第1篇 はじめに 第1章 審理の経過と控訴審への期待 第1 控訴人らの思い 控訴人ら本人113名のうち、最年長は控訴人番号47の銭谷美代子(大正8 年1月4日生)で92歳である。平均年齢は戦後生まれの2名を除いて79歳で あり、団長の控訴人番号78の星野弘は81歳である。 本訴の第一次訴訟を東京地方裁判所に提起してから4年8か月が経過した。こ の間に、本人7名が死亡し、控訴人番号19の小川シゲ子、同番号51の竹内豊 姿郎、同番号55の田淵武正の各相続人は訴訟手続を受継したが、原審原告番号 12の石川智恵子、同番号52の真田正美、同番号84の馬場泰三、同番号85 の濱田春雄の各相続人は訴訟手続を受継しなかった。老境にある控訴人らにとっ て、残された時間は長くはない。 控訴人らは、期待していた原判決が全面敗訴であったため、非常に落胆し、日 本という国は戦前と少しも体質が変わっていないように感じた。 東京大空襲から既に66年が過ぎたが、当時、20歳以上であった控訴人本人 は10名、20歳未満の控訴人本人は戦後生まれの2名を除き101名で、うち 71名は 自活能力がない15歳未満であった。 わが国は太平洋戦争の惨禍から復興し、平和と繁栄を謳歌しているという見方 が一般的であるが、空襲によって自ら重傷を負い、親兄弟を失うなどして、過酷 な境遇に置かれたまま、国の援護対象から排除され、放置され続けた控訴人らに とって、戦後は来ていないという心境である。 控訴人らは、人生の晩年にさしかかり、ひたむきに生きてきたそれぞれの人生 を振り返り、戦争被害者として、このままでは死ぬに死に切れないという思いを 強くしている。人間の尊厳を取り戻したいという心底からの願いである。 わが国の戦後処理は、空襲被害者に代表される一般戦災者に対する補償問題を 解決しない限り、国内的にもこれを終了させることはできない。 第2 原判決の不当性 控訴理由書の各所で、原判決の不当性に論及した。原判決の事実審としての最 大の誤りは、控訴人らの被害の本質とわが国の戦争犠牲者援護(補償)制度の不 条理性を看過していることである。 1 控訴人らの被害の本質 控訴人らの被害態様がさまざまであることから、被害の本質が漠然としてしま った感が拭えない。しかし、日本政府が自らの政策として開始した戦争により、 米軍の国際法違反の無差別爆撃を招いた結果、控訴人らがさまざまな被害を受け、 1 過酷な境遇に置かれた。一般社会保障では、賄うことができない被害である。 例えば、東京大空襲で自ら負傷した控訴人番号74の平田健二は、当時17歳 で、昼は軍需工場で働き、夜は私立中学の夜間部に通学していた。空襲当夜は、 父の「今度の空襲はいつもと違うぞ」という声で起こされ、大工の父に大工道具 を近くの貨物線のガードの上まで持っていくことを命じられ、急いで大工道具を 抱えてガードの土手に上がったところ、焼夷弾が降ってきて、それが右肩をかす めて右手首を直撃し、右全手指機能全廃の重傷を負った。勤務先の医務室で手当 を受けようと考え、火の海の中を勤務先に辿り着いたが、既に医務室は焼失し、 居合わせた先輩に応急の止血措置を受け、夢中で逃げ回り、一命を取り留めた。 家族8人のうち、生き残ったのは同控訴人のほか父と妹1人の3人で、母、姉(1 0日後に死亡)、妹2人と弟の5人を失い、母と妹弟3人の遺体は不明のままであ る。戦後は自活したが、右手が使えなかったため、夏はアイスキャンデーを売り、 冬はラーメンの屋台を引くなどして働き、26歳の時に友だちの世話で鉄鋼販売 店に就職し、ようやく生活が安定した。28歳で結婚し、3人の子どもに恵まれ た。69歳で退職し、都営バスの無料パスを得たかったことがきっかけで、身体 障害者手帳(3級)の交付を受け、年額9万3000円の障害給付金を受給する ようになった。青春時代は、右手の障害がコンプレックスになり、辛い思いをし た(甲F88号証の1、原審原告平田健二本人尋問の結果)。 また、控訴人番号28の川島マス、同番号29の川和啓二、同番号76の福田 美紗子、同番号113の山本麗子らは、いずれも当時3歳ないし9歳で、両親を 失って戦争孤児となり、親戚に引き取られたが、厄介者扱いされ、高校に進学す ることもできなかった。山本麗子においては、11歳ころ親戚を逃げ出し、上野 駅の地下道で3年ほど浮浪児生活をした(甲F34号証の1、35号証の1、9 0号証の1、113号証の1、控訴人川島マス本人尋問の結果)。 このような例が控訴人らの被害の典型であり、軍人軍属やその遺族の犠牲より 程度が低かったということはなく、特に、戦争孤児は軍人軍属の家庭からは生ま れることはなかった推察される。 原判決には「原告らの受けた苦痛や苦労には計り知れないものがあったことは 明らかである。」との判示はあるが、被害を具体的に事実として認定したところは 皆無である。 控訴人らの被害態様は確かにさまざまであり、生活環境にほとんど変化のなか った当事者も数名含まれているが、そのことから、過酷な境遇に置かれ、辛い人 生をひたむきに生きてきた控訴人らの被害の本質を看過することがあってはなら ない。 2 わが国の戦争犠牲者援護制度の不条理性 今日の欧米諸国における戦争犠牲者補償制度には、 「国民平等主義」と「内外人 平等主義」という二つの共通する特徴があるとされている。国民平等主義とは、 2 軍人軍属と民間人を区別することなく、戦争犠牲者に平等な補償と待遇を与える ことであり、内外人平等主義とは、補償にあたって国籍による差別をしないとい うことである。ところが、わが国の戦争犠牲者に対する援護制度の現状は、この 欧米諸国の原則とは大きく異なっている。 わが国の戦争犠牲者援護制度の推移と問題性については、後に論及するが、誤 りの根本は人間を平等に扱っていないことにある。軍人軍属に対する援護を基本 とした上、国籍条項を置き、国との特別な関係にあったことを要件としているた め、戦争に協力した度合いによって援護対象と援護内容を決める結果となってい る。 特に、旧軍人・旧準軍人に対する恩給はその階級と在職年数によって俸給年額 が決められるため、報奨金となっている。 戦傷病者戦没者遺族等援護法の1条は、 「この法律は、軍人軍属等の公務上の負 傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基き、軍人軍属等であった者 又はこれらの遺族を援護することを目的とする。」と規定している。援護の対象が 「軍人軍属等の公務上の負傷、疾病、死亡」と限定され、国との身分関係にあっ たことが要件とされており、補償における「国民平等主義」の原則からは出発し ていない。 その後、「軍人軍属」の枠が広げられたり、「準軍属」という身分が設けられ、 国民徴用令等により総動員業務に従事させられたり、軍の命令により戦闘又は戦 闘を幇助する業務に携わったりした者など、国との雇用類似の関係にあった者に まで拡大され(甲D4号証の40~41頁)、更に、原爆被爆者と引揚者のほか、 中国残留孤児等やシベリア戦後強制抑留者も特例として援護の対象に加えられた。 しかし、援護の対象を国との特別な関係にあった者や「特殊の被害」に限定す ると、必然的に「その他(大勢)」が漏れることになり、それが空襲被害者に代表 される一般戦災者にほかならない。こうした結果は、わが国の戦争犠牲者援護制 度の在り方が根本的に間違っているからである。それは、戦争犠牲者を公平に扱 っていないことにある。とても民主主義国家における戦争犠牲者援護(補償)制 度とはいえない。 ところが、原判決は、わが国の戦争犠牲者援護制度の不公平、不条理性にはほ とんど気付いていない。それは、 「学徒勤労報国隊」や「女子挺身隊」に参加した 者が「準軍属」として援護対象に加えられている事実さえ看過していることに象 徴的に現われている(原判決24頁)。 第3 審理の経過 控訴人らは、控訴審では、東京大空襲が国際法に違反する戦争犯罪にほかなら ないこと、戦争孤児になった控訴人らの被害の実態、空襲被害者を援護対象から 排除し、放置し続けてきた国の立法不作為の違憲・違法を明らかにすることに重 3 点を置き、主な書証として、甲C23号証(何鳴文教大学講師作成の「『東京大空 襲損害賠償請求事件』第一次判決の国際法適用の意見書」、甲C34号証(藤田久 一関西大学名誉教授作成の「東京大空襲に適用される国際法」と題する意見書)、 甲D51号証(宍戸伴夫作成の「東京大空襲・謝罪及び損害賠償請求事件につい ての意見書」)、甲D55、62号証(青井美帆成城大学准教授作成の「東京大空 襲についての意見書=空襲被災者の救済と立法不作為の違憲-国家賠償責任につ いて-」、同学習院大学法務研究科教授作成の「東京大空襲訴訟追加意見書=『特 別犠牲を強制されない権利』と戦争被害受忍論」)、甲D63号証(杉山千佐子作 成の陳述書)、甲E10、13号証(逸見勝亮北海道大学副学長の「第二次世界大 戦後の日本における浮浪児・戦争孤児の歴史」、 「敗戦直後の日本における浮浪児・ 戦争孤児の歴史」と題する各論文)を提出し、証人として、荒井信一茨城大学・ 駿河台大学名誉教授(国際関係史)、逸見勝亮北海道大学副学長(教育学史)、杉 山千佐子及び青井未帆学習院大学法務研究科教授、控訴人本人として、控訴人番 号34の草野和子、同番号93の吉田由美子、同番号94の渡邊紘子及び同番号 28の川島マスの各尋問を申し出た。 一方、被控訴人国は、 「本件の審理に当たって事実関係の確定は不要であるから 証拠調べをする必要はない」とする立場から、控訴人らの人証の申出は必要性を 欠くものであって、いずれも却下されるべきであると主張した。 結局のところ、裁判所は、控訴人4名の本人尋問だけを採用し、4名の証人は 採用しなかった。 そして、2011(平成23)年2月28日(第3回口頭弁論)の期日に控訴 人草野和子と同吉田由美子の各尋問を実施し、同年4月20日(第4回口頭弁論) の期日に控訴人渡邊紘子と同川島マスの各尋問を実施した。 第4 控訴審への期待 甲B8号証の野坂昭如著「火垂るの墓」は、1945(昭和20)年6月5日の 神戸空襲で、心臓を患っていた母を大火傷で失い、海軍大尉の父親は巡洋艦に乗り 組んだまま音信がなく、残された中学3年生の清太とその妹の四歳の節子が、身を 寄せた親戚で疫病神扱いされ、1月ほどで親戚を出て、横穴で暮らすうち、節子が 8月22日に栄養失調症で衰弱死し、その遺体を焼いた後、省線三宮駅構内で浮浪 児生活をしていた清太も9月22日に栄養失調症で衰弱死するという兄妹の被災 と死に至るまでの悲話である。その最後は「昭和20年9月22日午後、三宮駅構 内で野垂れ死にした清太は、他に二、三十はあった浮浪児の死体と共に、布引の上 の寺で荼毘に付され、骨は無縁仏として納骨堂へおさめられた。」と結ばれている。 控訴人番号113の山本麗子の弟は、引き取られた別の親戚で冷遇され、馬小屋 で「お母ちゃん、お母ちゃん」と言いながら衰弱死し、この悲惨な死に方を見た同 控訴人は、親戚には居られないと思い、東京に戻り、上野駅の地下道で浮浪児生活 4 をしたというのである(甲F131号証の1)。 こうした小説や実例からすると、自力では生きられない戦争孤児たちを保護する ために、国や自治体は何をしていたのか疑問に思わざるを得ない。終戦前後の非常 事態のもとでは、どうしようもなかった時期もあろうが、国民の生命と生活を守こ とが国や自治体の第一の任務と捉え、積極的に職権を行使して可能なことをすると いう基本方針を立てていれば、孤児を含む空襲被害者を放置するようなことはなか ったはずである。 終戦後、日本を「非軍国主義化」するというGHQの占領政策に基づき、194 6(昭和21)年中に軍人恩給が廃止され、軍事扶助法も戦時災害保護法も廃止さ れたが、1952(昭和27)年4月28日に日本国との平和条約が発効するや、 同月30日に戦傷病者戦没者遺族等援護法が公布・施行され、1953(昭和28) 年8月には軍人恩給も復活したため、戦前の軍人国家体質が温存されることになっ た。しかも、一般戦災者を援護対象とする戦時災害保護法は復活されなかったため、 旧軍人軍属等が優遇される不公平なものとなった。日本国憲法の制定によって、わ が国は国民主権の民主的な平和国家に生まれ変わったのであるから、戦争犠牲者に 対する援護制度の在り方も根本的に検討し直す必要があった。しかし、当時の政治 情勢もあって、根本から再検討されることはなかった。 このような課題は主として立法政策の問題であるが、立法府(国会)も行政府(内 閣)も現在に至るまで、戦争被害受忍論によって、空襲被害者を含む一般戦災者を 援護対象から排除する態度を貫いてきたが、これが法制度として許されるかどうか である。 ところで、1963(昭和38)年8月3日公布の戦傷病者特別援護法は、1条 (目的)として、「この法律は、軍人軍属等であった者の公務上の傷病に関し、国 家補償の精神に基づき、特に療養の給付等の援護を行うことを目的とする。」と規 定し、3条(国、地方公共団体及び国民の責務)として、1項で「国は、戦傷病者 に対する国民の理解を深めるように努めるとともに、戦傷病者がその傷病による障 害を克服し、社会活動に参与しようとする努力に対し、必要な措置を講じなければ ならない。」、2項で「地方公共団体は、前項の国の責務の遂行に協力しなければな らない。」、3項で「国民は、戦傷病者が今なお置かれている特別の状態に深く思い をめぐらし、戦傷病者がその傷病による障害を克服し、社会活動に参与しようとす る努力に対し、協力するように努めなければならない。」と規定している。 国が軍人軍属等の戦傷病者を物心両面から援護しなければならないのは当然で あり、地方公共団体が国に協力するのも当然である。しかし、わざわざ3項を設け、 国民全部に協力義務を課すのは問題である。国民の中には、空襲被害者をはじめと する一般戦災者も含まれ、空襲によって障害者になった者も、親兄弟等を失って辛 く苦しい生活を続けている者も、軍人軍属等がその傷病による障害を克服し社会活 動に参与しようとする努力に対して協力しなければならないというのである。この 5 3項は、一般戦災者の存在を無視する以上のものがあり、わが国の戦後における戦 争犠牲者援護制度の不条理性を象徴している。戦争犠牲者は、軍人軍属等であろう と、一般国民であろうと、公平に援護(補償)されなければならない。これは、日 本国憲法13条、14条の当然の要請であり、立法府と行政府の基本的な義務であ る。 控訴人らとしては、わが国の戦後処理の在り方として、空襲被害者を援護対象に することなく放置したことは、決して許されるものではないと確信する。 控訴審には、このような観点からの積極的な司法判断を期待するものである。 【以下、余白】 6 第2章 東京大空襲の被害の実態 第1 はじめに 原判決は、原審原告12名の本人尋問における各供述や甲F号各証中の各陳述書 の記載によれば、「原告らの受けた苦痛や苦労には計り知れないものがあったこと は明らかである。」との判断を示したものの、被害の発生を抽象的に認めたにとど まり、具体的に被害を認定し、その態様や程度、救済の必要性について突き詰めた 判断をしたとは思えない。 そこで、東京大空襲の被害の実態を重点的に整理し、控訴人らの被害の態様と特 徴を指摘するとともに、空襲被害者が放置された実態を明らかにしたい。 控訴人らの被害とその特徴については、控訴理由書23ないし69頁において個 別的かつ具体的に主張した。 控訴人らの各被害状況の要点は、別紙「東京大空襲訴訟控訴人ら被害一覧表」掲 記のとおりである(甲F号各証)。 第2 1 東京大空襲と控訴人らが被害を受けた空襲 東京都五大空襲 内閣総理大臣官房管理室が1979(昭和54)年3月に刊行した「全国戦 災史実調査報告書」(乙10号証)によれば、米軍による東京都23区への空 襲は、1942(昭和17)年4月18日から1945(昭和20)年8月1 5日の間に、73回、来襲機数延4347機、死者数9万5996人、負傷者 数7万0971人、焼失戸数75万5735戸のぼり、1945(昭和20) 年3月10日、4月13・14日、4月15日、5月24日、5月25・26 日の空襲を東京都五大空襲と称されている。 この東京都五大空襲の被害状況は、1942(昭和17)8月10日第1刷 発行の東京都編集「東京都戦災誌」(乙11号証)に掲記されている警視庁調 査の数値を拾うと、次のとおりである(乙10号証の全国戦災都市別被害状況 表の東京都五大空襲に関する数値と一致)。 ① 3月10日の空襲(東京大空襲) 敵機数 150 ② 死 者 8 万 3793 死 者 160 26 万 7171 罹災者 100 万 8005 2459 負傷者 4746 全焼家屋 17 万 0546 罹災者 64 万 0932 4月15日の空襲(東京南端部大空襲) 敵機数 200 ④ 4 万 0918 全焼家屋 4月13・14日の空襲(東京北部大空襲) 敵機数 ③ 負傷者 死 者 負傷者 941 1620 5月24日の空襲(東京南部大空襲) 7 全焼家屋 5 万 0635 罹災者 21 万 3277 敵機数 死 250 ⑤ 者 負傷者 762 4130 全焼家屋 6 万 4060 罹災者 22 万 4001 5月25・26日の空襲(東京中心部大空襲) 敵機数 250 死 者 3242 負傷者 全焼家屋 罹災者 1 万 3706 15 万 5266 55 万 0683 なお、これらの数値は、警視庁が把握した限りのものであり、正確とはいえ ないが(例えば、3月10日の大空襲の際にマリアナ基地群から出撃したB2 9が325機であったことは証拠上明らかである。)、被害の規模を把握するに は十分である。 東京都五大空襲のうち、3月10日の空襲による被害が圧倒的に大きく、東 京大空襲と呼ばれている。 2 控訴人らが被害を受けた空襲 控訴人らのほとんどは、3月10日の大空襲によって被害を受けたが、控訴 人番号15の今津進、同番号60の戸田成正、同番号83の三宅駿一、同番号 95の石川テツ、同番号107の廣瀬英治(重傷を負ったのは姉シン)、 同番 号113の山本麗子の6名は、4月13・14日、15日、5月24日、25 日の各空襲によって被害を受け、控訴人番号61の豊村美恵子、同番号62の 永井欽一、同番号94の渡邊紘子の3名は、3月10日の大空襲のほか、他の 空襲(機銃掃射を含む。)でも被害を受けた(甲F号各証)。 第3 太平洋戦争における東京大空襲 甲A、B、C号各証と歴史上公知の事実によれば、次の事実が認められる。 1 東京大空襲に至る歴史的経過 日本政府は、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件をきっかけとし て日中戦争を開始した後、1938(昭和13)年4月1日に国家総動員法を 公布し(同年5月5日から施行)、国民を戦争に総動員する体制を整え、そし て、1941(昭和16)年12月8日に英国領マレー半島への上陸作戦とハ ワイ真珠湾への奇襲攻撃によって、米英と開戦し、太平洋戦争に突入した。 なお、訴状と原審における最終準備書面書及び控訴理由書では、日本政府が 「米英に宣戦を布告し、太平洋戦争に突入した」と主張したが、甲C34号証 の藤田意見書の13頁によれば、開戦条約に則った宣戦の布告はなかったと見 るのが戦後の学説の一般的傾向であると指摘されているので、日本政府が「米 英に宣戦を布告した」との主張は撤回する。 日中戦争も太平洋戦争も、日本政府がその政策として開始した戦争であるこ とは歴史上明らかである。 戦況は、初期のころは日本軍が攻勢であったが、1942(昭和17)年6 月にミッドウェー海戦で敗北し、1943(昭和18)年2月にはガダルカナ 8 ル島を撤退し、1944(昭和19)年7月ないし8月にマリアナ諸島のサイ パン島やグァム島で日本軍が全滅するに及び、米軍が対日戦線の根拠地をマリ アナ諸島に移し、最新鋭の戦略爆撃機であるB29を配備するに至った。 米軍は、1944(昭和19)年10月にはサイパン島に航空基地を完成さ せ、早くも同年11月1日にはB29一機が東京上空を偵察し、 同月24日 には東京初空襲を実行した。以後、日本本土への空襲が本格化した。 2 米軍による東京大空襲 米軍の統合参謀本部がB29による日本本土への爆撃計画を決定したのは 1944(昭和19)年4月6日であり、都市工業地域等への爆撃が計画され、 都市焼夷弾攻撃は、できるだけ多くの労働者と住民を焼くことが意図されてい た(甲C6号証 「荒井意見書」の6頁)。 1945(昭和20)年1月に米軍マリアナ基地の第21爆撃機集団司令官 に着任したカーチス・E・ルメイは、東京大空襲を実施するにあたり、人口密 度の高い東京下町を選定し、爆撃時間帯を昼間から夜間に切り替え、使用爆弾 を焼夷弾一本に絞り、爆弾の命中精度を向上させるため、東京への侵入高度を 低空(1500ないし3000メートル)に変えた。 そして、同年3月9日にマリアナ基地を発進した米軍のB29・325機は、 3月10日午前零時7分から173分間に、東京の下町28.5平方キロに焼 夷弾33万発、1665トンを投下し、大火災を発生させた。無差別じゅうた ん爆撃であり、死者は10万人以上、負傷者は約4万人、焼失家屋は約26万 8000戸、被災者は100万人にのぼったと推定されている。火炎地獄とい う以外になく、東京の下町は壊滅し、一家全滅も多かった。 3 東京大空襲の特性 ⑴ 無防守都市への無差別爆撃 米軍のB29による東京大空襲以後の東京空襲は、無防守都市への無差別 爆撃であり、戦略爆撃であった。 広島・長崎への原爆投下に象徴される無差別爆撃は、国際法に違反する反 人道的なものである(甲C6号証の11~21頁)。 特に、東京大空襲は、夜間における市街地焼夷攻撃であり、推定10万人 以上の一般市民を死亡させたものであって、広島、長崎への原爆投下と本質 は同じある。 ⑵ 日本本土(内地)も戦場化 乙10号証の「全国戦災史実調査報告書」 (総理府が昭和 52、53 年度の両 年度にわたる社団法人日本戦災遺族会に委託して行った調査)によれば、米 軍による空襲、艦砲射撃で被災した都市は全国で200を超え、「一般戦災 死没者」が100人以上にのぼった都市は広島市、長崎市及び沖縄県下の都 市を除いて、大阪市、名古屋市、神戸市、横浜市など74都市に及んだとさ 9 れている。 主として飛行機を用いた爆撃であり、地上戦には至らなかったが、日本本 土も戦場と化したといわなければならない。 第4 控訴人らの被害 甲E、F号各証、原審原告12名の本人尋問の結果(ただし、原審原告石川 智恵子は死亡し、その相続人は控訴を申し立てなかった。)及び原審証人野田 正彰の証言によって、控訴人らの被害の態様と特徴を明らかにする。 1 被害の態様 控訴人らの被害の態様を被害の質と程度を考慮しながら整理すると、次のと おりである。 ⑴ 空襲現場にいて、重傷を負った控訴人 7名 控訴人番号51、60、61、74、89、96、110 控訴人番号61の豊村美恵子は、 当時18歳で、機銃掃射の銃弾が右腕 に当たったため、右腕切断の手術を受け、その後もこれに原因する傷病で6 回も手術を受け、身体障害2級と認定された。 控訴人番号74の平田健二は、 当時17歳で、焼夷弾が右肩をかすめて 右手首を直撃し、右全手指機能全廃となり、身体障害3級と認定された。 控訴人番号96の内田道子は、当時12歳で、自宅前に落下した焼夷弾の 衝撃で飛ばされた際に腰に負傷し、その傷が化膿したため腰に拳が入るほど の穴が残り、15年間も冬になると高熱が出て傷口が化膿したほか、股関節 も次第に悪くなり、58歳時に両股関節に人口関節を入れる手術を受け、身 体障害3級と認定された。 控訴人番号51の竹内豊姿郎(死亡)、同番号60の戸田成正、同番号8 9の山口美智子、同番号110の宮崎信子は、いずれも顔面と手などに大火 傷を負って、ケロイドと耳殻の変形や手指の伸展不全の障害が残り、空襲時 の破局的体験とともに、精神的負荷となっているが、自分で耐えるほかなか った。 しかも、控訴人番号96の内田道子を除く6名は親を含む親族を失い、特 に同番号61の豊村美恵子は、両親と姉弟を亡くし、同番号74の平田健二 は、母と姉、妹2人及び弟を亡くし、同番号110の宮崎信子は、当時17 歳で、母と弟を亡くし、父親が昭和19年10月に病死していたため、 妹 と二人だけが残された。 いずれも重い外傷を、個人的な負い目を抱きながら耐え、ひたむきに生き てきたのであるが、個人的に耐えることは困難であった。 ⑵ 両親を含む親族を失った控訴人 43名 控訴人番号2、11、12、14、15、16、17、19、28、29、 10 30、32、34、37、40、41、42、43、48、49、52、5 4、55、56、58、61、64、66、73、75、79、82、83、 84、87、88、91、93、102、103、105、112、113 うち、20歳以上は控訴人番号2の浅井清、同番号15の今津進、 同番 号43の佐藤進、同番号64の中島二三男、同番号87の山上キヌの5名に とどまっている。その余の38名はいずれも20歳未満であり、戦争孤児に なった。 ⑶ 父を含む親族を失った控訴人 20名 控訴人番号6、10、21、23、33、36、38、51、53、67、 72、76、81、86、89、90、94、97、100、108 うち、控訴人番号81の松島進と同番号97の浦野美保子の2名は既に母 を亡くし、同番号76の福田美紗子は、空襲後1年余りのうちに結核が重く なって入院していた母を亡くしたため、両親を失うことになり、いずれも2 0歳未満で、戦争孤児になった。 父を失った家族は母子家庭となったが、母親の頑張りにも限界があり、子 どもの苦労も大きかった。 例えば、控訴人番号21の奥川惠司は、当時6歳で、父を東京に残し、母 と姉と三人で福井県敦賀市の母の実家へ疎開していたところ、父を失い、病 弱な母と子ども2人の3人で、叔父が営む古本屋の二階で遠慮から音も立て られないような生活を強いられた。高校にも行けず、中学を卒業して市役所 に勤務したが、この時点で生活保護は打ち切られた。20歳になって市の正 職員となり、昭和37年に姉が上京した後、母は昭和39年に肋膜炎で入院 し、昭和43年に亡くなった(甲F25号証の1)。 控訴人番号67の中村照明は、当時13歳で、父と16歳の兄を仕事の都 合で東京に残し、母と子ども5人が愛知県一宮市の父の実家に疎開中、父と 長兄を失った。母は5人の子どもを育てるため必死で働いた。昭和25年に 18歳で上京し、建具屋に奉公して、母に仕送りを続けた。昭和35年に結 婚し、祖父が板橋に所有していた家作を建て直し、母や弟妹を呼び寄せ、一 生懸命働いた。父の遺骨は不明のままだが、兄の遺骨は、近所の人から東京 都慰霊堂に保管されていることを知らされ、30回忌の際に引き取った(甲 F78号証の1)。 控訴人番号94の渡邊紘子は、当時12歳で、3月10日の大空襲では、 一足後れて逃げた父を失い、避難先の千葉市では、同年7月7日の機銃掃射 により、自身が背負っていた弟と母が背負っていた妹を失った。母は二人の 子どもとの生計を維持するため、野菜や米の行商をした。1年ほどして東京 に残っていた祖父母に弟と一緒に引き取られ、生活は苦しかったが、アルバ イトをしながら高校を卒業した。母は五井に移って残り、身体を悪くしたが、 11 農業の手伝いなどをして働いた。就職活動の際、大手の会社からは片親であ ることを理由に断られ、衝撃を受けた。幸い、日本橋宝町にある洋酒問屋に 就職することができた。母は平成2009(平成21)年に亡くなったが、 空襲のことは一度も口にしなかった(甲F112号証の1、控訴人渡邊紘子 本人尋問の結果)。 ⑷ 母を含む親族を失った控訴人 26名 控訴人番号1、3、5、8、20、24、25、27、35、39、45、 46、47、50、59、60、70、74、80、85、98、99、1 04、109、110、111 うち、控訴人番号1の青木薫、同番号25の金田マリ子、同番号85の八 木栄一、同番号99の古家幾久江、同番号110の宮崎信子の5名は、既に 父を亡くしていたため、両親を失うことになり、いずれも20歳未満で、戦 争孤児になった。 控訴人番号45の篠原京子は、育ての母とお手伝いさんの女性と三人で生 活していたが、6歳で育ての母を失って、戦争孤児になり、自分の出自を知 りこともできなくなった(甲F53号証の1)。 母を失った家庭は父子家庭となったが、父の苦労もさまざまであり、幼い 子どもの境遇は母子家庭の場合より良いということなかった。 控訴人番号8の飯田吉利は、当時10歳で、静岡県藤枝市の叔母方に縁故 疎開中、母と兄妹を大空襲で失い、軍需工場の夜勤から帰った父が瓦礫の中 を捜し回ったが、妻子は見つからなかったという。昭和22年5月に父と東 京に戻り、父の勤務先の工場のバラック小屋に住み込んだが、食うや食わず の生活で、学校へ弁当を持っていくことができなかった。昭和25年3月に 形だけ新制中学校を卒業し、父と同じ工場に機械見習工として就職し、なん とか三度の食事がとれるようになった。父は66歳になった昭和31年に勤 務先から退職を言い渡され、その翌朝吐血して倒れ、肺結核と診断された。 長い間の苦労が身体を蝕んでいたのであり、必死で看病した結果、父は間も なく元気を取り戻し、82歳まで生きた。こうした生活から、社会の矛盾を 感じ、労働組合の結成に加わった。昭和38年に結婚し、家庭の温もりを感 じることができた(甲F10号証の1)。 控訴人番号70の西脇みのるは、当時9歳で、兄と弟と3人で茨城県内の 祖父母方へ縁故疎開中、東京に残っていた母と妹が大空襲で死亡し、3月1 3日に父が母と妹の遺骨が入った小さな骨壺を抱き、下の弟の手を引いて帰 ってきた。父は東京に戻ったが、和裁師としての仕事がなく、生活は苦しか った。2年ほど過ぎて、父は和裁職人として住み込みで働き、仕送りをして くれるようになったが、農地を持たない祖父母の生活は苦しかった。祖父母 と子ども3人は農家の手伝いをし、芋類や野菜をもらって生活した。生活が 12 苦しく、兄が米を盗みに入って捕まり、近所の人から白い目で見られたため、 中学に入学したばかりの同控訴人は登校することができなかった。中学3年 になっても登校することができず、中学は行かないまま終わった。弟2人も 中学を卒業すると、東京に出て働いた。21歳で田舎を引き払い、東京の洋 裁店に住み込み6年間働いた。その後、結婚して、息子と娘に恵まれた。父 は86歳で亡くなった(甲F81号証の1)。 ⑸ 戦争孤児になった控訴人 47名 控訴人番号1、11、12、14、16、17、19、25、28、29、 30、32、34、37、40、41、42、45、48、49、52、5 4、55、56、58、61、66、73、75、76、79、81、82、 83、84、85、88、91、93、97、99、102、103、10 5、110、112、113 ア うち、10歳未満の者 13名 控訴人番号25の金田マリ子、同番号28の川島マス、同番号29の川 和啓二、同番号34の草野和子、同番号45の篠原京子、同番号76の福 田美紗子、同番号85の八木栄一、同番号88の山口悦代、同番号93の 吉田由美子、同番号103の関和子、同番号105の竹中順三、同番号1 12の山本芳子、同番号113の山本麗子 イ うち、10歳以上15歳未満の者 19名 控訴人番号14の井上常一、同番号16の今橋清子、 同番号17の岩 田健、 同番号19の小川シゲ子(死亡)、同番号30の菊地良子、同番号 32の城森満、同番号41の酒井幸三郎、同番号48の高橋明子、同番号 49の高橋喜美子、 同番号54の谷鐵夫、同番号56の田村曻、同番号 73の東小川榮子、 同番号81の松島進、同番号83の三宅駿一、同番 号84の森利治、同番号91の山之内貞子、同番号97の浦野美保子、同 番号99の古家幾久江、同番号102の柴トミ子 ウ うち、15歳以上20歳未満の者 15名 控訴人番号1の青木薫、同番号11の市川勇、同番号12の伊藤繁、同 番号37の小松忠男、同番号40の酒井明四郎、同番号42の佐久間忠行、 同番号52の田中章三、同番号55の田淵武正(死亡)、同番号58の千 葉眞佐枝、同番号61の豊村美恵子、同番号66の中村志げ、同番号75 の福井以津子、同番号79の増田巖、同番号82の松本重子、同番号11 0の宮崎信子 エ うち、一人だけ残された者 19名 控訴人番号11、12、14、16、25、45、48、54、55、 56、58、73、81、84、91、93、102、103、112 控訴人番号25の金田マリ子、同番号45の篠原京子、 同番号93の 13 吉田由美子、同番号103の関和子、同番号112の山本芳子の5名は、 10歳未満で、いずれも親戚等に引き取られ、同番号14の井上常一、同 番号16の今橋清子、同番号48の高橋明子、同番号54の谷鐵夫、同番 号56の田村曻、同73の東小川榮子、同番号81の松島進、 同番号8 4の森利治、 同番号91の山之内貞子、同番号102の柴トミ子の10 名は、10歳以上15歳未満で、いずれも親戚等に引き取られた。 控訴人番号11の市川勇、同番号12の伊藤繁、同番号55の田淵武正、 同番号58の千葉眞佐枝の4名は、15歳以上で、いずれも自活した。 オ うち、自活した者 14名 控訴人番号1、11、12、37、41、42、52、55、58、6 1、66、75、79、82 15歳以上20歳未満の者は、控訴人番号40と同番号110の2名を 除き、いずれも自活し、15歳未満でも、控訴人番号41の酒井幸三郎は、 13歳であったが、東京大空襲後に学徒動員で働くことになり、頼る者も なかったため自活し、働きながら定時制高校も卒業した。 控訴人番号1の青木薫は、当時17歳で、父は既に病死し、大空襲では 母と社会人になったばかりの兄及び女学校1年生の妹を失った。同控訴人 は、勤労動員の夜勤で向島の工場にいたため難を免れ、中学3年だった弟 と疎開していた下の弟及び妹2人が残された。女学校を卒業した同控訴人 は、就職した会社の社宅に入り、1歳下の弟と共に我武者羅に働き、弟妹 3人を養育した。自分は弟妹が全員結婚するまで結婚しないと決め、40 歳を過ぎて後妻に入ったが、子どもはなく、一緒に苦労した下の弟は昭和 54年に49歳で中学生と高校生の子どもを残して突然死亡した。自分を 犠牲にした人生であったが、他の生き方はできなかったと思っている(甲 F1号証の1)。 カ うち、親戚等に引き取られた者 32名 控訴人番号14、16、17、19、25、28、29、30、32、 40、45、48、49、54、56、73、76、81、83、84、 85、88、91、93、97、99、102、103、105、110、 112、113 自活能力のない戦争孤児は、親戚等に引き取られたが、その多くは厄介 者扱いされ、中には虐待された者もおり、孤児の悲哀を味わい、生涯癒さ れることのない心の傷となった。 ⑹ 夫を含む親族を失った控訴人 2名 控訴人番号31、77 控訴人番号31の木林花代は、当時23歳で、父が営む工場を手伝ってい た夫と妹2人を失い、昭和20年4月に疎開先で長男を出産し、昭和25年 14 に東京に戻り、同年中に弟の知り合いの男性と再婚し、また、同番号77の 古川千賀子は、当時24歳で、夫と父母を失い、4人の子どもを連れて姉の 嫁ぎ先の世話になり、間もなく、下の子2人を亡くし、その後、奇跡的に生 き残った義祖母(亡父の二番目の母)も一緒に住むようになり、2年余りの 寡婦生活の後、弟の友人から結婚を申し込まれ、子ども2人と義祖母も一緒 という条件で再婚し、それぞれひたむきに生きた(甲F37号証の1、同9 1号証の1)。 ⑺ 姉が重傷を負った控訴人 1名 控訴人番号107 廣瀬英治は、姉シンが大火傷を負い、顔から胸、腿、掌、指等の肉が焦げ て落ちた上、2、3歳程度の知的障害者となったところ、母が同姉を30歳 代のころに栃木県内の障害者施設に入所させるまで世話をしたが、平成3年 1月に母が86歳で亡くなったのを機に、施設からは同姉をこれ以上置けな いと言われていたことから、妻の協力を得て同姉を自宅に引き取り、妻と共 にホームヘルパーの資格も取得し、同姉の世話をしている(甲F125号証 の1、17、原審原告廣瀬英治本人尋問の結果)。 ⑻ 兄弟姉妹を含む親族を失った控訴人 8名 控訴人番号4、22、44、62、63、65、71、92 控訴人番号22の小倉功は、当時6歳で、長兄を失ったが、焼け出されて 父母が大火傷を負い、父が歯科医院を再開するのに苦労し、子どもなりに辛 い思いをした(甲F26号証の1)。 控訴人番号63の中島享子は、当時15歳で、実母は既に亡く、弟と育て の親である祖父母を同時に失ったものであり、被害は大きかった(甲F第7 4号証の1)。 控訴人番号65の中野喜義は、 当時15歳で、火焔地獄の中をかろうじ て生き延びたが、兄と伯父を失い、父が働く意欲を無くしてしまったため、 進学を諦め、弟と共に肉体労働をして家計を支えなければならなかった(甲 F76号証の1)。 ⑼ 祖父母・おじ・おば・いとこ・義母・義兄弟を失った控訴人 8名 控訴人番号7、9、13、26、57、78、95、101 控訴人番号78の星野弘は、当時14歳で、もともと母子家庭であり、大 空襲の際は、母と姉の先に立って逃げ、家は失ったが、命は助かった。しか し、深川区三好町に住んでいた伯父夫婦が死亡した。この伯父夫婦とは養子 縁組をする約束が亡父との間にあったもので、同控訴人は、伯父夫婦を大切 に思い、昭和21年春に仮埋葬地の猿江公園で伯父夫婦の墓標を発見し、そ の遺体を収容した。長兄は復員して別になり、頼りにしていた次兄が戦死し、 母は闇物資の果物を売ったりして家計を支え、同控訴人は、昭和23年3月 15 に実業学校を卒業して就職し、家族の生活を支える重い責任を負うことにな った(甲F92号証の1、原審原告星野弘本人尋問の結果)。 控訴人番号95の石川テツは、当時13歳で、既に母は亡く、大空襲では 父と共に生き残ったが、昭和20年4月3日に父親を心臓病で亡くし、同年 4月13日の空襲では住居を失い、長野県岡谷市の叔母方に疎開し、戦後は 東京に戻り、復員した兄と生活した。昭和30年に結婚したが、夫の母と弟 は大空襲で死亡し、その遺骨も不明であった(甲F113号証の1)。 ⑽ 住居だけを失った控訴人 4名 控訴人番号18、68、69、106 いずれも生活の基盤を失い、親と共に苦労することになった(甲F22号 証の1、同79号証の1、同80号証の1、同124号証の1)。 控訴人番号106の豊田和子は、当時8歳で、父母は食堂を経営していた ところ、着のみ着のままで埼玉県へ逃げ、後日、母が様子を見に家に戻った 時には、家は残っていたものの、他人に占拠され、登記簿が焼失していたこ ともあって、取り戻すことを断念し、住居を失ったことから、東京に帰るこ とができなかった。 2 被害の特徴 ⑴ 生存基盤の喪失 東京大空襲に代表されるナパーム焼夷弾による空襲は、人も住居もすべて を焼け尽くす作戦であり、人の生存基盤を破壊するものであった。 死ぬも生きるも地獄であり、親も住居も失った幼い子どもたちは生きる術 を失い、過酷な境遇に置かれた。 空襲現場にいながら生き残った者は幸運であったが、その破局的体験はト ラウマとして残った。特に、後遺症を伴う重傷を負った者は、心身の負荷と して逃れ難いものとなった。 控訴人らのうち、戦後に出生した控訴人番号26の蒲生眞紗雄、同番号5 7の千葉利江の両名は別論として、住居が空襲現場から離れていたり、他の 地域にあったりして、住居の焼失を免れ、生活環境にほとんど変化がなかっ たのは、控訴人番号4の足立史郎、同番号7の安藤健志、同番号9の生本巖、 同番号13の稲葉喜久子、 同番号101の眞田恒子の5名にとどまる。 ⑵ 多くの戦争孤児の発生 都市市街地への無差別爆撃は、子どもを守ろうとする多くの親を殺し、子 どもだけが生き残ったり、疎開先にいた子どもだけが残されたりし、多くの 孤児が生まれた。 控訴人らのうち、戦争孤児になった者は47名(41%余り)にのぼり、 そのうち、10歳未満は13名、10歳以上15歳未満は19名であった。 15歳未満で自活能力がなかった控訴人らの多くは、親戚等を転々とさせ 16 られた上、厄介者扱いされた。学校にも満足に行くことができず、本来の能 力を十分に伸ばすこともできなかった。幼い者ほど悲惨であった。 例えば、控訴人番号28の川島マスは、当時5歳で、兄と共に福島県内の 母方祖母方に縁故疎開していたところ、父母と弟妹の4人を大空襲で失い、 伯母や叔父に育てられたが、子守、炊事、農作業などを手伝わされ、肩身の 狭い生活を強いられ、兄は叔父の長男が高校へ進学するため、定時制高校も 中退させられ、上京して就職した。同控訴人も中学を卒業した後、上京して 就職し、クリーニング店を開店する夫と結婚したが、1967(昭和42) 年から1996(平成8)年にかけて、従兄の家族から「国が育てるべき子 どもだったのだから、養育費を払ってくれ」と催促され、辛い思いをした(甲 F34号証の1、控訴人川島マス本人尋問の結果)。 控訴人番号34の草野和子は、当時9歳で、3歳下の弟と茨城県内の母の 実家に縁故疎開していたところ、父母と隣に住んでいた父の弟家族5人を大 空襲で失い、17歳年長の異母兄に弟と従弟の3人で引き取られたが、兄に は3人の子どもがおり、兄嫁には食べ物で差別され、悲しく、ひもじい思い をした。兄の長男を背負っているのも忘れ、京浜急行の踏み切りに立ち、通 過する電車の激しい音に、背中の子どもが泣き出し、われに返ったこともあ った。早朝の納豆売りなどのアルバイトもしたが、風呂に行く余裕も、暗く なって行水をした。中学の担任の先生の働きかけで、定時制高校に進学した が、就職は両親がいないことからなかなか決まらず、旅館の女中を2年半ほ ど勤めた後、中学の担任の先生の世話で電気屋に就職した。弟の中学卒業を 待って、2人で部屋を借りて生活を始め、自分の意思で電灯を消して寝られ る幸せを感じたが、それも束の間、小児結核が進行していたのか、結核性腹 膜炎を発症し、1年半の入院生活で、内蔵癒着という後遺症が残った。28 歳で結婚し、2か月後に妊娠したが、内蔵癒着のため子宮外妊娠で重体とな り、子宮摘出の手術を受け、子どもを産めない身体になった。子どもを生ん で家族の温もりを味わいたいという夢が叶わなかった。原審で提出した陳述 書には書けなかったことも多い。それは、過去のことを思い出しても苦しい し、過去のことを話すと、兄嫁の悪口になってしまうからである(甲F40 号証の1、3、控訴人草野和子本人尋問の結果)。 控訴人番号93の吉田由美子は、当時3歳で、父母と妹を大空襲で失い、 当夜は近くの母の実家に預けられていたため、叔母に背負われて逃げ、一人 だけで残された。その後、新潟県糸魚川の父の実家、次いで、父の姉の嫁ぎ 先に引き取られた。伯母夫婦には二人目の子どもが生まれ、伯母や従姉から 何回も「親と一緒に死んでくれれば良かったのに、何故死ななかったんだ」 と面と向かって言われた。その時、6歳で、この辛い言葉によって父母の死 を知った。伯母には冷たく扱われ、学校の旅行や運動会には参加させてもら 17 えず、学校の記念写真で買ってもらったのは6年卒業時の写真1枚だけであ った。高校へは、校長先生や担任の先生の伯父への働きかけによって進学す ることができたが、伯母一家からは恩に着せられた。高校卒業後、平塚のデ パートに就職し、お礼のつ気持ちから伯母の家族に衣類を送ったところ、四 季折々に家族7人分の注文リストがくるようになり、自分の給料から代金の 支払いをすると、貯金ができない状態になった。こうした状態は23歳で結 婚し、デパートを退職するまで続いた。3歳で孤児になり、親戚を転々とす る生活で、我慢ばかりを強いられ、勉強や仕事で頑張っても褒めてもらうこ ともなかったため、自分の気持ちを言葉で表すことも、表情に出すこともで きなくなった。今でも自分の言動に自信が持てないでいる(甲F110号証 の1、4、控訴人吉田由美子本人尋問の結果)。 控訴人番号88の山口悦代は、当時3歳で、兄2人と一緒に福井県内の父 方祖母方に縁故疎開していたところ、大空襲で父母を失い、祖母に養育され ることになったが、祖母は何時眠るかと思うほど一生懸命に働いた。小学校 3、4年生のころ、母の日に先生から、母のない子として白いカーネーショ ンをつけてもらったが、父母のない寂しさが身に沁みた。また、子ども会の 会場となった宅の腕時計がなくなった際、大人から「東京から来て親がいな いから、あそこの子に間違いない」などと濡れ衣を着せられ、兄と二人で家 に帰り、大泣きしたが、祖母の耳には入れなかった。中学を卒業して上京し、 住み込みで働いた(甲F105号証の1)。 同番号113の山本麗子は、当時9歳で小学校3年生であったが、昭和2 0月24日の空襲により、父が重傷を負って同年10月に死亡し、肺結核で 弱った母も同年11月に死亡したため、兄と弟と共に孤児となり、静岡県内 の親戚に引き取られたところ、学校へも行かせてもらえず、働かされ、別の 親戚に預けられていた弟が衰弱死亡したため、11歳くらいの時にその親戚 を逃げ出し、歩いて東京に戻り、上野駅の地下道で3年ほど生活した。食べ 物はボランティアの人が2日に1回ほど配るお握り1個が頼りであり、一度 は浮浪児狩りに遭い、「いい所へ連れて行ってやる」と言われてトラックに 乗せられ、山の奥に捨てられたが、仲間と一緒に上野駅の地下道に戻った。 その後、茨城県の土浦に住む親戚の知り合いがお寺だったので、尼にしてほ しいと頼み、お手伝いとして、朝5時と夕方5時に鐘を突いたり、食事の支 度をしたり、小坊主のような生活を送った。ここでも学校には行かせてもら えず、結局、学校へ行ったのは2年だけだった。20歳になる前に、お寺を 出て東京に戻り、飯田橋のカキ料理の店で働き、やがて神楽坂にアパートを 借りて、自分の居場所を持つことができた(甲F131号証の1)。 また、控訴人番号25の金田マリ子は、当時9歳で、宮城県の学童疎開先 から帰京した当日の未明、母と姉妹の3人を大空襲で失い、一人だけ残され 18 たものであるが、自らの辛かった人生に照らし、戦争孤児の問題を究明し、 甲E第3号証の「東京大空襲と戦争孤児-隠蔽された真実を追って」と題す る著書(2002年10月10日初版第1刷発行)にまとめたほか、「戦争 孤児を記録する会」の世話人として甲E第4号証の「焼け跡の子どもたち」 と題する本(1997年7月25日第1刷発行)を編集するなどし、社会に 訴えてきた活動家であるにもかかわらず、終戦から40年間も、孤児になっ た辛い体験を人に話せなかったということであり、孤児たちを探し出し、辛 い体験を語り合うのは大変なことであったと述懐している(原審原告金田マ リ子本人尋問の結果)。 このように戦争孤児たちが辛い体験を長い間、人にも話せず、心底に押さ え込んで一人で耐えなければならなかったのは、国が戦争孤児を発生させた 責任を引き受けようとせず、世間からは「親なし子」として蔑視され、養育 を押し付けられた親族からは厄介者扱いされたため、わが身の不幸として諦 め、黙って自分で耐えるほかなかったからである。 戦争孤児になりながら、生き延びることができた控訴人らは、心身ともに 強く、幸運もあったと推測される。 なお、「戦争孤児」という用語について一言するに、控訴人番号25の金 田マリ子の著書である前記「東京大空襲と戦争孤児-隠蔽された真実を追っ て」では、戦争に起因して孤児になった未成年者を総称して「戦争孤児」と 言い、「戦災孤児」や「引揚孤児」を含むものとされている(甲E3号証の 167ないし172頁参照)。北海道大学逸見勝亮教授の論文「第二次対戦 後の日本における浮浪児・戦争孤児の歴史」 (1994年10月1日発行『日 本教育史学 教育史学会紀要』第37号) (甲E10号証)では、 「戦争孤児」 という用語が使われ、その註⑴に「戦争孤児は、空襲などにより両親を失っ た戦災孤児と、日本の植民地・占領地において孤児となったものあるいは引 揚げの途上で孤児となったものの総称である。」と定義されている。 そうすると、研究者の間では、「戦争孤児」という用語が普通に使われて いるようである。 一方、1947(昭和22)年12月6日の各都道府県知事宛厚生省児童 局長厚生大臣官房会計課長連名通牒「全国孤児一斉調査に関する件」では、 「戦災孤児」という用語で、「父母の戦死、空襲による死亡等、戦闘又は戦 事に直接原因して孤児になった者(父母のうち一方が戦闘又は戦事に直接原 因して死亡し、他の一方がこれに原因しないで、死亡したものを含む。)」と 定義されている(乙12号証の159頁)。 公用語としては「戦争孤児」という言葉はなく、 「戦災孤児」、 「引揚孤児」、 「一般孤児」と分類されているようである。 そうすると、空襲によって父母の双方又はその一方を亡くし、両親とも失 19 った20歳未満の控訴人ら47名は、いずれも公用語では「戦災孤児」に該 当するが、控訴人金田マリ子を含む研究者の用語に習い、「戦争孤児」とし たものである。 ⑶ 精神的被害の特徴 控訴人らの精神的被害の特徴は、野田正彰関西学院大学教授作成の意見書 である甲E8号証と同教授の原審証言によれば、次のとおりである。 第1は、空襲を体験した場面と年齢によって、破局的体験の受け止め方や 刻印の深さが違っており、とりわけ目の前で、家族の死ないし死につながる 事態を見た者は、その場面を何度となくフラッシュ・バック(侵入性回想) させると同時に、無力感、家族を助けられなかった自責感、遺体を探し出せ なかった自責感を持っている。年齢が14、5歳以上の者が家族に何もでき ず、生き残ったという自責感が強い。 第2に、重い外傷を負った者は、医療的、社会的援助もなかった戦後日本 の状況下で、更なる負荷、更なる不幸を重ねている。国が「公的な負傷」と して援助をしてくれないため、個人的な負い目を抱きながら、寡黙に働き、 ひたむきに生きるしかなかった。 第3に、12、3歳までの学童期で両親を失い、孤児となった子どもたち の虐待が際立っている。戦争孤児への虐待は親族が悪いといって済まされる ことではない。戦後、国や自治体は戦争孤児問題を知りながら、まともな政 策をとっていない。不幸な子どもたちを余裕のない親族に私的に押しつけ、 虐待させた責任は政府、自治体、社会の側にある。 第4に、多くの空襲被害者が、晩年になって再び60年以上前の外傷体験 を想起するようになっている。更に、死亡した親族を助けられなかったとい う自責感を強め、大空襲で死亡したすべての者に、生き残った者がしなけれ ばならない務めが残っていると思っている。控訴人らはPTSD(心的外傷 後ストレス障害)を克服して生き残ることができた人たちであるが、晩年に なって、昔の極限状況を想起し、自責感を強めている。うつ病と診断されな がら自殺して行った老人がいるかもしれない。彼らの精神的外傷体験の回想 と自責感は、国を含む共同体全体で背負わない限り、これを軽減することは できない。死者に対する追悼と生き残った者に対する補償が不可欠である。 加えて、PTSDは性被害や災害などの比較的短期間の破局的体験を中心 にまとめられた概念であり、それをはるかに超える負荷については捉えきれ ていない。聴き取り調査をした原審原告らは、いずれもPTSDはあったと 思われるが、戦後の飢餓状態の中で、勤勉に生きることによって、その症状 は顕在化しなくなった。しかし、人生が一段落した晩年になって、配偶者を 失った時などに、空襲で死んだ家族のことなどを回想し、無力感、家族を助 けられなかった自責感から、空襲時の精神的外傷の体験に戻っていく。戦後 20 も空襲被害は隠され、調べられることもなく過ぎてきたことから、控訴人ら の精神的負荷はPTSDでは捉えきれない、これをはるかに超える負荷とな っているものと見られる。控訴人らは、若かったころの大空襲被害を歴史と して語っているのではなく、今再び苦しんでいるのである。 例えば、控訴人番号60の戸田成正は、4月13日の夜の空襲の際、 盲 目の母の手を引いて家の裏口から逃げ出し、明治通りに出たところ、近くに 落ちた焼夷弾の飛沫を2人とも身体に浴び、これが燃えて火だるまになり、 消防団員に消してもらったが、2人とも大火傷をし、担架で病院まで運ばれ たものの、母は死亡し、自身は3か月ほど意識朦朧の状態が続いた末に助か った。当時14歳で、養育園に収容されたが、父と次兄の居所をどうしても 知りたく、養育園を脱走し、一時、上野で浮浪生活をするうち、父が阿波池 田に居ることが判明した。昭和21年の正月明けに、 無賃乗車で東海道線 に乗り込み、 途中、 清水駅で見つかって降ろされたが、 同情した駅員の 計らいで、徳島まで行けることになり、父と会うことができた。そして、昭 和22年ころ、姉の住む日立に移り、鍛冶の仕事を覚えた。その後、東京に 戻り、板金工として働き、戸田家に養子に入って結婚し、2女も授かった。 64歳で仕事を辞めた後、2007(平成19)年2月に妻を亡くした。長 い間、空襲体験を考えないようにしていたが、妻が無くなってから、空襲の 際の焼夷弾が飛び交う夢を見るようになり、その時の臭いや自分が焼けるジ リジリという音も聞こえる。頭に浮かぶことは、どこへ逃げたら良かったの か、それによっては母は死なずに済んだのに、自分は母を助けられなかった、 何もしてやれなかったと自分を責め、苦しくなる。不眠となり、医師からは 軽いうつ状態にあると診断されている(甲E8号証、甲F71号証の1、原 審原告戸田成正本人尋問の結果)。 控訴人番号61の豊村美恵子は、大空襲の夜は国鉄上野駅で出札係として 徹夜勤務をしていたため、被害を免れたが、深川区洲崎弁天町に住んでいた 父母と姉弟の4人を失った。4人を捜しに1週間通い、海から引き上げられ た遺体の中に母を見つけた。しかし、18歳の自分ではどうすることもでき ず、仮埋葬される母の遺体を見送るしかなかった。父と姉の遺体は知人が確 認してくれたと聞くが、弟の遺体は不明のままである。そして、8月3日の 午前10時過ぎ、 勤務を終えて国電に乗って帰る途中、赤羽駅に入る直前 で艦載機の機銃掃射に遭遇し、その弾丸が右腕に当たり、軍人らしい男性の 応急処置を受けて病院に搬入され、一命は取り留めたが、右腕切断の手術を 受けた。この障害を抱えつつ、1年間作業訓練を受けて就職し、更に、働き ながら大学の専修課程の夜間部に1年間通い、福祉司の資格を取得し、ひた むきに働いて生きた。1981年に10年間連れ添った夫を脳卒中で亡くし た。今でも、飛行機の爆音を聞いただけで、足が動かなくなり、うずくまる 21 ことがある。また、電車に乗って、動き出す時の振動が怖い。飛行機の爆音 が聞こえてくる時や電車が揺れる時は、撃たれて逃げることができなかった 精神状態に連れ戻され、銃撃を受けた時の恐怖と無力感は、その前の父母と 姉弟を失った悲しみを封印してきたが、人生の晩年になって、再び、死体の 山の中を歩き、海から引き上げられた母の死体を捜し出した日の極限体験へ 戻って行くようになっている(甲E8号証、甲F72号証の1、原審原告豊 村美恵子本人尋問の結果)。 ⑷ 死亡した親族の遺体が不明の場合が多いこと 控訴人らのうち、父母、兄弟、配偶者、おじ、おばなどの親族を失った者 は107名にのぼるが、その9割に近い94名が死亡した親族の全部又は一 部の遺体が不明のままであり、うち28名は父母の双方を含む親族の遺体が 不明である。 甲E1号証の「図録『東京大空襲展』-今こそ真実を伝えよう-」(20 005年7月1日発行)の12・13頁には、仮埋葬地とその遺体数につい て、各種の資料を併記し、68・69頁には、東京都墨田区横網所在の東京 都慰霊堂への空襲死者の奉祀の状況が記述され、東京都慰霊協会発行の冊子 には、東京空襲による一般都民の死者の遺骨が約10万5400体、うち霊 名簿登録者数2万9460人と記録されている。 乙11号証の「東京都戦災誌」の419・420頁、492・493頁、 527ないし529頁には、大空襲による死者の仮埋葬地の所在地と埋葬体 数及び仮埋葬死体の改葬(昭和23年度から3か年の継続事業)、引き取り 手のない遺骨の東京都慰霊堂への収納状況などが記述されている。 同戦災誌の492頁には、「これらの死体の収容、仮埋葬の如きが相当空 襲下にあっては大きな仕事であったことは云う迄もないことで、いつ迄も路 上においておくことは当時の都民の士気にも関係することであったし、早急 に人目にふれぬ処へ運んで了うことが必要であった。上野公園の一部や、六 義園の中などが多数の死体の収容所にあてられたのも予定していたことで はあるがその為であった。」との記述がある。歴史的事実としては、3月1 8日に昭和天皇の視察があり、路上等に散乱していた死体を急いで片付けな ければならない事情も加わっていた(甲E3号証の27頁)。 このような空襲死者の仮埋葬という扱いは、死体をゴミ同然に片付けたに 過ぎない上、引き取り手のない遺骨を関東大震災の犠牲者をいたむために建 設された震災記念堂(裏側に付設した納骨堂)に収納し、その最初の法要が 行われた1951(昭和26)年9月1日から東京都慰霊堂と改称し、以後 毎年3月10日と9月1日に「戦災」と「震災」の合同慰霊法要が行われる ようになったが、控訴人らとしては、人間の尊厳を無視した扱いであり、空 襲死者の真の慰霊にはなっていないと考えている。 22 なお、東京都慰霊堂に収納された遺骨の中から、死亡した親族の遺骨を発 見して引き取ることができたのは、控訴人番号41の酒井明四郎が死亡した 父母と弟のうち、母の遺骨を、控訴人番号54の谷鐵夫が死亡した父母と姉 弟のうち、父の遺骨を、控訴人番号67の中村照明が死亡した父と長兄のう ち、長兄の遺骨を、控訴人番号79の増田巖が死亡した父母と妹のうち、父 の遺骨を引き取った4例があるにとどまる。 第5 空襲被害者が放置された実態 甲D、E号各証と乙12号証に弁論の全趣旨を総合すれば、空襲被害者が援護 の対象から排除され、放置されたことが明らかである。その実態を重点的に指摘 する。 1 戦時災害保護法の廃止 1942(昭和17)年4月30日施行の戦時災害保護法は、「戦時災害ニ 因リ危害ヲ受ケタル者並ニ其ノ家族及遺族」を保護の対象としていた(甲D1 7号証)。空襲被災者も保護の対象に含まれることはいうまでもない。 ところが、終戦後、日本社会を「非軍国主義化」するというGHQの占領政 策と社会保障における「無差別救済の原則」に基づき、1946(昭和21) 年2月から軍人恩給が廃止(停止・制限)され、同年9月9日公布の旧生活保 護法の附則によって、軍事扶助法とともに戦時災害保護法も廃止された。 しかし、無差別平等原則に基づく生活保護法だけでは、戦後の時代状況に即 した社会保障法として不十分であったため、1947(昭和22)年に児童福祉法、 1949(昭和24)年に身体障害者福祉法が制定された。 そして、1952(昭和27)年4月28日に日本国との平和条約が発効し、国の主 権が回復するや、同月30日には戦傷病者戦没者遺族等援護法が公布と同時に 施行され、1953(昭和28)年8月には恩給法の改正により軍人恩給も復活し、 1963(昭和38)年3月31日には戦没者等の妻に対する特別給付金支給法が公布 (施行は同年4月1日)され、同年8月3日には戦傷病者特別援護法が公布(施行 は翌年4月1日)された。しかし、戦時災害保護法が復活されることはなかっ た。 2 一般戦災者の援護対象からの排除 日本政府が、戦後一貫して、空襲被害者を含む一般戦災者を援護対象から排 除し、その被害の実態を国の責任において調査したこともない事実は証拠上明 らかである。 1978(昭和53)年4月18日開催の第84回国会参議院社会労働委員会におい て、戦傷病者と戦没者遺族等に対する援護水準の引き上げについて審議が行わ れた際、片山甚市理事の「国民は平等でございますから、援護法をやめて全部 社会保障にしたらどうですか。」という質問に対し、小沢辰男厚生大臣は、戦 23 争犠牲者を三つに分類しているとした上、「一つは、国家との特別権力関係に ございまして、したがって戦闘行為並びにこれに準ずるような結果で死亡され ましたり障害を受けたりした方、これが恩給法並びに援護法の対象として援護 をいたしておる。これがまさに国家補償の考え方でやっておる。第二番目のラ ンクは(中略)戦争犠牲者の中で特に原爆という非常に特殊な後遺症をもさら すようなことによって戦争の被害を受けられた方々を(中略)国家補償そのも のではないけれども、特別な援護措置を必要とするという観点に立って、(中 略)一般社会保障的な考え方よりも一歩も二歩も進んだ考えで援護措置をとっ ておる。そこで、その他の一般の犠牲者、すなわち物心両面にわたりまして戦 争の被害を受けた方がたくさんおられるわけでございますが、これはそこまで 国がなかなか手が回らぬので、結局一般社会保障の充実によってできるだけ対 処していこうと、こういうことできたわけでございますから、その点は御理解 をいただきたいと思う」と答弁した(甲D37号証7の9~10頁)。 また、1973(昭和48)年7月3日開催の第71回国会参議院社会労働委員会に おいて、戦傷病者戦没者遺族等援護法の一部を改正する法律案と戦時災害援護 法案が議題とされた際、須原昭二委員の「一般市民の死傷者の数値がきわめて まちまち」なのは、「どこに原因があるのか」という質問に対し、政府委員の 高木玄厚生省援護局長は「一般戦災者の数字につきましては、権威あるものと しては、先生が申されました昭和23年に当時の経済安定本部が調査の結果発 表した数字が一応権威のあるものとして残っておるわけであります。そのほか 一般戦災者につきましては、特に、厚生省をはじめ、どこかの省におきまして 調査したというようなものはございません。」と答弁し、次いで、同委員の「現 在生存している一般の市民の戦争犠牲者で、傷害を身に受けておる国民は全国 に散在をいたしておるわけです。これについてかつて調査されたことがござい ますか」という質問に対し、同厚生省援護局長は、「調査したことはございま せん。」と答弁した(甲D13号証の3の1~2頁)。 このように空襲被害者は国の特別の援護対象からは除外され、一般社会保障 体系の中で平等に保護されることになったが、これは建前上のことであり、実 際は放置されたに等しい。 控訴人らのうち、国や自治体から援護を受けた者はほとんどなく、一時的に 養育施設で養育された控訴人が1名(控訴人番号60の戸田成正)、母子家庭 で生活保護を受けた家庭の控訴人が2名(控訴人番号21の奥川惠司と同番号 108の正田トシ子)、片手や足腰の障害により晩年になって障害給付金(い ずれも3級で月額7750円)を受給している控訴人が2名(控訴人番号74 の平田健二と同番号96の内田道子)という程度にとどまっている。生活保護 の受給については、幼かった控訴人らが認識していなかった場合もあると推察 されるが、それにしても少な過ぎるといわざるを得ない。 24 3 国の戦争孤児対策 控訴人らのうち、戦争孤児になった者は47名にのぼり、うち10歳未満は 13名、10歳以上15歳未満は19名、15歳以上20歳未満は15名であ った。 戦後処理における最大の課題の一つに、戦争孤児の問題があったことは公知 の事実である。しかし、日本政府には、国の責任において戦争孤児の育成を引 き受けるという政策があったとは認められない。 原審において、被告提出にかかる社団法人日本戦災遺族会発行の「全国戦災 史実調査報告書・昭和57年度」(乙12号証)中の2「戦災孤児-その概要 -」の記述と7「戦災孤児に関する法律・政府通達等」の資料を基に、国の戦 争孤児に関する対策を概観するに、文部省は、1945(昭和20)年9月1 5日の「戦災孤児等集団合宿教育ニ関スル件」(地方長官宛文部省国民教育局 長通牒)により、戦災孤児等集団合宿教育所の設置計画を10月15日までに 申請するよう指示し、これによって市町村を主体に戦災孤児等集団合宿教育所 が設置されたが、収容された学童は2500人にとどまること、次に、194 5(昭和20)年9月20日の次官会議決定で「戦災孤児等保護対策要綱」を 策定し、戦災孤児の保護は各地方長官の責任において行うものとした上、その 方法として、①個人家庭への保護委託、②養子縁組の斡旋、③集団保護を重点 としたこと、その後、1946(昭和21)年4月15日の各地方長官宛厚生 省社会局長通牒で「浮浪児その他の児童保護等の応急措置実施に関する件」、 同年9月19日の東京、 神奈川、 愛知、 京都、大阪、兵庫、福岡各地方長 官宛厚生次官通牒で「主要地方浮浪児等保護要綱」を発したこと、そして、1 947(昭和22)年12月6日の各都道府県知事宛厚生省児童局長厚生大臣 官房会計課長連名通牒により「全国孤児一斉調査に関する件」を発し、194 8(昭和23)年2月1日午前零時を期して全国規模の一斉調査を実施し、そ の結果は、孤児の総数が12万3511人にのぼり、うち戦災孤児が2万82 48人(229%)、引揚孤児が1万1351人(9.2%)、一般孤児が8万 1266人(65.8%)、棄迷児が2647人(2.1%)であり、そのう ち6%に当たる7117人が何らかの意味で浮浪の経験を有し、また、収容施 設の不足が深刻で、戦災孤児と引揚孤児のうち収容施設に保護されているもの は5195人で14.6%、孤児全体の中で収容されているものは1万220 2人で僅か9.8%に過ぎなかったこと、1947(昭和22)年12月12 日に児童福祉法が公布され、その後、1948(昭和23)年9月7日には「浮 浪児根絶緊急対策要綱」が閣議決定され、同年11月15日からこれが実施さ れたが、同要綱の実施事項として、第1は「浮浪児の背後にあってこれを利用 している者を厳重に取り締まり、これらの者と浮浪児との因果関係を切断する こと」、第2は「浮浪児を根絶できない大なる理由が、人々が浮浪児に対して 25 安価な同情により又は自己の一時的便宜によって彼等の浮浪生活を可能なら しめていることにあることを、一般社会人に深く認識せしめること」、第3は 「浮浪児に対する保護取締を連続反覆して徹底的に行うこと」、第4は「特に 犯罪性のある浮浪児は少年審判所に送致し、その他の浮浪児は児童相談所を経 て養護施設又は教護院に収容するか或は児童福祉司、児童委員等の指導に附す ること」など9項目が掲げられていたことがそれぞれ認められる。 このような国の戦争孤児対策の状況と実際に孤児になった控訴人らの成育 状況に照らして考えると、国の対応は、戦争孤児が生じた責任を引き受けると いう姿勢が乏しく、その施策は応急的であり、浮浪児対策と非行児対策があっ たにとどまる。乙12号証の19頁には「わが国の戦前の児童保護は、もっぱ ら感化や教護の立場からすすめられてきた。従って戦後の深刻化した浮浪児問 題に直面しても、 本格的に取り組むことなく、取締りの強化を以て対処しよ うとする考え方が支配的であった。」と記述されているが、浮浪児問題だけで はなく、その根源に存在する戦争孤児問題にも、国の責任を自覚した本格的な 取り組みはなかったと見ざるを得ない。 前掲甲E10号証の北海道大学逸見勝亮教授の論文「第二次対戦後の日本に おける浮浪児・戦争孤児の歴史」は、「浮浪児・戦争孤児は、敗戦後の最も重 要な『社会病理現象』のひとつであり、憐憫・保護と治安の対象であった」と の問題意識から、浮浪児・戦争孤児の状態、政府の対策と問題点などを論じた 上、最後に「浮浪児・戦争孤児は憐憫・同情・侮蔑の狭間で生きざるをえなか った。」と結んでいる。 4 空襲死者の追悼 東京大空襲では10万人以上が死亡したと推定され、東京都慰霊堂には現在 でも約10万5400体の空襲死者の遺骨が納められ、そのほとんどが身元確認不 能で、引き取り手がない状態であるから、日本政府は、国としてこれらの空襲 死者を追悼する方策を講ずる必要があった。政教分離の原則に配慮しながら、 地元の東京都と協議し、遺族等の希望も聴いて、万人の納得する方法で追悼す べきであった。 1952(昭和27)年から閣議決定に基づいて全国戦没者追悼式が実施され、19 53(昭和38)年からは毎年8月15日に行われているが、追悼の対象は戦死した旧 軍人軍属約230万人と空襲や原爆投下等で死亡した一般人約80万人とさ れていることは公知の事実である。しかし、控訴人らとしては、この戦没者の 中に援護の対象から排除されてきた空襲による死者が含まれているとは考え られず、不満に感じていることから、旧軍人軍属等の追悼とは切り離して、空 襲死者を追悼するための追悼施設や平和記念館の建設を強く求めている(甲E 2号証)。 控訴人番号33の清岡美知子は、 1965(昭和40)年8月15日開催の全国戦没 26 者追悼式に慰霊協会から要請されて出席した際、式の終わりころ、軍人遺族代 表の答辞があり、「息子は戦死しましたが、手厚い援護を受け、この国に生ま れた幸福を痛感している」旨の言葉を聞き、どうしようもない悔しい思いをし、 以後、追悼式には出席しないと慰霊協会に通告したとのことである(甲F39 号証の1、原審原告清岡美知子本人尋問の結果)。 国による空襲死者の追悼は、死者の霊を慰めるだけではなく、太平洋戦争に 対する国の姿勢を明らかにし、生き残った者に対する慰謝の意味も大きく、戦 後処理の方策として欠かせないものであったが、これを実行しないまま現在に 至っている。 【以下、余白】 27 第3章 戦争の変容と日本国憲法の特別な意味 第1 近代における戦争の変容 1 戦略爆撃論 本件訴訟で問題となっている被害は、戦略爆撃の極限としての大規模無差別爆 撃によりもたらされたものである。戦略爆撃論には、戦略目標の設定について、 いくつかの類型があるものの、最終的に空爆により敵国民の士気をくじき、敵国 を降伏に追い込むということを目標とする戦略理論であり、総力戦と航空機技術 の発達により、生み出されたものである。 このような戦略爆撃論による空襲は、戦争の総力戦化により戦闘員と非戦闘員 の区別がつかなくなったことと、空爆の持つ非人間化の側面から、相手国民の士 気をくじくために相当程度の民間人の被害はやむを得ない被害であるとの意識 の下に進められたものである。その結果、明らかに戦争が変容した。 第2次世界大戦では、その延長線上に、各国で無差別爆撃による空襲が実行さ れ、最後には、広島、長崎への原爆投下にまで至った。 空爆は、これを受ける被害者からみれば、まさしく虐殺であった。ところが、 日本では、裁判所も含め、必ずしもそのように思われていない。しかし、虐殺で あることが見えなくなる異常さに気づくことが出発点である。そして、そのよう な戦争の変容があったことの認識が必要なのであり、空爆を被害者の目から問い 直すことが必要なのである。 本件東京大空襲訴訟は、航空戦力による戦争の変容を踏まえた訴訟である。 2 航空戦力の発達とその歴史 空から地上を攻撃するという武力行使の方法は、気球の時代から存在し、空からの 武力行使を規制すべきであるとの意見は早くから存在した(甲A7田中利幸「空の戦 争史」講談社新書17頁、甲A2吉田256頁) 。それにもかかわらず、無差別攻撃 が総力戦の進展と航空機の発達とともに進み、完全に防止することが出来なかった。 (1) 第2次世界大戦まで(戦略爆撃の出現) 総力戦を背景に、最新技術である航空機、とりわけ爆撃機を駆使して、敵軍隊の みならず、敵国民全体を恐怖に陥れることにより、早期に戦争を終結させようとい うものであった。つまり、無差別攻撃の合理化である。 これと同時に、陸上軍隊に比較して、攻撃する自国軍隊の損傷が少ないという点 も、第1次世界大戦における消耗戦の経験から、彼らの戦略がその後、広く受け入 れられていく素地となり、自国軍隊の被害を少なくするには、敵国の民間人のある 程度の犠牲はやむを得ないという合理化につながっていった。 (2) 第 1 次大戦後の第2次大戦までの航空戦力をめぐる動き ア 軍事目標限定への試み 他方、第1次世界大戦後、戦争法の見直しの機運が高まり、第1次世界大戦中 に開始された空爆に対する規制も問題となった。その背景には、将来起こりうる 28 戦争で無差別爆撃が拡大し、非戦闘員に対する被害が増大することの懸念があっ た。そして、ハーグ空戦規則案も策定された(甲A⑥田中p64、甲C9の2荒井 p77、甲A2吉田p258) 。 これらについては、第2篇で述べるとおりである。 イ 植民地戦争における戦略爆撃と無差別攻撃 しかし、 「ハーグ空戦規則案」を作り上げた6ヶ国の内、イギリス、フランス、 イタリア、そして日本も、1920年から1930年代にかけて、それぞれの植 民地において、支配に従わない諸民族の抵抗や独立運動に対して戦闘員と非戦闘 員を区別しない無差別の空爆を行った(甲A2吉田p261) 。 無差別空爆が、植民地だけではなく欧州本土においても、1936年に始まっ たスペイン内戦を皮切りに行われるようになる。 また、第2次世界大戦において、日本軍は重慶等で、大規模な無差別爆撃を繰 り返した。 ウ まとめ 欧州では、一方で第1次世界大戦の体験から、国際法の分野でその被害を抑え る努力が図られた。しかし、他方で植民地では、空爆が行われ、日本も植民地に おける空爆が行った。このように植民地における無差別爆撃が徐々に拡大する中 で第2次世界大戦を迎えることになる。 (3)第2次世界(戦略爆撃から無差別爆撃・原爆投下へ) ア 初期の自制 1930年代の日本による中国諸都市への攻撃、イタリアによるエチオピアで の爆撃、スペイン内戦でのドイツとイタリアによる都市攻撃が問題となった(甲 A2吉田154頁、263頁) 。 1938年6月、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相は、市民を意図的に 攻撃する行為は、国際法に違反する行為であり、空爆の攻撃目標は明らかにそれ と確認できる「正当な軍事目標」に限るべきであるとし、発効しなかったハーグ 空戦規則案にそってイギリスは無差別攻撃を行わない旨を宣言した。そして 1938 年 9 月 30 日には、イギリスの原案を下に、国際連盟は、空爆を軍事目標に限る ように求める総会決議を反対無しで採択された(甲A⑥田中140頁、甲A2吉 田263頁) 。 また、1939年9月1日、ドイツがポーランドに進攻し、ヨーロッパの戦争 が避けられない状態になった日に、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統 領は、どの参戦国も市民や無防備な都市に対して、空爆をしないように要請する アピールを行った。 イ 空爆の拡大-無差別爆撃へ (ア) ヨーロッパ戦線における空爆の拡大-誤爆と報復爆撃の応酬 a ドイツ軍による空爆とその報復 29 しかし、このような自制もドイツの東部戦線での空爆、そして、ロンドン での誤爆により報復攻撃の拡大という形で無差別攻撃へと拡大していった。 1940 年 8 月 24 日の夜の空爆で、ドイツ軍がテームズ川河岸の石油貯蔵タン クを爆撃しようとして、ロンドンの下町市街を誤爆した。チャーチルは直ち に報復爆撃を指示し、翌日、イギリス空軍は、ドイツの首都ベルリンへの夜 間空爆を行った。ヒトラーは、このベルリン空爆に対して激怒し、直ちにロ ンドンへの無差別報復爆撃を指示した。そしてその際、空爆の日を休日にす るなど、市民への攻撃を意図した。このようにして、双方の空爆への自制は 崩壊してしまった。その後、ドイツ軍は、ロンドンから、コベントリー、リ バプール、バーミンガム、グラスゴー、マンチェスターなど空爆の範囲が拡 大していった(甲A2吉田p100、甲A⑥田中p148以下、甲C9の1 荒井p83) 。 b アメリカ空軍の参加とハンブルグ、ドレスデン空爆 こうした中で、1942 年 8 月からは、米陸軍航空軍の第8爆撃軍がヨーロッパ での爆撃行動に加わることになった。 英米軍共同の空爆の中で有名なものに、ハンブルグ空爆と、ドレスデン 空爆がある。 1943 年 7 月 24 日から 8 月 3 日にかけて英米両軍による合同空爆作戦「ゴモ ラ作戦」により、ハンブルグ市民の犠牲者は、4 万 4600 人の死亡者と、3700 人あまりの負傷者、そして、市民の死亡者の半数は、50%が女性、12%が子供、 そして 38 パーセントの男性の大部分もと兵役年齢を超えた老人と推定されて いる(甲C9の1荒井p91、甲A⑥田中p164) 。 ドレスデン空爆は、ドイツの敗戦が否定し難くなった最終段階で行われた不 必要な無差別空爆であった点で、東京大空襲と類似している。ドレスデンは、 工業都市であったハンブルグとは異なり、文化の中心地であった。1945 年 2 月 13 日から行われたが、攻撃は最初から火災を起こすことを目的に計画され、焼 夷弾が用いられた。2 波の英軍機、1 波の米軍機による合計 14 時間に及ぶ空襲 により、多数が死亡負傷した。死亡者数の推定に大きな幅があり、7 万人とす る説から 13 万 5000 人とする説まである。ここでも犠牲者の大半は、女性、子 供、老人であった(甲A⑥田中p185、甲C9の1荒井p101) 。 (イ)日本による中国空爆 前述したとおり、1937 年 7 月の廬溝橋事件以後の日中戦争では、ほぼ中国全 土にわたって空爆が行われた。中国各地で、日本軍機の爆弾が、軍事目標だけで はなく、病院や学校、住宅などを破壊し、そのことが欧米のメディアで報道され た(甲A2吉田p152~3) 。 このような日本軍による空爆は、1937 年 9 月 28 日には、スイスのジュネーブ 30 における国際連盟総会で日本軍による無差別爆撃を批判する決議が採択されて いた(甲A2吉田p154) 。 このような無差別爆撃の頂点とも言えるのが、1938 年 12 月からの重慶大爆 撃である。 ドイツの空爆がヨーロッパにおける英米軍による大規模空爆を招い たように、日本軍の中国での無差別空爆がアメリカによる各地の空襲を招いた ことは否定できない。 なお、日本への空爆については、第3篇で述べることとする。 3 戦略爆撃による非戦闘員殺害を可能にしたもの (1)非戦闘員攻撃の合理化 第2次世界大戦前から、非戦闘員に対する攻撃は基本的に許されていなかったが、 攻撃する側では様々な理由をつけて合理化を図っていった。 ア 総力戦における戦争の早期終結 無差別爆撃を進めた軍人、政治家は、空軍による戦略爆撃により総力戦におけ る敵国民の戦意を消失させ、それにより、これを早期に戦争を終結させることが 人道的であると主張し戦略爆撃を正当化した。 アメリカのアーノルド大将は、1943年9月にケベック軍事会議へ提出し た「日本敗北のための航空計画」の中で「労働者に死傷をもたらすことで労働 力を引き離す」という表現を用いている。 そして、アメリカ軍の東京大空襲等の日本空襲を指揮したカーチス・ルメイ は、 「空爆のために日本の戦意は急速に衰えつつある」と主張していた(甲A⑥ 田中p227) 。 航空戦力を握る戦争指導者は、戦略爆撃により敵国民の士気を低下させ、勝 利することが出来ると考え、しかも、それが望ましいと考えたのである。 イ 自国民戦闘員被害の減少 この敵国民の戦意ないし士気喪失と同時に、空爆の合理化に用いられた理由 が、空爆は陸上戦闘を回避し、自国民の被害を少なくすることができるという ものであった。 アメリカのルメイは、1945年6月ワシントンにおける意見聴取で、同年 9月初旬までに日本本土の主要軍事目標は消滅するであろうとし、更に10月 1日までに日本の60あまりの都市を徹底的に破壊すれば、降伏に持ち込むこ とが出来、上陸作戦を回避することが出来ると考えていた(甲A7田中p22 9) 。 ⑵ 非戦闘員攻撃を可能にする加害者側の人間的感情の鈍磨 ア 敵の非人間的抽象化・・とりわけ差別意識と敵意 このような攻撃を合理化するためには、非戦闘員を含む敵国民は自国民と異な り、死んでも良い人間と考える状況が必要である。 その一つが差別意識であり、もう一つが敵意と反感である。 31 その差別意識の現れの典型が、欧州では軍民の区別等が国際法で主張されなが ら、植民地に対する空爆では民間人への攻撃が行われていたことである。更に日 本の中国への空爆やアメリカの日本への無差別爆撃(とりわけ焼夷弾の使用や原 爆投下) 、更に英米のナチスに対する攻撃正当化論も差別や敵意の現れと言って 良い。 イ 攻撃する側の人間的感情の鈍磨 更に注意する必要があるのが、空爆では、攻撃する側と攻撃を受ける側の距離 が離れているために攻撃する側に人を大量に傷つけ、殺害することについての人 間感情が働かないと言う事実である。 最初に、大西洋を最初に飛行機で無着陸横断したことで有名なチャールズ・リン ドバーグは、太平洋戦争において航空攻撃作戦に参加したが、その時の空爆するパ イロットの心理を次のように描写している。 「 (爆弾投下の)ボタンを押せば、下では死体が飛散る。ある時点までは、自分 の飛行機の腹部に下げた無害な弾頭を自分が完全に制御している。ところが、次 の瞬間にその爆弾が音を立てて落下していくや、自分にはもはやそれを回収する 力が全くない。 -中略- 苦痛でのたうち、ずたずたに裂かれた身体がどうして私に見えようか。私の飛 行機の周りにある空気が、謄写した爆弾がもたらした見えない結果で被われるこ とがどうしてあり得ようか。私の真下の地上で起きていることは、私にとって、 地球の裏側で行われている戦闘の結果をラジオ・ニュースで聞いているのと変わ らない。あまりにかけ離れた、現実性を帯びない出来事なのだ。 」 (甲A7田中p 240) 攻撃する側に被害者が見えない、このことが戦争を非人間化させる。 4 戦争の変容にともなう戦争被害防止に必要な措置 (1)戦争への法的規制 このような戦争の変容に伴って、非戦闘員被害が拡大してきた。しかし、戦争が 一段落すると、これが正しいとされたわけではなく、このような行為の禁止を規範 化し、被害を放置しない努力が積み重ねられて来てもいるのである。 その一つが戦争方法の規制(戦時国際法ないし国際人道法)であり、もう一つが 戦争そのものの規制である。そして、今では武力行使が原則的に違法とされるにい たっている。そして、その内容を更に国内法化して規制を行おうとしているのが、 日本国憲法である。 ⑵ 人間的被害の確認とその回復措置 その戦争方法の規制までは至らなくても戦争被害、とりわけ、非戦闘員の戦争被 害等、国際法に違反する戦闘行為による被害については、国際法上賠償請求の対象 となるとともに、国内法では戦争被害者に対して事後措置としての補償が行われる 32 ようになってきている。 本件では、戦争による人間の被害の回復についての国内法的処置に関する問題が 中心であるが、その意味を理解するために国際法的な規制の意味をまず、論ずるこ ととする。 第2 戦争の変容に伴う各国の戦争被害回復措置 1 欧米の戦争被害者対策とその基本思想と戦前の日本との相違 (1) 国民平等主義と内外人平等主義 欧米の近代民主主義国家は、国民国家として成立したが、そこでの基本理 念は生まれながらにして自由で平等な人間が主権者として構成する国家で あり、当然ながらそこに住む人間の権利を保障する国家であった。 このような欧米の近代民主主義国家における戦争被害者制度の共通する特 徴は、国民平等主義と、内外人平等主義であるといわれる(甲 D40 号証 奥 原敏雄「欧米諸国における戦争犠牲者の補償制度」法学セミナーNo453p52)。 当初は、国防義務が国民に課され、国防に協力した者が被害を受けた場合 には、国家が補償する対応が取られた。ところが科学の発展に伴い、19世 紀後半から戦争被害が拡大するにつれて、戦闘に参加する兵士が増大し、ま ず、傷病兵や捕虜に対する人道的扱いが問題となり、国によって若干異なる ものの、多くで国際法の同様に戦争被害者に対する内外人平等主義がとられ るようになる(同上p53)。 更に第1次世界大戦においては、戦争が総力戦化し、民間人、つまり非 戦闘員の被害が拡大したことから、国際法による非戦闘員保護と合わせ て、国内法の戦争被害補償においても、軍人・軍属(戦闘員)と民間人 (非戦闘員)とを区別することなく、戦争被害者に平等な待遇を与える 国民平等主義が取られるようになった。そして、その根底には、自然法 に基づく、人間に対する配慮が存在していた(甲D40奥原p53) ⑵ 国民平等主義とその基本的内容 本件の東京大空襲訴訟で特に問題となるのは、国民平等主義である。国民 平等主義の場合に、必ずしも、同一の法典で、軍人・ 軍 属 に お け る 公務上 の傷病としての補償部分が同一に扱われることを意味するものではない。し かし、以下の(2)で述べる各国の制度を見れば分かるとおり、第 1 次世界 大戦後、特に第2次世界大戦後には、欧州では各国とも、民間人(非戦闘員) の空襲を含む直接の戦闘行為による人身被害、とりわけ、死亡と重大な身体 障害については、何らかの被害回復措置を犠牲者本人ないしその遺族にとっ ていることを認識する必要がある。 2 各国の戦後補償 (1) ドイツ 33 ア 総説 ドイツにおいて内外人平等主義が確立したのは、第2次世界大戦後のことの ようであるが、戦争被害について、軍民を分け隔てなく補償する制度が確立し たのは、第1次世界大戦後のことであった(甲D6の3赤沢文朗「戦時災害保 護法小論」立命館法学 1992 年 5-6 号p401、宍戸伴久「戦後処理の残された 課題」レファレンス平成 20 年 12 月p111 以下、甲D52 の 1,2「戦争被害者の 補償 医学的支援、補償、そして、戦争年金 International Labour Review) 。 すなわち、第1次世界大戦後の1922年には、民間人の戦災被害を補償する 法律が制定されていた(同上) 。そして、ナチス治下においても、国民のあらゆ る層の戦争被害に対して平等に国家が補償していく制度が完備していくのであ る。これは、戦争のように、その犠牲や負担が等しくない性質の被害は、社会 全体で負担すべきであるという理念に基づくものであるとされる(同上) 。 イ 人身被害 上記のような内外人平等主義と国民平等主義を踏まえてドイツでは、戦争によ る人身被害回復措置(補償)がなされている。 (ア) 連邦援護法 人的損害の補償の中核をしめるものは、 「1950 年 12 月 20 日の戦争犠牲者 の援護に関する法律(連邦援護法) 」による戦争犠牲者と曽於遺族への給付で ある。敗戦後、西ドイツでは、連合国の軍制下で日本と同様に、それまでの 全ての戦争犠牲者法制が廃止された結果、戦争犠牲者は、一般的に生活困難 者と同様に公的扶助による給付を受ける他は、連合国の占領地区ごとに各州 で制定される援護関連法による給付を受けることとなった。そして、ドイツ 連邦共和国の成立の翌年、1950 年 12 月に、連邦全体で援護を統一的に規制 する連邦援護法が制定されたのである。 その補償の内容は、生活状態に応じた扶助から、職業上、経済上の損害に 応じた補償への転換を経て、現在に至っている(甲D宍戸伴久「戦後処理の 残された課題」レファレンスp127~128, 甲D51宍戸伴久「東京大空襲・謝罪及び損害賠償請求事件についての意見 書『欧米における一般市民の戦争被害の補償―その考え方と補償の概要-』 」 p5 以下) 。 (イ) 補償の適用対象と因果関係の立証 一般的には、ドイツ国内(正確には連邦援護法の適用領域内)に居住する ドイツ国籍者(その要件は、拡大されている)で、軍務または準軍務等に関 連して損傷を受けた者が、損傷により、健康上、経済上の影響を受けた場合 に、本人又はその遺族に対して、連邦援護法が適用される。 この場合の援護の要件としての損傷は、 「軍務・準軍務の遂行」 「軍務・準 軍務遂行中に発生した事故」 「軍務・準軍務特有の事情」 「戦争の直接的影響」 34 「戦争捕虜となったこと」等による損傷がある。 そして、 「戦闘行為及び戦闘行為と直接の関連を有する軍事的措置、特に兵 器の影響」が「戦争の直接的影響」に含まれる結果、空襲による被害も適用 対象とされることとなる(宍戸レファレンスp129、甲D51宍戸意見書p 7 以下) 。 そしてこのような規定を設けて一般市民への拡大をはかったことについて 1950 年 9 月の連邦議会における提案理由説明で、 「兵士のみならず、郷土に おける爆弾戦争における被害者にも適用される」と述べている(甲D51意 見書p8) 。 また、因果関係の立証については、その証明については蓋然性が証明され れば良いとされた。それを得ることが困難な疾患でも、連邦労働大臣の承認 による認定が可能であり、がんなど、一定の疾患については、一般的な承認 が与えられるとする(宍戸レファレンスp130(2) (ⅱ) 、甲D51p8) 。 (ウ)支給の内容 また、支給の内容としては、①医療、②障害年金、③遺族年金、④戦争被 害者扶助がある。 まず、医療については、外来治療、病院・リハビリテーション施設の入院 入所治療、在宅治療等がある。 また、障害年金は、リハビリテーションは、年金に先行するとの原則から 職業リハビリテーション給付が行われる。そして、障害年金は、障害の程度 に応じて増額され、基礎年金と労働能力喪失に応じた高齢者加算がある。ま た、障害による職業上の不利益を調整するために、重度障害者に職業損害調 整、配偶者加算、育児加算等が行われる。 次に遺族年金については、寡婦・寡夫年金、遺児年金、父母年金等がある。 更に、障害者及びその遺族は、援護法に基づくその他の給付や自己の所得 及び資産によって生計を維持できない場合、これを補足するため、個々の場 合に応じて、特別の扶助として戦争犠牲者扶助給付を受ける。その目的は障 害者及びその遺族があらゆる生活状況に適応できるようにすることである (宍戸p130(4) ) 。 (エ) 連邦援護法の給付費用は、原則として連邦負担であるが、戦争犠牲者扶助 の費用の 2 割は州が負担している(宍戸レファレンスp131(5) 、甲D51 宍戸意見書p8(4)参照) 。 ウ 物的被害 (ア)根拠法 社会的公平の立場から、戦時中及び戦後の破壊、戦後の追放 1948 年の通貨 制度改革の結果生じた資産の喪失を、その損害を受けなかった者の負担で調 整することが物的損害補償の特徴である。 35 その根拠となったのは、英米軍占領地域である「合同軍経済地域」で制定さ れた「緊急援助法」 (1949 年)であり、その後、戦争損害と追放損害を確定す る「確定法」 (1952 年) 、翌年本体となる「負担調整法」 (1952 年) 、被追放者の 預金債権の通貨調整に伴う「通貨調整法」 (1953 年) 、通貨改革に伴う預金者の 損失を軽減するための「旧貯蓄者法」 (1953 年)等が制定された(宍戸レファ レンスp131(1) 、甲D51宍戸意見書p10の2以下参照) 。 (イ)適用対象 調整による負担調整を受けているのは、 「財産損害」 または 「生活基盤損害」 であり、現在のドイツ国内の 1939 年8月 26 日から 1945 年 7 月 31 日までの 爆撃による住宅破壊などの「戦争物的損害」 、ドイツ国籍またはドイツ民族で あるがゆえの「追放」または「引揚げ」による追放損害等である(宍戸レフ ァレンスp132(2) 、甲D51宍戸意見書p11) 。 (ウ)給付の種類 給付には、法的請求権のあるものとないものに分けられ、法的請求権のあ るものには「主補償」 「戦争被害年金」 「通過調整補償」 「旧通過補償」があり、 法的請求権のないものには、 「編入貸付」 「家財手当」 「苛酷緩和給付」などが ある(宍戸レファレンスp132(3) 、甲D51宍戸意見書p11) 。 (エ)費用負担 負担調整のための資金は、戦争による財産上の損害を免れた者に対する負 担調整賦課金と連邦政府及び州政府の補助金、そして貸付金の返済によって 賄われてきた。 ⑵ フランス ア 総説 フランスでは、国民国家の成立、フランス革命を経て、1830年代から、 軍人の年金制度が創設され、第1次世界大戦前までに軍人恩給と傷病年金の基 本法となった。そして、第1次世界大戦後の1919年6月には、 「民間人戦争 犠牲者」の補償金を定めた法律が制定され、この法律は、1939年から19 45年の戦争の間に、補償の対象とされるカテゴリーを次々に拡大し、レジス タンス、対独協力拒否者、被流刑者、被拘禁者などを特別の戦争犠牲者として 法制化することになった。 そして、1947年8月には、戦争犠牲者の補償を迅速に行うために、法律 を変更することなく、政令により立法化を図る法律が制定された(甲D40奥 原法セミNo452p53) 。 イ 人身被害 民間人の戦争人身被害の補償は、以下の通りである。 (ア)根拠法令 「軍人廃疾年金及び戦争犠牲者に関する法典 第3編 民間戦争犠牲者に 36 適用される諸規則」の「第1章 民間戦争犠牲者」の規定によって補償が行 われている(宍戸レファレンスp135、2、 (1)人的被害【根拠法令】 、甲D 51宍戸意見書p13) (イ)適用対象 軍人廃疾年金が適用される状況になく、かつ、第1次世界大戦中の「戦争 行為」の結果、 「不具を生ぜしめる傷病」を受けた「全てのフランス人」っは、 年齢、性別にかかわらず、終身または臨時の年金の受給権を有する旨の規定 (L第 193 条)が同法典L197 条により、第2次世界大戦中(1939 年 9 月2 日から 1947 年 6 月 1 日まで)の期間の犠牲者(上述の通り、レジスタンスに ついても適用される)についても適用される。 そして、戦争行為の中に、 「同盟軍又は敵軍の作戦中に生じたものであって、 敵軍の行為のよることが明らかな負傷又は死亡」があり、当然空襲による被 害が含まれる(宍戸レファレンス【適用対象及び適用法令】 、甲D51宍戸意 見書p13) 。 (ウ)給付の内容 給付の種類としては、障害年金、寡婦年金、遺児年金、両親年金がある。 障害年金は、障害程度10%以上に支給され、障害加算や障害の程度に応 じた重度障害手当等がある。また、障害の原因となった医療費は無料である。 遺児については、戦災孤児として、人間としての成長のための国の特別な保 護と生計費、奨学制度に上積みした高等教育までの教育、職業訓練手当、社 会保障制度に上積みした医療費の支給等を受けた(宍戸レファレンスp136 【給付】 、甲D51宍戸意見書p14) 。 ウ 物的損害(宍戸レファレンスp137 左欄(2)物的損害、甲D51宍戸意見 書p15(2)物的損害) (ア)根拠法令 1946 年戦争損害法に基づき、物損の補填が行われる。 (イ)適用対象 国は、戦争の結果、内外あらゆる政府機関による「戦争行為」によ り動産または不動産の直接かつ具体的な損害が生じたときは、戦災 者の優先債権となり、その全額について賠償請求権が認められる。 損害が拡大した場合は、賠償は増加時の法規に基づき行われる。 (ウ)給付 損害の補償は、優先権の順位に従って行われる。 ⑶ イギリス ア 総説 イギリスでは、軍人等と民間人とは別の法制によっているが、それでも、 民間人にも人身損害及び物損の補償がなされている。 37 イ 人身被害 (ア) 根拠法令 1939 年個人傷害(緊急規定)法及び同法に基づく行政命令に寄っている。 (宍戸レファレンスp133、1、英国(1)人的損害【根拠法規】 ) (イ) 適用対象 緊急事態のである第2次世界大戦中の期間(1939 年 9 月 3 日から 1946 年 3 月 16 日)に有給就業者(15歳未満の者、15歳以上の者であっても学生又 は職業訓中の者で、将来有給就業者となる可能性のある者は有給就業者として 扱う) 、非有給就業者、市民防衛志願兵が蒙った「傷病」に関連して各種の給 付を行う。有給就業者及び非有給傷病者の場合は、 「戦争傷病」を意味し、こ の「戦争傷病」とは、敵による又は、敵との戦闘の間若しくは、敵の襲撃と思 われるものを撃退する間の武器、爆発その他の有害物の使用、若しくは傷病を 発生させるその他の行為の遂行によって発生する身体上の傷病、又は空襲等に より、人又は財産に与えられた衝撃に起因する身体上の傷病とされる。 そして、傷病には、戦争障害に起因する「傷害」 (身体上又は精神上の傷病 若しくは損傷、又はその能力の欠損)であって、傷害の程度が、20%以上で 長期に及ぶ場合とされる(宍戸p134【適用対象及び適用法規】 。 (ウ) 給付の内容 有給就業者、非有給就業者共に障害給付、死亡給付がある。死亡給付には、 寡婦年金、遺児年金等がある(同上【給付】 。 ウ 物的損害(宍戸レファレンスp135 左欄(2)物的損害) (ア) 根拠法令 それまでの戦争被害補償を整理した 1943 年戦争被害補償法に基づくもの である。 (イ) 適用対象 1939 年 9 月 3 日から 1964 年(1946 年ではない)10 月1日までの戦争によ る土地(工作物等)の物損被害(戦争被害)を補償するものである。 この場合の戦争被害は、偶発的な場合を含め、敵の攻撃又は敵との戦闘行 動若しくは想定される敵襲の撃退の直接的な結果として発生する損害とと もに、それらの損害の拡大を防止または緩和するための権限ある当局の指示 による措置の結果賭して生ずる損害を含む (ウ) 給付内容 戦争被害給付は、工作物の建設費用負担者に対する建設費用の補償とその所 有主に対する家賃等の財産原価額の補償の2種類が認められている。 ⑷ イタリア 「戦争年金に関する諸規則の統一法典」 (1978 年)は、イタリア正規軍の軍人 及び準軍人(予備隊又は補助隊の構成員、赤十字社の志願看護婦、法令により武 38 装者の資格を与えられた者) 、旧オーストリア・ハンガリー帝国の元陸海空軍軍 人、解放戦争のために戦ったパルチザン、旧植民地政府の現地部隊に所属してい たことのあるイタリア軍人で、第二次世界大戦において負傷又は疾病、死亡した 者及びこの戦争が原因で廃疾又は死亡したイタリア市民に適用される(甲D40 奥原) 。 ⑸ オーストリア 「戦争犠牲者援護法」 (1957 年)は、オーストリアが軍事占領されたことによ り生じた民間人戦争犠牲者の責任によらない健康の傷害は、公傷と同様に補償さ れることを定めている。 同法はまた自己の責任によることなく軍事行動の巻き添えになったために、も しくは軍事的措置の結果として自己の責任によることなく、兵器その他の戦闘用 機器の作動により生じた民間人の健康障害についても、公傷と同様に扱い、補償 の対象としている(甲D40奥原) 。 ⑹ アメリカ合衆国 ア 「退役軍人傷病補償及び遺族給付に関する法律」 (1958 年) 戦時中その職務の遂行に関し、負傷し、若しくは疾病にかかったことにより、 1957 年 1 月 1 日以前に死亡した米軍構成員(軍属を含む)の遺族又は機能障害 等を生じた者について、国籍の如何を問わず、遺族年金、傷病年金等を支給する ことを定めている。 イ 「合衆国と契約を有する者に雇用された者の傷病、廃疾、死亡又は敵の抑留そ の他の目的のために給付金を支給する法律」 (1942 年) 軍属以外で米国政府に雇用された者については、本法律がある。 ウ 「戦争請求権法」 (1948 年) この法律により、上記イの法律は、日本軍の攻撃により廃疾、傷病、死亡、抑 留された米国市民にも準用されることとなった。 戦争請求権法は、このほか、捕虜及び民間人抑留者に対する給付金、日本軍の 攻撃で殺害又は捕獲されたグァム島人に対する給付金、同盟軍に勤務していた米 国市民の補償を受ける権利、枢軸諸国の攻撃(公海上の船舶攻撃を含む) 、占領 によって蒙った米市民の物的損害に対する補償などを定めている。 3 まとめ 以上のべたとおり、広く民間の戦争被害者、特に空襲を含む敵との戦闘行為によ る被害の補償、とりわけ、それにより民間人が死亡した場合の遺族や傷害を負った ことによる重度障害者に対しては、その生活援助等の補償がなされるということで は各国の制度は、一致している。そして更に財産被害補償まで行われている。そし て、ドイツにおける財産被害にさえ、国家の起こした戦争による被害は、国家の構 成員全体で分かち合うという思想が行き渡っているのである。ところが、残念なが ら戦後の日本には、このような思想は一切なく、戦争に協力した者にだけ補償する 39 という建前を戦後も残しているのである。 第3 戦争の変容に伴う国際法上の戦争(武力行使)の規制 1 戦闘方法の規制・・・とりわけ、空爆をめぐって 既に述べたように、19世紀後半から、武器の発達による戦争被害の残虐化に伴 い、戦争方法に対する国際法上の規制が行われるようになった。その中心概念は、 武力行使は可能な限り戦闘の相手方の戦闘能力を失わせるだけに止めるべきである。 具体的には、戦争を認めるとしても人間、とりわけ非戦闘員に対する被害を出来る だけ少なく、また、戦争終結後の戦争による影響も出来るだけ少なくしようという ものであった。 そこから生まれたのが武力行使の軍事目標主義であり、もう一つが、不必要な苦 痛を与えることの禁止である。そして、当初よりいわれていたのがいわゆるマルテ ンス条項、つまりハーグ陸戦法規の前文にある「一層完備シタル戦争法規二関スル 法典ノ制定セラルルニ至ル迄ハ、締約国ハ、其ノ採用シタル条規ニ含マレサル場合 ニ於テモ、人民及交戦者カ依然文明国ノ間ニ存立スル慣習、人道ノ法則及公共良心 ノ要求ヨリ生スル国際法ノ原則ノ保護及支配ノ下ニ立ツコトヲ確認スルヲ以テ適当 ト認ム」の基本精神の尊重である。マルテンス条項の基礎にあるのは、戦争におい ても、軍事的効果を超えた被害を人に与えてはならず、そこから、攻撃は軍事目標 にとどまる必要があるし、捕虜に対する攻撃は避けられるべきであり、更に攻撃終 了後までも苦しみを与えてはならないというものであった。 いわば、人権の基礎にある自然法思想から人間性や人道の視点から人間を保護す るために戦争方法に対する規制をかけていこうというものである。 詳細は、後述の第3章「国際法違反」に譲るが、空爆により、民間人をそれも非 人道的な方法で攻撃してはならないというのが基本であり、第2次世界大戦中、誤 爆、報復という連鎖の中で、その自制が失われ、その攻撃について様々な理由をつ けて合理化されていった。しかし、第二次世界大戦の当初に、非戦闘員に対する攻 撃は行われてはならないという規範が存在していたことは明らかである。 その意味で、重慶爆撃等、日本が無差別空爆を行ってしまったことの意味は、極 めて大きい。 2 戦争そのものの規制 (1)はじめに 総力戦、そして科学技術の発達に伴う戦争の変容により、戦争被害が増大した ことに伴い、戦闘方法だけではなく、戦争そのものを規制して行こうとする方向 が生まれた。 近代国民国家の成立、とりわけ、ウェスト・ファリア条約以後、国家間に上下 がなくなり、戦争の正・不正の判定者は不在との認識から、全ての戦争は国際法 上合法であるという無差別戦争観へと変わった。これを前提に、その後のアメリ 40 カ南北戦争、クリミア戦争、イタリア統一戦争等を経て、19世紀には、捕虜、 傷病兵の保護、苦痛を無益に拡大する兵器の禁止といった新しい戦時国際法が生 まれた。こうした中で第1次世界大戦が起こった。その結果、新に戦争そのもの を規制していこうという方向性が生まれた。 ( 2)国際連盟と不戦条約 第 1 次大戦が示した戦争の残虐性をきっかけに、1920年に設立された国際連 盟では、戦争モラトリアムの規定が挿入されたのを初め、1924年の国際紛争平 和処理に関するジュネーブ議定書を受けて、1928年には不戦条約(ケロッグ・ ブリアン条約)が締結されるに至った。戦争そのものを規制する方向性が生まれた のである。 (3)国連憲章 より大きな被害が生じた、第2次世界大戦を受けて、1945年には国際連合が 創設された。国連憲章には、戦争という用語はなく、国連憲章第2条4項は「全て の加盟国は、その国際関係において、武力の行使を・・・慎まなければならない」 として、戦争の違法化と武力行使の原則的禁止を明確にしている。もっとも、国連 が集団的安全保障措置を取るまでの間、個別的あるいは集団的自衛権を行使として の武力行使は許されている(国連憲章51条) 。 第4 日本国憲法の特別な意味 1 はじめに 以上第2、第3で述べたように、欧米各国では、戦争の変容とこれに伴う戦争被 害について、近代自然法、つまり、国民主権と基本的人権、つまり人間の視点から、 一方で戦争の規制を進めると共に、他方、民間の戦争犠牲者については、第1次世 界大戦、第2次世界大戦による非戦闘員被害を踏まえてその被害の救済及び回復措 置がとられて来た。それは戦争の変容に伴う人間の被害の拡大ある一方で、近代民 主主義国家が、個人の尊厳を基本価値におき、国民主権のもと基本的人権の保障を 国家の存立目的とする以上、むしろ当然のことであった。そして、国際法もそれと、 進展をあわせてきた。 そして、戦後日本においても、国民主権と基本的人権の保障を基礎とする日本国 憲法が制定された事を考えれば、後述するように、憲法13条から導かれる「特別 犠牲を強いられない権利」や憲法14条の「法の下の平等」から軍民平等を基礎と する欧米と同様の戦争被害補償制度が確立されるべきであった。 日本国憲法が戦争の変容に伴う戦争の惨禍を基礎に、戦争と平和について、従来 の欧米民主主義国家を超えて平和主義を徹底していることを認識する必要がある。 憲法は、その前文において「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのな いやうに決意し・・この憲法を確定」と記述し、また「日本国民は、恒久の平和を 念願し人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであって、平和を愛 41 する諸国民の公正と信義を信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した。 われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努 めてゐる国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国 民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有すること を確認する。 」と述べている。 このような前文に加え、第9条において戦争を放棄して、更に各国の憲法が備え ている戒厳等、国家の緊急事態による人権停止規定や軍法会議と行った規定が存在 しない。これらから見ると、日本国憲法は欧米諸国の近代民主主義憲法とは異なっ た戦争観、安全保障観に基づく国家を築こうとしていると考えられる。 その基礎には、加害体験と共に、東京大空襲、沖縄、広島、長崎の被爆体験を含 む非戦闘員戦争被害体験があった。 これらの戦争の歴史的経緯をふまえれば、欧米諸国以上に「戦闘参加者」 (戦闘員) ではない非戦闘員である民間人の戦争被害を重視する戦争被害者対策がとられるべ きであった。 そこで、このように徹底した平和主義をとる日本国憲法の制定の背景となってい る戦争の変容が憲法に与えた意味を振り返ってみることとする。 2 戦争の変容に伴う日本国憲法の意味 (1) 国民国家における戦争 近代にいたって成立した国民国家では、国民主権と、基本的人権の擁護が憲法 の基本原理となったが、その創立期には、国家を守ることが自国民の人権を守る こととつながり、国民の国防義務等も当然のこととされた。 科学の発達に伴い戦争が変容し、戦闘員、非戦闘員ともに戦争被害が拡大し、 その戦争被害を国家が放置出来なくなった。そこで国際法による戦闘方法につい ての規制が始まるが、最初に始まったのが、戦傷者や捕虜に対する保護(ジュネ ーブ法系)であり、戦闘方法に対する規制(ハーグ法)であった。 この戦闘方法に対する規制の中心は、一つは、戦闘員と非戦闘員との区別を基 礎とする軍事目標主義であり、もう一つは、不必要な苦痛を与える兵器の使用(ダ ムダム弾や毒ガス等の化学兵器や細菌兵器といった生物兵器)への規制であった ことは、既に述べた。 ところが、第 1 次大戦を受けて、戦闘方法に対する規制だけではなく、戦争そ のものを規制し、防止して行こうという動きが強くなった。その一つが、国際連 盟の発足であり、また、不戦条約の締結であった。ところが、国家間の相互不信 の防止をすることが出来ず、第2次世界大戦に突入してしまった。 これらを受けて、第 2 次世界大戦後には、国際連合が創設され、武力行使が原 則的に違法とされるに至ったことも、既に述べたとおりである。そして、これら 戦争の変容とこれに伴う法規制の変容に対応して、日本国憲法が制定されるに至 ったのである。本件において、日本国憲法の意義を理解するに当たっては、これ 42 らの世界的な変化を理解する必要がある。 ⑵ 戦争の変容と日本国憲法の意味 ア 平和的生存権の意味と憲法条理 科学の発展に伴う戦争の変容の意味については、既に述べたとおりである。 このような戦争の変容、とりわけ、空爆、更には核兵器の出現は、人類そのも のの生存にすら危機をもたらしており、国際法の世界では、国家を中心とする安 全保障観から人間を中心とする安全保障観( 「人間の安全保障」 )への転換の必要 性が世界的にいわれるようになっている。それは、自国の存立のみを中心とする 安全保障観や、戦闘員を中心とする安全保障観では、結局、人類、そして自国民 の安全も保障出来ないことが明らかになってきたためである。日本国憲法はその 先駆けとしての意味を持っている。 そうであるからこそ日本国憲法は前文において、世界に先駆けて「日本国民は、 恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するので あって、平和を愛する諸国民の公正な信義を信頼して、われらの安全と生存を保 持しようと決意した。われらは専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去し ようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、 全世界の国民が全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに 生存する権利を有することを確認する。 」との宣言に至っているのである。 イ 戦争被害回復措置の具体化の必要 日本国憲法が過去の戦争の参加を繰り返さない誓いの下に、戦争そのものを規 制しようとし、その出発点として、前文において平和的生存権を規定している。 これらの平和主義や前文、更に平和的生存権を考えるならば、立法を行う国家機 関である国会、行政を担う政府には、戦争被害、とりわけ非戦闘員の戦争被害を 現実的なものとしてとらえ、その被害回復に向けて具体的措置を執るべき憲法条 理上の義務があるというべきである。また、国民には、これらの構造の中で憲法 制定前の戦争に起因する被害についても、 「特別犠牲を強いられない権利」が保 障され、放置されないというべきである。 [以下、余白] 43
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