世紀を越えて - 普天間バプテスト教会

世紀を超えて
―ランドール先生へのインタビュー―
目次
第1回
アメリカで過ごした幼年・尐年期・・・2000 年 7 月 21 日
3頁
第2回
ガンディー思想へのめざめ・・・・・・・・
8 月 18 日
22 頁
第3回
キング牧師との出会い・・・・・・・・・・
9 月 29 日
37 頁
第4回
神戸から沖縄へ・・・・・・・・・・・・・
10 月 27 日
54 頁
第5回
オープン・ハウスとアジア研究会・・・・・
宣教師職の解任
11 月 22 日
76 頁
第6回
宣教師職の解任(つづき)・・・・・・・2001 年 1 月 19 日
91 頁
(付:ランドール宣教師解任問題の一連の経過)・・・・・・・
105 頁
第7回
大学人として・・・・・・・・・・・・・・
3 月 16 日・・107 頁
第8回
現在そして未来へ・・・・・・・・・・・・
5 月 17 日・・129 頁
インタビューをふりかえって
2005 年 12 月 25 日・・・・・151 頁
この記事は、以前『北中バプテスト教会雑誌』誌上に連載されたものを、今回ランド
ール牧師の許可を得て転載するものです。
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はじめに
20世紀最後の年、2000 年。その7月に、私は沖縄国際大学にあるランドール先
生の研究室を訪ねた。先に申し入れてあった先生へのインタビューを試みるためである。
先生は、1968 年に北米バプテスト宣教師団の派遣宣教師として沖縄に来られたが、
1979 年には宣教師職を解任されるという大きな「悲劇」に見舞われた。しかしその後
も大学人として活躍され、また普天間バプテスト教会の協力牧師として、一貫して沖縄
宣教に従事してこられた。私のインタビューの目的は、そのような先生のキリスト者と
しての歩みを、先生ご自身の証言として聞き出すことにあった。
しかしインタビューにおいて語られる言葉の一つ一つは、その人の全人格を反映して
いるものである。そういう意味で、このインタビューは、先生の人としての魅力をも伝
えているにちがい。先生は土地に対しても(故郷のアメリカ南部や沖縄、さらにインド
や南アフリカ)、人に対しても、深い愛情と誠意をもって接して来られた。信仰から滲
みでるそのような豊かな人格を、インタビューを通して確認することができるだろう。
インタビューは、最終回(第 8 回)を除いて、すべて沖縄国際大学の先生の研究室で行わ
れた。毎回、午前 11 時から約 1 時間である。(最終回は私の自宅で行った)。
インタビューは通算して 8 回に及んだ。2000 年 7 月 21 日から 2001 年 5 月 17 日ま
でのほぼ 10 か月間である。それはちょうど 20 世紀を越えて 21 世紀に跨っていた。イ
ンタビューが終って 4 ヶ月後、新しい世紀の有様をまざまざと見せつけた 9.11 テロが
起こった。いまから振り返ってみると、そのような「歴史」の文脈のなかで、先生への
インタビューを行っていたことがわかる。
今回タイトルを「世紀を越えて」とした。おおげさに聞こえるが、しかしその内容は
十分に「歴史性」を具えたものになっているはずである。21 世紀にキリスト教が本気
で取り組むべき課題は、「平和の実現」をおいてほかにない。欧米のキリスト教が果た
せなかったこの大きな課題は、しかし今を生きる小さなひとりひとりのクリスチャンの
課題である。ひとりのクリスチャンがキリストの言葉にしたがって、本気で武器を持た
なかったら、ガンディーやキング牧師のように、本気で非暴力に徹することができるな
ら、それはいまここにおいて、直ちに「平和」が実現するのである。ランドール先生の
キリスト者としての歩みは、そのことを証ししている。
なお今回、このプライベートなインタビューを公表するに際して、これを快く許して
くださったランドール先生、そして誌面を提供してくださった北中バプテスト教会の本
村和弥さんに、心より感謝するしだいである。
2004 年 4 月
竹内 豊
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第 1 回 アメリカ南部ですごした幼年・尐年期
2000.7.21
竹内:今日はランドール先生の幼年時代・尐年時代についてお話を伺いたいのですが、
先生がお生まれになったのは 1933 年、ちょうど第 2 次世界大戦の時期に重なります。
33 年はアメリカではルーズベルトが大統領になった年で、日本では国際連盟から脱退
した年です。先生はそんな年にお生まれになったのですけど、先生がお生まれになった
ジョージアの環境について、とくに 30 年代から 40 年代の社会的な状況などから、ま
ず先生のお話を伺いたいのですが……
ランドール:はい。あまり多くは記憶しておりません。なぜなら田舎のなかで生まれ育
って、そのころの記憶は記億としては自分の畑と家と家庭、そして一緒に働くこと……
たとえばいま竹内さんはルーズベルトのこと、あるいは日本のことをおっしやいました
けど、そのころの私なんかには分からなかったと思います。記憶しているのは働くこと。
とくに経済の問題が大きいです。父さんの話によりますと、1929 年に結婚して、T 型
のフォードの車を買い、そして小さな自分自身の土地を持って、そこで夫婦としてファ
ーマーの生活を始めます。その時もちろん借金がつきますけど。1929 年に、間もなく
経済の危機があって……
竹内:大恐慌ですか?
ランドール:大恐慌です。お姉さんが 1930 年に生まれましたけど、ちょうど 7 月 21
日が誕生日でした。その時にはもはやお金はない状態になっていたそうです。お姉さん
は生まれながらの心臓病で、医者から「この子供は学校に行くことはない、なぜならそ
のうちに死んでしまうでしょう」と、つまりそれは生きる力はないという医者の診断で
す。金さえあればどこか遠いところへ行って手術など考えられたようですけど、あまり
遠い世界のことですからあきらめたでしょう。そのことをよくうちで話していました。
しかし生まれた時に育たないと言われても、元気で育ちました。よく私と遊んでいて、
時に喧嘩するんですよ。かならず私のほうが負ける。なぜなら向こうのほうが強いです
から。元気なお姉さんでした。けれども尐し走るとフーフーすることがありましたね。
そしていくら食べても太らない。ほんとうに細い人でした。それが心臓病と関係がある
かわかりませんけど。疲れやすいか、そして消化してもなかなか筋肉にならないか。筋
肉にはなったでしょうが、脂肪にはならない
私が生まれた時、両親が結婚して 14 年経ったときですが、その時にはもはや自分の
車もない、土地もない、家もない、なんにもない状態になって、銀行に全部それを取ら
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れてしまったんです。で、私が生まれた時に、父母は自分の土地ではなくて、他人の土
地、小作人というかたちでファーミングをしておりました。綿を作るコットン・フィー
ルズです。綿畑はお父さんの働くところ……
竹内:それは当時一般のアメリカ南部の農民の仕事になっていたわけですね。
ランドール:ええ、ただ自分自身の土地を持つか持たないかで、だいぶ違います。その
やり方は、お父さんは種を蒔いて収穫して、収穫時点では自分の収穫したコットンをふ
たつに分けて、半分は地主にいくわけです、そっくりそのまま。あとの半分は自分のも
のになります。ところが自分自身の分になっても、この 1 年に肥料を使うでしょ。それ
は地主から買う。種を使うでしょう。それも地主から買う。また自分自身の道具はない
から、地主の道具を使って、故障したり壊れたりしたものは買い直さないといけない。
そうするとお金が戻ってきても、地主のところへ行って計算するとだいたいゼロに終わ
りました。冬になると、お父さんはどこかに行って稼ぐのですよ。話によると、どこか
遠いところに川があって、その川はよく溢れるところで、ジョージア州の計画のなかで、
労働者がこれを直す。よく分かりませんけど、ただ冷たい冬の間には岸のところで仕事
していた。
竹内:それは、今で言う公共工事ですね。
ランドール:そういうような仕事をしていて、いくらか自分の生活になくてはならない
お金になっていた。そしてお父さんはまた、自分で散髪の技術を身に付けたんですよ。
手でクルクルッと。
竹内:バリカンというやつ……
ランドール:バリカンですか。土曜日、午後になると人が来て、男性は 10 セント。女
性は尐しありますから 15 セント。子供は 5 セント。そういうふうにしてお金を作って
……ただそこにはお金はないですけど、食べ物は豊富でした。果物もすぐ自然のままで
きたんですよ。りんごとか桃とかイチゴとか、野生に。
竹内:それは暖かいところだったということですか?
ランドール:暖かいところだった。沖縄とさほど変わらない。ただ冬ですと陸つづきで
すから、寒気が流れてきて、たまには雪も降ります一時的なものですけど。地図をみる
とだいたいジョージア州と沖縄は同じ線にあるでしょう。(アメリカの地図を見る)ジ
ョージアはこの辺です。……で、よく食べましたね。食べ物は十分にありました。豚も
ありました。豚は毎年、子供を産むのですよ。それを何匹かどこかに売って、そして一
匹はここに残して、その母豚を大切にしていました。産んでくれるから。母豚はほんと
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に大切な存在でした彼女は場合によって 10 匹産んでくれるのですよ。
竹内:とてもランドール家に貢献していたのですね。
ランドール:ええ、それは大切なもので、一匹二匹残しておいて、まあ 2 月の終りか 3
月ごろ生まれるのでけすよ。10 月か 11 月ごろちょうど霜が降りる頃に、それを殺して
肉にするのですよ。ソーセージやハムなど作ります。私たちの食事の肉になります。ま
た牛乳も飲みますね。牛がいますけども、そこも毎年子供を産むのですよ。
竹内:子牛を。
ランドール:はい。だいたい同時に生まれるんですよ。とくに牛が子供を産むと、人間
の助けがなければ死ぬのは多いのですよ。野生動物のなかでもよくあるみたいです。い
くら経験があっても、上手に生み出せない。弱いところがあるみたいです、野生の場合。
あとをみると半分くらいは子供が出たままで、母親が子供といっしょに死んだ。またほ
かの動物や鳥がそれを食餌にするでしょう、野生の世界では。鹿もそうです。家畜にも
そういう弱いところがあって、牛が生まれるときに、お父さんがうしろに回ってそれを
助ける。やっぱり痛いですから鳴く。また熱も出す。私は頭のほうにタオルをかける仕
事をしていたんですよ。そういう意味ではとっても自然の世界とひじょうに、ごく自然
なかたちで親しみを持つようになったのですよ。
小川にちょっとしたダムを作って、それを作ると水が出てきて、自分自身の腰ぐらい
のところの深さで、真っ裸になって遊んでいて……従兄弟たちが来たときに、そういう
ことをやっていたときに、あるとき姉たちがやってきて、私たちのズポン……ズポンだ
けですからね。下着もない、それを岸のところに置いて、泳いで遊んでいる。お姉さん
たちがそれを盗んで家に持って帰るのです(笑い)そしてあとで大笑いして、こんなにし
て自分自身のものを隠しながら歩いて……そこからうちまでけっこう遠いところにあ
りますからね。また道のそばも通らないといけないですよ。それを願って笑って待って
いましたね。
隣のサウス・キャロライナ州に従姉妹が住んでいました。そこの両親は糸を作るコッ
トン繊維の工場があって、そこに勤めていました。そこで毎年夏に遊びに来るのですよ。
向こうは女二人。だいぶあとでもうひとりの男の人も生まれたのですけど、でも私はだ
いぶ大きくなっていましたから、従兄弟が生まれても一緒に遊んだことはない。でも二
人の従姉妹はお姉さんとだいたい同じくらいでした。
隣に白人がいましたが、一生懸命名前を思い出そうとしても、名前は浮かんでこない
です。ただ顔がよく浮かんでくるのはジョーです。ジョーは黒人です。ジョーのお父さ
んはうちのお父さんと同じ地主から―私たちは地主を、ミスター・バーブと呼んでいま
すけど―このミスター・バーブのところで、何人かが小作人の生活をしていて、ジョー
のお父さんは、私のお父さんとだいたい同じ面積を借りてやっていたのです。ただお父
さんはいつか私に、私たちの経済の力とジョーたちの経済の力はだいぶ違うと話してい
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た。なぜならお父さんは収穫のときに、自分自身の収穫の半分がそっくりそのまま地主
にいくのですけども、ジョーのお父さんは黒人だから、自分のところに残すのは 4 分の
1。4 分の 3 はそっくりそのまま地主にいく。どこの大地主のところでも、同じような
ことがあったのですよ。ごく普通だと言っていました。貧しいといったら言葉に表しき
れない。お父さんの貧しさと比べたら、倍以上貧しい。子供も多いですよ。ジョーのお
兄さんたち、けっこういましたね。彼らは尐し大きいですから、どこに出かけて仕事を
しているか、何をしているか分かりませんけども。
ジョーはうちに来るとき、とくに洗濯のときに来ました。洗濯は戸外でするのですよ。
大きい黒い桶に水を入れて、そして桶の下にたきぎを入れて、そこに火を点けて、熱く
して、その中に……
竹内:お湯で洗濯をするのですね。
ランドール:ええ、お湯で。畑で仕事をするから、相当汚れているでしょう。そして灰
汁を入れた自分の家庭で作った洗濯剤……
竹内:洗剤みたいなものを作るのですね。
ランドール:全部それを自分で作るのです。動物を殺すときに脂と灰汁と適当に混ぜた
らソープになる。あるいはライソープと呼んでいます。lye。このライソープを入れて、
ボイルして、そこから出して、丸太をテーブルにして、大きい丸太をちょんぎってきて、
上を平らにし綺麗なテーブルにしたものですが、そこに湯から取り出した汚れたものを、
灰汁の臭いが付いたまま、ちょうどボートを動かすように……ええと何といいますか?
竹内:オール、櫂?
ランドール:オールと同じ格好をしているものが 2 本あります。人が向かい合って、ち
ょうど餅つきと同じように、1 人は叩いて、1 人は待機して、そしてもう 1 人が叩いて、
それを上げるのです。それは私とジョーがさせてもらえました。ああ楽しかったですよ。
また灰汁が跳ぶでしょう。で、笑っていたのですよ、二人で。あまり役に立たなかった
かもしれませんけども。母たちが、ジョーのお母さんとうちのお母さんがそれをやって
いたのですよ。
竹内:それは先生がおいくつくらいの時ですか?
ランドール:覚えていません。学校に行く前の話。
竹内:じゃあまだほんとに小さかったころのことですね。
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ランドール:はい。ジョーと私はいろんなことを話したり……それぞれ臭いが違います
ね。「お前は臭いがちがう」と笑って。ところが「灰汁がついているときは同じ」だと
……それも笑いの材料。(笑い)そのことはよく印象に残っています。ところが二、三年
前にこの地方に行って、たまたまその近くに、殆ど隣くらいのところで育った一人の黒
人の人と会ってですね、いまの話を彼にしたのですよ。
竹内:あ、ジョーに会った?
ランドール:いいえ、ジョーではないですけど、その人は黒人の中で育ったのですから。
また年もだいたい同じですから。彼はですね、ジョーという人物はいなかったと言うの
です。たぶんジムという名前じゃないかと。しかし私が話していたちょうど同じところ
に立って話しているのですから。いまはその家はないのですけれども、同じ場所ですよ。
たまたま彼はいま、ミスター・バーブ、地主が住んでいたところに住んでいます。黒人
がその庭に立って、以前の私たちの家を見せたのです。「ジムでなければ、自分として
はその話は納得できない」。ですから私の「ジョー」という記億も間違っているかもし
れません。
竹内:ジョーでなくてジム。
ランドール:でも彼が言うにはですね、ものすごく太っている男の人がいて、そこで妻
といっしょにミスター・バーブのところで小作人をしていた。その記億はありました。
記億しているのは、そのお父さんは太っていること。とっても彼らは笑ったみたいです
よ。彼らはファットと呼んでいた。ファットのところには子供がたくさんいます。また
自分自身と同じ年くらいのジムという人がいたそうです。同じ人物だろうか?
竹内:じゃあ、はっきり特定できない。
ランドール:はい、特定できませんね。でも遊んでいた記億はありますね。いちばんよ
く遊んでいたのはこの黒人のジョー。私の記億でジョー。向こうの記憶でジム。とにか
くその黒人のところに行ったのですよ。それは学校に行くまで。
竹内:学校に行くまでというと、学校に入学されたのは何年になりますか?
ランドール:その辺も私の記億は混乱しています。
竹内:ああそうですか。いわゆる 6 歳とか 7 歳で、ふつう日本でしたら学校に行くわけ
ですけど。
ランドール:……近くの学校に入学したそうです、母がいうには。私にはなんとなくフ
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ァースト・グレードのティーチャーのミス・エアーズとう名前が残っています。その人
は私の名前を呼ぶとき、私の納得のできない呼び方をしていたんですから。(笑い)それ
は覚えています。
竹内:どんなふうに?
ランドール:私はウィリアム・T(Talmadge)・ランドールでしょ。この T を必ずつけて
ほしいですよ。でも先生は T を抜きにして話すのですよ。それはね、州知事のターミ
ッジという人物だったのですよ。いま歴史の本なんか読んでみると、きわめて悪い州知
事だったけれども、でもうちではヒーローでした。
竹内:ああ、そうですか。
ランドール:私が生まれた時にお父さんがその名前をつけたんですよ。
竹内:ああ、それで。ああ、そうか。
ランドール:ティーチャーにその名前を納得して、好きになってほしかったんですけど、
でもなかなかターミッジさんが好きじゃなかったようで。(笑い)がっかりしている。
竹内:当時はそう思ったわけですね。
ランドール:その学校に行きました。最初の学校に通学バスがありました。で、行った
とき、黒人たちは歩いていて、私たちはバスに乗って行く。黒人の学校は私たちの学校
のすぐ近くですよ。距離はいっしょです。だけれども、黒人は歩いて、白人は乗って行
く。バスの窓からジョーが歩くのを一生懸命見いだそうと思ったとき、なかなか見えな
かったんですよ。それは覚えています。ジョーの姿は見えなかった。
竹内:学校に行けなかったということですか?
ランドール:それは分かりません。ただ学校に行きはじめてから、それっきりジョーと
私の関係は変わりました。
竹内:じゃあ、学校に行ってジョーに会うこともない。
ランドール:おそらく両親もそれを許さなかったかもしれません、お互い。
竹内:ランドール先生のご両親ですか?
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ランドール:とくにお父さんはたぶん厳しかったかもしれません。その年だったら学校
は別。社会は別。学校に行くまではどうでもいいけれども、いくら同性どうし、男性ど
うしがそこで遊んでいてもいいですけど、学校に行きはじめると、現実の社会に入るか
ら。それもジョーに会えなかった理由と考えられますね。でもよく分かりません。
ただその年にですね、その畑(土地)からいったん離れたのですよ。父母は、このよう
な経済では耐えられないといって、隣のサウス・キャロライナの親戚のところに行って、
繊維工場のあるところに勤めるようになったんです。
竹内:ああ、工場に勤める……
ランドール:母は 4 時から 12 時まで。
竹内:これは朝?
ランドール:夜。
竹内:夕方の 4 時から夜の……
ランドール:夜ですね。お父さんは夜の 11 時から(朝の)7 時、8 時まで。そういうわけ
で 1 時間くらい、私とお姉さんがふたりでうちのなかで寝ていました。たぶんそれは不
安だったかもしれません。サウス・キャロライナに移動して……でも、きわめて治安の
悪いところがあって、母は夜、暗い道を、いまは上等な道ですけど、そのときは泤の道
ですからね。汚水が流れて、いろんなものが道にあって、また人はお酒を飲んだり、喧
嘩をしたり……隣の人は自分の奥さんの兄弟を殺した、アイスピンで。私たちは警察が
彼を捕まえに来るのを目撃した。その死体なんかは見ていないけれども。とにかく治安
が悪い。とても不安でした。
で、姉がまた病気になりました。病気になっても医者に行くと、どうもお金がかかり
過ぎて……
竹内:やはり心臓ですか?
ランドール:心臓かどうか分かりません。とにかく病気ということで、いくら働いても
それだけのお金はつくれない。そういう状況があって、あきらめてもう一度ミスター・
バーブのところに戻ります。もし困ったならば田舎のほうがいいという判断でしょう。
竹内:ご苦労なさったのですね、ご両親は……
ランドール:田舎ならば人は理解します。都会ならば人は理解しない。都会ならば人は
必死に自分自身の生活のために金をつくることだけを考え……
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竹内:他人のことはあまり……
ランドール:しないですね。田舎ならば、黒人、白人、すべては何か困ったときに助け
合うでしょう。
竹内:やはりどこの世界でもそういう傾向ですね。
ランドール:そこに戻ったのですよ。ただ戻ったときに、出たときの家とまた違うので
すよ。
竹内:家は違う?
ランドール:家は違う。しかし同じミスター・バーブのところ。
竹内:家も地主から借りる?
ランドール:ええ、借りるのです。同じ条件ですよ。そして働いて秋に、収穫のときに、
借りを返すのですよ。私はそのとき同じミスター・バーブだから同じファームだと思っ
たけれども、あとで離れたところだと知った。つまりミスター・バーブはあちこちに土
地があったわけ。
竹内:ああそうですか。連続ではなくて、あちこちに土地を持っていた。
ランドール:……で、そこから記憶がはっきりしてきます。ここで小学校に通います。
ところがそれは 3 年生からです。私の 1,2 年生は、どういうふうにしてすごしたか、そ
んなにはっきりしてい
ない。
竹内:ということは学校に行ったり行かなかったりということですか?
ランドール:学校を頻繁に替わったりしているでしょうね。母に聞きましたけども、辛
い話でしょうから母はあまり答えなかったですよ。2、3 年前に聞いたのですけどもね。
いまの話を比嘉長徳先生たちといっしょにしていたのですよ。あるときの話は前の時の
話と矛盾するのですよ。で、その時に自分の記憶は混乱していることに気づきました。
そして結局は断片的にどこかにレンガで作った大きい学校、あるいはサウス・キャロラ
イナにあったかジョージアにあったか分かりません。あるいはお姉さんは行っていても、
私は行っていない学校かもわからない。とにかくそういった学校になにかぼんやりした
記憶が残っています。3 年生からは覚えています。
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竹内:じゃあ、それまでの学校の名前も分からないわけですね。
ランドール:はい。3 年生からははっきりしています。Fairview、フェアビュー。おそ
らく記憶が混乱しているのは、私の両親がそうとう苦労した結果でしょう。
竹内:子供もそれに引っ張られるかたちで……もうはっきりしないわけですね。
ランドール:ええ。たまにですね、私と姉はですね、両親が真剣に話していることを聞
いたりしていますね。また泣きそうな声もありました。「なんでか」とふたりで話し合
っていたのですよ。でも内容はこちらに伝わらない。大きくなってから聞きましたから、
いまの話。おそらく相当の苦労があった。4 年くらい、5 年くらいあったかもしれませ
ん。
竹内:先生が子供の頃というのは、アメリカが一番どん底を経験している時期ですね。
ランドール:ということでしょう。スタインベックがよく書きますね、その時代のこと
を。
竹内:『怒りの葡萄』とか……
ランドール:そのあたり。むこうは葡萄で、こちらはコットンですけど、でも実際みて
みれば、同じくらいだろうと思いますね。で、そのなかで育った。ただ……これも不思
議ですけども、フェアビュー・バプテスト教会があって、最初のミスター・バーブの家
からも、2 番目のミスター・バーブの家からも同じフェアビュー教会に通っていたので
すよ。
竹内:ああそうですか。じゃあ、教会は共通だったわけですね。
ランドール:同じ教会。すこし離れていたのですけども。で、母が言うのに、ミスター・
バーブは毎週日曜日の朝、私たちをピック・アップして、いっしょに教会にいったわけ。
私はいつもミスター・バーブのそばに座っていて、足はもちろん椅子だけでこんなに真
っ直ぐになっていたのですけど……(足が床に届かない格好で、笑い)それを母はよく記
憶していて、笑っていました。とってもミスター・バーブと私は仲が良かったみたいで
すよ。
竹内:じゃあ個人としては、ミスター・バーブはとても楽しい、いい人……
ランドール:温かい……
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竹内:温かい人。じゃあ、小作人に対しても割に親切なかただったのですか?
ランドール:親切だったけども、どうも経済の面では厳しかったようですね。で、父親
は、母親ほどミスター・バーブに対して温かいという記憶はなかった。割りと厳しい目
で見てましたね。
竹内:やはりまだランドール先生が幼かったから、そういうところでは温かい人だった
のでしょうね。
ランドール:あとでお父さんがいまの話をしますね。そのときはあまりミスター・バー
ブのことを話さなかったですよ。で、2 番目の家に住んだとき、ちょうどこのころ第 2
次大戦が始まって……
竹内:1939 年ですね。
ランドール:はい。ここで 40,41 年ですよ。アメリカの南部の田舎に及ぶまでに時間か
かるでしょう。そのころ北部のどこかに、トラクターなど作る大きな工場ができたので
すよ。ブルドーザーみたいなもの作って。あとで、これで戦車を作ることになるのです
けども……近くにその新しい大きな工場があって、お父さんがもう一度、畑から離れて、
そこで仕事ができたその時からお父さんの経済の回復が始まります。
竹内:やはり戦争経済のなかで経済が活性化していくというような状況があったわけで
すか?
ランドール:はい。で、機械の技術なんかを自分の身につけて、あとでロッキードの飛
行機会社に勤めて、けっこういい仕事に、最後の 15 年くらいでしょうけど、いい暮ら
しをしていたのですよ。そのトラクターを作るところでいろいろ覚えたでしょう。
お父さんは、学校は、5 年生か 6 年生まででしょう。それしか教育はない。男性なら
ば働かないといけない。そういう時代ですから。
竹内:じゃあ、いちばん基本的な教育を受けてすぐ世の中に出られたわけですね。
ランドール:で、お父さんのお父さんも自分と同じようにすべてを失ったのですよ。
竹内:お祖父さんですね。
ランドール:ランドールお祖父さんがぜんぶ失うのですよ。でもだいぶ年いっているか
ら、お父さんみたいに働けない。厚生局から何かあったでしょう。もうきわめて貧しい
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状況に陥ったようで。お祖母さんも 4、5 年くらい寝たきり。あとで回復して、最後は
失明して見えなかったけども、元気な身体に戻ったのですけども、おそらくこのストレ
スから生じた病気、病気か分かりませんよ、精神的なものか、肉体的……自分は子供で
すから、ただお祖母さんが寝てるということしか分かりません。お祖母さんがいつも天
国にいますから、どうぞ神様を信じていっしょにいてくださいよと言ったのですけども。
私をベッドから抱き寄せたりして、……それでお祖父さんは郡から与えられた家でしょ
うか……
竹内:あの県営(住宅)とか市営とかいうのと同じですね。郡営みたいな……
ランドール:はい。そこに住んでいたのですよ。その庭の裏の方にまた自分自身の畑を
作って、尐し枝豆、唐辛子、それが好きで、そういうものを作っていて……
竹内:先生のところから近いところに住んでいらっしゃったのですか?
ランドール:馬車で……そうですね、家を朝出て、お昼まえに着きますからね。どのく
らいかな?
竹内:馬車で、ですね。
ランドール:馬車ですね。いつも畑で使う、いろんなものを運ぶ馬車。
竹内:往復すればけっこう 1 日かかってしまいますね。
ランドール:ええ、ですから 1 日往復ですよ。だいたい同じ距離に母のお父さんいたの
ですけども。で、そこ(母の父のところ)は条件が尐し違う。どうにか自分自身の土地を
そのまま持っていて……
竹内:自分の土地を持っていた?
ランドール:ええ、持っていたのですよ。失わなかったのですよ。とても稀なケースで
したね。
竹内:小作では?
ランドール:いえ、自分の土地ですから。最後まで自分の土地だった。
竹内:自作農ですね。
ランドール:そこではもちろんコットンやとうもろこしを作っていて、わりといい状況
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にあったのですよ。
竹内:じゃあ、お母さんはそういう家庭の人だったんですね。
ランドール:そこにベィリー(Mr.Willam Erskine Bailey)お祖父さんだったけども、(資
料を見せながら)ベィリーお祖父さんが行った教会。この教会に行って、いまは立派な
教会ですがそのときは木造の建物で……
竹内:これはやっぱりアメリカの田舎の教会の一般的な建物……
ランドール:この間、儀部(景俊)先生といっしょにここにまわりましたけど……(資料の
なかの掲載写真を見せながら)この人がアンドリューズ。私の叔父になります。母の妹
と結婚している。その会員で。
竹内:じゃあ義理の叔父さんですね。
ランドール:はい。……これは母のお父さん。(資料の写真を見て)
竹内:ベィリー?
ランドール:ベィリー。この写真は 23 年ですね。私が生まれる 10 年前の写真ですけ
ど。
竹内:じゃあ先生の名前のウィリアムはこの……
ランドール:あれは流行でしよう。ランドールお祖父さんもウィリアム(Mr.William
Earnest Randall)。
ベィリーお祖父さんもウィリアムですよ。(笑い)真ん中の字が替わるだけですよ。父
さんはウィリアム・H(Hoyt)。こちら(ベィリーお祖父さん)はウィリアム・E。お父さん
のお父さんもウィリアム・E。E の意味は違うのですけども、(アンドリューズ氏の写真
を指しながら)これは義理の叔父さん。この人は母の妹ですね。
……そういうところで、社会的にもいろんな人がベィリー叔父さんを相談相手にして
いたのですよ。黒人も白人もいろいろ来て、問題があったときの良き相談者として……
またひじょうに思いやりのある人で、うちの庭から鶏を取って困っている人にあげたり
して。
竹内:思いやりのあるかたですね。
ランドール:ええ、とっても。ただ厳しい。家畜に対しても、私に対しても、すべてに
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対して厳しかったですよ。ランドールお祖父さんは許してくれるところがあったのです
けど。それで思い切っていろいろやれたのですけど、このお祖父さん(ベィリーお祖父
さん)のそばでは気をつけていました。でもお互いは尊重し合う。言葉はあまりいらな
い。他の人はパパ・ベィリーと呼んでいましたね。
竹内:それだけ頼りがいのあるかただったのですか?
ランドール:ほかの従兄弟はそうだったけれども、私はちょっとパパというのは辛いと
思って、グランド・ファーザーとちゃんと言いましたね。そしてほかは私をヴィリーと
呼んでいますよ。ヴィリーは小さい者です。しかしこのお祖父さんは私をヴィリーでは
なくヴィルと呼んでくれました。ヴィルは大人につける。ウィリアムと呼ばれる場合も
多かったです。お互いはどうにか自分だけの独立した社会を保ち合ったのか、それとも
私が最初の孫のためなのか、よく分からないですよ。で、そのお祖父さんと尊重し合う。
ほかの人は(お祖父さんを)怖がる。しかし私は気をつけるのですから怖くない。私はこ
のお祖父さんが保っている社会のなかで私も保つべきだと思っていました。で、亡くな
った年は 19……ちょうど私は大学に行くその年かその前の年、48……?
竹内:1948 年にお祖父さんが亡くなられたのですね。
ランドール:だったと思います。まあその年ごろ。48 年か 49 年……私が大学に行くの
は 1949 年ですから。だいぶ年いってから弱くなって、自分自身の身の回りのことをあ
まりできない。お祖母さんもそうだった。2 人で暮らしていましたけれども。私たちは
このときまでには回復して、車をもっていました。で、私と母は毎週お祖父さんのとこ
ろに 2、3 回行って、たとえば水を井戸から汲んで持ってきますからね。水がたっぷり
あって。
竹内:井戸から持ってきて……
ランドール:またたきぎを燃やす。そこにウッドを使ってストーブを……電気などない
でしょう。そういったものをぜんぶ準備してくる。家の中にいて、お祖父さんは家畜に
餌なんか与える力はもはやない。お祖母さんはするんですけども。私はそういったもの
をすぐ便利なところに置いていて、お祖母さんがすぐできるようにいつも準備していま
したね。
竹内:よく気がつく……
ランドール:はい。私はお祖父さんの面倒を見ているつもりで。最後のときだったので
すけども。……動物が出す糞などあるでしょう。スコップでそれをぜんぶ掃除もします。
ブーツを着けて。あれを掃除しているうちに、お祖父さんがゆっくりゆっくり歩いて来
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て……馬の方は喜びます。
竹内:あ、お祖父さんが来ると……
ランドール:やっぱり素敵なお祖父さん……
竹内:分かるのですね。
ランドール:お祖父さんがポケットからビスケットを取って、彼女にあげる。そしてこ
の辺の、なんといいますか?(眉間のところを指して)
竹内:白いところですか?
ランドール:白いところ、毛が生えているところ。あれをフォアラックと呼んで、フォ
アラックのところをこういうふうに撫でてやっていたのですよ。
竹内:馬がとても喜ぶところ。
ランドール:馬がボホホホホ……(笑い)それをやっていたのですよ。その時は、言葉は
お互いなかったと思います。ただ行って、私も仕事をしている、どこかにちょっとした
ものがあって、バケツを逆さにしてか、とにかく座って見ていたのですよ。
竹内:言葉の尐ない方だったのですか?
ランドール:いや他の人には……、でも私と彼の間になんというか……言葉はなくても
保てる社会があった。とっても大切ですよ、いま思い出してみれば、またゆっくりです
から、私もゆっくり家の方に戻って行きます。母とお祖母さんが外に出ていて、車のエ
ンジンもかけてあったのですよ。なんか急いで帰るかどうか分かりませんけど。そして
母といっしょに車に乗って、母が運転して、そこでお祖父さんとお祖母さんが手をふっ
て送ってくれたのですよ。で、その晩、亡くなりました。
竹内:ああ、そうなんですか。
ランドール:寝ていて、12 時ちょっと前に連絡があって、もう死んだと。でも死ぬと
いうこと分かってますからね。もうだいぶ心臓が弱って、もう時間の問題だと分かって
いたのですから。それが最期の日ですよ、だから、このベィリーお祖父さんの存在は私
に大きいですよ。まあそれがそのころの私の……そういえばこのお祖父さんのところに
ガンがありましたね。散弾銃。いまアメリカはガンの社会、ガンの世界といわれます。
すべてガンを持つ権利があるという言い方をしていますね。そういうことをあのお祖父
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さんは納得しないはずですよ。ガンが必要なのは……たとえば、そのころ犬の病気もあ
りますね。それだけの薬は十分にないですから、病気の犬が自分の家畜の中に入ると、
大変なことになる。死んでしまうでしょう。人も死ぬ可能性がありますね。たまにそん
な病気の犬がいて、またガラガラヘビがいる世界でもあります。
竹内:なるほど。そういう時にガンを使用していたのですね。
ランドール:そういう時に使用、火を掛ける炉がありますね。その上に棚があって……
時計がありますね。その上に掛けてあるのですよ。これはダブル・バレルです。2 つの
穴があってポンポンと。
竹内:弾が 2 段で出るわけですか?
ランドール:ええ、2 段で出る。それを見ていたのですよ。でも触ることは夢にも思わ
なかった。
竹内:誰にも触れないのですね。
ランドール:いやこのお祖父さんの専用です。おそらくもう尐ししていたら、私は触り
方を教えられたかもしれません。私は特別扱いですから。
竹内:ガンは、もともとは家畜とかヘビとかを撃つ、そういう防護用のものだったので
しょうか?
ランドール:そうですよ。また場合によって、出かけたとき、たとえばリスとかうさぎ
なんか、ひじょうに細かい弾がたくさん出てきて。食餌にするでしょう、野生のものを。
それを持ってきてステューにしますよ。そういうこともあったけど、お祖父さんは、あ
まりハンティングはしなかったですよ。ガンはあの家をまもるためにあったと思います。
……近くにサンダース・トゥリーがありましたね。この人は泤棒とされたようですけ
ど、ほんとうに泤棒か分かりませんけど、捕らえられたら速やかに処刑されたのですよ。
大きい木の枝があって、私は見てなかったのですけど話を聞いた。どういう人物だった
か、このサンダースという人は……とにかく裁判は速い。(笑い)その時代で。お祖父さ
んがその陪審のひとりだといってました。
竹内:それももちろん有罪で。
ランドール:有罪で。有罪にしたらそのまま連れていって、そこでぽんとやりますよ。
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竹内:即決裁判ですね。
ランドール:たぶん午前中に裁判があって、夕方ごろそれを行うでしょうね。あの木は
残ってましたね、だいぶ長い間。枯れても枯れてもその枝が皮肉にも残っていたのです
よ。(笑い)厳しいところでしたね。
竹内:お祖父さんの話をいま聞いたのですけど、お祖母さんの、お母さんのお母さんの
……
ランドール:お祖母さんは、お母さんの 5 歳のときに亡くなりました。5 人の子供を残
して亡くなりました。そしたらまた 2 年くらいして再婚します。さらに子供が 2 人生ま
れます。で、2 番目の奥さんがグランド・マザー・ベィリーになりますね。その人とも
仲が良かったのですよ。母は自分の母のことをあまり覚えていないでしょう、当然。た
だお祖父さんが再婚するとき、自分自身のお母さんが亡くなって寂しさがあるでしょう。
で、5 人の子供はかたまりを作ってですね、新しいお母さんに協力的でない態度をとる
決まりがあったようですね。けっこう苦労したようですね。年いってからわだかまりが
解けましたけど、いろいろあったと思う。でも最初は大変だったみたいです。
竹内:子供たちにしてみれば、けっこう大きな事件ですからね。
ランドール:で、母に聞いてみると、いわゆる母(継母)と子供たちとの喧嘩があったり
して、お祖父さんは「なにを言っているか」と。お祖父さんは何も言わない。それを子
供とお母さんに任せて。
竹内:そのほうが良い解決になると……
ランドール:だと思いますよ。そういう人でした。ただ、あとでこのお租父さんが亡く
なってから、このファームを処分して、お金にして、あまり残らなかったけれども、と
にかく最後まで自立していたのですよ。
うちのお父さんのお父さんは貧しいままで、お母さんもそうだったけれど、この世か
ら去ったのですよ。ただ亡くなったときですね。このお父さんのお父さんはタバコを吸
うことはなかったけれども、タバコの缶がありましたね。お父さんのお父さんはお金が
ないけれども缶の中に 140 ドルがあったのですよ。それは自分の葬儀のためだと……
竹内:きちんと最後のことを……
ランドール:うちのお父さんのお兄さんにその場所を教えたわけ。そしてお祖父さんが
亡くなってから、これを開けて、もちろん足りなかったでしょう(笑い)
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竹内:でもしっかりなさっていたのですね。
ランドール:責任感が強い……いくぶん私に伝わっているならばいいなと思いますね。
竹内:そんな感じもしますね。
ランドール:だからそういう意味で両方のお祖父さんからいいものを受けているならば
いいなと思いますね。でもはっきり言って、私とこのお祖父さんが重なっているところ
多いですよ。親戚の人がみんなそう言っていますよ。ただ私はよく喋る。
竹内:先生はよく喋る?
ランドール:よく喋る方ですよ、うちでも。でもお祖父さんはあまりよく喋らない。で
も、ものの見方、問題に対する態度、あまりびくっとしない。
竹内:ちょっと似ている。お祖父さんの性格が孫に伝わるって言いますけど、そういう
ことかもしれませんね。
ランドール:はい。だから私とマキシンのお父さんたちの性格もうちの子供たちに伝わ
る。私のもあるでしょうけども。
竹内:なるほど分かりました。
ランドール:アウト・ラインをカバーしてないかもしれませんけども。
竹内:いいえとんでもないです。……あともう尐し聞きたかったのは、ランドール家が
アメリカに来る前の祖先の話なんかも、もしあれば……以前に日曜学校でちょっと聞い
たことがあるのですが、イギリスの方の祖先の話。それからランドール先生のご両親の
教育のなかで、とくに信仰の話。どういうかたちで、教育とかしつけをなさったのかと
いうことを聞きたかったのですけど。とくにご両親の信仰が、いまのランドール先生に
与えている影響というか、そういうところもまたお話ししていただきたいと思います。
次回はそのへんを聞くことでよろしいでしょうか。あともうひとつ付け加えると、友だ
ちの話で、さっき小さいころの、黒人の尐年のお話を聞いたのですけど、私の記憶です
と、沖縄戦で亡くなったというお友だちの話がありましたね。そのお友だちはけっこう
大きくなってからですか?
ランドール:その人は 18 だった、戦死したとき。第 2 次大戦が終るころでしょう。沖
縄戦で戦死したのですから。
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竹内:その話もよく印象に残っていますから、ぜひ次回に。
ランドール:では祖先の名前だけ言っておきましょう。このベィリーのルーツはアイル
ランドとスコットランドとイギリスから。まあお祖父さんはいつも自分のことをスカッ
ターリッシュと呼んでいました。
竹内:スコットランド人。
ランドール:ええスコットランド人。でもアイルランドに行ってみればベィリーという
人もいますよ。両方にいます。でもお祖父さんはスカッターリッシュのほうに誇りをも
っているようでした。
竹内:ああそうですか。お母さん方のお祖父さんですね。父方の方は?
ランドール:彼らはアイルランド生まれで、この間 2 番目の結婚のなかで末の妹、ちょ
うど私と 1 つだけ上ですよ。で、彼女はこれを専門的に調べています。アイルランドも
スコットランドもはっきり書いていますよ。系図もちゃんとできています。
竹内:古い系図を聞きたいというわけでもないですけど、ランドール先生の家系がどん
な流れかということを一忚……
ランドール:この間電話で彼女と話していたら、アイルランドとスコットランドのとこ
ろまで名前は分かる。詳しいことは聞いてないけど、とにかくはっきりしています。と
ても好奇心の強いフランシスですから。彼女はランドール家のところを調べてみたので
すよ。やはりちょんぎってますよ。ランドール家はもともとランドールではないはずで
す。お祖父さんはたぶんブールだろうと、Bull。イギリスによくジョンブールとかいろ
いろ……ふつうよくある名前でしょ。たぶんブールだろうと。ところがジョージアの所
は、キング・ジョージアが自分の名前をつけて植民地を作るのです。そこに人間を入植
しますから、刑務所から人を駆り出して……
竹内:以前に聞いたことがあります。
ランドール:借金を返せないなら刑務所に。牢につけるとよけいに借金返せないでしょ
う。とても矛盾でしょう。その牢中の人ロが増えるでしょう。ほかに反政府運動とか、
殺人とか、レイプとか……すべて混ぜているのですよ。
竹内:同じ牢獄のなかにつないで……
ランドール:自分の国のために闘ってきた政治犯とか、あるいはレイピストとか強盗と
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か、あるいはただ貧しいとか、分からないけど、いろんな経歴をもっている。
竹内:そのままのかたちで、自分の意志ではなく、ジョージアの方に連れて来られて…
…
ランドール:自分の意志とは関係ないでしょう。まあ自分の意志で行く人もいるでしょ
うけど。とくに働くために人はそういうふうに連れて来られた。
竹内:でももうちょっと深い社会的な背景があるのでしょうね。
ランドール:ありますね。私にはその時のイギリスのことはよくわからないけど。とに
かく大変な経済だったと思います。いわゆるデターズ・プリズン、借金の刑務所。ただ
彼らはいろんな経歴をもっていて、船から降りると登録するでしょう。そこの人口のな
かに登録します。自分の名前を書く。夫婦の場合は相談しあって決める。ひとりだった
ら自分で決める。その時に新しい名前で書くのですよ。
竹内:ちょうど日本でいうと江戸時代から明治になるときに農民が自分たちに名前をつ
けたみたいに。
ランドール:今度自分が船から降りてきたときに過去の名前を捨てて、新しい国で、新
しい出発をすると。
竹内:どうやらその時にランドールという名前に……
ランドール:だったらしいです。
竹内:じゃあイギリスにあった名前ではなくて、アメリカに入植したときにつけた名前
らしいということですね?
ランドール:で、私の長男もオーストラリアで、インターネットで調べてみて、このお
祖父さんの前の、この人のお祖父さんまで調べて見つけたのですよ。ベィリーじゃなく
て、ランドールのもうひとつ前。そのランドールを見つけたのですけど、でもその以前
はない。……というランドールです。(笑い)
竹内:ありがとうございました。
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第2回
ガンディー思想へのめざめ
2000.8.18
竹内:今日は第 2 回目で、先生の思春期とか青年期、年齢でいいますと 10 歳以降くら
い、年代でいいますと 40 年代半ばから 50 年代、その時期を先生がどうお過ごしにな
ったかということをお聞きしたいのですけども……。その前に先生のご両親の信仰と、
ご両親が先生に与えられた影響ということをお聞きしたいのですけど……。
ランドール:はい。私自身は教会に行き始めた時の記憶はない。話によれば、私が生ま
れて 2 週間目に教会に連れて行かれたそうです。その時からずっと教会に参加してまい
りました。私の父母は信仰にもとづいて私を、もちろんお姉さんも、育てようとしたの
だと思います。よっぽどの理由がなければ教会を休むことを許さなかった。
竹内:ご両親とも?
ランドール:はい。で、場合によって畑で使った馬車、日頃は肥料なんか運んでいた馬
車ですけれども、日曜日になると尐しこれを掃除して、またシートをつけて、その上に
座って教会に行く。あるいはミスター・バーブ(地主)のところに車があって……この前
にミスター・バーブの話をしましたね。
竹内:はい十分に聞きました。
ランドール:このミスター・バーブは同じ教会に通っていました。彼もわりと熱心に教
会に行ってましたから、そうした場合には彼の車に乗せていってもらった。いずれにし
ても日曜日になれば教会です。日曜日に畑の仕事をすることは考えられなかった。どん
なに苦労しても、どんなに困っていたときも、教会中心に。そしてその午後休んで、お
祖父さん、お祖母さんのところに行くか、そういうようなことがあった。それが日曜日
の生活。お金はない時代ですけども、何かあったときは感謝をもって 10 分の 1 をさっ
そく教会に献金をする。とくにお父さんはその辺で厳しかった。そんなに金はないのに、
いま思い出してみれば本当に不思議でしょうがないです。たとえば、この前に話したで
しょうか、一度収穫など終ってからミスター・バーブに返すべきものを全部返すと 11
ドルしか残ってなかった。そのなかから 1 ドル 10 セントちゃんと教会に。それがお父
さんの信仰。自分自身に与えられたものを尐なくても恵みとして、その 10 分の 1 を自
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分の感謝を表すために教会に。それで自分自身もその影響を受けて教会生活。そして自
分自身にあたえられた金などをやはり 10 分の 1、できればそれ以上のものを教会に返
すことにしております。それは形式的なことだとはいえ、その裏にやはり神を信ずる信
仰があったからです。とっても困っていた時代ですから、神様に拠り所を見つけたと思
います。それは教会に行くだけじゃなくして、また評判のためじゃないですよ。「そう
しなければその時代、子供を育てることができないと思った」と後で母が、お父さんが
亡くなってから、話していました。「自分自身の力だけではだめだ」と。とくに病弱な
姉と、私は元気な子ですけども、時代が時代ですから、自分を超えたところにカがなけ
れば子供を育てることは無理だという判断で、教会のなかで意識して、私たちを教会の
なかで育ててくれ
た。私自身はそれに対して感謝する言葉もありません。とても良かったと思います。
一般教育のことにすこし触れましょう。お父さんは小学校か中学校の 1・2 年くらい
までしか学校に行けなかったそうです。母もそれと同じでした。で、戦争が起こったと
きに、夫が戦争に行くと自分は困るからと思って、母は同じ私たちが通っている学校に
通うことにしました。いつでしたか、とにかく私たちは毎日通学バスに乗って学校に行
っていました。母はちゃんと高等学校を卒業した。高等学校のいい教育がなければいい
仕事ができない。戦争ならば夫が死ぬ可能性が高いから、それに備えて教育もした、と。
教育にたいしてとっても願いがあったわけです。それで私は中学校を、姉もちゃんと高
等学校を卒業して、姉は専門学校に行って秘書の仕事をすることにしたのですけど、そ
の後はあまり秘書の仕事をしなかった。結婚して子供を育てた人生でした。で、私自身
は大学に行きたいということで、それを忚援してくれたのです。お金はないから忚援す
ることだけでしたけれども、ぜひそうしてほしいと……。
竹内:当時、大学に行くことはけっこう難しかったのですか、経済的に?
ランドール:たとえばわがランドール家では、私が大学に行ったいちばん最初の人間で
した。従兄弟たちのなかでもいちばん先に大学に行ったのは、私です。ですからその山
から出かけて大学に行くということは、とっても珍しかったでしょう。
選んだのはアメリカの工科大学。ジョージア州立工科大学でしたけれども。そこは南
部で、コットンで生地など作る工場がたくさんありましたから、それを勉強して……。
で、そのころ化学繊維も出始めていたから、私は化学を勉強していた。化学といっても
実践するところ、繊維や生地を作るところで勤めることを考えていたわけです。
1945 年の 8 月 15 日、太平洋戦争が終った。とても複雑な気持ちでそれに臨んだ。私
は 12 歳でしたけれども。一方では私の先輩は日本との戦争のなかで亡くなった。戦死
したということで。私たちは一般的に考えていました、自分は 17 歳になったら志願し
て兵隊になって日本人を殺す。それは私たちの仲間の例外なしの考えだったと思います。
竹内:その時代に反日の感情が高まっていたわけですね。
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ランドール:はいそうです。不思議なことにドイツに対してそれはなかったです。
竹内:ああそうですか。これは何か理由があるんでしょうか?
ランドール:おそらく人種差別じゃありませんでしょうか。白人がでかけて植民地をつ
くって、色のついた人間は白人の召し使いになるべきだと。まあ漠然としても、その考
えは一般のアメリカの社会にあったかと、いま思い出して、あるいは研究してみたら、
残念だけどそういうことだと。色のついた日本人はあえて立ち向かうかと。それは逸脱
だと。自分の分に戻りなさいということもあったでしょうか。まあ私自身は若いですか
ら、ただその環境の影響を受けてごく自然に日本人を殺したくなるということでした。
竹内:ちょうど日本で逆のことが起こっていたのと同じですね。
ランドール:そうです。それは教育ですよ。繰り返して教室のなかでいろいろな話があ
るでしょう。
竹内:戦争というのはそういう教育を行っていくという怖いところでありますね。
ランドール:怖いところですよ。マンガ雑誌もありましたね。あるいは一般の新聞にも、
1、2 ページのマンガのページがありますね。
竹内:ああ、日曜学校でその話を聞いたことがあります。日本人は目が細くて……
ランドール:はい、細い。目が見えない。また歯がいっぱいあって、大きい歯を持って
いた。
竹内:特徴的ではありますね。
ランドール:特徴的でしたね。たいていはこんなものでしたね、マンガは。アメリカ人
はそういった日本人に向かって戦って勝つと。そういうような、愛国心か、あるいは反
日本か……そのとき戦争がもう尐し続けば私は17歳になって兵隊となって、自分自身
の希望どおりにすると。終戦はある意味で残念だと思った。と同時にアメリカ軍が勝っ
たということに対して、自分はアメリカ人であってよかったと思いましたね。とくに私
らはアメリカ軍というものは「神の器」だと思っていたのですよ。自分の国は選ばれた
国だし、また選ばれた国が立つためにイギリスからの植民地の時代を終らせ、自由な独
立した国を獲得した。それはまさに軍だと。同じ精神で出かけてその日本人を抑えたと。
その二つの気持ちがそのへんにありましたけども。
竹内:そういうところが先生が体験なさった戦後、勝った国としての戦後と、負けた日
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本の国としての戦後は尐し違うのでしょうね。
ランドール:違うと思いますね。で、そういう意味でいま思い出してみれば、私にとっ
ては、戦争はまだ終ってなかったでしょう、本当は。
竹内:45 年当時……
ランドール:45年そのとき、そのことは解決していない。そしてそれは複雑になりま
す。同じ 1947 年の 8 月 15 日。ちょうど 2 年後のことです。インドの独立。あれはシ
ョツキングでしたよ。私たちはそのころガンディーのことをよく見ていたのですよ。
竹内:すでにガンディーのその思想に注目なさっていた……
ランドール:ちようど(私が)高等学校のときに、ガンディーはインドで活躍されていま
したから。世界中の人たちが彼を尊敬します。
竹内:大ニューズだったのですね、ガンディーの話は。
ランドール:大ニューズでしたよ。そして学校でも、社会学のクラスだったでしょうか、
ちょっとしたニュースペーパーみたいなものがあります。それによくガンディーのこと
も書かれていましたね。戦争の時代にそれがあったということは一般の教育とは矛盾で
あり、よく行われたと思いますね。でもよかったと思います。ただガンディーは遠いイ
ンドで活躍して、素晴らしいと思ったけれども、自分と関係あるとは思わなかった。
竹内:先生はさっき有色人種に対する差別的な意識があるとおっしゃっていましたね、
当時のアメリカに。でもその時代にガンディーという存在はやはり注目に値したわけで
すか?
ランドール:はいそうです。
竹内:いい意味で?
ランドール:いい意味ですよ。
竹内:なにか矛盾みたいな……
ランドール:それは矛盾はありますよ。しかしおそらくガンディーの人種はですね、ア
メリカでもそれに対してはそんなに言われなかったでしょうか。インドと日本人とはた
ぶん別扱いをしたのじゃないかと、一般的にも。
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竹内:やはりインド人に対するなにか尊敬という意味があった?
ランドール:尊敬か、そういうものがあったかと思いますね。そんなに詳しく分析した
ことはないけれども、とにかく私に限ってはやはり差別的な考えはなかったです。
竹内:そういうガンディーへの注目というのは、後の公民権運動に大きな影響を与えて
いったという……
ランドール:与えましたね。ガンディーの独立運動をじっと見ていると、同じイギリス
から自由を獲得したでしょう。
竹内:ああそのへんはアメリカと共通ですね。
ランドール:私たちは軍の力によって勝ち取った。それに対して誇りがある。ただしガ
ンディーは非暴力の手段を選んで同じイギリスから、まあいってみれば同じ植民地の状
況から独立をした。しかもガンディーは山上の垂訓を大切にしていた。私が最も信ずる
べき聖書―ガンディーはヒンズー教徒ですけれども、とくにイエスの教えを大切にした。
汝の敵を愛せよ。歯には歯を目には目をじゃなくして、汝の敵を愛せよ。迫害する者に
対して祈りなさいということをガンディーはみてですね、自分自身のヒンズー教のなか
にもそれと同一のものを見ていたようですね。またどこかのニューズか本に、ある人が
ガンディーの家を訪ねたという話でしたけども―おそらくそれは独立する直前のこと
でしょう、そのころのニューズに出ます―ガンディーの部屋に、ごくごく素朴な部屋で
すけども、イエスの顔のスケッチがあった。その人は見て驚いてガンディーに「あなた
はクリスチャンなのか?」と。ガンディーは「いや私はクリスチャンであり、ヒンズー
教徒であり、ユダヤ教徒でもある」というふうな答えをしたのですよ。
そうすると私に問題になってくるのは山上の垂訓です。教会に忠実に行っているつも
りで、また日曜学校でいまの話(山上の垂訓)なんか暗唱できます、私自身は。いろいろ
プライズをもらっていたので、日曜学校で。暗記の力に誇りをもっていた私。(笑い)そ
のマタイ伝の 5 章をほとんど暗唱できた。ただ私は暗唱ですけれども、ガンディーの取
り上げ方はですね、それをもって実際大きな大きな社会のなかで勝利を実現するのです
よ。そしてこの山上の垂訓が迫って来るのですよ。そこで人生の道がふたつに別れる。
ほんとうに人間の道は暴力で、あるいは強制的な手段で解決をするか、それとも非暴力
の手段をもって色々な問題を解決するか。ほかの人にはそんなに問題でなかったかもし
れませんが、とにかく私にとっては大きい問題でした。
竹内:先生が当時、そのようにガンディーの思想を受け取っていたということですか?
ランドール:受け取っていた。でもそれが本当の道か、やはり以前のアメリカの「神の
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器」としての軍を信ずるべきか。
竹内:それもあったわけですからねえ。
ランドール:ありましたからね。
竹内:ついこのあいだまではアメリカの軍事的勝利に誇りをもっていたわけですからね。
ランドール:大学を卒業してから軍隊に行くだろうと思っていたんですよ、そのころで
も。しかし解決できませんね。いろいろ話しかけたかと思いますけど、両親に。私はと
てもとても苦しみがあったけれども、十分にそれを言葉に表せなかったのでしょうか、
両親は真剣になってくれなかったのですよ。そのことに対してあまり興味を示さなかっ
たのですよ。なぜかわからない……たぶん私自身は青春期ですから自分がもっているも
のを表現する力はところどころ抜けていますね。いろいろ葛藤があって、とくにこれは
大きい葛藤ですから、言ってみれば信仰の危機でもあったのですよ。それで自分で考え
ていたが、疲れますから置いておきます。(笑い)また浮かんできて、疲れて、また置い
ておきます。それの繰り返し。予定どおり大学に行って勉強して、そのうちに結婚して
子供もできましたけれども、やはり軍に行きます。海兵隊に入ります。位は将校です。
大学卒ですから特別……
竹内:これは徴兵制のなかでですか?
ランドール:徴兵されるか志願するか、いずれの場合でも行かないといけない。
竹内:先生は?
ランドール:志願して行きました。そうすると都合がいいですよ。徴兵されれば一等兵
です。志願して行くならば将校です。ぜんぜんレベルが違うでしょう。それで志願して
3 か年の契約で行ったんですよ。で、そのあいだに問題は解決しました。
竹内:あ、解決したのですね!
ランドール:しました。軍のなかでいろいろ訓練をして、行って日本人をひとりでも殺
したいと思ったのですけどもねえ。訓練のなかで、幸いそういう経験はなかったけれど
も、そのうちに朝鮮戦争は終りましたから、戦争に行くべきところはないですよ。ただ
人間を殺す訓練はあって、いろいろ武器あるいは自分の手で人間を殺す技術を身に付け
た。そういう意味で自分自身の希望のとおりにいきますけど、ただそうしているうちに
恐ろしい心の状況が起こるのですよ。……人間を殺すためにですね、人間を殺す機械に
切り変えるために、やっぱり人間性を殺さないといけないです。自分自身の芯のどこか
で枯れている感じがしました。怖かったですよ。
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竹内:凄い体験ですね。
ランドール:はい。それで感謝があって、以前からもう牧師になる使命を感じていたん
ですけれども、これに合わせてやはりガンディーの方が正しかったと。やはり人間を殺
す道というものは人間らしくない。クリスチャンであるかないかという以前にやはり人
間らしくない。分かったのですよ。
竹内:じゃあ先生が牧師への道を考え始めた時点で、すでに非暴力ということは大きな
ものとしてあったのですね。
ランドール:ありましたね。以前、場合によって牧師になる、あるいは使命感があるか
ら行く。でもその場合でも、たとえば軍のチャプレンもありますから、それも可能性と
して考えてきた、そのときまでは。また軍に入ると最初は「よかったよかった」、力を
つけてとってもとっても強い人間になりますから。体調がいいし。誇りを思っていたの
です。やはりこれを終ってからチヤプレンと、最初は思ったのです。そういうときに、
道が分かれたところ、そのときまでは疲れて置いてきた問題が、それで繰り返しが終り
ますね。素直に 3 か年の契約が終ってから神学校に行って、今度はガンディーの国イン
ドに宣教師として行きたいと思った。(笑い)
竹内:その話は以前聞きました。
ランドール:宣教師ならば英語の聖書じゃなくして原語で聖書を勉強すべきだと思って、
旧約聖書のヘブライ語と新約聖書のギリシア語を、神学校で。それから神学校で専門的
に山上の垂訓。まあ自分自身のゼミなどはそれに関係のあるものをできるだけ取ってき
た。いろいろ選択科目がありましたから、たっぷりそれを勉強しました。で、そのなか
でまた「汝の敵を愛せよ」アガペーの愛。それに気付いていった。まあそのへんで私に
とって戦争は終りました。
竹内:心の戦争ですね。分かりました。いまのお話のなかで尐し出たのですけど、学生
のときに
マキシン先生と出会われたのですよね。もしよろしければそのへんも……
ランドール:はい。ジョージア工科大の3年次のときでしたけれども、そのころ戦争が
終って、お兄さん(先輩)たちが戦場から帰ってきています。彼らはすでに結婚して子供
をもってますね。ベテランは学校に行く。奨学制度がありましたね。彼らはタダで行け
るのですよ。学費も教科書なども、そしてある程度は生活費まで政府の方がそれを提供
していたのですよ。
大学に入ったのは 1949 年ですから、戦争が終ってから4年目です。
そしてベテランたちは多いですよ。私たちはあれを見て「いいなあ」と思ったでしょう。
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そうすると、早い結婚が流行になります、全国的にも。たいていは大学の3年次になる
と結婚するというのが普通です。
竹内:学生結婚が……
ランドール:学生結婚が普通でしたね。学生同志か、あるいはお姉さんと結婚する。私
はマクシンが高校を卒業すると同時に結婚したけども。
竹内:マクシン先生は?
ランドール:マクシンは別の町、高校生でしたね。アトランタの郊外です。たまたま郊
外に宿を持つようになって、日曜日の午後になるといつもバプテスト教会ならば青年の
集いがありますから、ストリート・バプテスト教会の青年会に行って、まあいろいろ活
動して、かなりの人数ですから、こっちの男性といろいろ話していて、ピアノの向こう
側に彼女が立っているのですよ。で、彼にマクシンの名前など聞いていた。まだ高校生。
そして尐し警備の仕事をして彼女の学校から家までの帰り道をお訪ねする。そうすると
ある時、マクシンが途中でいつも入るところへ、アイスクリームを食べて帰る習慣があ
って、たまたま私はそこに座っておったのですよ。
竹内:ほんとうにたまたまですか?
ランドール:うん、そうじゃない。いわゆるたまたま。(笑い)いろいろ工夫して。時
間も決めておいて2、3回入って来るのを見ていたんですよ。むこうからちょっと覗い
てみて、やはりダナウェイのところ、ドラツグストアですよ、薬局。そのころのアイス
クリームは薬局です。そこに氷があったからでしょう。そのころの薬局は必ずソーダフ
ァウンテンといってアイスクリーム、ミルクシェイクなどをつくる。ファウンテンは噴
水ですけどもね。そうするとちょっとテーブルに行って、「このあいだ教会で会って、
彼女もそこで私を見ていた」と、ちょっと話して、ミルクシェイクを……
竹内:じゃあ先生の努カが効を奏してマクシン先生もランドール先生を見てたというこ
とですね。
ランドール:見てたのですよ。でも最初に魅力を感じていたのは私だけでしょう。ただ
話しかけてきた男性だと、はじめはクールでしたね、その日会ったとき。でもだんだん
ちょっとずつ熱を上げるようになったのですよ。(笑い)そんなに時間はかからなかった
けれども。その日ミル.クシェイクを飲んでいっしょにうちまで歩いて、彼女の本を運
んであげた。で、そのときからずっとお付き合い。
竹内:目に浮かぶようですけど、でもずいぶん先生を若くイメージしなければならない
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ですね。
ランドール:続きがありますね。結婚するかしないかという話はしなかった。いつのま
にかすることが当たり前というふうに、いつするかという話だったと思いますね。もち
ろんそれは教会のなかの出会いですね。
ええと 4 年前ですか 5 年前ですか、その街を訪ねました、ふたりで。母がそんなに遠
くないところに住んでいたから、思い切ってうでメリアータに行ってみるかと、ふたり
で話していたのですよ。
竹内:よかったですね。
ランドール:で、たくさんの新しいお店などありましたけど、見ていたら看板、まだ「ダ
ナウェイ・ドラッグストア」とちゃんとあったの。40 何年経っている……
竹内:ああそうですか。もちろん店は改装されて、建て直しとか……
ランドール:いや表はですね。でもあまりかわらない。じゃあ入ってみるか」と。入っ
てみると、あのソーダファウンテンがそのまま残っているじゃない。喜び溢れる……。
(笑い)おそらくそこの店員は驚いたでしょう。高齢の夫婦がこんなに美味しそうにミル
クシェイクを飲むかと。(笑い)とっても美味しかったですよ。40年ぶりくらいだった
ですよ、いま結婚して 47 年経っているから。そのときは 42 年くらいかな、それくら
い何年ぶりということで。あのダナウェイ・ドラッグストアは大きい存在です。
竹内:ああそうですか。素晴らしいですね。
ランドール:子供たちをもそれを聞いて笑っていたのですよ。
竹内:その当時のマクシン先生の雰囲気とか、もしよろしければ聞きたいのですけど、
どんなかただったのか、性格とか。
ランドール:マクシンのお母さんは病気の人で、結局お父さんといっしょに暮らしてい
たのですよ。あとで私たちが結婚してからまたお母さんが退院して、再びお父さんとい
っしょになりますけど。で、病気の母ですから、やはり父に育てられましたね。仲良く
してた。そういう意味で料理とか家事とかそういったことを自分で全部できた。ですか
ら家庭の主婦としてはとっても出手な人でした、最初から。金使いも上手でした。
竹内:それで料理が上手なのですね。
ランドール:また教会、信仰生活もいっしょで。ただ結婚してから、やはり結婚すると、
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結婚ということだけで精一杯ですね。いろいろ慣れるために努力しないといけない。
竹内:大変なことなのですね。
ランドール:学生結婚ということは、見てみれば大変いいですけども。まあ別れるとか
そんなことはないけれども、とにかく結婚だけで疲れちゃったのか、教会にしばらく行
かなかったのですよ、
あとで戻りますけども。結婚して 1 年目は行ったり来りしてたのですよ。それを越えて
からまた教会に戻りますが、ふたりとも。
学校を卒業して軍に入りますね。そして私は兵隊ですから出かける一方です。そして
家内は学校に行って。そのうちに子供が 2 人生まれますね。その 3 か年に。で、今度神
学校に行きますね、軍が終ってから。で、マクシンもやはり勉強すると言ってました。
そして神学校に入ると同時に、家内はサザン・バプテスト・セミナリーでした。ルイビ
ルケンタッキーの。南のバプテスト神学校でした。そこにミッションスクールがありま
すね。やはり外国で働く宣教師を養成する学校でしたね。宣教師になるということは当
たり前みたいでしたね、ふたりには。
竹内:いつか海外で宣教したいという……
ランドール:その学校に行って、マクシンはいい学生だということに気付きましたね。
優秀な学生でした。私はできるだけのことやってたのですけど、マクシンは優秀でした。
竹内:勉強熱心。
ランドール:熱心。また成績の結果も優ばかりでした。
竹内:ずっとそれは一貫していますね。
ランドール:今でもそれをみるでしょう。で、今度、神学校を卒業してから……神学校
で勉強しているうちに小さい教会で牧師をしていましたね。近くに小さい教会があって
神学生が牧会をしていて、神学校を卒業する自分の後輩を紹介して、その人(後輩)がま
たその教会の牧師になる。それで私たちは北部バプテストに入ります。神学校はルイビ
ルケンタッキー、ルイビルケンタッキーのオハイオ川の側ですから、それを越えるとイ
ンディアナです。それの南ならば……川があって、南に行けばサザン・バプテスト、北
に行けばノーザン・バプテスト。
竹内:なるほど、川を隔てているわけですか。
ランドール:で、サザン・バプテストからアメリカン・バプテストにコンベンションが
31
変わります。で、今度最初の教会にたまたま、私のヘブライ語のサイズモア(Sizemore)
先生が居られた。今度サイズモア先生は大学院生で博士をして、論文を書くときに牧会
をするのは無理ですから、私を紹介する。私はその教会の牧師になる。で、マクシンも
もちろん一緒に通っていて、一緒に勉強していて、今度神学校を卒業すると普通どおり
にまた大きい教会に移る。でももうすでにノーザン・バプテストのコンベンションです
から、そこのコンベンションのもうひとつの教会、このもうひとつの教会はインディア
ナ州立大学の隣の街にあった。エリスビルですけど、エリスビルに行って、マクシンは
隣のインディアナ州立大学に行って、また今度入学するのですよ。で、入学して美術と
人類学を最初から勉強していた。3 か年その教会の牧会をして、宣教師になる。なって
から、今度は宣教教会。マクシンは勉強の途中で、普通ならば旦那の方は大学そして神
学校を卒業していなければならない。妻も大学卒業でなければならない。
竹内:それが資格ですか。
ランドール:だけども、途中ですけども、休暇なんかを使って勉強をつづけるという条
件で任命されました。ただニューヨークに行って、宣教師のオリエンテーションなどし
て、希望地がインドですから時間がかかりますね。1 年以上ニューヨークにいたんです。
そのうちマクシンはコロンビア大学に転学しますね。そしてコロンビアで専門的に人類
学。
竹内:コロンビア大学はニューヨークにありますね。
ランドール:ニューヨーク。ニューヨークに住んでいてビザなどの手続きなどして、ミ
ッショナリーオリエンテーションもその近くにありましたから、それをきっかけにして
ずっと自分の勉強をつづける。しかしインドに行くのはだめでした。その時アメリカと
インドは……ロシア寄りでしょ、インドは。
竹内:はい。やや社会主義化の傾向があった。そういうことで宣教師を送り込むことが
……
ランドール:難しくなったのですよ。
竹内:ちょっと前だったらよかったのですか?
ランドール:尐し前だったらよかったのですよ。ちょうどそのころ、たくさんの人がニ
ューヨークに自然に集まりますから。そこから出発しますから。
竹内:じゃあ冷戦の構造がもうどんどん……
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ランドール:ええ、メソジストの教会、バプテストの教会など、かなりの人たちは行っ
て、私たちは一生懸命ヒンズー語を勉強して、私もコロンビア大学に行って勉強してい
た。ヒンズー語と南アジアの歴史など。ガンディーの人生などを勉強していたわけ、コ
ロンビアで。で、マクシンは正式にこの大学に入学しているのですよ。私は聴講といえ
ばいいですね。その勉強をしていた。多くの人たちはそうしていました。ただ例外は医
者でしたね。医学宣教師は行けた。あとはノーと。
竹内:医学宣教師というのは?
ランドール:インドは医者が足りないから、それを送る。
竹内:ちょっと残念だった。勉強もつづけていたのに。
ランドール:ずっと前からはっきりした目的があって、どんどんインドということ。ま
たマクシンはやはり人類学ですから、インドは豊かな研究ができると。私はガンディー
があって、キリスト教徒として行くか(笑い)、ガンディーの弟子として行くか、人類学
者として行くか、はっきりしたことは言えないですよ。それを混ぜてますよ。(でも)ま
あとにかく行かなかった。
しかし沖縄に行くかと言われたら断りますね。膨大な基地があるから。膨大な基地の
なかで働きたいと思えばアメリカでもできるから。断ったのだけども、でも行くところ
はないから、またボードは熱心にここ(沖縄〉に送りたいということ。最終的に条件と
して、関西に行って2か年日本語を勉強する。そのうちに沖縄を見学して、もし思った
とおりに沖縄らしい文化もない……家内の考えでは社会のなかの軍基地というものは
一種の癌です。周囲の細胞はみんな癌に負けて、完全に文化が負ける。で、私は軍に対
して含むところもあったということで、もしそのとおりならば、関西に残っていいとい
う条件で……
竹内:基地がある沖縄に来たいとは思わなかつた。
ランドール:思わなかった。そういう条件で、はっきり言って5ヵ年の契約。最初は2
年の勉強、あと3ヵ年は宣教師として沖縄で働くか関西で働くかまだ分からない。とに
かく日本はですね、変わっていて、やはり平和の憲法があったし、今度は、日本は世界
が尊敬すべき国だと、平和の国だと。そういう日本に行ければいいなあと私たちは思っ
たわけ。
竹内:たしかに戦争直後は、日本は一生懸命変わろうとしていましたね。
ランドール:ですからそれも伝わってきて、まあ日本に 3 か年いて、3 か年終ってから
またアメリカに戻って、どこかの教会の牧会をつづけましょうと。はっきり言って 5 か
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年以上は行かないだろうと。
竹内:とりあえず日本に 5 年くらいだろうと。そのあとで……
ランドール:アメリカに戻る。それしか考えなかった。ただ沖縄に来る。1968 年です。
沖縄に来ていろんな人に会いますね。金城重明さん。大城実さん……に会いますね。名
護(良健)先生に会ったけれども、名護先生はとっても魅力があったけど、口数は尐な
いからどういう人間か分からなかった。とにかくイメージは残るのですよ。もう尐し知
りたいと思った人間ですよ。
竹内:印象が深かった。
ランドール:でも内容は分からない。面白い人だと思った。
竹内:それが第一印象ですね。
ランドール:あと、いろいろ聞いてみたら、また教会など訪ねたら、私たちの予想以上、
膨大な基地があったのだけども、沖縄の人たちは一生懸命、復帰、基地撤去のために闘
って来た。そして教会のなかにも熱心な沖縄らしい教会もある。そして実際(金城)重明
さんや大城先生みたいな人間もおりますね。ただ平良修先生には会えなかったのですよ。
翌年その存在に気付きますけど。大城先生と金城先生、魅力感じた。そして大城宜武、
いまキリ短(沖縄キリスト教短期大学)の教授ですけども、そのころ彼は琉球大学の学
生でした。3 月で(春休み)彼は暇ですから、あっちこっちに案内してくれた。
竹内:1968 年当時の話ですね。
ランドール:はい。私たちの思想が沖縄に合っているならば伝道もできますし、また平
和運動の盛んなところでもありますし、考えが変わってくるね。
ちょうど神学校で勉強していたとき、キング牧師が世界のステージに登場しますね。
神学校にも来ますね。彼はやはりガンディーの影響をかなり受けて、アメリカのガンデ
ィーと呼ばれるほどの人でした。とっても彼を尊敬していた。ちょうど沖縄にいるとき
に、アメリカでは 4 月の 4 日、彼が暗殺された。彼が書いた書物は関西に持ってきて読
んでたのですよ。彼が書いた文章などを読んでいて、印象的で。
竹内:日本でもけっこう翻訳されていましたね。
ランドール:ですからそれを持っていて、いろいろと人と話せますね。キングが暗殺さ
れたというのはとてもショックでしたね。なにかショックを受けるときに、人の考えは
まとまりますね。あるいはバラバラになるか、そのどちらか。たぶんあのショックで、
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沖縄で働くことを決めたと思いますね。そのときからは、沖縄に行かないということは
あまり口にしなかったようですね。
竹内:とくに沖縄への思い入れというのはあまりなかった。ところがキング牧師の暗殺
をきっかけにして沖縄が大きなものとして迫ってきたということですか?
ランドール:迫ってきましたね。で、翌年ランパート高等弁務官が就任式のときに平良
修さんが祈りをしたでしょう。
竹内:はい。これは大田昌秀さんの著書のなかにその一節をみて、たまたま読んでいた
のですけど、『醜い日本人』という本なのですけど、そこにいまの話が出ていて、それ
で知ったんですけどもね。
ランドール:彼(平良牧師)はランパートを最後の高等弁務官にするようにお願いします
というふうに祈ったでしょう。(笑い)あれは日本中でもたちまち大きいニューズになり
ますね。私たちはそのころ英語の毎日新聞を読んでいて、そのとき平良修、そしてこの
顔を見て……(笑い)まあそういうものです。
竹内:分かりました。ずいぶん時代が広がったのですけども、アメリカにまだ居られた
ときの話でもう尐し、次回でいいのですけども、お聞きしたいのはやはりキング牧師の
ことですね。先生がいらっしゃった場所とキング牧師が活躍された場所あるいは時代は
重なるところがありますね。そのへんの時代の雰囲気、とくに先生が、まだ差別が根強
かった南部の社会のなかでどのように黒人とか、差別の問題を考えておられたのかとい
うことをもう尐し深く、その観点から次回にまた……
ランドール:じゃあ次回にしましょうね。ちょっと疲れはじめているようです。
竹内:分かりました。
ランドール:じゃあいまのこと、キング牧師はですね……私は神学校で一生懸命勉強し
ていて、またとっても感動している山上の垂訓をもっていて、それを用いるでしょう。
それからアモスが言った言葉ですね。「儀式的な礼拝じゃなくして、正義と信義を川の
ように流すように」とかなんとか、そのアモスの言葉、そのふたつのことばをよく用い
たのですよ。とくに私が勉強していたのはアガペーの愛。よくそういう言葉を話してい
て、自分自身の『汝の敵を愛せよ』という説教集にもアガペーの愛についての説教もあ
りましたね。その観点から、いままでもってきた差別制度に対して私たちアメリカでど
ういうふうになったかと。いまの発言を尐し思い出させてください、そのときに。
竹内:次回そのあたりからお話をお願いいたします。
35
ランドール:はい、分かりました。
竹内:ありがとうございました。
ランドール:どういたしまして。
36
第3回
キング牧師との出会い
2000.9.29(金)
竹内:今回は第 3 回目ですけど、とくにアメリカの 1950・60 年代の公民権運動のころ
の話を中心に伺いたいと思います。で、アメリカの黒人の歴史は世界の歴史の中でもき
わめて木幸な歴史のひとつですが、しかし同時にアメリカはこの問題を克服する方向で
歴史の歩みを進めてきたとも言えます。とくにキング牧師の非暴力主義はこの人種差別
の壁を乗り越える大きな力となりました。そういう意味でアメリカの人種差別克服の道
は世界の歴史への大きな貢献と言えます。世界には様々な差別があって、もちろん日本
でも古いかたち、あるいは新しいかたちで差別意識が形成されています。こうした悪し
き動きに対してキング牧師の運動、もちろんそれを動かしたアメリカの多くの人々の力
が働いていますが、その非暴力主義の運動をもっと世界の人々が学び、暴力の時代から
非暴カ主義の時代へ、軍事的な競争の世紀から平和的な共生の世紀へと歴史を動かして
いくといいと思います。
さて実際にキング牧師たちの公民権運動の時代、50年代60年代にそれを体験なさ
った立場からお話をうかがいたいのですが、まずは神学校時代の最初の説教の体験など
からお願いしたいと思います。
ランドール:最初の説教はまだ海兵隊に勤務中のころですけども、ビューファントのサ
ウス・キャロライナの、サバナジョージアの近く、とってもとっても南の南ですね。ジ
ョージアのそしてサウス・キャロライナの南。黒人が多い、白人が尐ない。黒人は貧し
い、白人はわりと豊か。それはその時代においてはまだ当たり前に私の目についたと思
います。ただ、あとでその話にも触れますけど、私たちの教会は白人だけの教会でした。
で、その時は別に人種問題にはならなかったのですよ。
説教のことでいえば私は神の使命に忚じて、また神学校に行くことを教会に告白して、
そして教会はそれを認めて、また今度軍を出てから新学校に行くことを推薦される状態
になった。その教会のなかで、夕拝もあります。夕拝のときに最初の説教をすることに
なったのですよ。4、5年前に儀部(景俊)先生と比嘉(長徳)先生といっしょにその
場所に回りました。その教会は南北戦争のときに病院でした。その病院だった教会はい
ま戦跡のひとつ、国の補助があるようで、毎日昼も夜も8時ごろまでずっと開いている
のですよ。観光客がいて、プラカードがあって、「シビルウォー、南北戦争のときにこ
こで病院の勤めがあった」と書いてある。
竹内:文化財みたいなものですね。
ランドール:文化財ですね。いまそうなっています。私がいたときはまだ文化財になっ
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ていなかったのです。そのあとでいつかなったのでしょう。それを見てびっくりしたの
ですが。でも教会自体はあまり変わっていない、格好を見ると。「開いているから入っ
てみましょう」と、私と儀部と比嘉といっしょに入って、記念写真を撮る。この講壇に
上がって、そこに立っていたところで比嘉先生が写真を撮ってくれた。で、その時にこ
こで最初の説教をしたから「その時の気持ちを思い出してみてください」と比嘉先生が
言うのですよ。思い出してみると、そのとき最初の説教で神様を恐れるべきですけど、
むしろ私はすぐ前に座っているジョーンズ牧師を恐れていたのですよ。(笑い)小柄のと
っても強い牧師で、ちょうどその晩、また(話が前に)戻りますけども、説教の番になる
と、もちろんちゃんと準備して自分自身の原稿をノートにして持っていく。で、牧師の
部屋に行っていっしょに祈って歩く途中で、「君、何を持っているか」と。「これは原
稿です」。するといきなり、それを取ったのですよ。もうびっくりしました。「講壇に
ノートを持っていくな」と言われたのですよ。「そこは聖霊が働くべきところです」。
原稿なしに話せるという自信はもちろんないですよ。ところが私を認めてくれた会員
はそこで待っている状態ですから、立って話さないといけないのですよ。もう汗を流し
ながらやった。あとで家内は、割りとよくできたという話をしてくれたのですよ。家内
は原稿がないことに気づかなかった。割りとスムーズにいきました。それからは今でも
たいてい説教するときに原稿なし。まあ詩など引用するときがあればそれをノートにす
るのですけど、原稿を書かない。まあそれはいい面でいえば、人を見て目を合わせなが
ら話せる。悪い面でいえば記録を残すアウトラインしか残らない。いつも心のなかでそ
れを準備して言うのですよ。アウトラインだけ書く。説教の原稿のストックはないです。
でも最近、目が尐し弱くなっている。文字をすぐ見てすぐに分かるのじゃない。ちゃん
と目を凝らしてから分かるのですよ。また上の行から次の行へ移ると迷います。
竹内:焦点というか、そこにちょっと……
ランドール:(加齢)黄斑変性というのですけど。そのための手術あるいは眼鏡もないと
……まあそのことがあってですね、最近は原稿なしに話せるということ、ほんとうにあ
りがたいです。もし原稿を読みながら話す癖があればですね、今だととっても困ります
よ。(笑い)やっぱりそのときから今日の準傭をしてくれた牧師だと、いま思い出してみ
ると思いますね。それが最初の説教。
教会は臨時総会を開いて、今度ライセンスを取る。牧師の按手礼じゃないですよ。牧
師になるための準傭をする許可を、そういう意味のライセンスを教会の総会を開いて決
定してくれたのですよ。そして今度神学校を選ぶときに、「どこに行きますか」と。た
くさんの神学校がありますから、北部にも南部にも。有名なのもあります。そうでない
のもありますけど、また近くのもあります。でもこのジョーンズ牧師は自信がありまし
たから自分のことに、すぐに「神学校はサザンですよ。なぜなら自分が行ったところで
す」と。(笑い)ですから選択じゃないのですよ。命令。(笑い)命令に従ってサザンに行
きます、軍が終ってから。
私が東洋に行くときですね、自分自身も東洋に行って福音宣教しているという気持ち
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にさえなるというようなお礼の手紙を貰ったのですよ。
竹内:分かりました。じゃあジョーンズ先生は心に残る人になりますね。ほかに何か当
時の、心に残る先生とかお友達の話とかないですか?
ランドール:そのときやはり兵隊生活です。またそれでやはり忙しいものですよ。タウ
ンセンさんという人がいたのですけども、彼が隣に住んでいて、年もいっしょだし、同
時に軍に入ったのですよ。同じときに最初の勤務地のところに一緒に行きました。で、
あとは最後のところもいっしょになったのですよ。この人はバプテストの人で、彼は軍
に残ってそのまま大佐、25,6 年の勤めをしてから退職したのですけど、さすが彼らは
同じビューファントに、リタイアしてからビューファントに戻ってそこに住んでます。
おそらく彼等も若い夫婦で、ジョーンズ牧師にいろいろお世話になったと思いますね。
あとはそんなに……。私には家庭もありますしね。子供 2 人います。家庭と教会と軍の
ことですね。そうですね、けっこう忙しいときでしたね。
竹内:分かりました。さて当時はなんといっても公民権の運動がすでに盛り上がってい
たころだと思うのですけど、公民権運動という視点から見た当時の社会の状況とか、黒
人たちの状況、有名なバスのボイコットの事件とか、ものの本を読みますとそういうこ
とが書いてありますね。ミシシッピーで大きな事件があったとか、そういうことは映画
(「ミシシッピー・バーニング」)とかいろいろ、遠くから振り返って歴史として眺める
しかないのですけれども、先生は実際にその時代を体験なさったということで、どんな
状況だったのか、先生の体験を語っていただければ……
ランドール:いいですよ。(出版予定の原稿を見ながら)54 年ですね。アメリカの最高裁
ですね。その時までは教育は(黒人と白人は)別というふうになっていたのですよ。で、
54 年 5 月 17 日に、最高裁は憲法違反という判決を出します。(ブラウン対教育委員会
事件判決)それをきっかけにして、黒人の動きは活発になりますね。それ以前にも私自
身の大学の時代はメリアタに、そこからアトランタに路線バスに乗って学校に通った一
時期ありましたね。
ある時乗ったバスの中にもですね、黒人が前の方に座ってですね、かなり彼とドライ
バーとの口争いはあったけれども、結局彼はそのまま座って別に大きな問題にならなか
ったけれども、あちこちにそういうことが出来つつあったのじゃないかと思いますね。
アトランタならば尐しリベラルでしょうか。そこではそうしても済むということでしょ
う。ほかのところでは絶対にそれは許されない。
竹内:でもひとつひとつは単発的に見えても、けっこう組織的な動きも出てきたという
こともありますね。
ランドール:出てきつつあります。アメリカの黒人の NAACP(全国黒人向上協会)、そ
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れは 1909 年から出来てますよ。古くから、大きい組織を作って、いまの最高裁の勤め
にも彼らがかなりの力をそこに注いだと思いますね。ずうっと法律的な闘いをして。あ
とでキング牧師は彼らの力を借りるのですよ。いろんな組織などありますよ。そういっ
たすべてはあとでキング牧師を中心にしていっしょに合流したわけでしょう、彼をきっ
かけにして。全国的なものになります、キングが現れて来ると。
(先の最高裁判決の翌年)55 年にですね、8 月 28 日。マニー(Maney)ミシシッピー、
街の名前ですけど。これはミシシッピーの南部で、イミット・ティル(Emmett Til)14
歳の黒人の尐年ですけども、シカゴから自分の従兄弟、親戚のところに毎年夏に遊びに
行ったようですね。で、その 28 日の晩に、ある若い家庭の主婦が畑から婦ってきて夫
にですね、街でシカゴ・ニガーがどうも私に失礼な目をしたと。ふつう黒人の男は白人
の若い女を見ないでしょう。頭を垂れて通り過ぎるまでじっとしていたか……とにかく
そういうことがあって、その深夜その夫と何人か友達らが銃を持って彼の家に行って彼
を連れ出して……それから 2、3 日あとに彼の死体が川からあがったときに、大きな換
気扇が首につけてあった、重りとして。そして自分のお父さんがくれたイニシャル・リ
ングに、L.T.と書いてあるのですけど、リングの中にですね。L.T.と書いたイニシャル・
リング。このルイス・テイル、お父さんは第 2 次大戦にフランスで戦死した、そのお父
さんのリングをそのまま……。だけどもあとで裁判になって、彼を引き上げた人たちは
ですね、はっきりこの人だったと、そういう証拠があって、またリングなどあったのに、
またお母さんが見るとこれは自分の子供だというのですけど、判決は無罪にしたのです
よ。彼が打たれて殴られた跡がよく判るのですけど。無罪となったのはですね、この死
体と行方不明になっているイミット・ティルと同じ人物だと特定できないというもので
す。あれは大きなショックですよ、アメリカに。大変なシヨツクですよ。もう「ライフ」
という雑誌にも大きい大きい社説など載ってですね、アメリカの白人はそれをみて、た
とえ黒人に差別意識を持っていても、それはいけないと。黒人にとってはとってもとっ
ても打撃だと。もうこれ以上耐えきれないと。
竹内:良識のある市民というか、白人もそれはおかしいと思ったわけ……
ランドール:そうです。全国にもですね。それは55年。で、同じ 55 年の 12 月に、
ローザ・パークスがモントゴメリー・アラバマでバスに座り込む。憤り、黒人の怒り。
イミツト・テイルのことがあってですね、多くの黒人の雑誌などはこれ以上耐えきれな
いという発言がどんどん出てますよ、激しくなって。そのなかでキング牧師がボイコッ
トのリーダーとして選ばれます。
竹内:こういう事件は過去にもあった。リンチなんか……
ランドール:いっぱいありましたよ。
竹内:それが事件として取り上げられるようになってきたということですか。
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ランドール:ですから、時代はそれに沿って流れて行くでしょう。最高裁の判決があっ
たでしょう。だいぶ動きが変わってくるのですよ。この裁判があって、イミツト・テイ
ルの事件があって、その 2 つのものが。今度は、黒人は法律的にも立ち上がったという
……。そこに持ってきて、またそれができないように白人の反動も激しくなるでしょう。
竹内:よりエスカレートしていった。
ランドール:エスカレート、両方とも。その時代ですね。
この 55 年は私が軍に入った年。将校となってますけど、オフィサーズ・べーシック・
トレーニングに行ってたでしょ、クワンティック・バージニアの。このオフィサーズ・
ベーシック・トレーニングは医者のインターンと同じですね。昼も夜も関係なくとにか
く動くばかりで、6 か月のべーシック・トレーニング。ですからいまの事件もそこで聞
いていたのですけど、あまり真剣に考えなかった、トレーニングの最中です。私らが入
った軍にはハワーズさんという黒人がいた。この人は海兵隊の最初の将校でした。たま
たま私たちいっしょに入ったのですよ、同じクラスですよ。で、このハワーズさんはと
ってもいい人で、仲良くやってたのですよ。で、軍のなかにこの影響がどんどん現れて
くるのですよ。
竹内:ハワーズさんの影響ですか?
ランドール:はい。またこのイミット・ティルのこともあってですね、差別的なものが
軍にあるならばそれを止めないといけないという雰囲気が尐しずつ出て来るのですよ。
でも司令官が言うでしょう。まだ自分の問題になっていないでしょう、本当は。ただ司
令官は政治の世界がそういうふうに動いているならば、いままでの軍のもちかたは変わ
らないといけないということに気付いていたでしょう。あるいは大統領からもいろいろ
命令があったかもしれません。キング牧師は刑務所に入ったりしていたでしょう。アイ
ゼンハワー大統領はですね、そのことに対して敏感だったはずですよ。
竹内:でも、社会の動きとしては、それは人権問題としてきちんと解決しなければなら
ないという方向が出てきたわけですね。
ランドール:出てきたのですよ。その流れのなかですよ。
で、今度神学校に行きますね。その時までには完全に気付いていて、またキング牧師
はガンディーのことを大切にしている。私自身も軍の経験のなかでガンディーは正しい
か正しくないかという結論も出ているのですよ、自分の心に。私もその方向に向かって
いるのですよ。ですからキング牧師のことは、とってもとっても私に興味深くあったの
ですよ。
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竹内:キング牧師の生れは 1929 年ですから先生より 4 歳……
ランドール:4 歳上です。
竹内:ほとんど同世代の人だったのですね。
ランドール:はい、そうですよ。同じジョージアですよ。向こうは豊かなところで生ま
れて、私はそうではないけども、でも同じジョージアということがあって。だから軍の
後半にはですね、けっこう差別に対して意識が高かったのじゃないかと、私も家内も。
今度 58 年に軍の勤めが終って神学校に行きます。そこからしだいしだいに合流か、心
がいっしょになって、説教もそういうふうにいくようになりましたね。以前にキング牧
師が神学校に来たことについて話したでしよう。
竹内:ちょっと一瞬そのお話になったけど、詳しいことは聞きませんでした。
ランドール:1961 年。私たちのサザン・バプテストのセミナリーに 1 週間来たんです
よ。
竹内:1 週間。長いですね。
ランドール:いや神学校の 1 週間は火曜日から金曜日までです。牧会をする学生いっぱ
いいますから、月曜日は空けておきます、クッションとして。4 日間の 1 週間ですね。
その 4 日間に行ったのですよ。そのときルイビル・ケンタッキーでいろんなレストラン
のシットイン(座り込み)などの運動をしているのですよ。で、キング牧師はもちろん指
導者ですから、彼は指導の立場があってルイビルに来ている。それがきっかけだったと
思いますけども、事務的なことはよく分かりませんけど、とにかくその 1 週間にですね、
われわれもそのシットインのところに一緒に行ったりしていた。あまりなにもなかった
のですけど、私が行ったところは別に。行って帰ってきてもなんにも。(笑い)これがデ
モかと思うくらいですけど。まあそうでないところもあったのですけど。彼は説教を 4
回したのですよ、チャペルで。
竹内:それをしっかりお聞きになった。
ランドール:ふつうならば火曜日だけの説教、チャペルでありますけど、こういう場合
は毎日。10 時半の時間を空けて、1 時間のチャペル。4 回。
竹内:貴重な体験ですね。
ランドール:そしてお昼にですね、私らか各クラスは別に彼といっしょに昼食をしたの
42
ですよ。昼食会もいっしょにしたんですよ。
竹内:じゃあまた昼食をとりながら話をする。
ランドール:20 名か 25 名くらいの学生の 1 人で。
竹内:じゃあ身近なところで……
ランドール:もちろんあとでキング牧師にランドールを覚えているかと聞いたら、彼は
覚えていないというはずですけど、私は忘れられない。で、その時のひとつの発言はで
すね、「自分自身は、死ぬことを覚悟するほど熱心にもっている課題がなければ本当に
生きがいがある生活を送れない」。つまり死んでもいいと思うくらいの目的がない人生
は、あまりいい人生にならないと。
竹内:すごい覚悟をして生きていらっしゃった。
ランドール:彼は死の覚悟を、まあいろいろありましたからね、学生は聴くのですよ。
「殺されることは怖くないか」と。
竹内:ほんとに直接的ですね。
ランドール:「怖いですよ。もちろんそんなことしたくないけれども、でもそれでも、
自分自身はこの道を進みます」と。暗殺されたことを聞いたとき、それを思い出しまし
たね。
竹内:そういうことを予感していたのですね。
ランドール:はい。また適忚性ですね。適忚性の高い社会を評価しない。差別に適忚し
ちゃいけない。
竹内:そうですね。
ランドール:自分は適忚できない人間だし、また旧約聖書の預言者たちも適忚しなかっ
た。
竹内:それは先生のその後の態度の取り方に……
ランドール:影響があったかと思いますね、たぶん。
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竹内:影響というか共感するものがきっと先生のなかに……
ランドール:いまもその説教の原稿を持っています。学校でテープレコーダーを採って、
私たちは図書館に行ってそれをコピーすることができましたから。
竹内:テープを聞いて……私がいまやっているような書き起こし。
ランドール:その原稿を持ってるからそれを引用してます。で、神様は非適忚者を要求
されていると。
竹内:そういう意味ではガンディーも非適忚者ですね、その時代の。良いことに対して
ではなくて、社会の不正とか悪に対して適忚してはいけないということですね。
ランドール:ということでしたね。この話は印象に残ってますね、あとでだいぶ私の心
に……。やはりキング牧師はそのときガンディーのことを、また旧約聖書のアモス、イ
ザヤ、ミカなどをたっぷり引用して話している。それからアメリカのソロー(『市民的
不服従』『ウォールデン―森の生活―』の著者)。ソローは適忚しなかったでしょう、
メキシコ戦争のときに。
竹内:ああメキシコ戦争のときの。
ランドール:彼が税金を納めないために刑務所に入っていたでしょう。友だちのエマー
ソンが、ソローが入っているジェイル(監獄)にいって「なんで君はこの刑務所に入って
いるか?」と聞いたら、ソローに「なんで君は入っていないか」と逆に言われたのです
よ。つまり何故適忚するかというやり取りでしょう。その時代からいよいよキング牧師
……。アラバマのどこかのたくさんの連盟がありますけど、各郡の連盟、たくさんのバ
プテスト教会がありますからどの州でも。何々アソシエーションですね。沖縄に
OBC(沖縄バプテスト連盟)がありますね。何々コンベンションかアソシエーションから
の手紙が神学校に来るのですよ。で、「キングといっしょにデモに参加していた人たち
の名簿を送ってちょうだい」と。「なぜなら私たちはそういう人を牧師として呼ばない
ことにしているから。」
竹内:そういう締め付けが来るのですね。
ランドール:はい締め付け。で、それ(名簿)が漏れてたのですよ。ほんとはいけないで
しょうけど漏れていて。ちょっと画期的なことがあったのですよ。我々は名簿を作って
ですね、「むこうのコンベンションの教会の名前を全部リストアップして送ってくださ
い。なぜなら私たちはその教会に行きたくないから」。
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竹内:(笑い)おもしろいですね。
ランドール:(笑い)そのやりとりがありましたね。
竹内:そうやって抵抗したのですね。
ランドール:別になにもあとはなかったけども、手紙のやり取りだけで。でもその時代
ですよ。
竹内:沖縄でも、そういう非適忚の反戦地主とか、いろいろがんばってらっしゃる……
ただ、いま突然沖縄の話になりますけど、むしろ冷たい北風が吹くなかで抵抗するのじ
ゃなくて、暖かくもてなされることで適忚させられていくという、まあ巧妙といえば巧
妙な政策に抵抗しにくい状況というものがありますね。そういう意味では現代は、より
悪に対して悪が見えにくくなった。そして、それに抵抗しにくくなった時代でもあるの
ですね。
ランドール:そうですよ。善に化けてますよ、悪は。
竹内:それを見抜いて、きちんと沖縄の問題にしても解決していくということは大切な
ことですね。そのためにもガンディーの思想、そしてキング牧師の思想というものを、
表面的な闘いだけじゃなくて、いちばん根底にある思想のレベルでこれかから押さえて
いくということがとくに必要だなと。その意味では、沖縄の現在に対してとても示唆的
で、もっと学ばなければならないなと思いますね。
ランドール:私もそう思います。いま出したこの本(『非暴力思想の研究』)の原稿です
けれども、その本のなかで沖縄問題は全然書いていません。なにも触れていない。キン
グとガンディーを紹介して、あとは自分自身の生活のなかで、自分の沖縄のなかで、か
れらの思想のなかで解決の糸口を見つければいいと思いますけど。それは読む人の自由
を尊重するから。全然意図的なことじゃない。
竹内:でも先生が研究なさっているガンディーやキング牧師の思想というものは、沖縄
にとってこれからもっともっと勉強していいことだと、つくづく思うようになりました。
ランドール:そう言われたら嬉しいですよ。
竹内:そういう意味で先生の研究がこれから生かされるととってもいいなと思いますね。
だれか他にもそれを研究しようとしている若い人たちはいるのですか、いま。
ランドール:いませんね。あの昨日、キリ短大の大城実先生、彼は平和学の概論を担当
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してます。「一度ガンディーのことを、話してちょうだい」と。で、「キング牧師のこ
とも触れますか」(と言うと)「いやほかの人がそれをする」と。キングをやっている芳
澤牧師もいますね。前の中央教会……キング牧師をいろいろ翻訳していたようですね。
で、昨日の話のなかで石川さんという、石川さんのことはよく分かりませんけども、キ
ングをやっている人はいることはいますよ。で、ガンディーを研究しているのは、私が
知っているかぎり私だけです。でも他にいるかも知れませんね。本が出ると現れて来る
可能性がある。そういう人がいるならば会いたいですね。
で、この問題を確定してですね、またそれに対して抵抗するかしないかということで
すね、きわめて微妙なところですよ。キング牧師がモントゴメリー・アラバマに行った
のはですね、自分自身は大学の先生をしながら牧会をしたいと。またキング牧師はです
ね、感情に溢れる黒人の教会はあまり好きじゃなかった。インテリのところが好きで、
あまりアーメンと言ったら、こんなにしたりして(床を踏み鳴らす動作で)また大声で歌
ったりしては、自分自身は納得できない。モントゴメリー・アラバマのデクスター・ア
ベニュー・バプテスト教会はアラバマ・サザン・ユニバーシティが街にあって、その先
生らが、いわゆるインテリの、あるいはハイクラスの黒人たちが集まっている。
竹内:黒人って一口に言ってしまっても、階層が分かれている。
ランドール:分かれてますよ。
竹内:現在はもっと格差が……
ランドール:もっとあるかも知れませんね。で、この教会は静かな教会。あまりアーメ
ンといったり、大声で歌ったりしてない、そのところをめざすのですよ。彼はそういう
人間だと思い込んでいた。ところがバス・ボイコットのリーダーとなってからですね、
やはり運動する人たちはみな教会を持っているのですよ。いってみれば、彼は教会のほ
うに引っ張られたのですよ。ガンディーの思想はもともとありますけども、でも自分自
身の黒人の世界のなかに、貧富の差ですか、貧しい人たちの教会も、いってみれば「う
るさい教会」、そういったところにやむをえず行って説教したりして、いつの間にかこ
こに力があると分かってきて、彼が生まれ変わるのですよ、モントゴメリーの闘いのな
かで。
竹内:ある意味で下からの力によってグッとエネルギーを得たというか……
ランドール:彼自身が持ち上げられました。彼は引っ張ると思われますけど、いってみ
れば貧しい人たちに彼は持ち上げられたということも言わなければならないと思いま
すね。だからモントゴメリーが終るとですね、完全に教会を見る目が変わったキング牧
師、研究上それをみるのですよ。今度彼もアーメンと言ったり、こんなにしたりするよ
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うになりましたね。
竹内:ああ、それがキング牧師の力強い説教の力として働いたのかもしれないですね。
ランドール:それ以前には学問的なことをやったはずですね。その以前の説教は殆どな
いですけどもね。なぜならその教会に行って間もなく、いまの事件が起こりますからね。
竹内:やっぱりそういう力が大切ですね。書斎派みたいに閉じこもらないで、実際に運
動のなかに入っていくということから力を得ていくということがあるわけですね。
ランドール:で、ローザ・パークスがバスに座っていなかったならばですね、場合によ
っていまのキング牧師は 71、2 歳くらいの名誉牧師になって、どこかの大学の学長の
勤めをしながら大きい教会の名誉牧師、学問的なことを繰り返していった人生だったと
いえるでしょう。だから人は抵抗するかしないかということですね。目的を選ぶと同時
に、目的が自分を選ぶということもありますね。
ガンディーもそうでしたね。インドにおいてガンディーは弁護士として失敗したでし
ょ。もう見事に失敗して、立ってその聞くべきところに、自分の番になってですね、言
葉が出て来ない。もう泣きながら逃げるのですよ。あとでお金をクライアント(依頼人)
に返すのですよ、恥ずかしくて。イギリスからインドに戻って、こういった失敗を繰り
返したばかりですよ。南アフリカに行くガンディーはですね、お兄さんにどこか遠いと
ころに行ってもらいたいという気持ちがあったかもしれません。
竹内:ある意味で消極的な理由だったのかもしれませんね。
ランドール:そうですよ。またシャイで……。お兄さんが遠いところに紹介しましたね。
今度裁判に行きますね、ダーバンの。弁護士ですけども弁護士の勤めじゃないですよ。
弁護士のアドバイザーとして南アフリカに行きます。弁護士がそこにいますよ、イギリ
ス人の、あるいはオランダ人……
竹内:弁護士のアシスタントみたいな……
ランドール:アシスタント。研究していろいろアドバイスするのですよ。彼はイギリス
で、弁護士になったばかりで、そういう意味で彼はフレッシュで力がありますから、ア
ドバイザーの勤め。行って 2 日のうちにまた栽判がありますから、自分を雇った、裁判
にかかったアブドゥーラさんが「裁判するところをちょっと覗いてみますか」と。とっ
てもきれいにドレスアップして、またターバンを……インドならばそれは礼儀でしょう。
竹内:ああ正装して行ったのですね。
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ランドール:とっても礼儀正しく。今度はけっして失敗をしないと、もう堅い決心をし
て。で、そこに入って行くと「ターバンをとれ」と言われたのですよ。でもとったらそ
れは失礼です。単純な理由ですね。「いや、これをとると裁判長に失礼なことですから
私はとりません」。そう説明したら、裁判長は「あなたの国ではこれを着けると礼儀だ
と。うん、いいですよ」。そしてそのまま座ることができたのですよ。翌日、新聞に大
きく書いて UNWELCOME VISITOR と。嫌われていた。しかし彼にとってこれは力
になりましたね。いちばん最初の成功はやっぱり抵抗のところでした。
竹内:はじめてそこで自分が何者であるかということが自覚できたのかもしれませんね。
ランドール:そして 10 日経ってから、またプレトリアに行くでしょ。これは有名な話
ですけども、途中で列車から追い出されたという。それもたまたまですよ、さもなけれ
ばガンディーは最後まで南アフリカのどこかの事務所で、厚い厚いコカ・コーラのビン
の底みたいな眼鏡をかけて仕事をしていたかもしれませんよ、
竹内:(笑い)そうですね。
ランドール:ですからガンディーがそのところを選んでやったというよりも、選ばれた
ということもありましたね。
竹内:その選ばれたときの一瞬をつかむか……
ランドール:つかまないか……
竹内:見逃してしまうか。そこで分かれてしまうということですね。それがほんとの意
味の試練なのかもしれませんね。
ランドール:はい。だからいまの時代もですね、それに当っている人はいるかと思いま
すよ。でも彼らは鈍いか。でもどこかで、やはりあの瞬間に正しい決断をする人が現れ
てくるとなれば、その人はやはりガンディー、キングのことを適用すると思いますよ。
竹内:そうですね。ぜひ私もこれから尐しずつキング牧師のことや……先生が書かれた
「ガンディー思想の今日的意義」という、もうだいぶ古い紀要(1984 年沖縄キリスト教
短期大学第 13 号)に書かれたものを改めてまた読み直したのですけど、とっても勉強に
なりました。
ランドール:ああそうですか、どうも。
竹内:また続けていろいろ勉強してみたいと思っております。
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それから、もうひとつそのころの、公民権運動のころの、先生も含めて白人が黒人の
権利の獲得のために支持をしていく、そういうときの白人の立場みたいなものはどうだ
ったのでしょうか?白人社会のなかで差別をする人たちもいますよね。そういうなかで
支持する側の白人の立場というのは難しいものはなかったのでしょうか?
ランドール:難しいところいっぱいあると思いますね。あのジョーンズ牧師の話をしま
したね。1964 年にジョーンズ牧師にアトランティックシティ・ニュージャージーで会
いました。そこに BWA の世界バプテストの大会がアトランティックで。それでバプテ
ストの南も北部も世界のバプテストがそこに来るのですよ。大きい大会ですよ。で、ジ
ョーンズ牧師は自分の教会からそこに。サザン・バプテストの大会があると同時にこの
BWA。我々北部はバプテストの年の総会、と同時に BWA。だいたいは総会と並行して。
自分の総会へ行ったり BWA に行ったり、そのところが多かったと思いますね。
で、このジョーンズ牧師はですね、私らが行った教会は、そんなに古い話じゃなかっ
たのですよ、あの教会を出たのは 58 年ですね。58 年のとき出て、6 年経って 64 年に
ですね、アトランティックシティでジョーンズ牧師に会って、自分自身の教会の自分の
セクレタリー(秘書)がですね、病気になっていた。ジョーンズ牧師は彼女をアトランテ
ィックシティにいっしょに連れてきたのですよ。どこかにちょっと休むところがなけれ
ばだめ。さもなければ入院しないといけない。とってもとっても大変かわいそうなとこ
ろでしたね、彼女も。ほんとにじっとしない。なぜならこのビューファント・サウスキ
ャロライナの街全体、そしてこの教会もとってもとっても意見が分かれていて、ジョー
ンズ牧師の教会もですね、この役員会が半分以上そろって、もちろん正式の役員じゃな
いですけども、彼らが彼の書斎に入り込んできて「この教会から出ていけ」と。で、ジ
ョーンズ牧師はそう簡単な人間じゃないですから(笑い)「お前たちが出ていけ」と。け
っきょく口争いで彼が勝ったわけ。「私は平気で、皆さんを栽判にかけるぞ」
竹内:かなり強く出たのですね。
ランドール:はい、強い調子で。彼はキング牧師とまた思想は違うのですよ。もうなん
でもかんでも力関係で自分はする人ですから。(笑い)ただそういったことの繰り返しで、
そばに座っていたセクレタリーは、精神的に尐し弱くなって、病気の状態に陥ったので
すよ。
竹内:ああそうですか。
ランドール:で、この役員会の一部はそうだった。でもジョーンズ牧師がいないときは
……執事ですね。そのチェアマンが代わりに説教するのですよ。彼の説教の題はですね、
この教会は黒人も会員として迎えるべき、9 ですか 10 の、とにかくたくさんの理由を
述べているのですよ。「我々はいままでは白人の教会でしたが、これからは黒人も入れ
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ないといけない」。聖書のなかからいくつかの理由を出すのですよ。講壇にいってそれ
を述べるのですよ。しかしあとの半分は牧師を追い出そうと。この教会はこんなに(手
を打ちながら)なっていたのですよ。これはたぶん典型的なことじゃなかったかと思い
ますよ。とくに南部では。
竹内:じゃあ教会のなかでは、とくに牧師はひじょうに辛いというか、難しい立場にあ
ったわけですね。
ランドール:はい難しいですね。それは大変な時代でしたね。
竹内:白人同志でなにか事件があるということはないですね?
ランドール:あったと思いますよ。
竹内:ああそうですか。そういう事件はあった。先生は、直接体験はない?
ランドール:直接にはないですね。うちの親父は一度ありましたね。自分の勤めるとこ
ろに黒人が一緒に働いていて、この人は経済の力あるのですけども銀行はお金を貸さな
い。それは住宅を建てるため。ただ彼が選んだところは白人が多いところ。そのために
銀行はお金を出さない。なにか証拠になる、いっしょにサインする力のある人がなけれ
ばならない。自分(銀行)は金があるのに出さない。で、親父はたまたま同じ銀行に自分
の口座を持ってました。お金持ちじゃないですけども貯金をするお父さんですから、た
ぶん何万ドルかはあったかと思いますね。行って「私がサインする。お金を出せ」とい
う調子で。友だちですから、いっしょに働いている。その本人はいっしょじゃなかった
けど、親父はいきなり行って「お金を出せ」と。「なにか書類があれば、私が……」
竹内:保証人みたいなものですね。
ランドール:保証人ですよ。サインしたのですよ。で、その晩、寝ているうちに何か音
を聞いて、何かおかしいなと思って開けてみると、自分の庭に大きな十字架が燃えてい
るのですよ、その晩。
竹内:KKK(暴力的な人種差別組織)?
ランドール:はい。
竹内:かなりの嫌がらせを……
ランドール:それ以上なにもなかったけど、でも恐れたと言ってましたね。怖かったの
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でしょう。今度は散弾銃が来るか、いろいろありますからね。
竹内:あ、そういうこともあったのですね。
ランドール:でもそのひとはけっきょく家を買うこともやめたようですね、あとでお父
さんに会いにきたのですけども……
竹内:先生のお父さんも、やはり時代が新しくなればなるほど変わってきたところがあ
るんですね。
ランドール:あるのですけども、完全に変わったとも言えないでしょう。その人は自分
の友だちで、またこの人自身はいい人だと、一般の黒人に対して……
竹内:ああなるほど、そういう区別はしている。
ランドール:母はですね、キング牧師のことをよく言うのですよ。でも親父はあまり評
価しなかったですよ。「いや、白人の牧師がいるのに」と。
竹内:(笑い)ああ、分かるような気がします。
ランドール:ですから完全に心を整理しなかったのですよ、最期まで。
竹内:でも、だんだん世代を経てランドール先生のころにはもうすでにはっきりと、き
ちんと整理がつくことになっていくわけですね。
ランドール:その前の世代の人たちはそんなにきれいに整理しなかったでしょう。社会
とともに……自分たちもそうですよ。心はですね、いろいろ葛藤があったのじゃないか
と思いますね。
竹内:でもやっぱりアメリカの社会がそういう良識を最後は発揮できたということは大
きな、その後の南アフリカのアパルトヘイトの問題とか、大きな貢献をしたということ
がいえると思いますね。
ランドール:いえますよ。キング牧師はベトナム戦争に対して、ラヴィといっしょに立
ってきたでしょう。またユダヤ人たちは黒人といっしょに闘うようになったのですよ。
やっぱり同じように差別されているということに気づき、またリーダーがいっしょにな
って、また一般にもそういうふうになって、全国的にもいろんなところ……。また今度
南アフリカに、そこに金、銀、いろんなところに投資するでしょう、アメリカの株式会
社などやアメリカの NCC も。いろんなところがお金を、たとえばリタイアーメントプ
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ラン(退職年金制度)とか基金がやっぱりどこかに投資するでしょう。たくさんの教会の
お金も南アフリカにいって、でもしだいしだいにそれはアメリカのほうに行きますね。
イギリスもそうでしたね。だからいろんな意味でこの影響が広がりますね。
竹内:ただ 70 年代後半あるいは 80 年代、90 年代というのはとくに知識人がもう社会
とか街頭とかに出ずに、直接政治に関わらずに、ちょっと研究室に閉じこもるような、
静かな時代になっていきましたね。
ランドール:なっていきましたね。
竹内:でもその間に時代が良くなったというよりは、むしろ問題は下の方に隠れていく
ようなかたちで見えにくくなって、しかしはっきりと問題は残っていて……。
最近尐しずつ新しい動きが、もう一度現実の問題に目を向けようという動きがすこし
ずつ出てきているのではないかなと思うのですけども。
ランドール:たとえばどういう辺からですか?
竹内:ちょっと話が飛んでしまいますけど、ベトナム戦争のころはフランスだったら学
生たちとか、サルトルという有名な哲学者なんかが街頭に出て、自分の思想・哲学と現
実の運動とを密接に結び付けていきます。キング牧師もそうだと思うのですね。もちろ
んガンディーもそうだったし。そういう知識人というか優れた人たちが現実行動と自分
の思想を密着させていく。そういうことが次第になくなってきた。安全保障の問題でも
ひじょうに高度なものになって、分かりにくくなってしまった。それに対して民衆はい
つも置き去りされて来たのだけれども、最近は民衆の側からもっと連帯しようという動
きが尐しずつ、まあ NGO もそうだと思うのですけど、そういう動きが出てきているよ
うに感じるのですけど……。
ランドール:そう言われたら、なるほどなと思いますけれども、でもまだ NGO の歴史
が浅い。ただその辺で気になりますけれども、この間の(沖縄)サミットもですね、こ
んなに動きがあってもですね、私が知っているかぎりサミットになにひとつも影響はな
かったかと……。なんか上手に中央政府のほうが設備をあたえる、いろいろ便宜を、な
んでもかんでもできるようにしておきます。きれいに飾って、自分の思うとおりにいっ
たのですよ。
竹内:巧妙ですね。何かが起こるとそれを上手く……
ランドール:そうそう。
竹内:取り込まれてしまうということがありますね。
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ランドール:だからどこかで衝突しなければ。私は喧嘩が好きということじゃないです
けど、自分の経験もありますし、いまの研究もありますけど、やはり何かひとつのきっ
かけで……。おそらくきっかけは起こりつつあるのじゃないかと。さっき言ったように、
その瞬間に正しい判断をするかしないか。銀行に行って「お金を出せ」と父がそうした
のですけども、その時代の雰囲気は緊張してたから、そうしてもおかしくない。危険で
すけども、たくさんの人はそういうふうに動いているのですよ。右か左かといえばです
ね、左のほうが彼を支えるはずですよ、その時代。でもいまの時代は彼を支える人はい
るでしょうか? だから立ったローザ・パークスみたいに「いや、ここに座ります」と
「疲れているから」。また良心的に指導するキング牧師、たとえば自分の家は爆破され
たでしょう。生まれたばかりの赤ちゃんがいると、それを知っていながらこれを爆破す
るでしょう。すぐに電話がかかってきて、「お前は生きているか生きていないか、生き
ているのは残念だ」と。お母さん(ミセス・キング)はそう言われたのですよ。にもかか
わらず、「汝の敵を愛せよ」と。その時のキングは怒らずにそこに立つことがなんでで
きたかと。
いまどんどんお金が流れてきている沖縄で、基地に一生懸命に反対するなら、なんで
自分たちの豊かさに反対するかと言われてもしょうがないでしょう。問題をすり替えて、
豊かさの問題にする。いまそういう動きがありますからね。でもいつかどこかで決断の
ときが来ると思いますよ。そのとき私たちは、一般の人もいっしょに、また判断を要求
されますね。ただ言えるのは、やはりキング牧師はよく自分のことを考えて勉強してい
て、祈っていて、聖書を信じているキングでしたね。多尐自分自身を高級な人間だと思
っていたみたいですけど。(笑い)最初はまだその問題に気付いてなかったでしょう。で
も心から主イエスに従う。もともとそれがあるから。だから私なんかですね、竹内さん
もいろいろ書いたり教え込んだりしていくのは、言ってみればその決断の時の事前の準
傭としてやっているはずですね。いつかどこかで実を結びますよ。
竹内:ぜひそうなって、いい時代、基地のない時代が来るといいと思いますね。
ランドール:来るといいですね。
竹内:今日はどうもありがとうございました。
ランドール:どういたしまして。
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第4回
神戸から沖縄へ
2000.10.27(金)
竹内:今回は第 4 回目ですけれども、先生が日本に来られた最初のころのお話を伺
いたいと思います。ちょうどそのころの日本あるいは沖縄というのは、沖縄では本
土復帰を目前に控えた時期、日米交渉が行なわれていた時期、大きな事件としては
ベトナム戦争があって、1965 年には北ベトナムに爆撃が開始されている、そういう
騒然とした時代なんですけども、その時代にランドール先生が日本に来られた。そ
のころの日本の印象、あるいは日本人の印象についてまずお話をしていただきたい
んですけど。
ランドール:1967 年の9月1日、羽田空港に到着いたしました。子供3名といっし
ょということで、過剰に荷物を持ってきていたでしょう。たくさんたくさん荷物を
持っていた。で、東京に着いて向こうのボードの代表者、名前はちょっと忘れまし
たけども、その人とおそらく同盟の理事長だろうと思いますけど、たしかアマノさ
んという人、このふたりに出迎えられて、タクシー2,3 台に荷物を分けて……。まえ
から聞いていたけども、有名なカミカゼ・タクシーの経験をいたしました。そのと
き、まずタクシーは左の線を走っているでしょう。われわれはいつも右ですから、
かつてない経験ですから、左の線に行きますと、それこそ息をのみましたよ。猛ス
ピードを出してる、それほどではないかもしれませんけども、スピードを感じるの
ですよ。なんでもかんでもオーバーしているでしょう、気持ち的にも。で、まあ無
事にホテルに着いて、第一ホテルというところ。もう夕方。疲れて、夕食をして、
その晩のことはあまり記億に残っていない。たぶん旅の疲れがあったでしょう。翌
朝起きて、日曜日です。日曜日にまた宣教師が 2 人、なんという人だったか忘れて
ましたけども、おふたりが迎えに来て、かれらが通っている東京ユニオン・バプテ
スト教会だったかな、外国人ばかり行っている教会で最初の日曜日礼拝をまもって。
で、それを終わってからすこしデパートなんかちょっと回って、すぐにまた新幹線
に乗って神戸に向かいました。そのときの新幹線は新しいものでしょう、みんな珍
しがってるでしょう。
竹内:できたばかりですね。
ランドール:遠いもので、また子供たちはとってもそれに興味があって、みるとと
ってもとっても興奮して。また列車の窓から見るとですね、すべては小さい。なに
か人の家だろうと思うけど、どうも何か、人形の家か人間の家か、ほんとうにスケ
ールが小さい。また東京でも感じたけど、ときどき道に並行して走っている車がい
た。小型の車が多いですよ。そのころの日本はいまと違って、車はだいたいは小さ
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いでしょう。またどこかの駅だったと思いますけど、駅のところに入ってきたトラ
ックがあります。うしろに車輸は 2 つ、前に 1 つ、三輪車。
竹内:ああダイハツの三輪車、はい。
ランドール:運転手さんは自転車みたいなハンドルを握っていたでしょう。
竹内:はいはい、ありました。
ランドール:窓から5メートル近くにきて、こんなに鼻をつけて……(笑い)見てたの
ですよ。そんなことあるかと見ていたのですよ。
竹内:珍しかったのですね。
ランドール:珍しかったですよ。また静岡を通ってきて、人は私たちが(日本に来る
のが)初めての人間だと分かって、「これは日本のグリーンティーですよ」と言って
くれたのですよ。きれいだったですよ、海の波みたいですからね、きれいな緑。ま
た家なんかは小さくても建築はいいなあと、かっこいいですよ。ときどきお宮とか
寺院など見たりして、山のどこかの斜面にそんなものがあって、また竹があって、
すべては珍しくってきれいでしたね。もうほんとうに見苦しいものはひとつもなか
ったのですよ。興奮してばかり。
で、この列車に乗るまえに私らが東京駅の階段を降りていきますね。大勢の人の
流れのなかで降りていきます。また右側に昇るひとつの流れがありますね。そこに
私の、サザン・セミナリーのクラスメイト、かれは上っている、私は下っている。
もう目を合わせて「ハイ、ハイ」というのですけど、その瞬間にまた流されますか
ら。(笑い)
竹内:(笑い)ああそうですか。
ランドール:「え?よくもこの人とここで出会った。」シートさんですね。
竹内:シートさん。
ランドール:リロイ・シート。西南学院大学の教授。いま院長してます。私は神学
校が終わって牧会に行きます。かれは残ってまた博士(号)を取る。そのときまでのこ
とは分かっておりますけども、かれと日本で会うとは夢にも思わなかった。
しばらくしてから、そこに食堂車があることが分かって、ちょっと項番に。私た
ちが揃っていく勇気はないですよ。留守番を置いて、私と子供一人、マクシンと子
供一人、長男ニックは自分一人で行くと。
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竹内:さすが。
ランドール:だから 3 つにわけて食事をしてるでしょ、新幹線で。で、私とウェイ
ン(三男)だったかトニー(次男)だったかな、その食堂車に入るとシートさんがそこに
座っているじゃない。驚きました。で、かれと奥さんのジュン。リロイとジュンは
宣教師になって、日本に来て、かれらは(日本バプテスト)連盟のほうですけれども、
教育宣教師として西南学院大学に。まあ、その再会の喜びもあった。そのとき以来
手紙を出したり電話をしたりして、とってもとってもいい仲間ですよ。いまでもそ
うです。まあその出会いがあって、晩に、神戸に行く前に大阪駅まで新幹線で行き
ます。そこから普通列車。
竹内:あ、当時は大阪まででしたね。
ランドール:大阪まででしたね。大阪の駅で出迎えがありました。私たちが迷わず
に無事に着くようにいろいろ案内がセットされていましたね。そこにスフェン・エ
リックさん、スウェーデン人です。スフェン・エリックさんという若い宣教師が迎
えにきて、かれは、私らが降りてきて、その荷物を見てぞっとしたけれども、がん
ばってくれたのですよ。(笑い)
竹内:荷物が山のようにあった。
ランドール:今度、普通列車に。こんなに荷物多いのに。(笑い)でも大阪から神戸ま
では遠いですから、タクシーはちょっと経済的に許さなかったから、とにかく頑張
って私たちとスフェンさんといっしょにこの荷物を。そして日本人にとってもとっ
ても変に見られながらも……(笑い)「なんでこんなに荷物があるか」と思われたでし
ょう。恥ずかしかったですよ。
竹内:いまでしたらさっと送ればいいですけどねえ。
ランドール:でもそのときはできなかったのですよ。いつも自分自身の手で持って
いかなければならない。
竹内:ああそうですか、すごい量でしたね。
ランドール:冒険でした。また自分は目立つ者だと気付き始めるんですよ、列車の
なかで。
竹内:ああそうですね。
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ランドール:とつてもとつても目立つ。
竹内:当時、珍しいです。
ランドール:おそらく荷物がなくても目立ったかもわからない。
竹内:僕の子供のころにアメリカ人とか、欧米の人を見ることはとってもめずらし
かったです。めったに見ることはなかったですから。
ランドール:おそらく私たちもそういう人間に出会ったばかり……
神戸に行って、神戸のニューポート・ホテルに一泊したのですけど、その晩。で、
寝て、それは日曜日でしたから、月曜日に起きて、月曜日はふつうの日ですから街
は賑やかで、またそこからなにか、郵便局か政府関係の建物かわかりませんけども、
ホテルの窓から見るとですね、マキシンが「ちょっと見てよ、ちょっと見てよ」と
いって、見たら日の丸が揚がっている。恐ろしいものを見て、ほんとに気持ちがす
さんでしまったのですよ。
竹内:ああそうですか、うーん。
ランドール:敵の旗ですからね。
竹内:ああ、はい。
ランドール:「え、毎日これを見ないといけないか」という気持ちが起こってしま
って。(笑い)
竹内:そういうふうに見えるのですね。
ランドール:やはり敵の国に来ていると。いま平和だけども敵の国という気持ちは
まだ消えていない。で、また今度、東岡本阪急岡本線ですけど、そこでヒンチマン
宣教師らが、山名さんが行っている平和の教会をつくった、このヒンチマンさんは
たくさんの教会を開拓された先輩の宣教師ですけども、かれは健康の理由で2ヵ年
の休暇を得ている。ちょうどこの期間ですから、私らは 2 ヵ年神戸にいて日本語を
勉強するから、かれらの宣教師館に住むことになったのですよ。で、それで東岡本。
甲南大学はすぐ隣にあった。すぐにも英語を喋る大学生にも出会ったりして。また
今度通っていく日本語学校は、えーと西南じゃなくして……関西学院大学。その大
学に属する日本語研究所があって、この研究所のなかで、日本語学校をもっていた
んですよ。そこに通う。
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竹内:大学付属の?
ランドール:研究所だったと思います。研究所のなかの日本語学校。毎日そこに通
っているから、そこの辺りの学生に会います。で、今度また沖縄に行くならば大学
生を相手にして仕事をするということですから、なるべく学生との付き合いを最初
から持つという意識を持っていて……。そのころは安保に対してとってもとっても
激しい……学生らは、一般の人もそうだったけど、ベトナム戦争に対して反対。ま
たもうすでに沖縄復帰という話があって、で、かれらはまあ口だけか分からないで
すけども、とにかく沖縄復帰を熱心に望んでいると。そして一般的にやはり平和の
思想は持たれてましたね。そうするとガンディーなどに興味を持っている私みたい
な人間が来るとですね、かなり関心を持たれましたね。あちこちに呼ばれて、お話
をするように。カナリヤ・アカデミーの、子供たちも通った学校ですけれども、そ
このチャペルでお話をして……
竹内:ということは先生に共感する人たちがけっこういたということですか?
ランドール:はいそうです。
竹内:先生もそういう発言をすでになさっていた?
ランドール:だいたい話のなかで出るものですから。
竹内:自然に分かるのですね。
ランドール:自然に分かる。いったん人が分かったら、また評判が……。カトリッ
ク系の学校にも、また私立高校だったと思いますけど、名前は忘れましたけど、そ
こに呼ばれて英語で喋るのですけども、通訳つきで。やはりガンディーの紹介など
をしていた、神戸で。それから宣教師の集まりでも一度、最初の、同盟関係の宣教
師の、年に一度集まって、かれらの会議みたいなものがありました。そこに参加し
て、私は自分自身の考えを尐し紹介したのですよ。で、あとで聞いたのですけど、
そのときは何もなかったけども、宣教師らに驚かれたそうですね。こういう人物が
沖縄に行けばどうなるかと思われたようですね。ある人はちゃんと私の発言をメモ
にして、あとでヒンチマン先生の手にいきます。ヒンチマン先生からまた励ましの
手紙が来るのですよ。
竹内:じゃあ好意をもって、好感をもって迎えられていたということですね。
ランドール:だから一般の人にも、学校にも、宣教師のなかにも、歓迎された一方
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ですね。
竹内:ユニークですね。ガンディーを語るアメリカから来た宣教師がいるというの
は。いまでももしそういう存在が現れたら、ひじょうに興味を持たれると思います
ね。
ランドール:そんな考えを持っている人はあまりいなかった。あるいは持っていて
も黙っていた。とにかく歓迎された、特にヒンチマン先輩から。自分自身も手紙の
なかで「沖縄では日本内地と尐し違うでしょうけども、神に用いられますように。」
マイティリーですね、力強くですか?「精力的に力強く神に用いられますように祈り
ます」と。mightily used of God というふうに祈りますと、ヒンチマン先輩。まだ
会っていないですよ。あとで聞いたら、ヒンチマン先輩は同じ考えを持っていた。
まあガンディーは特別にないけども。だいぶ年でした。第 2 次大戦中かれは軍に行
くことを拒否した。だからもともとかれは平和に関して、私より以上に、歴史をも
っていた人ですよ。
竹内:信念を持っていた方なのですね。
ランドール:そうですよ。また関西に残ってヒンチマンさんといっしょに頑張れば
という話もあったのだけども。
竹内:心強い先輩がおられたということで。
ランドール:だから関西ではそういうこと。まあ学生のなかにお付き合いがあって、
大学というものは、あんまり講義はなかったですよ。デモばかりです。
竹内:ああ当時。
ランドール:はい。ヘルメットを被って、マスクをつけた学生でしょう。大学とい
うものをあまり知らずに沖縄に来たのですよ。まあそんな印象。
……子供はですね、自分それぞれの楽しみがあって、ウェイン(三男)は保育園に行
きます、日本人の。だからウェインの日本語の発達はいちばん早いです。でもあと
で振り返ってみると、いちばん苦労したのはウェインだろうと思いますね。笑いな
がら遊んでいたけども、あとで自分自身が思い出してみるとですね、それは悲しか
った、これは難しかったとか。
竹内:子供として苦労したということですね。
ランドール:やっぱり目立つのですよ、それもありますよ。トニー(次男)はすぐスポ
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ーツに、柔道などに取り組んでいて、そのなかに日本人アメリカ人も一緒に来ます。
で、長男ニックは列車に。とってもとってもトレインが好きですよ。それでニック
はですね、地名を覚えるのが早いですよ。マークがあるでしょう。この列車はここ
からここまでと書いてあるでしょう。
竹内:日本の鉄道ですね。
ランドール:はい。それを見たらほとんど全部分かるようになったのですよ。(笑い)
また乗るのも好きですよ。
竹内:そのまま JR に入社できるぐらいですね。
ランドール:その当時そんなにローマ字もなかったのですよ。
竹内:ああ、よく覚えた。
ランドール:だから長男はトレインの専門家になりました。それが楽しみ。日本語
は難しかった。最初の 4 ヶ月に 20 ポンド体重を減らした私。
竹内:ああそうですか。やはりそれはほとんど語学、言葉のために……
ランドール:言葉。もう覚えないといけないと。でも日本語はそう簡単に覚え切れ
ない。まえにヒンズー語を勉強していたでしょう。わりと早いうちにふつうの会話
に、全部できなくても、とにかく乗れることがありましたけども、日本語はですね、
最初からそんなのないですからね、苦労しましたね。
竹内:全然違う系統の言語ですね。
ランドール:苦労しながら日本語をおぼえて、この学校で基礎をつくったのですよ。
だいたい言いたいことが言えるようになったのですよ、2 ヵ年のうちに。ところが
書くのは全部ローマ字でした。今なお漢字は書けないですよ。
竹内:これは小さいとき、子供のころに覚えなければ日本人でも無理ですね。
ランドール:ですからあとでその学校も改善して、平仮名、片仮名、漢字というふ
うになっていますけど、そのときは全部ローマ字でした。だからブルナン先生もで
すね、ブルナン先生は日本語の専門家で、ICU(国際キリスト教大学)の教授で、もう
退職されていますけど、ブルナン先生はですね、とくに私はヒンズー語などやって
いて歴史がありますから、やはりいまこの西宮の学校ではなくて、別の学校を捜し
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てみなさいと勧められました。ところがほとんどのミッショナリーがいま行ってい
る学校に行くものですから、(私も)行ったのですよ。もしブルナン先生の話を素直に
聴いていたら、私の日本語を書く力がつけられた。いまはワープロができているか
ら書ける。
竹内:ワープロはそういう意味ではとても助けになった。
ランドール:助けになっていますよ。あとで聴いてみたらボーリンジャー先生もそ
うでした。
竹内:ああそうですか。
ランドール:ボーリンジャー先生はこんなに日本語がうまいのに書けない。まあ書
けないことはないけども、書いても恥ずかしいくらい。かれもちょっと日本語の教
育の足りないところで育ったのです。私もその系列のなかで。
竹内:いまはもっとそういう日本語が書ける教育のシステムができているというこ
とですね。
ランドール:同じテキストですけど、ただローマ字があったところに平仮名、片仮
名があるんですよ、最初から。そして力がついてくるにしたがって、漢字も入れる
んですよ。日本の教育と同じ。で、あとで、コロンビア大学でまた日本語を集中的
に勉強していて、そのときに限って書けたのですけども、いま、読めるんだけども
書けない。試験のために、たとえば一日 100 字くらいという具合にしてどんどん詰
め込みますから残らないですよ、書き方は。まあそれは残念なこと。まあ私の日本
語のへたくその弁解にもならないでしょう。(笑い)
竹内:いえ、とんでもないです。
ランドール:とにかく書けないということは、全部私の責任でありながら、一部は
私の責任でないかもしれません。まあ幸いその学校は変わりました。
竹内:でも 2 ヵ年でほぼ日本語を話す、喋ることができたのですね。
ランドール:早いうちに。クラスのなかでですね一人はやめて、3 名になって、や
がて私は先生と 1 対 1。どんどん進んでいきます。努力していきますから。
竹内:その努力はどんどん日本語を喋ることだったのですか?
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ランドール:最初は私とテープレコーダーでした。むこうのラングエッジ・ラボラ
トリーのテープを借りて、持ち帰って。で、午前中でだいたい終わります。1 時か 2
時ごろ家に帰って、7 時間から 9 時間くらい毎日このテープレコーダーを聴いて、
繰り返して繰り返して。最初の 4 ヶ月はそれでした。
竹内:1 日に何時間くらい?
ランドール:ですから朝の 9 時から夜の 9 時か 11 時くらいまで。
竹内:そんなにテープを回し続けて!?
ランドール:まあ午前中は学校ですよ。
竹内:ああ、そういう努力があったんですね。
ランドール:ですからどうしても(日本語を)使いたいと思ったからですよ、苦労しま
した。
竹内:、先生は語学の才能があって、ぱっと日本語を覚えられたのじゃないかと思
ってましたけど、最初はやっぱり……
ランドール:尐しは苦労しましたよ。それは、勉強は勉強ですから。まあ失敗もあ
りました、面白い失敗。その当時、冷蔵庫を買いたいと思ってもすぐ買えない時代
ですから。
竹内:高いものだった。
ランドール:高いというよりないものですよ。注文します。注文して来るまで待っ
ておくでしょう。その間どうするかと。氷屋にアイスボックスがあって、中に牛乳
などを入れるでしょう。最初に誰かといっしょに行って契約を結びます、簡単な。
アイスボックスを借りておいて、そこに人が毎日自転車で、1O 円分か 20 円分かの
氷を運んでくるのですよ、毎日毎日。8 月ですから毎日毎日でいいのですけども、
1O 月、11 月の初めころになると、ちょっと冷たいです。氷がだいぶ残っている。
まあ私はこれくらいのことは言えるだろうと思って、この人にこれから一日置きに
来るようにしてくださいと言うつもりで。マクシンはそれを聞いて「やめなさいよ」
と。(笑い)「誤解したら大変ですよ」と。でもできると思って丁寧に言った、この小
父さんに。すると「はいはいはいはい」と言って、それっきりでした。(何を)言った
か分からない。
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竹内:それを運んで来た小父さんは……
ランドール:これで終わりと。(笑い)そして(マクシンに)怒られた。しょうがない。
幸いすぐ冷蔵庫がやってきたのですけど、その間、私は例のお店に毎日行って、氷
を歩いて持って帰るのですよ、10 円分。
竹内:まだきちんと相手に伝えられなかったのですね。
ランドール:ヒンチマン先生の家に住んでいて、そこからタクシーを呼んで、阪急
駅まで行って、電車に乗って行くのですよ。日本ではそのときはふつうでしたね。
自分の車を持つ人はそんなにいないですよ。列車かタクシーが普通でした。で、駅
のすぐそばにそのタクシーの会社があって、受話器をとって回して、阪急タクシー
に「ヒンチマン」というならばタクシーが来る。ヒンチマンさんはずうっと昔から
ここにいますから「ヒンチマン」と言ったら来るのですよ。とっても便利でした。
竹内:(笑い)そうですね。
ランドール:で、あるとき、それは翌年の 1 月か 2 月のころ、冷たい日。末の子の
ウェインは庭で遊んでいる。目を閉じて風に逆らって走るのは楽しいでしょう。ス
ーッと両手を挙げて走るのですよ。
竹内:風を受けて……
ランドール:受けて走っていると、ちょうど家の角に頭をぶつけたのですよ。ちょ
うど鼻の上のところから出血していたのですよ。かなりの血が流れるのですよ。も
う押さえてもなかなか自分で止められない。病院に行かないといけない。まだ 119
番は分からないですよ、110 番は分かるけども。でも救急車を呼ぶ番号を覚えてい
ない。阪急タクシー。(電話番号を)回して「ヒンチマン」と言ったら、何と相手はい
まのところ空車はないと言っているじゃない。困った。そのときその日に日本語学
校で学んだひとつの単語が浮かんできました。「すみませんが、私の子供は頭が故
障してます」
竹内:(笑い)でも……
ランドール:(笑い)通じた。やがてタクシーが来る。もう運転手さんは笑いを押さえ
ながら(笑い)迎えにきたのですよ。でも子供を見たらすぐ分かって、大急ぎで病院に
連れていってくれました。そんなこともありましたが……。あとで 15 年後、沖縄か
らヒンチマンさんのところにお訪ねすることがあったのですね。ヒンチマンさんの
ところに挨拶をするために。電車から降りて、タクシーを待っているとですね、タ
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クシーの事務所にいる人が「こんにちは、頭を故障した子供はどうですか」と笑っ
てたのですよ。(笑い)
竹内:(笑い)よく覚えていた。
ランドール:15 年経っていても忘れられなかったんですよ。そのときには十分に話
すことができて、空車がくるまでこの人とお喋りをしていて、沖縄の生活など話し
ていた。
竹内:ああそうですか、あとでそういう話もあったのですね。面白いですね。
ランドール:またそのころ日本語に対していくらか自信がついてきましたから、い
きなり家に帰るのじゃなくして、市場を回っていくのですよ。
竹内:自信が出てきたから、だんだん。
ランドール:買い物ごっこ。「これはいくらですか?」と。「これは今日のものです
か?」と「昨日作ったもの」「どのくらいもつか?」と、いろいろ聞ける。練習。お
ばさんたちは分っている。いい先生になってくれたのですよ。で、彼女たちも、15
年後にヒンチマン先生のところに挨拶したとき、帰りにその市場を回って行くと、
もう呼び合わせて、あちこちに「ほいほいほい」と。
竹内:ああよく覚えていたのですね。
ランドール:覚えていたのですよ。「どうですか、もう日本語できるか」と。「う
む、できたなあ」と。「上手ですよ」と言われたりして、肩を叩いたりして、おば
さんたち……
竹内:おばさんたちは先生の「先生」だった。日本語の先生。
ランドール:先生だったのですよ。私はちょっと変人だったかもしれませんけども、
そういうふうにして日本語を覚えていって、失敗しながらも覚えました。
竹内:ああそうですか。じゃあそういうおばさんたちが、いい日本人としてイメー
ジされて……
ランドール:ほんとにいい日本人でしたね。
竹内:なにかアメリカのふつうの人たちとも共通するものがありますか?
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ランドール:ありますよ。うちのおばさんたちもいろいろ世話するのじゃないかと
思いますね。たぶんあると思います。まあもちろんそうしているうちに敵の国に来
たという印象は消えてしまった。今度喜んで日の丸を見るのですよ。いいなあと思
って、きれいな旗だと。
竹内:ああそうですか。(笑い)
ランドール:ところが沖縄に来て、またそんなこと言っちゃいけないと分かったん
ですよ。(笑い)
竹内:ああそうですか。でも先入観というか、最初のイメージというのはある意味
では恐ろしいですね。
ランドール:恐ろしいですよ。
竹内:だからほんとうに顔と顔を合わせてコミュニケーションするということがい
かに大切かということですね。いまだったら、たとえば北朝鮮の人たちに、つい悪
いイメージを持ってしまったりするといつことがある。でも、だからこそ実際に出
かけていったりして、言葉を交わすということはとっても大事でしょうね。
ランドール:大事ですね。
竹内:そういうことから平和は始まる。自分から始めて、人と人とが向き合う、そ
ういうことはとても大切ですね。
ランドール:大切ですね。平和学シンポジウム(96年沖縄で開催)のときに基調講演
をされたヨハン・ガルトゥングさんも言ってました。そこで北朝鮮と日本の問題に
触れたんですよ。直接じゃなくして、それを超えるかたちにすればいいんじゃない
かと。女性たちが国と国の境界線を越えて、女性同士として会ってみたらどうです
かと。そういうことをいま思い出しましたけど。ガンディーもそれを大切にしてた
のですよ。あるいはガルトゥングはそれをガンディーから学んだかもしれません。
とにかく大切ですよ。
竹内:ちょっと話が飛びますが、いまのパレスティナの問題。ふだん顔を合わせて
いる人たちがあんなふうに衝突してしまうということはひじょうに悲しいことだけ
れども、なにかふだんのコミュニケーションがもっともっとできていたら、続けら
れていたら、そういう敵愾心みたいなものがだんだん薄れていくのじゃないかと…
…
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ランドール:と思いますね。
竹内:だから教育のなかで小さい子供たちに憎しみではなくて宥和の心、そういう
ものを教育すべきだなと思いますね。
ランドール:本当にそうですよ。
竹内:話が飛んでしまいました。またつづけていただきたいのですけど……日本語
のお話で他にも何かあれば……
ランドール:神戸にいたとき、カナリア・アカデミーというのがあります。
竹内:カナリア?
ランドール:カナリアンスクールと呼んでますど、ほんとの名前はカナリアン・ア
カデミー・イン・コーベ。とってもとってもいい教育でしたけども、沖縄に来て…
…できれば私たちは(軍)施設内へ子供を送りたくないですよ。でもほかに学校はない
でしょう、いい学校。とくに中学生になっている2人の息子がいますからね。長男
は高校生です。中学生のトニー(次男)はやがて、ということを考えるとですね、残念
だけど、久場崎(ハイスクーノレ)に送りました。
竹内:沖縄に来てからですね。
ランドール:沖縄に来てから。でも私らはそれに対してやはり向こうの考えとこち
らの考えは違うでしょう。沖縄に来た目的はそれぞれ違う。それもあります。また
末の子ウェインをですね、OCS に送ることにしたのですよ。で、ウェインは1年い
って2年生になったとき、まだ 1 年生だったときか、とにかく1年生か2年生のと
き、OCS で「おまえの髪は長すぎる」と、「散髪せよ」と校長先生に言われて。
竹内:当時ロングヘアーは……
ランドール:でもそのときウェインはべつにロングヘアーではなかったのですよ。
すこし(肩に)触れるかもしれません。でも長髪じゃないですよ。お兄さんたちは長髪
にしていますけど、久場崎に通っているかれらは。でもウェインはかなりニートに
していました。われわれはえっと思ったのですよ。これが長すぎるかと。でも散髪
したのですよ。(ところが)また言われたのです。変だなと思って、これ以上この子を
丸坊主にしちゃいけないと思って、校長先生に会いに行きました。ルール(校則)があ
って、厳密にすべての者は 2 インチくらいでないといけない。でも学校を歩いてみ
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ると、そういうふうに散髪している生徒はいないですよ。途中までのもありますし、
ほとんど肩にくるのもあります。うちの子供だけ(例外扱い)だということ。びっくり
したのすよ。これ以上刈れないから。
竹内:これは嫌がらせですか?
ランドール:うん分からない。そのときは分からない。とにかく退学させられたの
ですよ、子供は。大変でしたね。子供は納得しないでしょう、もちろん。マキシン
は写真を撮って、いまでもどこかに残していますけど、これくらいの髪で学校から
追い出されたと。でもやっぱりルールを守らないやつは出ないといけないというこ
とで……
竹内:おかしいですね。
ランドール:おかしかったのですよ。またキングスクールに行きましたけど。シス
ター・エリザベスが校長先生していたのですよ。シスター・エリザベスはなんとな
く向こうのことが分かったかと思いますね。5、6 年くらい経ってから分かりました。
その当時の理事会はすでに M バプテスト教会の人たちが中心であって、もともと隣
人教会のものだったのですが、でも隣人教会の理事が尐なくなって、M バプテスト
教会の人たちが権力を握ったときだった。私なんかそれは分からないですよ、沖縄
に来たばかりです。子供に基地外の学校でいいのじゃないかという判断だけで行っ
たんですよ。で、この学校はだいぶ問題に陥って困っていたのですよ。そしたら隣
人教会の人が私と B 先生と M 先生の 3 名と会って、南部バプテストと北部バプテ
ストのお助けをお願いしたい、困っているから。だいぶ問題が起こっている。」そ
う言われたので、私は「協力したいけども、私自身はこういう(嫌がらせの)経験があ
りますから、どうやって助けたらよいか」と聴き返したのですよ。その人はずばり
と言うのですよ。「あなたはこの OCS のチャペルに呼ばれてお話をした。」私自身
は何を言ったか記憶はないのですけど、たぶんキング牧師の話をしたでしょう。
「山
上の垂訓」。キング牧師に対して悪口を言わない私でしょう。たちまち理事会で、
こういう思想をもっている人がこの学校に入り込むとすれば、どのくらいの混乱が
超こるかと。どうにかしてこの影響を学校から追い払おうと。その人自身は(後で)
お詫びしてくれたのですよ。「たいへん申し訳ない。自分自身はそのとき理事だっ
た」と、「恥ずかしいけども、そんなことがあったのですよ」と。
竹内:その人は理事だったけれども力及ばず……
ランドール:がんぱったんですけど、力が足りない。でもそのときウェインにも説
明したけどもウェインはもう涙を浮かべながらそれを聞いてたのですよ。そういう
ことか、と。
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竹内:子供に対してもそういうかたちをとるというのは、ずいぶん……
ランドール:異常ですよ。だけどもいま振り返ってみると、沖縄はだいたいそんな
ところですよ。やはり軍側にはですね、平和とか平和主義とか、「山上の垂訓」と
か、ガンディーとかキングとか、その一言でもピリピリするでしょう。
竹内:そうですね。
ランドール:ベトナム戦争の最中で激しい反戦運動が日本側にありますね。アメリ
カ人は参加してない、私らが来るまでは。でも私たちは堂々と参加する。それもあ
ったでしょう。それも理事の問題になったそうですよ。ウェインをどうするかと。
この親父はハンストに参加するのじゃないか、といろいろあったみたいですよ。こ
の親父は子供がここにいることをきっかけにして、この小学校を駄目にするのじゃ
ないかと。
竹内:危険視されていたのですね。
ランドール:ですからかれらも怖がっていたことは分かることは分かりますよ、い
まなら。
竹内:でもアメリカにいてボードから派遣されましたね、日本に。その時点ではラ
ンドール先生がキング牧師やガンディーのことを語る牧師だということは知らなか
ったのでしょうか?
ランドール:知ってたのですよ。来る前に沖縄に行くかしないかといろいろ話があ
りましたね。で、その中で私はすでにベトナム戦争に反対してます。いろんなデモ
に参加している。日本に行ってもそれは変わりません。
竹内:そのことを知っていて……
ランドール:犯罪を超こさないかぎり、法律を守る範囲のなかで行動すれば、それ
は自由ですよと。
竹内:それはとても寛大で……
ランドール:ところが、あとでこの責任者が退職され、新しい人がそこに就く。新
しい人は毛沢東が中国に入ったときに追い出されて、命拾いして中国から逃げてき
た宣教師だった。すごく反共の気持ちがあった人が責任者となった。ギフィン女史
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です。例のグリーンブック(ランドール牧師が宣教師職を解任されたとき、沖縄バプ
テスト連盟に所属する 5 名の牧師の連著で提出された抗議声明文)にギフィン女史の
名前が出ますけど、ギフィンさんは共産党にぶつかって大変な経験をした。自分は
大好きな中国から出ざるをえない経験をしたから共産(主義)ということに対してと
ってもとっても……。だから私らみたいな人は「共産(主義者)」というふうに同じペ
ンキに色分けされたのじゃないかと思いますけども。
竹内:でも先生の考えは、むしろ政治的な共産主義でなくて、まあ政治的にいえば
リベラルだし、しかも政治的な運動をなさっているのじゃなくて、平和のために、
あるいは人間の生き方として和解を求めていくというような……
ランドール:そうですよ。
竹内:ところがそういう生き方あるいはそういう行動が、悪い意味で政治的な動き
として見られてしまうというのはずいぶん狭い考え方ですね。でもある意味でそれ
くらいピリピリしていたということですか。
ランドール:まあかれらの立場はわかりますけど、でも許し難いものがあるとすれ
ばですね、そのとき私に来ないで、子供を叩くでしょう。それはけしからんですよ。
とっても大変なことですよ。もしそんなことならば、「あなたはこんな思想(の持ち
主)ですから、この学校に子供を遣らないでちょうだい」と……
竹内:はっきり言ったほうが……
ランドール:まあどうなったか分からないですけども、とにかくそれが筋でしょう。
竹内:そうです、はい。そうですね。
ランドール:ほんとうにクリスチャンの兄弟姉妹という言葉をもつならば。
竹内:アメリカ人に対するイメージからいえば、そのほうがストレートで……
ランドール:いまの争いはアメリカ人同士でしょう。でもたとえばその中にセント
ラル・バプテスト教会の会員がいましたね。彼女は学校の先生をしていたのですよ。
彼女も首にされたのですよ。(彼女の牧会者である)スペンサー先生もリベラル過ぎる
と……
竹内:リベラルであることがもうすでに……
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ランドール:でもスペンサー先生はなんにもリベラルじゃないですよ。でも向こう
から見ればリベラルかもしれない。M バプテスト教会はきわめて根本主義(原理主
義)者的な教会だったでしょう、聖書の見方も。かれらからみると、スペンサーさん
でさえ危ないから、ならばランドールならなおさら大変だろうね。あとで私とスペ
ンサー先生はそれを話して笑っていたのですよ。「やあ俺もリベラルになったか」
とかれは大笑いをしてたのですよ。(笑い)かれも分からなかったのですよ、自分の解
任が。彼女はかれのところにいって、もう泣いていて、なんで首にされたか。その
理由もはっきりしてなかったようですよ、そのとき。あとで問題があったとき、か
れらが告白してお詫びしたのですよ。で、うちの子供とセントラル教会のひとりの
会員がその学校から追い出さたんですよ。
竹内:これはアメリカ側が当時日本宣教したときの歴史としては、はっきり言って
汚点だと思うのですけど、でもいまから振り返ってそれをきちんと整理するという
ことも歴史的に意味のあることかもしれませんですね。
ランドール:と思いますよ。
竹内:どなたかそんなことをやってらっしゃる方はいるのですか?
ランドール:いないでしょうね。
竹内:でもそうことをはっきりしておくことは後のために、恨みからというのでは
なくて、後のために歴史として残すことは大切でしょうね、冷静に。
ランドール:大切ですよ。そういう意味でこの隣人教会の牧師は偉いと思いますね。
まあだいぶ後ですけど、とにかく言うのですからね。はっきりします。こういうこ
とがあったと。
竹内:組織的な動きがボード側にあったのでしょうか?
ランドール:分かりませんね。それを知りたかったですよ、一生懸命。宣教師館に
座り……(解任理由を)明らかにしてくれれば、その日に(宣教師館を)出ると言ったで
しょう。
竹内:ああ、そうでしたね。
ランドール:でも、いまも分からない。
竹内:その辺りの話はまた次回じっくりお聴かせください。
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で、沖縄にいらっしゃったのは 1968 年でしたね。何月か分かりますか?
ランドール:68 年にですね、まあ見物のために来たのですよ。68 年、3 月に来た。
ただキング牧師が暗殺された日は沖縄にいたのですよ、それは覚えていますね。4
月 4 日です。でも何日に来て何日に帰ったか分かりませんけど、でもそのときいろ
んな人に出会ってですね……
竹内:ああ大城先生とか金城先生とか……
ランドール:……に会ってですね、沖縄に対する見る目が変わってきていたその時。
住みにきたのは 69 年です。6 月。6 月の何日かは覚えていませんが。
竹内:で、前田(浦添市)にある宣教師館に入られたのですか?
ランドール:いや、最初はコザ(沖縄市)の近くに 2 週間くらい、どこかの空き家
を紹介されましたけども、一時的に。そこから那覇の泊に、留守番みたいなかたち
で。また転々と変わってくる。あとは石嶺(那覇市)に、教団が 5 ヵ年の契約で借
りていて、教団関係の宣教師が沖縄から去ってまだ 2,3 年は残っているから、その
間そこに住む。石嶺に住んでいたそのとき、前囲に宣教師館を建てたのですよ。
竹内:荷物なんか大変だったのじゃないですか?
ランドール:もう転々と動いているだけですよ。
竹内:落ち着かないですね。
ランドール:落ち着かないですよ。でもおかげでだいぶ沖縄のこと覚えましたね、
あちこち動くのですからね。いろんな地域に住むでしょう。中部に行ったり南部に
行ったり、また違うところに。盲学校の近くや……いろいろ沖縄を回って……
竹内:そのころの沖縄の社会とか沖縄の人間に対する印象とか、とくに何かありま
すか?
ランドール:まあたくさんありますけども新垣勉さん。そのときかれは盲学校の学
生でした。高校生。で、弁論大会に出る。私らは首里教会の城間(祥介)先生と一緒に
働いている。「この英語のうまい勉君が弁論大会に出るから、かれの英語の発音な
ど指導する人がいるならば紹介してちょうだい」と城間先生が私を紹介するのです
よ。で、そこで勉君との付き合いができて。びっくりしましたね、かれの頭の良さ、
心の良さ。沖縄で優勝して、また九州で、全国(大会)までいけたのですよ。全国(大
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会)で勝ったか覚えていないけど、とにかくだいぶいってましたね。大きなニューズ
でしたね。若い、目の見えない人が、こんなに上手に英語をしゃべる。で、勝った
ときのその晩の祝いですよ、それは印象に残っています。学生たちのお祝いがあっ
て、のちにまた盲学校の先生たち、私も入れて、お祝いがある。どんなお祝いかと
いうとですね、ござを敶いて一升瓶を真ん中に置いて、缶詰の魚をその場で開けて、
カンオープナーでこれを。また箸ですぐこの缶から、ちびりちびり泡盛を飲んで、
缶から魚を食べた。
竹内:ああござを敶いてみんなでぐるっとそのまま座るわけですね。
ランドール:昔風の。そのときの石嶺の道もですね、きれいな道ひとつもないです
よ。雤が降ると、場合によって家に帰れないですよ、道が悪いから。
竹内:そんなにひどい道だったのですね。
ランドール:ひじょうに田舎風のところ。今度また前田に移りますけども、前田の(宣
教師館の)2 階のベランダに、子供たちが寝てから私と家内とふたりベランダに座っ
てお茶を飲んで、場合によって缶ビールを飲みながら下を見てるでしょう。下を見
てるのはいまの「伊藤園」。そしてもっと下の坂田の大きい街になってるでしょう。
竹内:いい眺めですね。
ランドール:ええ、いい眺めですよ。下にまた西原がありますね。そのときの楽し
みは、時々車が通るのですから、あれを見るのですよ。
竹内:そんなに尐なかったのですか?
ランドール:ほとんどない。そして下に、西原に行く車がとってもとっても珍しい。
竹内:先生も車は持っていない?
ランドール:持ってたのですけども、そのころ車を持っている人は……
竹内:尐なかったのですね。
ランドール:ちょうどそのころ日本人牧師が車を持ち始めます。どんどんと入って
きて、まあ復帰とともに経済が変わる。そのときまではテレビ、車を持っているの
は宣教師。またどろどろ道でした、西原へ行く道は。田舎、畑でしょう。周辺に明
かりがない。そのときは月見会をもちたいと。
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竹内:じゃあ星もきれいに……
ランドール:きれいですよ。いま公務員住宅などあるでしょう。それも(当時は)ない
ですよ。
竹内:ああそうですか。何もなかったんですね。じゃあポツンと宣教師館の建物が
あったのですか?
ランドール:いや、私らの下に金城先生、真ん中にあと 2 つの家が、その 4 つ。
竹内:ああ 4 軒ぽつんぽつんとあった。
ランドール:それだけでした。そこに下っていく道も悪いですよ。もう上って来れ
ない人がいたでしょう。
竹内:急坂で。
ランドール:ひどい道だったですよ。道の左の半分は西原、右の半分は浦添です。
ハブもよく通りました。2 メートルくらいの。よく這ってきたのですよ、お墓がい
っぱいありましたしね。
竹内:そうですか。
ランドール:いま西原入り口から仲間まで新しい道ができてますけど、その道もな
い。そこはぜんぶ山でした。またいまの浦西のところは大きい山でした。その山を
平にして、大きい街をつくっているでしょう。
竹内:ああそうですね。とくに高速道路ができたころにかなり地形が変わりました
ね。
ランドール:その当時、東シナ海を見るためにですね、屋上にいかないと見えない。
竹内:山があるから?
ランドール:山があったからです。いま宣教師館の地面に立つと見えるんですよ。
それほど山が削られた。完全にもう地形が変わってますよ。すごい田舎に住んでい
た。
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竹内:そう思うとランドール先生は長いこと沖縄におられて、若い人が知らない沖
縄も先生は知っている。
ランドール:どこかに残っていますね。
竹内:しかも復帰前にいらっしゃったから、沖縄が騒然とした、歴史的な転換期に
いらっしゃった。先生は公民権運動のときにも(そこに)いらっしゃったし、沖縄が復
帰する大事な時期にもいらっしゃった。ある意味で大事な歴史の転換期によく……
ランドール:だからあっちこっちに観察するために送られたのじゃないかと、時々
思いますね。
竹内:そうですね。
ランドール:その意図はなかったけれども、結局そうなっていますね。
竹内:はい、分かりました。……ところで、ランドール先生のお仕事としては学生
伝道でしたね。
ランドール:そうでしたね。
竹内:最後にその辺をちょっと聴かせていただければ……
ランドール:学生伝道といえば意見の相違がありますね、私とほかの牧師の間に。
かれらが考える学生伝道というものは、宣教師はどこかに伝道して、その人はクリ
スチャンになって自分の教会の会員になる、あるいはどこかの教会員になると。す
ぐにも効果を期待してたかと思う。私も大学生がクリスチャンになって教会の会員
になってくれればとってもとっても喜びますけれども、意図的な仕事はしないです
よ。
竹内:そうですね。
ランドール:私はクリスチャンとしてそこに行って聖書を持っている。聖書研究会
も一緒にやっている。でも「あなたはクリスチャンになりなさい」とかなんとか、
そんな言い方をしなかった私ですね。おそらく日本人牧師にとっては、あんまりい
い宣教師じゃなかったかと思います。ところが講壇に立って話をすると、わりかし
日本語ができるやつですから、それでカバーしてるのじゃないかと。(笑い)
竹内:ああなるほど。ちょっと日本側からの期待からは逸れていたところがあった
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ということでしょうね。
ランドール:そういう宣教師がいるかと思われたかもしれません。おそらくかれら
は首をひねってみているのじゃないかと、いま考えると。
竹内:もっとパワフルにどんどんクリスチャンを増やしていくという……
ランドール:でも若い私自身はですね、当然理解されていると思っていたのですよ。
竹内:いや理解している若い人たちはたくさんいたのじゃないでしょうか。
ランドール:若い人たちがどんどんどんどん集まってくるのですよ。
竹内:そうですね、はい。
ランドール:オープンハウスなど覚えているでしょう。それとアジア研究会。
竹内:ぼくもすぐに先生に共感しました。むしろそういう先生だからこそ共感した
といってもいいので、すぐにバプテスマを受けるかどうかと迫るような先生だった
ら、かえって逃げ出していたかもしれません。
ランドール:と思いますね。まあ、それは私の伝道に対する考えをですね、オープ
ンハウスの触れ合いなど思い出していただければ、それこそ伝道だと思いますよ。
竹内:そうですね。オープンハウスのそういう働きなどもお聴きしたかったのです
けども。また次回に聞かせて……
ランドール:オープンハウスとアジ研(アジア研究会)
竹内:そうですね。じゃあ次回はその辺りからお話をお願いいたします。
ランドール:はい、わかりました。
竹内:ありがとうございました。
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第5回
オープンハウスとアジア研究会、宣教師職の解任
2000.11.22(水)
竹内:今回は第 5 回目ですけど、前回の沖縄時代のつづきということで、まずオープン
ハウスの話をしてらっしゃったのでそのあたりから、アジア研究会との関係なども含め
てお話しいただきたいと思います。
ランドール:このオープンハウスは私らがそれをつくったというよりも、ごく自然に現
れてきたのです。最初の頃は首里の琉球大学と沖縄キリスト教短期大学の間に学生セン
ターがありました。高いところにあったものですから、学生はそれを「やぐら」と呼ん
でいます。その「やぐら」で、私たちバプテストも含んで協力して。そのころは教団の
建物ですけれども、また教団の牧師がそこの主事をやっていた。で、大学伝道という名
目で大学宣教協議会というものをつくって、それに属するのは教団、バプテスト、それ
からルーテル教会、聖公会、カトリック。
竹内:超党派ですね。
ランドール:超党派です。私たちはその建物を利用してたのですよ。この建物は台風の
被害を受けて、後ろは全然使えなくなっていて、建物自体は古くなっている。この建物
を教団の方が買って、尐し作り直して、また、キリ短大の建物として使うという動きが
ありました。で、私たちバプテストのなかで聖書研究会、ラジア・ウィリアムス、学生
たちはそれをラジアと言ってましたけど、ラジアは時々うちに来て夜遅くまで、あるい
は徹夜していた場合もありました。大城宜武、いまキリ短大の先生、その人たちが学生
の時代の話です。もう 2 時 3 時ぐらいになると私と家内は寝ちゃうのですよ。宣教師館
の大きい教室があります。起きたら彼らはそのまま寝込んでいたのですよ。そんなこと
が時々ありました。で、今度石嶺(那覇市)から前田(浦添市)の宣教師館を建てて、
そこに移って、また大きい部屋があります。人が集まるための部屋を作ったのですよ。
それにつながっている畳の部屋もあります。両方開けると相当大きいホールになります。
まあせっかくあるからと思って、私たちは毎週土曜日、学生センターも使えなくなって
いるから、またそのころ今みたいに喫茶店とかコーヒーショップとか、そういったもの
はなかったのですよ。学生が簡単に集まるところはないですよ、その時代ですよ。うち
でコーヒーをつくって、土曜日のオープンハウスをやろうと。バプテストの学生だけじ
ゃないですよ、いろんな学生、教会以外の学生も来ていると思いますね。毎週土曜日は
オープンハウスに来て、べつにテーマを決めて集まったのじゃなくして、かれらが持っ
ていたものを話し合った。けっこう楽しかったのですよ。毎週土曜日の晩にそれをして。
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瀬良垣さんという人、首里教会の会員でしたけれども、彼女は大学を卒業して東京に行
って、自分のところに小さなオープンハウスを作ったほど、学生たちに人気がありまし
たね。
竹内:いろいろ議論が沸騰して楽しい場所だったのですね。
ランドール:楽しかったのですよ。そのころの政治的な問題とか、あるいはお化けの話。
とくに風がフイフイフイ、ピューピューそんな音を聴くと、だんだんなんとなくお化け
の話が出てきて、その晩は誰も尐しも寝ない。
竹内:なにかキャンプをやっている感じ。
ランドール:そういう感じです。そうしているうちに 1976 年だったでしょうか、フィ
リピンのイロイロ市でバプテストの世界宣教会ですか、とにかく北部バプテストとの関
係をもっている外国のフィールドの人たちの代表者たちがそこで集まった。それが 76
年の 1 月か 2 月ごろでした。城間(祥介)先生は連盟の理事長で、私は城間先生と一緒に
行って、通訳の勤めをした。
竹内:説教で一度、先生がそのことに触れられた。
ランドール:楽しいながらも大変大きい問題に気付きましたね、飢餓問題。フィリピン
もそうだけども、世界にもやはり十分に食べてない人、またその食べてない理由がある。
社会的なこと、経済的なこと、政治的なこと、さまざまの角度からそれを話し合って、
教会はどういうふうにしてそれに対忚するかと。それはなかなか良い教育だと私と城間
先生は、まあ途中からその語が出たと思いますけども、バプテスト連盟の関係の若い人
たちもそれと同じような経験をすればいいんじゃないかと。そうするとその夏でした、
76 年の夏だったはずですね。その計画を立てて、またバプテストの世界がやっている
ものを学んで、学生の指導もするから、ボードからけっこう大きい援助がありました;
ね、半額くらい。私と 7 名か 8 名くらいの学生、学生だけじゃないですよ、なにか焼き
物をやっている人もいましたね。
竹内:松田さん?
ランドール:松田共司さん。儀間さん。そういう人たちもこの話を聴いて来たんですよ。
そのころ松田さんたちが勤めていた大嶺さんの工房はうちの近くでした、石嶺。
竹内:ああそうですか。後で読谷に移られたのですね。
ランドール:そのうち私たちは石嶺から前田に移ってますけども、松田さんたちともう
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交流しているから、かれらは時々オープンハウスに来るのですよ。泉川さんもいました
ね。かれらとフィリピンに行って来ました。
竹内:7 名か 8 名で……
ランドール:7 名か 8 名、名簿を見ないと分からないですけども……グインバルという
街に行って、バプテストのキャンプがあります。そこで共同生活をする人たちがいたの
ですよ。その共同生活を送っている人たちは、たとえば地主が好まないことを言ったり、
あるいは労働組合に関わりをもったり、そういったものが理由になってそこから追い出
されますね。そういう人たちが集まって共同生活を。お互いに助け合うということです
ね。
竹内:これは教会の共同体ですか?
ランドール:教会は提供して、またリーダーをそこに置いておきますけども。フィリピ
ンの牧師や信徒、そしてアメリカからブラウン先生も来てましたけど。ブラウン先生は
黒人の市民運動に関わってきた人だった。彼はアメリカで黒人たちと共同生活をする担
当の経験もあった。いま思い出してみるとそんな話があったと思いますね。そういう経
験をもった人たちが中心となって、彼らは共同生活をして、そして社会の問題に関わっ
ていくいろいろな企画をしていたかと思いますね。で、飢餓問題を中心に話してたので
すよ。ミンダナオの人も来たし、またマニラの人も来ました。若い人たちがこんなに集
まってくるのは珍しいことですから、向こうから大歓迎をしてくれたのですよ。まあそ
れが最初で、たぶんその翌年は台湾だったと思いますね。その次はタイそれから韓国と
いう具合にして、毎年ひとつの国に行ってその国のことを学びます。最初私と城間先生
が行って、次からは 1 人か 2 人一度行ってみて、むこうの教会の人たちと連絡して、ホ
ームステイのかたちにしたりしてその生活のなかに入って、その国のことを学びました。
それでアジア研究会が誕生するのですけど、アジア研究会の集まりをオープンハウスの
場でやってたのですよ。ですからもはやオープンハウスとアジア研究会を分けることは
できなくなったのですよ。
竹内:オープンハウスの実態はほぼアジア研究会だったといってもいいくらい……
ランドール:逆なことも言ってもいいですよ。(笑い)
竹内:(笑い)ああそうですね。そのくらい一体だった。
ランドール:それに近づいてくると集中的に行く準備をして。行かない人たちも一緒に
準備するのですから。
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竹内:そこで学ぶことができる。
ランドール:学び合う。そして帰ってから報告などやって、また落ち着いて、オープン
ハウスに戻ってきた。でもかなりアジアの刺激があったと思います。
竹内:そうですね。実際に出かけていくというのは……
ランドール:無理のないかたちで、ここでもっていたのですからね。べつに成果、結果
などこちらは指導しなくてもいいと思いましたから。
竹内:それぞれが持ち帰って自分のなかで消化していく。
ランドール:消化ですね。ただひとつだけ、最初からアジア研究会のなかで、アジア研
究会のメンバーは、自分はアジア人であり、アジア人としてこのアジアのなかで自分自
身の可能性を見いだす。それは各自が自分はアジア人だという認識をもって行動する、
そして行くときにいつも、みんなそれぞれ自分白身の課題を銘記すること。いろいろ本
を読んだり話し合ったり、さりげなく行くのじゃなくして、勉強のなかで自分自身の課
題はこれだと、それを追究します。
竹内:その視点から問題を捉えていく。
ランドール:松田ならば当然焼き物。
竹内:ああなるほど具体的にそういうことなのですね。
ランドール:はい。また福祉関係の仕事をする学生の場合、福祉関係をどういうふうに
そこでやっているか……
竹内:そこから広いものがまた見えてくるのでしょうね。
ランドール:はい。泉川君ならばやはり民俗学の立場からそこを見ていて……
彼らはいまもときどき集まって、尐なくとも正月 3 日に慣例になっていますけど、相
当集まります。もう孫もできているから。(笑い)アジア研究会は、もうそんなに集まら
ないけど、まだ生きてますよ。
竹内:アジアとの連帯というのは今でこそ盛んに言われますけども、当時はまだ初めの
ころだったんじゃないですか?
ランドール:そうですね、はい。この間連盟はフィリピンに行って、あちこち回ってま
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したね。松田共司さんは何か 20 年前のことを思い出しただけだと言ってましたね。な
んか繰り返しだと。
竹内:じゃああまり発展がない?
ランドール:でもいまやっていることはこれ(アジア研究会)をベースにしているわけじ
ゃないですよ。例の問題(宣教師職の解任)が起こったときにですね、バプテスト新聞の
どこかに出たと思いますけども、(当時の)理事だったか、あるいはその編集委員だった
か、とにかく沖縄バプテスト連盟とアジア研究会とは関係ないと、はっきり切断しまし
た。ですから意識してても、それをカバーして、新しいものとしてやっているのですよ。
まあいいでしょう、良いことをやれば、別に。
竹内:でもいまのお話ですと、先生はボードからいろいろ援助もあったのですよね。む
しろボードはその時点ではサポートしてくれて……
ランドール:大いにガンバレガンバレと……
竹内:ですよね。しかもアジアと沖縄の青年との連帯というのはとても意味があります
ね。それをわざわざ 0BC(沖縄バプテスト連盟)が切るのも変ですね。ちょっとおか
しいなという感じがしますね。
ランドール:あとでこの話はまたつながりますけれども 1978 年の夏ですが、翌年韓国
に行く予定をしてた。ギフィン女史(アメリカン・バプテスト外国伝道部アジア地域担
当主事)が沖縄に来て、宣教師館に泊めた。宣教師館に泊めてあげるというのは別に珍
しくない。私たちの家に来たのですよ。いろいろ問題も話して。でもそのうちアジア研
究会の人たちがうちに来て、ギフィンさんといろいろ話して、また援助をもらうことを
決めたんですが、もうすでに私に代わる宣教師を選んであったのです。そういうことが
後で分かりました。
竹内:あ、活動自体はとても評価するけれども、そこに先生が入っていることについて
は、ちょっと考える余地があるみたいにボードは思っていた。
ランドール:そのときマリ先生ご夫妻はですね、沖縄に宣教師として行くことになって
いました。その理由は、いまそこにいる宣教師(ランドール先生)が国に帰るから、代わ
りに行ってもらうということでした。後で沖縄に来て驚いたのはマリ先生と私たちでし
たけど。(笑い)
竹内:ああそういうことなのですか。
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ランドール:はい。もうすでにマリさんたちを選んで、私たちに代わって行くことを決
めながら私たちの仕事を支えるのですよ。
竹内:はあ、ちょっと複雑……
ランドール:ですからどういうふうにして理解すべきか、私もさっぱり分からない。…
…とにかくそういうことがありましたね。ぎりぎりまでやってたのですよ、援助ももら
ったんですよ、翌年。
竹内:援助はしっかり頂くことができた。
ランドール:計画もすでに入ってたから。でも、そのなかの何かひとつの手紙だったと
思いますけど、「これは宣教師としての活動に対する最後の援助になる」とか何とか、
そういう通知がありましたよ。それは翌年に入ってから。でも 78 年においてはとって
もとってもいいものだった。タイにも行って来て。
竹内:まだランドール先生ご自身には、そういうギフィン女史の心のなかにあるものは
全然見えてないわけですね。一生懸命アジア研究会あるいはオープンハウスをなさって
いた。
ランドール:オープンハウス、アジア研究会でやっていることに対して、むこうはとっ
ても忚援をしてましたね。しかし私たちとギフィン先生の間に意見が合わないというこ
とも分かりました、その時。
竹内:ああそうですか。
ランドール:特に私らが米人の教会について(問題)提起してます。この持ち方はだめだ
と。もう数年前から言ってるから。
竹内:そういう話を一方でしていて、フィリピンなどアジアに出かけることについては、
それ自体は評価していた、ということですね。
で、アジア研究会の話をもう尐し聴かせていただきたいのですけども、さっきそれぞ
れの個人のなかで消化されるという話があったのですけど、先生の印象として、アジア
研究会の意味、意義、いま振り返ってどんなことが言えるのでしょうか?
ランドール:まあ多くの人のことは分からないのですけど、私が見るところ、彼らは世
界を見る目をそこで育てたと思いますね。泉川さんは外国関係、とくにアジア関係の人
たちのことを意識している、読谷村の民俗資料を担当するところで。松田さんたちは、
いま自分自身の工房で毎年タイの人たちを招いて年行事のなかのひとつとして、大きい
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ものをもってますよ。
竹内:じゃあずっと地道な継続がなされているということですね。
ランドール:そのなかにたとえば知花さん、教団の会員で、彼は外国に行く活動に一度
も参加してない。オープンハウスにも一度も来ていないと思います。あるいはクリスマ
スかなにか特別に来たかもしれませんが、でも一般には来てない。だいぶ後で、ここ
1O 年の間にアジア研究会のメンバーになりました。いま彼は代表としてまとめ役をや
っています。彼もやはりアジア研究会を通してアジアを見ている。
竹内:とてもいい場所だったのがアジア研究会だったのですね。
ランドール:だと思いますね。いまからまた影響を社会に及ぼすということを確信して
います。
竹内:いまアジアとのいろいろ経済とか政治とか、上の方で言っていますけども、いま
も抑圧されたり虐げられたりしている人たちと連帯することが……戦争とか何かによ
って最後にいちばん苦しむのはそういう人たちですから、そういう意味では「民衆の安
保」という発想で、アジアの人々とわれわれとが顔を合わせて連帯するということはと
てもいいことですね。
ランドール:アジア研究会の出発点はそこでしたからね、抑圧された人たちの仲間で。
竹内:だからそういう希望がわいてくるようなことが、すでにオープンハウスでなされ
ていたというのはとてもいいですね。
ランドール:まあ小さいことですけども、人数も尐ないけれども、それにしてもその人、
その人の子供、そしてその人の友人を通じて、尐しずつ広がると思います。
竹内:若い人たちの中には、ベトナムに出かけていって、そこで子供たちと交流をもっ
ている方がいますけども、そういう動きがあちこちで出てくるととてもいいですね。大
きなところで、わけの分からないところで、軍事的な「安全保障」というような形じゃ
なくて、私たちのなかから「民衆の安保」の考えが生まれてくる。その時先生のガンデ
ィーの研究というか、ガンディーへの共感というものが意味のあるものとして出てくる
んじゃないかと思いますね。
ランドール:出てくるならばまあ……
竹内:アジア研究会についてはそのくらいにして、もうひとつその時期の大きな事件は、
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いまちょっと先生のお話のなかにも出てきましたけども、ボード(アメリカン・バプテ
スト外国伝道部)から先生が宣教師としての役割を解任されるという大きな事件があり
ました。当時「ランドール宣教師問題」といわれたのですけど、そのタイトルですとい
かにも先生個人に何か問題があるかのような感じがしますので、「宣教師解任問題」と
して、解任ということが何故起こったかということをいちばん大きな問題として、お話
をうかがいたいと思います。まず問題の発端から、ご自由にお話ししていただければと
思います。
ランドール:さっきギフィン女史が 1978 年に沖縄に来て私らの家に泊まったという話
をしました。で、ギフィン先生は沖縄から出られてフィリピンに行きました。そしてフ
ィリピンから手紙を書いた。その手紙は何日か、資料を調べてみると分かると思います
けど、この手紙の内容というのは、関西に行けばいいんじゃないかと。関西にはまた宣
教師が必要だという具合にして、それは 1 つの手紙か 2 つの手紙か、とにかくこのやり
取りがその秋にありましたね。この手紙があってびっくりしたのですよ。私たちはいま
沖縄で、たとえばアジア研究会などをしている。いままでの教会活動と尐し変わったも
のでしょうけども、そこに意味があると思って、また教会においても牧師らといい関係
をもってるから、伝道もつづけたいと。大学もできたでしょ、沖縄国際大学。ここでも
非常勤の先生をしてたのですよ。そのお金をそっくり教会に回してたのですよ。そうい
う関係をもっているから簡単に出られない。宣教師が必要というだけなら、ほかの宣教
師を呼べばいいのじゃないかと。(すると)相手は尐し強い調子に出てきましたから、私
も何故かと聞くのですよ、手紙で。で、そこで「軍との不一致」、そしてそれに関係す
るだろうと思うけれども「人間関係の欠如」。その 2 つのことが理由ですよというふう
な手紙が、それは翌年の……
竹内:ここにあるグリーンブック(「信仰と良心の自由のために―ランドール宣教師問
題に関する声明―」)に載っているものですけど、1978 年 10 月 26 日付ですね。
ランドール:そんな時ですかね。で、そのころボードの全体の責任者はジャンプ(Jump)
先生。かれが東京におられることが分かりました。彼のところに飛んで行きましたね。
「これ(手紙)が来ている。(しかし)私たちはこういう理由で沖縄を出たくない」。そし
て軍との関係では、「何故こんなことを書くのか」と。かれは「分からない、聴いてい
ない、詳しいことは。ギフィンさんが私たちに移動してほしいと思っていることは分か
っているけども、詳しいことは分からない。」
で、夕食をいっしょにして、「自分自身の立場を彼女に十分に伝えれば、大丈夫じゃ
ないか」と、そう答えられたのですよ。まあ半分くらい安心かな、完全に安心して帰っ
たわけでもないのですけども。とにかくこちらが言うことを伝えるならば、この問題は
それで終るのじゃないかと。
竹内:先生もそのくらいに思っていた。
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ランドール:はい、そのくらいに思っていたのですよ。でも帰ったらまた同じものが繰
り返しきて。また関西ということで、私は関西に電話しました。関西宣教師……そのと
きの宣教師の主事はヒンチマン先生じゃなくて……
竹内:後任の方ですか?
ランドール:後任の、その人のオフィスは東京にあって、全体の主事の仕事をしていた。
その人と電話しました。「関西教区に宣教師が要るということで、私に行ってほしいと
いう手紙がギフィンさんから来ているが、どういうことか」と。(すると)「自分自身は
関西に新しい宣教師を招くという話は聴いてないけども、ギフィンさんがそうしてほし
いと思えば、きっかけを作ってあげるよ」と笑ってたのです、彼は。「とくにヴィルと
マキシンならば喜びますよ」と彼は言う。「でもいまのところ関西にその動きはない」
と。動きがあれば彼は責任者ですから、当然彼がボードとの通信の役割をするのですか
ら。
竹内:特に関西側から、先生の関西での活動を希望したということはなかったわけです
ね?
ランドール:私だけじゃなくして、新しい宣教師を呼ぶということさえないと。
竹内:はは……それではいわゆる左遷みたいなことですね。先生をとにかく沖縄から左
遷して関西へ遣ると。
ランドール:また私らが行きたいと思えば行けるだろうという前提に立っていたかもし
れませんね。
竹内:先生は関西がお好きではありますから。
ランドール:好きではあります。また友だちもいますし、働きやすいという、そういう
簡単な期待を持っていて。そういうことならばランドールが飛んで行きますというふう
に期待されたでしょう。だけども「軍との不一致」ということが何に基づいているのか。
手紙に書いても、ジャンプさんに直接会って聞いても返事がない。それはほんとうに大
きい問題ですよ、「軍との不一致」。
まあ「人間関係の欠如」は……私らは対立することは対立しますよ、時に。それは認
めますね。それは嫌なことでしょうけども、さほどのものではないと私たちは思ったの
ですよ。でもまず「軍との不一致」が、宣教師が動く理由になるということはおかしい
じゃないかと。あと(の理由)はでっち上げにすぎないじゃないかと、そういう気持ちが
あったのですよ。それが本当の理由だとみていたのですよ。後の返事は、全然そのこと
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に触れてないですよ。関西という話が途中で変わってアメリカヘというふうにして。
竹内:ああそうですね、もうアメリカに召還するというかたちになった。
ランドール:はい。で、それにも(同意)しない。
竹内:グリーンブックが出ましたね。79 年の 8 月 1 日なのですども、そのときにギフ
ィン女史の 78 年 10 月 26 日の手紙の一部分が載っているのですけども、ちょっと読み
ますね。
「あなた個人の米軍に対する不一致がその理由であります。このことに関して、
私は批判ではなく、むしろ、このような環境から生ずる緊張が、あなたの仕事と他の人
間関係に影響することを、同情するのであります。」というふうに、米軍に対する不一
致という先生のありかたが、周囲の仲間との人間関係を悪くするのだ、それが理由だと
いうことで……
ランドール:言ってましたね。
竹内:で、グリーンブックをみますと、「米軍に対する不一致」について、おかしいで
はないかということで、きちんと論理的に書かれている。これはもっともなことなので
OBC(沖縄バプテスト連盟)の理事会でも「どうしてかな」ということで、最初動い
ていた形跡がうかがえるのですね、議事録(1979 年第 26 回総会議事録)とか何かをみま
すと。ところが途中から「人間関係の欠如」というようなことが OBC 側でも盛んに言
われはじめるようになってしまう。この辺の流れも議事録とかグリーンブックからよく
読み取れはするんですけど、先生はその辺はどう見ておられるのでしょうか?
ランドール:そのころ、日にちははっきり覚えてないけども、牧師会の担当をする饒平
名牧師はいろいろ動いていましたね。で、私らと B 先生とが話し合うことも勧めてい
ました。それで)私とマキシンが B 先生の家に行ったのですよ。B 先生は「その環境か
ら出るならば、私たちのためにもなる。また宣教団のためにもなる」と。これは一体何
を言っているかと、私は追及します。向こう(ボード)は返事をしますけども、B 先生は
はっきり言いました。「ランドールとマキシンは精神的に異常が来てる」と。びっくり
したですよ。怒ったですよ。
その理由は、たとえば宣教師の集まりのなかで、とくに米人の教会と沖縄の教会をい
っしょにして、軍人の圧倒的に多いところに置くと影響があると、やっぱり経済的にも
人数的にも圧倒さるから。マキシンはときに自分自身の研究のなかからものを出して言
う。あとでマキシンは自分が唯一の専門家だと思い込んでいるということで、それも(退
去勧告の)ひとつの証拠にされました。マキシンは自分自身の学問に対して自信があり
すぎて病気になったと。それはびっくりしたですよ、妻に向かって言うのですよ。私ら
宣教師が軍関係の人たちに全然協力しないことを、客観的に見ているのではなくして、
病的な状態になっているから恐れ過ぎているのじゃないかと。まあ、そういうやり取り
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があったのですよ。
で、なかなかこの話は進展をみせないけれども、帰りに B 先生は自分の手を(私の)
腕に置いたのですよ。またとっても暖かい声で「こう考えているのは私だけじゃないで
すよ。あなたのいちばん親しい N 牧師もそう思っているよ。N 牧師も、先生は病気だ
と。また関西に行けば治ると私もそう思っているし、N 先生も思っている」と。早速 N
先生に聞きました。N 先生はたまにしか怒らない。でもそのときに怒った。(笑い)そこ
から盛んにランドールは猜疑心があったり、ランドール宣教師は人間関係の欠如があっ
たり、盛んにこの話がその後に出てきました。
竹内:そうですね。なんというか、先生は尐し考え方がはっきりしていた。そこで宣教
師同士の間の意見の対立があった。しかし仲間であれば、同じ考えを共有するというよ
りも、いろんな考えを打ち出して、話し合って、すぐに解決がつかなければ、お互いが
それを尊重しあって、というのが民主主義だし、それが仲間ですよね。それを尐し考え
方が違うからといって排除する。しかもその理由を人間関係の欠如だとか、人格が足ら
ないとか、猜疑心がある、精神的におかしい……こういう話にすり替えてしまうのは卑
怯だと思うんですね。自分たちも大事なことから逃げている。むしろしっかりした信仰
をもってらっしゃるなら、きちんとその問題を論理的に批判していく。そういうことで
あれば、本当に建設的な議論になると思うのですけど、この経過をみるかぎり、大事な
部分が回避されて、いま言ったような先生の人格の問題になっていくというのは、それ
自体が大変な問題だなと思いますね。
ランドール:私もそう思います。その晩初めて B 先生とのいわゆる「対立」が出来た
と思います。その後何回も何回も問題を取り上げて、宣教師らのなかでですね、私たち
は問題を提起して。M メドリング先生は優しく、そして落ち着いて話します。M 先生
ははっきりしています。
「自分の国のために戦わなければノンクリスチャンだ」と。
「ク
リスチャンならば軍の務めもちゃんと果たすべきだ。」彼ははっきりしてます。それで
M 先生と私の間では、話は十分にできたのですよ。意見は対立してますけども。
(しかし)B 先生はほとんど黙ってたのですよ。そこでは相手と対立しない、議論もし
ない。後ろから組織を動かす。(そのことは)後で分かったのですけど、私はずいぶん問
題の提起の仕方が下手だったと、いま後悔してますけれどもね。(笑い)客観的にみるな
らばですね、B 先生が黙っていることに気付いたはずです。
竹内:黙っていることの力みたいな……
ランドール:カですよ。なんにも言わない。ただ裏でものを動かすのですよ。そして最
後にまた手紙が出てきて、もう自分自身に代わる宣教師が選んである。
竹内:根回しがすでに……
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ランドール:根回しが上手な人ですよ、私は下手で。
竹内:(笑い)ああそうですね、真っ直ぐ。
ランドール:全然それを見てないですよ。まあそれは勉強になりますけど。ただこの「軍
との不一致」ということは、今なお聞きたいけれども返事はない。人間関係は粗いとこ
ろがあるといえば粗いところがありますよ、その雰囲気ですから、ときにその話し合い
があったりして。大声で喧嘩したりするということはないけども、でもとっても意見が
合わないところがあって。でも(話に)内容があるなら、それは何か建設的なものになる
と……
特に B 夫人がマキシンに怒って言ったことが何回もありましたね。マキシンは退く
人間じゃないですから、もう 1 センチも。そこでまた対立が溜まったままでしたね。そ
れは言えるのですよ。奥さん(B 夫人)は「内容がわからない。日本語もわからない」と
言うのですよ。ただ「そちらが主張するのはおかしい」と。あんまり内容的な話が出て
こない。まあそういうことだった。
竹内:こうして振り返ってみますとね、ギフィン女史の手紙に書いてあるとおりで、そ
してグリーンブックの N 先生たちもそれを押さえているように、理由ははっきりして
いたのですね。「米軍との不一致」それが根本。で、そうなると宣教師同士の関係がお
かしくなるから、だから先生は関西に行くかアメリカに戻るかしなさい、ということだ
と思うのですね。で、先生は「米軍との不一致」ということであれば、そこをきちんと
議論するとかして、ということがあったのでしょうけども、B 先生をはじめボードが先
生の人格攻撃のかたちで左遷を誘導していく。まずそれがひとつ大きな問題。むしろ問
題の本質を変えていったところが大問題だと僕は思うのですけど。
で、もうひとつは 0BC が当初は「おかしいな」と思っていて、問い合わせのやり取
りがある。理事たちも何度も協議した形跡がある。なのに途中から一転して、まったく
ボードの言っていることと同じように、先生の人格攻撃、そして「猜疑心」という言葉
を盛んに使って先生の性格、人格を損なうようなかたちで、先生の解任を正当化してし
まっている。これも大問題。今度は OBC の大問題ですね。
ランドール:それは OBC の問題として残ってますよ。
竹内:いちばん大きな問題はそこだと思います。それをグリーンブックは追求している。
それに対して反声明で出された OBC の先生方が連著で出された声明文『ランドール師
問題に関する声明書に関して』というのが、1980 年の 3 月 18 日付で出ています。でも
いちばん肝心ないまの問題について触れてないのです。
ランドール:集中的に……
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竹内:はい、もっぱら「先生の人間関係が欠如している、猜疑心がある。先生は誤解し
ていたところがある」。そういうような、問題の本質から一歩二歩降りたところで反論
している。でも反論になっていないですね。
で、先生は OBC が一転してボード側に回って、口裏を合わせるようにボードに全く
同調した論調で先生の排除に向かったというのは、どうみられているのでしょうか?
ランドール:私には分からないですけど、見えないうちに他の人が決めたことですから。
最初のうちは B 先生が組織の力をもって私たちを沖縄から関西に送り出す。それは成
功すると思われたでしょう。まあふつうならばそうなるかもしれませんね。でもそれは
成功しない。相手は動かないものですから、別の手段を選ばないといけない。その段階
でこれ(人間関係の欠如)は出てきます。
で、(確かに)いま言われたように、ぎりぎりのところまで理事はボードに対してラン
ドールらを帰国させることを止めておくように手紙を準備したのですよ。
竹内:1979 年 6 月 8 日には先生の留任要請文の発送の決議までされていますね。(註:
以下にランドール先生が語られる理由で、この要請文の発送は中止された。)
ランドール:されていますね。(しかし)その時点で、S 先生と G 先生(両者とも南部バ
プテストの宣教師)からの手紙が北部ボードに行ったと。そして I(OBC)理事長はそれを
見たと。総会のときの説明では、南部の宣教師もボードに手紙を書くほどですから、そ
れが(解任の)大きな理由になるのじゃないかと。(註:この重要な局面の経緯については
「グリーンブック」の 5-6 頁に詳しい)
ボードに自分自身を合わせた連盟はですね、後でそれを正当化しなければならないと
思ったでしょう。それはあんまり正当化しなかったようですけども、とにかくそういう
努カがあったと思います。
ただこのなかにもうひとつ、スクーラー宣教師(1969 年から 3 年間在沖)のことは忘
れてはいけない。
竹内:スクーラー宣教師?
ランドール:スクーラー宣教師はコザの教会の牧師として、宣教師としてここに送られ
た。このスクーラー先生は尐し変わった南部の宣教師で、たとえば反戦 GI の動きがあ
りましたね。で、そのころ私なんか、かれらと一緒に仕事してたのですけども、法的な
問題、あるいはカウンセリングなどいろいろあったから行動してたのですよ。で、コザ
のオメガハウスという行動している人たちが借りてる部屋ですが、オメガハウスと呼ん
でいます、オメガハウスのある BC ストリート、中央通りで集まっていたのですよ。毎
晩毎晩それは開いていました。聞きますと、かれらは私がもっているバイブルクラスに
参加している。
そして同じ反戦 GI たちはスクーラー先生のところにも集まっていると、
コザ教会で。きわめて稀なことですよ。反戦 GI たちが私と同じ格好でスクーラー先生
88
の指導を受けてるのですよ。スクーラー先生と私はときどき会って、尐し話は通じると、
まあ感じるのですよ。(沖縄に)来て間もない、そんなに長くないですよ。でもこの人な
らば、私とマキシンとスクーラーご夫妻と交流できるかと。多尐喜びがあります。具体
的な話はまだついてないけれども、とにかく抵抗感ないですよ、お互いは。そして反戦
GI もかれらのところに行った。そのころ 0BC の事務所は諸見里あたりだったか、コザ
にあったんですよ。あるとき理事会が午後にあって、理事会が開く前にアナウンスがあ
るとメドリング先生が言います。「スクーラー牧師は沖縄から去った」。その理由は、
「かれは精神的に病気になった」と、はっきり言ってましたよ。emotionally disturbed
(情緒的不安定)という言葉を使った。びっくりしましたね、突然のことで。幸いグレイ
先生は副牧師として半年くらい前から来てるから、グレイ先生はこの教会の責任牧師に
なると。まあそれは素直に受けました。病気だと、かわいそうと思ったのですよ。
竹内:そのときはそう思ったのですね。
ランドール:思ったのですけど、後でマーダックス宣教師のところで夕食をしてた。た
ぶんこれは 74 年か 75 年ごろだろうと思いますね。その時たまたま台湾からのもうひ
とりのサザン・バプテストの宣教師が同じ夕食に伴っていましたね。で、その人はスク
ーラー先生の話に尐し触れたのですよ。「スクーラー先生知ってるか?」「知ってます
よ。もう治りましたか?」と聞いたら、「治ったか? 病気じゃない」と。そして私は理
事会の話をしたら、彼は「そうじゃないよ。彼(スクーラー宣教師)は直ぐアメリカに帰
って、そのまま東アフリカに行きましたよ」……そういう意味で、私らに対して使った
武器は以前にも使われて来たと思う。
竹内:人間を排除するひとつのやり方に、そのターゲットとなった人物を異常者、精神
的な異常者として片付ける、これは僕の感じでは、日本では左遷する時の理由にしない
んですけども、アメリカではよくあるやり方なのですか?
ランドール:まああることでしょう。でも多くの場合、裁判問題になりますから。
竹内:いずれにしても、ずいぶん名誉を傷つけますね。これはずいぶんひどいやり方だ
なと僕は思うし、何度も繰り返しますけども、それをそのまま OBC も同調してるとい
うのは、ちょっといたたまれないところがあるのですけど。
ランドール:日本人からもアメリカ人からもですね、いろんな人が「これを裁判にしな
さい」と。なかに一人の弁護士は「ランドールからお金は要らない、相当儲かるから。
私が裁判にかけますよ」と言うのですよ。「この内容ならば、十分向こうが悪いという
ことを言わせるから。」でも私自身は裁判をもってクリスチャン同士の問題を解決しよ
うとは思わないから断る。私にその信仰がなければ、裁判になったかもしれません。し
かし私にその信仰がなければ、もともとこの問題も起こらないでしょう。(笑い)
89
竹内:そういうことですね。よく意味がわかります。この話はまだじっくりお聞きした
いところもありますので、次回もよろしくお願いします。
ランドール:分かりました。もう接点はあちこちにあってですね、また繰り返していい
ですから。
竹内:はい、よろしくお願いします。ありがとうございました。
ランドール:いえ、どういたしまして。
後記
人を「異常者」呼ばわりするとき、そこには大きな二つの罪が認められる。一つはもち
ろん、その人に対する人格の侵害である。しかしさらに根源的な罪は、排除の手段に「異
常者」を用いることである。「異常者」を用いるということは、精神的に障害をもつ者
(統合失調症者)を、すでに差別しているところに成り立つ。これは気づきにくいことだ
が、してはならないことである。クリスチャンならなおさらである。
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第6回
宣教師職の解任(承前)
2001.1.19(金)
竹内:今回は第 6 回目ですけど、先生よろしくお願いします。
ランドール:よろしくお願いします。
竹内:前回は、ランドール先生の宣教師職の解任問題についてインタヴューしたのです
けど、前回の内容を確認してみますと、先生が解任された理由としては、ほぼ間違いな
くボード側の理由として「軍との不一致」ということが挙げられていて、結局そのなか
で宣教師同士の間の関係が悪くなったというかたちで、ボードは先生の人間関係という
か、仲間との関係の欠陥がある、欠如があるということで、先生を解任に追い込んでい
くという流れがあったのですけど、それを問題にした沖縄側の OBC(沖縄バプテスト
連盟)側の理事、それから牧師たちがいたのですけど、途中から一転して理事たちはボ
ード側に回ってしまったという、その辺を問題にしたのですけれども、今日はそのあた
りからもう尐し突っ込んでお聞きしたいと思います。
グリーンブック(「信仰と良心の自由のために―ランドール宣教師に関する声明―」)、
たしか当時の総会の「議事録」(1979 年第 26 回総会議事録)にもあったことだと思いま
すが、そこに 0BC の理事会がボード側に回った決定的なターニングポイント(転換点)
みたいなときがありまして、「緊急事態が発生した」ということで、当時の理事長の召
集があったということが記録されています。で、その中の理由として、B(宣教師)夫
人がこのように発言したということが載っていまして、「ランドール夫妻が沖縄に残る
なら、自分は沖縄を去る」という、これがひとつの大きな理由になった。それからもう
ひとつの理由は、南部のふたりの宣教師が、ランドール先生ご夫妻がアメリカに帰るよ
うにという要請の手紙を発送した。この二つの理由を根拠として、緊急事態として理事
会がボード側に回った。そしてボード側に回った後は、先生の人間関係の欠如であると
か、猜疑心であるとかということで、ボードとまったく口裏を合わせるようにして先生
の解任を追認していくという流れがあったのですけども、今挙げました二つの問題につ
いて先生の感想はいかがでしょうか?
ランドール:B 先生の奥さんは「自分は国に帰る」と。「もしランドールとマキシンが
残るのだとすれば、自分自身はこの沖縄から去る。」まあ、もちろんそれならば夫もい
っしょに行くという前提でしょう。その場に(私は)直接いなかったし、私も直接言われ
ていない。どういう状況のなかでそう言われたか……(しかし)だいたい想像できますね。
きわどい問題があって、大変な状況に陥っているところで、自分自身の夫はランドール
の問題があり、そしてその頃の沖縄クリスチャン・スクールの理事でもあった。クリス
91
チャン・スクールも潰れそうなところで、昼も夜もそれの勤めがあって、「自分はこれ
以上耐えきれない」と思ったかもしれません。奥さんとうちの家内の間でですね、まえ
からちょっとピリピリするところがありましたけども、でも今の発言は分かるような感
じがしますね。「自分はこれ以上、精神的に耐えきれない」と。限界に至ったというこ
とじゃないかと思いますね。まあ、それはなんとも決定的なことは言えないから、他人
のことですから。
ただその状況を思い出してみれば、まあ当たり前のことも言ってるのじゃないかと思
います。大変なことです。また奥さんはですね、深い政治的な、歴史的な流れなどをで
すね、見たくなくて、何回も私らが宣教師の集まりで、こういった問題を出そうと思っ
たら、いちばん先にこれを押さえてきたのは彼女ですよ。深みを見たくない。いま状況
は深いところにいってるのですよ。(しかし)沖縄の連盟の流れの中にあって、自分自身
がそこに関わりがあるのに、見たくない。歴史的な事実はもう現れつつありますよ。(し
かし)見たくない。自分自身の夫がつくった連盟をつぶさに見ている。認めにくいでし
ょう。そういうことがあったかと思います。
で、それからふたりの南部の宣教師、セントラル教会の S 先生と、コザ教会の G 先
生だったと思います。理事長から、何日か覚えていませんけど、電話があって、夜でし
た。理事長は泣いていました。泣きながら話していて、「自分は窮地に置かれている。
ほんとに困っている」と。「これからどうするか」とは言わないです。ただ私(ランド
ール)にはこれを知る権利があるからと思って、前もって私に知らせてくれたのですよ。
先生(理事長)の話では、この手紙は G 先生も S 先生もサインしたと。そして自分自
身(理事長)はそれを見たと。(私は)戸惑ったのですよ、どうするかと。B 先生のところ
へ行こうかと思ったり。でも私と S 先生は意外と最初から最後まで話せる友人関係みた
いなところがあって、彼とは話せると思って、彼のところを訪ねました。
で、S 先生に向かって言ったよ。「何をしているか。南部は北部ボードとちがうので
すから、組織はちがうから、ちょっと不埒(失敬)じゃないか」と。追求しますね。彼
はいつも快く笑ったりして、私もそのときもそんなに怒るような雰囲気は起こらないで
すよ、彼と私の間ですから。言葉は尐し激しくても友達ですから。(でも)自分はサイン
したか、しなかったか避けるのですよ。明確な答えはなかったけれども、ただ忘れてい
けないことがひとつありました。「スクーラー先生、後にマーダックス先生がこの沖縄
を去られたのは、この先生(G 先生)ですよ。」前にスクーラー先生の問題ありましたね。
竹内:はいよく覚えています。
ランドール:S 先生と話していたと時に、そのことを漏らしてくれました。「スクーラ
ー先生とマーダックス先生を沖縄から去らせたのは G 先生ですよ」と。「それは忘れ
ていけませんよ。」このランドールのことは触れない。で、そのときのことを思い出し
てみたら、G 先生は沖縄に来て、スクーラー先生の副牧師のかたちで宣教師としてここ
に派遣された。G 先生が沖縄に来てまもなく、いわゆる「精神的異常」になったスクー
ラー先生の問題がありました。すんなりそのまま G 先生は主任牧師として残る。もち
92
ろんそれ以上のことは知りません。ただこの一言だけ S 先生は私に漏らしてくれたんで
すよ。で、マーダックス先生はもはや沖縄に戻れない。で、マーダックス先生にもいま
の話をしたのですよ。彼は S 先生に対して怒っていたのですよ。「いや、S 先生は G
先生だと言っていますよ」と、私はマーダックス先生にも言いました。でもマーダック
ス先生は、悪く言えば、腰が軽いから(笑い)きちんと対立を保てなくて、そのまま流さ
れた(転任された)んですよ。もし彼が闘う気持ちがあれば残ったはずですよ。とくにそ
のときの連盟の書店の主人をやっていた Z さんなどですね、このマーダックス先生と日
本側で働きたいと。彼はアメリカの教会のために派遣されたのですけど、日本側に替わ
りたいと。また Z さんなどは、それは大歓迎でした。ですからそれを共に担った人いた
のですよ、Z さん。ただマーダックス先生は流されていった。東京か京都で宣教師の任
務を全うしました。そういう出来事があった。まあ関連するか分かりませんけども。た
だ私と S 先生の会話はきわめて重要なことだったと、思いますね。
竹内:ちょっと G 先生という方のことがよく分からないのですけど、どんな方だった
のでしょうか?
ランドール:私もよく分からない。
竹内:(笑い)ああそうですか。
ランドール:(笑い)あんまり発言もしない、公のところでは。そういうタイプの人です
から。牧師として立派な牧会をしてたようですね。かなり丈夫な教会の守りとしてです
ね、たいへんよくできたようですね。それは評価したいですよ。ただ彼自身のことはど
うも探れない。
竹内:やっぱりこの問題の大きな点は、軍に対して、軍を支持する先生と、ランドール
先生のように軍に批判的な先生がいて、軍に対してどういう立場をとっているかという
ところの違いで、かなり関係が対立したということでしょうね。
ランドール:かもしれません。ただ表の対立じゃなかったからよく分かりません。S 先
生あるいは M 先生ならば、分かるのですよ。話にのってくれるのですよ。
竹内:きちんとコミュニケーションがとれたということですね。
ランドール:はい。ただ G 先生とのコミュニケーションは一度もない。
竹内:でもこの場面では重要な役割を果たしたことになりますね、G 先生は。
ランドール:なりますね。これは理由になるかどうか分かりませんけど、スクーラー先
93
生のところに反戦 GI の人たちがきたでしょう。それは関係あるかないか何とも言えな
いが、でも思い出さずにいられない。
竹内:分かりました。じゃあ、つぎの質問をしてみたいのですけども。グリーンブック
が出ましたね。それに対して後で連盟の理事たちの連著で「反声明」、『ランドール師
問題の声明書に関して』というのが 1980 年 3 月 18 日付で出たんですけども、前回も
僕はこれを取り上げて、その中には先生の人間関係の欠如とか猜疑心という言葉がいっ
ぱいちりばめられていて、問題の本質につていないというようなことを言ったのですけ
ども。でも一忚、とりあえずその中の反論というかたちで、論拠があるとすればこの二
つかなと思うところがありますので、そのことを先生はどうお考えになるのか、聞いて
みたいと思うのですけども。
一つはですね、「反声明文」というふうに呼んでおきますけども、その中にですね、
ボードからアメリカに帰るようにという勧告をランドール先生は受けていたにもかか
わらず、先生は OBC に「内密」にしたと書かれているのですね。で、そのことが結果
として「問題を混乱させた」というのがあります。
それからもう一つ挙げますと、1973 年 5 月から 78 年 10 月 24 日まで、ランドール
先生は、OBC への再招聘が「数人の牧師たちによるものと思い込んでいた」と書いて
あって、こうしたことがランドール先生の「猜疑心を増長させた」という指摘がなされ
ているんですけども、これらについて先生はどういうふうに思われますか?
ランドール:まあ隠したということは事実です。しかし最初に隠したのはボードです。
ランドールじゃないです。ボードからの手紙がやってきます。封筒の上に
Confidential(親展つまり内密)という言葉が書いてあります。人事のことですから他人
は見てはいけないという意味の言葉ですね。そういう通信。ですから当然、私たちの返
事もコンフィデンシャルですよ。沖縄から去るべきだという内容をもっているものです
から、(ボードは内容を)広げたくないですよ。
竹内:まずはそういう……
ランドール:ボードからのコンフィデンシャルですよ。ですからランドールが隠したと
いうことは、どうも事実を曲げて、都合のいいように使ったのですよ。デッチ上げに過
ぎません。
竹内:事実を歪めてしまった。
ランドール:はい、そういうことです。結果としてランドールが隠したと。それはその
通りですが、向こうから隠したかたちで通信が来るから。
竹内:まず内密に問題を解決したかったわけですね、ボード側としては。
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ランドール:ですから内密にして、ランドールが沖縄から去って関西に行く。その目的
の手紙だったのですよ。そして私らが行ってから、関西区域の牧師会か理事会が呼んだ
から(ランドールが)行ったというかたちに、最後になりますね。そうすると何も問題な
し。
竹内:やはりボード側もこの問題については、下手をすると傷口が広がるような警戒感
みたいなものをもっていたのですね。
ランドール:最初からもっていたはずですよ。
竹内:分かりました。それじゃあ、もうひとつの方ですが、それも同じようなことにな
るのでしょうか、73 年から 78 年まで、OBC(沖縄バプテスト連盟)はランドール先
生を再招聘しますね。これは OBC の決議だったらしいのですけど、しかし先生は数人
の牧師たちの招聘だと思い込んでいたと。その辺の事情がよく分からないのですけど、
そんなことが一忚「反声明」に書かれています。(全 6 頄目中の 5 頄目にある)これはど
ういうこと?
ランドール:那覇に、山下ですか、飛行場の近くに新しい教会を建てる。それはアメリ
カ側の教会。そしてこれはカルバリ教会でしたかな、記憶にまちがいがなければカルバ
リ教会。今からそれをつくっておいて、だいぶ会員は揃っているから、すぐにも教会を
組織。そしてその中で沖縄側の伝道所を、建物を建て、そして群れを育てる。そういう
内容をもった手紙を B 先生からもらった。
(私は)その当時休暇でアメリカのニューヨークシティにおりました。で、それに対し
て私たちは、アメリカ人の教会の中で沖縄の教会を育てる時代は過ぎた。私は、それを
やめてほしい。そしてその中でどうしても沖縄の教会がアメリカ側の教会の中で育った
んだとすれば、いつも沖縄の牧師や信徒はアメリカ人に対していい加減な態度をもつ。
まあそういうような言葉を使ったかと思いますね。つまり1対1のかたちにならない。
平等じゃない。依存しているところがある。そして支配する側にも、まあ占領意識がそ
こにあったかと。おそらくその手紙にそのことも書いたかもしれませんね。その中で育
てる教会は「黙示録」(3:14-22)に書いたラオデキアのような教会にしかならない。で、
そのラオデキアのような教会だという部分だけだと思いますけども、(B 先生は)それを
牧師会(伝道部会)にコピーして持って言った。手紙全体じゃない。とにかく持っていっ
て、牧師会の中で、今度ランドールは休暇から帰るけども、考え直すべきじゃないかと
いう声があったらしい。まあどこまでそれが進んだか分かりません。(註:この辺りの
経緯についてはグリーンブックの 2-3 ページに詳しい。なお「反声明」では、ランドー
ル宣教師の「再招聘に反対する者は一人もいなかった」(2 頄の 2)とあるが、それは年
次総会におけるものであり、ここでランドール先生が述べているのは、またグリーンブ
ックが指摘しているのは、牧師会の席上での発言である。)
95
で、それをみていて名護(良健)先生、当山(武)先生、最初は T 先生も加わったようで
すね。あとで彼は降りたのですけど。それを問題にしてボードのブラウン主事(アメリ
カン・ボード外国伝道局の総主事)に手紙を書いて出す。
たまたまそうしているうちに、たぶん北部バプテスト大会だったかと思いますけど、
それはデトロイトだったと思います。そこで集まりがあって、B 先生がそこに行くこと
が分かったから、そこにブラウン先生もいますから、私も行きました。それで話し合っ
て、ある程度私も退いたかと思いますけど、妥協して。とにかく私とブラウン先生と B
先生の間では了解はできた。フィールドに帰って、また B 先生に電話で確認もしまし
た。理事長にも(確認しました)。電話で理事長と話したら、べつに沖縄側では問題ない
と。その経緯ですよ。
竹内:つまり、先生のなかに猜疑心が増長したということはなかったわけですね。
ランドール:(笑い)あったのだとすれば悟ってないですよ。
竹内:(笑い)そういうことですね。
ランドール:その二つの理由もですね、無理してつくったのじゃないかと。まあこれを
書いたその段階ではね、人間関係に欠如があったというのはまちがいないでしょう。
竹内:論調の基本はそこですね。その中に論拠、根拠らしいものがあるとすれば、いま
挙げたようなところだったので……
ランドール:理事長が泣いて電話したり、私が S 先生のところに行って話したり、また
B 先生と会って、また総会の時にとっても緊迫のあったその時のランドールは(すでに)
5,6 年前からあったというふうに書いているのじゃない? しかしそれは違いますね。
竹内:この「反声明」の性格はですね、ちょっと話が全体的な話に戻ってしまいますけ
ども、たとえばグリーンブックがいちばん問題とした「米軍との不一致」という根本的
な問題を扱っていませんね。グリーンブックはきちんと取り上げていて、論拠もきちん
としている。もちろんその論拠が 100%きちんとしているかどうかは分からないですか
ら、むしろ反論するとすればそこをきちんと反論して、反論の体裁になるのだと思うん
ですけど、この「反声明」の方ではまったくそのことが問題になってない。それが「反
声明」の性格ですね。それは以前にも確認したと思うのですけど。で、結局この「反声
明」の基調が先生の人格の問題になってしまった。
ランドール:それしか書いてないでしょう。
竹内:思うのですけど、この問題は誰それの人格というような問題じゃないと思うんで
96
す。だから僕などが批判するとしても、人格のレベルで批判するようなおこがましいこ
とではなくて、問題の本質、先生がさきほどおっしゃった「深み」に、まさに立ち至っ
ているわけで、OBC もその問題に立ち至ったわけですね。そこで問題を回避しないで、
きちんと見つめていくということが沖縄の宣教の問題として非常に大事なところだっ
たのに、きつい問題だっただけに回避してしまったというところがあるのじゃないかと
思いますね。
ランドール:私もそう思います。最初からボードはコンフィデンシャルと書いた。その
手紙は、やっぱり軍関係はやぶ蛇ですから、だから最後までそれに触れないようなかた
ちで問題を運びました。その間にランドールが怒ったりしたことは事実ですよ。(笑い)
異常といえば異常ですよ。ただ B 先生が一度倒れたでしょう、入院して。G 先生も入
院した。なんか心臓マヒと。そのいずれもストレスですよ。当たり前のことですよ。3
名とも生き残ったという、むしろそれは不思議です。(笑い)
竹内:(笑い)でもそれほどの大切な問題に先生は挑んだわけですね。でもこの問題はい
まもある。
ランドール:はい、ありますよ。
竹内:きちんとそれを見つめていくということは大切ですね。
ランドール:ですから小林(紀由)先生の研究は大切になりますね。これからますますそ
うだと思います。ランドールの問題じゃなくして、占領された沖縄におけるこの教会の
持ち方。それをこれからの歴史を研究するとき、そういったところに資料を残してくれ
れば、非常にいいことですよ。
竹内:その問題にも後で触れたいと思ったのですけど、先生がおっしゃったので……
この問題(解任問題)はウヤムヤになったんですけど、その後も信徒の間に、あるいは
牧師の間に、いい意味でこだわっていく人たちがいた。僕も尐しはこだわっているひと
りだと思っていますけど、とくにそれをきちんと確認をとっていらっしゃる方がいて、
そのひとりは津覇(真勇)牧師(多摩ニュータウン・バプテスト教会)という方ですけども、
『沖縄宣教の課題』という、これは調正路牧師の宣教のことを書かれた本なのですけど、
その中でランドール先生のことについて触れている箇所があるのですね。そこで先生の
ことをきちんと押さえている。そして OBC(沖縄バプテスト連盟)との関係を押さえ
ているところがあって、今日持ってきたのですけど、ちょっとその箇所を読ませていた
だきます。
ランドール:どうぞ。
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竹内:「ランドール宣教師の来沖は沖縄の歴史的現実に対して、民族の垣根を越えてキ
リスト者としての連帯が可能であることを提示した。沖縄バプテスト連盟の宣教史にお
いて、しかも外国伝道協会から遣わされた宣教師でランドール宣教師ほどに正面から沖
縄の歴史的状況を捉え、平和の福音の光によって照尃を試みようとした宣教師がかつて
いただろうか。ランドール宣教師はキリスト者の良心に関わる問題が沖縄に厳然として
存在することを沖縄バプテスト連盟に提起した。しかしそれは旧時代と新時代の宣教師
の宣教神学の理念の違いを浮き彫りにすると同時に、不問にされたまま燻っていた神の
恵みの『受益団体』としての沖縄バプテスト連盟の体質をくっきりと灸り出すことにも
なった。聖霊の働きであろう。潜在的な歴史的課題を一枚の画像の上に灸り出して、問
題の所在を抽出することに成功したのである。しかしそれも沖縄の『テーゲーグァー』
が画像を霞んだものにしてしまったの感が否めない。これは沖縄バプテスト連盟におい
てどのように総括されているのだろうか。」(p78)となっていて、そのように津波牧師
は表現しているのですけど。先生は、「燃えた剣」をそこに投げ入れたような気がする
んですね、OBC にもボードにも。そこにそういう体質があるということを問題提起し
た。それまで 0BC はアメリカ側にかなり大きく援助をあおいでいた。また依存する体
質があった。そういう中で宣教師としてのランドール先生がこういう問題を投げ掛けた
ということは、やはりその時点においても、それからその時点から出発して今日に至る
まで、このようなかたちで表現されるように、大きな意味があったということが言える
と思います。
で、もうひとついま先生がおっしゃった小林先生という方ですね、目本大学の文理学
部の助教授で、宗教学が専門の方なのですけども、この方が 1999 年 12 月に出された
『戦後沖縄キリスト教の諸相』という冊子があるのですけど、その中でやはりランドー
ル先生のことについて 2、3 ページ触れているところがあって、これも引用してよろし
いですか。
ランドール:どうぞ。
竹内:「この問題(解任問題)は沖縄バプテスト連盟内の問題ではあるが、同時に『復帰』
後の沖縄社会においても依然として反軍的姿勢をもつ人物の存在しにくい環境があっ
たことを物語っている。沖縄バプテスト連盟に生じた良心の訴え、また平和主義宣教師
を解任後も支えつづけた一部牧師たちのその行動は基地とともにあることを強いられ
た沖縄に活動するキリスト教会のひとつの良心の訴えとして聴くべきであろう……」
(p.70)というふうに、名護先生をはじめとする5人の牧師そしてランドール先生の良心
の訴えということで、きちんとこの問題が捉えられています。
何も一方的にこちらが正しくて、あちらが間違っているというレベルの話ではなくて、
きちんとこの問題を見つめるテーブルに就くという意味で、とても大切な指摘だと思う
のですけども、そんな評価が現在も行われているということですね。今日のインタヴュ
ーもそのあたりのことを記録として証言していただきたいので、やっているのですけど、
先生は何かそのことで……
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ランドール:小林先生が書かれた文章を見てですね視野が広がりました。以前に気づく
べきですが、それを読んだときに気づきました。これはランドールと B(宣教師)の問
題じゃない、その人格の問題でもない、沖縄における沖縄バプテスト連盟のありさま(の
問題)というふうに。
阿波根昌鴻さんのことに尐し触れたいですけど、阿波根昌鴻さんはいろいろな問題、
とくに農民の問題、圧迫されて利用されてきた、いつも苦しい状況に置かれている農民
の問題を取り上げてきた。自立、自由、自給をめざす京都の一燈園で勉強して、そこに
住みたいと思って……。西田(天香)さんですか、そこの園長が「いや沖縄に戻ってこれ
と同じものを造りなさい」と。そこでまた内村鑑三の思想に出会っていろいろ勉強して
きた。で、そこでしっかりとみな平等で働いて、みな平等で働くことによって自立を。
それをめざすために 4 万坪の土地を準備して、これから農民学校を造ろうと。で、その
ころではですね、沖縄の本当の意味での自立を考えていたのは阿波根さんだけだと。ま
あほかにもそういう人はいるかもしれませんけども、でもその考えが行動につながるの
はこの人物だけです。で、今度戦争が終ってから米軍は基地をですね、空爆のターゲッ
トとしてどこかに基地をつくる。その滑走路がですね、ほとんどそっくりそのまま阿波
根さんの 4 万坪の土地なのです。ほかにも平らのところいっぱいあちこちにあります。
また人の住んでいない島がありますよ、沖縄に。そういう島だったらいくらでもありま
すね。でもわざと彼のところを取った。もちろんいまの話に証拠はないですよ。かれら
がどこかで集まって阿波根さんのところを取ろうと、その話があっても、私には知りよ
うがないです。でもぴったりすぎますからね。まず彼を抑えるためにこの土地を取って
しまう。
いま政府が考えているのはですね、キャンプシュワーブの埋め立てのところに新しい
基地を作ることですね。大田知事が協力しない態度をとったからむこう(日本政府)から
円が流れる蛇口を止めた。そして今度野中さんは、稲嶺知事になると、協力するから蛇
口を開ける。以前からアメリカからも日本政府からも、いちばん恐れているのは沖縄の
自立です。もし沖縄に本当の自立が成立したとすれば、この基地はもう要らないよと言
うでしょう。それが起こらないために、やはりそういったことを……。教会もあんまり
自立心をもった教会であってはならない。
竹内:アメリカ側からしてみれば……
ランドール:だから日本政府、アメリカ軍政府を通して沖縄をみるとですね、尐なくと
も自立ということを喜ばない、歓迎しない。とくにバプテスト教会は自立心、とくにラ
ジア・ウィリアムズのことはまえに話しましたけれども、かれは政教分離をわが国(ア
メリカ)の憲法に盛り込んでますが、かれはこれ(自立)を最初にロードアイランドの植民
地の憲章に書きました。それを勉強して憲法をつくりました。だから自立心があるバプ
テスト教会がですね、あんまりバプテストらしくなっては困るでしよう。
99
竹内:(笑い)
ランドール:沖縄があまり自立すれば、沖縄全体が阿波根みたいなところに向かってい
くならば困るから、自立ということはこの沖縄ではなりにくい。歴史の流れのなかで、
誰かがどこそこでそれを決めたというのじゃないですよ。ただ歴史の流れはそういうふ
うになっているのですよ。
竹内:そうですね、たしかに。
ランドール:依存でなければ支配しにくい。ただ今のところで南部バプテストの宣教師
はひとりもいません。もうこれからはいないみたいですね。もう去ってしまったんです
よ。で、それでもって、アメリカ側のいわゆるミリタリー・チャーチ、軍人が持ってい
る教会の役割がだいたい終ったのじゃないかと。
竹内:ああそうですか。現在はそうなのですね。
ランドール:はい。牧師らが派遣された宣教師じゃない。牧師として呼ばれた人がコザ
教会の、セントラル教会の牧師です。だから今のことはこれからどうみるべきか分かり
ませんけども、ただ戦後沖縄から今日までのところ自立ということはなりにくい。
竹内:政教分離と先生がおっしゃったのだけども、ひとりの信仰者として軍の働きを評
価するという考えがあるということは一忚分かるのですけど、それが高じてしまうと政
治・権力と一致していく。ここが政教分離の大事なところなのに、その体質として一致
していく。すると不一致な人を排除していく。まさにこれは政教分離じゃなくて、政教
一致の体質になってしまったということがあると思いますね。
ランドール:はい、あります。
竹内:そこにランドール先生が問題提起されたということの意味があったと思うんです
ね。ランドール先生は内部にいるけども、いわば「他者」として問題提起したことはす
ごく大事なことだったと思う。これこそ OBC、沖縄側にとっても大事なことだったん
だけども、悪い意味で政治とあまり関係しない、社会とあまり関わらない、もっぱら個
人の内面の福音というかたちで内向していってしまう。本当は社会とか政治とか、そう
いうものとの関係のなかでも個人の信仰というのは大事なものをもつのでしょうけれ
ども、変なかたちで政教分離してしまって……
ランドール:まさにそのとおりですよ。いま私は見る目がある程度育ってきたから、い
まの問題を見るのですよ。自立あるいは本当の意味で政教分離がなりにくい沖縄の全体
の歴史の流れのなかにあったひとつのエピソードですよ。ですからこれは言ってみれば、
100
OBC に限らないですよ。(たとえば)ベル宣教師がアメリカに帰されたでしょう。比嘉牧
師は伊波普猷らと組合教会を作って、ハワイヘ行ったでしよう。
(註:オーティス・W・ベル師。1954 年、当時の土地闘争(島ぐるみ闘争)時に米紙に
「沖縄人に公平にふるまえ」Play fair with Okinawa!を寄稿。アメリカに向けて沖縄の
実情を訴えた。また比嘉牧師については、大正期に生じたバプテスト脱会事件に関する
こと。当時関東学院神学部を卒業して間もない比嘉賀秀(静観)は、那覇バプテスト教会
牧師原口精一と対立、師の伊波普猷、同僚の照屋寛範らと共に、1914 年沖縄組合教会
を結成した。比嘉はその後 1921 年ハワイに赴任している。)
竹内:そういうことですね。
このランドール先生の解任問題の時点では牧師先生だけじゃなくして、信徒のなかに
もいろいろな思いがあって、とくに内面的な信仰をもってらっしゃる方には、そういう
軍との関係とかといった問題は、自分の信仰には騒がしいものとして受け取られてしま
って、先生がある意味では煙たがられてしまった。ある信徒によってはですね、そうい
う部分もあったと思うのですけど、牧会にいろんな波紋が生じた。その時の先生、お辛
かったと思うのですけども、そのへんはどう……
ランドール:ああ辛かったですよ。牧師の仕事は魂を養うことでしょう。でも私はほん
とうに傷をつけていると、もう目で見てました。「先生はもういらっしゃらなくてもい
いですよ」と言われたのですよ、あるところで。だからそのところ、とっても今でも悩
みがありますよ。牧会上の私の足りないところいっぱいありましたね。幸いならば、か
れらを支えながら、この問題と闘ったはずですけども、それだけの寛い心が、力のない
私でしたからね。闘いのなかにあって傷をつけていったのですよ。でもなかに後で戻っ
てきて、ある人はお詫びしてくれたのですよ。
竹内:最近のことですか?
ランドール:最近のこと。また教会に対しても言葉づかいでひとつ失敗したのですよ。
除名の問題がありましたね。普天間教会を連盟から除名する。普天間の教会での皆さん
の話し合いの中で、いまのことを言わんとしていた。たぶん竹内さんがそこにいらした
のじゃないかと思うのですけども、私はこの沖縄から去ることはできない。また自分か
らこの教会を辞めることもできない。まあ「仕方がない」という言葉を使ってしまった。
つまり教会は除名されても「仕方がない」。あれはまずかったですよ。言ってしまって
から分かったのですけど、でも言ってしまった言葉ですから。そういうつもりじゃない、
この流れのなかで教会はほんとに駄目になりそうですけど、残念でしょうがないと言う
はずだけども、「仕方ない」と。まあ私はすべてを「仕方がない」と思ったところがあ
ったかと思いますね。それは普天間教会にも深い傷をつけたかと思いますよ、その言葉
101
自体。ほんとうに残念だったけども。
竹内:でも先生がそのときいちばん辛かった。ちょうど除名が問題になったときの総会
に、僕は(年次総会の)代議員として出ましたけど、そのときに Z さんだったと思いま
すけども、「いまいちばん辛いのはランドール先生だ。むしろ針の莚に座っておられる
心境だろう」と言っていたことを覚えているのですけども。でも先生は「仕方がない」
というのは失言だったとおっしゃったけども、ある意味でやむをえないような、それほ
ど大きな問題を投げ掛けて、信徒ひとりひとりがそれを受け止めるには時間がかかる問
題だと思うのですね。まずショックがいちばん最初に来てしまった。そのショックがと
ても大きくて、まあ最初のショックにはやっぱり反発があって、先生がそういう意味で
は理解されなかったということもあると思うのですよ。でも時間が経つにおよんで、尐
しずつ先生がなされたことがこれから理解されていく。傷が尐しずつ癒されるなかで、
むしろこういう問題の本質が見えてくると本当にいいと思います。
ランドール:見えてくると思います?
竹内:思います。またこういうかたちで、さっきも挙げたようなかたちで出てきますし、
僕もインタビューに力を入れているのはそういうことですし。
ランドール:これは幸いですよ。
竹内:そういうかたちで広がるといいですね。静かにそれを捉えて、反省の問題だけじ
ゃなくて、本当にこれからの教会の問題というのですか、いい意味で社会とつながって
いく、それから沖縄の問題につながっていくという。そのために先生がなさったかもし
れない。ある意味で、その時点じゃなくて、1O 年後、20 年後のために先生がなさった
のかもしれないと思えるのですけど。
ランドール:その思いでこれをまとめて何かかたちにしていただければ大きな幸いです
よ。小林先生などはできますけども、でも竹内さんのように、その中にあって当事者と
して客観的に見ることはできないということはふつうでしょう。でも竹内さんはその頃
も今もわりと私とマキシンを客観的に見て……
竹内:はい、そのつもりで。
ランドール:いろいろ話しているとですね、なにか冷たい返事がきたり、温かい返事が
きたりして、それは合図になったでしょう。
竹内:感情の問題ではないと思うからできるだけ冷静になりたいと思っているのです。
けっして誰かを悪者にしたくないということです。
102
ランドール:よかったですよ。もちろん私のことも書くのですけども、なるべくならば、
これを沖縄の歴史の中のひとつの出来事として皆さんに紹介していただければ……。ま
あ最初からこのインタビューをしたいと言われたときに、私はたぶん竹内さん以外の人
にしなかったはずですよ。
竹内:ありがとうございます。
ランドール:マキシンはまったく同感ですよ。
竹内:ランドール先生の解任問題だけを取り上げてインタビューしようと思っていたわ
けではないのですけども。
ランドール:最初からそのつもりだと思っていました。
竹内:ランドール先生の全体をできるだけ、全体といってももちろん一部しか見られな
いかもしれないけど、できるだけ広くインタビューしてお話を伺いたかったということ
が一番大きかった。で、そこからどうしてもこの解任問題につながらざるをえなかった
ということ。またそのほうが解任問題から見たときも広く見ることができると、逆に言
えると思います。
ランドール:そうですよ。その視点で見ればやはりそれは沖縄の歴史のためにひとつの
資料にもなります机ね。
竹内:いまほとんど先生が感想を述べてくださいましたので、この解任問題については
インタビューを終りたいと思いますけど、いまから振り返って先生が言い残されたこと、
おっしゃりたいことがありましたら……
ランドール:ただうちの子供のこと。犠牲者がいるとすればうちの子供だと思いますね。
結局私はこういうかたちで大学の務めを終ろうとしていますね。沖縄において、いろん
なことができるようになって、すべての面において十分過ぎるくらい支えられている生
活ですからね、精榊にも物理的にもすべての面でもう足りないところひとつもない。た
だ子供は離れていて、哀しみや不安を覚えていて。上のふたり、トニーとニックは一度
来たんですよ、名護先生といろいろ話していて、ある程度分かって帰ったと。(でも)い
までも、竹内さんみたいに分かっているとはいえない。
ウェイン(三男)はそのときティーンエージャーでした。ティーンエージャーは微妙な
育ちの段階ですから。「自分が信用できる男は世界に5人ほどしかいない」と言ったん
ですよ。かれと自分を取り巻く社会への不信感がひどかったのですよ。まあそれがすべ
てじゃないのですけど、その頃のウェインのこと、とっても頑張ってくれたんですけど
103
も、やっぱり大変でしたよ。今でもかれはこれを客観的に見ることはできない。
竹内:いちばん幼い者に深い傷があるということですね。
ランドール:で、宣教師館を出たすぐ後に、まだ住んでいるかたちだったけども、実際
は別のところに住んでいて、犬がもうだいぶ年いっていて、目が見えなくなっていたん
ですよ。犬は見えないと外敵に対して激しい、危ない存在になりますから、私と家内な
ら大丈夫ですけども、他の人が来ると、わりと大きい犬ですから……。獣医のところに
連れていって、箱を持っていったのですよ。そして帰りに埋める。宣教師館の裏に穴が
掘ってあって、そこに箱が入るように。私たちは宣教師館から追い出されても大丈夫で
すけども、犬のことは……泣きながらこれを見るのですけども、感じましたね。こうい
うような問題があると、まあ一種の戦争です、戦争のときには一番苦しみを受けるのは
幼い者、年寄り、弱い者、目の見えない者。もし私たちがこの宣教師館にいたならば、
この犬は中にも入れて、そのまま養ったはずですけども。犬はこの問題のひとつのシン
ボルになりました。で、その裏に三名の子供。とくにウェイン。たまたま箱にですね、
獣医がその遺体を入れたときに見たら、トニーの名前が書いてありました。トニーのス
テレオのボツクスでした。トニーの犬でしたね。小さいときにトニーのベッドのそばに
いつも寝てたのですよ。トニーがアメリカに帰ってからはウェインの犬になりますね。
で、名前が書いてあるとは思わなかったんですよ。で、見て獣医の前で泣きます。獣医
はいっぱいそんなこと見ているから分かるでしょうけども。べつに犬が死んだというこ
とは今の問題と全然関係ないけれども、ただひとつのシンボルでしたね。一番弱い者が
いちばん重い圧迫を受ける。深い傷をつけられる。人間としてはウェインですね。かれ
は分からないですよ。分かるはずもないですよ、その歳ですから。ウェインはその問題
の解決をみることはできないでしょうけども、乗り越えたとも言えないのですけども…
…ただそういうことがあって、たとえばいま竹内さんがみて、これからまた人が、これ
を通して沖縄を見るひとつの角度を与えることになれば、犠牲になってもいいと私は思
う。またウェインもそう思うと、私は思いたいですよ。ですから負担とも犠牲とも思い
たくない。むしろ私たちランドールはこの沖縄において、ほんとうに間違い、横道、転
んだりしているうちに、どうにか導きによって自分の使命を全うしたかなと、ときに思
いますね。この問題が起こったからそれが言えるかもしれません。逆説ですけど、それ
はまちがいないでしょう。それぐらいのこと、心にありますね。
竹内:ありがとうございました。
104
ランドール宣教師解任問題の一連の経過
79. 1.24
研修会において、ボードからのランドール師宛(親展)書簡(78 年 10 月 26
日付)が、照屋主事によって公表された。書簡の主旨はランドール宣教師
の沖縄退去を促すもので「軍との不一致」および「人間関係の緊張」が
理由とされた。
79. 1.29
連盟新旧四役がランドール師と協議。
79. 1.29
ボードからランドール師宛に「同本バプテスト同盟関西地区への転任」
勧告文。
79. 2.22
ボードのギフィン主事から連盟理事長宛書簡。(連盟への最初の通達)。
79. 3.13
連盟牧師会において「ランドール宣教師の件」が議題として取り上げら
れ、
先の 78 年 10 月 26 日付および 2 月 22 日付書簡について協議された。
79. 3.27
理事会、ボード宛に事実関係照会のための書簡送付。
同時期、普天間教会からもボード宛に同趣旨の書簡送付。
79. 4.11
ボードのギフィン主事から普天間教会名護師宛に返書。その中に、ラン
ドール宣教師の沖縄退去勧告が、連盟指導者と協議されたものであると
明記されていた。
79. 4.26
ボードのギフィン主事から連盟理事長宛に返書。その中で、解任理由と
して、「人間関係の緊張の高まり」を指摘。
79. 4.30
連盟牧師会において名護師、先のボードの返書で「連盟指導者と協議し
た」という点に疑義を提出。事実関係照会のための書簡送付を決議。
79. 5.21
横田牧師の仲介で、ランドール師と B 師が協議し、和解が成立。
79. 5.25
B 師、I連盟理事長、Y 牧師の三者会談。「親密な人間関係の欠如」に
ついて B 師に質すも、回答は得られなかった。
79. 6. 8
理事会、ボード宛に要請文送付を決議。主旨はランドール師留任要請お
よび召還の明快な理由の明示。
79. 6.10
I 理事長より新事態の発生を理由に臨時理事会が召集された。新事態とは
B 夫人が「ランドール夫妻が沖縄に残るなら、私たちは帰米する」とい
うもの、もう一つは南部の宣教師(S 師と G 師)がランドール師の帰米召
還要請文をボード宛に送ったというもの。
79. 6.14
理事会、再協議の結果、先に決議したランドール師留任要請文の送付取
り消しを決議。
79. 6.30
ランドール宣教師、アメリカン・ボードから宣教師職を解任。一切の資
格を剥奪された。
79. 7. 2
理事会、6 月 30 日付でランドール師の連盟における働きの終結を決定。
79. 8. 1
名護師ほか 5 牧師、抗議声明『信仰と良心の自由のために』(グリーンブ
ック)を公表。
79. 9.24
第 26 回連盟年次総会でランドール宣教師の解任を承認。
105
80. 3.18
連盟理事ら連著で、先の抗議声明に対する反声明「ランドール師問題の
声明書に関して」発表。
80. 9.25
ランドール師、ボードのジャンプ事務官宛および連盟執行部宛に宣教師
館退去勧告に関する改善処置を求める書簡送付。
82. 6. 4
連盟理事長ほか 3 名と普天間教会役員で協議がもたれた。
82.10.14
連盟理事会、普天間教会に対してランドール師を協力牧師に迎えている
ことの責任を追及、および宣教師館退去を勧告。
82.10.31
普天間教会、臨時総会を開き、連盟の勧告について協議。ランドール師
の協力牧師の身分を確認。また有志により「ランドール師問題に関する
私たちの見解」を採択、連盟送付を決議。
82.11.23
連盟理事らと普天間教会役員、先の採択書の内容など協議。
席上、理事側から先の採択書を普天間教会の「挑戦」とみる発言。
82.12.20
連盟臨時理事会、ランドール師に関する案件(宣教師館退去および協力牧
師の件)について確認。
83. 4.29
第 30 回連盟年次総会において、ランドール師の宣教師館退去要請決議、
および普天間教会の責任(除名)問題を討議。
83. 7.20
連盟 4 役と普天間教会の協議。
83. 8
ランドール師、宣教師館を退去。
84. 3.28
ランドール師、T 理事長宛に宣教師館退去に関する所信を伝える書簡送
付。
この経過一覧は、
「信仰と良心の自由のために―ランドール宣教師問題に関する声明―」
および「第26回沖縄バプテスト連盟年次総会議事録」(1979 年)を基に、ほかに文責者
が保管している資料(教会資料、書簡のコピーなど)を用いて作成した。
106
第7回
大学人として
2001.3.16(金)
竹内:今回は、前回の宣教師職の解任から今日に至るまでのことをお聴きしたいと思い
ます。そこでまず宣教師を解任されたときの生活の状況とか大学の先生になられるまで
の経緯とか、その辺りから語っていただければと思います。
ランドール:分かりました。解任されるということは、ふつう恥ずかしいことでしょう。
それが私に全然なかったかどうか分かりませんけど、でもほとんどなかったと思います。
なぜなら自分自身は宣教師としても牧師としても人間としても完璧な人間じゃないの
ですけど、でも解任されるほど悪くはないと自覚していましたからね。自分自身はその
ときまで新約聖書の教えに従って来た。ですからこれからなおより一層、この身を新約
聖書に置いて歩くことにしました。もちろん経済的に困っていました。使えるお金はな
いですよ。お金が入ってもどこかに出てしまう。子供の教育などありましたからね。
竹内:当時ウェインさんはまだ高校生?
ランドール:高校生でレたね。授業料の支払いで、高いお金を払って学校にやっている。
大学生 2 人もいました、長男と次男。インディアナ州立大学在学中でした。経済の負担
はけっこうありました。でもなにかいつも与えられたのですね。不思議なことですが、
思い出してみると。またその状況に慣れたのか、空っぽで歩くこともですね、楽な気持
ちでしたね。重みもない。多くの人たちは車の負担がある、家の負担がある、あれこれ
の負担がある。私は負担なしに歩く人間になりました。バスを使って、そのときコイノ
ニア・ハウス(現在の宜野湾バプテスト教会の前身)を開拓しておりましたが、バス停か
らコイノニア・ハウスの間を歩くのは、いつも一番楽しいことでした。
竹内:先生は歩くのがお好きですね。
ランドール:で、また私はこのために沖縄に来てるから、伝道のために。それを支える
仕事さえ探せば、まあ私の気持ちとしてはなんでもよかったですよ。仕事を持つならば、
伝道師として自分自身を支える仕事を。「心の貧しい者は幸いなり」と、完全でなくて
も、どうもこれの理解に近付いたかと思いますね。その幸いを自分自身の経験のなかで
持ちました。もちろんウェインのこともあった。いろいろこのあいだ話したとおりに大
変悲しい一面もありますけど、もう内面的には自分白身は毎目尐しずつ尐しずつ、強く
なりつつあることも自覚していました。それも自分自身がそうなりたいと思っているの
じゃなくして、与えられた恵みですね。
107
竹内:でもやはり生活上の不安というものはなかったのですか?
ランドール:いや不安があると同時にいまの気持ちがありました。不安が表面にある。
でももっともっと深いところにいまの安心、平安がいつもありました。だから不安とい
うものはもっと軽いところにありましたね。もちろんその経験を二度としたくない。と
りわけ自分自身の妻や子供たちにその経験をさせたくないということは言うまでもな
いですが。それが自分自身の精神の状況だった。まあガンディーやイエスさまの山上の
垂訓、そしてトルストイの本などをよく読んでいて、特にトルストイの『神の国はあな
たがたの中にある』という本を読んだりしていて。で、その中でいまの経済の状況に置
かれている私を励ます言葉がどんどん出てきますね。むしろガンディーのほうはそのよ
うな生活を進んで選んだわけ。自分自身の持ち物なしに歩く。その聖書や書物の助けも
ありました。良き理解をもっていた教会のみなさんも、とくにマクシン。壁のない妻の
世界と夫の間のこと。夫婦の絆もそれによって強められたと言わなければなりません。
そのうち沖縄国際大学で、
前から 1 科目 2 科目、
非常勤で仕事をしておりましたけど。
竹内:それは宣教師であられたときからすでに……
ランドール:はい。この大学を創立したときに、確か私はそのころ宣教師としてアメリ
カのニューヨーク・シティにおりました。これは 71 年か 72 年、「新しい大学を創る
から 1 科目、英語を教えてくれんか」という国際電話がかかりました、大学の関係者か
ら。最初は断りました。忙しいから宣教師で。でもどうしても、復帰してからちゃんと
した許可した私立大学がなければ、沖縄県は困りますから、その意味で一つでもやって
くれんかと言われたら、ノーはイエスに変わりました。やはり自分自身なにか沖縄のた
めにしたいと思えば、この仕事はいいかなと思って続けていたのですよ。お金はそっく
りそのまま宣教師団に戻して。
竹内:じゃあほとんどボランティアみたいなものですね。
ランドール:ボランティア。自分のお金にしてはいけないですよ。それを条件にして、
それで私や B 先生やバーンズ先生など、スペシャルファンドでありましたから、その
ファンドの中に入ってたのですよ。お互い責任をもっていた基金がありました。その中
に入れていた、毎月毎月。たくさんじゃなかったけれども、それをずっと続けていて。
そのうち(宣教師職解任後)T先生、かれは琉球大学の英文学科。ある時 T 先生が大学
の廊下で、「アメリカに帰ると聴いている」……そのときすでに(帰国の)準備をしてい
るでしょう、仕方なしに。で、「この大学で先生の働きが必要ですよ」と言われたんで
すよ。そのときは安里源秀先生が学長でした。安里先生に会わせられた。安里先生は「こ
の大学に君は残って……」あんまり事情を聴かないで、いきなり。おじいさんですから
ね。「君は沖縄に残って仕事をして、いまこの大学は文部省が立てている外国人を雇う
108
基準に達してないけれども、建つと同時に君は短期大学の講師として採用することを前
提にして仕事をして、その代わり大学のほうは君のビザの……」結局安里先生自身が保
証人になりました。
竹内:ああなるほど。そういうかたちで日本での滞在がきちんと……
ランドール:きちんとできました。それは 8 月か 9 月のはじめごろか、解任されてから
たぶん 2 か月経たないうちに、この話があったかと思います。
竹内:79 年ですねそれは。
ランドール:79 年 8 月か 9 月。そのころキリ短大(沖縄キリスト教短期大学)にもで
きれば、沖縄国際大もできれば、あちこちに希望をもっていたのですが、自分白身は何
も紀要論文は特別に書いてないし、それらしい資格はないから。たとえば名護先生は
YMCA にも当たって、そこにも仕事があるから、あちこちに当たっていたのですよ。
竹内:けっこう名護先生がいろいろ仕事の斡旋というか、してくれた……
ランドール:だと思いますよ。……で、T 先生は私を学長に会わせて……
竹内:ああそうですか。じゃあもっぱら後は安里先生……
ランドール:安里先生とランドール。これは内緒ですよ、そのころ。大学においても内
緒でした。後で聞いてみても誰もわからない。
竹内:そうですか。じゃあ安里先生の胸ひとつ、心のなかにあったと……
ランドール:でも 1 年くらい経ってから大学の人間になりました。書類は出入国(管理
局)から書類なんか来るのですから。一旦ビザを獲得してから、安里先生はこれを大学
の法人のなかに入れたのですよ。最初は 6 か月のビザでした。それを獲得して、またキ
リ短大の学長が大城実先生から金城(重明)先生に代わりました、ちょうどその時。で、
キリ短大のほうに私は身を置くのじゃないかと思われた。大城先生と安里先生で話し合
ったかどうか分かりませんけども、キリ短大もここ(沖国大)もほんとにいっぱい時間を
与えてくれました。ほんとに忙しい。キリ短大は 10 時間くらい、毎週。ここは 16 時
間、毎週持ってたのですよ。
竹内:先生を評価されたのですね。先生は、安里先生や大城先生と、話し合いというの
はあったのですか?
109
ランドール:安里先生には何回も会って言われましたけど、それ以前に。
竹内:じゃあかなりコミュニケーションはしていた……
ランドール:してたけども、でもそのことに限ってはほとんど一方的な話でした。「自
分はそうする。君もそうすれば。」と。
竹内:すごいですね、いきなりそうやって先生を丸ごと認めてしまう。
ランドール:うれしいことですよ、ほんとに。……ビザはないと思われたですよ、教会
側で。誰も何も言わないですよ。名護先生と当山先生などは分かっているのですけど。
そのときの 10 月に私自身は韓国に行って切り替えました。切り替えは家族を団としま
す。団長を立てて、団長がビザを切り替えて、戻ってきたらその中に配偶者などを入れ
るんですよ。
竹内:ああ先生が団長になるわけですね。
ランドール:団長の扱い。そういう言い方をしたのですよ。韓国に行って切り替えて、
10 月の 25 日。
竹内:よく覚えていらっしゃいますね。
ランドール:6 か月の教育ビザ。そうするとそれからは毎年 2 回更新していく。その場
合はキリ短大からも沖国大からも書類を出してもらった。両方の学長、理事長の印鑑も
ありました。翌年の 80 年になると教会側の、いわゆる「守る会」以外の人たちは、竹
内さんたちも含んでビザがあると思わなかったでしょう。何も聞いてないでしょう。
竹内:ほとんどそういうことは……
ランドール:最大の秘密でした。ビザがあるかないかと。あるとしても、どうやってそ
れを得たかと。言えないところなのですよ、ほんとは。安里先生は怒るとすぐ分かりま
すね。もちろん怒ることはなかったけれども、でも秘密を守らないと。それだけの大物
ですから。だから「守る会」もそれをきちんと守っていた。
4 月の何日か、宣教師としてのビザが切れますね。切れたときに B 先生は動きだしま
す。領事館……公式の場ではないですよ。なにかちょっとしたパーティーにたまたま B
先生ご夫妻と、私と家内が呼ばれたのですよ。いまの話はノーズさんですよ。ノーズさ
んのところに呼ばれて。
竹内:その領事がノーズさんだったわけですね。
110
ランドール:ノーズさんと私、マクシンは奥さんとはわりと仲が良くて。ノーズさんは
音楽が好きで、いろんな音楽を聴きにいって。また奥さんは混血児問題などマクシンと
共通した興味があった。で、その家で、パーティーの途中でノーズ領事に B 先生は「こ
のランドールはビザなしで沖縄にいるよ」と言ったそうですよ。すぐ翌日(ノーズさん
の)奥さんからマクシンに電話がくるのですよ。「いやビザあるのですけど、その経緯
は言えないけど、とにかくある。」だけど B 先生は韓国に行ったことさえわからない
ですよ。そのころホセ君も家にいて、かれはいろいろカバーしてましたね、電話をとっ
て。(笑い)
竹内:ああそうですか、大変な役でしたね。
ランドール:それでボーリンジャー先生はだいぶ歩いているということが分かったので
すけど。後に、こんど金城(重明)先生から大城(実)先生に代わるその時期、なにか大城
先生にも金城先生にも、B 先生とⅠ理事長から尋ねられた。理事長を連れて行くのです
けど、喋るのはボ B 先生。なにか怒鳴られたみたいですよ。「なんで教会の話を聴か
ない奴にビザを与えるか」。それでキリ短大の学長は驚くでしょう。何も話を聞いてな
いですよ。仕事をしたいから仕事を与えるのですけど、ビザ関係は一切関係ないと、正
直に答えるんですよ。「それは嘘つきだ」。B 先生はそれを信じてくれなかったみたい
ですよ、残念だけども。でもいま思い出してみると、B 先生がそういうふうに思い込む
のは当然でしょう。
竹内:はい一忚……
ランドール:まあ何となくランドールにビザがあるということを耳にしてるから、与え
た大学のほうでは……。尐しも沖国大に疑惑はなかったようです。で、6 か月のビザは
3 回あったか、たぶん 3 回だったと思いますね。今度 10 月のものを 4 月にして、これ
からは 1 年のビザにする。
竹内:それからは長くなるのですね。
ランドール:それは 1 回だけで終って、後は 3 か年のビザ。管理局もきちんと見てるか
ら。
竹内:ビザというのはそういうふうに期間が長くなっていくんですね。
ランドール:やっぱり本人がしっかりしてるから。向こうの責任は、日本にいる人が迷
惑をかけないことに注意しないといけないのですよ。この人はしっかりしていると。し
ょっちゅう出入りはしますからね、友達みたいになったのですよ。
111
竹内:でもちょっとした審査みたいなものがあるのですね。
ランドール:ありますね。かなり大きいファイルがあったようですね。
竹内:ああそうですか。やっぱり厳しいですね。
ランドール:新聞記事など。そのころ盛んにガンディーのことを新聞に書いたりしてい
たでしょう。そして上地みえこさんが日本語に翻訳した(沖縄)タイムズの記事もありま
したね、ガンディーのこと。それも(ファイルの中に)あったのですよ。それを見せても
らったのですよ。
竹内:そんなのがみんなファイルに……
ランドール:ファイルに入ってた。このランドールはどういう人間かだいたい分かって
きたか。で、今度本採用になりますね、86 年に。それで今度、出入国(管理局)のところ
で長い間お世話になっているので、ありがとうと言いながら、「今度おかげさまで本採
用になる」と。「それは聞いてる」と相手は言う。「今度は永住権をあたってみれば、
今回じゃなくて来年」。ちょうど切り替えるときに近付いてるから、3 か年のビザが終
ってから永住権の…・
竹内:とりあえず 3 か年のビザは満期まで使って……
ランドール:満期まで使って、それが終ると永住権を取る。もちろん約束はできません
けど、「当たってみればいいじゃないか」と。
竹内:ああそういう話があったということですね。
ランドール:それでスムーズにいきました。永住権を取ったのは 88 年 8 月でした。
竹内:このときに永住権を取得したのですね。
ランドール:はい。それを申請したのは同じ年の 4 月だったはずですけども、そのとき
3 か年のビザを切り替えるのですから。でも手続きなど時間がかかります。仮に 3 か年
のビザを与えて、また永住権の手続きなどしていたのですよ。そこでは沖縄国際大の高
宮学長、キリ短大の大城学長、琉球大学の東江学長、3 名の学長から推薦状があって…
…。まあそのときになってからは今のようなランドールになりましたね。普天間バプテ
スト教会と沖縄国際大学、沖縄キリスト教短期大学。法律上は沖縄国際大学の人間では
ありますけれども、私にとってはこの三者は縫い目のない世界ですよ。
112
竹内:そうですね、連続している。
ランドール:そうなってますよ。このあいだ英文学科の送別会のときに話ましたけども、
信仰をもっている私、また自分自身は自分の良心に従って生活を送るつもりで、この沖
縄国際大学に勤めているうちに一度も自分自身の良心に妥協しない、矛盾もない、ちゃ
んと自分自身の良心に従って仕事をさせてもらったことはとっても感謝ですよ。それが
いまの私です。
竹内:ほんとに多くの先生方がランドール先生をいろいろ支援し、立ち働いてくださっ
たということがあったわけですね。
ランドール:ありましたね。見えないところで多くの人が動いてましたね。
竹内:先生方はランドール先生が宣教師職を解任されたという状況などもご存知だった
のですか?
ランドール:はい分かっていました。
竹内:ああそうですか。そういう情報はすでに知っていて、先生のいま置かれている状
況をしっかりと把握なさっていたのですね。
ランドール:安里学長もべつに触れはしなかったけども、グリーンブックの 1 冊をテー
ブルの上に置いてたのですよ、私と話したときに。
竹内:それはもう何よりも語っていますね。
ランドール:言わなかったけれども、読んでることもちゃんと分かりました。大城学長、
金城学長などももちろんそうですけれども。また金城睦弁護士もですね、よく笑いの材
料を与えてくれました。
竹内:ああそうですか。
ランドール:非常に明るい、希望に溢れる……
竹内:そういう方なのですね。直接は知らなくて、よく新聞に出てこられるのをみるだ
けで。
ランドール:宣教師館に残っているでしょう。(解任後も 3 年間ランドール師は宣教師
113
館に留まっていた)私は、「理由をきちんと明らかにしてくれれば、たちまちこの宣教
師館を出る」そういう条件を付けていたのですよ。とりわけ何に基づいて「軍との不一
致」ということを言うか、これが第一条件ですよ。で、そのころの背景をはっきりさせ
るために、お互いにそれを話し合う。それを通して理解を、そして和解を求める。ほか
に和解の道はない。いまでもそう思いますよ。
竹内:いちばん大事なところを避けて通って、和解というのはありえないですね。
ランドール:ありえないですよ。
竹内:やはり膿を完全に出してこそ、その病が癒されるということですからね。
ランドール:それで那覇の教会の個人名義で宣教師館をもっていた。突然ある弁護士か
ら、58 号線に法律事務所がありますけど、手紙が来ました。その手紙の内容は「私(ラ
ンドール)と那覇のバプテスト教会の間の建物を借りる契約も終わりました。すぐに出
てちょうだい」と。「さもなければ法廷の手段を覚悟している」と。もちろん私と那覇
バプテスト教会の契約は何もないですよ。で、これをどうするかと。隠してはいけない
と思ってコピーして「守る会」に 2 通ずつ。那覇の教会にも 2,3 のよく分かっている人
たちいましたから、かれらにもコピーを差し上げました。那覇教会は動いていると。
「守
る会」はどうするかと。私は裁判は嫌ですから、クリスチャン同土で裁判するのはとっ
ても嫌ですけど、でも今度は自分自身が訴えるのじゃなくして訴えられているから、自
分自身の能力で裁判に臨めないから、それで私は金城睦さんに紹介されたんですよ。
竹内:なるほど、そこで金城先生が出てくるわけですね。
ランドール:金城さんは、こちらはお金はないと分かっている。「事務費なんかは掛か
るから 3 万円くらい押さえておけば、あとは任せてちょうだい」と笑いながらこの話を
するのですよ。
竹内:力強い人ですね。
ランドール:いつか手紙を見たかと思いますけど、金城さんが書いた手紙。これは普天
間教会にも公表しました。とにかくこれは K 牧師を相手にした。弁護士を通すのじゃ
なくして直接 K 牧師に。で、答えとしては、「自分は十分に法廷に出す構えをしてい
る」。グリーンブックのタイトルは「信仰と良心の自由のために」でしたね。それを核
にして、「それを裁判の場で、完全に追究するつもりであります」というふうな、とっ
ても厳しい手紙を書きますね。
竹内:調べ尽くされるのですね。
114
ランドール:たぶん K 先生も驚かれたかと思いますね。ちょっと先生の方がかわいそ
うと思うくらいでしたね。まあとにかくそういうことがありましたから、そこから、そ
れ(法的手段)はうまくいかないと分かるでしょう。向こうは金城氏にかなわないと誰も
分かるから、法廷じゃなくして、今度連盟を通して普天間教会の除名を。それが次の手
段でした。
竹内:いろいろな経緯のなかで宣教師を解任される。そして宣教師館の退去を求められ
るというなかで、もう一度バプテストの正義と信義をきちんと確かめて、そこに拠り所
を置きながらそのバプテストを批判するというのは、やはり根本に戻るということにな
りますね。そこに本当は、相手の方々が気がつかれると一番よかったと思いますね。
ランドール:ほんとにそうですよ。
竹内:でもいまこそ、そのチャンスがあるんじゃないですか?
ランドール:どうですかね。連盟においてはどうですかね。いまの連盟はそのときの連
盟の理事長と変わらないでしょう。交替々々やっていて。たとえばこのあいだ尐女が暴
行された。そのとき連盟は組織として声明していいのか、私自身は組織としての声明に
対してちょっと疑問がありますけれども、でもいずれの場合でも沖縄バプテスト連盟の
理事がそれをするつもりで集まった。そのところで、コザ教会とセントラル教会の牧師
が現れてきて、抵抗があったために止めたでしょう。
竹内:ああそうですか。
ランドール:だから根本のところでは変わっているか?……でも私自身が希望をもって
いるのはですね、たとえば今の話でですね、直接はたらくところと同時に全然知らない
ところ、思いがけないところからいろんなものが現れてくるでしょう。
竹内:そうですね。僕もいま考えていたのは、やはり若い牧師先生たちが、もうすこし
沖縄の社会の問題、先生が投げ掛けられている問題をきちんと把握する、そういうこと
をやっていただければ、本当にバプテストがさらに新鮮なかたちになって、新しい世紀
に本当にいい形ができるのじゃないかという希望はもっているのですけど。
ランドール:私はその希望に溢れるのですよ。
竹内:そのためにも、先生はもちろんですけど、僕たちもそういうことをよく勉強した
り、チャンスがあればそういうことを語るということが、バプテストのなかで必要だな
というふうに思います。
115
ランドール:まあ私自身は自分の目でそれを見ることはたぶんないだろうと思っている
けど、それはけっして重い心で言ってるわけじゃない。(宣教師解任後)これからどうな
るか、何もその具体的なものが現れてこないそのころ、バスストップとコイノニアハウ
スの間を歩いていて、ほんとに空っぽの自分自身が歩いているときに、やはり完全なる
和解をもった沖縄バプテスト連盟を自分の心のなかで見た覚えがあります。
竹内:ああそうですか。
ランドール:ですから見てきたから、それは十分だと思います。ですからいつか説教の
なかで「私はこの世から去ったときに泣かないでちょうだい」と言ったでしょう。
竹内:はい覚えています。
ランドール:まあそのとき今の話はしなかったけれども、そのとき今の話が心に浮かん
でいて、突然、説教のなかでその気持ちがあったから……。まあだからこのランドール
は神と一緒に歩いてきたと、誰か短い話をしてくれれば、それで終りたいと思いますよ。
つまりは私たちが生きているこの世の中にたくさんのものが、泣きたいと思えば泣かす
材料がいっぱいありますよ。病気、抑圧、戦争、死がどこかで待ち構えていますけど、
でもそれは第二の問題ですよ。
こういう体験を通してそのことを、あえて「悟る」という言葉を使いますけども、悟
ったということはですね、私の人生に最高の最大の信仰的な経験だったか……、自分自
身はそのときに、どうも至高と相まみえるかたちになった一瞬がありましたね。自分自
身は一人で歩いて、まあそのために来たと分かったから。なんで B 先生に怒らないか
と言われたら、なんで G 先生に怒らないかと言われたら、怒る理由はないわけ。
竹内:そのことを心に留めておきたいと思います。
ランドール:ありがとうございます。竹内さんですから私はいいます。
竹内:ありがとうございます。
話をまた元に戻させていただきますけど、宣教師という職を失われた。外面的には失
業の状態におかれたのですけど、そのとき神様と先生との関係が切れるはずはないので、
そういうアイデンティティみたいなものの危機というのはなかったと思うのですけど、
ただ宣教師というひとつの立場が消えてしまった。だからその立て直しが必要だったと
思うのですけども、先程先生が新約聖書を根本に置いたと言われたのですけど、もうち
ょっと具体的にその新約聖書のどういうところに根本を置かれたのか、お聴きしたいん
ですけど。
116
ランドール:山上の垂訓ですよ。いずれの場合でもそれは読み返す。そのころの聖書は
だいぶ黒くなるほど……そのところです。自分は何を飲むか何を食べるか何を着るかと
思い煩うな。また自分自身は実際平和を創ることはできないことは分かっていたのです
けど、そのつもりである私は、がんばってみれば「神の子」と呼ばれるからと、それに
チャレンジがありますね。実際にできたのじゃないですけど、チャレンジがそこにあり
ました。「心の貧しい者、それは幸いですよ。」自分の経験のなかで、だいぶその理解
を深めたと思いますね。
竹内:これはクリスチャンの根本でもありますね。
ランドール:宣教師になることはですね、プライドにつながります。
竹内:プライドですか?
ランドール:宣教師はやはり牧師のなかで最も険しいところに立っているというイメー
ジがありますね、私たちは。育ったとき、ウィリアム・ケリーとかアドリアン・ジョン
ソンとか、そういった人たちのことを読んで。またかれらは本当に立派な人だと。
竹内:宣教師のイメージというのが、そういうふうにあるわけですね。
ランドール:私自身にもそれなりのプライドがあります。エゴイストですよ、私は。エ
ゴが大きいですよ。いまでもそうです。それとの闘いは毎日ですけど。「この宣教師は
日本語が下手。この宣教師は日本語が上手。」私自身はやはり上手な方に立ちたいです
よ。力のあるところに立ちたい。自分自身は宣教師と呼ばれてうれしい。
竹内:そうでしょうね、名誉な仕事で。
ランドール:が、そのイメージは崩れてしまいました。
竹内:(宣教師職の)剥奪というのですか、解任されるということはやはり先生のプライ
ドが大きく傷つけられたと、しかし……
ランドール:大きいと。(しかし)よくやってくれましたね、そういう意味で。助かりま
した。(笑い)
竹内:ああなるほど。(笑い)
ランドール:それは破れましたからね。自分自身は説教する、伝道する、奉仕をする、
平和をつくる。自分自身は神に呼ばれている。牧師で生きる人間は牧師に呼ばれている
117
か、宣教師に呼ばれている。(しかし)そういうことじゃないです。もっと根本的なとこ
ろがありますよ。そこに「心の貧しい」という意味がつながります。聖フランシスコの
ことをよく勉強しましたね。フランシスコは宣教師として出かけるときにローマ法王の
紹介状、推薦状など持っていかないですよ。お金も何も持っていかないですよ。自分の
信仰をもって出かける。それを通して今度、幸い宣教師というイメージが破れましたか
ら、フランシスコの勉強が役にたったのは、それを通してイエスさまを見ることができ
ましたね。フランシスコという人間じゃないですよ、結局。その人間にとどまらないで、
イエスさまに近づくことをいつも追求する。その働きはいつの間にか心のなかにあった
んです、今でもありますね。だから宣教師という資格が失われたということで、多くの
人は恥ずかしいと思うはずですけど、本当はそうじゃないですよ。シート先生はそれに
気づきましたね。紹介に「解任」、かれは「解雇」という言葉を使いましたけど、「解
雇した」とはっきり書いてくれましたね。(笑い)
竹内:「解雇」ですか。
ランドール:そういう資格の問題じゃないですよ。
竹内:「山上の垂訓」のなかの「平和をつくり出す人はさいわいだ」というのは「貧し
い人はさいわいだ」というのと全くイコールになっている……
ランドール:イコールですよ。
竹内:だから「平和をつくる」というのはけっして物でつくったり、お金でつくったり、
権力でつくったりするのではなく、「貧しい人」がつくるということですね。
ランドール:そういうことですよ。
竹内:これはとてもカづけられますね。それがまさにガンディー、キングにつながって
いく。同時にわれわれ沖縄の、力のない人たちにつながっていきますね。
ランドール:はい。いま沖縄の人は「円」に対して憧れがありすぎて困ってますね。
竹内:そうですね。これにすごく釣られているなと……
ランドール:多くの人はガンディー、キング、そして特にイエスさまの言葉を読んでほ
しい。まあ宗教に対して苦手としている気持ちの人がいるでしょう。その人たちは直接
聖書でなくても、キングかガンディーをみてもらえばいいですよ。
竹内:はい。そういうふうにこれから平和をつくり出していかなければいけない。
118
ランドール:大学で教授、また国際交流所長などやっていて経済的にけっして困ったこ
とはないですよ、いい状況で。しかし何もなかった時の心の状態を保つ。それは毎日の
祈りの課題であり、完全にはできなかったと言わなければならないのですけども、でも
いつもそれを心のどこかに持っていましたから、そこに救いがあったかと思いますね。
竹内:分かりました。また質問させていただきたいのですけど、先程先生が大学の先生
であることと牧師であることとは連続している、とおっしゃった。大学の先生になられ
て、もちろん以前から普天間教会の協力牧師であられたのだけれど、とにかく新しい生
活が始まりました。その辺の変化ということは、何かあったのでしょうか?
ランドール:まあ表面的にはあったと思いますよ。時間的にやはり大学を優先しないと
いけないでしょう。
竹内:やはり生活が変わりますね。
ランドール:変わりました。また研究も、私は英語教育を研究することに対して別に興
味はなかったけれども、でも大学が英語を教える教員として雇うならば、きちんと研究
して。Japan Language Teacher Association があります。また沖縄において英語研究
会、そしてアメリカ英語研究会などありますね。そういったところに全部入って、一緒
に勉強して……
竹内:これは大学人としての新しい仕事ですね。
ランドール:そしてちゃんと紀要論文も 4 つ書きました。
竹内:その方面の論文も書かれた。
ランドール:さもなければ、自分自身は他の英語教員との語り合いがどうもうまく行か
ないでしょう。で、かれらが読んでるものを読む。かれらがやっていることをやってみ
る。自分自身なりに、英語教員として(自らを)育てたつもりです。
竹内:自已教育ということですね。
ランドール:だけどもこの間ある教員に言われたのですよ。「ランドール先生はそうい
うことをしたようですけど、本当は何も変わらなかった。」なぜなら自分自身の英語教
育の論文のなかで、南米のペルー、アルゼンチンで教育されたフレリーさん……彼は国
連関係でもユネスコでもかなり世界的に有名な人でしたけども、フレリーさんが、圧迫
された人たちの教育はかれらが圧迫されたその状況から始まらないといけない。貧しい
119
者なら貧しい者のなかから行って、かれらが語り合う。そして読み書きの材料にする。
テキストを持っていくのじゃなくして、かれらの生活から表れてくるものをべースにし
て。
竹内:技術だけのレベルではなくて、生活のレベルから英語教育というものを作ってい
く。
ランドール:フレリーさんは、どの文化もそれぞれ違ってますけれども、それぞれの文
化には創造のキーワードがあると言ってました。たとえばある地方では山の人たちは一
番怖いのはポリス、警官ですね。怖い存在ですよ。で、そういったことをとても感情を
込めて話したりする。それを文章にしたり、書いたり読んだりすると覚えやすいでしょ
う。その創造的なキーワードがあれば……、沖縄でいえば何といっても戦争(War)です
ね。いまだって、人としばらく話しているうちに、なんらかのかたちで「先の戦争」と
いう言葉が出ますね。「先の戦争で……」と。それで『Okinawa's Tragedy』(沖縄の
悲劇、あき書房 1987 年)という本を書きました。
竹内:先生が書かれた本は、そういう中で生まれた。沖縄戦を題材にして……
ランドール:戦争というキーワードをもって。またそれを紹介する論文も書きましたけ
ども。
竹内:テキストのほかにドリルでしたか……
ランドール:使っていましたね。ワークブックがありました。それは私もびっくりしま
した。好評でしたね。よく使われている。
竹内:ずっと使われるといいですね。いまでもそのまま使われているのですか?
ランドール:そうらしいですね。私自身は何冊か残しているだけですけど、本自体はな
にか動いてくれるのですよ。
竹内:じゃあ何回も新しく刷り直して……
ランドール:そうじゃなくして、比嘉さん(発行者、比嘉昭子さん)はそうすべきでしょ
うけども、契約上では千冊。だけど「あの千冊よくもちましたね」(笑い)と。まあいい
のじゃないかと。比嘉さんなりにやってるからいいのじゃないかと思います。
竹内:(笑い)活用されているのですね。
120
ランドール:自分自身はフレリーをベースにして、自分自身の立場を。で、今度教員同
士も、ランドールはフレリーの立場に立って教員をしてると、分かってもらいました。
で、かれらの中に、たとえばチョムスキー(言語学者)とか何とかありますね。それぞれ
ありますけども、お互いの立場を理解しあう。そしたらその分はしっかりしてきて。で
も英語教育の研究はですね、フレリーの勉強を押さえてからはそんなに興味は保ちやす
いものではないですよ。(笑い)
竹内:ああそうですか。
ランドール:いつのまにかプエルトリコ、コロンブスから圧迫されたカリブ海の……
竹内:ああ先生の(紀要)論文のなかに、なにかありましたね。
ランドール:それからアメリカの黒人の宗教などの論文を書きましたね。ついにまたキ
ングやガンディーに移って。いま本線に戻ってきたのですよ。もっと深いところでは全
然それに離れてないでしょう。フレリーを選んだこともですね、自分はその立場に立て
るからと思ったから使ったのですよ。でもこのあいだ言われてみれば、何もそれはガン
ディーの研究と矛盾はしない。
竹内:はい、そうですね。
ランドール:でもそのときは意識しなかった。最近言われてはじめて気づきました。
竹内:つながりますね。
ランドール:ある人に「牧師にはいい説教は一つしかない」と言われたことがあります。
根本がひとつならば、研究課題において、その人の全てを語ることになりますね。
竹内:そこがきちんとしていれば一貫したものとなる。
分かりました。じゃあもう一つ先生に聴いてみたいのですが、ガンディーの研究につ
いてもっと詳しく聴きたい気がしますね。
ランドール:じゃあその研究について、もう尐し話しますか?
竹内:ええ、専門のガンディー・キングの研究について、ちょっと。
ランドール:はい。前から特に南アフリカのガンディーに興味をもっていました。でも
私に与えられた資料などはほとんどがインドのガンディーですね。まあ簡単に南アフリ
カを紹介してインドの方に重点を置くのですよ。ところがガンディーは南アフリカで自
121
分自身の思想を形成したと分かってましたから、その辺に興味がありました。
幸い 1996 年に沖縄で平和学シンポジウムがありました。その時、姉妹校関係にあり
ましたベイラー大学から発表者をひとり選んで、向こうは送るのですよ。ジョンソン先
生。このジョンソン先生は南アフリカのナタール州にあるピーターマリツバーグで生ま
れ育った。元はピーターマリツバーグ・キャンパスの宗教学部の教授だったはずですよ。
ただアパルトヘイト(人種隔離政策)のときに、アパルトヘイトに反対する立場を明確に
したから、結局自分と奥さんはスイスに、後にアメリカに亡命しました。そこでベイラ
ー大学の教員になりました。で、このジョンソンさんと私は話がやりやすいか、非常に
リラックスして話せる人ですから、今の話(ガンディーが南アフリカで思想形成をした
こと)をかれにしたのですよ、その場で。まだかれが今度の学会で南アフリカのことを
発表すると思わなかったですよ。私は詳しくそれぞれの発表を読む時間はなかったです
から。内容に関してはまだ見てないですよ。ジョンソン先生は「私自身は今度そのこと
を発表する。それに触れる。私自身はもともと南アフリカ人ですよ。」と。
竹内:ああそうですか。
ランドール:(笑い)それで翌年 97 年から一度かれとカイロで国際会議に同席して、そ
の会議のときに具体的なプランを立てました。
竹内:すぐ意気投合してしまって。
ランドール:はい。そうすると今度どうやっていけるか。この大学は退職しますね。(で
も)3 か年の客員教授として残る。教える科目がだいぶ減る。給与もだいぶ減るんですけ
ども、研究費などはほかの教員と変わりません。特別研究費も使えますし。たとえば講
師であろうが教授であろうが同じレベルですよ。ほかの教授と同じです。で、すぐかれ
と私の間でちょっとした計画を立てたのですよ。最初はケイプタウンとダーバン。そし
て 2 回目はダーバンとピーターマリツバーグとヨハネスバーグを。それでガンディーが
活躍したところをカバーできますから。まあ幸いかれは大学人ですから相当の紹介がで
きました。全部回れないほど。
竹内:やっぱり顔がひろい。
ランドール:またジョンソンは尐しヒーローになりましたね。ネルソン・マンデラが当
選したときに招いた一人でしたね、かれは。アメリカから呼ばれて。民主主義をちゃん
と守るかしないかと、いろいろ監視することがありますね。その立場にもありました。
とにかく大学のほうにそういう制度があります。3 か年をかけて特別研究費を使いま
す。つまり 3 回外国に出かけて現場で調査研究ができる。
122
竹内:ああなるほど、いいですね。
ランドール:まあ額は約束できません。たとえば 1 千万円(大学の特別研究のための年
次予算)があるとすればですね、それに対して何人かの先生が要求します。その人の交
通費などプランを立てて出しますね。そしてその人数にしたがって分け合う。平等に分
けるんですよ。まあ幸い私は人数の尐ないところで、3 回も当たった。(笑い)
竹内:(笑い)なかなか良かったですね。
ランドール:それで南アフリカに 3 回。またその 3 か年の計画の中で最後にどういうふ
うにしてそれを発表するか。まあ紀要論文でもいいですよ。でも出版の場合はまたさら
に大学にもうひとつの制度があります。で、今度 3 か年の研究をひとつの成果として本
にします。著作権がここにありますね。発行権は大学、出版権は金城印刷。それは最初
から分ってます。それに向かっていきます。本のパート 2 はキング牧師のことですから
途中でひとつの紀要論文を書きました、キング牧師の。それを編集して本のパート 2 に
しました。
竹内:なるほど、そういうかたちになったんですね。
ランドール:でもそれを書いたときに尐し大きくしましたね。私と比嘉長徳先生と儀部
景俊先生のグリッツ・クラブありますね、南部研究会。それも 3 名で共同研究をずっと
続けてますね。それで 2 回アメリカ南部を回ってきました。
竹内:じゃあ 3 名で研究をなさっているわけですね。
ランドール:そうじゃないですよ。出かけるときに比嘉は文学の課題をもっている。
竹内:フォークナーをやってらっしゃると(出版記念会の)自己紹介のとき言ってらっし
ゃった。
ランドール:儀部は歴史。ランドールはキング(牧師)。
竹内:みんな南部で統一して。
ランドール:で、ある時は私が得る資料は尐ない。ある時は豊か。その代わりたとえば
フォークナーのときには比嘉先生はいっぱい持って帰るのですよ。
竹内:融通しあいながら譲り合ったりして。
123
ランドール:でもお互いは話し合ったり、文章を書いたり見せ合ったりして、お互いは
支え合いますからね。だからこのパート 2 はですね、共同研究の成果と言っても間違い
ではありません。実際に研究していたのは私ですけども、でもそのなかで研究したこと
ですから。ですから論文を書く前にすべてはなんらかのかたちで活字にして、比嘉と儀
部と読み合ったり話し合ったりしてきた。そういう意味で似た者ですよ。で、それも大
学の特別研究費を利用しました。アメリカの 2 回の旅、それもありましたね。ちゃんと
課題をもって研究している 3 名ですね。まあ飲み食いだという評判もありますけども、
それも間違いないですけども、飲み食いしながらもやっぱり研究してると、それぞれ自
分自身の課題がありますからね。で、そういう意味で大学に来てほんとによかったです
よ。
竹内:そうですね。
ランドール:南部で自分自身はキングのデモに参加したり、キングの説教を聴いたりし
てたでしょう。本(『非暴力思想の研究』)のなかに自分自身が撮った写真がひとつあり
ますけど、キング牧師が平和賞を受けてるときの。ですから接触はありますけども、で
も接触があっても、自分自身が経験したことをそのときの社会、歴史背景、そしてほか
の文学などに照らさないと十分に書けないですよ。
竹内:ああなるほど。
ランドール:ただ自分自身が経験したエッセーに過ぎませんね。ジョージアにいた私は
ですね、ミシシッピーにあるもの、あるいはアラバマにあるものにはその当時あんまり
気付かなかった。でも資料なんか読んでみるとですね、後で新聞や雑誌なんか読んでみ
れば、やっぱり総合的に関係ありましたから。
竹内:その時代をきちんと再現できるということですね。
ランドール:それは大学の研究制度がなければできなかったことです。だからこの本の
1 ページから最後のページまで大学がなければできなかった。それで、ときに玉城先生
やほかの先生たちといっしょにまた英語教育学会などに出て、福岡に行ったり長崎に行
ったり、何回も。琉大、沖縄国際大学などその区域の研究会に発表したりしてきたので
すけれども。そういうことをしているからやはり教会で働く時間はわりと尐なかったと
思いますよ。
竹内:忙しいときがあった。
ランドール:必然的にそうなった。特に国際交流を担当するその 9 年間は外国に出かけ
ることが多かったのですよ。
124
竹内:そうですね。よく先生が旅行に行かれることがありましたね。帰って来られても、
またしばらくすると……
ランドール:そのこともありましたから。教会は基盤ですけども、表面はその間だいぶ
変わりました。でも今、自分が経験したこと、研究したこと、また教会のなかで説教し
たこと、話し合ったこと、祈り合ったこと、みんな繋がってますね。
竹内:その繋がりの深さというか広さというかそれをもっとお聴きしたいですね。広く
回って……
ランドール:だいぶ広く大学のために歩いてきましたね。
竹内:そのことが先生の考えのなかに大きな影響というのですか、とにかくそういうも
のを与えられたということがあるのでしょうね。
ランドール:私はずいぶん教えられましたね、この世界から。
竹内:世界を見るというのは、やはり現地に出かけてはじめて分かるものでしょうね。
とくにどんなことが先生の場合あったのですか? 異文化のショックもあったと思うけ
ど、そういうことも含めて何か、世界を見たという経験はどんなものだったのか、ちょ
っと聴かせていただきたいですね、最後に。
ランドール:それはまだ自分自身の心に十分に整理してないと思いますね。ただ意外と
アジアの国々のなかで仕事はうまくいきました、大学の国際交流担当で。特に台湾とタ
イ国と韓国では大学のもっているものを向こうに紹介して、話し合って、また向こうの
ものをここにもってきて。そのころ私たちの沖国大は尐し早めにスタートしたから先輩
とみられたのですよ、大学自体は。その立場に立った私自身もですね、お互いは協力し
合う。その接点をみつけたりして。それは仕事の主なところですからね。それさえ見つ
ければ、後はそれをセットしてまた交流はできますね。交流が始まりますと交流しなが
らいろんな人がいろんな経験をして出会うことによってまた増えるのですよ。でも最初
はやはり接点をみないといけない。
タイ国のヨノック大学のルダン学長と私。それから孫(チャン)先生は台湾の東海大学。
朴(パク)先生は韓国の韓南大学。3 名との話し合いは最初からなんとなく通じ合いまし
たね。3 名とも英語教育、アメリカで勉強されたせいなのか分からないのですけども。
竹内:共通理解が早かったということ?
ランドール:早かったんですよ。それなりに自分自身もアジア人になったか分かりませ
125
んね。アルスター大学、これは北アイルランドですけど、アイルランドは沖縄とよく似
てますね。
竹内:米須興文先生がよくアイルランドの……
ランドール:はい。共通点を見つけたいと思えばいくらでも見つかるのですよ。中央か
ら圧迫されて経済的に困らされて、戦争の経験もあれば、まあなんでもかんでも共通し
たところいっぱいありますから。また教育は平和を願う教育。それが混じっているでし
ょう。絶えずこのことが対話のなかで出てきますからね。ですから私自身のせいじゃな
いですよ。島国どうしであったところですよ。もうすぐ結婚。(笑い)
竹内:(笑い)そうですね。
ランドール:たとえばベイラー大学のベルー先生、ベルー先生は大学の国際交流担当で
す。そしてベイラー大学はヨノック大学のルダン学長の母校ですよ。かれ(ルダン学長)
の学部そして博士課程もベイラー大学。その間のマスターズはほかの大学でしたけども、
とにかくかれはベイラー大学で育った。タイ国の大金持ち。たとえば後で聞いたのです
けど、「自分の息子がベイラー大学を卒業したときに、ベイラー大学附属の研究所に百
万ドルを寄付した」と、簡単そうに。かれの奥さんはもっと金持ちですよ。タイ国はそ
んな国ですよ。で、かれは自分の大学をつくるのですよ。
竹内:自分の大学をつくれるのですか?
ランドール:だけど平凡な人みたいに自転車に乗って、あちこち縫い直したズボンを着
けたりするのですよ。
竹内:じゃあ見た感じは……
ランドール:とても付き合いやすい学長です。かれの恩師がベルー先生ですよ。2 回目
にベルー先生とルダン学長と出会った。今度沖縄国際大学とヨノック大学の協定を結ぶ
のですよ。私と嘉数先生と金城教学部部長 3 名で出かけてセレモニーをむこうでします。
卒業式にも出ます。大学ができてから最初の卒業式ですから、ベイラー大学からベルー
先生も来ました。ベルー先生と私はアメリカの南部の人間同士であって、なんでも話す
のですから。かれの奥さんルースも一緒ですから。このルースもうちのマクシンとどこ
か似ていると思って、そのフレンドシップから沖縄国際大学とベイラー大学との結びつ
きがあったかと思いますよ。
竹内:先生の働きというのはそういう意味で大きいですね、アジアの学校やアイルラン
ドの学校と提携するに際して。
126
ランドール:ところが私とベルーは結び合う。しかし大学同士は結べなかった。
竹内:ああそうですか。
ランドール:あまり熱心にそれを勧める私とベルーですから両大学は承知してサインし
ました。でも最初からそれはうまくいかなかったのですよ。むこうはテキサス州におけ
るいちばん古い、またテキサスにおいては最高の大学ですよ。テキサスのハーバードと
呼ばれているのですよ。テキサスが州になる前から大学が存在してます。相当古いので
すよ。
竹内:すごいですね、先に大学があった。
ランドール:この大学はもちろん医学部まで全部もっている。
竹内:総合大学ですね。
ランドール:プライドがあり、またやはり成績もありますね。バプテスト系のミッショ
ン・スクールですけども、それを超える総合大学ですよ。
竹内:ああ母体となったのはミッション……
ランドール:バプテストの教会ですよ。
竹内:それを拡大していったのですね。
ランドール:私の神学校の先生らがそこを卒業した人もいますし、また神学校で勉強し
ていたときに同級生のなかにベイラー大学卒もいました。そこの宗教学部は強いですよ。
それで私とベルー先生はフレンドシップがあっても、それだけでは十分だといえないで
すよ。やはり組織同士ですから。
竹内:どこか詰めの段階で……
ランドール:だから最初から接点をみないで結んでしまったのですよ。それは後悔して
ますけども。だけどそれは 3 か年の契約ですから、それを結んで終ったら終わり。(笑
い)
竹内:(笑い)ああ残念でしたね。
127
ランドール:残念だけど誰もびっくりしない。ただそのうちにジョンソン先生は今度の
国際平和シンポジウム(96 年 10 月開催)に参加してくれたのですよ。そしてそこからこ
のジョン・ジョンソンとジョン・ベルーとこのビル・ランドールの三角形の交流はつづ
いています。
竹内:ああそういう交流はつづいている。
ランドール:その分はよかったのですよ、私にとって。でも大学にとってはそんなにい
い経験ではなかったのですよ。だからきちんと客観の目を失わないようにしないと仕事
ができない。
竹内:ひとつ残念なことがあったのですね。でもアジアの学校と提携ができたりして、
沖縄の学生にとって、とてもいい刺激になっているでしょうね。
ランドール:なってると思いますね。
竹内:はい、今日はもう長いことお話しいただいて。今日先生は(『非暴力思想の研究
―ガンディーとキング―』の)出版記念日ですね。おめでとうございます。
ランドール:ありがとうございます。
竹内:夜にまた賛美で参加しますので。
ランドール:ほんとに感謝ですよ。それがあると思わなかったですよ。
竹内:あ、そうですか?
ランドール:いや儀部先生が中心となって儀部、名護(良健)、仲石(清重)、上里(健次)
その人たちが集まって。「私は行きますか」と聞いたら、「いやランドール先生は 16
日の 6 時半に現れればいいよ」と。
竹内:それで今日もこうしてゆっくりしていられるのですね。
ランドール:まだプログラムも見てないですよ。
竹内:(笑い)ああそうですか。いいですね。じゃあ今日、楽しみにしております。今日
は長い間ありがとうございました。
ランドール:ほんとうにありがとうございます。
128
第8回
現在そして未来へ
2001.5.17(木)
竹内:先生、今日もよろしくお願いします。今日は、現在からこれからを展望するかた
ちでインタビューをお願いいたします。
ランドール:分かりました。
竹内:まず全体を振り返って、67 年に来日されて、69 年に沖縄に来られてから今日ま
でを振り返って、まあとても長い期間ですけども、何か感想みたいなものがございまし
たらその辺りからお話しいただきたいのですけど。
ランドール:はい。まあ来て良かったと。私は牧師として使命を受けて、使命感があっ
て働いているということがいちばん大きい前提ですけども、それはご承知のとおりです
から置いておきましょう。いまの沖縄にしぼって答えたいです。昨日の新聞でしたか、
県知事がアメリカに渡られて、そこでアーミテージ国務次官と会った。アーミテージ次
官と会ったときに、県知事選のときから間題になっている「15 年使用」という問題を
出しました。最初からそれは中身のないものだった、と多くの人は分かったと思います。
それにしてもそれをもって多くの人たちを誘ってきたでしょう。いずれはこれは沖縄の
財産になるという言い方をされつづけられました。アーミテージさんはむしろ SACO
(沖縄に関する特別行動委員会)を先にして考えたいということで「15 年」のことは
あまり問題にしようとしない。そうすると今の沖縄の政治と経済は嘘の上に立っている
ということは間違いないでしょう。バブル経済がそうだった。バブルというものは中身
はない。弾けるとほんとうに陥る。いまの沖縄、日本はそれを自分の身で経験している
ところですけども、いずれこの嘘の上に立っている沖縄のアメリカ基地、それは間違い
なく弾けるときがあると。で、そのときから沖縄は急速に変わっていくと思います。
竹内:その変わるというのは……
ランドール:基地は無くなりますよ。ガンディーは言うんですけども「真実は永遠にあ
る。嘘というものは存在しない。」存在しないということ、そういう事実となりますか
ら、そのときに沖縄は備えて、沖縄自らの生活を送るようにしないといけないから、自
給自立。それはもちろん物質的なことですけど、精神の面でも自分の足元をきちんとみ
て、立てる沖縄でなければならない。それは現在でも目の前にありますよ。来年起こる
か、あるいは 20 年後に起こるか分かりませんけど、でも必ず起こります。
竹内:それは突然起こることもありうる?
129
ランドール:バブルが弾けたときもそうだったでしょう。
竹内:ああそうですね、一挙に落ちていく。
ランドール:バブルが弾けると、針を風船に刺すときのように瞬間的に起こると思いま
すよ。前は段階的に基地をなくするきっかけがあったと思いますけれども、それは過ぎ
た。
竹内:そういえばそういう備えを一切いま沖縄はしていませんね。
ランドール:やっていない。向こうからの援助、補助などを期待してすべてをしてる。
竹内:嘘の上の期待感だけでみんなが「おねだり」をしている。
ランドール:そのような答えを受けながらも県知事はアーミテージ氏ともう一人のパウ
エル氏と握手しているでしょう。ニコニコして。それを見てですね、ほんとに面白い世
界だと思いますよ。沖縄はですね、世界を見る顕微鏡になります。(笑い)
竹内:世界を見る顕微鏡?
ランドール:沖縄ですよ。小っぽけな島ですけども、じっと見れば世界を見ることがで
きますよ。
竹内:そこに縮図というか、世界が凝縮されている。
ランドール:そうそう。いまの現象をですね歴史的にもあっちこっち見ることできます
けども、ひとつの場所で集まったところは沖縄だけですから。世界を見たければやはり
沖縄に来ればいいなあと思いますよ。まあそういうことですよ。
竹内:先生が書かれたものを読んでみたのですけども、そこで先生が沖縄についてこん
なことを書いています。そこの箇所だけ引用します。沖縄戦について 2,3 年前にエッセ
ーを書かれた。そのなかで「(沖縄戦が)明白に沖縄の『基本的なテーマ』であると述べ
た。このことで私が言いたかったことは、第 2 次世界大戦の悲劇は、沖縄人が彼らの世
界を見るレンズであると同時に、彼らが生活の中のできごとを評価する際の参考書でも
ある、ということである。そして今日、沖縄で人間の生活に、依然としてその最も顕著
で不変の特徴を与え続けるのは、何にもましてこの悲しむべきテーマである、と私は思
う。沖縄のこれらのことがらについて考えることが原因となって、私は 1 世紀以上も前
のジョージア人の経験(南北戦争)が、どのようにわれわれの思考を彩り続けているのか
130
に注目することになったのである。」(『地域と文化』第 75 号。1993.2.15 儀部景俊訳)
と、沖縄とアメリカ南部の経験を重ねておられるのですけど、そこで先生が述べられて
いるのは、沖縄戦の経験というのが基本だという……今日の沖縄の人たちはそれを忘れ
ている、あるいは忘れたかのように振る舞っているということですね。そういうことを
いま先生はおっしゃったのじゃないでしょうか。
ランドール:同じ意味をもっていると思いますよ。
竹内:ですから先生がここでクギを刺してらっしゃるのは、その原点に、沖縄戦の原点
に帰って、そこから世界を見なさいとおっしゃっているのですね。
ランドール:同じことがいまでも言えると思いますよ。
竹内:稲嶺県政、それから最近の小泉内閣の高い支持率もどこかで繋がっていくような
怖さがありますね。そこのところに沖縄の人が気がつこうとしていない……
ランドール:あると思います。
竹内:分かりました。世界の状況も絡めて先生はおっしゃったのだけども、平和の問題
とか、それから先生がずっとテーマとされてきた非暴力の問題、いまアメリカのアジア
政策はクリントン政権のときと変わって、ブッシュ政権では再び北朝鮮それから中国に
対してこれを敵視するような政策を執りはじめていますね。これは緊張緩和に逆行する
ような気がするのですけど、こういう状況を先生はどのように見てらっしゃるのでしょ
うか?
ランドール:クリントンさんはできるだけ暴力を使わないようにいろいろ方針を出した
と思いますけど、ブッシュさんは違いますよ。問題の強制的な解決を信じる人間ですよ。
それは明確だと思います。
竹内:強制的な解決。
ランドール:暴力も含む。アジアのこともありますが、もっとアメリカに近い中南米に
第 2 のベトナムが起ころうとするところがあるかと思います。ベトナムのときには共産
主義ということでしたけども、共産主義に対して戦わなければいけないということで、
次第しだいにアメリカのほうはそれにのめり込んできて、大きな犠牲を払って敗北して
帰ったけれども、敗北ということを認めず、そのまま処分してないと思いますよ、その
経験を。今度は麻薬をきっかけとして同じようなプロセスを見ることができます。いま
アメリカの議会でも、あるいはブッシュ政権の中でもかなり議論されていることはです
ね、麻薬に対して闘うために、アメリカの兵力を加えるか、そうしないかじゃなくして、
131
どの程度加えるかという段階に来ている。この間宣教師の奥さんと子供が犠牲になりま
したね。小さい飛行機がなにか麻薬を運ぶとまちがえられて撃たれて墜落したでしょう。
そこで奥さんと赤ちゃんが死にました。後でそれは間違いということだったけれども。
麻薬を運ぶ。で、それにコロンビアの飛行機だったでしょうか、その飛行機ともう一つ
飛んでいる CIA の飛行機もいっしょに行った。指示をし合っているところで、むこう
からオーケーという信号があって撃ったみたいですよ。しばしばそれが起こりつつあり
ます。
竹内:ああそうですか。これは麻薬を撲減するというのが表向きの理由ということです
か?
ランドール:うむ、麻薬だけじゃないかと思いますよ。中南米はですね、かならずしも
親米じゃないですから。(笑い)
竹内:抵抗しますね。
ランドール:抵抗しますよ。今度国連の動きなどもですね、最近アメリカは環境汚染に
関わりをもっている委員会から外れている。また人権問題を扱う委員会からも落ちたで
しょう。どんどんアメリカの影響は落ちるでしょう。いつもワンマンプレーをするから。
世界の人たちはそれに対して怒りをもっているかと思いますよ。また最近ほかの国の人
たちが中南米に回って行きますとかなり歓迎されますからね。中国の政治の代表者らも
回ってきてですね。かならずしもアメリカ側に立つことはないから、これをもってもう
尐しアメリカ側を抑えようというその動きがあるような感じがしますね。まだ完全な枞
は描けないんですけども、でも今度動きをみるとですね、ベトナムに次第に兵力を増し
ながら入ってきたのと同じような経過がありますから。そのときは共産主義という名目、
建て前だったけれども、いま麻薬です。麻薬ということは事実ですけども、しかし反面
でブッシュさんが尊重するレーガン政権のときですね、ニカラグアでレーガンさんはこ
の麻薬の貿易などを利用してたでしょう。だから麻薬を押さえるか利用するか。
竹内:政治的な意味合いが強いですね。
ランドール:麻薬はもっと大きい意味のものをするためのひとつの手段にすぎないのじ
ゃないかと思いますよ。麻薬を止めると言いながらも、レーガンさんのやり方をみれば、
かならずしもつぶすのじゃなくして、自分の手に置くものにしようというのじゃないか
と思います。
竹内:それほど麻薬というのは逆説的に利用価値があるということですか。
ランドール:パナマの大統領でしたか、その人はアメリカの刑務所に入っています。ど
132
こかの獄中でしょう。名前は忘れましたが、しかしかれがやっていることはですね、ブ
ッシュ大統領のお父さんがつくった制度のためですよ。CIA の中で働いた。一時このパ
ナマの元大統領はブッシュ政権の CIA 関係のところで生活を送って仕事をしてたわけ、
麻薬関係。ところがお利口じゃないですよ。いつのまにか自分自身は一人前になって一
人で歩くようになった。そうしたら、それを抑えられたかと思いますよ。
だからいずれの場合でも兵力をもって武力をもって問題を解決しようと。またミサイ
ルが飛んで来る時にそれを防ぐために、それはいまあちこちにアメリカの政治家たちが
一生懸命納得させようとする動きが……
竹内:本土ミサイル防衛ですね。
ランドール:中国は正しく、それはアメリカのためにもならず、世界のためにもならな
いと言っています。
竹内:アメリカが最近国益を露骨に示すようになっているところがちょっと怖いという
ふうに……。で、それに伴って日本が追随しているというのが情けないといえば情けな
いですね。
ランドール:日本とオーストラリア。ニュージーランドは忚じないですよ。
竹内:だからそのへんの日本の、しばらく前にできた「ガイドライン」もそうですけど、
有事立法とかそういう環境を作りながら日本全体をアメリカに即するかたちでアジア
に危険な状態を作り上げていくという……何とかしたいと思うんですけど、小泉政権の
支持率を見ると愕然としてしまうのですが。平和を作り出すというのは、そういう意味
ではひじょうにこれから茨の道だなと思うのですけど。
ランドール:そこに彼(小泉首相)とブッシュ、彼の方が支持者がずっと多いですけど、
でもブッシュは毎日支持率が高くなりつつありますね。だからかれがやっていることを
アメリカの多くの国民が喜ぶということは言わなければならないと思いますよ。
竹内:そこをもう尐し冷静に客観的に、日本が対忚できるだけの理性を取り戻すといい
と思います。ちょっと前に、先月の終わり頃ですか「東アジア平和会議」というのがあ
りまして、それを見にいったのですけど、中国と北朝鮮と韓国の 3 つの国からそれぞれ、
国の代表者じゃないですけど、そこの大学の先生とかカトリックの大学の先生とかがい
らして、シンポジウムがあって、いろいろとその国の人たちからアジアの状況を聞くこ
とができました。で、やはりアメリカの現在の政策に対して批判している。アジアの国、
韓国や北朝鮮、そういう国の意見とか考え方というものを日本人がもっと知ってほしい
というようなことが言われていたのですけど、日本のマスコミなどを見るとやはりその
へんが薄いかなと。
133
それから琉球新報や沖縄タイムスでも、もっぱら東京経由のものをそのまま新聞に載
せてて、もっとアジアというものをしっかり押さえようとすれば、特派員でも送って生
の情報を届けてくれればいいのにと思うのですけど、そういう努力が沖縄の中にもない
のではないか。言論界がやや本土並の言論になっている。そのへんがちょっと力がない
なという感じがしますね。
ランドール:空しい感じがしますね、それをみると。
今度中学の教科書(扶桑杜版「新しい歴史教科書」)が出ましたね。まだ学生の手に入
ってない段階ですけど、小泉さんは、向こうから何人かの専門家を呼んで歴史的な事実
関係を確認しようと。でも、その人たちが確認しようと思っているうちに、しだいしだ
いにこのテキストは学生の手に入って、これからは永久に使われるということになりま
すね。ちょうど「15 年使用」と同じ。何か肝心のところから目を逸らすために……
今日またニュースに出ましたね。中国から具体的に 4 つの誤りがあったと。
竹内:はい聴きました。具体的に何頄目か修正を求めた。
ランドール:いま特派員が向こうに行ってですね、こういうことがアメリカで起こった
ら、特派員が小さい町でも大きい町でも歩いて人にインタビューをしたりして聴いて、
いろんな人の意見を聴いて、政治家の意見を聴いたり、あるいは牧師などの意見を聴い
たりして国民に伝えるでしょう。(しかし)中国へは、(そういう関心は)一切ないです。
なぜかと聴きたいでしょう。
竹内:だから僕はいま沖縄をこういう状況にしているのは、案外沖縄の言論界、端的に
言うと『沖縄タイムス』とか『琉球新報』とかが基地賛成、基地反対という言論空間を
つくりながら、全体としては本土メディアとリンクするかたちで「沖縄問題」を作って
しまっている。沖縄らしい問題への切り込みもあるのですけども、でも肝心なところが
「本土並み」になってしまっている。そしてそれを批判するメディアがない。第 3 のメ
ディアが必要じゃないかと思ったりすることがあります。
ランドール:また向こう側がうまくこれを利用するようなことがあるような感じがしま
すね。私たち側の、まあ左側といえば左側の人たちもうまいぐあいに、あるいは知らず
に利用されているような感じがします。
竹内:右か左かというふうに言論界(言説空間)という土俵を自分たちで作っておいて、
その上で東の横綱と西の横綱を戦わせている。でも実はこの土俵を作っているというと
ころが一番問題。この土俵を見直さなければいけないのじゃないかと、そういうふうに
思うのですけど。
ランドール:たとえばマスコミで、秘密文などがですねとてもタイムリーに出ます。こ
134
の間、私自身が尊敬している我部(政明)先生ですけど、彼は利用されました。本人はま
だ気付いていない。
竹内:というと?
ランドール:アメリカ側の情報ですね。以前に復帰時点の秘密文書が現れたでしょう。
竹内:我部先生が発見されたという……
ランドール:ええ発見したでしょう。でも向こうが見せないと発見しようがないでしょ
う。やっぱり向こうは発見されるところに置くでしょう。秘密ならきちんと壁があるで
しょう。本当に秘密ならば見せないですよ。秘密でないと思ったら出すでしょう。ある
いは一部をマジックで消したりして出す、そういう場合もありますね。でもこれは何に
もマジックなど付いていない。見積書みたいなものが、この基地はこの値段、というふ
うに。とくに膨大な嘉手納基地は本当に目をみはるぐらい大きい数字が出ましたね。そ
れで NHK も OTV(沖縄テレビ)も RBC(琉球放送)もそれを、新聞にも載ったけど
も。
竹内:はい僕はちょうどラジオで聴いてました。
ランドール:あれはですね、これだけの数字ならば復帰の時に基地撤去ということに忚
じようとしても、それだけのお金を払う能力は日本にはないと。客観的にみればそうで
しょう。そしたら沖縄に基地があっても仕方がない。一種の諦め。
竹内:アメリカがこれだけのお金を使って米軍基地を作ったんだという……
ランドール:ですからアメリカはそれだけの損失をしないということは当たり前。基地
反対といっていても、それに対して何も言えない。
竹内:それについては我部先生の本を読んだら、日本政府は国民に納得させることがで
きないので「密約」のかたちで、ブラックボックスのかたちでお金をはらったというこ
とがありましたよね。
ランドール:今日、四半世紀が終ってから人が見てですね「まあ仕方がないのじゃない」
と。
竹内:たしかにそういう感じはしますね。
ランドール:ですから、その感じがアナウンスの中に起こった感じがしましたね。アメ
135
リカはお金を払っていることを認識して……自分のために作った基地です。でも誰もそ
んなことは言えない。言おうとしない、あるいは気付いていないから。うまいぐあいに
タイムリーに復帰の 5 月 15 日のときにこの数字が現れてきて……。まあ私自身の意見
ですけども。我部さんは議論をすると思うけども。
竹内:そうかもしれないですね。
じゃあまた話題を変えさせていただきます。平和の問題、非暴力の問題で、沖縄では
何といっても阿波根さんの名前が一番大きいと思うのですけど、先生と一緒に、それか
ら永山(盛信)先生のご家族と一緒に、1983 年 8 月に伊江島に行きました。
ランドール:ああ、18 年前ですか。昨日みたいに思い出しますね。
竹内:はい、いい思い出です。先生は阿波根さんについてどう捉えてらっしゃるか、改
めてお聴きしたいのですけど。
ランドール:はい。阿波根さんは沖縄のガンディーと呼ばれている。それに間違いはな
いと思います、その考えも、非暴力ということも。相手に向かって話すときに立つこと
がない。鉛筆を手に持たない。自分の耳以上に手を上げない。尐しも強制的な態勢を示
さない。非常に穏やかな方で。(しかし)向こうと妥協もしない。自分の土地ですから返
さないと駄目だと。また相手のしていることの矛盾を見せて、誰でも彼の表しかたをみ
て納得するでしょう。大変なことです。裸足でこの島を一周して。そういった非暴力、
そして非協力、そのところは尊重します。
かれは亦一リネス系の教会でバプテスマを受けたと思いますけれども、そのホーリネ
ス系以外のところでキリスト教のことを勉強して、しかしキリスト教だけじゃなくして
幅広く世界の宗教・哲学などなど自分なりに勉強されてきたでしょう。多くの人たちの
考えを自分自身に身につけて。またどの人に会っても議論ができる人ですよ。いつか言
ったでしょう、平良修さんがいつかどこかのインタビューで言っていたと思いますけど、
人はクリスチャンならば新約聖書を信じますね。「イエスさまはどうおっしゃっていま
す?」と聴くでしょう。たとえば土地を取ったり、殺したり、抑圧したり、そのことに
対して「イエスさまは何をおっしゃっているか」と聴くでしょう。いろんな人と会って、
その人の立場に立てる教養のある人ですよ。素朴な教養ですけども、すごくシャープな
ところがある。
もう一つは自給・自立の沖縄をめざした彼は、南米に行っていくら経っても自分自身
は資本家の手の中にあって、いつも働いてかれらに借りた金を返す、それだけのことを
繰り返す南米の生活ですから、沖縄に戻って、そうじゃなくして沖縄の人たちが、とく
に農民の人たちが協力し合って助け合って支え合って自らの生活を一緒に送ること、そ
れこそこれからの農民の苦しみの解決の道になるかと。京都に一灯園がありますね。一
灯園に行って、そこで阿波根さんはしばらくそこにいたいと言ったでしょう。
(しかし)
「いや沖縄に戻って自分の一灯園を作りなさい」と言われたでしょう。
また阿波根さんはこの沖縄に農民学校を作ることにしたでしょう。4 万坪の土地を獲
136
得した。苦労して奥さんと一緒にそれを手に入れたでしょう。(ところが)農民学校を建
てようとするときに、第 2 次大戦、沖縄戦が起こる。で、戦争が終ってから、米軍がど
こかに空爆の訓練をするところがなければならないと思って、伊江島を選ぶでしょう。
阿波根さんの土地 4 万坪が全部そこに入っていますね。他の人たちも入ってますけど。
この阿波根さんは戦争が終ってからまたもう一度この農民学校を建てよう、その中でこ
れからは自分の足で自給自立できる農民をめざす。どこにも依存しない。農民は自分た
ちの力を信じて建てようと思った。(ところが)土地が取られたでしょう。その後、伊江
島のかなりの土地は返還されました。いま残された基地となっているところは、ほとん
どそっくりそのまま阿波根さんの 4 万坪と……
竹内:わざわざそこを……
ランドール:その部分を今なお押さえてます。そこで私はいろいろ考えてきたのですけ
ども、たとえば無人島あるでしょう。それを空爆しても、まあ動物は大変でしょうけど
も、とにかく人間にべつに迷惑はかけない。また伊江島と瀬底島の間にちょっとした島
がありますね。平らでしょう。きれいな的になりますよ。これを使ってもいいのに阿波
根さんのところを選ぶ。それは何故かと言いますと、阿波根さんはその当時、沖縄の自
立を自分の頭で描いて、それに向かっていく計画、場所、働く人間をもっていた唯一の
人ですよ、その時点で。
竹内:先駆者ですね。
ランドール:はい。それを押さえないと。一般の市民は、何も益がないならば支持しな
いでしょう。依存すればするほど、支持者が多いでしょう。(しかし)阿波根さんは依存
しないでしょう。だから、その場所は押さえられているような感じがしますね。いかに
阿波根さんは米軍にとって恐ろしい存在だったかと思いますよ。
竹内:ある意味で米軍の方が阿波根さんを評価していたともいえますね。
ランドール:いえますよ。
竹内:米軍は阿波根さんの価値をしっかり捉えていた。沖縄人がこれをもっと捉えてい
れば、十分強くなれたかもしれませんね。
ランドール:まあデモ行進を起こしたり、火炎ビンを投げたり、いろんなことがあった
けれども、阿波根さんはそうじゃなくて、着々と自立に向かっていく人間ですから。彼
が成功するならば基地は沖縄に存在し得ないですよ。今度の県知事選挙のとき稲嶺さん
が勝ったのですけども、それはやっぱり向こう(日本政府)との太いパイプを持ってい
るというのが主な理由です。向こうからの太いパイプ。
137
竹内:よく言われますね。
ランドール:それを望む人は阿波根の考えと全然ちがいますね。そういう人たちは米軍
にとっても日本の小泉さんにとっても、とてもありがたい存在ですよ。阿波根さんと同
じような考えを持ったら恐ろしいものだと思うでしょう。ガンディーはインドでも非暴
カを手段として使ったけれども、自分の思想の中で「スワラジ」(自治・自立)がありま
したね。かれは職人の共同生活を再発見して……
竹内:あの糸車の……
ランドール:はい。国旗に描いてますね。シンボルですよ。
竹内:ああそうですね。
ランドール:かれはイギリスの植民地を止めさせた手段として自給自立を。向こうから
来る生地も自分の身に着けない。またそれを作るところに協力しない。たとえ自分は貧
乏に陥っていても貧乏人どうしでがんばっていく。塩も自分の手で作る。向こうからじ
ゃなくして自分で作る。
竹内:沖縄にも、そういう意味ではいろいろな資源がある。それをもっと活かしていか
なければいけないのですけども、もっぱら外からのおねだりで巨額の補助金とか、そう
いうものばかり、とくに最近その度合いが強くなって、おねだり経済になってしまって
いますね。自立自立と掛け声だけで、本当に足元から立ってみようということがないと
思いますね。
ランドール:来年から新しい経済計画を立てますけども、それは沖縄の経済の自立、そ
して中央政府あたりでも大いに忚援をすると。沖縄の人たちは負担を負ってるから、経
済自立を一緒に協力してめざそうと。それは「15 年使用」と同じように目を逸らすも
のに過ぎません。(註:稲嶺県政は普天間基地の代替基地の使用期限を 15 年間に限定
し、その後県に返還させることを公約にした。この案 2006 年の閣議で完全に否定され
た。)
竹内:自立自立という言葉自体がもうバブル、実体のないもので。
ランドール:バブルだと思うよ。
竹内:浮かれた言葉になっているのですね。むしろ自立をしなければならない人は、そ
んな言葉は使わずに、自分の足で始めているかもしれないですね。
138
ランドール:そうですね。
竹内:じゃあまた質問をつづけさせていただきます。先生は何と言ってもまず牧師です
から、聖書は先生の最も大切な書物、それ以上のものだと思いますけど、その聖書観に
ついてお聴きしたいと思います。とくに先生の説教をずっと聴いていますと、旧約聖書
をよく引用されているのですけども、旧約聖書というのはイスラエルの歴史が書かれて
いて、そこにいろいろな登場人物が出てきます。目本の歴史の中で生きている私たちが、
なぜイスラエルの歴史を学ぶのだろうということを考えたことがあったのですけど、聖
書のなかに書かれている歴史というのは、どこそこの国の歴史とは違って、神と人間と
の歴史が書かれている。単に日本神話の歴史とはちがって、神が歴史を導かれ、イスラ
エルの人たちが神との関係のなかで歴史を築いていくということを知ることが、クリス
チャンが歴史を考える上で大切だというふうに理解できるようになりました。で、やは
り旧約聖書の歴史を学ぶということは、日本人としての自分にも大切なことだというこ
とが分ってきたのですけど、でもイスラエルの歴史を見るといろんな血なまぐさい事件
が記録されている。ダビデも戦士として闘っている。もちろんどこの世界にもそういう
「戦国時代」があったと思うのですけど、そういう中で歴史を導いていかれる神さま、
そういうイメージが旧約聖書には強いのですけど、先生はそのあたりをどういう聖書観
をもって捉えていらっしゃるのか、ちょっとお聴きしたいのですけど。
ランドール:はい。まず日曜日にこのテープレコーダーを持っていらっしゃい。説教は
「私たちの聖書」という題です。いまの問題を中心に話します。
竹内:今度、話してくださるのですか?
ランドール:はい。エレミアの 36 章。第 2 テモテの 3 章の 16 節。それに関わりのあ
るイザヤの 55 章 11 節。そのあたりのことを話しますけど、紀元 144 年頃マルキオン
というクリスチャンがおりました。かれは学者で、哲学者だと思いますけど、歴史家で
もあった。かれは聖書を作ろうと思っていたのですよ。これが一番最初の新約聖書です
よ。一番古いの。彼は異端とみられていた、多くの人たちに。かれの聖書は認められな
かったけれども、ルカ伝のだいぶと、パウロの手紙の 8 巻くらいでしょうか、それには
テモテとかテトスとかユダとかは含まれていないけど。マルキオンはまた旧約聖書も切
り離す。それははっきりしていました。その理由は旧約聖書の神は「戦争の神」である。
新約聖書の神は「平和の神」だと。異質のものですから組み合わせるのは無理だと。
竹内:ああそういう認識がすでにあったわけですね。
ランドール:かれはそう思ったのですよ。かれ(マルキオン)が異端とされたのはいいか
どうか分かりませんけども、とにかく彼の聖書は認められなかった。今でも認められな
139
いでしょうが。でも彼の努力はひとつの視る角度を与えると思います。旧約聖書の神は
「戦争の神」、新約聖書の神は「平和の神」。かれは非暴力。たぶんかれは肉も食べな
い、禁欲主義者。
いまから 4 千年前にアブラハムという人に神ご自身は自分自身を啓示したでしょう。
唯一の神。漠然としていて行き先も分からない。とにかく神々という言い方じゃなくし
て神はひとりだと、従って行きますね。そこから始まりますね。原始的な宗教のなかで
育ちますね。彼の孫ヤコブはほんとに厄介な人間ですよ。「ごまかし取る」という名前
がヤコブでしょ。
竹内:ああそうですか。
ランドール:名前はそういう意味ですよ。その時代においてはその価値観がありますね。
だまし取ることが上手な者はやはり偉いですよ。ヤコブはそのまま紹介されてますよ。
(しかし)イザヤの時代にいきますと、ヤコブみたいな人間は認められないでしょう。で
もその時代(ヤコブの時代)においては、その信仰は育ってくるのですよ。
竹内:いまの視点で捉えられない部分があるんですね。
ランドール:「バビロンの虜」そのあたりでですね、祭司たちがいろんな文章など編集
するでしょう。それをみればヤコブみたいな者はやはり認められない。だけどもかれら
はヤコブをそのまま、修正しないで紹介していくのですよ、古い物語を。文字を持った
のはダビデの時代ですよ。
竹内:ああそうですか。それまでは口で?
ランドール:ほとんど口で。あるいは外国の言葉を使ったりして断片的に文章があるか
と思うけども、ほとんど口で世々に伝わってきたのですよ。でもそれを文章にするとき
に、その古いままの、ヤコブの文化の影響を十分に受けている宗教を紹介していきます
ね。旧約聖書は現実の世界のなかで育ってきたのですよ。信仰をもった共同体といいま
すか、教会は育ちつつありますね。その中から神はひとりの人間を示す。その信仰をも
ってどんどんどんどんいろんなプロセスをもっていろんな試練を受けて、イエスさまを
いよいよ誕生させる。
竹内:たしかに旧約の世界はドラマティックで、いろんなものが込み入っていて、その
人物たちの矛盾というか、良いことも悪いこともみんな含まれていますね。
ランドール:含まれていますよ。それを隠していないですよ。
竹内:そうですね、きれいに整理してないですね。
140
ランドール:だから突然「平和の神」が現れてきたのじゃないですよ。
竹内:だから我々は旧約をみて、そのつぎにイエスさまが現れることによってはじめて
一貫したものとして捉えることができるということですね。
ランドール:イエスさまは私たちに I am Jesus とは言わない。I am Christ とは言わ
ないでしょ。私たちの悟り、発見を向こうは待っているでしょう。私たちが気づくまで
は、向こうは強制的に自分を紹介しないでしょう。これは国の歴史であるばかりではな
くして、個人の歴史にも言えますね。
竹内:ああそうですね。
ランドール:もう失敗をしたり矛盾をしたりしてきた私でしょう。いずれ本当に純粋た
る非暴力者、イエス・キリストの弟子になろうとするのですよ。それが私の人生のパタ
ーンでもあります。「まことの神を信ずる信仰」はですね、いきなり完璧なものとして
現れてこないですよ。いろいろ試練を受けて失敗をしたり、あるいは全然分からないま
まに死んでいく祖先をもって育っていかないといけないですよ。まことの宗教というも
のは人間のなかから生まれ育つ。ですから当然旧約聖書を通して私たちの信仰が生まれ
育ってきた長い歴史をもっている。特定のイスラエルというものがありますけど、私は
エルサレムという町はあまり問題にしないですよ。そういう意味で私は旧約聖書をみて
います。
竹内:沖縄戦で亡くなった大勢の方がいる。ある意味では、意味も分からずに亡くなっ
ていって。で、現在また反動的な歴史が、さっきの教科書の問題もありますけど、……
沖縄でも、沖縄戦の悲惨さもみんな運命として受け入れましょう、というような新聞投
稿なんかが最近出ているのですけど、それではだめですね。やはり意味もなく亡くなっ
た人がただ運命で亡くなった、そういうふうに捉えましょうというのでは何の意味もな
くて、やはり無駄死になさった人たちの意味を私たちが発見しなければいけない。
ランドール:そうですよ。
竹内:それが平和憲法の第 9 条であったり、阿波根さんに代表されるような、あるいは
反戦地主に代表されるような反戦・平和の精神というのですか、そこに結び付けていか
なければ、亡くなった方々がほんとうに意味のないまま死んでいるということになって
しまいますよね。
ランドール:そうですよ。
141
竹内:ありがとうございました。
つぎの質問ですが、マクシン先生(ランドール牧師夫人)のことをぜひお聴きしたい
のですけど。以前にも出会いのころのお話を聴いたのですけど、沖縄に来られてから、
3 名の男のお子さんのお母さんでもあったし、また現在もいろいろカウンセリングとか
で活躍されているのですけど、そういうマクシン先生について、先生が思っておられる
ことをお聴きしたいのですが。
ランドール:普段みなさんが会っているマクシンは分かっているから、それは言わない
ですけど、とくにマクシンは物の本質をすぐに見ることができますよ。自分自身沖縄に
来てサーダカウマリ(霊感の高い人)という現象を見て、そこに沖縄の土俗の宗教、文
化を見てですね、それは沖縄を見る窓口になると、そこに入ってきたでしょう。宣教師
の妻ならば大体どこかの教会を通して入るでしょう。改心した信者とか。そうじゃなく
して、どこかのユタ(霊能者)を……(笑い)
竹内:(笑い)たしかにユニークですね。
ランドール:ユタを見てそこから入る。今なおそうですよ。また精神病と土俗宗教との
関わり合いを研究課題として、依然として追求してます。
竹内:表面の現象ではなくて本質をみる。
ランドール:この間(マクシン夫人の)甥が急に亡くなりましたね。脳梗塞ということで
したけども。生活様式の粗い人でしたから、医者が言っても言うことを聴かない人間だ
ったけど、マクシンは甥が死ぬその時まで、いろんな施設や病院などの電話番号探して、
また CT スキャンをここに送るようにと。自分の目で見たいですよ。話を聴くのじゃな
くて、自分の目で見たい。そういう考えを持っているマクシンですけど、そういう人間
が今度混血児の世界にまた入りましたね。ISA0 国際福祉財団ですか、喜友名に事務局
がありますね。たくさんのアメリカ人のお父さんがいて、沖縄のお母さんがいて、以前
そのためのカウンセリングをやっていたのですけども。むこうにボランティアとして働
いていました。そうするうちにいろんな角度から混血児のも問題に関係を持つのですよ。
1 つ 2 つくらい話しましょう。
1 つは、子供の名前は忘れたけど、とにかく子供がいてですね、家には入れてもらえ
なかったのですよ。家の外側のちょっとした小屋みたいな部屋を作って、外側に動物み
たいに、そこに住まわされていたのですよ。で、お母さんが、その過程はよく分かりま
せんけど、とにかく ISAO にとうとう来るのですよ。自分のところで育てられないから。
ISAO はどこかに代わりの両親を探す。かれらの仕事の一つですよ。で、あるアメリカ
のご婦人に一忚預けておいたのですよ。その娘はかわいそうでしたね。社交の経験はな
いですから人間関係はもちろん分からないですよ。暴れたり、自分は暴れているとは思
わなかったでしょうけど。また電話はめずらしいものだと思って、親子電話があったと
142
きですね、こっちで話していると、向こうで取ってガーと叫んだり。そういう扱いにく
い娘を、その人は自分が育てるという自信があって預かって、アメリカにも連れて行っ
て。ところが急に沖縄に戻って来て返すのですよ。自分はとうてい無理だと。そうした
ら一時うちに来ることになったのですよ、彼女。やがて黒人の家庭に引き取られますけ
ど、厳しく優しいご婦人でしたね。また子供のことをよく分かります。抱っこしながら
お尻を叩く。(笑い)泣かして一緒に泣く。その家庭の娘になってたぶん立派に育ったか
と思いますけども、その人を見つけるまでうちにいたのですよ。苦労しました。で、ISA0
はこの人を育てるためにお金が必要ですからお金を集めるでしょう。ある時どこかの部
隊に朝 7 時ごろでしょうか、みんな揃って出席名簿を呼びますね。みんなこうして立っ
ているでしょう。roll Call と言いますね。roll Call は点呼ですよ。roll Call の時に彼
女は基地の中のどこそこの部隊のマスコットになります。マスコットになることによっ
てお金が ISA0 にくる。そこに送ってまたマスコットとしての記念写真を撮影すると。
マクシンは、それはとんでもない。この子供はアメリカに帰って大変な経験をして、不
安定な精神状態ですし、やがて十何才か、その年頃になって大勢の男性の前に、なにか
ペットみたいに立たせるかと。とんでもないと、マクシンは全然許さない。結局それは
ダメになりました。
竹内:たとえそれによってお金が入ったとしても、とても……
ランドール:それは、自分は許さない。それはその人の人間性を奪う。お金が入るとい
うことはいいことでしょう。また若い兵隊さんたちが困った子供を支えることもいいで
しょう。そこまではいいですよ。でも本質は違うのですよ。対象になった人間はどうな
っているか。この人のこれからの成長、女性としての。この本人の立場に立って考える。
理事長は、その会杜は基地の中に販売店があったようですけども、この理事長はけっこ
う怒ったようですね。それにしてもマクシンは忚じない。マクシンの言い方は「子供が
私の家にいるかぎり、自分は許さない」という言い方じゃない。ずばりと「私は許さな
い」それだけ。(笑い)
竹内:ああ凄いですね。条件なし。
ランドール:条件なし。そういうマクシンはありますからね。そのへんをみなさんは普
段あまり見てないでしょうけども。
竹内:でもマクシン先生を見ていると、芯の強い方だなということはよく分かります。
大事なところでは絶対譲らない、ということはよく分かりますよ。
ランドール:伊江島は以前歯医者さんがいない状況だった。マクシンは、ISA0 のご婦
人たちのボランティア団体の中にあって、そのスポークスマンだったでしょうか。伊江
島に軍の歯医者さんを派遣することになりました。5,6 名の子供に虫歯がありますから、
143
それを直しにいくということで。その時の伊江島はですね、日帰りということは簡単じ
ゃないですから一泊しないといけないですよ。そしたらマクシンにですね、むこうと連
絡をとって、宿泊を準備してほしいと。「明日、明後日名簿を送りますから、それだけ
の者の宿泊を(世話)してほしい」と。これは普天間のマリンベースの、その部隊のチャ
プレンの仕事ですね。チャプレンは医療の部隊と連絡をとって、その間に立っていて、
彼とマクシンはその準備をするところですよ。名簿が来て、十何名の名前が出てます。
マクシンが見て、5,6 名の子供の虫歯を治すためにそれだけの人間が要りますかと、素
朴な疑問を電話でするのですよ。「医者を助ける人は 2、3 名。あとは報道陣だ」と。
「え、報道陣は要りませんよ」(しかし相手は)「やっぱり宣伝しないと、その仕事はで
きない」「あ、そう」とマクシンは「そんなことならば自分は協力しない」と。子供を
利用して、世界に兵隊がいいことをやっているということを宣伝することはとんでもな
いよ、と。それもマクシンとチャプレンの間で激論があったようで。後で聴いたところ、
この人はペンシルベニアのどこかのところの関係者を訪ねて、「マクシン・ランドール
は沖縄にいないようにがんばってほしい」(笑い)とか何とか、そういう話を聴きました
ね。たぶんこのチャプレンはマクシンのことをよく覚えていたかなと。(笑い)
竹内:ああそうですか。
ランドール:本質を見るのですよ。
竹内:先生と似てらっしゃる。
ランドール:まあ一見。でもマクシンは私より以上早く把握するところがあるのじゃな
いでしょうか。
竹内:頭の回転が速い。
ランドール:ひじょうにクリアーな考えをもっているのですよ。
竹内:マクシン先生は大学では人類学でしたね。そういう学問への姿勢みたいなものが
やはり実際に現地へ出かけていって自分の目で確かめるということに繋がっているか
もしれませんね。
ランドール:繋がっていますね。亡くなった平敶学長(沖縄国際大学)と似ている。平
敶学長もやはり自分の目で見る。見てから自分はフィールドワークしないとそれは研究
にならない。
竹内:だから客観的な目と自分自身の主体的な態度とがうまく組み合わさってるという
ことですね。
144
ランドール:マクシンはそういう人ですよ。本質を見るマクシンを覚えてください。
竹内:先生ばかりでなくて、マクシン先生もとても魅力のある方だと僕はいつも思って
いるのですけど、なにか全体から出てくるものがありますね。それがひじょうに優しい。
優しいけれども、芯がとても強い。魅力のある人というのはみんなそういうものを持っ
ている。阿波根さんがそうですね。
ランドール:そうでしょう。ただマクシンは、意図的にやっている人たちにはひじょう
に嫌な存在でもあります。意図的にやっているとすぐ押さえるから。
竹内:そうですね。マクシン先生についてもそのうち、英語の得意な人がインタビュー
をやられたらいろんないい話が聴けるかもしれませんね。
ランドール:できれば……
竹内:普段は言葉数が尐ないですけど、どうなのでしょうマクシン先生は……
ランドール:言葉数が尐ないということは別問題ですよ。日本語でも英語でも人の前で
お祈りをしない。それは日本語だけじゃないです。
竹内:ああそうなのですか。
ランドール:性格的に人の前に立って喋る人間じゃない。
竹内:もっぱら先生のほうがよく喋って……
ランドール:私は喋る。
竹内:じゃあマクシン先生はどちらかというと聞き役ですか?
ランドール:そうそう。よく聴いて、また的確な答えをするのですよ。いい相手ですよ。
竹内:先生のいいアドバイザー。
ランドール:そうです。まちがいないですそれは。
竹内:先生がマクシン先生を大切になさってらっしゃるということは、今度の本の表紙
の裏に「マクシンに捧げる」というふうに書かれていたりして……
145
ランドール:私の本の心はそれですけどもね。
竹内:なにかポイントになるような感じがしますね。
ランドール:私自身のガンディーの研究も含んで、若いときからガンディーのいう非暴
力の問題を話してますけども、マクシンと一緒でなかったら、いまの私はちがうかもし
れませんね。
竹内:じゃあマクシン先生の理解はランドール先生の考えとひじょうに重なっていて、
やはりマクシン先生の理解があったということがランドール先生を力づけたというこ
とですか?
ランドール:そういうことです。またそういう人と会話をするとやっぱり自分自身の考
えもはっきりしてきますね。ものをいつも曖昧にして話す人の場合はなかなか自分自身
の中にあるものは整理しないでしょう。でもきちんと聴いて答える人ならば整理できま
すね。
竹内:そういう意味で先生は幸せですね。
ランドール:恵まれています。まさにそのとおりですよ。
竹内:この間の出版祝賀会のときも誰かがおっしゃってたけど、おしどり夫婦と。ほん
とに仲のいい夫婦ですね。これは珍しいことじゃないでしょうか。
ランドール:ふむ、どうかなあ、私には分かりませんね。
竹内:じゃあ最後にアメリカの南部のことを……先生がこんなことを書いてらっしゃる
ので。「沖縄とアメリカ南部は本当にいろいろな面で似たところがある。私にとって沖
縄での生活は心から満足のいくものではあるが、それはそれとして、私の心の奥底では、
こう認めざるをえない。私は南部を捨てたのではない、と。そしてもし私が沖縄以外の
どこかほかの地に住んでいたとしたら、必ずやある日、あの U ターンを余儀なくされ、
この世の生を歩み始めたジョージア北部の地へ、舞い戻ることになるであろう。」(『地
域と文化』第 72 号 1992.8.15 所収、比嘉長徳訳)
やっぱり南部へのそういうお気持ちというのは、先生のなかにあるものなのでしょう
か?
ランドール:ありますね。
146
竹内:そんなところ、南部への思いみたいな、なんかありましたら……
ランドール:そうですね。この発言は誤解される危険性を持っていますけれども、もち
ろん私は奴隷制度を公認するのじゃないですよ。また再びそれがあってほしいというこ
とではない。ただ、私も多くの人も含んで、南北戦争はですね、奴隷制度を無くすると
いう建て前だったけども、そこに文化的・経済的な理由があった戦争ですよ。たとえば
ソローという文学者がいましたね。かれは(奴隷制度に反対して)1845 年に、税金を収め
ないという理由から獄中にいた。(つまり)そのときにマサチューセッツでさえ奴隷制度
を認めていましたね。でも奴隷制度は崩れ始めていますよ。コットンを種から外す機械
もできてます、コットンジム。
竹内:もう機械化されていた。
ランドール:そのときまではもうほんとに大勢の人たちが自分の手でやっている。その
1 日分をですね、コットンジムはそれを何分の 1 かにするのですから。だから奴隷制度
は崩れ始めているのですよ。またリンカーン大統領が奴隷解放宣言をしたというのは偉
いですよ。それは評価しないといけない。でもその国は、国としてまだできていない段
階だった。そこに文化がありましたね。南部文化。たとえばアメリカの南部文学はあり
ますね。北部文学はないですね。
竹内:ああそうか。
ランドール:気づいてみれば、なぜ南部文化はあるかと。ヘミングウェイという人物が
おりましたけど、ヘミングウェイはむしろヨーロッパやカリブ海、そんな所を舞台にし
て……(しかし)フォークナーはミシシッピーを出ないまま書くでしょう。この私が育
った南部というところはですね、いまでは神話となっている文化ですよ。神話として伝
わってきたこの文化はですね、灰となっているのですよ。今にも灰の中から復活する南
部というものがあろうと、希望をもっている南部の中で育ったのですよ。
竹内:先生が書かれたものの中にそういう思いが……
ランドール:だから表現は英語にも日本語にもしにくいですけども、それがありますよ。
竹内:それがランドール先生のなかにちゃんと生きている。
ランドール:どこかにやっぱり生きてますよ。
竹内:無条件のものとしてあるのですね。
147
ランドール:だから文化というものは人を育てる。沖縄のひとは「ウチナー」という言
葉を使うでしょう。あれとどこかで同じように響くのじゃない。
竹内:よそから来た人に対しても受け入れてくれるし優しいけど、でも自分というもの
をしっかりウチナーンチュは持ってますね。核になるようなものを。そういうものなの
ですね。
ランドール:私と名護、いちばん典型的な関係ですけど。親しい、でもどこかに壁みた
いなものがあります。その壁の向こう側に、どうも自分自身の、表現はできないが私の
「南部」というもの、名護の「ウチナー」というものが存在していると思う。
竹内:でもこの壁は排他的なものではない。むしろ自分を大事にするための壁でしょう
ね。
ランドール:そういうことですよ。ただそれを表現する能力はないですよ。いま私も汗
を流しながら「南部」を言おうとするでしょう。表しにくいですよ。紹介したいと思っ
ても、自分はフォークナーみたいに天才じゃないですからできない。
竹内:じゃあフォークナーは英語で読まなければならないのでしょうが、そのフォーク
ナーは、それを文学の世界で表しているんですね。
ランドール:表してる。フォークナーはヨクナパトウファ(フォークナー文学の舞台と
なるミシシッピー州の架空の郡名)のカウンティを作りましたね。彼がそこで作ったカ
ウンティはですね、南北戦争以前の南部ですよ。そのあとの人間も登場しますけど、読
んでみれば、いまの南部じゃないですよ。私がフォークナーが好きなのはそのへんです
よ。
竹内:フォークナーが一度日本に呼ばれて長野県で講演したときに(1955 年長野セミナ
ー)、「自分も南北戦争で負けた側の人間だ」と、言ったそうです。日本が敗戦してま
だ間もない頃にフォークナーが来てますから、ちょっと前にアメリカは勝った国なのに、
その勝った国から来たフォークナーが、自分も負けた、敗戦の体験をしている人間だと
いうのが、当時の人をびっくりさせたということがあるけども、南北戦争の意味という
のがまだ生きているということがあるのですね。
ランドール:生きてますよ。まあ私はそんなに上手く表現はできないけども、私も同じ
ことが言えるでしょう。
竹内:日本でいうと沖縄戦は生きてるけど、もっと前の日清・日露戦争とかそんなのは
あまり生きてないように思うのだけど、南北戦争は生きているんですね。
148
ランドール:いつかアトランタに行ってみればいいよ。アトランタの人と話してみれば、
かれらは今なお南北戦争の話をよく出しますよ。話題になります。
竹内:儀部先生の書かれたものを読んでいたらそのへんのことが書いてありました。
ランドール:かれらが言っているのはベトナム戦争じゃない、朝鮮戦争、第 2 次大戦じ
ゃない。135 年前の南北戦争。
竹内:やっぱりそこが原点としてある。
ランドール:激しい戦場となったのはアトランタでしょう。そこに住んでいる人たちも
町から追い出されたのですよ。だからその戦争は兵隊に対するだけじゃなくて一般市民
に対しても行なわれた戦争ですから、傷が世々に伝わってくるのですよ。おそらく私な
んかそれがあるから沖縄戦が課題になる。
竹内:先生にはそういうかたちで沖縄と南部の記憶が結び付いているということ?
ランドール:はっきり言えないけど、たぶんそうでしょう。
竹内:じゃあ最後に、これからのメッセージみたいなものが何かありますでしょうか?
いままで先生がおっしゃったことがすべてそうだと思いますけど、これからのヴィジョ
ンとか、思い描いてらっしゃることが……
ランドール:ヴィジョンというか、さっき物騒なバブルの上に立ってるから弾けるから、
その時に備えないといけない、と言ったでしょう。沖縄は、これからの毎日の生活をそ
うやって送らないといけない。漠然としていても私たちクリスチャンは真実を持ってい
る。完全だといえないですよ。でも漠然としたその真実を持っている教会は、この沖縄
でその時に備えるために、指導する責任があります。
あまり町に行って説教したり、大きな声で言ったりするんじゃなくして、教会はこの
沖縄において模範的な生活を送るようにすればいいんじゃないかと。まあ私自身は時に
新聞に出したり、ときには講壇に立ってお喋りをすることがあるでしょうけど。でもそ
れよりも我が生活がそうでなければならないと思いますよ。嘘の上に立ってる社会にあ
って、自分はそうじゃない、自分の基盤はしっかりしてると確信している。そう生きた
いですよ。ヴィジョンにはならないと思うけども。ヴィジョンというとちょっとおおげ
さですから、むしろそのあたりでですね。竹内さんはいま私たちが喋り合ったもの、そ
して私の文章などみて、いつか私に私を紹介してください。
竹内:はい、いつかそうなれたら。そういう言葉を先生からいただいてとても光栄です。
149
ランドール:よろしくお願いします。
竹内:長い間ありがとうございました。
ランドール:どういたしまして。
150
インタビューをふりかえって
竹内 豊
1
三十も近くなってバプテスマを受けた私は、ずっと信仰歴が浅いと思ってきたが、気
づいてみれば、来年で四半世紀になる。入会した 81 年当時、私が所属する普天間教会
は、ランドール牧師の宣教師職解任をめぐる騒動の渦中にあった。師は、すでに 79 年
に派遣元のアメリカン・ボードから解任されていたが、この問題はまだ尾を引いていた。
師は依然として宣教師館に留まっていたし、また普天間教会の協力牧師の地位にあった
からである。それが連盟(OBC)との間に軋轢を生み出していた。
私は入会と同時にこの問題に直面した。そして問題の本質が、師が宣教師館に留まっ
ていることや、協力牧師として留任していることにあるのではなく、米軍をめぐるアメ
リカン・ボードと師、および OBC と師との関係にあることが判るにつれ、私はこの問
題に強い関心をもつようになったのである。
しかしこの問題は、本質的な議論となるはずの「米軍との関係」よりも、「問題の処
理」をめぐる対立という様相を呈していた。これは名護良健牧師らが公表した抗議声明
書「信仰と良心の自由のために-ランドール宣教師問題に関する声明-」
(79.8.1)が、
OBC の理事たちの不興を買ったことが大きな原因である。だが、この声明書には、解
任問題の真相を明らかにしようとする意志が貫かれている。にもかかわらず、何が理事
たちの怒りを買ったのだろうか。ともあれ、後に連盟側から出された声明書「ランドー
ル師問題の声明書に関して」(80.3.18)は、その論旨を専らランドール師の人格問題
に集中しており、問題の本質への接近という意味では、まったく的外れの内容になって
いた。
入信間もない当時の私に、このような大問題に対する発言力はほとんどなく、事態の
推移を見守るしかなかったが、それだけ適度の距離を置いて、この問題を捉えることが
できたのである。とはいえこの問題に没頭していた当時、私もまたこの問題に翻弄され、
精神的に疲れてしまったことは認めざるをえない。インタビューの中で、ランドール師
がこの一連の騒動を「戦争」に喩えたように、当事者にあっては本当に心労の大きいも
のだったことは想像に難くない。
結局この問題は、関係者の間にしこりを残したまま、82 年にランドール師が宣教師
館を退去することによって、ひとまず沈静化していった。さすがに OBC も、ランドー
ル師の協力牧師留任と、それによる普天間教会の除名にまでは、追及の手を伸ばさなか
った。これは、今日からみれば、賢明な処置だったと言えるかもしれない。私もまたこ
れを機に、以後信仰的には内向化していった。が、心の底には、この問題への関心がず
っと持続されていたことも事実である。
ちょうど 2000 年に、年男に当たったこともあって、私は再び社会的関心をもつよう
151
になった。詳しい経緯は省くが、そうした中で、古傷のように疼いていた師の解任問題
への関心が、長い潜伏期を経て浮上してきたのである。ランドール師へのインタビュー
を思いついたのは、それが大きな理由である。
2
ランドール師が提起した問題は、20 年もの間、未解決のまま放置されていた。もっ
とも「提起した問題」と言っても、正確に言えば、師はあのとき、ただボードが要求し
た転任勧告を拒否しただけである。そして「米軍との不一致」という理不尽な理由で解
任されることに対して納得がいかず、抵抗しただけである。おそらく師でさえ、当時こ
の問題のもつ大きな意味は、理解されていなかったのではないだろうか。しかしそれは、
たとえばルターが審問官を前にして自説を撤回できなかったように、内村鑑三が教育勅
語に敬礼できなかったように、あるいはローザ・パークスがバスの座席から離れること
ができなかったように、ランドール師はボードの要求に従えなかったのである。そこに
師の信仰的な良心(主体)があったからである。
しかし今日からみると、この問題には、教会にとって、また沖縄に生きる私たちクリ
スチャンにとって、更にこれからのキリスト教と世界との関係にとって、非常に深刻な
大きな問題が提起されていることに、改めて気づかされるのである。
それは今日のアメリカの、ことに軍事大国としてのアメリカの在り方をみれば、容易
に理解できるだろう。かつてアイゼンハワー大統領が憂慮した産軍複合体の脅威は、ま
すます肥大化し、いまや軍需産業を養うための「ビジネスとしての戦争」が画策され、
政府の中枢にはその関係の有力者が入り込んで「戦争」を「制作」している。そしてあ
ろうことか、戦争が民間に委託され、「戦争請負業社」が繁盛している。国家はすでに
そのための戦争体制を整備しており、政府と民間軍需産業の間には「天下り」要人たち
のエレベータ・システムがスムーズに機能している。更にそこにはハリウッドのような
映画産業を含む巨大メディアが総動員される。
一方、社会で不遇をかこつ若者たちが駆り集められ、「兵士」という名の殺人マシー
ンに仕立て上げられて、アフガニスタンやイラクに送り込まれ、女性や子供を含む多く
の一般住民が殺戮の犠牲になっている。その死者の数はすでに十万を超えたともいわれ
ている。このような帝国主義的非道にもかかわらず、アメリカ政府はこれを厚顔にも「自
由と民主主義のため」と称して、強引に占領政策を押し通しているのである。要するに、
弱い者を餌食にして、そこから利益を吸い上げている悪魔のような存在、阿波根昌鴻が
言う「戦争屋」がいるのである。
このような現実に対して、本来なら監視(みはり)を怠らず、警鐘を鳴らすべきアメ
リカのキリスト教会は、今日どのような態度を持しているだろうか。残念なことに、尐
なからぬクリスチャンが、戦争体制を草の根から支持しているのである。とりわけ宗教
的右派に属する福音派の保守的クリスチャンの存在は、今日報道で指摘されているとお
りである。
152
3
さて、ランドール師の宣教師職解任問題が提起しているものは何か、そろそろまとめ
なければならない。
一つは、それがアメリカのキリスト教の在り方を照らし出したということである。師
が宣教師として派遣されたのは、まずアメリカにキリスト教の大きな力があったからで
ある。しかし同時に師が宣教師の職を剥奪されたのも、やはりアメリカのキリスト教の
力によるものである。アメリカのキリスト教が抱えるこの大きな矛盾が、この解任問題
によく現れている。
その矛盾を生み出しているものは何かといえば軍隊、つまり暴力である。師の解任理
由が「軍との不一致」というのは、端的にそのことを示している。したがってこの問題
は「ランドール師問題」に限定されない。アメリカのキリスト教の矛盾、ひいてはこれ
までのキリスト教の矛盾をよく表している問題なのだ。キリスト教の最大の負の遺産は、
暴力に対してノーと言ってこなかったことである。キリスト教は暴力を克服してこなか
ったし、いまも克服していない。今日、平和の理由として宗教が取り上げられるよりも、
むしろ戦争や紛争の理由として宗教が取り上げられるのは、何とも皮肉なことだが、宗
教の「身から出た錆」である。
ランドール師の履歴を顧みると、そこにいかにもアメリカ的な経緯があったことが分
かる。師もまた、まず個人的な体験の中で、アメリカのキリスト教が抱える矛盾を体現
していたのである。
インタビューのなかでも証しされているように、師は大学卒業後、志願のかたちで海
兵隊に入隊した。これは当時の若者にとって特別なことではなかった。特別だったのは、
海兵隊に所属していた時代に、師が内面において、尐年時代からの宿題であった「神の
器」としての軍隊の正当性と、かつて聞き知ったガンディーの非暴力の正当性とをめぐ
って、葛藤していたことである。
その解決は、師が軍事訓練を受けつづけるなかで訪れた。兵士になるということは、
人殺しが出来るようになることを意味する。「人間を殺すためにですね、人間を殺す機
械に切り変えるために、人間性を殺さないといけないです。自分自身の心が枯れている
感じがしました。怖かったですよ。」師は、第 2 回のインタビューのなかで、そう語っ
ている。
しかし、そこに師の勝利の確信もまたあった。長年の課題であった暴力と非暴力の問
題が解決されたのである。「ガンディーのほうが正しかった」と。
はたしてこの確信は、師の個人的体験にとどまるものだろうか。師は、2001 年の 12
月に北中バプテスト教会で行った講演会(『北中バプテスト雑誌』02 年7月号掲載)
で、「全聖書の扉を開ける鍵」として、「汝の敵を愛せ、迫害する者のために祈れ」と
いう御言葉を挙げている。この確信こそ、アメリカの、ひいては世界のキリスト教の矛
盾を解決するものである。キリスト教は、そこからなんと隔たってしまっていることだ
153
ろうか。
4
解任問題が提起している重要な問題がもうひとつある。それは、OBC のあり方を照
らし出していることである。かつて OBC が「解任」を追認してしまったこと、しかも
師の人格を損なうかたちで師を切ってしまったことは、大きな誤りであったといわなけ
ればならない。それは「棘」のように、OBC の歴史に突き刺さったままである。
しかしそれも然りながら、この問題は今日の OBC のあり方も照らし出している。は
たして OBC は、今日まで、どれほど本気で平和問題に関わってきたのだろうか。沖縄
において平和問題というのは、
端的に基地問題である。米人教会を仲間にもつ OBC は、
米軍基地や米兵に最も近くにありながら、最も遠くにいたのではないか。基地や米軍に
対しては、それぞれの考えや思いがあるにせよ、キリストの平和である「非暴力」の立
場に立つかぎり、それらは暴力装置以外のなにものでもない。たとえば韓国の民衆芸術
家洪成潭(ホン・ソンダム)は、沖縄の米軍基地についてこう語っている。「東アジア
における最も重大な国家暴力の前線基地。中国や私の住む朝鮮半島を狙い数百万人を一
度に大量殺傷できる大量の兵器が置いてある。もしその武器が使われたら、沖縄のみな
さんも無関係でいるわけにはいかない。まったく自分たちと関係のない人々の生活を地
獄に一変させる手段である悪魔の『休憩所』を提供していることを、さまざまな形で認
識してもらいたい。」(沖縄タイムズ 05 年 3 月 1 日)
ランドール師は「基地は社会の癌」だという。阿波根昌鴻は「基地をアメリカに持っ
て帰りなさい」と言った。実際、この基地からベトナムも湾岸もアフガニスタンやイラ
クも攻撃されたのではないか。
もちろん教会が、教会内の信徒間の信仰生活に重点を置くことは、重要なことである
にちがいない。しかし OBC はすでにアメリカとの関係も深く、そのアメリカの教会は
米軍との関係が深いのであってみれば、―でなければ、「軍との不一致」が解任の理由
にされることはないはずである―基地問題に無関心であることは、洪氏の言を待つまで
もなく、あまりに無頓着であろう。かつて理事の一人としてランドール師を追及した国
吉守牧師でさえ、今日、米軍基地を見直し、これを「世界救援隊の基地」に変えようと
ヴィジョンを語っておられる。
(『沖縄から平和を祈る』)そうであるならばいまこそ、
かつてのしこりを解消し、相互の和解を実現して、基地のない沖縄を実現するために、
OBC が本気で一歩を踏み出すときではないだろうか。
そのような意味において、四半世紀も前に、ランドール師が身をもって示した抵抗は、
これからの OBC のあり方に重要な示唆を与えた貴重な行為として、評価されて然るべ
きであろう。しかし現在なお、そのような動きが生まれていないのは、誠に遺憾である。
ランドール師の名誉は、依然として回復されてはいない。その意味で、「ランドール宣
教師解任問題」は、けっして終わってはいないのである。
2005 年 12 月 25 日
154