最終稿PDF - 金沢大学人間科学系 柴田正良研究室 科研費研究テーマ

Self-Sampling Assumption と 因 果 的 世 界
柴田正良(金沢大学)
本 稿 は 、 人 間 原 理 的 推 論 (anthropic reasoning)に お い て 決 定 的 な 役 割 を 果 た し て い
る 観 測 選 択 効 果 (observation selection effects)に 関 す る ボ ス ト ロ ム (N. Bostrom)の 議 論 (B
ostrom [2002])を 紹 介 し な が ら 、 そ こ で 提 起 さ れ て い る Self-Sampling Assumption (SS
A)、 も し く は そ の 強 化 版 (Strong SSA : SSSA)が も つ 説 明 方 法 と し て の 意 味 を 、 因 果 的
世界に住む行為者の観点から眺めることを目的とする。しかしながら、この「眺める」
という言葉が示唆するように、本稿は、ボストロムの議論の正確な評価を目指したも
のでもないし、また人間原理や観測選択効果について特定の見解を提案するものでも
ない。むしろここで行われることは、決定論的な世界において<自由>の概念がどう
いう内容を持ちえるのかというすこぶる古典的な問題に関して、ボストロムの議論から
得られたヒントを素直に書きつけておくことだけである。本稿の議論は、その意味で、
いまだまったく熟していない。
1 . SSA と は 何 か ?
宇宙物理学のよく知られた議論によれば、宇宙が、われわれ人間のような知的観
測者の存在を可能にするような条件を持つためには、独立したいくつものパラメータ
(自然定数)が現にあるバランスを保って特定のきわめて狭い範囲内に収まらねばな
ら な い (1)。 つ ま り 現 に あ る よ う な 宇 宙 の 出 現 は 、 き わ め て 微 妙 で デ リ ケ ー ト な パ ラ メ ー
タ 相 互 の 微 調 整 (fine tuning)の 上 で 初 め て 成 り 立 っ て お り 、 パ ラ メ ー タ の 純 粋 な 組 み 合
わせという観点からすると、ほとんどゼロに近い、ありそうもない確率の出来事なので
ある。このようなありそうもない微調整が現になされ、しかもそこにたまたまわれわれ
が住んでいるということは、ある種の奇跡の念を呼び起こすかもしれない。まず、たっ
た一つのこの宇宙で、非常に多くの違ったパラメータの組み合わせが可能であったに
もかかわらず、信じられないくらい低確率のこの組み合わせが実現した。しかもわれ
われが、他ならぬそんな低確率の宇宙に出くわし、それを観測しているのは、最近の
ドリームジャンボに当たるよりもありそうもない出来事だろう。このありそうもない偶然
は、何とかして説明してもらわなければ、落ちついて夜も眠れない(?)。
もし宇宙の有様を決定するパラメータ相互の微調整が何かもっと深い物理的な原因
によって決定されているなら(万物の究極理論)、ここにあるのは驚くべき偶然などで
はまったくなく、むしろ一つの物理的必然性であろう。またもし、神のような超越的創造
者が意図的に人間の存在を生み出すべくこの宇宙の状態を配慮したならば、パラメー
タ相互が微調整されているという事実そのものには驚くべきことは何もないだろう(デ
ザイン論証)。何しろ彼がそのように作ったのだから。しかし、もしその二つの説明が
それぞれの理由であまり説得力をもたないとしたら、この宇宙の微調整は、掛け値な
しの偶然による他はないのだろうか(偶然論)?
微調整を奇跡にしてしまわずに、なんとかわれわれの気を落ちつかせてくれる説明
の 一 つ は 、 多 宇 宙 論 (multiverse theories)で あ る 。 個 々 の 理 論 に よ り 多 宇 宙 の 有 様 に は
さまざまなヴァリエーションがあるとはいえ、ともかくそれらによれば、きわめて多くの
宇宙が存在する。それらの宇宙はあまりに多く存在しているので、どのようなパラメー
タの組み合わせもどこかの宇宙では実現されていることになる。つまり、 1 万個のサイ
コロを同時に振ってすべてが 6 の目になるようなことはおよそありそうもないことだが、
サ イ コ ロ を 100 万 の 100 万 乗 回 ほ ど も 振 れ ば 何 遍 も お 目 に か か れ る と い う 理 屈 だ 。 し
たがって、十分多くの数の(タイプの)宇宙が<実際に>存在しているとすれば、微調
-1-
整された宇宙が存在している確率もほぼ 1 になるだろう。
しかし、多宇宙の存在によって<この宇宙のように微調整された宇宙の存在>が保
証され、そのような宇宙が少なくとも一つ存在することは不思議でも何でもなくなるとし
ても、それによって本当に、われわれがそのような宇宙に存在し、それを観測している
ことがもはや不可解な謎ではなくなるのだろうか? この問いは、それが曖昧な分だ
け錯綜した要素を含んでいるが、明確にしうる問いと答えの一組ならここで与えること
ができる。それが、観測選択効果のポイントである。観測が可能であるのは観測者が
存在する限りである。したがって、観測者の存在が可能でないところでは、観測は行
われえない。とすれば、われわれが観測するものは、観測者としてのわれわれの存在
を許容するような宇宙でしかありえない。それゆえ、もしわれわれが宇宙を観測するな
ら、観測される宇宙は微調整された宇宙でしかありえないはずである。したがって、も
し多宇宙においても微調整された宇宙は特異な存在であり、その数がきわめて限られ
たものだとしても、少なくとも一つそうした宇宙の存在が保証されているなら、観測者と
してのわれわれの観測する宇宙が、そうした微調整された宇宙であることはきわめて
ありそうなことだろう。
いいかえると、われわれの宇宙がしかじかのパラメータの値をもっているということ
(e)が 、 た っ た 一 つ の 宇 宙 し か 存 在 せ ず 、 し か も そ の 微 調 整 が ま っ た く の 偶 然 に よ る と
い う 仮 説 (hs)の 下 で よ り も 、 莫 大 な 数 の 宇 宙 が 存 在 し 、 そ の 中 に は 少 な く と も 一 つ の 微
調 整 さ れ た 宇 宙 が 存 在 す る と い う 仮 説 (hm)の 下 で の 方 が 確 か ら し く な る に は 、 あ る 条
件が必要だということだ。その条件こそまさに、観測者の存在という観測条件が、微調
整された宇宙をわれわれの宇宙として選び出してしまう、という観測選択効果である。
こ の 観 測 選 択 効 果 に よ っ て 、 多 宇 宙 仮 説 (hm)の 下 で の 微 調 整 (e)の 条 件 つ き 確 率 は 、
偶 然 仮 説 (hs)の 下 で の (e)の 条 件 つ き 確 率 よ り 高 く な り ( 両 仮 説 が そ れ な り の 事 前 確 率
を も つ と い う の 前 提 の 下 で ) 、 そ れ ゆ え 、 微 調 整 と い う 証 拠 (e)の 下 で 、 多 宇 宙 仮 説 (hm)
の 事 後 確 率 は 偶 然 仮 説 (hs)の 事 後 確 率 よ り も 高 く な る こ と が で き る の で あ る 。 も し こ こ
で観測選択効果が働かなかったとしたら、つまり、われわれの観測する宇宙が微調整
さ れ た 宇 宙 に 制 限 さ れ る と い う 条 件 が な い の だ と し た ら 、 そ も そ も 、 多 宇 宙 仮 説 (hm)
は 、 わ れ わ れ の ( 観 測 す る ) 宇 宙 が 微 調 整 さ れ て い る と い う こ と (e)に 高 い 条 件 つ き 確
率を与えることはないであろう。というのも、その場合、われわれの(観測する)宇宙が
微調整されていないタイプの宇宙であることの方が(たぶん)ありそうだからである。
この観測選択効果を、レスリーは次のような喩え話で説明している。
あ な た は 水 面 の 濁 っ た こ の 湖 の 底 の ほ う に 、 23.257 イ ン チ の 魚 が 住 ん で い た こ と を
知っている。というのも、あなたはたった今その魚を釣り上げたからである。あなたは、
湖に関するこの事実をさらに納得させるような強力な説明を必要としているだろうか。
もちろんそんなことはない、とあなたは考えるであろう。どんな魚でも何らかの長さをも
っていなければならないからである! しかし、次の瞬間に、あなたの釣り道具がまさ
に こ の 長 さ の プ ラ ス ・ マ イ ナ ス 100 万 分 の 1 イ ン チ の 魚 だ け を 釣 る よ う な タ イ プ で あ っ
たことに気づいたとしよう。そうするとどう考えるであろうか。多分、ふたつの選択肢が
考えられるであろう。湖には非常に多くの異なった魚が泳いでいて、あなたの道具は
そのどれかを釣るのに適していたのである。あるいは、恵み深い神があなたを哀れん
で 、 ま さ に そ の 道 具 で 釣 れ る 魚 を 湖 に 泳 が し た の で あ る ( 引 用 は 、 伊 藤 [2002] p.168-9
の翻訳から)。
結局のところ、観測選択効果は、観測される対象の性質の範囲が観測を可能とす
る条件によって決定される、という一般的な方法論的真理を述べたものだと解すること
-2-
ができる。そこで極端な場合、観測を可能とする条件の一つとして、レスリーの湖の例
のように観測手段の何らかの特性というのではなく、観測者の存在そのもの、あるい
は < い ま 私 は 観 測 を し て い る > と い う 指 標 的 要 件 (indexical component)も ま た あ る だ ろ
う。いやむしろ、この指標的要件こそが、人間原理的推論において観測選択効果が決
定的に効いてくる点だ、というのがボストロムの主張である。つまり、観測される対象
が観測者の存在を含む時空領域、もしくは宇宙のようなものである場合、この指標的
要件は、逆に、観測をしている自分がどのような領域に自分を見出すか、ということを
制 約 す る 条 件 と な る で あ ろ う 。 つ ま り ど の 観 測 者 も 、 観 測 者 全 体 の 準 拠 集 団 (reference
class)が 何 ら か の 仕 方 で 前 提 さ れ た な ら ば 、 そ の 中 で は 、 他 の 領 域 で は な く 、 < 自 分 が
観測していること>の確からしさを高めるような領域に自分の存在を見出す可能性が
高 い (2)。 と い う こ と は 言 い か え る と 、 そ の よ う な 領 域 と は 、 ( 観 測 者 と し て の 限 り で の )
どの観測者にとっても自分が存在している可能性が高いと考えるべき領域であるか
ら、(観測者としての限りでの)どの観測者にとっても、最も多くの観測者が存在してい
るだろうと考えるべき領域である。それはすなわち、観測者は自分を、最も多くの観測
者が存在する領域に存在する可能性が高いと考えるべきだ、ということであり、そのよ
うな領域に存在する観測者とは、他の異端的な観測者と比べてその多さのゆえに、典
型的な観測者だということになるだろう。つまり、観測選択効果の指標的要因は、観測
者が自らを典型的な観測者、つまり観測者全体の集団から見てランダムな観測者だと
見なすように、観測者をうながすのである。ボストロムの議論のたどった道が正確にこ
れ で あ る か ど う か は 定 か で な い が 、 彼 に よ れ ば 、 観 測 選 択 効 果 は 次 の SSA ( 自 己 サ
ンプリング原理)の応用の一つである。
SSA: あ な た は 、 自 分 を 、 自 分 の 準 拠 集 団 に 属 す る す べ て の 観 測 者 の 集 合 の 中 か ら
ラ ン ダ ム に 取 ら れ た サ ン プ ル で あ る か の よ う に 見 な す べ き で あ る (Bostrom [2002] p.5
7)。
例えば、カーターの<弱い人間原理>は、この宇宙におけるわれわれの居場所は
観測者としてのわれわれの存在と両立可能なようなものでなければならい、と主張す
るが、それは、われわれは観測者を含まない時空領域は観測しない、ということに等
し い 。 SSA は 同 じ 結 果 を も た ら す 。 と い う の は 、 あ る 領 域 に 観 測 者 が 含 ま れ て い な い
なら、観測者全体から選ばれたサンプルがその領域に存在する可能性はゼロだから
である。また、カーターの<強い人間原理>によれば、もし多宇宙が存在し、その中
の幾つかの宇宙にのみ観測者が含まれるなら、われわれが観測するのは観測者を含
む宇宙の一つでなければならないが、それも同様に、われわれは観測者を含まない
宇 宙 を 観 測 し な い 、 と い う こ と に 等 し い 。 SSA は 、 観 測 者 の い な い 宇 宙 に 対 し て サ ン プ
ル 密 度 ゼ ロ を 割 り 当 て る が ゆ え に 、 同 じ 結 果 を 主 張 す る (ibid. p.58)。
2.
SSA の 功 罪
ボ ス ト ロ ム が 主 張 す る よ う に 、 SSA は 幾 つ か の 状 況 で は き わ め て 受 け 入 れ や す い
合理的な結果をもたらしてくれる。彼の簡単な例を見るのが一番いいだろう。
牢 獄 の 事 例 : 世 界 は 100 の 独 房 を も つ 牢 獄 か ら 成 り 立 っ て い る 。 そ れ ぞ れ の 独 房
に 一 人 の 囚 人 が い る 。 90 の 独 房 は 外 側 が 青 に 塗 ら れ 、 残 り の 10 の 独 房 は 赤 に 塗 ら
れている。どの囚人も、自分が青の独房か赤の独房のどちらに入っていると思うかを
問われる(誰もがここまでのことはすべて知っている)。やがて、あなたも、自分がそう
した独房の一つに入っていることを知るようになる。あなたは自分の独房がどちらの色
-3-
だ と 考 え る べ き か ? ------答 え :
90%の 確 率 で 青 (ibid. p.59-60)。
あなたがここに述べられた情報以外のいかなる関連情報をも持たないと仮定するな
ら、当然、あなたは、自分が青の独房にいると考えるべきである。というのも、あなた
が囚人全体からのランダムなサンプルであるなら、あなたが青の独房にいる確率は 9
0 / 100 で あ り 、 し た が っ て 囚 人 が 全 員 、 青 に 賭 け る な ら 、 90 人 が 勝 ち 、 負 け る の は
10 人 だ け だ か ら で あ る 。 も ち ろ ん 、 こ の 10 人 が SSA に 従 う の は 不 幸 な 結 果 に な る だ
ろう(とくに賭の敗者に厳しい報いが待っているような場合は)。しかし、大事なことは、
SSA は 誰 が い か な る 状 況 に あ ろ う と も 最 善 を も た ら す よ う な 魔 法 の 杖 で は な い 、 と い う
ことだ。仮にあなたが赤の独房にいるということを示す証拠を見逃していたとするな
ら 、 あ な た が SSA を 用 い る こ と は 合 理 的 で は な い 。 あ な た は 、 実 際 に は ふ つ う の 存 在
ではなく、特別な存在だったからだ。したがって、人はすべて何らかの意味で特別で比
類なき存在であろうが、その特別さが何らかの仕方でキャンセルされるような状況に
お い て は 、 SSA に 従 う こ と は 合 理 的 だ と 言 っ て よ い よ う に 思 わ れ る 。
SSA が 意 外 と 広 い 適 用 範 囲 を 持 つ こ と は 、 ボ ス ト ロ ム に よ っ て 強 調 さ れ て い る 論 点
の 一 つ だ 。 SSA の た め に 、 そ の よ う な 例 の 一 つ を 拾 っ て お こ う (ibid. p.82-4)。 交 通 渋
滞、とくに、高速道路で一車線が工事でふさがるような場合、車線が減少する地点ま
では二つの車線ともによく渋滞が発生する。そのようなとき、あなたは、どちらの車線
にいてももう一方の車線の方が車の流れが速い、と感じないだろうか。個人的な感想
で恐縮だが、少なくとも、私に関してはまったくその通りであり、それも一年に二度や
三度のことではない(恥ずかしながら、たまに作業員に毒つくことすらある)。これには
いろいろな説明があるようだが、ボストロムの紹介する二人の科学者は、ネイチャー
誌 (Nature, 1999)で 心 理 学 的 な 説 明 を 試 み て い る 。 彼 ら に よ れ ば 、 こ の 現 象 は 、 い く つ
かの心理学的な要因による一種の錯覚である。例えば、ドライバーは遅い車線にいる
ときの方がより頻繁に別の車線を観察するとか、ドライバーは後方より前方をふつう
見ているので観察時間が偏り、自分が追い越した車はすぐ見なくなるが、自分を追い
越した車は長い間見ているとか、人は得たものより失ったものの方を重大に考えると
いった心理学的な傾向性が、「隣の車線は早い」という錯覚を生み出すのである。
しかし、ボストロムによれば、その説明は「甘い」。もっとストレートな説明が可能で
ある。結局、なんだかんだと言っても、ある車線の流れが遅いのは、そこに多くの車が
詰め込まれているからである。すると大ざっぱには、車線の流れの速さとその車線を
走る車の量との間には負の相関があるわけだから、ドライバーが車線上で費やす平
均時間は、流れの遅い車線での方が速い車線より多いはずである。この事情を、<観
測者>ではなく、もっと肌理こまかく、観測者の時間断片として考えられた<観測者時 点 observer-moment > と い う 概 念 を 用 い て 分 析 す る と 以 下 の よ う に な る だ ろ う 。 も し
あ な た が 自 分 の 現 在 の 観 測 者 -時 点 を 、 ド ラ イ バ ー が 経 験 し た す べ て の 観 測 者 -時 点
か ら の ラ ン ダ ム な サ ン プ ル だ と 考 え る な ら 、 あ な た の 観 測 者 -時 点 は 、 最 も 多 く の 観 測
者 -時 点 が 経 験 さ れ る 場 所 に 存 在 す る 、 と 考 え る べ き で あ る (SSA の 教 え ) 。 そ し て 、 最
も 多 く の 観 測 者 -時 点 が 経 験 さ れ る 場 所 と い う の は 、 他 で も な い 、 流 れ の 遅 い 車 線 上 な
のだ。したがって、「隣の車線は速い」というのは錯覚ではない。本当に、五分五分以
上の割合で、隣の車線の方が速い(!)のである。
い ま 用 い た < 観 測 者 -時 点 > と い う 考 え 方 は 、 ボ ス ト ロ ム が 提 案 す る 観 測 選 択 効 果
理 論 の 最 終 形 態 、 Strong SSA (SSSA)の 中 心 概 念 で あ る 。 こ こ で は 、 こ の SSSA の 評
価に立ち入ることはできないが、それを以下に紹介しておこう。
SSSA : あ な た は 、 自 分 の 現 在 の 観 測 者 -時 点 を 、 そ の 準 拠 集 団 に 属 す る す べ て の
観 測 者 -時 点 の 集 合 の 中 か ら ラ ン ダ ム に 取 ら れ た サ ン プ ル で あ る か の よ う に 見 な す べ
-4-
き で あ る (Bostrom [2002] p.162)。
だ が 、 SSA は 、 こ の よ う な 健 全 な ( ? ) 説 明 や 予 測 を 生 み 出 す だ け で な く 、 明 ら か に
反 直 観 的 と し か 思 え な い よ う な も の も 生 み 出 す よ う に 見 え る 。 SSA か ら で き る だ け の
イ ン ス ピ レ ー シ ョ ン を 得 る こ と を 目 的 と す る わ れ わ れ に と っ て 、 SSA の こ の 負 の 側 面 を
見ておくことはきわめて重要である。人間原理的推論のなかで最も悪名高い(?)終末
論 法 (Doomsday Argument)は 、 お お よ そ 以 下 の よ う に 進 む ( こ こ で は 、 レ ス リ ー の 議 論
による)。
西 暦 2150 年 、 つ ま り お よ そ あ と 150 年 で 人 類 は 滅 亡 す る か 、 あ る い は 、 何 万 年 に も
わたって今の人口かそれ以上の水準で人類は生き残る、という二つの選択肢しかな
い と す る 。 そ こ で 、 人 類 が こ れ ま で に 600 億 の 人 口 を 有 し て い た と し よ う 。 も ち ろ ん わ
れ わ れ は そ の 集 団 の 中 に 位 置 し て い る 。 そ の 人 類 が こ れ か ら 150 年 間 で 終 わ る 間 に
人 口 が ト ー タ ル で 6000 億 に な っ た ら 、 人 類 全 体 の 中 で わ れ わ れ が 生 ま れ た 存 在 位 置
(birth rank)は 最 初 の 1 / 10 ほ ど の 中 に 収 ま る だ ろ う 。 し か し も し 人 類 が か な り 長 命
で 、 あ と 何 万 年 も 続 く 間 に 人 口 が ト ー タ ル で 600 億 の 10 万 倍 ( つ ま り 6000 兆 ) ほ ど に
な る な ら 、 わ れ わ れ は 、 人 類 の 最 初 の 1 / 10 万 と い う き わ め て 異 例 の 早 い 時 期 に 生
ま れ た こ と に な る 。 す る と 、 前 の 方 の 選 択 肢 (人 類 は 150 年 後 に 滅 亡 ) に 対 す る 事 前 確
率 が 1%で あ り 、 後 の 方 の 選 択 肢 ( 人 類 は 何 万 年 も 続 く ) に 対 す る 事 前 確 率 が 99%で
あるとしても、人類全体におけるわれわれの存在位置という条件の下でそれらの事後
確率をベイズの定理にしたがって計算してみると、驚くべき結果が出てくる。つまり、
以 上 の よ う な 想 定 の 下 で は 、 人 類 が 西 暦 2150 年 ま で に 絶 滅 す る 確 率 は ほ ぼ 99%だ と
い う こ と に な る の だ ( レ ス リ ー [1998] p.273-4)。
(1%× 1/10)÷ [ (1%× 1/10)+ (99%× 1/100000 ) ] = 0.99
実は、この計算は、レスリーのものに少し手を加えた数字で行ったのだが、人口や
年数の正確な見積もりはあまり問題ではない。レスリー自身が強調しているように、 1
%と 99%と い う 事 前 確 率 の 大 き な 違 い が あ っ て も 、 わ れ わ れ が 人 類 全 体 の 1 / 10 の
中 に 入 る の か そ れ と も 1 / 1000 の 中 な の か と い う 程 度 の 違 い だ け で 、 事 後 確 率 は ほ
ぼ 五 分 五 分 に な る ほ ど シ フ ト し て し ま う の で あ る 。 つ ま り 、 SSA を こ の よ う な 仕 方 で 素
直 に ( ? ) 適 用 す れ ば 、 SSA は ベ イ ズ の 定 理 を 通 し て 、 < 強 力 す ぎ る > と 言 っ て も い
いような力を最初の仮説の確からしさに振るうのである。しかし、それにしても、対抗
仮説が人類の子孫の数を多く見積もれば見積もるほど、それに比例して、終末は近い
という仮説が確からしさを増してくるとは!
この何とも苛立たしい帰結は、ボストロムが診断するように、終末論法で前提されて
いる準拠集団の設定に問題があるのかもしれない。しかし、終末論法に似た条件つき
確率のシフトをわれわれが受け入れている場合と比較するなら、たとえ準拠集団の問
題 が ど う な ろ う と も 、 少 な く と も 、 終 末 論 法 ( / SSA ) が も つ 何 ら か の 毒 を わ れ わ れ が
受 け 入 れ ざ る を え な い の は 否 定 で き な い よ う に も 思 わ れ る 。 SSA 、 つ ま り 指 標 的 要 素
を含まないような場合、われわれは安んじて次の推論を合理的だと見なすだろう。
二 つ の 壺 が あ な た の 前 に 置 か れ て い る 。 あ な た は 、 一 方 の 壺 に は 10 個 の 玉 が 入 っ
て お り 、 他 方 に は 100 万 個 の 玉 が 入 っ て い る こ と を 知 っ て い る が 、 ど ち ら が ど ち ら の 壺
であるかを知らない。また、あなたは、壺の中の玉にはすべて通し番号が印字されて
いることも知っている。そこであなたは、おかしな所がないと確信しているコインを投
げ、その結果によってたまたま左の壺を選び、そこから玉を一つランダムに取り出す。
そ れ に は 数 字 の 「 7 」 が 記 さ れ て い た 。 そ こ で 、 そ の 壺 が 10 個 の 玉 の 入 っ た 方 の 壺 で
-5-
あるのは決定的になったように思われる。もし最初の確率が五分五分であったなら(そ
してコイン投げはそれを強く示唆するが)、ベイズの定理によって、あなたの取り出し
た 玉 の 数 字 が 「 7 」 だ と い う 条 件 の 下 で 左 の 壺 が 10 個 の 方 の 壺 だ と い う 確 率 は 、 99.9
99%に な る (Bostrom [2002] p.97)。
われわれが自分自身を壺から取られたランダムなサンプルと完全に同一視すること
ができるなら、われわれは終末論法をも、壺の推論と同じほどには受け入れるべきだ
ろう。われわれがそれに抵抗感を覚えるのは、ただ、われわれの直観の方に問題があ
るのだろうか? しかしそうではなく、われわれが自分たちの状況を壺の中のランダ
ムな玉と同じ状況だと考えるのは誤りだとすれば、その理由は何だろうか? 終末論
法 の 最 終 的 な 評 価 、 お よ び ボ ス ト ロ ム の SSSA を 用 い た 解 決 法 に 関 し て 私 は ま っ た く
自信がないが、何か肝心なことがまだ突き止められていないように思われる。その何
か に 少 し で も 近 づ く た め に 、 SSA が も た ら す よ り 一 層 パ ラ ド キ シ カ ル な 帰 結 を 見 て み よ
う。
アダムとイブは、自分たちが人類の最初の 2 人であり、もし自分たちが子供をもうけ
れ ば エ デ ン の 園 を 追 放 さ れ 、 未 来 に 何 100 億 人 も の 子 孫 を 持 つ こ と に な る こ と を 知 っ
て い る 。 し た が っ て 、 そ の 仮 定 の 下 で も し 彼 ら が 子 供 を 作 れ ば 、 彼 ら は 何 100 億 人 も
の人類の最初の 2 人になるであろうが、人類全体の中でそんな極端に早い位置に存
在することはこれまでの議論の通り、きわめてありそうもない。そのことも彼らは知って
いる。そこで、狩りにうんざりしていたアダムはイブと一計を案じる。つまり彼らは、<
傷ついた鹿が自分たちの洞窟のところによろよろとやってこない限り、必ず子供を作る
>という固い決心をするのだ。アダムは、洞窟に足を投げ出して、傷ついた鹿が必ず
や よ ろ け て や っ て く る の を 待 っ て い る (ibid. p,143)。
い ま や SSA に よ る 推 論 は 、 ア ダ ム に 傷 つ い た 鹿 を 呼 び 寄 せ る 念 力 の 力 を 与 え る よ
う に 見 え る 。 SSA を 用 い る こ と が こ の 状 況 で 合 理 的 な ら 、 ア ダ ム は 、 例 の 決 心 を す れ
ば鹿が現れ、しなければ現れないということを信じるようになり、やがて自分が魔術的
な力を持つと結論するようになる、という点で合理的だろう。
ボストロムは、同じような趣向の思考実験をいくつか提示しているが、それらはいず
れ も 、 準 拠 集 団 の 中 で の 存 在 位 置 の 特 異 さ と い う SSA か ら 見 た 確 率 の 極 端 な 低 さ を
武器に(?)、千里眼的予知や、反法則的因果連鎖や、サイキック・パワーなどのあり
そうもない出来事を合理的な推論の結果としてわれわれに受け入れるよう迫るもので
ある。ここで私は、この問題に関するボストロムの分析と解決から離れようと思う。ボ
ス ト ロ ム の 基 本 的 な 戦 術 は 、 SSSA を 洗 練 化 し 、 準 拠 集 団 の 適 切 な 範 囲 を 考 慮 す る こ
と に よ っ て SSA の 反 直 観 的 な 帰 結 を 回 避 し よ う と す る も の だ が 、 率 直 に 言 っ て 、 私 に
はいまのところ、彼のこの提案を正確に評価するだけの力がない。ただ、印象として
は 、 彼 の 解 決 は SSA に な お < 強 す ぎ る 力 > を 認 め て い る よ う に 私 に は 思 わ れ る (3)。
い ず れ に せ よ 、 私 と し て は 、 も っ と 素 朴 な レ ベ ル で SSA の 説 明 と し て の 身 分 を 問 題 に
することで、本稿の最初に掲げた課題を少しでも果たしたいと思う。
3.
SSA と 因 果 的 説 明 ( も し く は 因 果 的 世 界 に お け る 説 明 と し て の SSA )
私がこれまでの議論から引き出したい構図は、因果的説明と補完的な関係に立つ
SSA で あ る 。 し か し 、 お そ ら く 補 完 的 で は あ っ て も 、 両 者 は 対 等 で は な い だ ろ う 。 こ う 言
ってよければ、われわれはとりあえずほぼあらゆる出来事に対して、存在論的な意味
で 、 ( 法 則 的 な ) 因 果 的 説 明 が 存 在 す る 、 と 考 え て い る だ ろ う 。 し た が っ て 、 SSA ( と ベ
-6-
イズ的推論)が可能にする説明は、認識論的な意味で因果的説明が手に入らない/
利用できない場合か、もしくは存在論的意味でもそうした因果的説明が存在とは限ら
ないというような場合に、因果的説明に代わる考慮として働くのではないか。しかし、
こ の 点 で ボ ス ト ロ ム ( や 三 浦 俊 彦 ? ) は 、 む し ろ 、 SSA に よ る 説 明 を 、 因 果 的 説 明 と 対
等に並び、場合によってはそれと競合してもなお独自の有効性を保つ本来的説明だと
考えているように思われる。もし因果的説明の有効さの最終的な根拠が因果的世界
の 存 在 だ と す る な ら 、 SSA に よ る 説 明 の 有 効 さ は 、 SSA 的 世 界 ( ? ) の 存 在 に よ る の
だ ろ う か 。 し か し 、 SSA 的 世 界 と は い っ た い ど ん な 世 界 な の だ ろ う か ( あ ら ゆ る 出 来 事
の生成消滅が、公正なルーレットによるような世界?)。しかし、それがどんな世界な
のかに関する形而上学的な議論はともかく、ここで私が前提しているのは、因果的世
界、しかも法則的な因果的世界における行為者の視点である。したがって、ここではこ
の 視 点 か ら 、 SSA に よ る 説 明 の 有 効 さ も 、 因 果 的 世 界 と そ こ に 住 む 観 測 者 ( / 行 為
者 ) の 特 徴 に そ の 根 拠 を お い て い る 、 と ま ず は 考 え て お き た い (4)。
因果的世界と観測者としてのわれわれの特徴、ということで私が考えているのは、
世界がその因果的な真相を時間的にも空間的にも常に部分的にしかわれわれに引き
渡さない、という事情である。もう一つは、観測者(/行為者)としてのわれわれが因
果的世界の真相を理論的に探索するための能力には限界がある、ということだ。この
二つは、結局はわれわれにとってただ一つのこと、つまり観測者(/行為者)の本質的
な<有限性>を意味する。不可思議な出来事の説明、不確かな未来の予測、こういっ
たことに関して完全で詳細な因果的ストーリーがあるとしても、神ならぬわれわれに
は、決してそのすべてが手に入ることはない。それどころか、実は、われわれの日常
茶飯の出来事においてすら、われわれはそのような因果的ストーリーの骨格しか知ら
ず、大部分の詳細は問わないままに事を進めている。われわれの本質的な<有限性
>は、いろいろなレベルでのわれわれの<無知>を不可避的にし、それを埋めるため
に、世界の因果的構造、因果的ストーリーに寄生したさまざまな世界理解の様式を生
み出したに違いない。神話や、叙事詩や、アニミズムや、宗教的な世界創造説などは
すべて、この部類に数え入れることができるだろう。これらはみな、現在から顧みるな
らば、われわれに使いうる認識論的な道具として、完全な因果的な説明を補完する役
割 を 果 た し て い た は ず で あ る 。 SSA の 評 価 に ア ニ ミ ズ ム ま で 持 ち だ さ れ て は た ま ら ん 、
と い う 向 き も あ ろ う が 、 こ の 話 の 要 点 は 、 SSA も ま た 、 観 測 者 の < 有 限 性 > の ゆ え に
選び取られた、因果的世界を捉えるための認識論的(/実践的)な理論装置にすぎな
い と い う こ と で あ る 。 し た が っ て 、 因 果 的 世 界 の 行 為 者 と い う 観 点 か ら す れ ば 、 SSA が
千里眼的予知や、反法則的因果連鎖や、サイキック・パワーといったパラドキシカルな
帰結をわれわれに余儀なくさせるというのは、どこかで、説明に関する本末転倒が起
こっているからに違いない。それは、ボストロムが提案するような準拠集団の設定の
問題にとどまらない病因を抱えている、と考えるべきではなかろうか。
だ が 、 だ と す れ ば な お の こ と 、 SSA は い か な る 意 味 で 因 果 的 説 明 の 補 完 、 も し く は
代 替 な の だ ろ う か 。 そ こ で 、 SSA が 最 も わ れ わ れ の 状 況 を う ま く 説 明 し 、 ま た そ れ ゆ え
に最も合理的な行為選択を可能にしてくれるように思われる先ほどの牢獄の事例に戻
ろ う 。 あ な た は 、 100 室 の 独 房 の う ち の ど れ に 入 っ て い る か を 知 ら な い 。 独 房 の う ち の
90 室 は 外 側 が 青 に 塗 ら れ 、 残 り の 10 室 の 独 房 は 赤 に 塗 ら れ て い る 。 SSA に よ れ ば 、
あ な た は こ の 状 況 で 、 自 分 の 入 っ て い る 独 房 の 色 は 90%の 確 率 で 青 だ と 考 え る べ き
で あ る 。 な ぜ な ら 、 SSA の 言 う と こ ろ は 、 < 自 分 を 準 拠 集 団 全 体 か ら の ラ ン ダ ム な サ
ンプルと見なすべきだ>ということだからである。しかし、もしあなたが実は赤の独房
に入っており、なぜそこに閉じこめられるようになったかについての因果的なストーリ
ー を 誰 か か ら 聞 か さ れ た と し た ら 、 も ち ろ ん あ な た は 、 SSA を 採 用 し て 自 分 の 独 房 が
青だという方に賭ける、というようなことをやってはならない。逆に言えばあなたは、そ
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の 情 報 を 知 る こ と に よ っ て 、 自 分 を 100 人 の 囚 人 の 中 の ラ ン ダ ム な サ ン プ ル だ と 見 な
すべき理由を失ったのだ。あなたはある意味で特別な存在となったのだが、それは、
あなたが因果的説明を持つことによってなのだから、その特別さはさらに説明を要求
す る よ う な も の で は な い 。 つ ま り 、 SSA の 要 求 す る ラ ン ダ ム さ は 因 果 的 説 明 の 入 手 と ト
レ ー ド オ フ の 関 係 で あ り 、 し た が っ て 、 SSA は 因 果 的 説 明 の 入 手 不 能 を 成 立 条 件 と す
るがゆえに、<なぜ私がそのサンプルなのか>というの問いにつきまとわれる運命に
ある。というのも、<私がそのサンプルである>ことについての完全な因果的ストーリ
ー が 与 え ら れ て し ま う な ら 、 SSA の 出 番 は な く な っ て し ま う か ら だ 。
100 万 本 の 藁 を 詰 め 込 ん だ 藁 束 が 用 意 さ れ 、 そ の 中 か ら 89 万 2453 番 目 の 長 さ の
藁を引き当てたときにだけ命を助けようと宣告され、銃口を前にしたあなたは震える手
で 1 本の藁を引く。その結果、なんと、あなたはまさにその長さの藁を引き当てる。あ
あ神よ、何という巡り合わせ、何という幸運! このとき、なぜあなたが他ならぬその藁
を引き当てたのか、ということを物理的な記述の下に因果的に説明することは原理的
には可能である。このような因果的ストーリーの下では、あなたがその藁を藁束から
引 き 出 す こ と は 、 確 率 1 / 100 万 で は な く 、 端 的 に 1 で あ る 。 あ な た は ま さ に そ の 藁 を
引くべく因果的に決定されていたのだ。このとき、<私はなぜ他ならぬこの藁を引いた
のか>という問いには、淡々とした因果的記述が答えるのみである、しかし、この問い
が、<私は他の藁を引くこともありえたのに、なぜ他ならぬこの藁を引いたのか>とい
う問いであるとすれば、それに対する答えはない。なぜなら、あなたには、他ならぬそ
の藁以外の藁を引くことはできなかったからである。
ところが、あなたがこうした因果的記述を手にしていないのだとすれば、この景色は
一変する。あなたの認知上の位置からすれば、あなたがどの藁を引くことになるのか
はまったく分からない。あなたにとってはどの藁を引く可能性にも偏りがないという意
味 で 、 あ な た が そ の 藁 を 引 く 確 率 は 1 / 100 万 で あ る 。 こ の と き 、 < 私 は な ぜ 他 な ら
ぬこの藁を引いたのか>という問いには、絶望的に不完全なことながら、因果的なス
トーリーを与えていくことでしか答えられないだろう。しかしこの問いが、そのような答
えを本質的に拒むという意味で(あるいはある種の形而上学的な答えを要求するとい
う意味で)、<私は他の藁を引くこともありえたのに、なぜ他ならぬこの藁を引いたの
か>という問いであるとすれば、やはりそれに対する答えはない。なぜなら、どの藁を
もランダムなサンプルだと見なすということは、その問いに対する答えがない、というこ
とを受け入れたということだからである。
い ま や 私 に は 、 SSA は 、 指 標 的 に マ ー ク さ れ た 観 測 者 ( / 行 為 者 ) に つ い て の 因 果
的説明、もしくは因果的ストーリーを<キャンセルする>ための道具のように思われ
る 。 SSA は そ の キ ャ ン セ ル 化 の た め に 、 あ た か も 物 理 的 な 、 も し く は 形 而 上 学 的 な ラ
ンダム性発生装置が働いているかのように議論を進める。しかし、ボストロムがある箇
所で示唆するように、このことは、物理主義的な存在論的枠組みと矛盾するわけでは
な い 。 と い う の は 、 SSA の 使 用 者 は 、 < 自 ら が す べ て の 観 測 者 の 中 の ラ ン ダ ム な サ ン
プルであるかのように見なす>ことによって、そのランダム性を発生させるからである
(Bostrom [2002] p.136)。 そ れ は 、 彼 が 、 世 界 の 因 果 的 連 鎖 の あ る レ ベ ル 、 あ る 領 域 で
ランダム性を発生させる物理的メカニズムが作動しているかのように事態を考えること
に他ならない。
すでにお察しにように、自分をある状況におけるランダムなサンプルだと見なすこと
によって、特別なものとしての自分の来歴と存在を説明してしまう因果的説明をキャン
セルする(/無効化する)こと、これが、行為者が自分を<自由な行為者>だと考える
ことの必要条件だ、と私は主張したい。自分をある状況におけるランダムなサンプル
だと考えることは、とりもなおさず、<他のようでもありえた/ありうる>ということに一
定の意味を与えることである。というのも、行為者はまさにその時点で、他の行為者
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(/他の行為を選ぶ自分)と因果的な来歴の点で区別のつかない、 n 人の全体のうち
の 1 / n の存在だからである。しかし、もし行為者の住む因果的世界が決定論的、も
しくは法則的な世界なら、彼は、自分が<他のようでもありえた/ありうる>ということ
に文字通りの意味を与えることはできないだろう。自由と決定論を巡るこれまでの幾
多の議論が示してきたように、行為の直前までのすべての因果的ストーリーが与えら
れたなら、行為者のすべての内面的状態を含めて、行為者はまさに<他のようではあ
り え な か っ た > は ず だ か ら で あ る 。 両 立 論 (compatibilism)が 救 い 出 す 行 為 の 自 由 は 、
たかだか、<行為者がそう意図したとしたらそう行為できただろう>というレベルの自
由にすぎない。したがって、行為者が自分を掛け値なしに<自由>だと考えることは、
このような因果的世界においては一つの錯覚、幻想に他ならないが、それは彼が積極
的に制作し、引き受けることのできる仮構である。その仮構を、自分についての因果
的説明をキャンセルすることが可能にする。
行為者が自分をある状況においてランダムなサンプルだと見なすことによって、たと
え<私は他のようにも行為しえたのに、なぜ他ならぬこの行為をなしたのか>という
問い(/嘆き)に特殊な形而上学的な意味が生じるわけではないとしても、しかしそれ
にもかかわらず、<私は他のようでもありえた/ありうる>ということに意味を与える
ことのできる概念的地平が開けるのである。だがそれにしても、自分をある状況にお
けるランダムなサンプルだと見なすこと、自分の来歴と存在についての因果的説明を
キャンセルすること、そして<私は他のようでもありえた/ありうる>ということに意味
を与えること、それらはどのような<からくり>で有限な観測者(/行為者)であるわ
れわれに生じるのだろうか。もはや、これ以上のおぼつかない議論でそれを追いかけ
る こ と は 控 え た い と 思 う が 、 お そ ら く そ こ に は 、 SSA や ベ イ ズ 的 な 推 論 が 因 果 的 世 界
の構造からかすめ取るわれわれにとっての利益という合理性の問題と、ある状況にお
いて人の因果的な来歴を(合理的であろうとなかろうと)無視すべき、もしくはキャンセ
ルすべきだと要請する倫理の問題が深く関わっているであろう。しかし、その議論は、
本稿のあまりにも未熟なアイデアを鍛え直すことを含めて、行為と自由と時間論(?)
の文脈の下で新たに試みたいと思う。
注
( 1 ) 例 え ば 、 N ( 電 気 力 / 重 力 ) = 10 の 36 乗 。 「 N の ゼ ロ が も う い く つ か 少 な か っ
たら、短命の小さな宇宙しか存在しえなかっただろう。生物が虫より大きくなることはな
く 、 ま た 、 生 物 が 進 化 を 遂 げ る 時 間 も 無 か っ た だ ろ う 」 (リ ー ス [2001] p.10)。 ま た 、 も う
一 つ の 数 ε ( 核 融 合 効 率 ) = 0.007 。 「 炭 素 と 酸 素 は ふ ん だ ん に あ る の に 、 金 や ウ ラ ニ
ウ ム が め っ た に 見 ら れ な い の は 、 星 の 中 で 起 き て い る こ と の せ い だ 。 ε の 値 が 0.006
か 0.008 だ っ た ら 、 私 た ち は 存 在 で き な か っ た だ ろ う 」 (ibid. p.11)。 ま た 、 さ ら に も う 一 つ
の宇宙に関する数Ω(宇宙密度/臨界密度)≒ 1 (初期の宇宙において)。「初期の宇
宙で、Ωが 1 よりわずかに小さい数から始まったとすれば・・・膨張エネルギーが早く
から優勢になる(つまりΩの値がきわめて小さくなる)ので、銀河も星も生まれることが
ない。・・・この場合には、宇宙は永遠に膨張を続けるが、生命が生まれる見込みはな
い 。 [逆 に 、 Ω が 1 よ り 少 し で も 大 き か っ た な ら ]、 ・ ・ ・ 宇 宙 は ビ ッ グ ク ラ ン チ に 向 か っ て
さ っ さ と 再 崩 壊 し て い た だ ろ う 」 (ibid. p.161-2)。 等 々 。
(2) これは、自分を含めた最も多くの観測者が存在することになる仮説の方を、そ
うでない仮説よりもありそうだと観測者は考えるべきだ、ということではない。ボストロ
ムが正しく退けているように、後者のような考え方は、観測者全体の準拠集団が大きく
な る よ う な 仮 説 を そ う で な い 仮 説 よ り も と も あ れ 優 先 さ せ る べ き だ 、 と い う 以 下 の Self-I
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ndication Assumption (SIA) に 他 な ら な い で あ ろ う 。
SIA: あ な た が 存 在 す る と い う 前 提 が 与 え ら れ た な ら 、 あ な た は ( 他 の 事 情 が 等 し い 限
り)、少ない観測者が存在することになる仮説よりも、多くの観測者が存在することに
な る 仮 説 を 優 先 さ せ る べ き で あ る 。 (Bostrom [2002] p.65)
も し こ の SIA が 正 し い な ら 、 後 で 述 べ る 終 末 論 法 、 つ ま り 、 わ れ わ れ は 人 類 全 体 の 異
様に早い時期に属する特殊な存在ではなくふつうの時期に属するふつうの存在である
という方がありそうだから、現在の人口増加割合を仮定する限り、思ったよりも早く人
類 の 終 末 は や っ て く る 、 と い う 議 論 に 対 抗 す る こ と が で き る だ ろ う 。 と い う の も 、 SIA
は、われわれが存在することの確からしさを高めるという理由で、人類全体が少ない
人口で終末を迎えるという仮説より、より多くの人口をかかえてより長く存続するという
仮説の方が正しそうだ、と結論するからである。
( 3 ) 例 え ば 、 ボ ス ト ロ ム の 終 末 論 法 に 対 す る 最 終 的 な 評 価 (Bostrom [2002] p.203-4)
では、この論法の仮定する準拠集団がわれわれの現在の人間と<ほぼ同じような>
未 来 の 存 在 者 の 観 測 者 -時 点 を 含 む だ け な ら 、 終 末 論 法 は お お む ね 妥 当 で あ る 。 そ れ
が 妥 当 と 思 わ れ な く な る の は 、 そ の 準 拠 集 団 の 未 来 の 観 測 者 -時 点 が 、 現 在 の 人 間 と
は < か な り 異 な っ た > 存 在 者 の 観 測 者 -時 点 で あ る よ う な 場 合 で あ る 。 こ こ で 、 現 在 の
人間からかなり異なった存在者というのは、人間のはるかな未来の子孫であっても、
あまりに大きな生物的変化を遂げたり、心が機械やコンピュータで実現されるようにな
ったりしたために、われわれがもはや<同じ>人間だとは考えたくないような存在者
の こ と で あ る 。 な ぜ な ら そ の 場 合 、 そ の よ う な 異 な っ た 存 在 者 ( の 観 測 者 -時 点 ) を わ れ
われと同じ準拠集団に含める根拠が怪しくなる(/恣意性を増す)からである。したが
って、このボストロムの解釈によれば、われわれが終末論法から逃れられるのは、逆
説的なことだが、われわれがもはや同じ準拠集団に含めるのを躊躇するような仕方で
われわれの子孫が生きのびる場合だけである。しかし、これは結局、<いわゆる人間
>に対する終末論法をほぼ全面的に認めることではないだろうか?
(4) この点で、レスリーが終末論法の強さを世界の決定論的なあり方に基づかせて
いるのに対し、ボストロムがそれに留保をつけているのは興味深い。
参照文献
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Cater, B., 1973, "Large Number Coincidences and the Anthropic Principle in Cosmology",
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Leslie, J., 1990, Physical Cosmology and Philosophy, Macmillan.
伊 藤 邦 武 、 2002 、 『 偶 然 の 宇 宙 』 、 岩 波 書 店 .
ジ ョ ン ・ レ ス リ ー 、 1998 ( 翻 訳 ) 、 『 世 界 の 終 焉 』 ( 松 浦 俊 輔 訳 ) 、 青 土 社 .
マ ー テ ィ ン ・ リ ー ス 、 2001 ( 翻 訳 ) 、 『 宇 宙 を 支 配 す る 6 つ の 数 』 ( 林 一 訳 ) 、 草 思 社 .
三 浦 俊 彦 、 2000a 、 「 人 間 原 理 と 独 我 論 」 、 『 和 洋 女 子 大 学 紀 要 』 第 40 集 ( 文 系 編 )
-------, 2000b 、 『 論 理 学 入 門 』 、 NHK ブ ッ ク ス .
-------, 2003 、 「 観 測 選 択 効 果 と 多 宇 宙 説 -----伊 藤 邦 武 『 偶 然 の 宇 宙 』 に つ い て 」 、 『 科
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ス テ ィ ー ブ ン ・ ワ イ ン バ ー グ 、 1994 ( 翻 訳 ) 、 『 究 極 理 論 へ の 夢 』 ( 小 尾 ・ 加 藤 訳 ) 、 ダ イ
ヤモンド社
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