大局観で生きる 私の趣味は将棋である。 将棋の棋士が素人によく聞かれる質問に「先生は何手ぐらい読めるんですか」というも のがあるという。そして、これは答えにくい質問だという。「3手の読み」という格言(将 棋のことわざ)があるように、ある意味では次に相手が指す手が必ずわかれば必勝である とも言える。しかし、実際には相手が次(あるいは次、次の次…)に指す手は不確定だか らそれを仮定した上で推論(読み)を進める必要がある。そのため大量に読まなければな らないということにもなる。 先日、羽生名人がテレビで話しているのを見た。羽生さんは20代にしてタイトルを総 なめにした人物である。その頃は読みの量で勝負していたという。研究を重ね、全てを読 んで結論を出そうとしていたようだ。 その羽生さんでも、30代になり、記憶力などは明らかに10代、20代より落ちてき たという。また、忙しくなり研究時間を確保するのも難しくなってきていると思われる。 しかし、羽生さんは強い。前出の番組でも、タイトルを総なめにしたときよりも今の方 が強くなっていると述べていたぐらいである。 では、なぜ強いのか。それは大局観が優れているからである。大局観というのは、その 局面でどちらが優勢か、攻めるべきか守るべきか、どのコマを働かせるべきかといったこ とを全体的に判断する能力のことを言う。記憶力などの肉体的な衰えを大局観によって補 っているのである。 これは研究の世界にも当てはまるのではないかと思う。若いころは全ての先行研究を読 み尽くして論文を書くといったことも可能であろうが、そういうやり方は続けられないの が普通である(日本の大学の雑用の多さがそれに拍車をかけている)。面白い言語現象を かぎつける嗅覚、論文の善し悪しを見分けるセンス、そういったものを総合的に動員して 研究を進めていくのが40代以降の論文の書き方ではないかと考えている。 私は30代後半に体調を崩した。読書をすることが困難になった。論文は何とか書きつ ないでいたが、ある時期完全にエンスト状態になり、研究者生活に絶望したことがある。 その後ある程度回復したとき、思ったことが「大局観で生きる」ということである。今 は読書がさほど苦であるわけではないが、それでもその量は大学院生のころとは比べもの にならない。まして今は私の大学院生のころとは比べものにならない量の研究書が出版さ れている。それをフォローすることは至難の業である。 そうした状況下で研究者として生き続けるために私は研究の間口を広げることを心がけ ている。私は「自分が説明できないこと」を説明できるようになれればいいと思っている。 私のパソコンには「論文」というフォルダがあるが、そこには今、「「は」と「が」」、 「のだ」、「やさしい日本語」、「漢語」、「指示詞」、「日本語教育文法」というサブ フォルダがある。これらが今私が「説明したいこと」である。これからはこれらのサブフ ォルダの中身をつぶしていくとともに、さらにサブフォルダの数を増やしていきたいと考 えている。 NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組の最後に、出演者に対して「プ ロフェッショナルとは」という質問がなされるが、私の今の答えは「感性を研ぎ澄まし、 常に、80%の仕事を続けられること」である。 若い人たちの情熱に、大局観で立ち向かう。これがこれからの私の研究者としてのライ (2009 年 5 月 1 日) フスタイルである。 -1-
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