﹁ ぬ 出山 ﹂ 実方歌の歌枕㈲ | ﹁嵐山﹂・﹁朝日| 出 一 として﹁あらし山﹂・﹁あらし コ 和歌初学 抄 目 にも﹁山城﹂として﹁あらしの 嵐山は 、コ 能因歌枕しに﹁山城﹂ の嶺 ﹂が登載され、 太上大畠 花はム ﹁日 こそ宿に咲けれ み仝ロ野の 続 吉ム集 ﹁﹂春了一 00︶ ︵﹁ 後宇多院御製 仁尾 雅信 題しらず 嵐山これも吉野やうっすらん桜にかかる滝の白糸 ︵﹁新千載集口奏了一 0 五︶ あるよ う に、後 嵯峨上皇が亀山の仙洞御所におられたとき 吉野の 一︵﹁都名所図絵﹂ 巻 四︶に大悲閣があり、また、﹁惜し 巣口欣二五六公案︶等と詠まれた戸無瀬の滝が大井 いる。﹁ 智 福山法輪寺 ハ渡月橋の南にあり真言宗にして本尊は虚 Ⅲに注い 本 ﹁金 一度 の紅葉は散りはてて月照顧ぞ秋のとまりなりける﹂︵ 一 めどもよ 昆神社がある。﹁あらし山の麓に道ありて渡月橋よりセ町 ばかり その南には、﹁古事記﹂に﹁葛野之 松尾 坐大山咋神﹂と 記 きれた 桜 を 詠んだ 桜を移植したことに端を発する。この後﹁嵐山﹂の歌に ﹁桜 ﹂ が のは見られない﹂のである。 まれることになり、そのため﹁平安時代の嵐山には、 凹 院 云々﹂は、 司 都名所図絵 口 にいう ﹁亀山 春 どとに思ひやられし 咲けるを見て 亀山の仙洞に吉野山の桜をあまた移し値ゑ侍りしが、花の 山﹂とも呼ばれる。 る、大井川の右岸に位置する海抜三八二メートルの山で、﹁戸無頼 とあ 出 山在り亀山塊吉野の桜を うつし 給ひし所﹂ ︵門 都名所図絵口巻四︶ 市西京区︶にある歌枕である。﹁嵐山は大井川を帯 て北に向ふたる テ キ コトニソフ ﹂と記されてい る、山城国高野部 ︵現在の京都 と 詠 も 西 松 も 葉 で 菩薩の坐像なり 道昌法師の作﹂︵﹁都名所図絵﹂春色 が開 と ある 法 か東にある。和銅 六 ︵セ 一二% 手元明天皇の勅願で 行 基 追目︵空海の弟子︶が刻んだ虚空蔵菩薩を本尊とする。﹁嵯峨 蔵 ﹂とも呼ばれる。 コ 大和物ま出︵第九十九段︶に は ﹁大井 井川をはさん ぱ対岸には小倉山があり、このあたりは桓武天皇 0行幸の地であった。 0 セ六 V年 十月 コ順徳 院御集 ﹂ 一 の ﹁いにしへの行幸もしるし嵐山木の葉降りしくあとを見るにも﹂ 昭和肘年 和泉書院刊 Ⅱ 干︶ ︵一一六八︶や後述の コ後 拾遺集二の﹁大井Ⅲ﹂の歌のように 、 ﹁、し にしへ の行幸﹂を懐古した歌もある。 注 森木茂氏著 届注 歌枕大観山城 直 ②延喜セ ︵ 元 0セ︶年九月・・・井上著 文雄 ﹁大井Ⅲ行幸和歌 考 証口 延長囲︵九二六年 ︶十月・・・朗 追氏 徴著﹁王朝文学の考証的 研究﹂ 散文に登場した﹁嵐山﹂ 阿閉 臣事代、命を衛けて、 出で 福慶あ らむ﹂ 、﹁手人 即歌 の地 なり。 荒楳 田令嵐山とある。 此右 の残 れるなり 歌荒楳田﹂とは分注に﹁山背国 の萬野 部 ﹂ とあるの ここにい う一1 祖 拝見宿禰、祠に侍ふ。 歌荒棋 田を以てす。 歌荒櫻田は、山背国の萬野部に在り。貢使 賂主 の先 とのたま ふ。事代、是に由りて、京に還りて具に秦す 。 奉るに て、 我が月神に奉れ。若し請の依に我に献らば、 祖 高畠産霊、 預 ひて天地を鎔 ひ遣 せる 功 有します。 民 地を 以 て任那に使す。是に、月神、人に着りて語りて日はく、 ﹁我が 三年の春二月の丁巳の朔に、 天皇三年︶の次の箇所である。 嵐山が文学作品に最初に登場するのはコ日本書紀口 ︵ 第十五頭 一 幸﹂の始めとして、次の貞信公 忠平の歌が詠まれた 折 0行幸を している。 草子の帝の御供に、太政大臣、大井に仕うまつり給へ るに、 紅葉、小倉の山にいろいろいとおもしろかりけ る を 、か ぎりな せさせ奉らむ﹂など申し給ひて、 ついで くめで給ひて、﹁行幸もあらむに、いと興 ある所になむ ありけ る 。かならず奏して、 とね 小倉山峰のもみじば 心 あらば ム﹁ひとたびのみゆき待た なむ と なむありける。 かくて、かへり拾うて奏し給ひければ、﹁いと興 あるこ り ﹂とてなむ、大井の行幸といふことはじめ給ひける。 治 五八一 0 九一 V年 十月︶等の行幸があった。 ︵承保三八一 0行幸の年次には諸説あり、今は省略するが、この後も円融 院 和 二八九八六 V年 十月︶や白河院 こ 本 で 輪 生 、 幸 蔵 き 虚 空 収 の 以 銀 行 来 大 ( 寛 貫 と云り ﹂と、﹁嵐山﹂の地名はここから生じたともいわれている。 次に出てくるのは、㍉宇津保物語吹上︵下︶二であ 80 かくて八月中の十日のほどに、院の御門、花の宴し給ふ。 上 問 はせ給 達郎・親王たち残りなくま めり給ひて 、御 あそびし 給 ふ 。御門 ぼ蛾 ﹁年のうちの草木のさかり、秋のほどはいつか﹂と 日、山 ぽどになむ﹂嵯峨﹁野山のな かには ふ。蔵人少将仲頼奏す 。 仲頼 ﹁野のさかりは八月中の十 のさかりは九月上の十日の いづれかおもしろ き ﹂仲頼秦す。﹁近きほど、野は嵯峨野 ・春 日野、山は小倉山・嵐山なむ侍る。草木などは、仏生ひに生ひ たるは 、 つたなきものなり。 人ぢか にて、あしたり ふべ 撫でう し か侍ら 興あるをかしから む 野辺 嵯地 ﹁ム﹁年は、怪しく木の葉の色 深く 、 く る ひたるなむ、 姿 有様なさけ侍る。花紅葉などは、 ぬものなり﹂と奏す。 花の姿をかしかるべき年になむある。 に、小鷹入れて 見 ばや﹂と宣はす。 花の宴の後、嵯峨院は仲頓 に草木の一番美しいのは﹁秋 ﹂ならい つ頃 かとお尋ねになり、 仲頼 が返答申し上げた後更に、 ﹁野山で風 仲頼 はその 質問に対し 情 があるのはどこか﹂と行楽地としての名所をお尋ねになられた。 結局は紀伊国吹上に行幸が決まるのだが、 て、身近な所では﹁野は嵯峨野・春日野、山は小倉山・嵐山﹂とお 答えした。ここにあげられた四箇所の内﹁嵐山﹂以外は、﹁手淫保 物語 口以前の諸作品に次のように詠まれた歌枕である0 寛平の御時、蔵人所のをのこども嵯峨野に花見むとてき か ﹁嵯峨野﹂ りたりける時、かへるとてみな歌よみけるついでによめ 平定文 ︵ョ臼ム﹁@已秋 上二三八︶ 花 にあかで何かへるらむ女郎花おほ かる野辺に損なま しものを ﹁春日野﹂ 春日野の山辺の道をよそりなく通ひし君が見えぬころかも ︵﹁萬葉集﹂ 巻四五一八石川郎女︶ 夕立の雨 うち降れば春日野の尾花が末の日露思ほゆ ︵﹁萬葉集﹂番一 八三八一九小鍋 王 ︶ ︵﹁百ム集 ﹁﹂奉上 一セ @ よみ人知らず︶ 春日野は今日はな焼きそ若草のつまも こもれりわれも こもれ り ﹁小倉山﹂ タ されば小倉の山に鳴く鹿はム﹁夜は鳴かず寝ねにけらし ︵﹁萬葉集﹂ 巻八一五一一樹本天皇︶ 員之 朱雀院の女郎花合の時に、女郎花といふ五文字を句のかし らにおきてよめる 小倉山峰たちならしなく鹿のへにけむ秋を知る人ぞな き 一一 " このように、 き 歌枕で ︵﹁古ム﹁集﹂物名四三九︶ 門萬葉集目やコ百ム﹁集目等に詠まれた名高 ある。しかし、﹁嵐山﹂は後述するように勅撰集では ﹁拾遺集﹂が 頼 しらず 四 拾遺集二の二百 が 最初である。 は、先述のように コ ㈲ よみ人しらず そ れは和歌の 嵐が 吹く荒涼とした山山 |山が詠まれている。そし て、 ﹁あら 一一 0 五︶ 初出の、この当時まだ詠まれていない地名であった。 ヒ等 の物語にも 訪問者のい の根底にある。﹁山風﹂の吹きすさぶ昔、松虫︵人 ﹁待 つ﹂との 掛 ︵ 秋 みならず、﹁伊勢物語﹂・﹁大和物語﹂や﹁源氏物語 ぞ かなしき 見えず、ただ﹁枕草子﹂の排水,前田家本・能因本に、 ﹁山は﹂の いふらむ﹂︵コ舌ム﹁巣口秋千二四九︶という文屋康秀 の歌が発想 しの山風﹂には﹁吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐 と とふ 人も ん﹁はあらしの山風に人まつ虫の声 段 に掲載されている︵三巻本には未 掲載︶のみである。 堀本の本文 ︵一三段︶をあげる。 詞︶の鳴き声 、 そ う いった聴覚上のわびしきとともに、 ない﹁嵐山﹂が詠まれている。﹁あらし﹂には﹁嵐 ﹂と 、 訪ねて 来 山はなぐる 山 。みかき 山 。このくれ 山 。いわたちや ま 。 わ すれ 山 。⋮⋮三輪の山。まちかねやま。たまさか山 。 み しなし 散 り侍りけれ 右衛門督公任 ︵欣一一一0 ︶ と異同がある。この第四句の異 人 ぞな き 一二 0︶では第四句が﹁ ちる 紅葉ばを﹂ とあり、初句・第四旬に司拾遺集ロ 法輪寺にま ぅ で給ふ 時 、嵐山にて 拾またきイ 朋朝朗嵐の山のさむければちる紅葉ばをきぬ とあり、また、﹁公任集 ﹂にも、 同じ歌が﹁拾遺抄﹂︵ 秋 朝まだき嵐の山のさむければ紅葉の錦きぬ人 ぞな き ㈲嵐の山のもとをまかりけるに、紅葉のいたく る人も ム﹁は﹁あらじ﹂とが掛けられている。 巻之 四十六﹂︵昭和5年内外 山 。あらしやま。 か づら き山 。をし ほ山。 き びの中山。 位 やま。 注 ①飯田武郷 著 ﹁日本書紀通釈 書籍株式会社︶ 拾遺 ②﹁嵐山 老云 。⋮⋮国史はさらなり。高菜古今後撰集等の歌に もみえす。小倉山の歌は彼是見えたり。︵嵐山の歌は︶ 集 に至 て始て 見ゆ﹂︵ 注 ①︶ 三八代集における用例 ﹁嵐山﹂は萬葉集には一首も出ていない。嵐山が勅撰集に出るの が生じた経緯については コ 袋草子 Lが次のように述べて いる。 拾遺 撰支持、公圧抑 チ ルモ ミヂバヲキ ヌ人ゾナキト 云 % ヲ 詳しい。 ひとと せ、入道殿の大井Ⅲに遭遥 せさせたまひしに、 作 文の 船 ・管弦の船・和歌の船と分たせたま たまはすれば、﹁和歌の船に乗りはべらむ﹂とのたまひ て、よ 、その道に た へたる 定Ⅱ 花山院 モミヂノ ニシキ 、 ヌ人ソ チ キト 直テ可ノ入芝山有 二脚 を 、入道 殿 、﹁かの大納言 ロ、いづれの船にか乗らるべき﹂との 人々を乗せさせたまひしに、この大納言殿 のま め り た ま へる 宅 人諸事 如 。此 。父兄 歌 善悪 昔ョリ難 。弁事也 。シカ レバ 口条 大網 不 。可 。恭之由枝。申ヶレバ 、如 。本エテ コソ被 。入 タル 二、近代 之 宮様々 書ヲ撰 ルニ、 以呂或歌 入 。之 、以 与或歌-入 。 彼 。 就 。中 、 み給へるぞかし、 小倉山あらしの風のきむければ紅葉の錦きぬ人 ぞな き は かりの 御 みづか ら @ 、 申し ぅけたま へる かひ ありてあそばしたりな。 ﹁紅葉の錦 任歌 の問題の箇所を のたま ふ なるは、﹁作文のに ぞ 乗るべかりける。きてか 口惜しかりけるわざかな。さても、殿の、コいづれにか と 思ふ﹂ 詩 なっくりたらましかば、名のあがらむこともまさりなまし。 公任 が固辞したとい, ヮ のであ 司拾遺集 ﹂の歌 とのたまはせしになむ、われながら心 おどりせられし﹂ とのた ま ふなる。一事のすぐるるだにあるに、かくいづれの道6% け の衣を着ていると趣向の面白さを狙ったものであり、 思考過程 単 純 な国 道長が 嵐山の麗を流れる大井Ⅲに道逸に 行った時、﹁作文 ・管弦 出で給ひけむは、いにしへも侍らぬことなり。 果 関係で論理付けする百ム﹁集の発想から脱した複雑な 公任は ﹁和 和歌﹂の三つの船のどれに乗るかということになり、 に乗るべきだったと後悔した、著名な﹁三船の才﹂の逸 話 である。 歌 の船 ﹂に乗って、﹁小倉山﹂の歌を詠んだのだが、﹁作文の船﹂ 、分析しておられる。 歌 嵐山﹂は この同大鏡 L の﹁小倉山あらしの風﹂という歌 だと、﹁ 五 この歌を公 任が 詠んだ事情については次の﹁大鏡・ ︵頼忠 広 ︶に 80 を 示しており、 五句の二重否定の文章構造も趣向を活か してい 紅葉が人に散りかかるのを、早朝の肌寒きの中で皆の人 が紅葉 構造を 、 後の歌との配列の問題﹂からであるとした上で、 拾遺集仁の改変の原因は、 ﹁おそらく 。小町 谷照章 氏は 、この コ ぬ人ぞな き ﹂と直そうとしたが、 ﹁拾遺集目編纂時に花山院は公 ﹁袋草子L にい う ﹁拾遺﹂とは コ集ヒ を意味しているの であろう 自作 ハ善悪方 難 。弁事也 。上手 モ愁歎。 同 が き る 煎 の ふりしく 麓 より 鹿 すむ宿を思ひこそやれ﹂︵ 司拾玉集目 五一五三︶ / Ⅱ " @" に直接詠まれたのではなく、﹁嵐 ﹂との掛詞として詠ま れたことに 俊恵法師 ︵﹁千載集﹂秋千三 セ 0 ︶ ︵五九一︶に﹁歌体 苑人々大井Ⅲにまかりて、十月 は かりに 歌 よみ侍りしに﹂とあり、作者俊恵はその代表者で、この歌 笹 ﹁枯葉 ム﹁目見れば嵐の山は大井Ⅲ紅葉吹きおろす名にこそあ り けれ ㈹大井川に紅葉見にまかりてよめる にも見える。 御製 承保三年十月、 ム﹁上、御狩りのついでに、大井 川 に行幸せ なる。 の させ給ふによませ給へる 大井Ⅲ ふるき 流れをたづ れ来て嵐の山の紅葉を ぞ 見る ︵﹁後拾遺集﹂冬二 一セ九︶ 前章で述べた、承保三年十月二十四日、白河天皇が御 狩 のついで は ﹁道道歌会主催者の挨拶の歌﹂である。﹁嵐山﹂とい は ﹁嵐山﹂と﹁ 嵐 ﹂とが掛けられている。 ㈹大井Ⅲにまかりて、紅葉見侍りけるに藤原 が 掛けられている。 ︵﹁新古ム集 ﹁ ﹂ 秋下 五二八︶ 造遥に 行って紅葉を鑑賞した折の歌 で、嵐が ね﹂︵ コ小 大君 集 l﹂一五八︶等が見られる。﹁嵐の山﹂に﹁嵐 山 ﹂と﹁ 嵐 ﹂ ﹁散りまが ふ嵐の山の紅葉の ゑ心 つくさぬときのなきか 力吹きすさぶ嵐を連想させるために気を探むという発想の歌﹂には⑥ 紅葉を吹き下ろすことを懸念した歌である。このよう な ﹁嵐山の名 この歌も、大井Ⅲに 思ふことなくてや見まし紅葉ばを嵐の山の麓ならずは 輔 尹朝臣 たのだと、﹁ 嵐 m ﹂の地名の由来を歌い寿いでいる。﹁嵐 の山 ﹂に ぅ 名前は 、 に大井Ⅲに行幸きれた折の御歌である。﹁ふるき 流れ﹂ とは先述の 大井Ⅲに紅葉を吹き下ろす山風の﹁嵐﹂ということか ら名付けられ の紅葉が ﹁小倉山峰の紅葉ば らあらば﹂の藤原忠平畝が 詠まれた 、宇多法皇 嵐 ﹂が掛けられ、﹁嵐山﹂ が 大井川に行幸された時のこと等を指す。 ﹁嵐の山﹂には﹁嵐山﹂と﹁ 藤原頭 仲朝臣 詠み込まれている。後述の実方の歌﹁風はやみあらし の山の紅葉 は もしもにはとまるものとこそ聞け﹂が響いている。 ㈲鹿の歌とてよめる よのなかをあきはて ぬとやさを鹿の今はあらし山に鳴 くらむ 一一二六︶ 秋 ﹂とが、 また、﹁嵐 ︵﹁金革 窪呆 ﹂秋 掛詞が多く使われ、﹁あき﹂に﹁飽き﹂と﹁ 対時す る ﹁小倉山﹂ の山 ﹂に 、㈲と同様﹁ 嵐 ﹂と今は﹁あらじ﹂とが掛けち れている。 ﹁嵐山﹂の鹿が詠まれている。大井Ⅲをはさんで の鹿は貫文歌を前章で引用したが、﹁嵐山﹂の鹿は、 ﹁嵐山木の葉 いたく吹き 皇太后宮大夫竣成 ㈹母の思ひに侍りける秋、法輪にこもりて、嵐の ければ セ 九五︶ ﹁嵐 ﹂には 法 輸寺 に籠も 公哀傷 うき 世には今はあらしの山風にこれやなれゆくはじめなる らむ 保延 五 ︵一一三九︶年に没した母の喪に服すため、 った折の歌である。﹁山風﹂には﹁嵐 ﹂の意が含まれ・ ゐて 侍りけ る を 、人のとひて侍り ければ ㈲と同様に今は﹁あらじ﹂が掛けられている。 ㈲山里にこもり 法印 静賢 思ひ出づる人もあらしの山の端にひとりぞ 入りし有明 0月 ︵ 雑上一五 0 五︶ 嵐山の里に寵もった折、予期せぬ人の訪問に対する挨拶の歌であ る。﹁人もあらしの山﹂には﹁嵐山﹂を 、㈲・㈲と同様私のような 7 月︶ 昭和 甜午 6@ コ十訓抄 ニ ・﹁体源抄口 等に見 ①﹁拾遺集の公任の歌﹂︵﹁常葉国文﹂ 者を思い出してくれる人も﹁あらじ﹂が掛けられているっ 注 ②同様の話は﹁古今著聞集﹂・ こ の公 00 ︶には﹁紅葉 き し公 任の君にくからずかかるこそでもあらし山には﹂と、 える。また、﹁明日香井 葉二︵一四 任を讃 えた歌がある。 ③固有名詞の﹁小倉山﹂としてではなく、﹁木のこぐる く 繁 っ た﹂との解釈もある︵﹁日本古典文学大系大鏡﹂昭和 % 年 岩波書店刊松村博司氏校注︶。 + W 店﹁ ④﹁新日本古典文学大系後拾遺集﹂︵平成 6年嵩 波 ま目 久保田淳・平田喜 信氏 校注︶ ⑤﹁新日本吉井文学大系千載集﹂︵平成 5年岩波 圭目店刊 片野達郎・松野陽一氏校注︶ ⑥竹島 績氏 校注﹁小大君集注釈﹂︵平成元年貴重木 刊 村会刊︶ 口実方集の﹁嵐山﹂ 00 . 茂木︶五 。六 実万集には、﹁嵐山﹂を詠み込んだ歌が一首ある︵引円本文は宮 内 庁書陵部 蔵 ﹁実方朝臣 集 ﹂一五 中宮宰相看、上にのみきぶらふを聞きて、恨みて 柵風 はやみ嵐の山の紅葉はも 下にはとまるものとこそ聞 斗ソ 中宮宰子にお仕えしている宰相の君 ︵藤原重輔の女︶が薔の御 前にばかり伺候 しているのを聞いて、あの﹁嵐山﹂の紅葉でさえ、 ⑦ 竹鼻 下 に止まっているのに、あなたは全く退下しないのですね、と恨み 言をいったので ある。﹁ 嵐 ﹂には﹁嵐山﹂がかけられている。 氏は、この﹁あらし﹂に﹁荒々しいの意の コあらし 口 を掛ける﹂と 指摘されている か、﹁ 嵐﹂そのものに既に﹁荒々しい風 ﹂の意が込 セ 氏 / められているので採らない。﹁風はやみ﹂に、後藤祥子氏は ﹁伊勢 んだ歌である。 とが多かった﹂と指摘があるように、その大半は﹁紅葉﹂を詠み込 麓 ﹂を詠み込むこ た ﹁拾玉集目 とである。 ︵﹁秋篠月清集﹂五四 さ ︵﹁堀河百首 侍従 柏 家︶ か蛆﹂ 某 八五二瓶 箱 ︶ 降 たかき嵐の山の紅葉ばは餌の里の錦とぞ 見る ︵﹁永承四年内裏歌合紅葉﹂ 八 ︵﹁拾玉集﹂四一 セさ 冬 かいな木の葉 梢に 嵐山劃の里の松の夕風 山家暮嵐 麓 ゆく ゐ せきの水やこほ ろらむひとり昔 する嵐山かな ︵南海漁父百首多士官︶ この他には、次のような歌がある。 ︵五一五三︶のような山頂に対する﹁ るが、このような流れを汲むのが先の㈹や三章で引用し 実方の歌は、詞書の﹁上﹂に対して﹁ 下 ﹂が対応して 詠まれてい 物語﹂の﹁天雲のよそにのみしてふることは我がめる山の風はやみ なり﹂二九段︶の影響を指摘し﹁女が男にひどくあた る 、あなた 御指 摘 のよう はわたしにそっけない﹂との﹁寓意﹂を考えておられ る。串本 は 貴重木刊行会刊︶ 風き むき﹂では意味が 不通である。 ﹁風はやき﹂との本文であるが、この方が竹舅氏の に 、意味が通じやすい。百本の﹁ 注 ①﹁ 実万集注釈﹂︵平成5 年 ② 注① ③﹁新日本古典文学大系平安私家集﹂︵平成 6年若 波 書店 U 丁・ ︶ 昭和㏄年 3 月︶を参照頂きたい。 ①﹁ 実万集﹂の校異については、拙稿﹁校本実万集1 ﹂︵日出 逼迫﹂ 第 PD 号 私家集の﹁嵐山﹂ ⑤ 注① 五 また、実方の歌には﹁風﹂が詠まれているが、﹁風 ﹂ が 詠まれた 歌 としては、先の㈲・㈲や右の﹁冬 かいな﹂︵ コ拾玉集 L ︶の他、 先に引用したコ中津傑物語目 でも﹁秋﹂の名勝地と して﹁嵐山﹂ の名があげられていたのは、実方・分任が詠む以前か ら ﹁紅葉﹂の 次の歌がある。 ︵雪を︶ 名所として周知の地であったからであろう。﹁嵐山﹂の歌は、﹁ 公 任の日朝まだきL が有名で、その後も紅葉の名所としてよまれるこ ︵司頼政集ロ二八八︶ の ふみわけてこゆる嵐の山風に梢の雪はまた降りにけり ︵名歌千首︶ ︵向山家集二五六一︶ 夜もすがら嵐の山に風さえて大井の淀 に氷を ぞ しく 注 明治書院 刊 ︶所収の﹁ 龍 ①片桐洋一氏著﹁歌枕 欺 ことば辞典 口 ︵昭和田牛角川書店刊︶ ② コ 私家集大成中古Ⅱ﹂︵昭和㏄年 宇ヂ ニアリ﹂ 、 ﹁八雲脚 源三位頼政美﹂には﹁あ ら ちの山風﹂とあるが、 ﹁朝日山﹂ ﹁続 国歌大観﹂の本文に従った。 門 文庫 蔵 六 朝日山は、日和歌初学抄 L には﹁山城 抄口 には﹁山城宇治 世 ﹂と記されているよ う に、山城国宇治郡、 越前の歌枕 と 今の京都府宇治市にある歌枕である。後述のように コ夫木和歌抄﹂ では﹁あき日出、朝日、山城久近江越前﹂と、近江、 してもあげているが、この指摘について安田純生民は、平安朝の和 次のような 0 一︶の同老若 五 千首 歌 敵 に使われる﹁朝日山﹂は山城国のそれであるとして、 見解を述べておられる。 ﹁越前﹂とあるのは、建仁元年︵一二 合 L で朝日山を歌った作者の名、越前を誤ったもので問題にな らない。また、近江国の朝日山は、仁治三年︵一二四 この 人 嘗ムム で悠紀の国の風俗歌として詠まれてから知られるようにな 侍 りし に︶ ったもの ﹁近江﹂の﹁朝日 山 ﹂は、 ﹁︵大嘗会の悠紀の歌奉れと 朝日 寛治二年引 同 目染 急 朝日の里﹂︵﹁ 能宣集 1﹂二四三・﹁ 堀洞院悠紀方 雨音て一 0八セ色子時 為左大弁近江風俗歌千首︶ 0車﹂︵﹁ 江 肺葉﹂ 三セ 三︶等にある﹁朝日の里﹂を﹁朝日の山﹂ として﹁近江﹂と記したのであろうか。 ﹁拾遺都名所図絵﹂︵ 巻 第四︶に 、 朝日山離宮八幡興聖寺などの後山をい ふ 宇治 里 よりの東に して 此峯 より朝日出て春の日の遅々たるを知る文中秋にも月を賞 して清 光 Ⅲの 面照そ ふけしき銀色三千界の面影なるべし とあるように、宇治Ⅲの東にあり、この山峰より朝日が出て他の山 より早く照らされる︵名前の由来ともなっているのであろ う ︶。 応 菟道稚郎子︶ 神天皇の皇太子菟道稚郎子の墓があり、山麓には﹁延壺目式 ﹂︵神名 帳 ︶に﹁宇治神社二座﹂と載せられた宇治神社︵祭神、 と宇治上神社︵祭神、応神天皇・仁徳天皇・菟道稚郎子︶がある。 に載っているのみである 可 萬葉集 口 にはその用例がなく、八代集においても次の 一昔が、 刊 新古ム﹁集目︵秋千四九型 九 堀洞院御時、百首歌奉りけるに、霧をよめる 権大納言公案 麓 をば宇治の川霧たちこめて雲居に見ゆる朝日山かな 一O ㎎朝日山麓をこめてゆふだすき めけくれ神を祈るべき ︶ 力え よ 実方朝臣 実方のこの歌は﹁夫木和歌抄﹂︵巻 第二十 雑部二八 セ 四九︶に あさ日出、朝日、山城久近江越前 家集 である。中心歌題は﹁霧﹂︵歌によると﹁宇治の川霧﹂︶である。 地歌 は、住吉の明神の御歌となん 朝日山麓をかけし の ふだすき めけくれ春を祈るべきか 堀河天皇在位中の康和年中に倦 きれた﹁堀洞院大部首首L の一貫 ﹁袋草子﹂︵雑談︶にこの歌の詠作事情が明らかにされ ている。 として所収きれ、又、同抄 春男コ一十四難部十六二六 0 五五︶にも ﹁朝日山の神朝日山のふもとに神祭するところ﹂との 詞書で重複 公案卿歌云、 フモトラバ宇治ノカハギリタチコメ三雲井手 ミユルアサ して収録されている。 八二六三︶では、 左 往 に﹁ 右 朝日山麓にて神祭するところ屏風絵﹂と記しこの歌が屏 風 歌である ﹁歌枕名寄﹂︵ 第甘口一東 m 部二 ヤ 7カナ 自歎 云、是 ハカハギリノフモトヲコメテタチヌレバトイフ歌ヲ 盛世。歌ハ如。此可レ盗也云々。誠以有。興 云々。 ﹁朝日山﹂の麓で﹁神祭り﹂しているところを見て︵ 屏 風であっ 可能性を指摘している。 ぬれば空にぞ秋の山は見えける﹂︵ 門 拾遺集﹂秋ニ 0 二︶の歌を たとしても -詠んだとあるが、先に述べた宇治神社・宇 治山神社の 公案自身﹁麓をば﹂の歌は、清原深養父の﹁同義の麓 をこめて立ち ﹁盗﹂んだ ︵﹁本歌﹂にした︶ことを﹁有興﹂と自慢し ている。公 この歌について、 竹 舅氏 は、﹁朝日山を詠みこんだ歌は実方以前 ことを指すのであろうか。 素材は先述のどとく川霧であり、﹁Ⅲ﹂との対比で、空 に浮かんで にはないようで、現存する歌ではもっとも早い時期の詠作 である﹂ 実が本歌にした深養父の歌でも、また、詞書においても、歌の中、 廿 見える m として﹁朝日山﹂は詠まれ、﹁朝日﹂の明るく映える山の と指摘しておられる。﹁雲葉集﹂︵真三一九︶に、﹁ 題 知ら。 す ﹂と して、 早苗とる袖はな ほ こそ し を るらめ朝日の山の麓なれど @ イメージで歌われている。 コ実万集しには次の一昔 が詠まれている。 朝日山の麓に、神祭りたるところ が 詠ま とい ぅ藤原道信の歌が収録されていて、﹁同じ機会に謙作き れた﹂ 竹 舅氏 は、 可能 性も考えられる。実方・道信のこれらの歌が﹁朝日山﹂ の歌の修辞について、 ね た最初の歌である。 . 令 @ ハ @ 。 0明け暮れ| ﹁朝日山 ﹂ の ゆ ふたすき | ︵省略︶﹁ 神 ﹂の縁語。﹁ ゆふ ﹂に﹁ タ ﹂ を 掛け、 ﹁朝日山﹂の﹁ 朝 ﹂と対語をなす。 ﹁ 朝 ﹂と﹁ ゆふたすき﹂の﹁ゆふ ﹂とに対応させていっ と、 述べておられる。実方の歌と同じく﹁朝 ﹂と﹁ タ ﹂とが 対 をな して 用いている歌は 、 宇治略に花見にまかりたりしに、人のもとより、いく とき はに りにかⅠ り し とへ は 朝日山ゆふ みちし こそ帰りしか花の匂ひの飽かざりしかば ︵﹁行尊大僧正 集 ﹂ 一三四︶ か め り 、﹁ 昼 ﹂・﹁ 暮 ﹂・﹁ 夜 ﹂との関係では、 | ︵﹁山家集﹂三五九︶ 天の原朝日山よりいづればや月の元のひるにまがへる⑥ 朝日山といふを見て うちはへて朝日の山の山人は暮るるも知らずながめをぞ する ︵﹁遺命阿 閉架 集 ﹂一二 0 ︶ 長元八年夏、関白 殿歌合千首産月 ︵﹁能因集工 ﹂一五九︶ 月影の夜とも見えず照らすかな朝日の山を出でやしぬらむ 殿、宇治にて和歌会せさせ給ひしに河水入 清 あかねさす朝日の山をとめ て落つる水は夜々にも曇らざりけり ︵﹁大宰大弐 重 家集﹂四五二︶ 俊綱 宇治政に渡らせおはしましたりしに、侍ひあ は れ を口惜し かりて、讃岐よ り参ら せたりし 神無月朝日の山も うちしぐ れム﹁や紅葉の錦織るらむ 返し 清見れば朝日の山も紅葉は 6 夜の錦の心地せしかな1 ︵三宮紀伊集﹂二三・二酉 一︶ また、﹁朝日山﹂の﹁麓 ﹂が 詠まれた歌としては先に引用した ﹁新古ム﹁集 ﹂の 公実の歌の他に 、 次の顕輔の歌がある。 永久四年四月四日、鳥羽殿 歌合、卯の花 朝日山麓の里の卯の花をさ らせる 布 と思ひけるかな ︵﹁左京大夫 顕輔卿集ヒ た ﹂が 顕輔が ﹁朝日山麓の卯の花﹂ 安田氏は、﹁ 顕輔の歌以前に は、和歌の世界において朝日山と卯 の花とは結び付いてはいなかっ を詠むきっかけになったのは、 実方の歌を媒介として卯の花の咲く朝日山の麓の景が思い描か 一一 れたはずである 。木綿の見える山里のイメージは、そのまま卯 名寄﹂︵第十三東山部 二︶は、実万の歌と共に近江の国の 朝日山の木綿と連想され、実方の歌の存在が、朝日山の卯の花 の 注④ ⑥ 注① ﹁朝日山﹂に道信の歌と して収録している。 を詠むきっかけとなり、同時に顕輔 なりの根拠ともなったかと ⑧﹁私家集大成中世1﹂ ︵昭和的年明治書院 刊︶所収の コ陽 の花の咲く山里 のイメージと重なる。つまり、卯の花ヰ木綿上 推測されるのである。 明文庫 蔵 (よの 昭う三 つ お てが 、 る 山家集﹂︵久保田淳氏 編コ西行全集し 山家集﹂等に は﹁あさるやま﹂となっているが、 と、顕輔の念頭には先の実方の歌が存在していたことを指摘してお ﹁松屋本書人六家集 本 い。 釈が ) ⑨ 注① 文を採った。 昭和 研年貢重木刊行会 刊︶では﹁朝日山﹂とあり、この木 られる。 このように実方に よって歌枕として詠まれた﹁朝日山﹂は特に平 安朝後期から歌枕 として定着していった。 注 ①口歌枕試論口 ﹁朝日山の卯の花﹂︵平成4年和泉書院 刊︶ い 第 上 こ n-. の 第 ②﹁広島大学 蔵 詞花和歌集注口に﹁︵霧をよめる︶春宮大夫 解 子 本 清 秋 津 人 輔 ⑤現存の口道信 集口 にはこの歌は収載されていないが、 れ つ 男 と 書 え ら ナこ f育 に 和 49 年 夫 車 様 が 考 公案﹂として この歌が入集している︵コ新編国歌大観 ぅ ④﹁ 実 万集注釈 口 ︵平成5年貴重木刊行会刊︶ ③ 一巻勅撰集﹂昭和 穏 牛角川書店刊︶。 校 氏 刊 枕 い 皮 は 他 三 者 い た 従 に こ こ で の は 「 」 と 歌 「 芭案谷袋 0 今 生 こ い 一 諾 と こ き Ⅱ へ た 沢 正 夫
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