1 文化・文明の「衝突」の根源としてのパレスチナ問題(その2) ・1960

文化・文明の「衝突」の根源としてのパレスチナ問題(その2)
・1960年代初頭→パレスチナ解放を目的とするゲリラ組織「ファタハ」が設立される
指導者=ヤーセル・アラファト
アラファト→1929年エルサレム生まれ
第一次中東戦争の敗北と、アラブ諸国の思惑によってパレスチ ナ人の国家が成立しなかったことに大きな衝撃を受ける
・ファタハの主張=パレスチナはパレスチナ人自身の手で解放すべきであるが、イスラエ
ルと力で対抗するにはパレスチナ人は非力すぎる。イスラエルを敗北させるには、パレ
スチナ人が行うゲリラ活動を起爆剤に、アラブ諸国を巻き込んだ対イスラエル全面戦争
を展開させるしかない。
・ファタハ→1960年代中ごろからヨルダンなどを拠点にイスラエルへのゲリラ攻撃←
イスラエルが激しい報復攻撃
・シリア→1964年、ヨルダン川上流の水流を変える工事を開始←イスラエルが工事現
場を繰り返し爆撃
☆1966年末から1967年初めにかけてイスラエルとアラブ諸国の緊張はいやがう えにも高まっていった
・ナセル→チラン海峡封鎖宣言←イスラエルにとっては死活的な意味、イスラエルが戦争
を開始する絶好の機会となった
◎1967年6月5日→第三次中東戦争の開始
イスラエルの奇襲によって、エジプト、シリア、ヨルダン、イラクの空軍は壊滅状態に
(作戦の立案者→イツハク・ラビン参謀総長、モシェ・ダヤン国防長官)
・イスラエルの圧倒的勝利、停戦受け入れ=6月10日(6日間戦争)
イスラエル側戦死者=679人、アラブ側戦死者=3万人余り
アラブ側は飛行機450機、戦車1000両を失ったのに対し、イスラエルが失った 航空機は19機、また戦車は61両であった
・イスラエル→エルサレム旧市街を含む西岸とガザ地区を占領、シリア領ゴラン高原とエ
ジプト領シナイ半島もイスラエルの支配下に
→イスラエルでは「大イスラエル主義(Greater Israel Concept)」が台頭
「戦争によって獲得したイスラエルの地を一部でもアラブ側に返還することは、神 の意志、ユダヤ民族の教えに反する」
◎新たな難民問題の発生
1967年12月までに24万7千人のパレスチナ人がヨルダンに逃れ、また1万1千
人がガザ地区に難民として流入した
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パレスチナ人→政治的消滅状態に、パレスチナ人の土地がすべてイスラエルの支配下に
◎イスラエル→東エルサレムとイスラエルが安全保障上必要な地域は絶対に返還しない
・アラブ諸国→1967年8月、スーダンのハルツームで首脳会議
「イスラエルとは講和せず、交渉せず、承認せず」=「アラブの三つのノー」
・ソ連→戦争の原因はイスラエルにあるとし、イスラエルとの国交を断絶
・米国→「国家の安全を保障するため、イスラエルは必ずしも全占領地から撤退しなくて もよい」
◎国連安保理決議242号(1967年11月)
(1)最近の紛争において占領された領土からのイスラエル軍の撤退“Withdrawal of
Israel armed forces from territories occupied in the recent conflict"
(2)中東地域のすべての国々が安全で、かつ承認された境界内で平和に生存する権利の
尊重と確認
・労働党→占領地からの部分撤退を主張、リクード→西岸・ガザからの撤退の必要性を 認めない
・パレスチナ人は民族自決権(=民族が自らの意思に基づいて、その政治的運命を決定
する権利のこと)に言及がないとして決議の受け入れを拒否
・ファタハ→ヨルダン、レバノンのパレスチナ難民の組織化→イスラエルを攻撃
1968年にPLOに参加。69年2月、アラファトがPLO議長に選出される
PFLP「パレスチナ解放人民戦線」(ジョルジュ・ハバシュ指導)など多様なゲリ ラ組織の存在←常にアラブ諸国からの干渉を受ける
1970年、「黒い9月」事件
◎エジプトのナセル→第三次中東戦争の敗北の結果、アラブ・ナショナリズムは退潮する
◎ナセルの後を継いだエジプト第3代大統領、アンワル・サダト→1918年12月25
日生まれ。
・父親は公務員、母はスーダン人。中流家庭出身。「ムスリム同胞団」に対して懐柔政策に
つとめ、自らの呼び名を「アル・ムーミン(信仰する者)」とし、ファースト・ネームも「ア
ンワル」の前に「ムハンマド」とつけた。
・外交的にも湾岸の保守勢力であるサウジアラビアとの接近を図り、1972年7月には
ソ連の軍事顧問と技術者の引き揚げを実現させ、ソ連の影響力の排除を目指す。
サダト政権→内政、外交とも保守的な傾向があった
◎対イスラエル関係→アメリカを通じてイスラエルに対して国連安保理決議242号の受
け入れを求めたが、イスラエルは何の妥協的な姿勢も示さず
サダトの基本的な立場=イスラエルの生存権は認めるが、すべての占領地の返還を求め
る(「戦争も平和もない」状況が果てしなく続くようだと、結局はイスラエルの占領が事実
上認められてしまうという危惧感がサダトにはあった)
→こうした事態を防ぐためには、シナイ半島のイスラエル軍に対する攻撃をしかけ、国 2
際社会に対して現存する不公正を認識させようとした
第4次中東戦争の参加国=アラブ側ではエジプト、シリアに限定
10月6日、エジプト軍はスエズ運河東岸のイスラエル軍に対して奇襲をしかける (10月6日=「ヨム・キプール」というユダヤ暦の贖罪の日)
※「ヨム・キプール」の日は、ユダヤ教徒は24時間断食を行う
イスラエル=最前線の守備すら手薄な状態
エジプト軍→イスラエルの防衛ラインを突破し、シナイ半島をゆっくり前進
ソ連→エジプトに対して早急な武器援助を実施
アメリカ→イスラエルに対する空輸作戦を開始
西側のNATO基地からアメリカの武器・兵器がイスラエルに対して供給される
↓
10月19日、クウェートでアラブ石油相会議が開催される→アメリカとその協力国 であったオランダに対する石油の禁輸と73年9月の水準から毎月5%の原油生産 の減少を決定→「友好国」はこの適用を免れた(=アラブの石油戦略の発動)
※日本は当初この「友好国」の範疇に入らず
理由=(1)日本のパレスチナ問題に関する取り組みは極めて消極的なものである (2)中東諸国の経済社会発展にほとんど寄与していない
(3)日本は中東の安価な石油で経済発展を遂げたにもかかわらず、中東諸国 との友好関係を促進しようとしない
(4)日本はアラブ諸国の半分にしか大使を常駐させていない
(5)72年5月の日本赤軍のテルアビブ空港襲撃事件の際に日本政府はイス ラエル政府に対して謝罪使節を送った
EEC(欧州経済共同体)加盟国→イスラエルに対して国連安保理決議242号の履行
を求める
↓
73年11月28日、アラブ諸国は、EEC加盟国は石油の輸出規制を免れるという声
明を発表
ヨーロッパ諸国の姿勢→日本政府の関係者にも大きな影響を与える→アラブ寄りの姿勢を
とる動きが支配的に
◎11月22日、二階堂官房長官による政府声明
(1)イスラエルは1967年の戦争において占領した地域からの撤退を実現すべきで ある
(2)日本政府はパレスチナ住民の合法的な権利を認め、その尊重を行う
(3)日本政府は将来の展開によってはそのイスラエル政策を見直す用意がある
12月8日、政府→三木特使をサウジに派遣→ファイサル国王は日本を「友好国」と認
定する
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・イスラエル→アメリカの武器供与もあって次第に反攻に転じる
スエズ運河を渡り、スエズ運河西岸のエジプト領に実質的な橋頭保を築 き上げた→アメリカからの圧倒的な支援を受けてイスラエルはエジプトの 進撃をくい止める サダトは10月16日、停戦を提案
10月22日、国連支援の下に停戦が宣言される
第4次中東戦争=イスラエルが初めて奇襲を受け、徹底的な勝利を収められなかった最 初の戦争→1967年の第3次中東戦争で得た領土→イスラエルの安全保障に役立つ という考えをイスラエル国内において強める
第4次中東戦争で得た自信→エジプトをイスラエルとの平和に向かわせることになった
(敗者のままでイスラエルとの和平交渉に臨むのはエジプトにとっては屈辱であった)
サダト→1977年11月9日、エジプト議会で演説を行い、その平和への切望からイ
スラエル国会で演説を行い、中東における和平の動きを推進する意図を明ら
かにする
◎メナヘム・ベギン(Menachem Begin)=1977年から83年までイスラエル首相
1913年8月16日、ブレスト・リトフスク生まれ
(父親のズィーヴ・ドヴ・ベギン(Zeev Dov Begin)は正統派ユダヤ教徒で、熱心なシオ
ニストであった。1942年にパレスチナに渡り、1943年には極右の軍事組織 のイルグンの司令官になった)
第3次中東戦争後「大イスラエル主義」を掲げる政治グループの支持を受け、1973
年にはこれらのグループをベギン率いるヘルート(自由)党は吸収して「リクード」 (連合)を結成、1977年の総選挙で「労働党」を破り、政権の座に=30年に渡る
労働党の政治支配は終焉を迎える
◎キャンプ・デーヴィッド合意
アメリカ大統領、ジミー・カーター→エジプトのサダトとイスラエルのベギンを仲介
78年9月、キャンプ・デーヴィッド合意が成立
①エジプト、イスラエルの2国間問題
イスラエル軍のシナイ半島からの撤退と、シナイ半島における国連軍の駐在、エジプト
はイスラエルとの国交の正常化と平和条約の締結を行うこと、を主な内容
エジプト=イスラエルの平和条約→1979年3月に締結
1982年4月にイスラエルはシナイ半島からの撤退を完了
②中東における包括的和平を実現し、西岸・ガザ地区に自治権を与える
キャンプ=デーヴィッド合意に対するアラブ諸国の反応→否定的
エジプト→「アラブ連合」の構成国の資格を停止され、スーダン、オマーン、ソマリア
を除くアラブ諸国→エジプトとの外交関係を断絶
エジプトとイスラエルの平和条約→エジプトに明白な利益をもたらす
エジプトは米国からの軍事的・経済援助の、規模においては2番目の対象国となった
メナヘム・ベギン政権→エジプトが抜け、相対的に力が弱まったアラブ諸国を刺激する
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ような方策をとっていく
①1980年7月には東西エルサレムを首都とする基本法を成立させる
②1981年6月にはイラクの原子炉を破壊
③1981年12月にはシリア領ゴラン高原を併合する法案を成立させる
http://www007.upp.so-net.ne.jp/snakayam/topics_14.html より
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