現性についての講演を聴きまして、
電気文明が到来するんだ、ということと、それから長距離送電の重要性というのを感じ取
りました。自ら開催した 1882 年のミュンヘンの博覧会では、57 ㎞の送電のデモンストレ
ーションを行いました。
ミラーはその後、バイエルン地方での水力発電、水力電気開発に従事しまして、ミラー
自身が水力電気開発という分野で、ドイツの産業革命を担ったということになります。
こういった活動を通じまして、ミラーはこの技術、工業を発展させ、ドイツを豊かにす
る、その為には国民一般に対する技術教育が不可欠だという結論に達しまして、特に青少
年に科学技術への進路を選ぶキッカケとなる場を提供しようと、科学技術の普及発展の為
に博物館を作と、それは単なる陳列場ではなくて、積極的な教育の場として活用しようと
いうように考えました。
国民の為の科学技術教育の場、そういう性格を非常に重視したわけですが、その為に見
学者の興味を引くような新しい展示方法を導入していきます。死んだ機械を並ばせる、つ
まり機械をただ並べて置くだけでは、それだけでは人々の興味を引かない。もちろん、機
械そのものの展示というのは有効で、専門の技術者には役立つだろうけれども、一般の人
がそれを見ても機械があるだけだ、で終わってしまうだろう。そこで、このドイツ博物館
では見学者が自分で動かせる機械を展示するとか、あるいは機械の一部を切り開いて、中
が見えるようにする、カットモデル、これを並べるとか、それから多くのジオラマを作と
説明するとか、ガイド付きの見学もするとか、ですね。また、展示だけではなくて、実験
講義とかデモンストレーションなども行う、というような工夫もしました。それで、こう
いったディスプレイを可能にするような工作室とかアトリエとか印刷所も常設されていま
す。大規模な図書館も併設されていったわけです。
また、ドイツ博物館は年中無休、勤労者の為に夜間まで開館する。それから勤労者や青
少年に対しては入館料の割引をする。ミュンヘンから遠いところからやって来る人の為に
交通費の補助もするということもしましたし、また、外国人の為に外国語で案内する人た
ちも配置した、そんなことも注目されます。
どうたい て ん じ
こういうカットモデルだとか、自分で動かせる動態展示といいますが、そういった展示
やジオラマによる展示だとか、このような展示は現代では多くの博物館で当たり前のよう
にみられる展示手法ですが、これはまさにミラーのドイツ博物館によって初めて実現した
ものです。
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このドイツ博物館のパンフレットを集めてみました。
ここでは、日英独、スペイン語、フランス語、イタリア語が並んでいました。これがド
イツ博物館のシンボルマークなんですね。
この写真は、もともとがぼけちやっているんですが、ドイツ博物館の入口のところとそ
れから、前庭にある飛行機の展示、その様子です。
ここもマップによって紹介しますが、1 階と地下のフロア、ここが入口ですね。この辺に
インフォメーションセンターがあります。
いろいろなものがあるんですが、22 番 23 番 24 番は、地下ゾーンにあります。22 番の地
下資源採掘というところ、出入口がここのところです。
それから、子どもの国がこういう階段があとここから入と行きます。あとで紹介します。
それから、環境はここから入と行きます。地下は非常に多くのスペースが、地下資源採
掘というところに充てられていまして、ここも後で紹介します。
ここに見られるような、いろいろな分野の技術とか機械といったものが所狭しといとも
いいくらい並べられています。2 階は博物館の歴史から始まりまして、薬学まであるわけで
すが、このドイツ博物館の歴史の展示室があります。ここに最初に行ったのは 1994 年でし
たか、その時はこの歴史の部屋はもっと大きかったんですが、最近行った時には縮小され
ていました。ドイツ博物館が爆撃を受けたときの様子とかも示されていました。
3 階 4 階 5 階から 7 階までですが、ここには 2 回行きましたが 2 回とも一日だけここで
過ごしましたが、展示を見るというよりも、博物館の中を歩いたというのが正直なところ
です。でも、中には、面白いところがあと足を止めて見入としまったものもありました。
今紹介したマップの中には無かったですが、94 年に行ったときには、自分で実験の出来る
装置というのがありまして、確かに水の電気分解で、ボタンを押すことによって水が電気
分解されて、気体になって来るというのを、ケースの中側ですけれども、そこでやってく
れるというのがあと、そこのところがあんまり面白くて楽しいので、つい写真を撮るのを
忘れてしまい、その時のデータを今は全然持っていない、非常に残念です。
なお、3 階にアルタミラ洞窟がありまして、なんで科学博物館にアルタミラ洞窟があるん
だろうとちょっと不思議なのですが、ドイツではない旧石器時代の洞窟壁画があるアルタ
ミラ洞窟の展示室があります。
なぜ、今、アルタミラ洞窟を紹介するかと言いますと、実は、来年の話なんですが、来
年の 3 月の末からこの当館で、アルタミラではないんですが、同じような旧石器時代の洞
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窟壁画で有名なフランスのラスコー洞窟の展覧会を開きます。3 月の末から、これは国立科
学博物館と九州国立博物館とまわって、ここにやって来るのですが、来年の宣伝なんです
がその関係もあって紹介しました。
こんなにたくさん、項目で 59 項目挙がといるわけですけれども、正式開館 1925 年の頃
のドイツ博物館の展示の項目というのはこういうような所でした。
や きん
地質、鉱山、冶金。鉱山というところなどは地下資源ということにつながるのです。当
時のものが今でもあるはずです。
とにかく、こういう多様な分野の科学についても、展示をし、それによって、青少年た
ちに科学の心を起こさせようということを考えたわけですね。いくつか、展示なのですが、
工作機械、これはスイッチを押すと、動くものもありますし、右側はこれ船なのですが、
半分切られて、中が見られています。それから機械も支えがあって蓋が開けられていまし
て、機械の中身はこうだよ、というのが見えます。
右下の写真、これはキンダースペースかな。子どもスペースなんですが、この階段、降
りて行きます。ここに言葉が書いてありまして、この展示は 3 歳から 8 歳向けだと、それ
と保護者。子どもと一緒でない大人はお断りですよ、と書いてありまして、残念ながら子
どもを連れていませんでしたので、中を見たかったんですけれどみられませんでした。
イタリアのローマにある子ども向けの科学博物館に行った時は、ここも子どもと一緒じ
ゃないとだめだ、と書いてあったんですけど、無理やり、自分は博物館学の研究者である
とか言とですね、見せてもらったことがあります。
それから、同じく、次回に、紹介すると思うんですが、アメリカのボストンにあります
有名な子ども博物館。これは子どもがもちろん中心なんですけれども、世界中から見学す
る人が来るんですね。私もその一人になりまして、大人だけはこういうタグかけて行きな
さいとなっていて入れてもらって子ども博物館を見てきました。
それから、このドイツ博物館で、私自身が最初に行った時にびっくりしたことのひとつ
はこれでした。
ユー
ちょっとぼけ気味で申し訳ないですが、U ボート、潜水艦の展示ですね、ドイツ海軍の U
ボートです。ドイツ海軍の U ボートと、私の持っていた印象というのは、これはもう、第
一次世界大戦からとにかくあちこち出没して、連合軍の船を片っ端から沈めたというもの
で、まさに兵器ですよね。
この兵器が科学博物館に展示されているといったことに驚いたわけです。同時にこの科
ブイ
学博物館、ドイツ博物館では、確か、 V ロケットも展示してありました。ところが V ロケ
ットというやつも、第二次世界大戦でロンドンの空襲にさんざん使われたロケットで、兵
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器ですね。そういった兵器の展示がありました。
日本の国立科学博物館に兵器が展示されていますか?飛行機は展示されていますけど、
あそこではあまり兵器と感じはしないですね。最近、ゼロ戦が飛んだ、というニュースが
ありましたけど、ゼロ戦は展示されています。
博物館というのは、平和を象徴するものだ、というふうに思い込んでいたものですから、
こういう武器兵器があることをよく考えてみると、確かに武器兵器というのは、科学技術
の発展のひとつの大きな成果でもあるといえるわけですね。そのことを改めて思い知らさ
れた、という思いがあります。
潜水艦は、もちろんここで使といるわけではなくて、やはり、中が見えるように壁を取
り払と見られます。なるほど、こんな狭い空間なんだなっていうことが良くわかりました。
同時に大きさにも圧倒されたところがあります。
ちなみに潜水艦ですが、日本でも展示されている潜水艦に乗れるところがあります。
くれ
広島の呉なんですが、最近できた有名な戦艦大和のミュージアムがあります。戦艦大和
ミュージアム、これは通称でして、本当は呉市海事歴史博物館という博物館。海のことと、
歴史のこと。呉市海事歴史博物館というと、行こうと思う人あまりいないかもしれません
ね(笑)。そんなこと言うと、怒られちゃいますけど。呉の戦艦大和ミュージアムというと、
これは興味引く人がたくさんいる。ここの博物館と比べ物にならないくらい、たくさんの
人が訪れているそうですが、戦艦大和の 10 分の 1 の模型が置かれています。その博物館の
建物の横に海上自衛隊の展示がありまして、博物館の横に潜水艦が浮き上がといましてそ
こは中を見ることができます。中に入ることができる、ということです。私は入とおりま
せんが。
あと、船の展示というとこんなふうにケースの向こう側に船の模型があったり、それか
らこれらの船の中を通ることができるというような空間も作られています。
それから自動車も半分カットされて、ですね、カットされた自動車にナンバープレート
が付いているというのも面白いなぁ、と思いましたが、こういうものとか、ラヴォアジエ
の実験室の再現のジオラマが展示されています。
それから 22 番の地下資源の採掘、ここはジオラマが多用される空間でして、ここの階段
を降りて中に入と行と、地下 2 階に行くとこういう展示があるところを歩いて行くんです
ね。地下のゾーンで、私が行った時には誰もいなくて写真を撮りながら見ていましたら、
いつの間にか後ろから、コツコツ、コツコツ、と足音がしまして、閉鎖空間で後ろから足
音して来るのと、怖いものですね。その足音の人、別に悪い人ではなくて、この館の人だ
ったんですが、何かこう、ちょっと怖くなって、身構えた覚えがあります。もともと、閉
ざされた空間と好きなほうじゃないので、そんなことがあったのかも知れませんが、実際
の採掘の様子というのがジオラマで再現されていますし、これは岩塩の採掘の状況ですか、
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これが古いところから近代にいたるまでの採掘の模様というのが見られます。
それから、今の博物館の本体ではないのですが、ドイツ博物館の交通センターという場
が別に設けられていまして、交通関係のものを集めたところで、ここはもっと徹底して、
カットモデルを使と、機械の中を見せたりしていますし、ボタンを押すと、動かせる。こ
れはカットモデルじゃないのですが、ちょっと面白いサインで、下のほうにPlease do not
touch 手を触れないでください、触らないでくださいの表示のサインはここの博物館にもあ
りますが、ここの博物館のものは手の形に線が引いてあります。ここでは、ものがあって
手が後ろに回っていました。触らないで、で別に触ると手が後ろに回るよ、という表現で
はありません。
もう一ヶ所、ベルリンの博物館の紹介をします。
旧東ベルリンですが、そこには世界遺産となっている博物館島と呼ばれている地区があ
ります。ここに 5 つの博物館があります。旧博物館、新博物館、旧国立美術館、ボーデ博
物館、ペルガモン博物館、が集中しています。
この概要ですが、旧博物館、旧とか新とか書かれると、古い博物館、新しい博物館、と
いう意味合いになってしまうんですが、必ずしもそういう意味でもない。この場合は古い
か新しいか。開館年ですね。旧国立美術館、これは古い、でなくて、新もある、…まぁ、
ある程度、旧と新、日本語で旧国立美術館と書かれますと、もとは国立美術館だった、と
いうことになっちゃいますが、そうではありません。
それから、もうふたつ。ボーデ博物館とペルガモン博物館。ボーデ博物館の方はこうい
う内容なので、ちょっと敬遠してここだけは入りませんでしたが、他の 4 館は行っていま
す。ちょうど、新博物館は、リニューアルオープン直後だったので、入館制限もありまし
て、事前に予約をしてから入るということをしました。ここに入る時に、博物館島で最初
に行ったのはこれから紹介するペルガモン博物館なんですが、ペルガモン博物館のチケッ
トを買った時に、係の人が新美術館にも行くか、と聞いてくれまして、行くつもりだ、と
言うと、明日の予約はここで取れるからと勧めてくれて、それで、行くことができました。
このペルガモン博物館の紹介をします。
ペルガモンという遺跡からの出土物なんですが、ペルガモンの遺跡は、小アジアの西岸、
トルコ半島の西岸のここにある都市、現代のベルガマ、という地名の都市です。ここが紀
元前 282 年にセレウコス朝から独立しまして、ペルガモン王国の首都として、あったとこ
ろです。
当時はアレキサンドリアと並ぶ大都市となりまして、ローマ帝政期に第 2 盛期を迎えて
おります。遺跡は東西を河に挟まれた標高 333 メートルの小さな丘、小山の頂上とそれか
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ら中腹、それから、その小山のすそ野の 3 面に分散しています。その頂上部にヘレニズム
時代の王家の宮殿群とか、アテナ神域及び図書館、ゼウスの祭壇址がありました。このゼ
ウスの祭壇址もこの後、紹介します。
ローマ期の大劇場やってラヤヌス神殿などもありました。
中腹のところに、ギムナジウムとか、デメーテル神殿などがあったり、そのところには、
ローマ時代のスタジアム、劇場などがあるという大きな遺跡でした。
今紹介した、ゼウスの祭壇址なんですが、これが現在はペルガモンではなくて、ペルガ
モン博物館の中にある。祭壇址は紀元前 2 世紀、ですね、紀元 110 年から 160 年頃という
ことですが、ペルガモンで建造された大祭壇なんですが、これが博物館の中に再構築され
ています。
このところ、全長 100 メートル以上にも及ぶ浮彫があります。これは、ギリシャ神話の
中の神々と巨人族、ジャイアントですね、この戦いを表したものでして、ヘレニズム期の
彫刻の代表的なものとされています。これが、1864 年にドイツ人のカール・フーマンとい
う人が発見しまして、ドイツに持ち帰ったのです。トルコで発掘して、総重量が 1000 トン
にも及ぶと、そういう遺跡をそのまま軍艦に載せてベルリンまで運んでしまったというか
ら、まぁ、えらいことをやるもんですね。
この、ペルガモンの大祭壇も一時、シュリーマンの宝物と共にベルリンのツオー高射砲
の中に保管されていました。ですが、一旦、これも略奪されまして、レニングラードに運
ばれましたが、その後、東ドイツに返還されてこの博物館に取り戻されたものです。
非常に見事な、浮彫レリーフがこう並んでいます。大きさはスライドに人が入っていま
すので、わかっていただけるかと思うんですが、こういうことをするんですよね。ひとつ
の遺跡から、丸々持って帰っちゃう。19 世紀ですから、そういったことが当然だったとい
う風潮、ナポレオンの時と同じようなことがあるわけですね。
それからまた、この博物館の目玉といいますか、バビロニアの「イシュタール門」の再
現があります。これはひとつの写真に合成しようとしたのですけれど、残念ながらできま
せんで、この部分がこれですね、こちら側に柱が建っているということです。
紀元前 560 年頃の「イシュタール門」、バビロニアのバビロンの中央北入口の門を飾とい
た装飾。これが再構築されています。
これはきれいな青い地の上薬をかけたレンガで覆われた壁面にですね、牛・馬みたいな
ものの、ちょっとした浮彫みたいなものがあります。
1930 年代にモザイクで彩られて完成されています。現在のイラクで発見して、この部分
だけを切り取と運んで、再現しているものです。非常に細かなものがあと、というわけで
す。
この青い色は写真で見るより、とってもきれいな青。紺というか群青というか、とても
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きれいな色でした。これは、その中のひとつ。角がありますから、牛ですかね。その上な
んですが、これ、見てください。ここの部分ですけども、よく貼られていますよね。ひと
つひとつの破片を貼りあわせる。私たち、土器を復元する時に、細かくくっつけて行って、
なんとか 1 個の土器に復元するということが良くありますが、これを見たときは、
“ここま
で、よくやるなぁ”と、感心した次第です。
一般化しちゃいけないのかも知れませんが、いい面でのドイツ人のしつこさというのが、
出ているのかなって思いました。他にもありまして、例えば、ドイツで第 2 次世界大戦中
に爆撃を受けて壊れてしまった建物なんかを、建物だけじゃない、街そのものもまた、元
の通りに復元する、ということもやっています。細かいところまで凝って直す、修理する、
というのは、これはドイツ人の優れたところといっていいんでしょうね。
それから、この、門に続く道が、これも再現されていました。ずっと続いて行きます。2
枚の写真ですが、大体、同じ高さになるように並べたわけですが、こうやって道があるわ
けです。
もうひとつ、エーゲ海の古代都市ミレトゥスの市場門、というのがあります。これは紀
元前 120 年頃のローマ時代くらいのものとされていまして、これも全く、そのままの遺跡
から持って来て、この博物館に再現して、というところ。
これも大きいので、1 枚の写真に撮れなくて、こういうことになっているんですが、何と
か、1 枚に合成しようとして努力して、結局、食い違っていますけれども、こんな大きさで
す。人が写っていますので、大きさはお分かりいただけるかと思うんですが、このペルガ
モン博物館の中に、もともと現地にあったものが、博物館という建物の中に、しかももと
の存在場所を遠く離れたベルリンという街の中の博物館に再現されているということで、
全体として、私自身は違和感を持っているといったところがあります。
「ロゼッタ・ストーン」とか、
「ミロのヴィーナス」とか、ああいう、ひとつひとつの遺
物と言われるもの、移動可能なものが、その遺跡から離れて博物館にあるというのは、何
となく理解できるところはあるのですが、遺跡そのものが遺跡から離されて、こういう場
所にある、ということについて、違和感があります。遺跡というのは、現地にあるべき、
こういうようなことができたのは、19 世紀だからできたことで、今では多分許されないこ
とだろう、と、多分、じゃない、絶対に許されないことだといえます。
日本でも、遺跡そのものを動かしてしまう、移築してしまう、ということは、やられた
ことがあります。現在の世界遺産の考え方のもとになったエジプトのアブシンベル神殿。
ここではナイル川にダムを作るので水没してしまう神殿を、水没しない高いところに移築
するということがされたわけですね。その時も日本の技術というのは、かなり威力を発揮
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しているんですけども、遺跡というのは、切り取って移してもいいんだという考え方だっ
たわけですが、これはちょっと別ですね。
日本であった事例というのは、九州の佐賀県で、福岡県から長崎県の方に行く高速道路
を建設する時に、建設予定地に古墳群が引っかかりまして、その古墳群が非常にまとまり
があった古墳群で、時代的にも、いくつもの時代のものがあると、もちろん発掘調査をし
まして、その成果が認められたんですが、その時に高速道路を曲げることはせずに、高速
道路はそのまま、まっすぐに通しまして、古墳群自体を一段階高い段丘の上に移設すると
く ぼいずみまるやま
いうことをしました。久保泉丸山遺跡公園という公園ですが。
でも、あまり、遺跡そのものを動かすということは、日本ではされていません。こうや
って遺跡を現地から持って来ちゃったことに、違和感を持った、と申し上げたんですが、
その一方で、最近の状況を考えますと、中東におけるISやタリバンの勢力による遺跡の
破壊だとか、ああいうことを見ますと、考えてしまいます。中東のパルミラの遺跡が破壊
されてしまって、遺跡を守ろうとした現地の非常に著名な考古学者がISの犠牲になった
りということもあります。
そういう状況を見ると、原則は現地に置いておくということ、まぁ、そうでなければな
らないと思うんですが、本当にそれだけでいいんだろうか、ということも考えさせられて
しまった、最近の出来事ですね。
イギリスが未だにパルテノン神殿の彫刻を返還しない、その大きな理屈は、パルテノ
ン神殿の彫刻が大英博物館の中に置かれていたからこそ、現在まで残ったんだ、という理
由も唱えています。それも、ある意味、説得力のあるものに最近なってしまったというの
が、ちょっと残念なところでもあります。
だから、これを見て、遺跡は現地に置くべきだということを、あらためて思うのです
が、果たして、それだけで良いのか、という思いもまた、持ってしまうのが、最近の私の
心情でもあります。
フランスとドイツということで、大きな博物館を紹介してみました。
用意したお話はこのくらいで、いつものスライドでお話を終わらせて頂きます。
司会:鷹野館長、ありがとうございました。第 8 回の「フランスとドイツの博物館」に
ついて、お話を頂きました。いま一度、拍手をお願いします。
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