第五回

ヤーコフ ・ヴァッカーナーゲ、ル著『統語論
0
についての講義 1j
] (翻訳第五回)
酒 見 紀 成 *
(昭和 6
2年 9月2
2日受理)
という O 例えば『パンティア銅板法 ~4J
X
I
I
I
.
19ρ!s c
e
u
s
B
a
n
t
i
n
sf
u
s
t)
)
q
u
Ic
i
v
i
sB
a
n
t
i
n
u
se
r
i
t (パンティアの
・・・・・......
私はラテン語の孤立的な観察が他の諸言語における
.
.
.
市民となる者は誰でも) t 或いは『アベッラとノー
52p
i
de
ぬe
it
h
e
s
a
v
r
e
ie
e
s
t)
)
q
u
i
d
q
u
i
di
ne
o
と同様不利に作用するということを二三の納得のゆく
ラの協定~
例で示すことが方法論上重要であると思う。
t
h
e
s
a
u
r
oe
x
t
a
t(その貯蔵所に存在する物はすべて) ~
第一にクロルは同系のイタリック諸語から僅かしか
(これに対して 4
8以下の thesavrumpude
s
e
it
e
r
e
ii
s
t
q
U
Ii
ne
ot
e
r
r
i
t
o
r
i
凸e
s
t (市のその領域に
、 彼はラテン語の関係文の発生につ
教訓を得ていな L。
~thesaurum
いて論じた『グロッタ』第 3号 1ページ以下の論文同
ある貯蔵所を)([では
様,ここ〔クロルの前掲書『ラテン語の授業における
p
i
s
,p
i
dはラテン語の q
u
i
s
,q
u
i
dに対応する。この事
科学的統語論 ~J でも古代ラテン語で頻出する関係詞
実,それについてはバックの『オスク語とウムブリア
qu
お,q
u
i
dが古典期のラテン語で不定代名詞となった
語の文法~
l
l,q
結合 q
u
i
s
l
u
b
e
t
,q
u
i
d
l
u
b
e
t
u
i
d
v
z
s(
1任意の人,何で
u
- 形態の歴史およ
れを是認することがラテン語の q
もJ
) において生き続けていることを指摘している O
びラテン語の関係文の解明にとって重要である C
2
1
も,これが中性の q
quwzs
u
i
d
v
z
s に対応する限りで
は,d
w
e
n
d
e
r
e が ※d
i
s
v
e
n
d
e
r
e に基づくように,より
ρud が使われている J
)。実際
1
4
4ページを参照していただきたいが,そ
またギリシア語についても我々はクロルが行なった
以上に考慮しなければならない。ここでは再び格論の
u
i
s
v
おに基づく。ところでクロルは q
u
i
sと
古 い ※q
問題を論評 Lなければならない。あなた方も恐らく学
q
u
z がもともと無差別に用いられていたと考えてい
校で「切望した,精通した,覚えている,関与してい
る。しかしそこではまずラテン語の事実の観察に正確
る,意のままにする,いっぱいの」としづ意味をもっ
u
i
sと q
u
i
dは関係詞として用いら
さが欠けている。 q
形容詞は属格を支配すると L、う規則を学ばれたであろ
れる時は常に「およそ
である人(物)は」という不
定関係代名詞としてしか存在しな L、。例えば『ラティー
ニ一人たちの祝祭日の規定~
加
b25ρe
166
c
u招 iam q
u
i
s
n
x
i
t
u
r(
写 本 は 叩a
n
c
i
t
o
r
),h
a
b
e
ω「偶然にお金を得
た者は誰で戸もそれを受け取るべし J
,或いはカトーの
『農事について ~3J
147d
ominusv
i
n
oq
u
i
dv
りたtj
白c
i
e
t
う。クロルは 2
8ページ以下でこれを扱い ,memor (
1記
憶している J
)や
ρl
e
n
u
s(
1充たされた J
) と共起する
属格と,それらに対応する動詞と共起する属格とが互
o m
eminz
い に 関 係 が あ る と 述 べ て い る の は 正 し L、
(
1思い出す J) はそれのギリシア語やドイツ語の同義
s はカト語と同様ラテン語でも属格を支配し ,
p
t
,初 u
「主人はそのぶどう酒を自分の思いのままに処理すべ
8
8, 1i
n
p伝t
oa
q
u
a
ep
u
r
a
e(
1澄んだ水で満たされた J
)
l
i
b
e
tと v
z
sをもっ不定代名詞もここに
や,ギリシア語が印欧祖語から受け継ぎ π
t
μ
π)
.
1
1
μ
t
し」。上述の
入る O 一一そしてこれが偶然ではなく,我々は出典が
(
1一杯にする J
),πuωc (I~ で一杯の J) ,
i
/
.
lπ
λe
/Oc
ラテン語に限られているからと言って惑わされてはな
(I~ で一杯の J) において用いる属格と合致する。 (1 一
らないということがオスク語とウムブリア語から明ら
杯の」を表わすもう一つの形容詞
かになる。ここでは通常の関係代名詞の主格形は男性
でぎっしり詰められた」と L、う意味であるので,奪格
・であり,女性はオスク語で ρ
'
a
,i
がウムブリア語で ρw
をとる c やがてこの二つの形容詞の構文は混同され
I
う
a
e と言い,中性はオスケ語で pud
,ウムブリア語で
μt
'
f
eとなるが,これはラテン語の q
u
i
,q
u
a
e
,q
uodに
p
e
r
U
u
s(
1経験のある J
) に生じる属格をそれが属する
refertus
は本来 I~
u
p
i
d
u
s (
1熱望している J
)や
た。)しかしクロルは c
ぴったり対応する。それに対して不定関係代名詞の主
u
p
z
d
o と p
e
r
z
c
u
l
u
m から導き出し,従って
実詞 c
i
s
,p
i
d
,ウムブリア語で p
i
s
,p
i
'
f
e
格形はオスク語で p
G
e
n
e
t
i
v
u
sa
d
n
o
m
i
n
a
l
i
sC
名認を修飾する属格〕と解
*外国文学語学教室
- 3
3
そうとする。しかし α
ψi
d
u
s は ωp
l
d
oから形態上遠
らない。f71]えば f
ungor 1
~に取り組む」は古代ラテ
ρe
r
l
f
u
s は語源的な同系性にもかかわ
μηculu拙 か ら 遠 く 隔 た っ て い る
れるが,古典期では周知の学校文法によれば奪格と組
(
μnculumは実際「試み,冒険」と L、う意味である o
み合わすのが普通である(ただしネポース 5) や白銀時
p
e
ηc
ulum f
a
c
e
r
e [1試験する J
J という言い回しを参
)。クロルは
代の作家たちは再び対格を〔用いている J
く離れており,
ン語‘では対格と,そして(まれに)奪格と組み合わさ
らず概念的にも
照)。またある形容詞が,そこから派生してはいない
2
6ページでこの奪格は露。 (
1使用する,楽しむ J) と
1関
実詞の構文を受け継いだり,また例えば仰げたφs(
組み合わされる奪格の模倣であると仮定しているよう
),
e
x
p
e
r
s(
1関与しない J
)が p
a
r
s(
1部分 J
)
与している J
に恩われる。もしかしたら露。のこのような影響は考
から構成されるのと異なり,複合語の要素ではない実
えられるかも知れない(テレンティウス 6) の『兄弟J
詞の構文を引き継いだりしたということも全く考えら
6
6
6行の i
l
l
aωn
s
v
e
v
i
tp
r
i
o
r(
1あの娘とさきにまじわ
ρl
e
n
u
s についてわかって
っ た ( 男 の 方 は )J) を 参 照 ) 。 し か し そ の 動 詞
ψi
d
u
s と ρe
r
l
f
u
sに生じる属格も
いることに従って α
びungorJ は実際ある幾つかの構文と共に受け継がれ
動詞起源であると考えなければならない。そしてその
たものであり,もし我々がそれに対応する古代インド
グと
れな L、。我々は memo
見込みはプラウトウスの
φiuntt
u
l1
(まともな市民
語の動詞,やはり能動形欠如動詞で, I~ を楽しむ,
c
l
享受している Jを意味する b
h
u
j
- (現在形は b
h
u
n
k
t
e
)
Wほら吹き兵
の女どもが1i那に夢中になっている J (
士~
9
6
4
) という言い回しにより,的中したことがわ
が昔から対格や具格と組み合わされてきたのを見れ
かる O 以前は人々は誤ってそこにギリシア語風の表現
ば,我々はこの二通りの構文を祖語から相続されたも
を見ょうとしたが,プラウトウスにはギリシア語風の
のと見倣し,従ってラテン語においてもこれを後代の
統語法は見られな L、。またケロルはこの属格を c
u
ungor と b
h
u
j
転用とみなすことはないであろう。 f
ρiens+属 格 か ら 導 き 出 し さ ら に こ れ を , 我 々 が た
の同一性については二三の学者が異論を唱えている
u
t
l
d
o に基つくとされる
った今見たようにそれ自身 c
が,しかし双方の屈折は著しく似ており(能動形欠如
c
u
ρidus+属格から導いたが,これも同様に誤りであ
動詞であることと,鼻音の接中辞をもつこと),また
u
るO 転用はやはり考えられない。プラウトウスの c
この古代インド語とラテン語の動詞の意味は近接して
P
i
u
n
tt
u
l は真に古風な,明白な特徴を持っているの
いる。特に注目に値するのはルクレーテイウスにおい
2
5
である(デールブリュクは『比較統語論』第一巻 3
て βmgi
ページで疑っているが,これには何の根拠もない)0 1
熱
ない」を意味することがあるように
望する」と L、う動詞は祖語の時代から属格と結合する O
び I~ を償うの結果に責任を負う」を意味するこ
ギリシア語ではこれが完全に生きている。 '
i
p臼μ0//,
とである。
l
e
μ日
/
,
μ
t
μo
v
臼等の構文を思い出していただきたし、。
b
h
u
j もたびた
o
t
i
o
r は周
もう一つの場合はもう少し複雑である。 p
e
g
e
h
r
e
nは
ドイツ語もまだその名残を見せ,例えば b
知のように奪格とも属格とも組み合わされ,後者は例
erump
o
t
l
n1
権力を握っている」と L、
えば古典期の r
語源的に同系の同義語であるゴート語の g
a
i
r
n
j
a
nや
う言い回しに確かに〔見られる〕。クロルの著書の 3
e
r
e
n の属格構文を往々にして留
古高地ドイツ語の g
めてレる。
が I~ を被るを甘んじて受けねばなら
ページと 2
5ページには全くラテン語だけに関連した説
e
ηt
u
s に関しては,ホメーロ
そして p
ρo
t
i
o
r は古代ラテン語では同じ
中 εv
o
吉 伸p
μ/
y
y
o
c(
1竪琴が巧みである J)
スの buur
明が用意されている。
や o
iδ臼 (1知 っ て い る J), e
δ
&
ηv (
1知 っ た J
),
第四活用に従う「関与させる」と L、う意味の能動態を
y
/
y
v
φU Kω(1知る J) とL、う形態で頻出する属格から
持とっている。 例えば、プラウトウスの『アンピトノレオー』
C
p
e
n
t
u
sが支配する〕属格の起源が明らかになる。こ
178eumρ
o
t
i
v
i
tp
a
t
e
rs
e
r
v
i
t
u
t
i
s1
彼の父が彼を奴隷の
身分に与らせた Jがそうであり,それ故に
の構文は「知っている」を表わす動詞においては大変
古く,
1
聞く Jその他の「知覚 J を表わす動詞に生じ
ρotuus も
I~ に関与させられて,ある人の支配下に置かれて」
る属格と同類である。(その他,例えば p
r
o
d
i
g
u
s(
1浪
とL、う受動的な意味を表わすことがある。そしてそこ
) のように,動作主名詞との同
費する,気前のよい J
[
p
o
t
i
o
r
J にクロル虫、プラウトウスの p
o
t
i
se
s
t
,p
o
t
i
s
質性の故に目的関係を表わす名詞付加的な属格を取り
sim
,p
o
t
ぬs
i
t(
本来「私が主人である」の意)が示し
得るラテン語の形容詞が若干存在する。)
ossum[
1~することができる JJ に含
てし、るように ,p
まれている古代から受け継がれた実詞 p
o
的「主人」
最後にクロルはサンスクリットの助けを必要以上に
・・・...
の名詞派生語を見たのは正し L、。ギリシア語の π6σ/C
退けている。再び二三の格の構文を説明しなければな
3
4
においてもそれは「夫」と L、うやはり古い意味に狭め
照
。
o
t
i
r
e
,r
i の形成は mens (1心 J
)や
られている o p
p
a
r
sから m
e
n
t
i
r
i(1だます J
)や p
a
r
t
i
r
i (1分ける J)
が作られたのと同じである。 ρ
o
t
i
s から作られた派生
語は属格と結び付くのが普通であり r
e
r
u
mp
o
t
i
t
u
r
(
ニr
e
r
u
mρ
o
t
必e
s
t
) はこれで説明がつく。では奪格構
まず初めに我々は,不十分ではあっても,品詞の機
能ならびに品詞が現われる形態の機能について語らな
ければならな L、。私は前に,古代の学者たちがし、かに
文はどうか。クロルの試みにもかかわらず,ラテン語
して徐々に語葉を分類し,品詞を区別するに至ったか
からそれを説明するのは難しい。ここで我々の助けに
を話し,そしてよく使われる品詞の区別が古代の伝統
なるのはこの動詞の屈折の特殊性である。古代ラテン
語では第三活用に従う形態,仔Ijえば
ρofitur,
の束縛を受けて L、ることを指摘した。語業を個々の語
類に配分する例のやり方にはそれなりの正当性があっ
p
o
t
e
r
e
m
u
r
,p
o
t
e
r
e
t
uκ不定詞 ρ
o
t
iが知られており,こ
o
t
i
o
r と全
れらは名詞派生語に属するものではなく ,p
a
t
y
a
t
e(
祖語の※
く同じ意味を持つ古代インド語の p
ρo
t
j
e
t
a
i に由来する)と合致する o p
o
t
i
o
r はとっくの
昔にこれと比較されており,この ρ
a
t
y
a
t
eはまさしく
するのに如何に種々の要因が働いたかを示している。
たc しかし同時に結局非常につじつまの合わないもの
が生じてきたこともまた確かである。あなた方は優れ
た批評をパウルの『言語史の原理』第二版 2
2
9ページ
以下に見い出すであろう。パウルは個々の語類を分離
ラテン語の奪格に相当する具格を持ち合わせている。
ある時は語の意味自体が,ある時は文構成におけるそ
それどころか他にもまだあり,古代ラテン語では対格
の機能が,またある時は屈折や語形成に関するその振
o
r
も見つかる O 仔Ijえばプラウトウスの『ロパJl 324 f
t
i
t
e
rmalumq
u
ip
a
t
i
t
u
r
,i
d
e
mp
o
s
tp
o
t
i
t
u
rbonum71
舞いが〔考慮された〕。例えば全く理屈に合わないの
[
1勇敢に仕置きに耐える男には後でたっぷり善いこ
は数詞を品詞として実詞や形容詞や副詞と並べて立て
!
ることである。なにしろそれ自体に実詞,形容詞,肩J
J。全く同様に p
a
t
y
a
t
eはヴェーダにおいて
とがある J
詞が含まれるのだから。ともかく完全に論理的な分類
対格構文をとったり,具格構文をとったりする O
は不可能である c 我々としてはまず第ーにいわゆる間
つまり p
o
t
i
o
r には二つの動詞が合流しているのであ
N
i
c
h
t
w
o
r
t
) との境界にある
投詞を、それが語と非語 (
り,一つは其格的奪格並びに対格と共に用いられた第
ので除外するであろう。真の語の中には名詞と動詞,
三活用に従う古い動詞,もう一つはラテン語において
すなわち格を有する語と主語の人称を区別する語とい
o
t
ぬから派生した動詞で,これには当然、属格
新たに p
う二つの主要なグルーフ。があり,これに第三のグルー
、
が与えられた。これはそんなに奇異なことではな L。
プとして屈折しない語が加わる O
というのは ,p
o
t
i
o
r と同系の「できる」を表わす動詞
我々は名詞と動詞との聞にかなり明確な境界線を引
の諸形態は,我々がたった今見たように,一部は
くことができる C 比較言語研究の大家アウグスト・シ
p
o
t
i
s
,p
o
t
e(
中性)と動詞 e
s
s
eの結合に,一部は完全
な活用形を持っていたオスク語の古い動詞 *
p
o
t
e
r
eに
基づいているからであり,後者に属するのは※p
o
t
i
s
f
u
i から説明することができないと思われる完了形
ρo
t
u
iおよび分詞形 p
o
t
e
n
sである。この二重の p
o
t
i
o
r
とL、う仮定に立てば,p
o
t
i
o
rの屈折が第三活用と第四
ュライヒヤーは半世紀前に『サ、クセン学術協会紀要』
0号 497ページ以下において世界の様々な言語にお
第1
ける「名詞と動詞の区別」について論じ,ただ一つ印
欧語族においてのみ名詞と動詞がはっきりと分かれて
おり,他のすべての語族にはこれは当てはまらず,セ
ム語でさえ例外でないことを示そうとした c この命題
活用の両方に従って作り出した困難は取り除かれる
は非常に鋭い洞察力をもって展開されてはいるが,著
(それについては最後に『ソシュール論集』第 4
7号と
者がしばしは守二当な基準を当てはめ,余りにも形態的
3号収載のニーダ、 7<'ンの論文がある)0
第5
並びに形態の起源に関する基準に合わせて決定を下し
すぎているので,その証明は常に説得力があるとは限
らない。事実多くの言語に,他ならぬセム語にも名認
言語の科学的な取り扱いの授業への導入を目指して
いる最新の研究のうちで,特に推奨に値すると思われ
と動詞の二元性は存在しこれは言語表現の方法にと
って本質的なものである。
るのは F,ホフ 7 ン81 の本「言語学に基づくラテン語
しかし二つの理由から名詞と動詞の聞にとても深い
の授業Jl (
19
14年)である。この本については『グロ
線を引くことはできない。第一に,実際どちらかと言
ツタ』第 8号 3
0
7ページ以下のクロル〔の書評〕を参
えば名詞と動詞の中間に位置し両方に半分ずつ属す
- 35-
る形成物がある。それは分詞,不定詞それにジェラン
i
a
t
ea
t
f
e
n
d
i
t
e I[複数の
アゥグスティーヌスは一度 E
ドである。歴史的に先行した言語研究はそれらを名詞
者に J
のところに置いているが,それは必要な道具である人
さあ,よく気をつけよ」と言っている(~ラテ
ン語辞書論叢』第 8号 1
3
9ページ)。これはプラウトウ
称語尾がそれらのすべてに欠けている一方,それらが
i
a(
1おい,きあ J
)
スの作品で命令法の前に置かれる e
ある時は格と共に曲用し,ある時は不定詞やジェラン
に属する O 民衆語では多数への呼びかけに際し,それ
ドのように格形態に戻され得るからである。従って形
が動詞であるかのように,ーたが付けられた。そこに
成と起源はこれらの形態を名詞に割り当てる。しかし
i
a は後続の命令法に
は同化の衝動も作用しており ,e
不定詞を動詞とみなし,そこにその理想的な形態を見
伺化されたのである。
これに関して興味深いドイツ語の並行例がある。す
た古代の見解がそれによって正当性を失うわけではな
L、。事実これらの形成物は言語の発達と共にますます
でにプット
動詞に接近したのである O
で
,
さらにある語類から別の語類への移行も起こったこ
と,すなわち動詞の形態が名詞として通用するように
7
ンは『辞書学者」第 1号 1
6
4ページの注
rドイツの二三の地方の日常生活の言語でドイツ
a
! が実際に屈折さ
語の物を差し出す際に使われる d
せ」られ,
r
そこでは多数への呼びかけに際して
d
a
t
!
なり,名詞の形態が動詞として通用するようになった
と言うのが聞かれる」現象を τ
持r
e
:坊と比較した。
ことを言っておかねばならな L、。後者の例として私は
グリムの『ドイツ語文法』第三巻 249ページ(新版で
ρ手を指矯するだけにしよう
ギリシア語の x
Q
それは
形態から判断すると名詞であったにちがし、ないが,
40ページ)はこの d
o
t或いは d
a
tの例を沢山載せ
は2
し
ている。同様にスイスでやはり物を差し出す時に普通
かし次第にすべての時制と法で用いられるようにな
e(
s
e
) が複数形にされ,中高ドイツ語で
使われる s
り,加音を手に入れ,全く動詞として扱われる。
s
e
t
,s
e
n
t に,スイス・ドイツ語で send になるのも
また間投詞や,他に屈折しない語からも時折動詞形
坊τE に正確に対応する(~スイス方言辞典』第七巻 11
o
eIire:
が生じた。まずギリシア語から二例,それからラテン
ページに貴重な比較がなされている)。一方
o 1こちらへ」を意味する副詞
語から二例〔挙げよう J
δeI
i
po に一致するのは恐らくゴート語の h
i
r
i に属す
&Ii
ρo は要請する時に特に好んで用いられたので,と
i
げa
t
s
,複数の h
i
η;
i
p であろうっウルフィ
る双数の h
かく命令法と感じられがちであった。それですでにホ
ラが他ならぬ δe
I
ir
E:&I
i
ρo をそれで訳しているから
メーロスにおいて二人称複数形 &Iir
e1
お前たちはこ
i
r
i の語源がまだ片つい
である。しかし残念ながら h
ちらへ, Jが作られた。またホメーロスや喜劇作家の
ておらず,それ自体がすでに命令法である可能性も完
作品には間投詞坊「見てごらん」が現われ,誰かほ
ir
e
全に除外されたわけではな L、 。 こ れ に 反 し て ぬ I
かの人に何かを手渡す時に用いられた。このようにそ
と密接な関係にあることがもっと確実であるのはスイ
れは一種の命令法的な機能を持っていたので,後に人
e
i
e
d
,hunedで
, ~スイス方言辞典』
ス・ドイツ語の h
々は多数に対して取るように要求する時,動詞の語尾
第二巻 8
5
2ページと第七巻 1
1ページはこれが人を急が
r
e を 付 け て 均ε
T と言った。少なくともシシリー島
e
i
,hu の複数化であると
せる時の呼びかけことば,h
のミーモスの詩人ソープローンの断片 1
5
6はそうであ
指摘している。もっと広い意味てJ
まスイス・ドイツ語
u
s
e
tも n
u
s
e[=nu
πs
o
Jの複数化であり,特にド
る。これと一致するのが,ホメーロスの後世の模倣者
の
たちがこの坊に中性の目的語を取らせて文を作り,
e
l1
ね
,
イツ語の言語領域の大部分に広まっている g
λase (
1取れJ
)や δ
ecw (
1受け取れJ
)
η
とレっ
e
l
t がそうで,これは接続
そうでしょう」の複数形 g
た命令法と同列に置いていることである。一一これに
rよろしいでしょうか J
) から生じ,次
法三人称単数 (
従って
相当するものがローマ人に〔もある〕。古い挨拶の決
いで呼びかけの小辞であるから二人称に関係づけら
v
e(
1ょうこそ J
) は,始めてセム語学者 A
.
り文句 a
れ,そして再び半ば動詞化したものである(~ドイツ
Mez91 が気づいたように,カルタゴ人から借用された
語辞典』第四巻 1, 2,3058 ページ以下~スイス方
外来語であり,確かに挨拶の文句はよく移動する。プ
言辞典」第一巻2
7
7ページ)。三人称複数に話しかける
ラウトウスは『ポェニーキア人』の 994行以下でカル
e
l
t
eS
i
eは
時に使われる我がパーゼ、ル・ドイツ語の g
v
o と言
タゴ語を話すノ、ンノーに挨拶ことばとして a
単独では生じない。またディールス (
D
i
e
l
s
)1l1は私に
わせている 10)0 それから後にロー 7 人にとって不変化
e
l
l
es
e を参照するよう教
ナッサウ市で行われている g
v
e
t
e並びに a
v
e
t
o
,a
v
e
o
であるこの語に二人称複数の a
えてくれた。この現象が他の諸言語,例えばスラヴ語
(
1私は健康である J),a
v
e
r
e が付け加えられた。また
(グリムの前掲書,ヤギッチ 121 の『スラヴ語統語論
3
6一
集Jl [ウィーン・アカデミーへの報告書 4
6
J1
3ページ,
「のぞき窓 J
,v
a
e
t
v
i
e
n
t1
往き来」等の文全体の実
.フレンケルの『バルト
その他の例や文献リストは E
詞としての使用と一体をなしている 17L
4ページにある)やイラン語 (
W印欧
スラヴ語学Jl 6
我々が近代の諸言語において,殊に形態上の損失と
8号と 3
9号のバルトロメー 13) の論文)に
語研究』第 3
の関係で名詞が難なく動詞として屈折させられ,使用
も繰り返し起こることはここでは示唆するだけに留め
される英語において観察しうるものは別の種類に属す
ねばならない。印欧語の領域外でもこの種のものが観
l
4, 1
0
4
0ページ
る(クリューガー『英語の問題点Jl l
N凸l
d
e
k
e
)
l
4
1の報告によれば、アラ
察された。ネルデケ (
以下を参照)。
ビア語の間投詞 h
a は例えば h
a
k
i1
こっちへ来 L」
、
のように代名詞の接尾辞と接合されるだけでなく,動
X
I
V
.
こちらへ」
詞の語尾をも取り得る。また halumma 1
とL、う副詞と並んで命令法二人称複数の語尾をもっ
我々は個々の品詞の特徴に関する論究は後回しにし
halummu I
(お前たちは)こっちへ来 L、」が用いられ
て,まず名詞的な形態と動詞的な形態に共通する機能,
る
。
N
u
m
e
r
u
s
) に向かおう。我々が取り組ん
すなわち数 (
逆の現象,すなわち定動詞形の実詞としての使用も
でいる言語では動詞の数は人称語尾で,名詞と代名詞
py
! は,エウリピデー
起こる。奇妙なことに前述した x
のそれは格語尾で表わされる。ただし,人称代名詞の
スが必ずそうなる運命を表わすためにゆ x
p
時と言う
場合はもともと唯一の数表示の方法であった語幹の交
o xp
かとなっている写本
時(伝承に従えば確かに r
替でも表わされる。
もあるが),再びその本来の性質に逆戻りしているよ
ま ず 双 数 に つ い て 語 ら な け れ ば な ら な L、。「双数
p
暗と同義
うに見える O これは冠詞が付かなくても x
(
D
u
a
l
i
s)
J という名称は古代からのもので,ギリシア
語であった名詞的な r
ox
p
e
ゐv の単なる模倣であるか
の文法家達が用いている d
v
i
K
O
C(
匂l
f
)
μo
c
) の翻訳で
も知れない c しかし実際近代の諸言語が類義の動詞に
ある。ギリシア語とラテン語の事実がすでに古代の文
お L、て名詞的な用法を見せる。例えばグリルパルツア
法家達に双数の古さと必要性について様々の仮説を立
T
u
c
h
t
i
g
es
i
e
h
ti
njedemS
o
l
le
i
nMuss~
てるきっかけを与えた。『ギリシアの文法家たち J第
〔有能な人はあらゆる道義的義務のなかに社会的義務
一巻 1
3
4ページ, 1
3
8ページ以下のテオドシウス(紀元
を見い出す〕といった文は全く我々の語感に合致する C
8
) の注釈(ヒル
後 6世紀)に付けたコイロボスクス 1
ー 15) の ~der
i
njedem S
o
l
l は厳密に言えば「彼が『私は
すべき
ガードによる編集)において双数形は最初から存在し
である』と言う時にはいつでも」の意味であり,この
たのではなく,単数形と複数形よりも遅れて生じたと
ような関係を表わすにはその動詞が代表的である。全
いう主張が見い出される C それはギリシア語の幾つか
M
u
s
s
) について語
く同様に我々はつらい道義的義務 (
の方言,並びにアイオリス方言に続いてラテン語も双
り,イギリス人は t
h
eo
u
g
h
t1
義務 J(
o
u
g
h
t
n
e
s
s とも),
数を知らなかったこと,そして共通語,いわゆるコイ
t
h
e must 1
絶対必要なこと」と言う。奇妙なのは古仏
K
O
I叫 δ
1
&
λe
K
r
o
c
) では双数の代わりに複数を用
ネー (
語の i
n
t
e
r
e
s
t (英語の i
n
t
e
r
e
s
t はこれに由来し,近代
いるのが常であったことから推論される。全く同様の
n
t
e
r
e
t
) であり,ここでは他のロ
フランス語では i
r
.Aug. ヴオルフが百年以上前に下し
判断を有名な F
7
ンス諸語と,それに従ってドイツ語が i
n
t
e
r
e
s
tに属す
ている。すなわち「双数は求められもしなければ望ま
n
t
e
r
e
s
s
e で翻訳する概念を表わ
る実詞化した不定詞 I
れもしない。ローマ人が自分たちの言語を形造った時
すラテン語〔の動詞〕の三人称単数から名詞が生じて
にはまだギリシア人はそれを持っていなかった。それ
o
l
l(
1借り
いる O もっと分かりやすいのは会計簿の S
は次第にその言語に現われた飾り物にすぎな L、」と c
方 J) のように,上書きや表題として普通に使われて
しかしこれは双数の歴史についての極端な曲解である O
いる動詞形の実詞としての使用である。ゲーテの有名
双数の正しい位置づけは新しい言語学によってなさ
な詩行「彼はそれを借金簿にちゃんとつけており,い
れた。特に有名になったのは偉大な言語学者ヴィルヘ
つまでも借り
L、
J161 や英語の
(
D
e
b
e
t
) をそのままにはしておくま
IOU(すなわち 1owey
o
u
)1
領収書」
l
a
αt1
承諾 J,v
i
d
i1
公 認J
,英語の a
f
を参照せよ o P
・
d
a
v
i
t1
宣誓供述書 Jも同様。外来語は最も容易に価
f
i
値の転換に屈する。
a
s
i
s
t
a
s
これはフランス語の v
ルム
フォン
年にベルリン
フンホ、ルトの「双数について J (
1
8
2
7
アカデミーで講義され,そこの研究報
告に掲載され,現在『著作集』第六巻 4ページ以下に
翻刻されている)である。彼はそこで双数が全世界で
見い出されることを証明した。そして二番目の論文で
- 3
7ー
彼は双数の歴史を個々の言語についてたどるつもりで
っと早い時代のインドの言語遺産は名詞と動詞におい
あったが,残念ながらこの課題に着手する時間を見い
て時々もはや双数を使っていな L、。いわゆる中世イン
出せなかった。しかしそれ以来我々は双数が後代の現
ド語,従って例えば仏教徒の神聖な言語ではそれは完
飾り物」なんかではないことをはっき
象ではなく. 1
全に消失している。アヴェスタ語と古代ペルシア語の
り知っている。それは名詞と動詞において複数表現と
模形文字碑文は双数を知っているが,現代ベルシア語
・ ・ ......
は異なる特別の表現によって二重性を表示する非常に
にはその痕跡すら残っていない。今日印欧語圏内で双
古いものに他ならな L。
、
数が生きているのはバルト・スラウさ諸語だけであり,
教えられるところが多いのは双数の問題全体を展望
そこでも例えばリトアニア語,スロヴェニア語(クラ
Cuny)
191 のパリ大学に提出した学
しているキュニー (
イン地方の).ソルブ語(ラウジッツ地方の)および
19
0
6年)である。
位論文「ギリシア語における双数 J (
スロヴィンツ語 221 (ポンメルン地方の)といった少数
そこでも双数がもともと至る所で見つかることが明ら
の言語にすぎない。従って印欧語民族においても昔の
かになる c 地上の比較的よく知られた語族で双数を確
存在,後退,消失〔と L、う方向を辿る〕。
認することができないものはほとんどな L、。双数は確
かにどこででも古いものであるが,
次に我々が取り組んでいる三つの言語群に移ろう
O
しかし同時にほと
ゲル 7 ン諸語ではドイツ語だけでなく,今日のすべて
んど至る所でそれを引っ込めようとする傾向が現わ
のゲ、ルマン諸語に双数が欠けている(現代フリース語
れ,ほとんど至る所で双数を無用の長物として,本来
が人称代名詞の双数形を未だに双数の屈折において保
なくてもよい表現形式として取り除こうとする注目す
持している点を除けば)ということを確認するだけで
べき現象が明らかになる。我々とかなり近い関係にあ
よL、。話し手とその一人か幾人かの対話者に同時に向
る語族を例にとれば,セム諸語でそれを観察すること
けられた要請が,その要請された行為の参加者が二人
ができる。セム諸語の多くはもはや二三の用法でしか
双数を持っていない。双数を完全に使っているのは最
の場合は l
a
s
s uns+不定詞によって,多数の場合は
l
a
s
s
tu
n
s十不定詞によって表わされる時,双数と複数
古の古典アラビア語だけであり,今日の平俗アラビア
の形態上の区別が間接的に存在するにすぎな L、。前者
語では多くの場合消失している O もっと雄弁な証拠を
2節に(ヤ
は例えばルターの聖書の創世記第三十三章 1
u
えばアメリカの多数の言語は
他の語族が提供する。iJ
a
s
su
n
sf
o
r
t
z
i
e
h
e
n(
1さあ,立っ
コブがエサウに)231 l
大体すべて双数を持っている。それが見い出きれない
) とあり,またゲーテの『イフィゲーニエ』
て行こう J
のは三つの言語だけで,それもおそらく消失したから
a
s
s
,d
e
i
n
eHandi
nm
e
i
n
eHandg
e
l
e
g
t
,ぬ sn
e
u
e
に l
叩i
sg
l
u
c
k
l
i
c
hu
n
sb
e
g
i
n
n
e
n(
1さあ,手に手を取
Bund
だろう。すなわちメキシコのモンテスマ王の王国の言
語,ベルーのインカ帝国の古代の言語,それにマヤ語
って,新しい盟約をつつがなく取り結ぼう J
) とある。
と呼ばれる中央アメリカの言語がそれで,いずれも独
単数の
自の高い文化に達した民族に他ならない。そこから我
しかけられた者だけが関与しているからである C グリ
々は十分発達した文化と双数の使用は概して両立しな
5ページで,
ムは『ドイツ語文法』第四巻(第二版) 9
いと言うことができる O 逆に我々が非常に原始的な状
この表現がゴート語の一人称複数を転写したものであ
l
a
s
s は意味に即している。話し手を除けば話
況に出会うところでは,極めて原始的な双数の使用も
ると適切に述べている。
見つかる O その甚しい例がフエゴ島 20) の 住 民 の 言 語
T
r
i
a
l
i
s
)
に見い出される O 彼らは単数,双数,三数 (
l
a
s
s
t
u
n
sが,形態的には合わないけれども,二つのものに
を,そして不特定多数には複数を持っている。という
対して用いられる。
もっともその区別は常に
守られているわけではなく,より馴染みのある
のは彼らの数の概念が三で終わり,三までしか数えら
しかし最古の段階ではまだその名残に我々は出会
うO ゴート語は確かに名詞においてはもはや双数を持
れないからである 21)0
この認識をあとに我々は印欧諸語に向かおう。そこ
っていないが,動詞と人称代名詞の第一人称と第二人
で第一に言えることは,ある言語を割と古い段階まで
称では持っている O ウルフィラが沢山の例を提供し,
知るようになれば双数が確実にそこで見つかり,その
それは手本である聖書が双数形を持っていないだけ
用法が完全であればあるほどその言語は古いというこ
に,一層注目に値する。動詞には明らかに双数が残っ
と,第二に言えるのは,ほとんど至る所で消失が確認
ているが,それは人称代名詞の双数形に支えられたか
されるということである。双数の用法がヴェーダ語ほ
らである O 一体にこれらが最も長く保持されたのであ
ど豊富で古めかしい言語はどこにもないが,
O
t
f
r
i
e
d)
2
'1 は
るO 未だにオトフリート (
しかしも
- 3
8一
u
n
k
e
rz
w
e
i
n
「我々二人の」と言い,フリース語では我々が今しが
り,盛んな喝采を博したが(レーオの前掲書,第二版
た見たように,それらが今日でも用いられる。バイエ
2
4
8ページ A.2参照 J
. しかし我々はそれに従うこと
ルン方言にも残っているが,ここでは複数の意味を表
はできなレだろう
わす。他方,ウルフィラの聖書には(後世の歪曲によ
テン語
ってつ)我々が双数を期待するところに時折複数が置
ページ以下でそれらはやはり単数の主格であると推定
る o (他のゲルマン諸語の非常に古い記念碑
かれて L、
している。
c
K."7イスターはその見事な本『ラ
1
6年)の 9
9
ギリシア語の固有名詞』第一巻(19
にごくまれに見られる動詞の双数形については『ゲル
ラテン語が双数を失ったことは少しも驚くに当たら
3号 3
3
1ページ以下のフア
マン語とゲ、ルマン文学』第 4
ない。ラテン語は他の多くの点でもギリシア語よりは
イスト 251 の論文を参照。)
るかに祖語から離れているからである O この非常に大
・
..
• 1両者の
もちろん ambo(
きな変化がどこから来るのかは別の問題である。古代
ラテン語に関してまず一般に知られていることは,
J
) とd
uo(
1二つ(の)J
) を
除けば,ラテン語が双数を持っていないということで
あり,そこでは語尾 O がギリシア語の
ω と同様,
イタリアの種族はイタリアに定住する前に深刻な運命
を(外国人の激しい混入をも?)甘受したにちがし、な
L、
c
o
s と並んで対格としても現われるが,結局
我々は他の語族のもとで経験を積んだ後で,今やギ
o
s だけが支配的となった。しかしある幾つかの形態
リシア語の双数について判断を下す十分な準備ができ
複数の
r
(社会言語学論集』第 22号 145ページ以下のメイ
がやはり双数の名残であることを証明することができ
た
。
ると信じた人々が全く異なる時代に L、た。一方では古
) ギリシア語の双数形が他の印欧諸
エの論文を参照 c
代の学者がこれを行った。ラテン語の文法家たちは自
語のそれと一致させられるように,ギリシア語に初め
分たちの文法をギリシア人を手本にして構築し,ギリ
から双数が存在したことは自明のことである。しかし
シア語の文法の図式をできる限り自分たちの言語に適
ギリシア語でも我々は双数を放棄しようとする衝動を
用した。その時ラテン語の記述において双数形につい
見い出す。すべてのギリシア人の作品に例えばゴート
て語ることができないのは彼らにとって不愉快であ
語にちゃんと保持されている動詞の一人称双数が欠け
り,つらいことであった。それでクイーンティリアー
ている。従ってここでは双数の喪失は先史時代のこと
.4
2および4
3にお
ヌスはその『弁論術教程』第一巻 5
にちが L、ない。しかしその他の点では双数が,すべて
e
r
e で終わる第三人称複数
のギリシア人の作品で一様にたちまちと言うわけでは
いて .~ërunt
の代わりに
完了を双数形とみなした学者が L、ることを報告してい
ないが,我々の日の前に現われる。我々は言語上の表
E をギリシア語の双
現手段の使用が精神的な発達の水準と関連しているの
と比較したということかも知れな L、
c ク
を見事に観察することができる。精神的に最も急速に
る。ことによると彼らが語末の
数形の
E
イーンティリアーヌスにとってこのような ~ëre に終
発達し最も早く近代化した小アジアのギリシア人は
わる形態が複数として現われる箇所をウェルギリウス
双数の放棄においても一番早かった。アイオリス民族
から引用することによってその説を論駁することは容
については事情がそれほどはっきりしていないが,と
5
7節でこの語
易であろう。キケローは『弁論家』第 1
にかく彼らは双数を非常に早く失った。もっと重要で
e
r
u
n
t の単なる音声上の別形であると見倣して
あるのはイオーニア人の用法て‘ある。我々はイオーニ
尾を
e
r
u
n
t よりも古い c
次にヴ、イラ
ア方言を〔紀元前〕七世紀まで追跡することができる
モーヴィッツはレーオ (
L
e
o)
26i の『プラウトウス研
が,双数の ζ 〈僅かな痕跡さえ見つけることができな
いるが,実際は
究』のために書いた論文で,最古のラテン語に双数形
L、。ヒッボクラテースの医書集のある種の用法につい
の 存 在 を 仮 定 す る こ と が で き る と 信 じ て い る c 昔の
てはあとで (
7
9ページで)触れるであろう。つまりイ
ωn
P
l
i
o とか Q
.K
.C
e
s
t
i
o
ローマの碑文には M C P
オ一二ア人は他のすべてのギリシア人よりもずっと早
目
といった一連の人名が読み取れるが,人々はこれらを
くより自由な思考を獲得していたのである。イオーニ
Pom
ρl
i
o
sと C
e
s
t
i
o
sのことだと理解した。しかし第一
ア人の宗教心をアッティカ人のそれと比較しさえすれ
に単数としては奇妙であり,またこの場合 Pom
ρl
i
o
ばよ L、。至る所でイオーニア人の民族的な特殊性が現
に
われる。
S
が落ちているのもおかし L、。そこでヴィラモー
omplio と C
e
s
t
i
o を荘重な名前の結合に
ヴィッツは P
このイオーニア人による双数の拒絶は叙事詩の創作
保存された古い双数と解することで最も簡単な解決策
にとても強い影響を与えた。我々がホメーロスに見い
を見つけたと信じたのて‘ある。この推測は魅力的であ
出す豊富な単語や語形は大昔に相続したものであり,
-3
9
(
Wビュザンテイオンのアリストノfネース』
それを用いたホメーロスの詩人たちはイオーニア人で
とナウケ
あった。それ故まさしく世襲物の一部であった双数は
3
6ページ)だけである。しかし我々は今すでに古いホ
ホメーロスに非常によく出て来るが,その用法はほと
メーロスの詩にも双数形が複数の意味で現われること
んど首尾一貫していない。二つのものが話題になると
を本当に認めなければならない。例えば θ73-4 行
しばしば同じ文構造に双数が出たり,複数が
(
K司p
e
c
.
.
.
e(
e
σ}
(
l
1vr
運命が……下りた J
) と1
8
5行以下
出たりするのが観察される。これは双数をもっていた
(四頭の馬への呼び、かけに使われた d
πo
r
i
v
e
r
o
vr
返
ころで,
叙事詩の言語が,双数を持っていなかったためにその
.旬
。μ臼preirov 1
追 L、かけてゆけ J
.
礼をしてくれ J
使用に自信がなかった詩人たちによって使われたこと
σ
πe
u
δe
r
o
vr
急 げJ
) は確かにそうである O その際私
からだけ説明できる。それどころかこの詩人たちはさ
は『イーリアス』の
らに先まで行った。双数が彼らにとってもはや生きて
しい巻であるということに注意を促そう。さらに Iで
いなかったので,双数形を単なる複数形の変種と解し,
はアイアースとオデ、ユツセウスとポイニークスの三人
θc=第八〕巻は恐らく一番新
多数についてもそれを用いることさえ時々思いついた
の伝令使がアキレウスの所へ行くけれども. 1
8
2行以
のである。(次に述べることについてはプットマンの
下 で 双 数 が 彼 ら に つ い て 繰 り 返 し 使 わ れ る ( 182
3
4と3
4
0を参照。)このこ
『文法』第一巻(第二版) 1
τ
肝「二人は進んで行った J
. 183evxopuωI(二人
s&
とは第ーにその二大叙事詩よりも後に作られた叙事詩
は)祈りながら J
.1
9
2r
ゐ…β&r
l
1v r
二人は進んで行
の証拠によって確実である。例えば伝説的な『ホメー
.
1
9
6r
φ 「二人に J
.
1
9
6xO/i
p
e
r
o
vi
K
&
v
e
r
o
vr
二
った J
ロス伝』にはキューメーの住民に対する風刺詩があり,
人ともよく来てくれた J)o この詩人には双数形の真の
8行 以 下 に ミ ュ ー ズ の 女 神 た ち に つ い て KOUpαt
意味がもはやはっきりわかっていなかったということ
O
I
O
C1
1
(
}
'
ε
λe
r
l
1v (
1ゼウスの娘たちは欲していた J
) と
は,もちろん彼の非常に大きな詩的才能に対する我々
あり,またすぐ後の行にキューメーびとについて
1
)
321
の感嘆の念を損なうことにはならなレ。ボル (Bol
&
πO/v
I
1V&σ(
}
l
1v (
1彼らは拒絶した J) とあるが,それぞ
は雑誌『オーストリアのギムナジウム ]
j(
1
9
1
7年)の
れ 1
1
(
}
ε
λ OV と白白叫vαvτoの意味で使われている。そ
1ページ以下で,詩人が双数の s&
τ
I
1v が一部は正し
の他のホメーロスの模倣者たち,例えば「アポッロー
327行以下の影響の下に詩を書いた
く使われている A
ン讃歌j]27やアラートス 281 や皇帝時代の叙事詩人たち
ことを見事に示した。かつて人々は双数が使われてい
にも,この不確かさが度々見られる。同じくロドスの
ることから
E
ρO
c1
彼のものである」
アポローニオスは例えば σ併 τ
伝令使の一人ではなかったと推論しようとした。しか
1の最古のテクストではポイニークスは
l
r
e
p
o
c1
汝ら二人のものである j
しそうすれば「この若々しい一級の詩の王冠の宝石が
を用いている。つまり彼はもはやこの所有形容詞の双
こわされる J(ヴィラモーヴィッツ『イーリアスとホ
数の意味に対する理解力さえ持っていなかったのであ
5ページを見よ)ことになろう。その他に
メーロスj] 6
る。一一この乱用はふつうの談話にはもちろん無縁で
もこのような箇所がフリートレンダーによるアリスト
とL、う意味で
U伊
正t
J
ある。以前プラトーンの『テアイテートスj] 152Eに
ニコスの版 (
1
5ページの注)に,間違った判断もある
μ
,
ψe
p
e
a
(
}
o
vは
読み取られていた複数としての双数 cv
が,言及されており •
とっくに取り除かれている。
双数であることが確かであると思われる 33)0
A567.r279 と 459 では偽の
ゼーノドトス 291 エラトステネース 301 ペルガモン
しかし他のギリシア人,つまり本土のギリシア人は
学派の指導者クラテース 311 といった大多数の,それ
と言えば,彼らが双数をはるかに長い間保持したこと
も割と有能な古代のホメーロスの批評家たちが,その
は彼らのその他の発達が比較的ゆっくりしていたとい
ような複数の代わりとしての双数を『イーリアス』と
う事実と合致する。
ドーリア人とボイオーティア人は
『オデユツセイア Jの二三の箇所にも仮定している C
自分たちの土着の方言を話している限りは,双数を何
しかしホメーロス批評の大家アリスタルコスはこの乱
度も正確に使っている。我々は特にアテーナイでのこ
用を否定し,他の批評家たちがそのような双数形を仮
の使用を知っている O アッティカ方言における双数の
定したところでは他の異文を採用したり,詩行を削除
用法の発達ほど見事に,そしてはっきりと概観するこ
・
・
.....
したり,注釈を加えたりして切り抜けている O 他の点
とのできる言語上の発達はほとんど存在しな L、。以前
でもそうであったが,この点でも近代のホメーロス文
s
s
e)3')の著書『アッティ
の研究についてはハツセ(Ha
献学は長い間アリスタルコスの権威に縛られてきた。
カ方言における双数j] 0893年)の中の,外面的では
割に左右されないで判断を下しているのはプットマン
あるが綿密なまとめを挙げれば十分である。我々はア
4
0一
ッティカ方言を他のどの方言よりもはるかに詳しく知
ってレる。それも年代が確定された文学的遺産,特に
x
v
.
ぺロポネーソス戦争の開始からアレクサンダ一大王ま
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
での作品において。まさしくこの世紀にアツテイカ方
アッティカ風文体への復古とでも呼ひγ
こいような,
言で双数が徐々に後退し初め,それから消失したので
ギリシア文学・文体史の専門家なら誰でも知っている
ある。碑文においてはっきりした段階的な変化が観察
独特の運動が起った。紀元前一世紀の半ばに新しい文
0
9年頃まではすべての種類の双数形が用い
でき,前 4
体上の理想がうち立てられ,ミーメーシス,すなわち
られるが,それ以後揺れが起こり,双数語尾が次々に
昔の偉大なアッティカの著者たちの模倣が威厳のある
8
0年頃に,
なくなった。まず初めに動詞の双数形が 3
良い文章を書きたいと欲したすべての人に書き方の手
I
X
e
lC
ε
.ixoc i
城壁」の双数主格・対格形〕に
次に Te
本とされた。次第に文体のみならず語業や文法におい
,
おけるような ε
tで終わる双数形が,それから第一曲
てもアッティカの規範を守り,アッティカの著者たち
用の臼で終わるものがなくなり,一 OIV や一日IV に終
から例証される語だけをそのような意味でのみ用い,
わる斜格形が一番長く持ちこたえた。結局双数はデー
また文法的な形態の使用や形成においても同様に振舞
メーテールとペルセポネ一両女神の名称,従って宗教
おうと L、う要請がますますしっかりと根を下ろした。
上の用法を除いて完全に廃れた。両女神はその後も
そしてこの運動は紀元後二世紀末頃に頂点に達した。
(
}
e
の,roiv(
}
e
o
i
v で表わされた。そして碑文が教え
その証人は語素的な形態について何がアッティカ語法
てくれることに文学は非常によく一致する。雄弁家の
として正しく,何が避けられるべきか一語一語確認し
中ではリューシアースがまだ非常に完全な用法を持っ
た,我々がアッティカ主義者と呼び慣らわしているあ
Tゐ
ており,デーモステネースはもう
OIV
で終わる双数
語尾しか知らず,それも僅かしか用いていなし、。一番
の著者たちである。私は特にその『名詞・動詞選 ~371
がローベックによって編集された有名なプリューニコ
若いデイナルコス 351 はもはや双数を示さな L、。全く
スを挙げよう。またこの運動に半ば瑚笑的で,半ば心
同様にアリストパネースの最後の喜劇『福の神』には
酔し,アッテイカ語法に取り組んだルーキアーノスの
双数と複数が入り乱れて使われているのを指摘するこ
、
ある種の著書も参照していただきた L。
0
9行では二人に対する呼びかけ
とができる。例えば 5
ところで人々がアッティカ人に倣おうとしたものの
μ
e
i
c (iあんたたちが
に際し最初の半行には πO(}ei(}' 心
一つに双数もあった。〔当時の〕学者たちにとってそ
望む J
) とあり,後の半行には σψφv とある。全く同
れはアッティカ方言に特有のものと見倣されていた。
様な例がプラトーンにも見い出され,例えば『法律』
これはアッティカの文学と並んで最も重要な文学であ
第十巻 892Fでは同じ二人の人物に対する呼びかけに
るイオーニアの文学が双数を知らなかったという点で
おいて同じ行に属格としての σψφv と与格としての
は正しい。アリスタルコスはホメーロスが双数を度々
μ
biv が出て来る。
用いたという事実を,ホメーロスが実はアテーナイ人
アッティカ方言から生じたコイネーは双数の使用の
最後の段階を見せる O 比較的古い散文作家はまだあの
OIV
を持っており,アリストテレースにはそれがご
であったという自分の見解の論拠として直接利用して
L、
る
(N197行につけた注を参照)。今やできるだけア
ッテイカ風に表現しようと努力していた者は誰でも完
く稀に現われ,ポリュビオスにも例えば哨poiv の形
全に死んでしまった表現形式て‘ある双数をも再び明る
で散発的に現われる。その他はアゥグストウスの時代
みに出したということがわかる O 先に引用したシュミ
まで双数はすべてのギリシアの文献に見られない。つ
ットの著書がこのことを非常に見事に説明している。
まりそれはギリシア人にとって完全に死んでいたので
まず双数は二三の名詞的な形態において生き返り,
ある。ところがこの死体に再び電気が流され,死んだ
ハリカリナッソスのディオニューシオスにそれが見ら
双数が再び蘇えるという注目すべき現象が起った。そ
れる O また彼の年長の同時伏人パルテニオス 381 も挙
0893年 ) 第
げねばならなし、。この人もコルネーリウス・ガツルス
四巻所収のシュミット 361 の非常にすぐれた論文「死
に献呈した短い作品の中で、再び、幾つかの双数的な名詞
去し,そして生き返ったギ、リシア語の双数について J
的形態を用いた。そこから我々は双数が一歩一歩進展
れについては『フ会レスラウ文献学論集~
がある。また『ベルリン大学議事録~ 0910
年) 1
1
5
3
していった様子を観察することができる。ヨーセーポ
ページ所載の,ヒッポクラテースの幾つかの著書にお
ス391 は初めて双数を動詞形に用い,特にディオーン
ける双数を扱ったデ、イールスの論文も参照されたい。
- 4
1
クリューソストモス 401 は彼より一世紀前に生きた
ディオニューシオスよりもはるかに先んじているつそ
利用して,それは文法家の発明に関係していると主張
のことを個々に記述する必要はないが,殊に特徴的な
した c これはもちろん愚かな考えであり,すでに G.
、
ものを二種類だけ言及しなければならな L。
へルマンとローベックによって退けられている。むし
第一に,碑文に残っている官庁語の遺産さえもこの
ろ我々はそこに新しい形成を認めなければならな Lら
σ()OV で終わる二人称の双数に倣って,こ
人工的な語法に加わる。アッティカでは宗教上の古い
すなわち
)
e
φ が使われ続けただけでなく,ある神殿
表 現 TW (
れに対応する一人称の
μe()OV で終わる双数形が敢え
.OIV&V()臼「二個の金のぶどうの
の財産目録には xρυσa
て複数の
花が」とも書かれている O またプテオリーに住んでい
はアツティカでは一時許されたが,プラトーンや喜劇
7
4年の手紙(11'ギリシアの碑文』
たツロの商人の紀元後 1
1
4,8
3
0
) では第 1
9行でローマの執政官に基づく日付
作家たちが決して用いない試験的な語形である。ホ
けさえも双数形を与えられ, r&Aλ q
J
ら入ってきたものであり,詩人は πePldφμe()日 と 言
Kopvl
'
/
λ
t
臼Vゐ
Kai
μe()
日に代わって使われたのである c これ
メーロスにある πepu5ゐμe()OV は恐らくアツティカか
φ
λ &KKq
J
b
π&TO/V (
1ガツノレスとフラックス・コル
ったであろう 45)0
ネ リ ア ー ヌ ス が 執 政 官 で あ っ た 時 J41とある。それか
民衆語は双数を再び蘇らせようとするこの復古的な
ら後三世紀の前半に書かれたと思われるナウクラティ
努力の影響を受けなかった。それ故近代ギリシア語も
ス出身のアテーナイオス 421 が興味深い例を提供する。
双数とは無縁である。
彼によって描写された饗宴の仲間のうち二三の者が際
ここまでは外面的な使用の事実である。次に我々は
立ったアッティカ模倣のために目立っている。 例 え ば
その用法をもっと詳しく跡づけ,如何なる場合に双数
と呼ば
が用いられるのか自問しなければならない。ここでは
れているが,それは彼がある語が使われる度に必ず
特に名詞について述べなければならな L、。というのは
ある者はケイトゥーケイトス
(Kelτ
OI
!Kelτ
Oc)
1
iOIJ KeiTω 「それは〔アッティカのことばに〕
KeiT
α
,1
動詞と人称代名詞の場合は大体自から明らかになるか
らである O 動詞において双数形が使われるのは,主語
見られるか否か」と質問するからである。また別の者
は
,r
OVO
μ臼τ
o() pac
1ことばの猟師 J と呼ばれている O
の二重性が問題になる時,特に名詞の双数が主語であ
さらにアテーナイオス(第三巻 9
8a) は彼のアッティ
,
る時に他ならず,人称代名詞については例えば vゐ
カ模倣のより抜きの見本としてこれらの者に一人称双
v
ω
「我々二人が,私と君が J (あるいは「私と彼が J
)
6伊
の
,
σ
ψゐ1 1
君達二人が」のように,二人の人
ρ orepov συVTρzβησ0μ e()OV,
数中動態を使わせ, π
とか
e
n
e/T(X &
.
π
o
λ OI
!
μe(
J
OV (
1我々二人は先ずさんざんに打
が表わされなければならない時である。それはわかり
ち合って,それから二人ともくたばるだろう J
) と言
きったことである。ただその際一人称て‘は厳密に言え
わせている。
私 Jへの添加
ば「私」を二倍にすることではなく, I
が起こるにすぎないということに注意すべきである。
まだもう少しそのことを強調する理由がある。ギリ
シア語の動詞は二人称と三人称にしか双数形がないの
それに反 Lて名詞においては事情はもっと複雑であ
に,一人称で双数が望ましいと思われた場合には,一
り,一部の規則はもっと精細である。私は我々を不審
μeV, μ
e
(
σ
)
(
)
日が当てられる。もと
がらせ,ギリシア語の伝承に現われない双数の用法が
もと一人称にも固有の双数形が存在したのであり,そ
先史時代に存在したことを予め言っておこう。最古の
れはゴート語を参照して頂ければ十分である。ギリシ
インド語では他の概念とよく一対にされる概念を表わ
ア語はその古い双数形を失っている。しかし古代のギ
す語は,その対全体を表わすために双数にされること
リシア文学には三箇所に一人称の中動態双数形が出て
がある。それをギリシア語の語形に翻訳しよう。 例え
人称複数の語尾
85 に πeplδゐμe()OV 1
我
くる。まずホメーロスの'1'4
α
τepe は大体「父と母」の意味で使われ得る。や
ば π
々二人で賭けをやるとしよう」とあり,次にソポクレー
はり最古のインド語に現われる二番目の表現形式はも
5
0行と「ピロクテーテー
スに二箇所(11'エーレクトラJ]9
っと奇妙であり,これは問題になる二つの語が並列し
079行)4310 す で に 古 代 の 文 法 書 に は こ れ ら の
スJ] 1
て双数で与えられ,従って例えば「両親」という概念
は π
日Tepe μI
'
/Tepe によって表わされるというもので
μe()OV をもっ形態が他の中動態の形態と並行して,
例外なく体系内の形態として挙げられていた。そして
ある。私がこれを持ち出すのは,人々がギリシア語,
独創的ではないが,九帳面な批評家であるイギリス人
ラテン語およびゲルマン語の言語領域においてそのよ
l
m
s
l
e
y
)
叫が初めてこの三例しかない
エルムズリー(E
うな用法の痕跡について様々な根拠のない推測を述べ
ことを突きとめた。ところが彼はその観察を一面的に
ているからである。 例 え ば ホ メ ー ロ ス に お い て
4
2
A'
i
av
r
.
ε という双数は元来アイアースとテウクロス 4
6
1
我々が一対のものは双数で表わされると言う時,奇
を意味したと推測されたことがあった。それについて
妙なことがある。すなわち「両親」を表わす表現は割
特 に 『 ド イ ツ 語 源 学 雑 誌 』 第 4号 所 載 の H.メラー
と古いことばでは
(
M
o
l
l
e
r
)
4
7
1の論文を参照された L、。また古代ウムブリ
yoveic と言い,何故か一貫して複数形をとるという
ア語の宗教上の言語にも名残が保持されているかも知
ことである。ホメーロスには常に (
3
7回)TOK専 問 が
れない。
1
2
) だけ双数の rOK併 が
現われる。ただー箇所 (B3
ギリシア語で実際に用いられていたものを注視すれ
τOKeiC, ア ッ テ ィ カ 方 言 で は
出てくるが,これは非常に新しい付加物であるアレー
ば,二つの用法のタイプを区別することができ,また
スとアプロディーテーに関する歌においてである。こ
区別しなければならな L、。まず,抽象的な二つの存在
の双数の使用の行き過ぎは,双数が詩人たちにとって
ではなく,自然に対になってし、るものがそのような概
もはや生きていなかったことの証拠である。同様に同
念のもとで,従って我々がドイツ語で
~beide~
(
1両
じ意味で
01 τ
eKovr
εc,oi 伊0
σ臼vrec,01 伊VTeI
!a日ν
r
e
c,
) と言えるところで初めから存在する時,つまり
方J
01
対になっているものを包括することが問題になる時,
ゐε
τKOv
r
.
ε 等と言われることは決してない。
確かに τ
yevv
時U臼VTεg と規則的に言われることはあっても,
双数がホメーロスからアッテイカの雄弁家に至るまで
第二に,双数は本来二つ一組として存在するものが
用いられており,また碑文にも認められる。これは特
問題にならない時でも,総じて二つのものに対して用
に手足について言える。例えばホメーロスに
。
!O (
δ6ω) が
いられる。しかしそこでも数詞の二の δI
ψBaAμφ(1目J
),dσσe (
1目J
),φμω(1肩 J
),
共起しなければならないという安心して頼れる確かな
π紅 白 (
1腕 J
),x
ε
ipe (
1手 J
),μ仰の (1腿 J
),πodoilv
規則がホメーロス以来存在する。一つの例外はホメー
(
1足 J) が出てくる。それに加えて車に繋がれた牛馬
ロスの λ578 で,そこでは黄泉の国の賄罪者を描写
) や βoe (
1牛 J
)
が話題にのぼる時には mπω(1馬 J
したところに yfine 必 μIV...~ π臼'p eKelpov 1
二匹のハ
が使われる。またホメーロスの武装の考え方からする
ゲタカが彼の肝臓をむきぼり食っていた」とある。そ
両方の槍」はもともと一対であるものを表
とおむpe 1
れは本来の対ではなく,任意の二匹であるので δ6ω
わしてレる。というのは二本の槍を携行することが英
y
f
i
n
e と書かれるべきであった。またもや後世の挿入
雄の常であったからである O 同じくホメーロスから明
が問題になる。つまり双数がその人には死んだものと
らかになることだが,アッティカの神殿の宝物につい
なっていた詩人がそれを書き入れ,その時双数の使用
i
ω 「一対の耳輪」がこ
て の 碑 文 の 目 録 に 双 数 の かωd
が度を越したのである。
こかしこに現われるのは,これらがもちろん二つ一組
で寄進されたからである。また二って、あることがよく
知られている人間や神にも双数が見い出され,極めて
我々は次に他の数表示,単数と複数に進もう。ここ
よく出くわすのが TW Beφ 「デーメーテールとペルセ
では確かに多くの個別的な現象が確認されているが,
4
8
1であり,その際 Beoc (
1神 J
) は共性名詞
ポネー J
双数におけるほど十分な歴史的並びに原理的比較研究
として起源的なものであるが,それに反して Be& は
の準備作業がなされておらず,またここに属する現象
アイオリス方言の混入したホメーロスの言語に特有の
はそれほど簡単に余すところなく記述することはでき
もので,そこからアッティカ方言に侵入したというこ
ないと断っておかねばならなし、。大部分のものは明白
とに注意してもらいたい。これに対応するのはこの双
である。だから私はむしろ幾つかの興味深い問題だけ
数のラコーニア方言形としてクセノボーンから知られ
る
Tゐ
仰 の で あ る O さらにアッティカの公文書では
二人の出納係で成り立っている役所が話題になろ時,
τ
ゐ
T白μ
J
α
を抽出するだろう。(トーブラーの『民族心理学雑誌』
第1
4号 410ページ以下の論文とデールブリュクの『比
4
7ページ以下を参照されたい。)
較統語論』第一巻 1
とあるが,これは任意の二人ではなく,制
まず初めに私は次のことを強調したし、。我々はやや
度上置かれた二人て、ある。またプラトーンもある箇所
もすれば名詞の通常の意味それ自体は単数であり,複
ゐ vI
eeIIepIKλEOvc について語っているが,ぺリ
で τ
数としての使用は何か付加的なものだと我々の語感と
クレースに二人の息子があったことは誰でも知ってい
思考から考えがちである O この仮定は複数が形態上し
た。ところで指示代名詞や関係代名詞の場合も先に挙
ばしば単数に対する余剰であるドイツ語の語形やロマ
げた二つのものに再び言及する時,双数が許されたこ
ンス諸語の語形によって我々に与えられる。しかし実
とは当然である。
詞の概念それ自体は数の区別に対して中立である。我
- 4
3
このような命令法の中立的な性質が保持されているの
々がある語形変化表から語幹を取り出す時,それに対
して単数の意味だけて、なく複数の意味も認めなければ
を見るだろう。呼格の場合も事情は全く同様で,それ
ならない c それは複合語におけるように語幹がむき出
は単数ではもともとやはり語幹だけから成り立ってい
しで現われるところでは,我々は複合語の前項を単数
る
。
としてだけでなく複数としても解し得るということか
以上が第一点である。数の使用に対する第二の誤っ
ら明らかになる。従ってホメーロスが例えば
た要求は,人々がどの名詞にも二つの数が現われるこ
i
π
π
0
δ臼μoc (
1馬の慰1らし手 J) と 言 う 時 , 語 幹 の
とを期待することである O それには先験的に何ひとつ
iππo は みπoc の単数の諸形態に属するのと全く同
根拠はない。実際あなた方は生きた用法から,単数で
様に複数の諸形態にも属する。事実この iππ0δαμoc
あれ,複数であれ,いずれか一方に限られる多くの実
は一頭の馬だけを馴らす者ではな L、。それ故前項の概
詞が存在すること,すなわち絶対単数 (
・
... Singularia
t
a
n
t
u
m
) と絶対複数 (
P
l
u
r
a
l
i
at
a
n
t
u
m
) が存在するこ
念は複数と考えられる。或いはまたホメーロスにゼウ
(
1群雲を寄せる J)
とを知っている。私はまずこの用語の言語上の形態に
も同じく複数である。ゼウス
注意を喚起しよう。これは他の用語と異なってギリシ
は一つの雲ではなく群雲を集めるからである。またイ
ア語ではなく,ギリシア語からの翻訳でもなく,純粋
η yeptra
スの形容詞として ve抑 λ
か見られるが, νE
伊E
λ
t
ψoc と呼んだ時,
オーニア人が物語作者を λoyoypO
にラテン語である。つまりローマの文法家たちはある
それは単に λoyov をではなく λoyovc を書いた者で
実詞が一方の数に限定されるこの現象を非常に正確に
あり,ラテン語の au
α'
t
s(
1捕鳥者 J
) はいろいろな鳥
観察したが,ギリシアの文法家はそのことを気にかけ
u
m
b
i
f
r
a
g
i
u
m491 は腰部の骨折である。
を捕える者 , l
なかったのである。
ichwald (
1カシの森 J
),Z
a
h
n
a
r
z
f(
1歯
ドイツ語の E
我々にはまさにこれらの現象についてむしろラテン
医者 J
),F
i
s
c
h
h
a
n
d
l
e
r(
1魚屋 J
) といった語も同様。
語の方が頼りになる。それはまず文法家の証言がある
このように名詞の語幹それ自体に単数の意味がくっ
ためだ。人々はテクストがあれば文法家は必要でない
ついているわけではな L、。それどころか人は先験的に
とよく言う。しかしこれは一般に正しくない。なぜな
複数で考えるものだと信じている言語学者さえいる。
ら文学テクストは一つの言語を十分利用し尽していな
これに関して動詞が類推を生み出すが,私はそれをこ
L、からであり,すべてのテクス卜が完全に保存されて
こで差し控えるつもりはない。そこには純粋に形態的
きたとは言えないからである。しかも個々の点に関し
に見ると語幹だけから成る形態,つまり二人称単数命
てテクストから苦労して得られるのは否定的な主張で
令法が存在する。そこにはし、わゆる人称語尾は何ら認
しかない c それ故ある形態が認められない,つまりそ
められな L、。我々が
μt 動詞のもとで t
σ
τ
η ,δ
aivv,
れが存在 Lないと L、う推論は,偶然、が関与することが
K
ρ
i
μ川 と い っ た 形 態 を 取 り 出 し て み る と , そ こ に あ
あるので,常に危険だということがわかる O そこで文
るのは語幹だけであり,一人を指し示す語尾は何ひと
法家の証言が極めて歓迎される。彼らが絶対複数と言
つな L、。同じことは ε で終わる命令法についても言
っているところでは我々は彼らの活動範囲では単数が
える。例えば λtye は Atye-re,λty
ετovから取り出
使われていなかったということを確信することができ
される現在語幹に他ならない。そこで命令法は確かに
るO
さらにその研究は,ギリシア語ではとても多くの時
いつの時代にも大抵個人に対する要求を表わしたが,
しかしこの形態はいつの時代にも時々多数に向けられ
代的並びに方言的な言語の変種が知られているので,
たということが確認される。その可能性は大だが,私
この言語の豊かさに妨げられている。それ故いずれか
はこれが直接言語上の先史時代から受け継がれたもの
一方の数に完全に制限されることを確定することので
、 いずれにしても
だと無条件に主張するつもりはな L。
きる語は〔ラテン語に比べて〕はるかに少ない。我々
め'8,e
i
1
le
,i
'
(
h,Op
α,併:
p
e といった語は多数にも向け
が言語の多様性と L、う見地からこの制限を主張する気
ることができ(これについてはアイスキュロスの『エ
になる時,きまって突然ある時代の証言が現われて反
ウメニデスJl 2
5
5行につけたヴィラモーヴィッツの注
例をもたらす。その時はそもそも両方の数が使用され
i
e
h
e
,w
a
r
feim
仰 l
を参照),これはドイツ語の命令法 s
ていた可能性を考慮に入れなければならな L、。二例だ
(
1ちょっと待ちなさい J) も同様である。この現象は
け〔挙げよう〕。あなた方は
命令法の半ば間投詞的な性質と関連がある。我々はす
という語をホメーロスから知っている。我々はほかと
ぐ後で人称や能動態と中動態の区別に関しでもやはり
無関係に考えればそれを絶対復数と呼ぶ気になるだろ
4
4
e
VT
e
日
(
1よろい,武器 J
)
う。ところがアルキロコス 501 の断片 (
V
I,2
)に単数の
テレンティウス・ルーカーヌスの家庭で働いてい
かr
o
c が現われるものがある。その伝承はへーシュキ
たが,その才を愛されて十分な教育を与えられ,
オス 511 が は っ き り 単 数 で あ る と 証 言 し て L、るので確
後に奴隷の身分から解放されると,プーブリウス
P
Y
l
臼 (
1秘 儀 J
) は皇帝時代の紀元
かである。同様に O
・テレンティウス・アーフエ/レと名のった.ス
後二世紀までの文献には複数としてしか実証されな
キーピオ一家の《若い世代》とも交際があった.
L、。しかし明るみに出てまだ間がない紀元前四世紀の
『アンドリア~, ~ヘキュラ~, ~われとわが身をさ
Tφ6ρy
i
q
J を見
いなむ男~, ~ポルミオー~, ~去勢奴隷」および『兄
せ る ( ベ ヒ テ ル 531 ~ギリシアの方言」第三巻 322 ペー
弟』を発表.道徳上の問題を提起しており,プラ
エリュトライ 521 から出土した碑文は
P グリマル)
ウトウスとは対照的である. (
ジ
)
。
o
r
t
i
t
e
rme
ωm q
U
lρ
a
t
i
t
u
r
. と書かれ
7)原著には j
ているが ,mecum は malum の誤写と思われる.
訳 註
Loeb 版では malum となっているのでこのよう
1)辞書には q
u
i
l
i
b
e
t
,q
u
i
d
l
i
b
e
t として出ている。
2) quïvïs
の ~vïs は volõ
現在二人称単数だから
に訂正しておく
(
1私は欲する J
) の直説法
8) F
.Hoffmann,不詳目
q
u
i
v
i
s は “ anyo
n
eyou
9) A
. Mez,不詳.
1
ike" の意味である.
3)マールクス
1
0
)a
v
o と言ったのは Hannoではなく M
i
l
p
h
i
oであ
ポルキウス・カトー(前2
34-149
る.
年) ・大カトーが理想とした u
i
rbonus (良きお
1
1
)D
i
e
l
s,不詳.
のこ)は「確固堅実,口に二言なく,自己の正当
1
2
)V
a
t
r
o
s
l
a
vJ
a
g
i
c 0838-1923年)
クロアティア
な権利は熱烈にこれを護り,かつ自己の財産と国
のスラヴ語学者.オデッサ,ベルリン,ペテルブ
家に帰属する財産とのけじめをはっきりつけ,客
ル グ , ヴ ィ ー ン 各 大 学 教 授 . Archiv jur
s
l
a
w
i
s
c
h
eP
h
i
l
o
l
o
g
i
e を書リ刊した.
畜なまでに節倹で,さらに祖国への忠心は自己否
定にいたるほどの男子 J(P グリマル)であった.
1
3
)C
h
r
i
s
t
i
a
nBarthromae 0855-1925年)
ドイツ
そ し て 自 ら こ れ を 実 践 し L、つもは水しか飲まず,
のイラン学者
身体の弱った時にだけ安いぶどう酒を口にしま
シュトラースブルク,ハイデ、ルベルクの各大学教
た僅かな使途不明金のために第二次ボェニ一戦役
授.サンスクリッ卜や比較言語学にも精通してい
の功労者スキーピオーを弾劾した
ハレ,ミュンスダー,ギーセン,
f
こ. V
o
r
g
e
s
c
h
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c
h
t
ed
e
ri
r
a
n
i
s
c
h
e
n Sprachen
彼は当時最大
の弁論家の一人て、あっただけでなく,ローマ最初
(
1
8
9
5
),A
l
t
i
r
a
n
i
s
c
h
e
sW
o
r
t
e
r
b
u
c
h(
1
9
0
4
) 等の著
の偉大な散文家でもあった.史書『起元論」一巻
書がある
1
4
)T
heodorNaldeke 0836ー 1
9
3
0年 ド イ ツ の 東
と息子に与えた『訓戒集』が伝存しており, ~農
事について』後者の一部て、ある.
洋学者
4) T
a
b
u
l
a
eB
a
n
t
i
a
e は1
7
9
3年に A
p
u
l
i
a州 B
a
n
t
i
a
タパリーの史書に施した詳細な訳注, ~マホメッ
で発見されたオスク語の碑文で,ラテン文字で書
かれてレる
ゲッテインゲン,キール,シュトラース
フ、ルクの各大学教授. ~コーラン」の批評的研究,
一 方 C.A.がどの碑文を指すのかよ
ト伝』の著書の他,
くわからないが, T.B と共に多くの碑文のうち
1
現 代 シ リ ア 語 文 法 Jを編集
した.
1
5
)F
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a
n
zG
r
i
l
l
p
a
r
z
e
r(
I7
9
1ー 1
8
7
2年 オ ー ス ト リ
最重要の二点と言われている 1
7
4
5年発見のアベッ
アの劇作家.
ラおよびノーラ両町聞の協定であると思われる-
2
4年 キ
1
6
)D
e
b
e
t はもちろんラテン語の d
e
b
e
o1
ある人に負
ケローやアッティクスの友人.アッティクスの頼
債がある」の三人称単数現在形 d
e
b
e
tからきてレ
5)コルネーリウス
ネポース(前 9
9頃
みに応じて「著名人士録J を書き,これは後にプ
る.
1
7
) 日本語では「たそがれ」は「誰そ彼」が, 1
かわ
ルータルコスやスェー卜ーニウスによって取り上
げ ら れ7
こ.
J は「彼は誰」か名詞化したもの
たれ(どき )
1
8
)T
h
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o
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o
s
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sA
l
e
x
a
n
d
r
i
n
u
sをヴァッカーナーゲ、ル
6)テレンティウス(前 1
9
0頃 -159年 ロ ー マ の 喜
劇詩人.カルタゴに生れ,ごく若い頃奴隷として
は 紀 元 後 6世 紀 の 人 と し て い る が , Choero-
ローマに連れて来られ,元老院議員ガーィウス・
b
o
s
c
u
sが後 4-5世紀の文法家と思われるので,
4
5
T
h
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i
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sは G
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k
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s
hL
e
x
i
c
o
n がそうし
の初代図書館長,ホメーロス,へーシオドス,ア
ているように「紀元後 4世紀(引の文法家」であ
リストパネース,エウリピヂース,アラートスに
ろう
関する論述がある当時,文法は言語のあるべき
1
9
) 喉音理論にも寄与した A
l
b
e
r
tCuny のことかと
姿の記述であるべきか,それともあるがままの姿
思われる
の記述であるべきかについてアレクサンドレイア
2
0
) 南米の南端部にある島で, T
i
e
r
r
ad
e
lFuegoI
火
の学者とぺルガモンの学者は対立しており,アリ
の地」はマジェランの命名.
スタルコスやその弟子ディオニューシオス・卜
21)世界の言語の中には「四数」を持つ言語があるそ
ラークスは a
n
a
l
o
g
i
a 説を,ストア学派の哲学者
クリュシッポスは a
n
o
m
a
l
i
a説を成していた.ス
うである
2
2
) 西スラヴ語の一つであるカシューブ語の方言.
トア学派の文法論の影響を受けていたクラテース
2
3
) エサウがヤコブに言ったのである.
もa
n
o
m
a
l
i
s
t であった.
2
4
)O
t
f
r
i
e
d von Weissenburg (
8
3
0頃 -870年 頃
中世ドイツの詩人
アルザ、スのヴァイセンブルク
修道院の修道士.その
3
2
) FranzB
o
1
1(
18
67-1924年)のことか
3
3
) Loeb版によれば A567 と r459 には双数形は
Liber Evangeliorum
見当たらない
Dominig
r
a
t
i
at
h
e
o
d
i
s
c
ec
o
n
s
c
r
:
幼t
u
s(
8
6
8頃)はキ
r279 は一行前から引用すると次
のようである.
K
o
l
Iπ
or
,
叫o
iKOI.iy
O
l
.
i
,
.
l
O K
O
I
.
io
i
'U
πe
v
e
p
{
}
e
リストの生涯を古高ドイツ語で歌ったもので¥初
K何 lovr
O
l
.
c
めて頭韻の代わりに脚韻を用レてし、る
のめのπo
v
cT
I
v
v
a
{
}
o
v,oncK
':
i
n
i
o
p
K
o
v
2
5
)F
e
i
s
t,不詳
2
6
)F
r
i
e
d
r
i
c
h Leo (
18
51-1914年)
学者.キール,
o
μ
δ
u
σ,
I
!
ドイツの古典
ロストク,シュトラースブルクまたもろもろの河川,また大地,また地の下の
ゲッテインゲンの各大学教授ーセネカを初めとす
冥界で,誰にもせよ偽誓をやった場合には,命終
るローマの作家の校訂,特にプラウトウスの研究
えたとき,その人間どもを仕置きなされる両柱の
で知られる.
御神たち一一呉茂一訳)
2
7
) ~アポツローン讃歌』は「デーメーテール讃歌』
両柱の御神(=冥界の王フ。ルートーンとその妃ベ
r
i
v
v
σ{
}
o
v(
r
i
v
v
μ
,
ω の
や『へルメース讃歌』と共にホメーロスの名のも
ルセポネー)とあるので
とに{云存しているので,これらは『ホメーロス讃
現在二人称・双数形)が使われたのであろう.
歌』と総称されるが,作られた年代も作者もまち
3
4
)E
.Hasse,不詳
まち. しかし韻律はホメーロスと同じくヘクサメ
3
5
) デイナルコス(前 3
6
0頃ー 2
9
0年頃)
トロス(六歩格)である
アテーナイ
十大雄弁家中最後の人コリントス生れの在留外
2
8
) アラートス(前 3
1
5頃一 2
4
0年 頃 キ リ キ ア の ソ
人であったので,自ら演説することが禁じられて
ロイの人.教訓的叙事詩人エウドクソスの天文
いた. I
外形のみに成功した,器用な演説代作者
学の本を韻文にした「現象」が有名.
. (高津春繁) 6
0篇の演説中,デーモ
にすぎない J
2
9
) ゼーノドトスはアリスタルコスおよびアリストパ
ステネースを糾弾する演説を含め三篇が残ってい
ネース(喜劇作者とは別人)と共に三大ホメーロ
3
0
) エラトステネース(前 2
7
5頃
る
3
6
) Herm.Schmidt,不詳.
ス学者と言われる
1
9
4年 頃 ア レ ク
3
7
) 第二回の翻訳では『語の選択』と訳していたが,
サンドレイアの図書館長で,典型的なアレクサン
これは動詞および名詞の選であることがわかった
ドレイア学派の学者彼は「ベータ」と揮名され
たが,それは彼が詩ではカッリマコスに次ぎ,哲
ので,このように改めた.
3
8
) ニカイアのパルテニオス:前 7
3年にロー 7 に捕虜
学ではクリュシツポスに次ぎ,天文学ではアリス
として来,この地で挽歌形式の詩を書き,ウェル
タルコスに次ぎ,数学ではアルキメデースに次ぎ,
ギリウスやコルネーリウスーガッルスの師となっ
学識ではゼーノドトスに次いでよくできたからで
ある
しかし地理学と年代学では誰にも劣らなか
た
3
9
) フラーウィウス
ヨ ー セ ー ポ ス ( 後 37-100年
頃 ユ ダ ヤ 反 乱 軍 の 指 導 者 の 一 人 . ~ユダヤ戦
った
31)マロスのクラテースは前二世紀中葉のぺルガ、モン
史」や『ユダヤ古事記』を甚だこなれないギリシ
4
6-
ア語で書いた.
4
0
) ヂィオーン(後 1
2
0年頃没)
し,印欧語とセム語の子音問の対応関係を証明し
ピーテューニアの
ようとしたーまた印欧祖語にはセム系の言語に見
プルーサの人,その雄弁の故に「黄金口 (
C
h
r
y
s
o
-
られる喉音が幾つかあり,これらが母音と合わさ
s
f
o
m
o
s
)
J と濠名された.フラーウィウス朝に反
って長母音を生じたと仮定し,喉音理論にも貢献
対したため,政治犯の罪を関われ,国を追われ,
した.
4
8
) Iデーメーテールとぺルセポネーはエレウシース
放浪の説教者となった
41)共和制下のローマて、は執政官は二人置かれた.ー
を始め,ギリシアの地の秘教の二大女神であって,
方が強力になり過ぎるのを防ぐためである.
Wギ
コレー《乙女》の名で敬い恐れられていた J(
4
2
) アテーナイオス(後 2
0
0年 頃 食 物 と 宴 会 に 関
するあらゆる方面の話題をシュンポジオンの形式
5巻の著者
で述べた『デイプノソビスタイ J1
リシア・ローマ神話辞典 J
,p,2
5
2
)
4
9
)l
u
m
b
i
f
r
a
g
i
u
m をプラウトウスは「腰抜け」の意
こ
味で用いているが,ひょっとしたら彼の造語であ
こに引用された抜粋によってのみ知られる作家も
るかも知れな L、
5
0
) ノfロスのアルキロコス(前 7
0
0年 頃 の 人 新 し
多い
4
3
) El
. 949-50,…,叫 ,
1
.
'A
u51
/cλ 4
ゐν
く現われた二つの詩型,エレゲイアとイアムボス
d
π
E
σ
τe
p
ηK
eK
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Iμo
v
aλ
E
λe
i
.
μ
μ
ε(
}
o
v
.
を自由に駆使し,特にイアムボスを完成させた.
(みんな冥府の王がさらって行ってしまって,
残ったのはわたしたち二人だけ
貴族の私生児として生まれ,傭兵となり,不名誉
松平千秋訳)
にも楯を棄てて遁れたこともあったが,ついに戦
λ
E
λe
,i仰 e
(
}
o
vは λ
e
i
π
ω 「残す」の中ー受動態現
場で世を去った警句,三歩格の詩,動物の寓話,
在完了目一人称・双数形である
悪口を含む多くの作品が残っている
P
h
il
. 1079,… ν
ゐ μe
vo
u
vo
p
μ
,のμe
(
}
o
v,
(では,われわれはさきに行く
51)へーシュキオス:紀元後五世紀頃のアレクサンド
久保正彰訳)
レイアの辞書学者.その辞典はアリスタルコス,
o
p
μ
,
φ
μe
(
}
o
vは dρμ&ω 「動かす,追い立てる」の
へーリオドーロス等の辞書に基づいているが,稀
中 ・ 受 動 態 現 在 ・ 一 人 称 ー 双 数 形 . vの が あ る
な語葉,方言,碑文などを研究していて貴重.
5
2
) イオーニアの町.
ので,ここは「我々二人は」と訳す方が正確
4
4
)P
e
t
e
rE
l
m
s
l
e
y (1773-1825):オックスフォード
5
3
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r
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c
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t
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l(
1
8
5
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1
9
2
2
) ドイツの言語学
Die Hau
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l
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r(
1
8
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2
),L
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x
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o
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u Homer (
1
9
1
4
),D
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eh
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o
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s
c
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nP
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nb
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sz
u
rK
e
i
s
e
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z
e
i
t
大学古典学教授であった.
者.ハレ大学教授
4
5
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1
'4
85 の π
E
ρl
d
のμe
(
}
o
v は今では一人称複数の
ゐμe
(
}
α に直されている
r
e
p
l
d
4
6
) テウクロスはサラミース王テラモーンとへーシオ
ネーの子
大アイアースの異母弟
(
1
9
1
7
)等の著書がある.
すぐれた射手
で,兄と共にトロイアに遠征した
4
7
) HermannM
o
l
l
e
r(
1
8
5
0
1
9
2
3
): オ ラ ン ダ の 学 者 今 回 も 訳 文 に 日 を 通 し て い た だ L、た同僚の松川弘氏
1
9
0
6年に S
e
m
i
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i
s
c
hundl
n
d
o
g
e
r
m
a
n
i
s
c
h を著わ
一広島工業大学ドイツ語講師ーに謝意を表します)
- 4
7ー