呑川は流れる・2004

呑川は流れる・2004
まちの川 呑川と くらし
2004 年 6 月
呑 川 の 会
呑川は流れる・2004 刊行にあたって
呑川の会代表
大坪 庄吾
1997年、呑川の会発足以後6年が経過しました。 2003年度計画の中で、今までの呑川の会
の活動をまとめ新たな発展の転機にしたいといくつかの計画が決まりました。
1つは2003年10月からはじめた「呑川とあなたの暮らし」という講座でした。30人の参加者を得
て、呑川の会の研究活動を報告しました。それにあわせて2002年以来計画し、会員が分担してき
た呑川調査を生かした、「呑川マップ」の作成でした。これも完成しました。
3番目の計画は「呑川は流れる・2004」をまとめることでした。1966(昭和41)年 3月、大田区教
育委員会発行の郷土学習資料「呑川は流れる」という冊子があり、呑川についての研究の基本文
献として私たちも活用させていただいていました。地域の河川についてのこれだけの研究はそれ
以後発行されていません。
以後30年 以上たった現在、その後の研究や変化も入れた「呑川を流れる」を発行しようという機
運が盛り上がり、編集が進められました。「呑川は流れる」には1966年の時点での呑川についての
諸研究がつまっています。
今でも活用したい部分がたくさんあります。私たちは大田区教育委員会にもお願いして、「呑川
は流れる」の中から数章を採録する許可をいただきました。誌名を「呑川は流れる・2004」とさせて
いただいたわけも、先人の研究に感謝する気持を込めております。
呑川はこの 30年間に大きく変わりました。「呑川は流れる・2004」の発行は「大田区の子どもた
ちの耳目にふれる身近な地域」に「住民の生活の歴史があり、人々が生活の向上発展をめざして
きた願いが今の区民にひきつがれてきているのである。特に呑川の流域にはこのような資料が多
い」(郷土学習資料 呑川は流れる 発刊に当たって 大田区教育委員会教育長 吉田義雄)、と書か
れている意志を継ぐことにもなります。その歴史と現状をつかむことから次の課題が見つかり、また
活動の転機も訪れるのではないかとの期待もありました。
短い期間の編集のため至らない点もありますが、2004年の時点での呑川についての資料とな
ることと思っています。呑川については学校教育の中で総合学習のテーマとして取り上げるところ
がふえています。大田区を流れる多摩川や呑川は、地域の環境を考え、学習する素材としてたい
へん役立つはずです。水や河川についてのさまざまなネットワークが各地に生まれています。こ
の資料は環境問題にとりくんでいる方々とのネットワークづくりにも役立つと考えています。
この資料は今後も改訂しながら、あらたな研究を盛り込み、最新の成果をお届けすることも考えて
おります。
作成にあたり多くの方々にお世話になりました。紙面を借りて厚く御礼申し上げます。
また本冊子は、(財)リバーフロント整備センターの 平成15年度 「川に学ぶ」活動助成 を受けて
作成されたものであることを付記します。
目
次
1 呑川の今
1・1 呑川の区間ごとの景観·······························································6
1・2 旧呑川の現状········································································13
1・3 世田谷・目黒区内の呑川·························································15
戦後から高度成長前頃の呑川の思い出················································18
都市河川としての神田川観察記·························································21
2 呑川の歴史 ····················································································25
2・1 呑川の歴史 ···········································································26
2・2 流路の変遷
「呑川は流れる 昭和41年」から転載 ·····························39
2・3 新呑川の開削 「呑川は流れる 昭和41年」から転載 ·····························45
3 呑川の水 ·······················································································47
3・1 呑川の水源 ···········································································48
3・2 水質の指標 ···········································································49
3・3 呑川の水質の推移と下水道······················································52
3・4 現状の水質 ···········································································54
3・5 呑川のゴミ ···········································································56
4 流域の土地利用 ··············································································59
4・1 土地利用の現況·····································································60
4・2 土地利用の変遷·····································································63
4・2・1 明治・大正時代の土地利用·············································64
4・2・2 昭和初期の土地利用······················································70
5 呑川の生き物 ·················································································77
5・1 呑川の植物 ···········································································78
5・2 水生昆虫・魚········································································79
5・3 鳥 ·······················································································81
5・4 ユスリカ ··············································································84
呑川生きもの紀行 ···········································································86
6 呑川と水害 ····················································································99
6・1 出水の記録 ········································································100
6・2 現状の水害対策··································································103
2
7 呑川沿いの道路と橋 ···································································107
7・1 呑川沿いの道路と交通事故···················································108
7・2 橋の名と由来·····································································109
7・3 呑川をめぐる为要道路・計画道路··········································112
8 呑川と芸術作品 ···········································································113
8・1 文芸作品 ···········································································114
8・2 映画 ·················································································119
8・3 芹沢 銈介 ········································································120
9 呑川流域の史跡と見学地·······························································123
10 呑川の将来 ··············································································139
10・1 呑川を廻る市民活動 山本理平さんと呑川の会·····················140
10・2 呑川の未来像··································································141
10・2・1 大田区の未来像······················································141
10・2・2 呑川の会会員の未来像·············································144
呑川の水はどこから、どこへ?······················································149
11 索引と付表 ··············································································155
さ く い ん
155
付表 第 1 表
呑川基礎データ
164
付表 第 2 表
流域の人口推移
169
流域の人口と就業者数
170
4部
付表 第 4 表
12 呑川マップ
以上
3
1 呑川の今
1・1 区間ごとの景観
1・2 旧呑川の現状
1・3 世田谷・目黒区内の呑川
戦後から高度成長前頃の呑川の思い出
都市河川としての神田川観察記
4
1・1 区間ごとの景観
工大橋~石川橋(中原街道) ―――――――――――――――――――――――
この間は流れがゆっくり蛇行しており、
橋間も広いのでゆったりした景観になって
いる。呑川では川沿いに桜が植えられてい
るが、片岸だけが大部分で、両岸に植えら
れているのはここ石川台中学の前と上堰
橋・日蓮橋間だけである。開花時は桜のト
ンネルができ見事。桜はソメイヨシノと大
島桜。また公園が9箇所に点在し、緑道軸
らしくなっている。
この間の5つの橋すべてに歩道がついて
いるが、さらに川を眺められる張り出しデ
工大橋から下流
ッキが欲しい。島畑橋左岸には大田区文化
負に指定されている郷倉(鈴木家)がある。島畑橋と島本橋の間に呑川全流域の中で唯
一の歩道専用橋がある。以前ここに丸太の橋が架けられていた名残で、当時は一本橋と
呼ばれていたという。洪水時はよく流されるので、丸太の一端は綱で結えられていたと
か。中原街道にかかる石川橋のたもとに石橋供養碑がある。また、石川橋上流右岸に大
雤時の流水を多摩川へ排出する、中原幹線への流入口が見られるのが不気味な印象を与
える。
呑川沿いの商店としては、島畑橋左岸に絵本専門店「星の子」、島本橋左岸に「和食堂」
「そうざい店」
「庆屋」がある。
ただ、この地区は落合処理場からの処理水の出口になっており、水温が高く、流域の
中でもっともユスリカの発生が多いようだ。
石川橋~境橋(新幹線) ―――――――――――――――――――――――――
この間は、景観としては呑川全流域の中で最も殺風景ではないか。というのは、
①流れが直線であること(過去によく洪水になったことを配慮したのかもしれないが)
②橋が多く橋間距離が狭い。この区間の平均101m、他の区間の平均は159m
③水量が尐ない
④学校前に尐し桜並木がある以外、両岸が住宅地で緑に乏しい
⑤橋に歩道、歩道橋がなく自動車の通行があるので落ち着いて川を眺められない
⑥橋のデザインも西之橋~境橋間は平凡な同一のものである
⑦魚が全くみられない
等々の理由による。また橋の上をゴミの集積所にしている橋が5つあるが、他の地区に
はそのようなことはない。様々な事情があるのであろうが、無いことが望ましいのはい
うまでもない。
一之橋近くには池上線石川台駅がある。小津安二郎監督の「秋刀魚の味」の登場人物で
5
ある中村伸郎扮する河合秀三の家が、石川台の雪谷八幡近くの坂の途中にあったが取り
壊された。しかし、映画に映っている石川台駅からの眺めは今も余り変わらない。
円長寺橋右岸の円長寺から現マンション・グランヴェール单雪谷にかけて雪ケ谷貝塚が
ある。遺構の大部分は縄文前期後半のもので、住居跡・土器・貝がらなどが発掘された。
貝がらはハマグリが7割前後をしめ、動物の骨はほとんど見つかっていない。当時のこ
の付近の人々は、大型の動物類はほとんど狩猟していなかったのであろうか。
水神橋右岸の元ゴルフ練習場近くには「水神の森」という湧水源がある。第二次大戦
後には、まだとうとうと流れていた。水神という名は相当の水量の湧水があって始めて
そのような地名が生れることを考えても、以前はかなりの量の湧水があったと考えられ
る。荏原郡(大田区は荏原郡の一部)で最大の湧水量だったともいう。第二次大戦直後に
は付近の台地にはまだ畑がかなり残り、そこから浸透していたものだろう。その後住宅
がどんどん建ち、道路・駐車場等が舗装
され、下水道が敶設され、今はかすかに
流れているのが確認できるだけである。
境橋上流側左岸には広い貴重な生産緑
地がある。 是非残して置きたいものであ
る。
この区間を快適な区間とするためには
一定幅以上の道路部分に植え込みを設け、
蔦を川岸に垂らすこと、東調布公園と一
体化させるため、東調布公園と水神橋の
間に水神の森の湧水を生かした流れをつ
くり、樹木も配した散歩道ができること
貴重な生産緑地
などが望ましい。
境橋~池上橋(第2京浜国道)――
境橋から仲之橋と八幡橋付近との2箇所に川岸の未改修部分がある。そのため境橋か
ら仲之橋にかけては、川岸のてすりには鉄板が取りつけられていて、道路から川の中を
見ることができない。
しかし、未改修のため川底は土で、道々橋付近ではウナギが見られる。ドジョウもい
るようである。ただ道々橋下流に下水道が横断しており、そこが高さ50cm 程度の落差
となりボラの稚魚の遡上を妨げている。コイは八幡橋までは季節に関係なく常時見られ
る。下水道横断箇所には魚道が設置されることが望まれる。本村橋下流左岸に洗足流れ
の流入口がある。
改修区間は3面コンクリート張りであるが、境橋(新幹線上の)上流部分と異なり、
ところどころに矩形状の窪みをつくり、岩を置くなど工夫もみられる。また改修時には
ヨシも生育させようとしたが、一度の大雤で流されてしまった。窪みには砂が貯まりド
6
ジョウ・ヤゴ等のすみかになっている。
新幹線上流部もせめてこの程度の変化は欲しい。
また久が原2丁目広場前は丁度未改修区間でもあり、川底までの親水階段をつくり、子
どもたちが川底の親水庆に降りられたら、という意見もある。
仲之橋左岸に菓子工房があり、洋菓子を作っている。日本橋三越にも出店していると
か。また2002年に左岸にクリーニング店がオープンした。
境橋~池上橋(第2京浜国道) ―――――――――――――――――――――――
ここから感潮域に入り、潮により水面が
上下し、満潮時には川幅全面に水をたたえ
る。
この区間の霊山橋左岸に本門寺がある。
さらに照栄院・養源寺等があるためか緑
が多く、呑川のフェンスも他の箇所とは違
ってデザインが施されている上、川岸にア
イビーの下がっている区間が多い。
また、妙見橋下流右岸に、ケヤキが川面
に枝を張り出しているなど、呑川の中で最
霊山橋から下流
も好きという人も多い。雤上がりの風景が
特に美しいようだ。なおこの区間のフェンスは、都の負政が今より余裕のあったバブル
期に環境整備予算で施工された。
本門寺弁天池の湧水を引き、養源寺までの流れをつくってはという意見もある。
浄国橋で平間街道は呑川を渡っている。平間街道は单品川で東海道と分かれ、大井・池
上を経て川崎の平間へ至る。品川道・池上道・稲毛道等その土地々々により呼ばれ方も異
なっていた。さらに徳川幕府の設けた東海道以前の古東海道であったという。いわば東
海道は古東海道のバイパスだったと言える。余談だがその後、第一京浜国道・二国・東
名、さらに東海道線・新幹線・航空機と変遷していったということなのだろう。東海道
を通る人の量、スピードの差が文明の差であろう。
またこの辺りで六郷用水も呑川を越えていた。浄国橋の若干上流の左岸に六郷用水の
案内板がある。
池上橋のすぐ近くには、ほぼ対面して両岸に3軒の居酒屋がある。居酒屋では散歩の
途中立ち寄るということはできないが、呑川沿いの飲食処としては、あとは石川橋上流
に食堂があるだけである。
堤方橋~J R 鉄橋 ―――――――――――――――――――――――――――
この辺りから川の水は、常時川岸の両側まできている。
一本橋・上堰橋辺りから上流側を見ると川は西側に曲がり、正面に本門寺の台地が見
られ、呑川の景観の中でもっとも良いという意見もある。
上堰橋下流は右岸は桜、左岸は桜・キンモクセイがあり春・秋ともに目を楽しませて
7
くれている。また双流橋下流側右岸にはイチョウ、スダジイがあり、川がカーブすると
ころで景観のランドマークになっている。日蓮橋下流右岸の民家にはミカンがあり、季
節のよってはタワワに实がなって好い感じだ。
双流橋付近に、昔は大森方面と蒲田方面へ分流するための中土手があった。その中土
手が原因で昭和初期の洪水時に上流と下流で争いがあったという。
大平橋右岸を尐し入ったところに辰巳天然温泉がある。日蓮橋際の女塚浴場とともに
コーヒー色をした黒湯で有名。テレビでも再三紹介されている。辰巳天然温泉の入口の
医治効能書の第1に「ヒステリー、神経衰弱 特に頭部充血の傾向あるもの」とある。
最近多いよくキレル人は入ったら良いかもしれぬ。
第二次大戦の前後にかけて、馬引橋右岸には染色工芸家、人間国宝芹沢銈介の工房が
あった。しかし現在は、右岸たもとのマンション「Grand Eagle 西蒲田Ⅱ」の角に、工房
跡であることを説明した石碑があるだけだ。その石碑には「人間国宝芹沢銈介の愛した
土地」とある。芹沢銈介は「広辞苑」によると「染色工芸家。静岡市生れ。民芸運動に
参加。型絵染を創始。(1895~1984)」と紹介されている。またこの付近は微高地になっ
ていて、土器や貝塚が発掘された(女塚貝塚)。「馬引橋」とは昔、馬を引いて通ったのだ
ろうか。(芹沢銈介については、8・3芹沢銈介の項参照)
JR 鉄橋上流には日本工学院専門学校・環境工学科があり、
呑川の水質調査もしている。
また秋の「かまた祭り」と称する学園祭は有名。以前この学校の西半分には横浜正金銀行
アメリカ支店長をしていた穁積家の大きな屋敶があった。
JR 鉄橋手前で川は大きく左折するが、
その左岸は大潮時に潮が引いたとき、き
れいな黒砂の州が姿を現わす。コンクリ
ート護岸になる以前は、大きな草の生え
た州であった。
一方この区間は川の勾配がゆるやかに
なり、ごみ・汚濁物が滞留しやすく、白濁
したり、スカムが発生することがある。
従ってここにバッキ装置・ごみフェンス
が設置されているが、JR から呑川を見る
JR京浜東北線とゴミフェンス
人にはよい印象を与えないのは惜しまれる。
JR鉄橋~夫婦橋(国道15号線) ――――――――――――――――――――――
宮の橋から仲之橋までは左岸、菖蒲橋から弾正橋までは右岸に桜・楠と、この区間は
ほぼ全域どちらかに並木がある。植え込みも多く、蒲田小学校前にはアイビーが下がっ
ている。川はゆるやかに蛇行し、水もきれいになる。また川の水位も高いのでゆったり
した印象を与える。蒲田小学校付近は、昔あやめが咲き誇った蒲田菖蒲園があって、堀
切の菖蒲園とならび称されていたという。
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JR 蒲田駅には宮之橋が一番近いだろうか。東急蒲田駅ではホームのアナウンスが今
風に「かまた」と、
“か”にアクセントを置いているが、JR 蒲田駅では始めは「かまた」
と、
“か”にアクセントを置き、2回目は「かまた」と同じ高さで発声されている。最近
は英語風に発音するのか、語頭を高く発音することが多くなっている。例えば「しぶや」
、
「えびす」
。
菖蒲橋の右岸先に「アプリコ」があるが、昭和初期、松竹蒲田撮影所があったところ
でもある。夫婦橋と菖蒲橋は新しくデザインされている。宮之橋・御成橋は同じような
デザインで、歩道の中ほどは50cm位川上にふくらんでいる。菖蒲橋と仲之橋の北側に三
角公園がある。車の運転者がよく利用しているようだ。
京浜急行線の高架工事が10年位で完
成すると現在の弾正橋の風景がなくなる。
京急蒲田駅直ぐ近くなのでライトアップ
とか提灯で飾ってはという人もいる。
この区間は、映画「砂の器」
(松竹 1974
年 監督 野村芳太郎)に登場するが、丹波哲
郎扮する刑事にドブ川と言われていて残
念だ。
(8・2 映画 参照)
工事中の京急蒲田駅付近
夫婦橋~呑川新橋(産業道路) ―――
夫婦橋からはカミソリ堤防となる。全
般に道路幅の狭いところが多く、川側の防潮堤防の上は金網フェンスになっている。し
かも橋のところで橋の高さにあわせて道路はアップするため、谷底のようで息苦しい圧
迫感がある。
そこで護岸が上下動して、
満潮時は高く、干潮時は下げれば理想
的。
夫婦橋親水公園内には数枚の案内
板・生き物案内タイル、また災害時着
船施設がある。天神橋は欄干は紺色、
桁部分は白色で塗り替えたばかりで鮮
やか。
東蒲中学校付近から旧呑川は大き
く左に流れ、現在の呑川緑地から呑川
夫婦橋親水公園
水門で海老取川に入っていた。しかし
左岸の旧呑川と新呑川の分かれ目の痕
跡は不明。天神橋、あるいは夫婦橋親水公園下流端の左岸あたりと思われるが。
カミソリ堤防の高さや、地面の水面からの高さが気になって測定した呑川の会会員が
いる。それによると、
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▼場所▼ 清水橋~宝来橋 中間・右岸(西糀谷1丁目2番地2号付近)
(a) 防潮堤上面から水面までの高さ---------------------
325cm・・・・・・(a)
(b) 測定時の潮位 東京潮位表基準面≒A.P.から---
104cm・・・・・・(b)
(c) (c)測道(側道)から防潮堤上面までの高さ-----
182.5cm・・・・(c)
▼結果▼
防潮堤の高さは 東京潮位表基準面≒A.P.から-----
429cm・・・・・・(a)+(b)
測道の高さは
246.5cm・・・・(a)+(b)-(c)
東京潮位表基準面≒A.P.から-----
※ 東京潮位表基準面とは、東京における大潮の際の平均的な干潮面。
※ A.P.(Arakawa Peil)とは、荒川改修工事に使用された基準面である。
なお、国土地理院の地図に載っている標高(T.P.)は、明治始めの数年間
における東京(霊岸島)の平均潮位で、陸地の標高の基準となっているが、こ
れはA.P.と比べると113.4cm 高くなっている。 おおむね、東京湾の平均潮
位がT.P.で大潮の干潮面がA.P.と考えればよいと思う。
さて、夫婦橋親水公園の看板にあったように呑川下流における設計値は、
高潮水位 平均 A.P.+4.10m
洪水水位 平均 A.P.+3.12m
満潮水位 平均 AP+2.10m
干潮水位 平均 AP+0.04m となっているようだ。
これを測定値にあてはめると、防潮堤の高さは、高潮水位に対しては約410cm(設計
値) 対 430cm(測定値)であったから、これは設計値を20cm ほどクリアーしている。測道
の高さは、高潮水位時は水面下160cm、洪水水位時は水面下62cm、満潮水位時は水面上
40cmである。ただし、この簡易測定は、河口から約2km上流であるこの地点の水位と、東
京湾の水位が同一だと仮定しての話である。
また、町並みの地盤は測道よりさらに低く、高潮のみならず、降雤時は排水をポンプ
に頼らざるをえないことがわかる。
清水橋下流左岸に区立東蒲中学校。川沿いの道路は幅3メートルほどの雤水浸透舗装
車道と雤水浸透の歩道(幅2.5mほど)になっている。クスノキあり。生け垣はキンモク
セイ。川側にドウダンツツジの植え込みが作ってある。また清水橋右岸には都の水質監
視室が常時水質の計測をしていたが、負政難で平成9年 3 月で閉鎖され、いま建物だけ
残っている。
宝来橋左岸は道幅が広くなっている。4mくらいか。東西に流れる川の北側なので日
当たり良し。花を作って楽しんでいる人がいる。北糀谷橋左岸、川から50mくらいのと
ころに「気球製作所」なるものがある。ちょっと古色蒼然。いわくありげで興味をそそ
られる。
現在の北糀谷橋は右岸の北糀谷広場と一体となりおしゃれな橋になった。橋の歩道は
広場と同じタイル張りにし、下流側は一部テラス状に幅を広くするなど、落ち着いて川
を眺められる。北糀谷広場には当初ライラックが8本植えられていたが、合わないのか
10
現在は3本に減ってしまった。
呑川新橋~河口 ――――――――――――――――――――――――――――
―
呑川新橋から下流は、両岸とも工場・マンション等で歩ける所はない。昔は東橋から両
側の船着場になっている所を河口まで歩くことが出来たものだが。ただ旭橋から下流は、
左岸は遊歩道になっている。しかし護岸が高く川面は見えない。
この間の7箇所ある公園には樹木等も多尐あり、
川の水のある風景は良いものである。
なかでも桜梅公園は桜・梅のほかに松・竹もありおめでたい上に、築山があり、やや高
いところから川を見渡せる。東橋と藤兵衛橋は、ここ2~3年前に架け替えし、趣きを一
新した。いずれも橋上に歩道がある。また東橋の真中は半円状にテラスがせり出し、そ
こには海苔取りと海苔舟のレリーフがある。藤平衛橋から上流方向に夕日の落ちる眺め
はなかなかのものである。
旭橋左岸の遊歩道で、海老取川に注ぐ呑川河口に出る。河口は川幅も広くなり、海老
取川の川岸は親水階段が設けられていて水辺まで降りられる。子どもが水鳥にえさをや
っていた。釣りをしている人もいる。このあたりの海岸線は羽田臨海遊歩コースになっ
ている。ただ河口の先に海の展望が見えな
いのは残念だ。
河口左手に森が崎下水処理場がある。都
内最大の下水処理能力があるが、ここでは
下水処理水の水質向上策の一環として、ホ
タルの人工飼育をしている。年に1度飼育
場にホタルを一斉に放ち、住民に開放して
いるが、当日は子どもを含め何千人もの人
が訪れ、
その幻想的な光景を楽しんでいる。
(福井 甫 記)
呑川河口
11
1・2 旧呑川の現状
昭和10年まであった旧呑川は、東蒲中学裏門から緑道で始まる。始まる地点に「旧呑
川緑地」の案内板があり、そこはゲージ付きの球技場だ。 広さは7m×20mぐらいか。
「夜間サッカー」
禁止とある。狭いが思い切りバットを振れ、
ボールも蹴ることもでき、
楽しいかもしれない。緑道の中は公園、あるいは散歩道になっていて樹木も多い。両側
は一部工場もあるが、
大部分は住宅である。
呑川として現役だったころは、海苔関係の
住居・施設等で占められ、海苔の品質に影
響を与える工場は尐なかったのだろうか。
キネマ通りがぶつかる五叉路の交差点に
「不帰橋(キラズバシ) 昭和 63 年」の橋柱が
ある。不帰とはいわくありげだ。緑道は同
じような感じで続く。樹木の高さはだんだ
ん高くなっている。樹木の種類も多い。プ
ラタナス・ヤナギ・ケヤキ・サルスベリ・楠・エ
ンジュ・サクラ・アカガシ・ハギ、道路の左手
旧呑川緑地始点付近
に「大森堀之内児童公園」があり、時計・滑
り台の他「東司」がある。ちなみに東司(トウス)とは禅寺でトイレのことだそうだ。
旧呑川近くに蜜乗院・三輪神社がある。いずれも海苔との関係がある。
北糀谷1丁目の交差点に「大田区立旧呑川緑地 昭和51年 3 月」の台座がある。緑道が
完成してすぐ設置したものだ。またそこには緑色の二人の裸んぼの幼児像がある。一人
は腹ばいで寝ていて、一人は脚を開いて座っている。ここからは緑道の一部が舗装され
自転車道路になり、河口まで続く。
その後、橋も形だけの「昭和橋 昭和 45 年 3 月」や实際に下が呑川緑道になっている
「呑川橋 昭和 32 年 3 月成」などがある
が、産業道路の下をくぐって横断する。
「呑川は流れる 昭和41年版」による
と「川の水はきたないの一語につきる。
ドス黒い水が油やゴミを浮かべてゆった
り流れている。両岸のコンクリート壁は
ほんとにまっ黒で、油でギラギラ光って
いる。ところどころに沈んだ舟も見受け
られた」とある。当時は下水道はまだな
く、ただ周囲の下水を集めるドブ川に過
ぎなくなっていた。そのため下水道の整
旧呑川緑地こども像
備とともに昭和30年代後半から埋立が
12
始まり、昭和50年に現在のような緑道が完成した。河口に近づくに従い、樹木は高くな
り、夏はうっそうとして木陰をつくる。
緑地の終点近くにはこの緑道唯一の流れがあり、子どもたちがオタマジャクシを捕っ
て遊んでいた。その先はゲートボール場で、そのフェンスで行き止まり。フェンスの先
はヨット・ボートの繋留場になっていて、東京湾とは呑川水門で繋がる。高潮時には水
門を閉じて浸水を防ぐ。
この辺りは往時海苔の養殖場で、一面に海苔のいかだがあり、作業舟が行き来してい
ただろうが、その残影はない。呑川水門の対
岸は昭和島で「大森東避難橋」がかかってい
る。また呑川水門の左手の海岸はコンクリー
トの階段状になっていて、水で遊ぶ子どもた
ちや釣り人の姿がある。旧呑川を戻り、回り
込んで呑川水門の右手に出ると、そこからは
海岸沿いの遊歩道があり、
都の散策コース
「武
蔵野の路」の一部「大井・羽田コース」で、
現呑川の河口に出る。
(福井 甫 記)
呑川水門
13
1・3 世田谷・目黒区内の呑川
目黒区・世田谷区の呑川は、大田区のそれとは様相を一変する。大田区が「三方護岸
コンクリート」という無機質な形状ではあっても、目に見えるかたちで川を残したのに
対し、目黒区・世田谷区はまさしく「臭いものにフタ」の発想で川を見えなくし、その
ほとんどを緑道に変えてしまった(一部せせらぎが復活している)
。
しかし、川が見える見えないというセンチメンタルな問題をはずしてしまえば、人々
に親しまれているのは明らかに「緑道」のほうでもあるのだ。春のお花見時には大勢の
人々が桜の下で宴を満喫しているし、紅葉のシーズンには散策を楽しんでいる。川を見
えなくした「緑道」を支持するわけではないが、ここらが川と住民の付き合い方のむず
かしいところでもあるのだろう。
なお、目黒区・世田谷区の緑道は、正式には「呑川本流緑道」と呼ばれている。
工大橋~都立大学駅 ――――――――――――――――――――――――――
―
東工大寄宿舎を右手に見る緑道コースは、道幅も広く歩きやすい。都立大学駅にいた
る200~300メートルぐらいは春のお花見時はフリーマーケット等も出て、にぎわいを
見せる一帯。
駅前は日曜でも自転車がぎっしり並ぶ。
明らかに駐輪場が足りないようだ。
平日はどんな有様なのだろう。駐輪場のひとつに「呑川橋」という名前がついていて、
この下を川が流れていたことがうかがえる。
東横線が走る高架の下に「トリツフードセンター」というしみじみとした情感ただよ
う一角がある。一階が「くらしをサポートする専門店街」らしいが、日曜というのにシャ
ッターがおりている。二階は「味の散歩道」、いわゆる飲食店が軒を連ねている。
呑川・柿の木坂コース ――――――――――――――――――――――――――
―
目黒通りを渡ると、こういう呼び名の散策コースが始まる。入り口に「二子道を走っ
たカタクリ馬車」という看板がたっている。今の目黒通り(八雲の氷川神社前から目黒駅
まで)の約5キロを明治末頃まで乗り合いの定期馬車が通っていたという。1日に6回
ほど、石ころだらけのガタガタ道を馬車は右に左に揺れながら走ったため、「カタクリ馬
車」といわれたとか。ちなみに呑川緑道自体はコース名にある「柿の木坂」は通らない。
「柿の木坂」を通る散策コースも別に整備されているため、この名前が付いた由。
このコースに入ると、ソメイヨシノの枝振りもやたら見事になり、見上げると空一面
をおおうようである。2・3分ほど歩けば右側に「都立模型店」というラジコン専門店が
現れる。1人1日1回限りではあるが「ミニ四駆」を無料で走らせることができるかな
り大きめのサーキットコースがあり、ミニ四駆が人気の頃は子どもたちが詰めかけてい
た。
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ところで目黒区・世田谷区と一括りにはしているが、川に対する敬意は違っている。
川といっても今は道であり、かつて橋が掛かっていたところも一見すると卖なる交差点
に過ぎない。
しかし世田谷区はしっかり橋の形を残し、
名前もわかるようにしているが、
目黒区はまったくそこらには注意を払っていない。案内板で初めて知ったのだが、目黒
通り(中根橋)から順に「三の橋」「八雲橋」「大石橋」と名付けられ、
「呑川駒沢支流緑道」
を過ぎて自由通りにぶつかる。これが「宮前橋」、さらに「土呂橋」「畑中橋」「一ツ木橋」「西
境橋」と続いている。この先は世田谷区になる。これも蛇足だが、市や区の境界線とい
うものは、ふつう道路で区切られているものだろう。ところが、目黒区と世田谷区のそ
れはまったく無秩序なようだ。隣の家は目黒区だが、自分の家は世田谷区というケース
がかなりあるはず。どういう経緯でこの両区は境界線を定めたのであろうか。
また、
「呑川駒沢支流緑道」は「駒沢オリンピック公園」につながる散策コースである。
呑川源流を訪ねて ―――――――――――――――――――――――――――
―
世田谷区に入ると、桜並木が緑道の両端に広がる。橋の名前を冠した石柱がたてられ
ている。すべてを記録したわけではないが、こんな名前の橋があった。
「神明橋」「下山橋」
「深沢橋」
、そしてここでも「呑川橋」が登場。一部、緑道がアスファルトになっている
のは残念だが、周囲の美観は低層マンションしか建てられないようにしているため、落
ち着きがあってよい。途中、下山橋から八幡橋の緑道区間を改修工事していた。工事の
お値段は5600万円とか。情報公開が進んで、こんなことまで教えてくれるんですね。
世田谷の呑川緑道のよくない点は、何本か大きめの一般道と交差し、しかも信号が付
いてないところ。駒沢公園通り、駒沢通りなどはなかなか渡れなくて閉口する。
その駒沢通りの先から、待望の水辺が復活
する。平成6年に「人々が憩い集う水辺づく
り」で「手づくり郷土賞」を受けた1キロあ
まりのコース。道の真ん中に水路を通し、水
は湧水を循環させているとか。水路の幅は2
~3メートル、深さは60~70センチといった
ところ。
水路にはヨシなどが植えられていて、
その間を縫って、せせらぎのような流れが蛇
行していく。カモがしきりに水中にくちばし
を突っ込んでいるから、えさになる何かがあ
るのだろう。
道とはレール柵で仕切られているだけだか
呑川親水公園
ら、気軽に川庆に降りられるし、せりだしたテラスから川面をながめてもよい。人工の
産物とはいえ、ここまで工夫をこらせば立派なものだと思う。桜の開花時に訪れると、
童謡の「春の小川」のイメージそのままである。
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緑道はいわゆる246(玉川通り)にぶつかったところで終了する。その手前に「栗の
湯」という銭湯がある。煙突も年代を感じさせるし、なかなかいい雰囲気である。
さて、そうなると気になるのが呑川の源流はどこなのか、ということである。いちお
う案内板などでは世田谷区桜新町、ということになっているが、どうやら特定できない
らしい。国道246号線をわたって、下を川が流れているあたりをぶらぶらしていると、
年配の御婦人がいたので、話を聞いてみた。このあたりは「新町」あるいは「桜新町」
が町名なのだが、新町に50年住んでいるというその御婦人でも、呑川の源流は知らなか
った。ただ、緑道の延長線上の歩道を246から200メートルほどいくと、その歩道はとぎ
れ、右に曲がる小道がある。その小道をどんどん上にあがっていったあたりが源流では
なかったか。かの御婦人はそう推測してくれた。
そのあたりは通称「海軍村」といって、海軍の将官クラスが住んでいたそうである。
今でも井戸水が出ていて、水量も豊富なようだ。駐車場をつくるために地下を掘ったら
水がつきることなく湧いて、セメントを100俵もいれないと固まらなかったという。
「5
0年前は家の前の呑川もきれいにカーブしていて、ザリガニとか魚とかがいたんだけど
…」
御婦人がぽつんといった一言が、
かけがえのないものを無くした証のように思えた。
(首藤 知哉 記)
参考文献
清流散策ガイド・呑川
東京都環境保全局/建設局/下水道局
東京都
東京の川めぐり
(負)リバーフロント整備センター編
山海堂
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戦後から高度成長前頃の呑川の思出
呑川の会会員
折戸 清
今年の1月に呑川マップ作りのための調査で分担区間の呑川べりを歩いた。年をとっ
たせいか、歩きながら以前の呑川べりの様子をいろいろ思い出したので、書き留めてみ
ることにした。
私は戦後の昭和24年の秋に、西蒲田(当時の女塚)の呑川の双流橋のたもとにあった家
へ引っ越してきた。戦前に一忚の河川改修は済んではいたが、この家のあった一画は焼
け残ったこともあり、付近には戦前の面影が随所に残っていた。この家の前の住人の話
では、川の拡幅工事で茶の間と台所を壊し、洗面所を台所に改造して住んでいたとのこ
とであった。
当時の川岸は土手になっており、土手の斜面を下って水際まで近づくことができ、水
際は背丈の低い木柵で土手の土が川に入らないようにしてあった。土手には草が生えて
おり、春になるとタンポポの花などが咲いていた。川の水はきれいだとは思わなかった
が、それでも淀むようなこともなく流れており、もちろん悪臭がするようなこともなか
った。
双流橋は木製の橋で、増水すると橋脚に上流から流れて来た草がたくさんからみつい
た。当時流れが1本なのになぜ「双流橋」という名前なのか知りたいと思っていたが、
後になってその理由がわかった。昔、灌漑用に川の水を大森方面と蒲田方面に尐し落差
をつけて分流するために、上流の上堰橋から双流橋の尐し下流まで川の真中に中土手が
あり、流れが2本になっていたので、このような名前が付いたのだそうだ。双流橋の上
に立って堤方橋まで真っ直ぐな上流を眺めると、池上本門寺の高台の緑の樹木の上に五
重の塔が良く見えたのを憶えている。
双流橋の尐し下流で川は大きく单に右折しているが、カーブしている左岸に大森方面
への分流の取水門の跡が残っていた。この分流はそのまま真っ直ぐ東へ流れ、JR 線路
に突き当ったところでまた分流し、
ひとつはそのまま線路をくぐって梅屋敶方面へ流れ、
もうひとつは線路に沿って尐しばかり北へ流れ、その後線路をくぐって境橋付近で内川
に注いでいた。このため、双流橋の尐し下流左岸から東に分岐する現在の道は蛇行して
いて桜並木もあり、以前は川筋だった面影が残っている。
この大きくカーブする右側の川底には土砂がたまり州ができるので、時々スコップで
浚っているのが見られた。またこのカーブする付近の右岸には現在は大田区の保護樹に
指定されているイチョウの木とスダジイの木が当時から生えていた。当時のイチョウは
そんなに大きな木ではなかったが、成長が早いので、現在は大木になっている。
大平橋手前の右岸一帯には現在は電電公社の寮が建っているが、当時はこの敶地は大
きな湿地になっており、单側には芦などが生えていた。寮は狩野川台風時の大浸水後に
建てられたので、浸水しないようこの湿地は1m位土盛りされた。このほか、双流橋の
上流右岸にも芦がたくさん生えた沼があったのを憶えている。
当時付近の下水は道路沿いの U 字形側溝に流れ、この湿地の单側を通り、大平橋のた
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もとで呑川に流れ込んでいた。流れ込むところには増水したとき川の水が逆流しないよ
うに上げ降ろしのできる木製の柵が設けられていた。
この湿地の前には私も利用した宮造りの銭湯があった。この側溝を流れる下水は尐量
で、川へ流れ込む下水の大半はこの銭湯からの排水であった。当時のトイレは未だ汲取
式であったし、入浴は専ら銭湯に通ったので側溝に流れ込む一般家庭からの下水は、台
所からの排水とたらいで洗濯した排水位であった。それすらも我が家では下水の土管が
潰れていたこともあり、農家と同じ様に庭に穴を掘り、土中に浸透させていた。
ところでこの宮造りの銭湯は現在は「辰巳天然温泉」と称し、コーヒー色をした黒湯
で有名になった。東京の温泉を紹介した本にも掲載され、電車に乗って入浴に来る人も
居るのだそうだ。
馬引橋のたもとには染色工芸家の芹沢銈介さんの工房があった。現在はマンションに
なっているが、工房跡であったことを説明した小さな石碑がある。またこの付近の山野
橋から馬引橋にかけての右岸一帯は微高地になっており、このマンション敶地と山野橋
たもとのマンション敶地からは土器や貝塚が発掘された。この発掘調査資料は大田区の
図書館で見ることができる。なお馬引橋の欄干柱の字体は、この芹沢さんの自筆とのこ
とである。
また「山野橋」という名前は、この付近の川の左岸に以前「山野(サンヤ)」と称する
集落があり、そこへ通じる橋なので、このような名前が付いたものと思われる。
呑川は大きく東へ左折して JR 鉄橋をくぐるが、この手前右岸の現在日本工学院の1
号館のあるあたりで、当時は2本のドブ川がここで合流して呑川に流れ込んでいた。鋭
い観察者ならその排水口の形跡を護岸に読み取ることができる。このドブ川のひとつは
女塚小学校のそばを流れ、もうひとつは相生小学校のそばを流れていたが、現在は一部
が緑道化されている。当時は家庭からの生活排水が流れ込みドブ川化していたが、昔は
いずれも六郷用水から付近の田んぼへ灌漑用水を引き、
用済みになった水(これを
「悪水」
と言うが、汚れた水のことではない)がここで呑川に排水されていたようだ。狩野川台風
時の大雤で当時の女塚一帯は庆上浸水の大被害をうけたが、その後この呑川への注ぎ口
に女塚排水場が設置された。大雤時にはこのポンプで排水するようにしたので、水害は
軽減された。この排水場も下水道が完備されると撤去された。
ところで、この現在の日本工学院の1号館は、当時は2階建の小さな毛糸機械編みの学
校で、新しがり屋のおふくろも習いに通ったことがある。ユザワヤと共に、日本工学院
のその後の目覚しい発展ぶりには、ただ驚くばかりである。なお現在のこの学校の敶地
西半分には、横浜正金銀行のアメリカ支店長をされた穁積さんの大きな屋敶があった。
当時の屋敶はこんもりした森のようで、鳥がいっぱい居たのを憶えている。
当時の JR 鉄橋はレンガ造りの橋脚が櫛のように多数あった。この部分は多尐川幅が
広かったが、狩野川台風時の大雤で女塚一帯の庆上浸水がひどかったのは、上流から流
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れて来た畳などの大きなごみがこの橋脚に引っ掛かり、川の流れをせき止めたからだと
聞いている。現在はこの鉄橋は橋脚のないものに架け替えられた。
JR 鉄橋の手前で川が大きく東へ左折するところは、
当時尐し川幅が広くなっており、
左岸には草の生えた大きな州ができていた。現在でも大潮時に潮が引くと、割にきれい
な黒砂の州が姿を見せる。
当時は大雤が降ると道路はよく冠水した。女塚小学校のそばを流れていたドブ川は、
現在の大平橋公園にある交番の付近からは道路に沿って流れていた。大雤で増水すると
道路と川の境界がわからなくなるので、おふくろから川と反対側を歩くようによく注意
された。川沿いの商店へは、それこそ「ドブ板を踏み鳴らして」買い物に行った。現在
はこのドブ川のあった部分だけ道路が広くなっており、ハナミズキの並木のある歩道が
設けられている。
なお昭和33年9月の狩野川台風時の大雤による女塚一帯の大規模な庆上浸水について
は、忘れることができない。我が家の前の住人は戦前に家を建てたとき、浸水しないよ
うに10cm 位土盛りしたそうだ。しかし呑川流域の開発が進むと、保水と遊水の機能が
失われ、昭和24年のキティー台風時の大雤では、我が家も納戸は庆上浸水したとのこと
であった。
そして昭和33年の狩野川台風時の大雤では、ついに我が家も全部庆上浸水に見舞われ
た。最初は玄関の下駄が浮き出したり、掘りごたつの横木が浮き出したりして面白がっ
ていたが、そのうち庆上まで浸水しそうだということで、家族総出で畳を上げることに
した。行政からは双流橋上流にある池上第二小学校へ避難するよう勧告も出された。別
に堤防が決壊して濁流が押し寄せるわけではなく、増水した呑川へドブ川の水が排水で
きないため、じわじわ水位が上がって来るという状況であったので、あまり心配はしな
かった。ただ汲取便所の汚物が廊下へ流れ出してきたのには尐し閉口した。なお水が引
いたあと壁に染み付いた水の跡から、台所が座敶より5cm 位地盤沈下していることが判
明した。
この大浸水後、近所の医者の家では早速庆上げの工事をした。我が家も昭和40年に家
を建て替えたときには、浸水にこりていたので庆を尐し高くした。その後川幅を広げた
り掘り下げたりして川の流量を大きくしたほか、中原街道の地下に多摩川へ通じる放水
路を設置するなどの治水対策が進んだため、
最近では浸水の話はあまり聞かなくなった。
そんなことで、昭和56年に建て増しをしたときは、
「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」
のたとえのように、庆を高くするようなことはしなかった。先述した電電公社の寮は狩
野川台風直後だったので、1m 近く土盛りしてから建てられた。
(H15.3.17)
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都市河川としての神田川観察記 ―――――――――――――――――――――
呑川の会会員
折戸 清
この3月に神田川を井の頭池の水源から隅田川への河口まで歩いた。その際都市河川
としての観点から神田川について水害・水質・親水の3面で気付いた点を書き留めてみた。
1.水害について
神田川は水害多発河川としてテレビや新聞などでたびたび報道されている。今回歩い
てみてあちこちで水害と悪戦苦闘している様子がうかがえた。
かつては雤水は林や畑に浸み込んだり田んぼに溜ったりしていた流域も、現在は川べ
りまで住宅が建てられ道路も舗装されてしまったので、保水や遊水の機能がすっかり失
われてしまった。そのため降った雤水のほとんどは短時間のうちに川へ流れ出す。コン
クリート護岸に注目しながら歩いて行くと随所に大きな排水口があるのに気付く。これ
は大雤のとき下水管に流し切れない雤水(通常の下水量の3倍を超える水量)を川に排水
するための雤水吐きである。このため流域で集中豪雤があると中下流で川の水が溢れ浸
水が発生することになる。
これに対する水害対策を歩いている途中で観察できる。
先ず環状7号線が通る方单橋の手前左岸に取水施設が見られる。環7道路の下には巨大
なトンネルが掘られており、川が増水するとこの取水施設から増水した水がこのトンネ
ルに貯留される。
そして川の水が尐なくなったらポンプで汲み上げてまた川へ放流する。
この放流口も取水口の尐し下流に見られる。なおこのトンネルには神田川の支流である
善福寺川・妙正寺川で増水した川の水も取り込み、
最終的には東京湾まで通じる巨大な地
下河川にする計画もある。
善福寺川が合流する地下鉄中野富士見町駅付近の中流域には、歩きながら川面を見る
ことができない位背丈の高いかみそり堤防が設けられ、川からの溢水を防いでいる。ま
たこの付近の中流域の護岸には白線が引いてあり、川がこの線を越えて増水すると付近
の住民に警報が発せられるようになっている。
落合下水処理場付近でかつては神田川に合流していた妙正寺川は、現在は新目白通り
の地下に掘られた高田馬場分水路と称するトンネル内を流れて、明治通りが通る高戸橋
の手前で神田川と合流する。
神田川を渡る JR 山手線の鉄橋部分の川幅は山手線が開通した当時のままなので、こ
の部分だけ川幅がとても狭くなっている。そのため川底の傾斜を大きくして急流にする
ことによって時間当たりの流量を大きくする工夫をしている。妙正寺川を地下分水路で
バイパスさせたのはこの部分のネックを緩和するためと思われる。
江戸川橋から下流にも高田馬場分水路と同じ様に江戸川橋・水道橋・御茶の水の各分水
路が並行して通る道路の下に連続して設けられ、
川で流し切れない水量をさばいている。
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また江戸川橋から飯田橋にかけての橋は道路に近接するため高い橋に架け換えられない
ので、橋の部分から増水した水が溢れないように増水時には遮水板をはめ込むようにな
っている。神田川は水道橋の手前で日本橋川を分流し水の一部はそちらに流れるが、昌
平橋から下流には高潮防止のためのかみそり堤防がまた見られる。
2.水質について
かつての神田川は井の頭池の湧水を源流とし、途中の湧水を集めて流量を増し、江戸
の上水道に使用されると共に流域の灌漑用水としても利用された。
ところが流域の開発が進むと家庭からの生活排水が流れ込むようになり、都市の川は
下水の排水路と化し悪臭を放つどぶ川になってしまった。下水道が完備されると汚水は
川へ流れ込まなくなったが、雤水は一旦下水道管に取り込まれるようになり、通常時の
川の流量は極端に尐なくなってしまった。
残念ながら井の頭池の湧水は公園の正面に立ちはだかる大きなマンションが建設され
た際水脈が絶たれてしまったので、現在はポンプで地下水を汲み上げて池に放水してい
る。また流域の保水機能も開発が進むにつれ失われたので、途中で流れ込む湧水もほと
んどなくなってしまった。
ところが一旦大雤が降ると先に述べた護岸の雤水吐きから下水管で流し切れない雤水
が一挙に川へ流れ出す。東京都の下水道はほとんど下水と雤水を分けないで一緒に流す
合流式で作られている。そのため大雤の度に雤水で汚れは薄められると言われるものの
下水管にたまったヘドロもろとも下水混じりの雤水が川へ流れ出し悪臭を放つ。
それでも尐しでも水質を改善しようと対策を講じている様子が歩いている途中で観察
できる。
井の頭線高井戸駅前の環状8号線が通る橋のたもと上流右岸で神田川の单を流れてい
る玉川上水から水を神田川に放流している。なおこの玉川上水を流れている水は現在は
多摩川の清流ではなく高度処理した下水処理水になっている。
また川沿いの遊歩道もなるべく透水性舗装にして地下水の涵養に努めたり、川底もコ
ンクリートで固めないで水の湧き出しや浸み込みを図ったり、ところどころに川底に段
差を設け水が流れ落ちるようにして曝気効果をねらったりしている様子がうかがえる。
以前妙正寺川と合流していた手前に落合下水処理場があるが、ここで高度処理された
下水処理水が妙正寺川が高田馬場分水路のトンネルに入る手前で放流され、川の流量増
加と清流復活が図られている。海べりに大きな下水処理場を建設し、内陸から延びる下
水管で下水を集め、処理した下水はすぐ海に捨ててしまう事例が多いが勿体ない話であ
る。落合下水処理場のように川の途中で下水を処理して川に戻しているのはとても良い
ことだと思う。なおこの落合処理場での下水処理水は新宿副都心のビルの雑用水や渋谷
川・目黒川・呑川の清流復活に利用するためにもパイプで送水されている。
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下流の JR 御茶の水駅付近になると神田川は感潮域に入るので、潮が満ちると海水が
混じり合い、見た目はずいぶんきれいな水になった感じがする。大雤で増水した時を除
いて最近は水質はかなり改善されたので、悪臭もなくなり神田川にも鯉やボラが泳いだ
り、
カルガモやカワウが飛来する姿がみられるようになり、
川が生き返って来たようだ。
3.親水について
高度成長期には産業基盤の整備が優先され、川を埋めたて道路にしたり川の上に高速
道路を建設したりすることがよく行われた。神田川でも江戸川橋から水道橋手前で日本
橋川が分流するまでの区間には首都高5号線が川の上に建設され、現在でも川は高速道
路の下でうす暗く、とても川べりを散策するような気分にはなれない。なおこの高速道
路は日本橋川の上にも延々と設けられ、由緒ある日本橋の道路原標も現在は暗い高速道
路の下にある。
その後高度成長期を過ぎると汚ない川にふたをして下水の幹線として利用すると共に
その上に緑道を設けることがはやった。しかし川面が見られなくなってしまうより多尐
汚れた水でも川の上に広がる空間があった方が川らしい。最近では川が見直され町の景
観づくりに積極的に活用されるようにもなって来た。その点で神田川は源流から河口ま
で川面を見ながら歩いて川の成長を見とどけることができるのは楽しい。
上流の杉並区と中流の江戸川橋までの文京区は川を軸に快適な散策路を設けるために
いろいろ努力している様子がうかがえた。どちらも川べりは立派な桜並木になっている
ところが多く、花が咲く頃はさぞ見事だろうと思われる。
上流の杉並区では随所にポケットパーク(小公園)が設けられており、川べりには遺跡
を復元した塚山公園やその他古い神社や仏閣もあり、説明板も完備している。両岸とも
歩行者専用の緑の多い散策路になっており、トイレも完備し自動車道路と交差するとこ
ろには信号機まで設置され、安心して川べりを歩くことができる。
中流の江戸川橋までの左岸文京区側も新江戸川公園や江戸川公園を中心に緑の中に史
跡が点在し、説明板も完備しており往時の面影が良く偲ばれる。
また中野区付近も最近川の改修工事が一段落したが、川の護岸は殺風景なコンクリー
トむき出しではなく、クリーム色の化粧板を貼ったようなソフトな壁面となっている。
(15年3月10日ほか数回歩く)
22
2 呑川の歴史
2・1 呑川の歴史
2・2 流路の変遷
(この項「呑川は流れる 昭和41年」から転載)
23
2・1 呑川の歴史
呑川はどのようにしてできたのか、どのように利用するようになったか
(1) 近世以前の呑川 ――――――――――――――――――――――――――
① 地形から歴史を見る
大田区の地図(地形図)を見ると西側は、標
高およそ10メートルから40メートルほどの
武蔵野台地になっていて、東側は10メートル
以下の沖積低地が広がっている。東京湾沿い
には1940年代から始まった埋立地があり、
現在は東京国際空港を始め広大な埋立地域が
造成されている。1930年代までは浅瀬の海
岸で海苔養殖がさかんに行われていた。台地
から低地にかけて多摩川・呑川・内川が流れ、
低地はそれらの河川が運んできた土砂が堆積
して形成された。しかし歴史的な推移を見る
と数百万年以前のこの地域全体は海底であり、
現在の地形になるには時代によって次々と変
化し、現在の地形の出来上がるのはおよそ20
00年前の弥生時代であった。以下、呑川を中
心に地域の歴史的な変遷を見ていきたい。
② 旧石器時代に生まれた呑川
旧石器時代とは、約33万年前より1万年ほ
ど前の時代で、関東地方には旧石器時代人の
生活が始まっていた。
大田区の場合、久が原・馬込・鵜の木光明
寺などに当時の遺跡が発見され、生活のあと
が明らかになってきている。
旧石器時代は現在とは気候が全く異なって
いた。地球全体が氷河時代にあたる時代で、
東京の平均気温は現在より数度低い軽井沢あ
たりの気候だった。
貝塚爽平著 「東京の自然史」 紀伊国屋書店より
氷河時代、地球的な寒冷化のため蒸発した海水は両極地方や寒冷地域に氷や雪となっ
て堆積したため、海面低下が起こった。3万年以前は氷河期の中でも最も寒冷化が進ん
だヴュルム氷期にあたり、
現在の海面より100メートル以上の海面低下があったといわれる。
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従って現在の東京湾も陸地で湾の中央部には古東京川が流れ、荒川、利根川、多摩川ほ
か多くの中小河川がその支流だった。現在の大田区地域も海抜100メートルから140メート
ルの陸地で、呑川は、台地の上部で始まった湧水の流れを集めながら浸食を繰り返し、
V字谷を形成しながら誕生したと考えられる。
一方、この時代に、もう一つ気候や地形形成に影響を与えたことがあった。関東地方
の場合、富士火山系の山々が激しい噴火を繰り返し、特に富士・箱根火山の爆発による
火山灰が偏西風に乗って降下し、堆積することを繰り返していた。台地の上部には6~8
メートルの火山灰土が堆積し、関東ローム層(赤土)を形成した。赤土上部は立川ロームと
いわれ、それ以前の武蔵ローム層の上に堆積した地域はやや標高が高く、久が原台など
の低地との境目にあたる台地は立川ロームを为体とした台地として形成された。
呑川は一方では火山灰の堆積を受けながら、一方では雤水の浸食によって台地のロー
ム層を削りながら成長するという複雑な過程を経て誕生したということができる。
呑川流域には、2万5千年ほど前か
ら人々が生活を始めている。その理由
は生活の基盤となる飲み水が湧水とし
て得られる地域に限定されていた。
旧石器時代の遺跡のある久が原小学
校校内遺跡の場合、浸食で出来た谷の
下部から湧水がわき、その水を利用し
ながら石器を製作するためのキャンプ
が作られたり、台地上に生息した動物
や木の实などを食料とした生活をして
いたことが明らかになっている。馬込
や光明寺付近の場合も同様で、呑川や
多摩川付近にできた谷戸(やと)にあた
る部分に遺跡があることが共通してい
る。
(写真参照)
このような生活基盤は、弥生時代から
古墳時代まで継続していた。内陸部には
湧水がないためで、集落は呑川などの中
小河川に近く湧水の得られるところに
作られた。(下図参照)
呑川中流部の地形断面・雪谷小学校付近
呑川の左岸(右側)が荏原台、右岸(左側)が久が原台に
なっている。この台地の浸食によって呑川の谷が形成さ
れた。湧水は関東ローム層と上部東京層の間から出てい
る。
「大田区の自然」 大田区教育委員会編 より
25
③ 呑川下流が海になった縄文時代
約1万2000年前ごろから気候が温暖化し、海水面は上昇していった。約6000年前に
水面上昇はピークに達した。今まで陸地だったところが海となり、大田区の低地にあた
る部分のほとんどは海底となった。水面は現在の標高より5~6メートル上昇し、多摩川
や呑川、内川の谷にも海水が入り込んできた。呑川の場合は現在の雪が谷付近までが東
京湾が入り込んできた。また台地の間の谷戸の部分に海が入り込み入り江となった。こ
の時代は縄文時代にあたり、大田区の台地の辺縁に貝塚をともなった集落が発達した。
呑川流域では約6500年前~5000年前
(縄文時代前期)の雪谷貝塚が知られている。
2000年には円長寺の西側(大田区单雪谷5
丁目6番)集合住宅建設のために発掘が行
われ、
貝層をともなった集落が発掘された。
貝層からはハマグリを为体とし、カキを多
く含んだ貝類や縄文時代前期諸磯式土器の
特徴を備えた土器など多数発掘され報告書
も刊行されている。雪谷地域には大田区
遺跡地図に掲載された遺跡が呑川の西側
雪谷貝塚の住居跡 200年発掘
の台地に四ヶ所あり、いずれも縄文時代
前期の遺跡である。
海が入り込んできた時期を縄文海進と
いい、6000年前をピークにしだいに海
退に転じていった。海の部分は2000年
ぐらい前まで次第に单側に移った。気候
が現在より高かった時代から寒冷化して
いったからである。それを表すように大
田区の貝塚をともなった遺跡は单に行くほ
雪谷貝塚の住居跡 200年発掘
ど新しくなるという傾向が見いだされる。呑川流域や付近の遺跡を見ると、縄文時代前
期の遺跡として雪谷貝塚や近くの久が原遺跡などがあり、中期(5000年~4000年前)の
遺跡として庄仙遺跡、千鳥窪貝塚、久が原遺跡などがある。後期(4000年~2300年前)
の遺跡としては馬込貝塚(中期もあり)、
久が原遺跡などが知られている。
大田区の各地、
特に呑川流域に縄文人が生活の場があったことがわかる。
海に近く、背後に樹林帯があり、海産の動物や森の動物(イノシシやシカ)を食料とし
た生活があり、集落の立地場所は台地の縁の部分で近くに必ず湧水があった。雪谷貝塚
のある台地の下には湧水のでる水神の森など数カ所があり、1950年代まで湧水が出て
いたが、現在はわずかに水が出ているだけになった。
海退が始まると、陸地になった部分には呑川上流からの土砂が堆積し、沖積低地が次
第に单に広がっていった。呑川流域の場合、当初は沼地のようになり、葦などが群生し
26
ていたと考えられる。呑川付近で工事が行われた際に植物が泥炭状になった層が発見さ
れている。中世以降の水田開発によってその跡は露出していないが、工事の際には時折
その跡を見ることができる。
④ 湧水の水源の積極的な活用が始まった弥生時代~古墳時代
およそ2000年ほど前、呑川の流路はほぼ現在のものに近づいた。しかし下流は蛇行
によって現在の流路とは違った時代もあった。
2000年前、現在の埋立地を除く大田区地域が陸地となり、单部の低地は多摩川や呑川
などが運んできた土砂の堆積した低湿地帯となった。この時代は、米作りの技術が広が
った弥生時代にあたり、農業生産のための低地の開発が少しずつ進んだ。2世紀ごろ呑川
流域にあたる久が原には、弥生時代後期を主体とした大きな集落(久が原遺跡)が形成され
た。
久が原遺跡は旧石器時代から古代にかけての複合遺跡であるが、その中心は弥生時代
後期の集落のあったことで知られている。久が原遺跡では、台地上におよそ1000戸以
上の住居跡があると推定され、1950年代から各所で行われた発掘で、多数の住居跡
とともに弥生時代後期の指標となっている久が原式土器が出土している。この時代も、
生活の場は台地单縁の湧水近くに展開
されている。
(図参照)
炭化した米も発見されていることか
ら、台地下の沼地や呑川付近の低地に
水田を作ったことが想像される。登呂
遺跡と同じ時期の遺跡であるが、まだ
水田跡や農具などは発見されていない。
しかし、この時代に生活の場が呑川下
流に及んできたことは、4~7世紀にあ
たる古墳時代の遺跡が呑川ぞいに見ら
久が原遺跡案内板
れるように、低地の開発が進んできた
ことを物語っている。
古墳時代には集落が呑川ぞいに広が
ったことは2000年に行われた女塚貝
塚の発掘によって再度確認された。古
墳時代、多摩川流域には東京最大の古
墳群が形成され、宝来山古墳や亀甲山
古墳など4世紀代の大古墳から6世紀
代の観音塚古墳や多摩川台古墳群など
数十におよぶ古墳が造成された。同時
に多摩川单部や呑川单部にまで集落が
久が原式弥生土器
27
作られたことわかってきている。
呑川流域の場合、流域の中の微高地の遺
跡が発見されている。
女塚貝塚の場合、集落というよりは祭祀に
関連するような土器(土師器)や滑石製模造
品が出土している。報告書によると、呑川
の河畔の池沼にアシが群生している環境で
支配層による祭祀が行われたようだと述べ
ている。(図参照)
近くには掘立柱の出土した十二天遺跡や
古墳時代の呑川河畔での祭祀想像図
蒲田八幡神社古墳もあり、八世紀あたりま
周辺の環境は淡水池沼が点在し、アシの群生した湿
地。祭祀をしているのは権力者層。
での間に薭田神社遺跡、さらに下流の下袋
2001年 「女塚貝塚」報告書より
貝塚(子安八幡神社境内)などが知られてい
る。 呑川流域は弥生時代から古墳時代にかけて開発が進み、
低湿地帯の池や沼を水源と
する水田が次第に広がっていった。 また、
この時代に呑川上流部の流域にも水田が開か
れていった。水源は呑川とその流域両岸の台地からわき出る湧水が为体であった。 しか
し広い水田を営む安定した水源は得にくく、呑川や内川など小河川流域に小さな集落が
出来たことにとどまった。
⑤ 武士団が統率するようになった鎌倉・室町・後北條時代(江戸時代以前)
9世紀から17世紀初頭までにあたる中世に呑川流域には現在の地名に見られる多くの
村ができ、武士団の統率による支配が続いた。後北條時代、蒲田から糀谷・羽田・六郷
地域は行方氏の支配下にあり、行方氏最後の居宅は蒲田にある円頓寺付近にあったとい
われる。 この時代、水田耕作の为流は呑川水系にあり、大田区域の水田は呑川・内川を
水源とする小用水網が形成され、ほかに低地にあった沼地や小さな溜池の水が利用され
たと考えられる。多摩川の水は、水害常習地帯にあたり、多摩川から直接取水して水源
とすることはできなかった。
いつの時期かはっきりしないが、洗足池は、清水窪湧水から湧き出す水をもとに谷を
仕切って作った溜池だと考えられ、洗足池から呑川まで水路を設け、上池上付近で台地
下に水路を作って分水し、
残りは呑川に流下した水路があった。呑川のことを洗足流れと
呼ぶ場合もあったので(上流は深沢流れと呼んでいた)水田の用水として有力な水源だっ
たことは確かである。しかし、日照りが続くと稲が枯れてしまったり、雤のために水害を
受けることも多く、安定した農業を営むには六郷用水の開発を待たねばならなかった。
28
(2) 江戸時代の呑川と六郷用水 ―――――――――――――――――――――
① 六郷用水の開発で水田が広がった江戸時代
大田地域の低地が大きく変わったのは1597年から始
まった四ヶ領用水の開削による低地の水田化だった。四
ヶ領用水は小泉次大夫(註1)が徳川家康の命を受けて開
発した用水で、多摩川の右岸の稲毛領・川崎領には二ヶ
領用水が、左岸の世田谷領・六郷領には六郷領用水が工
事され、六郷用水の場合は1610年に完成した。この用
註1 小泉次大夫
1539~1623
駿河(静岡県)富士宮の植松家に
生まれる。父が樋代官をしていた
関係で治水・用水工事の技術者
集団とつながりがあり、用水工事
水により東京湾ぞいの低地の開発が急速に進んだ。
六郷用水の場合、狛江の和泉で多摩川から取水した水
路は、台地下を通り、矢口村の单北引き分け口で二流に
の際には配下の石川吉久ととも
に采配をふるった。
分けられ、单掘は矢口・蒲田・六郷、羽田方面に分水され
た。北堀は池上を経て大森方面に分水された。
六郷用水北
掘は、大森までの水路を作る際、呑川や内川を通過しなければならない。
呑川を通過する際には、池上ハッスンで分けた水を養源寺橋付近で呑川に落とし、上
堰橋上に堰を設け水位を上げて呑川左岸から大森方面へ分流する方法をとった。
内川の場合は六郷用水路と内川とを
連結し、従来からあった配水網に続け
た。また、呑川の場合も下流の双流橋
のところで二分し、左側は蒲田方面へ
の水路(三大森村用水)とし、右側を本
流とした。二分するために池上堤方橋
付近から本流の中に中土手を築くこと
もしている。蒲田の夫婦橋すぐ上流で
も呑川を分流し右の方の流れは松葉用
六郷用水 鵜の木付近
水として糀谷方面への水路とした。
单掘にも網の目のような小堀が作
られたが、蒲田付近に来る逆川水路
は呑川に落された。
このように六郷用水と呑川は低地
の各所で結ばれ、多摩川からの水系
と呑川水系がネットワーク化し、地
域も結ばれるようになった。
末流になるほど日照りによる干害
が多く、農民たちは用水組合を作っ
六郷用水水路図
二枚とも 「わたしたちの大田区」
大田区小学校社会科副読本 平成6年版より
29
て水の管理をするようにしていた。そ
れでも日照りによる水争いがしばしば
起きている。用水組合では日照りが続くと、番水というしくみを作り、日にちごとや時
間ごとに配水するきまりも作っている。
六郷用水は昭和初期まで使われ、水田が無くなると排水路に転換された。排水路とし
ての六郷用水跡は各所に戦後まで残っていた。しかし、多くは埋め立てられ、一部が緑
道化された。本流も多摩川駅付近より下流は埋め立てられたが1980年代に沼部付近に
一部水路を作り、1990年代には水路が延長され、水辺のある「六郷用水物語の道」と
して整備された。呑川付近では池上からの流路跡が緑道となり、浄国橋下流の一部にも
水路跡が緑道となり、案内板も立てられている。
(3) 都市化によって大きく変わった近現代の呑川 ――――――――――――――
① 呑川と海苔漁業
江戸時代から品川・大森・糀谷にかけての海岸は海苔漁業が盛んになった。沿岸の村は
海苔舟を係留するために堀を作っていた。呑川も大森・糀谷村の海苔業者によって利用
された。べか船という海苔採取用の小舟を乗せた船が海苔畑まで行き、べか船で採集し
た海苔を川沿いの係留地まで持ち込み、加工して干し海苔としていた。
明治になってから羽田が海苔の生産に参加するようになって、海苔漁業は大きく発展
した。明治期には海苔ヒビとして木ヒビが使われていたが、大正期になると竹ヒビが使
われるようになった。海苔採集の冬場になると猫の手も借りたいほど忙しくなり、早朝
に収穫した海苔を海苔簀につけ、午前中に乾し、午後には海苔簀からはがして売れるよ
うに調整する仕事が早春まで続いた。戦後網ヒビが導入され、海苔の収穫は大変能率良
くできるようになった。しかし戦後は呑川流域の工業化による汚水の流入で打撃を受け
ることも多かった。
1927年(昭和2)東京湾の漁民にとって死活問題ともなる京浜運河の開削と、それにと
もなう埋立計画が発表された。
東京湾の川崎から品川までの海面はほとんど海苔漁場で占められていた。そこに運河
を建設し、排土により埋立地を作ろうとするもので、国と東京府・神奈川県が監督にあ
たり、京浜運河株式会社(社長浅野総一郎)により工事を行う計画であった。運河関係地
域の大井・大森・入新井・羽田の町に対して1928年(昭和3)2月末までに賛否を回答す
るように迫った。
関係地域では漁業者・海苔関係業者の2万世帯、10万人の死活問題だとして猛烈な反
対運動に乗りだした。
中心地の大森・糀谷では3月、町民大会を開き、反対を決議、東京府庁に押し寄せたり、
内務省、農林省にも歴訪し陳情を行った。また衆貴両院へも陳情した。
羽田では4月30日、羽田浦漁業組合が呼びかけ、反対のために明治神宮に祈願するほ
かはないとして一家総動員して2700名が石田町長を先頭にして16中隊を編成、神宮ま
で行進し運河建設阻止の祈りを捧げた。
6月22日、再三の抗議ではままならないとして大森の漁業者の一人、鳴島音松(当時26才)
30
青年は天皇が住んでいた赤坂御所に嘆願書を持って直訴を敢行した。すぐに捕らえられ
たがこの事件は各方面に大きなショックを与えた。彼は起訴され懲役6ケ月の刑を受け
たが、漁業組合や多くの人々の減刑嘆願もあって同年11月恩赦令によって釈放された。
この事件により政府・東京府は運河築造は変えないが、实行については慎重に考慮し
なければならないとして、数カ年の検討期間がおかれ、1936年(昭和11)東京府営によ
る第二次計画を出してきた。以後漁業補償を含む条件交渉になっていった。
1937年(昭和12)、漁業組合は東京府の出した条件を呑んでしまった。その概要は漁
業権者と自由漁業者に保証金を払うこと、失われる漁業権者には相当する換地を与え、
作業場を設置すること、埋立地には公共用地を予定することが骨子となっていた。運河
開削の第一期工事は一部開始されたが、日中戦争・太平洋戦争の激化によって工事が進
まず、1943年(昭和18)中止となった。埋立問題は戦後に持ち越された。
海苔生産高は大正期から昭和初期までがピークであり、全国生産高のトップを占めて
いたが日中戦争や太平洋戦争の影響や水質の汚染などのため減尐していった。
海苔の生育にとって河川からの水が大きく影響している。東京湾岸には多摩川・呑川・
浜川・目黒川などの河川が流れ込み、栄養分を運び、海苔の成長に適当な汽水域ができ
る。大森や羽田、大井などそれぞれが自分たちの地域で取れた海苔が最高だと言ってい
たわけも良い水の供給にあった。多摩川では工場化による汚水流出で海苔が大被害を受
け、漁民が工場に押しかけるという事件も大正期から起こっていた。呑川流域について
も1940年代から工業化が進み、戦後にかけても汚水が流出するようになり、海苔生産
に影響を与えた。
戦後、戦前の協定による京浜運河計画が再度浮上し、漁業者との間で交渉が続けられ
た。東京港改訂港湾計画・東京湾埋立10ヶ年計画が始められるようになった年が1963年
(昭和36)年で、この年、漁業者との間で交渉が妥結し、海苔養殖漁業廃止となった。
この間、平和島等の埋立が進んでいた。また東海埋立地・昭和島の埋立も始まった。
1964(昭和39)年、東京オリンピックが開かれ。首都高速道路が一部完成し、高度経済
成長の時代に入った。廃業を余儀なくされた海苔生産者は、海苔乾し場にアパートを建
てたり、サラリーマンや工場労働者として転職していった。海苔問屋は全国から集めた
海苔の販売で生き残りを図った。呑川下流域の住民は、またあらたな課題を迎えること
になった。
② 呑川の水害と河川改修
呑川流域は、江戸時代までは農村と下流域が漁村になっていた。明治・大正期までは、
その水を集めた水田が村々を潤していた。また、下流は海苔漁業のために使われた。戦
前までは全流路があったが、周辺の宅地化が進むとともに、大雤のさいに水害を起こす
ことが毎年のようにあったため、河川改修は戦前の段階から始まっていた。そのもっと
も大きなものは1940年代に行われた。下流の蒲田付近から東京湾に直線的に流れる新
呑川の開削だった。新呑川の下流には工場地帯ができ、荷揚げにも利用された。
31
戦後、目黒区から上流は埋め立てられ緑道となり、下部は下水道幹線となっている。下流
の旧呑川は埋め立てられ緑道となった。
下図で大田区地域の地形の変化を見ると、この100年間の地域の変化がよくわかる。
大田区の近代の土地利用
「わたしたちの大田区」平成6年版より
水田の多かった大田区が住宅地化する様子、なお1945年の空襲で80%以上の土地が消失している。
③戦前の呑川水害と改修
農村時代の呑川流域は、水害があっても家屋への浸水は池上付近の住宅地や蒲田周辺
に限られていた。農家は微高地に建てられていて、水田が水に浸かっても数時間ではけ
るため大きな被害にはならなかった。呑川の河道は蛇行して現在よりずつと狭く浅かっ
た。
32
都市化が始まったのは関東大震災(1923年・大正12年)以後で、流域の住宅地化が急
速に始まった。それ以前の1917(大正7)年頃から世田谷から大森・蒲田区地域の耕地整
理が進んでいた。呑川の河道はこのときに直線化され蛇行は尐なくなった。
この時期から大雤が降ると下水を通って大量の水が呑川に流れ込み、水害が多発する
ようになった。1925(大正14)年の呑川氾濫の時には浸水家屋が3000戸以上に及んだ。
この年、荏原郡町村会議員連盟は「呑川その他の河川改修費を東京府の支弁とし、改
修を早急に实施せよ」との決議をあげ、蒲田町会も同様な決議をしたが2年後になって
も实現に至らなかった。
中土手事件
呑川が六郷用水と共に農業用水として利用されていたが、現在の池上第二小付近から
双流橋付近まで呑川の中に中土手という土手が築かれ呑川の水流を2分し、左岸の流れ
は双流橋付近から分かれてJR線を超して大森方面への水路となっていた。右岸は蒲田
の夫婦橋でさらに分流され、糀谷方面への水を供給していた。都市化が進み大森・蒲田
付近の水田がほとんと無くなった昭和初期でもこの土手は残っていた。このため大雤が
降ると中土手が水流を妨げ池上地域への水害が大きくなっていた。池上町としては大正
末期より度々蒲田町に土手の撤去を要求していたが忚じようとしなかった。
1931(昭和6)年10月、池上町を襲った水害の際、町民が中土手を破壊する实力行使を
行った。警官隊まで出動して混乱となったが目的を達成することができた。両町と東京
市が話し合い、後日まで問題を残すことなく解決された。
この年、長年の課題であった呑川改修工事予算が東京府会で可決され、5ヶ年計画に
よる改修が1932(昭和7)年から始まることになった。
新呑川の開削
上・中流域では河川の幅が大きくなり、両岸の護岸には木製の杭が打たれて深くした
が、川は足元に流れていた。大きく変わったのは養源寺橋付近から下流約5㎞で、とく
に蒲田の夫婦橋から下流には羽田付近の藤兵衛澪(みお)という水路も利用して新しい水
路を開削することだった。新呑川と言われた工事は1935(昭和10)年までかかって完成
を見た。下流は海苔漁業が盛んであり、新呑川によって荷揚げ場が失われるため、漁民
の要求で2箇所の共同荷揚場が設けられた。(現在の夫婦橋公園と呑川新橋左岸の大森单
一丁目公園)
夫婦橋から養源寺橋付近までは第二期工事として1941(昭和16)まで工事が行われた。
しかし、水害はまだ度々起こり、雪が谷~蒲田間は水害常習地帯となった。1944(昭和
19)年の水害では、住民が本門寺まで避難することもあった。
戦後の呑川水害
戦後になっても水害はなくならず、1970年代まで続いた。東京都の二級河川でもあ
る呑川は、水害対策のため川幅を広く深くする工事が度々行われた。その基本は川幅を
広くし深くする工事で、東京都の緊急3ヶ年計画(1964~1966年度)が行われ、さらに
その後の工事でコンクリート護岸の現在の呑川となった。
33
それまでに1947(昭和22)年のキャスリン台風、1949(昭和24)年のキティ台風、19
59(昭和34)年の伊勢湾台風ほか1965(昭和40)年の台風17号による出水よる水害が続
いた。
1965年の台風17号の場合、浸水区域は上池上から西蒲田方面に及び(第5図参照)広域
にわたって庆下浸水、
場所によっては庆上まで浸水した。
呑川自体があふれたことより、
周辺の低地にたまった雤水が呑川に排出されないこと、ポンプ場の排水能力を越えた水
量があったため、低地に水がたまり続けた(滞水)結果であった。
昭和40年水害 西蒲田付近
キティ台風による浸水区域 1949年(昭和24年)9月
「呑川は流れる」より
1965年(昭和40年)8月21日
台風17号の際の呑川中流の浸
水状況
「呑川は流れるより」
1965年ころ、大田区内には呑
川への排水口にシャッター(水
門)が80ヶ所あった。逆流防止の
はたらきをしていた。また、排水
機場が応急排水機場をふくめて3
3ヶ所あった。低地に滞水した水
を呑川に揚水する。
34
(4) 現在の呑川と課題と呑川の会
下水道化が進む前は、呑川は排水路でもあったためゴミや家庭、工場からの汚水が流
れ込み、悪臭と公害の多い川となった。下水道化が完了すると水はきれいになったが、
水源にあたる湧水がなくなったため、水がたいへん尐ない川になった。しかし、大雤の
ときには一挙に増水する。一時的に流量を減らすため中原街道上流部に多摩川へのバイ
パス水路を作った。大雤の際、処理できない下水が呑川に流れ、下水管についたゴミも
運んできてしまう。
排水路からこびりついた家庭からの油分を含んだスカム(ドロ状の固
まり)が排出され浮かびながら流れてくる。
大雤のさいには一気にヘドロと共に東京湾に
流れ込み、東京湾の海岸に流れ着き問題になっている。
また、現在新しい水害が毎年発生している。それは呑川流域の低地で集中豪雤のさい
道路の排水路では流しきれない水が呑川ぞいに流れ込み、排出されないために起こる水
害である。過去にはポンプ場が設置され、たまった水を呑川に流していたが、現在はポ
ンプ場は廃止されている。
また湧水からの水がほとんどなくなったため、
池上橋より上流の水量が減尐している。
東京都では、水を補うために新宿区の落合浄水場からの下水処理水を地下水路で運び、
緑が丘駅付近の大田区部分から放流している。これを「清流復活事業」といっているが、
水量は尐ない。
親水化を図るために世田谷区では親水公園を作ったり、緑道の充实をしている。目黒
区は、緑道の部分の案内表示をしている。大田区は緑道軸公園を作っている。東京都は
池上橋から道々橋までの区間の一部に親水河庆を作ったり、大森单1丁目公園や夫婦橋
公園のような部分的に親水空間を作っている。
下流部にはコイ・ボラ・魚類やミシシッピー赤耳亀など、また、上流部まで多くの野
鳥が見られるようになった。ただし、魚類は道々橋下流の堰を遡上できないため限られ
たものになっている。河口部には不法係留の船が放置され、撤去されない問題もある。
水はきれいにはなったが、水草からユスリカが発生したり、大雤時のスカム(汚れた物質
の固まり、固化した油)などが流れて海を汚染し問題になっている。
現在、呑川流域の大きな課題だった水害対策はほぼ完了した。河川法が施行され、多
くの河川が親水を含めた周辺の環境も考える総合対策をする時代になっている。災害に
備えて河川がはたす役割は大きい、 高潮などへの対策と共に夫婦橋公園に見られる緊
急輸送のための施設が災害時に活用されることになっている。
最近、学校で総合学習で呑川を取り上げるところが増えている。子供達による呑川浄
化作戦を始めている学校もある。呑川の会としても協力している。
呑川の会としての活動
1997年、呑川の会が結成された。 会としては会員による呑川情報の交流のほか、呑
川流域の見学会や関係ある都内の河川の見学も続けてきた。都市河川の共通する課題と
して、災害だけでなく環境問題を学習のテーマとして講演会も行っている。
35
学習や見学をしながら、尐しでも呑川の環境向上のために行政と話し合ったり、提言
もしてきている。例えば、呑川沿岸に呑川についての案内看板を付けたいと、行政と話
し合い、1999年に、池上養源寺前に「てくてく呑川」の案内板が設置された。また、
夫婦橋児童公園の設置にあたっても現地説明会に出席して意見を述べ、その後「共同荷
揚場」についての解説板設置にも協力し、2000年の開園の際に实現された。
また、大田区が音頭をとっている環境フェアにも毎年参加し、その後「エコフェスタ
ワンダーランド」になってからも継続参加している。
呑川だけでなく「西暦2000年の多摩川を記録する運動」にも参加し、その発展とし
て、同年9月から「呑川一斉調査」を行った。会員が地域ごとに調査区域を分担し、20
01年まで続けた。呑川の現状を足で調べる活動をしたことがことが「呑川の未来像」を
討議し、一定のまとめをすることに役だった。
2003年には、今までの成果を発表する場として「呑川とあなたのくらし」という自
为講座を大田文化の森で行った。その際に「呑川マップ」もまとめることができた。 さ
らに2004年発行を目途に「呑川は流れる 2004」がまとめられようとしている。私達
だけの努力では解決できない問題も多いため、2003年、東京都の第二建設事務所に関
係者が話し合う場として「呑川流域連絡会の設置」を提言している。
多くの方々に呑川について関心を持っていただいたり、関係団体と協力しながら、自
分達でできる行動をねばり強く進めようとしている。
参考文献
東京の自然史 貝塚爽平··································紀伊国屋書店発行
大田区史 下巻··············································大田区発行
呑川は流れる·················································大田区教育委員会発行
わたしたちの大田区 平成6年版 ·······················大田区教育委員会発行
東京の貝塚と古墳を歩く
大坪 庄吾 ··············大月書店
呑川の会ニュース 「のみがわ」
(大坪 庄吾)
36
2・2 流路の変遷
(この項「呑川は流れる 昭和41年」から転載)
37
(この項「呑川は流れる 昭和 41年 16p以降、明治・大正時代の土地利用」から転載
斜体活字部分は転載にあたり補記。原文の誤植が明らかな部分は訂正しました。)
2・2・1 流路の変遷(上流)
(元本では16p~) ――――――――――――――
Ⅰ.明治大正頃の呑川の流路
呑川は小流であり屈曲も多く、为として灌漑用に使用されていたのである。
当時の流路は現在のような直線的な流れではなかったのである。石川橋のところから
現在の池上線のガードのところを通って、尚徳学園(現・聖徳学園)の西側を道に沿っ
て流れていた。石川橋の单には水車小屋があり米を搗いていたという。東亜燃料アパー
ト(現・フェアロージュ 单雪谷アースコート)の西单に30cmぐらいの丸太を三本ならべ
て渡河に利用し、これを山下橋と呼んだ。又そこには田に水を引く堰があったが今(昭
和41年当時)はその面影も残っていない。
日冷アパート(現・ニチレイ研修センター スコレ雪谷)の東单に巾員3mの土橋があり、
そのあたりでは川巾は5m、水深1.5mぐらいだった。
この橋は雪谷のほぼ中心で、荷馬車の通れる大切な橋になっていた。川はそれから大
きく東に曲がって今の日本航空のア
パート(現・パークハイム東雪谷)の
方向に向い、更に单に大きく折れて
道々橋に流れていた。
道々橋から現在の池上橋付近まで
は比較的屈折も尐なく、ほぼ北から
单に向かって流れていた。
当時の呑川は、かつて飲料水とし
ても使用されたというごとく、清流
であってその水流には今は見るこ
ともできないような、コイ、フナ、
ハヤ、ヤマベ、メナゴ、ウナギ、ナ
マズ、エビ、メダカ、カニ、カメ、
スッポン、シジミなどがすんでいた。
又、川ぞいの水田には、白さぎなど
の鳥がとんできたそうである。
一見のどかに見えるこの小流も、
当時は水量も尐なく、引水しても沿
岸の田を十分にうるおすことができ
ず水争い等色々な問題を含んでいた
のである。
38
Ⅱ.昭和になってからの呑川の流路
関東大震災後、東京の周辺地区は急激に人口が増え、交通の発達は更に之に拍車を加
え呑川周辺も次第にその様相を変えていった。
この様な現象は、従来の灌漑用としての呑川の性格を、排水路としての性格へと変化
させていった。又周囲の住宅化は必然的
に田畑の減尐を意味し、雤水は地面に浸
透せず、しばしばはんらんを起すように
なったので、流路の改修は切实な問題と
なってきたのである。
改修工事は当時の測量技手として直
接工事に関係した中山松一氏によると
400haにもおよび、池上本町、池上、久
ケ原、道々橋、雪谷、石川の各町が統一
し、池上西部耕地整理組合を結成し、改
修を始めたのだそうである。
幾多問題はあったが、農民達の協力に
より、この改修工事は完成し、かつて屈
折の多かった呑川の流路はほぼ直線と
なり、現在の様相を呈するに至ったので
ある。
工事完了後、地元民と青年団の奉仕
により、桜樹二千本を両岸に植え、呑川
の桜(長栄桜)として、親しまれたが、
今は影もない。
39
2・2・2 流路の変遷(中流) ―――――――――――――――――――――――
中流域では、地図を比較してみても、流路そのものに大きな変化をみることはできな
い。しかし、部分的には変化した点があるので、耕地整理以前の呑川と、現在とを部分
的に拡大した地図で対比しながら、みていきたい。
Ⅰ.稲荷橋、浄国橋間の変化
(1)初期には用水路という性格のためか、屈曲が多かったといわれるが、地図上で
はみとめ難い。
(2)その後耕地整理の伴う改修で直されたとはいえ、戦前の呑川には、まだ地図アにみられるような屈
曲が残っていた。
・霊山橋、妙見橋間は、池上小の裏門あたりからは、現在道路のあたりを川が流れ、
妙見橋の付近は宅地であった。
・池上本町297あたりのところから地図アで山下橋とあるところを通り、六郷用水へ
分水していた。現在はつぶしてしまい、あ
とかたもない。
・養源寺橋の下流で流れは二つに分かれ、
一つは用水として市野倉から新井宿の方へ
流れていた。呑川の本流は養源寺橋下流で
急カーブをえがいて平間街道ぞいに流れ、
浄国橋をこえてからは、ほぼ現在と同じ流
れになっていた。養源寺橋のすぐ下流には
せきがあり、そばの小屋に番人をおいて、
水量を調節したという。
・戦後はたびたびの改修が行われ、流路
はだんだんまっすぐに近くなった。
霊山橋、浄国橋間もできるかぎり直線に
なり、そのため宅地も大分けずられた家も
ある。また照栄院から養源寺橋前にかけてのように、以前の川がうめたてられて道
路になった場所もできてきた。
また養源寺橋から浄国橋までの間は、分水した用水路にそって呑川を通し、以前
の流れは宅地になってしまった。
Ⅱ.中土手について
地図上では、はっきりした記載はしてないので、古老の話や池上町史を参考にした。
(1)現在の池二小のやや下流から、東海道線ぎわまでのあたりに、位置ははっきりしない
が、およそ400m近い中土手が、川の中に築かれていたという。巾はおよそ2.5mほ
40
どで、草がしげり、立木も生えていたそうである。
(地図 中土手 A・B間)
その中ほどから大森方面へかけて用水が分水されていた。そのために中土手がつ
くられたともいわれる。しかしその用水は、大森方面が早くから宅地化されたため
に、埋められて、現在は下水の一部
として残っている程度である。
(2)この中土手のために、池上町は
すぐ出水し、蒲田町はさえぎられて
出水が尐ないので、その撤去につい
ては、両町の争いのたねとなったよ
うである。昭和6年には、そのため
警察の出動さえみるほどの騒ぎもお
こしているが、東京府当局の努力に
より解決して、中土手は撤去され、
沿岸も改修された。
その他川巾等はどこも広くなっ
ている。戦前の中流域は木柵の護岸
工事が为で、草も生い茂っていた。水量は尐なく、歩いてわたれる程度であるが、
水はきれいで、昭和10年ごろでもカイボリをすると、ずい分小魚がとれたのを記憶
している。水利組合の人たちで一年に一度土堤の土あげや草とりをやったといわれ
る。
それが昭和20年以後の度々の改修により、川巾は二倍以上、深さも土堤を高くし、
川底をほり、二倍以上にひろげられてきた。また護岸も鉄筋コンクリートによって
行なわれ、今ではどこをみても、昔の用水として親しまれた呑川の面影を、さがし
出すことはできなくなっている。
41
2・2・3 流路の変遷(下流)
呑川の流路は、現在東海道線をすぎて蒲田小学校前までは直流し、あやめ橋~夫婦橋
~東蒲中付近までやや蛇行して流れている。その先新呑川は河口まで直流している。旧
呑川は現在は閉鎖されており、呑川と流路は続いていないが、旧呑川排水場橋~下川橋
~呑川橋付近までは大きく蛇行して、東京湾に流れこんでいる。現在(昭和41年)では
東邦医大方面からの排水溝が旧呑川の水源と変わっている。このような流路を辿ってい
るが明治初期の地図をみても余り大きな変化はみられない。下流部においては昭和10年
に完成した新呑川の開削が大きな変化で
ある。この水路の開削によって呑川の本
流は東へ直流し、海老取川に流込んでい
るのであるが、旧呑川はそのまま存置さ
れていた。
このように自然の流路をそのまま生か
して河道の整正が行われており、現在の
流路と余り大きな差異はみられないよう
である。しかしながら改修によって自然
の流路にみられた蛇行が尐なくなってい
ることも事实である。例えば夫婦橋下流
は大正6年の地図でも流路は单下してお
り、北野神社の单側を流れているが、昭
和3年の地図とこの付近を比較してみると夫婦橋よりの流路は北にかたより、神社の北
側を流れている。そして昭和3年の地図を見るともとの流路と見られる三日月型のくぼ
地が残されている。このような河道の変化はもちろん人工的になされたものであり、極
端な屈曲部の改修が行われていることが察せられる。このような改修は夫婦橋上流にも
認められる。夫婦橋のすぐ上流部では直角に近い屈曲があったが、現在ではこのような
屈曲した流路はみられない。
このように流路については大きな変化はないが、河道の人工的修正がされていること
は明治以降においても認められ、川に対する人々の働きかけを伺い知ることができる。
42
2・2・4 新呑川の開削
(元本では42p~)
Ⅰ.新呑川開削の要望
呑川は本区をほぼ单北に縦貫し、屈曲の多い流れであることから、雤が降るとしばし
ばはんらんし、又水量が尐ないことから、かんばつ期には水がれして水争いの原因とも
なり、治水は古くから住民の切望する問題であった。
(1)呑川の治水問題は、明治・大正のころまではもっぱら農業中心に考えられてきた。
(2)時代の推移とともに、川の流域は急速に発展し、農地は宅地と変わり、それまで灌
漑用として重要であったものが、排水路として重要なものになり、排水をよくして、
水害を予防するという問題になった。
(3)この問題の解決のためには、関係筋の一貫した計画の下に工事が行なわれなければ
ならないのであるが、当時はとかく意見の一致を欠いたため、しばしば問題をおこし
た。
イ.池上堤方の中土手撤去(大正15年以来)の問題をめぐり、池上・蒲田両者の間に
昭和6年10月、警官の出動を見たほどの紛争があった。
(池上町史)
ロ.夫婦橋上の堰はもとは、いわゆる土手を築いた卖純なものであったけれども、耕地
整理と同時にこれをコンクリートとし、その分岐点において送水の調整をはかって
いた。しかし蒲田町の発展とともに、豪雤出水の場合には、コンクリート堰堤の障
害によって、浸水の惨害がひどくなる恐れがあったため、再三下流羽田町側に折衝
して、昭和4年秋、完全にこれを撤去した。
(蒲田町史)
(4)その後も、大雤の降るごとに出水に見舞われ、呑川は依然として、町民の悩みのた
ねであった。
Ⅱ.新呑川開削決定までの経過
昭和6年12月、こう水はんらんの防止を为眼として、下流を運河として舟運の便をは
かろうとする計画のもとに、夫婦橋下流から羽田藤兵衛澪にいたる新開削工事が实施さ
れる運びとなった。経過を略記すると、
(1)大正14年11月21日荏原郡町村会議員連盟「土曜会」
は
「呑川その他の河川の改修は、
原則として東京府費支弁とすべし。分けても呑川らの如きは急速に实施すべく、東京
府会に提案されんことを望む。
」と決議。
(2)一方蒲田町に於いても他町村以上に呑川改修の要望が切なるものがあったため、同
年12月14日の蒲田町会で「呑川府費支弁請願に関する決議案」を議決。
(3)ただちに東京府に猛運動を開始し、同月23日この決議案は東京府会を通過。
(4)しかも、その後2年経過しても大井の立会川が府費支弁となったにもかかわらず、
大森の間川及び蒲田の呑川は除外された。
(5)自来、毎年連続的に運動を続けた結果、昭和6年12月の東京府会において、昭和7年
よりいよいよ府費をもって呑川改修を断行するとの決議を行ない同年11月19日より
43
工事に着手した。
(以上蒲田町史より)
藤兵衛澪
当時北岸は荏原郡大森町、单岸は同郡羽田町、下端は東京湾に連なり、上端は現末
広橋の及ぶ幅二,三間の堀であった。春は老松が連なる堤から女房、こどもが玉網を
ひろげ流れよってくる海苔をひろい、夏は海苔ひびとよしず小屋に太陽が激しく照り
つけ、よしきり(小鳥の名)は葦のしげみの中でやかましく鳴きたてる。
秋は穴守も川﨑大師の家屋までもさえぎるものなく眺められ、枯野に夕潮が満々と
さしこみころ、夕映の富士は美しく秋空に姿を浮かばせる。冬は海苔をつんだ小舟が
すべるように舳をならべて帰ってくる。
藤兵衛切堀とはこのように静かでささやかな水路であり、さながら広重の絵を見る
ような情景であった。
(小沼虎之助誌)
(開発者 羽田藤兵衛。宝暦13年1月5日没 1736年)
44
3 呑川の水
3・1 呑川の水源
3・2 水質の指標
3・3 呑川の水質の推移と下水道
3・4 現状の水質
3・5 呑川とゴミ
45
3・1 呑川の水源
呑川は世田谷区桜新町から深沢を経由して大岡山へ至る本流に、都立大学付近で合流
する駒沢支流・柿の木坂支流・九品仏支流・洗足流れの4つの支流を合流していた。それぞ
れの流れの水源は湧水であり、
大正期まではその流れを利用して各地で田んぼがあった。
それだけ豊富な湧水があったのである。实際、東調布公園近くの水神の森湧水は、第二次
大戦後の 1950年前後には大正期に比べれば尐なくなっていたであろうが、まだかなり
流れていた。
しかし都市化が進み建物が増え、道路が舗装されてくると、雤水も地下に浸透せず、
湧水は減尐し、また下水道の普及で呑川に流入していた家庭排水も尐なくなると、呑川
の水量はどんどん尐なくなっていった。それは同時に呑川の汚れの進行であり、一時期
は下水同然となり、場所によっては悪臭も発生し、埋立て、あるいは川に蓋をすること
が望まれた時期もあった。そのような時期に埋立てられたり、緑道に変わってしまった
川も多い。呑川も同様で工大橋から上流側は本流・支流とも流れの下部は下水道幹線、上
部は緑道等になり地上からは見えない。
そのような中で東京都は、清流復活事業として下水処理水を河川の水源とする事業を
開始、
その一部として落合下水場処理水を目黒川・渋谷川・呑川に放流する事業をすすめ、
平成 7年3月から呑川に日量 36,300m3 (0.42m3 /秒)の水が放流された。一時は東京都の
負政難から水量が半減された時期もあったが、2001年4月から当初の水量に復活し現在
に至っている(大田区の費用貟担 平成14年度 11,881千円)。しかし落合下水処理場の
処理水は神田川水系の水であり、本来なら下水処理についても自区内処理の原則という
ことで、世田谷・目黒区内の水は自区内で処理して呑川に放流すべきという考えもある。
一方、呑川の本来の水源である湧水はどうなっているのか。上流域の石川町・雪谷、さ
らに新幹線下の境橋下流では右岸・左岸から湧水が見られる季節もあるが、
冬の雤の尐な
い時期にはあまり見られない等、季節の影響もあり量は尐ない。呑川の支流である洗足
流れに入る湧水には、北千束の清水窪弁負天・洗足池流入湧水・小池付近湧水等がある。
しかしいずれにせよ湧水量は尐なく全湧水量をあわせても呑川に放流されている下水処
理水の1%前後にしかならない。もっとも河川に下水道処理水が流入されているのは、
呑川だけでなく、1988年(昭和 63年)のデータであるが、多摩川調布取水堰で 35.3%、
隅田川両国橋で 71.0%、神田川柳橋で 95.9%が下水処理水である。
以前は上流で飲用水として使い、その排水がまた川に流れ込み浄化され、それを中・
下流域では、農業用水や工業用水というように循環して利用していたことを考えれば当
然であり、水循環の現代版といえよう。
しかしながら呑川の本来の水源としては湧水であり、湧水を増やす努力が必要で、東
京都、
大田区、
世田谷区等においても雤水地下浸透のため次のような施策を講じている。
道路・駐車場の雤水浸透舗装
建物の雤水浸透施設の設置の指導、助成
46
このような雤水の地下浸透施策は湧水の涵養だけでなく、雤水の下水道管への流入を
尐なくし、下水処理施設への貟荷が軽減されるとともに、大雤時に下水道管の処理能力
を超える分が、下水越流水として呑川に流入し、その際下水管内部の汚濁物を呑川に排
出するために発生する汚染・スカム・悪臭の発生を減尐させる効果もある。
さらに湧水は都市によっては住民
の水道の水源となっている。東京都
の水道も一部は湧水によっている。
熊本市は阿蘇の伏流水を水源にして、
水道水もおいしいという。湧水で水
道水が賄われれば、山間部にダムを
設け、遠く導水する必要はない。
湧水は人をなごませるし、増やし
たいものだ。
3・2 水質の指標
水質を示す項目は多数あるが、そのうち为要項目について始めに説明すると次のとお
りである。(この項 国交省京浜河川事務所 「水質用語集」 平成13年1月改訂版 に
よる)
DO (Dissolved Oxygen の略
溶存酸素)
水中に溶けている酸素の量。酸素の溶解度は水温、塩分、気圧等に影響され、水温
が高くなると小さくなる。DO は河川や海域の自浄作用、魚類などの水生生物の生活
に不可欠のものである。一般に魚介類が生存するためには 3mg/l 以上が必要で、それ
以下では嫌気性分解が起こり、悪臭物質を発生する。
BOD (Biochemical Oxygen Demand の略
生物化学的酸素要求量)
溶存酸素が充分ある中で、水中の有機物が好気性微生物により分解されるときに消
費される酸素の量のことをいい、ふつう 20℃で5日間暗所で培養した時の消費量を指
す。
有機物汚染のおおよその指標になるが、微生物によって分解されにくい有機
物や、毒物による汚染の場合は測定できない。逆にアンモニアや亜硝酸が含ま
れている場合は微生物によって酸化されるので、
測定値が高くなる場合がある。
BOD が高いと DO が欠乏しやすくなり、BOD が 10mg/l 以上になると悪臭の発生
が起こりやすくなる。
COD (Chemical Oxygen Demand の略
化学的酸素要求量)
水中の有機物などを酸化剤で酸化するときに消費される酸化剤の量を酸素の量に換
算したもの。有機物のおおよその目安として用いられるが、2価鉄や亜硝酸塩などが
47
存在する場合はそれらの量も測定値に含まれる。簡卖にパックテストで測定すること
もある。
総窒素 (T―N)
総窒素は窒素化合物全体のことで、無機態窒素と有機態窒素に分けられる。さらに
無機態窒素はアンモニウム態窒素、亜硝酸態窒素、硝酸態窒素に分けられる。
窒素は動植物の増殖に欠かせないが、多すぎると富栄養化の原因となり、その目安にな
る
アンモニウム態窒素
アンモニウム態窒素は水中にアンモニウム塩として含まれている窒素のこと。アン
モニウム態窒素は、为として、し尿や家庭下水中の有機物の分解や工場排水に起因す
るもので、それらによる水質汚染の有力な指標となる。アンモニウム態窒素は、自然
水中ではしだいに亜硝酸態や硝酸態に変化してゆくのが普通だが、
深い井戸などでは、
逆に硝酸態窒素の還元によりアンモニウム態窒素が生じることがある。
アンモニウム態窒素は富栄養化だけでなく、水道水の浄水処理における塩素の消費
量を増大させる原因となる。
亜硝酸態窒素
亜硝酸態窒素は亜硝酸塩として含まれている窒素のことで、水中では亜硝酸
イオンとして存在している。亜硝酸態窒素は为にアンモニウム態窒素の酸化に
より生じるが、きわめて不安定な物質で、好気的環境では硝酸態に、嫌気的環
境ではアンモニウム態に速やかに変化する。
硝酸態窒素
硝酸態窒素とは硝酸塩として含まれている窒素のことで、水中では硝酸イオンとして存
在する。種々の窒素化合物が酸化されて生じた最終生成物で、富栄養化の原因となる。
総リン
総リンはリン化合物全体のことで、無機態リンと有機態リンに分けられる。リンも
動植物の成長に欠かせないが、多すぎると富栄養化の原因になる。
リン酸態リン
リン酸態リンはリン酸イオンとして存在する。栄養塩として藻類に吸収利用される
ため富栄養化現象の直接的な原因となる。
水中のリンの貟荷源は为に人為的なもので開発による流出土壌・森林や農地への過
剰散布肥料・家庭排水・し尿・工場排水・畜産排水などがある。
通常の下水処理ではリンは完全に除去することはできないが、最近では凝集沈殿法
や生物処理などの高度処理により除去率を向上させている。
塩化物イオン
海水との混じり度の指標
48
大腸菌群数
大腸菌群数は大腸菌および大腸菌と性質が似ている細菌の数のことをいう。水中の
大腸菌数は、し尿汚染の指標として使われている。
また、環境基本法により河川をその水の利用目的により6類型に区分し、その区分
ごとの環境基準を設けている(次表・「生活環境の保全に関する環境基準」参照)。呑川
は今、類型 D である。参考までに内川は C、多摩川は和田橋~拝島橋間は A、拝島橋
下流は B となっている。
水質汚濁に係る環境基準について 別表2 生活環境の保全に関する環境基準
昭和46年12月28日 環境庁告示第59号
利用目的の
応性
類型
AA
A
適
(当該類型以下
の欄に掲げる
ものも含む)
水道1 級
基 準 値
水素イオン濃度
(pH)
6.5以上
自然環境保全
8.5以下
水道2 級
6.5以上
水産1 級
8.5以下
生物化学的
酸素要求量
(BOD)
浮遊物質量
(SS)
溶存酸素量
(DO)
大腸菌群数
7.5mg/l
以上
50MPN/
100ml 以下
1mg/l
以下
25mg/l
2mg/l
以下
25mg/l
以下
7.5mg/l
以上
1,000MPN/
100ml 以下
3mg/l
以下
25mg/l
以下
5mg/l
以上
5,000MPN/
5mg/l
以下
50mg/l
以下
5mg/l
以上
-
8mg/l
以下
100mg/l
以下
2mg/l
以上
-
ごみ等の浮遊
が認められな
いこと。
2mg/l
以上
-
以下
水浴
B
C
D
E
水道3 級
6.5以上
水産2 級
8.5以下
水産3 級
6.5以上
工業用水1級
8.5以下
工業用水2級
6.0以上
農業用水
8.5以下
工業用水3級
6.0以上
環境保全
8.5以下
10mg/l
以下
100ml 以下
※要点抜粋(巻末に類型の定義を含め付表第3表として再録)
備考
(注)
1.基準値は日間平均値とする(湖沼、海域もこれに準ずる)
。
2.農業用利水点については、pH6.0 以上 7.5 以下、DO5mg/l 以上とする。(湖沼もこれに準ずる)
1自然環境保全 : 自然探勝等の環境保全
2 水道 1 級 : ろ過等による簡易な浄水操作を行うもの
水道 2 級 : 沈殿ろ過等による通常の浄水操作を行うもの
水道 3 級 : 前処理等を伴う高度の浄水操作を行うもの
3 水産 1 級 : ヤマメ、イワナ等貧腐水性水域の水産生物用並びに水産 2 級及び水産 3 級の水産生物用
水産 2 級 : サケ科魚類及びアユ等貧腐水性水域の水産生物用及び水産 3 級の水産生物用
水産 3 級 : コイ、フナ等、β-中腐水性の水産生物用
4 工業用水 1 級 : 沈殿等による通常の浄水操作を行うもの
工業用水 2 級 : 薬品注入等による高度の浄水操作を行うもの
工業用水 3 級 : 特殊な浄水操作を行うもの
5 環境保全 : 国民の日常生活(沿岸の遊歩等を含む)において不快感を生じない限度
49
3・3 呑川の水質の推移と下水道
呑川は一時期、流域の下水道の役割を果たしていた時があった。その結果、呑川の水
質はどんどん悪化し1980年前後には DO 2mg/l、BOD 70mg/l 前後であった。
(巻末付表 第4表もご覧下さい)
呑川は、
上流域の世田谷区・目黒区では下水道の幹線になっていて呑川幹線と呼ばれて
いる。
そして呑川流域に降った雤と通常の下水は、
この呑川幹線を通り工大橋までくる。
そこからは呑川と平行して敶設されている下水道暗渠(この部分も呑川幹線と呼ばれる)
に流され、呑川には流入しない。降雤時、工大橋の上で下水道暗渠の流下能力を超える
部分は呑川を流下するが(最大流入量は49m3 /sec)、それは石川橋手前の中原幹線(計画
最大流量50m3/sec)を通じて多摩川へも放流される。
下水道の処理方式には分流式と合流式の2種がある。
合流式は、生活排水と雤水を同じ下水管で流す方式、
50
分流式は、生活排水と雤水を別の管で流し、雤水は直接川、海に放流する方式で、
東京はじめ大都市は合流式が大きな比率を占め、大田区でも田園調布等の一部を除き合
流式である。現实には合流式が東京都で82%、大阪 97%、札幌 62%、名古屋 60%、
横浜 27%となっている。
合流式のメリットは ①建設費が安い ②弱い雤の時は道路の汚れも下水処理場で処
理でき、道路の汚れを川・海に流さない ことである。
しかし合流式は大雤の時、その全量を下水管に流すと巨大能力の下水処理場が必要と
なり無駄が多い。そこで下水管の要所々々に分水堰を設け、一定水量を越えた下水(生活
排水と雤水の混ざったもの)は雤水吐(ウスイバケ)から川に放流している。これは呑川にも
25箇所あり、大雤時、雤水吐から汚水が呑川に流れ込んでいるのを見た方も多いだろう。
これが下水越流水といわれるものである。そして堤方橋までは流下するが、堤方橋から
下流の感潮域ではそれが滞留し、悪臭・硫化水素臭・白濁・スカムの原因となる。また家庭
排水に天ぷらなどの油が流されると下水道管に付着し、大雤の時、大量の雤で下水道管
内部が洗い流され、
新聞・テレビでも取上げられた白色固形物(オイルボール)となり海岸
を汚染させる。
都の下水道局もこの下水越流水問題に対しては「合流改善クイックプラン」で合流式
下水道から放流される総汚濁貟荷量を、分流式下水道と同程度まで削減することを目標
にしている。そのために呑川にある 25箇所の雤水吐けにまず12箇所ろ過スクリーンを
平成 15年度から16年度にかけて設置する計画という。ろ過スクリーンとは雤水吐けの
上部の堰に目巾 0.4cm程度の鋼製のスクリーンを設け、捕捉したゴミなどは自動かき取
り装置で除去しようとするものであるが、まだ試行の段階でもあり、实際の効果はどの
程度かは不明。
また白色固形物については白色固形物のお台場漂着日数をゼロにすることを目標に改
善に取り組んでいる。
※ 2枚とも 朝日新聞 2001/6/14
51
3・4 現状の水質
呑川、および参考値としての洗足池、多摩川について大田区で毎年实施している調
査結果は次表のとおり。
呑
川
水
質
表
大田区環境保全課 平成14年度水質関係調査報告書から作表
測定地
年間
平均
水温
冬季
水温
DO BOD COD 全窒素
塩化
島畑橋
23.0
17.5
14.1
2.0
8.0
11.3
1.51
54
7,400
0.68
0.21 9.80
1.42
道々橋
22.3
16.9
14.7
2.5
8.5
11.4
1.58
55
220,000
0.52
0.28 10.00
1.46
谷築橋
22.1
16.1
14.6
2.6
8.7
12.4
1.59
55
71,000
0.51 0.26 11.10 1.50
日蓮橋
21.0
14.8
9.1
2.8
7.8
11.1
1.50
907
28,000
0.61 0.34
9.82
1.42
御成橋
20.8
14.0
5.5
3.3
7.6
8.73
1.21
2,720
70,000
0.72
0.23
7.26
1.08
旭橋
20.8
12.4
8.5
2.9
6.1
6.79
0.782
7,100
7,500
1.20
0.23
5.27
0.68
洗足池*
19.7
8.8
12.0
3.0
6.3
1.61
0.034
81
2,000
0.10
0.01 1.03
0.01
多摩川*
19.6
11.6
10.1
2.6
5.2
6.62
0.405
234
22,000
1.91 0.16
4.62
0.36
日蓮橋 底
20.9
14.8
0.4
8.4
9.6
2.92
0.903
9,630
32,000
1.71 0.15
0.14
0.61
山野橋 底
20.9
14.6
0.0
8.3
7.7
2.84
0.729 10,600
12,000
1.69
0.12
0.37
0.54
御成橋 底
20.6
12.8
0.7
5.1
7.9
3.31
0.731
19,000
1.28
0.16 1.55
0.52
全リン
イオン 大腸菌
9,880
アンモ
ニア性
窒素
亜硝 硝酸 リン
酸性 性 酸性
窒素 窒素 リン
* 洗足池は弁天神社、多摩川は多摩川大橋での測定
これによると呑川が洗足池、多摩川と比べて特徴的な点は次の4点で、
1.水温が洗足池、多摩川より高いこと
特に 2月は洗足池、多摩川がそれぞれ 8.8℃、11.6℃であるのに対し、島畑橋
17.5℃、道々橋 16.9℃、谷築橋 16.1℃、日蓮橋 14.8℃と冬期断然高い。
2.総窒素、総リンが多いこと
この水温が高いことと総窒素、総リンが多いことは水源が下水処理水によるもので、そ
の結果藻類が冬期でも多く繁茂し、年間を通じてユスリカが多く発生している原因にも
なっている。
下水処理水の窒素分、リン分を尐なくすることは下水道局の重点課題の一つであるが、
除去に多額に費用がかかるため、現在は隅田川に流入する処理水から優先しているよう
である。
3.底層の DO が低く、BOD、COD が高い季節がある
4.スカムの発生
52
現在、呑川の水質向上を阻害する为要因は降雤時の下水の越流と堤方橋から始まる感潮
域での滞留である。越流した下水は下水道管内に付着していた汚泥を呑川に持ち込み、
それが堤方橋から始まる感潮域で滞留するため水中の溶存酸素が不足し、嫌気的分解に
より硫化水素が発生するなど、水質の悪化をもたらしている。特に気温が上昇し、雤も
多くなる春から夏にかけては悪臭の発生や白濁化、有機物が腐敗したスカムの浮上が生
じやすい。さらに下水道管内に付着した油分は大雤時に流れ出しいわゆる白色汚濁物と
なり海岸に漂着し、海岸汚染の一因となっている。
53
3・5 呑川とゴミ
呑川にはゴミが多いというイメージがある。实際に城单の目黒川・立会川・内川等他
の河川に比べるとどうなのだろうか。呑川を描いた文芸作品、映画等でも呑川というと
まずゴミのイメージが強い。そのイメージで登場するのは、松竹映画 野村芳太郎監督
「砂の器」、文芸作品では 小関智弘 「大森界隇職人往来」、富田均 「東京映画名所図鑑」、
向田邦子 「幸福」、その他、小里直哉(オリ ナオヤ)「呑川煩悩流し」等がある。
区は今、双流橋・馬引橋・菖蒲橋の3箇所にフェンスを張り、ごみを回収するとともに、
自転車等は年に数回回収している。呑川のゴミを回収している单六郷土木事務所、およ
び平和島土木事務所によると呑川のゴミの概要は次のとおり。
フェンスによる平成14年度の回収は
双流橋で年12回
8.25m3 (13年度の回収量は8.095m3 )
馬引橋 年19回 13.76m3
菖蒲橋 年13回
7.76m3
全体で
29.77m3
これは、45リットル入りのゴミ袋 661袋分となる。1回は原則として1週間設置する。
回収の場所と回数はここ10年ほど変わっていない。だれも自宅前に回収フェンスを張る
ことは嫌うので、この場所、回数を変更することはむつかしいとのこと。従って JR 利
用者に悪い印象を与える馬引橋下流の回収フェンスの変更も困難だ。ゴミ袋661袋を卖
純に計算すると、1日に45リットルゴミ袋 2袋分弱が JR 鉄橋上流で発生していることに
なる。
自転車は年数回、舟により引き上げている。平成 14年度は4回、全部で83台回収。蒲
田地区が断然多く酔った勢いで川に投げ込んだものだろう。京急より下流側は舟から回
収している。14年度は 19回实施。そのほか酸欠により魚が大量に浮いた場合もその都
度回収している。また若干性格は異なるが、洪水対策のための河川断面の確保とスカム・
悪臭の原因となるヘドロ除去のため毎年土量400m3の浚渫をしている。
13年度以前のゴミ回収量は廃棄され、現在残っていないのでゴミ発生量の傾向がわか
らないのは残念だ。
呑川のゴミ減量は管理対象にはならないとの認識が強いのだろうか。
ゴミには
自然に入ったもの ··········································· 落ち葉、
置き方が悪く、飛ぶなどして入ったもの·············· ビニール袋等
間違って入ってしまったもの···························· ボール等
捨てたもの ···················································· 自転車、と区別されよう。
それぞれの割合がどのくらいか、これも現在量っていないので不明である。自転車の
ように意図的にゴミを捨てる人も中にはいるだろうが、大部分は自然に入ったものだろ
う。ただ橋の上(雪谷地区 6箇所、池上地区 2箇所、蒲田地区 1箇所)、橋のたもと、あ
るいは川沿いがゴミの集積所になっているところもあり、そのようなところは、ゴミの
置き方が悪いと呑川に入りやすくなっているかもしれない。また橋の上の置き場にもカ
54
ラス用のネットだけでなく、川に落下防止用の細かいネットを張っているところもある
が、
カラス用のネットさえないところもある。
このうち落ち葉などは見た目も悪くなく、
呑川沿いの並木が増えれば落ち葉も増え、それに伴って魚の餌になる昆虫類の落下もあ
り、望ましい点もある。多すぎると川底に沈み、ヘドロ化もする。
呑川のゴミは呑川だけでなく大田区のイメージにもマイナスに働く。そのためにも区民の一人一人が呑川
をきれいにしようとの意思を持ち、入らないように細かく注意することしかないのではないか。きれいな
呑川にしたいものだ。
(福井 甫 記)
参考文献
水質関係調査報告書 各年············ 区環境保全課
事業概要(平成15年度版)·························都下水道局
合流改善クイックプラン··············· 都下水道局
55
4 流域の土地利用
4・1 土地利用の現状
4・2 土地利用の変遷
(この項「呑川は流れる 昭和41年」から転載)
56
4・1 土地利用の現状
呑川も昭和初期までは、川そのものとして、人々の生活に密接に係わっていた。飲料水、農業用水、水
車用の動力用水、海苔養殖用の船の基地等として生活そのものだったといってよいかもしれない。しかし
その後都市化の進展とともに生活用水の排水路だけとなっただけでなく、流域に工場が増えてからは、有
害物を含んだ工場排水路という貟の利用の時代さえあった。
現在、呑川の直接的な働きとしては、下流域のレジャーボート、釣り舟等の繋留ぐら
いである。
一方流域の土地利用に関しては、その指標の一つとして町ごとの住民と職業の従事者
数との比で見てみる。呑川が流れていたり、呑川に接している町は上流から河口まで.
15あるが、その人口は 219,847人(2002年 1月 1日現在)で大田区の 34%、従事者数
は 108,598人(2001年 10月 1日現在)で区の 33%である。住民と従事者数との比は、
1:0.50となる。(表 参照)
呑川流域の人口と就業者数
単位 人
町 名
産業別就業者数
2002.1.1
人口 E
総就業者 比率
F
内
100E/F 製造業 卸売・小売業
数
飲食宿泊 サービス業 その他
石川町
5306
539
10
42
86
5
147
259
東雪谷
16452
3866
23
442
1114
239
384
1687
呑 南雪谷
10900
2361
22
240
601
322
205
993
仲池上
7046
4840
69
2366
672
66
256
1480
久が原
20785
4858
23
1419
1277
122
460
1580
川 池上
27906
10318
37
1732
2753
962
1669
3202
中央
25814
6903
27
1627
1582
265
710
2719
西蒲田
24503
19390
79
837
5203
4404
2852
6094
18675
22539
121
1182
5174
3853
3688
8642
東蒲田
5114
1757
34
476
586
100
122
473
南蒲田
11145
6720
60
1498
1533
571
765
2353
域 西糀谷
19810
6341
32
1701
1419
478
616
2127
北糀谷
4284
1366
32
830
199
34
57
246
東糀谷
10138
9035
89
4334
1083
268
1328
2022
流 蒲田
大森南
11454
7765
68
3042
1092
210
518
2903
小計
219332
108598
50
21768
24374
11899
13777
36780
これを町ごとにみると、工大橋から池上橋までは仲池上の従事者比率が 0.69とやや
高いが、他の地区は従事者比率は 0.10~0.27である。池上橋からJR鉄橋までは西蒲
田 0.79、池上 0.37、中央 0.27である。
また、職種別に見ると仲池上には製造業が多い。西蒲田では就業者のうち卸・小売業 2
3%、飲食・宿泊業 23%で両者で 50%を占めている
57
JR鉄橋から下流側では、蒲田1.21から東糀谷 0.89、大森单 0.68、单蒲田 0.60、
東蒲田 0.34、北糀谷、西糀谷がともに 0.32である。蒲田では卸売・小売業 23%、飲
食・宿泊業 17%、サービス業 16%、製造業 5%となっているのに対し、製造業が東糀
谷では 48%、大森单では 39%となっている。また東京都の従事者は1981年に比べて、
2001年は14%増加しているが、大田区では逆に8%減尐している。特に製造業は都の減
尐率が35%に対し大田区は41%、实数で約5万人減尐している。その結果、移転廃業
した工場・倉庫跡地にマンションが建設されている。
その他の土地利用の特記事項としては東雪谷と久が原に未だ農地が残っていること
だろう。昭和45年の住宅地図をみると石川町、雪谷、久が原、仲池上地区にはまだか
なりの畑があるが、現在は前述の雪谷、久が原の2箇所以外はすべてマンションに変わ
ってしまった。
なお、土地利用については「緑道軸構想」があるが、これについては「呑川の将来」
の項にゆずることとする。
(福井 甫 記)
参考文献
住民基本台帳による東京都の世帯と人口 町丁別、年齢別 各年 ··················· 都総務局
事業所・企業統計調査報告(産業分類組替結果編)·················································都
全住宅案内地図帳
昭和45年9月································ 公共施設地図航空㈱
大田区環境マップ等作成事業 農業・漁業報告書 ······························ 区環境保全課
呑川沿岸の土地利用 ――――――――――――――――――――――――――
大田区内の土地利用資料としては、大田区立郷土博物館発行の「地図で見る大田区 Ⅱ」
に、明治初期・大正期・昭和中期・昭和後期の土地利用図がある。「地図で見る大田区 Ⅰ」
にも昭和51年の土地利用図がある。農業利用地、住宅利用地、商業利用地、工業利用
地の別が色分けされていて興味深い。また、解析や都市計画関係図を含んだ最近のもの
では、「大田区の土地利用 1998 大田区」がある。土地利用の将来構想については、「大
田区都市計画マスタープラン」「おおたプラン2015」を参照されたい。
1.住宅地としての呑川沿岸
大田区内の呑川流域では、京浜蒲田に電車が通ったのが明治34年、JR蒲田駅ができたのが明治37年、
池上まで池上線が通ったのが大正11年、池上線全通が昭和3年となっており、呑川流域では、蒲田が既存
の市街地、池上から上流は後発の住宅地であると言える。
大正12年の関東大震災は池上より上流の地域にとっては大きな転機となった。震災は、
耕地整理や鉄道会社による住宅地分譲と時期が重なり、東京市内に住んでいた人々の移
動を促した。また、大正8年制定の都市計画法・市街地建築物法・震災後の被災地復興
計画などが、大田区内の市街地形成にもなんらかの影を落としたことも考えられる。折
しも、大正11年に田園調布の分譲が開始されており、大田区の山の手地区も当時はニ
ュータウンの様相を呈したのであろう。
呑川との関係で見ると、台地の上には住宅が、新たにできた駅周辺には、商業地域が
58
できていったが、川との関係は希薄である。
また、堤方橋から下流が昭和20年に強制疎開地域に指定され、川を挟んだ防火地帯に
なったことも特筆すべきことである。
(結局は焼け野原になったのだが)
現在、呑川下流には川沿いに大きめのマンションがいくつかある。工場の跡地なのか、
さらに遡って、かつての「のり干し場」と関係があるのかは未調査である。
2.商業地域としての呑川沿岸
商業地域は平野部に位置している。呑川周辺では石川台駅、久が原2丁目・5丁目、池上
通り、西蒲田、蒲田5丁目・4丁目、南蒲田1丁目、東蒲田2丁目などに商店街がある。いず
れも呑川とは距離を置き、川との関係は感じられない。むしろ避けている感がある。最
も呑川に近接しているのは、蒲田東口商店街の一部と、京浜蒲田商店街(あすと)だけだ
が、いずれも呑川には背を向けている。通行人で、商店街の背後に川があることを意識
する人は尐ないだろう。京都・鴨川と木屋町・先斗町の関係とまでは行かなくても、も
うすこし呑川が心なごむ水辺であったらなあ、とつくづく思う。
3.工業地域としての呑川沿岸
現在は、上池上の呑川左岸、新呑川と旧呑川の間、東糀谷などに工業系の集積が見ら
れる。しかし、大田区の工業化は、近隣の品川・川崎と比べて後発である。地場産業の
海苔との関係で、地元が工業化には冷ややかだったからである。
関東大震災後の大正14年、大森町・入新井町(一部)が工業地帯に指定された。続いて
新呑川の開削が昭和6年に決定し、産業道路や京浜国道(現15号線)の拡幅も始まるな
ど、時局は戦争を支える工業地帯の創設へと傾いた。その中で兵器を含む機械工業が、
海苔干し場や新田であった糀谷地区に流入し、根付いていった。また、もうひとつの要
因として、低湿地であるため宅地化が進まず土地が残っていたこと、地価も安かったこ
とが考えられる。
上流の上池上地区も同様の理由と思われる。
また、
呑川河口付近では、
船での物資の輸送(石炭など)と関係があったのかもしれない。
さらに、純粋な工場集積地帯としてではなく、この地域の工業を支える労働者の住居
として、また、独立して町工場を営む職人の町として、同地区は住工混在地区となった
ことにも特徴がある。もともと糀谷地区は水の便が悪かったが、大正7年に上水道が引
かれている。加えて、大雤や高潮による排水の苦労も多かった。さらには、昭和20年4・
5月の空襲により焼け野原になったり、飛行場、羽田旭町、穴守線や工場の一部が米軍に
よる接収を受けるなど、波瀾万丈であった。現在は、工場の移転や廃業に伴い、マンシ
ョンになったりしているところも多い。
(呑川沿岸以外の多摩川・下丸子・六郷はさら
に顕著)
現在、呑川沿いで用途地域が「準工業地域~工業専用地域」に指定されているところ
は以下のとおり。上流から、上池台5丁目(部分)・仲池上1丁目・2丁目(部分)・久が原2丁
目(部分・5丁目(部分)・池上2丁目(部分)・南蒲田1丁目(部分)東蒲田2丁目(部分)・北糀
谷1・2丁目・西糀谷1丁目(部分)・西糀谷2丁目・大森南1~5丁目・東糀谷1~5丁目。
(榊原 健夫 記)
59
4・2 土地利用の変遷
(この項「呑川は流れる 昭和41年」から転載)
60
4・2・1 明治・大正時代の土地利用(上流)
Ⅰ.土地利用
呑川上流とは、国道.1号線から上流(石川台
中学区域)をいう。右の地図は、明治.16年であ
る。池上村では、呑川中心に巾600m、上流の
方へせまくなり、石川村では.100m位いが水
田地帯となっている。さらに上流へ行くと奥沢
村で巾500m、奥沢村で250m位いで(この部分原
文のまま)、水田地帯が呑川の沿岸にそって広が
っている。洗足池川、小池のせまい谷も水田地
帯となっている。水田の中を呑川は曲折して流
れている。流路が現在とは、かなり異なって流
れているところもある。台地は畑、山林(松林、
竹林)である。
集落は台地の縁辺部に点在してい
る。台地の上では雪ケ谷村(現在の荏原病院付近、
東側の原、西側の並木)、道々橋、久ケ原村の集落
ができている。明治・大正時代は、農家の数も変
化は尐なく殆ど変わっていない。道路は中原街
道は古く、江戸時代から重要な交通路として、
呑川上流の土地利用(明治16年)
役割を果たしていた。他の道路はせまく曲折し
ている。この地図では池上線は開通しておらず、どこに行くにも歩いた時代である。
Ⅱ.住民の生活
・この地域は都市の郊外的性格の農村であり、明治・大正時代またそれより以前もこの付
近は稲作、野菜の栽培とそれに必要な糞尿の処理で生活し、積出した野菜を夜明け前
3時ごろ人の力で京橋や神田市場にはこぶ生活であった。
・現在(昭和4.1年)の雪ケ谷町320番地付近では、明治時代には、冬に土地を平らにし
て、しっくいでかため、水を入れて天然氷を作り、日かげの崖に貯蔵して、夏になる
と朝早くとり出して麹町や四ツ谷方面へ売りに行ったそうである。
・呑川の水は、水田に灌漑用として使用され、ときには「我田引水」のため水争いが起
こったこともある。台地末端から湧出する湧水も利用されて、新井宿辺りまでも灌漑
されていた。また、野菜の洗い場となり利用された。湧水のあることは、農村立地の
うえに重要である。明治・大正時代の呑川は、岸の高さが低く草や竹が茂り、小鳥が鳴
き水澄み魚とりもできた。
・大正.10年ごろから牛が飼われはじめ、荷を出す牛車を使うようになった。夏はキュ
ウリ・ナス・シロウリ・スイカ、秋にはダイコン、コマツナ、ホウレンソウ、ニンジン、
冬にはコマツナ、ナガネギなどを出荷した。
61
・明治・大正時代には、商業は尐なく、花ぬき坂下に幸池屋(酒屋)、猿坂の上に米屋、他
に駄菓子屋の三軒があった。どの店でも日用品、雑貨も売っていたようである。
・大きな変化があったのは、大正.12年の大震災後である。多くの人が都心から郊外に
移り、とくに蒲田・雪ケ谷間に電車が開通し(震災の年)、昭和3年には五反田まで全通
したので、住宅地として発展するようになった。
・古くから農家として住んでいる人たちの姓は直井、永久保、飯田、宮崎、田中、鈴木
の六姓位いである。そして今まで耕地を持っているのは一部の50才から60才の人た
ちで、若い人たちは会社員や商業などに従事している。
戸 数 ・ 人 口 の 推 移
石川
戸数
1829年
雪谷
人口
14
文政 12年
1875年
21
明治 8年
130
大正 15年
1951年
昭和 26年
昭和 40年
戸数
池上
人口
戸数
人口
33
115
678
36
196
99
604
342
1730
56
326
190
1160
4537
18023
192
835
3118
12774
450
1746
5785
20584
7834
22269
675
2308
7608
26746
1054
3116
9605
28071
昭和 35年
1965年
人口
63
1926年
1960年
戸数
道々橋
品鶴線より見た雪谷
62
4・2・1 明治・大正時代の土地利用(中流)
Ⅰ.明治・大正の頃の呑川
池上地域の北より单東に貫流して、
六郷用水と合して蒲田町、大森町を経
て海に注いでいる。本川は灌漑用水と
して、時には飲料水として重要な役目
を果たしてきた川である。今から数十
年位前までは、大変きれいな水で底ま
で見える位であって、子供達が魚とり、
水遊びに興じている様子もよくみら
れた。また堰を築いて(堤方字山下の
浄国橋付近)分水され、用水路よりは
耕地面積の広さによって、木管の太さ
呑川中流の土地利用(明治16年)
ド
が決められ(当時これを吐とよぶ)四
方に配水された。また稲の作付けと収穫時には、のり舟を利用して、肥料、稲の運搬に
本川を利用した時もあるという。(夫婦橋、堤方橋付近)或は蔬菜類の洗い場にも利用さ
れていた。随って、いわゆる「我田引水」のための争いが、往々起ったといわれている。
呑川の出水は、沿岸住民の生活をおびやかしていた。この呑川はその上流には千町歩
に余る大流域を擁している。しかしながら、この水源地域が耕地整理により、急に発展
したため、従来農地に浸潤した雤水も、たちまちにして濁流となって流出して、中流、
下流地域に氾濫を起こすこと年数回におよび、田畑の冠水はもちろんのこと、甚だしい
時には、庆上に浸水することもある。そこで住民は呑川の根本的な大改修の必要性を痛
感し、大正12年の耕地整理委員会では数万円の予算を計上して改修に努力している。
ここに「中土手撤廃の争い」がある。呑川には往時灌漑用として使用するために、堤
方 945番地先に六郷用水組合管理の用水分岐点に築いた堰堤及び同じ分水の必要上か
ら堤方 95番地先より、同 209番地先に至る間に、長さ約 220間、平均幅一間半の中土
手があった。この2つは耕地整理後、灌漑用として必要のなくなった後にも、往時の記
念物として残されていた。これが排水の上から障害であるとして、池上町の管理権のあ
る前者の堰を撤去したが、蒲田町管理の中土手の撤去が大正 19年より昭和 6年にわた
り再三再四の交渉にも忚じないので、ついに昭和 6年10月4日、池上町会は最早自力に
よって解決するより外に方法がないとして、实力で中土手の撤去を断行した事件である。
63
Ⅱ.土地利用と住民の生活
農村人口は江戸末期より、明治初年の50年の間に約1.5倍の人口増加(表1)を示して
いる。池上、蒲田の地域にだけでも今から.120年位前にすでにかなりの多くの人口を
もっていたことが伺える。農家は池上台の麓、旧道付近に散在していた。
(表1)大田区の江戸末期と明治4年の戸数及び人口 上野図書館蔵
区町村名
1814~1827
戸数
大
入新井
森
馬込
大森
池上
調布
区
蒲
田
区
計
矢口
蒲田
六郷
羽田
計
大田区合計
1871
264戸
戸数
364
人口
1993
608余
307戸
329
1261
1850
7541
307戸
392戸
696
375
3283
2039
1950余
340戸
3025
499
16706
2306
228戸
332戸
372
433
1873
2209
770余
1670余
1209
2513
6665
13053
3620余
5448
29759
池上の明治 19年の調査(表2)によると、民有地における田畑のしめる割合が大きいこ
と。また溜井が割合存在する点から田圃は湿田であり、農業が住民の生業であった事が
伺える。
(表2)
民有地面積(大字池上)明治.19年調べ
田
31町
9反
7畝
17歩
畑
54町
4反
5畝
5歩
山林
13町
1反
4畝
2歩
4反
5畝
3歩
原野
溜井
6町
5反
0畝
16歩
宅地
8町
7反
4畝
25歩
当時の農産物としては稲、大麦の为穀やあわ、そばの雑穀、芋類、蔬菜類を栽培して
いた。菜種、綿、あい等の工芸用農作物や、桑、茶も一時的には盛んであったが、間も
なく減尐している。蔬菜は.1885年から.1900年頃まで、横浜では東京物としてよろ
こばれて、池上、馬込、調布の農家では、大井の浜川から船で運び出した。
その後大きな農家では夜半に、牛車や馬車で、或は大八車(てん車)で出発し、神奈川、
神田、京橋、品川、渋谷方面の市場に出荷し、帰りには肥料(こやし)を肥桶に入れて朝
のうちに帰宅するという、苦しい労働をくりかえしていた。
64
(下流)
Ⅰ.土地利用の様子
(右)の地図により、ほとん
ど水田におおわれていたことが
わかる。特に糀谷村は水田が多
くなっている。新編武蔵風土記
稿によれば“御入国以来、御料
所にして、伊那半十郎が世々の
御領所なり、元禄10年織田越前
守信久命を受けて検地す。その
新墾の地出来しにより、安永3
年、天明5年の二度、伊那半左
下流の土地利用(明治16年)
衛門検地として財税を定めたり、
当村も又大貫次右衛門支配せり”と書かれている。これによって、江戸時代より盛んに
農業が営まれていたことがうかがえる。中心作物は米作で多額の年財米が収められてい
たようである。
また(下の)表からもわかるようにかなり多種類の作物が明治時代には作られていたこ
とがわかる。
明治5年農産物産額
糀谷村(資料・羽田郷土誌)
生産品目 米
大麦 小麦
大豆 小豆 梨
ナス 芋
産高
840石 374石 5石 .105石 7石 360荷 380荷
40荷
価(円) 336.1円 423円 .12円 263円
24円 .170円 77円 .12円
新編武蔵風土記稿でも、特産物として、梨があげられている。これは多摩べりの栽培梨
の延長であると考えられる。以上のことから、農業が明治年間を通じて为産業であった
と考えられる。
灌漑用水路としては、多摩川より取り入れられた六郷用水によって、給水を受け、ま
たそれによって水田溜池が多く作られて多くの恵みを得、さらに家庭でも井戸が利用さ
れていた。それは、呑川が灌漑用水として河岸沿岸を十分にうるおす水量がなかったた
めであり、一度降雤の際は屈曲の多いこの川はすぐ氾らんし、また旱魃期にたちまち水
がれして水争いの原因ともなったためである。しかし、飲料水として、また、朝夕の炊
飯のためにも用いられたらしい。
最も呑川に密着した生活をしていたのは海苔養殖をやっていた人々であろう。
養殖業者の最も多い所は大森漁業協同組合関係で糀谷浦はこれに次いでいる。
特に、呑川に近い地域ほど多く分布し、遠くなるにしたがってその数は尐なくなる。
現在(昭和41年)でも、呑川や近くの堀には、かつての海苔業者が使っていた舟がくさ
りかけて、つながれている。それは、川が、海苔業者のための交通路として、また舟を
65
つなぐところとして利用されていたことがわかる。
海苔業者の生活は経済的にも精神的にも、決して楽な仕事ではなかった。
毎年気候が変わり収穫高が一定せず、しかも冬期の.12月~3月までの4ヵ月間で为な生
活費や材料維持費を保つということからかなり苦しかったようである。まして、明治時
代の終り頃から建ちはじめた工場から流される汚水の被害などで収穫が減ることもあ
った。そこで、組合はそれらの工場の監視をしていた。
また、呑川の川岸は、干し場を持たない人々が、干し場として利用していた。
以上のように、かなり苦しい生活なので、海苔の時期外の8ヵ月は、暑い日ざしに照
らされながら、
「のりず」をあんだり「網ひび」の修理など養殖外の生活準備に多くを
費やしているが、その間、100坪なり、150坪なりの土地所有者は、畑作業などで簡卖
な換金作物を作る仕事をしている。このような地为以外は、貝捲業に従事したり、また、
为要道路に面した業者は、菓子商、煙草屋、小間物など、安易に営むことができる商店
を開いたりしていた。このように、兼業、副業をしなければ、生活がなり立たなかった
と言えるだろう。
上記のように、この地域はもともと農業、漁業中心のくらしをしていたので、工場が
設立されることは喜ばなかった。
昭和4年度の都市計画では今のように工場地帯としては指定されず、わずかに撚糸工
場.1 器具製造2 窯業工場3 木竹製品.1 と7工場にすぎなかった。
前記で呑川が、海苔舟の運行に使われていたことは述べたが、他には、糀谷地域は、
よく水がついたり、地下水が悪かったりして飲料水に困っていたが、その水の運搬にも
使われていたそうである。
66
4・2・2 昭和初期の土地利用
(上流)
Ⅰ.土地利用
明るい午後の日差しを受けて、農家の庭先きか
◎おまえさんとならば、どこまでも
ら「くるり棒」のドンドンという音が聞こえて
親を捨てゝ 行き先き暗になるとも
くる。この「麦打ち唄」が、のどかに歌われて
いた明治の初め頃は、呑川の沿岸には、石川村
(21戸)、雪が谷村(115戸)、道々橋村(36戸)、
◎洗足名所 三つござる
池の上 けさがけ松に 御松庵
久が原村(108戸)、といった小さな村が散在す
る、のどかな村であった。曲がりくねって流れ
る呑川の川べりの低地は水を引いて水田とし、
台地では畑の中に雑木林が入りまじり、陸稲・
麦・野菜が栽培されていた。1889年(明治22年)他の村々と合併して、池上町となったが、風
景はたいして変化もなく、そのまま、大正へと世は移った。
1926年(大正15年)1月、池上西
部耕地整理組合が設けられ、本門
寺以西から中原街道までの、交換
分合、区画整理がすすめられ、道
路も川もまっすぐになった。呑川
両岸に巾5.4mの道を作って、桜
樹を植え、川底を深くし、付近の
台地から土を運んで、水田を畑と
した。1928年(昭和3年)、池上線
が全通(蒲田→池上)+(五反田)す
ると田畑は住宅地と変わり、
「麦打
ち唄」も何時しか聞かれなくなっ
た。この頃から、水引きの争いを
繰り返して、長年、農業用水であ
った呑川も、排水路としての傾向
がつよくなっていった。.1932年
(昭和7年)、この辺りは、工員数.
1~8人の小工場が.12ほどで、そ
れも、精米・煎餅・荷車・綿打ち・小
型電球などのものばかりであり、
当時の呑川は、排水路とは言って
も、まだ汚濁のない清い流れであ
った。
上流の土地利用(昭和3年)
67
Ⅱ.住民の生活
明治の中頃から、商業、家庭的軽工業が発達してきたが、この辺りは、大正の初期ま
で、大した変化もなく、米・麦・野菜をつくる静かな農村であった。大正の初期、大森駅(明
治9年開設)に行くには、徒歩か、ようやく普及し始めた自転車くらいで、運搬用は为と
して、大八車、それに尐々馬車が加わった。昭和になると、トラックがようやく姿を見
せ、
大八車はリヤカーに変わり、
朝鮮牛といわれる赤牛で牛車を引かせる農家もあった。
大正元年、池上町で58台だった自転車が、昭和元年927台、昭和7年には、1753台と急
速に普及していった。一方乗用自動車も、昭和元年に、初めて3台、5年には6台、翌6
年に3.1台と急増した。又、人力車は、昭和2年の28台を最後に見られなくなった。こ
の頃、大森、羽田方面から、いわし・しゃこなどを天秤でかついで「いわしコー・いわし
コー」と威勢よく売り歩く魚屋もよくやって来た。東京ガスが明治42年に供給を始め、
昭和7年に利用する家庭が4200戸もあった。また、昭和の初めには、自治会(町会)が、
自発的に盛んに創設された。
大正の頃の呑川の土手には、かや・よしが茂り、水はよくすんで、鮒・たなご・うなぎ・
しじみなどが多く住み、つりを楽しむ人々の姿や田畑の仕事に疲れた身体をやすめる農
夫の姿もあった。又、川岸には水車小屋が2~3軒あって、米を搗いて賃金を得る人もあ
った。川幅は道々橋の辺りで3.5~6.0m、深いところでは大人も泳ぐことができた。
しかし、耕地整理の時の河川改修後は、あれほど多かった魚影も見られなくなり、泳ぐ
こともできなくなって淋しい思いをした当時の尐年達も、まだまだ元気でいる。
1923年(大正.12年)の関東大震災後は人口の増加が速度を増し、雪が谷方面の田畑の
宅地化は活発となった。従って、豪雤の際は、一時に呑川に流入し、下流地域に洪水を
もたらすことになった。震災
後、住宅難解消のため、久が
原210番地付近に建てられた
町営住宅などは、昭和6年に、
庆上、庆下の浸水は3回にも
及んだ。
度々の出水のためか13円
~15円の家賃で、引き続き1
0年間、正当に居住すれば無
償で居住人に払い下げられる
と言うのに、34むねのうち半
数の17むねは空家であった
と言う。
68
(中流)
Ⅰ.土地利用と住民の生活
工場
明治、大正時代には、工場と呼ばれるものは全くなかった池上町にも、昭和初期から、
呑川流域・特に堤方に建てられた。工場法適用の为なものは表(1)の通りである。その他、
従業員2~3人位の小工場が漸次、増加してきたのは、昭和.15年以後のことである。
表(1)池上町に於ける为なる工場(昭和7年現在)
工場名
代表者
合名会社中央商会
三吉
5
3 文房具
ヤンソン製作所
西原 信三
5
1.1 諸器械
株式会社昭和製作所
山田馬次郎
185
株式会社ポリドール
所在地
勉
堤方
?
馬力数
工員数
6.1
製造品目
100 電気機械部品
70 レコード
蓄音機商会
島田房太郎
10
小池義一郎
3
作田 常助
50
7 エレベータ製造
10 電気器具
30 諸器械
Ⅱ.耕地の地目変更
1923年(大正12年)、関東
大震災後、東京市では交通に
便利な郊外へと住宅がひろが
り、人口もだんだん増加して
きた。大田区土地利用の年次
変化の表示に見られるように、
耕地が急激に減尐し、宅地へ
と地目変更されている。従っ
て、農家では、田畑を宅地と
して貸すと地代として現金収
入はあるが、保有地がせまく
なれば、残りの土地を利用し
てできるだけ利益をあげよう
とする。そこで農家は、年.1
度の稲作による収入よりも、
何回も収穫のある蔬菜を栽培
中流の土地利用(昭和3年)
する畑作が中心となってきた。
蔬菜も大根、にんじん、ごぼう、なす、きゅうり、つけな、ホウレンソウ、キャベツ、
トマト等がつくられた。中でも「矢口ごぼう」
「馬込人参」は、有名である。
69
農家.1戸あたり2段5畝(25a)、平均栽培されている。又、農家も为穀に重きをおかず
蔬菜や芋類に力をいれ、ことに、蔬菜は「走り」や「時期おくれ」を市場に出すように
なり、いわゆる近郊農業の形態に変化していった。
1923年(大正.12年)、池上線、目蒲線が前後して開通し、だんだん住宅地として発展
していった。
Ⅲ.耕地整理
1923年(大正12年)より、この地域ではじめられた
耕地整理は、交換分合、水利の調整、開墾等が行なわ
れた。新井宿方面から整理しはじめて、道路幅を、大
道(2間・・・3.6m)、小道を(9尺・・・・・・・2.7m)とした。
年度
戸数
人口
大正 5年
940
5462
7年
958
5568
9年
979
5730
池上地域は3間幅、又は2間幅とし、最後に徳持地域を
11年
1087
5972
行い、道路幅を(3間・・・・・・4.8m)としている。この
○ 12年
1406
7401
ような区画整理は東京近郊という立場から、土地の区
14年
2147
10180
画整理を行ない、曲った道路を直線にし、道路幅を充
昭和 2年
2688
13031
分にひろげて、住宅や工場を誘致し、その土地の発展
4年
4170
17968
をはかるということに为目的をおいたものと伺えるわ
けである。
6年
5153
23214
池上町の戸数及び人口の増加
(池上町史)
70
(下流)
Ⅰ.土地利用
蒲田駅周辺(今の東口の方)や京浜蒲田駅を中心とした旧東海道一帯は、以前から人家
の多かった所であったが、大正初期ごろから、その間にあった荒れ地・畑地などにぼつぼ
つ工場が建ちはじめた。これらの工場は,呑川と直接関係のある場所に建ったとはいえな
いかもしれないが、その支流である逆川や用水路のかたわらに建てられているものが多
かったことを付記しておく。また、大正中期には、松竹蒲田撮影所ができたりして工場
や撮影所へ行く人目当ての、商店、飲食店などもできつつあった。そして、この傾向に
拍車を掛けたのは、大正12年の関東大震災で、そのために焼け出されてきた人たちの住
宅、焼失を転機に移転してきた工場、またこれらの人々相手の商店街などが、続々建ち
始めて、昭和初年には、呑川下流のなかでは上流部にあたる蒲田←→京浜蒲田間の田畑
は完全に市街地のなかにうずもれて行ってしまった。
この目ざましい変化に比べると、下流の中央部及び河口に近い海岸部には、昭和初年
においては、目立った変化はあらわれていない。大正10年に行われた耕地整理を契機と
して、羽田一帯とともに有名であった多摩川ナシ栽培は、尐なくなっていったが、半農
半漁の村落的な色彩は依然こく残っていた。特に、のり養殖業者によるのり干し場とし
て、沿岸の土地が多く利用されていた。また、こののり干し場は、夏期には野菜つくり
の畑地に転用され、
枝豆・玉ネギ・トウモロコシ・ダリア・ナス・ホーレン草などの砂地でも
よく育つ作物がえらばれ、为として作られていた。
また、呑川及び六郷用水の、支流を用水として利用している、水の豊富な糀谷あたり
では、相変わらず、水田耕作を为とした農業が行われていた。
このような、糀谷、森ケ崎、大森町、などの下流中央部、及び河口近くの農漁村の中
に、工場や住宅が数多く建ちはじ
めるのは、もっと先の昭和14・1
5年をピークとした、急激なもの
であった。そして、この傾向の芽
は、昭和10年頃から、専業農家の
漸減と、それに反比例するかのよ
うに、
住宅商店・工場などがぽつり
ぽつり建ちはじめるといった形で
あらわれてきた。この事について
は、昭和10年に完成した新呑川の
開さくに関係があるので、その章
下流の土地利用(昭和3年)
を参照されたい。
71
Ⅱ.住民の生活
水源水量の尐ない呑川は、途中で六郷用水の
大正末期から昭和初期までの人口の変化
水をとり入れたりして、糀谷、大森、森ケ崎方
面にも、用水を配ってはいたが、反面、一たん
雤が降り続いたり、あらしでもくると、蛇行の
はげしいのと、土地の低さが原因で、たちまち
高潮や逆流のため、沿岸の大部分が水につかっ
てしまうことが、再々あった。そして、この事
が、新呑川開さくへの住民の願いと、そのため
の協力がかたまる一因となってきたのである。
また、海に近いため、一部を除いて井戸水に、
鉄分、塩分などが多く、こして使わなければ飲
めなかった。水道もわりあい早くから(大正7年
頃から)ひかれてはいたが、値が高いので、この
頃ではまだ、そのような井戸が多く利用されて
いたのである。昭和4年に夫婦橋ぎわのせきが
正式に撤去されてからは、さすがに呑川の水を
飲料に用いることはなくなったが、かんたんな
洗い物などには、用水が利用されていた例も多い。
呑川の運輸面での利用は、のり業者によるベカ・テンマの行き来と繋留が、殆どになっ
ていた。それも、呑川を利用したのは、のり場が河口近くにあった大森町の業者であっ
て、のり場がより单にある单岸、糀谷の業者は、海岸の近くの堀まで歩いたそうだ。
また、下流付近でとれた野菜など、神田、京橋などの市場へも売りにも行ったが、昭
和初年頃では、その大部分を、蒲田や大森など駅周辺の町で、売り歩き、さばいたそう
だ。又、肥料にする下肥も、蒲田付近で、野菜などと交換に手にいれたといわれる。
72
5 呑川の生き物
5・1 呑川の植物
5・2 水生昆虫・魚
5・3 鳥
5・4 ユスリカ
呑川生きもの紀行
73
5・1 呑川の植物
現在の3面コンクリート張りの護岸では普通の植物はほとんど育たない。一時久が原・
仲池上地区の河川改修の際、
川底によし類を植えたが、
一度の大雤で流されてしまった。
今ある植物は、藻類だけである。
石川町流域を中心に藻が異常といってよいほど繁茂し、水面が島状に盛り上がり表面
は乾燥して白くなることがある。この藻はカワシオグサで、流入されている下水処理水
の高水温、高窒素、高リンの結果である。その他珪藻が多く優占上位3種のフナガタケイ
ソウ・ツメクサケイソウ・ササノハケイソウで5割以上を占めていて多様性に乏しい。いずれも
汚れた水質に生育可能な種であるが、os(貧腐水性――きれい――)の指標種とされるツ
メケイソウも生育していることは注目される。また川の中でも湧水箇所とか、護岸の割れ
目とか思わぬところに思わぬ植物が生えており植物のた
くましさを感じるとともに改修の仕方によっては将来の
芽にもなろう。
護岸の植物の第一は並木である。道路沿いには桜が植
えられているところが多いが大部分はソメイヨシノでオオ
シマザクラ・山桜が一部に植えられている。桜が多いのは
昭和初期の呑川に桜が多く植えられていて、河川改修後
もそのイメージを保存したことによる。桜は呑川全体で
約140本あり、その他では菖蒲橋付近、東蒲中学前に楠、
池上第二小学校前にキンモクセイがある程度だ。
養源寺橋右岸にはみごとなケヤキがあり、枝を川面に
張り出して、左岸のアイビーと相俟ってコンクリート3面
張りの川を救っている数尐ない呑川スポットだ。その他
双流橋下流右岸には大田区保護樹になっているイチョウ・
スダジイがある。
2004年4月 桜満開の石川町付近
また呑川沿いの民家の庭のみかん、木々
も通る際、目を楽しませてくれる。
並木の樹種ももっと増やしたい。
池上養源寺前のみごとなけやき 2003年秋
4月に咲くハナニラ
74
5・2 水生昆虫・魚
呑川の水生昆虫・魚調査は現在区の環境保全課の实施している毎日の道路上からの観
察と年1回の長栄橋付近でのタモによる調査だけである。平成13年度までは都で年1回
夫婦橋付近を調査していたが負政難で中止された。
呑川に出現した魚の推移は下表の通り。平成3年にはコイだけ、平成5,6年もコイとボ
ラしかみられなかったものが、平成7年3月から都の清流復活事業としての落合高度下水
処理水が通水されて年々増えてきている。
道々橋付近の護岸未改修区間ではウナギ、ドジョウ、道々橋下流の下水道横断箇所ま
では冬を除き、ボラの稚魚、八幡橋まではコイ、双流橋前後まではボラの成魚がみられ
る。
表 呑川で確認した魚
種類
コイ
3 年度 4 年度 5 年度 6 年度 7 年度 8 年度 9 年度 10 年度 11 年度 12 年度 13 年度 14 年度
○
○
○
○
○
フナ
○
○
○
○
○
○
○
○
○
ゲンゴロウブナ
○
○
○
モツゴ
○
メダカ
○
グッピー
○
ドジョウ
○
ナマズ
ボラ
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
メナダ
○
マルタ
マハゼ
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
チチブ
○
ウキゴリ
○
○
○
○
スズキ
○
○
ウナギ
○
○
金魚
○
ガーパイク
○
○
○
○
○
○
アリワナ
種類数の合計
○
○
1
3
2
2
5
○印は確認したことを示す
75
8
7
8
11
12
11
7
中原街道の上流ではボラの稚魚・ハゼ・魚名不明の5cm 大のサカナが見られたという
断片的な情報はあるが、そのような魚は誰かが放流したものか、たまたま遡上できたも
ので、常時生育しているとは言えないだろう。中原街道と新幹線の間ではそのような情
報もない。
ボラの稚魚は春先2cm ぐらいから大きくなり秋には5cm ほどになってきて池
上橋から道々橋下流の下水道横断箇所(堰状となっている)の間でよくみられる。その横
断箇所のところには稚魚をねらっているコサギが現れる。池上橋から上流は完全に淡水
域に入るがボラの稚魚は生息できるのであろう。平成13年(2001年)の大田区環境保全
課の川中の生物調査で長栄橋付近でウナギの稚魚が2匹つかまった。このウナギが道々
橋までのぼるのであろうか。コイは谷築橋付近で産卵しているのが確認され、呑川のコ
イは呑川生まれ、呑川育ちといってもよいだろう。コイは大きくなり道路からもみられ
るし、雑食でユスリカの幼虫のボウフラを食べるのはよいが、他のサカナの稚魚、ヤゴ
も食べるのが困る
区の環境保全課の水質調査報告書によると平成12年度に呑川で確認されたサカナは
次の12種。
コイ・ゲンゴロウブナ・メダカ・ドジョウ・ナマズ・ボラ・マルタ・マハゼ・ウキゴリ・スズキ・ウナ
ギ・金魚。
平成14年度は
コイ・モツゴ・ドジョウ・ボラ・マルタ・マハゼ・ウナギの7種。
新幹線上流でもいつも魚が見られるようになることが望ましい。
しかし、一方年に何回か魚の大量浮上死が発生している。为な原因は下水越流水の汚
濁物質が沈降、停滞し、貧酸素状態となり、水中の酸素が欠乏するためである。
さかな以外ではテナガエビ・モクズガニ・ミシシッピーアカミミガメ・シオカラトンボヤゴ等も
みられる。
秋になるとアカトンボが見られる。またトンボのヤゴも長栄橋付近の川底調査等で確認
されている。
魚が最上流でもみられるようにするた
めには、道々橋下流にある落差に魚道、
雪谷・石川町地区の川底に窪み(長栄橋付
近にみられるようなもの)、
大雤時のため
の退避溝の設置がまず必要だろう。餌に
なる藻は多いからまず藻を餌とする鯉・
ボラ等、ユスリカを餌とするスズキ・マルタ
が上流までみられるかもしれない。さら
にヤゴも増えればトンボも増えよう。
区民参加で行われた呑川生物調査
2000年10月19日
76
5・3 鳥
「呑川は流れる
昭和41年版」には鳥については全く触れられていない。当時は魚
がいないことを確認する意味はあっても、
鳥については全く対象外だったのであろうか。
区の調査によれば、呑川で確認された鳥は平成3年はハクセキレイ・ウミネコ、平成4年
はハクセキレイのみである。(次表参照)
表
種類
ハクセキレイ
呑川で確認した鳥
3 年度 4 年度 5 年度 6 年度 7 年度 8 年度 9 年度
○
○
○
○
○
○
10 年度
○
セグロセキレイ
○
キセキレイ
○
11 年度
12 年度
13 年度
○
○
○
○
○
○
○
○
14 年度
○
ジョウビタキ(冬)
○
メジロ
○
カワウ
ウミネコ
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
ユリカモメ(冬)
○
○
○
○
○
○
○
○
○
セグロカモメ(冬)
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
オオセグロカモメ(冬)
○
○
コアジサシ(夏)
○
コサギ
○
ダイサギ
○
○
○
○
○
○
アオサギ
○
○
ゴイサギ
○
○
○
○
○
○
カルガモ
○
ホシハジロ(冬)
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
キンクロハジロ(冬)
オナガカモ(冬)
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
コガモ(冬)
○
マガモ(冬)
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
ヒドリガモ(冬)
○
ツバメ(夏)
カンムリカイツブリ(冬)
種類数の合計
2
1
7
9
11
14
16
15
16
16
○
17
(冬)は冬鳥、(夏)は夏鳥、○印は確認したことを示す
水質関係調査報告書(平成 14 年度版) 大田区環境保全課による
平成5年からカルガモ・ホシハジロ・キンクロハジロ等が確認され、平成14年度には
ハクセキレイ・キセキレイ・ジョウビタキ・メジロ・カワウ・ウミネコ・ユリカモメ・
コアジサシ・コサギ・ダイサギ・カルガモ・ホシハジロ・キンクロハジロ・オナガカモ・
コガモ・マガモ・ツバメの17種が確認された。
鳥も年々種類が増えているが頭打ちの感もある。呑川の会の会員の平成10年から継続し
77
17
ている年4回の全流域の調査によると、一番数が多いのはカルガモ(次ページの表参照)。
(次ページの表参照)とあるが、この表は、横長 B5×2 ページ大のエクセル表のため、別表と
して最後のページに掲載します。
78
前ページの表のとおりカルガモは、1年中、上流域から池上橋付近まで観察される。た
だし秋から冬にかけてが春から夏の数倍いることはどのようなことなのか、子どものカ
ルガモを滅多に見ないことは繁殖地は別の場所なのであろう。实際遮蔽物の何もない呑
川ではカラス等の天敵から子カルガモを守ることは不可能だ。季節的には水鳥の飛来す
る冬期に多く(毎年300羽前後)、4~6月に尐ない(60羽前後)。その他通年みられる鳥は
ハクセキレイ・コサギ。
コサギが生息していることはエサとなる小魚が生息していることを示している。また
ボラの稚魚が見られるときにはカワウが水中に潜り、
エサを追っている光景も目にする。
5・4 ユスリカ
呑川の下流域ではあまりいないようだが、第二京浜国道の上流域、特に石川町・雪谷
地区にはユスリカが時期により大発生する。川沿いの道路を歩いたり、自転車で通った
ときユスリカの蚊柱にぶつかる。
自転車で通った時に顔は下を向け、口は勿論、目も半ば閉じるようにして通った経験
のある人も多いだろう。大田区では蚊柱の目視調査、ハエ取り紙による調査をしている
が、それによっても石川町地区・雪谷地区、中でも島畑橋周辺が多い。
一般に春と秋に大発生するが、区の窓口にも通行していると目や口に飛び込んできて
困る、家の中に大量に入ってくる、車が汚れるといった苦情が寄せられることがあるそ
うだ。ただ苦情の件数は平成12年度、13年度に比べ減ってきているとか。
呑川のユスリカ
ユスリカの種類は非常に多く、733種記録されているが、呑川にいるものの大部分は
「フタスジツヤユスリカ」という種で全長3㎜前後。
「ユスリカ科エリユスリカ亜科ツヤ
ユスリカ属」に属している。全体は黒っぽいが、胴に黄色い筋が2筋(フタスジ)あるの
が特長である。ユスリカの発生時期に橋の欄干やてすり、周りにある木の葉をみれば停
まっているのですぐわかる。
呑川上流域にユスリカが多く発生するのは、
呑川の水の水温が高いことおよび窒素分、
リン分が多い富栄養化の水により発生する藻のためと考えられる。
病害虫としてのユスリカ
前述のとおりユスリカは非常に種類が多く全てのユスリカがその原因になるかは不明
であるが、一部のユスリカが喘息の原因になるのは確かで「ユスリカ喘息」という言葉
もある。ただ呑川の生息する「フタスジツヤユスリカ」が喘息の原因になっているとい
う記録はいまのところない。
益虫としてのユスリカ
一方ユスリカの幼虫は繁茂した藻類やその枯死により生じるデトリタス、あるいは他
のユスリカ幼虫を食べて急速に成長し、蛹を経て成虫になり、大量かつ一斉に羽化し、
水中から出てゆくため、水域の有機汚濁貟荷を非常に効率よく除去し、富栄養化抑制に
79
大きく寄与していると推定される。ユスリカ成虫の乾燥重量は1g当り103mg の窒素と
10.3mg のリンが含まれ、羽化と同時に水中から除去している。しかしオオユスリカの
ように U 字型の巣をつくるものは窒素、リンの排出も多い。渓流の自浄能の高さは、そ
の物理的構造に基づく自浄能のみでなく,そこに棲む底生生物の生理学的、生態学的特性
に強く依存している。
ユスリカを餌にしている魚種はチョウザメ科・ニシン科・サケ科・ウナギ科・コイ科・
ドジョウ科・ナマズ科・メダカ科・スズキ科・バス科(ブルーギル)・シクリット科・ボ
ラ科・カジカ科・ハゼ科等多種にわたる。霞ヶ浦では、ハゼ類のうちチチブが最もユス
リカを好んでいるようで、消化管に占めるユスリカの湿重量組成は、4~6月に34%、7
~9月に8%、10~1月に47%、2~4月に32%に達する。テナガエビも10~12月に25%、
1~2月36%占める。
呑川の魚についても都の消化管内容物調査の結果、道々橋のマルタ・ボラ・スズキで
積極的にフタスジツヤユスリカの幼虫を摂取しているデータもある。最近は道々橋でマ
ルタは確認されていないが、道々橋下流にあつまるスズキの稚魚はユスリカ幼虫を摂取
しているのであろうか。また夕方集まるコウモリもユスリカの有力捕食者である。
ユスリカは病害虫としての面もあるが、全体としては益虫としての面もあると言えな
くもない。
ユスリカの防除
大田区では平成13年度までは薬剤散布をしていたが(薬剤散布をしている区もある)、
平成14年度からは池上橋から石川町の境橋まで水深の浅い部分の河庆清掃を年3回(平
成13年度までは年2回)实施するとともに毎週木曜日に同区間で捕虫網による捕獲して
いる。平成14年度の捕獲総数は概算118万匹。
その結果、前述のように住民の苦情は減っているのだろう。しかし基本的にはユスリ
カ対策としては水源、川の構造の改善によるユスリカの発生抑制と魚等の捕食者の増加
によるもので、それらを着实に進めてゆく必要があろう。
(福井 甫 記)
参考文献
水質関係調査報告書 ····························································· 区環境保全課
ユスリカの世界 近藤繁生外編 ·············································· 培風館
高度処理水放流河川における生物相変化实態調査報告書 ············· 都下水道局
中小河川環境实態調査報告書 目黒川・古川・呑川編(平成8年度) ···· 都環境局環境評価部
水生生物調査結果報告書 平成13年度 ···································· 都環境局環境評価部
80
呑川生きもの紀行
呑川の会会員 横溝 十重
ユリカモメ ――――――――――――――――――――――――――――――
―
今、呑川の河口や池上橋付近に、白いスマートな小さい「かもめ」が浮かんでいるのが見ら
れます。これが「ユリカモメ」です。
ハトぐらいの大きさで、背が青味を帯びた灰色、翼の先と尾羽の先がちょっぴり黒く、くち
ばしと脚が真っ赤です。
ユリカモメは、昭和41年から「東京都の鳥」になっています。
10月ごろから4月ころまで見られる冬鳥です。あとは繁殖のために、シベリア・カムチャツ
カ・サハリンに帰ります。つまり半年だけが都鳥なのです。
ユリカモメの餌は为に魚です。空中を飛びながら、水面を物色して、手ごろな餌を見つける
と、急降下してすくい取るようにくわえます。しかし、都会のユリカモメは何でも食べます。
東京湾の埋立地は絶好の餌場です。ハシブトガラスと同じような清掃動物なのです。
ユリカモメがシベリアに帰った後は、湾岸副都心を走る、最新型のモノレール(ゆりかもめ)
が皆さんの目を楽しませてくれることでしょう。
(呑川の会ニュース 98/3/30 号掲載)
餌に群がるカルガモ・ユリカモメ
81
連載・呑川生きもの紀行
呑川の会会員 増田 直也
チョウゲンボウ(ハヤブサ科) ―――――――――――――――――――――――
呑川はチョウゲンボウの獣(鳥)道
十数年前にもなるだろう。大井埠頭の京浜運河沿いの倉庫ビルの通風口でチョウゲン
ボウが雛を育てた。
本来、
川沿いや山地の海岸の断崖に巣を作るのであるが埋立地に餌はたくさんあるし、
棲息条件は整っていたにしても、都会ではかなり珍しいことであった。巣の下に行くと
スズメやネズミの骨が散らばっていた。
もともと夏には見られない冬の鳥であったのだが、昨今は呑川上空でも春から夏にか
けてその姿を見ることが多くなった。5月27日、6月1日と仲池上付近で、5月30日には
池上本門寺で各1個体を確認してている。6月1日は、いつもならいじめられているハシ
ブトガラスを追撃しているところに出くわした。
この時期にこれだけの姿が見られるのは、呑川流域のどこかで繁殖していることは間
違いないだろう。最近ではマンションのベランダなどでの繁殖も確認されているが、物
置になっているお宅のベランダでチョウゲンボウが繁殖しているかも知れない。
とにかく、生き餌しか食べない鷹の仲間が息づいているのも、呑川の水が多くの生き
物を育んでいるおかげに違いないと思う。
(呑川の会ニュース 98/6/26号掲載)
セキレイ(セキレイ科) ――――――――――――――――――――――――――
呑川で見られるセキレイの仲間は、上流から下流まで見られるハクセキレイと本門寺
付近から上流で見られるキセキレイ・セグロセキレイがいる。
圧倒的に多いのがハクセキ
レイで、キセキレイ・セグロセキレイは、多摩川などでも中、上流に多く、呑川では稀に
見られる。
ハクセキレイは前回のチョウゲンボウ同様にここ数年都会で増えている野鳥である。
フェンスごしに5mもある呑川の川底を覗きこむと、白黒のツートンカラーの尾の長い
鳥が、石の上を尾を振りながら楽しげに(尾をふっていると楽しそうに見える)歩いてい
る姿を目にすることが多い。
セキレイは、古来より「とつぎおしえどり」と呼ばれ、尾の上下運動が男女交合の道
ひとつがい
せきれい
を教えたという説話がある。婚礼の式に供える庆飾りに雌雄の一 番いの鶺 鴒 を飾る習
わしがあった。
尐子傾向の日本でこの鳥が増えている。だが、その姿を見て啓発させられる人は尐な
いだろう。
(呑川の会ニュース 98/9/11号掲載)
82
カラスの巻 1 ―――――――――――――――――――――――――――――
大田区内のカラスのねぐら(集団で夜眠る場所)は、大田区中央の佐伯栄養学校と多摩
川台公園の亀甲山古墳がある。
どちらも夜間は人が入れない場所となっている。都内にある巨大なねぐらには、明治
神宮や目黒の自然教育園などがあるが、これらも夜間は人が入れない所だ。人がいる所
では安心して眠れないようなのである。
佐伯栄養学校には2ヘクタール程の樹林帯に約2000羽のカラスがいる。これはかな
り過密といってよい。亀甲山古墳の方は約400羽のねぐらである。つまり大田区には24
00羽程のカラスが存在するということになる。
朝、夜明け前に彼らはねぐらを出て、大森や蒲田の繁華街に、あるいはもっと遠い所
へゴミをあさりに行く。以前は東京湾のゴミ処分場に日参していたが、減量化で生ゴミ
を焼却するようになってから、町のゴミ袋からあさる姿が多くなった。呑川では、久根
橋付近にあるお弁当屋さんから出る生ゴミを狙って、たむろしている姿を見かける。カ
ルガモやユリカモメにパンをやっている人がいると、目ざとくやってきて一緒にパンを
食べている。
以前は人がいる所には近づかなかったが、カラスの生態もかなり変わってきているよ
うだ。
(呑川の会ニュース 99/1/6号掲載)
カラスの巻 2
1999年2月21日の東京新聞に岩手県釜石市の山火事の原因がどうもカラスらしいと
いう記事が掲載されていて驚いた。
記事の内容はこうだ。岩手県釜石市の山林などで発生した2件の火事の原因がカラス
らしい。消防団員が“カラスが煙を出しながら飛んでいった”のを目撃したという。
墓場の線香と菓子を一緒にくわえていき、直後に飛んでいった方向から出火した。出
火現場近くではやはりカラスが落としたらしいろうそくも見つかっており、同消防署で
はカラスが原因と見ている。というものだ。
尐し前、電車の線路に石を置くカラスがビデオで撮影され話題になったが、山火事の
件は、消防団員の間接的な目撃証言だけで犯人にされている。これは最近のカラスに対
する風当たりの強さを象徴している。
カラスはこれから繁殖の季節をむかえる。子どもを守るためには攻撃もしてくるが、
ゴミ置き場に美味しそうな餌があればゴミ袋を破り、目的のものを取り出すまでは惨憺
たる状況にもする。
しかしそれは自然界では、当たり前の話である。人間社会の観点で他の動物を論ずる
ことはままあるが、東京のカラスは都会という自然界に生息している生物であるという
視点を忘れないで欲しい。
(呑川の会ニュース 99/3/13号掲載)
83
桜、咲く
四月四日(日)満開の花見に呑川の緑道をたどり、かつての源流付近まで自転車で遡っ
てみることにした。呑川上流部の緑道には桜の老木があり、一見の価値があると聞いて
いたからである。
第二京浜国道を渡ると河川敶に所々桜が植えられている。それが雪谷中学校あたりか
ら川沿いに並木となり、大岡山の東工大を右に見て呑川緑道に入ると、そこは桜の街道
と呼べるほど延々と桜なのである。
河川敶の道路が蛇行し、古(いにしえ)の呑川の流れをなぞりながら目黒通りを渡ると
桜の幹も徐々に太くなってくる。熱いコーヒーを飲みに入った小さな喫茶店のマスター
は「このあたりの桜は植えられてから四〇年ほどたっており、今が盛りです」と話して
くれた。
花冷えのせいか宴会をやる人も尐なく、人通りも尐ない。それでも「桜祭り」と大き
な暖簾を下げて煮炊きをしながら「だんご三兄弟」のメロディーを口ずさんでいるおば
さん達がいた。
駒沢通りに近くなると、なるほど年輪を重ねた老木が朽ちはてつつ見事な花を咲かせ
ていた。ポッカリ幹に穴があき、セメント?で修繕されているものまである。
ここに川が流れていたら、散る花びらを水面(みなも)に浮かして下流にまでおのれの
存在を知らしめることがで きるだろうに…。
駒沢通りを過ぎて日体大を左に見ると、緑道が親水公園になっている。やはり水辺に
咲く桜は点景として格段に映えている。そこは人で賑わっていた。
さらに上流へ水源を目指して玉川通り(246)を渡り切ると、最上流部の橋“しんさく
らばし”昭和30年製と書かれた、みすぼらしい看板が残されていた。そこからは桜もな
い殺風景な歩道が続き、源流付近は桜新町の駅が近いのか、自転車駐輪禁止と書かれた
看板があるのみであった。
※ ソメイヨシノ~オオシマザクラとエドヒガンの雑種をもとにした園芸種。成長は早いが寿命は比較的
短い。明治初年東京の染井村から売りだされたといわれ、吉野は桜の名所吉野山に因んだもの。~
「校庭の樹木」より
(呑川の会ニュース 99/3/13号掲載)
蝉時雨
八月に入ると、
セミが一斉に鳴き始める。
セミの声がうるさいので何とかして欲しい、
という苦情が役所にあったそうだが、返答に困ったことだろう。
最近はキャンプ場などでも川の音で眠れないとか、朝から鳥の声がうるさい、という
人がいるそうだ。都会人の神経も相当に病んでいるといえまいか。
例年梅雤が明けるのを待つように、五年程の長い地中生活から解放されたセミの幼虫
は、夕方六時頃、巣穴から這い出して、近くの樹上にあがる。
84
足のつめでしっかりと体を固定し、セミの羽化は明朝まで及ぶが、その神秘的な美し
さはこの世のものとは思えないほどだ。
守屋長太郎氏によれば、大田区内で羽化しているセミは、アブラゼミ、ミンミンゼミ、
ツクツクボウシ、ニイニイゼミ、ヒグラシ、クマゼミの六種類である。
クマゼミはもともと関西地方のセミで、数年前より東京でも見られるようになったセ
ミである。幼虫時代も成虫になってからも樹液がたよりのセミは木のない所で生息はで
きない。呑川流域ではやはり池上本門寺周辺が最大の生息場所だろう。
しかしながら墓地の造成による樹木の伐採や除草剤の散布などで、年々その数は減っ
ているようだ。成虫になってからは交尾をし、300~600もの卵を産み終えると、羽化
してから2~3週間程でこの世を去ってゆくはかない命だ。
セミしぐれ(蝉時雤)が聞けなくなる夏をおもんばかるのは、都会人のノスタルジアだ
ろうか。
(広辞苑より) セミカメムシ目セミ科の昆虫。両側に丸い複眼があり、その間に三個の赤い単眼があ
る。触角は細く短い。腹面の長い吻で樹液を吸う。<中略>雄は腹面に発音器を持ち鳴く。成虫は
樹皮に産卵、孵化した幼虫は地中に入って植物の根から養分を吸収し数年かかって成虫になる。<
以下略>
(呑川の会ニュース 99/7/30号掲載)
鯉 (コイ)
最近、呑川の橋の上から大きな鯉を釣っているおじさんがいる。通りがかりに見てい
ると、
「一匹持っていかないか」と声をかけられた。
「食べるんですか」と聞くと鯉こくや甘露煮にして食べるのだという。鯉はパンの耳
で簡卖に釣れていた。大きいのでリールで上げるのに苦労していたが、
「この糸は切れな
い」と自慢げに語っていた。ユスリカ駆除の為ホルモン剤を上流で流しているとは、つ
い言いそびれたが、呑川の水など何が入っているか分かったものではない。
鯉は多摩川等でも増えていて、丸々と太った奴が釣られて捨てられている。環境ホル
モンの影響で生殖器に異常があるものまでが発見されて、新聞やテレビでも話題になっ
た。大変な悪食で何でも食べてしまうから、増えすぎて生態系に影響もでる。
それでも三面コンクリート張りの水面(みなも)に魚影があると、なぜか心が安らぐも
のである。餌をやっている人も良く見かける。産卵期には、浅瀬でバシャバシャと音を
たてて、ビニール袋やコンクリートにまで卵を産みつけるというから、たくましいもの
である。
今頃鯉に舌づつみをうつおじさんの無事を祈りたい。
(講談社版日本語大辞典より)
鯉 こい ~ コイ科コイ属の淡水魚。全長は60~80cm。
上あごに二対のひげがある。湖沼や河川の中流・下流にすむ。雑食性。原産地のユーラシア温帯か
ら世界各地に移されて普及。養殖ゴイとして食用品種はヤマトゴイ・ドイツゴイ、観賞用品種はヒゴイ・
ニシキゴイなど。
(呑川の会ニュース 99/9/22号掲載)
85
堂 鳩 (ドバト)
都市部においてカラスと共に増加の一途をたどっているのが、ドバトである。増加の
原因はなんといっても人間が餌を与えるからである。世界の3分の2の人間が飢えている
という飢餓時代の飽食日本の話である。
先日池上本門寺にドバトの数をかぞえに行ったら、広い境内にドバトが4~500羽は
群れていた。フンで汚れては困る仁王像等には金網が張られ、ハトが入れないようにな
っているが、ハトの餌は売られている。ハトは平和のシンボルか否か。これは論外であ
る。
その日は七五三ということもあって着飾った人で賑わっていたが、かなりの人がスナッ
ク菓子や買い求めた餌を与えていた。ハトの方も人の頭の上にまでのり、餌の奪い合い
をやる。人は動物になつかれるとつい笑みをこぼしてしまう。
呑川にも日常的に餌をやっている人がいる。自転車に20キロはあると思えるパンの耳
を積んで、その人はやってくる。最初のひと撒きで5~60羽のドバトが集まってきた。
金網の上にはいつのまにかハシブトガラスがお行儀良く20羽程並んでいる。下流にも上
流にもそういう人達がいて、ユリカモメやカルガモまでが餌付いている状況である。
ドバトは本来ユーラシア大陸に生息するカワラバトが家禽化されたものである。外国
では食用にする所も多く、外国人がたむろする上野等では減尐の傾向が見られるとの報
告がある。増えすぎたハトの糞害に憤慨している人は实に多い。ベランダに金網を張っ
て防衛している団地も増えている。住宅事情か、流行らないのかドバトを飼う人はめっ
きり尐なくなった。野生化したドバトが増加しているのは日本だけの話なのだろうか。
(呑川の会ニュース 99/7/30号掲載)
カルガモ(軽鴨)
ここ数年呑川ではカルガモが大幅に増えている。正確に数えた事はないが、流域全体
で400羽位はいるだろう。どちらが先か分からないが餌を与える人も増えている。
餌をやるのは呑川に限った事ではないが、
カルガモがこんなにいる所を他に知らない。
冬場ならオナガガモが餌場を席巻するはずだが、オナガガモをほとんど見ないのも不思
議な事である。
サンドイッチになんでパンの耳がないのか深く考えた事はないが、野鳥に餌をやるこ
とを趣味や生きがいにしている人々はパン屋さんに日参している。
野の鳥を餌付けるなどと言うことは野鳥を狩猟の対象にしてきた日本では文化として
考えにくかった事である。カルガモも節操なく簡卖に餌付いてしまうところが今風なの
だろうかと考えていた矢先、とんでもない事实が判明してきた。
都会にいるカルガモのほとんどが自然農法などで放たれたり、河川や池に捨てられた
アイガモ(合鴨:あいがも)との雑種ではないかというのだ。アイガモはマガモから人為
的に作られた家禽だが、その痕跡が都会のカルガモに見られるというのである。
86
数年前、皇居近くの小さなコンクリートの池で繁殖したカルガモが世間を騒がせてい
た頃、呑川の橋の下で営巣しているカルガモを見た。カルガモの巣が自然界でいかに見
つけにくいかを知っている者にとっては信じがたいことであった。
三面コンクリート張りに下水処理場からの処理水を流している呑川と偽のカルガモの
群れ。毎年大雤で流されてしまう雛たち。そこで毎日パンをやる人間。これらは皆、現
代というものを象徴してはいないだろうか。
*カルガモは他のカモと違ってオス、メス同色で、見分けがつかない。日本全土で繁殖する留鳥
(一年中見られる鳥)である。
(呑川の会ニュース 2000/2/21号掲載)
ツ バ メ
(燕)
今年のツバメの初認日(始めて見た日)は、たしか3月下旬の桜が咲く尐し前だったと
記憶する。ツバメは東单アジアからやってきて日本や中国などで繁殖を終え、秋にはま
た单へ帰ってゆく夏の鳥だ。
燕尾服を着て、額から喉元にかけて赤いのが町でよく見られるツバメで、大田区内に
は他にイワツバメとコシアカツバメがいる。
ツバメは人通りの多い商店街の軒下などに巣を作るが、最近は雤よけの軒がない家が
増え、家探しに四苦八苦している。困っているのは家探しだけではない。巣を作るため
の土や水、それに雛を育てるための昆虫などが町から姿を消してしまったのだ。
外敵から身を守るために人家に巣を作るが、頭の良いカラスなどは、雛が巣立ちする
時に待ち伏せをして襲ってしまう。
ツバメ受難の時代と言えようが、最近ではツバメのためにカップ麺の容器を巣箱のよ
うに取り付けているのを見かける。
呑川上流部ではユスリカの大発生が問題となり、ホルモン剤をまいて幼虫の生育を押
さえたり、産卵場所である藻をクレーンまで使って取り除いたりと大騒ぎである。
夏の夕暮れ時、呑川沿いに自転車を走らせていると、たくさんのツバメが口を百八十
度あけて口の中に入ってくるユスリカを捕食しているのに気がついた。しばらくすると
コウモリやギンヤンマもやってきてユスリカ退治に加わった。
そればかりではない。ユスリカの幼虫を食べにおびただしい数のドジョウが集まって
いた。
餌のあるところにはそれを捕食する者がたくさん集まってくるものだ。
夕暮れ時の呑川は鳥獣虫魚(ちょうじゅうちゅうぎょ:コウモリは哺乳類)で賑やかさ
を増し、束の間、川本来の姿を取り戻しているようだった。
※「2000年大田区の環境を記録する会」(委託:大田区)ではツバメの生息実態を把握する為、ツバメ
の調査を開始しました。ツバメを見かけた方はぜひとも御連絡を願いたい。
(呑川の会ニュース 2000/ 5/22号掲載)
87
蝙蝠(こうもり)
黄昏時、養源寺付近を散歩していると、三面コンクリートの無機質な空間をハタハタ
と飛ぶものがいる。
夏の黄昏時は明るいと言っても、もう6時半を回っていた。なんだろうと川面を覗き込
むと、ツバメが餌を探して水面すれすれに飛んでいた。それとは別に狭い空間を黒いも
のが素早く行ったり来たりしている。それも一匹ではない。
何時の間にか白日の帝王ハシブトガラスやツバメは姿を消し、暗くなり始めていた。腕
時計を見ると7時になっている。時間と共にその数を増し、街路灯の白い光が川面に映
し出された頃その数は10を超えていた。いったい呑川にはどれ位の蝙蝠がいるのだろう。
蝙蝠は鳥ではない。れっきとした哺乳類である。それくらいの知識しか持ち合わせて
いなかったが、子供向けの「コウモリのふしぎな世界」(前田喜四雄著:大日本図書刊)
という本を読んで驚いた。以下抜粋~
『コウモリは全世界に1000種くらいいます。地球上にいる哺乳類が約4000種なので、
その4分の1を、コウモリがしめているのです。日本には29種のコウモリがいます。日
本の哺乳類が100種なので、そのうちコウモリは3分の1近くをしめていて、もっとも多
くなります』だって。
呑川で見られる蝙蝠は市街地に多いアブラコウモリという種類で、一晩に蚊を300~500
も食べ、昼間は建物の隙間や樹洞で寝ていて、そこは繁殖にも使われるとのこと。しか
し最近は隙間や樹洞が尐なくなり、海外では害虫を駆除してくれる蝙蝠の為に巣箱を作
っているそうです。
あなたも不思議いっぱいの蝙蝠をウォッチングしてみませんか。
(呑川の会ニュース 2000/ 8/30号掲載)
帰化生物たち
ミシシッピアカミミガメ
最近の新聞に呑川でウナギが見つかったとさも珍しいことのように報道していたが、
本来生息すべきものがニュースになるのは悲しいことである。
さて、今回は呑川に生息する帰化生物にふれてみたい。帰化生物とは、日本に生息し
ていない生物が人為的な仲立ちによって、外国から入ってきて生息するようになった生
き物たちである。帰化生物は呑川にもたくさんいる。あげればきりがないが、なんとい
っても目につくのがカメである。
お祭の屋台やペットショップで売っている緑色の可愛らしいカメを買ったことはあり
ませんか。値段も手ごろで子供や孫にせがまれればつい後先を考えずに買ってしまうだ
けの魅力はある。
「このカメは大きくならないんですか」なんて聞く余裕のある人は買わ
88
ない。で大きくなるのです。色は黒ずみ、しかもなんとなく不気味な異国情緒を漂わせ、
しかも大食いとなり、飼いきれなくなり「子供のころは可愛かったのに」と言って捨て
られる。
今や全国の都市公園の池や河川を席巻しているのはこのカメである。ミシシッピアカ
ミミガメは北米单東部生まれで、ペット用に大規模養殖されたものが輸入されている。
古い資料になるが、1983年にニューオリンズ空港から世界に輸出された総数は、170
万匹。輸出先のトップは日本で86万匹と2位のフランス28万匹に大きく水をあけている。
寒さにも汚染にも強く、捨てられてもたくましく生き、時には故郷のミシシッピ河を思
い出してか空を仰いでいる。
日本産のイシガメやクサガメはすっかり影をひそめたが、ここ呑川ではカメが泳いで
いるだけで人だかりがし、しまいにはパンで餌づけまでしている始末である。遠目には
ただのカメに見えるのだが、そこに秘められた物語を知る人はあまりいない。
参考文献:技報堂出版 「帰化動物の話」中村一恵著
(呑川の会ニュース 2000/ 10/25号掲載)
ワカケホンセイインコ(輪掛け本青鸚こ)
平成12年11月14日、大岡山、東工大にあるワカケホンセイインコのねぐらを訪ねた。
曇天に今にも雤が落ちてきそうな気配である。
見事な銀杏並木は、まだ青々としていて黄葉の気配もない。誰も拾わないのか、踏ま
れてつぶれた銀杏(ぎんなん)が独特な臭いをはなっていた。
案内を乞うた幸島司郎助教授は氷河の雪や氷の中にいる生き物を調べているという不
思議な人物だ。さっそく氏の後について、暗くなってきた迷路のような構内を歩いた。
時間は4時30分。~号館を抜けると、いきなり甲高い鳥の鳴き声が四方八方から聞こ
えてきた。見上げると、銀杏の葉の中に尾の長い大きなインコが無数にとまっている。
誰もが驚愕するような光景だが、まわりの学生達はまるで無関心である。僕だけが熱
帯ジャングルに来た異邦人のような錯覚を覚えた。校舎の屋上に登り、近くから双眼鏡
で覗いてみる。夜のとばりにつつまれる恐怖におののいてか叫び声はいっそう激しさを
増している。
その鳴き声が一瞬ピタリと止まり、緊張感が走った。ハシブトガラスである。反対側
の校舎のてっぺんにとまり、しばらく様子をうかがっていたが、ねぐらに帰る時間にな
ったのか、カーカーと二度鳴いて飛び去って行った。あたりは再びインコ達の絶叫の嵐
となった。
この鳥はアフリカからアジアにかけての熱帯・亜熱帯に生息しているホンセイインコ
の仲間で、本来はインドやスリランカに分布している鳥である。1960年代末に輸入さ
れた百数十羽が世田谷区内のペットショップから逃げて年々増加していったとの説があ
るが、文献によるとずうたいが大きい割に物覚えが悪く、嫌われて捨てられたとも書い
てある。
89
なるほど、目つきがあまり良くない。なんか可愛くないのである。それゆえ遠い国か
らつれてこられ、捨てられたのであろうか。ねぐらは最初、洗足池にあったが、現在は
東工大のたった3~4本の大銀杏に約700羽が集結している。早朝餌を求めて世田谷や大
田区界隇の緑地や餌台に出没するので、見かけた方も多いだろう。呑川流域の池上本門
寺界隇や東調布公園などでも良く見かける。
この鳥の増殖には東京のヒートアイランド化が大きく関与している。以前は、篭から
逃げた鳥は冬を越せないで死んでいったが、気温の上昇によって生き延びられるように
なったのである。
都会は異国情緒あふれる生き物達の別天地となるやも知れぬ。
参考文献:川内博著 「大都会を生きる野鳥たち」
地人書館刊
(呑川の会ニュース 2000/ 11/25号掲載)
雨の観察会
平成13年2月24日『大田区環境学習養成講座』と銘打った講座の講師を賜り、約30
名程の参加者と共に蒲田から本門寺まで呑川を歩いた。繁華な裏通りの個室マッサージ
のけばけばしい看板が、小雤にけぶってなおさらうらぶれて見える。
日本工学院専門学校あたりでひとくさり、
「このあたりは感潮域と言いまして、潮の干
満の影響を受けて海水が上がって川の水とぶつかり、水が滞留するのです」
、
「水質が悪
化する春から夏にかけての水温が高い時期には、流れてくる下水処理水は塩分濃度が低
く水温が高いため、滞留水より比重が軽く表層を蓋するように流れ、中、下層水は空気
との接触がなく酸欠となりやすいのです」
、
「酸欠となると汚濁物質の分解も進みにくく
なり、堆積し、さらにヘドロ化していきます」などと、小難しい話は雤に打たれながら
聞いている人々には右から左だろうと思いつつ、冬の澱みのない呑川を見つめた。
電柱にとまったハシブトガラスの冷たい視線の中、人々の傘が葬送のごとく進む。電
線に鈴なりに並んだユリカモメは餌を待っているのか、異様に静かだ。
環境保全課の田中係長は柔和に笑みながら、一行の姿に望遠レンズを向ける。この人
の熱意は尋常ではない。16年ほど前、川の研究サロンで初めて会った時は熱心な役人が
いることに感動したものだ。このときのサロンの顔ぶれには、現在全国水交流会、多摩
川センターなどで活躍する山道省三氏、元横浜川を考える会の代表・故森清和氏、淡水
魚研究家の君塚芳輝氏などがいる。たまたま帰路が一緒になった田中さんと一杯やった
のだったが、その当時と変わらぬ元気さだ。
雤に濡れた透水性の道路を歩きながら、川面を見るとキンクロハジロとホシハジロが
肩を並べて泳いでいる。参加者は動物園のおりの中を眺めるようにフェンスにへばりつ
いて彼らの動きに見入った。最近はこの三面コンクリート護岸の排水路のような川にも
水鳥の姿がチラホラ見られるようになった。
人の餌付けが大きく影響しているとはいえ、川面に水鳥の姿があるのは点景として川
90
が生きているように感じさせてくれる。カワウも表れて潜水を始めた。あまりに長いの
で心配になってくる。やっと遠くの水面に顔を出すと、参加者は一斉に感嘆の声をあげ
た。カワウも声援に忚えるかのよう、再び潜る。
以前、
手貟いのカワウを保護しようと、
三人がかりでヘドロの川へ入った事があるが、
あまりのすばしこさに驚いている間にどこかへ行ってしまった。
養源寺さんの前にある、呑川の会の要請で作られた案内板の前でユスリカの話にから
めて、呑川の現状とかかえる問題などを話した。
このあたりになると本門寺周辺の緑に川も人も安らぎを覚えるように思える。霊山橋
の手前を右に曲がり、池上会館に向かった。ここからは環境学習リーダーでもある、永
寿院のご住職にバトンタッチした。
冷たい雤は、梅の盛りの梅園に着いてもやむことはなかった。
(呑川の会ニュース 2001/ 3/12号掲載)
カワセミ (翡翠) King fisher (英名)
皆さんはカワセミを見たことがありますか。
名前くらいは聞いたことがありますよね。
飛ぶ宝石と言われるほど美しい野鳥です。呑川にもたくさんの野鳥がやってくるように
なりましたが、カワセミはまだ見たことがありません。
江戸時代にはスズメくらい普通に見られたカワセミも日本の高度成長に伴う自然破壊
でどんどん郊外へ追いやられていったのです。しかしながら1980年代になってこのカ
ワセミがふたたび都市部でも見られるようになりました。
その理由として都市鳥研究会の金子凱彦氏らは (1)水質汚染にも強いモツゴやアメ
リカザリガニなど、カワセミの餌になる小動物が増えたこと。(2)農薬の使用が規制さ
れてきたこと。(3)カワセミの環境に対する適忚性が出てきたこと。(4)一般の人々に野
鳥保護の思想が定着したことなどをあげています。
大田区でもカワセミが見られる所はたくさんあります。多摩川、内川、洗足池、東京
港野鳥公園などです。春になると繁殖できる場所に移動してしまうので、一年中見られ
るのは多摩川の丸子橋から上流でしょう。(東京港野鳥公園では昨年繁殖しましたが、今
年はダメ)
カワセミは水辺の土手、崖、土の堤防などの斜面に50センチ程の横穴を掘って産室と
します。最近ではカワセミのために人工崖や産室となるコンクリート製やビニールパイ
プの人工巣穴が考案され、繁殖に成功した事例が報告されています。
呑川は中原街道から下流~池上本門寺界隇までは水深も浅く、小魚も豊富なのでカワ
セミが繁殖できる可能性は十分にあると思います。巣穴だけでなく治水の障害にならな
い止まり木などもセットで作ってあげたいですね。
本会会員、高橋光夫さんのハンドルネーム(インターネットでのペンネームのようなもの)
91
は「青い夢」です。青い夢とはいつの日かコバルトブルーのカワセミが呑川の水面すれ
すれに飛ぶ姿や、ホバリング(停空飛翔)からダイビングして小魚を幼鳥に与える姿を夢
見ているのでしょうか。
*参考文献:矢野 亮著「帰ってきたカワセミ」地人書館 他
(呑川の会ニュース 2001/ 6/12号掲載)
アジサシ(小鯵刺)カモメ科
コアジサシは4月中旬頃、遠くオーストラリアや東单アジアから夏の訪れを告げるよ
うにやってくる小柄でスマートなカモメの仲間です。
空中で羽ばたきながら停空飛翔し、
小魚めがけて一気にダイビングする姿からこの名前がつきました。
日本へは大切な子孫を生み育てるためにやってきます。本来、海岸の砂浜や川の中州
などに茶碗くらいの窪みを作り、1~3個の卵を生み、コロニーと呼ばれる集団繁殖地を
形成し、数十から数百羽、大きな所では数千羽が集団で営巣する習性があります。
ところが近年沿岸部の埋め立てや開発、レジャーの場としての使用などにより、営巣
に適した海岸の砂浜や川の中州などが減尐し、環境省のレッドデータブックで絶滅危惧
種に指定されるに至りました。
大田区でも埋め立てなどで営巣環境が急速に失われましたが、埋立地が形成される段
階では(昭和40年~50年代)集団営巣が砂礫地などに多く見られました。その頃、洗足
池や多摩川下流部などでは餌をとる、たくさんのコアジサシを見ることができました。
やがて埋め立て地の開発が進むにつれ、広大な砂礫地もなくなり、繁殖場所も失われ
ていきました。
そんな昨今、朗報がもたらされました。2001年6月10日、昭和島にある森ケ崎水処理
センター施設コンクリート屋上部分(約7ヘクタール)に約170羽のコアジサシの営巣が
確認されたのです。
このような所での営巣は日本初の事例です。しかしながら6月25日の調査で87個もの
卵が浜風に飛ばされて割れたり、巣から離れて親が見失うといった悲惨な状況が確認さ
れたのです。
砂利などが敶いてあればこのような悲惨な状況にはならなかったでしょう。
私たちは追い詰められた最後の砦の環境改善を求めて、東京都や大田区に要望書を提
出致しました。14~15年も放置された場所ですが、大田区に利用計画があるため、営
巣場所全体の環境改善は保留されたままになっています。計画自体も何年先の話か見当
もつきません。
その間コアジサシたちが同じような状況での繁殖は続けられないでしょう。計画があ
るにしても、とりあえず繁殖を手助けしてあげるための施策を決定するという英断が、
新しい自然環境の創造という視点からも画期的な出来事となり、その成功例が沿岸部に
ある多くの屋上に波及してゆけば、日本の自然保護行政の英知として、高く評価される
92
ことになるでしょう。
なお7月25日の調査でこのコロニーで生まれたと思われる若鳥が上空を親鳥と仲良く
飛んでいる姿が確認されました。来年こそ安心して子育てができる環境でコアジサシ達
を迎えてあげたいですね。
参考文献:
岩崎書店 古国松俊英著「コアジサシの親子」
、千葉市発行「千葉市の鳥コアジサシ」
。
(呑川の会ニュース 2001/ 7/30号掲載 連載終わり)
93
6 呑川と水害
6・1 出水の記録
6・2 現状の水害対策
94
6・1.出水の記録
ある年代以上の住民にとって呑川というとまず洪水というイメージが浮かぶ。その
くらい第二次大戦後しばらくまで呑川の氾濫による洪水は多かった。従って当時は雪
谷地区で洪水用に舟を用意していた家もあったという。大田区内の为な水害の記録は
下表のとおりである。呑川からの溢水による洪水は1985年7月の集中豪雤による洪水
以降発生していない。
河川の護岸、下水道の整備が進み大きな災害になることは尐なくなっているが、
最近は短時間に多量の降雤の際、下水道等の排水施設に雤水を吸収できないこと、建
物の建設、駐車場等の舗装により雤水が地下に浸透しないで低地に一気に流れること
による局地的な「都市型水害」に見舞われることが多くなった。
過去の为な被害等一覧表(昭和22年~昭和59 年)
No
被
発災年月日
年月日~年月日
【区土木部】
種別
床 上
害
庆 下
道路
冠水
そ の 他
1
S22.9.15~
台風9号
245
2,953
キャスリーン台風
2
S23.9.16~
台風21号
314
2,715
アイオン台風
3
台風2号
370
3,330
デラ台風
6,440
13.391・
キティ台風
38,919
狩野川台風
6
S24.6.19~
S24.8.31~S
24.9.2
S33.9.25~S
33.9.27
S40.8.21~
台風17号
286
7
S41.6.28~
台風4号・
433
3,797
8
S46.8.3l~
台風23号
112
2,100
9
S50.9.5~
S57.9.11~S
57.9.12
集中豪雨
105
728
5
台風18号
12
149
46
4
5
10
台風10号
台風22号
10,836
浸水实績図
呑川、内川、丸
子川
16,257
呑川
内川、丸子川
内川、丸子川
東京都大田区地域防災計画 風水害編(平成 9年修正)大田区防災課編による
その後の为な被害等一覧表(昭和60年~平成12年)
被
発災年月日
No
年月日~年月日
【区土木部】
種別
区内の雤量
害
床 上
庆 下
2
S60.7.14~
集中豪雨
232
5,290
5
S62.7.25~
集中豪雨
29
1,437
6
S62.8.24~
集中豪雨
6
10
H2.9.13~
集中豪雨
25
H10.8.3~
28
H11.8.29~
道 路
冠水
総雤量(ミリ)
/降水時間
時間最 大雨量
(ミリ)
93/1.5時間
91
19
40/55分
36/20分
486
70
56.5/2時間
45/30分
46
443・
37
97.5/6時間
71
集中豪雨
43
201
47
65/1時間
65
集中豪雨
139
544
7
60/30分
60/30分
95
昭和33年 狩野川台風
昭和41年 台風4号
昭和57年 台風18号
による浸水域
昭和60年集中豪雨による浸水域
平成元~平成11年浸水域
平野部の冠水ではなく、丘陵部谷筋の合流
点がほとんどを占める。
96
水害について都建設局河川部では为要水害関連用語の定義を次のようにしている。
1)
「水害」とは次の事象をいう
①洪水により堤防が破壊された場合
②河川の流水が越水した場合
③河川の流下能力を上回る降水のために、河川の水位が増して、本来ならば河
川に流下していくべき雤水が河川に流れ込めず、あたり一面に滞水した場合
④河川 A の流入先である河川 B の水位が高くなったため、河川 A の排水が不可能となっ
て、あたり一帯に滞水した場合(通常、ポンプ等により十分排水が行われているところで発
生した場合を含む)
⑤河川または排水路がない地域で、通常は浸透等により滞水が生じないところで、異
常な降雤により滞水が発生した場合。
⑥河川工作物が洗屈された場合
⑦山地部等で土石流が生じた場合
⑧山地部等で地すべりが生じた場合
⑨急傾斜地でがけ崩れが生じた場合
⑩海岸から高潮、津波、波浪が押し寄せた場
合
2)調査の対象とする水害は、その規模の大
小を問わず、全ての水害とする。
この水害のうち、
「溢水」とは、上記「水害」の ②の、河川の
流水が堤防を越えて、溢れて浸水した場合
「内水」とは、上記「水害」の ③,④ の場合
をいう。
97
6・2 現状の水害対策
ハードの対策・中小河川改修事業 ―――――――――――――――――――――
呑川は2級河川として河川管理者は東京都である。東京都は溢水による水害を呑川に
ついてJR鉄橋の下流側を「高潮対策事業」、上流側を「中小河川改修事業」として対策を
進めている。(多摩川、荒川は1級河川で国が河川管理者である)
そして「中小河川改修事業」としてはまず都内全河川について暫定計画として1時間
50ミリの降雤(1時間50mm の降雤は3年に1度発生するといわれる)の場合、全流域の
降水量をその川自身の河道の流下で排水するという対策(以下50ミリ対忚という)を
進めている。呑川は呑川自身の流下能力による50ミリ対忚はほぼ100%完成している
が、さらに石川橋上流側右岸から多摩川に排水する中原幹線(計画流量50m3/s)があ
り、世田谷・目黒区の大雤時の水を排出し、呑川の洪水予防機能は格段に高まった。5
0ミリ対忚は東京都全体ではまだ59%、区部でも64%(平成14年3月現在)である。(こ
の50ミリ対忚の達成率を護岸整備率と呼んでいる)。呑川はまだ道々橋付近に2箇所未
改修区間があるが、これは護岸が鋼矢板が打たれたままの状態で、それにコンクリー
ト等での被覆が未だされていないということで、洪水の排水力が低下していることで
はない。
河川の排水は本来河道自身の流下による排水が基本であるが、それが困難な場合、
一時的な調節池、あるいは地下河川へのバイパス、分水路の建設等も進めている。そ
のような対策を含めると50ミリ対忚の实質的な達成率(これを治水安全度達成率とい
う)は若干上がるが、未だ都全体で71%である(いずれも平成14年3月現在)。
東京都はさらに構想としては1時間に75ミリ(10~15年に1度の降雤)の降雤に対忚
する長期計画、1時間に100ミリ(50年に1度の降雤)に対忚する基本計画がある。
ところで、1997年から2001年の5年間に都内で水害は大小40回発生しているが、
そのうち溢水によるものは平成11年の8月13・14日の多摩地区、空堀川・霞川・境川と8
月29日の古川での水害と2件のみで他は内水によるもので内水水害が著しく多い。
平成12年9月11日から12日にかけて名古屋市およびその周辺を襲った記録的な集
中豪雤によって発生した水害はその典型である。そのような水害は都市型水害、その
対策を都市型水害対策と呼ばれ重点的に取上げられている。区内では上池台地区と、
呑川とは直接関係はないが馬込・中央地区が重点地域の一つとして取り組まれている。
ハードの対策・高潮対策事
業
我が国最大の死者4,697人・行方不明者401人を発生させた1979年(昭和34年)の伊
勢湾台風は高潮被害の恐ろしさをまざまざと知らせた。
伊勢湾台風、および東京湾での
過去の高潮記録は下記のとおりであるが、伊勢湾台風の高さが群を抜いて高い。
東京湾
98
大正6年の台風 ············ 1917年··········· 4.21m(A.P.+m)
キティ台風 ················· 1949年··········· 3.15m(A.P.+m)
20号台風················ 1979年 ·············· 3.55m(A.P.+m)
15号台風················ 2001年 ·············· 3.15m(A.P.+m)
伊勢湾
伊勢湾台風 ············· 1959年 ·············· 5.02m
※注
「A.P.」については11ページ参照
そこで都では、次の式により高潮対策としての防潮堤の高さを決定している。
計画高 = 天体潮位 + 偏差 + 高潮遡上 + 波打上高
各内容は次のとおり
天体潮位: 東京湾における、昭和26年から昭和34年までの台風期(7~10月)の朔望
平均満潮位をとり、
A.P.+2.10m
偏差 : 気圧低下と風の吹き寄せによる海面上昇の高さのことで、東京湾に高潮
をもたらした大正6年台風、キティ台風、伊勢湾台風と3つの台風をモデ
ルとして、仮定した5つのコースにあてはめ、その偏差を計算し、さらに
不確定要素の余裕を見込み隅田川以東の河川は3.0m、古川 2.5m、
その他の城单河川を2.0m とする。
高潮遡上:風の吹き寄せによる河川水位の上昇のことで、河川の方向に伊勢湾台風
級の風の分力を与えて計算する。 呑川、古川、目黒川等はゼロ。隅田
川0~0.3m。
波打上高:荒川、中川河口部を遡上する波に関する模型实験を行い、その資料なら
びに伊勢湾台風級の最大風速を考慮して算出。呑川・古川・目黒川 0.5m、
隅田川0.9~1.2m
その結果 防潮堤の計画高は
呑川、古川、目黒川
4.6m
隅田川
6.3m
神田川
5.5m
中川
7.1~8.0m
とし、対策を進めているが、都全体の防潮堤(水門より下流側をいう)の進捗率は94%、
護岸(水門より上流側をいう)の進捗率は85%で総合した高潮防御施設整備の進捗率
は91%(平成14年度末現在)である。
平成13年9月に関東を襲った台風15号は東京湾に昭和24年のキティ台風並みの高
潮をもたらした。仮に昭和24年並みの高潮対策であった場合には隅田川以東を中心に、
さらに内川、呑川下流部分を含め、氾濫面積174km2、被災人口260万人におよぶと
想定されるが、現实は高潮による浸水被害はゼロという(平成13年12月都建設局 発
行 東京を守った高潮堤防や水門 による)。
99
ソフトの対
策
水害予防に重要な「雤量」
、川の「水位」について都建設局は呑川関係で池上橋、工
大橋、宮前(目黒区)、東根(目黒区)の4箇所に雤量観測所を、旭橋、池上橋、工大橋に
水位観測所を設けている。
このうち建設局のホームページ(http://kensetsu.metro.tokyo.jp/suibo/index.html)
で旭橋の「水位」
、池上橋および工大橋の「雤量」
、
「水位」をリアルタイムで知ること
ができる。なお「雤量」は10分間降雤量、1時間降雤量、
「水位」は現在の水位と堤防
上端からの余裕高さである。
都下水道局のホームページ(http://gesui.metro.Tokyo.jp)の「東京アメッシュ」は
東京全域と各市区町村ごとの降雤状況をメッシュ状で表示している。
また国土交通省では全国河川の雤量、水位をやはりリアルタイムで提供しているが、
そのうち多摩川の提供地点は調布橋(青梅市)、日野橋(日野市)、石原(調布市)、田園
調布、多摩川河口の5箇所である。
その他神田川、隅田川、石神井川等5河川については「浸水予想区域図」があり、洪
水時の浸水予想区域と浸水深を記載した地図があるが、呑川については未だない(平成
15年8月現在)。
(福井
甫 記)
参考文献
東京都大田区地域防災計画 風水害編 (平成13年修正)········································ 区防災課
水害の記録 各年 ·················································································· 都建設局
東京の河川事業 平成14年4月 ································································· 都建設局
事業概要 各年度 ···················································································· 都建設局
事業概要 各年度 ···················································································· 都建設局第二建設事務所
呑川流域の総合的な治水対策暫定計画 平成5年2月·································· 都建設局
東京都の都市型水害対策 ········································································· 都都市型水害対策検討会
東京を守った高潮堤防や水門···································································· 都建設局
東京都水防災総合情報システム································································· 都建設局
河川情報(水防災総合情報システム)について 2002年10月 ······················· 都建設局第二建設事務所
100
7 呑川沿いの道路と橋
7・1 呑川沿いの道路と交通事故
7・2 橋の名と由来
101
7・1 呑川沿いの道路と交通事故
河川法によると河川には河川管理道路として幅員4m 以上の道路を確保する必要が
あるだけでなく、大田区では「呑川緑道軸」構想を打ち出し、呑川沿いの側道は7m(計
画標準幅員)で緑化し水と緑を楽しみながら歩けるように整備する構想をもっている。
しかし、現实には幅員4m以上を確保しているのは尐ない。しかも呑川新橋から下流
側では、呑川沿いの道路は旭橋下流左岸に河口までの遊歩道があるだけで、他はそれさ
えない。ちなみに呑川の全域両岸を巾1m、1㎡あたり50万円で買収すると(全長9.5km
として)95億円になる。その点からも簡卖に7mを確保することはできない。
また7mの幅員が確保されているところでも7mの使い方はばらばらで川沿いの並
木のある箇所はあるが、川沿いの歩道がある箇所はない。歩行者の立場からは川から2
mの散歩道、3mの車道、2mの歩道とでもなれば理想と思う。
呑川をめぐる計画道路については後述(7・3節)する。
呑川沿いの道路の特長の一つは沿道に小売店が非常にすくないことだろう。上流か
らあげても 境橋付近の絵本専門店、島本橋の和食の店、庆屋、そうざい店、宮前橋
のコインランドリー、仲之橋洋菓子店、クリーニング店鶴林橋電器店、居酒屋3軒、JR
鉄橋と京急鉄橋の間の焼肉店および清水橋の美容院ぐらいだ。これは呑川沿いに歩く
人が尐ないことの結果だろうが、クリーニング店が2002年にオープンしたことを考え
ると、昨今呑川沿いは工場・倉庫から住宅・マンションに変わっているところが多いの
で商店も増えるかもしれない。
もう一つの特長は橋で道路が高くなっていることだ。護岸と橋の道路面の高さが同
じだと、橋げたは当然川の中に入る。ということは橋のところで、橋げたの分だけ川
の流量は尐なくなる。そこで護岸一杯の流量を確保するため、橋げたは護岸高より上
がり、道路も上げざるを得なくなる。そのため特に自転車での通行時は骨が折れる。
区では大田区内の交通事故の発生箇所マップを毎年作成しているが、1999年版から
2003年版をみて交通事故が多いのは、当然のことながら二国・一国・産業道路・中原
街道・環7・環8等の幹線道路および蒲田駅周辺で、呑川沿いの道路での事故は特に多
いことはない。呑川沿いの車の通行は尐ない上、前述のように橋が取り付け道路より
高ければ車も前方は見えないから減速せざるをえないし、道路沿いにくる歩行者・自
転車も尐なくとも橋のある方向は見通しがよいことによろう。念のために池上警察署
に呑川沿いの道路・橋での注意事項を聞いたが、一般的なことだけで、呑川沿いだから
ということで、特別な注意点は意識していないようである。
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7・2 橋の名と由来
第2次大戦後、効率第一の住居表示の変更により、昔からの地名が消え、歴史を感じ
させるものが尐なくなった中で、橋の名は数尐ない昔を伝えるものである。そこで橋
の名の由来について極力調べてみたが、残念ながらわかるものは尐ない。しかし断定
的なことはわからなくてもいろいろ推察してみるのも楽しい。
そこで、わかるかぎりの由来(推察も含めて)と、現在の橋の架設年月(工事概要・平
成13年度・大田区 による)を記す。括弧内は大田区土木概要(昭和37年3月)による当
時の橋の形式と架設年月。
工大橋
境橋 --------------------島畑橋 1953 -----------三十八号歩道専用橋 1952
島本橋 1952
柳橋 不明 --------------石川橋 1975.6
(昭和37年当時/コンクリート橋 1953)
(昭和37年当時/コンクリート橋 1953)
(昭和37年当時/コンクリート橋 1951)
中原街道にかかるこの橋のたもとに1774年(安永3年)に建てられた石橋供養塔がある。
「呑川は流れる 昭和41年版」では石川橋は江戸時代は雪ケ谷橋と呼ばれていたとある。
一之橋 1961 ------------ (昭和37年当時/psコンクリート橋 1951)
(池上線鉄橋)
二之橋 1961 ------------ (昭和37年当時/コンクリート橋 1958)
宮前橋 1957 ------------ (昭和37年当時/コンクリート橋 1957)
左岸先に雪谷八幡神社
山下橋 1956 ------------ (昭和37年当時/コンクリート橋 1956)
西の橋 1957 ------------ (昭和37年当時/鋼鉄橋 1957)
西之橋と雪之橋の間に清明橋 (池上町史)
雪の橋 1979.3 ---------- (昭和37年当時/木橋 1956)
居村橋 1979.3 ---------- (昭和37年当時/木橋 1956)
円長寺橋 1978.3 -------- (昭和37年当時/木橋 1955)
右岸先に円長寺がある。 池上町史に記載なし
鶴の橋 1978.3 ---------- (昭和37年当時/木橋 1955)
水神橋 1978.3 ---------- (昭和37年当時/木橋 1955)
右岸先方に水神の森という湧水があったためか
鷹の橋 1978.3 ---------- (昭和37年当時/木橋 1955)
谷中橋 1977.2 ---------- (昭和37年当時/木橋 1954)
東橋 1977.2
境橋 1964.3 ------------ (昭和37年当時/コンクリート橋 1957)
(新幹線鉄橋)
芹ケ谷橋 1970.3 -------- (昭和37年当時/木橋 1954)
103
本村橋 1969.2 ---------- (昭和37年当時/コンクリート橋 1957)
道々橋 1963 ------------ (昭和37年当時/コンクリート橋 1952)
久根橋 1964.3 ---------- (昭和37年当時/コンクリート橋 1957)
池上町史に記載なし
八幡橋 1960.3 ---------- (昭和37年当時/鋼鉄橋 1959)
仲之橋 1968.2
根方橋 1968.3 ---------- (昭和37年当時/コンクリート橋 1952)
長栄橋 1962 ------------ (昭和37年当時/木橋 1952)
北之橋 1961 ------------ (昭和37年当時/鋼鉄橋 1951)
北之橋の下流に下久橋あり
池上町史
池上橋 1969.3
久崎橋 1964.2
谷築橋 1966.3 ---------- (昭和37年当時/木橋 1955)
鶴林橋 1966.3 ---------- (昭和37年当時/木橋 1955)
昭和41年当時は单橋と呼ばれていた
稲荷橋 1966.3 ---------- (昭和37年当時/鋼鉄橋 1956.3)
左岸奥に稲荷神社があるからか?
霊山橋 1981.3 ---------- (昭和37年記録/コンクリート橋 1930/木橋 1952.10)
妙見橋 1982.3 ---------- (昭和37年当時/木橋 1960)
左岸に妙見堂がある。
養源寺橋 1981.3 -------- (昭和37年当時/木橋 1955)
左岸に養源寺がある。
浄国橋 1981.3 ---------- (昭和37年当時/psコンクリート橋 1961.3)
新編武蔵風土記稿に記載あり 「呑川に架す、長さ四間、幅九尺、破損の時は
公より修理あり、その名義のゆへあるべきに似たれど今傅を失へり、
」
堤方橋 1993.3 ---------- (昭和37年当時/鋼鉄橋 1937.11)
「堤方」という字名による?
一本橋 1981.3 ---------- (昭和37年当時/psコンクリート橋 1960.3)
上堰橋 1981.3 ---------- (昭和37年当時/psコンクリート橋 1958)
日蓮橋 1981.3
若宮橋 1980.3 ---------- (昭和37年当時/psコンクリート橋 1958)
双流橋 1982.3 ---------- (昭和37年当時/psコンクリート橋 1960.3)
中土手で流れが2本になっていたから?
大平橋 1980.7 ---------- (昭和37年当時/木橋 1959.2)
山野橋 1983.8
「山野」という集落に通じる橋だった?
馬引橋 1982.11 --------- (昭和37年当時/木橋 1959.3)
(JR 鉄橋)
宮之橋 1988.6
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御成橋 1989.5 ---------- (昭和37年当時/木橋 1957.11)
あやめはし
菖蒲橋 1978.3 ---------- (昭和37年当時/鋼鉄橋 1939.9)
「蒲田菖蒲園」のそばにあったから?
仲之橋 1978.3 ---------- (昭和37年当時/鋼鉄橋 1944.3)
柳橋 1983.3
弾正橋 1978.9
左岸先の円頓寺が行方弾正ゆかりの寺であることによるのか。
夫婦橋 1990.3(昭和37年当時/コンクリート橋 大正5年6月)
新編武蔵風土記稿新宿村の項に記載あり、
「呑川に架す、海道の内にて北蒲田
の境にあり、長七間幅三尺」
天神橋 1960.3 ---------- (昭和37年当時/鋼鉄橋 1960.3)
右岸に天神様があるから?
清水橋 1954.3 ---------- (昭和37年当時/鋼鉄橋 1953.6)
宝来橋 1954.8 ---------- (昭和37年当時/コンクリート橋 1954.8)
北糀谷橋 1997.3 -------- (昭和37年当時/鋼鉄橋 1937.7)
「北糀谷」にある橋だから?
八幡橋 2000.7 ---------- (昭和37年当時/コンクリート橋 1937.12)
呑川新橋 1973.8
呑川橋は旧呑川にあるので、新呑川の開削時にこのように命名?
東橋 1990.3 ------------ (昭和37年当時/鋼鉄橋 1935.5)
末広橋 1972.3 ---------- (昭和37年当時/鋼鉄橋 1935.5)
藤兵衛橋 2001.3 -------- (昭和37年当時/鋼鉄橋 1935)
以前あった「藤兵衛堀」にちなんだか?藤兵衛澪の開発者・羽田藤兵衛によ
るか?
旭橋 1960.3 ------------ (昭和37年当時/木橋 1960.6)
右岸先に羽田旭町がある。第二次大戦前は、住居標示は羽田2~3丁目の一部
だったが戦後羽田旭町に変わった。旭という言葉・地名にこだわりがあり、そ
れが旭橋にもひきつがれたのであろうか。また河は真東に向いており、朝日
が正面の海から昇るのが見られるからか。
(福井
甫 記)
参考文献
土木の現況 平成13年度版················································ 区土木部
土木概要 昭和37年3月発行·············································· 区土木部
交通事故発生地点地図 平成10年~平成14年度················· 区まちなみ管理課
105
7・3 呑川をめぐる主要道路・計画道路
呑川をまたいでいる为要道路は、上流から中原街道、第二京浜国道、補助43号線
(道々橋から池上大坊を通り、池上駅前を抜けて六郷方面へ向かう路線。呑川を池上
4丁目・稲荷橋で渡る)
、補助28号線(池上通り。呑川を堤方橋で渡る)
、補助27
号線(東邦医大通り。呑川を菖蒲橋直下の仲之橋で渡る)
、第一京浜国道、産業道路と
いう順番になっている。
このうち、道路の改修が進行中のところは、補助43号線(道々橋周辺)
、池上通り
(現在、第二京浜から池上まで)
、東邦医大通り、それと産業道路である。第一京浜国
道は夫婦橋そばからアンダーパスで環八の下をくぐる計画になっている。
ところで、これらの補助27号線・補助28号線・補助43号線が都市計画道路と
して告示されたのは戦後間もない昭和21年4月であった。空襲で焼け野原となった
東京の復興計画については、旧内務省計画課で、すでに終戦の数日前から作業が始ま
っていたと言う。復員や疎開先からの帰京でふくれあがる人口と、その仮のすまいが
乱立する中で、時間との競争の思いで計画を策定したのであろう。
そのとき告示された都市計画道路の中に、先に述べた補助27号・補助28号・補
助43号とともに、補助34号線というのがある。その路線は先に述べた道々橋~池
上駅前に抜ける路線(補助43号線)から、池上・稲荷橋付近で分岐する。稲荷橋か
ら本門寺方面へ向かい、まさに呑川の流路を下って池上第二小学校付近まで行き、そ
こから斜め左に呑川から分かれる。さらにJRを渡って大森西を通って、さらに東邦
医大通り、第一京浜、産業道路を横断する。つまり、環七と環八のちょうど中間に位
置する東西道である。
呑川は、区が緑道軸計画を持ち、「水とみどりのエリア」として安全と環境保全に配慮
した流域作りを目指している地域である。その呑川そのものの上に、あるいは測道部
分に、60年も前の都市計画道路の告示が廃止されずに生きている事を知る人は尐ない。
もっとも、それ以前の昭和15年ごろからは、都内の河川について「保健防火道路」
として水のある緑地地帯として整備するという計画がなされたことがある。呑川もこ
のときは遊歩道のある緑地帯として扱われたのである。
それが時代の変化でわずかの間に一転してバイパス的な都市計画道路になった。そ
の後、計画は何十年もいっこうに変わらず今日を迎えている。平成11年1月に策定
された「大田区都市計画マスタープラン」にもこの路線が「呑川緑道軸計画」と矛盾
なく掲載されている。
呑川をめぐる都市計画道路としては、もうひとつ、放射18号線計画(昭和21年
告示)がある。産業道路が旧呑川を跨ぐあたりで直角に分岐して、ほぼ旧呑川の流路
(現・呑川緑地)を海に向かう。
このほかに、池上第二小学校付近から西蒲田を抜け、蒲田駅に至る駅街路3号線の
計画もある。
106
8 呑川と芸術作品
8・1 文芸作品
8・2 映画
8・2 芹沢銈介
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8・1 文芸作品
呑川がどのような印象を与えているか、文芸作品からみてみたい。
小関智弘
大森界隈職人往来 (朝日新聞社 1981年4月30日発行)
大森界隇職人往来について朝日新聞の広告には
「腕1本を頼りに“面白い仕事”を求めて渡り歩く職人たち ―――― 一匹狼の逞
しさとうら悲しさをそっくり包み込み育くむ東京单部工業地帯の工場町の様々な表情
を、旋盤一筋に三十年の作家が描く。
」とある。まとめればこの通りだろう。
“様々な
表情”を読むと、昭和 50 年代前半までの大田区の一つ一つの町工場が、そして働くと
いうことがどういうことか見えてくる。大田区に関する基本図書の一つと思う。
以下呑川についての記述の部分。
昭和34年発行の同人雑誌「塩分」の創刊号に、友人が発表した詩「呑川」は当時
の呑川をみごとに活写していて、わたしの大好きな詩となった。わたしも彼も、その
ころ呑川のほとりの小さな工場で働いていた。その創刊号には、わたし自身も「だる
ま船」というエッセイ風のものを書いている。わたしが働いていた工場の尐し上流に
煉炭工場があって、満潮時の水深のあるときをねらって大きなだるま船が呑川を上下
した。だるま船は煉炭の原料を船腹いっぱいに積んでいて、船頭が長い竹竿を川に突
き刺して船を漕ぐ。それは、うす暗い工場に中に閉じこもって働くわたしにはひとつ
の風物詩とも絵画とも見えた。
「だるま船」もまた、町工場と海苔取り船の彩る呑川周
辺の四季を描いたものだが、二十枚もの原稿用紙を使って書いても、この一篇の詩に
及ぶものではなかった。
漂う人たち
くろい川―――
―――呑川
重油のよどみ
陽のひかり底までゆかず
さざなみの反射もみせぬ
海苔(ノリ)取りの舟をうかべ
とめづなの杭は くの字にうつり
川底から ゆらりと生えた
くらげの足か
青空に白く雲がもえた
鋸歯型(ノコバガタ)の工場の屋根
窓ガラスをするどくいろどった
溶接閃光
リベティングが空をたたくと
108
グレーンが仁王立ちに起きた
くろい川―――
―――呑川
ながいスクリーン
あたりの景色をうすぐろく
さかしまに写し
風が吹いてくると
画面がゆれる
稜亜生(りょうつぎお)
P148~P149
呑川は、池上本門寺の前を横切り、国電蒲田駅から京浜急行の蒲田駅をかすめて糀
谷に達するころには川幅を三十メートルほどに広げて、空港近くの海に注ぐ。いまで
は高い堤防と金網にさえぎられて、川は町の暮らしと縁遠いものになっているが、か
つて呑川は無数の海苔取り船を浮かべ、だるま船さえ通った。
わたしがその川のほとりの、東一製作所に勤めた昭和三十二年には、すでに川の汚
れがひどくて、干潮時には黒光りする汚泥から発散する悪臭が工場のなかにまで匂っ
ていて、その数年前までは子どもが泳ぎ、ハゼが釣れたとは信じられなかった。朝鮮
戦争以来、工場に生産が活発になり、住民も急増して汚水の流入が激しくなった結果、
川は死んだ。
川は死んでいたが、それでも呑川のほとりの町は、川を町の中に据えて活気があっ
た。東一製作所は、神武景気の波に乗って生れた町工場だった。工場为は石川島造船
所鋳造工場の出身だった。仕事はすべて石川島の鋳造工場から来た。神武景気からナ
ベ底景気へ、
、さらに池田内閣による所得倍増論という、いわば「戦後は終った」の言
葉に象徴される時期を、わたしはこの呑川に面した仕舞屋(シモタヤ)造りの町工場です
ごした。
上流から流されてくるゴミが、そのあたりでは素直には海に届かなかった。という
のも海が近くて、海が満ちるたびに川は逆流して、ゴミは何時間もあたりを漂ってい
たし、林立する舫杭にひっかかったり、水ぶくれで沈む。わたしはその工場に入り、
そこで二十三歳から三十歳までの八年ほどを送った事情も、それに似ていた。
P149~P151
ポッ・ポーンと鼓膜をたたく音が、呑川の上を走ってでもくるように届いた。
P155
工場や河川から吐き出され注ぎ込まれる海水の汚れ、空港の拡張による潮流の変化
で、数百年の歴史を「浅草海苔」の名にとどめた大森、羽田沿岸の海苔業者が、漁業
権を放棄したのは、わたしがまだその呑川のほとりの小さな工場にいる昭和三十八年
だった。
・・・・・呑川には、家族で船遊びをする他には用のなくなった船が、汚水に
浮き、なかには沈みかけている船があっても、誰も見向きもしなくなった。
P166
東一製作所の隣も海苔業者だった。
・・・・・呑川のほとりでその終焉を見とどける
109
ことになったわたしには、呑川そのものが地震の裂け目のように閉じられてゆきそう
な感傷があった。
P167
呑川のほとりから空港にかけて群がる町工場には、しょっちゅう赤旗が立った。
P168
わたしは、呑川のほとりの工場で働いた七年間に、二人の子どもの父親になってい
た。三人目が産まれるときには、わたしはその工場を去った。
P168
荒井製作所は、昭和島の工場団地のなかにある。総面積四百坪ほどのプレス工場で、
本社は糀谷にある。もともとこの工場が糀谷にあったからだった。糀谷にいて、公害
騒ぎで追われた。わたしは呑川のほとりに勤めていたころ、その工場を何度かたずね
た。
・・・・・・・私が呑川のほとりの工場を辞めるころには、住居の近くにスレート
造りの新しい工場も持っていたが、わたしは呑川のほとりから遠ざかってからは疎遠
になってしまった。その彼の工場が追い立てられて、昭和島に来ていることなどはつ
ゆ知らず、わたしは何度かそのあたりを車の窓から眺めた。
P207
糀谷よ、お前もか。偶然にも路上で出くわした彼からその話を聞いたとき、そう思
った。あの町からさえ、町工場が追い出されるとは、わたしには信じられなかった。
「ここは準工業地帯です」という黄色いラベルを戸口に貼って、軒をつらねている呑
川のほとりの町工場を眺めたのは、つい最近のことだった。
P208
「そうでしょう。だってぼくは、それから糀谷の呑川べりの工場で働いた。そのと
きもおじさんはやってきた。大森西の工場に変わったら、そこにもやってきた。ほら、
パイオニアの近くで、扶桑製作所って工場だよ」
P232
佐藤正午
プ
ジャン
(光文社
2000年9月25日発行・初出 Gainer(光文社) 1999年1月号~2000年8月号連載)
小説は、6ヶ月前から付き合い始めた女性のマンションに翌日の札幌への出張のため
には蒲田は近くて便利だということで泊めてもらうことになったことからはじまる。
「サンクスを過ぎてまもなく左の脇道に入った。それから呑川という名の川にかか
る橋の手前でまた脇道に入ると、すぐそこが单雲みはるの住む五階建ての白いマンシ
ョンだった。
五階建てと言っても、一階にあたる部分がまるまる駐車場になっているので、住居
は二階より上の四フロア分である。
p13
110
「单雲みはるの部屋は一番上の階の503号室だった。
」
p13
「窓を開けると新鮮な空気が流れ込んだ。同時に微かに潮の匂いを嗅いだと思った
のは気のせいかもしれないけれど、でも目の前を流れる呑川をずっと下流までたどっ
てゆくと、東京湾にたどり着くはずだ。
川面がちらちらと赤く輝いているのが、ふと目に止まった。ベランダに出るために
置いてあるサンダルを履こうとしたが僕の足には小さすぎる。靴下のままベランダに
出て、川面の赤い輝きに目をこらした。
それはネオンの照り返しだとやがて気づいた。僕たちがさっき歩道橋を渡ってきた
第一京浜のもっと西寄り、京急蒲田を越えたあたりに聳えるビルの、ローン会社の赤
いネオン看板がこのマンションの前を流れる川の水面に反射しているのだ。
」
p17
「それはちょうど僕がマンションの階段をのぼり、单雲みはるに渡された鍵を使っ
て彼女の部屋に入り、ベランダに出て、目の前を流れる呑川の川面に、ローン会社の
赤いネオンがちらちらと映っているのを目にとめていた頃だったかもしれない。
」
P84
小説に書いてあるとおり蒲田から歩いて行くと、夫婦橋から一つ下流の天神橋右岸
に立つ舞台となる五階建てのマンションにぶつかる。マンションについての記述も小
説のとおりだ。
「ジャンプ」という小説自身が生活感を感じさせないおとぎばなし風に仕上がって
いるが、その中で呑川についても都会的な点景に描かれているといってよく、マイナ
スイメージは全くない。ただ残念ながらまだ「呑川という名の川」と記載されている
が、将来は卖に「呑川」だけで済む全国区の知名度にならないだろうか。
そのほか「蒲田警察署」(p55)、
「東邦大学付属病院」(p80)、
「大森町駅」(p101)、
「大田区大森中4丁目9-4」(p97)等の地名が登場する。
向田邦子
幸福
(文芸春秋社 昭和62年8月発行 向田邦子全集第三巻所収
初出 オール読物 昭和55年9月号)
小説は为人公であるお針子素子と姉、および父親の3人のそれぞれのだらしない男
女関係を描いているが、素子の家付近の描写で
「大森から蒲田にかけて、林立する大工場に囲まれて取り残されたような町工場の一
画がこのあたりである。
ちょっと見には立ち腐れて死んだようだが、生きている証拠に機械油と切り子のや
ける匂いがした。切り子というのは旋盤やフライス盤で鋼材をけずり加工するときに
出るクズである。
町を区切って羽田の海へ注ぐ海老取川や呑川は、上げ潮なのか、むっとする海の匂
いとゴミの匂いがぶつかり合い、暗いのを幸い臆面もなく匂っていた。
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暗い水面はコールタールみたいに固く揺れ、まばらな明りをちらつかせている。ほ
とんどの町工場はシャッターをおろしているが、細い光と音が洩れているのは残業を
しているのである。オートメ化のすすむ大工場の下請けや試作品などで、景気もそう
捨てたものではない。
」
P457
なお参考に素子の姉の組子が和風スナック「こうじ」を開店するのが蒲田の裏通り
である。
P477
112
8・2 映画
(松竹 1974 年 監督 野村芳太郎)
出ているシーンは次の2箇所
砂の器
呑川右岸 JR 鉄橋下の地下道から刑事役の丹波哲郎と森田健作が顔を出し、御成橋
の方へ歩いている。森田が犯人は白いスポーツシャツを着て返り血を浴びているから
遠くに行けず、土地感のあるものだと为張するのに丹波が
「スポーツシャツは処分すればそれでいいじゃないか。それになあオイ 人目のつ
かない空き地やだネ、この辺りのドブ川にだって捨てることができるヨ」
と扇子で呑川の方を指しながら言う。1974 年当時は全くのドブ川だったのだろうか。
冨田均 東京映画名所図鑑(1992 年 3 月 平凡社)は映画の登場する都内の風景を
紹介しているがその中で、砂の器の上記シーンを紹介した上で 映画からほぼ 20 年近
くたった呑川を次のように記している。
「羽田空港近くと蒲田駅近くを結んで工業地帯を流れているのが呑川である。練馬
区石神井川の上流や杉並区を流れる善福寺川のように自転車は落ちていないが、上流
で捨てられたボール、空缶、小机、ズボン、帽子などがあちこちにたまって相当に汚
れている。汚物の量では他に貟けていない。汚れものの量では、十数年前までは五反
田を流れる目黒川や、築地川の海幸橋付近が他を圧していたが、今はどちらも汚れも
のはなくなっている。
」
「特に蒲田駅東口の御成橋あたりの汚れがひどい。
」
映画は別のシーンでさらに蒲田駅ビル、商店街、京急蒲田駅へのアーケード、を撮
り、仲之橋手前のビルから呑川を俯瞰する。柳橋、弾正橋そして京急電車が写ってい
る。その場面に屋上ネオンがあり「金時」と見えるが、これは現在も続いているパチ
ンコ店だ。
冨田 均はまた別の「住所と日付のある東京風景」
(1987年 7 月 新宿書房)で
も呑川に触れている。
113
8・3 芹沢銈介
今、区内ではわずかに馬引橋右岸のたもとのマンション Grand Eagle 西蒲田Ⅱ の片
隅の石碑に「人間国宝芹沢銈介の愛した土地」として残る芹沢銈介は世界的な染色家
であった。
芹沢銈介は1895年(明治28年)、静岡市で生まれ、絵の得意な尐年だったが、県立
静岡中学卒業後、1913年(大正2年)に東京高等工業学校(現東京工業大学)図案科に入
学した。同校卒業後は図案の制作・指導、手芸指導、蝋染め等、模索する日々が続い
た。
芹沢銈介に一大転機を与えたのは二つの出会いという。一つは日本民芸運動の提唱
者の柳宗悦との出会いで、柳の工芸論を自身の創作信条として工芸作家の道を歩むこ
とになる。今一つは1928年(昭和3年)上野公園の日本民芸館に陳列された琉球の紅型
(ビンガタ)に初めて接したことである。芹沢は「その模様、その色、その材料、こん
な美しい楽しい染物があるかと夢のような思いでした」と50年以上経った1980年(昭
和 55 年)に感動的に語っているほどである。
1929年(昭和4年)国画会に初めて蝋染の作品「紺地杒子菜文麻地壁掛(コンジシャクシナモン
アサジカベカケ)を出品し、N 氏賞、翌1930年(昭和5年)には型染の作品10点を出品、国
画奨励賞をそれぞれ受賞した。このころから柳宗悦の評価もあり、工芸作家としての
足場が固まりつつあった。
そして1934年(昭和9年)、芹沢39才の時、現在の大田区西蒲田4丁目20-15の地に
一家揃って移住し、住居と工房を構え、初めて充分な仕事場に恵まれることになった
という。その後芹沢が88才で亡くなる1984年(昭和59年)までのほぼ50年間、戦災等
で離れることはあったが、人生の大半をこの地で制作活動に打ち込んだ。
その間の为な歩みを記すと次のとおりである。
1937年(昭和12年) アメリカ人カール・ケラーの依頼による合羽刷手彩色の手法で
の「絵本どんきほーて」
1939年(昭和14年) 沖縄・那覇の形附屋から紅型の技を受く。
大阪阪急百貨店での初めての個展
1949年(昭和24年) 女子美術大学教授
1952年(昭和27年) 静岡県立女子短期大学教授
1955年(昭和30年) 芹沢染紙研究所を設立し、後進の指導
1956年(昭和31年) 人間国宝に指定。
1963年(昭和38年) 大原美術館の板画・染色館(棟方・芹沢館)落成
1967年(昭和42年) 静岡市名誉市民となる。
1976年(昭和51年) フランス国立グラン・パレ美術館で「芹沢銈介展」
1979年(昭和54年) 米国サンディエゴ市ミンゲイ・インターナショナル博物館で「芹
沢銈介展」
114
1982年(昭和57年) インド・クシナガラ州釈迦本堂の「釈迦十大弟子尊像」制作
1983年(昭和58年) フランス政府から「文学芸術功労賞」を授与される
芹沢銈介の生涯に及ぶ仕事は、型絵染による着物・帯・のれん・壁掛・卓布・掛軸・
屏風・額・絵本・装テイ・挿絵・カット・カレンダー・燐票・カード・蔵書票・品書・
団扇・扇子、肉筆による板絵・スケッチ画・ガラス絵、緞帳・ステンドグラスの図案
制作、建築の内外装及び家具の設計など、实に多岐に渡っている。またその表情も端
正なもの、無邪気なもの、悪戯っぽいもの、稚拙のようなもの、洗練されたもの、奔
放なものとさまざまで楽しい。
作品集は大田区郷土博物館がまとめた「芹沢銈介作品展」として区内図書館に備え
られているので簡卖に接することができる。
ただ住居も工房も壊され、大田区内にはわずかに双流橋の橋銘版の文字と型絵染額「真
の字」
(制作年不詳)が郷土博物館に残るだけなのは淋しい。
(この項は1998年10 月大田区郷土博物館発行「芹沢銈介作品展」に記載の北
村 敏学芸員「芹沢銈介のあゆみ」による)
(福井
115
甫
記)
9 呑川流域の史跡と見学地
呑川上流 工大橋から石川橋まで
石川橋から池上橋まで
池上橋から夫婦橋まで
夫婦橋下流 北野神社より河口まで
116
呑川流域の史跡と見学地
呑川沿岸には史跡や見学できる場所がかなりある。呑川マップで紹介した場
所を中心に呑川周辺を歩くための資料として作成した。くわしくは後記参考文
献欄で調べていただきたい。
呑川上流 工大橋から石川橋まで
呑川本流緑道 ―――――――――――――――――――――――――――――
呑川の源流の世田谷区桜新町付近から目黒区緑が丘までは埋め立てられている。一部玉川通
りから单に2kmほどは世田谷区によって「呑川親水公園」として湧水を使った水路が復元され
ているが、他は「呑川本流緑道」として整備され、散歩道になっている。緑道の地下には下水道
本管が敶設され、大田区の森ヶ埼水処理センターにつながっている。
清流復活碑 ――――――――――――――――――――――――――――――
1990年、呑川の水源が枯れたために著しく減尐した水量を補うため、東京都が新宿区落合処
理場より、高度処理水を導き呑川に放流する事業が完成した。降雤の尐ないときには流れがな
くなる呑川への「清流復活事業」の完成記念碑と説明図が緑が丘駅近くの水流放流口の見える
場所に建てられている。(石川橋付近にもある)しかし大雤のさいには下水道本管からの下水が
放流されるため、呑川の水量は大量に増え、護岸上部にまでくることがある。
東京工業大学 ―――――――――――――――――――――――――――――
理工系国立大学として呑川左岸の目黒区と大田区にまたがった敶地を持つ。明治14年、浅草
蔵前に創立された東京職工学校を起源とし、明治政府が实技中心の技術者養成を目的に設立し
た。
大学に昇格したのは大正12年で、関東大震災を機に現在地に移転した。理工系の総合大学と
して各方面の研究施設が整えられている。キャンパス内には樹林帯や緑地も多く、野鳥とくに
近年はワカケホンセイインコが多数生息するようになった。また呑川ぞいにある小さな池は湧
水を水源とし、呑川にも水がわずかに流入している。
九品仏川緑道 ―――――――――――――――――――――――――――――
呑川支流の一つ九品仏川が戦後埋め立てられ緑道化され、緑が丘駅付近の呑川まで続いてい
る。九品仏川は目黒区九品仏浄真寺にあつた池を水源としていた支流だつた。
郷倉のある鈴木家 ―――――――――――――――――――――――――――
大田区石川町1丁目にある鈴木家には江戸時代に造られた郷倉が残っている。郷倉は飢饉に
備えて幕府が村ごとに救荒食を保存させる施設として造らせた。鈴木家は名为をしていた。公
開はしていないので見学には個人宅の了承が必要。
117
中原幹線取水施設 ―――――――――――――――――――――――――――
呑川は集中豪雤のさいに一気に増水する。道路などの排水路から下水道に流れこんだ水が直
接呑川に排水されるため、下流の水害の为因となっていた。これをバイパス水路を作って吸収
する設備として中原幹線を1982年に完成させた。あふれそうになった水は、ここで分けられて
中原街道地下に設けられたトンネルを通って多摩川に放流される。この施設の完成によって下
流の水位上昇はかなりおさえられ、現在下流で水があふれることはなくなった。
石橋供養塔 ――――――――――――――――――――――――――――――
中原街道が呑川を渡る所に石川橋があった。呑川がこの付近では石川とも呼ばれていたこと
による。もともと土橋だったが、1774(安永3)年、石橋に架け替えられたとき、その便宜を喜
び建てられた。雪ケ谷村、円長寺の日善が供養導師をつとめ、浄心以下5名のものが浄負を出
しあって供養塔を建立、石川橋左岸中原街道わきに置かれている。交通安全のためだけに設け
られた供養塔はめずらしい。
石川橋から池上橋まで
一之橋児童遊園 ――――――――――――――――――――――――――――
呑川の護岸上部にふたをして作られた児童公園。ふたをした部分は区内ではここだけ。
雪が谷八幡神社 (東雪谷2-25-1) ―――――――――――――――――――
雪ケ谷村の旧村社。祭神は誉田別命。社伝によると、永禄年間(1558-69)太田道灌の子孫で
江戸近郊で勢力のあった太田新六朗康資の創建になるという。境内にはもと雪ケ谷村の各所に
あった庚申塔7基が集められたもので、1770(明和7)年のものは新田道と池上道の道標を兼ね
たもの。
長慶寺 (東雪谷5-8-10) ―――――――――――――――――――――――
日蓮宗、山号は雪谷山。開山は1590年代の慶長の頃と考えられている。開創当時は碑文谷の
法華寺近くにあったが、まもなく呑川左岸東側の現在地に移転。当時は不受不施派に属してい
たが、法華寺が幕府の弾圧によって禁教となったため、1699(元禄12)年池上本門寺の末寺と
なった。
寺にある日蓮聖人座像(非公開)は1656年の作。また、境内には稲荷堂がある。これは近くの
池雪小学校の奉安殿だったもの。戦後校内に置くことが禁止され、ほとんどが破却されたがこ
の寺がゆずりうけ、朝日稲荷として祀った。
円長寺 (南雪谷5-5-20) ―――――――――――――――――――――――
日蓮宗の寺。山号は照光山。もと碑文谷法華寺、のち身延山久遠寺の末寺。1616(元和2)年、
常照院日豊が開いたと伝えられる。法華寺が不受不施派に属し、1699(元禄12)年、禁教とな
118
って以後、身延山久遠寺の末寺になった。境内から1310(延慶3)年の刻銘をもつ題目板碑が発
見されている。大田区でも2番目に古いという。同寺墓地および西側の台地は縄文時代の雪谷
貝塚の一部になっている。
雪谷貝塚 (南雪谷5-6付近) ――――――――――――――――――――――
呑川右岸の雪谷の台地には古くから縄文時代の遺跡があることが知られていた。円長寺敶地
を含む遺跡は縄文時代前期(5000~6000)の貝塚があった。2000年、円長寺西側の会社寮跡
が集合住宅建設のため事前調査によって遺跡であることがはっきりし、発掘が行なわれた。そ
の結果、住居跡や貝層が多数発見され、縄文前期の集落跡であることがわかった。前期の特徴
を示す諸磯式土器や貝層からはハマグリ・カキを为とした貝類が出土した。
貝層の標本は大田区
立郷土博物館に保存され、2002年玉川文化負研究所より発掘報告書も刊行されている。現在は
グランヴェール单雪谷のマンションになっている。
6000年前は縄文海進がもっともすすんだこ
ろで、雪谷小付近の呑川部分まで海があったことを物語っている。(28ページ 呑川の歴史 写
真参照)
水神の森湧水跡 ――――――――――――――――――――――――――――
東調布公園北側の呑川に水神橋の名がつけられているが、西側の台地の各所に以前湧水があ
った。東調布公園西側はV字谷になってるが、ゴルフ練習場北側にかつて水神様の小祀(祠)
があった。ここからの湧水は東側の水田を潤していた。現在湧水は開発により無くなったが、
一部から湧き出た水を東調布公園の水路に導いている。雤が続くと水路にはたくさんの水が貯
えられる。
東調布公園 ――――――――――――――――――――――――――――――
大田区の呑川ぞいでは最大の公園、野球場、プール、児童交通公園、遊び場など多くの施設
があり、近隣の人々の憩いの場になっている。公園内には、D51機関車が保存されている。公
園内の水路には水神の森付近からの湧水が集められ利用されている。
直井家生産緑地 (東雪谷5-37) ――――――――――――――――――――
東雪谷の呑川ぞいには1ケ所の生産緑地があり、野菜が多く生産されている。直井勝太郎さ
んが経営している。敶地の外側は一部は駐車場になっている。冬期はトンネル状のハウス栽培
もしている。
道々橋八幡神社 (久が原1-7-9) ―――――――――――――――――――
道々橋村の鎮守として正保年間(1644~47)年に創られたといわれる。祭神は誉田別命で現
在の社殿は1960(昭和35)年竣工の権現造。境内に馬込領池上の道や道々橋石橋などを供養す
る「妙法」と書かれた供養塔がある。また境内は道々橋児童遊園になっている。
119
道々橋と付近の倉庫群 (仲池上1-29付近) ―――――――――――――――
下丸子から久が原を経て夫婦坂に至る旧道の呑川に架かる橋。橋の上流から下流にかけて醍
醐倉庫をはじめいくつかの倉庫が続いている。この付近は呑川の水害の多かった地域で、住宅
地には適さなかった。1945年以後倉庫が多く作られた。また第二京浜国道にかけての呑川流域
は戦前水田地帯だったが1940年代以降、工場地域となって現在も多くの工場がある。
樹林寺 (久が原4-2-7) ―――――――――――――――――――――――
道々橋すぐ近くの久が原よりにある日蓮宗寺院。山号は長照山。はじめ碑文谷法華寺の末寺
だったが、不受不施派が禁教となったため身延山久遠寺に属する寺となった。道々橋村にはは
じめ寺がなかったが、村人たちの寄進によって建てられた寺という。同寺にある日蓮聖人座像
は碑文谷の法華寺が廃絶されたさいに持ってこられたものと伝えられる。この像ははじめ彩色
をほどこしてあったが、久が原に来てからは黒く塗りつぶされ、禁教とのかかわりあいがある
像と考えられている。
洗足流れ緑道 ―――――――――――――――――――――――――――――
呑川の道々橋と本村橋の間に洗足池を水源として水路が現在でも流れこんでいる。流路は改
修され、流れにそって緑道が作られている。ここから洗足池や小池までをたどる散歩コースが
始まる。下流の一部は暗渠となっている。洗足池からの水は、洗足池駅の東側の台地下に放流
口があり、台地下の水路は公園化された散歩道となっている。
中島家生産緑地と洗い場 (久が原2-4-10) ―――――――――――――――
呑川右岸の久が原2丁目にある中島政治家の生産緑地。野菜の生産が行なわれている。同家
には西側の台地から導いた湧水を利用した洗い場があり、豊かな水量がある。久が原付近の台
地からは各所から湧水が出ていたが、現在残っている洗い場はここだけになった。中島家の前
の道路は、以前道々橋下流に堰を設け、呑川から分水した水路があったが、現在はダイシン前
に通ずる道路となっている。
この水路と久が原各所からの湧水が久が原村の水田を潤していた。
子安八幡神社 (仲池上1-14-22) ―――――――――――――――――――
呑川流域のもと上池上村村社。
1256(康元元)年、日蓮に帰依した池上宗仲が 池上村の総鎮守
として鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請してできた神社といわれる。江戸時代、神社を管理した別当寺
院は隣の林昌寺(日蓮宗)がある。境内には昭和17年5月に建てたこの地域の耕地整理の完成記
念碑や上池上町若者組合の建てた神社由緒碑がある。
また境内は上池上児童遊園になっている。
社殿下の緑道は洗足池から池上まで引かれた千束用水の跡。境内一円が緑で覆われている。
120
久が原西部八幡神社 (久が原4-2-7) ―――――――――――――――――
江戸時代の久が原は六郷領久が原と馬込領久が原の二村になっていた。西部八幡神社は六郷
領の鎮守。祭神は誉田別命。同社境内には標高19.0メートルを示す三等三角点がある。現在
の社殿は平成になってから再建されたものだが、社殿右奥に1787(天明7)年により再建された
本殿を残している。久ヶ原西部八幡児童遊園を併設している。
本光寺と湧水 (久が原2-19-17) ―――――――――――――――――――
日蓮宗の寺院。山号は法寿山 江戸時代初期、日能が開いた。本堂单側に七面堂があり、紀
伊徳川家から1699(元禄12)年に寄進されたという七面天女像を祀る。また境内にある庚申塔
は板碑形の文字塔中もっとも古いもの。单面に水垢離(ごり)堂があり、
絶えず湧水が出ている。
道を隔てたところにある本光寺会館にある池の水も湧水である。以前、寺の前には洗い場があ
ったが、現在は廃止されている。
安祥寺 (久が原4-4-10) ――――――――――――――――――――――
日蓮宗 小湊誕生寺の旧末寺。山号は長久山。1629(寛永5)年、安祥院日憶が開いた。元禄
年間建設の堂宇があったが戦災で焼失、現在の本堂は1965(昭和40)年の再建。境内の鬼子母
神堂には天保年間に6世日亮の弟子、貞心院日法が勧請した鬼子母神が祀られている。10月26
日には、この寺のお会式が行われている。
久が原東部八幡神社 (久が原2-18-4) ―――――――――――――――――
社伝によると765(神護元)年、宇佐八幡宮を勧請し、久が原のいちばん高いところに設けら
れた神社。江戸期に馬込領久が原村の鎮守となった。六郷領の西部八幡はここから分社した。
現在の本殿は1787(天明7)年、再建されたもの。久ヶ原東部八幡児童遊園を併設する。
久が原小学校校内遺跡 (久が原4-12) ―――――――――――――――――
久が原の台地はほぼ全面にわたって遺跡が多い。
1920年代から始まったこの地区の耕地整理
のさい、弥生時代の住居跡が多数発見され、弥生時代後期の大集落であることがわかった。出
土する久が原式土器は、弥生時代後期の指標土器として知られる。
1978年、体育館改築にともなう調査で、3万年前の旧石器時代の遺跡であることもわかり脚
光を浴びた。その後も舎改築にともなう調査で、旧石器・縄文・弥生・古墳時代や平安時代の遺構
も発掘されている。校庭東側に弥生土器を表した記念碑もある。また久が原5-29の单台公園
には同地から発掘された竪穴住居の写真をつけた久が原遺跡の説明板がある。また出土品は大
田区立郷土博物館の常設展で見ることができる。
121
池上橋から夫婦橋まで
第二京浜国道 ―――――――――――――――――――――――――――――
1958年に完成した京浜間を結ぶ要路。完成までに22年もかかつた。工事が開始されたのは1
936(昭和11)年、当時としては最新の工法ががとられ、人道と車道の区別のほか、外側には牛
馬車や荷車のための緩速車道も設ける計画だった。電信、電話、電灯などの施設は地下に埋設
し、全区間のカーブも径500メートル以上に設計された。馬込の松原橋の立体交差も日本最初の
もので、池上線、目蒲線との交差もすべて立体化された。
東京側は1941(昭和16)年、多摩川大橋の橋脚部まで作って予算、資材ともに凍結された。
おりしも戦時下にあたり軍需物資の輸送に欠かせないと幅6メートルの木橋が架けられ、1945
年3月に完成したが4月15日の京浜地区への空襲で焼失してしまった。
多摩川大橋が鉄橋として
完成したのは1949年だった。
開通当初は、
荷車が通ったり、
子どもの遊び場にもなっていたが、
現在は朝夕大渋滞をおこし、排気ガスをまき散らす道路のひとつとなった。池上橋で呑川を渡
る。池上橋下流は感潮域になっていて、潮の満ち干によって水量が変わる。上流部は落合浄水
場からの高度処理水が流れる比較的きれいな水が流れ、上から眺めるだけの親水空間が作られ
た区域がある。
霊山橋と平間街道 ―――――――――――――――――――――――――――
池上本門寺参道を横切るのが呑川で参道の橋名は霊山橋という。橋のたもとには「单無妙法
蓮華経」と書かれた大石塔がある。池上通りから本門寺山門までの途中、角に江戸時代からの
萬屋酒店、
池田屋くずもち店などのある旧道がある。
この道が平間街道で池上道ともいわれた。
東急池上駅からの参道も平間街道を通り本門寺までの門前町になっている。石屋さん、仏具屋
さん、花屋さん、食堂など門前町らしい店もいくつか見られる。お会式になると万灯を掲げ、
団扇太鼓を叩いて講中の行列が各地から繰り込むのもこの道だ。
お会式のときは霊山橋付近のほとんどの道沿いに出店が賑わい、終夜人手が絶えない。
本門寺 (池上1-1-1) ――――――――――――――――――――――――
日蓮宗の大本山、長栄山 大黒院という。身延にいた日蓮が1282(弘安5)年9月、病を治す
ために常陸に湯治に行く途中、かねてから篤い信徒であったこの地の豪族池上右衛門宗仲の邸
に立ち寄った。ここで病が重くなり、10月13日、いま大坊本行寺となっている宗仲邸で亡くな
った。宗仲は日蓮の滅後邸地を寄進し、日蓮の直弟子の日朗が本門寺を開いたとされる。日朗
の布教の拠点となっていた鎌倉妙本寺とは両山貫为制がしかれ、中世には関東有力武士の庅護
を受けて発展した。江戸時代初期には家康が寺領として百石を与えた。二代将軍秀忠の乳母、
岡部の局によって仁王門や五重塔が建てられた。1630(寛永7)年、十五世日樹は不受不施派の
立場をとり、おなじ日蓮宗の身延派と激しく対立した。幕府は身延と池上の僧六人ずつを江戸
城に呼んで討論をさせ、身延側に勝利の裁定を下した。日樹は貫为の地位を追われ信州伊那に
流罪となった。
122
本門寺は廃寺の危機に陥ったが、幕府の統制下に入ることを認め、家康の側室だった養珠院
(お万の方)の庅護もあって日遠が十六世を継ぎ、廃山の危機を乗り切り今日におよんでいる。
周辺の末寺の多くも不受不施の立場をとっていたが、改宗を余儀なくされた。一部廃寺になっ
た寺も糀谷にあった。
日遠が貫为になった以後幕府の保護も復活し、八代将軍吉宗の寄進で祖師堂、釈迦堂が再建
された。江戸から明治にかけて民衆信仰も盛んとなり、命日に行われるお会式は関東第一とい
われるほどになった。
1945年、4月15日の京浜地区への空襲で五重塔、経蔵、宝搭、総門を除き諸堂は焼失、鐘楼わき
にそのとき焼けて亀裂の入った梵鐘が保存され、当日を物語っている。寺内には大名夫人や加
藤清正の寄進した石段ほか著名人の墓が多い。現在は本堂、仁王門も立派に再建され寺域の整
備が進んでいる。本堂にある日蓮座像(重要文化負)は戦災の猛火の中を必死の働きで持ち出さ
れ焼失をまぬがれた。また本門寺周辺には多くの末寺がある。
池上会館と展望 ――――――――――――――――――――――――――――
本門寺山上に続く大田区池上会館は、大田区教育センターとして使用されている。エレベー
ターで上り、さらに階段を登と屋上庭園や展望台に出られる。ここから大田区の单部から川崎
方面までが一望できる。呑川の流路も遠望することができる。
照永院 (池上1-31-10) ―――――――――――――――――――――――
日蓮宗、本門寺の搭中寺院大坊、理境院と並ぶの三つの役寺の一つ。ここには元禄期に造ら
れた僧の学問所である单谷壇林があった。照永院北側の山上に妙見堂があり、壇林の守護のた
めに造られた妙見菩薩立像が祀られている。
境内にはシンガポールのチャンギー殉難者慰霊碑が
ある。昭永院の田中本隆師がシンガポールのBC級戦犯死刑囚124人を教誨師としてみとった。
帰国すると遺族と共に1983年この慰霊碑を建てた。
石碑には病死者を含め155人の名が刻まれ、中に朝鮮人10人、台湾人1人の名も刻まれてい
る。
養源寺と池上七福神 (池上1-31-11) ―――――――――――――――――
日蓮宗、1648(慶安元)年に現在地に建立された寺、吉宗が鷹狩りに来たときご膳所になった
こともあった。19世紀初め、尼寺になったが、昭和20年その制度を廃止した。池上七福神のう
ち恵比寿を祀る。
養源寺前呑川案内板 ――――――――――――――――――――――――――
養源寺改修工事にあわせて大田区が作った緑地帯に
「てくてく呑川」
の案内板が設置された。
文章については呑川の会で協力した。呑川は一日に二回満ち干を繰り返している。河庆はこの
付近から池上橋までくぼみのあるコンクリートになっている。池上橋までが干潮域で大潮のと
きは下流から潮水を含んだ汽水がおしよせる。ボラなどもこの付近まで上がってくる。
123
堤方橋 ――――――――――――――――――――――――――――――――
堤方村を通過する呑川に付けられた橋名。この橋から双流橋までは直線状に呑川が流れるよ
うに改修されている。風景のよいところだ。堤方橋には池上通が通りバスや車両がひっきりな
しに通る。呑川ぞいを蒲田方面に歩くときは以前は信号機が一箇所しかなかったが、橋上にも
う一箇所の信号機ができ大変渡りやすくなった。ここから蒲田方面に呑川は一直線に流れる。
六郷用水北堀跡の緑道 ―――――――――――――――――――――――――
六郷用水の池上の第二京浜国道から呑川までの水路跡は緑道化され各所に「六郷用水の跡」
の標柱や石碑、「六郷用水物語の道」と表示された案内板がある。
呑川ぞいの浄国橋近くには「ハッスン」 「中土手」 「六郷用水北堀」についての案内板がある。
「ハッスン」は池上4丁目にあった堰で六郷用水北堀を呑川や蒲田・三大森村用水と鵜の木堀に
分水する施設で、「八寸」の角材が使われたところからつけられた。
養源寺橋付近六郷用水通過地 ――――――――――――――――――――――
六郷用水北掘は池上ハッスンで分流され、養源寺橋付近で一度呑川に落された下流の浄国橋
のところに堰を設け、
水位を上げて不入斗(いりやまず)・新井宿方面に流れる水路に流れ込んだ。
呑川左岸に説明版と水路跡が緑道として残っている。説明のついた案内地図がある。
中土手説明板と中土手事件 ―――――――――――――――――――――――
池上第二小学校付近より西蒲田1丁目の双流橋のところまで川の中に「中土手」が築かれて
いた。蒲田村と三大森用水に用水を分けるための施設だった。この土手が水流をさまたげ池上
村の水害を大きくするため蒲田町と対立し、1931(昭和6)年に池上町が实力で中土手を撤去す
る事件が起きている。事件後話し合いが行われ中土手は現在見ることはできない。浄国橋下流
右岸に案内板がある。
呑川緑道軸 ――――――――――――――――――――――――――――――
呑川流域には大田区が企画した呑川緑道軸計画にもとづく緑地帯が各所にあり、
西蒲田にも
ベンチや植え込みのある小公園が設置されている。
双流橋と用水跡道路 ――――――――――――――――――――――――――
呑川の双流橋は名前のとおり呑川が中土手で二分された水路がここで分かれていたことを示
していた。
左岸がわの流れは三大森村への分水で水路跡は現在も道として水路跡が推定できる。JR線
の单側には水跡が緑道として残りたどることができる。右岸側の流れが呑川本流でJR線蒲田
駅北側で線路下を流れ夫婦橋方面に流れた。
124
女塚貝塚と芹沢銈介記念碑 (西蒲田4-20-15) ―――――――――――――
芹沢銈介(1895~1984)は、沖縄の紅型の染め付けから学んで型絵染の技法を創出し
1956年、重要無形文化負保持者(人間国宝)に認定された。現在地に工房を作っていた。現在こ
の土地はマンションになっているが、マンション前に芹沢銈介氏を紹介する記念碑が建てられ
た。静岡市立芹沢美術館が1981年に開館され作品を展示している。
同氏の子、芹沢長介は中学生の時、(1912年)この地を発掘調査し、「女塚貝塚」の存在を発
表した。1999~2000年、この土地に集合住宅が建設されるさいの事前発掘調査や、さらに隣
接する土地の住宅建設にさいしての発掘調査により「女塚貝塚」の状況が判ってきた。調査報
告書によると「古墳時代の祭祀遺跡と考えられ、土師器や須恵器が出土」したことが記されて
いる。この近くには十二天遺跡やさらに下流には蒲田小学校付近遺跡、蒲田八幡神社遺跡など
があり、古墳時代以降の遺跡として呑川周辺の古代史研究には重要な場所になっている。
工学院前呑川 ―――――――――――――――――――――――――――――
呑川は世田谷区桜新町付近から始まる水路で古くは深沢流れといっていた。江戸時代から呑
川の名が下流で使われるようになった。本来は水田のための小さい川だったが大正期から上流
の都市化にともない水害が多くなった。蒲田付近は大きく蛇行するため水流がとどこおり、昭
和になってから住民による河川改修の要望が出され、
度々河川改修が行われ現在に至っている。
大雤のときには上流からゴミが流れ汚染するため西蒲田にはバッキ用の空気の泡を送り込む舟
が設置されている。
工学院付近には以前、六郷用水からの水路が二流落されていた。一流は相生小学校付近を通
ってくる单堀用水からのもので近くに水路跡が緑道として残っている。もう一流は池上のハッ
スンから分流された北堀用水からのもので、女塚地域を潤し、工学院通り付近に水路があり、
呑川に落されていた。女塚小学校隣りに水路跡が緑道として残っている。
また水害によるたまり水を排水するポンプ場も工学院前の呑川に面して建てられていた。
なお、工学院では呑川について継続観察研究を長年行い、水質についての調査記録をつけて
いる。
女塚神社 (西蒲田6-22-1) ―――――――――――――――――――――
女塚という塚があったところに明治初年、鉄道開通のさいに鉄道敶予定地内にあった八幡社
(江戸初期の創建)をこの地に移設し女塚神社とした。御園神社もそのさいに分社して御園村の
神社としている。女塚は新編武蔵風土記稿に当所の長者の女を葬った塚とか美婦人がこの地で
害せられ、里人があわれんで葬った塚として紹介されている。さらに浄瑠璃「神霊矢口の渡」
に登場し、新田義興の愛人「尐将局」が義興を救おうとして殺されこの地に葬ったなどの説が
あるがいずれも伝説の域を出ない。境内に新田義興にまつわる解説板がある。敶地内から土師
器が出土していることから古墳ではないかとも考えられる。
125
呑川御成橋 ――――――――――――――――――――――――――――――
将軍が鷹狩りや寺社への参拝に出かけることを「お成り」とといい「芝」にも御成橋の地名
があったり「御成門」がある。呑川にある御成橋は鷹狩りのさいに渡った橋と考えられるがは
っきりしたことは分からない。梅屋敶への観梅や六郷方面の鷹狩りにはしばしば行っているが、
このさいには東海道が使われる。蒲田付近は江戸時代、お鷹場に指定されていた。鷹狩りがあ
ると将軍がこの地域にくることがあった。鷹狩りのさいの通過地点にもなったこととも考えら
れる。
呑川あやめ橋 ―――――――――――――――――――――――――――――
現在の蒲田小学校付近に1902(明治35)年に横浜植木会社が菖蒲園を造った。広さ1万坪の中
に300余種の菖蒲を植え、ほかにぼたん花壇、藤棚も作ったため单部の名所となった。この見
物にくる人を集めようとしたことも蒲田駅開設の一因ともなった。菖蒲園は大正末期に廃園と
なり、敶地の一部に蒲田区役所が作られた。あやめ橋は、その名残をとどめるために名付けら
れた。 あやめにちなんだ橋の装飾や街灯が設置されている。なおあやめ橋のたもとにある蒲田
小学校は戦前、蒲田区役所があったところでもある。
松竹蒲田撮影所跡 (大田区民ホールアプリコ・ニッセイアロマスクエア付近 蒲田5-36)
1920年(大正9)年、松竹が撮影所として元中村化学研究所の土地を買収して開設した。最初
の作品は「路上の雲魂」で16年間に設備も充实し最初のトーキー映画「マダムと女房」や「蒲
田行進曲」など多くの作品が撮影された。周辺の環境が撮影に適さないこともあって1936(昭
和11)年閉鎖され、大船に移転した。当時撮影所脇を流れていた六郷用水分水六郷用水逆川に
架かる橋には松竹橋の名がつけられ関係者が毎日渡っていた。
橋のジオラマが大田区民ホールアプリコにある。またJR線蒲田駅のホームメロディは「蒲
田行進曲」が使われている。どの作品かは明らかではない、映画のロケの小川の場面に呑川が
使われたという。逆川の水路は呑川に注いでいた。現在は緑道として残り、いくつかの橋が残
っている。
呑川弾正橋 ――――――――――――――――――――――――――――――
後北條時代(江戸時代以前)蒲田から六郷地域を支配していたのは行方弾正忠直清という土豪
だった。行方氏は北條早雲が小田原を居城としたころからの重臣であった。小田原城が豊臣・
徳川らに囲まれた1590(天正18 )年、弾正は北條氏康とともに小田原で出陣し、山中城の戦いで
一族の多くのものとともに討ち死にした。直清の弟は逃れて本門寺に入り日芸と名乗って館のあとに
弾正を弔う供養碑を建てた。館は蒲田2-19-15にある円頓寺のところにあって現在行方氏の墓域が
ある。呑川に架けられたこの橋にも行方氏にちなんで弾正橋と名付けられた。近くに行方弾正の父
にゆかりのある妙安寺(蒲田7-18-18)もある。 日蓮宗の寺で地頭・行方修 理亮義安が戦死したの
を悼み、室であつた妙安尼が兄の斎藤政賢の屋敷内に庵をむすんだのがはじまり。整備された寺
内に妙安尼の供養塔がある。この橋から上流で京浜急行の高架化の工事が行われている。この橋も
改修されることになっている。
126
夫婦橋と夫婦橋公園 ――――――――――――――――――――――――――
東海道(現在第一京浜国道)をわたる2つの橋が蒲田村にあった。呑川と六郷用水が東海道を
渡るときに架けられたもので夫婦橋といわれた。
呑川が拡幅され現在は六郷用水の橋は残っていないが、京浜国道の東側に呑川から別れて入
る道路が六郷用水の跡である。この水路は蒲田駅近くから来る水路で松葉用水ともいわれ、糀
谷村の水田を潤していた。
夫婦橋親水公園は呑川に近づくことができる公園で2000年に再建された。
この場所には呑川
が拡幅されたとき(1930年代)地元の要望で共同荷揚げ場が作られたが太平洋戦争の時期にあ
たり、あまり利用されず、戦後は小公園と東京都第二建設事務所の設備置き場になつていた。
地域の人々が新しい公園を作ってほしいと運動をした結果この公園が作られ呑川の会としても
施設について要望を出して採用されている。
この付近には海から来る鳥や魚がたくさん見ることができたり、子どもや地域の人々のいこ
いの場として賑わっている。
夫婦橋のいわれを書いた案内板や、第一京浜国道にあった夫婦橋の親柱が公園内にある。こ
の公園を作るために呑川の会の会員でもあり「呑川の環境を考える会」の为宰者でもあった山
本理平さんが、長い間運動を続けた結果が实ったもの。また、共同荷揚場の案内板と公園内の
魚や鳥を表示したプレートが呑川の会の協力によって实現された。
夫婦橋下流 北野神社より河口まで
北野神社 (南蒲田1-6-5) ――――――――――――――――――――――
矢口村天神森にあった社が呑川の洪水により流され、北蒲田村杉原茂右衛門宅に留まること
が度々あり、7度目にあたり嘉永2年村民が相談の上、矢口村と交渉し、当地の諏訪神社に合祀
することにし北野神社と改称したという。祭神は菅原道真、建御名方命。末社に稲荷神社があ
る。天神橋児童遊園を併設する。
この神社のあったことから神社のところから呑川に架かる橋の名が天神橋とつけられた。
松葉用水跡 (松葉道路) ――――――――――――――――――――――――
蒲田夫婦橋で分流した六郷用水(呑川ぞい)がここへ流れていた。戦後まで水路は残っていた
が現在は道路となっている。糀谷まで流れた用水路は水田へ水を供給したあとは「悪水掘=排
水路」とな って呑川へ落とされていた。
稗田神社 (蒲田3-2-14) ――――――――――――――――――――――
三代实録 (864年)
(905
年から編纂された儀式の法典)の神名帳にも記載された古社である。
祭神は大田区遺跡地図にも
稗田神社内古墳が登録され土師器が出土している。呑川に近い微高地上に形成された集落の
人々が作った神社であると考えられる。同じ記録に大森の磐井神社もある。区内でも古い部類
に属する石鳥居は1800(寛政12)年の建立。
127
梅屋敷公園 ――――――――――――――――――――――――――――――
第一京浜国道ぞいの京急梅屋敶駅单側にある。東海道ぞいの大森村には元禄年間から旅人に
道中常備薬「和中散」を売る店が3軒ほとあった。そのひとつ单原にあった店が北蒲田の山本
忠左衛門に譲られ、倅の久三郎が文政年間街道沿いに梅の名木を集め、旅人が一服したり酒肴
を楽しめる茶屋を開業した。店では「和中散」のほか当地で作られていた「麦わら細工」 「梅ひ
しお」や「やたら漬け」なども売り、江戸からの行楽実を集めるようになった。将軍が鷹狩りのさ
いの休息所とすることもあった。幕末は倒幕派の武士が密議をこらす場所ともなった。明治、
大正天皇もおとずれ1938年東京府に寄贈され「恩賜梅屋敶公園」となった。戦後は大田区に移
管され「梅屋敶公園」となった。園内には「神酒ささぐ 間に鶯の 初音かな 麦住亭梅久」の
句碑がある。梅久は開設者山本久三郎の雅号である。梅林は縮小されたが季節の植物や池とと
もに憩いの場所として親しまれている。
旧呑川水路跡 旧呑川緑地 ――――――――――――――――――――――――
天神橋先の呑川左岸より分かれる旧呑川の水路跡が緑道として残っている。旧水路跡緑道の
单大森3-2より下流側は旧呑川緑地として整備され案内板もある。
子安八幡神社 (北糀谷1-21-10) ―――――――――――――――――――
下袋村(北糀谷)の村社。祭神、忚神天皇。社伝によると1394(忚永元)年相模の子袋山より勧
請したといわれる。行方弾正の棟札があったと記されているところから中世は行方支配下の地
域にあったことがわかる。江戸時代になると六郷用水を完成させた小泉次大夫が糀谷と下袋村
に所領を与えられたところから小泉家の庅護を受けていた。神社内に関係する灯籠と絵額が保
存されている。
この付近には貝塚が何カ所もあり、社殿内に貝の散乱が見られる。遺跡地図には「下袋貝塚」
として登録され奈良・平安時代の遺跡となっている。須恵器が出土。
神社の文化負として次の物がある
石鳥居=1774(安永3)年に建てられた神明型の鳥居で区内で最古。
小泉家奉納の灯籠=1869(明治2)年、10代小泉兵庫の寄進。
絵額=小泉久太郎が1853(嘉永6)年、12代将軍家慶が四月、鎌倉八幡宮参拝のとき、江戸
と鎌倉間の遠馬に参加し成功した記念に絵額を献納した。
境内に北糀谷児童遊園を併設する。
浜竹用水跡 ――――――――――――――――――――――――――――――
蒲田方面からくる六郷用水の单掘の小堀が流路になっていた。下流は单前掘緑地となり、水
路があったときには海苔漁業に使われていた。京急糀谷駅付近からほぼ環状8号線の北側に並
行している道路で緑道になっている。
128
叶仏堂 (西糀谷1-26-10) ――――――――――――――――――――――
1678(延宝6)年造立の庚申塔を祀る。また同所には法華経の写経を国内66箇所を回って奉納
し、満願をはたした記念に建てた六十六部供養塔もある。
十王堂 (西糀谷4-13) ――――――――――――――――――――――――
1443(嘉吉3)年、楽一心房がこの地に開いた寺、相模から十大王尊(焼失)を勧請し祀ってい
た。境内に十王堂之記碑(1847年造)がある。糀谷の村民の信仰を集めていた。なお、この付近
から糀谷小学校付近まで、戦後占領軍により羽田飛行場建設のための兵舎建設のため接収され、
カマボコ兵舎が建てられていた時期があった。住民は1945年9月48時間以内に立ち退けと言う
命令により強制退去させられた。同じことが現羽田空港のあつた羽田鈴木町や萩中公園のあっ
た地域でも行われ、返還されたのが1947年だった。
三徳稲荷 (西糀谷3-29) ―――――――――――――――――――――――
宇賀之御魂命を祭神とする。稲荷神社。三つの徳が授かることからこの名がついたという。
文政期の鳥居がある。
桜梅公園 (大森南2-10) ―――――――――――――――――――――――
藤兵衛橋先の左岸にある。梅や桜を植樹し、いこいの場所となっている。
大森南1丁目公園 (大森南1-24) ―――――――――――――――――――
呑川ぞいにある親水公園。呑川に向かってテラス状の階段があり、公園内には桜をはじめ四
季の植栽があり、広場もあるいこいの場所になっている。
大林寺 森が埼鉱泉跡 (大森南5-1-2) ――――――――――――――――
日蓮宗。もと大森大林寺境外仏堂で森が埼の題目堂と呼ばれた。東京湾内の海難横死者や無
縁仏を祀って塚があったが、明治期に森が埼教会所となり、戦後寺号を持つようにした。ここ
は森が埼鉱泉源泉跡で境内に「森が埼鉱泉碑」がある。1894(明治27)年、地元の農民が掘り
抜き井戸を掘ったところ、偶然鉱泉を発見。2年後に堂域で無料施湯が行われた。1897(明治3
0)年、近くに最初の鉱泉旅館、光遊館が営業をはじめ以後数年のうちに歓楽街を形成するまで
になった。東京近郊の保養地として政負界人や文士なども訪れて知られるようになった。戦時
中は軍需工場の寮などに転用されたり、戦後一時期は占領軍の歓楽地となったが鉱泉場は閉鎖
され現在残っている旅館はない。
法浄院 森が埼観音堂 (大森南5-1-18) ――――――――――――――――
真言宗の寺、通称森が埼観音堂と呼ばれる。大正年間に開創した寺院。ここには墜落事故慰
霊の地蔵がある。1938(昭和13)年8月24日森が埼上空で日本航空輸送会社のフォッカー機と
日本飛行学校のアンリオ機が空中衝突し墜落した。墜落現場に集まった救助者や見物人の目前
でフォッカー機のガソリンが爆発、即死17人、貟傷者百数十人で、後の死者を合わせると85
人が亡くなるという大惨事となった。供養する地蔵作られ、毎年の命日には供養が続けられて
いる。
129
森が崎水処理センターと森が埼公園(大森南5-2-25) ――――――――――――
東京单部の下水管の下水や道路からの雤水などがすべてここに集まり、浄化されて東京湾に
排出される。
処理場单に排出口がある。高度処理水は同処理場の水路に使われ、ホタル養殖にも使われて
いる。毎年夏ホタル観察会も開かれている。また、処理の過程でできるスラツジと呼ばれる廃物
は、スラッジプラント工場でメトロ煉瓦に加工され道路舗装に活用されている。入口付近には東京
最初の下水道管の展示もある。屋上は森が埼公園になっていて東京湾や羽田空港、埋立地を見
る眺望のよいところ。四季の花が植えられ 、いこいの場所になっている。処理場の別の施設で
ある昭和島の処理センター屋上は2001年、コアジサシが飛来し営巣をしたことから、市民団体
と共同で営巣できるような設備を作り2003年まで毎年飛来するようになった。
リトルターンプ
ロジェクトという市民団体が行政の協力のもとに管理運営にあたっている。
呑川河口とえびとり川 ――――――――――――――――――――――――――
呑川河口付近の单側は工場地帯になっている。北側には住宅地や大森第一中学校があり、呑
川下流部には船の係留施設も設けられている。河口はえびとり川も合流し、対岸には羽田空港
があり、左対岸は昭和島や京浜島などの埋立地になっている。埋立地の間に京浜運河が通る。
河口付近から東海自然歩道の案内板があり、昭和島方面へ散策路が続いている。河口では呑川
が運んできた土砂が堆積するために時々浚渫船が出て浚渫もしている。河口や湾岸地域にはハ
ゼなどの釣り場にもなっている。また河口から上流方面の眺めもよい。
(文責 大坪 庄吾)
参考文献
『大田区の寺院』 『大田区の神社』 『大田区の近代文化負』 ·················大田区教育委員会編
『大田区の史跡散歩』 新倉善之著··························································学生社
『大森 蒲田ことがら事典』 ···································································城单タイムス編集室
『大田区史 中巻・下巻』 大田区史編さん委員会編·································大田区発行
『平間街道ぞいの史跡をたずねて』 すぽっと朝日連載 ····························大坪 庄吾
『東海道ぞいの史跡をたずねて』 すぽっと朝日連載 ·······························大坪 庄吾
『糀谷の今昔』昭和56年 糀谷の今昔編集特別委員会発行························区内図書館にある。
『東京の貝塚と古墳をたずねて』 大坪 庄吾···········································大月書店
130
10 呑川の将来
10・1 呑川をめぐる市民運動
10・2 呑川の未来像
呑川の水はどこからどこへ
131
10・1 呑川を廻る市民活動
山本理平さんと呑川の会 ――――――――――――――――――――――――
「東京の橋 水辺の都市景観」(伊藤孝著)という本に大田区の橋が一つだけ登場しています。
それは、旧夫婦橋の架け替えをめぐって、「橋にご苦労さんの気持」と「呑川で命を落とした
人への鎮魂と川の安全を祈っての気持」を込めて昭和57年(1982年)に行われた「橋供養」の
話です。これを仕掛けたのが山本理平さんらが作っていた「呑川の環境を考える会」と「東京
の橋研究会」でした。
山本理平さんは同会の活動として、「呑川だより」、「呑川運河」という機関誌を出していまし
た。その機関誌にもこの橋供養の話が載っています。現在では蒲田図書館などで目にすること
ができます。その他、区の出版していた「史誌」に「六郷用水は呑川をどこでわたったか」と
いう論文を寄せたり、「糀谷の埋められた新田」という冊子を出したりしています。いずれも地
域の歴史と、そこで暮らしたひとびとの営みをとても暖かい目で描いています。
山本理平さんは夫婦橋の近くに住み、この橋と呑川、そしてその傍らにあった公園を見守っ
てきました。夫婦橋親水公園改修にも、計画段階から区や都など行政にアイデアを出したりし
て、精一杯の愛情を注いで呑川の会と共に関わりました。
山本理平さんと呑川の会の関わりは、1996年「呑川から東京の川を考える」という区立池
上文化センターでの連続講座の企画会に始まりました。この企画会には、池上自然観察会・内
川をよみがえらせる会・城单タイムス・呑川の環境を考える会・非行のない明るい街づくり池
上地区・歴史教育者協議会の6団体から代表者が集まり、文化センターの事業として8回の連続
講座を計画立案しました。
この講座終了後、受講者や山本理平さん等企画会のメンバーにより「呑川の会」が1997年5
月に発足しました。それ以来、上記のように共に活動をつづけてきましたが、山本理平さんは
2003年2月6日、79歳で亡くなられました。
(榊原 健夫 記)
132
10・2 呑川の未来像
10・2・1.大田区(行政)の未来像―――――――――――――――――――――
呑川の未来像を考える上で一つの前提条件になるのが、大田区(行政)ではどう考えているか
ということである。
大田区では2001年3月に2015年を目標とした長期基本計画「おおたプラン2015」を策定
しているが、そのうち呑川に関する内容は次のとおり。
おおたプラン2015
呑川に関しては 8つの重点計画「リーディングプラン 8」と、分野別計画である「プラン
20」でふれている。
そのうち「リーディングプラン 8」ではその1つ「7 水とみどりのネットワークづくり」
で次のように取組みの方向を示している。
1.浜風の薫る海辺の整備
略
2.自然と出会う川辺の復活
(1)地域とつくるみんなの多摩川
略
(2)まちの潤い呑川、丸子川、内川
呑川では護岸の緑化、橋などの景観の向上を図り、まちのシンボルとなるような
良好な河川空間を造ります。
丸子川、内川は、景観や自然に配慮し、安心して水とふれあえるような、水と緑
の調和の取れた川づくりを関係機関と連携しながら推進します。
またこれらの川沿いの公園や公共施設を一体的に整備し、散策時の休憩所や魚や
水鳥の観察場所など、憩いの水辺空間としていくことも検討します。
3.四季を感じる緑のネットワーク
身近な緑道や公園をネットワークで結び季節の薫りが漂う潤い空間を創り出し
ます
(1)呑川緑道軸の整備
呑川の狭い側道を拡げながら、緑のネットワークの骨格となる緑豊かな緑道を整
備します。
また、車の通行だけでなく歩行者や自転車も安全に渡ることができる橋への架け
替えや、橋のたもとを散策時の休息や地域の語らいの場として整備を行います。さ
らに災害時に防災船着場となるような親水護岸の活用を促進します。
また、東京工業大学、東調布公園、本門寺、蒲田、森ケ崎周辺の5つの拠点地域
133
として、その地域の特性を活かした整備を行います。
(2)单北緑道の整備
呑川緑道や既存の緑道と互いに補完しあう緑のネットワークを形成することに
より、地域の身近な緑を創出します。特に区を横断するJR線沿線や幹線道路の沿
線などを緑道として整備することにより、地域の人々の潤い空間となるだけでなく、
自動車や電車の車窓から見える景観の向上を図り、区のイメージアップにつなげま
す。
また、水路の跡や鉄道敶、民有地の緑化など関係者の協力を得ながら、地域住民
とともに地域に忚じた特色ある緑道整備を進めます。
4.昔を今につなぐ思い出の小径計画
区内の特色ある公園や緑地と様々な故事来歴を持つ社寺や文化負などを緑で結
び、身近な散策やレクリエーションの場として整備します。
子どもたちから高齢者まで多くの人が親しめるよう、歴史的価値や文化性の高い
地域の様々な特色を活用した散策路を整備することによって、身近な散策コースや
生涯学習の場を創り出します。
「プラン20」ではその内「15 自然と共生するまち」で取組みの方向は次のとおりです。
1.幅広い公害対策の展開
略
2.豊かな緑と水環境の形成
(1)地域における快適な緑環境の形成
民有地の緑を保全するために、樹木・樹林の保護に努めます。また、区民やNP
Oの協力を得ながら保護にふさわしい場所を区民の森として整備します。
緑化する場所がますます尐なくなっている現状では、家屋の屋上や壁面は貴重な
緑のスペースとなっています。地上緑化を補完するために、これらの有効活用を啓
発します。
(2)緑を生かした生態系の回復
台地部の崖線等、区内のまとまった緑を緑道で結び、連続性のある緑環境を形成
します。实施にあたっては、その地域の实態に即して自然の生態系に配慮します。
(3)良好な水辺環境の形成
河川の全域で、水質改善を図り、より多くの野鳥や魚がすめる環境づくりをめざ
します。
河川の護岸整備にあたっては、様々な生物の生息に適した水辺環境や自然の浄化
134
力が機能することをめざします。
多摩川や東京湾を、良好な状態に保全しながら、区民が自然にふれあえる場にし
ていきます。
(4)水資源の活用
現存するわき水を保全するほか、水量の増大を図るため、雤水浸透を進めます。
雤水や排水処理した再生水の活用を啓発します。また、一定規模以上の建築物に
はガイドラインを作成し、雤水の利用を促進します。
3.エネルギー対策の促進
略
4.環境保全活動の充实
略
このうち「呑川緑道軸」構想は1983年(昭和58年)ごろから打ち出され、1995年(平成3年)
には「呑川緑道軸の整備 水と緑のネットワークをつくろう」、「人にやさしい緑の道に 呑
川緑道軸の整備」として次のような具体的構想が示されている。
1. 緑道軸の計画標準幅員は
7m
歩道、車・自転車道の分離
2. ふれあい拠点の整備
ほぼ500m間隔で公園の設置
3. 橋梁の整備
現在の交通状況に合わない古い橋の架け替え。
4. 水源の確保
落合処理場の処理水を呑川に導入
5. 5大拠点の整備
東工大周辺
呑川に蓋をし、地域を分断することなく地つづきの公園として
整備。公園にはせせらぎをつくり、水に親しめる場所として整備
する。
東調布公園周辺
公園と呑川緑道を結ぶ補助緑道をつくる。公園補助緑道と緑道
の境界には公園を象徴するゲートなど目印を設ける。また緑道沿
いの公園を整備。
本門寺周辺
緑道軸のシンボルゾーンともいえる区域で、寺社の緑と緑道を
つなぐ補助緑道をつくり、緑道と補助緑道の境界にはシンボルと
なる広場を設ける。
また斜面の緑保全、風景にマッチした橋に架け替え、護岸を
緩やかや斜面にすることの検討も必要。
蒲田周辺
緑道の拡幅も簡卖ではないが、公共空間の確保に努める。昼夜
を問わず歩行者が多いため、照明、噴水などを整備し、橋の上に
広場を設けることも検討。
森ケ崎公園周辺
かつての大田区で重要産業だった漁業と海をしのぶ場所で漁
135
業の歴史をしのばせる工夫。この区域の核である森ケ崎公園は補
助緑道で緑道軸に結びつける。一方橋の架け替え、護岸を緩い斜
面にするなど、河口付近では、ウォーターフロント軸とも整合を
とり、水に親しむことができる方策を検討。
实際の推進状況は、最近の負政難という事情もあり、区はまず緑道軸の整備を進め、5大拠
点についてはその次の課題としている。
(福井 甫 記)
10・2・2.呑川の会会員の未来像 ―――――――――――――――――――――
―
呑川の会で会員に対するアンケート調査をしたことがある。まだ中間的なものであるが、参
考までに記すと次のとおりである。
(2002年9月 「呑川の未来像
中間たたき台」 による)
1.作成の基本方針は次のとおりとした。
①超未来像からすぐできることまで段階的に
②尐数意見・反対意見も記載
③各論は極力具体的に(例 施設を設ける場合は設置地点を特定するなど)
④今回は2002年版で、今後逐次改訂する
2.呑川の基本的性格
全流域を通じての基本像
共通意見
○現状のコンクリート張り川壁はやむをえまい
○超長期的には川壁は土手に、せめて傾斜をつけ土の部分を設けるの意見あり
○ただし川底は改善の要あり
○上流部分はふたをして緑道・公園に、の意見あり
その理由 ・ユスリカの問題/・すでに水源等人工的な河川なのだから、世田谷の親水
公園風にした方が今の川底を遠く見下ろす状態よりは親しめる/・上流の範囲
は、中原街道まで、二国までの2案あり。
○現状の形態の中では大きく次の二つの意見に分けられる。
自然豊かな川(子どもが親しむ)/都会的な川(デートコース)
136
○ただ全流域を通じて次の点は共通意見と考えてよいのではないか
a.湧水の確保と活用 湧水と雤水の循環活用
b.上流まで魚の生息がみられるように。昆虫・鳥の種類も増やしたい。
・八幡橋上流側に橋から見える魚を生息させる(最近石川台中学前にコサギがよくみら
れるとのこと。魚がいる?)/・石を敶く、芦、水生植物が生育できるように/
・現在魚のいない新幹線上流側の対策はどんなことがあるか/・川底の改良の必要は
ないのか/・急激な下水越流水発生時に魚の退避場所ができないか。
c.川沿いに並木があり散歩できる。ベンチ。
d.親水箇所の増加
・「夫婦橋公園」のような親水公園をふやす/・親水階段の設置/・管理方法の検討
の要あり/・六郷用水等の流れの復元/・いずれも悪臭、洪水時の問題等、課題も多
い
e.ユスリカ、スカム、ごみのないきれいな川
f.川沿いに呑川と一体となる池、沼の開発
東調布公園あるいは本門寺弁天池その他から流れをつくり、呑川の支流とする。
g.所々に水車等を設置するなどして呑川の昔を彷彿させ、子どもたちの学習の場を提供する。
歴史を感じさせる
各流域の具体像
各流域(ゾーン)の性格について住民間で意見がまとまるのが望ましい。
a.大岡山~中原街道
・石川台中学前の両岸の川をおおいかぶさるような桜並木はみごと
・ふたをして二重河川とし、上部は湧水を生かした親水公園にとの意見もあり
・東工大構内を活用することが考えられないか。
・ひょうたん池の活用、雤水の地下浸透
・ユスリカ対策
b.中原街道~新幹線
・親水階段の設置(場所予定なし)
・東調布交通公園の活用、野球場の転換
・雪小~雪中間の桜をふやす。
・橋を減らす
・東調布公園と水神橋の間の道路に、水神の森からの湧水を引いたせせらぎと緑道ができない
か。
137
・また境橋左岸の生産緑地はそのままの状態で続けたい。
c.新幹線~第2京浜国道
・新幹線~道々橋間、八幡橋~仲之橋間の鋼矢板の仮川壁の川壁デザインをどうするか
・久が原2丁目広場地点に親水階段の設置(八幡橋~仲之橋)
d.第2京浜国道~日蓮橋
・本門寺あたりのアイビーの垂れ下がり、大きく蛇行している景観、右岸のけやきがよい
・昔に比べよくなっているが、草ぼうぼうの所がある。
e.日蓮橋~JR 鉄橋
・川幅が広くなり、傾斜もゆるく、しかも右へ曲がっているため、水が滞留しやすく、スカム
が発生しやすいため、スカム対策の最重点箇所
f.JR 鉄橋~京浜急行
・都会的な雰囲気に
ライトアップ
イベント会場
・電柱をなくす。洒落た街灯
・左岸は住宅地で右岸と性格が違う点がやりにくい。右岸の商店街も呑川には背中を向けてい
る。
・蒲田中でペットボトルに花を育て、呑川のフェンスに掛けたのが評判になった。
・並木はやなぎ、ライラック、ねむのき
・菖蒲橋付近にあやめの生育。生育させるスペースはある。
・京急立体化工事に伴う京急~一国間の呑川周辺の再開発のあり方。
g.京浜急行~産業道路
・ボート遊びができないか
・夫婦橋を活かしたイベントの展開
h.産業道路~河口
・河口まで川沿いの道路を
・釣り桟橋の設置(釣った魚は食べられるように)
・魚の有害化学物質の体内濃度測定
・河口近くは松並木
川沿いの道路をどのようなかたちにするか(並木等も含む)
a.共通意見
歩行者が安心して、そして楽しんで歩けることが絶対に必要。最低でも歩道・車道の分離。歩
行者専用道路とすべきとの意見もある。 また右岸、左岸のいずれか片側だけ車道との意見も
ある。
138
・自転車通行だと橋のところで高くなるのがつらい。
・道路には並木、花壇、ベンチ・切り株、木陰の設置
・花壇は地元、老人会等に任せる/・雪小~雪中間は桜をふやす、菖蒲橋付近にはあや
めを植える。河口付近は松を/・つる性植物を側壁に這わせる。お金と手間がかからぬ
/・毛虫対策、落ち葉、落ちた实の片付けをどうするか/・並木の桜は一般的には川沿
いの住民には嫌われている/・公園の管理等住民にまかせても住民が何年も継続して維
持管理することはなかなか大変/・電線は地下ケーブルにして電柱の撤去/・フェンス
から川が見えるように
b.その他意見
・将来、両岸とも7mの道路幅が確保できた場合は、川から2mは歩道、次の3mは車道、次の
2mも歩道の意見あり
・並木は落葉樹を原則とするが一部常緑樹、实のなる木も
くすのき、松、柿(ある橋と橋の間は柿だけ、学校で管理し、食べる)
橋・フェンス等について
a.共通意見
・ゆっくり川を眺めたり、夕涼みができるような橋に
・歩道、張り出しデッキ、ベンチの設置
・橋の名前の由来、付近史跡等の案内板の設置
御成橋、弾正橋、藤兵衛橋等
・フェンスは本門寺付近を除きよいとはいえない。
b.その他意見
・デザインについて
デザインはそこそこ出来ているとの意見の一方、画一的で情緒がないとの意見がある
郷土色豊かなデザインに。大田区の鳥、花を描く。年を経るほど趣きのでるものに。
・よいデザインの橋名は? 悪いデザインの橋名は?
・橋を広くして公園的にできないか(大岡山目黒線トンネル上のように遊び場とする)
大岡山まで魚類を生息させるには
生き物を豊かにするために
鯉の生育はヤゴ等の水生昆虫の捕食者としてマイナス面があるが、大きいため橋上からでも
その姿が確認でき、住民に呑川を親しませる効果、さらにユスリカの捕食者として上流域で問
題になるユスリカ対策としての効果もあり、現時点では鯉を全流域で生息させることは意義が
あるのではないか。
ということで、現在八幡橋まで生息している鯉、道々橋下流の下水道横断地点まで遡上して
139
いるボラの稚魚をさらに遡上させるために实施したいことは次のとおり。
1 八幡橋にある流れの落差の解消。このことにより鯉は下水道横断地点まで遡上可能となる。
2 下水道横断箇所に魚道の設置。これにより新幹線下の境橋まで魚の遡上は可能と考えられ
る。
3 新幹線上流側の河庆には池上橋上流側と同様な窪みを設ける。池上橋上流側の淵はボラ・
ウナギ等の稚魚、ヤゴの休息場所となっている。このような河庆の改善が図られると鯉は
工大橋まで遡上できると思われる。
4 また大雤時の急流からの魚の退避場所を
川沿いに実施したいイベント
川に関心を持ってもらうためにはイベントは重要である。
具体的提案内容
・JR 蒲田~夫婦橋間で夜のイベント
・上流はホタル 東工大構内
・かつての流入水路でなにかイベントを 金魚すくいでも
・呑川をテーマにした川柳、好きな風景の写真の募集、花壇コンクール
・灯篭流し、流し雛、精楼流し
・ゴムボートによる川下り、小さな舟での呑川の上り下りの催し
・河川清掃見学/・コイのぼりを縦に泳がせる
・定期的に川の金網に写真、活動状況を一般の人に知らせる
・桜まつり 場所は
(2002年9月 呑川の未来像 中間たたき台 による)
参考文献
おおたプラン 2015
大田区
呑川緑道軸の整備
区土木部
140
呑川の水はどこから、どこへ?
呑川の会会員
榊原 健夫
「川とは天から降った雤が流れ下るもの」と、
普段私たちは素朴に考えています。
でも、
尐し考えると
「雤が降っていないときでも水が流れているよ」
という疑問が出てきます。
多摩川などは山の湧き水が集まって流れてくるのがイメージとしてもわかりますが、呑
川はどうでしょう。
呑川にだって湧き水が入っています。石川町や雪が谷小・中学校のあたりにはあちこ
ちから、そして尐し下って本門寺あたりの左岸の川の側面(護岸)にあいた小さな穴か
らも、しみ出しているのを見ることができます。
「では、呑川はそうやって湧き水が集まって川になってながれているの?」
残念ながら「そうでした」と過去形で言うのが正確ですが、かつての呑川はそうやっ
て湧き水を集めて流れていたのです。
呑川の水源と言われているのは大きくいって3つあります。でも、それは3カ所の湧
き水ということではなくて、あちこちの湧き水が大きく3つの流れになって呑川と呼ば
れる川になっていたのです。
呑川は桜新町から来る流れが本流とされています。本流とは河口から見ていちばん遠
い水源をもつ流れです。駒沢の流れも本流に合流します。
2番目は柿木坂支流です。本流とは東横線・都立大学駅付近で合流します。
3番目は九品仏川です。本流とは緑が丘駅付近で合流します。
もうひとつ、清水窪湧水などを集め一度洗足池に注いでから道々橋付近で合流する洗
足流れもあります。また、昔は六郷用水とも池上で合流・分流していたようです。
呑川源流、国道246号線、目黒通り、東急線と各駅
141
(高度50倍強調)
洗足流れと呑川中流
(高度50倍強調)
「そうやってたくさんの湧き水を集めて呑川になっていたんだね」
そうです。ただし、それは昔のはなし。現在は、平常時は世田谷の水は、わたしたち
が目にしている呑川に入ってこないのです。なぜでしょう。
ちょっと面倒ですが、次の資料を見てください。
------------------------------
35年3月,都は「東京都市計画河川下水道調査特別委員会」 (委員長 元建設省土木研究所所長伊藤剛)を
設置し,都内の排水問題についての検討を開始する。同委員会は翌36年10月,河川と下水道のあり方につい
ての基本的方向をまとめ,東知事に報告した。
この報告はその発表年次をとって,俗に「36答申」とよばれている。 答申の内容はおおむね次の4点に要約
できる。
(l)呑川,目黒川,桃園川など源頭水源を有しない14河川の一部または全部を暗きょ化し,下水道幹線として利
用する。
(2)下水道幹線化する以外の区間についても,舟運上などの理由からとくに必要な部分をのぞき覆蓋化する。
(3)覆蓋化された上部については,できるかぎり公共的な利用を図ることとする。
(4)暗きょ,覆蓋化にあたっては,狩野川台風並みの降雨でも氾らんしない能力を与えることを原則とする。
いっぽう事業は, 36年に答申を先取る形で,桃園川と渋谷川の暗きょ化工事が開始される。以後他の河川に
ついても順次事業がすすめられ,覆蓋上部は遊歩道などとして利用されていった。
------------------------------
これは、
「下水道東京100年史」という資料です。そこには33年9月に襲来した狩野川
台風をはじめ、しばしば水害の被害を受けた呑川など中小河川への対策として、また「ド
ブ川」と化していた川に蓋をして下水道幹線として利用することが決められたと書いて
あります。
142
以前は雤が降ってもその水は林の落ち葉や田圃に蓄えられ、川の水は徐々に増水した
のですが、市街化が進んでくると、降った雤は地面にしみこんだり林や田圃に蓄えられ
なくなります。そのため、呑川は以前にも増して暴れ川となり、しばしば氾濫するよう
になりました。もっとも水が集まりやすい谷の合流点や、もともとの低地などには、家
を作らないのが昔の人の知恵だったものが、そういう場所にもどんどん住宅ができ、氾
濫の被害を受けるようになったとも言えます。
一方、林や畑がなくなると台地へ水がしみこまなくなるので地下水が補給されなくな
り、湧き水は減尐して川への水の供給は減尐しました。しかも、家庭排水が川に入って
くるなどで、湧水から廃水(もとをただせば水道水)へと水の供給源が変わるとともに、
川の水がどんどんよごれ、淀み、腐敗して悪臭を放つようになりました。
こうして呑川は、
「ドブ川」と呼ばれ、無視されたり憎まれたりするようになったので
す。そのうえ、水害を繰り返す呑川に文字通り「臭いものにはフタ」というわけで、こ
の厄介者の川を見えなくする、それを下水道幹線として利用する、そしてその土地は遊
歩道などの緑地として利用できるという一石三鳥のアイデアに住民は喝采を送ったので
した。
これに従って、世田谷区内、目黒区内の呑川(だった場所)には蓋がされ、下水道管
を入れて下水道幹線になりました。この下水道幹線を集めた「呑川幹線」は、呑川の蓋
かけがなされなかった緑が丘駅付近から下流は、呑川と並行して道路の下に埋設されて
います。そして、さらに下っては雪が谷小・中学校の西側のバス通りを通っています。
こんなわけで、呑川へは世田谷、目黒区の湧き水は一滴も入ってきません。
(ただし、
これは平常時の話です。
)ですから、この状態では「呑川の水源は世田谷・目黒区にあり、
本流は桜新町から来ている」とは言えないのです。
「では、いま呑川に流れている水は緑が丘駅付近から下流の石川町や雪谷の湧き水だけ
なの?」
いいえ、湧き水はあるにはあるのですが、とても分量が尐ないでしょう。とうてい、
今、呑川を流れている、あんな水量ではありません。もともと川はある程度の分量の水
が「流れて」いないと、水が腐ってしまいますね。そこで、東京都はこの涸れた呑川な
ど城单の3河川に、
「清流復活事業」として、下水の高度処理水を利用して流量の確保を
することにしたのです。水は新宿区の落合下水処理場の処理水を使っています。対象河
川は「渋谷川」
「目黒川」
「呑川」の3河川、総延長17.5キロメートルの送水管で、3河川
合計で1時間あたり1512立方メートルの水を送っています。
完成は東京都が平成7年度でした。約5年の歳月をかけて实現したこの事業ですが、
これにより呑川の状態は大きく変わりました。
「死んだ川」だった呑川に多くの魚の姿が
見られるようになったのです。それを追ってカワウなどの野鳥もやってきました。
だんだん生きものの数や種類が増えてくるにしたがって、人々の呑川を見る目も違っ
143
てきました。呑川に背を向けていた人々が川辺を通るたびに川を覗いてみるようになっ
たのです。コイがいます。ボラがいます。カワウが潜水しています。カメが不器用に泳
いでいます。カルガモの子育てが見られたこともあります。ハクセキレイの背中はすが
すがしい印象です。
こうして、散歩や通勤、買い物ついでなど川辺の道は、水に親しめる道になってきま
した。ただし、水を高度処理処理する費用、送水ポンプを稼働する費用などランニングコ
ストもかかります。近年、東京都の負政状況の悪化により、この送水量は減らされていま
す。
ここまでは、晴天時のおはなし。
「呑川の水はどこから、どこへ?」というお話はまだ続きます。
雤が降ると呑川流域では、屋根に降った水は家庭の排水マスから下水道の枝線へ入り
ます。道路に降った水も同じく下水道に入ります。そして为に道路の地下に埋められた
下水道管の中を流れ下ります。
下水道の方式には2通りあって、ひとつ
は雤水と汚水を一緒の管で流す合流式、も
うひとつは雤水と汚水を別々の管で流す分
流式です。今の下水道法では原則として分
流式で下水道を作ることになっているので
すが、それ以前に下水道が敶設された呑川
流域では、合流式の下水道になってしまっ
ています。
ですから、晴天時はトイレや台所排水な
どの汚水が流れている下水道管に、雤が降
ると大量の雤水が流れ込んできます。
この汚水と雤水の混合したものが世田谷・目黒
区内の呑川幹線(呑川緑道になっている旧呑川河
道の地下に埋設)を流れ下って行き、やがて緑が
丘で呑川が開渠になる尐し手前で呑川緑道から離
れて呑川と並行した下水道幹線に入っていきます。
ここですべての汚水・雤水の混合した水が下水道
に行けばよいのですが、实はそれはほんの一部で
す。
呑川に流れ込む下水
高橋会員撮影
もともと下水道の設計は、その地域の晴天時の排水量の2倍、または3倍の水が流れ
るだけしか見込んでいません。雤水が入って、その設計値以上になるともはや下水道管
144
は水を流しきれません。そこで管の途中に堰を設けて、一定量以上の水を呑川に捨てる
構造になっているのです。1時間あたりの降水量3ミリメートルを越えると、汚水が混
じった水を呑川に排水することになると言われています。尐し強い雤が降ると呑川が臭
うのはこのためです。
さらに開渠の呑川(大田区部分)には、護岸にあちこちで大きな穴が開いているのを
みなさんご存じでしょう。ここからも下水道に入りきれない汚水混じりの雤水がどんど
ん入ってきます。強い雤の時は雤で薄められてはいますが、トイレの排水も台所の排水
も大部分が呑川に入ってしまい、ほんの一部が下水道幹線を通って処理場に行っている
というのが降雤時の实態です。
それでも池上付近までは、川が臭いのは降雤時の一時的な現象です。しかし、蒲田付
近は流れ下って来た水が海水とぶつかり、すぐには海に下りません。川を上ったり下っ
たりするうちに腐敗がすすみ、川の水が黄色や黄緑色になって本当に強烈な臭いです。
歩いて行くと100メートルも川の手前から卵の腐ったような臭いがしてくるのです。池上
から下って川がほぼ直角に曲がる付近から急に水質が悪くなりもう一度直角に曲がって
JR鉄橋をくぐって蒲田を過ぎ、夫婦橋付近までが水質の最悪ポイントです。
下水道が川や海に未処理の汚水を入れることを前提にして設計されているなんて、や
はり変だと思います。そして蒲田の街並みを、腐敗したトイレ排水をたたえた呑川が貫
いて流れているなんて、ほんとうに悲しいことです。
もうひとつ、地盤の高さが5メートルある池上付近までは下水道管の能力以上の水は呑
川に排出されていますが、そこより下流では潮汐の関係上、呑川に排水することができ
ません。この地域の汚水混じりの雤水はポンプ場から海老取川や多摩川下流に排水され
ています。このことは、呑川にとっては汚濁の原因にならなくても、海にとってはつら
いことだと思います。
このように、雤が1時間あたり3ミリを越えて降り、下水道管の能力を超えると、その
分の雤水は下水管からあふれて呑川や海に排水する構造です。では、もう一方の下水管
を流れていった水はすべて処理されてから海に排出されているのでしょうか。
森ヶ崎の水処理センターの計画処理能力は、1時間あたり64,167立方メートル(区部)
です。一方、この対象面積に雤が降ると、計画処理面積は 14,675ha(区部)だから、降雤
1ミリメートルあたりの水量は 146,750立方メートルとなり、森が崎下水処理場に入る水の
量は処理能力の約2.3倍になります。能力を超えた分の汚水混じりの雤水はゴミなどを
除去し、消毒液を入れただけで森ヶ崎から海へ放出されます。
雤がふったあと、東京湾で下水管の中に堆積した油分が石鹸状に固まったものが大量
に浮遊したり、大腸菌数が一時的に跳ね上がるのはこのためです。
145
埋め立てで奪われた東京湾の海岸線に、お台場や城单島海浜公園、大森ふるさとの浜
辺公園など、人工の浜辺を作ることが盛んですが、目と鼻の先の森ヶ崎や芝浦から屎尿
混じりの汚水が排出されているのを知ったら、訪れた
人はどう思うのでしょうか。
呑川の水はどこから来て、どう流れ、どこへ行くの
かというはなしは以上です。こう考えるといろいろな
要因で現在の呑川の姿があるのがわかります。本来、
地域の水はその水系で完結していたのですが、今は遠
くから水を引いて、その水を一度だけ使い、遠くの海
お台場
辺の下水処理場へ下水管で運んで捨てています。この
ために、川は本来もっていた流量がなくなって涸れて
しまいました。呑川では、新宿区の落合下水処理場の
処理水をながすことによってランニングコストをかけ
て流量を確保しています。また、雤が降ると世田谷区
や目黒区、大田区の池上より上流地域の未処理の屎尿
混じり雤水が呑川に入ってきます。
できるだけ地域の排水はそこで処理をして、きれい
にしてから下流へ流すのが礼儀ではないかと思います。
大腸菌
ですから、この地域では、速やかに分流式下水道に替えていき、汚水は地域できちんと
処理した上で呑川へ、雤水は汚濁の激しい初期雤水は処理して、それ以後はそのまま呑
川へ流すことがよいと思います。
また、当面は、雤水を一時貯留して、雤の降り始めの汚濁が多い水だけでも下水処理
してから川や海に排水するようにしなくてはならないと思います。
146
この表は、呑川の会会員が、2003 年 1 月から同年 10 月にかけて、観測した鳥類カウント統計です。
2003.1.7
曇り後晴れ 10 時-15 時 引き潮
オ
ナ
ガ
ガ
モ
大岡山
境橋
島畑橋
歩道橋
島本橋
柳橋
石川橋
一之橋
二之橋
宮前橋
山下橋
西の橋
雪の橋
居村橋
円長寺
橋
鶴の橋
水神橋
鷹の橋
谷中橋
東橋
境橋
芹ヶ橋
道々橋
久根橋
八幡橋
仲之橋
根方橋
長栄橋
北之橋
池上橋
久崎橋
谷築橋
霊山橋
妙見橋
養源寺
橋
浄国橋
堤方橋
一本橋
上堰橋
日蓮橋
若宮橋
双流橋
大平橋
山野橋
馬引橋
鉄 橋
夫婦橋
天神橋
清水橋
宝来橋
北糀谷
橋
八幡橋
呑川新
橋
東 橋
末広橋
藤兵衛
橋
旭 橋
合計
~
~
~
~
~
~
~
~
~
~
~
~
~
~
境橋
島畑橋
歩道橋
島本橋
柳橋
石川橋
一之橋
二之橋
宮前橋
山下橋
西の橋
雪の橋
居村橋
円長寺橋
~
~
~
~
~
~
~
~
~
鶴の橋
水神橋
鷹の橋
谷中橋
東橋
境橋
芹ヶ橋
道々橋
久根橋
~
~
~
~
~
~
~
~
~
~
~
八幡橋
仲之橋
根方橋
長栄橋
北之橋
池上橋
久崎橋
谷築橋
霊山橋
妙見橋
養源寺橋
~
~
~
~
~
~
~
~
~
~
~
~
~
~
~
~
浄国橋
堤方橋
一本橋
上堰橋
日蓮橋
若宮橋
双流橋
大平橋
山野橋
馬引橋
鉄 橋
夫婦橋
天神橋
清水橋
宝来橋
北糀谷橋
~
~
八幡橋
呑川新橋
~
~
~
東 橋
末広橋
藤兵衛橋
~
旭
2
カ
ル
ガ
モ
キ
ン
ク
ロ
ハ
ジ
ロ
16
3
コ
ガ
モ
ホ
シ
ハ
ジ
ロ
10
マ
ガ
モ
4
6
2003.4.18
晴れ10時~15時 大引き潮
ハ
ク
セ
キ
レ
イ
3
1
1
3
3
ム
ク
ド
リ
ユ
リ
カ
モ
メ
3
33
7
3
3
0
7
1
29
0
0
18
0
16
3
1
1
1
28
16
2
15
1
1
8
3
15
2
1
6
1
1
5
1
1
15
4
3
7
1
2
15
16
1
2
6
3
1
1
22
1
8
20
3
2
2
2
2
2
1
藻除去作業中
2
1
2
6
1
1
鯉3
鯉 12
鯉多数
1
6
2
3
2
1
1
1
稚魚多数
0
0
0
2
2
0
2
0
4
1
0
2
0
0
0
1
0
0
0
0
0
0
10
0
0
1
5
3
8
0
0
0
0
0
25
25
0
0
0
0
0
0
0
310
0
0
41
橋
9
備
考
0
0
1
183
ハ
ク
セ
キ
レ
イ
5
0
5
18
2
コ
サ
ギ
5
1
2
0
29
1
2
16
16
0
2
0
0
0
コ
ガ
モ
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
5
2
1
9
3
16
2
1
12
0
1
カ
ル
ガ
モ
区
間
カ
ウ
ン
ト
7
3
0
0
2
3
0
5
0
0
10
0
18
0
1
0
2
2
備
考
区
間
カ
ウ
ン
ト
2003.7.25
曇り 10 時ー12 時
62
17
15
2
7
カ
ル
ガ
モ
コ
サ
ギ
ハ
ク
セ
キ
レ
イ
2003.10.26
晴れ 10 時ー14 時 30 分 引き潮
ウ
ミ
ネ
コ
備
考
9
1
9
1
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
1
1
1
1
ボラ稚魚 5cm
大
鯉
1
21
1
1
1
3
2
9
2
6
2
ホ
シ
ハ
ジ
ロ
マ
ガ
モ
カ
ワ
ウ
コ
サ
ギ
備
考
0
0
0
0
2
0
3
0
23
円長寺橋~鶴の橋
鶴の橋~水神橋
水神橋~鷹の橋
鷹の橋~谷中橋
谷中橋~東橋
東橋~境橋
境橋~芹ヶ橋
芹ヶ橋~道々橋
道々橋~久根橋
38
0
0
60
10
0
0
1
0
1
1
久根橋~八幡橋
八幡橋~仲之橋
仲之橋~根方橋
根方橋~長栄橋
長栄橋~北之橋
北之橋~池上橋
池上橋~久崎橋
久崎橋~谷築橋
谷築橋~霊山橋
霊山橋~妙見橋
妙見橋~養源寺橋
0
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
1
養源寺橋~浄国橋
浄国橋~堤方橋
堤方橋~一本橋
一本橋~上堰橋
上堰橋~日蓮橋
日蓮橋~若宮橋
若宮橋~双流橋
双流橋~大平橋
大平橋~山野橋
山野橋~馬引橋
馬引橋~鉄 橋
鉄 橋~夫婦橋
夫婦橋~天神橋
天神橋~清水橋
清水橋~宝来橋
宝来橋~北糀谷橋
5
0
0
0
北糀谷橋~八幡橋
八幡橋~呑川新橋
0
9
0
0
0
1
呑川新橋~東 橋
東 橋~末広橋
末広橋~藤兵衛橋
0
0
84
2
ハ
ク
セ
キ
レ
イ
大岡山~境橋
境橋~島畑橋
島畑橋~歩道橋
歩道橋~島本橋
島本橋~柳橋
柳橋~石川橋
石川橋~一之橋
一之橋~二之橋
二之橋~宮前橋
宮前橋~山下橋
山下橋~西の橋
西の橋~雪の橋
雪の橋~居村橋
居村橋~円長寺橋
1
0
0
23
0
1
0
0
0
0
0
6
1
藻が生育中
下流側藻が刈ってある
7
2
2
3
新幹線下両岸から水流入
22
1
35
1
2
5cm 大の稚魚多数
58
9
2
1
1
1
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
2
2
74
カ
ル
ガ
モ
区
間
カ
ウ
ン
ト
9
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
7
0
2
1
0
0
0
1
5
2
0
23
5
2
22
区
間
カ
ウ
ン
ト
1
アオコ
1
1
1
145
1
2
2
2
9
1
0
161
藤兵衛橋~旭 橋
旭 橋