平成24年度明治大学・天童市連携講座「てんどう笑顔塾」第6講概要 1 日時 平成24年9月21日(金) 午後7時から午後9時まで 2 会場 天童市総合福祉センター3階「視聴覚室」 3 テーマ 刑法学者「宮城浩蔵」の志と明治大学の創立 -刑法の役割は何だろうか- 4 講師 明治大学法学部 5 講義内容 教授 村上 一博 氏 (1) 宮城浩蔵は、現在の刑法学の基礎を作った人物である。 (2) 日本の刑法の変遷 ~寛保2年(1742 年)の公事方御定書から明治15年 (1882 年)の旧刑法へ~ ア 江戸幕府は、それまで先例又は単行法令によって裁判を行っていたが、寛 保2年(1742 年)に第8代将軍吉宗が「公事方御定書」を制定して以降、こ れが裁判の基礎法令となった。 イ 「公事方御定書」は、その後の追加を含めて上下巻 103 か条から成り、現 在のような体系的な法令というより、先例・判例集的な性質が強い法令であ った。 ウ 明治政府は、慶応4年に「仮刑律」を、明治4年に「新律綱領」を制定し たが、その後、近代国家としての法体系を整備するため、フランス人のボア ソナードを御雇法律学者として招聘した。 エ ボアソナードは、いわゆるフランス「新古典学派」に属する刑法学者であ る。その考え方は、社会的害悪(違法性)の程度と義務違反(有責性)の程 度を総合的に勘案して犯罪性の量を決定し、量刑の弾力化を可能とするもの である。いわゆる「罪刑法定主義」を否定し、裁判官に裁量の余地を与える 考え方であった。 オ 宮城浩蔵は、当時の司法省法学校の第1期生(20 人)としてボアソナード から法律学を学んだ後、フランスへ留学し、パリ法科大学とリヨン法科大学 で刑法学を学んだ。この司法省法学校の第1期生の役割は、フランスを中心 とした西欧の近代刑法理論に精通し、この刑法を適切に解釈し、及び運用し ていくことができる司法官(裁判官、検事、弁護士等)となることであった。 特に、その中でも宮城浩蔵と井上正一は、当時のフランス刑法の理論を正 確に習得し、近代黎明期の日本における刑法学の基礎を固めた最大の功績者 である。 カ 明治15年(1882 年)にボアソナードがフランス刑法を基本とし、当時の 進歩的な刑法理論を取り入れて策定した刑法が、いわゆる「明治15年刑法」 と呼ばれているものである。 キ 明治20年代に全国的に犯罪が急増したことに伴い、ドイツ刑法学の影響 を受けた「近代学派(新派。本人が起こした犯罪に違法性及び有責性があるがどう か、という点より、その者の犯罪が国家にとって有益か害悪か、という点に 力点を置く考え方)」が台頭し、これらの国家的・権威主義的な社会防衛論的 立場から刑罰の厳格化が求められるようになった。そのため、「新古典学派」 は、 “寛容”で“軟弱”であり、犯罪対策の理論としては“無力”であるとの 批判を受け、その後は、ドイツ刑法学が主流を占めるようになった。 (3) 刑法学に対する宮城浩蔵の考え方 宮城浩蔵は、少年期に天童織田藩の藩校である「養正館」に入館しているこ とから、既に先例・判例集的な性質が強い法令である「公事方御定書」を学ん でいた。また、司法省法学校の第1期生としてボアソナードから「新古典派」 の刑法学の教えを受けたことから、当時としては、非常に進歩的な考え方を有 していた。特に、 「明治15年刑法」の制定後は、日本語の刑法学の教科書は、 宮城浩蔵が作成したものしか存在していなかった。 さらに、明治20年代には、現在の刑法学に通じる刑法の改正論(例1、例 2参照)を述べている。ただし、法改正は実現しなかった。 例1:複数の犯罪により起訴された場合、 (現在の日本のように)一番重い刑 罰の量刑のみを科するのではなく、 (現在のアメリカ合衆国のように)そ れぞれの犯罪に係る刑罰の量刑を合算したものを科すべきである。 例2:保護者が子どもの面倒を見ない(ネグレクト)ことにより、その子ど もが死に至った場合、その保護者を刑罰の対象者とすべきである。
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