Voice(平成21年 7月号) / 新型インフルエンザ

【執 筆 稿 】
新 型 インフル エンザ
V o i c e ( 平 成 2 1 年 7月 号 )
21世紀では初めての新型インフルエンザが発生した。新型インフルエンザは豚や鳥といった動物のインフル
エンザウイルスの遺伝子が人間に感染することができるような変異を起こすことで発生するもので、世界中で40
00万人が死亡し日本でも38万人を超える死者がでた1918年のスペイン風邪が有名である。今回の新型イン
フルエンザの震源地はメキシコである。4月22日に「異常なインフルエンザが発生し20人が死亡」と発表したメ
キシコ政府が「非常事態」を宣言した25日、世界保健機構(WHO)も「緊急事態」を宣言した。26日には感染者
が20人となったアメリカが「緊急事態」を宣言し、27日にはWHOが「フェーズ3」から「フェーズ4」に引き上げた。
医学的にいうと「フェーズ3」と「フェーズ4」は天と地ほどの違いがある。その証拠に、WHOの発表を受けた厚
生労働省は、ただちに感染症法に基づいて「メキシコ、アメリカ、カナダで新型インフルエンザが発生した」と宣言
した。政府は麻生首相を本部長とする「新型インフルエンザ対策本部」を設置し、新型インフルエンザを上陸させ
ないための水際作戦として、メキシコ、アメリカ、カナダからの到着便した機内検疫を強制実施をスタートさせた。
2003年にSARSが世界的な大流行をした時に成功した水際作戦の発動である。
この2日後の29日に事態は再び大きく動いた。WHOが世界的大流行(パンデミック)目前という「フェーズ5」
に引き上げたのだ。これらの出来事が1週間で進行したことから、新型インフルエンザの流行拡大のスピードが
よくわかる。ところが、「フェーズ5」になっても日本の対策は同じで、新型ウイルスを上陸させない検疫による水
際作戦が継続された。このように、日本の対策が世界の多くの国と大きな違いがあるのは、島国である日本は
検疫によって新型インフルエンザの上陸を阻止することが可能だからである。
しかし、一たび新型ウイルスが上陸してしまったら、その時点で国内の流行を拡大させないための学校の休校
や外出の自粛といった対策に切り替えざるをえない。日本政府は新型インフルエンザに対する対応を決めるた
めの基準として第一段階から第四段階まで分けている。第一段階の「海外発生期」は新型インフルエンザが海
外で発生していても、日本国内では発生していない状況である。国内で新型インフルエンザの患者が発生すると
第二段階の「国内発生期」となるが、この段階では患者の感染ルートは追うことができる。ところが、患者の感染
ルートがわからなくなると、第三段階の「感染拡大期」に突入する。第三段階は「感染拡大期」「蔓延期」「回復期」
という三つのステップがあり、その後、感染が収まってくると「小康期」と呼ばれる第四段階に移行する。
しかし、いくら島国だからといって、新型ウイルスの上陸を阻止できるかというと、極めて困難である。新型イン
フルエンザには最大で1週間といわれる潜伏期があるので、いくら空港で厳重なチェックをしても、まったく症状
のない潜伏期の感染者が入国してしまう可能性が高いのだ。これが船の時代だったら、新型インフルエンザは
日本に上陸しないですんだはずである。しかし、航空機の発達した現代では、新型インフルエンザの震源地であ
るメキシコや流行地域となったアメリカやカナダはいくら距離的には遠くても、時間的には皆さんが住んでいる家
のすぐ隣りにあるといえる。
実際、5月8日にカナダから帰国した大阪の高校生2人と教諭が新型インフルエンザを発症したことが9日に確
認された。1週間後の16日には水際の検疫でなくヒトからヒトへの感染による新型インフルエンザの患者が8人
も確認された。その後、神戸と大阪でそれぞれ100人を超える新型インフルエンザが発生した。こうしたことから、
今回の水際作戦は失敗に終わったと思われるかもしれないが、それでも一定の効果があったことは間違いない。
WHOが緊急委員会を開催したのが4月25日だったから、日本国内で新型インフルエンザの発症が確認され
た9日まで、水際作戦のおかげで2週間も時間を稼ぐことができたわけである。この間、新型インフルエンザが流
行したときに必要となる「発熱外来」が、5月13までに全国で793ヵ所も設置することができた。新型インフルエ
ンザに関する情報が国民に浸透した結果、ようやく国民にも冷静さが戻ってきた。もし何の情報もなく、いきなり
新型インフルエンザが上陸したとしたら、もっと大きなパニックが起きた可能性がある。そうなったら社会的な影
響だけでなく経済的な損出も、もっと大きなものになっていたと思われる。
こうしたことを考えると、もし日本国内で新型インフルエンザが流行したとしても、かってのスペイン風邪のよう
なことが起きることはありえない。新型インフルエンザによるパンデミックを自然災害の一種と考えると、WHOも
なくウイルスも発見されていなかった90年前のスペイン風邪は地震であり、今回の新型インフルエンザは台風と
いってもいいだろう。新型インフルエンザが台風という意味は、ある日突然襲ってくる地震に対して身を守るため
の準備をしておくことは難しい。
ところが、最新の情報を時々刻々知ることができる台風は、行政が組織的に対策を立てる時間があるだけでな
く、私たち一人一人にとっても個人的に災害に備えることができる。そうはいっても食品を加熱すれば個人的に1
00%予防できるO-157やノロウイルスと違い、個人的には100%予防する手段のない新型インフルエンザは
行政が決めた対策をしっかり守ることが大切になる。そうした対策の中で最も有効な手段が検疫である。
近代医学が誕生する18世紀までの人類の歴史は、伝染病との長い闘いの連続だった。多くの伝染病の中で
特に恐れられたのはペストとコレラだった。1347年10月、地中海に浮かぶシチリア島を襲ったペストは、11月
にはマルセイユやベニスに上陸した。その後、ヨーロッパ大陸を席巻したペストは、当時のヨーロッパの人口の4
分の1に当たる2500万人の命を奪ったといわれる。 ヨーロッパの医学はペストに対して無力だった。1348年
にパリ大学の医学部がまとめた見解をみると、ペストの原因は汚染空気と気象異変であると書いてある。こうし
た中、ペストの予防法に気がついたのはイスラム医学の権威イブン・ハーティマーだった。
スペインのセビリアで異教徒として監獄に収容されていた何千人ものイスラム教徒が助かるという奇跡を見逃
さなかったハーティマーは、この奇跡がアラーの神によるもではなく、イスラム教徒が監獄に隔離されていたこと
にあると気がついたのだ。最初はなかなか受け入れられなハーティマーの「隔離」という考えは、時間がたつに
つれて世の中に広まっていき、屋敷を世間から隔離して自分だけ助かろうとする金持ちも現われた。この隔離と
いう発想を発展させたのが検疫である。ペストの流行地から入港した船の船員を島に30日拘留したうえで町に
入れるという検疫が1388年にマルセーユで始まった。1403年にベニスが導入した検疫は拘留期間を40日に
延長した。検疫を意味する「quarantine」がラテン語の「40」を意味しているのはこのためである。こうした検疫が
広まるにつれて、ヨーロッパ大陸からペストの流行が消滅していった。
ペリーの黒船によって開国させられた日本は、列強に対して不平等条約を結ぶことになる。この不平等条約の
もとでは、コレラの侵入を防ぐのに有効な手段である検疫は認められていなかった。コレラの流行の原因が不平
等条約にあると知りはじめた国民の怒りは、条約改正運動の大きな原動力になっていった。やがて1899年に
条約改正に成功し検疫が行われるようになると、コレラの流行は下火となっていった。
2005年11月、2人の日本人が36年ぶりに狂犬病で死亡した。2人ともフィリピンで犬に咬まれ、日本に戻っ
てから発病した。36年前の狂犬病もネパールで咬まれたもので、日本で咬まれた患者は1956年を最後に発
生していないが、世界では毎年5万人を超える命が失われている。日本が発病したら致命率が100%という狂
犬病の撲滅に成功したのは、四方を海に囲まれているからであるが、戦後の混乱が続いていた1950年に「狂
犬病予防法」を制定し、飼い犬に対する予防接種を義務づけた日本の医療行政の成果といえる。
特定の地域に限定される地震の被害と違い、今回の新型インフルエンザがもし上陸したら、日本中に流行が
拡大する可能性が高いが、それでも夏に向かって一旦は流行が沈静化するだろう。しかし、秋から冬にかけて
再び流行する可能性が高いので、台風情報だと思って新型インフルエンザ情報に注意を払ってほしい。政府が
公開する正しい情報に基づいて国民が冷静な行動をとるなら、スペイン風邪の時のような被害は絶対に起きな
いはずである。ただ、政府はもっと国民にわかりやすい説明をすべきである。例えば、政府が2週間分の食料や
日常品を備蓄をしておくことを呼びかけているが、これは新型インフルエンザが流行した時に外出を避けるため
の備蓄であって、数日分の水や食料を備蓄する地震や台風の時の備蓄とは意味が違う。機内での検疫や学校
の休校、イベントや集会の自粛は国民にとって不便であるだけでなく社会的に問題がないわけではないが、国
内での新型インフルエンザの流行を防ぐためであり、ひいては国民の健康を守るために行うことなのだという認
識に立って行動してほしい。