The Fitzgerald Club of Japan NEWSLETTER No.18 APRIL 2003 目 次 三代目会長就任の弁 フィッツジェラルドと私 パート 2 <講演> 若きギャツビーの文学史 <研究発表要旨> “The Diamond as Big as the Ritz”再考 Washington家の内と外 波打ち際のゆらぎ:Tender is the Nightにおける 自然と文化のレトリック 第 6 回国際フィッツジェラルド学会に出席して インディアナ大学リリー・ライブラリー所蔵 F. Scott Fitzgerald関係資料について:報告と考察 会員情報 編集後記 発行人:岡本紀元 編集人:徳永由紀子 事務局:〒573-0192 枚方市杉 3-50-1 大阪国際大学法政経学部 徳永由紀子研究室 tel 072-858-1616(代) fax 072-858-4982 [email protected] http://www.let.ryukoku.ac.jp/~seiwa/ 三代目会長就任の弁 岡本紀元(甲南女子大学) わが国のフィッツジェラルド研究の大御所であられる永岡定夫、 坪井清彦両先生の肝煎りで、日本フィッツジェラルド・クラブ が 1989 年の 5 月に発足してはや 14 年になります。さしたる業 績もない私でしたが、及ばずながら両先生のお手伝いをしてき ました。その間、初代会長の永岡先生が名誉会長になられ、坪 井先生が会長に就任されるに及んで私に副会長を仰せつかりま したが、そのときには会長のお手伝いをしていればよいだろう という気楽な気分でおりました。本会は後から発足したヘミン グウェイ協会と比べると会員数も少なく、活動も地味ですが、 気楽でカジュアルな会を、という両先生の当初からのご意向も あって、まことに和やかな会の雰囲気が、のんきな私には何よ りもぴったり合っていました。副会長というのはアメリカの副 大統領と同じで、在任中に会長に異変があれば、臨時に職務を 代行すればよく、会長が退任されても、自動的に後釜におさま るわけではないと考えてもいたのです。それに私は生来の不精 者ときており、人の先頭に立ってことを為すよりも、黒幕とし て長たる人の陰で仕事をする方を選び、勤務する大学でも「長」 のつく役職をひたすら避けてきたのでした。 ところが、昨年 10 月、学習院大学での総会で、会員の方々を 前に坪井先生が会長辞任を言われ、次いでこの私を会長に据え るという、まさに「暴挙」を実行されました。前夜の懇親会に欠席していた私には青天の霹靂で、ひたすら固辞しよう とはしたものの、事の成り行き上、お受けせざるを得ませんでした。 私としては会長などという柄ではないといまだに思っているのですが、同時に、せっかく両先生のお声懸かりで生ま れ、続いてきたこの会を、発足当時からの会員として、何としても維持してゆく責任を感じてもおります。ですから、 会長や副会長という肩書きは単なる名目上のこととして、会員すべてが力をあわせて、このフィッツジェラルド・クラ ブを盛り立ててゆくための世話役として努力をしてゆこうと決心しました。さいわい、成蹊大学の宮脇俊文さんに「副 会長」をお願いし、快諾を得ました。宮脇さんには中部・関東以北の会員の取りまとめを、私が関西以西のまとめを行 なって協力態勢を取りたいと考えております。 上にも書きましたが、この会の良さの一つは気楽さにあります。とはいえ、これまでとは異なり、私には永岡、坪井 両先生のようなご威光はありません。したがって、総会での議題など話し合う幹事会のようなものが必要になってくる でしょう。 さしあたっての問題は会費の引き上げです。 他協会の年会費に比べて1千円という額はありがたいとはいえ、 わが会の立派なニューズレターの発行を続けるにはいささか苦しい台所事情も存在しているのです。これらの案件は次 の総会に諮りたいと思います。 ともあれ、三代目にして身上が潰れたなどということのないように努めますので、新しい事務局ともども、会員各位 のご鞭撻とご協力をお願いする次第であります。 フィッツジェラルドと私 パート 2 坪井清彦 (岡山大学名誉教授) フィッツジェラルドに興味を持ち始めたのは何時か定かではない。少なくとも学生時代ではない。それまでは色々な 作品を濫読していたので。多分大学に勤めはじめてからだろう。何故か分からない。多分彼の作品のあまりにも自伝的、 告白的な傾向に惹かれたのかもしれない。まるで私小説を読んでいるようだったという記憶がある。ある時期以降フィ ッツジェラルドは好きな作家の一人になった。永岡先生とのお付き合いは「フィッツジェラルドと私」に詳述されてい るので付け加えることはない。 「1989 年(平元)の英文学会大会初日の午前、青山学院大の一室を借りて『フィッツジ ェラルド・クラブ』が結成された。アメリカの Fitzgerald Society の発足に先立つこと一年。会則を定め、とりあえ ず永岡・坪井の二人が代表幹事となった」(The Fitzgerald Club of Japan Newsletter No.13)と書かれている。クラブ の設立を仕掛けたのは自分だという記憶がかすかにあるが、私には永岡先生のような精密記憶装置はない。第2代の会 長になって4年間あまり何もしなかった。また学会関係の情報も藤谷聖和さんのご尽力で続いてきた The Fitzgerald Club of Japan Newsletter を読めば日本におけるフィッツジェラルドの研究状態は分かり、ここで屋上屋を重ねる必要 はあるまい。 そこで私は 主として自分の出席できた幾つかの国際学会について個人的な感想を述べてみたい。 第1回の国際学会 (September 24-27, 1992)はニューヨークのホフストラ大学で開催されたが残念ながら出席でき なかった。これについては永岡先生が「フィッツジェラルドと私」で報告されている。 「1992 年(平 4)秋、第 1 回 国 際フィッツジェラルド会議がニューヨーク州 Hempstead の Hofstra 大学で行われ日本での受容について発表したが、 そのあと Linda Stanley 教授に声をかけられ、爾来、交友関係が続き、1996 年秋の『フィッツジェラルド生誕百周年記 念会議』 (プリンストン大) で再会している。 ちなみに同教授は The Foreign Critical Reputation of Scott Fitzgerald—An Analysis and Annotated Bibliography (1980)を出版している。 」 (アメリカ・フィッツジェラルド協会の The F. Scott Fitzgerald Society Newsletter Vol.3 参照。以下 Newsletter と略す。 ) 第 2 回国際学会(July3-8, 1994)は Hemingway/ Fitzgerald Conference in Paris と銘打ってへミングウェイ協会 との共催でパリで開かれた。へミングウェイ協会と、フィッツジェラルド協会のメンバーがアメリカ、ヨーロッパ、ア ジアから実に 200 名以上集まり、エッフェル塔の向かいにあるモナ・ビスマルク・センターで盛大に開かれた。それに 先だって左岸のカフェ、 「クロゼリ・デ・リラ」で歓迎会があった。パネルデイスカッションの多くはフィッツジェラル ドとヘミングウエイに関するもの、両作家の比較、フランスにおけるアメリカ作家たち、さらにジェンダー論、妻や恋 人に関するものなど盛りだくさんであり、両作家の縁故者、知り合い、有名な学者、研究者が一堂に会したのは壮観で あった。研究発表の間の1日、バスを仕立てて第1次世界大戦の古戦場やプロヴァンの中世の城や貴族の館などを訪ね た。アメリカ大使館でのリセプションもあり、最後の晩餐はミラボー橋の近くのセーヌ川に錨を下ろしたプリンセス・ エリザベス号の船上でジャズを聞きながら行われた。日本からは藤谷聖和氏と私、ヘミングウエイ協会の今村楯夫氏な どが出席した。 (詳しくは Newsletter Vol.5 を参照されたい) 第 3 回国際学会 (September 19-21, 1996) Centennial Conference in Princeton「フィッツジェラルド生誕 100 年記念学会」はプリンストン大学で開催された。そこで宮脇俊文氏は村上春樹との比較論(F. Scott Fitzgerald in the Twenty-First Century, U of Alabama P, 2003 に掲載)を発表し、私は「日本におけるフィッツジェラルドの受容」と いうことでパネルに出た。永岡先生とは行きは別々の飛行機であったが、ホテルは同じナッソー・インであったので大 体行動を共にした。他に田坂、上藤、宮沢、長瀬、内田、山口、馬場、松村、徳永、清水氏等が出席した。その後私は さらに南カロライナ大学で開催された会に出席したので永岡先生とはそこで別れた。 南カロライナ大学ではフィッツジェラルド誕生パーティ(9 月 24 日)が開かれた。空港にはブルッコリ教授の息子 さんがわざわざ迎えにきてくれた。学長も歓迎の昼食会を開いてくれた。副学長主催のリセプションでドイツのホルス ト・クルゼ氏に続いて私は「日本におけるフィッツジェラルドの受容」のコンサイス版とその頃準備中だったフィッツ ジェラルドの初版の復刻本について話した。 ハイライトは学生達によるミュージカル Fie!Fie! Fi-Fi!の上演であった。 エスニック論やジェンダー論の盛んな今日を反映してか多民族の学生が出演していたのが印象的であった。バンクェッ トでは Joseph Heller が講演した。 (Newsletter Vol.6 参照) 第4回国際学会(September 24-27, 1998 at Asheville, North Carolina) は Thomas Wolfe 協会との共催。私は残 念ながら出席できなかった。日本フィッツジェラルド・クラブのホームページ上の写真、および Newsletter Vol.7 を参 照されたい。 第 5 回国際学会(June 27-July 4, 2000) は フランスのニースで開かれた。The Fitzgerald Club of Japan Newsletter No.16 に失敗談「Two Oldies Abroad」を掲載させていただいたのでここでは省略するが、あえて一つ付け加えるならば 永岡先生の超能力である。ニースのホテルから会場までのバスは行きと帰りが少し違うルートを通っていたらしく、帰 りに何回か道に迷った。軍隊経験のある永岡先生の頭には「磁石」がインプットされており、道に迷っても本能(頭脳 内蔵型磁石)的に進むと必ず目的地に 着ける(一方私は完全な方向音痴) 。お かげで何度もお世話になった (Newsletter Vol. 9 参照) 。 ニースの第 5 回国際学会において Linda Stanley 教授と (永岡先生撮影) 第6回国際学会 (September 19-22, 2002)の場所はセントポールであった。 窮屈症候群(エコノミー症候群とも呼 ぶ)のせいもあり、行く前から永岡先 生と「もう年だから飛行機はエコノミ ーはやめてビジネスにしましょう」と 話し合っていたにも拘らず、いざキッ プを買うとなると「ビジネスは少々高 いようですね」とか、 「年金暮らしです から」とか何とか言って、結局懲りな い老人たちはまたエコノミーに乗った。 何分最近の航空界の事情に疎いものだ から、飛行機は常に満席のお客を乗せ て飛んでいるとは知らなかった。希望 した席もとれぬまま、 「本日も満席ありがとうございます」というアナウンスを聞きながら成田発セントポール直行の飛 行機は出発した(前回二人でフランスに行った時、飛行機が遅れ、パリでの乗り継ぎが大変だったことを覚えていた。 そこで今回は慎重に直行便を選んだのだ。 )そこまでは良かったのだが飛行機の中は満席、窮屈、どうもアテンダントの 数も少ないようだ。食事もなんだかまずかった。セントポール・ホテルは古くなっていた建物をリモデルしたものであ ったが格式高いホテルで十分満足した。部屋も広く、例えば私の部屋はシングルルームであったが、大きなベッドには 枕が3つも置いてあった。他のホテルに泊まっていた日本からの会員が覗いて目を円くしていた。 研究発表やパネルはできるだけ出席し、最近の研究動向を知ろうと思ったが、何分発表が多く何分の一しか聞けなか った。石川明子氏はギャッツビーと古代神話との対照研究を発表した。日本からは実に 17 名の出席者がいた。サミット・ アヴェニュー・ツアーとビルトモア・ホテルでのお茶とダンスの会にも出かけた。その後永岡先生と少し早めにホテル に帰って休もうと会場を出ようとすると、大きな黒塗りのリムジーンがスーと近づいてきて、ショーファーが「ホテル まででしょうか?」と聞くので「そうだ」と答えると「ではどうぞ」という。他の二、三人と一緒にVIPのような気 持ちで乗り込む。ホテルにつくとシルクハッとのドアマンが恭しく「おかえりなさい」と迎えてくれた。後で日本から の会員達に「どうして」と聞かれたが、 「偶然」としか返事のしようがなかった。学会がリムジーンを一台借り上げてい たのは知っていたが、我々がその恩恵をうけるとは思ってもいなかった。 帰りはまた満席の直行便だった。田坂氏が今度もスイスにご一緒しましょうと誘ってくれるのだが、果たして我々 は次のスイスの会に出席できるかどうか(ビジネスで?) 、それが問題だ。 最後に十数年前フルブライト上級研究員として南カロライナ大学にいた頃、ブロッコリ教授が何時も聞いていたこと は「坪井教授は日本という異なった文化圏からきているので、なにか我々と異なる意見、解釈は?」であった。そして その答えは未だない。次の世代の人達はもっと自分自身のユニークな研究をし、国際学会の席で活躍していただきたい と勝手に希望している。 日本フィッツジェラルド・クラブ 2002 年度総会(10 月 13 日、於学習院大学)講演 若きギャツビーの文学史 巽孝之 (慶應義塾大学) 文学史のギャツビーとギャツビーの文 学史 アメリカ文学史における『華麗なるギャ ツビー』の評価は、すでに定まっている。 このテクストに関する限り、それが 1920 年代ジャズ・エイジの気分を最も鋭角的に 反映するかたちで書かれたということ、い ちど失った恋人を取り戻そうとする大富豪 ジェイ・ギャツビーには、似たような経験 を持ちながらゼルダと結婚した作家本人は もちろん、実在したロングアイランドの密 売業者であり作家自身とも交遊のあったマ ックス・ゲルラークがあるていど反映され ていること、にもかかわらず本作品にはた んにジャズ・エイジだけに属するのではな く、ギャツビーが死んだのちに発覚する日 記の記述より、ベンジャミン・フランクリ ン以来のプロテスタント系資本主義の精神 が反映されていること、いってみればアメ リカン・ドリームの原型が脈々と受け継がれていることを指摘すれば、とりあえずアメリカ文学史的な説明は事足りて しまう。それ以上の追求をすることも可能ではあるが、少なくとも「アメリカ文学史」という言説的準拠枠の中で F.ス コット・フィッツジェラルドという作家と『華麗なるギャツビー』が果たす役割はおそらくそこまでであり、そこから 先へ一歩を踏み出せば、話はいっそう専門的な「アメリカ文学研究」となるか、これまで試みられなかったテクストの 盲点を明かす「注釈的/訓古学的批評」になるか、そのどちらかだろう。 もちろん、これが大学院生レベルにおける講義であれば、今日わたしたちが広く「アメリカ文学史」として自然に受 け入れている準拠枠は、 「1920 年代」という特殊な時代、すなわちちょうど 1919 年のハーマン・メルヴィルの生誕百周 年を境に 20 年代に未曾有のメルヴィル再評価の風潮がわきおこり、 長い歴史を誇るイギリス文学史へ拮抗するだけの強 力なるアメリカ文学史の準拠枠を構築しようとする文学史的意識が高まった時代の産物でしかないことを、改めて強調 してもよい。フレッド・ルイス・パッティーが 1896 年に先駆的アメリカ文学史を出版したのち、コロンビア大学教授カ ール・ヴァン・ドーレンが、1917 年から 21 年にかけてケンブリッジ版アメリカ文学史を世に問う。1928 年にはアメリ カを代表する文学研究組織である近現代語学文学協会(MLA)の中にようやくアメリカ文学の分科会が創設され、同年に は学術雑誌としてNew England Quarterlyが、翌 29 年にはAmerican Literatureがそれぞれ創刊されている。さらには、 そうしたアメリカ文学の準拠枠作成が盛んになるにあたり、モダニズム文学とともに『チャタレイ夫人の恋人』など強 烈なエロティシズム文学においても著名なD.H.ロレンスが、1920 年には脱稿し 23 年に出版した『古典アメリカ文学研 究』によって、クーパーからホイットマンへ至る今日のアメリカ文学的正典の定着に一役買ったことも、見逃せない。 以後のわたしたちが、マシーセンやバーコヴィッチ、エモリー・エリオットといった文学史家たちの仕事を自然に受け 止めることができるのも、1920 年代ジャズ・エイジに基礎的な文学史的準拠枠が発明されたからである。アメリカ文学 史においてジャズ・エイジないしロスト・ジェネレーションは特権的な輝きを放っているが、それはそもそもこの 20 年代という同時代に、主要大学の文学部がアメリカ文学史を構築しなくてはならない気運にあったことと無関係ではな い。断定を恐れずにいうならば、植民地時代から 20 世紀までのアメリカ文学史そのものも、おおむね 1920 年代に発明 された。その意味でも、フィッツジェラルドは例外的に幸運な文学史的時代を生きた——世の中に「文学史的経済」とで も呼ぶべき体系があるとすれば、フィッツジェラルドという作家について、おおむね以上の記述を残せば、規定枚数は 足りるはずである。 失われたクルマ しかし、わたしは昨今の、たとえば 1990 年代におけるウォルター・ベン・マイケルズらの新歴史主義批評による新し い読解が登場してからというもの、 『華麗なるギャツビー』に関する注釈的細部が、たんにインターテクスチュアリティ を確認するのにとどまるのではなく、むしろこの作品そのものが内包している独自の「アメリカ文学史」を目にものみ せてくれるのではないかと、考え直すようになった。いささか図式的に割り切るならば、 「アメリカ文学史のなかに『華 麗なるギャツビー』を定位する」のではなく、まったく逆に「 『華麗なるギャツビー』そのものが内部に孕んでいるアメ リカ文学史の可能性を観測する」ほうが重要ではないか、と思うようになったのである。というのは、たとえばエリオ ットが 1922 年に発表した「荒地」ひとつにしても、たんに古今東西の文学作品のパッチワークではなく、一種の世界文 学的アーカイヴの製作に似た作業ではなかったかと確信したからだ。 かくして、そのようなアメリカ文学史読み直しの経緯をふまえつつ、わたしは一昨年つまり 2000 年には『アメリカ文 学史のキーワード』 (講談社現代新書)なる小著をまとめることになり、そこではコロンビア版でもケンブリッジ版でも せいぜいコロンブスどまりでふれられることのなかった、ヴァイキング時代から今日までの一千年におよぶアメリカ文 学史を俯瞰するチャンスを得た。その内訳は、①コロニアリズム ②ピューリタニズム ③リパブリカニズム ④ロマ ンティシズム ⑤ダーウィニズム ⑥コスモポリタニズム ⑦ポスト・アメリカニズムという順序である。我ながら大 風呂敷だが、しかしこれもまた「アメリカの夢と悪夢」を再検討するのに最も役立つと確信してやまない。ヴァイキン グを基本に据えて初めて、たとえばアメリカン・ルネッサンスの時代にスカンジナヴィア系再評価の機運が高まってい た背景もわかるのだし、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『ケープ・コッド』 (1861 年)にヴァイキングへの興味が 書き込まれている事情も、はたまた今日ではウィリアム・ヴォルマンが七部作「七つの夢」シリーズにおいてヴァイキ ング時代以来のアメリカ史を書き換える壮大な歴史改変サーガを構築し続けている理由も、決して気まぐれではないこ とが了解できる。そして何よりも付記しておかなくてはならないのは、このアメリカ文学史を書いている間中、わたし がいちばん意識していたのはフィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』であり、この本の随所にこの作品のことを 書き留めているということである。つまり、 『華麗なるギャツビー』に埋め込まれているのはアメリカ文学史を考えるた めのさまざまな可能性なのである。 たとえばニック・キャラウェイは本書の結末で「かつてオランダの船乗りたちの眼に花のごとく映ったこの島の昔の 姿——新世界の初々しい緑の胸 “a fresh, green breast of the new world” ——が、徐々に、ぼくの眼にも浮かんでき た」 (140)と語るけれども、これは歴史的には 1609 年の秋、オランダ東インド会社に雇われた英国人ヘンリー・ハドソ ン率いるハーフ・ムーン号の一等航海士ロバート・ジュエットが、ニューヨーク湾から今日のハドソン河をのぼる旅の 途上、この丘の島に「貴金属の眠る崖と草萌ゆる田園」“a Cliffe, that looked...as though it were either Copper, or Silver Myne...and the other places...greene as grasse...”(Juet 36)を観察したことを指す。それがギャツ ビーの事件以後、すべてを見聞きしたキャラウェイの眼には、植民地時代からアメリカ最大の財宝はそこに眠る自然資 源と映る。そこに人々が一獲千金の夢を見て新天地へ殺到するゴールドラッシュ・ナラティヴの原型が生まれ、それが まさしくギャツビー本人の夢見た「デイジーの住むイーストエッグの緑の灯」 “I thought of Gatsby’s wonder when he first picked out the green light at the end of Daisy’s dock.” (141) に重なるところは、物語の大団円とい えるだろう。げんに大富豪ギャツビーを育てたのは、1875 年以来、ネヴァダ州の銀山やユーコン川の金山などで巨万の 富を獲得していったゴールドラッシュ時代の寵児ダン・コーディである。したがって、ギャツビーがダン・コーディの もとで働いていた期間に吸収したのは、19 世紀末ゴールドラッシュのパラダイムであり、文学史的にはリアリズムから ナチュラリズムへ至るコンテクスト、すなわちダーウィニズムの文化史にほかならない。もちろん、ここでギャツビー のセクシュアリティを再検討すれば、彼はデイジーへの愛を貫くためにダン・コーディとのホモソーシャルな関係を保 ち、だからこそ遺産相続権さえ与えられていたのだというクイア・リーディングも大いに可能だし、この「緑の灯」に はフィッツジェラルド本人が愛した『オズの魔法使い』における消費資本主義都市の象徴エメラルドシティのイメージ が反映しているという文化研究的批評も可能だが、しかしいまはその点は詮索しないことにする。 むしろ、そうした植民地時代このかたジャズ・エイジに至るまでのあいだに夢想され続けたアメリカ的ユートピアが、 じつは第一次世界大戦後における荒廃転じては世界的ディストピアとも裏腹であったこと、しかもその荒地で培われた 方法論がユートピアを再強化する可能性にみちていたことを、ここでは強調しておきたい。たとえば、マンハッタンか らウェスト・エッグへ赴くちょうど中間地点に位置し、のちにギャツビーを殺害することになるジョージ・ウィルソン が自動車修理工場を営む「灰の谷」 “a valley of ashes” は、その第 2 章における描写のなかでずばり「荒地」“the waste land”(28) と呼ばれている。エリオットの「荒地」は古今東西の文学作品のパーツを絶妙に組み合わせてモダニ ズム的ツギハギの傑作となったが、いっぽうフィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』では、そもそも第 3 章にお けるギャツビーのパーティでは故障して溝にハマったクーペが描かれて、第 7 章におけるデイジーの轢き逃げに関する 重要な伏線を成しているうえに、文字どおりの荒地に住んでクルマのパーツを組み合わせるのを生業とする自動車修理 業者が中心的な役割を演じている。この自動車修理業者ジョージは、ひとつのとんでもない誤解から、クルマならぬ大 富豪ギャツビーを殺してしまうが、しかしそれ以後の時代においては、まったく逆に一獲千金を成し遂げた大富豪本人 がさらにもうひとつの自然な資源として所有され再利用されるありさまが、 『ラスト・タイクーン』(1941 年)の中に書 き込まれることになる。とりわけ、この未完成小説の結末において、大富豪モンロー・スターを乗せた飛行機が墜落し、 その現場に居合わせた子供たちが大富豪の所持品を掠め取っていくという展開がメモされていたのが、興味深い。かつ てギャツビー以前の正統的ロマン主義者ヘンリー・デイヴィッド・ソローは『ケープ・コッド』の中で、クジラの死骸 を初めとする漂着物を巧みに拾っては再利用していく漂着物拾いの連中の姿に人間普遍の原理を見出したが、フィッツ ジェラルドが『華麗なるギャツビー』から『ラスト・タイクーン』に至る過程で造り出した大富豪は、自らが漂着物で あり再利用されるべき自然へと変貌を遂げた。試みに、ソローによる漂着物拾いの描写と、フィッツジェラルドが略奪 少年団に関して予定した描写とを併置してみよう。 Though there are wreck masters appointed to look after valuable property which must be advertised, yet undoubtedly a great deal of value is secretly carried off. But are we not wreckers contriving that some treasure may be washed up on our beach, that we may secure it, and do we not infer the habits of these Nauset and Barnegat wreckers, from the common modes of getting a living ? (Henry David Thoreau, Cape Cod, Chapter VI) Simultaneously Jim has found Stahr's briefcase. A briefcase is what he has always wanted and Stahr's briefcase is an excellent piece of leather and some other travelling appurtenances of Stahr's. Things that are notably possessions of wealthy men. (Fitzgerald, The Love of the Last Tycoon, lxiii) 仮にテクストは未完成な残骸であっても、フィッツジェラルド最大の課題であった大富豪のイメージは、まさしく搾 取される残骸というかたちにまとまったからこそ完成を見たのである。ソローが漂着物に関して思いめぐらした生活の 思想は、古今東西の文学作品をも漂着物のように扱うエリオット以後の文学史において、密猟と修繕と再利用の方法論 を強化していくけれども、まったく同時代に生きたフィッツジェラルドもまた、密輸業者の背景をもつギャツビーと自 動車修理業者ジョージ・ウィルソンを対決させることにより、 「荒地」以後の時代をいかにサバイバルすべきかを、思索 したのではあるまいか。 ここで思い出すのは、そもそもモダニズムの女帝ガートルード・スタインが、第一次世界大戦が終わったのをきっか けに、それまで乗り回していた不恰好なフォード車を二人乗りの洒落た新車に買い替え「ゴダイヴァ」と名づけるも、 それを修理に出したガレージで偶然、フランスの老機械工が、とうてい見込みのない見習い青年を「失われた世代」“une generation perdue”と評するのを耳にしてヒントを得(一説には「度し難い世代」“une generation fichue”とも伝 えられる) 、当初、粗暴なへミングウェイを戒める意味で「あなたがたはみんな失われた世代なのよ」 (You are all a lost generation.)と語り、それがアメリカ文学史上の「失われた世代」として定着したという事実だ。そして、あたかもス タインの発想と共振するかのように、フィッツジェラルドはまさにウィルソン自動車整備店のある「荒地」を中心に起 こる人間ドラマのさなかより、 「失われた世代」独自の感性をみごとに表現してみせた。 ギャツビーとウィルソンの関わりは、思いのほか深い。もともと本書は、かつて金も名声もなかったがゆえに恋人と別れな くてはならなかったギャツビーが、闇商売に手を出しながら財力を蓄え、いまはブキャナン夫人となった恋人デイジーを密輸 まがいの手口で取り戻そうとするも、彼女の引き起こした交通事故に巻き込まれ、トム・ブキャナンの愛人のマートルの夫ジ ョージ・ウィルソンによって射殺されるという、典型的なアメリカの夢の挫折を語った、代表的なアメリカの悲劇である。密 輸から成り上がった大富豪と荒地に住む自動車修理工を結びつけるのはいささか奇妙に響くかもしれないが、にもかかわらず、 たとえばブキャナン家に近しいもうひとりの女性ジョーダン・ベイカーの名がもともとクルマ関係の固有名詞から来た命名で あったことを忘却することはできない。失われた女は失われたクルマと重なる。文学史が誤読と再創造の歴史だというのはエ マソンからハロルド・ブルームまでを貫くヴィジョンだが、 『華麗なるギャツビー』の中心には明らかに失われた何かを回復 すべく据えられた密猟と修繕/再利用の論理がある。問題はさらにこの論理がいっそう抽象的な水準において、 『華麗なるギ ャツビー』独自のアメリカ文学史という構図を浮き彫りにしているところにひそむ。 「北欧人種」とは誰か このような前提に立つとき、わたしが『華麗なるギャツビー』においていまいちばん重要ではないかと思うのは、第 1 章でデイジーの法律上の夫トム・ブキャナンがゴダードという男の『有色人帝国の勃興』なる本の要旨をまとめると きに “we’re Nordics”(14) と発言している部分が、 第9章後半で語り手ニック・キャラウェイが“They were careless people, Tom and Daisy”(139) と呼んでいる部分とのあいだで、精妙な交響楽を奏でているという構成である。前掲マ イケルズによる抜本的な新歴史主義的再解釈が提出されてからというもの、少なくとも前者の発言に対しては、そこに 暗にギャツビーをユダヤ人的な人種的少数派にも比べられる存在と見て、同時代におけるモダニズムとネイティヴィズ ム、およびインぺリアリズムの相互交渉を解説しようとする批評が頻出したが、しかしにもかかわらず、わたしはそう した 20 年代的文脈を見るだけではまったく不十分だと思う。というのも、“we’re Nordics” なるトムの発言の背後 には、同時代を超えて、紀元 10 世紀におけるヴァイキング的物語学が決して過去の遺物におさまることなく、むしろ 20 世紀末の現在までほとんど一千年のあいだ、連綿として生き延びているという、もうひとつの歴史が厳然と横たわっ ているからだ。すでにコロンブス以前の段階で北欧系がアメリカ西海岸まで到達していたと主張するスカンジナヴィア 的無意識は、いまも根強い。これは、瑣末な自民族尊重主義の問題ではない。逆に、ここから出発するナショナリズム がなければ、いかなるアメリカニズムも成り立たないのだから。 アメリカ文学史をふりかえるなら、たとえば 1837 年にデンマーク王立北欧協会の重鎮カール・クリスチャン・ラー ブンによる『古代アメリカ』 Antiquatates Americanae と題する本が北米で出版され、同書がコロンブス以前にスカン ジナヴィア系こそが最初のアメリカ発見者であったと主張したことは、ひとつの結節点であった。ジョゼフ・モルデン ハウアーは、この時代がちょうどアメリカン・ルネッサンスと通称されるアメリカ・ロマン派勃興期に重なる点に注目 し、同書の出版がちょうど完成間近だったエドガー・アラン・ポウの架空旅行記『ナンタケット島出身のアーサー・ゴ ードン・ピムの体験記』 (1838 年)に作用しなかったはずはないという前提から、従来の地球空洞説一辺倒の影響を問 い直す。その視点をさらに拡大すれば、同時代の博物学者ヘンリー・デイヴィッド・ソローの代表作『ケープ・コッド』 が、なぜ古くは 10 世紀にヴァイキングたちがアメリカ大陸に漂着した時の物語、それに 18 世紀の独立革命神話に至る まで、アメリカ史の広大な廃墟から断片群を拾い出し巨大な百科全書として組み直さなくてはならなかったか、その事 情も容易に判明しよう。 こうしたヴィンランド・サーガをふまえるならば、アメリカにおける文学と歴史が、ことのほか密接に連動している ことが浮上する。スカンジナヴィア系植民史を組み込むアメリカ文学史がある一方、限りなく文学的レトリックに近い 偽りのスカンジナヴィア系アメリカ史が紡がれる場合も、少なくはない。 たとえば、1898 年には、スウェーデン系の農場主オーラフ・オーマンによって発見されたというふれこみのルーン文 字の碑文がセンセーションを呼んでいる。げんにミネソタ州全体が膨大なスカンジナヴィア系移民から成立しており、 1893 年のシカゴ万博ではマグナス・アンデルセンがノルウェイから北米までヴァイキング船レプリカで航海するという 企画が話題を呼び、全米のスカンジナヴィア系移民がヴァイキング熱一色に染まっていた。したがって、そうした状況 下、オーマンがルーン文字を一生懸命独習したあげくに 14 世紀風ルーン碑文の贋作を造り上げ、あたかも当時 1354 年 のヴァイキング遠征が現在のミネソタ州近辺にまでおよんでいたかのような印象を与えようとしたのは、ごく自然の成 り行きだろう。それは、オーマンがこの擬似碑文を自然に捏造しようとしたように、世紀末当時の北欧系アメリカ人全 員があらかじめそうした試みを——たとえ偽物であっても——自然に容認しうる気分があったことを意味する。その結果、 今日ではオーマンがルーン碑文を「発見」したことになっているダグラス郡の中枢アレクサンドリア市には巨大なヴァ イキング像が建立され、その楯にははっきり「アメリカ発祥の地」と刻み込まれているほどだ。 したがって、ミネソタ州セント・ポールに 1896 年に生を享けたジャズ・エイジの寵児スコット・フィッツジェラル ドが、当時のヴァイキング熱を目撃したのは当然であり、だからこそ彼は 1925 年の傑作小説『華麗なるギャッツビー』 第 1 章において、主人公ジェイ・ギャツビーの敵役となるトム・ブキャナンに「ゴダードという男の『有色人帝国の勃 興』なる本について「そいつの考えはだな、おれたちは北欧人種(Nordics)だというんだ」と語らせたのではあるまい か。トムはギャツビーをあくまで人種的少数派同然に見なすが、しかしよくよく考え直してみると、スカンジナヴィア 系ヴァイキングが文明建設の手段とした海賊行為は、実在した密輸業者をモデルとしてアメリカの夢と悪夢を体現した ジェイ・ギャツビーその人の方法論であることをも、ここでは銘記しておかなくてはならない。 「能天気な連中」とは誰か それでは、トム・ブキャナンの “we’re Nordics” なる言葉との関わりにおいて見のがせないと指摘した、最終章 におけるニック・キャラウェイの “They are careless people, Tom and Daisy” なる言葉の意義はいったいどこにあ るのだろうか。 『華麗なるギャツビー』で最も印象深いのは、その末尾で、ギャツビーという犠牲をもたらしながらも平然としても との生活に戻ってしまうブキャナン夫妻を「能天気な連中」“careless people” と呼ぶ場面に、まずまちがいなく、 イザヤ書第 32 章第 9 節において反エジプト感情から “ye careless daughters!” へ呼びかける警戒心が漏れ聞こえる ことだろう。これは長い間「不注意な人々」なる意味として誤読されてきたが、それではたんなる軽蔑に終ってしまう。 昨今でも、20 世紀最大の小説ベストテンで、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』に継ぎ第二位を占めた『華麗なる ギャツビー』が、そんな表層的な意味にとどまるとは思われない。これは単純な軽蔑ではなく、十二分に警戒しなくて は世界は崩壊する、という聖書に忠実にもとづいた警戒の言葉なのである。 「能天気な女たちよ。立ち上がって、わたし の声を聞け。お気楽な娘たちよ。わたしたちの言うことに耳を傾けよ」“Rise up, ye women that are ease! Hear my voice, ye careless daughters! Give ear unto my speech.” このパッセージを理解するには、そもそもイザヤ書というのが、アッシリアとエジプトという二大大国を前にして動 揺するユダ王国が、アッシリアの攻撃を受け、紀元前 701 年にはエルサレム陥落寸前に立ち至っていたという時代背景 を意識しなくてはならない。つまり「能天気な娘たちよ」という呼びかけは、のちのバビロン捕囚をふまえればわかる とおり、帝国による奴隷化に対する恐れの表明にほかならなかったのだが、これはのちに南北戦争以前の奴隷体験記著 者として知られるハリエット・ジェイコブズが 1861 年に出版した自伝のエピグラフとして選び取られ、たちまち反奴隷 制感情の意味合を帯びて息を吹き返す。というのも、黒人女性文学研究の権威フランシス・フォスターも指摘するよう に、南北戦争前夜のアメリカにおいて「エジプト」という単語は「奴隷制」とまったくの同義語だったからである。イ ザヤ書で呼びかけられる「のんきな女たち」同様、奴隷娘たちもまた、いつまでも「お気楽な娘たち」 (“careless” は “carefree” に通ずる)でいるわけにはいかないのだ。 ほんらいアメリカ国家が衰えを示した時にはたえずエレミヤ の嘆きのレトリックが要請されるのであり、奴隷制アメリカが危機に瀕した 19 世紀中葉のアメリカにあっては、アメリ カ黒人のエレミヤが理論化されるのは歴史の必然だった。しかしデイヴィッド・ハワード=ピットニーの研究書『アフ ロアメリカのエレミヤ』 (1990 年)によれば、20 世紀初頭、すなわち 1900 年から 1910 年のあいだには、W. E. B.デュ ボイスが、ジム・クロウ法や黒人へのリンチの風潮に業を煮やし、とりわけ彼の著作『黒人のたましい』 (1903 年)は、 無知で黒人の気持ちのわからない白人連中相手に、いかにアメリカ黒人の歴史と文化が抑圧と豊饒、苦痛と美にみちみ ちたものであるかを説き、白人たちを啓蒙しようとするものであった。 やがて、第一次世界大戦以後には、19 世紀後半に消え去ったとばかり信じられていた白人優位主義の権化たる秘密結 社クー・クラックス・クラン(KKK)が、奇跡のように息を吹き返す。初期のKKKは黒人と共和党を攻撃するばか りだったが、この第二次KKKにおいては、自らの敵を「無法者、売春婦、黒人、ユダヤ人、カトリック信者、外国人、 誤ったプロテスタント信者」に定めている。その活動は、まさしく『華麗なるギャツビー』の出版される 1920 年代半ば にピークを迎える。してみると、この物語は当初こそ明確な北欧系白人と非白人の区分から始まりながらも、最終的に は、何と典型的な白人とばかり思われてきたトムやデイジーたちのほうが、かえってバビロン捕囚以前のユダの娘たち のような、奴隷候補者になりかけていることを暗示してはいないだろうか。時代とともに消え去ったギャツビーは時代 の寵児であるかもしれないが、時代を生き抜いたはずのトムとデイジーは時代の奴隷であるかもしれないという究極の アイロニーが、ここにある。 したがって、 『華麗なるギャツビー』は、たんにベンジャミン・フランクリンの共和制的理念を継承した小説というに とどまらない。そこには、スカンジナヴィア系ヴァイキングのアメリカを示唆する「おれたちは北欧人種だ」という断 言から、アンテベラムにおける奴隷制アメリカで想起された「能天気な娘たちよ」という警戒を経て初めてジャズ・エ イジという能天気な、だからこそ危機的な時代において説得力をもつテクスチュアリティが織り紡がれている。そこで 暗殺される大富豪は、やがて新聞王ランドルフ・ハーストや市民ケーンのようなピグマリオン的大富豪像を経由して、 フィッツジェラルドのファンであったポストモダン作家トマス・ピンチョンの『競売ナンバー 49 の叫び』における大 富豪ピアス・インヴェラリティにおいて最も皮肉な復活を遂げる。そこでは、物語は何よりも死んだ大富豪が仕掛けた 罠を中心に展開するからだ。 『華麗なるギャツビー』そのものがアメリカ文学史の可能性を開いている証拠が、そこにあ る。 フィッツジェラルドが『白鯨』を書けば? 以上のような経緯をふまえつつ、さいごにもういちどだけ、まさしくアメリカ文学史という言説が確立した 1920 年代 へ、メルヴィル・リヴァイヴァルの時代へもどってみよう。というのも、当時の危機感と警戒心ほどに「アメリカ文学 史」の言説的準拠枠を成立させるための文学史的自意識を確固たるものにした条件は、ほかに存在しないからである。 ここで導入したいのは、メルヴィルが再評価されるとともにフィッツジェラルドが時代の寵児となりえたジャズ・エ イジを傍証する意味において、最も興味深い映像にほかならない。そう、ジョン・ヒューストン版以前の段階で、最初 にして最も奇想天外な『白鯨』の映画版が作られていた事実である。 『華麗なるギャツビー』の翌年 1926 年、ミラード・ ウェブ監督、ジョン・バリモア主演という陣容で公開されたサイレント映画版『白鯨』——より正確に訳せば『海獣』“The Sea Beast”(ワーナー・ブラザーズ)——が、それだ。 何しろここでは、エイハブ船長が「エイハブ・シーリー」Ahab Ceeley なるフルネームで登場する。いちばんすごいのは、 その前半において、エイハブに両足がそろっているばかりか、彼と婚約者エスターの恋物語が中心を成し、ラブシーンやら ダンス・パーティーやら、とうていメルヴィル原作とは思われぬほどに派手派手しい脚色、というか改変が施されているこ とだ。英国作家クリストファー・ビグズビーが、ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』の前日譚ともいうべき『ヘスター』を 出したのは 1994 年のことだが、ジャズ・エイジの映画監督はすでに『白鯨』の前日譚を、早々と構想していたのである。 それでは、悲劇はいかにして起るのか。物語の約束事どおり、エイハブとエスターの熱烈なる間柄に嫉妬した異母弟 デレク・シーリーが、捕鯨航海中のエイハブをボートから突き落とし、彼はその結果として、片脚を白鯨に食いちぎら れてしまう。これはもちろん、カインとアベルの変形だ。失意のエイハブをエスターは当初、やさしく出迎えるが、や がて彼女を奪うべくデレクの暗躍が続く。ハムレットを得意とするシェイクスピア役者バリモアの面目躍如といったと ころだが、物語展開としてはメルヴィルというよりも、フィッツジェラルドに近い。げんに『華麗なるギャツビー』は 1925 年に出版されているので、その翌年 1926 年に『白鯨』映画化にあたったウェブ監督が、それを熟読してのぞんだ 可能性はきわめて高い。 したがって、ここでのエイハブが白鯨へ復讐を誓うのはまさに三角関係のこじれゆえなのだが、ひとりだけ真相を知るピッ プは、悪いのはデレクであり、白鯨を憎むのは筋違いなのだと、エイハブを諭す。そこから先はいささか不条理なほどご都合 主義的で、白鯨への復讐を果たしたエイハブは婚約者エスターのもとへ無事帰り着き、夢と希望に満ちたハッピーエンドが待 っている。 アメリカ文学史上におけるエイハブ船長といったら、狂気と復讐心にかられた悲劇のヒーローでなければならないと 信じる向きは、とんでもない肩透かしを食らうだろう。しかし、エイハブに妻も子どももいることは、 『白鯨』第 16 章 でも第 132 章でも一目瞭然だ。神に挑戦し自ら神の位置を奪おうとするエイハブには、人間エイハブとしての家庭生活 があったことに、そして捕鯨船長の妻たちにも独自の文化史があったことに関心が集まっているいま、ジャズ・エイジ の『白鯨』は、そして限りなくギャツビーに近いエイハブ船長像は、世紀を超え空間を超えてさまざまな問題を投げか ける。そこでは、メルヴィルの『白鯨』を持ち出して世界的に通用する「アメリカ文学史」の常識を創造しようとする 革新主義時代の論理とともに、そもそもフィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』の人気によって『白鯨』そのも のを書き換えてしまおうとするジャズ・エイジならではの論理が交錯する。 ここで思い出すのは、そもそもヘミングウェイが『日はまた昇る』のエピグラフにガートルード・スタインの言葉「あ なたがたはみんな失われた世代なのよ」を引用した時、彼は皮肉にもそれに並べて聖書の「伝道の書」第 1 章第 4 節か らの一節 「ひとつの世代 (時代) は去り、 新しい時代が来る、 しかし世界はいつまでも変わらない」 (One Generation passeth away, and another generation cometh: but the earth abides forever)を引用していることだ。この言葉は、 『華麗 なるギャツビー』を熟読したまったく新しい世代の感覚が『白鯨』を書き換えると同時に、それはもともと『白鯨』の テクスト自体が含んでいた潜在的可能性を一気に引き出すのに役立ったのではないかという文学史的真実を、わたした ちに突き付ける。ここには、文学史的正典が長い歳月をかけて読み継がれるのはいったいなぜかということに関する、 端的な真実がひそむ。 若きギャツビーの文学史がクライマックスを迎えるのは、まさにその瞬間である。 Works Cited Banta, Martha. “The Three New Yorks: Topographical Narratives and Cultural Texts.” American Literary History 7.1 (Spring 1995): 28-54. Bruccoli, Matthew, ed. F. Scott Fitzgerald’s The Great Gatsby: A Literary Reference. New York: Carroll &Graf, 2000. Douglas, Ann. Terrible Honesty: Mongrel Manhattan in the 1920s. New York: FSG, 1995. Fitzgerald, F. Scott. The Great Gatsby. 1925. Ed. Matthew Bruccoli. New York: Cambridge UP., 1991. −−−−−.The Love of the Last Tycoon: a Western. 1941. Ed. Matthew Bruccoli. New York: Cambridge UP., 1991. Foster, Francis. “Harriet Jacobs’s Incidents and the ‘Careless Daughters’ (and Sons) Who Read It.” The (Other) American Traditions. Ed. Joyce W. Warren. New Brunswick: Rutgers UP, 1993. 92-107. Howard-Pitney, David. The Afro-American Jeremiad. Philadelphia: Temple UP, 1990. Juet, Robert. Juet´s Journal: The Voyage of the Half Moon from 4 April to November 1609. Ed. Robert M. Lunny. The Collection of the New York Historical Society. Michaels, Walter Benn. Our America. Durham: Duke UP.,1995. Proctor, Ben. William Randolph Hearst. New York: Oxford UP., 1998. Thoreau, Henry David. Cape Cod. 1861. Ed. Robert Sayre. New York: The Library of America, 1985. 第 41 回日本アメリカ文学会全国大会(10 月 13 日、於青山学院大学)研究発表要旨 “The Diamond as Big as the Ritz”再考:Washington 家の内と外 橘 幸子 (大阪大学大学院) 1922 年 6 月、The Smart Set に掲載された “The Diamond as Big as the Ritz”の主人公 John T. Unger が夏休みに訪 れる Washington 家は、常に、アメリカの物質的成功の象徴として論じられてきた。多くの批評において、Fitz-Norman Culpepper Washington が南北戦争終結直後に西部に渡り、そこでダイアモンドの山を発見したこと、その後、彼の息子 で現在の当主である Braddock が、その山の上にハリウッド映画のセットのような大邸宅を建てたことは、19 世紀版ア メリカンドリームから 20 世紀版への直線的な流れを示していると解釈されている。これに対して本論ではまず、その流 れの中で、Braddock が父の死後三年経った 1903 年にダイアモンドの鉱山を閉鎖し、その時点から外部社会との接触を 完全に断っていることに目を留めたい。そうすることで、従来指摘されてきたような物質主義や物質崇拝という面とは 少し違った観点から、この作品の思想面について論じることが可能になると思われる。 1903 年から作品の背景である1920 年代初頭まで、Washington 家はアメリカ社会から独立した、Braddock の自治領域として 存在している。同時代の社会から孤立している Washington 家が “old-fashioned” であることは、1903 年にアメリカで誕 生した二つのもの、飛行機と映画に関する一家の姿勢に注目すればよくわかる。ここでは後者についての説明をしておこう。 1903 年、現代文化の代表である映画の原点とも言える、プロットを持つ最初の作品 The Great Train Robbery が完成し、それ から映画産業は急速に発展した。Washington 家を実際に設計したのも映画産業に従事する男なのだが、Braddock が元々設計 を依頼していた、つまり優先させていたのは、“the older, more traditional arts” (Martin 132)の関係者たちの方であ る。Braddock の息子 Percy は、John に対して、この家を設計したのが映画関係の人間であること、その人物が読み書きもで きず、bad manner であったことを、一家の恥として打ち明ける。莫大な財産と高貴な家柄の両方を所有する Washington 家の、 伝統や good manner を尊重し、粗野な新興勢力を蔑視するという姿勢は、作品の背景である 1920 年代よりも一時代前の、ヴ ィクトリアン・アメリカ時代の上流階級の思潮を連想させる。第一次世界大戦を経た後の 1920 年代には、ヴィクトリアン時 代の風潮は特に若い世代の間で反抗の対象となったのだが、開戦の 10 年以上も前に外部との接触を断ったこの家では、子供 たちは皆、そのコードに基づいて成長している。この作品のヒロインである Kismine は最初の登場場面で、自分は、それまで の Fitzgerald 作品のヒロインであった flapper たちの最大の特徴である喫煙、飲酒、ファッションなどには全く興味を持た ない、“wholesome”な女の子だと主張する。実際の 1920 年代の社会においては、“wholesome girl”という概念がそのまま 堅苦しい Victorianism の象徴と見なされていたことは、当時のアメリカ世相を描写した、F. L. Allen の有名な著書 Only Yesterday に記されている通りである。 1903 年から 1920 年代初頭の間は、アメリカ社会では女性達の動きが活発になり、社会基準が大きく変化した時期にあたる。 1920年の参政権獲得や、flapperの出現など、外部の社会では女性の勢力が増していく中、Washington家はその傾向に反動す るかのように、従来の男性優位的な基準を更に強化した形で保持している。1903 年前後、アメリカ文化が女性化していくこ とに危機感を持った男性たちが、“outdoorsmanship”などを尊重し、“virility”を誇示していたのと同様に(Sanderson 145)、Braddock が治める現在の Washington 家で尊重され、前面に現れてくるのも男性らしさや力強さばかりである。男性優 位の状況は、作品中で財産と力の二重の象徴であるダイアモンドを手にするのが、男性だけに限られているということにも 端的に表れている。現在「リッツホテルほどもある超特大のダイアモンド」の所有者である Braddock が、後継者である息子 の Percy には、「切手の代わりに宝石集めをして遊んだ」と発言させるくらいふんだんに貴重財を与えているのに対して、娘 達が身に付けて登場するのは「貞節」の意味を持つサファイアだけであり、しかもそれはまるで貞操帯のように、いつも女性 の sexuality を表わす髪に留められている。 このことにも象徴的に表れているように、Braddockの娘達、特にKismineに対する干渉は、ヴィクトリアン・モラルとして 名高い性の抑圧、娘の純潔を維持させるという点に集中している。父によって純潔という性道徳を強制されてきた Kismine に とって、John は、そこから解放されるための性的刺激なのであり、John と接触している間の彼女は、旧道徳からの解放を求 めて積極的な言動をしている。それにもかかわらず、従来の批評で彼女に対して常に“innocent”や“chaste”というラベ ルが貼られてきたのには、視点的人物である John の物の見方が大きく影響していると思われる。長い間“out of the world” という状態で、文化的には世間の流行よりもかなり遅れた町である Hades 出身の彼は、町の入り口に掲げられた “old-fashioned Victorian motto”に魅力を感じるような、旧時代的な若者として設定されている。物語の語り手は視点的 人物である John と連動し、常に彼の心理を語るため、Kismine の言動にも John の一方的な、旧式の価値観に基づいた解釈が つきまとうことになる。暗殺を免れようと、脱走する決意を口にした John に対して Kismine が、“I’m going”と繰り返し ながら、自分もこの旧道徳的な家から抜け出したいという願望を表明する場面では、そのすぐ後に、彼女の言動についての John の独善的な解釈が挿入される。 She was his--she would go with him to share his dangers. He put his arms about her and kissed her fervently. After all she loved him. . . . (102) 二人の最初のキスシーンでも、その行為を促し、確定的にするのは Kismine の方なのだが、その後に続く John の一方的な見 解によって、彼女の積極性は歪められ、既成の女の子らしさから生じたものであるかのように変換されてしまう。John が恋 愛対象としているのは現実の Kismine ではなく、彼の心の中の Kismine なのだ。従って、良家の子女である Kismine が、結婚 できないとわかっていながら自分とキスをしたと知った時に John は、彼女には “decency” が欠けていると非難し、そんな 彼女のことはもう愛せないと告げたりする。 しかし John の価値観は、皮肉なことに、ダイアモンドの山が爆発するのを目撃した後で一変してしまう。ちょうど、第一 次世界大戦でそれ以前の社会基準が崩壊し、幻滅を経験した後の若者たちが、反動として自由な恋愛観を求めるようになっ たのと同じように、Washington 家という旧世界の崩壊で “disillusion”を経験した後の John は、突如としてそれまでの伝 統的な恋愛観を捨て、Kismine に向かって「とりあえずはしばらく、愛し合ってみようよ、一年かそこらでいいから」と、20 年代の若者風の言葉を口にするようになる。 John の単純な変節と比べて、Kismine の反応はより複雑なものとなっている。元々、旧世界的な秩序からの解放を望んでい た彼女は、最初は無邪気に喜びを表すが、しばらくして、父の影響力のもとで管理されていた世界が完全に消滅したことを 実感すると、不安と喪失感を言葉にする。John とは異なり、解放が実現した後でもKismine は同時代のflapper へと移行しな いのだ。この、解放後の Kismine の状態を解釈するために、本作品が発表されたのと全く同じ 1922 年 6 月、Zelda が Metropolitan Magazine に発表したエッセイ、“Eulogy on the Flapper”に目を向けよう。その中で Zelda は、この時期の flapper と、それ以前の、初期のflapper とを区別し、“philosophy”としての初期のflapperdom が、ヴィクトリアン時代の 女らしさの規範に基づく従順さや性の抑圧に対する個人の反抗を象徴するものであったのに対して、時代が進み、すでにそ の目的が達成されたこの時期では、flapperdom は単なる“game”になってしまった、と苦言を呈している。こうした動きと 関連させてみると、旧道徳からの解放を求めて行動的であった Kismine が、その対象を失った今、喪失感を抱えたままの状態 でとどまっていることは、この時期の flapper の存在に対するアンチテーゼになっていると考えられる。 Fitzgerald が、風刺を特徴とする自分の “second manner” で執筆したと明言していた本作品の主要なテーマが、物質主 義への風刺だということはこれまで言われてきた通りだが、今回のような観点から解釈してみれば、この作品の中に、 Washington 家の崩壊という、男性優位を強化した旧世界に対する風刺と、同時代の、fashion となった flapper への風刺を読 むことも可能になる。またそうすることで、Fitzgeeraldの“New Woman”に対する態度、彼女達に魅力を感じ、その新しい価 値観と自由さを賞賛すると同時に、彼女達は“useless” だと非難するという、“New Woman”に対する彼の ambivalent な態 度が、表面上はそうしたこととは無関係に思えるこの作品にも投影されていると考えることができる。 (注)学会発表時のサブタイトルが内容に適合したものではなかったため、今回、少し短縮したものに変更させていただきました。ご了承く ださい。 Works Cited Allen, Frederick Lewis. Only Yesterday: An Informal History of the 1920’s. 1931. New York: Harper Collins Publishers, 1964. Fitzgerald, F. Scott. “The Diamond as Big as the Ritz.” 1922. Babylon Revisited and Other Stories. New York: Charles Scribner's Sons, 1966. Fitzgerald, Zelda. “Eulogy on the Flapper.” 1922. The Collected Writings of Zelda Fitzgerald. Ed. Matthew J. Bruccoli. Tuscaloosa: U of Alabama P, 1997. 391-3. Martin, Robert A. “Hollywood in Fitzgerald: After Paradise.” The Short Stories of F. Scott Fitzgerald. Ed. Jackson R. Bryer. Madison: U of Wisconsin P, 1982. 127-148. Sanderson, Rena. “Women in Fitzgerald’s fiction.” The Cambridge Companion to F. Scott Fitzgerald. Cambridge: Cambridge UP, 2000. 143-163. 第 41 回日本アメリカ文学会全国大会(10 月 13 日、於青山学院大学)研究発表要旨 波打ち際のゆらぎ:Tender Is the Night における自然と文化のレトリック 澤崎 由起子 (関西大学大学院) The Great Gatsby のみならず、Fitzgerald 作品には複製メディアが多用される。例えば Myrtle Wilson が電話を掛け る際、まず電話によって空間の近接化が起こる。マートルによる電話を掛ける行為が、Buchanan 夫妻との地域差、階級、 ビュキャナンとのジェンダー規範の転覆を示唆していることは、フィッツジェラルドが電話というメディアを、その利 便性だけでなく、むしろそのメディア性(媒介性)を意識して使っていた可能性が高い。 こうしたメディアに対するこの作家の認識と、その効果的な使用については、Tender Is the Night(以下 Tender と 略す)でも散見される。“The Movies Identity”という論文で Milton R. Stern は、二項対立として “movies” と “morality” (110-11) を取り上げる。スターンによれば、前者は「浅薄で価値の混乱を招く」とされ、Dick Diver が 現実の生活で守ろうとする後者とは概ね対立しているとされるが、実際には対立よりも通底しており、相互の関係を強 化さえしている。今回の発表では、まず映画女優 Rosemary Hoyt が持つメディア性、境界侵犯性に着目し、特に彼女の 映画 Daddy’s Girl を観る体験が、“morality”を重視するダイヴァーの生活の現実と非現実の境界線をもゆるがして いくことを挙げたい。併せて Nicole Diver の持つメディア性とからめながら、セレブリティの文化制度の中で、この ように男性的な主体性をゆるがされていくダイヴァーを、とりわけ現実からの逸脱行為としての飲酒に注目しながら述 べたい。 ここで Tender 全体の根底を成す、包括的な二項対立である「自然」と「文化」という項目を洗い出す必要があるが、 Raymond Williams は The Country and the City の中で「田舎と都会の相関的関係過程」(292)の観点から、自然と文 化の対比を簡潔に置き直す。自然を文化化するとは、 「自然」を自然化し、脱自然化し、さらに再自然化していく3つの 段階を踏むことになる。再自然化された「自然」あるいはより文化化された「自然」――Fredric Jameson がいうとこ ろの “second nature” (xi) の意味することは、Adam Smith 流の帝国主義植民地化政策のもとで、地球規模での自然 征服が行われ、西欧文化の世界化が完成することだ といってよい。このグローバリゼーションはアメリカニズムの逆襲であるが、新興ブルジョワの台頭とドル市場の世界 化が Dick Diver の開拓した“the French Riviera” (3)、つまり<ビーチ>に及ぶ点には注意が必要だ。Michel Foucault の Surveiller et Punir によると、フーコーは社会を “la prison” (234)の拡大版ととらえ、のちにフーコー主義者 は、欲望の充足がその社会からの唯一の逃走手段だと主張する。この意味において<ビーチ>は、監獄化した西欧化社 会から逃れ出るための快楽の場所であり、セレブリティのために用意された施設ながら、権力の流れは必ずしも上意下 達ではなく、双方向の力関係を示す場と化している。 Daddy’s Girl の主演女優ローズマリーは、大衆文化のイコン的存在であり、すでに<ビーチ>で有名性を帯びる。 スクリーンをとおして彼女は「現在進行形の死」を演じながら、ダイヴァーをはじめとするオーディエンスとの反応を つなぐメディアと化する。無垢な娘のイメージを消費するオーディエンスからの反応を引き受けると同時に、そのイメ ージを与え続け、却って彼女がオーディエンスを意のままに操る。ローズマリーに開陳するダイヴァーの演技論は、の ちにニコールの<ビーチ>からの退場に「驚く」ローズマリーの演技、つまり日常の行為と舞台上の演技の区分を逆転 させた演技によって辛くも反転する。 この映画タイトルは、フーコーのいう “diagramme”におけるインセストを暗示する。ニコールの父親によるインセ ストは、彼の精神的・道徳的退廃を意味するとされるが、今回の発表では、セレブリティ文化のシステムが父権制とヘ テロセクシズム安定化のために、男性主体にインセストを必要とするという前提に立脚する。このような状況でインセ ストの関係を結ばされ精神病を患ったニコールは、今度は治癒の名目で精神科医である夫と主従関係を、つまり中央監 視塔と“prisoner” (103)との関係を結ぶ。この関係は、“Le Panopticon de Bentham” (201) においていっそう強化 される。囚人としてのニコールは、外面的な身体だけでなく自分の内面も夫に管理してもらうことを求めるが、パノプ ティコンの支配-被支配関係は反復されるうちに、しだいにズレを、反発と抵抗をもたらす。 ニコールは “schizophrêne” (191) な狂人を演じ、監視者による強制力に反発する。Yanis Varoufakis も言及する “the battle of sexes” (9)ともいえる二人の関係は、資本主義システムの二人の囚人であり、ダイヴァーの立場は、 John von Neumann の “two-person Game” (87)に由来し、且つ Robert Axelrod 等の主張する “prisoner's dilemma” (4) にある。ダイヴァーは、妻に管理を約束するかわりに、妻にヘテロセクシズムを守ることを命ずる。助けを求める 妻はこれに応じる。このゲームの利得では、ダイヴァーが最大利益を、ニコールは最小利益を取る。ニコールがダイヴ ァーに抵抗した場合、ダイヴァーはゲームの続行を躊躇するが、自ら関係を清算することはなく、ダイヴァーの最適戦 略は、ニコールから関係を清算してもらうことである。 ダイヴァーによるニコールの監視、ニコールの分裂および回復は、まさに男性が女性を自然のごとく「自然化」し、 「脱自然化」し、さらに「再自然化」させていったのと符合する。親族関係への従属とは、性の力学を、ひいては文化 から自然への力学を隠蔽する。前述のように、自然は常に文化化されてきたが、自然は、女性は、結婚制度をつうじて、 父系的な氏族から別の氏族へと贈与される記号であり、まさにニコールの交易性とメディア性を指す。メディアとして のニコールは、Butler のいう「アイデンティティ不在の場所」(50)となることで、男性のアイデンティティを反映する 鏡となる。 ダイヴァーのセルフ・イメージ、つまり近代的な男らしさのモデルは二つに分類される。Tom Pendergast が示唆する ように、教会の教区長であった父親の“moral guide” (203)を継承したものと、彼が青年時代を過ごしたアメリカ東部 の若者文化にある“valued appearance, sexuality, and personality over hard work, solid morals, and good character” (13)。だがこうした男らしさを演じることと、現実のライフスタイルは対立と矛盾を生じさせ、彼の自然 的欲求を抑圧する。映画女優コンスタンス・タルマッジと広告の並列、またはローズマリーの会話と酒ブランドの並列 は、まさにダイヴァーの中で、現実と非現実が次第に交錯していく瞬間を表す。映画や飲酒に代表される快楽の追求と、 医師としての “morality” は、次第にゆらぐ。The White Logic にあるように、飲酒行為の根底には、飲酒が “a key sign of ‘manliness’”(88) の兆候だけでなく、 “male gender anxiety” (88)も反映しているからだ。ダイヴァー の飲酒行為はアルコール中毒症状とみなされ、“Disease” (68)とさえ呼べる。病的な飲酒癖とニコールの精神分裂症 とは、置換可能である。彼もまた精神病患者、拡大した監獄の囚人なのだ。 現在性に宙づりにされたダイヴァーは、ローズマリーに “Miss Television” (104)と呼びかける。彼女をヴィジュ アル・イメージのようにフラット化することで、深層を取り去り、彼女と象徴的な交換を交わす。ダイヴァーの場合、 映像メディアとの体験とは、セレブリティ文化の中にいながらも、その文化から距離をおくための手段であり、文化か ら自然化への自発的な移動を意味する。ここでのダイヴァーは、 「文化」を自然化し、脱自然化し、さらに再文化化して いく3つの段階を踏んでいる。 再びローズマリーの感覚的な身体性を目にしたとき、ダイヴァーはかつての洗練された振る舞いを演じながら、わが 身を水中へ、自然の中へ浸し、<ビーチ>で飛び交う文化の記号、あらゆる統制から逃れようとする。ただし文化は究 極の自然である死を乗り越えることはない。したがって彼はローズマリーの前でサーフィンを披露しそこなうことにな る。つまり死の危険性をも乗り越えることに失敗するが、この死は象徴的な意味で、社会的な死であり、ニコールをつ うじて贈与された名声を、セレブ文化のシステムへ返還するための、ぎりぎりの選択であったと考えられる。いいかえ ると、彼の水中への落下行為とは、システムからの境界侵犯にほかならなかったことになる。 Works Cited Butler, Judith. Gender Trouble: Feminism and the Subversion of Identity. New York: Routledge, 1990. Crowley, John W. The White Logic: Alcoholism and Gender in American Modernist Fiction. Amherst: U of Massachusetts P, 1994. Fitzgerald, Scott. F. Tender Is the Night. New York: Scribner Paperback Fiction, 1995. Foucault, Michel. Surveiller et Punir: Naissance de la Prison. Bureau de Copyrights Français: Éditions Gallimard, 1975. Jameson, Fredric. Postmodernism, or, The Cultural Logic of Late Capitalism. Durham: Duke UP, 1991. Pendergast, Tom. Creating the Modern Man: American Magazines and Consumer Culture 1900-1950. Columbia: U of Missouri P, 2000. Stern, Milton R. “The Movie Identity.” Tender Is the Night: The broken Universe. New York: Twayne Publishers, 1994. Varoufakis, Yanis. “An Interview with Roger Myerson on Nash and Game Theory.” http://www.home.uchicago.edu/~rmyerson/ research/peraptis.pdf Von Neumann, John and Morgenstern, Oskar. Theory of Game and Economic Behavior. Dusseldorf: Verlag Wirtschaft und Finanzen, 2001. Williams, Raymond. The Country and the City. London: Chatto & Windus Ltd., 1973. Wu, Jianzhong and Axelrod, Robert. “How to Cope with Noise In the Iterated Prisoner’s Dilemma.” http://www-personal.umich.edu/~axe/research /How to Cope.pdf. 第 6 回国際 F. Scott Fitzgerald 学会に出席して 上藤 礼子 (大阪女子短期大学) 2002 年 9 月 19 から 22 日までミネソタ州セントポールで開催された第 6 回国際 F. Scott Fitzgerald 学会に出席し た。ニースでの第 5 回大会は 6 月末だったため、日本の大学で教鞭をとる者にとっては前期試験前にあたり、参加者は 少数であった。その反動というわけでもないだろうが、今回はスコット・フィッツジェラルド・クラブからも、永岡定 夫、坪井清彦両先生をはじめとして十数名の参加があり、19 日朝の Jackson Bryer 氏の開会の辞の中でも日本からの 参加者の多さについてコメントがあった。 メイン会場はセントポールのダウンタウンにあるランドマークセンターで、オフィシャルホテルのセントポールホテ ルからは目と鼻の先、私の宿泊したラジソン・シティセンターからも徒歩数分の距離だった。セントポールは漫画 Peanuts の作者 Charles Schulz の出身地で、現在も未亡人が住んでいるそうで、今年は町じゅうに様々なコスチュー ムを身につけたルーシーの像が飾ってあった。林立する派手なルーシー像の迫力に比較すると、Rice Park に立つフィ ッツジェラルドの等身大の銅像は地味な印象だった。 いたるところにルーシーが… 初 日 は 午 前 9 時 か ら 、 Scott Donaldson に よ る “F. Scott Fitzgerald, St. Paul Boy” と題する Plenary Session に続いて、2-3 室に 分かれて、 “The Twenties: Influences and Affinities” 、 “The Great Gatsby” 、 “Fitzgerald’s Short Fiction” などのテーマ別に、セッシ ョンが開始された。セッションは 4 日 間全体で 22 あり、それぞれ 3-4 人が 発表した。テーマとしては作品論、特 に The Great Gatsby についてのもの が多かったが、セントポールという地 域 性 か ら “St. Paul and the Apprentice Years” や “Mississippi River and Fitzgerald’s Midwestern Imagination” などが目に付いた。日 本からは二日目に明治大学の石川明子氏が“Homer and The Great Gatsby” と題して、The Great Gatsby の中に見ら れるギリシア、メソポタミア神話の影響について論じる発表をされた。 セッション終了後は 2 台のバスに分乗して Summit Avenue のはずれにある University Club へ行き、立食パーティ の Reception に参加した。Eleanor Lanahan は元気な姿を見せていたが、Budd Schulberg はプリンストン大学で会っ たときよりもずいぶん老化が進んだ印象を受けた。 Honoria Murphy や Tony Buttitta の姿がなかったことなどからも、 スコットを直接知る人々がいなくなりつつあることを痛感した。 第二日は8時半からのセッションに続いて、Eleanor Lanahan の “Zelda Fitzgerald as Artist” と題する Plenary Session があり、 Minnesota Club で昼食をとりながらの “Fitzgerald’s Back in Town” と題するスライドショー、 その後 Summit Avenue を中心とするフィッツジェラルドゆかりの地を訪ねるバスツアーがあった。地元歴史クラブの 方々のガイドで Laurel Avenue 481 番地にあるフィッツジェラルドの生家、 Summit Avenue の McQuilian House、St. Paul Academy、This Side of Paradise の校正に精を出した Summit Avenue 593, 599 番地の家などを見物した。その後は Commodore Hotel でお茶と 20 年代の音楽とダンスを楽しむプログラムがあり、チャールストンの指導があって、音楽に 合わせて習ったばかりのダンスに興じる人々もいた。創価大学の前田さんもその一人だったが、それ以外の我々日本人 は壁の花よろしく、ただ眺めるだけだった。前田さんの若さに感銘を受けたひと時だった。夜には再びランドマークセ ンターで “The Captured Shadow” の上演があったが、私は出席しなかったので、残念ながらその内容についてはわか らない。 Laurel Avenue 481 の生家、 2階左側 三日目も午前中のセッションに続いて、 Frances Kroll Ring と Budd Schulberg へ のインタビューが行われた。 (実をいうと、 私は岡本紀元先生らと郊外にあるアメリカ 最大のショッピングモールである the Mall of America とミネアポリス見物に行ってい ました。申し訳ありません。 )Ring 女史は プリンストンでは非常に元気そうな印象を 受けたが、 翌 22 日セントポールホテルのロ ビーで見かけた彼女は、二回りも小さくな ったような感じがした。高齢であることを 考えれば、彼らが次回の会議にも元気な姿 を見せてくれるかどうかはわからないと感 じた。 午後 3 時からダウンタウンの Central Presbyterian Church の “Cedar Exchange” ホールで朗読劇 “Zelda, Scott, and Ernest: A Dramatic Dialogue Adapted From the Letters of Hemingway and the Fitzgeralds” が上演された。 Norman Mailer が Hemingway を、彼の妻 Norris Church Mailer が Zelda を、 共作者 George Plimpton が Fitzgerald をそれぞれ演じた。1923 年生まれの Mailer は両手に杖を持っていたが、サフ ァリスーツを着た元気な姿を現した。アメリカ文学史に登場するような巨匠が、先輩作家とはいえ他人の手紙を朗読す る役で参加するとは、思いもよらなかった。翌日セントポールホテルを出発する Mailer 夫妻を見かけた私は、彼にサイ ンと握手をねだり、挙句の果ては図々しくもツーショットの写真まで撮らせていただいた次第である。フラッシュは目 に悪いのでやめてくれと言われていたのに、藤谷先生にシャッターを押していただいたところ、フラッシュが光ってし まい本当に申し訳なかった。 問題のツーショット 夜にはセントポールホテルでバンケットが開かれたが、私は岡本先生、藤谷先生らとイタリアンレストランで気軽なデ ィナーを楽しんでしまった。実は、前夜もフィッツジェラルド・クラブの方々とビヤレストランで自家製ビールの飲み 比べをしているうちに夜のセッションには参加できなくなってしまったのである。前回セントポールを一人で訪ねた時 は日曜日の夜だったせいか、町じゅうがゴーストタウンのような印象だったのだが、今回は毎晩楽しいディナーを楽し むことができた。 (皆様に感謝。 )また聞くところによれば、永岡、坪井、田坂先生たちも毎夜ホテル近くの日本料理店 で盛り上がっておられたそうである。 最終日の午前には、最初の予定にはなかったのだが、White Bear Lake へのミニバスツアーが行われ、藤谷先生と私 を含めて 10 人ほどが参加した。 セント ポール歴史協会メンバーの事前コーデ ィネートのおかげで普段は内部を見る ことの出来ない White Bear Lake Yacht Club のクラブハウスや、少年時代の友 人 Cecil Read のサマーハウス、 Zelda と暮らした Mackey J. Thompson のコ テージ、その他ゆかりの家々を現在の 所有者の好意で家の内部を見せてもら ったり、茶菓の接待を受けたりした。 さらに、ホワイトベア湖の島は私有地 のため湖岸と島をつなぐ橋の入口には ガード デクスターの気分で… マンがいて部外者の侵入を規制しているのだが、特別に島内のドライブを許可され、“Winter Dreams” の Judy Jones の邸に招待された Dexter Green の気分で周囲の景色を眺めることが出来た。午後にはフィッツジェラルドの銅像のある ライスパークで一般市民も参加して、Central High School Jazz Band の演奏や作品の朗読会が持たれた。この日は天 気は良かったのだが気温が低く、風も強かったので、非常に寒かった。“Winter Dreams” を初めて読んだときにミネ ソタの秋は“crisp”だと表現されていたのが印象に残っていたので、この寒さが妙にうれしかった。 聞こえますか?ライスパークの朗読会 1996 年のプリンストンでの大会が私に とっては初めての外国での学会参加だった。 そのときは朝から夕食後の 9 時、10 時まで 研究発表があり、夜のセッションは時差の せいもあって非常にきついという印象があ った(実際は夢の中で発表を聞いていたと 言うのが正しいのだが・・・) 。今回は夕方 までにセッションが終り、午後もバスツア ーや芝居などのアトラクションが多く用意 されていて、体力的にも楽だった。次回は スイスだそうだが、ヨーロッパはこれまで いつも 6 月末なので果たして参加できるか どうかわからないが、もし可能であればぜ ひ参加したいものである。そしてメンバー の皆様と楽しい夜(?)を共有したいと思 うのは不謹慎だろうか。 インディアナ大学リリー・ライブラリー所蔵 F. Scott Fitzgerald 関係資料について:報告と考察 藤澤 良行 (大阪樟蔭女子大学) F. Scott Fitzgerald(以下 FSF と略記)関係資料としては、プリンストン大学所蔵のものとサウス・カロライナ大学所蔵の 整理されていることがよく知られている。しかしこれら以外にも資料がないわけではない。筆者は 2002 年度在外研究を米国イン 機会があった。今回はその調査報告をするとともにその資料の持つ意味合いについて考えておきたい。 リリー・ライブラリー(Lilly Library) (以下リリー)はインディアナ州ブルーミントン(Bloomington) 市にある IU 付属図書館の一つで、稀覯本、初版本、貴重本、原稿などを中心に収集・所蔵することをその使命としている。その所 蔵物はグーテンベルグ版聖書、シェークスピアのファースト・フォリオなどから映画監督兼俳優オーソン・ウェルズや 詩人シルヴィア・プラスの個人的文書まで幅広い (www.indiana.edu/~liblilly にてその概要を知ることができる)。訪 問者は最初に登録すれば誰でも入室でき、読書室で資料を閲読できるし、許可を得ればその資料を複写する(有料)こ とも可能である。 (なおこの図書館では “manuscript” と呼ばれているが、これはかならずしも「原稿」だけではなく、 広い意味での「関係資料」と考える方が適当である。 ) Ober MSS (1191 点) FSF 関係でリリーの名前を耳にしないわけではない。 よく知られているのは彼の literary agent であった Harold Ober 関係資料(この図書館では “Ober MSS”と名づけられている)であろう。このコレクションは全 1191 点あり、資料の 年代によって二つの箱に分けられ、それぞれ年別のファイルに挟み込まれている。それぞれのファイルの中身は原則と して発生の日付順に1月から 12 月へと並んでいるが、綴じ込まれているわけではないので若干順序に異動もある。この うち FSF とオバーとの手紙や電報のやりとりについては、その大半が As Ever, Scott Fitz- (1972)に収められている し、さらに A Life in Letters/ F. Scott Fitzgerald (1994) にも約 70 編が採られている。 このコレクションの中でもっともよく知られたも のは、オバーが独立して自らのエイジェント会社を興 したときに FSF が送った “FOLLOWING YOU NATURALLY” (As Ever, Scott Fitz-, p.147 ; A Life in Letters, p.170 )という 1929 年 9 月 24 日付け電報の原本であろう。さらにこれもまた有名であるが、Sheilah Graham が ハリウッドから FSF の死を電話で知らせてきたときのオバーが書いたメモもある(これらの実物コピーは、いずれも As Ever, Scott Fitz-, p.170 以降の写真ページで見ることができる) 。 上記の書物に採録されていないものの中で興味深いのは、オバーが FSF の短篇をいろいろな雑誌に売り込みを試みて その結果不採用になった雑誌編集者からの断り状が含まれていることである。 他にもオバーが窓口になっていた関係で、 彼の作品の映画化をめぐってハリウッドの映画会社とやりとりした手紙も含まれている。また原稿料のアドバンスを FSF が依頼する電報とオバーによるその返信が、As Ever, Scott Fitz- に収められている以上に残されていて、その余 白にはオバーの手になるものと思われる計算書き(合計額などのメモ)が鉛筆で記されている。他には、たとえば現在 FSF はどこにいてどの住所に郵便物を送ればよいのかをオバーが記したスクリブナー社内用のメモなどもある。そして いずれの資料にも FSF 関係だと分かるように彼の名前が付されている。 さて、 これから先があまり知られていないリリーにおける FSF 関係資料になるのだが、 大きく分けて 3 種類存在する。 この図書館の分類で Fitzgerald MSS, Fitzgerald MSS. II, Fitzgerald MSS. III となっているものである。以下一 つずつ検討する。 Fitzgerald MSS (222 点) まず Fitzgerald MSS に関してであるが、これは全編が Verifax と呼ばれる複写装置(1950 年代にイーストマン・コ ダック社が開発した先駆的複写装置だと The Encyclopedia Americana 第 7 巻 771 頁の “copying machine” の項目 に解説されている。この時代の貴重な資料の複写にはよく用いられていたらしい)を使った手紙のコピーである。この MSS(全 222 点)も二箱に分けられ、それぞれの箱には年別にファイルがあり、発生順に資料が挟み込まれている。内容 は、FSF と編集者 Maxwell Perkins との間の交信が中心(他には Zelda からパーキンスに宛てた手紙などもある)であ る。コピーを一枚ずつ検討していくと、FSF 書簡集である The Letters of FSF (1963)、Dear Scott/Dear Max (1971)、 Correspondence of FSF (1980)、A Life in Letters (1994) に載せられているものが大部分であることが判明した。中 でも特に Dear Scott/Dear Max に収められているものが数多い。しかしそれがすべてではないし、他の書簡集にしか収 められていないものもあり、さらにどの書簡集にも見られないものもある。 上記の書簡集を見れば分かるとおり、 このコピーの原本となる手紙自体はプリンストン大学に存在する (はずである) 。 IU の図書目録によればリリーにこの資料が入ったのは 1957 年ということなので、 FSF の書簡集が発表される遙か以前に 誰が何のためにコピーをしたのか、そしてその資料がどういう経路を通ってリリーに収められたのかは当然気になると ころである。そこでリリーの司書に依頼してこの点に関して調査してもらったのであるが、現在のところ残念ながら詳 細は不明である。ただ手紙の欄外に日付を特定する数字が入っていたり、編集記号が記入されていたりするものもある (その上でコピーされているのが重要であろう)ので、FSF とパーキンスの交信を中心とした FSF 書簡集出版への準備 資料の一部とは言えるであろう。 まとめていうと、 資料的価値という点ではこの資料はコピーに過ぎないのでそれほど高くないと言わざるを得ない (版 権としてはプリンストンが持つことになるはずだが、この点ははっきりしない)が、1950 年代にすでにコピーが存在し ていたということ自体の驚きが日本人の筆者にはある。 Fitzgerald MSS. II (11 点) 次に FSF MSS. II に進む。 これは 11 点しかないので一箱に収められていて、 関連ごとにファイルに挟み込まれている。 それぞれのファイルの見出しには内容を示す簡単なメモ書きが付されている。 図書目録によると 1958 年にインディアナ 大学が購入したことになっている。 インターネット上で公開されているこの資料に関する記述は以下の通りで非常に簡単なものに過ぎない。 The Fitzgerald mss. II, 1923-1926, consist of writings and correspondence of Francis Scott Key Fitzgerald, 1896-1940, author. Included are also pen and ink drawings by M.F. and a photograph of Zelda (Sayre) Fitzgerald, 1899?-1948, author. (http://indiana.edu/ ~liblily/lily/mss/html/fitzger2.html ) しかし一次資料としての価値という点から見るとこちらの方が貴重である。この資料に関しては、古い Fitzgerald Newsletter を調べていてこの資料に関する項目を見つけたので以下に引用する。 LIBRARY ACQUISITION David Randall, Rare Book Librarian, Indiana University, reports: “From various sources…we secured a completed set, mostly in dust wrappers, of the works of F. With the latter lot were some letters and fragmentary manuscripts material of VEG and numerous notes, revisions, etc. of …LT.” (Fitzgerald Newsletter No.4, winter 1959, Microcard editions, p.13) この後半に記されているものがこの資料を指すと思われる。さらに Fitzgerald Newsletter のページを繰っていると 次の記述が目に付いた。この資料の内容をより具体的に記述したものである。 F MSS IN THE LILLY LIBRARY 1. Printer’s copy for VEG, incomplete. Carbon copy with the epigraph in F's hand. 2. ALS. Juan-les Pins, 21 March 1926. 1p. Note authorizing undesignated person to pick up a package at the post office. 3. Holograph note instructing editor to change the name Boroski to Lladislau in TITN. 1p. 4. ALS. Baltimore, n. d. 1p. To Perkins; refers to Hemingway. 5. Material for appendix of L.T. Nine holograph pages and nine typescript pages revised--none in F's hand. 6. Gordon Bryant photo of Zelda F with holograph note on cover from F to Perkins. 7. Two pen-and-ink drawings of Anson Hunter of “The Rich Boy” by “M.F.” (Fitzgerald Newsletter No.17, spring 1962, Microcard editions, p.87) ここでは 7 項目に分類されていて、リリーの説明にある資料点数 11 点とは食い違っているが、上記 7.のペン画が上の Fitzgerald Newsletter では 2 点となっているが実際には 5 点あるので、それを数えて 11 点となっているのであろう。 この中では 1. The Vegetable の植字工用のコピー(FSF による鉛筆での修正あり) 、 5. The Last Tycoon のマニュスク リプトなどは、不完全ではあるが、一次資料として作品出版にいたる行程をたどる手がかりの一端となりうる貴重なも のである。 また 6.のゼルダの photo というのは Gordon Bryant による非常に有名な肖像写真 (ペン画のように見えるのであるが) で、繰り返し FSF 関係の書物に使用されていて、たとえば Fitzgerald A to Z (1998)で FSF と向き合って掲載されてい る(p.82) 。これはまたサウス・カロライナ大学での FSF Centenary Exhibition Catalogue にも掲載されている(p.64 以降のカラーページ)ように、同大学の The Thomas Cooper Library にある Matthew J. and Arlyn Bruccoli Collection にも収集されている。従って、この写真は複数のコピーが存在しており、FSF が何らかの目的でパーキンス宛てに送っ たもの(いつ送ったのかは不明)だと推察される。 Fitzgerald MSS. III (39 点) 続いて FSF MSS. III に移る。これは The Great Gatsby(以下 GG)の presentation slips 全 39 点である。実物は約 2 ㎝× 3 ㎝の白紙に贈呈先の名前と宛先(相手が書評家・批評家であれば所属先、私人であれば住所、名前だけのもの も数枚含まれる)が黒か青かのインク(変色していて判別できない)の手書きで書かれていて署名はない、というごく 簡単な紙片 39 枚で、それが大判の封筒一つにまとめて収められている。無署名であるが、筆跡の特徴から判断して FSF が書いたものと考えることができる。残念ながらこの資料の実物コピーが許可されなかったので、現在のところここに 掲載することはできないが、たとえば、“Franklin P. Adams c/o The World” という形式である。 この資料に関しても同じく Fitzgerald Newsletter に記事が載っていたので、まずそれを引用する。 GG PRESENTATION SLIPS David A. Randall, Librarian of the Lilly Library at Indiana University, reports that he has turned over to the library a set of presentation slips for GG that Maxwell Perkins gave him. F was abroad when GG was published and was unable to inscribe copies, so he sent Perkins a set of slips, each with a name written on it. These slips were intended to be included with presentation copies, but they arrived late and were never used. The roster: Franklin P. Adams, Herbert Agar, Thomas Beer, Prince Antoine Bibesco, John Peale Bishop, Ernest Boyd, Thomas A. Boyd, Van Wyke Brooks, Heywood Broun, James Branch Cabell, Henry Siedel Canby, Mary Coleman, William Curtiss, Benjamin de Casseris, John Farrar, Mrs. Edward Fitzgerald, Blair Flandran, John Galesworthy, Hildegarde Hawthorne, Sidney Howard, Robert Kerr, esq, Sinclair Lewis, Robert McClure, Cyril Maplethorpe, H.L. Mencken, Eunice Nathan, Geo Jean Nathan, Burton Rascoe, Paul Rosenfeld, Mrs. A.D. Sayre, Gilbert Seldes, Laurence Stallings, Charles Hanson Towne, Carl Van Doren, Carl Van Vetchten, Bernard Vaughn, J.A.V. Weaver, Edmund Wilson Jr., Alexander Wolcott. These names have been transcribed by Mr. Randall as F wrote them. (Fitzgerald Newsletter No.24, winter 1964, Microcard editions, pp.137f) インターネットに公開されているリリーのこの資料に関する解説文は上の引用の第 2 文 “F was abroad…” 以下の部 分がほぼ同様に(以下に挙げる誤りも含めて)採られている(最後の一行を除く) 。興味深いのは、Fitzgerald Newsletter では 1964 年の号に掲載されているが、リリーの資料では “Gift 1972” となっていて、この食い違いが気になるとこ ろである。またNewsletterの最後の一行にあるとおり、このリストの表記はランドール氏が書き起こしたそのままを採 用しているが、その際に誤りがあったことが今回判明した。それは、Blair Flandran→Mrs. Blair Flandrau でMrs. の 脱落(単純ミス)とnとuの混同である。混同の原因はひとえにFSFのhandwritingの読みにくさにある。よく知られてい るが、実際に手紙などで彼の筆跡をたどるとi, e, u, n, rなどの判別が非常に難しい。さらに、リストの人名に関して FSF自身が正しく記入していない例もある。筆者が調べた限りでは、Benjamin de Casseris→Benjamin de Casseres、 Alexander Wolcott→Alexander Woollcott というところである。彼の綴り字の不正確なところもよく知られている。 そしてこの資料の解説文の内容のとおりだとすると、このスリップは GG 発売(1925 年 4 月 10 日)直前の 3 月頃に滞 在先のイタリアで書かれ、パーキンス宛に送られたことになる。捜してみると、パーキンス宛の FSF の手紙(1925 年 3 月 12 日ごろ Capri の Hotel Tiberio から発信されたもの)に以下のような記述があるが、そのことを示す傍証としてあ げられるであろう。 I’m sending in two other envelope. (1.) Cards to go in books to go to critics (2.) “ “ “ “ “ “ “ “ friends Also, I’m enclosing herewith a note I wish you’d send down to the retail dept. . . . . . . . . . . While, on the contrary these 16 are all personal. Like wise I wish they’d tear off the adress[sic] and send each message in a book charged to my account. (A Life in Letters, p.97) 従って、この手紙文中の “cards” そのものがこの資料である可能性が強い。 さらに、Correspondence には FSF 手書きの GG の inscription slip が 5 枚掲載されている(pp.156ff)が、贈呈先は いずれも上のリストに入っており(Robert Kerr, Van Wyck Brooks, Carl Van Doren, Sinclair Lewis, H. L. Mencken の 5 人で、このうち Van Doren を除く 4 名分は実物コピーである) 、こちらの方は実際に GG に添えられて贈呈されて いる。Bruccoli の説明によれば、この inscription slip もほぼ同じ頃にイタリアからスクリブナー社に送られたこと になっている(同書 p. 156)ので、実際にはこれらがいつ頃書かれたのか、どちらが前後しているのか、未使用に終わ ったこの presentation slips との兼ね合いが気になるところである。 さてこの FSF MSS. III の資料的価値であるが、署名のないのが残念であるが、おそらくは FSF の直筆なので骨董品的 価値は十分にあるといえる。しかし内容としてはただの紙片に過ぎず、これによって FSF 研究が飛躍的に進むというほ どのものではないとも言えるであろう。筆者の考えではこの 39 人(私人も含めて)のリスト選定は FSF の GG 出版にあ たっての宣伝戦略(マスコミ対策という方がいいかもしれない)としてなかなか興味深いものがあると思われるが、今 はこの点に詳しくふれるだけの紙数がないので、別の機会に譲ることにする。 さて以上がインディアナ大学リリー・ライブラリーに所蔵されている FSF 関係資料の全貌である。筆者は書簡集など FSF の一次資料にあたることはこれまでにもあったが、それはあくまでも書物という媒体を通したものであった。従っ て研究者として(また一ファンとして)リリーで FSF の直筆にじかにふれる(非常に判読しにくいことも含めて)感動 がまず最初にあることを最後に付け加えておきたい。また FSF とオバーとの原稿料のアドバンスを切実に迫るおびただ しい量の電報のやりとりを一つ一つ見ていくと本当に胸が詰まる思いがする。 書簡や原稿など FSF 関係の一次資料はプリンストン大学図書館とサウス・カロライナ大学図書館に集中して収集され ているものと筆者などは思いこんでいたわけであるが、捜せばそれ以外のところにもまだ資料が存在する可能性がある ことをこのリリー所蔵の資料が示唆しているといえよう。 ※本稿を記すにあたりインディアナ大学リリー・ライブラリーの多大な協力を得ている。ここで感謝しておきたい。 なおリリー・ライブラリー関係資料は以下のアドレスからアクセスが可能である。 Ober MSS, Lilly Library, Indiana University, Bloomington, Indiana. http://indiana.edu/~liblily/lily/mss/html/ober.html Fitzgerald MSS, Lilly Library, Indiana University, Bloomington, Indiana. http://indiana.edu/~liblily/lily/mss/html/fitzger.html Fitzgerald MSS. II, Lilly Library, Indiana University, Bloomington, Indiana. http://indiana.edu/~liblily/lily/mss/html/fitzger2.html Fitzgerald MSS. III, Lilly Library, Indiana University, Bloomington, Indiana. http://indiana.edu/~liblily/lily/mss/html/fitzger3.html Works Cited Bruccoli, Matthew J. and Jennifer M. Atkinson, eds. As Ever, Scott Fitz-: Letters between F. Scott Fitzgerald and His Literary Agent, Harold Ober, 1919-1940. Philadelphia: Lippincott, 1972. Bruccoli, Matthew J., Margaret M. Duggan and Susan Walker, eds. Correspondence of F. Scott Fitzgerald. New York: Random House, 1980. Bruccoli, Matthew J. & Judith S. Baughman, eds. A Life in Letters/ F. Scott Fitzgerald. New York: Charles Scribner’s Sons, 1994. The Encyclopedia Americana. International edition. Daubury, Connecticut: Grolier, 2001. F. Scott Fitzgerald Centenary Exhibition. Columbia, South Carolina: University of South Carolina for the Thomas Cooper Library, 1996. Fitzgerald Newsletter (quarterly, 1958-68). Reprinted Washington, D.C.: NCR Microcard Books, 1969. Kuehl, John & Jackson R. Bryer, eds. Dear Scott/Dear Max: The Fitzgerald-Perkins Correspondence. New York: Charles Scribner’s Sons, 1971. Tate, Mary Jo. F. Scott Fitzgerald A to Z. New York: Checkmark Books, 1998. Turnbull, Andrew, ed. The Letters of F. Scott Fitzgerald. New York: Charles Scribner’s Sons, 1963. リリー・ライブラリーの貴重な情報をお寄せくださいました藤澤良行さんが、 第 6 回国際学会に関する新聞記事 (9 月 22 日付 St. Paul Pioneer Press 紙)もお送りくださいました。写真は、上藤礼子さんのご報告にもあります、 舞台に登場したサファリスーツ姿のメイラーです。紙面の都合で縮小しましたが、元のサイズでお読みになりた い方は事務局まで。 会員情報 ・ 本文中にもありますが、今年度から以下のような体制になりました。よろしくお願い申しあげます。 坪井清彦前会長、藤谷聖和、清水一夫両事務局のこれまでのご尽力に、この場を借りて厚く御礼申しあげます。 会長 岡本紀元 副会長 宮脇俊文 文献センター 永岡定夫 〒400-0021 甲府市宮前町 5-5 会計 上藤礼子 事務局 大阪国際大学法政経学部 徳永由紀子研究室 〒573-0192 枚方市杉 3-50-1 tel 072-858-1616(代) fax 072-858-4982 [email protected] 郵便振替口座 00950-1-110108 ホームページ http://www.let.ryukoku.ac.jp/~seiwa/ ・ 文献一覧は都合により、今号においては省略させていただきました。別の形で必ず掲載させていただきますの で、どうかご了解くださいますようお願い申し上げます。 ・ 2003 年度会費 1,000 円を同封の払込票でお支払いください。 ・ 勤務先、住所、メールアドレスのご変更などがございましたら、事務局までお知らせください。 ・ 本年度の総会、および懇親会は、アメリカ文学会(10 月 11・12 日、於椙山女学園大学)に合わせて開く予定です。 詳細につきましては、決まり次第ご案内申し上げます。 ・ 2004 年 6 月 27 日~7 月 3 日にスイスのジュネーヴ湖畔の保養地、ブベーで開かれる第 7 回国際学会の第一報を、The Scott Fitzgerald Societyのホームページ(http://www.fitzgeraldsociety.org)でご覧になれます。 会員情報 ・ 本文中にもありますが、今年度から以下のような体制になりました。よろしくお願い申しあげます。 坪井清彦前会長、藤谷聖和、清水一夫両事務局のこれまでのご尽力に、この場を借りて厚く御礼申しあげます。 会長 岡本紀元 副会長 宮脇俊文 文献センター 永岡定夫 〒400-0021 甲府市宮前町 5-5 会計 上藤礼子 事務局 大阪国際大学法政経学部 徳永由紀子研究室 〒573-0192 枚方市杉 3-50-1 tel 072-858-1616(代) fax 072-858-4982 [email protected] 郵便振替口座 00950-1-110108 ホームページ http://www.let.ryukoku.ac.jp/~seiwa/ 文献一覧は都合により、今号においては省略させていただきました。別の形で必ず掲載させていただきますの で、どうかご了解くださいますようお願い申し上げます。 ・ 2003 年度会費 1,000 円を同封の払込票でお支払いください。 ・ 勤務先、住所、メールアドレスのご変更などがございましたら、事務局までお知らせください。 ・ 本年度の総会、および懇親会は、アメリカ文学会(10 月 11・12 日、於椙山女学園大学)に合わせて開く予定です。 詳細につきましては、決まり次第ご案内申し上げます。 ・ 2004 年 6 月 27 日~7 月 3 日にスイスのジュネーヴ湖畔の保養地、ブベーで開かれる第 7 回国際学会の第一報を、The Scott Fitzgerald Societyのホームページ(http://www.fitzgeraldsociety.org)でご覧になれます。
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