解説ガイド(野外展示家屋)PDF(2MB)

INFORMATION
The Little World Museum of Man
おきなわけん
いしがきじま
INFORMATION
まいとし
みなみ
なんせいしょとう
あねったい
いま
ねん
りゅうきゅうこくじだい
しぞく
す
がつ
がつ
なんど
たいふう
いしがきじま
いえ
くふう
ぼうふうたいさく
た
ほうふ
と
いしがき
たか
つ
暴風対策その 1:豊富に採れるサンゴ石で石垣を高く積みあげる。
の 1871年頃、琉 球 国 時 代の士族の住まいとして建てられた
いえ
く
は、いくつかの工夫がこらされています。
まえ
らなります。そのひとつである石垣島に、今から 130年以上前
ねんごろ
たいふう
毎年7月から 10月までに何度も台風におそわれる 石垣島の家に
しま
沖縄本島よりもさらに 南 にある南西諸島は、亜熱帯の島じまか
いしがきじま
す
気候と住まい:台風とともに暮らす
沖縄県 石垣島の家
おきなわほんとう
The Little World Museum of Man
きこう
いえ
かぜ
ちょくせつ
いえ
ふ
くふう
風が 直接 、家に吹きつけないようにという工夫です。
いちく
家を移築しました。
にわ
ぼうふうりん
う
暴風対策その 2:庭に防風林を植える。
おな
いえ
ふ
かぜ
すこ
よわ
くふう
同じく、家に吹きつける風を少しでも弱めるための工夫です。
やねがわら
かた
暴風対策その 3:屋根瓦をしっくいで固める。
や
ね
かぜ
ふ
と
おも
やくめ
やねがわら
屋根が風で吹き飛ばされないように“重し”の役目をもつ屋根瓦、この
いしがきじま
いえ
ひらがわら
まい
まるがわら
まい
く
あ
石垣島 の 家 では 平瓦 (1 枚 1.3kg)と 丸瓦 (1 枚 1.9kg)を 組 み 合 わ
まん
せん まい
かわら
つか
かわら
せ、およそ1万7千枚、25t もの 瓦 を使っています。さらに、 瓦 を
ぬ
かた
しっくいで塗り固めて、おさえています。
おもや
はしら
のき
ひく
暴風対策その 4:母屋の 柱 をふやし、軒を低くする。
いしがきじま
いえ
がっさん さんろく
いえ
おな
めんせき
「石垣島の家」と「月山山麓の家」とはおおよそ同じくらいの面積ですが、
いしがきじま
いえ
はしら
ほん
やまがた
いえ
はしら
ほん
ちが
石垣島の家の 柱 は 102本、
山形の家の 柱 は 74本とかなり違います。
はしら
かず
おお
おも
や
ね
ささ
柱 の数が多いのは、重い屋根をしっかりと支えるためです。
のきした
たか
いしがきじま
いえ
かぜ
いえ
やまがた
いえ
軒下の高さは石垣島の家が 270 ㎝で、
山形の家は 430 ㎝もあります。
のき
ひく
かべ
や
ね
うえ
ふ
と
軒が低いことで、風は家の壁ではなく屋根の上を吹き飛んでいきます。
たいふう
おきなわけん
おきなわほんとう
さいじょう
沖縄県 沖縄本島の 祭場
よ
いしがきじま
くふう
そんらくきょうどう
むか
おさ
ひと
さいじょう
まいとし きゅうれき
がつ
ほうさく
かいじんさい
じょせい
たいふう
こ
いしがきじま
工夫をしてきましたが、まったく台風が来なくても、石垣島の
はんえい
アサギと呼ばれる 村落共同 の 祭場 。毎年 旧暦 の 7月には豊作や繁栄
しん
ひがい
台風による被害を抑えるために、石垣島の人たちはいろいろな
ひと
こま
いしがきじま
い
ど
ほ
みず
人たちは 困ってしまいます。石垣島では井戸を掘っても、水に
もよお
をもたらすニレー神を迎える海人祭が、女性たちだけで 催 されます。
えんぶん
ふく
の
みず
つか
ねん
すいどう
塩分が含まれており、飲み水には使えません。1953年に水道が
かごしまけん
おきのえらぶじま
たかくら
ひ
鹿児島県 沖永良部島の高倉
いなたば
くろざとう
しょっき
ほぞん
たかゆかしき
そうこ
はしら
じょうぶ
ま
いんりょうすい
稲束、黒砂糖、食器などを保存する高床式の倉庫。 柱 の上部に巻いたブ
がえ
たけ
ゆか
や
ね
あまみず
てんすい
引 か れ る ま で 、 屋根 に ふ っ た 雨水 を 天水 タ ン ク に た め て
のうぐ
お
ば
こくもつ
もち
たいふう
たいりょう
まみず
飲料水 に 用いていました。台風は 大量 の真水をもたらしてく
かんそう ばしょ
てん
リキはネズミ返しです。竹の床は農具置き場や、穀物の乾燥場所です。
めぐ
れる天からの恵みでもあるのです。
-1-
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The Little World Museum of Man
ほっかいどう
INFORMATION
いえ
み なお
北海道 アイヌの家
ほっかいどう
The Little World Museum of Man
せいかつ
かんたいへいようこうえき
見直されるアイヌの生活:環太平洋交易
せんじゅうみんぞく
く
きょうりょく
めぐ
しぜん
北海道の 先 住 民族であるアイヌが、19世紀末ごろまで暮らし
たく
しゅりょう さいしゅう みんぞく
りよう
ア イ ヌ は 自然 の 恵 み を 巧 み に 利用 す る 狩 猟 採 集 民族 で し た 。
さいげん
けんきゅう
さいきん
ていたコタン(村)を、アイヌの人びとの 協力 で再現していま
しかし最近の 研究 で、狩猟や採集とともに、アイヌの生活の少なからぬ
す。サケが川にやってくる秋のほかには、こうした数戸のコタン
部分が交易で成り立っていたことが明らかになってきました。
しきち
おく
ふたむね
ぶんけ
ろ
かみさま
ねどこ
ちしまれっとう
アイヌの生活圏 は北海道のほか、 樺 太 や千島列島 にまでおよび、
が生活の場となっていました。敷地 の奥 にあるのが 両親 の家、
てまえ
から ふと
せいかつけん
りょうしん
か
こども
大陸と日本をつなぐ架け橋の役目を果たしていたと言われます。
手前の 2 棟が分家した子供たちの家になります。アイヌの人びと
せいてつ
は炉を神様の寝床 と考えたため、家は炉を中心に
ぎじゅつ
わじん
アイヌは製鉄の技術を持っていませんでした。そのため、南方では和人
造られてい
せいかつひつじゅひん
なべ
(日本人)との交易で、生活必需品である鉄の小刀や鍋を手に入れました。
ます。
米や酒、タバコなども好まれました。その代わりアイヌは和人に、テン(貂)、
しん
キツネ、アザラシ(海豹)などの毛皮や、清(現在の中国)からもたら
おりもの
え
ぞ にしき
よ
ちんちょう
された織物などを渡しました。これを和人は蝦夷 錦 と呼び、 珍重 しま
した。
さんたんじん
よ
北方では、山丹人と呼ばれた大陸のツングース系の人びとと交易し、
こうえきひん
アイヌは交易品として毛皮のほか、和人より入手した鉄製品の一部を渡し
やばね
ていました。山丹人からの交易品には、矢羽に用いるワシ(鷲)の羽根や、
薬とするセイウチ(海象)の牙などがありました。また
先に述べた
え
蝦夷錦も山丹人との交易で得たもので
した。
こうした交易は「環太平洋交易」と
呼ばれています。江戸時代、徳川幕府
けんちくざい
とくちょう
さこく
が鎖国を始めてからもこの交易は引き
【建築材の 特徴 】
や
ね
かべ
しょくぶつ
続きおこなわれ、
中国の織物は長崎から
屋根や壁に使われているのはノガヤという 植物 で、柱の木などとともに
けむり
けいゆ
いぶ
ばかりでなく、アイヌを経由 し て も
北海道から取り寄せたものです。炉の 煙 により燻 されたノガヤは雨や
かいてき
せいかつ
入ってきていました。そのため、この
雪に対してより強くなり、アイヌの人び とに 快適 な生活 をも たら し
いぶ
たいきゅうせい
かおく
すうせだい
ま し た。 こ う して 燻 さ れ 耐 久 性 の増した家屋は、数世代にわたって
使用されることもあったといいます。
-2-
「環太平洋交易」を、
「北のシルクロー
蝦夷錦と呼ばれた清の官服
ド」と呼ぶ研究者もいます。
龍のデザインが入っている
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たいわん
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れきし
のうか
す
歴史と住まい:ふるさととのつながり
台湾 農家
しょくりょう ぶ そ く
いしがきじま
石垣島から 200kmほどのところにある台湾は、同じように
まいとし
たいふう
おそ
ふっけんけいかんぞく
でんとうてき
のうか
せいき
けんちくようしき
なが
たいわん
のうち
ふ っ け ん け い かんみんぞく
つよ
ひ
ざ
ぼうふうう
しんにゅう
をモデルとし、1950 年代頃の生活を復元しています。
ふせ
熱帯の強い日差しをさけるため、また暴風雨の 侵入 を防ぐため、
かべ
あつ
ぬ
かた
ちゅうろう
かおく
ぜんめん
でんとうてき
な 福建系 漢民族の 伝統的な農家で、1917 年に建てられた家
ふうど
中国 南方の建築様式の流れをくみながら、台湾の風土に合わせ、
ねったい
たいわん
農地を求めてたくさん移り住みました。この家は、そのよう
ふくげん
移住してきた福建系漢族の伝統的な農家を復元したものです。
ちゅうごくなんぽう
ちゅうごく なんぶ
は、17 世紀なかばから 19 世紀末にかけて、 台湾 に新しい
ちゅうごくたいりく なんぶ
毎年いくつもの台風に襲われます。この家は 中国 大陸南部から
いじゅう
くる
山がちな土地で 食 糧 不足 に 苦しんでいた 中国 南部の人びと
たいわん
こきょう
やねがわら
た
かた
さんごういん
【故郷の建て方:三合院】
壁を厚くし 柱廊 で家屋の前面をとりまき、屋根瓦をしっくいで
なかにわ
くふう
ちゅうしん
さんぽう
むね
なら
けんちくけいしき
さんごういん
よ
中庭を 中心 に 三方に 棟が 並ぶこのような 建築形式を 三合院と 呼び、
塗り固めるなどの工夫があります。
ちゅうごく なんぶ
なが
中国 南部の流れをくむものです。
ちゅうおう
へ
せいちょう
せ
や
せいちょう
そせん
どうきょう
かみ
中央 の部屋、 正庁 では、祖先や 道教 の神がみをまつっています。
ひだりて
かちょう
あに ふうふ
へ
や
みぎて
おとうと ふうふ
正庁 を 背にして 左手が 家長である 兄 夫婦の 部屋、 右手が 弟 夫婦の
へ
や
さゆう
の
むね
せいちょう
こども
へ
や
のうぐ
お
ば
部屋で、左右から伸びる棟は、成長 した子供たちの部屋や農具置き場
つか
として使われます。
へ
や
わ
ひだり
ゆうい
ちょうよう
じょ
おも
かんが
かた
こうした部屋割りは、左 を優位とし、長幼 の序を重んじる 考 え方に
もと
や
ね
たか
つ
あ
はんえい
基づくもので、屋根の高さにも反映されています。
あか
かべ
す
や
かわら
かさ
や
ね
また、赤レンガを積み上げた壁や、素焼きの 瓦 を重ねた屋根も、ふる
ちゅうごく なんぶ
ようしき
いま
たいわん
のうそんぶ
とうぞく
み
み
さとの 中国 南部の様式で、今でも台湾の農村部で見かけるものです。
しんてんち
み
まも
す
【新天地で身を守る住まい】
たいわん
いじゅう
ひと
あらそ
まも
いえ
台湾へ移住した人びとは、 争 いや盗賊から身を守るために、家のまわ
たけ
う
まど
ちい
すく
りにトゲのある竹を植えました。また、窓を小さく、少なくし、さら
き
とびら
がんじょう
にぶあつい木の 扉 に 頑丈 なかんぬきをつけました。
ふうすい しそう
【風水思想】
こらい
ちゅうごく
ふうすい
りそうてき
かんきょう
さだ
かんが
かた
古来より 中国 には、風水という理想的な 環境 を定める 考 え方があり
かおく
たいわん
と
ち こうびょう
ふくとくぐう
ふうすいいけ
【台湾の土地公 廟 :福徳宮】
たいわん
のうか
む
ち こう
たてもの
よ
た
はいご
さんりん
ぜんめん
はんげつじょう
はい
よ
かぞく
けんこう
いえ
はんえい
ねが
ひと
風水池を配すると良いといわれます。家族の健康や、家の繁栄を願う人
ふくとくぐう
なまえ
せんもんか
「台湾 農家」の向かいにある建物は「福徳宮」という名前で、
ふくとく せい しん と
みなみ む
ます。家屋は 南 向きに 建て、背後に山林をひかえ、前面に 半月状 の
かみ
そうだん
ちけい
ほうい
かんてい
びとは、専門家に相談し地形や方位を鑑定してもらいます。
びょう
「福徳正神土地公」と呼ばれる神さまをまつる 廟 です。
-3-
INFORMATION
The Little World Museum of Man
だいのうえんりょうしゅ
INFORMATION
れきし
いえ
The Little World Museum of Man
す
かお
なんべい
いえ
歴史と住まい:アラブの香りがする南米の家
ペルー大農園 領主 の家
【アシエンダ】
いえ
よ
だいのうえん
りょうしゅ
ていたく
たいりく
ふくげん
この家は、アシエンダと呼ばれた大農園の 領主 の邸宅を復元
しゅと
やく
りょうしゅ
た
なまえ
しょくみんち
けい
せんじゅうみん
こくじん
じん
こさくにん
領主 が 先住民 のインディオやアフリカの黒人、アジア人らを小作人とし、
はな
したものです。ペルーの首都リマから約70 キロほど離れた海
だに
きゅう
アシエンダとは、アメリカ大陸の 旧 スペイン植民地において、スペイン系
ろうどうりょく
つか
だいきぼ
けいえい
のうじょう
そ の 労働力 を 使 っ て 大規模 な 経営 を お こ な っ た 農場 の こ と で 、
やかた
岸地方のチャンカイ谷に建つ「カキ」という名前の大農園の 館
せいきまつごろ
はったつ
のうちかいかく
かいたい
16世紀末頃から発達したものです。農地改革で解体されるまで(ペルー
をモデルとしています。
ねん
ぼくじょう
しょうひんさくもつ
さいばい
ばくだい
しゅうえき
あ
では 1969年)、 牧場 や 商品作物 の栽培により、莫大な 収益 を上げてい
ました。
ふう
ふう
けんちくようしき
【スペイン風=アラブ風の建築様式】
けい りょうしゅ
た
ていたく
ほんごく
けんちくようしき
スペイン 系 領主 が 建てた 邸宅であるため、 本国スペインの 建築様式を
と
い
なかにわ
かこ
かいろう
きょしつ
はいち
取り入れて、中庭(パティオ)を囲んで回廊、そして居室が配置されてい
ようしき
せいき
はんとう
ます。しかしこの様式も、もともとは 8~15世紀にかけてイベリア半島
しはい
せかい
を 支配 し て い た イ ス ラ ム 世界 に よ っ て も た ら さ れ た も の で す 。
き こ う
す
さばく
だいのうえん
だいていたく
気候と住まい:砂漠の中の大農園と大邸宅
さばくきこう
なか
だいのうじょう
【砂漠気候の中の 大農場 】
かいがんちほう
モデルとしたアシエンダ「カキ」があるペルーの海岸地方は、ほとんど雨
かんきょう
けいえい
が降らない砂漠です。そのような 環境 のもと、大農場が経営できたのは、
さんみゃく
たいへいよう
おんけい
しゅと
アンデス 山脈 から太平洋へと流れ下る河川の恩恵によります。 首都の
ねんかんへいきんこうすいりょう
リマの 年間 平均 降水量 は、わずか 10.8 ミリですが、農業用の水さえ
おんだん
あれば、1 年を通じて 16~23℃(年間平均気温 19.1℃)という温暖な
きこう
さいばい
てき
気候は、サトウキビやワタの栽培に適しています。
あめたいさく
す
つく
【雨対策のない住まいの造り】
ていたく
や
ね
いた ぶ
たい
モデルとした邸宅の屋根は、板葺きの上に土をのせただけの平らなもの
りく や
ね
(陸屋根)でした。雨の降らない地域の家ならではの造りです。リトルワ
ふくげん
あま も
ぼうすい しょり
ほどこ
ールドでの 復元にあたっては、 雨 漏りしないように 防水処理を 施 して
うち びら
あまど
まど
います。しかし、内開きで雨戸もない窓からは、横なぐりの雨の日には雨
水が入ってきてしまいます。
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INFORMATION
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とうきぞく
INFORMATION
The Little World Museum of Man
いえ
インドネシア バリ島貴族の家
せきどうちょっか
かざん
しま
とう
ぶんか
えいきょう
きょう
バリのヒンドゥー 教
とうなん
う
赤道直下の火山の島、バリ島。ヒンドゥー文化の 影響 を受け
しゃかい
きぞく
へいみん
も
きぞくかいきゅう
やしき
うちかべ
たてもの
せいれき
ふくげん
しんせい
その後仏教、イスラム教、さらにはキリスト教の波が次つぎと押し寄
そ
せ、東南アジアの国や人びとはその色に染 められていきました。そ
かみ
ん奥の①~⑥はもっとも神聖な区画で、ヒンドゥーの神がみや
そせん
じいん
こらい
ぎれい
たてもの
ちゅうしん
しんしつ
こくもつこ
だいどころ
と
せいかつ
ば
てまえ
ぶぶん
まつ
やしき
バリでは、人の数以上の神様と屋敷の数以上の寺院が存在し、毎年
ぎれい
そうしき
並ぶ生活の場であり、⑮~⑯の手前の部分は、お祭りや儀礼の
よきょう
おど
えんそう
あ
と溶 け合 ったかたちで今でも残っています。
た
中央 部分は、儀礼の建物を 中心 に寝室、穀物庫、 台所 が建ち
なら
どちゃく ぶ ん か
んな中でバリ島には、ヒンドゥー教とその文化が、古来 の土着 文化
さいしじょう
祖先をまつる屋敷内の寺院 ( 祭祀場)があります。⑧~⑬の
ちゅうおう ぶぶん
せいき ごろ
よ
はいち
くかく
しん
化は、 西暦 1世紀 頃 に東南アジア一帯にひろく伝えられましたが、
で、敷地を内壁で 3 つにわけて建物を配置しています。いちば
おく
きょう
人びとが住む島です。インドに興 ったヒンドゥー教とヒンドゥー文
あります。展示家屋は貴族階級の屋敷をモデルに復元したもの
しきち
いま
おこ
せいど
たその社会には、貴族と平民をわけるカーストを模した制度が
てんじかおく
めずら
バリは東南 アジアでも 珍 しく、今 でもヒンドゥー 教 を信 じる
ぎれい
の寺院のお祭りや誕生日、結婚式、葬式 などの儀礼 のみならず、
ば
か
ときに余興として踊りやガムラン演奏をする場です。
おど
げき
村の集会や田植え、刈 り入れ、踊 りや劇 にいたるあらゆる場面で、
まね
ささ
いの
神が招 かれ祈 りが捧 げられます。しかし、バリのヒンドゥー教は
こと
ゆいいつ しん
イ ン ド の ヒ ン ド ゥ ー 教 と 異 な り 、 数 多 く の 神 が み は 、 唯一 神 が
あらわ
けしん
かいしゃく
さまざまなかたちをとって 現 れる化神 であると、人びとに 解釈
されています。
しゅうきょう
す
たてもの
かざ
かみ
宗 教 と住まい:建物を飾る神がみ
かみ
いし
き
ちょうこく
バリでは、さまざまなヒンドゥーの神 がみが石 や木に 彫刻 され、
たてもの
もん
かざ
おもて
ず
とびら
うえ
だいち
めがみ
こ
建物 や門 を飾 っています。 表 の図⑭の 扉 の上 では大地の女神の子、
きば
だ
め
いか
しんにゅうしゃ
み は
ボマが牙 をむき出 し、目 を怒 らせて 侵入者 を見張 っています。
とびら
ま
かみ
また 扉 には魔 よけの神 マハカラ(右)とナンディスアラ(左)の
ぞう
ちょうこく
もん
りょうわき
おな
かみ
せきぞう
お
像 が 彫刻 され、門 の 両 脇 にも同 じ神 の石像 が置 かれています。
はり
うえ
せかい
しゅごしゃ
しん
せ
⑨の梁 の上 には、世界 の守護者 であるヴィシュヌ神 を背 にのせて
ひしょう
まもの
あく しん
たたか
しんちょう
かざ
飛翔 し 、魔物 や 悪 神 と戦 う 神鳥 ガ ル ーダ が 飾 ら れ てい ます。
はいめん
せきぞう
ちょうこく
ガルーダはこのほか、①の背面 にも石像 として 彫刻 されています。
-5-
INFORMATION
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しゅう
INFORMATION
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むら
かぜ
ドイツ バイエルン 州 の村
え
ぎ ほ う
風の絵とその技法
なまえ
しゅうへん
じょうけい
が とくゆう
れいはいどうないぶ
ています。村は聖ヨセフの泉を中心に、色あざやかなフレス
ふた むね
みんか
ゆらい
レスコ画は、2 つの技法で描かれています。ひとつは礼拝堂内部のプリマ・
せい
がいへき
えが
ればならないフレスコ画特有の描き方に由来します。リトルワールドのフ
ふくげん
ン 周 辺 をモデルとして、のどかな美しい村の 情 景 を復元し
が
て ばや
「風の絵」という名前のいわれは、そよ風のような手早さで描きあげなけ
ドイツ南部、バイエルン州のガルミッシュ・パルテンキルヘ
とう
みんか
がいへき
フレスコ、もうひとつは 2棟の民家の外壁に見られるゼッコ・フレスコです。
れいはいどう
とくちょう
コ画の外壁をもつ 2 棟の民家と、丘の上の礼拝堂からなりま
それぞれ次のような 特 徴 があります。
す。
しんせい
<プリマ・フレスコ(真正フレスコ)>
かべ
せっかい
しめ
がんりょう
しんとう
壁の石灰モルタルが湿っている間に、 顔 料 を水とともに浸透させる技
しきちょう
はんい
かぎ
法です。みずみずしい美しい 色 調 ですが、一日に描く範囲が限られま
す。
かんしき
<ゼッコ・フレスコ(乾式フレスコ)>
かんそう
じょうたい
と
壁の石灰モルタルが乾燥した 状 態 で、顔料を水ガラスで溶いて浸透さ
たいしょく
がいへき
てき
せる技法です。風、雨、陽光による 褪 色 に強く、外壁に適しています
びょうしゃ じ
はっしょく
さ
が、 描 写 時と乾燥後の顔料の 発 色 に差があります。
しゅう と
ガルミッシュ・パルテンキルヘンは、バイエルン州の 州 都ミュンヘンの南
こっきょう
さんろく
方 90km、オーストリア 国 境 近くにあるアルプス山麓の村です。小さい
おんせんりょうよう
ひ し ょ ち
かんこうきゃく
町ですが、冬のスポーツ、温泉 療 養 、夏の避暑地として多くの観 光 客 が
おと
ゆうめい
や な
とくちょう
プリマ・フレスコ画
がいろ
せいぼ
訪れるリゾート地として有名です。このあたりの家並みの 特 徴 は、街路に
しょうてん
みんか
かべ え
「聖母の戴冠」
「ガンブリーヌス」
えが
そってならぶ 商 店 や民家の外壁に美しい壁絵が描かれていることです。
れきし
ゼッコ・フレスコ画
たいかん
父なる神、その子イエス・キリスト
よ
せいれい
かんむり
この壁絵は 250 年の歴史を持ち、「風の絵」と呼ばれ、またその壁絵を描
とハトの姿の聖霊 から黄金の 冠
く画家は「風の画家」と呼ばれています。
を授かり 祝 福 を受けるマリア。
さず
-6-
しゅくふく
う
ビールの国ドイツでは、ガンブリ
づく
ーヌスはゲルマン人にビール造り
おし
を教えた神様(あるいは王様)。
INFORMATION
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ちほう
INFORMATION
れきし
いえ
こっきょう
せっ
ちほう
おもや
な
や
こ
や
げんご
でんとうてき
ぞく
しゅうきょう
げんざい
ふる
はいち
のこ
く
く
かえ
れきし
た
せいかつ しゅうかん
なか
えいきょう
おお
のこ
スに属する現在でもドイツの 影響 が多く残っています。
じだい
こうつう
こうえき
ようしょう
にし
さんみゃく
きょうかい
ここは古くから交通・交易の 要衝 であり、西の 山脈 を 境界 とすればドイ
庭を囲むように母屋、納屋、小屋を配置し、1850 年代、アル
のうそん
へいごう
ます。そのため、言語、 宗教 、食べものなど生活 習慣 の中には、フラン
ふくげん
ブドウなどを栽培している農家を復元しています。
かこ
きぞく
ち
やヒツジを飼うとともに、ムギ、ジャガイモ、トウモロコシ、
にわ
でんとう
この地には、フランスとドイツのあいだで併合が繰り返された歴史があり
か
のうか
ちゅうおう
【アルザス地方の帰属】
ちほう
フランス東北部、ドイツと 国境 を接するアルザス地方で、ウシ
さいばい
い
歴史と住まい:フランスに生きる 中欧の伝統
フランス アルザス地方の家
とうほくぶ
The Little World Museum of Man
す
ようす
りょう
ひがし
りょうゆう
しゅちょう
たいが
がわ
りょう
くに
ツ 領 に、 東 の大河ライン河であればフランス 領 にと、いずれの国もその
ザスの 農村に 伝統的な 暮らしぶりが 残っていた 時代の 様子を
ちけい
領有 を 主張 しやすい地形にあるといえます。
さいげん
再現しています。
きぞく
かい
2階には冬用の
ほ
しようにん
2 階 は 使用人 の
へ
せいり
B.C.58 年まで
4~5 世紀
870 年
10~13 世紀
1648 年
1871 年
1919 年
1940 年
1945 年
くさ
干し草をたくわ
えておきます。
かい
へんせん
つぎ
帰属の変遷を整理すると次のようになります。
ふゆ よう
や
部屋です。
ローマ帝国の一部
フランク王国の一部
東フランク王国(ドイツ帝国)の一部となる(メルセン条約)
ドイツ帝国(神聖ローマ帝国)の中心地となる(ハプスブルグ家)
フランスに帰属(ウェストファリア条約)
普仏戦争の結果ドイツ帝国に帰属(フランクフルト条約)
第一次世界大戦後、フランスに帰属(ヴェルサイユ条約)
ドイツに帰属
第二次世界大戦後、ふたたびフランスに帰属
ねん う
おもや
【1582年生まれの母屋】
おもや
じっさい
つか
いえ
いちく
この母屋は、実際に使われていた家を移築したものです。リトルワールド
も
かいたい
ねん
だい
す
へ持ってくるために解体した 1985年まで、9代にわたって住まわれてい
かい
ひかくてき
き
や
や
ぼ
いえ
そうけん とうじ
ゆうふく
いえ
おも
ました。比較的規模の大きな家で、創建当時は裕福な家であったと思われ
わか ふ う ふ
2 階 は 若 夫婦 の
な
こ
せいき
た
ます。納屋と小屋は 17、8世紀に建てられたものです。
きょしつ
居室 と な っ て い
ます。
かべ き
ぐ
き ぼねこうぞう
いえ
【コロンバージュ(壁木組み、木骨構造)の家】
おもや
かい だ
しろ
かべ
はしら
すじ
う
で
てん
母屋は 3階建てで、白いしっくい壁に 柱 や筋かいなどが浮き出ている点が
ないりくせい
きこう
とくちょう
ひがし
ちほう
もくぞう かおく
にし
たいせいよう
えいきょう
う
ころ ちゅうぶ
ないりくせい
いこう
ちゅうぶ
どくとく
あめ
ねんかん
しんせい
ひかくてき すく
なつ あつ
ふゆ さむ
と
じれい
しはい
け
ていこく
りょうゆう はんい
さいせいたん
(神聖ローマ帝国)の 領有 範囲のうちアルザスが最西端であったことに
気候となっているため、雨は年間800mmほどと比較的少なく(リ
はんぶん
さいせいたん
の 頃 中部ヨーロッパを 支配していたハプスブルグ 家によるドイツ帝国
山脈 があるため、 大西洋の 影響 をあまり受けず、やや 内陸性の
きこう
せいき
もので、アルザスの木造家屋はその最西端の事例になります。これは、こ
パリから 東 へ 500km にあるアルザス地方は、西にヴォージュ
さんみゃく
けんちく ようしき
特徴 です。このような建築様式は、15世紀以降の中部ヨーロッパ独特の
【内陸性の気候】
ひがし
ち がら
にし
けんちく ぎじゅつ
つた
よります。 東 から西へと、すぐれた建築技術が伝わっていったのです。
、夏暑く、冬寒い土地柄です。
トルワールドのおよそ半分)
-7-
INFORMATION
The Little World Museum of Man
INFORMATION
しゅう
おもや
ちくしゃ
ちめい
こうがい
ふくげ ん
く
いさん
かじゅ
ゆらい
なまえ
うつく
き
い
み
げんざい
きゅうりょうちたい
う 意味です。 現在はゆるやかな 丘陵地帯 にオリーブやブドウ、アー
はたけ
かし
もり
モンドなどの 畑 がひろがっていますが、かつては 樫の 森であったた
そだ
風土のもと、ウシを 飼いながらオリーブなどの 果樹を 育て
のうか
せかい
した
ちちゅうかいせい きこう
か
う
“アルベロベッロ”という 舌をかみそうな 名前は、「 美 しい 木」とい
農家をモデルに 母屋、畜舎などを 復元 し、地中海性 気候の
ふ うど
だつぜい
【地名の由来】
イ タ リ ア 半島 南部 、 プ ー リ ア 州 ア ル ベ ロ ベ ッ ロ 郊外 の
の うか
す
歴史と 住まい: 脱税が 生んだ 世界 遺産
イタリア アルベロベッロの家
はんとう なんぶ
The Little World Museum of Man
れきし
いえ
うつく
じゅもく
もり
よ
め「 美 しい 樹木のある 森」と 呼ばれていました。
さいげん
る 農家の 暮らしを 再現しています。
ねんまえ
【500年前】
うつく
もり
かいこん
はたけ
いま
しゅうらく
そんな 美 しい 森を 開墾し 畑 をひろげ、 今のアルベロベッロに 集落
ねん
むかし
ができたのは、およそ 500年ほど 昔 です。
おう
りょうしゅ
【王さまと 領主 】
ころ
りょうど
にんめい
しはい
この 頃、ここはある王さまの 領土で、王さまに 任命された領主が 支配
あた
じゅうみん
しんちく
いえ
ほうこく
ぜいきん
おさ
しており、王さまは、新しい 住民 や新築の家を報告して税金を納めろ
めいれい
いえ
けんすう
ぜいきん
きんがく
き
と領主に 命令していました。家の 軒数で 税金の 金額を 決めていたので
す。
だつぜい
【 脱税 】
わる
かんが
ここんとうざい
悪いことを 考 える人は 古今東西どこにでもいるようで、このアルベ
めいれい
そむ
ぜいきん
のが
ほうさく
おも
ロベッロの領主は、王さまの 命令に背 き 税金を 逃れる 方策を 思いつき
いえ
かず
ぜいきん
き
いえ
かず
へ
いえ
ました。
“ 家の 数で 税金が 決まるのなら、家の 数を 減らせばいい、家
こわ
つく
なん
らんぼう
おも
のうみん
をいつでも 壊せるように 造ればいい。”何とも 乱暴な 思いつきで、農民
つく
す
たちはトゥルッリを 造らされ、 住まわされたのです。
せかいいさん
【世界遺産】
じゅんすい
いしづく
つか
いえ
おう
でんとうてき
かおく
ぼうし
や
ね
や
ね
ひら
いし
つ
あ
や
かおく
よ
ゆか
や
ね
いし
つく
ざいりょう
きんこう
やくにん
ふ
つく
あ
から づ
いえ
い
しさつ
や
ね
こわ
す
なお
かんたん
かんたん
じゅうみん
たいへん
くえき
せいき まつ
つづ
れきだいりょうしゅ
とっては 大変な 苦役でした。しかし、18世紀 末まで 続いた 歴代領主
かべ
いくつか 持つ家屋をトゥルッリと呼びます。トゥルッリは、床、壁、
てんじょう
つ
ことができ、 造り 直すことも 簡単でした。 簡単とはいっても 住民 に
ね
特徴 です。屋根は 平たい 石を 積み 上げてつくり、このような 屋根を
も
いし
王さまの 役人が 不意に 視察にきても、すぐに 屋根を 壊してやり 過ごす
も
アルベロベッロの伝統的な家屋は、とんがり帽子の屋根を持つことが
とくちょう
たん
セメントなどを使わずに単に石を積み上げただけ(空積み)の家ならば、
【 純粋 な石造りの家】
だつぜい こうい
づく
ぎじゅつ
しんぽ
の 脱税 行為のもと、トゥルッリ 造りの 技術は 進歩しました。トゥルッ
と
天井 、屋根すべてを石で造ります。材料 は、アルベロベッロ近郊で採
まち
う
はってん
こんにち
じんるい きょうつう
ぶんか
リの 街アルベロベッロが 生まれ、発展 し、今日では 人類 共通 の 文化と
せっかいがん
せかいいさん
れる石灰岩です。
してい
してユネスコの 世界遺産にも 指定されています。
-8-
INFORMATION
The Little World Museum of Man
INFORMATION
いえ
タンザニア ニャキュウサの家
The Little World Museum of Man
す
きこう
ほうふ
タケ
いえ
ざいりょう
気候と住まい:豊富な竹が家の 材 料
しつじゅん
【高温で湿潤な気候:でも雨季はちょっとひきこもり】
ニャキュウサの人びとは、東アフリカ、タンザニア南西部の山地、
ニャキュウサ・ランドでは、1年間に 2500mmもの雨が降ります。
標高 500~2000mのところに住んでいます。彼らが住むニャキュウ
のうこう
ちなみにここ犬山では 1588mm です。10 月から翌年の 5 月までが
てき
サ・ランドは年間降雨量 2500mm 以上と雨に恵まれ、農耕に適した
かちく
う
土地です。家畜としてウシを飼いながら、バナナ、トウモロコシなど
さいばい
き
雨季で、その間はスコールが一日に数回あります。月平均気温は年間
か
はだざむ
を通じて 22~25℃ですが、雨が降ると外は肌寒く、コートが必要に
く
40 種近くの農作物を栽培して暮らしています。
なるほどで、雨季には人びとは家にこもりがちになります。
【タケを用いた家造り】
は
植生が豊かなニャキュウサ・ランド、とくにタケは自然に生えよく
ち
え
育ちます。豊富にある材料で家を造ることは、人類共通の知恵のひと
むなぎ
つです。ニャキュウサの人びとは柱や棟木に一部木製の材料を用いる
かべ
ほね ぐ
ぎゅうふん
ほかは、屋根や壁の骨組みにタケを用います。タケの骨組みに 牛 糞 を
ぬ
こ
わりだけ
混ぜた土を塗り込めて壁を立ち上げ、さらに丸竹と割竹を組み合わせ
まれ
て外壁とします。建築材としてタケの利用は、東アフリカでは稀です。
きざ
【タケの刻み目】
ま
す
タケは真っ直ぐなようでいて、かなり曲がっていてクセがあります。
きょうせい
曲がったタケを 矯 正 して真っ直ぐにするために、ところどころ刻み目
をつけ、建築材としています。
【牛糞を混ぜた土壁:補強と防虫】
ふん
みしょうか
ウシの糞には未消化の草がたくさん入っており、これがひび割れを
.....
ちが
【丸い家と四角い家:大きさの違いはえこひいき!?】
いっぷたさいせい
けっこん せ い ど
防ぐ(いわゆるスサ)役目を果たし、補強材となります。また牛糞に
こうか
は防虫効果があるともいわれます。
つま
ニャキュウサは一夫多妻制の結婚制度をもっており、妻たちはそれ
ちが
【丸い家と四角い家:大きさの違いはタケの長さのせい】
しゅじん
ぞれ別の家をもっていますが、一家の主人の家はありません。円形の
たるき
第1夫人の家の方が小さいのは、屋根の垂木にタケを用いるため、
家は四角い家よりも古いタイプです。第1夫人の子供たちはすでに
丸い家の大きさには限度があるからです。自生するタケの長さで家
親元を離れ、畑のそばに新しい家を建て、共同生活を始めていますが、
の大きさが決まってしまいます。一方、四角い家は横方向にいくら
そうてい
第2夫人の子供たちは幼いので家が大きいという想定です。
の
でも延ばすことができます。
-9-
INFORMATION
The Little World Museum of Man
みなみ
INFORMATION
みんぞく
いえ
い しょう
The Little World Museum of Man
ごくかん
ごしょく
みなみ
きょうわこく
ないりくぶ
す
みんぞく
かおく
か
だいぶぶん
けっこんしき
のうじょう
せいじんしき
じょせい
せいそう
ちゃ
き
あお
あか
みどり
ごしょく
ぼくちくみん
を 縦じまにして 羽 織ります。 素材はアクリルで、 工場 で 生産されて
たて
は
お
そざい
こうじょう
か
み
せいさん
ちちおや
むすめ
おり、ンデベレだけが 買いもとめ、身につけるものです。父親が、娘
ひと
したが、現在では大部分の人がプレトリアやヨハネスブルグと
とし
げんちめい
結婚式や成人式などでの、女性の盛装です。茶、黄、青、赤、 緑 の五色
は、もともとは広大なサバンナでウシやヒツジを飼う牧畜民で
げんざい
もうふ
ひと
1500m の高原地帯に住む民族の家屋です。ンデベレの人びと
こうだい
もよう
【五色のストライプ模様の毛布/現地名ウンパロ】
ひょうこう
アフリカの最南端、 南 アフリカ共和国の内陸部、 標高 500~
こうげん ちたい
くびながぞく
民族衣 装 :極寒の地でも首長族でもありません
南 アフリカ ンデベレの家
さいなんたん
ち
せいじんしき
おく
なら
だんせい
じぶん
せいじんしき
いちど
の成人式 に 贈るのが 習わしです。 男性は 自分の 成人式のときに 一度
はたら
いった都市や 農場 で 働 いています。
み
とく
さむ
こうげんちたい
だけ 身につけます。特に 寒いところではありませんが、 高原地帯のた
そうしゅつ
そうしょく ぶんか
あさばん
【 創出 された 装飾 文化】
とかい ちか
す
はや
じ
き
きのうてき
はくじん ぶんか
つよ
う
むかし
しゅうかん
うしな
あら
ぶんか
つく
すいせい
せい
かべえ
くびわ
じっさい
こんにち
きんいろ
かがや
げんち
つか
どう
しんちゅう
わ
いくえ
ふべん
かんたん
ちゃくだつ
くふう
みせいねん
せいねん
みこん
きこん
しゃかいてき
い
ち
じょせい
みんぞく
未成年/ 成年、 未婚/ 既婚といった 社会的 位置づけによって、 女性が
ほか
身につけるエプロンの 形 がちがいます。ウシの 皮を 手のひらの 形 に
み
衣装などは、近隣の他の
かたち
さいだん
かわ
げんち
て
げんざい
かたち
きこん じょせい
裁断 したタイプを 現地では“イチョホロ”といい、 現在は 既婚 女性が
み
民族には 見られないン
ちゃくよう
ぜんめん
いろど
おもに 着用 しています。 前面を 彩 るビーズワークのデザインは、
ぶんか
デベレ独自の 文化です。
つく
て
じゆう
はっそう
作り 手の自由な発想によるものです。
とくちょう
その 特徴 は、カラフルな
わ
きかがくてき
色彩 感覚 、 幾何学的 な
げんちめい
【ビーズの輪っか/現地名イシホロワニ】
ま
ぞうけい かんかく
造形感覚であり、おもに
じょせい
み
まえ か
ル な 毛布 を ま と う 民族
しきさい かんかく
じゅうよう
【エプロン(前掛け)】
け、アクリル製のカラフ
どくじ
み
ら、今日では簡単に 着脱 できるよう工夫されています。
せい
みんぞく
うつく
きんぞくせい
そうしょくひん
きんりん
い
げんちめい
くび
ーズ 細工の 装飾品 をつ
いしょう
しょうちょう
といった金属製の輪を幾重にもつけていました。しかし、その不便さか
せい
もうふ
ひつじゅひん
製の首輪は、実際に現地で使われているものです。もともとは銅や 真鍮
もつ家や、ガラス製のビ
ざいく
みんぞく
くびわ
きこん じょせい
かな幾何学模様の壁絵を
いえ
ぎれい
既婚女性の首もとをすっきりと 美 しく見せる金色に 輝 くプラスチック
いろ
もよう
りゆう
きんいろ
ペンキで 描く 色あざや
きかがく
そうちょう
【金色の首輪/現地名イツィーラ】
ていった民族です。水性
えが
よ
だ
影響 を強く受け、 昔 ながらの 習慣 を 失 い、新たな 文化を 創り 出し
みんぞく
こ
機能的な理由よりも、民族の 象徴 としての意味あいが 重要 です。
ンデベレは、 都会 近くに 住んでいたため、 早い 時期から 白人 文化の
えいきょう
ひ
め朝晩 は 冷え 込むので、夜ふけや 早朝 の儀礼には必需品です。
わ
くび
うで
どう
あし
ちゃくよう
ビーズを巻いた輪っかは、首、腕、胴、脚と、いたるところに 着用 され
なんぶ
ひょうげん
女性たちが 表現 してい
ひと
つか
ます。南部アフリカの人びとはビーズをたくさん使いますが、これほど
たいりょう
ます。
つか
み
かざ
大量 に使って身を飾るのはンデベレだけです。
- 10 -
INFORMATION
The Little World Museum of Man
INFORMATION
いえ
きこう
西アフリカ カッセーナの家
The Little World Museum of Man
す
ねっき
気候と住まい:熱気をふせぐ
かんそう
西アフリカの国ブルキナファソのカッセーナの人びとは、サハラ
【高温で乾燥した気候】
さばく
砂漠 の南に広がるサバンナ地帯で、モロコシやトウジンビエ等の
ざっこく
さいばい
やきはたのうこうみん
いっぷたさいせいど
カッセーナの人びとが暮らすところは、
ねんかんへいきん き お ん
や しき ち
年間平均気温28.2℃(最高 4 月 32.6℃、最低 1 月 24.7℃)、
雑穀を栽培する焼畑農耕民です。一夫多妻制度のもと、同じ屋敷地に
けつえん
つま
ねんかんこうすいりょう
く
う
き
かんき
年間 降 水 量 782.7mm(雨季は 5~9 月、乾季の 10~4 月)
、
血縁 関係にある男たちとその複数の妻 と子供たちが暮 らします。
乾季の降水量はわずか 62.6mm
四角い家には男性、ヒョウタン型や丸型の家には(四角い家にも)
かべ
き かがくもよう
という、サハラ砂漠南縁の乾燥した地域です。
えが
女性や子供が住みます。壁の幾何学模様を描くのは女性の仕事で、女
ち
性たちが好みで模様を決めて描きます。
え
あつ
かべ
あつ
【住まいの知恵その1:厚い壁が暑さをしのぐ】
どろ
ここは展示のための出入り口です
ひ
ざ
家の材料は土を水でこねた泥ですが、乾季の強い日差しがしっかり
乾かしてくれるので、強度があります。泥を一段ずつ積んで壁を立ち
し
上げ、横木を渡して木の枝を敷 き、その上にまた泥をのせて屋根を
ぎゅうふん
つくります。 牛 糞 は使いません。泥でできた壁は 30~50cm もの
厚さがあり、外の熱気をさえぎり、室内を涼しく保ってくれます。
ち
え
【住まいの知恵その2:居室は半地下。開口部は小さく】
女性用のヒョウタン型の家は、古いタイプの家屋といわれています。
まど
窓がなく、出入り口が小さいのは、熱風が室内に入るのをふせぐため
です。涼しさを確保する工夫として、地面を 50~60cm ほど掘り
か
込んだ半地下の部屋、居室は、居間と寝室と食堂を兼ねています。
こちらが本来の出入り口です。
複数の複婚(一夫多妻制)家族が集住
本来の出入り口は西か南で、
東は悪い力の来る方向とされる。
ち
4人の男とその9人の妻の4世帯
調理は熱を発するので、ふだんは家の外のかまどでします。妻たち
の家の前庭は、女性と子供たちの空間で、家事や食事の場として多く
やしき
とりで
【 砦 のように屋敷】
どべい
かこ
の時間がすごされます。雨の日はヒョウタン型の家の中で料理を
とくちょう
建物を土塀でつないで囲んでいるのが 特 徴 です。この地域はかつて
きんりん
みんぞくかん
あらそ
はげ
てき
しんにゅう
つくりますが、台所は一段上がった奥にあり、居室とは仕切られて
さまた
近隣の民族間の 争 いが激しく、敵の 侵 入 を 妨 げるために、家屋を
いて、熱気が居室に入らないように工夫されています。天井の穴は、
つちかべ
土壁でつなぎ、屋敷全体を砦のようにしました。平らな屋根は農作物
ほ
え
【住まいの知恵その3:ふだんの台所は屋外で、雨の日は室内で】
てき
み ば
むか
けむり ぬ
と
煙 抜きでもあり、明かり採りでもあります。
う
の干し場であるとともに、敵を見張り迎え撃つ所でもありました。
- 11 -
INFORMATION
The Little World Museum of Man
INFORMATION
The Little World Museum of Man
ぶっきょう
ぶっきょう じ い ん
チベット 仏 教 とは
ネパール 仏 教 寺院
ぶっきょう
せいき
きょう
インドにおこった 仏教 は、7世紀ごろからヒンドゥー 教 やヨー
とうぶ
ひょうこう
さんちゅう
えいきょう
ネパール東部、標 高 3000 メートルのヒマラヤ 山 中 にあるタキ
むら
た
ぶっきょう
は
ぞく
じいん
ほんどう
し ゃ か にょらい
かべ
てんじょう
ぶっきょう どくとく
あんち
ぶつが
えが
しきちない
ぶっきょう
ま ん だ ら
た
げんち
そう
く
す
きょうち
ほうぼく
いとな
ご
とざん
ゆうめい
おお
とくちょう
み
しんり
ぶっきょう
きゅうきょく
もくてき
さと
え
そくしんじょうぶつ
め
ざ
あたま
りかい
ちかく
しかく
ちょうかく
そうどういん
しゅぎょう
ごくさいしき
ぶつが
ま ん だ ら
たいこ
どを総動員 して 修行 します。極彩色 の仏画や曼荼羅、太鼓 やラ
こうえき
どきょう
移住 し、ヤクの放牧 や農耕 を 営 みながら、ヒマラヤ越えの交易
じゅうじ
つ
そのため、真理を 頭 で理解するだけでなく、知覚、視覚、聴 覚 な
せいき
のうこう
う
い
はげ
んでいます。近在 に住 むシェルパ(16世紀 にチベットから
いじゅう
い
りの境地を、生 きた身 で得 ること(即 身 成 仏 )を目指すことです。
輪舎が建ちならび、現地ではラマ僧が暮らしながら 修行 に励
きんざい
と
金剛乗仏教 の大きな 特徴 は、 仏教 の 究極 の目的である悟
しゅくぼう
しゅぎょう
こんにち
こんごうじょうぶっきょう
極彩色でびっしりと描かれています。敷地内には 宿 坊 やマニ
りんしゃ
はったつ
ト 仏 教 として今日まで受け継がれています。
周囲 の 壁 や 天 井 に は チ ベ ッ ト 仏教 独特 の 仏画 や 曼荼羅 が
ごくさいしき
みっきょう
ました。それが 8世紀後半からチベットに取り入れられ、チベッ
をモデルに復元 したものです。本堂 には釈迦 如来 を安置 し、
しゅうい
こんごうじょうぶっきょう
せいき こうはん
シンド村に建てられたチベット 仏 教 のニンマ派に属する寺院
ふくげん
う
ガなどの 影響 を受けながら 金剛乗仏教 ( 密教 )として発達し
かんそうしゅぎょう
もち
ッパをともなう読経 はそうした 観想修行 のために用 いられるも
しんこう
ま ん だ ら
にも従事 していました。登山 ガイドとして有名)らの信仰の
ぶつが
かみ
せ か い
えが
のです。曼荼羅や仏画は、ブッタや神がみの世界を描いたもので
ちゅうしん
じこ
中 心 になっています。
せい
せ か い
ど う か
め い そ うしゅぎょう
し か く て き
すが、自己を聖なる世界に同化させる瞑想修行において視覚的な
やくわり
は
役割を果たします。
ちゅうごく
くうかい
にほん
つた
みっきょう
空海らによって 中 国 から日本に伝えられた 密教 も、チベット
ぶっきょう
おな
こんごうじょうぶっきょう
なが
ぶっきょう
仏教 と同じ 金剛乗仏教 の流れをくむものですが、チベット仏 教
こうき
でんとう
う
つ
こんごうじょう
とくちょう
のほうが後期の伝統を受け継いでいるため、金 剛 乗 としての 特 徴
けんちょ
がずっと顕著なのです。
ぶっきょう
男女合体尊
しんかい
チ ベ ッ ト 仏教 の 神界 は き わ め
たよう
ふくざつ
だんじょ
まじ
て多様 かつ複雑 であり、男女 が交
かたち
だんじょがったいそん
おそ
わった 形 の男女合体尊や、恐ろし
ぎょうそう
ふ ん ぬ そん
ちゅうしん
し
い 形相 の忿怒 尊 が 中心 を占 めて
おお
とくちょう
い る の が 大 き な 特徴 で す 。
だんじょがったいそん
じょせい
ち
え
はんにゃ
男女合体尊 は、女性 が智恵(般若)、
だんせい
ち
え
じっせん
ちから
男性 が そ の 智恵 を 実践 す る 力
じ ひ
しょうちょう
りょうしゃ
(慈悲)を 象徴 します。 両者 が
がったい
さと
みち
合体 することで、悟 りの道 がひらかれるとされています。
- 12 -
INFORMATION
The Little World Museum of Man
INFORMATION
ぶっきょう じ い ん
りん
ネパール 仏 教 寺院
ね
The Little World Museum of Man
てん しょう
輪 廻 転 生
ごう
輪廻転生とは、人は生前の行い(業 =カルマ、カルマン)によって死後
ろくどう り ん ね
こんぽん し そ う
り ん ね てんしょう
く
六道輪廻(バヴァ・チャクラ)は、仏教の根本思想である輪廻 転 生 を
ぼんのう
つ
表しています。中央の円内には、人間のもつ煩悩の3つの代表である
しょうちょう
にわとり
へび
ぶた
しそう
も別の世界に生まれ変わり、これを永遠に繰り返すという思想です。
これは、バラモン教から仏教が引き継いでいるものです。同様にバラ
いのしし
はんえい
「欲」と「怒り」と「おろかさ」の 象 徴 として、 鶏 ・蛇・豚( 猪 )
モン教から発展したヒンドゥー教にも輪廻思想が反映されています。
えが
が描かれています。
ろく
どう
りん
ね
せ
かい
六 道 輪 廻 の 世 界
あしゅら
ちくしょう
この輪廻する世界には、「天道」「人道」「阿修羅 道」「 畜 生 道」
が き
じ ごく
せっしょう
「餓鬼 道」「地 獄 道」の6つがあります。「地獄道」とは、 殺 生 や
おか
お
きょうふ
「餓鬼道」は、
盗みなどの罪を犯したものが堕ちる恐怖と苦の世界です。
う
かわ
えいよう しっちょう
飢 えと渇 きに悩まされ、栄養 失 調 の餓鬼がいる世界、「畜生道」は
せんとう
動物の住む世界、「阿修羅道」は争いや戦闘 が絶えず起きている世界
です。「人道」とは人間界のことで、「天道」は天人が住む世界です。
「天道」は苦しみのない世界ですが、死後はまた他の世界に生まれ
変わることになります。これら 6 つの世界を「六道」といい、六道へ
の生まれ変わりの連続を「六道輪廻」といいます。生前の行いにより
よ
生まれ変わる世界が決まり、善い行いをすればよい結果に、悪い行い
い ん が おうほう
は悪い結果につながるという「因果 応報 」とも関係します。
げ
だつ
解 脱
仏教は、「生きていることは、苦しみである」と考えます。そして、
ぼんのう
輪廻する世界にとどまることは、いつまでも迷いと 煩悩 の世界で
苦しみ続けることを意味します。では、どのようにすれば、永遠の
苦しみから逃れることができるのでしょうか。苦しみの原因は煩悩で
あり、煩悩をすべて滅すことができれば、輪廻から抜け出すことが
げだつ
めっ
できるのです。これを「解脱 」といいます。煩悩を滅 して解脱した
ねはん
ぶっだ
いた
存在が仏陀です。解脱して、永遠の安らぎの境地(涅槃)に至ること、
★六道輪廻図は、本堂1階前室、本尊に向かって左手側にあります。
きゅうきょく
すなわち仏陀になることが、仏教の 究 極 の目標であるのです。
- 13 -
INFORMATION
The Little World Museum of Man
しゅう
INFORMATION
むら
みんぞくいしょう
しゅう
すいでん
かこ
うつく
じょせい
むら
いえ
きこう
ち
とかい
ひく
つき
うりょう
かおく
おお
と
ち
じっさい
はたけ
はたら
じょせい
じょせい
き
ぬの
いったん
かた
ある
すがた
むほうせい
ぬ
ゆうが
なが
はば
いちまい ぬの
あわ
サリーは長さ6m、幅1.2mほどの一枚布です。無縫製、縫い合せていな
ねんかん
てん
おお
とくちょう
そざい
きぬ
もめん
さいきん
かがく
せんい
ふきゅう
いという点が大きな 特徴 です。素材は絹と木綿で、最近は化学繊維も普及し
なか
こうか
きぬ
がいしゅつぎ
けっこんしき
ぎれい
いしょう
ています。もっとも高価なのは絹で、外出着や結婚式などの儀礼の衣装とさ
3700mm もあり、リトルワールドが復元している家屋の中で、
あめ
おお
じめん
気温 が 低 い 月 で も 25.7 ℃ も あ り ま す 。 ま た 雨量 は 、 年間
ふくげん
ゆうめい
を地面すれすれにして歩く 姿 はとても優雅です。
ねんへいきん きおん
熱帯モンスーン気候のこの地の年平均気温は 27.2℃、もっとも
きおん
みんぞくいしょう
や都会のOLなど、多くの女性が着ています。布の一端を肩にかけ、すそ
ふくげん
デルに、いくつかの階層(カースト)の家を復元しています。
ねったい
ぬのじ
サリーは、インド女性の民族衣装として有名です。実際、 畑 で 働 く女性
南 インド、ケララ 州 の水田とココヤシに囲まれた 美 しい村をモ
かいそう
まい
民族衣装:サリーは1枚の布地
インド ケララ 州 の村
みなみ
The Little World Museum of Man
もめん せい
いえ
ねだん
やす
ふだ ん ぎ
さぎょうぎ
れ、木綿製のサリーは値段が安く、普段着や作業着とされます。
もっとも雨の多い土地の家です。
もよう
しま
からくさ
はな
どうぶつ
模様は、縞、チェック、唐草、花、動物などさまざまなものがあります。
ししゅう
て
が
もくはん
しぼ
ぎほう
せいさんち
刺繍、手描き、木版プリント、かすり、絞りなどの技法でつくられ、生産地
とくちょう
ほくぶ
きぬ
ごとに 特徴 があります。たとえば北部カシミールでは、絹などにペルシャ
ふう
もよう
きんぎんし
風の模様をプリントしたサリーがつくられていますし、ベナレスでは金銀糸
ししゅう
こうたく
を刺繍した光沢のあるサリーがつくられています。
ぞうとうひん
もち
たいけい
かんけい
えら
サリーはしばしば贈答品に用いられます。体型に関係ないので選びやす
ふところぐあい
じゆう
しな
えら
おく
ほう
いし、 懐具合 によって自由に品を選ぶこともできるからです。贈られた方
ふ だ ん
つか
ちょうほう
む だ
も普段よく使うものなので 重宝 し、無駄にすることはありません。そのため、
じょせい
だれ
すうじゅうまい
も
女性は誰でも 数十枚 のサリーを持っています。
きかた
た
かく
てん
じゅうよう
ぎゃく
サリーの着方は、すそを垂らしてくるぶしを隠す点が 重要 で、 逆 にお
なかやおへそは
ろしゅつ
かま
露出させても構
ぬの
いません。布の
はし
かた
端は肩にかけ
あたま
たり、 頭 をお
こし
おったり、腰に
ま
巻きます。
じぬし
いえ
かべ
【ナヤール(地主)の家の壁】
いえ
かべ
よ
そざい
つち
この家の壁はラテライトと呼ばれる素材でできています。ラテライトとは、土
てつぶん
さんか
ねったい
あかつち
けんちくざいりょう
の鉄分が酸化してできた熱帯の赤土のことで、とてもかたいために建築材料
①布の端を右腰のペチコートにはさんで止め、前から後ろへ回す。
②右手でプリーツを7回ほどとり、ペチコート前面にはさみこむ。
③残った布を再び後ろへ回し、胸から肩にかけて後ろへ垂らす。
もち
として用いられています。
- 14 -
INFORMATION
The Little World Museum of Man
INFORMATION
きこう
いえ
へいや
ちほう
いえ
たかゆか
かおく
しょくじ
おもや
さぎょう
さぎょうば
ものおき
かちく
ご
や
きこう
きせつふう
ば
がつ
季節風 に よ っ て 5 月 か ら
がつ
こくもつこ
う
き
よくねん
りよう
300
30
℃
mm
がつ
11月にかけての雨期、11月
るベランダと、寝室、かまどのある 母屋と 穀物庫があります。
ゆ か した
しっけ
ランナータイ地方の気候は、
いる 人びとの 家です。 高床の 家屋には、 食事や 作業の 場にな
しんしつ
あつ
ちほう
すいとう こうさく
タイ 北部の 平野にあるランナータイ 地方で、 水稲 耕作をして
ひと
す
気候と住まい:暑さと湿気をやりすごす
タイ ランナータイの家
ほくぶ
The Little World Museum of Man
250
25
200
20
150
15
100
10
50
5
がつ
から 翌年の 4 月にかけての
床下 は 作業場、物置、家畜小屋として利用されます。
かんき
みぎ
乾期にわかれています。右の
こうすいりょう
ぼう
降水量 をあらわす 棒 グラフ
う
き
かんき
ちが
で 、 雨期 と 乾期 の 違いが、
ねんかん
はっきりとわかります。年間
へいきん きおん
平均気温は 25.9℃もあり、
ねんかん
つう
いじょう
年間を通じて 20℃以上とな
いぬやま
ねんかんへいきん
っています。犬山の年間平均
きおん
0
気温は 15.8℃で、10℃も
0
ランナータイの月別平均気温と降水量
さ
差があります。
たかゆかしき
月
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
かおく
【高床式の家屋】
じめん
しっけ
おくない
はい
ゆか
たか
地面からの湿気が 屋内に 入りにくくするために、床を 高くしています。
ゆかした
かぜ
ぬ
すず
くふう
う
き
また、床下を 風が 抜け、涼しくする 工夫でもあります。さらに、雨期に
あめ
ふ
いったい
みずびた
おくない
はたくさんの 雨が 降り、一帯が 水 浸しになることもあります。屋内に
みず
はい
たかゆか
こうずいたいさく
やくめ
水が入らないように、高床には洪水対策の役目もあるのです。
や
あめたいさく
【雨対策の屋根】
【ランナータイとは】
せいき
かおく
すえ
せいき
ほくぶ
さんかんぼんち
しはい
おうこく
なまえ
どくじ
げんご
も
じんこう
おお
ふ
あめ
けいしゃ
ざい
よ
おお
みず ぎ
よ
うす
す
や
かわら
つよ
かおく
【チーク材の家屋】
美術、言語などを 持っていました。人口の 多くはタイ・ユアンと 呼ば
ご けい
ね
を 葺き、 傾斜を強くしています。
ぶんか
中心 にタイ北部の山間盆地を支配していた王国の名前で、独自の文化や
びじゅつ
や
家屋の 屋根は 雨が 多いため、水 切れが 良いように、薄い 素 焼きの 瓦
はじ
「ランナータイ」は 13世紀の末から 20世紀の初めまで、チェンマイを
ちゅうしん
ね
ひと
ほくぶ
れるタイ族系の人びとです。
りょうしつ
ざい
さんち
ざい
かた
たいきゅうせい
タイ北部はかつて 良質 なチーク材の産地でした。チーク材は硬く、耐久性
と
しつど
たか
ち
かおく
ざいりょう
さいてき
に富むため湿度の高いこの地の家屋の 材料 としては最適なものでした。
- 15 -
INFORMATION
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かんこく
じ ぬし
INFORMATION
きこう
いえ
へ
じぬし
ふくげん
へ
や
しゅふ
へ
や
ふゆ
へ
や
ゆか
ど
ま
ものおき
きょしつ
ゆか だんぼう
オンドル とは 床 暖房のこと です。
むね
みぞ
母屋には、主人の 部屋と 主婦の部屋が 棟を分けてあります。
じゅきょう
や
オンドル床と板床は居室に使います。
ろ
が 1937 年に建てた家を 移築、 復元しました。ロ の字形の
おもや
なつ
部屋の床には、土間、オンドル床、板床の 3 種類があり、土間は物置に、
やんばん
韓国のほぼ中央部、 慶尚北道 の山村で、かつての地主(両班)
いちく
す
気候と住まい:夏の部屋と冬の部屋
韓国 地主の家
けいしょうほくどう
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床下に石を並べて数本の溝をつくり、
おし
てんじょう
けむり
これは、「男女七歳にして席同じからず」という 儒教 の教えに
この溝の 天井 に平らな石を置き、煙 の
もと
通り道とします。天井の石の上に粘土
ねんど
基づくものです。
たた
は
を叩いて平らにし、その上に紙を貼り、
さらに油のついたオンドル紙を貼りま
す。溝を通った煙が石と粘土と紙を通
ねつ
して床に熱を伝えます。煙を発生させ
たきぐち
る焚口と、トンネルを通った煙が出て
えんとつ
こうばい
むずか
いく 煙突の間の 勾配のつけ方が 難 し
あたた
ちが
く、それにより床の 暖 かさが違ってき
ます。
オンドル部屋と板の間には、床面以
外にも違いがあります。オンドル部屋
では天井と壁に白い紙を貼っています
が、板の間には天井がなく、しっくい
ぬ
たる き
を塗った垂木が見え、板壁となってい
しきい
ます。 敷居の高 さ、オンド ル部屋は
27cm もありますが、板の間は 10cm
さかい
とびら
ほどです。外との 境 の 扉 も、オンドル
しょうじ
りょうびら
部屋は 障子を貼った引き戸と 両開 き
の障子戸の二重扉、板の間では両開き
の障子のみ。さらにこの板の間の扉は、
しとみど
いわゆる蔀戸で、下の方を持ち上げて
のき
かなぐ
かぜとお
軒の金具にかけ、風通しを良くすることができます。
さむ
たいさく
オンドル部屋は、熱を逃がさぬように寒さ対策をこらした冬用の部屋で、
あつ
たいさく
板の間は少しでも風が入るように暑さ対策をほどこした夏用の部屋です。
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INFORMATION
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やまがたけん
がっさんさんろく
INFORMATION
きこう
いえ
で
わ
さんち
がっさん
ふもと
つきやまざわ
ねん
ようさん のうか
いちく
けんせつ
はいそん
く
ふゆ
がつ
がつ
やまがた がっさんさんろく
表面 のグラフをみると、12月から 2月にかけて、山形月山山麓
ほう
つきやまざわ
いぬやま
つきべつへいきんこうすいりょう
おお
の方 がここ犬山よりも 月別平均降水量 が多くなっていますが、
れ た 中門 づ く り の 養蚕 農家 を 移築 し ま し た 。 月山沢 は
ねん
ゆき
おもてめん
た
豪雪地帯の出羽山地、月山の 麓 、月山沢に、1767年に建てら
ちゅうもん
す
気候と住まい:雪とともに暮らす冬
山形県 月山山麓の家
ごうせつ ちたい
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おお
すいぼつ
ゆき
ふゆ
ゆき
がっさんさんろく
その多くは雪です。冬のあいだ、3~4m もの雪が月山山麓では
1976年にダム建設のため廃村となり、水没しました。
つ
積もります。
ちゅうもん
【 中門 づくり】
ま
や
いっしゅ
にほんかいがわ
ごうせつ ちたい
とくちょうてき
けんちくようしき
ど
ま
曲がり屋の一種で、日本海側の豪雪地帯に 特徴的 な建築様式です。土間
てまえ
おおど
いえ
いりぐち
ちゅうもん
ゆき
のうぐ
の手前にある大戸が家の入口で、 中門 は雪をはらったり、農具などの
つか
おくない
だんき
に
くふう
ふゆ
あいだ
ちゅうもん
ものおきとして使われ、屋内の暖気を逃がさない工夫です。冬の 間 は、中門
そと
ゆき
よ
とっしゅつぶ
もう
の外に“雪ローカ”と呼ぶ突出部を設けます。
ゆきがこ
【雪囲い】
しんせつちたい
ふゆ
いえ
かこ
ゆきがこ
深雪地帯では、冬になるとカヤやムシロで家を囲みます。これを雪囲い
さむ
たいさく
ゆき
いえ
お
といいます。これは寒さ対策であるとともに、雪が家にくっついて押し
くふう
つぶさないようにという工夫です。
あ
しょうじまど
【明かりとりの障子窓】
ゆきがこ
しょうじ
うえ
かもい
いえ
ないぶ
うすぐら
雪囲いは障子の上の鴨居あたりまでおおうため、家の内部は薄暗くなっ
のき
たか
へきめん
まど
もう
てしまいます。そのため、軒をできるだけ高くあげ、その壁面に窓を設け
さいこうぐち
て、採光口とします。
いたかべ
【板壁】
つちかべ
30
300mm
℃
25
250
20
200
15
150
10
100
5
50
0
-5
2
3
4
5
6
7
8
9
10 11
12月
よわ
くず
いたかべ
おも
たいさく
【重さ対策】
山形:月別平均降水量
ゆき
おも
た
ふと
もくざい
はしら
はり
つか
雪の重みに耐えるように、太くてがっしりした木材を 柱 や梁に使います。
犬山:月別平均降水量
ゆき
【雪おろし】
山形:月別平均気温
ゆき
ふゆ
かい
や
ね
のぼ
ゆき
うらて
ゆうせついけ
“雪ぼり”といい、ひと冬に 6、7回は屋根に登って、雪を裏手の融雪池
犬山:月別平均気温
お
みず
なが
と
に落とし、水を流して溶かします。
みちふ
【道踏み】
0
1
ゆき
土壁は雪に弱く、崩れてしまうので、板壁とします。
ふゆ
こ
あさお
みちふ
冬、子どもたちは朝起きると、カンジキをつけて、まず道踏みをします。
-50
まいにちまいにち
いちにち
なんかい
毎日毎日、一日に何回もします。
- 17 -