王族・皇族の国際的血縁関係

王族・皇族の国際的血縁関係
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
はじめに
ヨーロッパでは王制をとる国家が多い。その昔はほとんどが王制であった。しかも、ここでしばしば
王族・皇族が血縁関係にある。時に外国の他王家から出た国王にして、その支配下の国民とは別の母語
をもち、当の国民に向かって話しかけることさえままならないこともある。たとえば、神聖ローマ帝国
(ドイツ皇帝)の出自ながらスペインで生まれ、その母語はスペイン語となってドイツ語を話せないフ
ェリーペ二世のような国王もいる[注]
。ハノーファ家(ドイツ選帝侯)の出のゲオルクがアン女王の後
を継いでイギリス王ジョージ一世となったのもそうした部類に属する。
[注]スペイン王家はナバラ=アラゴン家、レオン=カスティーリャ家、ハプスブルク家、ブルボン家と
目まぐるしく変転し、現在のスペイン王ファン・カルロスはブルボン家系統に属する。隣国のポル
トガル(1910 年に王制廃止)もフランス、カスティーリャ、ハプスブルクの血が入り乱れている。
北欧三国ノルウェー、デンマーク、スウェーデンとなると、あまりに入り組んでいて素人目にはわ
からないほどだ。
ヨーロッパでは王統が絶えるか、または政治的、その他の理由で王の譲位が生じた際にしばしば、他
国の王家から後継ぎや配偶者を迎え入れられる。このようなことがなぜヨーロッパでは可能になるのか、
また、逆にいって、ヨーロッパ以外の文化圏ではそうした例が少ないのはなぜ ― これがここでとりあ
げようとする問題である。
フランス第二帝政末期の出来事に関連していえば、普仏戦争開戦の直接の契機は、スペイン王イサベ
ラ二世の譲位に伴ってスペイン王の後継者としてプロイセン王家ホーエンツォレルン家傍系のレオポル
トが王位候補に挙がり、これをフランスが忌避したことに発する[注]
。また、それより数年前のメキシ
コ干渉戦争において、ナポレオン三世はハプスブルク家からマクシミリアン招き、彼を力づくでメキシ
コ皇帝の座に就けたことがあらゆる紛議の因となった。結果的に土着民族の反撃に遭い、哀れにもマク
シミリアンは処刑され、この不幸をもたらしたフランスの国際的孤立を招くことになる。
[注]フランスが同じ血統のプロイセン王家の 2 国に挟まれることになる。これは 16 世紀の前半にフラ
ンソワ一世治下のフランスがハプスブルク家のドイツとスペインに挟まれた出来事に酷似している。
A.皇帝と国王
数年前のことだったか、平清盛を主人公とするNHKの大河ドラマが始まったとき、ドラマの中で天
皇を「日王」と呼んだかどうかで物議を醸しだしたことがある。
「天皇」の呼称はわが国独特のものであ
るのは自明だが、われわれはふだんふつうに国家の主権者を「皇帝」と呼んだり「国王」と呼んだりす
るが、なんとなく、前者がエラく後者は前者に従属するイメージをいだいている。さしあたっては、こ
のあたりから解説することにしよう。
「皇帝」
「天皇」
「国王」は東アジアに固有の観念であり、これら三者の関係とヨーロッパにおける「皇
帝」と「国王」の二者関係とは区別してかかる必要がある。ここでのわれわれの課題は後者ヨーロッパ
での「皇帝」と「国王」の違いであり、これを詳しく述べる関係上、前者について先に簡単にふれてお
こう。
1
(1)中国の皇帝 — 「中華思想」との関連で
中国で「皇帝」の称号が用いられるようになったのは秦の始皇帝である。「始皇帝」
、まさしく「皇帝
の始まり」の意だ。彼の本名は秦王政。以後、2千年以上に及ぶ歴代王朝の君主の称号はすべて「皇帝」
となった。この称号を創始した秦王の意図は宇宙の最高神であり、万物の総宰者である「煌煌たる上帝」
に自らを比擬し、それまで地上に出現したどの君主よりも遥かに優越した地位と権威を天下に示すこと
にあった。
「始皇帝」は死後にたてられたおくり名であり、在位中は「皇帝」と称するだけであった。
皇帝の称号は漢王朝にも継承されたが、漢の支配体制は郡県制を緩め、これに伝統的な封建的な論理
を加味した郡国制とした。秦代は法家思想が中心であったが、漢王朝では儒家思想が復活し、
「天子」の
称号も復活した。つまり、天から使わされた(命じられた)現世の王というわけである。
かくて、漢の皇帝は「皇帝」と「天子」称号を併せ称することになった。地上における最高権力者と
して君臨するとき、および祖先の霊を祀る場合には「皇帝」を名乗り、天地の諸神を祀るときは「天子」
の号を名乗るのである[注]
。天命を受けた者として外国の君主と交渉する際にもこの「天子」の称号が
用いられた。よって、皇位(兼王位)継承のとき新権力者は「皇帝権」受任の儀式と「天子権」受任の
二重の儀式を経なければならなかった。以後、こうした両号併用のあり方は以後の歴代王朝でも受け継
がれることになった。
[注]中国の王宮の中心に明堂 ― 建物自体が方位、四季、1年の推移などの宇宙の原理を表象する ―
があるが、王がここを回ることによって宇宙の運行が保たれるというのだ。こうして王は宇宙論的
表徴の集中される中心であり、自己権力の起源の正当化をはかるのだ。
世界で「皇帝」を名乗ることのできるのは中国の主権者のみであり、ましてや東方の海の彼方にいて
、、、、、、
時おり朝貢をしてくる倭国の王が「皇帝」または「天皇」と名乗るのはもってのほかというわけであり、
「倭王」または「日王」で十分となる。この問題にふれる前提として、成立由来こそ異なるが、上述の
考え方と癒着し、今の中国人にも根強い考え方になっている「中華思想」にふれておかねばならないだ
ろう。
「中華思想」の起源はそれほど古くはない。北宋の人々が異民族契丹に屈して「澶淵の盟」を結び(1004)
、
毎年銀と絹を貢ぐことになった。この屈辱盟約の反動で北宋の人々は「自分たちこそ正当の中華だ、漢
人だ」と言いだして、傷ついた自尊心を慰め、新しく北方に興った契丹帝国を成り上がりの「夷狄」と
(1084)において体系だった説明がなされ
蔑んだ。北宋の宰相司馬光が主となって編纂した「資治通鑑」
ている。契丹がどんなに広大な地域を平定し、軍事力が強大でも、
「夷狄」は文化をもたない蛮人で、
「中
、、、、、、、、
華」だけが本当の文明人だという、一種の負け惜しみから出てきた史観である。特定の種族を「文明だ
野蛮だ! 先進だ後進だ!」という論議の出発点は案外こうしたコンプレックスに支えられているのだ。
コンプレックスをもたない者、本当の意味の自信をもつ者はふつう優劣を問題にしないものである。
<参考文献> 岡田英弘『中国文明の歴史』
(講談社現代新書、2004 年、ppl.123~125.)
「中華」の周辺に「夷狄」
(野蛮人)がいるところから、
「中華思想」を「華夷思想」と呼ぶこともあ
る。この思想はもともと儒教の王道政治論の一部として形成された。儒教は天子がその徳によって民を
遍く教化することを理想とするため、王者の住む中華の土地はむろんのこと、辺境や塞外も「王者」の
及ぶはずの地域であり、たとえ現在は夷狄であっても、将来いつの日か中華文化に同化する可能性があ
ることになる。
2
こういった王者の徳を基準にした文化的同化思想が中国で形成されたのは、戦国時代(BC5~3世
紀)から秦・漢の時代にかけてのことであった。それ以前の春秋時代(BC8~5 世紀)ころまでは異
民族は中華の諸侯から政治的に排除されるだけであった。ところが、
「戦国七雄」と呼ばれるような比較
的広い領域を支配する国家が出現するようになると、従前の異部族も郡県制度支配のなかに取り込まれ、
「王者」の徳が及べば中華に上昇する可能性があると見なされるようになった。今の中国の教科書のな
かで秦・漢の両国が特別に高い評価を与えられているのはこのことと無関係ではない。
中華思想が異なった部族の文化の存在を認めるのは、彼らの文化的価値を承認するからではない。あ
くまで中華文化に同化する可能性をもつ限りにおいてである。したがって、外国から来る使節も、中華
を慕って「朝貢」したというかたちによってのみ例外的に受け入れられたのである。
中国の歴史を概観して奇妙に思われることは、
「中華の国」と「夷狄の地」の境界を明確に区切らない
ことである。つまり、中華思想は自国を天下唯一の権力と考えるため、隣接する対等の国の存在を認め
ない。ここまでが中国だとし、自らを限定する国境や領土の観念をもつことは「王化」の拡大する可能
性を否定することになるからである。それゆえに、国境紛争は東西南北の全方向においてロシア、モン
ゴル、ウィグル、チベット、インド、ヴェトナムなどとのあいだにくり返されてきた。一方、中華思想
に起因する弱点もある。国境や領土に関する観念の曖昧さが近代以降に西欧列強がアジアに進出したと
き、列強による中国領土や利権の分割を容易にさせた面もある。
「中華思想」と、いま問題になっている中国の膨張主義とはひとまず分けて考えることも重要
ただし、
、、、、
である。
「中華思想」は文化的優位観にもとづき、周辺国が自主的に朝貢というかたちで臣従してくるこ
とを指すのであって、それをしないからといって周辺国を直ちに制服することを合理化するものではな
い。朝貢政策は中華を統一した王朝として「礼」の秩序を世界に拡げようとするイデオロギーに支えら
れ、中華の「徳」を慕って朝貢してきた各地の政権の長に王侯君長などの爵位を与え、身分の序列をつ
くるメカニズムである。朝貢メカニズムに参加した政権はその相互のあいだにも序列が生まれ[注:こ
れを「冊封体制」
]という。貿易の構想、遭難者の送還などの実務的な交渉も「礼」に基づいて実践され
ることが期待されている。
建前はそうであっても、文化の優越は単に文化の次元にとどまらず、宿命的に領土政策に結びつかざ
るをえない。だから、中華の勢威が強大であるときはつねに領土的膨張主義を伴うことになる。秦、漢、
唐、宋、元、明、清、中華人民共和国などすべてそうである。現在の中国の膨張政策は上記のメカニズ
ムと歴史において考察しなければならない[注]
。
[注]中国の膨張はもともと陸地の国境線変更というかたちで進むのを常とし、島に及んだのは 17 世紀
の台湾を嚆矢とする。中国は長く鎖国体制を敷いていたことに示されるように、もともと海洋や海
外領土に対しては関心がなく、台湾を領有するのは 17 世紀に入ってからにすぎない。ここでは原住
民の激しい抵抗に遭遇した。台湾人に中華の思想が希薄なのはそのためである。
話を元に戻すとして、中国では長いあいだ事実上、
「皇帝」と「天子」は同一人物を指すのだが、現実
政治における役割は違う。
「天子」は中国にしか存在せず、そのことが「中華思想」の根幹をなす。
そこで問題になるのが日本の「天皇」の存在である。明治維新期の日本政府が「天皇」の神格化をは
かったが、中国はこれを激しく非難した。中国人は君主としての「天皇」は認めるが、
「天子」としての
「天皇」は認めないのだ。
日本における「天皇」の呼称はおそらくは中国の「天子」と「皇帝」の機能を兼ね備えた存在として、
それを模してできた観念だと推定できる。しかし、日本の「天皇」は中国の「天子」や「皇帝」とは異
3
なりしょっちゅう「天命」により交替をくり返す[注]脆い存在ではなく、基本的に万世一系の系譜に
属する。それゆえに、国民にとって貴く、畏れ多い存在として映る。血統の持続性は殊のほか大事に扱
われる。天皇家の女が降嫁して公家や貴族が皇族の血が入るのは極めて名誉あることとされる。次に述
べるヨーロッパの王族や皇族も長続きするケースが多く、このことが血統の優劣の評価に結びつく。す
なわち、長ければ高い評価に、短ければ低い評価に直結するのである。
、、
[注]王者交替を「革命」と呼ぶ。その意は「天命」により政権担当者が変わることを指す。それに応
、
じて天子が座る革製の王座が変わる意である。王座から墜ちた主権者は徹底的に断罪され、その持
ち物や備品もちろん、王宮は破壊されるばかりか遷都は当然であり、時には歴代王墓まで暴かれる。
前王が帰依していた宗教や国是さえも変わる。
このように、語源は同じであっても、その後の歴史展開が異なっているため、中国と日本ではまった
く意味あいが異なるのである。
(2)ヨーロッパの皇帝
西洋での「皇帝」の称号はアウグストゥス以降のローマ皇帝に始まる。ローマ前期の皇帝制度は元首
政と呼ばれるように、最高の「軍隊統帥権 Imperium 」を有したほかはローマ「第一の市民 Princepus」
であるにすぎない。ディオクレティアヌス帝は後期ローマ帝政の専制的支配権を帯びるようになった。
皇帝となるためには自認や世襲ではなく、ローマ元老院で選出されることを条件とする。つまり、外に
任命権者(機関)が存在することを必須とする。
後になると、
「皇帝」はほとんど世襲制に移行するが、それでもなお形式的には任命権者がその是非を
決する。この点で、世襲をもって自動的に後継者となる王制とは区別されなければならない。本人がい
「ニセ皇帝」とならざるをえない。時に、
くら「皇帝」を僭称しても、任命機関が「是」としないかぎり、
神聖ローマ帝国がそうであったように、皇帝を選出するのに有力な「選帝侯」と言われる有力諸侯から
成る機関があった。先帝の死ごとに選帝侯会議が招集され、ここで次の皇帝をだれにするかを決めるの
である。7 人から成ったから「七選帝侯会議」と言われた。史上最小の選挙区である。
先走りすぎたようなのでローマ皇帝に話を戻す。ローマ皇帝権は帝国の東西分裂以降、2人の皇帝に
よって分有され、東ローマ皇帝権はビザンティン帝国の滅亡(1453)まで存続し、西ローマ皇帝権は西
ローマの滅亡(476)とともに消滅した。
紀元 800 年におけるシャルルマーニュが皇帝に選出されたことはある意味で西ローマ皇帝の復活であ
り、オットー一世以降の神聖ローマ帝国の皇帝権もカロリング家の皇帝権の復活であった。これら中世
ヨーロッパの皇帝権にはローマ的要素以外にゲルマン的要素とキリスト教世界全体に対する、具体的に
はローマ教皇権に対する世俗的権力による保護者の皇帝という概念に変わっていく。
ローマの皇帝は神の代理の意味あい ― それゆえに皇帝崇拝が強制される ― を帯びていたが、中世
ヨーロッパの皇帝は世俗の支配者でしかない。しかも、皇帝になるには教皇による皇帝戴冠の儀式を経
なければならない。これは本質的に精神世界の最高権威と世俗世界の最高権威の衝突という宿命的な対
立を内包するものであった。このことが多位聖職者の叙任権を皇帝と教皇で争う「叙任権闘争」となる。
また、皇帝の側も教皇権の束縛から解放されたいとの願望から、カール四世の金印勅書が皇帝選挙の法
的手続を確立したことによって、教皇の皇帝承認権を実質的に骨抜きにし、教皇による皇帝戴冠の伝統
も色褪せてしまう[注]
。
[注]世俗の支配者が教皇の支配を免れたことは必ずしも好つごうというわけにはいかなかった。
「神聖
4
性」が消失したばかりではない。代替わりごとに選挙で皇帝につくためには有力領主にたいしてそ
、、
のつど、なにがしかの代償を払わねば(すなわち買収)ならなかった。つまり、有力領主は皇帝の
支配から離脱しようとしたから、結局は領邦国家の分立状態を許容することになったのである。
もともと皇帝の称号はそれが国家や民族の範囲を超えた全世界的支配権である要素をかかえていた。
ローマ帝国は全地中海世界を支配し、カロリング帝国も西欧キリスト教世界のほとんど全部を支配して
いたため、皇帝の現実的支配権とその理念的要求との間のズレはなかった。ところが、神聖ローマ帝国
の場合は皇帝権の担い手がドイツ以外にブルゴーニュとイタリアのみを実質的支配したにすぎないドイ
ツの国王であったため、
皇帝権の理念と現実の乖離が生じた。
中世の法制史家は前者を
「権威 Augtoritus」
と呼び、後者を「権力 Potestus」と呼んで区別するが、この権威は皇帝が名実ともに全カトリック教会
に君臨するローマ教皇権の保護者であるという側面を媒介にしなければ、現実政治のうえで何らの意味
ももちえない。中世後期から近代にかけて皇帝権が教皇権との結びつきを失うにつれて、皇帝権自体も
その実質的意味を失い、ついには単なる国王の称号と一体化してしまう。
絶対主義の確立する近世以降、皇帝権は実質的意味を失い、単なる君主の称号に変化した結果、ロー
マ的・中世キリスト教的皇帝権と理念的なつながりがなくなると、君主=神聖ローマ帝国の解体(1806)
[注]以後は単位オーストリア帝国の君主でしかなくなったハプスブルク家はもはやもともとの意味に
おける皇帝からはかなり離れてはいるが、超国家的・超民族的支配権を帯びているという意味で「皇帝
権」から完全には離脱していない。また、ビザンティン帝国の滅亡により消滅した東ローマ帝国の皇帝
権の継承を自認するピョートル大帝以後のロシアの君主の場合も、まだ世俗権と宗教支配権の兼任が想
定されているため、皇帝の称号に値する面が残っている。
[注]1805 年 12 月、アウステルリッツの「三帝会戦」で仏帝ナポレオンはオーストリアとロシア連合
軍をうち破り、1806 年 7 月にフランスの保護下にライン連邦を組織したことによって、名実ともに
神聖ローマ帝国は消滅するにいたる(同年 8 月)
。神聖ローマ帝国は実に 845 年の齢を数えていた。
ところが、ドイツ統一後のホーエンツォレルン家の皇帝ヴィルヘルム一世、ナポレオン一世とその後
継者を自認するナポレオン三世[注]となると、
「皇帝」という名称が本来もっていた①超国家的・超民
族的支配権、②教皇の擁護者の考え方は吹っ飛んでしまう。わずかに皇帝の称号認証式にカトリック教
会の代表者から戴冠してもらうという儀式だけが残るにすぎなくなった。統一後のドイツ帝国はプロイ
セン王国、バイエルン王国、バーデン大公国その他領邦国家の寄せ集めにほかならず、プロイセン王国
の国王がドイツ帝国の皇帝を兼ねるという、本来の皇帝の姿からほど遠いものとなった。
[注]普仏戦争の戦闘がまだ継続中であったものの、ドイツ軍の勝利がもはや確実となった 1871 年 1 月
18 日、ヴェルサイユ宮の鏡の間でドイツ第二帝国建国式典がしめやかに挙行された。ここに参列し
たのは西南ドイツ諸国の国王、そしてこの場で皇帝となるプロイセン王である。バイエルン王によ
る推挙を経てプロイセン王が皇帝に選出された。1 月 18 日は偶然の日ではない。それよりちょうど
170 年前の 1701 年のこの日にプロイセンは王国になったのである。
、、、、、、、、、、、、
フランスのナポレオン一世と三世はともに、当人が指名選出した元老院の議を経て皇帝の座に就
くのである。
(3)ヨーロッパの国王
なぜここで改めて「国王」を問題にするか。それはプロイセン国家の成立との関連においてどうして
5
も外すわけにはいかないからだ。ある国家における主権者が世襲的である場合に国王と呼ぶのは自明だ
が、そもそも国とは何かを明らかにしておく必要があろう。邦語にもたとえば「武蔵国」と「日本国」
という差異がある。英語にも‘State’‘Country’
‘Nation’がある。
国家をなす基礎的条件はふつう、領土、国民、主権の3要素を具備していなければならない。このう
ちのどれひとつ欠いても、語の全き意味での国家とはならない。だが、3つ目の主権は微妙である。そ
れは追々述べる。
(A)領土は重要である。いかなる国も境界線によって区切られた領域をもつ。それの大小は国家条件の
要件では問題ではない。ロシア、中国、アメリカ合衆国、カナダのような広大な面積をもつ国もあれば、
モナコ、スリランカ、シンガポールのような小さな領域をもつ国もある。
(B)領土のなかに人間が居住していることも重要である。人が住まなくても国家となりうるか?―はと
うてい考えられない。領土の人口の大小や民族または人種が単一か複数かは大きな問題ではない。
(C)一番微妙な問題は主権の有無である。主権とは①統治権、②他の力に左右されない最高権威、③政
治のあり方を決める権限である。これらのうち、②と③は宗主国などの庇護のもとにある国は喪失して
いることが多い。完全な植民地とまでいかなくても、かつてのイギリスの間接支配下のインドのような
従属国では②と③は大きな制約を受けている。直接支配を受けた植民地では①の統治権すらもないため、
主権はないと見てよい。統治権に含まれる力のなかで軍事・外交・政治・経済・社会政策などの運営に
おける自由裁量があるかないかは最重要である。
国家の形態に民主政、貴族寡頭政、王政、独裁政などの別があるが、それは主権行使のあり方の別を
を言っている。また、民族国家 Nation State または多民族国家 Multinational State というのは、国
家の構成要素の民族の単一性または複数性を示す。主権の行使において主権在民を基礎におき、それを
代議制民主主義で裏打ちした政体において「法の支配」に基づく統治をおこなうものを近代国家という。
この問題は重要ではあるが主題から離れるため、これ以上はふれない。
さて、主権をもつ国家の一形態の王政に移ろう。王政は君主政ともいう。一般には世襲の君主が、特
定の政治共同体において主権をもつ政治形態を指し、17~18 世紀のヨーロッパ市民革命前には数多く見
「唯一者の支配」の意)と呼ぶ。
られた。王政は一人支配であるから、英語では Monarchy(
ここでひとつ、面倒な王政がある。「複合君主政 composite monarchy」と言われるものがそれだ。つ
まり、一人の人物が複数の王国の王を兼ねるケースがそれだ。①1397~1523 年のデンマーク、ノルウェ
ー、スウェーデンの 3 王国、②1603~1707 年のイングランド王国とスコットランド王国、③カスティー
リャ王国、アラゴン王国、ヴァレンシア王国などは歴代の王が漸次併合していった諸王国の複合体であ
った。王政は世襲を原則とするのだが、それでも 1573 年のポーランド王国のように選挙で国王を選ぶ王
国も存在した。
王政はアリストテレスの分類にもあるように、貴族寡頭政、民主政とともに歴史上最も古くからある
政体の一つである。古代の専制国家、封建諸侯の支配した領邦国家、絶対王政国家、近代以降ではイギ
リスのような立憲君主政、ロシア革命とドイツ革命前のロシアとプロイセン、明治維新から第二次大戦
までの日本に見られるような王専治的な政治体制などが見られる。戦後になると、ヨーロッパで王政を
存続させている国家はイギリス、北欧3国、モナコ、スペインと激減したし、しかもそれらの国におけ
る王は象徴的地位にとどまっている。なぜ激減したかについてだが、それは近代資本主義の勃興ととも
に始まった中産市民層の勢力拡大に伴い、この新興階級と王絶対政に間の軋轢が大きくなったからであ
る。多くは市民層が市民革命を経て共和政に移行したが、残った王政も君主と市民中産層の妥協のうち
に「君臨すれど統治せず」の原則が徐々に確立されていったのである。
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先を急ぐことにして、王国の序列の問題に移ろう。歴史的にみて、王国の主権者が皇帝である場合に
は「帝国 Imperium」
、公爵である場合には「公国 Ducatus」と呼ばれる。後者のうち極大化したのが、ル
クセンブルク大公国である。これら王の称号には序列があり、
「王は皇帝の下、公爵の上」と位置づけら
れる。紋章体系のなかでも明確に区分されていた。このため、ある国家が王国と呼ばれるか否かは当該
国の統治者(王)の威信にかかわる問題であると同時に、ヨーロッパの国際環境のなかでその国の対外
的地位を左右する問題ともなりえた。たとえば、中世ポーランド国家の場合、ポーランドの年代記によ
れば、1000 年当時、ボレスワフ・フロブリ公爵が神聖ローマ皇帝オットー三世により「王」の称号を認
められたとされ、
「ポーランド王国 regnum Poloniae」の名称が用いられたのに対し、ドイツ側はこれを
僭称とみなした。選挙王政はドイツの選挙帝政と同じく、王国または帝国の強大化を妨げる方向に働く。
ドイツで帝国の主権分割が無限に進み、領邦国家のモザイク化が極端なまでに進んだ。一方、ポーラン
ドでは民主王政のせいで軍事的な弱体化につながり、近隣国の露・普・独によって分割され、最終的に
亡国の悲哀を嘗めるにいたる。
(4)皇帝と国王の特権 — 爵位授与権・貴族特権・王の神秘性
国王の王たるゆえんは配下の者に対し爵位授与権をもっていたことである。国王の上位に位置する皇
帝が国王を任命するように、国王はその臣下に対し公・侯・辺境伯・伯・子・男爵といった位階制にも
とづく爵位を与えることができた。彼らをひとまとめして「貴族」という。このほかに国王が任命権を
もつ騎士がいるが、騎士は貴族には属さない。国王と臣下の関係は封土の授受を介しての軍事盟約(保
護と軍務)のかたちをとり、したがって、上記の諸貴族はすべて、荘園(領主地)をもつ土地所有者で
あった。この土地を農奴に貸し出して諸賦課(労働地代、生産物地代、貨幣地代)を受け取る。よって、
貴族は生産活動には手を出さない。
臣下が国王に負う義務は軍事的なもののほかに、国王の諮問に応じて各種の相談を受けたり助言した
りすることだった。平時はこれが主要な義務となるが、そうした諮問会議(御前会議)は定期的なもの
と不定期なものとに分かれる。召集されるメンバーの範囲は議題の軽重に依存する。重大事であればあ
るほど召集範囲は広がる。
国王の所在地すなわち宮廷は一定せず、季節により移動するのがふつうだった。ヨーロッパでは季節
の変化が激しいため、夏宮と冬宮の別があるのが一般的である。また、臣下たちはふだんは自らの領地
の城館に居住し、召集令に応じ宮廷に参内した。
しかし、移動宮廷は維持管理や移動の点で費用負担が大きいため、徐々に宮廷は一か所に固定されて
いく。また、臣下たちも己の領地には代理官だけを置き、自らは王宮の近くに別邸を構えるようになり、
ここから国王の所在地と貴族の居住地が重なり合って都となる。ウィーン、プラハ、ブタペストのよう
に最後まで3つの都を維持した神聖ローマ帝国(1806 年からはオーストリア帝国)のような例もあるに
はあるが、どの国も 19 世紀までには都は一つと定め、地方に離宮または保養宮をもつかたちに落ち着く。
たとえば、パリの近辺にはいくつか離宮がある。国王や臣下たちは特段の仕事をもたないため、宮中で
催される宴会や恋愛事、王宮近傍の猟場での狩りに専心するのがつねとなる。
貴族を考えるときに忘れてならないのは、それが高い政治的かつ法的な特権・栄誉をもつことを社会
的かつ伝統的に承認された集団であることだ。それは一面において血統の観念と結びつく傾向があり、
いわゆる人間の中の「貴種」として自他ともに認められるにいたる。そこから、必然的に地位・身分は
世襲されて当然という考え方にいたる。貴族の家格はそれが長く続けば続くほど「貴種」の度合いが高
まり、反対に、新たに貴族に加えられた真参者は「成り上がり貴族」として、元々からいる「生まれな
7
がらの貴族」と分け隔てられる。
「成り上がり貴族」は同じ貴族からならまだしも、身分の「賤しい」庶
民からも蔑まされる傾向にある[注]
。
[注]このような新旧の分け隔てはなにも貴族だけに限らないだろう。今日においてもあらゆる集団(農
村共同体、会社共同体、居住共同体、学校、クラス、同好会、など)のなかでを貫きとおして見ら
れる現象といえよう。それは人間心理のなかに潜む嫉妬心に根をもつ。人間は新参者を歓迎する心
理をもつと同時に、その新参者が自己の地位を脅かす存在であると知ったときは排撃の挙に出るも
のだ。
こうして、貴族はなによりその血統を誇り、祖先の功業を讃え、その血を引いていることを人間的優
越の根拠とした。通常名門とされる貴族は過去 4 代に遡って貴族であることが証明できなければならな
かった。ところが、古い家門を誇っても、世の移り変わりを遮ることは難しい。つまり、国王は(国家
財政の必要もあって)歴史的に貴族層を創出しがちであり、ここから貴族内部に絶えず交代が生じた。
つまり、裕福なブルジョア(平民)から一定の納付金と引き換えに新貴族を募るのである。絶対王政下
で進行した売官制度がこの傾向を助長した。ここから、
「血の貴族」ないしは「剣の貴族」と「法服貴族」
の対抗関係が生じたのである[注]
。
[注]絶対主義の君主はこの対抗関係を巧みに操って自らへの帰依を図ったのである。フランスでは長
年にわたる国王への奉仕や国家への貢献、すなわち官職(特に司法官職)を購入し、その職を勤め
あげることで世襲可能な貴族身分を手に入れることができた。彼らはその多くが富裕なブルジョワ
ジーの出身であり、法律の専門知識や実務経験をもって国王の統治体制を支える新たな社会階層を
形成した。こうした新興の貴族たちは「法服貴族」と呼ばれ、旧来の名門貴族と激しく対立するこ
とになった。
だが、良いことは長く続くものではない。市民革命を経て市民社会になると、貴族は消滅したのでは
ないにしても、法律上の特権を失い、社会への影響力は格段に低下するにいたる。国家への貢献は官僚
や軍属にあったが、この分野でもブルジョワジーの進出が露わになり、それまでの貴族の特権は色褪せ
ていく。貴族が将校を勤める常備軍から国民皆兵にもとづく市民軍が登場すると、血統の良さだけをも
って軍功が挙げられるわけでもなく、彼らの存在感はますます薄れていく。19 世紀になると乞食・放浪
生活をしながらも身分上では男爵ということもまんざらありえない話ではなかった。
貴族の零落ぶりは市民革命後も限嗣相続制の採られなかったフランスで著しく、全国で 3 万家族もの
貴族がおり、そのことが零落貴族を生む因となった。一方、イギリスでは厳格な長子相続制が採られた
ため、貴族は 170 家しかいない。ここから一族の家産が保存され、貴族身分と社会的地位は今なお安泰
である[注]
。
[注]出生率や相続のあり方が家産の維持または分散につながることはよく知られている。わが国でも
江戸時代は子どもの数を制限するため、男子の出生を待望したり「間引き」によって子どもを制限
したりすることがおこなわれていた。家督を継いだ長男が継嗣を残さず早逝した場合は次男が後釜
に座るべく長男の嫁と結婚するようなこともおこなわれた。これもそれも家産の維持のための風習
である。
貴族について最後にのべなければならないことはその固有の価値観である。「貴族風の暮らし vivre
noblement」 ― これは彼らの誇りでもあり、それゆえに他の階層との和合を阻む要因となる。ここから、
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貴族どうしの婚姻が育まれる。その姻戚関係は一国家の枠組みを突き破って国際結婚を助長するものと
なる。
「貴族風の暮らし」とは、自らの城館に起居し実業に携わらず、領地からあがる収入だけで生活し、
武人にしてかつ教養ある紳士として暮らすことである。彼らに求められた徳目は寛大・礼節・気前よさ・
慈悲深さ、勇気といった要素であり、質素や倹約は吝嗇として疎まれた。とりわけ、彼らが商工業に従
事し富を追求することはタブー視され、時には「デロジェアンス dérogéance」として貴族身分を奪われ
ることさえあった。ここまで述べてくると、こうした価値観は質素・倹約を旨とし営利活動に邁進する
ブルジョアジーのそれと対照的なことに気づく。つまり、生まれつき浪費の習慣をもち、贅沢三昧で暮
らすことをモットーとする貴族の生き方は近代資本主義と真っ向から相容れないもの、すなわち、本来
的に零落を宿命づけられた価値観といえる。かくて、資本主義化が進めば進むほど、彼らの行く末は暗
いものとなっていくのは避けられない。
最後に、国王のもつ超自然的な権威にふれておこう。これは封建社会史研究の泰斗マルク・ブロック
Marc Bloch によって示された特質であり、国王が帯びる神秘的な特質が王国の統合に重要な役割を果た
した。
「王の奇蹟」と呼ばれるものがこれである。首のリンパ腺が腫れてグリグリができる瘰癧という症
状がある。今日の医学の診断では結核性のリンパ腺炎である。病に冒され苦難の人生を余儀なくされた
患者に、聖別式(イギリスでは戴冠式)を済ませ聖性を帯びた国王が手で患部に触れると、グリグリが
「治癒者としての王」への信仰がこうして生まれた。国王自身も積極的に
消え瘰癧が治るという[注]。
儀礼を演出し、組織化していくのである。
[注]この瘰癧は放置しておいても自然治癒するものであり、王の触手により治るというのは一種のコ
ジツケであるが、歴史ではそれを暴くことが主題となるのではなく、なぜそうした考え方が生じた
のかが問われねばならない。
この「聖性を帯びた国王」
「瘰癧お手触りの国王」というのは英仏の国王に特有のものであり、聖別式
(戴冠式)を未だ迎えない王子にはそうした神秘性は認められない。これはいうまでもなく一種の信仰
にちがいないが、なぜそれが英仏 2 国にのみあるかが問題にされねばならない。ブロックは中世に始ま
ったこの治癒儀礼がどのような歴史文脈のなかで展開していくかを論じている。彼は当時の知識層と聖
職者層の受け止め方を問いつめ、王の手を通じてのみ神の恩寵が働くという見方の根拠づけをおこなう。
よくよく考えてみれば、これこそ、後の絶対王政期の「王権神授説」の先駆けとなる慣行、つまり教権
と俗権の対抗関係のなかで生み出されてきた信仰であることがわかる。
フランスで治癒行為が王に属する本来的な機能であると公然と主張されるようになったのは、王権が
強化された 13 世紀末以降のフィリップ四世の治世(1285~1314)においてであり、それが全きかたちを
帯びるのは 17 世紀のルイ十三世の治世(1610~1643)からである。イギリスでは少し遅れて 15 世紀末
のヘンリー七世の治世(1485~1509)に始まる。英仏のこのタイムラグはそれぞれの王権伸長の遅速と
深い関わりがあるとみてよいだろう。
英仏の国王はヨーロッパの王朝のなかでも燦然と輝く存在であり、他に例を見ない大権を手にした。
両国の王室の格は段違いに高い。特に 16 世紀末に始まるブルボン朝はヨーロッパ中の王家に相続人や配
偶者を配するものとなる。イギリスのほうはテューダー家、ステュワート家、ハノーファ=ウインザー家
が他王朝への継嗣や王妃を配給することになる。
(c)Michiaki Matsui 2014
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