『見よ、すべてが新しくなりました』 第一、アダムの子孫である古い存在

2005 年 12 月 11 日(主日説教)
『見よ、すべてが新しくなりました』
説教:「趙鏞基(チョウ・ヨンギ)牧師」
本文:「コリント人への手紙
第二
5 章:17 節」
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去
って、見よ、すべてが新しくなりました。
今日、私は皆さんとご一緒に「見よ、すべてが新しくなりました。」と言う題目で、主の恵
みを分かち合いたいと思います。
狼が羊の皮を被るとしても、羊になりはしません。豚に人の着物を着せ、ネクタイを結んで
上げるとして豚が人に変化する事はありません。根本が変化してこそ人が変わるのです。形式
を変えるとして根本が変化する事はないのです。イエス様を信じて変化されると言う事は、外
面的に変化されるのではなく、内面的に変化される事を言うのです。
第一、アダムの子孫である古い存在
第一番目に、アダムの子孫である私たちは、聖書で言っている「古い者」です。この古い者
とは、どう言う者でしょうか。どのような者なので古いものは過ぎ去って新しい者になりなさ
い、と言われたのでしょうか。古い者とは、霊的に死んだ人を言うのです。死ぬと言う事は何
でしょうか?対話が断絶される事を死ぬと言います。
私たちの家族の中で死んだ人が生じたら、その死んだ人にいくらものを言っても、返事があ
りません。褒めても笑わず、罵っても怒りません。何故でしょうか?死人と生きている人との
間には対話が断絶されているからです。
アダムとエバが罪を犯して死んだと言う事は、神様との対話が断絶されたと言う事です。神
様が何と仰せられても、アダムとエバは反応をしない人になってしまったのです。それを皆さ
ん、こんにち、この世で見る事ができます。主イエス様を信じない人たちに、神様と主イエス・
キリストに関する話をいくらして上げても、理解しません。その人たちとクリスチャンとの間
では対話ができません。彼等の霊が死んでいるからなのです。
「創世記 2 章 17 節」に、『善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食
べるその時、あなたは必ず死ぬ。』と言われました。ところが善悪の知識の木からその実を取
って食べる罪を犯すや、神様の御前で彼等の霊が死んでしまい、神様との対話が断絶されてし
まいました。神様との対話が断絶された人たちは、この世の中で空しい事ばかりします。アダ
ムの子孫である古い人たちは、霊的に死んだ人たちなので、いくら世俗的に成功をおさめ、地
位が高くなっても、結果はすべて空しいものなのです。
去る 20 日日付の或る日刊紙を見ますと、インドシナ半島にある或る国の総理大臣が、星座が
良くないと言う理由から予定されていた同国マスコミとの公式インタビューを拒否しました。
水星の位置が悪いから、その星が動いてその位置が変わるまで待ってくれ、と言ったと言いま
す。彼は一国の総理大臣として高い地位にある人でしたが、霊的に死んでいるために、一個の
星座の位置を理由に国政業務の日程まで変更させました。それは霊が死んでいるので、神様と
は何の関係も結ぶ事ができなかったからです。そういう人は他の神を信じるようになり、悪霊
と偶像を拝み、いい加減な占いの結果に従う人になってしまいます。
また古い人とは、道徳的に腐敗した人たちです。罪を犯したと言う事は、罪が麹菌となって
私たちの人生の中に入って来たと言う事です。皆さんもご存知のように、麹菌は腐敗させる役
割をします。私たちの中に罪と言う麹菌が入って来て、人格的に腐敗させられました。子供は
罪を教えて上げていないのにも最早罪を犯しています。なぜでしょうか。アダムの血統から生
まれたので、生まれるやいなやその子供の中に麹菌みたいな罪が遺伝されて入って来ているか
らです。
それで、子供たちは教えて上げなくても貪欲のしもべとなります。お菓子を上げたら一つは
口の中に入れ、もう一つは手のひらで握り、一つだけくれ、と言ってもくれません。何も知ら
ない子供でありながら既に欲がはらんでいるのです。酒に酔い、放蕩し、淫乱であり、世俗的
な汚れの中に落ち込むのは、罪の麹菌がその人の中に入って来ているからなのです。「イザヤ
書 1 章 4 節」に、『ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。
彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。』と記録されていま
す。
行為が腐敗しているので、私たちは生まれる時から不道徳な存在として生まれ出たのです。
「エペソ人への手紙 2 章 3 節」に、『私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自
分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれなが
ら御怒りを受けるべき子らでした。』と言われました。
先月 29 日、韓国キリスト教総連合会主催で開かれた「国際性売買及び人身売買根絶のための
対策会議」に、米国外務部国際人身売買担当大使であるジョン・ミラーさんが参加されました
が、彼が本当に衝撃的な話をしました。こんにちも性売買、人身売買が全世界に広範囲にわた
って行われているが、米国だけでも年間約 80 万名の女性が性奴隷として売り出されている、と
言うのでした。米国のような国で年間 80 万名の女性が性奴隷として売り出されているのであっ
たら、第 3 世界ではいかにたくさんの女性たちが性奴隷として取引されているでしょうか…?
この世が道徳的にどんなに腐敗しているか伺い知る事ができる話です。
先月 24 日、ソウルの中央日報には赤子売買に対する衝撃的な記事が載せられていました。某
国の社会福祉会員たちが赤子を取引しながらお金を稼いでいましたが、これが摘発されて公安
当局が密売者 27 人を逮捕したと言うのですが、その中の大多数が社会福祉施設の責任者と事務
員たちであったと言います。彼等は子供を預けて上げたら、その子供たちを密売してお金を稼
いでいたのです。人間のいのちも貪欲を満たす手段となるのです。人間は道徳的に堕落してい
るので、貪欲を満足させる事ができる事ならどんな事でもするのが古い人なのです。
古い人は、心理的に自己中心です。自分しか知りません。「詩篇 14 篇 1 節」に、『愚か者は
心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。
善を行なう者はいない。』と言われているのです。心の中に神様がいないのですから、そこに
は誰がいるのでしょうか。自分が座っているのです。自分が神であり、自分が自分の主人であ
るので自己中心的な思考をし、勝手な言葉を語るのです。
「ローマ人への手紙8章6節~7節」に、『肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと
平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服
従しません。いや、服従できないのです。』と記録されています。自我が中心に立っていて、
神様の御言葉に服従もしない、屈服もしない、それで神様に敵対しながら暮らしているのです。
従って、神様が審かれる時、当然のことながら審かれるしかありません。神様の御言葉に従順
に聞き従わなかったからです。
この頃、私たちはよく「DINK 族」とか、「TONK 族」とかいう言葉を耳にします。「DINK 族」
とは何かと言うと、『Double Income, No Kids.』と言うことですが、夫婦が共稼ぎをして収入
は倍に増やしながら、子供は生まない…、と言うことです。二人が共稼ぎしてお金を貯め、仲
良く後々まで豊かに生活を営んで行こうと言うことです。
「Tonk 族」とは、『Two Only, No Kids.』すなわち、年寄りになって行きながら二人が稼い
だお金はしっかりと守り、子供たちにも孫たちにも分け与えず、彼らが寄り付かないようにし
よう、と言うことです。それで年老いた夫婦が子供たちには背を向けて、自分たち二人だけで
よい暮らしをしようと言うことです。それでこんにち、「DINK 族」とか「TONK 族」とか言う言
葉が世界的に流行っている単語なのです。自己中心的に生きて行こうという主義です。これは
本当に、腐敗した人間の利己主義的心理現象です。
また古い人は、肉体的に病を患っている人なのです。聖書に『あなたはちりだから、ちりに
帰らなければならない。 』と言われました。人間はどうするすべもなく四苦(生・老・病・死)
のかせに引っかかって縛られているのです。生まれ出たのなら年をとり、病にかかって遂には
死ぬかせから抜け出ることができません。これが、アダムとエバが神様に罪を犯したとき、神
様が人間に与えられた命令です。『あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』
「詩篇107篇10節~11節」に、『やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、
彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。』と記録されています。
また「伝道者の書5章17節」に、『しかも、人は一生、やみの中で食事をする。多くの苦痛、病
気、そして怒り。』と記録されています。さらに「申命記28章59節」を見ますと、『主は、あ
なたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気
である。』と言われています。古い人はいつも心と身体から病が離れません。
また古い人は、環境的に呪いの下にいる人なのです。私が小学校に通っていた時は、朝鮮総
督府(日本が韓国半島を植民地化して統治・支配した機関)の末期であり、また6.25韓国戦争
が勃発した当時は、韓国が極度の抑圧と貧困で苦しんだ時代です。朝鮮総督府の末期にはすべ
ての食糧を供出と言う名目で奪い取られ、全韓国民が飢えました。『ボリコケ』(麦の峠)と
言う言葉を今の若い人たちは知りもしませんが、その当時の『ボリコケ』は本当に生死の境目
でありました。
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【 訳者註】:『ボリコケ』とは、日本語に直訳したら「麦の峠」と言う意味の韓国語です。当時
韓国民たちは山に登って木の皮を剥ぎ、草の根を掘り出して、それらを食材としてお粥を炊いては
すすり飲み込むとか、餅のように煮詰めて食べたりしました。秋の収穫はほとんどを供出という名
目で朝鮮総督府に奪い取られ、それらは日本国民の食糧とか、各地の日本軍の軍量米とされました。
それで韓国民は冬の半ば頃からは食糧が尽きて食べ物がありません。それで春が過ぎて麦を収穫す
る時期までの延命に韓国人たちはすごく苦しみました。その至難の時期を韓国民たちは『ボリコケ』
(麦の峠)と呼びました。その時期には餓死者が続出しました。
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『ボリコケ』の時期には、登校する学生の数も半分に減ります。栄養失調になって顔がむく
み、元気がないので起き上がれなかったのです。本当に腹がひもじく悲しい時期を過ごしたも
のです。環境の呪いとはすごく恐ろしいものです。
この頃は、その当時の話をしても若い人たちには理解してもらえません。若い人たちに「む
かしは麦のお粥とか、木の皮、草の根で餅みたいなものを作って食べたよ…。」と言ったら、
彼らはすぐに「ラーメン食べたらいいじゃないですか…?」と反問します。その当時はラーメ
ンと言う名もそんな食べ物もありませんでした。
呪いとは恐ろしいものです。アダムとエバが罪を犯したとき、神様は仰せられました。『ま
た、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じ
ておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、
苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あ
なたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得るようになる。」』
(創世記3章17節~19節参照)
いかに恐ろしい事でしょうか。しかし、韓国が呪いから解放されたのはわずか半世紀も経っ
ていません。こんにち、栄養失調で顔がむくみ、起き上がれないほどの学生がいるとは聞いて
いません。貧困で運動靴が買えないので、裸足で登校する学生も見ることができません。勿論、
ごく一部、貧しくひもじい思いをしながら涙ぐましい生活をしている学生がありますけれども、
絶対赤貧はほとんど居なくなりました。神様が私たち韓国民から呪いを取り去ってくださり、
キリストにあって祝福してくださった事に感謝します。
世界食糧機構が先月 20 日に発表した内容によりますと、全世界で年間 600 万名の子供たちが
死亡するとの統計が出ていました。この子供たちは、飢餓による栄養失調と栄養失調による免
疫力弱化によって、下痢と肺炎とマラリヤなど、軽い伝染病にかかって死亡するのだそうです。
1 年に 600 万名が今日も十分に食べられなくて栄養失調にかかって死んでいく、と言うのです。
そして、1 年に 53 万名の女性たちが栄養失調で妊娠中に死ぬと言われています。今の私たちの
韓国ではそう言うことは見られません。
しかし、休戦線のすぐ北の北朝鮮では数多い子供たちが栄養失調で死んでいく事実を私たち
は知っています。この地は呪いが横行しているところです。神様が居られないところでは呪い
が離れ去りません。神様が来てくださってこそ呪いが離れ去るのです。イエス・キリストなし
に呪いから解放されることはできません。イエス様なしに、よく食べ、着飾り、豊かな暮らし
を営むことはできません。ですから、私たちはキリストの中に居なければならないのです。
そして古い人は、永遠に生きると言う希望のない人です。死んだ後に永遠に生きると言う希
望がないのですから、明日死ぬとしても今日は思う存分に飲んだり食べたりしようと言うので
す。これが世の人たちの一般的哲学なのです。明日は死ぬかも知れない。死んだ後に天の
御国があると言うことも知らず、地獄があると言うことも知らないのですから、死んだらそれ
でおしまいだ、と思い込むのです。それで、どんなことをしてでもこの世でたらふく食べ、す
ばらしく着飾り、豊かに暮らしたら、それで良いのだと思うのです。あまりにも悲惨です。
「ヨハネの福音書 3 章 36 節」に、『御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従
わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。』と記録されています。
こんにち、世の人たちは頭の上にダイナマイトを載せて生活しているのです。いつか神様の怒
りが臨んだら、そのダイナマイトが爆発して永遠なる地獄に落ち込んでしまうしかない運命な
のです。
「エペソ人への手紙 2 章 12 節」にも、『そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イス
ラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、
神もない人たちでした。』と言われています。神様がいない人には希望がありません。なぜで
しょうか。死んだらそれでお終いだと思い込んでいるからです。神様の中に永遠のいのちがあ
ると言う事実を悟っていないからなのです。
去る 18 日、ある日刊紙に「宝くじに当籤するために、4 歳の弟を殺害したので逮捕された」
南アフリカの一人の男性に、20 年の懲役刑が言い渡された、と言う記事が載せられていました。
彼は 2002 年 5 月、弟を殺害した後、死体を火で焼いて、そのにおいを鼻で嗅ぎました。これは
アフリカの一部地域に今も残っている迷信のひとつです。人間の脳を火で焼いて、そこから出
るにおいを吸入したら宝くじに当たると信じているのです。自分の弟を火で焼いて、その脳か
ら出る煙を吸入して祝福してもらい、自分が買った宝くじが当籤するようにするために弟を殺
す…、このような悲劇的な事件がまたとどこにあるでしょうか。
永遠のいのちがあることを知らないのですから、ただこの世でよい物を食べ、よい着物を着
て、そして豊かに暮らしたらそれでよいのだと思うのが、こんにちの絶望的な人間存在の現実
です。しかし、聖書にはどんなに記録してあるでしょうか。『だれでもキリストのうちにある
なら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりま
した。』(コリント人への手紙第二 5:17 参照)
第二、イエス様にあって新しい存在
私たちが、イエス様を信じたら新しい者になる、と仰せられました。イエス様は人間共同体
のかしらとして来られたのです。神様は、私たちのために十字架に架かられることはできませ
ん。それで、神様の御子イエス様が人類共同体のかしらとして来られて、人類を代表して、私
たちの罪と不義、醜悪と呪い、絶望と死を担われて十字架に上られ、身を裂き血を流して人類
の罪悪を清算してしまわれました。
ですから、イエス様の死は私たちの死、イエス様の墓は私たちの墓、イエス様の復活は私た
ちの復活…、こうしてキリストと私たちが一つとなれるのです。人類共同体のかしらとしてイ
エス様が来られたのですから、私たちは皆イエス様にあってキリストと共に十字架に釘付けら
れ、共に苦痛の目に会い、共に死んでから、共に葬られて、共に復活したのです。
したがって、イエス様を救い主として心の中に迎え入れたら、キリストの恵みが私たちの中
でみわざを働かせて聖霊が驚くべき働きをしてくださるのです。イエス様を救い主として迎え
入れたら、私たちは霊的に死んでいたものが新しく生き返って、神様に向かって『アバ、父!』
と呼ぶようになるのです。
赤ん坊が生まれるとき、お医者たちは赤ちゃんの足をつかんで逆さまにつるし、お尻を軽く
パーンと叩きます。そうしたら赤ちゃんが「ウァーン…」と泣き声を出します。はじめて赤ち
ゃんの肺の中に空気が入っていったら、赤ちゃんが「ウァーン…」と声を出して泣くのです。
私たちの中にはじめて聖霊が入ってきたら、「アバ、父よ!アバ、父よ!」と呼ばわるように
なります。この時から驚くべき主の奇跡的なみわざが起こるのです。
イエス様を救い主として迎え入れ、口に出して認めるやいなや、聖霊のいのちの息が私たち
の中に入ってきて、死んでいた私たちの霊が生き返り、「父なる神様」を呼び求めるようにな
り、父との対話がなされるのです。「エペソ人への手紙2章1節」に、『あなたがたは自分の罪
過と罪との中に死んでいた者であって…、』とあり、「6節」に、『キリスト・イエスにおいて、
ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』と記録されているのです。
ですから、イエス様の中に入ってきたら直ちに、聖霊がキリストを通してみわざを働かせて
くださって、私たちの死んだ霊が生き返り、私たちの中に神様のいのちの息が入ってくるので、
父なる神様と交わりを持つことができるようになるのです。
1833年、進化論の主唱者であったダーウィンは、自分の理論を裏付けることのできる進化の
痕跡を探し出すために、食人種が住んでいるある島を訪ねて行きました。そこで彼は、食人種
族の群れを観察した後、この人種よりもっと原始的で退化した人間は有り得ない、と結論を下
しました。彼らには希望もなく、変化も期待することができないと言いました。食人種族はも
っとも原始的であり、動物に近いと彼は断定しました。
それから34年が過ぎた後、ダーウィンが再度その島を訪ねて行くことになりましたが、驚く
べきことには、希望とはまったく無いと思われたその食人種族たちが教会を建て、学校に通い、
家庭で礼拝を捧げており、いつのまにか文明人になりすましておりました。どうしてかと言え
ば、ジョン・ペイタンと言う宣教師がその島に入って行ってイエス・キリストの福音を宣べ伝
えたので、イエス様を救い主として信じて受け入れ、新しく生まれるや、神様の子どもとなり、
神様の恵みをいただいて完全に発達した文明の人たちになってしまっていたのです。
イエス・キリストの福音が入っていったら、どんな未開人たちも文明人になってしまうので
す。食人種族たちも完全に文明人になって新しい人たちとなるのです。学識のない人たちが聖
書に没頭して学識高い人となり、神様の知恵と聡明と明哲と力を得て勝利の生活を営んでいく
ことができるようになるのです。キリストの福音が入っていく国はすべて、暗闇から光明に、
無学から博識に、死から生にと変化されるのです。
どのような人であっても、イエス様にあって新しくなった人は、霊的に新しくなった日々を
過ごすようになり、神様から祝福していただく人生を営むようになるのです。イエス様が救い
主として入ってこられて私たちの中に留まってくださったら、聖霊の恵みによって私たちが自
然と聖くなるのです。
人間は、産まれ出るときから腐敗した存在です。汚らわしい存在です。罪が麹菌となって私
たちの人格を腐敗するようにするので、黙っていてもそのまま腐敗するようになるのです。罪
を教えてあげず、汚らわしいことを教えてあげなくても、人たちは欲を張るようになり、淫乱・
放蕩するようになり、醜悪になっていくのですが、イエス様が中に入ってこられたら、罪と死
の律法から解放され、聖霊が臨まれてみわざを施してくださいます。聖霊は不動の霊ではなく、
風のように動き、水のように流れる霊なのです。
いくら重苦しく濁っている空気も、風がサーっと吹いてきたら清々しくきれいな空気になっ
てしまい、いくら腐った川の水でも、新しい水が入ってきて腐った水を流れ出るようにしたら、
その川は清潔な水が流れるようになるのと同様に、私たちの中にイエス様が入って来られたら、
聖霊が臨んでみわざを働かせてくださいますので、私たちの中は新しく清々しい空気で満たさ
れ、生ける水が満ち溢れて腐敗した水はきれいに流れ出されてしまうようになるのです。
それで、誰でもキリストの中にいたら、聖霊が来られて私たちを聖くしてくださるのです。
聖霊に導かれて御言葉を読むようになり、御言葉は生きていてみわざを働かせ、私たちの霊と
たましい、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、聖霊の火が私たちの心の中で働いて罪悪と
不義をきれいに燃やし尽くしてくださるのです。そうなので、キリスト・イエスを救い主とし
て心の中に迎え入れた以後、聖霊が臨んでくださったら、人たちが変化されまいと力んでも変
化されてしまうのです。
新鮮な風が吹いてくるのですから、腐敗した空気がそのまま留まっていることができません。
すべての悪霊共がみな追い出されるのです。すべての汚れたものたちがみなきれいに洗われ、
外に流れ出されるのです。聖霊のいのちのみわざが私たちの中に起こり、働かれるようになる
のです。「コリント人への手紙第一6章11節」に、『あなたがたの中のある人たちは以前はその
ような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたが
たは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。』と記録されています。
「コロサイ人への手紙3章9節~10節」には、『互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、
古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに
似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。』と記録されています。
「復活」の著者で、ロシアの偉大な作家であったトルストイは、自分がどのようにして悪か
ら善に立ち返ったかに関して述懐した内容によりますと、トルストイは凄く広い農地を持って
いる地主で、彼は勝手気ままに放蕩した、完全に腐敗した人であったと言います。彼は立派な
作家になった以後にも酒池肉林の中で放蕩し続けました。彼は深い泥沼に落ち込んであがきな
がらも、そこから出てくることができませんでした。彼はいろいろと修養し、徳を高めようと
努力しましたが、できませんでした。
ところが、イエス・キリストを信じるようになってから彼は変化されて、次のような告白を
するようになったと言います。「イエス・キリストの御言葉は、私に信仰を与えてくれました。
私はその御言葉を信じるようになりました。そうするや、私のその間のすべての生活習慣が変
化され、以前に望んでいたことは望まなくなり、その反面、以前には決して望まなかったこと
を望むようになりました。前には私の目に悪として映っていたことが今は善に見え、善と見て
いたことが今は悪と見えるようになりました。イエス様にあって新しくなった人は、霊的に生
き返って、聖霊の恵みにより聖くならざるを得ません…。」
トルストイは、その以後から聖くなりました。彼の文学も聖い作品を書くようになったので
す。変化は、内面において聖霊が働いてくださってこそ起こるのです。外面においていくら叱
り飛ばし、鞭で打ち、直そうとしてもできるものではありません。人は内面から変化されなけ
ればなりません。イエス様を救い主として迎え入れたら、聖霊が来られて私たちの内面が聖潔
になるように変化させてくださるのです。それで新しい人になるのです。
また、新しい人になったら、心に天国が臨んで神様中心に生活をします。我ら人間の心は、
イエス様を信じる前には形がなく、空虚で、闇のようなものでありました。この世が、「創世
記1章1節~2節」に記録されているように、『初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、
何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。』のです。
人たちは、どこから来て、なぜ生きており、どこへ行くのか知らない、意味のない人生なの
で、いつもその心は空虚です。なにが真実でなにが偽りなのか、なにが人生の価値なのか…、
知らないので形がありません。闇が大いなる水の上にあります。サタンが人たちの根本を捉え
て、この世の情欲に従って生きていくように根気強く仕向けます。
このような人たちの中に、神様がイエス・キリストを通して『光よ。あれ。』と仰せられま
す。すると人たちの心から闇が去り、形がなく、なにもなかった人の心の中に光であられるイ
エス様が入って来られます。キリストを救い主として迎え入れたら、明るい光が私たち人間の
心の中で照り輝くようになるのです。光が入ってきたら闇が去り、空虚感が離れ去ってしまい
ます。そうなったら天地が明るくなり、前途が鮮明に見えるようになるのです。どこから来て、
なぜ生きており、どこへ行くのか知るようになり、人生の意味と価値を悟るようになるのです。
イエス様を救い主として受け入れた人は、光を抱いている人です。イエス様は、私たちの光と
して私たちの中に入ってこられました。
「創世記1章6節」を見ますと、翌日、『ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間
に区別があるように。」と仰せられた。』すると、大空(天)ができあがりました。私たちの
中にもイエス様の光が照らされるようになったら、直ぐその後には大空(天)が入ってくるよ
うになるのです。以前は世俗でいっぱいであった私たちの中に、大空(天)が入ってくるよう
になるのです。イエス様を信じる人と信じない人のどこが違うのでしょうか。光を胸に抱き、
天が入ってきている人が信仰の人です。世の人たちには光がなく、その心の中には神様の天が
入ってきていないのです。今日、皆さんは、皆が光を抱き、天を心の中に抱いている人たちな
のです。それで、心に天国が臨み、今からは主が心の中心となって共に居てくださるようにな
るのです。
「ガラテヤ人への手紙2章20節」に、『私はキリストとともに十字架につけられました。もは
や私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この
世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によ
っているのです。』と言われています。
キリストが入ってきたら光が入ってくる、そして天が心の中に入ってくる奇跡が誰にでも起
こるのです。前には知らなかったのですが、今からは心が明るくなり、肉体的に物質的に世俗
以外の新しい天の御国が臨んでいることを知るようになるのです。主の光と神様の天が入って
きたからなのです。
12月5日の国民日報に、パキスタン地震現場での奇跡的事件の内容が報道されました。去る11
月23日から12月1日までパキスタンのパディカで、地震被害罹災民たちを助けていた飢餓対策緊
急救助チームは、死にかけていた一人の青年を奇跡的に土の埋もれの中から引き出しました。
10名で組織されていた救助チームは、先月の28日、生死の境をさまよっている青年一人を助け
出して、青年の容態を確かめたところ、すでに凍死状態でありました。
脈拍だけがしごく微かに感じられました。救助チームは青年のからだを揉みマッサージして
あげました。臨時処置として鍼術を施しましたが、効果がありません。その時、救護チームの
中に牧師が一人おられました。牧師先生が言われました。「我らみんなで心を一つにして、祈
りを捧げましょう。」と提案しました。彼らは手に手をとって、青年の蘇生を求めながら熱心
に祈りました。
そうした後、牧師先生が青年に向かって、可能か不可能か判らないけれども一度やって見ま
しょう…と呟きながら、「青年よ。起き上がりなさい!」と、大声で叫びました。そうすると、
びくともしかなかった青年が目をぱっちりと開き、やおらゆっくりと起き上がりました。そし
て青年が口を開きました。
「…正確ではありませんが、誰かが私のからだに触れ、祈りを捧げる声を聞きましたが、そ
れを聞くや全身に力が満ち、私は起き上がることができました…。」
ほとんど凍死状態で死んだも同然の青年でありました。マッサージも効かず、鍼を打っても
効果がありませんでした。ところが救助チームの人たちが心を合わせて祈りを捧げ、「青年よ。
起き上がりなさい!」と叫ぶや、いのちの息が入っていったのです。
谷間に、非常に多くの干からびた骨が満ちていました。主がエゼキエルに仰せられました。
『人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。』「主よ。あなたがご存じです。」『こ
れらの骨に預言して言え。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き
返る。』エゼキエルが仰せられた通りに預言しました。
すると、大きなとどろきのような音がしました。ひどく干からびていた骨と骨とが互いにつ
ながりました。エゼキエルが見ている前で、ひからびた骨の上に筋がつき、肉が生じ、皮膚が
その上をすっかりおおいました。その骨たちにエゼキエルが主の仰せに従って、「神である主
はこう仰せられる。息よ。吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせ
よ…。」と預言しました。息が彼らの中に入りました。そして彼らは生き返り、自分の足で立
ち、多くの集団になりました。(エゼキエル書37章参照)
こんにちも、私たちが主の福音を宣べ伝え、伝道し、感謝し、祝福して祈ったら、息が入っ
ていくのです。神様のいのちのみわざが現れるのです。この青年はその場でイエス様を救い主
として受け入れて、光と天が彼の中に入ってきました。新しく救われた人になってしまったの
です。皆さん、主にあって新しくなった人は、癒してもいただき、心に天国も臨むのです。
また、新しくなった人は、癒していただき、復活の希望を持った人です。私たちがイエス・
キリストを救い主として受け入れたら、キリストが私たちの霊を罪悪から癒してくださり、心
を絶望から癒してくださり、肉体を疾病から癒してくださるのです。神様は癒してくださる神
様です。天国は、その基盤が癒すことにあるのです。
『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』と言われてから主がなされたことは、悪霊を
追い出し、病人を癒し、平安を与えてくださるみわざを施されたのです。主の御国は癒すこと
にあるのです。イエス様は病人を癒すために来られました。人間は、霊的に、心的に、肉的に
みんなが病気にかかっています。頭のいただきから足裏まで傷づいていないところがありませ
ん。
イエス様が来られたのは、この病気にかかっている人間たちを十字架でみな解決してしまわ
れ、復活のいのちで満たし、癒すがために来られたのです。ですから、新しく生まれた人は、
すなわち新しくなった人たちは主の癒しの御力に浴している人たちなのです。皆さんは全部、
主の癒しの海の中に浸っている人たちなのです。私たちは、霊肉共に癒しの息を吹き込まれた
人たちなのです。
「ペテロの手紙第一2章24節」に、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負
われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆ
えに、あなたがたは、いやされたのです。』と記録されています。また「コリント人への手紙
第二5章1節」には、『私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物がある
ことを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。』と記
録されています。
私たちはこの世で暮らす間、神様の癒しの恵みの中で暮らし、地上の幕屋がこわれたら、人
の手によらない、天にある永遠の家に入っていく希望を持った人たちとなったのです。
アメリカの南部都市であったお話です。大きくなった 4 人の息子の母親が病院で息を引き取
る間際になりました。母親が息子たちをベッドの回りに集まるようにしてから、長男から次々
と名前を呼びながら挨拶を交わしました。長男、次男、三男には、「もう、母は死んでから天
国で目を覚ますようになります。ですから、私に”Good night!”と挨拶してキスしてね。」と
頼みました。3 人の息子たちが次々に”Good night!”と挨拶してから母にキスしました。
母親は、末っ子である四男・アンデイには、「アンデイ、母に”Good bye!”キスをして頂戴
ね。」と頼みました。アンデイは内心ひどく不審がりながら、「お母さん、兄さんたちには”Good
night”キスをさせながら、どうして私には”Good bye”キスをさせるのですか…?」と質問し
ました。
そうするや、母親は最後の力をふりしぼって言いました。「アンデイ、あなたのお兄さんた
ちは皆イエス様を信じて救われたのよ。私は死の夜が過ぎたら復活の栄光の朝には目が覚めて、
再びお兄さんたちに会うようになるの。しかしアンデイは、母がいくら伝道しても聞き入れず、
イエス様を信じずにこの世を暮らしているのだから、あなたと私はもう、永遠に離別するしか
ないじゃないの…。あたしは天国に行き、あなたは地獄に行くのだから、あなたはあ たし
に”Good bye”キスをしてね…。」
これを聞いたアンデイは、その場にひざまずいて涙を流しながら、「お母さん、私を赦して
ください。私も”Good night”キスをさせていただきます。私もイエス様を信じて、あの死の
夜を過ぎて天国の朝に目を覚まし、お母さんと会いたいです…。」そうしてアンデイは悔い改
めてイエス様を救い主として迎え入れ、母親に”Good night”キスをした、と言う記事を読ん
でみました。
イエス様にあって新しくなった人は、すでに天国の永遠のいのちを胸の中に持っている人な
のです。皆さんの胸の中にはすでに天国が入ってきているのです。『「そら、ここにある。」
とか、「あそこにある。」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あ
なたがたのただ中にあるのです。』(ルカの福音書17:21)と聖書に記録されています。すで
に私たちの中に天の御国が入ってきており、御父と御子と御霊が私たちの中に入ってきておら
れるのです。
今日、私たちの礼拝共同体の中には、天の御国が臨んでいるのです。御父がおられ、御子が
おられ、御霊がおられ、数多い天使たちがここに来ているのです。私たちが肉の目で見ること
はできませんが、霊の目を開いたら、私たちはまさに御父と共にすでに天国に入ってきている
と言うことを知るようになります。
それから、新しくなった人はアブラハムへの祝福をいただいた人です。アブラハムへの祝福
をいただいた…、これはどんな意味でしょうか。みなさん、アダムとエバの子孫たちは元来、
呪われた中で生きています。産まれる時から泣き声をあげて産まれます。産まれる時からアハ
ハハ…と、笑いながら産まれた方がおられるのでしたら手を上げてみてください。笑いながら
産まれ出た人は一人もいません。呪われた地の上で産まれる人は泣きながら産まれます。
しかし、天の御国に産まれ出る時には、泣きながら生まれ出る人は誰もいません。ハレルヤ
~~~!アハハハ…!ハレルヤ~~~!天の御国は永遠なる祝福の国なのです。従って、この
天の御国が臨んでいる人には、アブラハムへの祝福が臨んでいますので、喜びで満たされてい
るのです。
「ガラテヤ人への手紙3章13節~14節」に、『キリストは、私たちのためにのろわれたものと
なって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる
者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝
福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって
約束の御霊を受けるためなのです。』と記録されています。
「ガラテヤ人への手紙3章9節」を見ますと、『そういうわけで、信仰による人々が、信仰の
人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。』と記されています。アブラハムは神様から、
『わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。
あなたの名は祝福となる。』(創世記12章2節)と仰せられました。ですから、「見つめる法則」
を使用しなければなりません。
皆さんは、毎日、朝起きたら、皆さんご自身を見つめるようにしてください。「私は、アブ
ラハムへの祝福を受けた人なのだ。大いなる国民とし、あなたを祝福すると神様が約束してく
ださったのだ。」と思い、ご自分を見つめてください。皆さん、陰鬱になって、失敗した自分、
呪われた自分を思い、見つめてはなりません。「見つめる法則」はすばらしい威力を発揮する
のです。皆さんは、キリストの十字架を通して祝福された人であることをいつも見つめるよう
にしてください。
私たちはすでに、この世を生きる間「新しい人」となったのですから、天国の永遠のいのち
を得たのです。「ヨハネの福音書10章28節」に、『わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。
彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはあ
りません。』と記録されているのです。
キリストを救い主として受け入れた人はすでに、死と黄泉(陰府)をすべて克服して永遠な
るいのちを得た人なのです。皆さんはすでに、永遠のいのちを得ているのです。将来永遠のい
のちを得るのではありません。すでに永遠のいのちを与えられているのです。「ヨハネの福音
書14章3節」の御言葉です。『わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あな
たがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』
第三、努力でか、信仰でか?
第3番目に、私たちはこの「新しく生まれる」恵みを、努力したら得ることができるでしょう
か、信仰によって得ることができるでしょうか?『だれでもキリストのうちにあるなら、その
人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(コ
リント人への手紙第二5章17節)
たまにですが、「古いものが過ぎ去って、新しいものとなるために、どれぐらい努力し、修
養したら良いでしょうか?」と質問する人がいます。ある人は「新しいものとなるためには、
ゆっくりと徐々に努力したら新しい人に変化することができる…。」と言いますが、皆さん、
人の努力で新しいものとなることは絶対にできません。
私たちの教会の聖徒さんの一人から、お手紙をいただいたことがあります。私はそのお手紙
を読みながら涙を流しました。彼女が 6.25 韓国戦争当時行商をやっていましたが、アメリカ軍
を満載した列車が駅に停まりました。何か買って貰えないかと期待しながら近づいていきまし
た。するとアメリカ軍人の一人が手招きするのでした。何か売れると思って飛んで行きました。
ところが、軍人たちは彼女を列車の中に連れ込んで輪姦しました。そしてその後に列車の外に
投げ出されました。
運悪く彼女は懐妊して、娘を産みましたが、皮膚の色が黒いアフリカ人種の娘であったと言
います。彼女は、自分が産んだ娘ですので育てない訳にはいかなかったと言います。周囲の冷
たい視線の中で、彼女はその子を育てました。そして小学校に登校させましたが、毎日級友た
ちからいじめられ、時には殴られもして、泣きながら家に帰って来ました。
ある日、彼女が家に帰ってきて見ると、娘が両腕にいっぱい血を流しながら泣いていました。
「どうしたの…?」と驚いて聞いてみると、束子(タワシ)で両腕の黒い色を落とそうとして
長時間こすった、と涙を流しながら答えたそうです。そして娘が母親に質問したと言います。
「お母さん、わたしは何故、いくら洗っても黒いのがなくならないの…?人たちは黒い垢を洗
ったらきれいになるのに、何故、私はきれいにならないの…?」それを聞いて、彼女は娘を抱
きしめながら声をだして泣いたと言いました。
そして彼女の手紙は、娘を外国へ養子縁組させて送り出したいのだが、何とか助けてくださ
い…、と訴えていました。私は手を尽くして協力して差し上げました。
皆さん、黒い皮膚をいくら束子でこすり、洗っても白くはなりません。罪人がいくら努力し
ても、義人にはなれません。古い人はいくら努力しても古い人です。教育を受けたとしたら、
教育を受けた古い人であり、修養し徳を高めたとしても古い人です。新しい人にはなれません。
ゆっくりと順を追って努力したら変化するであろうと言う考えは間違った考えです。
皆さん、人が新しくなることができるのは、神様が主権的に恵みを与えてくださることによ
ってだけできるのです。イエス様が人類の頭(かしら)として来られて、罪人である私たちに
代わって十字架に釘付けられ、死なれてから葬られ、よみがえられたことによって古い人は清
算されて、私たちは新しい人になってしまったのです。キリストにあってはすでに過去分詞な
のです。私たちはすでにキリストにあって新しい人となったのです。
この事実を知らなければなりません。イエス様を救い主として受け入れたとき、古いものは
過ぎ去って、新しいものとなってしまったのです。この事実を私たちは悟り、知らなければな
らないのです。「エペソ人への手紙2章8節~9節」に、『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰に
よって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ない
によるのではありません。だれも誇ることのないためです。』と記録されています。
私たちは行為によって新しくなったのではなく、神様がすでに賜物としてくださったのです。
皆さんは、キリストにあってすでに新しいものとなった、と言うことを知らなければなりませ
ん。そうして、新しい人となった事実を心の中で認め、変化された自分の姿を見つめなければ
なりません。神様が、あなたは新しい人となったよ、と印鑑を押してしまわれるのです。
ですから、このように新しい人になったと言う事実を皆さんが悟り、知り、このことを心の
中に受け入れなければならないのです。変化された自分の姿を認め、心の中にしっかりと抱か
なければならないのです。「私は、新しい人になったのだ!」と、いつも自分を見つめなけれ
ばならないのです。神様が、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中
に移してくださった、と言うことを知らなければならないのです。
「ガラテヤ人への手紙3章5節~7節」を見ますと、『とすれば、あなたがたに御霊を与え、あ
なたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったので
すか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。アブラハムは神を信じ、それが
彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの
子孫だと知りなさい。』と記録されています。
皆さんは、すでに新しい人になったと言うことを心の中で確実に信じなければなりません。
環境を見渡すことなく、自分が新しい人になったらしいと言った感じに頼ることなく、理性に
支配されて「果たして、私が新しい人になったのだろうか、どうだろうか?」と迷うことなく、
主の御言葉を信じなければならないのです。神様の御言葉は、天が崩れ、地が消え去ることが
あっても、一点一画も変わることがありません。『あなたの信仰通りになりますように!』と
主は仰せられたのです。神様の御言葉を信じてください。
神様の御言葉が、皆さんをキリストにあって新しく造られた者になったと、仰せられたので
す。皆さんは、新しい人になってしまったのです。「ガラテヤ人への手紙3章26節~27節」に、
『あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマ
を受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。』と
記録されています。すでにキリストを身に着て、皆さんは新しい人となった事実を信じなけれ
ばなりません。
そして、新しい人となった事実を口に出して認めてください。心の中で、「俺は、まだまだ
どうにもならないのだ。僕は、未だに罪を犯した人間なのだ。僕は今も世俗的な人間だ。僕は
まだ、聖められていない…。」と思ってはなりません。心の中ではっきりと新しくなった人で
あることを悟り、その事実を見つめながら口に出して認めなければならないのです。「箴言6
章2節」に、『あなたの口のことばによって、あなた自身がわなにかかり、あなたの口のことば
によって、捕えられた。』と記録されています。
また、「マタイの福音書10章32節~33節」には、『ですから、わたしを人の前で認める者は
みな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたし
を知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らな
いと言います。』と言われています。
私たちが認めたら、神様も認めてくださり、私たちが否認したら、神様も否認なさるのです。
ですから、「私は、新しい人になったのだ。」と認めたら、天でも『あなたは新しい人になり
ました。』と認めてくださるのです。否認する言葉は絶対に口に出してはなりません。
そして、いつも感謝を捧げなければなりません。「主よ。新しい人にしてくださったことを
感謝します!」「コロサイ人への手紙2章6節~7節」に、『あなたがたは、このように主キリス
ト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建
てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。』と記録され
ています。
あふれるばかり感謝しなさい、と言われました。『すべての事について、感謝しなさい。』
と聖書にも記録されています。絶えず私たちは、新しい人となったことを主に感謝しなければ
ならないのです。「父なる天の神様。私はイエス・キリストによって古いものは過ぎ去って新
しいものとなり、義の人となりました。新しい人となって聖く、聖潔な人間になりました。霊
肉共に祝福していただきました。私は天国の人となりました。希望に満ち溢れるようになりま
した…。」感謝しながら、口に出して認めなければならないのです。
イエス様は、2,000年前に十字架の上で『完了した。』と叫ばれました。私たちが新しく造ら
れたものとなったのは、すでに過去において完了したのです。事新しく今になって新しく造ら
れたものとなるのではありません。2,000年前に、主が完了してくださったのです。私たちは、
イエス様と一緒になって死に、葬られてから、一緒によみがえって新しいものとなってしまい
ました。将来そうなるのでもなく、今になってそうなるのでもなく、すでに私たちはイエス様
にあって完了されたのです。
皆さんは新しくなった人たちです。古いものはすでにキリストにあって過ぎ去ったのです。
皆さんは罪を赦された義人です。キリストにあって聖く、聖潔な人になってしまったのです。
すべての病を癒されて、健康な人になってしまったのです。アブラハムへの祝福を神様からい
ただいたのです。復活と永遠のいのちをいただき、天国の人となってしまったのです。
キリストにあって、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康であり、
いのちを得るにしても溢れるまでに得る人になっているのです。キリストにあって、皆さんは
選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有となってしまったのです。神様はすでに、
キリストにあって完了なされたのです。
私たちの信仰とは、主が完了してくださったことを悟り、受け入れて、見つめ、信じて口に
出して認め、感謝しながら主の御救いの中で生きることです。これは、私たちの努力とか手段
方法によってできるものではありません。信仰によってだけできるのです。ひとえに信じると
き、キリストの御霊(聖霊)が来られて、皆さんと私の中で奇跡をほどこしてくださるのです。
『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』(ヨハネの福音書8:32)
と言われました。神様がキリストにあって私たちのためにすでに備えてくださったことを悟り、
私たちがこれを見つめて信じ、祈り、感謝したら、新しく造られたものへの神様の愛と恵みが、
皆さんの生涯の中に満ち溢れるようになるのです。
~祈祷~
愛であられる、我らの父なる神様!
2,000 年前に、イエス様が十字架の上ですでに私たちの罪を贖ってくださり、すべて救って
くださったことを心から感謝申し上げます。
私たちを抱きかかえて死なれ、葬られてからよみがえられて、私たちを新しく造られたもの
にしてくださったことに感謝申し上げます。天の父なる神様!私たちは、努力することによっ
て新しいものとなることはできません。骨を折り、汗を流して修養を積むとして新しいものに
なれるのではありません。
我らの救い主・イエス様にあってすでに変化された私たち自身を悟り知り、受け入れ、信じ、
そして感謝し、祈り、賛美を捧げることによって新しいものとなれるのです。みんなが新しく
造られた人としての権能の中で生きていくように恵みをほどこしてくださり、助けてください。
イエス様の御名によって、お祈り申し上げます。アーメン!