量子エントロピー

量子情報の数理から観ることの数理へ
−量子エントロピー,アルゴリズム,適応力学−
大矢雅則
1 はじめに
私が数理物理の研究を始めたのは,今から40年ほど前である。当時,我が国では梅垣,富田,荒木,竹崎
などの諸先生が作用素代数や数理物理の重要な研究をされていたが,日本の大学には数理物理の講座すらほと
んどないといった状態であった。そんな中,私は,量子確率・情報に関する先駆的仕事をされていた梅垣先生
から誘いを受け,東工大の梅垣ゼミに参加していた。統計物理や場の理論の数理から始まった私の研究は,量
子エントロピー,量子アルゴリズム,量子テレポーテーション,情報力学・適応力学,情報遺伝,などの数理
的研究に繋がっていく。ここでは,これらのうちで特に多くの時間を費やしたいくつかの研究の概要を書き
綴ってみようと思う。
2 量子エントロピーの研究
量子情報通信理論は,シャノンの情報通信理論では扱うことのできない量子的な対象を用いた情報の表現と
通信を,量子確率論や量子エントロピー論をベースにして取り扱う理論である。初期の量子情報理論は,理論
といっても数学的厳密さはほとんどなく,有限次元のヒルベルト空間においてのみ議論されていたり,通信に
おいても入力系や出力系を古典系とし変換のみを量子的に扱うといった半量子的(半古典的)なものであっ
た。量子力学にとって θ ヒルベルト空間は不可欠なものであるし,通信においての半量子的な理論は,シャノ
ンの理論と基本的に同じものであり,量子的な特質を取り込むことはできないものである。こうした問題に答
えるために,私は,量子統計物理における非可逆過程や開放系の研究の絡みから,物理過程や通信過程は量子
状態の変化という一般論の下で数理的に厳密に議論できると考え,その変化を記述する完全正写像(量子チャ
ネルという)の作用素代数的研究を通して,シャノンの一大発見である相互エントロピー(相互情報量)を
フォン・ノイマンの量子エントロピーを基にして定める方法を提案した [7, 1]。こうした研究を行ったころは,
量子情報に興味を示す研究者は,特に我が国では,数えるほどしか居らず,多くの研究者は,そうした研究は
数学的なもので,物理工学的には役立つものではないと考えていたようである。そのころから見れば,現在の
学界の風景は,まさに,隔世の感があり,量子情報を研究していると称する研究者がそこら中にいる。
古典・量子の両方を特別な場合として含む仕方でエントロピー論を展開するためには,C∗ 力学系(または,
W ∗ 力学系)においてエントロピー,相互エントロピーを定める必要があった。(A, S, α (G)) を C∗ 力学系
とする。すなわち,A は C∗ 代数,S は A 上の状態の全体, α (G) を強連続な自己同型群とし, S を弱 ∗ コ
ンパクトな S の凸部分集合とする。このとき,ϕ ∈ S に対して exS(S の端点の集合) を準台としてもつ S 上
の正規な極大ボレル測度 µ が存在して
∫
ϕ=
S
ωdµ
と端点分解できる。ここで,端点とは物理における純粋状態に対応するもので,他の状態の凸結合に分解で
きない状態である。この分解は常に一意であるとは限らない。そこで,この分解を与える測度 µ の集合を
Mϕ (S) で表わすことにする。このとき,集合 S に関する状態 ϕ ∈ S のエントロピー S S (S-(混合) エント
1
ロピー)を次のように定める [8, 2]:
S S (ϕ) ≡ inf {H (µ) ; µ ∈ Mϕ (S)}
{ ∑
}
e ∈ P (S) である。
ここで, P (S) は S の有限分割の全体であり, H (µ) ≡ sup − A∈Ae µ (A) log µ (A) ; A
なお,S = S のときは,S S = S と S を省略する。この S-混合エントロピー S S (ϕ) は基準系 S から見た ϕ
の不確定さを表す量である。この仕方で S S (ϕ) を定めた心は,“状態 ϕ ∈ S のエントロピーが,クラウジュ
ウスに従って,その状態の有する複雑性を表すものであるとすると,それは ϕ ∈ S を作る純粋状態の混ざり
方に関わっている”と考えたところにある。なお,A = B (H) , S = S (H) (=密度作用素の全体)の場合,
S S (ρ) はフォン・ノイマンエントロピー S (ρ) = −trρ log ρ に一致する。このことより, S-混合エントロ
ピー S S (ϕ) は,フォン・ノイマンエントロピー S (ρ) の自然な拡張になっていることがわかる [3, 2]。
次に,C∗ 力学系において情報通信を議論するためには,シャノンによって導入され,コロモゴルフ,ゲレ
ファンド,ヤグロムなどによって数学的にきちんと議論された相互エントロピーを C∗ 力学系において定めな
ければならない。この相互エントロピーは,梅垣,荒木,ウールマンによって定められた [3, 2] 量子(非可換)
相対エントロピーを用いて定義すればよいと考えた。しかしながら,古典系と異なり量子系では, 条件付き確
率と同時確率は一般的には存在しないことがウルバニックによって議論されている。それ故,コロモゴルフら
と同じ仕方で相互エントロピーを定義することはできない。そこで,私は同時確率測度に代わるものとして,
合成状態という概念を導入した [7]。
入力状態空間を S,出力状態空間を S とし, S を S の, S を S の,ある適当(弱 ∗ コンパクトかつ凸)
な部分集合として,初期状態 ϕ ∈ S がチャネル Λ∗(S から S への写像)により終状態 ϕ ≡ Λ∗ ϕ ∈ S になっ
たとする。このとき,ϕ と Λ∗ ϕ の間の相関を表わす合成状態 Φ は C∗ テンソル積 A ⊗ A 上の状態で次の (1)
(
)
( )
∼(4) を満たす必要がある:(1) Φ (A ⊗ I) = ϕ (A) , ∀A ∈ A。(2) Φ I ⊗ A = ϕ A , ∀A ∈ A。(3) Φ は特
別な場合として,古典系の合成状態 (同時確率分布) を含む。(4) Φ は ϕ と ϕ の各成分間の相関を示す。
例えば,(1),(2) を満たす合成状態はたくさんあるが,そのひとつが ϕ と Λ∗ ϕ の直積である Φ0 = ϕ ⊗ Λ∗ ϕ
である。これは ϕ と Λ∗ ϕ な成分が独立な相関を持っ場合である。独立でないに相関を有する合成状態の一つ
は次のように定めることができる:ϕ の exS (S の端点の集合)への一つの分解を
ϕ=
そこで,ϕ の分解を与える測度 µ に関して,(1)∼(4) を満たす ϕ と Λ∗ ϕ の合成状態として
ΦSµ =
∫
S
∫
S
ωdµ
とする。
ω ⊗ Λ∗ ωdµ
が考えられる。これは ϕ が確率測度の時は,通常の同時確率測度に一致する [7, 1]。この合成状態は,その後,
非可換系の同時確率を与える一般論を作るために,アカルディと共に行った“リフティング”という概念の導入
につながっていく [9]。
上記の2つの合成状態と梅垣-荒木の量子相対エントロピー S (•, •) を用いると, ϕ ∈ S と測度 µ 及びチャ
ネル Λ∗ に関する相互エントロピーが
(
)
IµS (ϕ; Λ∗ ) ≡ S ΦSµ , Φ0
で定められる [7, 2]。さらに,初期状態
ロピーは
ϕ∈S
とチャネル Λ∗ に関する非可換(量子)相互 (S−) エント
{
}
I S (ϕ; Λ∗ ) ≡ sup IµS (ϕ; Λ∗ ) ; µ ∈ Mϕ (S)
で与えられる [7]。この相互エントロピーは,µ が直交測度の時, Fϕ (S) を直交測度の全体とすると,次の
2
J S (ϕ; Λ∗ ) と一致することが示せる:
S
∗
{∫
J (ϕ; Λ ) ≡ sup
S
}
S (Λ w, Λ ϕ) dµ; µ ∈ Fϕ (S)
∗
∗
なお,これらのエントロピー I S ,J S ,S S (ϕ) はコンヌ・ナンホファー・チリング(CNT)エントロピーや他
の力学的エントロピー深くかかわっている [2]。
この量子相互エントロピーは,量子系が (B (H) , S (H)) の場合は,入力状態 ρ とチャネル Λ∗ に対して
I (ρ; Λ∗ ) = sup
{
∑
λn S (Λ∗ En , Λ∗ ρ) ; ρ =
n
で与えられる。ここで,ρ =
∑
k
∑
}
λk E k
k
λk Ek はシャッテン分解である。また,量子相互エントロピーは通信におい
て最も基本的なシャノンの不等式: 0 ≤ I (ρ; Λ∗ ) ≤ min {S (ρ) , S (Λ∗ ρ)} が証明できる。私が上記の仕方で
量子相互エントロピーを定義する前に,ホレボ,レビチンらも量子相互エントロピーを考えてはいるが,彼ら
の議論は有限次元のヒルベルト空間におけるもので,しかも入力系か出力系の少なくとも一方が古典系であ
り,完全に量子系のそれとは言い難いものであった。上記の量子相互エントロピーは,当然のことながら,彼
らのエントロピーを含むものである [2, 3]。 量子エントロピー理論の集大成として,梅垣氏との共著 [5] を元
にして,ペェツと共に80年代後半までの様々な研究をまとめたものがシュプリンガーから出版された著書
[3] である.
3 量子アルゴリズムと量子テレポーテーションの研究
最近,膨大なデータを高速に演算処理する新しい計算機システムとして実現化を期待されているのが量子コ
ンピュータである。量子コンピュータが高速計算を可能にする主な理由は,原子や分子が作る量子干渉性を利
用していくつかの独立な計算を一度に行うことを可能にすることにある。量子コンピュータに関わる研究に
は,(1) 量子状態の分類の研究:可分状態とエンタングルド状態,(2) 量子アルゴリズムの研究,(3) 量子テレ
ポーテーション過程の研究,(4) 量子暗号の研究,などがある。以下,量子アルゴリズムとテレポーテーショ
ンに関して私が行ってきた研究のエッセンスを説明する。
3.1 量子アルゴリズムの研究
ショアーはいかなる因数分解も量子アルゴリズムによると多項式時間で解けることを示した。(現在,我々
はこの主張に疑問を持っている [19]。)このショアーの研究の後をうけて,私とロシアのステクロフ研究所の
ボロビッチは,「NP 完全問題が P 問題になるアルゴリズムが存在するか?」という 30 年来の問題を研究し
た。我々は,量子情報理論のスキームに準じた量子アルゴリズムにカオス力学の非線形な状態変化のアイデア
を導入することによって,NP 完全問題の一つである SAT(Satisfiability;充足可能性)の問題を多項式時間
で解くアルゴリズムを見いだした [14, 15, 2]。詳しいことは割愛せざるを得ないが,以下 NP 完全問題とは何
か,SAT とは何か,を説明し,我々のアルゴリズムの骨子を記しておく。
入力のサイズが n の問題に対して,P 問題,NP 問題,NP 完全問題とは次のものである。
P 問題 : ある問題をあるアルゴリズムに従って解くとき,計算機がその問題を解き終わるまでの時間が入力
サイズ n の多項式で表せる時間ですむとき,そのアルゴリズムは良いアルゴリズムであるといい,その問題は
クラス P(polynominal)に属する問題という。
3
NP 問題:問題の解の候補を具体的に与えたとき,これが本当に解になっているかを検算することはサイズ n
の多項式時間でできるが,解自体を求めることは多項式時間でできるかどうか分かっていない問題のことをい
う。(P ⊂ N P )
NP 完全問題:NP に属する問題のうち最も難しいと考えられている問題を NP 完全問題という。なお、全て
の NP 完全問題はどれも同じ難しさであることが分かっている。
SAT 問題:NP 完全問題の一つが SAT 問題で,それは,「与えられたブール代数式(変数,カッコ,
AND(∧),OR(∨),NOT(¬)から構成される論理式)を“真”とする(充足する)変数の組は存在する
か?」という問題である。もう少し数学的に表すと次のようになる,xj ∈ {0, 1} の集合 {x1 , · · · , xn } と
その部分集合 Xj ⊂ {x1 , · · · , xn } に対して,X j ⊂ {¬x1 , · · · , ¬xn },Cj ⊂ Xj ∪ X j ,C = {C1 , · · · , Cm }
(
)
と置き,f (x) ≡ ∧m
j=1 ∨x∈Cj x をブール式と呼ぶ。このとき,SAT 問題は「f (x) = 1 を満たすような
x = {x1 , · · · , xn } が存在するか?」という問題になる。
私とボロビッチは,この SAT 問題が“量子アルゴリズムとカオス増幅計算”により多項式時間で解けること
を示した。その骨子を以下説明しよう。詳しくは最近著わした [2] を参照。入力ベクトル x = {x1 , · · · , xn },
ブール式
(
)
f (x) ≡ ∧m
j=1 ∨x∈Cj x
に対して, SAT 特有の計算を行うユニタリー作用素を Uf とする(こ
れはかなり複雑だが具体的に構成できる [18, 2])。まず,離散フーリエ変換によって初期状態 |0, 0〉 は重ね合
わせ |v〉 =
√1
2n
∑
x
|x, 0〉 に変換される。次いで,Uf を用いて,f (x) を計算し終状態 |v〉 が
1 ∑
|vf 〉 = Uf |v〉 = √
|x, f (x)〉
2n x
と求まる。最後の qu ビットを測定し,f (x) = 1 を得る確率を調べると,それは r/2n となる。ここで,r は
f (x) = 1 となる個数である。 つまり,終状態ベクトルは
√
|vf 〉 = 1 − q 2 |ϕ0 〉 ⊗ |0〉 + q |ϕ1 〉 ⊗ |1〉
で表せる。ここで,|ϕ1 〉 と |ϕ0 〉 は正規化された n qu ビットの状態で,q =
√
r/2n . 以上で SAT 問題の量
子計算は終わる。
そこで,r が測定できるほど大きな値であれば,SAT 問題は解けたことになるが,ベネットは私へのメー
ルで“r が小さければ,解が存在するかどうかわからない(測定できない)のではないか?”という疑問を投げ
かけてきた。これに関して,2年間は解答できないでいたが,そのころ “情報力学”の絡みでカオスの研究も
行っていたため,突然,カオスを用いれば q =
√
r/2n の値を増幅することができるのではないかという考え
が浮かんだ。つまり,r が小さい場合も考慮して,q を観測せず,それを増幅することを考える。この増幅の
ために我々はロジステック写像を用いたカオス増幅を用いた。こうして,量子アルゴリズムと非線形な(カオ
ティックな)状態変化を組み合わせることによって,NP 完全問題を多項式時間で解くアルゴリズムを示すこ
とができたのである [14, 17, 2]。
我々の方法は,カオスを起こす非線形写像を用いていることから,通常の量子アルゴリズムのみ,すなわ
ち,ユニタリー変換のみで処理するものでなく,ユニタリー計算を越えた計算が必要になる。
さらに,私とアカルディは適応力学の考えの下で,同じ問題に対する他のアルゴリズムも示した [15, 2]。そ
のアルゴリズムは,時間のスケーリングを採る弱結合極限を用いるものである。
最近,これらの非ユニタリーなアルゴリズムの基礎となるチューリング機械として一般化した量子チューリ
ング機械の理論を構成することができ,それを用いて SAT 問題も議論できることが分かった [18]。
4
3.2 量子テレポーテーションの研究
量子テレポーテーションとはアリスが任意の量子状態を,そのままの形で,ボブに送る通信過程である。こ
れができれば,あらゆる情報は量子状態で記述でき,と同時に,量子状態は観測されると容易にその形を変え
てしまい盗まれたことが分かるので,情報伝送のセキュリティの面でも通信の革命になるものである。
量子テレポーテーションの数理的記述の基礎を説明しよう [12, 2]。アリスの持つ2つの系はヒルベルト空
間 H1 ,H2 で記述されるとし,アリスが送りたい未知の状態を(系1にある)とする。また,ボブはヒルベル
ト空間 H3 を持つとする。量子テレポーテーション過程は以下の4つのステップに分けることができる。
Step1:アリスのもつ系2とボブのもつ系3をエンタングルさせる 状態 σ ∈ S(H2 ⊗ H3 ) を準備する。
Step2:アリス は,与えられた ρ と σ の合成状態 ρ ⊗ σ ≡ ρ(123) において,H1 ⊗ H2 上の適当な射影作用
∑N
素 (Fnm )N
n,m=1 によって作られた物理量 F ≡
n,m=1 znm Fnm を一回測定する。アリスは F の固有値の一
つ”znm ”を測定結果として得る。この測定後,全系 H1 ⊗ H2 ⊗ H3 における状態は
ρ(123)
nm =
(Fnm ⊗ 1)ρ ⊗ σ(Fnm ⊗ 1)
tr123 (Fnm ⊗ 1)ρ ⊗ σ(Fnm ⊗ 1)
になる。よって,ボブは次の状態を得る:
Λ∗nm (ρ) = tr12 ρ(123)
nm = tr12
(Fnm ⊗ 1)ρ ⊗ σ(Fnm ⊗ 1)
tr123 (Fnm ⊗ 1)ρ ⊗ σ(Fnm ⊗ 1)
Step3:アリスは測定結果”znm ”をボブに普通の仕方で伝える。例えば,電話で”znm ”を得たことを伝える。
Step4:ボブは聞いた結果”znm ”にする“対応KEY”を系3に施す。この“KEY”は上のユニタリー作用素の
組 {Wnm } で,前もってボブに与えられている。”znm ”に対応する“KEY Wnm ”を Step2 で得られた状態に
∗
施すと,ボブの状態は Wnm Λ∗nm (ρ)Wnm
になる。これが,状態 ρ に一致すれば,テレポーテーションが成功
したことになる。
したがって,量子テレポーテーションの問題は,“エンタングルド状態σ ∈ S(H2 ⊗ H3 ),物理量F ≡
∑N
n,m=1 znm Fnm ,及び,KEY
∗
{Wnm } を構成して,任意の状態 ρ に対して,Wnm Λ∗nm (ρ)Wnm
= ρ とで
きるか”という問題である。
この量子テレポーテーションが可能であることは,ベネット等によって EPR 状態を用いて初めて示された。
そこでは,最大なエンタングルド状態(すなわち,等確率振幅で重ね合わされた状態)が使われている。この
EPR 状態も最大エンタングルド状態も物理的にコントロールすることが非常に難しいものであるから,私と
ドイツのフィットナーは,Bose-Fock 空間の数理を用いて,コヒーレント状態をも用いることのできる新たな
テレポーテーション・プロトコルを提案した [12]。
量子テレポーテーションには,一回の伝送で,ρ を完全に送るもの(完全量子テレポーテーション;CQT
と略記)と,数回の伝送で ρ を完全に送るもの(不完全量子テレポーテーション;ICQTと略記)とに分け
られる。情報伝送に限れば,2回,3回,アリスが ρ を送っても構わないので,実質的な差はない。 なお,完
全な量子テレポーテーションのためには最大エンタングル状態が必要であることと,こうしたエンタングルド
状態を長時間維持することはけして簡単な事ではないので,CQTよりICQTの方が実現性の高いことは
断るまでもない。ベネット等による EPR ペアーを用いたプロトコルはCQTの一例であり,大矢・フィット
ナーの Fock 空間上のコヒーレント状態を用いたプロトコルはCQTとICQT両方の例を与えている。さら
に,テレポーテーション過程には以下の問題がある:(1)完全な量子テレポーテーションのためには最大エ
ンタングルド状態が必要であるか?(2)Step2 の状態変化は,最大エンタングルド状態を用いないと,入力
5
状態に関して非線形になるが,線形変換にする方法はないか?(3)無限次元ヒルベルト空間でテレポーテー
ションを扱うにはどのようにすればよいか?
私は,ポーランドのコサコウスキーとともに,コンパクト作用素の数理を駆使して(1)と(2)を一度に
解決する新たなプロトコルを考えた(KO プロトコル)[16]。問題(3)の回答の一つは [10] にあるが,KO
プロトコルでは原理的にこの問題は解決できるのである。なお,こうした量子テレポーテーションの数理を用
いて,記憶の引き出し・書き換え,および,認識といった脳機能の数理モデルを構成することができるのであ
る [11, 2].
このテレポーテーションに不可欠な量子エンタングルド状態を長時間維持することは物理的に非常に難し
く,そのことがテレポーテーションの実現に向けての大きな障壁の一つになっている。したがって,安定な量
子エンタングルド状態とは何かを考えることは重要である。そのためには,量子エンタングルド状態の詳細な
分類が必要になであろう。こうした分類と無限次元ヒルベルト空間におけるエンタグルド状態の研究も,ベラ
フキン,マョウスキィ,松岡らと行ってきている [21, 22]。
4 情報力学と適応力学の提唱
「自然は芸術を模倣する」とワイルドはいう。我々が理解している自然は芸術を模倣したそれである。20
世紀の文明を作った量子力学。その輝かしい成功を思っても,量子力学が自然それ自体を描いていると断ずる
ことは相当の楽天家でもなければできないであろう。量子力学といえども,我々の理解できる範囲で,自然の
一側面を引っ掻いているにすぎない。だとすれば,居直るしかない。自然科学は自然自体を記述しているわけ
ではない,我々の自然への思いを書き表しているのだと。自然自体とか真理とかを下を向いてしか語れないと
すれば,我々が我々自身の存在を含めた自然に対峙する仕方,理屈を考えてみよう。こうした思いの下で考え
た理屈が情報力学であり適応力学である。
4.1 情報力学
物理系や生命体は我々が扱う複雑なシステムであり,それの示す状態は様々な階層の重なりから作り出され
ている。こうした複雑な系には様々なレベルのミクロとマクロの層が存在(生命体のように時には混在)して
おり,そうした様々な層を記述する状態の在り方とその力学を見いだすことはけして容易なことではない。そ
こで,個別な系の取り扱いから一時離れて,様々な個別を抽象する系とは何か,階層とは何かを問うことを考
えた。この抽象を基にして,例えば,生命体に付随する階層とその総体の示す力学を如何に捉えるかといった
問題が考えられる。また,状態の示す性質の一つである複雑さも,多くの場合,個々のシステムに付随して定
められ,その個々のシステムの特質を調べる道具の一つにすぎない。複雑さという概念が様々な分野で個別に
扱われているといっても,それが持つ科学的意味はほぼ共通なものであるはずだから,それらを統一的に扱う
方法が存在するはずである。
こうした立場から,私は,情報と深く関わる複雑さの概念を新たに捉え直し,それと状態の変化の力学を融
合した”情報力学”を1989年に提唱し,以後,それによって物理学,遺伝学,計算機科学に関わる問題を統
一的見地から取り扱い,新たな知見を得ようと試みている。この情報力学提唱の目的の一つは生命の複雑性を
探る方法論の確立にあった [6, 2]。
情報力学は様々な領域を統一的に扱う一つの方法として生み出された理論であると述べたが,それが単に象
徴的なものではなく,科学的な道具となるためには,それはきちっとした数理構造を持っていなければならな
6
い。その数理の仔細は著書 [4, 2] を参照してもらうことにし,ここでは割愛する。
4.2 適応力学
コペルニクス大学のコサコウスキー,戸川と私は観測や測定尺度に依存する新たなカオス記述法を提案した
[13] が,その提案は,ローマのアカルディの局所力学(カメレオン力学)と同様な数理概念に依っていること
が解ってきた。その数理は時間と共に変化する状態や観測量に依存する力学であり,2004年私とアカル
ディは,それを適応(Adaptive)力学と呼び [17],その数理を30年来の懸案の問題であった NP 完全問題を
多項式時間で解く大矢とボロヴィチのカオス量子アルゴリズムに適用し,新たなアルゴリズムを見いだした
[15]。では,適応力学とはなにか?私がこの力学に考えに至った道程について説明しておこう。
形而上的想念の働きで様々な存在(現象)が我々に現前される。それらを理解することが人間の智への渇望
であろう。こうした思いが人間の存在の源にあることは古今東西何ら変わることはない。ものを理解するに当
たって,長い間その中心にあった方法論は還元論(主義)であった。還元論においても,対象の全体がそれを
構成する要素各々の働きの単なる寄せ集めであるというほど単純ではなく,“全体と個の問題”は存在してお
り,個々の要素の存在とそれらの相関・結合・統合が全体の理解をもたらしている。しかし,還元論の基本が
個々の要素の存在にあることは間違いなく,そしてこのことが,カントやヘーゲルの哲学同様,思考のフラス
トレーションを起こさせるのである。カントやヘーゲルの哲学において存在の還元が超越的存在へ向かわざる
を得なかったように,科学における還元主義もある種の超越が必要になる。だから,還元主義が間違いかとい
うと,けしてそうではない。存在とその理解を問うことはギリシャの哲学から現在の学問まで不変である。カ
ントやヘーゲル流の超越的存在という断末魔から初めて抜け出したのが,経済活動を人間存在の原理としたマ
ルクスであり,知ることの原理を求めたフッサールであった。その後,ハイデッガーを経たサルトルは“存在の
二元論”を引っ提げマルクスとフッサールの融合を試みた。ものの本質を現象の連鎖に置き換えたフッサール
の提言は無限の連鎖として超越を引きずる。存在の自己否定を見いだしたサルトルは行動の原理に窒息する。
こうした哲学における変化を引き受けると,科学における,還元論は,それに“見ることの方法論”を付け加
えることによって大きく変化するものと私は考えている。“見ることの方法論”とは“観測の形態”,“選択と適
応”,“操作と認識”などの融合によるものである。それ故,
「様々な科学における理解は,理解されるもの(観測量)とその方法(測定法)とが分離不可能であること,
従って,ものの存在の理は“あるもの”とそれを“あらしめるもの”を包摂したものでなければならない。
」
4.3 適応力学の数理構造
カオスの研究から端を発した適応力学は,大別すると観測量適応力学と状態適応力学の2つのタイプがあ
る。むろん,かなりの現象の理解にはこれらを組み合わせることが必要になることもある。 適応力学のこの
2つの型は以下のように特徴づけられる。
< 観測量適応力学 >(1)測定が観測量の捉え方(見方)に依存する力学系; (2)系の相関(相互作用等)
が観測される量の在り方に依存する力学系
< 状態適応力学 >(1)測定が状態のあり方(見方)に依存する力学系; (2)系の相関が相互作用の起き
た時点での状態に依存する力学系
数理のない哲理は危ういものである。上述した“見ることの方法”の数理を作るのは決して簡単なことではな
く,私はここ10年ほど,様々な方向から,様々な問題の回答を求めながら,その数理を考えている [2]。最
7
終的な数理にはまだ到達はしていないが,その道程で解けた問題がいくつかあり,まだしばらくこの研究を続
けていきたいと考えている。こうした適応力学の考えに則って得られた結果の一部を書いておこう。
(1)NP
完全問題を解くアルゴリズム [2, 14, 15]。
(2)カオスの強さを測る尺度の定式化とその応用 [2]。この尺度は
リヤプノフ尺度より有用。(3)生命現象の中には通常の確率や統計のルールが使えないもの多くあるが,そ
のような対象に対して新たな確率・統計公式の確立 [20]。(4) ゲノムレベルで遺伝子を比較する数理 [23]。
参考文献
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Its Applications to Nano- and Bio-systems, Springer-Verlag, TMP series.
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