第 2 章 様々な本質 第2章 様々な本質 2‐① 本居宣長=個々の事物にこそ「本質」がある 2‐② イスラム哲学=2つの「本質」、 個体的本質(フウィーヤ)と普遍的本質(マーヒーヤ) 2‐③ マーヒーヤとフウィーヤの関係 2‐④ マーヒーヤ(普遍的本質)実在の 3 つのタイプ 1 第 2 章 様々な本質 [岩波文庫版 Ⅱ] 2‐①本居宣長 個体そのものの実在性こそが本質(前客体化的実在性本質) 2‐②イスラム哲学 個体的本質(フウィーヤ) 普遍的本質(マーヒーヤ) ジョルジャーニー 『存在の階梯』 2‐③マーヒーヤ(普遍的本質)とフウィーヤ(個体的本質) 2 第 2 章 様々な本質 「本質」についてどのような考え方をしているのか、いくつかの例をみてみま す。 2‐①本居宣長=個々の事物にこそ「本質」がある 本居宣長(1730∼1801)は、具体的な個体から直接に与えられる深い情的感動 によってのみ本質を知ることができるとし(物のあわれ)、抽象概念的な本質 把握を否定しました。個体そのものの実在性にじかに触れて「本質」を感知す るということを、前客体化的実在性本質(意識によって対象として分節化され る前の個物の実在的本質)の把握といいます。それは表層意識がとらえる普遍 的な本質とは別の本質です。このことから「本質」には①普遍的本質と②個体 的本質の二つがあることに気づかされます。 2‐②イスラム哲学=2つの「本質」、個体的本質(フウィーヤ)と普遍的本 質(マーヒーヤ) イスラム哲学は『いかなるものにも、そのものをそのものたらしめるリアリテ ィがある。このリアリティは一つではなく二つである。一つは具体的、個別的 なリアリティで術語ではフウィーヤ(huwiyah)といい、もう一つは普遍的リ アリティでマーヒーヤ(mahiyah)という。 』 (西暦 15 世紀のイスラム哲学者 ジョルジャーニーによる『存在の階梯』 (イージー d.1355)への注解) このように、イスラム哲学はあらゆる事物には普遍的本質(マーヒーヤ)と個 体的本質(ウーフィーヤ)の二つの本質があると考えます。マーヒーヤ(普遍 的本質)は概念的なものなので、その実在性は問われません。フウィーヤ(個 体的本質)は一切の言語化と概念化を峻拒した即物的リアリティのことです。 2‐③マーヒーヤとフウィーヤの関係 この二つの本質の関係を考えてみましょう。たとえば日常生活で花が実在して いると私たちが感じるのは、目の前にある個体としての花からであって、普遍 的な何物かからではありません。前述のとおり、私たちの「意識」が何物かを 対象とするとき、 「意識」の対象には必ず「本質」があるのです。その「本質」 は具象的な規定である必要はありません。それはどの花にも共通する一般的性 質でなければなりません。そこから個別の花から離れた普遍的本質というもの が生まれてくるのです。 マーヒーヤ(普遍的本質)が具体的な実在性を必要としないのであれば、それ はフウィーヤ(個体的本質)の影にすぎないのでしょうか。 マーヒーヤ(普遍的本質)とフウィーヤ(個体的本質)との関係については、 次のような対照的な考え方があります。 ①普遍的本質とは結局は概念にすぎず、実在しない。 【普遍的本質否定派】 ②普遍的本質こそが何物か(X)をそのものとして具体的、個体的に成立さ 3 第 2 章 様々な本質 プラトニズム・理学(宋) アヴィセンナ フッサール リルケ 芭蕉 マラルメ 4 第 2 章 様々な本質 せる存在根拠である。西洋哲学のプラトニズムに見られるように、マーヒー ヤ(普遍的本質)こそが個体の本質の根拠であり、フウィーヤ(個体的本質) を否定する立場に立つ。また、東洋でも宋の「理学」はこの立場をとる。 【普 遍的本質肯定派】 当然、この両派の間には様々な解釈が存在します。何人かの哲学者や文学者を 例に二つの本質についての様々な解釈をみてみましょう。 【アヴィセンナ(イスラム哲学者 西暦 10 世紀∼11 世紀) 】 アヴィセンナはマーヒーヤ(普遍的本質)の実在を肯定した上で、その前段階 に普遍でも個体でもない原初的本質「本性」の実在を主張しました。 【フッサール(フランス哲学者 西暦 20 世紀) 】 マーヒーヤ(普遍的本質)の抽象性が生む非現実感やよそよそしさから本質を 救出するためフフィーヤ(個体的本質)的な感覚的な実在性(本質直感)に立 ち戻る、いわゆる現象学的還元を提唱しましたが、その不徹底さがレヴィナス やメルロポンティなどのその後の西洋現代哲学へ引き継がれる格好となって います。 【リルケと芭蕉】 フウィーヤ(個体的本質)とマーヒーヤ(普遍的本質)について詩的な実存体 験をした文学者として、リルケと芭蕉が挙げられます。 詩に真のリアリティを求めるリルケはマーヒーヤ(普遍的本質)を否定し、フ ウィーヤ(個体的本質)を言語で表現するという矛盾を彼の詩的行為としまし た。当然、表層言語を内的に変質させる戦いに挑むことになります。日常言語 を超えた高度な詩的言語で真のリアリティ(フウィーヤ(個体的本質))を現 前させようとする困難な戦いこそが、詩的行為者(詩人)の最も本来的な行為 なのです。 一方、芭蕉においてはマーヒーヤ(普遍的本質)からフウィーヤ(個体的本質) への次元転換の瞬間を詩的に言語化する方法で、マーヒーヤ(普遍的本質)と フウィーヤ(個体的本質)の同時成立を果たそうとしました。芭蕉は基本的に はマーヒーヤ(普遍的本質)の実在を信じていました。深層意識で捉える普遍 的本質がその実在を顕現するためには、表層意識の言語ではない詩的言語によ るフウィーヤ(個体的本質)への瞬間的で痙攣的な展開が必要であると感じた のだと思います。 ついでながら和歌はマーヒーヤ(普遍的本質)を消極的に消去する方策として、 「眺め」を発見し、意識主体の曖昧化によって、概念に固定化する本質を避け ようとしました。 【マラルメ】 リルケや芭蕉を「即物的直視」型の詩人とすると、マラルメは「普遍者直感」 とも言うべきで、イデア的純粋性としてのみマーヒーヤ(普遍的本質)の実在 を見ようとした詩人です。 マラルメについては深層意識でのマーヒーヤ(普遍的本質)実在を肯定する宋 5 第 2 章 様々な本質 2‐④マーヒーヤ(普遍的本質)実在論 タイプ1:表層意識に本質が実在する タイプ2:深層意識に本質が実在する タイプ3:深層意識に「元型」として本質が実在する 6 第 2 章 様々な本質 代の理学を検討する際に、再度取り上げます。 ここでコトバと本質の関わりについて考えてみます。第 1 章で述べたとおり本 質はコトバ化されることが必要です。そのため、本質肯定派と本質否定派では コトバに対する評価が正反対になります。本質否定派(仏教など)はコトバが 本質喚起的に働くと考え、本質を捏造していくものととらえるのに対し、本質 肯定派(ヴァイシューシカなど)はコトバは本質指示的な働きをすると考える のです。 フウィーヤ(個体的本質)とマーヒーヤ(普遍的本質)のどちらが実在するの かを考えるとき、コトバの働きの問題はマーヒーア実在の立場の方がより深刻 な問題になります。マーヒーアとはコトバによる一般者のことだからです。 (イ ンド思想のパーニニ「八段法」 、同註パタンジャリ「大註解」 ) 2‐④マーヒーヤ(普遍的本質)実在の 3 つのタイプ 個物の存在論的リアリティを本質と認める立場(フウィーヤ)を推し進めてい くと、マーヒーヤは概念的一般者に過ぎないということになり、フウィーヤ(個 体的本質)を重視するほうが論理的には優位であるようにみえます。しかし、 個体が持つ普遍性を実感するとき、マーヒーヤ(普遍的本質)が理性によって 生み出された抽象的な概念ではなく濃密なリアリティをもって実在すると信 じる思想家たちが東洋にも西洋にもいたのです。彼らはマーヒーヤ(普遍的本 質)をどのように考え、マーヒーヤ肯定の立場に至ったのでしょうか。マーヒ ーア(普遍的本質)が実在すると考える立場にも、その実在を意識のどの層で 感じるかという点で、いくつかのタイプに分けられます。次章以降、普遍的本 質の実在を肯定する東洋の哲学を次のような3つのタイプに分けて考察して いきます。 タイプ 1:西洋哲学と同様に日常意識(表層意識)での普遍的本質の実在を 信じる立場 タイプ 2:表層意識での「本質」を否定し、深層意識にマーヒーヤ(普遍的 本質)が実在するとする立場 タイプ3:深層意識の中に「元型」として普遍的本質が実在するとする立場 具体的には、 ①タイプ1:孔子の正名論、ヴァイシューシカ哲学(古代インド)など。 表層意識に理性的に本質の実在を確認し。理論的かつ実践的帰 結を追及する哲学です。「本質」の概念化へつながる傾向があ ります。 。 ②タイプ2:宋代の理学。 普遍的な本質の把握は深層意識下の現象であると考えます。 ③タイプ3:元型本質論(イブン・アラビー「有無中道の実在」 、光の天使 7 第 2 章 様々な本質 8 第 2 章 様々な本質 ‐スフラワルディ、易の 64 卦、密教マンダラ、セフィロート ‐ユダヤ神秘主義カバッラー) 深層意識に元型として普遍的本質が現れると考えます。 (第 2 章 了) 9
© Copyright 2024 Paperzz