パリ天文台での学際的交流を目的とした宇宙物理の国際会議 出張記

第 4 版(01.05.17)
パリ天文台での学際的交流を目的とした宇宙物理の国際会議
出張記
= The World is Narrow =
阪大レーザー研
高部英明
[email protected]
【 本 出 張 記 は 4 月 2 3 - 2 7 日 の 期 間 、 パ リ 郊 外 の パ リ 天 文 台 Meudon 地 区 に お い て 開 催 さ れ
た”Euro-conference: Hypersonic and Aerothermic Flows and Shocks, and Lasers”に筆者が招待さ
れ講演した際のパリ滞在記である。今回は専門的な話は意識的に少なくしたので、一般の方にも読みや
すい滞在記になったと思う。読んで感想、質問などいただけると今後も書き続ける励みになる。上記の
メイルなどにお寄せ下さい。01.05.14】
目次
本文 1
付録1:機中での会話(フランス英才教育など) 22
付録2:フランスの紙幣について 26
地図説明文 28
地図2枚
写真説明文 29
写真 24 枚
小泉総理誕生(Le Figaro 誌一面の縮小コピー。原盤はカラー)
会議ポスター・趣旨説明
会議プログラム・参加者リスト
高部発表 abstract
CEA での高部の講演案内
LMJ を建設している CEA とは何か、LMJ は何のためか
概要
4月21日から30日まで、パリのモンパルナスに滞在し、レーザーや宇宙の物理の国際会議に出
てきました。パリを訪ねたのは 10 回目ほどか。合計 3 ヶ月ほどいたことになる。懐かしのパリであ
る。パリのシャンゼリゼ大道り、コンコルド広場、ルーブル、印象派美術館などの近況。会議の様
子。ベルサイユ宮殿を造った太陽王・ルイ14世が創設したパリ天文台。LMJ(巨大レーザー)を建
設中の CEA での私の講演の話と皆の反応。オルセー美術館を借りてのバンケットとその時の会話。
友人セルジュの家に招かれての会話。「バーで科学を語ろう」のラジオ放送参加の話。そして、ドイ
ツ系の会社に勤める東大出のフランス人との機中の会話。最後は、フランスの 200FF 札(1 万円相当)
がなぜキュリー婦人の顔なのかの大胆な推論。などなど。なお、今回はカラー写真付。一枚目はき
れいなチューリップ。説明もあり。
1
4 月 21 日(土)、朝 8 時 30 分に家を出る。新大阪 9 時 16 分発の「はるか」で関空に。今回はエー
ル・フランス。両替、売りは 1FF(フランス・フラン)=19.54 円。高い。売りと買いで、2 割ほども
違う。余り混雑も無く、パスポート検査を受け、44 番ゲートへ。11 時 40 分に乗り込む。隣には、
すぐ親しくなったフランス人が座って来た。
彼との会話はなかなか有意義でした。【付録1】に掲載しますので読んでみてください。
さて、ドゴール空港に着いた。友人の Serge Bouquet(以下、セルジュ。彼とは 99 年の秋、ボルド
ーで知り合った。彼については、拙著「ボルドー、そして駆け足のパリ」を読んでください)が迎え
にきてくれるはずなのにいない。10分ほど待つうちに現れた。ターミナルを間違えて F に行って
いた(私は A)。どうも、到着ターミナルに変更があったようだ。彼の、VW Golf で、パリの北東郊
外のド・ゴール空港から、パリ市内西南のモンパルナスのホテルに送ってもらった。彼の車は11
年もの。お兄さんからもらった。27万キロ走っているのに未だ走る。車の点検・修理は自分でやる。
彼は、12 年前から友人のステファンと一緒に住んでいる。最初はオルレアン(あの、オルレアンの
少女で有名)に住んでいた。その後、パリに移り、セルジュは CEA(仏原子力エネルギー局)に勤め
ている。ステファンの専門は数学で今は、社会保障の関係の仕事をしている。統計処理や予測など
を専門としている。
今日はちょうど復活祭の休日(学校は2週間休みになる)の最後で、パリにもどってくる家族の車
で交通渋滞であった。話をしているうちにホテル(二つ星の Hotel Agenor )に着いた【地図1】。
19室しかない、とても落ち着いたホテルだ。セルジュが予約してくれ、
「中庭の見える静かな部屋
を予約したから」と親切に気を使ってくれていた。この日はこれで別れ、私は荷物を片付け、外に
出た。やはり寒い。皮のコートを着た人たちが歩いている。そういえばセルジュが、今年の4月の
気温は 100 年ぶりの異常で、4月に雪が降った、と言っていた。
時刻は7時半頃。モンパルナスの駅に行き、会議のあるムードンへの列車を調べ、帰りに、ワイン
や果物を買って戻った。夜は、10時ごろ寝た。あさ、4時には目がさめたが6時まで布団の中で
休み、起き出し、この旅行記を書き始めた。朝食は8時から取った。中庭に面した小さいが明るい
食堂。雰囲気が良い。私一人だった。今、9時。さて、そろそろ、パリ見物に出かけるかな。今日
は、歩いて、歩いて、日ごろの運動不足を解消するのだ(10キロぐらい瘠せたいなーーー)。
【2 日目、22 日(日)】
ホテルに帰り着いたら 5 時半だった。今日は 10 キロは歩いただろう。まず、アンバリッドに行く。
ここは、陸軍士官学校に付属する軍事博物館と、ナポレオンの位牌を納めた巨大な棺があることで
有名だ。ナポレオンが二度と迷い出ることがない様に、赤銅色の巨大な大理石の棺が、緑色の大理
石の台上にすえつけられている。場所はチャペルのドームの中央。
着いたのが 10 時。ちょうど開館時間だった。40FF で入場。棺を見て、その後は軍事博物館。剣と
銃と大砲と甲冑と軍服と、それは、それは、ナポレオンの時代から現代にいたるまでの発展史を、
すごい数の陳列の品で見せくれる。
これを見ていると、「やはり、人類の歴史は戦争の歴史だなーー」
と感じてしまう。武器も単に実用だけでなく装飾品として手の込んだものが多数陳列されている。
2
男は生来、武器にあこがれる性を背負って生まれてくるのではなかろうか、とすら感じてしまう。
確かに、日本刀が良い例のように、あの輝きと鋭敏さに、ある種の芸術的到達を感じるのは、私だ
けであろうか。しかし、それが人殺しの道具である現実とどのように整合性を保つことが出来るの
であろうか。現代においても、純粋な科学者を魅了してやまない先端科学が、核兵器や軍事衛星な
ど、いざと言う時には大量殺戮の科学に化けてしまうと云う冷厳な事実がある。大切なことは、軍
事博物館で武器の歴史を見ながら、道具の進歩と云う人間が生来もつ飽くなき好奇心の可能性を学
ぶと同時に、人間の愚かさを学ぶことであろうか。
アンバリッドを 2 時間近く見学した。その後、歩いてシャンゼリゼ大通りに出た。一人だし、確か
マックがあったと記憶しているので探すことにした。すぐに見つかった。さすがに、例の調子で黄
色い大きな M の字は無く、小さい、パステルカラーの M の字が見えた。ここで、ビッグ・マック・
セットを買う。37FF(約 700 円)。店は通りには面してなく、入ってすぐを地下に潜ったところ。食
べながら、絵葉書を書いた。家には「ポケモン」の絵葉書にした。ポケモンはすごい人気のようで、
マックもポケモンと契約していて、お盆の上に置くシートがポケモンだった。SONY, Panasonic,
Toyota, SEIKO などに次いで、日本の漫画文化は確実に西欧に浸透している。昨夜、駅では「ドラ
ゴン・ボール」のシリーズ単行本(もちろんフランス語版)を見つけた。これは、娘へのお土産だ
(この本。家に持ち帰ると、妻が面白い発見をした。が、説明するスペースが無い)。
天気が大変良くなってきた。今朝の最低気温は零下だったと言うのに、ベストにジャンパーでは、
歩いていると汗ばむ。シャンゼリゼを抜けて、エジプトのオベリスクがあるコンコルド広場に来て
驚いた。あのコンコルド広場にオベリスクの 2 倍以上の高さがある観覧車が出来ているのだ【写真
2】。「えーー」という驚き。以前、ルーブル美術館の入り口がガラス張りのピラミッドに変わった
時と同じ驚きだ。しかし、近づいて分かった。これは、2 年間の仮設観覧車だ。
コンコルド広場を過ぎて、ルーブル宮の中庭に入る。広い歩道の中央に直径10mほどの丸い人工
の池(と言うより噴水の水受け)があり、沢山の人が椅子に座り日向ぼっこをしている。その周りの
花壇にはチューリップが開花していた。とても美しい。写真を見てください【写真 1】。
ルーブルまで来たが、入るのは止めて、オルセー美術館に行くことにした。私は印象派の絵画が大
好きなのです。これは、20 年前、やはりパリで印象派美術館(当時のジュ・ド・ポンム)で、絵画
を目の当たりにして、その筆づかいが迫ってくるような生き生きした印象に、とても好きになった。
それまでは、例えば、ルノワールの作品の写真を見ても、そんなに感動しなかったのが、印象派は
本物を見ないと本当の良さが分からないことを直に経験した。
5 時ごろまでにホテルに帰り、ゆっくりした。夕飯は近くの中華料理。69FF でスープ、メイン、焼
き飯、デザート・サラダと 1/4 ボトルのハウス・ワイン付。充分でした。この辺りには中華料理 3
軒と寿司レストランが 2 軒ある。
【3 日目、23 日(月)】
23 日になった。プログラムを日本に忘れてきたので、何時に始まるか分からない。9 時には間に合
うように出かける。モンパルナスの駅から電車で、バスが待つ駅まで 4 駅。20 分くらい【地図2】。
3
駅にバスは有ったが誰もいない。30 分は待ったか。あと、ドイツ人とイタリア人を乗せて出発。ム
ードンのパリ天文台は歩いても 20 分くらいのところに有った。しかし、門をくぐってから会場まで
のほうが長い。広大な土地だ。
9 時には着いたよな。しかし、受付してプログラムを見たら 11 時始まりだって。ここに、ランダウ
研究所(モスクワ郊外)のイノガモフ(呼び名はネイル)が来た。私は 91 年のクリスマスの日にロ
シアが崩壊。そのすぐ後の 1 月、私はロシアに命がけで出かけ、ウラル山中で開催された会議で彼
に会ったのが初めて。当時、帰りにモスクワで彼の家に招待されたのを覚えている。子供が息子と
娘。近況を聞いた。息子は 23 歳で広告代理店に勤めている。娘は 18 歳で、父と同じ大学でエンジ
ニアになろうと勉強しているとのこと。最近のランダウ研の様子を聞いた。外国住まいのスタッフ
が 2-3 割。「ずいぶん前、6-7 割は外国だ」と聞いたけど、と言うと。「そうだね、よく出来るやつ
らの場合はそんなところかな」。「新人は入ってくるの?」
。「毎年、2-3 人は入ってくるよ」と言う
ので、「すごいじゃない、流体のセクターに2-3 人か?」というと。いやいや、研究所全体さ。ネ
イルは今年の冬、3 ヶ月間 CEA に滞在し、セルジュと共同研究をしていた。今も続けている。
11時から会議が始まった【写真10が会場】
。トップバッターがネイル。「宇宙物理における流体
不安定性の課題について」と題して、色々喋った。質問のトップバッターは私。「2つのコメントと
1つの質問がある」と。
1は中性子星周りのアクリーション・ディスクについて。Magneto-Rotational
Instability の重要性と MHD が本質的であること。2番目は超新星残骸の流体不安定には、粒子加
速によるエネルギー損失が実効的にガンマ値(比熱比)を変えるため、重要であること。3つ目は、
SN1987A の不安定の初期条件について。
この後は宇宙往還機に関する高速気流の物理関係の発表が 3 件続いた。分子の振動レベルの非平衡
性や電子の non-Maxwellian などが議論のテーマであった。私は輻射輸送の重要性ついて質問した。
マイクロ波領域や赤外の輻射が影響を与えるはずだ。発表者のイタリア人は顔をゆがめながら、「重
要とは思うがモデリングしていない」と答えた。
この日の最後に話したイタリア人は 90 枚のパワーポイントで話した。時間超過もはなはだしい。イ
タリアも欧州の計画とは別に、イタリア独自の計画を進めている。欧州での計画は決定に時間がか
かり、もどかしいところがあるとか。日本の鹿児島に相当するのが、こちらはシシリー島。よく喋
るやつだった。顔は Caruso に似ており南部の出だろう。
この日はパリ市内のパリ天文台(本部)で、レセプションが見学を兼ねてあった。まさに一等地で、
リュクサンブール宮殿の長い庭の南に行き着いた先がパリ天文台【地図1参】。太陽王と言われたル
イ14世の意向で作られたという歴史を持ち、建物は天井の高い宮殿風の作りになっている。初代
の台長が土星の輪が2重になっていることを見つけたことで有名なカッシーニ(この輪の間を「カ
ッシーニの隙間(すきま)」という)。17世紀のことである。6ページにわたる天文台の説明書を
配布してくれたのだが、全て、フランス語。セルジュに英語で説明した書き物は無いのかと聞いて、
いろいろ調べてもらったが「信じがたいが、無いんだ」とのこと。さすがフランスである。彼の説
明によると設立は 1667 年、王立科学アカデミーの天文台として創立された。
天文台の塀の中は緑の多い、当時のたたずまいを残した建物群。当時の研究棟である長屋のような
4
建物【写真3】の扉を開けると、中は、完璧に近代的な研究施設になっている。外観は当時のまま
残し、現在も、最先端のクリーンルームなどが並ぶ研究室として利用している。感心しました。
台内には八重桜が沢山あり、今を盛りに大きな花を誇示しているようだ【写真20】。パリに来て驚
いたことの一つ。色んな場所に、大きな八重桜の花が見られる【写真21など】
。ムードンの天文台
でも、食堂のガラス越しに池のほとりで勢いよく花を咲かせている桜の大木が印象的であった。
パリ天文台の屋上にはキューポラがあり、京大の花山天文台より一回り大きな100年以上前の望
遠鏡があった。今では研究の第一線を離れ、子供達の教育用に開放しているとのこと。しっかりド
ームも動くのです。ここからの展望がまた良い。残念ながら夕方でかすんでいたが、遠くにモンパ
ルナスの丘が見える。サクレクール寺院もかすかに見える。パリ天文台はパリ旧市街の南にあり、
前の宮殿につながる道がパリを東西に区切るように設計されている【写真12】
【地図2】。
8 時過ぎにレセプションが始まった。天井が 15 メートルはありそうなホールである【写真4】
。パ
リ天文台長の挨拶の後、シャンペンのふるまい。ツマミはテーブル左から右に、フランスの北部か
ら南部の名産に変わっているとのこと。シャンペンがとてもおいしい。この日は、ラザフォード研
究所の Bingham とよく話した。彼は私を良く知っており、Houston でも会った、Quebec でも見かけ
たぞ、と言われた。「ごめんなさい。今後宜しく」と。日本のどこの出身だ、と聞くので、「九州ア
イランドの USA と書いて宇佐と読む田舎の出身さ」、というと、「俺もスコットランド出身の田舎者
さ」と返してきた。なんとなく、親近感が湧く。
彼が「7 月に北海道である IPEL(?)の会議に招待されている。行くのを楽しみにしている」と言って
いた。「お前も行くんだろ?」と聞かれ、「IPEL って、なんだったっけ?あーー、佐藤さんが主催し
ているあれね。来る前に、三間がムニャ・ムニャ言ってたから、お好きなように決めてください、
と答えた。今のところ行く予定にはなっていない」と。ここで、佐藤氏と三間氏の話となったが、
紙面の関係で割愛する。
彼は、Dawson のグループと共同で粒子コードによる電子・陽電子プラズマの Weibel 不安定性など
の研究をしている。もちろん、ラザフォードと共同研究をしているし、児玉君達との共同研究にも
関与している。何でも、7 月に加速器とレーザーの学際的会議を主催しているようで、こないか、
と言う意味のことを言われたが、旅費がないでしょう。来年 3 月の湘南シンポジウムに彼を講師に
推薦しようと決めた。
この日は 10 時ごろまで飲んでいたか。セルジュが車で送ってくれた。ツマミとシャンペンでお腹は
一杯だったので、そのまま寝ることににした。
【4日目:24 日(火)】
7 時に食堂に行き、秘書の山本さんからの FAX を受け取る。自民党総裁の地方選の結果は小泉氏の
圧倒的勝利。とても嬉しい。日本も少しはましな国になるかもしれない。橋本派の妖怪どもが足を
引っ張らない限り。
5
朝、電車で Bingham とまた一緒になり、話しながら 20 分の 4 駅先の Bulleve 駅で降りる。今日は 8
時 45 分にバスが来るはずなのに、こ、な、い。9 時半頃まで待つうちに、乗用車が 2 台来て、7 人
の待っていた参加者を会場まで連れて行ってくれた。「バスの運転手が代わって、
事情を飲み込んで
いなかったようだ」。さすが、フランス式である。
会議は一時間遅れで始まった。今日の午前前半は”Micro-component and Dusty Plasmas 1”となっ
ており、星間プラズマと類似した実験室プラズマの講演 2 件。
後半は CEA の LMJ プロジェクトのレーザーのボス、Andre が LMJ(Laser Mega Joule)計画について説
明 し た 。 出 だ し は 、 い つ も の 通 り ”LMJ is French SBSS” 。 SBSS(Science Based Stockpile
Stewardship)とは米国エネルギー省が推進しているプロジェクト。冷戦終結後、地下核実験で水爆
の性能をテストできなくなった 10 年ほど前から進められている。日本語に訳すと「科学を基礎にし
た核兵器の備蓄維持管理」となる。2008 年に完成予定の LMJ は 240 ビーム、一本が 40cmx40cm の正
方形をしている。「レーザーガラスは米国の HOYA から供給してもらっている。ただし、HOYA は日本
の会社だが」と。ネオヂウム原子を含んだピンク色に輝く巨大なガラス板の写真を見せた。これに
ついては米国の NIF(National Ignition Facility)と同時生産体制をとり、コストダウンを計って
いる。
技術的にチャレンジングなのは 3・の最終集後部の前に置く1mは有りそうなグレーティングであ
る。これは、1mm 当たり 2497 本のまっすぐな溝を、間隔 400nm に深さ 750nm の深い溝をきれいに彫
ることが要求される。あと、LIL(Laser Integration Line)について説明があり、建物に着手してい
ること、性能は60kJ。LMJ の建物は 2002 年に着手するとのこと。
私が質問した。「米国の NIF は予算超過で計画がかなり遅れ、点火実験は 2010 年頃になるかもしれ
ない。と言うことは、フランスが世界初の点火実験を実証する可能性があるではないか。この点に
ついて、フランスはどのように考えているのか?」
Andre が苦虫を噛み潰したような顔で答えだした。「我々は当初のスケジュールをキープし、2008
年から実験を開始する。しかし、米国より先に点火の実証をやることは好ましいことではないと、
考えている」だってさ。
(実は Andre の講演は初日の最後だった。プログラム参照)
この日の 12:15 からは CEA の Scharmann による LMJ のターゲット・チャンバー(直径10mの真空
容器)周りの放射化や計測器の話があった。きれいな OHP を沢山見せていた(後で、2 枚もらった)
が、LMJ の出力がすべて 1.8MJ になっている。前は、2.4MJ であったと記憶している。例の集光レン
ズの耐力の問題で下げたのかな?彼の話での中性子による放射化に関してのキーワー
ド”ALARA”(As long as reasonably possible approach)。ステンレスでは生物限界より下がるの
に 40 日以上かかる。アルミだと 3 日ほどで大丈夫になる。アルミでチャンバーを作るつもりのよう
だ。
(CEA の女性、Jaquienot の話しいれる:未定)
6
さて、私の講演は 3:15 に始まった。持ち時間は質問含めて 45 分。ところが終わってみると、発表
が 50 分、質問が 30 分(10 件以上あった)で大幅超過の講演となってしまった。次がポスターだっ
たので、座長に「少し長くなるね」と了解を取っていたのだが、終わって、質問がどんどん来て、
それに丁寧に答えて行って、座長が止めないものだから質問がなくなるまで答えつづけて、終わっ
てみれば上記の通り。参加者の大半にレーザー天体物理に興味を持ってもらえたことは大いなる成
果である。
この日は夜のプログラムも無く、ホテルに帰り中華料理を食べてゆっくりした。
【5 日目:25 日(水)】
この日はちゃんとバスが来た、リバモア研の Jave Kane が前に座ったので、「帰って Bruce Remington
に会ったら伝えてくれ。IFSA に Plenary で推薦した。Bruce からは NIF の予算超過で、旅費がない
と聞いた。旅費は何とかなりそうだ」と、言った。すると Jave は「最近、NASA に出していた提案
が採択されてお金がついたんだ。だから、俺も IFSA に出席しようと考えている。でも、分かった、
Bruce にお前の言葉伝えておくよ」。
バスは時間道りにきた。しかし、「交通渋滞で、車で来ている地元の参加者が遅れている」という理
由で、45 分遅れの 9:45 から始まった。本日の座長は私である。昨日、私の発表の後、組織委員長
(パリ天文台の J-P. J. Lafon)が私のところに来て、「貴方の発表は、内容も英語もすばらしかっ
た。明日の座長をしていただけないか」と依頼に来た。「いいですよ。全然問題ありません」と応え
た。
Jave Kane (LLNL)の話は有名な「ワシ星雲」の 3 つの柱がレーリー・テーラー不安定によるスパイ
クの名残であるという、50 年前のライマン・スピッッアーの論文に端を発している。最近、電波天
文でこの柱(Pillar)の速度分布が詳しく調べられ、単純なレーリー・テーラー不安定が予測する分
布と異なる、と結論された。いや、これは不安定の名残だとするリバモアの連中が CALE-2D コード
を用いて、色んな角度から観測と比較を行っている。輻射のあたり方を、光線追跡のプログラムを
実験家の Kane が CALE に書き加え、光線の角度分布によるスパイクの成長の違いなどを議論してい
た。
彼の発表に質問が出揃った後、最後に、私が3つ質問した。1 つ目は物理について(省略)。2 つ目
は技術的な問題について(実験やっているお前が 2 次元コードの中身を替えていけるのはなぜか。
レーザー研でそんなこと出来る実験屋はいないのに)。3 つ目は政治的な問題について(始めのほう
で、ASCI と絡めるといっていたが、その目的は何なのか)
。
次は LULI(エコール・ポリテクニーク、仏)の Michael Koenig。状態方程式の話である。発表の寸
前に現れ、「やー、久しぶり」と、座長の私に握手をし、話し始めた。最近の Diamond anvil cell
を用いた予備圧縮(0.1Mbar)物質の状態方程式の研究が面白い。ただし、毎回、ダイアモンドがレ
ーザーで吹っ飛んでしまう実験だ。予備圧縮の調整で、初期条件が異なる衝撃波曲線が得られ。密
度と圧力の関係のデータは広い領域をカバーするようになる。
7
とうとうこの日は午前中「次のセッションの座長もやってくれ」と言われ、全部の座長をさせられ
た。あとロシア系の学生が来ていた。Adam Frank(米国ロチェスター大学の天文学科)の学生で LLE
と共同研究している。英語は達者。米国に住んで 3 年だそうな。もうメンタルにもアメリカ人だ。
発表の焦点はもう一つはっきりしないが、強い衝撃波と密度が塊状になっている物質との相互作用。
塊が多数有るとどのように乱流的になっていくかなど。
彼にも IFSA においでよ。と誘った。
「行きたいが、参加予定の会議が沢山有るからなーー。どうし
ようかなーー」と。まあ、参加する気が有るなら、今からでも良いからアブストラクト俺に送れ。
ポスターになるが発表できるようにするよ、と伝えた。
この日は大変忙しい一日となった。天文台の食堂で昼食を食べ(これが毎日 big meal である。60FF
で取り放題)
、CEAの本部がある Bruyeres-le-Chatel(ブイヤー・ル・シャテーと発音する)に
セルジュの車で向かった。パリ郊外南50kmのところにある【地図 2】。2 時半から 90 分の講演を
する予定であるが、少し遅刻しそうだ。
研究所群の入口に着いた。もちろん、そのまま入れない。私は車から降り、検問の建物に行き、パ
スポートを預ける。事前に手続きはしていたので、パスポートと交換に入構証のバッジをもらう。
これで、自動改札を通る仕組み。そこに、セルジュが車で待っていて、構内を走る。着いてすぐ講
演となった。
沢山来ている。100 人近くいる。前には顔なじみの J. F. Haas、Andre Richard、Holstein など。
今日の講演はレーザー研の最近の話題と、私が思うレーザー研のこれからの有り方、というもので
ある。2 冊のトラペ集を持って、話し始めた。ほどほどに学術的な内容を話し終えた所で、政治的
な話題に移る。小泉新総理誕生の話。今年始めの省庁統合の話と ITER に関する正月来のドタバタの
話。今後の ITER 決定機関となる内閣府の総合科学技術会議の話。米国・仏国は軍事研究として巨大
レーザーを作って核融合研究しようとしているが、日本は何を根拠に大型レーザーによる研究を推
進すべきか。パスツール型の研究の必要性。日本の大学が向こう 2-3 年内に独立行政法人化するこ
と(英語では”privatize”と表現した)。結論としてレーザー研は1.核融合、2.基礎科学、3.
工業応用の 3 つを同等の比重で推進するよう研究方針を明確にし、そのための研究体制に至急、改
めるべきである、と最後に言って締めくくった。
話の途中で、米国・仏国の軍事研究の真実に迫る際、一枚のトラペを見せたら会場から笑いが生じ
た。そこには、「科学を推進する上での基本的なスタンス。1.情報公開(Openness)、2.正直であ
ること(Honesty)、と書いて、”正直は最善の策である”(Honesty is the best policy)」と結論し
ている。皆が笑うのも無理からぬことだ。私は仏国の原子力局 CEA の DAM(軍事応用研究局)で講
演しているのである。ここでは、軍事機密(非公開)が原則であり、研究内容も正直に喋ることの
出来ない場所なのだ。
質問が色々あった。一番面白かったのは、J. F. Haas(フランソワ)の質問だ。「お前のパスツール
の 4 つの窓で(No,No)には誰の名前も書いていないが、そこにいる代表的な科学者は誰だ」と。フラ
ンソワらしい質問だ。私はこう答えた。「もし、核融合の研究者が 20 世紀型の金に頼った研究を 21
8
世紀も続けるなら、彼らの大半がこの 4 番目の窓の中に入ってしまうだろう」と。言った後で、我
ながらうまく答えたものだと、感心した。
講演を終えて、親しい人たちと挨拶をし、喉がカラカラだったので水を飲み、セルジュの部屋に一
旦戻った。来る前から彼に「CEA の組織や LMJ について書いた英文の書類がほしい」といっていた
ので、彼が探してくれた。が、無い。彼も、「無いんだ。信じがたいけど」と。色々なところに電話
をして探してくれた。金曜までに手に入れて、土曜に渡してくれることになった。
彼の部門(理論・応用物理部門)のボス(Claude Guet)と面談した。核物理が専門の方で京大の基研
に 4 ヶ月いたことがあるそうな。アベ先生との共同研究でクラスターに関する研究。私はアベ先生、
知らない。「大阪大学なら土岐が友人だ」と。「土岐さん(核物センター)なら私の友人だ。よく知っ
ているよ。彼は、4 月からセンター長になったんだよ」といったら。
「うん、知ってる。彼とは昔、
レーゲンスブルグの研究所に一緒に居たことがあり長年の友人さ」と。私がこの 3 月、物理学会で
「レーザー核物理」のシンポジウムを主催したことを伝え、あらかたを説明した。すると大変興味
を示し、「内容がわかる、書いたものは無いか」と聞かれた。いま、11 月刊行の予定で小特集の原
稿を書こうとしていることを伝えた。
小一時間も話したか。部屋を辞す時、「IFSA に、もしかしたら参加するかもしれない。久しぶりの
京都も見たいしね」と、言っていた。
廊下で今度はロスアラモスの旧知の友人、D. Wilson とバッタリ会った。私が「オー。お前こんな
ところで何してるんだ。そうか、CEA の情報をスパイしに来たんだな」と、言ってやった。彼は、「No.
No. 今、中性子に関する共同研究で 2 週間ほど滞在している」と答えた。私が講演に来たことを伝
えると、「知らなかった、聞けなくて残念だった」と。彼が乗るバスの時間が迫っていたのであわた
だしく別れた。「世の中狭いもんだ、こんなところでダグ(Wilson のこと)に会うし、お前のボス
は土岐の友人。そして、お前が研究所でごく親しくしているフランソワと俺は、ソ連崩壊後すぐの
ウラル山脈の閉鎖都市での会議以来の知り合い。さらに、今のお前の共同研究者、ネイルともその
時一緒になった。世の中狭いなーー」。
今日は 7 時半から、パリのど真ん中のバーで「Bar des Sciences(バーで飲みながら科学を議論しよ
う)」がある。これは、月に一度開催されるラジオ放送である。司会は有名な女性アナウンサー。こ
の企画は、科学を一般市民と語ろうという企画で、今回は、
「レーザーで宇宙が研究できるか」がテ
ーマ。5 年程前私達が始めたことが、今やパリのラジオ局主催の市民科学の議論のテーマになって
いる。びっくりです。感激です。
渋滞に巻き込まれ、着いたのは 8 時半頃だった。小さなバーで、今回の会議参加者が 7 割。一般の
人が 3 割と云う感じか。私は司会の目の前に椅子をあてがわれ、ワインを飲みながら、フランス語
の会話を興味深く聞いた。そもそも学問はギリシャ、ローマから発祥しているので、会話の中の専
門用語は大体想像がつく。だから、相対性理論について議論しているな、アインシュタインの名前
が出た。ブラックホールは英語のままだ、などなど。
ここでは、会議の主催者の Lafon や Bobin(ボバン:パリ大の教授。私の修論は彼の 72 年の Physics
9
of Fluids の論文がお手本でした)、さらに英語を喋れなかった関係者もよく喋る。マイクの奪い合
いである。確かに昨今、科学に対する嫌悪が原子力事故、環境問題をきっかけに広がっている。こ
のように、市民に科学の進歩の大切さ、夢を理解していただくための企画は大変必要であろう。私
が日本で出来ることは限られているが、例えば、レーザー研の技官や秘書の人たちと”Bar des
Sciences”をしてもいいのではないか、いや、やるべきだろうとの感想を持った。
この手の討論会は司会の力量次第のところもある。彼女(55 歳程度か)は真中の柱に背もたれて立
ったまま、会話に加わってきたり、一般参加の人にマイクを投げかけたり。自分が素朴な質問者に
なろうとしていると同時に、会話が進行し盛り上がるように全体に気を配っている。大変落ち着い
た風で、笑顔を絶やさず、それでいて、真横で見ていて大変知的な目をしている。
討論会は 10 時過ぎに終わった。最後のほうでロシヤ人の科学者がジョークを言った。後で、ネイル
に訳してもらった。「ロシアには有名な実験家アルチモービッチ(磁場核融合装置 Tokamak の発明者
として有名)がいる。彼が言っていたことだが、ある実験家が一生懸命実験するがうまく行かない。
疲れ果て、家族も食べるものにも困るようになり、うらびれた日々を送っていた。ある日、雲で一
杯の空を見上げて、この実験家が言った。『神よ、この私を嫌いなのですか。お助けくださらないの
ですか』と。すると、雲間に日が差し始め、明るくなったところから大きな神の顔が出てきた。そ
して言った『俺はお前が嫌いだ』とね」。彼はロシヤ語で喋り、フランスに住むロシヤ人に訳させた。
会場は爆笑であった。
ロシアにはこの手のジョークが沢山ある。特に、ブラック・ユーモアには優れている。92 年の 1 月、
最初にロシアに行きフランソワやネイルと会った時、外国人9人のホスト役だったボリスという科
学者が言っていた。「俺達からジョークを奪ってしまったら何も残らない」と。不思議な話に聞こえ
るか知らないが、あの暗い、疑心暗鬼のソ連の時代。彼らはジョークを酒の肴に、ウッカをあおる
ことによって、不満一杯の日々を何とか過ごすことが出来たのである。
【6 日目:26 日(木)】
何時ものように 8:20 発の電車に乗ろうとしたら、掲示板からこの電車の表示が消えていて、何か書
いている。どうもストライキのようだ。仕方なく 8:50 の電車でいつもの”Bulleve”に着いた。も
ちろんバスは待っていない。そこで、歩くことにした。駅左手に八重桜の並木があり満開である。
そこを抜けると、今度は天文台の正門まで広い歩道のついた並木道が続く。徒歩にして 20 分は掛か
るか。写真を撮った【写真5】。天文台の広い庭から【写真 19】パリの全景が見える【写真6】。
着いて、11:35 からの Schramn(オランダ)の話を聞いた。アーク放電で、星間プラズマの研究が出来
るだろう、と言う内容の話だ。話の内容は「電離進行プラズマ」「再結合進行プラズマ」など、非平
衡原子過程の話であった。彼はユニークな先生だった。「いま、欧州では、レーザーを使った研究に
金が流れすぎる」と、批判していた。Jave Kane の話への質問も辛らつで、「流体不安定が原因なん
て誰がいえるんだ。Pillar の先端部ではクラスターが出来ており、違う解釈があるはずだ」とコメ
ントしていた。そこで私が「その通りさ、何も流体不安定である必要は無い。貴方が、そうでない
というなら、それらしいモデルを示し、真実はこうだと、モデル実験のデータを示したらいいでは
ないか」と、言ってやったら、「いや、そこまでやる気は無いさ。ただ、色々有ると言いたかったの
10
さ」と、引き下がった。彼は 2 日目の私の講演にも突っかかって来た。私が講演の最後に「The 21st
Century is the Century of Laser and Astrophysics」と書いた OHP に対してである。
「おまえ、そ
れは言い過ぎだろう」と、コメントとも質問ともつかぬ事を聞いてきたので。「これは私の個人的な
意見であり、このように表現する自由は私にある、と考えている」と返事した。
彼は奥さんずれで、また、学生も 2 人参加させていた。「この会議は色んな分野の人が集まっている
んだから、もっと議論の時間を取るべきだ」と息巻いていた。背は低く、刑事コロンボを思わせる
ようなだぶついたジャケットを着て、でも、英語もフランス語も流暢に喋る。日本に来たことがあ
る。九大の村岡先生が主催した会議で来たそうな。奥さんは大変気さくなやさしい方で、この日の
夜のバンケットで、いろいろなことを話した【写真9】。
次は Bonnard(CEA)の講演。長短パルスレーザーと物質の相互作用のシミュレーションの話。彼ら
は 2 次元の PIC コード”MANET”と、3 次元の Fokker-Planck magneto-induction Code “PARIS”
を開発している。PARIS は完全相対論、イオンとの衝突を Monte Carlo で計算、bound-free 過程に
よる電子のエネルギー損失も計算に入れている。ただし、Poisson は解かない。空間電荷による電
場は無視している。LMJ での高速点火の可能性をシミュレーションしている。
私の質問は「大坂で Sentoku が3D-PIC コードで電子ビーム伝播を調べている。Weibel 不安定や、
その後の分裂・融合などの話題が重要だ。PARIS コードで Weibel 不安定が計算できるのか」。これ
に対し彼は「PARIS コードはマクロな伝播を見るコードで、メッシュが粗い。従って長波長の衝突
型の Webel 不安定しか入らない。今質問の Weibel 不安定については MPQ の Honda 達の方法で計算す
る予定だ」。
この PARIS コードは、中島君が作っている相対論的 Fokker-Planck コードに似ている。彼らのレポ
ートを参考にして、違いや類似時点をはっきりさせておく必要があるだろう。
この日は疲れていたので、午前の話で切り上げた。ホテルに帰って、3 時間ほど昼寝をした。だい
ぶ回復した。
今日は 7:30 からオルセー美術館で見学、引き続き、8:30 から館内のレストランでバンケットであ
る。地下鉄で出かけ、1 時間前には着いた。じゃ、2 時間見学するかと入ろうとしたら、張り紙があ
る。英文は「The museum is closed due to a staff-strike」(従業員のストライキにつき美術館は
閉館)。団体入り口でバンケットの券を見せて説明したが、
ストライキ中としか返事は帰ってこない。
埒があかないので、予定の 7:30 まで待つことにした。
美術館近く、セーヌ川が目の前の通りに面したバーで、ビールを飲みながら、「地球を歩こう」や「本
の話」などを読んだ【写真22】。とてもにぎやかな通りだ。しかし、これがパリのカフェーのいい
雰囲気なのだ。
7:30 にオルセーの大きな青銅製の象の近くにいたら、顔なじみが来た。情報を集めると、残念なが
ら美術館は別の日に見てくれ(私はすでに日曜に 2 時間はたっぷり見学した)、しかし、レストラン
は予定通り営業している。だから、8:30 にレストランに来てくれ、とのことであった。
11
レストランに着くと、立派な建物【写真7】。王宮のダイニングルームを思わせる。天井も高く明る
い。どちらかと言うと、ロココ建築に近いが、横のやつはバロックだろうと言う。多分、ミックス
だな、と私が言って落ち着く【写真11】。まずは、シャンペン。赤いシャンペンだ。セルジュに聞
いた。これは、アルコール分14%のクリームと呼ばれる赤ワイン(製法は違う)をグラスの底 2cm
ほどに入れ、その上にシャンペンを注ぐ。辛口のシャンペンが甘口になり、女性には呑み易くなる
【写真8】。気に入った、買って帰ろう、秘書室に(が、重たく断念した)。
テーブルについて食事。右は、刑事コロンボの奥さん。左はネイル、その左がロシア人の夫婦。こ
のロシア人夫婦は阪神大震災の頃、神大の松田先生の研究室に一年間滞在していたとのこと。世の
中狭い。私はコロンボの奥さん(孫もいる)と親しく話した【写真9】。日本のことや、妻と私がオラ
ンダを訪ねたときのことなどから始まり、だんだん会話が「人生とは何か」に入っていった。彼女
の第 2 次大戦時の体験やアンネ・フランクの話。私はかなり酔っていた、が、会話はきわめてスト
レートで、お互いの人生観に共鳴しあえたことは記憶している。
かなり遅い時間に宴が終わり、解散となった。セルジュが車でホテルまで送ってくれた。
【7 日目:27 日(金)】
予定通り会場に着いた。最初は Astrophysics のセッション。昨日知り合ったロシア人(松田さんは
「みや」ちゃんと呼んでいたそうな)が2重星の星風同士が衝突して出来るスタグネーション面の
流体安定性の議論をしていた。Vishiniac 不安定なども。
次は、セルジュの学生のマシュー。彼の奥さんに初日のレセプションで会った。今、臨月で今月に
も生まれるそうだ、男の子が。彼の話はネイルの話が主。タイトル負けする話で、がっかりした。
あまり超新星爆発のことも流体不安定のことも、これまで行われた数々の研究を知らないようだ。
だから、かわいそうとは思ったが、厳しい質問をした。「まず、このような失礼な言い方をすること
を謝ります。貴方の研究に関しては、前者のほうは米国の研究者がかなり以前から沢山の論文を
Physics of Fluids などに発表しているし、後半の話はイスラエルの Don Shvarts のグループが精
力的に研究して高いレベルにまで達している。これらと比べて、何が新しいのか?」。
これにはマシューは答えられず、ネイルが立ち上がって答えた。「前者は、バブルのダイナミックス
を主に調べているのに対し、我々は中間部分。スパイクはとても難しいのでまだ手が出ない。後者
については、彼らが一次の非線形の範囲であるのに対し、我々は4次の非線形まで含んだ計算をし
ている」とのことであった。
次もセルジュの学生で衝撃波駆動の輻射熱伝導波のモデリングと実験との比較。普通の非線形熱伝
導波の議論をし、LULI で行われたレーザー干渉法を用いた実験結果と比較している。温度は
10eV-20eV と低い。熱伝導波は Xe ガス中を伝播する。所が、電離機構やその干渉計測への効果など
について全然議論してない。私が質問に立った。
「その程度の温度なら電離によるエネルギー損失が
輻射熱伝導波の伝播に大きく影響する。さらに、電離自身も平衡電離ではなく、輻射波による衝撃
波前方のプリカーサーで電離が始まり、干渉フリンジがずれ始める点は輻射波の後方になる。貴方
12
が実験から輻射波面といっているのは、電離開始点だ」と。これには、ドイツの宇宙工学の友人(今
回、友人になった B. Essen)も応援の質問をしてきた。答えは「おっしゃる通りで、今は簡単なモ
デルから出発している。徐々に、おっしゃったような効果を取り入れていきたい」であった。
次は欧州宇宙航空機構の若者。宇宙ステーションなどからの帰還機のシミュレーションの話。今回
はこの”Re-entry”に関する諸々の発表が多かった。
最後は、ロシアの”Institute of Mathematical Modeling”の女性研究者タチアナによる QGD モデ
ルの話。とても面白かった。QGD(Quasi-Gas-Dynamics)とは、流体式に運動論的効果を取り込んだ、
新しい形の流体方程式である。ロシアで20年間モデルの開発が行われてきたと、言っていた。と
てもおもしろかった。一度、学生に論文(レビュー論文が出ている)を読ませてみよう。
これにて会議は終わり。組織委員長から論文集(プロシーディングス)の締め切りのアナウンス。
締め切りは7月14日(パリ祭だ!)。横のドイツ人(Essen)が言っていた「この国ではこの日よ
り後は誰も働かないから、締め切りがこうなったのさ」。詳細はメイルで後ほど伝えるとのこと。
Essen が「最近は会議の当日までに論文を持って来い、というケースが多いだろう。事前に、論文
提出のアナウンスすらなかったな」
。私が「これが、ドイツか日本が主催の会議ならきっとそうさ。
でも、ここはフランスだ。これがフランス式なんだろ。いいじゃないか」と。のんびりした会議だ。
このドイツ人の友人 Essen。ケルンの宇宙航空研究所(正式名は忘れたが、米国の NASA に相当する
巨大機構)に勤めている。彼とも親しくなった。今、息子が20歳で大学に入ったところ。ドイツ
の教育システムは6歳でギムナジウムに入り、これが13年間続く。彼に言わせると13年は長す
ぎる。どうしても中だるみしてしまうそうだ。そして、卒業後、大学入試を受ける。息子は電気工
学を専攻しているとのこと。しかし、ドイツでは昔から徴兵制度がある。1年間軍務に服す決まり
となっている。ところが、70年代から軍務に服することを忌避する若者が出だし、そこで国は、
彼らに1年間、軍隊勤務の代わりに社会福祉事業に参加することを義務ずけた。当時は例外的処置
であったのが、現在は、軍務よりこちらのほうを希望する若者が増え、今や、彼らの社会活動なく
してドイツの高齢者福祉は成り立たないまでに進んだ。とのことであった。日本でも同じような議
論がされていることを伝えた。ドイツの現状をお手本にするべきでしょう。
この日も早めに帰って、昼寝をした。この日記を書いたりして、夕方、オペラ通りまで地下鉄で行
き、日本料理・金太郎という店で、味噌ラーメンを食べた。おいしかった。その後、ぶらぶらして
本などを買って帰った。
【8 日目:28 日(土)】
今日は雨だ。夜 7:30 にセルジュの家に招待されている。月刊誌「固体物理」から依頼されているサ
ロン欄への記事「地上に星をつくる」(4 月末締め切り)の原稿を11時ごろまで書いて、モンパル
ナスの周りで買物をすることにした。歩いてみると、しゃれた店や、大きなスーパーなどがある。
ドイツで有名な衣料品店 C&A も有るではないか。歩いて、歩いて、昼飯はトルコ風のサンドイッチ。
よく見かける肉を何十にも重ね、回転させながら焼いている肉を削り取って、トルコ風パンにはさ
んで食べる。これがおいしいのです。
13
今日も昼寝をして、その後、サロンの原稿を書き続け、セルジュの家を訪ねるべく、6時頃ホテル
を出た。地下鉄は便利。6号線でパリの南を南西から南東に移動し、1号線に乗り換えて南の終点
で降りた。降りてすぐに白があった。なかなかいい雰囲気の町だ。歩いて10分ほどでセルジュの
アパートに着いた。ここは、2重ロックと、インターホンという3重の鍵をあけてアパートに入る。
一階(日本の2階)が彼とステファンの家だ。ネイルはすでに来ていて料理の手伝いをしていた。
さて、セルジュとステファンについて書こう。二人は一緒に住んでいる。15 年前、オルレアンに住
んでいたのだが、3 年ほど付き合い、二人で住もうと決めたそうだ。最初セルジュが男性ルームメ
ートと住んでいると聞いた時は、正直驚いた。しかし、私には世間の常識的な偏見は気にならない。
むしろ、興味を覚えた。私にとっては始めてのケースの友人だ。彼らの家に招待されステファンを
見た時から、なんともスガスガシイ気持ちになった。本当に、好青年なのだ。ハンサムだし、よく
躾られている、人の痛みの分かる人物だ。仮面夫婦でぎすぎすしている男女に比べ、セルジュとス
テファンは互いを思いやり人生を前向きに生きている点で、ずっと正常ではないかと、話しながら
思うようになった。
あと一人揃うのを待ちながら、家の中を案内してくれた。広いリビング。テラスはリビングと同じ
ほどの広さがある庭になっている。ここでも、食事が出来るように広い芝生の中にテーブル、椅子
が置いてある。次は2人の仕事部屋。ステファンは元々数学者。職が見つからず今は社会福祉局に
勤め、関係するデータの統計処理を行っている。職場は地下鉄で30分くらいのパリ北駅の近く。
次にトイレとバスルーム(別々だ)。そして、客室。ここには大きなベッドが置いてある。今は、ネ
イルがお客として2週間泊まっている。その次が、2人の寝室。「ここが、ステファンと僕の寝室さ」
と言って大きなダブルベッドを見せられた時は、正直驚いた。もう一つ無いのかなと見たが、ベッ
ドは一つでした。
「もし構わないようだったら、このマンションの値段教えてくれ」と聞いた。「いいよ。ここは築8
年。3年前に買った。値段は220万フラン」
。約4千万円か。いい値段だ。この広さから考えて大
阪とそう変わらない値段だ。同じ値段の家。大阪とパリ。貴方ならどちらを買うかな?
8時半頃、ムードンの会議を手伝ってくれていたニコル(女性の技官)が来て、これでネイルを含む
5人が揃った【写真13】。まず、シャンペンで乾杯。私は今回、オルセー美術館で出されたクリー
ム入りのシャンペンが気に入って、これにした。飲む間、大体、ステファンが台所で食事の準備を
していた。きれいなつまみも出てきて、びっくり。「これステファンが作ったの。とてもよく出来て
るし、美味しいね」と、私。
かなりお腹が空いているのにまだ食事が始まらない。こちらの人は、朝の2時頃までパーティーす
るのが当たり前だから、ゆっくりしている。さて、食事の時間だ【写真14,15】。セルジュが実
家から持ってきたと言う、100年使っているテーブルと長椅子で食事。これはセルジュの出身地、
ノルマンディーの伝統的なテーブルだそうな。とても手入れがよく、古さを感じない。入ってすぐ
のところに大きなたんすがあるが、これも100年前に作ったものだと。
食事はホットプレート状のものにスコップ状のコテに5cm 四方5mm 厚のチーズを乗せて温めて溶
14
かす。それを、蒸したジャガイモに入れて食べたり、生ハムなどと一緒に食べる。とても美味しい
が、こんな食事毎日していたら、行き着く先はまさに「豚」だな。途中、私が日本語の構造などに
ついて講釈。ステファンが僕の名前を日本語で書いてくれ、といったので、「ステファン君へ。今日
は美味しい料理ありがとう。大変楽しんでいます。01 年 4 月 28 日、高部英明」と書いて渡した。「え。
どれがどれ」と聞くので、訳してあげたらとても喜んでくれた。
ニコルは見た目にはとても若く見える。40才ぐらいかな、
と思っていたが聞くわけにもいかない。
そのうち、家族の話なんかになった。彼女には29歳の娘と22歳の息子がいて、ムードンに住ん
でいる。娘には8歳の娘がいて、もう60歳近いおばあちゃんなんだ。セルジュ達ととても仲良し
のようで、しばしば招かれているようであった。彼女はひょうきんで、何かあると「アーララ」、「ア
ーララ」と連発する。「何ということでしょう」の様な意味。日本語の「あらら」に音も意味も似か
よう。
食事の後に、
これがすばらしい、巨大なイチゴが沢山乗ったイチゴパイをステファンが持ってきた。
すばらしい。しかし、お腹はすでにパンパンだ。何とか一切れ食べた。セルジュが「コーヒーかテ
ィーは?」と聞くが、私は「食べ物が、もう、ここまで来ている」と、のぞのあたりを手で示して
断った。すると、ステファンも「僕はここまで」と、頭の上を示し、ニコルは「私の場合はすでに
ここまで」と、頭のずっと先を示した。皆で、大笑いだ。
さて、しまう時間となった。1時半頃か。今日は地下鉄が夜はストライキだそうで、ニコルが送っ
てくれることになっていた。彼女の愛車”mini”に乗せてもらった。これから、パリ市内の南を東
から西に行く。大丈夫かな、と少し心配だったが、なんのたいした運転です。100 キロ近い速度で
ぶっ飛ばす。若い頃から鍛えた腕でしょう。外見からは想像できない、肝っ玉の運転です。元パリ
ジェンヌ(「今も、パリジェンヌよ」
、と言われそうだが)で慣らした腕前のようです。
30 分ほどで迷うことも無くホテルの近くに着いた。部屋について、ドタリと寝てしまった。
【9日目:29日(日)
】
朝、8 時頃に目覚め、朝食の後、原稿を書きつづける。12 時近くまで書いて、気分転換に、地下鉄
で凱旋門に行った。日曜日はホテルの近くの店はどこも閉まっている。開いてるのはレストランや
バーだけ。たまに、小さい果物雑貨の店が開いている。凱旋門からルーブルに続く通りは何度歩い
ても気持ちがいい。特に今日はとてもいい天気で、汗ばむほどだ。途中でみやげ物店などを覗きな
がら歩いた。
チュィルリー公園のチュウリップが本当にきれいだ。ここで、椅子に座り、しばしのんびりする。
ルーブル美術館は確か日曜日はタダだから覗いて行こう、と思っていたら、ピラミッドに来てびっ
くり。長蛇の列と入場制限。列の最後は広場を斜めに過ぎて、ルーブル宮の建物に絡み、その先に
なっているではないか【写真23】。やーめた。お腹が空いてきたので、オペラ通りの始まるところ
にある大阪亭のラーメンを食べることにした。38FF でした。美味しかった。疲れたので地下鉄で帰
る。
15
ホテルで原稿を書き続ける。夜も 8 時を過ぎたので、近所をプラプラする。モンパルナス駅前のバ
ーで、ビールを飲む。ビクトル・ユーゴーなど昔の文豪はこんなところで一日座り、コーヒーを 5
杯も 6 杯も注文しては原稿を書いていたと聞く。Café express は 13FF だ。この喧騒の中で何が見
えてくるのかなあ。印象派の芸術家達は、このモンパルナスのカフェーにたむろして、毎日のよう
に芸術論を戦わせたと聞く。何か、人を動かす力がここにはあるのかもしれない。
夕食は中華料理。広東焼飯とライスヌードル、これに半ボトルのハウス・ワイン。やはり一週間を
過ぎ、ムードンの昼食の big meal に飽きたのか、フランス料理はもう結構でございます。パリの中
華料理もなかなかの美味である。さらに、ここのハウス・ワイン(ロゼを飲んだが)が安くてとて
も美味しい。
9 時を過ぎても外は未だ明るい。夏時間に加え、季節は夏至に近付こうとしている。今日で私のパ
リ滞在も終わり。明日は 13:15 の AF で帰途につく。セルジュが 10 時半に車で迎えに来てくれる。
とてもいいやつなんだ。次に来た時はネイルの場合のように「俺の家の客間を使えよ」と、なるの
かな。正直、考えてしまうな。
もしかして変なこと考えていない、読者の貴方。僕が迷うのは、昨日、訪問したときステファンが
言ってたんだ。「今日、
ネイルとセルジュは同じ時間に起きてきたんだ、それも遅く。何時だと思う。
当ててみてよ」と聞くので。「12時」、「No」。
「じゃ、2時」、「Yes」。と、2回目で当たった。「二
人でね、遅くまで飲んでいたようだよ」と。「俺の家に泊まれよ」と言われて、考えてしまうのはこ
のことだ。きっと毎晩、2人で遅くまで飲んでばかりのパリ滞在になるのではないかと、今から心
配だ。まあいいや、その時はその時のことだ。
【10 日目:30 日(月)】
本当は昨日のフライトで返る予定であった。所が、その便が一杯で寸前まで待ったが確保できなか
った。今日はオマケの一日だ。
8時頃から外に出て買物である。シャンパンを学生や秘書、事務に買って帰る。INNO という店がよ
いとセルジュが言っていたので9時の開店を待つ。買物も終え、10時にチェック・アウトをする。
合計 4,077FF である。朝食付で 1 泊 8 千円程度か。セルジュを待つ間、私と同年代のホテルの主人
と話をした。今年のこの季節の天気は異常で、仏北部では1ケ月以上水浸しの地域が有るとか。
「そ
ういえば、セーヌ川も増水して、歩道が水面下だったね」
。「私の滞在中に日本で新しい総理大臣が
誕生したんだ。彼が日本を構造改革してくれることを期待しているんだ」。
彼は日本の経済のことなど良く知っていた。パリも同じで10年程前に比べ家の値段が半分ほどに
なり、80年頃の値段に戻ったと。彼はサンフランシスコでホテル経営をしていたことも有るとの
こと。アメリカは逆で、10年前の倍になっている。日本の構造改革について聞かれた。いろいろ
と説明するうちに、人間誰しも生まれた地から動きたがらないし、職も変えたがらない、という話
になった。そこで、私の学生で学位を取った大西君が、この4月に東北大学に移った話をした。こ
のようなことでもないとなかなか動かないと。
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このような話をする内、
「貴方の研究は何ですか」と聞かれた。「物理。レーザー核融合。核融合、
知ってる?レーザーは知ってるよね」。すると彼が「レーザーか。サンフランシスコに住んでいた時、
リバモア研究所に友人がいたんだ。よくホテルを利用してくれていたんだ」と。そこで名前を聞い
た。「Denis Mathew」。「なに、知ってるぞ。ほかには」。「・・・・」、
「知らんな」
。「Chris Keane。
彼はとても気さくないいやつだった」。「なにーー。クリスを知ってるのか。俺も良く知ってる。今
はワシントン(DOE)に行って忙しい毎日さ。昨年、ヒューストンで話をしたし、秋にはケベックで
の会議にも来てたよ」と言うと。「お前、クリスのメイル・アドレス知ってるか?」。「あー、知って
るよ」。「教えてくれ。そうだ、貴方の名刺をください」。と言うので、名刺を渡し、私が「俺にメイ
ルを送ってくれ。クリスのアドレス教えるよ」。世の中狭いもんだ。ちょうどこのような会話の途中
でセルジュが来た。雨で渋滞で約束より40分遅れだ。私達の会話を聞いて笑いながら「World is
narrow」と、また繰り返した。
こんなことならもっと早く知ってれば、このホテルの主人ともっと色んなことが話せたのに残念で
ある。「また来るよ」と言ってホテルを後にした。セルジュの車の中でまた色々話した。彼は余り英
語が上手じゃないから話している時運転がおろそかになり、ぶつかるんじゃないかと心配になる。
女房の指輪の話になった。土曜日、女房に指輪を買おうとしてサイズが7号(フランスでは 47 だそ
うな)の小さいのが売っていなかった話をした。
セルジュが「カルチエの指輪買ったか」と聞くので、
「カルチエのような高いの買うんなら、きっと女房が自分で選ぶから日本で買うと言うよ」と。す
ると、セルジュが笑いながらも真面目な顔になって「来年はステファンと出会って 15 年目なんだ。
だから記念に指輪を贈ろうと思っていて、今、金をためているんだ」といった。
「5 千フラン(約 10
万円)はするから少しずつお金をためている。ステファンもカルチエは良いと言ってたんだ」
。それ
から、彼らの話をしてくれた。セルジュが 42 歳、ステファンは 35 歳。二人が出会って最初の 3 年
間は別々に住んでいた。まだ、互いの考え方など分からないから当然だ。しかし、3 年ほど付き合
って、互いに一緒に住みたいという気持ちになった。
「ステファンは数学者だからきっちりしていて、神経質なんだ。でも、僕はのんきやで・・・」
、
「ア
バウトなんだろ」と私が続けた。「俺の息子がよく言うんだ。『数学は厳密だから好きさ、でも、物
理はアバウトじゃない、お父さん。だから物理が苦手なんだよ』てね」。
私が「ステファンはとても好青年(He is a very nice guy)で、僕もとても気に入ったよ」と言った
ら、「ありがとう。そう言ってくれるととても嬉しいよ」と、さも、普通の人が自分の女房を誉めら
れた時のようにニコニコしながら答えた。「ステファンはアキに書いてもらった日本語のメッセー
ジが気に入ったみたいで、あの紙を額に入れて飾っていたぞ」と言ってくれた。反対車線は大混雑
なのに空港への道はスムーズに行った。ドゴール空港には出発 1 時間 15 分前に着いた。
セルジュが荷物を持って、カウンターまで来てくれた。ここで最後の別れだ。思った通りの台詞が
出てきた。「アキ。来年家族でミュンヘンに来るようなら、パリにも来てくれ。家族でうちの客間に
泊まればいい。お前も見たようにスペースはあるし、客間専用のバス・トイレもある。何日でも泊
まってくれ」
。「ありがとうセルジュ。今回はお世話になりっぱなしだったな。CEA でも講演させて
もらって。あんなに沢山の研究者に科学的な話だけでなく、個人的な考えまで聞いてもらって、と
ても嬉しく思っているんだ」。「アキ。俺もとても嬉しい。普通、研究者は研究の話しかせず、自分
の考えなんて喋らない。でも、アキは違った。皆も歓迎してくれたと思うよ」と。「でも、滑稽じゃ
17
ないか。軍事機密を重んじる秘密研究所に来て講演し、言っていることが。Openness, Honesty だ。
きっと彼らは俺のことクレージーだと思っているよ」。「そんなことは無い。皆分かっているさ」。
飛行機は予定通り雨のドゴール空港を離陸した。今、機内でシャンペンを飲みながらこの最後の文
章をタイプしている。電池が残り 39%になった。この当たりで電源を切ろう。
最後に、会議2日目に ESF(下記参)から、旅費の一部として 7,000 フラン、キャッシュで支給さ
れた。そのフランスの紙幣の登場人物を眺めながら、考えさせられた。【付録2】を読んでみて下さ
い。
謝辞:今回の会議出席はセルジュの好意と、ESF(European Science Foundation:欧州科学基金)の
資金援助、及び、「IFE フォーラム」の資金援助により可能となった。ここに、感謝の意を表したい。
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【付録1】機中での会話(フランス英才教育など)
(本文掲載については、本人の了解を得ていることを付記する)
彼は 40 過ぎか。パリから 100 キロほど南西の大きなキャセドラルで有名な町に生まれた。高校を出
て、2 年間、Ecole Preparatoires(エコール・プリパラツァ:準備学校)で集中的に受験勉強をし、
数学と物理に 24 時間漬かった生活を送った。そして、北海に近い町にある Ecole Enginie(エコー
ル・エンジニエー)に合格。そこで、金属学を学んだ。
フランスの教育システムは、一部のエリートを育てる高等大学校(Grandes Ecoles)と、パリ大学
のようなマスプロ教育の大学に分かれる。前者を受験する人は、前記の準備学校に通い、毎年 3000
人程度しか合格しない狭き門を目指す。その中でも、我々と付き合いの深いパリ郊外のパレゾーに
ある Ecole Polytechnique(エコール・ポリテクニーク)は、最難関。最優秀の 300 人しか入学でき
ない。この受験に失敗しても、翌年もう一度、受験のチャンスはある。準備学校の 3 年生として勉
強し、一浪生活を送るのである。しかし、チャンスはこれ限り。2 年目や3年目に失敗した人は、
パリ大学などの 3 年生や 4 年生に編入する権利はある。準備学校入試自体が難しいので、当然のこ
とである。準備学校で学ぶ大多数の人が、このコースになるそうな。
彼は、Ecole des Mines de Nancy(ENM と略す)で学び、同学年の数は60人程度。学生時代、アメ
リカに留学したいと希望していた。そこで、2ヶ月間、米国バルチモアに遊学に出かけた。所が、
自分が抱いていたイメージと異なり、特に人間関係が希薄で、表面的でしかないことに失望して帰
国。指導教官と相談し、好感を持っていた日本に留学することに決めた。EE は東大と交流協定を結
んでおり、無試験で、さらに奨学金付で、本郷の工学部金属学科で大学院生活を送ることになった。
学生時代は北海道に2度、ホーム・ステイしたりと、日本の生活を楽しんだ。研究室は余り外部と
の交流も無かったが、学位を取得し、同時に川崎出身の日本女性と結婚し、ドイツ系の粉黛(ふん
たい)金属などを開発・販売する会社に就職した。最初に赴任した地はピレネー山脈のフランス側
のバスク地方。田舎である。当然、パリのように日本の食材を扱う店など無い。着任してまもなく、
奥さんが言い出した。「納豆が食べたいよー」、
「どうしても食べたいよー」と。そこで、エコール、
東大出身のご主人は、愛する妻のために「匂いを嗅ぐのも嫌いな納豆」を自家製造することにした。
川崎の実家から納豆菌を送ってもらい、これを自家暖房で40度に保ちながら発酵させるのである。
うまく出来たそうである。
今度は、「お味噌がほしいよー、醤油がほしいよー」となった。ご主人が出張で日本に出かける時は、
空の大きなバッグを持参。帰りはそれに味噌醤油などを一杯詰め、持ち帰ったそうな。
バスクには4年間住んだ。その後、会社の本社があるニュールンベルグ(独)に移った。そして、
次は、中近東のバーレーンで3年間過ごし、その後、任地が大坂となった。大坂支店といっても社
員2-3人。会社は堺筋本町の近く。家は京都に借りた。子供は小学校の上、中学年の息子二人と、
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今4歳の娘。息子二人はフランス式の学校に通わせて来た。京都には、堀川の近くに過疎化で廃校
になった公立小学校を外国人学校として運営している機関がある。ここのフランス学校に入れた。
小学校1年から5年(仏では小学校は5年間)の30人ほどの生徒が一つの教室で学ぶ。グループ
を作らせて、上級生が下級生を教えたり。先生は一人だから、グループを回りながら指導していく。
この学校には、アメリカ人の学校などもあった。
大坂に勤めていたが、家が京都で、大坂の町はほとんど知らない。一年後、東京支店に転勤となっ
た。今は東大のすぐ近く、駒込のマンションに住んでいる。広さは 140 平米で、家賃がなんと月額
45万円。会社が払ってくれているから、と。息子二人はフランス系の学校。娘は日本の幼稚園。息
子達はフランスの大学に行かせる予定。娘は日本の学校に通わせる。「将来、妻が淋しいでしょうか
ら、娘には日本人の教育をと考えています」とのこと。
家庭内の会話は、「妻と私は日本語。
出会った時からの習慣。
妻もフランス語は喋りますが。あとは、
色々なケースがある」そうです。
食事の話。彼は東大の学生の時から日本食は大好き。特に、うなぎの蒲焼が好き。外国にいた時は
日本出張の帰り、成田で蒲焼の真空パックをごっそり買って帰っていた。今は、浜松に取引先があ
り、出張の帰りに新鮮な蒲焼を持ち帰る。家族も大喜びとのこと。ところが、日本食でどうしても
食べられなかったのが「納豆」。未だに、匂いもだめ。所が、これが家族の大好物。家の冷蔵庫には
納豆がうずたかく積まれていて、何時でも食べられるようになっている。息子達も娘も。もちろん、
お母さんの影響だ。冗談ではなく、娘が最初に喋った言葉と言うのが「なっとう、もっと、もっと」
だったそうである。彼を除く皆が納豆を食べている食事の時など「待って。僕を殺さないで」と、
口から出てしまいそうになるそうだ。
以上が彼のあらましだ。その他、話したことで印象に残っていることを書こう。
彼は仕事でアルミの5ミクロンほどの粉黛(パウダー)を販売している。これをパウダーメタル
(Powder/Metal: PM)という。用途は、車のボディーの鉄の部分に一部この粉黛を混合する。する
と、強度を維持したまま重量を下げることが出来る。ドイツではこの手の研究が大変進んでいる。
今は、粉黛のサイズを 2 から 3 ミクロンに小さくする研究をしている。日本でこの分野の権威は、
やはり東北大学の金属研で、井上先生と言う方だそうです。私がレーザー研の人間と知って、「レー
ザーでクラスター作れますか」などと質問してきた。「今度、レーザー研においでよ。うちにはター
ゲット製作してるグループがフォームなど作ったりしているから、共同研究できるかも知れない」
と。
彼も大変忙しいようで、月に一度のペースで海外出張している。一ヶ月前もドイツの本社に出張し
たところ。中国や台湾、韓国、インド、パキスタン。いろいろなところに出かける。また、生産工
場が豪州のタスマニア島にあるため、ここにも良く出かける。タスマニア島はとても良い所だそう
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な(さにあらん)。しかし、大変なのが飛行機。昔は、日本からシドニーの直行便があったのに、今
は、なくなってしまった。だから、一旦、ブリスベンについて乗り換え、シドニーに飛び、タスマ
ニア。長旅になるそうな。
「関空の発着料が高過ぎて、航空会社がどんどん撤退していっている」
と。
今度、韓国のインチョン(仁川)に巨大空港が出来るし、上海にも、香港にも。日本の空港は「狭
い、高い」で、本当に不便だ。
真面目な話では、日本の大学と企業の結びつきが弱いのに呆れていた。何故、産学協同が出遅れた
か。60、70年代の大学紛争との絡みなど、私の理解しているところを説明した。
彼とは名刺の交換をした。今度、大坂出張の時、大学に見学に来ることになった。その際、学生に
フランスの教育システム、エリート教育について話してもらうことにした。
彼は今日は空港ホテルで泊まり、明日の便でニュールンベルグに出かける。空港で別れた。
飛行機はエア・バスの A340-300。エンジン4機で、ボーイングのジャンボを意識して開発した航空
機。中央は座席が 2+4+2 の 8 席。巡航速度は 900km/h とジャンボの 1000km/s より遅い。したがって、
パリまで 12 時間も掛かる。退屈なたびも、話の弾む相席者がいると退屈しないものだ。
【付録2】フランスの紙幣について
日本の紙幣。昔は聖徳太子しかなく、その後、伊藤博文が出て少し近代化した。そして、夏目漱石、
新渡戸稲造、福沢諭吉となりようやく政治家の時代から文化人がモデルになる時代を迎えた。新渡
戸稲造は当時の大平蔵相が個人的に尊敬していた経緯があり、あまり判断基準にならないが、夏目
漱石は作家、福沢諭吉は思想家、とすると日本はどうしても未だ文科系の人間しか重んじられてい
ない傾向がある。理系の私としては少々不満である。
フランスは芸術の国だから、さぞ紙幣はその関係の人かと思いきや、これが、全然違う。日本の1
万円札に相当する 500FF 紙幣は、キュリー夫妻である。写真は大きなマリーの顔写真の後ろにピエ
ールの顔が見える。左のデザインも最初の放射線、アルファ、ベータ、ガンマのギリシャ語文字が
ベースになったデザインである。裏には、彼等の実験室の光景があり、そこを直線状の放射線が扇
状にデザインされている。
こう考えると、この国は、原子力の国なんだ。それを、啓蒙する意味もあって、多分、キュリー夫
妻と放射能なのだろう、と考えた。日本が 2 千円札に沖縄の守礼の門を描き、使うたびに沖縄に親
しみを抱いていただこうとしたのと意図は似ている。
次に 200FF 札は何か。ギュスターヴ・エッフェルの肖像とエッフェル塔である。キュリー夫妻が科
学なら、エッフェルは工学を代表する。裏には、1900 年に開催されたパリ万博の様子がエッフェル
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塔の塔脚の間に描かれている。
そして、100FF になって初めて、芸術家(画家)セザンヌとなる。この国は、何もいまさら芸術家
を宣伝しなくても、世界中の人が認めているから、せいぜい、100FF 程度の紙幣の顔で宜しいので
ある。そして、50FF は、「星の王子さま」で有名なサンテグジュペリである。文学も当然入ってく
るが、ゾラでも、ユーゴでもなく、
「星の王子さま」であるところが、この国らしくていいですね。
さて、日本だと湯川秀樹が1万円札の福沢諭吉にとって代わりうるか。これは国の気持ちの現れ。
2千円札が朱礼の門になった経緯を考えても分かる。では、我々理系の人間がい万円札の顔になり
うるか。「湯川だと髪が薄いから偽札を作られやすい。だから、どうしてもと言うのなら髪がふさふ
さした朝永振一郎にしよう」。これが、大蔵官僚(現財務官僚)の了見だ。今の千円札が夏目漱石か
森鴎外かの議論になった時、「森は髪が薄いから偽札が作りやすい」という議論があったと何かの本
で読んだ記憶がある。将来、貴方がお札の顔になりたいなら、髪を大切にしなさい。これは、「まず、
一流の研究者に成った上で」をはき違えた発想。
何か本質を見失ったところで物事が決まっているようなもどかしさを、不条理さを感じるのは私だ
けだろうか。
「これは核融合ではない。だから、サポートするわけには行かない」と、核融合研の所
長に言われれば、逆に聞き返したい「じゃ、50年も掛けてやると言う核融合は、単に、現在の研
究の線形補間したさきにあるとおっしゃるのですか」。「歴史が皆を断罪しますよ。その時になって
今を悔いてもすでに遅いのですよ」
。しかし、日本では「死んでしまえば罪人の罪は問わず」のよう
な風土があり、だれも、20年先にしか責任をもてないのに 50 年先を平気で語る。その心理が私に
は理解できない。話がそれた。
紙幣の顔はその国を表す。アメリカは政治家ばかりだ。それも、一番良く使われる一ドル札のワシ
ントンを筆頭にかつての大統領。「よー。大統領!」の国なのである。
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▼地図説明
地図 1:パリ市内の地図。ホテルでもらったので、ホテルの位置が赤い 2 重丸で示されている【図
中①】。モンパルナス駅【②】の近く。パリ天文台の本部は、この観光地図にも載っている様に伝統
ある広い天文台【③】。地図中央のリュクサンブール宮殿(上院の議会場がある)
【④】の正面にあ
る。地図では上に水色のセーヌが流れ、ルーブル宮【⑨】やオルセー美術館、ノートルダム寺院な
どが続く。左上が凱旋門【⑤】で、そこからルーブル宮に向けシャンゼリゼ大道り【⑥】が始まる。
中間地点がコンコロド広場【⑦】。その右がチュイルリー公園【⑧】。最初の日曜日はアンバリッド
に出かけた【⑩】。
地図 2:パリ郊外の地図。旧城壁に囲まれた旧パリ市内が観光のパリで、この地図では右上の円形
状の白い部分。この地図で見ると、モンパルナスに近いパリ天文台【①】が、旧パリ市を東西に分
ける線上に位置していることが良くわかる。パリの南西、出てすぐのところに MEUDON(ムードン)
【②】があり、ここにパリ天文台ムードン地区がある。モンパルナスから出る電車の 4 駅目で降り、
歩いて 20 分の位置である。電車をそのまま乗っていくと、ムードンの西方にかの有名なベルサイユ
(VERSAILLES)宮殿がある【③】。ムードンの南方 20km ほどに、LULI でおなじみのレーザー・プラズ
マ研究グループが所属する超エリート校、エコール・ポリテクニークがある PALAISEAU が見つかる
【④】。さらにそこから 30 キロほど南に行ったところが、CEA の DAM グループ(レーザー関係はこ
こが本拠地)の研究所、ブイヤール・シャ・テー(Bruyers-le-Chatel)である【⑤】。この村の名前
は、「Bruyers と Chatel」と言う意味で。Bruyers は冬の終わりに紫色のきれいな花を咲かせる花の
名前で、Chatel は城(Chateu)の古語だそうです。研究所の中に、本当にお城があり、昔は、これを
宿舎として利用していたそうです。もうシャット・ダウンになった大型のレーザー「Phebus」があ
っ た の は 、 リ メ ー ユ (Limeil) 。 レ ー ザ ー ・ プ ラ ズ マ の 関 係 者 は 2 年 程 前 Limeil か ら
Bruyers-le-Chatel に移りました。Limeil の研究所があった土地はすでに民間に売却され、その内、
民間のアパート群になるそうです。
▼写真説明
写真 1:チュイルリー公園のチューリップ。とてもきれいでした。のどかな日曜日。写真の外、左
がコンコルド広場、右がルーブル美術館につながるのです。
写真2:チュイルリー公園から仮設の観覧車、オベリスク、遠くに凱旋門を望む。パリの町は大通
りが華やかで、道幅も広く、歩道も充分の幅がある。都市計画がしっかりしているように思えるが、
これは、あまり評判の良くないナポレオン3世が意図的にパリの町の区画整理をしたことによる。
その結果、今日のように、世界に誇る町並みになったということだ。それまでは、江戸の町のよう
に道の入り組んだ、普通の都市であったそうな。これは、付録1の彼から聞いた話。
写真3:パリ天文台(本部)の研究室。右の古い長屋風の建物。設立当時の 17 世紀の雰囲気を残し
たまま。ドアを開けると、中は、明るい、近代的な、研究室になっていました。
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写真4:パリ天文台の広間でのレセプション。台長が挨拶しているところ。宮殿風の建物でした。
写真5:ムードンの天文台に至る道。モンパルナス駅から 4 駅目の Bulleve 駅の後部で降り、左手
がこの写真。道の行き着く先に天文台の門が見える。
写真 6:ムードン天文台は台地になっている。広い構内の端からパリ市内が一望できる。あいにく
曇っているが、左にエッフェル塔、そのすぐ右手、遠くのほうにモンマルトルの丘が見え、有名な
サクレ・クール寺院の多塔が見える。ズーと右に来て、右端に近いところ、高い建物が 58 階建ての
モンマルトル高層ビル。この写真は、旧パリ市の西半分しか写していない。
写真7:26 日の夜、バンケットが印象派の作品を多数集めていることで有名なオルセー美術館のレ
ストランを借り切って行われた。8 時半始まり。最初は、シャンペンを飲みながらの立ち話から。
写真8:中央が今回の会議の主催者 Lafon 教授。
写真9:バンケットでの食事、談笑の光景。私の横にはオランダ人研究者の奥さんが座った。二人
で、人生について語り合い、意気投合した。
写真10:会議の様子。階段式の講義室で行われた。参加者は 40 人程度。
写真11:これもバンケットの光景。会場であるオルセー美術館のレストランの格調高い雰囲気が
お分かりと思う。
写真12:旧パリ市を東西に分けるパリ天文台の屋上から写したリュクサンブール宮殿と、そのき
れいな庭。写真右上には、サクレクール寺院が曇り空に吸い込まれるように見える。
写真13:28 日(土)に、セルジュ(写真向かって右から 2 人目)が彼とステファン(右から 3 人
目)の家に招待してくれた。ランダウ研究所のネイル(右端)、天文台の技官のニコル(左端)と 5
人で話が弾んだ。
写真14:食事の前の乾杯。
写真15:中央のホットプレートの上には蒸したジャガイモを保温。プレートが 2 重になっており。
その間に、チーズを置いたコテ状のもので、チーズを溶かし、ジャガイモに挟んだりして、アツア
ツを食べる。
写真16:土曜日、パリの市内を歩く。セーヌ沿いにはこのような仮設の売店が店を開く。古い写
真やら、本やら、哲学、詩集まで。私はこういう雰囲気がとても好きだ。
写真 17:これもバンケットのときの一光景。私が座り、左にはネイルとその左には神戸大の松田研
究室に震災を挟んで 1 年いたと言うロシア人夫婦(松田さんは彼を「みや」ちゃんと呼んでいたそ
うな)。
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写真18:やはり、チュイルリー公園からコンコロド広場、凱旋門を望む。最初の日曜日に写した
もの。
写真19:パリ天文台ムードン地区構内の様子。緑の多い広い天文台でした。
写真20:パリ天文台の古いドームの横にあった八重桜。この時期、パリ市内のいたるところに大
きな花を咲かせた八重桜が咲いていた。日本と同じで、実はならない。
写真21:日曜日のルーブル美術館は入場無料。ガラス張りのピラミッドの入り口では入場制限を
していた。入場を待つ行列は、広場を斜めに横切り、建物の柱にトグロを巻いてさらに先に続いて
いた。「見るの、やーめた」でした。
写真22:日曜日、ホテルから歩いてすぐの地下鉄(メトロ)の入り口近くに、八重桜の並木があ
った。パリで八重桜を見た記憶が無いので、とても珍しく感じた。
写真23:バンケットの始まる時間を待つ間、セーヌ川に掛かる端の前のレストランでビールを飲
みながら、「地球を歩く」でパリ情報の確認。目の前はルーブル美術館に通じていく。
写真24:モンパルナス駅前の広場には日曜市場が開く。食べ物から、絵、鞄、何でも売っている。
農家の人が新鮮な肉や乳製品などを持ち寄り売る。私はこんな所をブラブラ見物しながら歩くのが
好きだ。
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