JG 式脳トレ 「心の解体新書」 ~心の病を持つ人の為の脳トレと、心の病の予防~ 古牧和都 著 Copyright (C) 2010 johoguard All Rights Reserved あとがき http://www.johoguard.com/pwmgr/member/end.html 1 本書の注意事項 著者は医師でも専門家でもなく胡散臭い個人研究家でしかありません。 その事をご了解の上お読みください。 本書を実践した結果がいかなる物であろうと、著者は責任を負いません。 その事をご理解の上、本書を実践する場合は、書かれている内容を納得された場 合のみ自己責任において行なってください。 内容に納得されず、ご自分で責任を取れない方は実践しないでください。 また、本書はあくまでも行動を主体とした物であり、治療を目的とした物では有 りません。 本書は基本的に無料です。 もし、本書を読まれて価値があると思われた場合だけ、ご自由に価値を決めて下 記まで活動維持費の寄付としてご入金下さい。 振込先 三菱東京 UFJ 銀行 中村公園前支店 普通口座 4622079 ジョウホウガード 2 目次 JG 式脳トレの基本理念 P4 第1章 脳を知る P6 脳の成長と発達 P6 万能ソフト的な言葉や概念は危険 P10 アポトーシスと癌(仮説)P10 第 2 章 コミュニケーション P18 思考力と言語力 P22 心の傷が及ぼす影響 P26 過度な勉強が与える影響 P27 不安と言う衝動 P30 自分と言う存在 P31 孤立化の危険性 P32 第3章 成長 P32 母子関係 P34 言語の認識 P36 手足の発達 P40 顔の認識 P36 感情の芽生え P38 思考の始まり P38 表情の読み取り P40 他人の理解 P43 性格の違い P44 ストレスの解消 P44 別離不安 P47 危険認識 P48 模倣による習得 P52 共同作業 P53 自制の習得 P54 自己認識と空間認識 P50 協力と分け合い P55 3 歳児神話との違い P57 自然から学ぶ育児 P58 アレルギー P62 産後の鬱 P63 愛着 P64 愛着と信頼は無防備から生まれる P66 第4章 社会性 P69 社会力学的要素 P69 社会性の科学 P71 利他行動の科学 P72 信頼の科学 P7 価値観 P75 コミットメント P78 比較優位 P80 スクリーニング P84 情報化社会 P87 序列と人格障害 P90 恐怖の克服と社会性 P91 第5章 被害妄想の科学 P94 基準の変化 P94 脳の補完機能 P96 監視妄想の原理 P99 周辺視野の錯覚 P101 フィルター障害仮説 P102 第6章 実践編(基礎感覚の練習)P104 日記を付ける P104 生活習慣を整える P104 コミュニケーションは現実世界で P105 不便を与える P106 散歩(触覚、聴覚、嗅覚)P104 挨拶 P110 遊び P111 言語力(視覚・洞察力) P113 本を読む、朗読を聴く、ラジオを聴く、雲を見る P128 ボディーランゲージ P129 ボディータッチ P130 愛着 P131 コンプレックス P132 自律と依存 P134 共同作業と失敗 P135 最終章 心の病の縮図を犬猫に見る P138 3 JG 式脳トレの基本理念 JG 式脳トレでは人間の心(脳)はパソコンと同じと考え、精神疾患は 3 通り有ると考えている。 一つはプログラムミス、もう一つはハードウエアの不具合、もう一つはプログラムミスでハードウエア に負荷がかかる事で起きるクラッシュ。 「人格障害」は心のプログラムミス、プログラムミスが何処にあるのかで症状や病名が変かわり、鬱病 や統合失調症等の精神疾患はプログラムミスによるハードウエアのクラッシュ。 治療はハードウエアの修理、ハードウエアを変えてもプログラムを修正しなければ、ハードウエアは何 度もクラッシュしてしまう、それが「再発」。 まず、 「自我」と言う物には、経験や実績の積み重ねで作られた行動的自我(脳の意思)と、言語やイメ ージで作り上げられた意識的自我がある。 また、理想的な親の倫理的な態度を内在化した超自我と言うものもある。 さらには、感情、衝動、欲求などの本能的な部分や、身体メカニズムに組み込まれたプログラムもある。 パソコンに例えるなら、本能の部分が人間の BIOS に相当し、言語はOS、行動的自我や意識的自我は アプリケーションやドライバーに相当する。 どれだけ優秀なアプリケーションをインストールしても、BIOS やドライバーソフトに不具合があればO Sやアプリケーションは正常に作動しない。 例えば、経験や実績の積み重ねで作られた行動的自我は、失敗や成功の繰り返しの蓄積で作られる。 それは、バグなどの不具合を修正したプログラムであり、イメージで作られた意識的自我はバグや不具 合の修正が行なわれていないプログラムと言える。 行動的自我を成長させていれば、その経験からバグや不具合の予測が可能となり、その予測が意識的自 我にも反映され易くなるが、行動的自我が育成されず、意識的自我だけ肥大していれば、バグや不具合 だらけの自我になる。 また、行動的自我はプログラムの動作に関するプログラム本体で、意識的自我はモニターに表示される 操作画面のような物だと考えれば分かりやすい。 どんなに動作プログラムが優れていても、操作画面が表示されなければ使えない。 どんなに立派な操作画面でも、動作プログラムが無ければ使えない。 動作プログラムと操作画面の両方が必要である。 それ以前の問題もある。 ハードウエアの問題だ。 どんなに高度なソフトウエアも、スペックの低いパソコンでは真価を発揮出来ないばかりかフリーズし てしまうし、CPUのクロックアップの様に安全マージンを削って定格以上に処理速度を上げたり、冷 却対策を施さなければ熱暴走を起こしかねない。 人間の脳も同じなのだ。 ご存知だろうか?脳神経を発達させるのは、勉強ではなく五感からの刺激である事を。 4 五感からの刺激が脳に伝わり、脳を活性化させる事により脳は発達する。 特に「触覚」からの刺激には、非常に多くの情報が含まれている。 温度、硬さ、肌触りから、大きさや場所までも分かる。 それらの情報を脳が処理をする事で感情も生まれる。 例えば、目を瞑り横たわっている猫の写真。 それを見ただけでは、寝ているのか死んでいるのか分からない。 寝ているのか死んでいるのか分からなければ感情も生まれない。 しかし、触って暖かければ生きていると感じ、冷たければ死んでいると感じる。 死んでいれば硬く、生きていれば柔らかい。 触った感覚が、硬くて冷たければ悲しくなり、柔らかく暖かければ暖かな気持ちになる。 それは、触覚情報によって感情が生まれている事に他ならない。 ゲーム感覚と言う言葉がある。 TV ゲームは視覚と聴覚しか使わない。 視覚を X 軸、聴覚を Y 軸とみなすならば、ゲーム感覚は視覚と聴覚だけの二次元的な平面の感覚であり 厚みが無い。 そこに触覚と言う Z 軸が加わって、初めて三次元の立体的な感情が生まれる。 現代社会では「触る、触られる」と言う触れ合う機会が減り、セクハラと言う言葉の登場と共に、今や 「禁忌」とさえなっている。 また、現代社会の子供を取り巻く環境は、ゲームや勉強に偏り、外で遊びまわる事が減少している。 このような環境では五感による脳の成長も望めないばかりか、行動的自我も形成され難い。 そして、何より前頭葉を活性化させ発達させるのは、視線を合わせた会話なのだが、携帯メールでのコ ミュニケーションやゲーム、そして勉強ばかりしていると、視線を合わせた会話をする機会も極端に少 なくなり、脳の発達が不十分なまま成長してしまう事になりかねない。 経験の伴わない知識はデータでしかない。 データをどれだけ詰め込んでも、それを動かすプログラムが無ければ役に立たない。 そのプログラムは経験によって作られる。 脳は筋肉と同じで、使えば発達し使わなければ衰退する。 JG 式脳トレは、いわば心の再プログラミングで、不十分な発達の脳や、衰退した脳を鍛え、自我のバラ ンスを取り戻す事に主眼を置いている。 まずは原理の説明から始めよう。 トレーニングの意味も分からずに行なうより、トレーニングの持つ意味を理解した上で行えば効果は違 って来る。 5 第1章 脳を知る 人間の脳は何故大きく発達したのか? 今までの定説では、人間の脳は石器を作ったり、道具を使いこなす為に発達したとされている。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/158.wmv しかし今、人間の脳について新しい仮説が注目されている。 霊長類の大脳新皮質の大きさに関する研究なのだが、霊長類の大脳新皮質の大きさは集団の数に比例し て大きくなっていると言う。 その研究では、霊長類の脳の大きさと集団の大きさの比率からすると、人間は 150 人程度の集団で暮ら していたらしい。 そして、人間の脳は集団でのコミュニケーションを取る為に発達してきたと言う。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/96.wmv また、衝撃的な発見もあった。 インドネシアで見つかったホモフロレシエンシスの化石。 何が衝撃的な発見だったのか? それは今までの定説を覆す発見だ。 発見されたホモフロレシエンシスの身長は 1 メートル程度で、脳容積はホモサピエンスの 1/3 しかない。 その大きさで、高度な石器を作り、道具を使いこなし、狩をしている。 つまり、道具を作り、道具を使いこなすにはホモサピエンスほど大きな脳は必要ないと言う事だ ここで、脳とコミュニケーションの関係に行きたい所だが、もう少し脳と言う物を見てみよう。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/157.wmv 脳の成長と発達 人間の脳の成長や発達と言う事に目を向けてみよう。 生まれたばかりの赤ちゃんの脳は、何もしなくても成長はするが、勝手に発達して行く訳ではない。 五感からの刺激が脳に伝わり、五感からの刺激を受ける事で、神経細胞が複雑にネットワークを形成す る事で脳は発達して行く。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/178.wmv 赤ちゃんは五感を使った遊びによって物事を学び、遊びによる刺激や経験で神経細胞のネットワーク結 合を強くする。 物事を学ぶ能力は幼児期が最も高く、年齢と共に衰える。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/179.wmv 五感の中でも、特に触覚は最大の感覚器官であり生後最初に発達する。 そして、視覚や聴覚とは違い生涯衰える事も無い。 触覚の触る・触られると言う刺激の効果には凄い物がある。 未熟児で生まれた赤ちゃんに 1 日 3 回 15 分の全身マッサージを施すと、成長が 5 割ほど早まったと言う。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/180.wmv また、触る・触られると言う事は動物として基本的なコミュニケーション方法である。 6 犬や猫でも、舐めるという方法でお互いを毛繕いしてコミュニケーションを図り、霊長類は手で毛繕い をしてコミュニケーションを図っている。 人間も、同じ生態を持っているのだが、セクハラと言う言葉が台頭して以来、触れ合う機会が減りつつ ある。 ここで間違えていけない事がある。 それは「物事を学ぶ」と言う事は、勉強などの知識の事ではなく、社会性や危険認識などの生きて行く 為に必要な経験の集積の事である。 「物事を学ぶ」とは、各感覚器官からの刺激で得られた情報の蓄積によって「経験知」を作積み上げる 事で、その経験知を元に「経験則」として理解(予測)したり、世界を認知する事が出来る。 この経験知が無いとどうなるのか? 面白い事例がある。 3 歳の時に失明して、40 年ぶりに手術で視力を取り戻した人がいる。 しかし、視力は戻ったのだが、脳は見えている物を理解する事が出来ない。 道路の段差が見えても、下がっているのか?上がっているのか?色なのか?影なのか?そうした事を認 識する事が出来ない。 原因は、失明した時期が 3 歳だった事。 必要な時期に必要な経験知を積めなかった事で、見えている物を認知する事が出来ず、視覚が回復して も視覚情報を処理する事が出来ないのだ。 そうした学習が最も行なわれる時期が 6 歳~9 歳、その人は 3 歳で失明してしまった為に、経験による 記憶の蓄積が無く、視力が戻っても視覚からの情報を認識(認知)出来ないのだ。 学ぶべき時期に学べず、学ぶ能力が衰えてから学ぼうとしても困難になってしまうと言う事である。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/100.wmv こんな事例もある。 脳卒中になった神経解剖学の科学者の体験談。 脳卒中は、脳の出血により炎症や虚血により脳組織が障害を起こす事で発症する。 その科学者の体験談は、脳卒中により徐々に脳機能が失われて行く様を如実に語っている。 それは、脳のどの部分の機能が失われるとどの様になるか?そして脳のメカニズムがどの様になってい るのかを垣間見られる体験である。 その科学者は、脳卒中になった時、朝起きると光が眩しく感じられ、トレーニングマシーンを握る自分 の手が動物の爪のように見え、シャワーの音がのけぞるほど増幅されて聞こえたと言う。 問題はそれ以後の体験だ。 自分が脳卒中になった事を自覚して、助けを呼ぼうとした時、救急の電話番号が思い出せず、職場の電 話番号も思い出せなかった。 そして、名刺で電話番号を調べようとした時、文字や数字が単なる点の様な模様にしか見えなかったと 言う。 そして自分の名刺に描いてある脳のマークを頼りに、何とか自分の名刺を探し出し、自分の名刺をじっ と見つめていると、点の中から電話番号が浮かび上がって来た。 しかし、数字の意味が理解出来ず、ただの形にしか見えなかったと言う。 7 その科学者は、名刺の電話番号の数字と似た形の数字の付いたダイヤルを押して、何とか電話をしたの だが、今度は言葉が喋れない。 自分が喋れなくなったばかりか、相手の言葉も犬が鳴いているようにしか聞こえなかったと言う。※参 考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/176.wmv この事例も、視力を取り戻した人と同じで、見えている物が何なのか?聞こえている物が何か?を理解 出来ない現象(認知出来ない現象)が起きている。 (こうした現象の疑似体験に、思い出せない漢字がある。イメージでは漢字の形がはっきりイメージ出 来ても、それが何という漢字か?が思い出せなかったり、書けなかったりするのに似ている) そして、この人の回復の体験談は、経験知(積み重ねられた記憶)の重要性や、脳の中で脳細胞のネッ トワークが繋がると言う事が、どう言う事なのかを物語っている。 その科学者は、脳卒中により左脳の機能が失われ、言葉を失い、色の識別さえも失われたのだが、右脳 を使い驚異的な回復を遂げる。 その過程が実に興味深い。 その科学者が行なったリハビリはパズル。 最初は、大きさだけで合そうとしていた。 そして母親に「色を合わせなさい」と言われた時、思わずハッとして突然色が見えて来たと言う。 恐らくそれが視覚情報の経験知と視覚の神経ネットワークが繋がった瞬間なのだろう。 この事例で注目すべきは、失われたネットワークも再編成出来ると言う事だ。 この様に元に戻る状態を「可逆性」と言う。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/171.wmv 脳の可逆性にはもっと凄い事例がある。 ラスムッセン症候群と言う脳が萎縮する病気になり、大脳の右半球の切除をした 9 歳の女の子が、僅か 10 日で退院して殆ど生活に支障なく生活している事例も有る。 ※ 参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/181.wmv こうした「ふれあい」や「可逆性」という事を理解した上で、以前 TV で放映されていた育児放棄によ り養護施設で育った 18 歳の少女の一つの行動を見てみる。 その少女は、育児放棄により養護施設に預けられて育った。 その少女は、指導員の人と一緒にお風呂に入ったり、手をつないで寝たりしていた。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/86.wmv そうした行動は「可逆性」による物とも考えられる。 経験すべき事を経験せずに育った脳が、必要な経験を求めているのではないだろうか?とは考えられな いだろうか? 実は、心の病の人の「異常行動」としか思えない行動を分析すると、その人に欠けている要素を補う要 素が含まれている場合が多い。 その少女は、養護施設を卒業し、就職に介護の仕事を選んだ。 その動機は、「施設では先生達のお世話になった、今度は人の世話をしたい」と言う理由からである。 8 まあ、そうした理由は良く聞く動機ではある。 心の病を経験した人が、回復後に福祉や介護の仕事に就こうとする事は多い。 こうした傾向に疑問を抱く人は恐らくいないだろう。 いや、こうした行動に病気を克服する答えが隠れている。 答えから先に言えば「心の等価交換」である。 自分がされた事を、他の人にもする。 人間には「する」と「される」のバランスを保とうとする傾向がある。 少し目先を認知症老人の被害妄想を見て見よう。 認知症老人の被害妄想に「盗られ妄想」と言う物がある。 盗られ妄想が起きる時は、必ずと言って良いほど一方的な人間関係がある。 「される」だけの関係、例えば親孝行な息子夫婦が、親に楽をしてもらおうと親に何もさせない。 「される」に対して「する」が無い場合に起こりやすい。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/162.wmv また、鬱病などの心の病にもこうした一方的関係の傾向が見られる。 「期待されているのに応えられていない」等が代表的な物だろう。 期待に対して少ししか応えられなくても後ろめたさを持ってしまう。 「される」に対し「する」が等価でなければ負い目を感じる事になってしまい、そこに自責の念を感じ てしまう。 心の病の回復者が、福祉や介護の仕事に就きたいと思う気持ちは、病気の根源を取り除こうとする可逆 性と見る事が出来る。 心の病の家族を持つ者は、一方的な関係になっていないかを考慮し、等価のバランスに注意した方が良 い。 そして、注意しなければならないのが「得をした」と言う感情である。 「得をした」と言う感情には、後ろめたさを伴う。 損得勘定は心の等価バランスを狂わせる原因になるので注意が必要である。 さて、この項目の最後に一つの事例を紹介しよう。 人間は刺激を受けなかったらどうなるのか? そんな実験は出来ないが、事例として検証する事が出来る。 統合失調症の母親に 8 年間監禁され、19 歳で発見された少女がいた。 その少女の学校への出席日数は、小学校 3 年の時は 100 数日、4 年の時は 50 数日、5 年の時は 50 日未 満、6 年の時は 1 日、中学は入学式とその翌日だけで、以後は監禁状態。 発見された時は言葉もしゃべれない状態で 3 歳レベルまで退行していたと言う。 また他の事例では、1 年半監禁されて発見された 6 歳の子供は、ハイハイしか出来なかったと言う。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/73.wmv こうした監禁による退行現象は、囚人等でも見られガンザー症候群と呼ばれている。 そうした事例から、脳は使わなければ退行する事が分かる。 9 万能ソフト的な言葉や概念は危険 脳卒中を体験した脳科学者の事例をパソコン的に考えると「関連付けの喪失」と考えると分かりやすい。 例えば、動画再生ソフトをインストールする時、対応する拡張子が関連付けられる。 その拡張子が、MPG であったり、WMV であったり、AVI であったりする。 その関連付けが失われてしまえば、MPG ファイルがあっても再生する事が出来ない。 再度 MPG ファイルを再生する為には、動画再生ソフトに再度 MPG ファイルの関連付けを行わなければ ならない。 多くの被害妄想を持つ人の話には、この関連付けと同じ様な体験談を聞くことが出来る。 最初は様々な事象に漠然とした不安を抱いていたが、何かのきっかけで別々だった事象全てが一つに結 び付き、頭の中でストーリーが出来上がる。 本来「別々の事象」とは、パソコンで言う「異なる拡張子」に相当し、別々の事象で得た記憶や経験は、 異なるアイコンのように別物として記憶される。 しかし、使うソフトに互換性があれば認識させて動かす事は出来る。 脳の中の記憶をパソコンのファイルの画像を使って「全ての事が一つに結び付いた」と言う状態をイメ ージ化してみよう。 下の写真は、MPGE ファイル、WMV ファイル、QuickTime ファイルが一つのフォルダに入った状態で あり、アイコンにより異なるファイル形式である事が分かる。 10 このパソコンに「全ての拡張子をサポート」している NERO と言うソフトをインストールすると、アイ コンは下の写真のように変更される。 NERO をインストールすると、アイコンは全て同じになり、表示されているファイル形式の名前でしか 区別がつかなくなってしまった。 本来 QuickTime ファイルであれば QuickTime が起動し、MPGE ファイルや WMV ファイルを開く時は Media Player が起動していたのだが、どのファイルを開こうとしても NERO が起動してしまう。 この NERO と言う万能ソフトをインストールするのに相当する物の一つが「他人による行為」と言う概 念である。 「他人による行為」と言う概念がインストールされてしまうと、類似した記憶に関連付けが行われてし まい、自分の理屈に合わない物や、自分で認めたくない物を、全て「他人がやった」と考える事で心の 整合性が図られてしまう。 「他人がやった」と同じ様な万能ソフトのような言葉に「特殊」や「最先端」 「プロ」などの言葉があり、 そうした言葉を使えばなんでも可能になってしまう。 一旦、このような状態になってしまうと、元に戻す為には NERO をアンインストールするか、それぞれ のファイルを動かすプログラムの関連付けをやり直さなければならない。 11 ↑の様に一つの形式の関連付けを行っても、一つの形式だけが関連付けされるだけで、全部のアイコン が元に戻る訳ではない。 つまり、一つの属性に対する認知は回復しても、一度に全ての回復が行なわれる訳ではなく、それぞれ の属性に対する認知を一つ一つ面倒な作業をして回復させなくてはならない。 12 人間の脳は、乳幼児期から積み重ねられた経験知、感情、概念などが複雑に結び付いて機能している。 脳卒中や視力を取り戻した人の話は、そうした結び付きが脳の損傷や機能低下によって失われたと考え れば理解しやすいだろう。 パソコンのソフトは人間がプログラムを組むが、人間の脳は経験を重ね、感情と結び付く事でプログラ ムが作り上げられおり、その結び付きこそが重要なのだ。 今度は、少し老化と言う側面から脳を見てみよう。 脳の老化は加齢だけで衰えていくのだろうか? 実はそうではない。 体を動かさなくなり、コミュニケーションが少なくなる事で脳は衰える。 これは子供の脳が、感覚器官からの刺激や経験、親とのコミュニケーションによって発達して行くのと 同じである。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/167.wmv 脳は使わなくなる事で退行し、使い続けていれば老化は抑えられる訳だ。 こうした事からも、脳を発達させ維持させるのは、体を動かす事や経験の積み重ねが重要である事が分 かる。 アポトーシスと癌(仮説) 鬱病になると何故自殺願望が出てくるのか?そのメカニズムが理解出来なかった。 人間には「自己防衛本能」と言う物があるのに、何故鬱病になると「死」と言う物が軽くなってしまう のだろう? 何故そんなに簡単に「死」を選んでしまうのだろう? それと同時に、連続殺傷事件を起こす犯人は、何故他人を殺してしまうのだろう? ストレスによる衝動だけでは納得できない部分もある。 さらには自称集団ストーカー被害者の作るブログや集まりの及ぼす影響。 最初はそれらを別々の事象として考えていたが、調べて行くうちに同質の物である事が見えて来る。 同質の物であれば、恐らく根底には最も単純化された一つの法則があるはず。 そしてたどり着いた答えが細胞レベルの話であるアポトーシス、そしてミクロからマクロへ。 「ミクロからマクロへ」 、恐らくこれが人間の成長の不変の法則なのだろう。 「赤ちゃんから大人へ」当たり前の事だが、いきなり大人で生まれてくる人はいない。 それを、どこまで適用させて考えられるか? 物理の考察で「高次元の事を考える時は低次元を考えろ」と言うのを忘れていた。 人間を形成しているのは 60 兆個にも及ぶ細胞である。 13 その細胞の一つ一つが生きている。 人間社会と言う巨大な生物を高次元とするならば、高次元を理解する為には細胞と言う低次元を見れば よい。 人間社会を一つの生き物に見立てれば、一人の人間は人間社会という巨大な生き物を形成する一つの細 胞である。 細胞の立場になって考えてみると、自分が人間という生き物の一部などとは夢にも思わないだろう。 同じ様に、人間も人間社会と言う巨大な生き物の一つの細胞だと理解する事など出来ないだろう。 細胞レベルまでスケールダウンすると、細胞にも自殺がある。 それがアポトーシス。 そのアポトーシスに対してネクローシスがあり、癌細胞もある。 アポトーシスとは細胞の自殺、ネクローシスは壊死、癌細胞はアポトーシスを拒否した細胞である。 これは、そのまま鬱病による自殺、孤独死、無差別殺傷や自称集団ストーカー被害者に当てはまる。 まず、アポトーシスから見て見よう。 アポトーシスは、役目を終えた細胞や、不要になった細胞、活性酸素や紫外線、ウイルスによる傷など で修復できなくなった時に、自ら死を選び死んで行く細胞の自殺。 そうした細胞が死ぬ事で、新たな細胞が生まれて(代謝)人間と言う固体の生命活動が維持されて行く。 それは遺伝子に組み込まれたプログラムによって引き起こされている。 身近なアポトーシスによる現象としては、おたまじゃくしの尻尾、落ち葉などがある。 人間の手も、胎児の時に水掻きが付いて指がつながっているが、その水掻きの部分がアポトーシスによ り死んで行く事で、5 本の指が出来上がる。 そして、尻尾もアポトーシスで消えて行き、人間の形になって行く。 このアポトーシスの発症要因は鬱病の発祥要因に酷似している。 アポトーシスは不要になったり、役に立たなくなったりした時に発生する。 鬱病による自殺をアポトーシスと考えれば、それは遺伝子に組み込まれたプログラムと考えられる。 次はネクローシスを見て見よう。 ネクローシスは、血行不良、外傷などによる細胞内外の環境の悪化によって起こる細胞死で「壊死」と も呼ばれる。 人間社会における血行とは、お金や人間関係等のコミュニケーションが相当する。 コミュニケーションが上手く取れず会社を辞めれば収入も無くなる。 リストラに遭って会社を辞めても収入は無くなる。 次の仕事が見つからなければ、お金と言う血液が流れて来ずに飢えてしまう。 つまり、人間社会のネクローシスとはホームレス問題である。 最後に癌細胞を見て見よう。 癌細胞は、アポトーシスを受け入れず、勝手に増殖を繰り返す細胞。 そして勝手に血管を作って栄養を吸収して、周囲の正常な細胞は栄養が行き渡らなくなり、同時に「ト 14 キソホルモン」と言う毒を作り、全身を衰弱状態にさせ死に至る。 まあ、癌細胞の立場からすると、自分の生存の権利を主張しているだけで、悪い事をしている自覚は無 いだろう。 しかしその癌細胞の活動は、人間と言う固体を衰弱させ死を招く。 アポトーシスを拒み癌化した人、それが集団ストーカーを訴える人達や、そして無差別殺傷事件を引き 起こす人達だろう。 集団ストーカーを訴える人達は、自分の生存の権利を主張し、ネットと言う血管に「妄想」と言う毒を 流し続け、その妄想という毒に犯された人が、不安と言う衰弱状態に陥る。 無差別殺傷事件を起こす犯人は、毒性の高い急性の癌と言えるだろう。 鬱病は「心の風邪」と言われていたが、今では「心の癌」とも呼ばれている。 癌は細胞増殖の際の DNA のコピーミスで起きると言われている。 今度は、心(精神)を遺伝子に置き換えて考えて見よう。 突拍子も無い考えなのだが、心(精神)を遺伝子に置き換えて見ると、難解な心(精神)と言う物が分 かりやすくなる。 子供は父親と母親から半分ずつ遺伝子を受け継いで生まれてくる。 その理由は多様性である。 まったく異なる遺伝子を持つ父親と母親から半分ずつ遺伝子を受け継ぐ事で多様性が生まれる。 多様性は環境が変化しても順応して生き抜く為には欠かせない。 まず、自己愛製人格障害を遺伝子的に考えて見よう。 自己愛性人格障害の発生要因は、母親の過保護と父親の不在と言われている。 それを遺伝子的に置き換えると、母親の影響力(心の DNA)が多く、父親の影響力(心の DNA)が少 ない、もしくは父親の影響力(心の DNA)が無い状態であると言える。 つまり、自己愛性人格障害は「多様性に欠けた子供」と見る事が出来る。 子供の成長にとって、母子関係は非常に重要ではあるのだが、成長とともに重要度は母子関係から父子 関係へ移行して行かなければ、偏った心の DNA を持つ多様性の無い人間になる事が懸念される。 (※ 影響力=価値観・社会性・性別特性・性別視点 等) 無差別殺傷事件を起こす犯人の大半はこの用件を満たしている。 次は、コピーミスを考えて見よう。 コピーミスしたからと言って癌になるとは限らない。 コピーミスは突然変異となり新種になる事さえもある。 遺伝子操作とはコピーミスを人為的に行っているとも言える。 その遺伝子工学で最近注目を集めている物が、ES 細胞や IPS 細胞と言われる細胞である。 15 今の家庭教育や学校教育は ES 細胞的な人間を作ろうとしている様に見える。 ES 細胞とは、理論上すべての組織に分化する分化多能性を保ちつつ、ほぼ無限に増殖させる事ができる とされている。 教育においての ES 細胞化とは進学の事である。 どんな細胞(職業)になるのかではなく、どんな細胞(職業)にもなれるように大学へ行かせる。 しかし、ES 細胞の樹立は受精卵を材料として用いる為に生命の萌芽を滅失してしまう。 ES 細胞が生命の萌芽を滅失してしまうのと同じ様に、ES 細胞的な教育は人生と言う萌芽を失わせる危 険性を含んでいる。 ES 細胞を作ったり、使ったりする人には明確な目的があるが、作られた ES 細胞は自分がどんな細胞に なったら良いのか、どんな細胞になれるのか、何も分からず存在している。 自分が何になりたいかと言う目標も無く、大学へ行くのも同じ事である。 「指示待ち人間」と言われる人や「フリーター」や「ニート」と呼ばれる人達を ES 細胞に置き換えて考 えると理解し易くなる。 指示待ち人間は、使用されている ES 細胞、フリーターは分化し切れない ES 細胞、ニートは ES 細胞で あり続けようとする ES 細胞。 しかし、一つの ES 細胞を作り出す為に、どれだけの失敗を繰り返したのだろう。 ES 細胞を作る事が困難であるのと同じ様に、ES 細胞的な人間を作ろうとする事も困難なのだと思う。 そして「どんな細胞にも分化できる」と言う事は、どんな細胞でもなく、癌細胞などの悪性腫瘍にもな り得ると言う事でもある。 いや、見方を変えれば、使われるまでは何も機能せずに養分だけ吸い取っている良性腫瘍に近い存在だ ろう。 細胞のレベルまでスケールダウンして見ると、現代社会の問題点が理解しやすくなる。 自殺問題を考える時でも、その自殺志願者の自殺動機がアポトーシスなのかネクローシスなのかで、対 処が異なるだろうし、癌化している人なのかもしれなし、ES 細胞化された人かもしれない。 自殺の動機がネクローシスであれば、仕事という血液を流してやれば回復するだろう。 しかし、自殺の動機がアポトーシスであれば仕事と言う血液を流すだけでは回復は望めない。 仕事を与えても、その仕事場で「自分が必要とされている」と感じなければ、再びアポトーシスの衝動 に駆られるだろう。 自殺の動機がアポトーシスの場合、その人の面倒を見たり、収入を得られるようにするよりも「自分が 人の役に立っている事」を実感させる事に重点を置くべきだろう。 「面倒を見られる」とは「迷惑をかけている」と言う自責を生み、一生懸命面倒を見られれば見られる ほど自責が強くなる。 「与えられる」に対して「与え返す」と言うバランスを考えなければならない。 16 本人に感謝させるような状況ではなく、本人が感謝される状況を作り出す事である。 癌治療は、切るか殺すか・・・ しかし、癌化してしまった人を社会から切除(隔離・入院)する事は出来ても、殺したりする事は出来 ない。 一番効果的なのは、予防治療で癌化させない事である。 癌化した人がコピーミスで発生するのであれば、コピーミスの部分を修整してやれば正常な細胞に戻し てやる事も理屈としては可能だろう。 問題は、コピーの原文を知らなければ、何処にコピーミスが有るのか分からない事である。 そしてコピーミスを知るには第三章「成長」を理解する事だろう。 17 第 2 章 コミュニケーション 脳と言う物を大まかに理解した上で、コミュニケーションに入ろう。 まず、コミュニケーションの基礎となっている物とは何か?を考えてみよう。 現代人なら「言語」なのだろうが、猿から分岐した時点から人類は「言語」を持っていた訳ではない。 言語を持つ以前の事を知る為には、霊長類を見る事だろう。 こんな研究がある。 霊長類の表情の研究だ。 他の動物と違い、霊長類は豊かな表情を持っている。 犬などの霊長類以外の動物に比べると、霊長類は細かく発達した表情筋が顔を覆っている。 さらに、人に近い霊長類ほど顔に毛が無く剥き出しの状態であり、顔の細かな動きが読み取りやすくな っている。 つまり、猿の顔に毛は無いのは表情を読みとる為だと考えられている。 仲間の猿が発する「挨拶の時の顔と声」と、 「恐怖の時の顔と声」に対する扁桃核の反応の違いを調べた 実験が行なわれている。 声と表情を見せた場合と、顔だけ見せた場合では、扁桃核は反応するが、声だけ聞かせた場合では反応 しない。 つまり、猿は声ではなく表情によって情報伝達をしていると考えられている。 それは人間も同様で、言葉の喋れない赤ちゃんも、表情(笑顔)によって母親とコミュニケーションを 図っている つまり、コミュニケーションの原点は表情であると言う事だ。 人間の笑顔の起源を探る猿の表情の研究が面白い。 猿の表情の中で、人間の微笑に似た表情は二つある。 子供が「遊び」の時に見せる「遊びの表情」と、自分が相手より下だと認める「劣位の表情」である。 その研究では「遊びの表情」は子供の時にしか見られず使う表情筋も異なり、 「劣位の表情」は使われる 表情筋も同じであり大人猿に見られる表情である。 そうした事から、自分が相手より劣っている事を認める時の「劣位の表情」が、人間の微笑みに進化し たと言う。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/182.wmv 確かに、初対面の相手が自分の優位性を示そうとすればムッとするが、お互い謙虚であれば受け入れや すい。 この笑顔や微笑と言った物が、コミュニケーションにもたらす影響は大きい。 人間は相手の表情の模倣をする習性がある。 笑顔には笑顔で返し、不快な表情をすれば相手も同じ様に不快な表情をしてしまう。 時折、周囲の人が「睨み付けて来る」と言う相談を受けるが、その人が相談に来る時の顔に笑顔は無い。 相手の顔は、自分の顔を映す鏡なのだ。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/183.wmv 18 コミュニケーションが苦手な人や、心に病を抱えた人は、この部分に難がある場合が多い。 一つの例に、産後の鬱や、子育ての悩みで鬱になった母親がある。 鬱になると顔から表情が消え、赤ちゃんに接する時にも笑顔が無くなる。 赤ちゃんは、母親の笑顔を模倣して、笑顔やその他の表情を読み取る力を付けて行く。 「視力を取り戻した人」と同じ様に、赤ちゃんは沢山の表情を見る事で、表情の経験知が蓄積されて、 表情や感情を読み取る力を習得して行くのだが、母親が鬱になってしまうと表情の経験知が蓄積されず に育つ事になり、「視力を取り戻した人」が、見えている物を理解する事が出来なかったのと同じ様に、 表情データの蓄積と言う経験知が少ないと、相手の表情を読み取る事が困難になってしまう。 表情データの蓄積が少なければ、自分の表情も乏しくなる。 また、健全な母子関係を築けなければ、健全な経験知を積み重ねる事が出来ず、愛情を感じられずに育 ってしまったり、負の経験知が積み重ねられたり、その経験知が誤った認識を生んでしまう。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/83.wmv 先の猿の研究では、猿の脳は声だけでは反応しなかったが、人間ではどうなのだろう? 言葉と前頭葉の活動の関係を調べた実験がある。 最初、被験者が目を合わせない相手に一方的に話し、次に被験者と目を合わせて相槌を打ち、次に目を 合わせて会話をする。 その時の脳の活動を調べると、目を合わさずに一方的に話している時には、前頭葉は活動しておらず、 目を合わせて相槌を打つと脳の側面が活動を始め、目を合わせて会話をすると前頭葉まで活動が広がる。 人間の脳も、声だけでは脳は活性化せず、相手の表情を見て会話する事で活性化している。 つまり、脳を活性化させ、発達させる為には、視線を合わせて会話をする事が必要と言う事である。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/168.wmv これは、会話についての実験だが、言語は会話だけではなく文字も言語である。 そこで、一つの疑問が浮かぶ。 携帯依存で四六時中メールを打っている人の前頭葉は活動しているのか? 前頭葉が道具を使いこなす為に発達し、考える為に発達して来たのであれば、メールで文章を考えて打 ち込んでいる時には、脳は活発に活動しているはずである。 また新しい仮説で言われているように、前頭葉はコミュニケーションを取る為や、表情を読み取る為に 発達したのならば、表情を読む必要の無いメールを打っている時の前頭葉は、活動していない事が予測 される。 携帯依存の人がメールを打っている時の脳の活動を調べた実験がある。 その実験では、メールを打っている時には、前頭葉は活動しておらずフラットな状態で、携帯を取り上 げられるとソワソワし始め、その時に前頭葉が活動を始めていた。 そして、再び携帯を与えたれると落ち着きを取り戻し、前頭葉はフラットな状態に戻って行くという結 果が出ている。 その携帯を取り上げられて、ソワソワしていた時に前頭葉が動いていたのは、不安を感じている状態だ と言う。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/64.wmv 19 この実験は、携帯メールでのコミュニケーションでは脳の活性化は起こらず、刺激による脳の発達は期 待出来ない事を示している。 この携帯依存の実験は実に面白く、その他にも多くの意味を含んでいる。 一つには、新しい仮説の「大脳新皮質はコミュニケーションを取る為に発達して来た」と言う事を裏付 ける結果になっている事である。 実験では、携帯と言う道具を使っていても前頭葉の活動は見られていない。 もう一つには、扁桃体と前頭葉の関係である。 まず、扁桃体は、 「快・不快・不安・恐怖」などの感情を司る。 その扁桃体からの感情による衝動を抑えるのが前頭葉だ。 この事を理解すると、携帯依存の人が携帯を取り上げられた時に、前頭葉が不安を感じて動き出す理由 が分かる。 携帯を取り上げられる事で、扁桃体は「快」を感じられなくなり、不快や不安を感じて携帯を使いたい と言う衝動が起こる。 その衝動を抑えようとして前頭葉が働き出すと考えれば分かりやすいだろう。 その「快」や「不安」が何故起きるのか? それは、携帯を取り上げられた事で、人との繋がりを絶たれたたと感じ、 「不安」になったと考えられる。 別の言い方をすれば、扁桃体は人と繋がっている事を「快」と感じ、人との繋がりが無くなる事に「不 安」を感じていると考えられる。 この扁桃体と前頭葉の関係は、子供の脳と大人の能の関係でもある。 子供の脳は扁桃体主体の脳で、経験知の蓄積や神経結合が強まる事で、扁桃体からの衝動を抑えられる 前頭葉主体の大人の脳へと成長して行く。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/174.wmv つまり、携帯依存のように他人とのコミュニケーションに携帯メールを使っていたら、神経結合の強化 が望めず、前頭葉の発達に悪影響を及ぼすと言う事である。 かつて脳の成長は 8 歳で止まると考えられていたのだが、現在では青年期までは発達が続く事が分かっ ている。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/118.wmv 携帯メールやインターネットのコミュニケーションに偏ると、他にも危惧すべき問題が潜んでいる。 それが行動的自我と、意識的自我の分離だ。 ネット上では現実世界の自分が、理想とする自分を演じる事が出来る。 ネットと言う世界は、意識的自我だけが切り離された虚構の世界にもなる。 ネットの世界は現実の自分とは関係なく、空想や妄想でどんな自分も作れてしまう。 その状態は、意識的自我だけが突出した精神バブルとでも言うべき状態であり、行動的自我が育ってい なければ、ネットに溢れる嘘やまやかしを見抜く事も困難になる。 例えるなら、行動的自我は中身の詰まった塊の自我、そして意識的自我は風船のような自我だ。 20 双方の自我が同程度であれば、塊の詰まった風船となり、風船が割れても中身は残るが、経験と実績と 言う塊の詰まっていない風船は、針を刺したり膨らませ過ぎると、バブルがはじけて何もなくなってし まう。 その為、行動的自我が小さい場合、意識的自我は行動的自我を認めようとしない。 分かり易く言えば、誰かに自分の欠点を指摘されて、自分の欠点に気が付いても、感情が先に立ち自分 の欠点を認めようとしない。 それは、肥大した意識的自我が自分の存在を守る為の防衛反応である。 意識的自我が突出した人の代表的な存在が「乗っ取り厨」や「押しかけ厨」に見られる「厨」と呼ばれ る人達だ。 乗っ取り厨とは、同人系に多く見られる人達で、他人のサイトや作品を、自分の物であるかのように言 い、他人の賞賛を得ようとする人達である。 自分の好きな分野において、自分では作品を書けなかったり下手だったりするのだが、好きな分野で賞 賛を得たい為、賞賛を獲ている人の作品等を自分の作品と騙る。 「厨」とは、中学生の隠語であり、その呼び名が示すように中学生や高校生が大半を占める。 ※参考リンク http://doujinnottori.fc2web.com/index.html 乗っ取り中の問題は、サイトの管理人などに作品を強要したり、自分を副管理人にする様に強要したり する。 その際、頼みもしないのに「副管理人になってあげます」等、自分の優位を示そうとする特徴がある。 乗っ取り厨は、努力して上達すると言う「行動的自我」が成長しておらず、風船のように膨れ上がった 意識的自我で作られた虚構の自我が、努力ではなく強奪により風船の中身を埋めようとする行為と言え る。 その延長に「押しかけ厨」と言う問題がある。 押しかけ厨とは、友人でもない人の家に突然押しかけ、拒絶されると暴れだしたりする。 また、押しかけ先を知人等に連絡し、その知人も押しかけたりするから始末が悪い。 ※参考リンク http://homepage3.nifty.com/kazano/oshikake.html 押しかけ厨が引き起こす問題は「合宿所」とも呼ばれ、しばしば警察沙汰にもなっている。 ※参考リンク http://sasakama.s13.xrea.com/ 言葉には親和性と排他性の 2 つの特徴があり、携帯メールやネットでのコミュニケーションは、言葉の 持つ親和性により、人との共感を強めるという側面もあるが、負の方向に働けば言葉の持つ排他性によ り負の感情も強められてしまう。 メールは文字だけの世界で、発音やイントネーション、そして話す時の表情が無い。 例えば「かれのようになまけないようにしなさい」と言う文だが、句読点を付ける場所で、まるで逆の 意味になってしまう。 「かれのように、なまけないようにしなさい」では、彼は怠け者ではないという意味になり、 「かれのよ うになまけないように、しなさい」では、彼は怠け者だと言う意味になる。 「うみがめのまえにある」でも、句読点の場所次第で「海が目の前にある」という意味と「海亀の前に ある」と言う意味になる。 それが携帯メールの場合、画面が小さい為に変な区切りで改行されて、異なる解釈をされてしまう危険 21 を多分に含んでいる。 また、画面が小さい事から短い文章の応酬となってしまう事にも問題がある。 言語力と思考力 言語は思考の道具と称される。 当たり前のように使っている言語なのだが、思考化されずに言語を使っている人が意外と多い。 その事を自覚している人はまずいないだろう。 パターン化された言葉を反射的に話し、問題を解く時もパターン化された答えを出す。 朝の挨拶は「お早うございます」、午後になれば「こんにちは」夜になれば「こんばんは」、電話の時は 「もしもし」等、考えずにパターン化された言葉を反射的に使っている。 こうした傾向は、携帯メールにも見られ、携帯依存の人の実験でメールを打っている時に、脳が活動し ていなかった結果が、それを証明している。 勉強にも同じ傾向がある。 問題を解く時に、思考は働いていなかったりする。 例えば、この小学校 4 年生の算数の問題。 「この長方形の周りの長さは次のどれですか?」 A 7 センチ B 10 センチ C 20 センチ D 21 センチ この問題の正解率は約 30%、この問題を国立大学の工学部の学生に解かせても、50%の人が間違えてい る。 多くの人が、この問題を読まずに面積を求めてしまうからである。 この問題の正解率の低さを「問題を良く見れば間違えなかった」等、勘違いとして処理してしまう所に 「無自覚」と言う大きな問題がある。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/175.wmv 「頭が良」いとはどんな事なのか?教育や勉強とは何なのか? 考える力と言う物を考え直してみた方が 良い。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/221.wmv こんな事件が有った。 東大法学部を卒業した 25 歳の男が、官僚殺害の予告をして逮捕された。 22 その理由が、今まで理想を持って勉強してきたが、教科書の内容と違う現実を知り、文科省に詐欺をさ れたと感じたと言う。 目的は詐欺教育に対する天誅。 東京大学と言う超一流大学を出ているとは思えない理由である。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/111.wmv 先の算数の問題や、この東大出身者が起こした事件の原因は、恐らく教育方法にあると考えられる。 現在の教育は、思考力を養う教育ではなく、記憶重視で点数を取る事を目的とした「行動の習慣化」と しての教育の結果だろう。 行動の習慣化は、前頭葉で考えるのではなく、大脳基底核尾状核が使われる。 キーボードの打ち込みを練習して、意識せずに打ち込めるようになる時に使われる所と同じ所だ。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/176.wmv テストの為の勉強は、必ずしも前頭葉を使う思考力の育成にはならない。 「頭が良い」と言う事を「考える力」とするならば、行動の習慣化としての教育は、勉強すればするほ ど頭が悪くなる危険性を含んでいる。 ドイツの思想家レッシングも「若者への教育で犯しがちな最大の誤りは自分で考えさせる習慣を身につ けさせない事だ」と述べている。 指で数を数える子供と、九九を言える子供、どちらが脳を使っているだろうか? 頭を使うと言う意味では、指を使っている子供の方が脳を使っている。 行動の習慣化による教育は、「オウム」に言葉を教える事に近い物がある。 オウムでも九九は覚えるがオウムは指で数を数えられない。 九九を覚える事は記憶力であって思考力ではない。 九九を覚えるよりも、指で数を数える方がよほど思考力を使っている。 今の受験教育はこの九九の延長になっているように思われる。 効率よく答えを出す為に、考えるより覚える事が主体になった教育。 そんな教育に疑問を感じる。 「言語は思考の道具」と言われ、思考は言語であり、即ち思考力とは「言語力」に他ならない。 そして、この言語力がコミュニケーション力を左右する。 コミュニケーションが苦手な子供から良く聞く言葉に「分かってもらえない」 「理解してもらえない」 「話 しても無駄だから」という物がある。 それは、裏を返せば「理解してもらえる言語力が無い」と言う事でもある。 少し余談をしよう。 私は以前、職人をしていたが、職人だった頃に実感した事がある。 それが、「仕事を教える」と言う事。 職人として自分が学んできた事、体得してきた事を新人に教える時、なかなか伝わらない。 23 ここをこうして、こうやるんだ、違う、良く見とけ、ここをもっとこう言う風に、・・・ 具体的な事は何一つ言っていない。 まあ、職人の親方なんて物はこんな物だ。 私も、親方からそうやって学んだ。 最初の頃は、伝わらないもどかしさにイライラしていた事もあったし、伝わらないと声が大きくなり、 口調も荒くなり始める。 怒鳴りつけた事もしばしば・・・ しかし良く考えてみると、これは子供と同じだ。 自分が伝えたい事が上手く伝えられなくて、感情的になったり癇癪を起こしたり。 一生懸命話しても伝わらなくて、どうせ言っても分かって貰えないと黙り込む。 思えば新人の職人に教えていた時、相手が悪い訳ではなくて、仕事の事を言葉にする能力が備わってい なかっただけだ。 そして、誰かに教える事で、自分も仕事の事を本当の意味で理解していなかった事に気付かされた。 それは自分が「行動の習慣化」で仕事を覚えていただけだった事を自覚した瞬間だった。 現場で覚えの悪い新人に教えていたら、自分が請け負った仕事の工期が遅れてしまうので、仕事の手順 のマニュアルを作って新人に読ませようと考えたのが切っ掛けだった。 いざ書こうとすると、何から書いて良いのか分からない。 毎日やっている事を最初から書けば良い筈なのだが、何から書き始めれば良いのか分からない。 考えれば考えるほど頭が混乱してくる。 一番初めに手を付けると思っていた仕事の内容を書いていると、その準備の事を書く事が先だと思い始 め、その準備の事を書いていると、準備の手順が気になりだす、準備の手順を書いていると、新人は資 材の名称や用途を知らないかもしれないと言う事に思いが行き、名称や用途に思いが行くとその仕入 先・・・きりが無い。 そこで、文章を書く前に項目だけ思い付くまま列記して、優先順位を付けて並べ替えてみた。 並べ替えた後でもう一度見直すと、更に細かい所も見えて来る事もあれば、重複する物もある。 それを更に合理的に並べ替える。 マニュアルを作る事は習慣化された作業を言語化する作業で、混沌とした理解だった物が、頭の中が整 理整頓されて体系化されて行くのを実感した。 他人に教えると言う事は、自分の理解を深める事であり、自分も「理解」していなかったと言う事だ。 自分も理解していない事を、他人に教える事など出来る筈も無い事に気付かされた。 そして、それは自分が仕事を理解していなかっただけではなく、自分自身を理解していなかったと言う 事でもある。 新人の為に作ろうとしたマニュアルは、自分を見つめ直す結果になったのだが、自分を見つめ直すと相 24 手が何処で躓いているのかが手に取るように分かって来る。 フランスの思想家ジョセフ・ジュベールの名言にも「教える事は二度学ぶ事である」とある。 何が悪かったのかが分かれば教え方も変わり、マニュアルなど無くても覚えてくれる。 新人が仕事を覚えてくれれば、現場の仕事のスピードは速くなる。 これを行動的自我と、意識的自我のバランスで見てみる。 新人に教え始めた時の私は、行動的自我が大きく、意識的自我は育っていなかったと言う事だろう。 これが逆だったら? 技術も経験も無い新人が、理屈だけは一人前。 多分、相手にされない。 これは「いじめ」の問題にも当てはまる事だと思う。 「いじめ」から抜け出す方法には「自分を変える」「相手を変える」「環境を変える」と言う 3 つの方法 があると言う。 しかし「相手を変える」 「環境を変える」と言う方向ばかりに目が向き「自分を変える」と言う事に難色 を示す人が多い。 「分かってもらえない」 「理解してもらえない」 「話しても無駄だから」 これを「言語力不足」として考えてみると、自分の話を他人が理解してくれないのは、他人が悪い訳で はなく、伝える為の言語力が未熟なだけで、言語力が身に付くにつれ理解してくれる人も増えて行く。 伝える力が身に付けば、自分を理解してくれる人が出来る。 つまり、自分が変われば他人が変わる訳である。 そして、自分を理解してくれる人が増えて行けば、自分を取り巻く環境が変わって来る。 それは自分が変われば環境も変わると言う事である。 そして、伝えようとしなければ人には伝わらない。 今、この言語力不足が問題となっている。 その原因として指摘されているのが、子供の時に交わした会話の量と言われている。 子供は言いたい事を断片的にしか言葉に出来ない。 子供は、のどが渇いてジュースが飲みたい時「ジュース」としか言わない。 そこで大切なのは、親からの問いかけに始まる会話だと言う。 親が「ジュースがどうしたの?」と問いかければ、子供は「飲みたい」と答え、親が「どうして?」と 問いかければ「のどが渇いたから」と答える。 会話の中で質問に答える経験を重ねると、10 歳頃から筋道を立てて考を整理出来る様になると言う。 しかし、現代社会では会話をする機会は減って来ている。 家族の間でも会話の機会が減り、友人関係でもメールを使う事で会話をする機会が減っている。 同じ家にいるのに親子でメールなんて親子もメディアで流れていた。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/159.wmv 「いじめ」の問題が発生した時に「いじめっ子」の存在に目を向ける前に、それまでの家庭内での親子 の対話の時間や、子供の言語力にも目を向けるべきだと思う。 25 人生における壁とは、自分に欠けている物がある事を教えてくれている天の声であり、自分に欠けてい る物に気付き、欠けている物を身に付ければ壁は無くなる。 それが成長である。 しかし、壁を避け続けていれば、壁は高さを増し、身動きが取れなくなってしまう。 心の傷が及ぼす影響 心の傷で代表的な物に「虐待」や「いじめ」がある。 心に傷を持つと言う事はどう言う事なのか? 子供の頃に虐待を受けた 1500 人近く人の脳をMRIで撮影し、脳の詳細な映像を元に心の傷が脳に及ぼ す影響の研究が進められている。 その研究で、虐待と言う体験が脳を変化させる事が分かっている。 長期に渡り体罰を受けて育った人の脳は、思考に関係する前頭前野の一部で普通の人より体積が 19%少 ない場所が見つかり、言葉の暴力を受けた人の脳では聴覚野の体積が 12%減少、性的虐待を受けて育っ た人の脳では視覚野の体積が 18%減少していると言う研究結果が出ている。 それは、受けた虐待に符合した部分の体積が減少していると言う。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/177.wmv 虐待を受けて育った子供やネグレストなどの機能不全家族に育てられた子供は、広汎性発達障害と同じ 行動パターンを見せる事も多く、虐待の夜脳の萎縮と言う事を考えれば、広汎性発達障害と虐待等によ る行動の類似性は、先天性か後天性かの違いだけなのかもしれない。 体罰は親も自覚し易いが、言葉の暴力は親も自覚し難く、気付かずに行なっている事も多い。 例えば、数学が苦手な子供が頑張って 91 点を取る。 子供は良い点を取り、親が喜んでくれると思い、自慢しようと意気揚々と家に帰り親に報告する。 しかし親は、この問題は全部出来たはずだと褒める事をしない親。 親としては、叱咤激励のつもりだろうが、これも一つの言葉の暴力である。 ※ 参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/92.wmv 言葉の暴力に類する物は、存在の否定や努力の否定などがある。 親には子供を否定している自覚が無くても、子供が否定されたと思ってしまう事もあるのだ。 一つの例に、兄弟・姉妹の誕生がある。 最初の子供は親の愛情を一身に受けて育つ。 そして赤ちゃんが出来ると、親の注目は赤ちゃんに集まり、子供は親の愛情を赤ちゃんに奪われたと感 じたり、見捨てられた様に感じてしまう。 これも本人に対する否定となってしまう。 親は赤ちゃんに付きっ切りになるのは仕方が無い、それ位の事は分かるだろうと子供に言い聞かせよう とするが、それは大人の発想である。 子供の脳は扁桃体主体の感情や衝動が支配する脳、大人の脳は前頭葉が扁桃体の感情や衝動を抑える脳、 26 大人の脳の感覚で子供を説得しようとしても、子供は扁桃体からの感情や衝動を抑えられるほど前頭葉 は発達していない。 大人には簡単な事でも、それを子供に求めようとすれば大きなストレスとなってしまう。 その為、親の気を引こうと問題行動を起こしたりする事がある。 それを親が叱り付け、更に子供の心を傷付けて行く。 こうした問題を解決するのはさほど難しくない。 親だけで赤ちゃんの面倒を見ようとする所に問題がある。 子供も育児に参加させれば良い。(共同作業の概念) 子供を育児に参加させれば、育児には手間が掛かる事を身を持って知る。 それが行動的自我の成長である。 子供を赤ちゃんの育児に参加させなければ疎外感や孤立感を生むが、育児に参加させれば連帯感を生み、 任される事で親の信頼を感じて責任感や自尊心も付いて行く。 昔は、兄や姉が弟や妹の面倒を見ている光景は当たり前に見られた光景だった。 過度な勉強が与える影響 幼年期や少年期の過度な勉強は危険性を含んでいる。 その一つは、友達と遊ぶ事で習得する「社会性」や「多様性」を身に付けずに育つ危険性。 もう一つは、成長過程にある脳に与えるストレスの影響である。 子供の将来を考えて中学受験の為に勉強漬けにすると、子供の将来を奪う危険を含んでいる事を知って いる親はまずいない。 最悪の場合、自殺の危険も含んでいる。 疲労についてこんな実験が有る。 最初に被験者の脈から自律神経の様子を数値化し、唾液に含まれるβアミラーゼの数値も計っておく。 そしてパソコンに表示される計算をして行くのだが 2 秒以内に答えないと、背景が赤く点滅し警告音が でる。 そうした計算を 90 分間行い、自律神経の状態とβアミラーゼの数値を計る。 すると、自律神経の値は倍以上に跳ね上がり、βアミラーゼの数値も上昇する。 計測を終えたら更に 90 分計算を行ない、計算作業は終了する。 そして再び計測すると、βアミラーゼの数値は最初の数値の半分以下まで下がるが、自立神経の値は約 4.3 倍に跳ね上がっていた。 計算を終えた事で、ストレスは無くなりリラックスしていたのだが、リラックスしても自立神経の数値 は下がっていなかったのだ。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/186.wmv βアミラーゼは下がるのに、自立神経の数値は下がらない。 そのメカニズムを知るには、自立神経を知れば理解出来ると思う。 ちなみに、鬱病等の精神疾患を発症する前には、必ずと言って良いほど自立神経のバランスを崩して自 立神経症状が出ている。 27 自立神経は交感神経と副交感神経のバランスからなり、交感神経は緊張状態、副交感神経はリラックス の状態の時に働いている。 交感神経が過剰に働き、過緊張になっているとストレスが溜まる。 主に交感神経は日中の活動している時に優位に働き、夕方から夜にかけて副交感神経が優位に働く。 この交感神経と副交感神経の切り替えを行なうのがセロトニンである。 分泌されたセロトニンの 80%が「セロトニン再取り込み口」から取り込まれて再利用され、残りの 20% が体外へ放出される。 問題は、ストレスを受けた時に分泌されるコルチゾールというホルモンである。 コルチゾールは糖質で粘着性があるため、ストレスが続きコルチゾールが大量に分泌されるとセロトニ ン再取り込み口に貼り付き再取り込み口を塞いでしまう。 その為、長期間緊張状態が続くとセロトニンが再利用されずに体外に放出されセロトニン不足に陥って しまう。 ストレスが続きコルチゾールの分泌が続いた状態では、セロトニン不足に陥り交感神経優勢の覚醒状態 が続く事になる。 その覚醒状態は睡眠障害となって現れる為、鬱病の早期発見の啓発には「眠れていますか?」と言う言 葉が使われるほどだ。 覚醒状態に分泌されているホルモンが、ドーパミン系のホルモン「ドーパミン」 「ノルアドレナリン」 「ア ドレナリン」であり、これらのホルモンはストレス系ホルモンであり、交感神経に作用して心臓の鼓動 が早くなるなど自律神経が司る体の様々な部位に影響をもたらす。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/229.wmv その為、ストレスが続くと自律神経のバランスが崩れ、自律神経失調症の症状が現れる。 主な症状は、動悸、頭痛、耳鳴り、耳の閉塞感、顔のほてり、口の渇き、味覚異常、ドライアイ、下痢 や便秘、頻尿、体の冷えや振るえ、異常発汗、めまい、たちくらみ、手足のしびれや痛み、微熱、倦怠 感、不安感や恐怖心、イライラ、落ち込み、集中力の低下、記憶力の低下など様々な症状が現れる。 (これらの症状がすべて出る訳ではなく、色々な組み合わせで出たり、日替わりで出たり、ストレスの 多い時間だけ出たりする) そのドーパミンの分泌を抑制するのがセロトニンに働きでもある。 そして、コルチゾールは短期記憶を司る海馬を萎縮させる事も知られている。 つまり、無理に長時間勉強しても覚えられないと言う事だ。 ドーパミン系のホルモンは色々と形を変える。 ドーパミンが酵素によってノルアドレナリンとなり、そのノルアドレナリンとメチル基によってアドレ ナリンとなり、アドレナリンが酸化するとアドレノクロムと言う物質が作られる。 そのアドレノクロムと言う物質は、メスカリンと同じ成分であり幻覚症状を引き起こす。 また、セロトニンの再利用のメカニズムは、抗鬱剤のメカニズムでもある。 抗鬱剤は、セレトニン取り込み口を塞いで、脳内のセロトニンを増やす薬である。 鬱病治療で長期間治療しても改善されなかったり、症状が悪化していた場合、薬が効きすぎている事も 視野に入れておいた方が良い。 28 薬が効きすぎて、脳にセロトニンが充満し、ドーパミンの分泌が抑えられてしまうと、鬱病と同じ症状 が出て鬱病と区別が付かない。 かと言って、薬を止めてしまうと、本来の鬱病が出てしまうので、医師と相談しながら投薬を見直す等 の対応が必要である。 また、疲労と脳の関係を調べた研究もある。 実験では、まず目の前の画面に数字が映し出され、次の画面で、前に映し出された数字があるかを判断 し、その時の脳を f-MRS で撮影して調べる。 これを、疲労を感じている人と疲労を感じていない人で行い、脳の反応の違いを調べると言う物だ。 その結果、予想外の結果が出ている。 予想では視覚を使う為、視覚野に変化が現れると予想されたのだが、疲労を感じている人は、視覚野で はなく聴覚野の機能が急激に低下し、疲労を感じていない人には聴覚の機能低下は起こらなかった。 これは、脳は疲労を感じると疲労を感じている部分に対して「休め」と言う信号が出るのだが、疲れが 溜まりすぎると、疲労が溜まっている部分だけではなく、他の部分のも「休め」の信号が伝わる為と考 えられている。 また、脳に流れる電流の変化の研究では同じ刺激を受けても、疲労を感じている人は疲労を感じていな い人の 2 倍の電流が流れ、脳は 2 倍働いている事も判明している。 そして、疲労を感じている人の脳は萎縮している事も分かっている。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/186.wmv 虐待で脳の萎縮が起きる事は書いて来たが、鬱病や統合失調症も脳は萎縮する。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/5.wmv 共通している物は過度のストレスである。 そしてもう一つ脳が萎縮する物に「老化」がある。 今、子供の鬱が急増している。 その事に親は気付かない場合が多い。 北海道大学が小中学生 738 人に面接調査した所、全体では 4.2%、中学一年では 10.7%の子供が鬱病や 躁鬱病と診断されている。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/224.wmv その調査で鬱病や躁鬱病と診断された子供達は、診断されるまで見過ごされていた。 そして、自殺者の半数以上が鬱病と言われ、鬱病は自殺と深い関係にある。 そして、今では鬱病や統合失調症などの精神疾患にかかっている人は 10 人に一人、一生に一度は精神疾 患にかかったと診断しうる人となると 5 人に一人とまで言われている。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/249.wmv また鬱病により、表情がなくなりコミュニケーションが上手く取れなくなる事が「いじめ」に発展した り、被害妄想により「いじめ」を受けていると言う感覚を引き起こしてしまったり。 表情が無くなると言う事は、表情の模倣により自分の表情を他人に模倣させてしまう事にもなる。 自分の顔から表情が消えると、周囲の人の自分を見つめる顔も無表情となり、自分が嫌われていると言 う拒絶感に陥り、孤立感を深めてしまう。 その孤立感が、さらに深刻な表情や態度を生み、その表情を周囲の人が模倣してしまう悪循環が起きる。 29 そうした表情は排他性を生み、これもまた「いじめ」へと発展してしまう。 孤立感や拒絶感が及ぼす影響についての実験がある。 被験者に拒絶感を与えると、痛みに対する感覚が鈍化する。 傷みに対する感覚が鈍化すれば、情緒にも影響を与え、他人の痛みを理解出来なくなると言う可能性を 指摘した物だ。 ※ 参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/4.wmv この痛みの鈍化の影響に関しては、この章の最後に「孤立化の危険性」で書く事にする。 その他にも子供の脳が疲労状態に陥り「休め」の信号を出している時に、親が叱咤激励する事も一つの 虐待である。 それは疲労により、脳に 2 倍の電流が生じている時に、更に電流を流す事になる。 電線でも、定格以上の電流を流せば発熱し、定格以上の電流を流し続ければ焼き切れてしまう。 パソコンに例えるなら、オーバークロックによる熱暴走である。 不安と言う衝動 扁桃体は「快」 「不快」 「不安」 「恐怖」などの感情を司り、その衝動を抑えるのが前頭葉の働きなのだが、 その前頭葉の働きを抑える物もある。 それが「前頭極」と呼ばれる部分だ。 前頭極は不安によって働き出し、前頭葉から理性を奪い、扁桃体からの衝動を抑えられなくなる。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/125.wmv それは危険に遭遇した時に、考えてから行動して手遅れになる事を避ける為の防衛本能である。 その前頭極の活動を左右するのが経験知だ。 こんな事があった。 ワンクリック請求詐欺が流行りだした頃、私は相談窓口を開いていた。 相談を受けた詐欺サイトの手口を知る為に、ワンクリックを踏みまくり、ソース解析を行なっていた。 請求画面が出ようと、請求メールが来ようと、怖さなど微塵も無かった。 ある時、同じ様にワンクリック請求詐欺の相談サイトを開いている人から相談を受けた。 その人は相談者に対して「無視してください」とアドバイスを送っていた人だった。 しかし、自分でワンクリックを踏んで、請求画面が出て怖くなって相談してきた。 その人は理屈では「無視」していれば良いと分かっていても、不安に駆られてしまったのだ。 私がワンクリックを踏みまくっても平気な理由が経験知である。 私は自己破産も経験していれば、サラ金の取り立ても経験している。 そして、自己破産の時の裁判の経験もある。 そうした経験とは別に、仕事としての経験地もある。 私は通販も営んでいるのだが、通販を始めた時は丁度法改正が行われた時期で、その時期にネット通販 を行っていた業者には経済産業省の指導が入っていた。 30 その時に経済産業省より、最終確認画面を表示させ、そこで申し込みの意思を確認しなければ契約にな らないと指導されていた。 ワンクリック詐欺には確認画面など無いので、自信を持って無視。 取立てに来ると言う脅しも、サラ金の取立てで経験済み、奴らが来ればその場で御用、法的処置を講ず ると脅されても法的根拠が無い事も承知しているので、恐れる要素など何一つ無い。 そうした事を、理屈ではなく実際に経験して来た。 そうした経験の一つ一つが私の経験知になっている。 相談してきた人は、同程度の知識は持っていたのだが、経験はしていなかった。 その経験知の違いが、不安に陥るか陥らないかの違いになる。 自分と言う存在 人間は集団を作り集団で生活する動物である。 人間は、自分が必要とされた時に、自分の存在を感じる。 その始まりは家庭から始まり家庭に終わる。 主婦の鬱病の原因で最も多いのが、家庭の中での自分の存在感が失われる事である。 こんな事例が有る。 出産して育児を続けていたシングルマザーが鬱病を発症したのだが、その原因は子供が自律を始めた事。 それまで、母親がボタンを閉めてあげていた子供が、自分でボタンを閉めれるようになり、子供は親の 手を離れて行く。 本来親ならば、喜ぶべき事なのだが、手が離れる事で子供に必要とされなくなる寂しさを感じてしまう。 その寂しさから家事が手に付かなくなり鬱病を発症。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/237.wmv 恐らく、それは結果であって原因ではないだろう。 原因は、シングルマザーであるこの人が別離不安を解消せずに育った事だろう。 この別離不安は、境界性人格障害の原因とも言われ、境界性人格障害は自傷行為を繰り返したりする。 病者にとっての自傷行為は、自分の存在の確認である。 一つは、痛みを感じる事で生きている実感を持とうとしたり、自傷行為をして自分の事を心配してくれ る存在を確認したり、他者へ理不尽な行動をして興味を引こうとしたり、自分の相手をさせようとした りする。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/36.wmv そのシングルマザーがせめて結婚していれば、結婚相手次第では一生発症しなかったかもしれない。 しかし、結婚相手に理解が無ければ、ここで発症していなくても、いずれは発症していただろう。 主婦の鬱病の多くは、子供が手を離れた事が引き金となって起こる場合が多いのだが、子供が自律して も旦那がいれば家庭の中での存在が感じられるのだが、奥さんが料理を作っても、旦那が「ご馳走様」 「美 31 味しかったよ」の一言も言わない人であったり、奥さんを呼ぶ時に「おい」としか言わない人だった場 合、自分の存在を感じられなくなり鬱病を発症し易くなる。 男性は特に意識する事は無いが、女性は結婚をすると苗字が変わる。 名前は自分の存在を表す物であり、苗字の変わった女性にとって、自分を表す名前はファーストネーム だけになる。 ご近所さんは苗字で呼び、苗字は旦那のファミリーネームであり、自分を表さない。 旦那も「おい」等、ファーストネームで呼ばなければ、自分を表す物が無い。 そこに「愛着関係」が結ばれていなければ、家政婦と変わらないと感じてしまう。 家政婦と変わらないと思い出すと、家庭の中の自分の存在に疑問を持ち始めてしまう。 孤立化の危険性 人は拒絶を感じると、痛みが鈍化する事は「勉強の与える影響」の文末の方で書いた。 ここではその危険性に視点を向ける。 何故、拒絶を感じると痛みが鈍化するのか? それは、人間は集団で生きる動物であり、集団から孤立する事は生存の危機を感じて、扁桃体からアド レナリンが分泌される。 アドレナリンには鎮痛作用があり、痛みを鈍化させる。 その鎮痛効果は、骨折しても痛みを感じない事すらある。 痛みが鈍化すれば、他人の痛みを理解出来なくなり、共感性が失われる。 共感性が失われれば攻撃的になり易くなると言われている。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/99.wmv 共感性が失われた場合、相手の表情を正しく読み取れなくなる可能性がある。 例えば、共感性に欠けると言われる自閉症の子供に、人の表情の写真を見せて「怒った顔」や「笑った 顔」の写真を選ばせると、異なった表情の写真を選ぶ。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/13.wmv 集団ストーカー被害を訴える人の話にも、 「怖い顔」と言う表現が聞かれる事がある。 実際、集団ストーカー被害を訴える人と話をしていた時に「あの人が睨んでいる」と言われて周りを見 渡しても、睨んでいる人がいた事は無い。 そもそもアドレナリンは「闘争か逃走」のホルモンであり、アドレナリンが分泌されていれば攻撃性が 出るのは当然の事である。 アドレナリンの影響が、闘争に向かえば攻撃性が出るのだが、逃走に向かえば引き篭もる事になる。 私は、集団ストーカー被害者の事を「集団ストーカー教」と呼び、カルト宗教と同類であると、しばし ば口にするが、それは根拠を持って言っている。 32 引き篭もり系の集団ストーカー被害者が、ネットで被害者同士のコミュニケーションを形成した場合、 気付かぬまま、カルト宗教の洗脳と同じ状況に陥る事になる。 カルト宗教の洗脳は、社会と隔絶させ、集団同調により行われる。 引き篭もりは社会との隔絶であり、被害者同士のコミュニケーションは集団同調となり、奇しくもカル ト宗教の洗脳と同じ環境を自ら作り出してしまう。 カルト宗教の教祖が信者には救世主であるように、集団ストーカー被害と戦っている人は、同じ被害と 感じている者から見れば救世主やヒーローに見える。 しかしカルト宗教の教祖の多くが心の病であるように、集団ストーカーの救世主も同じ病でしかない。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/14.wmv 孤立化によるアドレナリンの影響が闘争に出た場合、最悪なのは無差別通り魔へと発展する可能性が出 てくる。 現に、無差別通り魔事件を起こした犯人は孤立化していた。 またキレる老人も、孤立化している。 孤立感を抱える人が集まると、孤立感を埋められる。 そしてデモ系や集会系が登場し、そして集団同調へ向かう事になる。 しかし、社会に不満を持ち、社会に馴染めずに孤立化した人が集まり集団同調すれば、その集まりは反 社会性を帯びる事になる。 反社会性を帯びた人達だけで構成された集団の中では、社会性と反社会性が逆転する事になる。 それが「過激組織」や「カルト」となるのだが、カルトの信者が自分の宗教がカルトである事を認識出 来ない様に、社会性と反社会性が逆転した集団の中にいれば、自分達がカルトである事を認識する事は 出来ない。 自称集団ストーカー被害者と心の病とストレスは密接な関係にある。 心の病を発症する最大要因はストレスである。 継続的に精神ストレスを抱えていると、心の病を発症しやすくなる。 ストレスとは敵に遭遇した時の緊張状態である。 自称集団ストーカー被害者のように、何でもかんでも敵認定している状態では、病気でない者でも病気 になるのは当然の事。 そして、敵認定を続ける限り心の病の原因である継続的な精神ストレス状態からは抜け出せない。 33 第3章 成長 赤ちゃんは必要な時期に必要な事を学びながら成長して行く。 赤ちゃんの成長過程を見ると「必要な時期に必要な事を学ぶ」と言う事の重要性が分かってくる。 それは、基礎となる経験知を積んでいなければ、その先にある重要な学習の習得が不完全になったり、 本能の欲求と意識の欲求の解離を引き起こす事にもなりかねない。 成長の過程を見直すと心の問題点が見えて来る。 例えば、幼い頃の習い事や学習塾。 確かに幼い頃から習い事をすれば覚えも早い。 しかし何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」である。 幼い頃にする「ごっこ遊び」、これは人間が社会性を身に付ける為の大切な過程なのだが、習い事が多す ぎれば「ごっこ遊び」をする時間が削られてしまう。 どんなに勉強が出来ても、習い事が上達しても、社会性を身に付けていなければ役に立たないばかりか、 将来心の病を発症する危険性が高くなってしまう。 大人は子供に「遊んでばかりいないで勉強しなさい」と口にする。 しかし、子供にとって「遊び(TV ゲームは除く)」こそが、一生を左右し能力を開花させる大切な勉強 なのだ。 心に問題を抱える人は、何が悪いのか分からずにもがいていたりするが、問題点が分かればその問題点 を課題として、不足している経験を積ませて補ってやれば良い。 但し、成長段階で学べば容易な事でも、成長してから学ぶ事は困難な物もある。 そして、学習には順序があり、見えている問題点だけ治そうとしても上手く行かない。 問題点に至る過程の「経験知の集積とそれに伴う感情」こそが、問題点を克服する手段となる。 今度は、成長と言う視点から見てみよう。 そしてこの成長の過程が、人間の基本プログラムつまり人間の BIOS である。 母子関係 母子関係は、人格や社会性の根幹をなす物である。 赤ちゃんの成長の前に、母子関係と言う物を見直してみる。 赤ちゃんの成長には母親の存在が不可欠であり、健全な母子関係を築けなければ子供の成長に大きく影 響してしまう。 母親は育児を意識するあまり、育児本を読んだり、他人の子供と比較したり、そして育児本に書いてあ る事と違っていたり、他人の子供の成長と違っていたりすれば心配になったりする。 子供の成長には個人差があり、他人の子供と成長の度合いが違っているのは当然の事で、定期健診の時 34 に指摘されなければ、別に心配する必要は無い。 子供にとって悪影響を及ぼす物は、親が神経過敏になって親子のハーモニーを奏でられなくなる事。 これは科学的に証明されており、これを「コミュニケーション的音楽性」と言う。 研究では、赤ちゃんと母親との「言葉を使わない」コミュニケーションを音楽的に分析した結果、起承 転結の 4 つのパートがある事が判明している。 発展部では、赤ちゃんが発する声の 1 オクターブ上の音で母親が応え、それに赤ちゃんがユニゾンで更 に 1 オクターブ上の声で応える。 そしてクライマックスではデュエットのように一緒に声を出し、エンディングは「C(ド)」の音で終わ り、「C」の音は、赤ちゃんも母親も幸せな気持ちになれる音だと言う。 また、赤ちゃんの具合が悪い時や、産後の鬱など母親に精神的疾患がある場合に、コミュニケーション 的音楽性のパターンが変わり、クライマックスの時のデュエットの音が低くなったり、エンディングの 「C」の音が下がってしまったり、起承転結と言う物語性もなくなり、母子のデュエットが奏でられな くなると言う。 そして、二人の状態が良くなると再び音楽が奏でられると言う。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/84.wmv こうしたコミュニケーション的音楽性は、生まれた時から備わっている能力であり、意識して出来る物 でもない。 このコミュニケーション的音楽性の片鱗を感じられる事がある。 それが赤ちゃんをあやす時の声だ。 赤ちゃんをあやす時は無意識で高い声を使い、低音であやす事はしない。 音楽でもメジャー系の曲は明るく陽気に聞こえ、マイナー系の曲は暗く物悲しく聞こえる。 それは会話の時も同じだ。 楽しく話す時には、口調がメジャー系になっており、悲しい話をしている時は口調がマイナー系になっ ている。 誰でも赤ちゃんに話しかける時には、歌うような独特な喋り方で話しかける。 これを「育児語」と言い、民族を問わず使われている。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/195.wmv この育児語にコミュニケーション的音楽性の要素が含まれており、ペットに話しかける時にも無意識に 使っている。 母親が育児に幸福感を感じられなくなった場合、コミュニケーション的音楽性が失われている可能性が ある。 育児をしている時に「孤独」を感じる母親は、赤ちゃんとハーモニーを奏でられずに孤独を感じている のかも知れない。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/192.wmv 35 言語の認識 赤ちゃんは生まれてから言語を習得するのではなく、胎児の頃からすでに言語を学んでいる。 類似した事は「胎教」と言う言葉で知られている。 こんな実験が有る。 生後 12 時間の赤ちゃんに、吸い付く強さと回数を計るおしゃぶりを咥えさせ、母親の喋る母国語と聞き 慣れない他国語のテープを聞かせる。 そのテープは母体の中で聞こえる声と同じ様に、不明瞭な抑揚だけの音になっている。 そのテープを聞かせると、他国語では反応しないが、母国語に切り替えると吸い付く強さと回数が増え ている。 そして再び他国語に戻すと、その数値は下がる。 また、生後 24 時間以内の赤ちゃんに、前置詞や冠詞などの意味を持たない単語を聞かせても反応しない が、名詞や動詞などの意味のある単語を聞かせると数値は急激に上がる。 つまり、生後間もない赤ちゃんでも意味のある単語と意味の無い単語を聞き分け、言葉の抑揚を感じて おり、それは母体の中で学習していたと言う事である。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/230.wmv 目線を変えて犬を見て見よう。 犬も威嚇は低音、甘える時は「ク~ン」と抑揚のある高音、悲鳴は「キャンキャン」と突き抜けるよう な高音を使っているが、同じ様な声の使い分けを人間もしている。 例えば、相手を威圧しようとする時は、ヤクザに代表されるような低音を発し、悲鳴は「キャー」と言 う高音を使い、甘える時は「ね~ね~」など抑揚をつけている。 こうした事から、赤ちゃんは言葉が分からないと思い、赤ちゃんの前で言い争いをしたり、赤ちゃんの 前で愚痴をこぼしていると、赤ちゃんの心の成長に影響を及ぼしかねないと考えられる。 顔の認識 赤ちゃんが最も興味を示す物は人間の顔である。 生まれたばかりの赤ちゃんは、30cm 離れると顔の陰影しか見えず、最も鮮明に見えるのは 15cm で、そ の距離が母子の絆が深まる距離だと言われている。 その距離は、授乳時の母親の顔との距離であり、両親が抱いた時の顔の距離である。 そして、赤ちゃんをあやす時にも親は顔を近付ける傾向がある。 そうした赤ちゃんの顔の認識に関する実験がある。 生後 10 日の赤ちゃんに、顔の目と口の配置の絵と、配置を逆にした絵を見せると、赤ちゃんは人間の顔 と同じ配置の絵に興味を示す。 そして顔の陰影だけの絵と、ぼやけた顔の絵を見せると、陰影だけの絵に興味を示す。 また、生後 6 週の赤ちゃんに同じ絵を見せると、ぼやけた顔の絵を見て陰影だけの絵には興味を示さな い。 36 つまり、生まれたばかりで、ハッキリと物が見えない時期は陰影で顔を判断し、見えるようになるにつ れ陰影ではなく形として認識している。 それは、インプリティングと同じ様に本能に刻まれたプログラムであり、人間は「顔を見る」と言う事 が、本能に刻まれている事を示している。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/189.wmv 私は、育児にベビーベッドやベビーカーを使う事に疑問を持っている。 目が良く見えない時期にこそ、スキンシップが大切だと考えられる。 生まれたばかりの赤ちゃんは目も開いていない。 大人でも暗闇は不安を感じたりする。 そんな時、誰かに触れられ支えられていると安心する。 目が見えない時期に母親に抱かれたり、おんぶをされたり、 「触れられる事」で守られていると感じ、母 親を「安心感を与える者」として信頼感を深めて行くと考えられる。 そして徐々に目が見えるようになり、自分を守ってくれる親の顔を認識する。 赤ちゃんが眠りから目覚めた時、母親の顔が目に入れば安心するが、目覚めて母親の顔が目に入らなけ れば不安になる。 そして、匂いも重要な要素だろう。 嗅覚は感情と密接な関係がある。 目が見えずとも母親の匂いは安心感を与え、それらの事から得られる「安心感」が「愛着」と言う名の 信頼関係となる。 親子の距離は、密着から始まり、赤ちゃんの成長に伴い徐々に距離が離れて行く。 心に病を抱える人で「繋がりを感じられない」と言う人は、 「愛着」に問題がある場合が多い。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/250.wmv 赤ちゃんに対する親の接し方一つで、親への信頼感を深める子供もいれば、親への不信感を抱く子供も いる。 人を信じられれば繋がりは感じられ、人を信じられなければ孤独を感じる。 人間は信頼関係を親子関係で学び、他者へと応用させて行く。 その親子関係で信頼関係を学べなければ、応用すべき学習がなされていない為、他者へ応用する事が出 来ない。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/192.wmv 37 感情の芽生え 生後間もない赤ちゃんは触れられたりすると笑顔を作るが、それはまだ反射運動に過ぎない。 生後一ヶ月を過ぎると、赤ちゃんは自ら笑顔を見せるようになる。 自ら表情を出す事は、感情が芽生えた事を意味する。 この時期に自分を愛してくれる人(親)と親密に接する事は、笑う能力を獲得する上で極めて重要で、 そうした相手とめぐり会えなかった赤ちゃんは、笑いを覚えるのが遅れてしまう。(ネグレスト等) この時期の親との親密な関係は、赤ちゃんの心が健全に発達して行く為に欠かせない。 赤ちゃんに笑顔で接し、赤ちゃんが笑顔で応える、赤ちゃんの作る笑顔に、母親が笑顔で応える。 この関係は人間の持つ社会性の原点である。 「笑顔に対して笑顔で応える」それは「与えたら与え返す」と言う社会性の基礎の最初の学習である。 赤ちゃんは生後 3 ヶ月までに、口の両端を上げ、目尻にしわを寄せた社会的な笑いをするようになり、 喜怒哀楽と言った感情も身に付ける。 ※ 参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/190.wmv そして、猿の表情の研究で言われているように、この笑顔が社会性に必要な要素となる 思考の始まり 生後 2 ヶ月頃には目に映る物を理解し始める。 この時期には新たな神経経路が作られ、色々な物を見れば見るほど識別能力は高まって行く。 赤ちゃんは見えている物を観察し、世界には動く物と動かない物がある事や、物体と背景に境目がある 事に気付き、世界は一枚の絵のような一つの世界ではない事を理解する。 そして、見えている物と聞こえる音に関連性がある事に気付き、視覚と聴覚を結び付けて行く。 そして、2 ヶ月半になると、大きい物の中に小さい物は入るが、小さい物の中に大きい物は入らない、物 体が視界から消えても存在し続けると言った物理的な事も理解し始める。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/191.wmv そして、赤ちゃんは物理的な概念を下・後ろ・中・と言ったカテゴリー別に学び、一度に学べるカテゴ リーは一つだけだと言う。 赤ちゃんに一度に 2 つの物理法則を見せたらどうなるか? それを確かめる実験も行なわれている。 最初、生後 9 ヵ月の赤ちゃんに、斜面に転がるボールを取らせる。 次に斜面に目隠しのパネルを置き、途中が見えないようにする、赤ちゃんはボードの先でボールを取る。 次に、斜面の途中に壁を置くと、赤ちゃんは壁で止まったボールを取る。 そして赤ちゃんの目の前で先に壁を置き、その壁を隠すようにパネルを置くと、ボールはパネル後ろに 隠された壁で止まるのだが、赤ちゃんは困惑してパネルの先でボールを待っている。 この頃の赤ちゃんには、2 つの法則を同時に適用させる事が出来ないのだ。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/176.wmv 38 赤ちゃんが 2 つの法則を同時に適用させるには、結び付けるべき法則に気付き、異なる法則を結び付け る作業が必要になる。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/197.wmv 重要な事は物理的概念と身の回りの事を結び付けられるか? それらを結び付けられるだけの経験をしているか?と言う事だ。 例えば「物体が視界から消えても存在し続ける」と言う概念と親の結び付き。 「自分を守ってくれる」親が、子供を誰かに預けて仕事に出ていたりした場合、親は毎日帰って来るの だが、赤ちゃんが寝ている時に帰って来ても、それは赤ちゃんの視界から消えている状態であり、赤ち ゃんの視点からすれば、いないのと同じである。 昔の様に、一家が川の字に寝ていれば、赤ちゃんが目覚めた時に親を感じられるが、赤ちゃんをベビー ベッドで寝かせていれば、赤ちゃんは親が近くで寝ていても気付く事が出来ない。 赤ちゃんは毎日の観察の中からこうした事を学んで行き、統計的確立を持って状況を分析する。 この統計的確立が経験の重要なポイントだ。 例えるなら「標本検査」 、一つ一つの経験や観察が標本となり、一つの標本では誤差が大きいが、標本の 数を増やせば誤差は小さくなるのと同じで、経験や観察の数が多ければ誤差も少なくなる。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/232.wmv そして、統計には平均とメジアン(中央値)とモード(最頻値)がある。 先の例えで、モードが「親が視界にいない」であった場合、赤ちゃんは「物体が視界から消えても存在 し続ける」と言う概念と親を結び付け難い。 次のステップ(別離不安)の為に生後 8 ヵ月頃までに「親は見えなくても存在している」 「親は必ず戻っ てくる」と言う概念を、強固にしておく必要がある。 またこんな実験もある。 「タオルを拾い、タオルかけにタオルをかける」という行動には「タオルを拾う」と「タオルをかける」 と言う独立した二つの動作があり、一連の動作となっている。 この一連の動作を撮影して生後 10 ヵ月の赤ちゃんに飽きるほど見せる。 次に、背景も人物も消した真っ黒な画面に、人の動作を表す光点だけの映像を見せる。 そして、 「タオルを拾う」動作と「タオルを拾う」動作の繋ぎ目で映像を止めると、赤ちゃんは反応を示 さない。 しかし「タオルを拾う」動作の途中や、 「タオルをかける」動作の途中で映像を止めると、赤ちゃんはび っくりして目を疑うかのように映像を見直す。 つまり、10 歳程度の赤ちゃんでも、二つの行動が独立した行動であり、それぞれの行動には始まりと終 わりがあると言う事を理解している。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/231.wmv 野球とサッカーの中継でCMでも、野球は各回の始まりと終わりの間にCMが入るのでさほど気になら ないが、サッカーでゴールに迫っている時に突然CMに切り替わるとイライラしてしまう。 野球中継が盛り上がっている時に、放映時間が終了して見れなくなると、続きが見たい衝動に駆られる。 39 手足の発達 赤ちゃんの世界の認識や識別の結び付けは、運動能力の発達に比例して増えていく。 首が回らない時は、見えている物と聞こえて来る音、そして自分に触れる物だけの世界から、首が回る ようになる事で見える世界が広がり、手足が動かせるようになり触れる物も増えて行く。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/194.wmv また赤ちゃんは、手を使う前に足を使い出す。 時には、足で物を掴み口に入れたりするのだが、それも世界の確認作業である。 親として注意しなければならないのは「汚い」 「危ない」と言って、こうした行為を止めさせようとした り、「寒いだろう」と言う親心で、暖かい室内でも靴下を履かせたりする事である。 それは、赤ちゃんの五感からの刺激を減らす事になり、刺激による学習量の低下や神経結合の未発達が 懸念される。(飲み込みの危険がある物は予め置かない) そして「関連性に気付き、それを結び付ける」と言う事が、理解や思考の重要なベースとなる。 それだけに、この能力の成熟度がその後の人格形成に大きく影響してくる。 表情の読み取り 感情を読み取る力も「関係に気付き、それを結び付ける」事がベースになっている。 赤ちゃんが感情を読み取っているかを調べた実験がある。 生後 12 週間の赤ちゃんに 2 つのモニターを見せる。 一方のモニターには楽しげな表情が映し出され、もう一方のモニターには悲しげな表情が映し出される。 スピーカーからは寂しげな声か、楽しげな声のどちらか一方だけが流される。 映し出される映像は、唇の動きではなく感情を読み取る様に映像と音声はずらしてある。 この実験で、表情と声を結び付けているかの反応を見る。 モニターに母親の楽しげな顔と、寂しげな顔が映し出され、楽しげな声が流されると、赤ちゃんは両方 のモニターを見比べてから、楽しげな表情の画面を見る。 つまり母親の表情と声を結び付けている訳だ。 同じ実験を父親で行なうと、赤ちゃんは声と表情を結び付ける事が出来ず、興味を失ってしまう。 生後 15 週間の赤ちゃんでも結果はほぼ同じだが、他人の女性で行なうと、表情と声を結びつけられてい る。 そして生後 18 週の赤ちゃんで実験をすると、父親の表情と声を結び付けている。 ※ 参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/193.wmv こんな実験もされている 赤ちゃんとのコミュニケーションを突然止める実験 最初生後 5 ヵ月の赤ちゃんに、母親が赤ちゃんの目を見て楽しげに話す。 すると、赤ちゃんも楽しげにしているのだが、母親が一方的に無表情になり話をするのを止める。 赤ちゃんは笑ったり声を出したりして母親とのコミュニケーションを図ろうとするが、それでも母親が 40 反応しないと動揺し始める。 この実験で、母子のコミュニケーションには笑顔での対話が重要である事が分かる。 産後の鬱など精神的な疾患を患っていたり、子育てに悩みを抱える母親からは笑顔が消える。 笑顔が消えた母親に赤ちゃんは動揺し、動揺する赤ちゃんを見て母親は悩みを深めてしまう。 赤ちゃんに逆さまの母親の映像を見せた実験 最初、生後 6 ヵ月の赤ちゃんに、モニターを通して正位置の映像で赤ちゃんに笑って話しかける。 すると赤ちゃんは、モニターに映った母親の顔と声に反応して笑い出す。 次に、モニターの映像を逆さまにする。 すると赤ちゃんの表情は強張り、反応する事を止めてしまう。 つまり、上下逆さまのでは人の顔と認識する事が出来ないのだ。 この「上下逆さまの顔を見せる」と言う事をやっている母親は意外と多い。 ベビーカーに載せて上から覗き込んだり、ベビーベッドで頭の方から覗き込んだり、赤ちゃんから見て どう見えるかを考えずに、赤ちゃんをあやそうとしても、赤ちゃんは反応しない。 そして、赤ちゃんが笑わないと母親も笑うのを止めてしまう。(表情の模倣) 表情と声の調子を変えた実験 生後 6 ヵ月の赤ちゃんに、モニターで明るい声で笑いかけた映像を見せると、赤ちゃんは楽しく笑い出 す。 次に悲しい表情で、沈んだ声を出した映像を見せると、笑うのを止めて混乱した様子を見せる。 次に、楽しそうな表情で沈んだ声を出しても、赤ちゃんは混乱した様子を見せる。 この実験から、すでにこの時期には相手の顔と声の調子を結び付けて、相手の感情を理解している事が 分かる。 視線の実験 母親が、目を合わさずに赤ちゃんに話しかける。 すると赤ちゃんは母親の注意を引こうとするが、注意を引けないと動揺し始める。 この実験から、人と接する時に視線が如何に重要な役割をしているかがわかる。 それは、人間は視線を求める本能を持っていると言う事でもある。 心の病を理解する上でこれは非常に重要な事だと考えられる。 ※ 参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/196.wmv 本能では視線を求め、意識では人目を避ける、つまり本能と意識の解離状態が起きている。 視線の理解 赤ちゃんが他人の視線を追う事は、人間にとって非常に重要な能力である。 最初赤ちゃんは、母親を見る、母親から見られると言う一対一の関係を築く。 41 これを二項関係と言う。 二項関係では、母親が赤ちゃんから視線をそらして違う所を見ると、それは赤ちゃんにとっては関係の 途絶になってしまう。 しかし、赤ちゃんが母親の視線を追い、視線の先にある物を見る事が出来るようになると、同じ物を見 て、お互いに確認し合う事が出来る様になり、共通認識を持つ事が出来る。 これを、三項関係と言う。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/200.wmv 同じ物を見て、同じ問題を共有出来なければ、協力関係は生まれない。 この三項関係が、人間の社会性である「協力と分け合い」を身に付ける為の基本的な能力となる。 この三項関係を築き難い病に自閉症があり、社会性の備わっていない人に視線を合わせられない人が多 い。 この視線を追う事と同じ意味を持つ物に「指差し」がある。 この指差しも、視線と指の関係に気付き、それらを結び付ける事で学ぶ。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/205.wmv 三項関係は同じ物を見てお互いに確認しあう事なのだが、逆に他人が見ている物と自分が見ている物が 必ずしも同じではなく「相手が異なる視点で物を見ているかもしれない」と知る事も必要になる。 それを理解するには自ら動き回り、異なる視点で物を見る経験を積む事であり、自らが異なる視点で物 を見る経験を積む事で、他人が異なる視点で物を見ているかもしれない事に気が付く。 私はよくピラミッドに例えるのだが、ピラミッドを側面からしか見ていなければ、三角形でしかない。 しかし、真上から見れば四角形である。 同じピラミッドを見ていても、視点が違えば見えている形は違う。 側面からしか見ていない人は三角形と主張し、真上からしか見ていない人は四角形と主張する。 お互いに相手の見ている視点で見なければ、相手が見えている物を理解する事は出来ない。 赤ちゃんは移動する事で「視点が変われば見える物が変わる」と言う事を学び、それが他人を理解する 基礎となって行く。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/211.wmv そうした視点の違いも、観察を続け関連性を見出し、結び付けて行く作業の中で学んで行く。 最初は見えている世界の中で、動かない物と動いている物だった物が、自ら動く事により見える世界が 広がり、自分が動く事で見える世界が変わり、見える世界の違いから視点の違いを理解し、その視点の 違いと他人の存在を結び付けて、他人と言う存在の理解を深めて行く。 そうした観察の中で、他人の行いには故意と偶然がある事を見出して行く。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/210.wmv 逆に言えば、観察の量や関連性の結びつきが少なく、故意と偶然を見分ける基準値が曖昧であれば、故 意と偶然を見分ける能力も低くなると言う事でもある。 そして「危ない」と言う理由で、赤ちゃんの行動を制限していれば、こうした視点の違いの学習に支障 42 をきたす事になる。 そうした経験は、自我や知恵が生まれる以前に経験した方が、理屈としてではなく感覚として学ぶ為、 身に付き易い。 この三項関係を如何に発展させスケールアップして身に着けて行けるか? それがその後の人格形成の重要な要素となる。 他人の理解 赤ちゃんは最初、自分と他人の思考は同じだと考えている。 そして、観察と経験を積む事によって、自分と他人は違うと言う事を学んで行く。 他人を理解するには、自分の感情と相手の表情の読み取りが不可欠である。 赤ちゃんは、自分が「快」と感じる事は、相手も「快」と感じていると思っている。 自分が「快」と感じる事でも、他人が「不快」と感じているかも知れないと言う事を知るには、相手の 表情を読み取るしかない。 自分が「快」と感じる事に、他人が「不快」の表情を示す事を観察する事で、自分と他人は違うと言う 事を学んで行く。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/199.wmv こうした観察も「統計的確立」が重要になってくる。 自分と同じ傾向の人しか見ていないと言う事は、偏ったサンプリングを行なうと言う事であり、偏った サンプリングは誤差が大きくなる。 誤差が大きいと言う事は、基準値が変化すると言う事であり、基準値が変われば感じる世界も変わる。 最初に大きな誤差のあるサンプリングしてしまうと、 「平均」に近付ける為には、相反する大きな誤差の サンプリングをするか、サンプリングの数を増やすしかない。 それは、大きなストレスとなってしまう。 そうした事が懸念されるのが、学校の「少人数制」や「進学」。 授業の理解や学力の向上と言う視点から見れば、少人数制は有効なのだが、自分と異なる人のサンプリ ングを行なったり多様性を身に付けるには不向きである。 「進学」と言う世界を考えてみれば、家でも進学、学校でも進学、塾でも進学、異なる価値観と接する 機会が極端に少ない環境で育ってしまい、他の価値判を尊重出来なかったり、多様性が身に付いていな い為に、変化に順応出来なかったりする。 私が子供の頃は、1クラス 50 人、その 50 人のクラスが小学校では 5 組、中学校では 11 組あった。 小学校の頃は、皆が進学の事など考える事も無く、多様な価値観の子供が山のようにいた。 その中で、成績の良い子もいれば、成績の悪い子もいた。 成績の悪い子でも、一つの教科だけは誰にも負けない子もいれば、運動能力の良い子もいたり、多様性 に富んでいた。 そんな多様性に富んだクラスには、比較優位が働いていた。 43 しかし、少人数制で、進学一辺倒のクラスには絶対優位しか生まれない。 この「比較優位」と言う物を理屈ではなく、経験によって感覚として学べるのは子供の頃だけである。 この比較優位については第 4 章「社会性」で詳しく説明する。 性格の違い 生まれて間もない赤ちゃんにも性格がある。 兄弟であっても性格が異なり、親に育児経験があっても同じように育てられるとは限らない。 「お兄ちゃんやお姉ちゃんを見習いなさい」等は、子供の性格を考慮に入れていない大人の発言である。 子供の性格は、使う脳によって異なる。 「右脳人間」と「左脳人間」の違いである。 赤ちゃんの使っている脳が、右であるか左であるかによって、活発だったり、おとなしかったり、情緒 的であったりする。 本来、親は子供に合わせて育て方を変える必要があるのだが、育児書に書いてあるのは平均的な事であ り、性格の違いによる育て方や接し方の違いは書かれていない。 そして平均的内容を読み、自分の子供の性格を考慮せずに育児書通りに育てようとしてしまう。 性格を無視した育児は、親子双方にとってストレスとなってしまう。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/235.wmv ストレスの解消 ストレスが無い世界は存在しない。 ストレスを無くそうとしても、ストレスを無くそうとする事がストレスになってしまったりする。 ストレスは無くす物ではなくて解消する物である。 そしてストレスに強くなるように耐性を付ける事。 ストレスの耐性とは、何よりも経験を積む事。 人間は知らない事や経験していない事に不安や恐れを抱く。 逆に言えば、知っていれば恐れない。 子供の頃に多様な経験を積んでいればストレスに耐性が出来る。 人間は、何時頃からストレスの解消を学ぶのか? 人間には生まれ持ったストレス解消法がある。 それが「泣く」事や、叫んだり悲鳴を上げたり、大きな声を出す事。 感情により涙を流す動物は人間だけである。 それだけに「涙」は特別な役割を持った物と考えられる。 44 涙はストレス物質を体外に出す役割があり「泣いてすっきりした」と言うのは、涙を流してストレス物 質を対外に放出した結果、スッキリすると言う科学的根拠がある。 但し、生まれたての赤ちゃんが泣いていても、涙はほとんど出ておらず、大きな泣き声によってストレ スを発散していると思われる。 そして、涙が出るようになり手足が動くようになると、癇癪を起こした時など、手足をバタつかせたり、 物を投げたり、何かを叩いたり、暴れたりし始める。 親は、こうした行動に手を焼くのだが、これは動物的本能である。 本来ストレスとは、動物が敵と遭遇した時の臨戦態勢の緊張であり、戦うか逃げるかの場面に遭遇した 時の脳のプログラムだ。 その脳のプログラムによる攻撃運動や逃避運動と考えれば分かりやすいだろう。 もう少し単純化した言い方をすれば、ストレス要因の排除行動。 原因を打ち払うか、自分がストレスの前から消えるかである。 そうした動物的なストレスとは別に、人間には社会的ストレスがある。 ストレスのメカニズムとしては同じなのだが、動物的ストレスは明確な敵が存在するのに対し、社会的 ストレスは明確な敵は存在せず、自分の中で解消しなければならない精神的なストレスである。 赤ちゃんは成長に合わせて精神的ストレスを解消する術を身に付けていかなければならない。 その「成長に合わせて」とは、前頭葉の成長と言う意味でもある。 精神的ストレスを解消する為には、動物的ストレスから来る攻撃的衝動や、逃避的衝動を抑えた上で内 在するストレスを発散させる必要がある。 その衝動を抑えるのが前頭葉であり、前頭葉の発達していない子供には衝動を抑える事は難しく、前頭 葉の成長の度合いに従い抑制出来る事も増えて行く。 赤ちゃんは精神的なストレスの解消法を、最初は母親とのコミュニケーションの中に見出す。 赤ちゃんが泣く時は、何らかのストレスで泣いている。 その泣いている赤ちゃんを母親があやし、安心する事でストレスが解消される。 心が「不快」から「快」に切り替わればストレスは解消される訳だ。 その切り替え方法が「気を紛らわす」と言う方法であり、最初は母親にあやされて気を紛らわしていた 事が、自分から親に求めるようになり、やがて気を紛らわせればストレスが解消される事を学ぶ。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/234.wmv 問題は、自分から親に求めるようになった時に、何時までも親が相手をしてしまう事。 親が何時までも相手をしてしまえば、自分で気を紛らわす方法を見出す事が遅れてしまう。 また、せっかく見つけた気の紛らわし方を、叱ったり、させなかったりする親もいる。 例えば「お絵かき」 絵を描いていれば、気が紛れる。 それが、幼稚園から小学校へ行くと「絵ばっかり描いていないで勉強しなさい」 「遊んでばかりいないで 勉強しなさい」と、せっかく身に付けた気の紛らわし方を奪ったりする。 まだ前頭葉の発達していない子供が、身に付けた精神的なストレス解消法を禁止されれば、動物的な発 45 散方法になり粗暴になったりする。 そして、粗暴さも禁止されればストレスは溜まる一方になってしまう。 逆の場合もある。 食べる事でストレスを解消していた場合、過食症になる危険がある。 そうした場合は、依存症になる前にストレスの発散方法を他の方向へ向かわせる必要がある。 ストレスの原点は、 「敵と遭遇した時の臨戦態勢であり攻撃するか逃避するかのプログラム」と言う事を 考慮しておいた方が良い。 人間の攻撃とは? それは過去の戦争で行なわれてきた行為や暴動で行なわれる行為に見られ、破壊系、暴行系、放火系、 略奪系、レイプ系等の行動を行っている。 人間はこうした傾向でストレスを処理しようとする。 つまり、人間はストレスが処理されなければ、こうした行為に走りやすい側面を持っている。 ストレスが溜まっていたから放火したり、万引きしたり、ガラスを割ったり、通り魔になったりするの はこの為である。 攻撃対象が存在しない社会的ストレスの原因を攻撃しようとすれば、不特定な相手「誰でも良かった」 と言う事になる。 また親による虐待も「ストレスを与える物に対する攻撃」である。 自分の思い通りにならない子供にストレスを感じ、そのストレスに対する反応と考えれば分かりやすい だろう。 その逆もある。 子供による親の殺害も、ストレスを与える者の排除の色合いが濃い。 そうした人は、子供の頃は「良い子」だった場合が大半を占める。 「良い子」とは、親にとっての良い子であって、親の望む「良い子」を演じる子供はそれだけストレス を抱えている事を忘れてはならない。 もう一つ忘れてはならない物が「忍耐」である。 本来忍耐などは勝手に身に付く物なのだが、「快適な暮らし」が弊害となってしまう。 冷房も暖房も無ければ、暑さ寒さは我慢するしかない。 自然など「あがなえない相手」には、「仕方が無い」と諦めて我慢するしかない。 そんな中でも少しでも涼しい所を探したり、少しでも暖かい所を探したり、忍耐とストレスの解消の両 方を身に付けて行く。 しかし、冷暖房の効いた快適な家では、忍耐を別の形で身に付けなければならない。 それもまたストレスとなってしまう。 46 別離不安 別離不安は、生後 8 ヵ月頃から始まり、10 ヶ月から 18 ヶ月の間にピークを向かえ、それまでの間に確 かな愛着関係さえ築いていれば、その後半年の間に徐々に消えて行く。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/204.wmv 問題は、この時期に別離不安の解消が行なわれなかった場合だ。 この時期に別離不安の解消が行なわれないと、パーソナル障害やうつ病の要因を作る事になってしまう 事になりかねない。 何故この時期に別離不安の解消が行なわれなければならないのか? それは、この時期を過ぎると「自我」が芽生えて来る為である。 自我が芽生えていなければ、赤ちゃんが1人で過ごす時間を少しずつ長くして、慣らして行くだけだが、 自我が芽生え始めると、 「見捨てられる」と言う不安も芽生え始める。 自我が芽生える前であれば、単に「自分を守ってくれる親が見えなくなった」と言う不安で泣き、 「見え なくなった親が戻って来た」と言う安心で泣き止む。 それまでに「物体が視界から消えても存在し続ける」「物事には始まりと終わりがある」と言う概念と、 「ストレスの解消の習得」が必要になり、そうした概念を親に結び付けるだけなのだが、自我が芽生え 始めると、そこに「見捨てられる」と言う感情が生まれてしまう。 その「見捨てられる」と言う不安を克服する為に必要なのが、それまでに築き上げた愛着や信頼であり、 その愛着は「物体が視界から消えても存在し続ける」と言う概念を親と結び付けて「親が視界にいなく ても愛され、守られている」と感じる事である。 自我が芽生えるまでは喜怒哀楽と言った基本的な感情しか無いが、自我が芽生え始めると「自尊心」が 生まれ、自尊心の対極にある羞恥心も生まれる。 その自尊心や羞恥心は、生後 24 ヵ月までに生まれる。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/216.wmv 自尊心が生まれる前は「別離不安」だった物が、自尊心が生まれてからは「見捨てられ不安」に変わり、 自尊心が傷付く事になる。 こうした別離不安は犬にも見られ、子犬の時から飼い主と離れる時間に慣れさせておけば別離不安は解 消されるが、子犬の頃から常に飼い主と一緒にいた犬が、成犬になってから飼い主の都合で離れる時間 が増えると、犬も異常行動を起こし、抗うつ剤が必要になる事もある。 この別離不安は、自然界の動物に目を移してみると、何の訓練もせずに自然に習得している。 実は人間も本来自然に習得できる様になっているのだが、快適な生活環境を手に入れたために、自然に 習得出来なくなってしまったようだ。 それは犬や猫の子育てを見ていると良く分かる。 生まれたばかりの赤ちゃんは、目も開かず歩く事も出来ない。 そして母親の乳首を探して乳を飲み、乳を飲んだら寝ている。 母親は、子供が寝ている間に餌を探したり食べたりする時に子供から離れる。 47 母親が離れている時に子供が目覚めても動けない。 しかし待っていれば母親は帰ってくる。 そして、歩けるようになると自ら母親から離れて遊ぶ。 そこに有るのは興味津々の「好奇心」 その好奇心が、母親から離れた不安を消している。(好奇心と言う気の紛らわし方) 運動能力が上がると行動範囲も広くなり、親と離れている時間も長くなり、やがて親離れの時期を迎え る。 人間の赤ちゃんの別離不安が出る時期は、ハイハイが出来る時期と重なる。 ハイハイで移動出来るようになれば、親と離れても好奇心が別離不安に勝り、自然に習得出来るのだが、 「危ない」と言う理由で親がそれを許さない。 この「危ない」事を経験する事も必要な事である。 危険認識 親は、子供に危ない事をさせない、危険から遠ざけようとする。 子供を思う親心としては当たり前なのだが、危険を経験する事は子供の成長にとって必要なプロセスで ある。 人間も動物であり、太古の昔から文明社会で生きて来た訳ではない。 どんなに文明が発達しても、動物としての本質は変わらない。 動物が自然界で生き抜く為に必要な事は危険認識であり、先のストレスも危険に対する対処である。 この危険認識の延長に空間認識や他人との距離感が生まれる。 赤ちゃんは生まれてから様々な危険を経験する事で、危険を認識し自ら危険を避ける。 この危険認識について面白い実験がある。 赤ちゃんは「お座り」が出来るようになると、近くの物を取ろうと手を伸ばす。 手を伸ばしてバランスを崩して倒れる事で、どれだけ手を伸ばせばバランスを崩すかを学ぶ。 すると、バランスを崩す所にある物は取ろうとしなくなる。 生後 9 ヵ月のハイハイが出来るようになって日が浅い赤ちゃんを台の上に座らせ、別の台におもちゃを 置く。 そして台を少しずつ離して行く。 台を離せば、台と台の間には転落する隙間が出来る。 赤ちゃんは、手の届く所ではおもちゃを取ろうとするが、バランスを崩す距離になると手を伸ばす事も しない。 それは、転落する隙間が危険である事を認識していると言う事だ。 その赤ちゃんにハイハイで同じ様に隙間を空けて実験してみると、お座りの時には危険と認識していた 隙間に落ちてしまう。 しかし、一度経験すれば二度目からは危険を回避しようと別の方法を探そうとする。 ハイハイで習得した危険認識も、つかまり立ちになると、危険と認識出来ずに落ちてしまう。 48 赤ちゃんは視覚だけでは世界への理解は深まらず、それらを体験しなければ危険性を理解出来ない。 一度認識した危険でも、目線が変わるとそれを危険と認識できず、覚え直さなくてはならないのだ。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/201.wmv ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/202.wmv 大切なのは、自分の意思で移動しようとする気持ちがあって、初めてそれが学習に繋がると言う事だ。 親は子供を「危険」から遠ざけ、言って聞かせようとするが、それでは危険に対する認識が深まらずに 育つ事になり、自ら危険を回避する能力が育たない。 そして、小さい時ほど親の目は届き易く危険度も小さいが、成長するに伴い行動範囲が広くなり危険度 も増してくる。 小さい時から危険認識を積み上げていれば、成長して目が届かなくなっても多くの危険を自己回避出来 るようになるが、経験が少なければ危険に気付かずに大きな危険に遭遇してしまう可能性が高くなる。 そして、自ら経験し克服する事で思考や自尊心が育ってくる。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/213.wmv この危険認識は、距離感や空間認識にも多大に関係し、社会性にも大きく影響して来る。 人間は自分の体を物差しにして、自分が動く事で距離を計り「距離感」を身に付け、その距離感を元に 空間を認識している。 その物差しのスケールは成長と共に変わる。 子供の頃に大きいと思っていた物が、大人になって改めて見ると、さほど大きく見えなかったりするの はその為である。 「脳の成長と発達」で書いた「3 歳で視力を失った人」が 40 年後に視力が戻っても、見えている物を認 識する事が出来ない理由もここにある。 3 歳の体のスケールで計った世界と 40 年後に見えた世界は全く別物で使い物にならない。 また距離感や空間認識はコミュニケーションにも深く関わって来る。 他人にどれだけ近付いても大丈夫なのか?その物理的な距離や精神的な距離は? 空間の中の自分の存在や、社会の中での自分の存在は? そうした距離感や空間認識もこうした事の延長にあり、生涯こうした事を繰り返して、頭の中の地図を 書き換えて行く。 親は子供の安全を口にするが、本当に子供の事を思って言っているのだろうか? 子供の事が心配なのは分かるが、自分が楽をして安心したい為に子供の行動を制限しているだけなのか 考えてみた方が良いと思う。 また、危険を体験して「痛み」を感じる事も、必要な経験である。 痛みを知らない者は、他者の痛みを理解出来ない、つまり共感性が育たないと言う事にもつながる。 親は子供を危険から遠ざけようとする。 しかし、最も危険なのは危険を知らずに育った子供である。 人間は、自ら危険を経験しなければ、それが危険であると認識できない。 49 親は子供に「言って聞かせれば分かる」と思いがち。 しかしそれは大間違いである。 人間は、見るなと言われれば見たくなり、行くなと言われれば行きたくなる動物である。 「あそこは危ないから近付いては駄目」と言われれば「何があるのだろう?」と好奇心が湧き知りたい 衝動に駆られてしまう。 危険を理解する為には、小さな危険体験の積み重ねが必要である。 初歩的な危険認識は、体を動かせるようになった時から始まる。 座る事ができるようになり、遠くの物を取ろうとして、バランスを崩して倒れる事で一つの危険を学ぶ。 ハイハイが出来るようになって、段差から落ちればまた一つ危険を学び、熱い物を触って火傷をすれば また一つ危険を学び、走って転べばまた一つ危険を学ぶ。 危険を学ぶとは、自ら行動して痛い思いや怖い思いをする事である。 痛みや恐怖が伴わなければ、危険を想像する事も出来ない。 危険の重要性はこの先にある。 例えば木登り。 木に登ろうとして、落ちて痛い思いをして一つの危険を学び、再びチャレンジしてまた落ちる。 そして木に登れるようになった時、誇らしげな気持ちになる。 それが「自信」である。 自転車も、何度も転びながら練習をして、自転車に乗れるようになった時、達成感を感じ、それが自信 となって行く。 子供は、危ない事や痛い事を克服して、やり遂げる事で人間としての自信を深めて行くのである。 小さな自信の積み重ねなくして大きな自信は得られない。 自己認識と空間認識 赤ちゃんは移動出来るようになり、様々な危険を経験しながら自らの意思で移動し、感覚器官で確認す る事によって、世界(空間)を認識して行く。 そして、その空間の中で自分の存在を認識して行く。 こんな実験が有る。 ショッピングカートにバスマットを結び付けて、歩き始めた赤ちゃんに押させる実験だ。 生後 15 ヵ月の子供に、最初に研究者バスマットをたたんで押して見せた後、子供にショッピングカート を押させてみる。 しかし、自分がバスマットの上に乗って押そうとする為、ショッピングカートは動かない。 思うように動かせないと欲求不満のしぐさを見せたりする。 生後 16 ヵ月の子供に同じショッピングカートを押させると、原因を調べようとする。 50 しかし、バスマットが原因である所までは気付くのだが、バスマットに乗っている自分が原因である所 までは気付かない。 この頃の子供はまだ、自分の存在する空間の中にある「自分と言う存在」を認識していない。 同じ実験を生後 18 ヵ月の子供に行うと、直ぐに自分が原因であることに気付き、バスマットから降りて 押したり、バスマットをたたんで押したりする。 それは、空間の中の自分の存在を認識していると言う事だ。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/206.wmv こんな実験もある。 人間サイズのおもちゃで遊ばせた後、同じ形のミニチュアと取り替えてしまったら、子供達はスケール の違いを自分とどう関連付けるのか? 2 歳半の子供に、最初人間サイズの自分が乗れる車、滑れる滑り台、座れる椅子などのおもちゃが沢山あ る部屋で遊ばせる。 楽しく遊んだ後に、部屋のおもちゃをすべてミニチュアサイズに取り替えてしまう。 実験を行うと、子供はそのおもちゃで遊びたいとの欲求が強すぎるあまり、おもちゃの大きさと自分の 体の大きさの違いを無視して人間サイズのおもちゃと同じ様に遊んでしまう。 数十センチの車に乗ろうと足を突っ込んで見たり、小さな椅子に座ろうとしたり。 この実験から研究者は「この年齢では子供達の大きさの感覚は不安定で、体に対する知覚は時として感 情に押し切られてしまう」と結論付けている。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/236.wmv これはサイズが変わった物にどう対処するか?の実験だが、人間サイズの事をミニチュアサイズに適用 させたり、ミニチュアサイズの事を人間サイズの世界に適用させられるか?と言う実験もある。 2 歳半の子供の見ている目の前で、ミニチュアサイズの部屋の中のソファーの下に物を隠し、それを人間 サイズの部屋に適用させられるか? 3 歳児では出来ていた事が、2 歳半の子供では人間サイズの部屋には適用させる事は出来なかった。 そこで、物を小さくしたり大きくしたり出来る機械と称して仮想機械を使い、その機械の前に人形を置 き、子供の見ていない時に大きい人形と小さい人形を入れ替える。 すると子供は機械の力で人形が大きくなったり小さくなったりすると思い込む。 その経験をさせると、適応させる事が出来るようになった。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/214.wmv これは子供の頃に学ぶべき事で、大人は皆クリアーしている・・・と言う訳でもなさそうだ。 空間の中の自分と言う存在、その感覚の発展型が「社会の中の自分」と言う感覚である。 「社会が悪い」、しかし「自分もその社会の一部」。 更にその先には「自然の中の自分」 「自然の中の人間」、「人間も自然の中の一部」と言う感覚もある。 社会が悪い、しかし自分もその社会を作っている一人である。 それは、自分がマットの上に乗ってショッピングカートを押している子供と変わらない。 自然破壊や環境問題もその延長である。 51 自分達が原因と分かっているのに、マットから降りようとはしない。 そして、ミニチュアサイズに変わっても人間サイズの玩具と同じ様に遊んでしまう子供のように、自然 環境が悪化している事は分かっているのに、止めようとはしない。 心の問題に話を戻そう。 「危険認識」で書いた様に、人間は自分の体を物差しにして、自分が動く事で距離を計り「距離感」を 身に付け、その距離感を元に空間を認識している。 他人との心の距離もその延長にあり、多くの人と接する事で自分と他人の心の距離を測り、人間関係の 相対的認識を作り上げて行く。 多様性のある人間関係は立体的な人間関係の認識を作り、画一的な人間関係は平面的な人間関係の認識 を作ってしまう。 そして、仮想機械を使った実験の意味の重要性に気付く事だろう。 妄想を伴う心の病を持つ人に、説得はさほど効果は無い。 仮想機械を使って「導く為の経験」を積ませれば、妄想は自然に消えて行くのだが、そうした事を親が 理解出来ない場合も多い。 利他行動と社会性 模倣による習得 赤ちゃんは大人のする事を模倣して学んで行く。 最初は表情、そして身振り手振り、そして言葉。 これらはコミュニケーションに不可欠な物であり、大人を模倣して学ぶ。 子供は大人の模倣をして遊び、その時に「交代で遊ぶ」と言うルールも学ぶ。 それは、そのまま会話にも応用され、会話をする為の基礎となる。 会話も他者同士が会話を交わすのを観察し、会話はキャッチボールである事を学ぶ。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/215.wmv つまり会話も模倣で学ぶと言う事である。 逆に考えると、模倣の対象となる人がいなかったら? 例えば、両親と子供が1人の 3 人家族、父親は仕事で帰りが遅ければ、母親と子供の会話だけになり、 子供が他者の言葉のキャッチボールを観察する機会が少なくなる。 それでは三項関係をスケールアップさせる為に必要な経験を得られない。 また、母親が子供と遊ぶ時に「役割の交代」にと言う要素を入れて遊ばなければ、遊びの中で「交代」 を学ぶ事も出来ない。 子供におもちゃを与えて勝手に遊ばせておけば良いと言う物でもないのだ。 それが、家庭学習である。 52 共同作業 人間は他の動物と違い、利他行動をする動物であり、利他行動は社会性の基礎になっている。 その利他行動を、赤ちゃんは共同作業から学ぶ。 利他行動の基礎は「親からされて心地よい」と思った事を親に返す事とされる。 その延長に「親と同じ事をして喜びを感じる」と言う事がある。 子供は 2~3 歳頃になると、家事の真似事など親の模倣をし、親と一緒に家事をしたり家業を手伝ったり、 親と共に行動する事によって信頼関係を深めて、共同作業に喜びを覚えて行く。 子供は共同作業の中で「任す」 「任される」と言う協力関係や信頼関係を学び、協力は一方通行ではなく、 自分からも協力を求める事が出来る事を知る。 この「任す」「任される」の関係は「交代」の概念と基を同じくする。 それは「助ける」 「助けられる」「求める」「求められる」等の相互関係にも応用される。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/207.wmv 問題は、この時期に「自分からも協力を求める事が出来る」と言う事を、どれだけ学べるかである。 家族とは、社会の最小単位である。 例えば、親が家事をする時、子供が協力を申し出ても、親が手伝わせなった場合「自分から協力を求め る事が出来る」と言う事を学べない。 家族の中で学べなければ、他人に適用させる事も困難になってしまう。 私は、子供には家事の役割を与える事が必要であると考えている。 昔は、子供に兄弟の面倒を見させたり、親の仕事を手伝わせたり、子供に家庭の中での役割を与えてい た物だ。 家庭の中で役割を担う事で、共同作業をする家族の一員との自覚を深め、家族を信頼し、家族から信頼 される経験を積む事で、他社との信頼関係の構築を学んでいた。 今では、子供に仕事をさせると勉強の妨げになると言う意識が強く、家事をさせない親が増えている。 社会の最小単位である「家庭」で学ぶと言う事は、より大きな社会の中での自分を認識する礎となる。 子供は社会性を、小さな事から大きな事へ、ミクロからマクロへスケールアップさせて身に付けて行く。 経験も積まずに、いきなり身に付けられる物ではないのだ。 先の空間認識でミニチュアサイズと人間サイズを適応させる事が出来れば、ミニチュアサイズで得た経 験を人間サイズに反映させている様に、家庭内で学んでいれば大きな社会へ出ても適応し易いが、家庭 内で学んでいなければ難しくなる。 親としては、掃除や料理などを、覚えていない子供に手伝わせれば失敗も多く、母親としては1人でや った方が手間もかからず効率が良い。 しかし覚えてくれれば手間が減り効率は上がる。 この当たり前の事を学ぶ事が如何に重要な事か。 失敗しても根気よく教え、出来る様になれば褒める。 親は出来るようになった子供に信頼を与え、信頼を与えられた子供は自尊心や自信が付く。 53 それが社会性の基礎になる。 こうした経験が人間力となり、社会に出て仕事をする時に重要になって来る。 こうした事が出来る人は、有能な部下を育てる事が出来る人、有能な部下を育てられれば業績を上げら れる。 こうした事が出来なければ、有能な部下を育てられず、人に任せられずに、仕事を背負い込み、手が回 らなくなったり、ミスが多くなったりしてストレスを抱えやすくなり、それは精神疾患を発症する要因 でもある。 家事などを手伝わせる時、最初の頃は「一緒に作業する」事を心がける。 そして、ご褒美は出来る限り与えず、上手く出来たら褒める事を心がける事が望ましい。 ご褒美は労働の報酬としての対価であり、それはそれで大切な事なのだが、労働の報酬を得る喜びを教 える前に、 「共に働く喜び」「共にやり遂げた達成感」を学ばせた方が良い。 こうした価値観次第で、心の病を発症しやすくなったり、発症し難くなったりする。 鬱病など、心の病の発症の一つの要因に「孤立化」がある。 人間は本能的に人と繋がりを求める。 世の中に仕事が溢れていれば、さほど問題にはならないだろうが、不況等で仕事がなくなった時、労働 に対する対価や労働のイメージに重きを置けば仕事は見つかり難く、人との関わりも薄れて孤立化の原 因になる。 また、労働その物に価値を見出せば、仕事を選ばず仕事も見つかり易く孤立化は避けられる。 共同作業の喜びを知っていれば、仕事に「快」を感じる為にストレスを感じ難く、共同作業の喜びを感 じられなければ「快」を感じずストレスを感じ易い。 しかし、そこには落とし穴もある。 脳が「快」を求めると、頑張ってしまう。 精神的にはストレスを感じ難くても、疲労は蓄積される。 体に疲労が溜まっても、疲労感を感じなかったりする事がある。 そうした場合、疲労感にマスクがかかった状態であり、十分に休息を取るとマスクが外れて疲労を感じ る事もあるのだ。 そうした場合、肉体疲労は減少しているのだが、マスクにより疲労感を感じていなかった為に、マスク が外れると疲労が増したような錯覚を覚える。 疲労感が出ると、気力の低下を招き易くなるので、疲労を感じていなくても定期的な休息を心掛ける事 が必要である。 自制の習得 社会性を身に付けるために必要な物、それが自制心。 自制の能力は年齢と個人の成熟度によって左右される。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/209.wmv しかしこの「自制心」の原点にある物は「他人の目」である。 54 私は、年齢と個人の成熟度によって左右されると言う事は、 「思考の始まり」で書いた「物体が視界から 消えても存在し続ける」と言う概念と「他人の目」の結び付きの強さであると解釈している。 早い話が「誰も見ていないと思っていても、お天道様はいつも見ている」と言う感覚だ。 その結び付きは、個々の経験知の量と質により異なると考えている。 抽象的な例えになるが、親や他人の目の届かない所でした事が、親や他人の知ると事となった時「褒め られる」事が多かったか「叱られる事」が多かったかの違いで変わって来る。 褒められる事が多ければ、衝動を抑える原動力は「快」になり、叱られる事が多ければ衝動を抑える原 動力は「不安や恐怖」になる。 同じ「自制心」でも、原動力が「快」であればストレスは溜まり難く、原動力が「不安や恐怖」であれ ばストレスは溜まり易くなる。 しかし、何でもかんでも褒めれば良いと言う訳でもない。 褒めてばかりいれば慣れてしまう、褒められる事に「快」を感じる為には「不快」を感じる事も必要だ。 親は、悪い事は多少悪くても叱るが、良い事は多少の事なら「当たり前」として褒めなかったりする。 親は、そうした事に気を付けた方が良い。 協力と分け合い この「協力と分け合い」こそが、人間の社会性の基礎であり、協力と分け合いは「相手を信じる事」に より成り立っている。 その「相手を信じる」と言う事の基礎にあるのが、親子の「愛着関係」であり、愛着関係が結ばれずに 育った場合、他人を信じる事が困難になり、人を信じられなければ社会性は失われる。 子供は、親子関係の中で「協力と分け合い」の基礎となる共同作業と信頼関係を学び、他者との遊びの 中で応用して発展させて行く。 最初に必要な遊びが「ごっこ遊び」である。 「ごっこ遊び」は、大人の模倣をして遊びの中で社会性を身に付ける為の学習であり、 「ごっこ遊び」と 言うミクロな経験を積んでいなければ、社会に適応する事が困難になる。 また、昔ながらの子供の遊びには「協力と分け合い」を習得する為に必要な要素が含まれていた。 それが「かわりばんこ」つまり「交代」である。 「鬼ごっこ」「かくれんぼ」「カンけり」などの昔からの遊びにはこの要素が含まれている。 それが「鬼」であり、誰かが「鬼」をしなければ遊びが成立しない。 「鬼」を交代で行う事で、参加する子供全員が遊びを楽しむ事が出来る。 面白い実験がある。 2 歳の初対面の 2 人の子供に同じおもちゃを与えると、2 人は没交渉のまま遊ぶ。 次に、顔に目や口などのパーツを差し込み、顔を完成させて遊ぶおもちゃを使って実験する。 1 人には複数のパーツを与え、1人には顔の土台を与える。 55 顔のパーツは数が多いがそれぞれが小さく、顔の土台は一つだが大きい。 子供はそれぞれに与えられたパーツを見比べ、顔のパーツを与えられた子供は、大きな顔の土台を欲し がり、顔の土台を与えられた子供から奪おうとしたりする。 そこには共同作業という概念は無く、単に大きい小さい、損か得かの概念しかない。 そして、大人が遊び方を教えると、協力して遊び始める。 次に、3 歳の子供で同様の実験をすると、大人が教えなくても一人が土台を支え、もう 1 人がパーツを差 し込み、大人が教えなくても協力して遊ぶ。 つまり、初歩的な他者との協力は 2 歳から 3 歳の間に学ぶ事が分かる。 (他者と遊んでいなければ身に付 かない) 次にこの 2 組の子供に、 「一つしか無いから交代で使って」と言い、三輪車を一つだけ与える。 するとどうなるだろうか? 2 歳児の場合、まずは早い者勝ちで、乗り遅れた方は欲求を抑えようと三輪車の周りを歩き回る。 乗り遅れた子供の順番が来ると、先に乗っていた子供は癇癪を起こして泣き叫ぶ。 自分の順番なのに、隣で泣き叫ばれ楽しく無く、やがて降りてしまう。 2 歳児では、まだ分け合いの精神が育っていない。 また、この実験のような、自分の番が回ってきても、隣で泣き叫ばれたら楽しめないと言う経験をする 事も、協力と分け合いを理解する為には必要なのだろう。 共同作業を習得していた 3 歳児も、最初は早い者勝ち。 乗り遅れた子供は、声援を送りながら見ているが、暫くすると交代を要求する。 すると、最初に乗った子供は自分の所有権を主張するのだが、共同作業の概念も身に付いている為、譲 ろうとはせずに、乗り遅れた子供を後ろに乗せようとする。 しかし 2 人で乗ろうとすれば操作が困難になり、やがて後ろに乗った子供は降りてしまう。 これは、自分が楽しみ続けたいと言う欲求を抑えられず、自分の欲求を満たしながら共同作業を行なお うとする行為である。(未熟な分け合い精神) ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/208.wmv 親が注意しなくてはならないのが、子供がこうした行動を取った時に褒めてしまう事だ。 親は、後ろに乗せようとする子供の行為を「やさしさ」と見間違い、往々にして褒めてしまう。 しかしそれは、自己抑制の未熟であり、未熟な分け合い精神である。 この自己抑制の未熟を招く物が「TV ゲーム」である。 TV ゲームには分け合いの概念が無く、自分の欲求を満たしながら他者と遊ぶ為、遊びの中で自己抑制を 学ぶ事が出来ない。 子供に TV ゲームをさせる場合は、親はこうした事を念頭に入れ、子供を観察しながら適切な指導をし た方が良い。 56 3 歳児神話との違い 日本には 3 歳児神話と言う物があるが、ここで書いた成長とは基となる物は同じだが、全くの別物であ る。 3 歳児神話とは「3 歳までは母親の手で育てるべき」と言う考え方で、3 歳児神話は日本独自の考え方で ある。 しかし、アメリカを初めとする海外でも、3 歳児までの重要性は指摘されている。 同じ物のように思えるが、これは似て非なる物である。 一番の違いは、アメリカなどの 3 歳児説は、科学的研究に基づいているが、日本の3歳児神話は科学的 根拠を全く考慮していない所である。 日本人の悪い所は、1 を見て 10 を語る所にある。 3 歳児神話は、第二次世界大戦後イギリスの精神科医ボウルビィが、WHO の依頼で戦争孤児や施設で育 った子供の精神衛生を調査した報告書を基にしている。 その報告書では「子供には、母親、あるいは生涯母親の役割を果たす人物との愛情に満ちた関係は必要 な事」それが失われると、子供の心身の発達に影響を及ぼす事が書かれており、いつその関係を失った かの比較で、3 歳以前にその関係を失った子供により悪影響が出やすいと書かれていた。 ボウルビィの報告は世界中の子育てに影響を与えて行った。 しかし、日本では報告書の中の「母親」だけが強調され、時代背景も重なり子育てを母親に押し付ける 事になる。 問題は「母親」と「3 歳」と「愛情」だけになってしまっている事。 その為、「3 歳までは母親が一緒にいて育てる」と言った考え方になってしまった事である。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/245.wmv 「成長」で書いている内容を読めば、それは正しくもあり間違いでもある事が分かるだろう。 そう「別離不安」の解消以降である。 「顔の認識」に示した表のように、母子関係は密着から始まり、赤ちゃんの成長に伴い徐々に距離が離 れて行かなければならないのだが、 「3 歳までは母親が一緒にいて育てる」と言う画一的な考えの場合、 別離不安の解消の時期を逸してしまう可能性が高くなってしまう。 また、女性の社会進出が進むと、3 歳児神話は女性の社会進出を阻む物とみなされ、根拠が無いとして否 定される。 そこには、世界中で行われている子供の成長に関する研究が反映されず、一括りにして否定してしまう。 アメリカなどの諸外国では、そうした研究を基にして 3 歳までの育児指導も有ると聞く。 人間は、文化的な生活を求めるあまり、人間の生態を忘れてしまっているのかもしれない。 どんなに文明が発達しても、人間の生態は急激には変わらない。 生態を無視して、自分の都合だけで子育てを行えば、その影響は子供に出てしまい、子供の影響は孫や 曾孫、子々孫々まで及びかねない。 57 それは決して過言ではなく、現実に起きている。 心に病を持つ相談者の母親も心に病を持ち、その母親も同じ様に心に病を抱えている場合が多い。 逆に見れば、祖母から孫まで心の病の連鎖が続いている。 一見、遺伝のようにも見えるのだが、幼少期の経験は類似しているのだ。 親が経験していなければ、どんな経験が足りないのかを自覚する事も無い。 親にしてみれば、自分は普通としか考えられず、当たり前の事としか思わない。 そして気付かぬまま、同じ様に子供に接してしまう。 その連鎖は、心に病を抱える人の子育てを見れば分かる。 その連鎖を断ち切る為には、成長と言う物を理解して育てる事が重要だと考えられる。 自然から学ぶ育児 農業と育児、全く関係が無いように思える両者だが、この農業に教育の過ちが見える。 「奇跡のりんご」と呼ばれる自然農法で作られた林檎がある。 従来農法で付くたれた林檎と、自然農法で作られた奇跡の林檎。 それはまるで、育児や教育の問題や有るべき姿を見ているようである。 林檎は外来種の植物で、日本の湿度に弱い為、虫や病気に極端に弱く、農薬は欠かせない。 その林檎の無農薬栽培に取り組んだ人がいた。 最初は、減農薬から初め 13 回撒いていた農薬を 5 回に減らした。 5 回に減らしても品質、収穫量共に変わらず農薬代が浮いた為収益は増えた、翌年は 5 回を 3 回に減ら した。 3 回に減らしたら収穫量は落ちたが、さらに農薬代が浮いた。 その翌年は 1 回に減らした。 多少病害虫の被害は出たが、林檎は無事収穫。 そして完全無農薬。 しかし、無農薬にすると病害虫に悩まされ、収穫出来なくなった。 試行錯誤を続けるが一向に成果は上がらない。 村人からは馬鹿にされ、収入も無い為家族は貧困生活。 数年続けても収穫できず、思い余って自殺しようと山へ入る。 その時、ある事に気付く。 自分の畑の林檎の木は枯れているのに、山の木は元気に育っている。 山の土はフカフカ。 その山の土を持ち帰り、自分の畑の土と比べて見た。 すると、匂いも成分もすべてが違う。 そこで、自分の畑の土を山と同じ様な自然の状態に近付けようと考えた。 草を刈らず、農薬も撒かない。 58 すると、林檎の木を取り巻く環境が変わり始める。 草は夏に刈り、刈った草を畑の上に寝かせる。 すると、微生物が草を分解して植物の養分になり、微生物も増える。 草を刈らずに自然の状態にする事で、多様な生物が集まってくる。 害虫を食べる天敵も集まってくる。 自然の状態に戻す事で、不可能と言われた無農薬が成功したのである。 逆に失敗していた理由は、草刈等はして農薬も使わなかった事。 つまり、無農薬ばかりに気をとられて、自然の循環まで気付かなかった事だろう。 そしてその林檎は、従来農法で作った林檎に比べ、美味しいだけではなく腐り難い林檎が実っている。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/251.wmv この奇跡の林檎を踏まえて、松枯れを考えて見よう。 松枯れは、松食い虫が原因とされている。 その為、農薬の空中散布が行われている。 しかし、30 年行っても一向に松枯れは無くならない。 その松枯れの原因に異を唱える人がいる。 その人は、松枯れの原因は松食い虫が原因ではなく土にあると言う。 そもそも松食い虫は、弱った松や枯れた松を食べる。 枯れた松を食べて糞にする事で、自然に還元していると言う。 松枯れを起こした松に、松食い虫がいたから松食い虫が原因だと思い込んでいると言うのだ。 自然のサイクルや、奇跡の林檎の例を見ると私はこの説の方が正しいように思う。 自然に還元するメカニズムとしては、糞がそのまま養分になるわけではない。 糞には消化し切れずに排泄される物が多い。 その消化し切れなかった糞を、より小さい虫が食べて更に細かくして排泄、それをバクテリアが更に分 解して植物が吸収しやすい栄養素に変わる。 奇跡の林檎は、このサイクルを取り戻す事で無農薬を成功させている。 農薬の散布は、虫やバクテリアを殺して自然のサイクルを壊してしまう。 人間の腸でも様々な細菌の力を借りて栄養を分解吸収いる。 この奇跡の林檎と、松枯れは、そのまま人間の育児や教育に重なって見える。 今の育児や教育は従来農法で作った林檎、私が育った頃の育児や教育は自然農法の林檎の様に思える。 そもそも林檎も自然の中で発生した生命であり、自生していた頃は農薬等使っていない。 農薬が必要なのは、農薬が必要な状況に人間がしてしまったからだろう。 私は昭和 34 年生まれ、昔の教育から今の教育への変化を見て来た世代である。 昔は色々な遊びがあった。 メンコ、ベーゴマ、おはじき、ビー玉。 私の世代はそれらの遊びが次々と禁止されて行った時代でもある。 59 禁止の理由は「ギャンブル性」 対戦して勝ったら相手のメンコやベーゴマを貰うと言うルールにギャンブル性があると言って禁止。 しかし、そうした遊びでしか学べない要素もある。 勝ったら嬉しい、負ければ悔しい、だから勝てるように練習したり研究したりする。 つまり、自ら「努力」したり「思考」したり、そうした事を誰にも言われる事も無く自発的に行う事で、 「自律心」が生まれる。 それは遊びの中で「嬉しい」「悔しい」と言う感情や「自律心」も学んでいるのである。 「禁止」はその後も続いて行った。 フラフープは、腸捻転になる恐れがあると言って禁止、漫画は教育に良くないと親が読ませない。 勉強する時間が少なくなると言って遊ぶ事すらも制限され、公園の遊具は危険だからと撤去されて行っ た。 それは、枯れた松に松食い虫がいるから、松枯れの原因は松食い虫と思い、農薬を散布しているのと同 じ気がする。 松食い虫原因説は、今でも健在で土壌説は異端説である。 奇跡の林檎でも、雑草は悪い、害虫は悪い、その悪い物を駆除して、人間が林檎の育ち易い環境を作ろ うとした結果、農薬無しでは実らない脆弱な林檎に育ててしまっているのではないだろうか? そして、その為に大量の農薬を使い、その経費がかさむ。 人間も同じではないだろうか? 「少人数のクラス」 それは、土を肥やす虫や微生物が少ない土と同だ。 そこに多様性は生まれない。 クラスの人数が多ければ、一つにまとまる事は難しくなる。 クラスの中では色々なグループが出来る。 頭の良い子のグループもあれば、頭の悪い子のグループも出来る。 絵が好きな子のグループも出来れば、スポーツ好きな子供のグループも出来る、 それは、属するグループの選択肢が増えると言う事でもある。 「いじめ」を無くす事も「奇跡の林檎」と同じ事のように思う。 いじめと言う問題は、いわば害虫や病気。 いじめを無くそうとする事は、農薬を使って害虫や病気を押さえ込もうとするのと同じ。 それは、自然のサイクルを壊し、脆弱な林檎の木を作っているのと同じで、ひ弱な人間を作っているの ではないだろうか? 幼稚園や小学校、少人数ではなく大人数のクラスになれば、一つにまとまる事は難しい。 難しいから子供同士の衝突が起きる。 なるべく幼い時期に人と衝突し、自分達で問題の解決を図る経験が必要なのだと思う。 幼い時は問題も単純で、修復も容易である。 それが年を経る毎に色々なしがらみも増えて複雑になって来る。 ミクロの経験が無ければマクロに応用する事は出来ない。 60 小学校の低学年から高学年になる時期に、自尊心がプライドに変わる。 別離不安の解消が自我の芽生える前に解消する必要があるのと同じように、他者との問題解決も自尊心 がプライドに変わる前に経験を積まなければプライドが邪魔をして学び難くなる。 人生の壁とは、自分に足りない物、自分が身に付けて来なかった物の事である。 自分に足りない物があるから壁がある。 足りない物に気付き身に付ければ壁は無くなる。 幼い頃に、より多くの障壁に遭遇し、克服経験を積めばストレスに強くなる。 ストレスとは、いわば不安である。 不安を抑えるのは自信である。 自信を持っている事に、人は不安を覚えない。 その自信は経験によって作られる。 自信のプログラムを組むとするなら、こんな数式になるだろう。 一つの小さな経験を a とする、a の成功体験を a+、失敗体験を a-とする。 そして、a の経験の数を x として、a の自信を a’ とすると次の公式が出来る。 a’ =(a+× x)-(a-× x) しかし、これではまだ「スモール(小さな自信) 」で「ラージ(大きな自信)」ではない。 A(ラージ)にするには、a に関連する自信が必要になる。 a に関連する経験を b,c,とすると、それぞれに b の自信、c の自信・・・が必要になる。 a は失敗と成功、b はリカバリ、c は異なる立場での経験、ラージにする為には A=a’ +b’ +c’ になる。 しかし、それはあくまでも a とその発展系の経験である。 a の系統とは異なる系統の経験が、d、f・・・・と有り、その異なる系統の経験もラージにしなければな らない。 異なる経験もラージになれば、b や c もラージになる。 例えば、A をコミュニケーション能力とすると、b は関係改善になる。 悪化した人間関係を修復した経験と、その回数。 異なる立場の c は、言った、言われた、嫌な思いをした、嫌な思いをさせられた、いじめた、いじめら れた、助けた、助けられたなど、立場を入れ替えての経験である。 人間は母体の中で進化のプロセスを辿って人間の形になる。 人間の形になる前は鰓もあれば水掻きも、尻尾も生えている。 人間の形をして生まれて来ても、脳は前頭葉が未発達で獣に近い脳である。 そして成長と共に前頭葉が発達して行くのだが、そこには前頭葉を発達させて来たプロセスも必要であ る。 それが「成長」のプロセス。 人間は、地球上に誕生した時から現代人だった訳ではない。 現代人になるまでのプロセスを経て現代人になっている。 61 生まれてきたばかりの赤ちゃんは、猿人の段階だろう。 猿人から現代人に至るまでにも長い進化のプロセスがある。 体内で進化のプロセスを経て人間の形になるように、人間は生まれてから大人になる間にも猿人から現 代人に至るプロセスを辿る必要があと考えられる。 その現代人に至るプロセスは、人類の歴史でもある。 大人の価値観で子供から遊ぶ時間を取り上げたり、危険を取り上げたり、勉強漬けにする事は、猿人か ら現代人になるプロセスを無視しているのではないだろうか? 一向に減らない自殺者、増え続ける精神疾患、伸び悩む景気、有効な対策は見つかっていない。 そうした問題を打開する為には、現代人に至るプロセスを見直す時期に来ているのではないかと思う。 アレルギー 乳幼児期はこうした精神的な成長以外でも大切な時期である。 その一つに免疫システムがある。 その免疫反応によって起きる代表的な物がアレルギーである。 その中でも、アレルギー性喘息と花粉症は 1 歳までの生活環境が大きく影響している。 母親は子供を少しでも清潔な環境で育てようとする。 過剰なまでの衛生的な環境が、アレルギー性喘息や花粉症を引き起こす原因になる。 アレルギー性喘息や花粉症の原因は過剰な免疫反応である。 問題は、何故免疫システムが過剰な反応を引き起こすか?である。 実は、そこに衛生環境が関係している。 哺乳類は二種類の免疫システムを持っている。 一つは哺乳類になる前から持っている細菌に対する免疫システム。 もう一つは哺乳類だけが持つ、ダニや寄生虫に対する新型の免疫システム(IgE)である。 アレルギー性喘息や、花粉症は新型の免疫システムの過剰反応で起きる。 では何故、過剰反応を起こす人と起こさない人がいるのだろうか? 両者を分ける原因が、1 歳までの生活環境にある。 生まれたばかりの赤ちゃんの免疫細胞は、細菌型にも寄生虫型にも分岐していない未熟な状態である。 生後、細菌が体内に入れば未熟な免疫細胞は細菌型に変化し、ダニや寄生虫に襲われれば寄生虫型へ変 化して行き、細菌型と寄生虫型とせめぎ合い 1 歳までに細菌型と寄生虫型の優劣が決まる。 アレルギー体質は、このバランスが崩れる事で起きる。 62 衛生的な環境では、細菌は減るがハウスダストにはダニがいっぱいいる。 その為、細菌型と寄生虫型のバランスが崩れて寄生虫型に偏る。 あまりにも衛生的な環境が、アレルギーを引き起こす原因となっているのである。 少し話は変わるが、ペットの飼い主のマナーが最近うるさく言われている。 「犬の糞は持ち帰りましょう」 マナーも大切だが、こんな事を言っている限り、アレルギーの子供は増え続けるだろう。 実は、動物の糞は人間の免疫のバランスを保つ為には必要なのである。 動物の糞には大腸菌もいる。 その大腸菌が死んで分解される時に、エンドトキシンという物質が放出され、空気中に漂い衣服などに 付着して室内に入り込む。 そのエンドトキシンが赤ちゃんの体内に入ると、未熟な免疫細胞は細菌と間違えて細菌型に変化し、免 疫システムのバランスが保たれる。 面白いデータがある。 兄弟の中で最も花粉症になりやすいのは第一子、次に第二子と、先に生まれてきた子供の方が、花粉症 を発症しやすいと言うデータである。 理由は、第一子は他に外で遊んで衣服にエンドトキシンを付けて家に帰ってくる兄弟がいない。 第二子以降は、兄弟の数だけ室内に入るエンドトキシンが増えて体内に入り易くなる。 不衛生は色々な病気の元ではある、しかし度が過ぎても他の病気の元になる。 清潔好きは結構な事なのだが、何事も程ほどにするべきである。 産後の鬱 赤ちゃんが心身ともに健康に育つ為には、母親も心身ともに健康である必要がある。 一般的には、赤ちゃんが生まれると赤ちゃんを中心にした生活になる家庭が多いが、そこに様々な問題 が内包されていて、親はその問題に悩む事になり、子供にもその影響が出てしまう。 赤ちゃんを中心としない生活とはどんな物なのか?その中で赤ちゃんとどう接すればよいのか? 不謹慎な発言と怒る人もいるとは思うが、赤ちゃんは犬を世話するような感覚で育てる。 まあ、今では犬を子供の様に扱う人や犬を虐待する人もいるが、そうした人は別にして、犬を飼ってい る時、生活は犬を中心にせず、通常の生活に犬が加わるだけである。 それでも愛情を持って犬に接し面倒を見る。 そうした感覚が全てを円滑にする。 赤ちゃんが生まれて産後の鬱病になる人はいても、犬を飼って鬱病になる人はいない。 「母親が赤ちゃんに笑顔で接する」 当たり前の事に思うかもしれないのだが、これが結構難しい場合もあるのだ。 63 それがマタニティーブルーや産後の鬱である。 鬱になると、笑顔が出なくなってしまう。 マタニティーブルーは産後から 10 日程度 30~50%の母親が陥る。 原因は出産によりホルモンのバランスが激変する事によって発生するが、1 週間程度で自然に回復して行 く。 次に襲うのが産後の鬱病の危険で、産後 2~3 週間後から 1 年の間に発症しやすくなる。 発症率は 10~20%程度である。 原因はマタニティーブルーのホルモンの激変と、出産による疲労や貧血、それに加えて家事・育児の負 担の増加から対人関係(人間関係の減少)のストレスが加わる事で発症しやすくなる。 そして子育てに熱心な人ほど陥りやすい。 つまり、産後の鬱は赤ちゃんに振り回されている為に発症すると言っても過言ではない。 赤ちゃんに振り回されて、母親が鬱になってしまえば、赤ちゃんに多大な影響を及ぼす事になる。 母親の鬱が赤ちゃんに及ぼす影響とは、笑顔で接する事が出来なくなるだけでなく、母子のコミュニケ ーション、果てはネグレストから児童虐待まで幅広い。 そして、赤ちゃんにとっても、赤ちゃん(子供)中心の生活と別離不安の未解消は人格障害の要素にな る。 赤ちゃん(子供)を中心とした生活は、序列と言う側面から見れば、子供が序列 1 位と言う事を意味す る。 それは、子供の序列意識にも大きく影響する。 子供が、家庭で序列一位の感覚を持ってしまえば、それは他者との関係に反映されてしまう。 愛着 乳幼児期の赤ちゃんを、何も分からない等と思ってはいけない。 赤ちゃんは、生まれた時から、快、不快、不安などの感覚は備えている。 そして生まれたばかりの赤ちゃんは目が見えていない。 そんな赤ちゃんの気持ちを理解するには、自分が何も見えない真っ暗な部屋にいる時を想像して見る。 何も見えない世界では不安を感じるだろう。 そんな不安はどうしたら消せるのだろうと考えて見る。 自分の知っている相手に手を握られたり、抱きしめられたり、話しかけられれば不安は消えるのではな いだろうか? 生まれたばかりの赤ちゃんが知っている人、それは母親である。 赤ちゃんは、母体の中で母親の声を聞いて成長している。 その聞き覚えのある声の主に、話しかけられ抱かれていれば安心するだろう。 64 ベビーベッドやベビーカーは、親が便利なだけでしかない。 これも、赤ちゃんの気持ちになって考えて見よう。 目が見えない赤ちゃんが目覚めた時、近くに誰もいなければ不安になるのではないだろうか? 目が見えない赤ちゃんが外界を知る為に使える感覚器官は、嗅覚、触覚、聴覚しかない。 目が開くまでは出来る限り母親が赤ちゃんを触り、声をかけて安心させてやる事である。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/265.wmv 目が開くまでの数日間に如何に赤ちゃんを安心させるか?大変だがこれが後々母親を楽にさせる。 子育ては密着から始まり徐々に距離を取る事が望ましい。 目が開いてからは、出来る限り赤ちゃんに笑顔で接し、楽しく話しかける。 その時にも、頬や掌など体を触る事を忘れないようにする。 赤ちゃんは触られる事で脳や体そして免疫までも発達する。 ベビーベッドやベビーカーでは赤ちゃんと触れ合う時間が限られてしまうので、ある程度成長するまで は使わない方が良い。 さて、何故赤ちゃんを安心させる事が、後々母親を楽にさせるのか? それは「夜泣き」が少なくなるからである。 これも赤ちゃんの気持ちになって考えて見よう。 夜泣きをする赤ちゃんは何故泣くのだろう? 自分が赤ちゃんなら何故書くのか? 赤ちゃんが泣くのは、お腹がすいた、オシメ変えて、体調不良、そして不安である。 昼間にしっかりと赤ちゃんとコミュニケーションを取っていれば、赤ちゃんが不安になる事は滅多に無 い。 気を付けなければならない事は、授乳やオシメ変えの時など、赤ちゃんとコミュニケーションを取る時 に笑顔で接しているかである。 その時に、母親が笑顔で接していなければ赤ちゃんは不安を感じる。 大人でも、不安な事があったり、怖い思いをすれば、嫌な夢を見たりして夜中に目が覚める。 大人でも嫌な夢を見て目が覚めたときなどは、目覚めてからでも怖かったりするが、赤ちゃんも同じで ある。 つまり、夜泣き対策とは愛情を込めて笑顔で密に接する事であり、新生児の時に心の基準を「安心」に するか「不安」にするかが大切だと思う。 そうした母子関係で愛着は作られる。 注意しなくてはならないのが、虐待やネグレストなどの機能不全家庭で育った親は、子供に自分と同じ 思いをさせまいと、愛情を一杯注ごうとする。 その愛情で、別離不安の解消の時期を逸してしまうと、子供に心の病の種を植え付ける事になる。 65 愛着と信頼とは無防備から生まれる 愛着を持ち信頼を得るには無防備になる事である。 何故、無防備な状態で相手に身を任すと、信頼や愛着を学べるのか? それは、産まれたばかりの母子関係と同じ状況だからである。 生まれたばかりの赤ちゃんは、歩くことも出来なければ話すことも出来ない。 何も出来ない赤ちゃんは、母親に対して捨て身であり、それを母親が無償の愛で受け止める。 全てはその延長である。 心の病と社会性には密接な関係がある。 心の病に病を持つ人の多くが社会性に問題を抱えている。 親子の間で結ばれる関係が「愛着」であり、その愛着を他人に応用する事で社会性が生まれる。 愛着とは「信頼」であり、信頼なくして社会性は生まれない。 信頼とは相手に身を任せる事であり、命を任せる事でもある。 自分の身を危険にさらし、相手がそれに応える事で信頼は生まれる。 それは犬や猫でも同じ。 犬は飼い主に服従の証として腹を見せる。 腹を見せるという事は、自分の一番弱い部分を見せるという事。 それは「貴方を信じます」との意思表示。 咬まれたら命を失う危険のある部分を相手に見せる事で信頼を示している。 そして、人間も犬に腹を向けられると、愛しさを覚えて可愛がる。 猫も警戒している所では、決して腹を見せる事はしない。 愛着や信頼の原点は「無防備」である。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/282.wmv その無防備の原点は、生まれたての赤ちゃんと母親の関係にある。 全く無防備な赤ちゃんに母親は愛しさを感じ、無防備に対して無償の愛で応える。 そうした関係の中から信頼が生まれ、自分を守ってくれる者と自分が守る者の関係が愛着になる。 その関係は、飼い主と犬の関係でも同じである。 犬が腹を向けると言う事は無防備であり、そこに愛しさを感じて犬に愛着を覚える。 逆に、身構えている犬や猫を見た時、人間も警戒し、身構えている犬や猫に愛しさを感じない。 社会に於いて「身構える」とは、自己保身であり自己弁護であり自己防衛である。 そして自己保身の為に身構えている人には信頼は与えられない。 66 幼少時の親子関係で、無防備な子供に虐待を加えれば、子供は無防備になる事に恐怖を感じて身構えて しまう。 その為、社会でも常に身構えてしまい、信頼を得られず孤独感を強めてしまう。 無防備とは命がけの行為であり、愛着が身に付いていない人にとって信頼とは、死の恐怖に匹敵する。 「背中を預ける」と言う言葉がある。 人間は自分一人だけでは身を守る事が出来ない。 だからこそ助け合って生きている。 人を信じ、背中を預け合う関係が無ければ、常に不安や恐怖が付きまとう事になる。 それが、守り守られる関係であり、母子関係の「愛着」の発展系である。 人を信じられなければ背中を預ける事は出来ず、常に背後の敵に気を気にしなけれればならない。 そこに安心は無く、常に背後の不安を抱え続ける事になる。 それが孤独の恐怖であり、人間は本能的に孤独を恐れる。 しかし、孤独の恐怖は本能で感じる恐怖である為、意識としては現れず、漠然とした不安として感じる。 そして、社会に於いて信頼を得るには、恐怖を克服している事を示さなければ信頼は得られない。 いざと言う時、逃げ出すような相手には背中を預ける事は出来ない。 そして恐怖の克服は、言葉ではなく行動によって示さなければ信頼は得られない。 行動によって積み重ねられた信頼が「実績」である。 自分の背中を守って貰うには、誰かの背中を守る事であり、誰かの背中を守り続ける事が実績になる。 誰かの背中を守っていれば、必然的に守っている相手に自分の背中は守られる。 誰かの背中を守らず、自分の背中を守ってくれと言っても誰も守ってはくれない。 集団に溶け込むと言う事は、実績を積み上げる事であり、実績を積んでいない者は、実績を積むまで信 頼を得る事は出来ない。 そして実績を上げられない者は孤立感を深め、それが焦りとなって現れる。 しかし、集団の中で最も信頼を得る実績は逃げない事であり、どれほど優秀な成績を収めていても肝心 な時に逃げ出す者は信頼を得る事は出来ない。 心の病を発症する人は、こうした社会性を持たない為に病を発症する。 他人を信じていないから、背中を預けられずに孤軍奮闘して力尽きて病気を発症したり、社会に溶け込 めない孤独感から病気を発症したり、恐怖の克服が出来ずに逃げてばかりで信頼を得られず孤立化して 病気を発症したり。 全ての要因は、愛着や信頼の概念が身についている?かである。 愛着とは、無防備に対して無償の愛を提供する関係から得られる感情であり、全てはそこに帰結する。 67 社会性を身に付けていない者が、社会性を身に付ける方法も愛着に有る。 無償の愛とは、見返りを求めずに注ぐ愛情であり、それは自己犠牲でもあり自己満足の世界でもある。 例え裏切られて命を失おうとも、誰からも賞賛されなくても、人を信じ続け、裏切られても人を信じ続 けられた事に自己満足する心を持てば社会性は身に付く。 自己保身している者を人は助けようとはせず、自己犠牲する者を人は助けようとする。 社会性の極意は「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」である。 68 第4章 社会性 社会力学的要素 前章までの事を人間は 3 歳頃までに習得し、3 歳頃までに人格の基礎が構築される。 3 歳からは、それまで身に付けて来た人格の基礎を発展させて行く時期になる。 それまで家族の中で学んでいた事を、幼稚園や保育園と言う「社会」で他者に応用して行く。 それは「自律」への第一歩。 家族の共同作業から他者との共同作業、家族と言う社会の最小単位での共同作業から、集団での共同作 業へ移行し、集団の中での自分の役割、集団の中での自分の存在と言う物を理解して行く。 それは時として残酷な現実を突きつけられる事でもある。 幼い頃は、友達も自分も平等であり劣等感も優越感も無い。 やがて美意識が芽生え、身体能力、学習能力などに優劣が出始めて、子供はその優劣を認識し始める。 優越感と劣等感の芽生えである。 そこに社会力学が作用し始める。 人間は誰でも自分は優れていると思いたい、誰も自分が劣っているとは認めたくない物である。 しかし、全体の中で自分がどれ位優れているのか、どれ位劣っているかは、自分では分からない。 それが分かるのは他者でしかない。 その他者の反応を見て己を知る。 こんな実験が有る。 男女それぞれ 10 人に、身体的特徴が出難い服装を着させて、頭に 1~10 の数字を付ける。 頭の数字は自分では見られないので、自分に何番の数字が付けられているのか分からない。 そして、なるべく高い数字の人とペアになるように指示を出す。 すると、高い数字を付けた人には多くの人が集まる為、高い数字を付けている人は、自分が高い数字で ある事に気が付く。 そして、自分の周りに多くの人が集まれば、その中から高い数字の相手を選ぶ事が出来る。 低い数字を付けた人の周りには人は集まらない。 低い数字を付けた人は、高い数字の人の所へ行っても相手にされない。 また、低い数字の人から誘われても相手にしようとしない。 そして番号の高い人からペアが成立して行き、焦りながら出来るだけ高い数字の人を探そうとするのだ が、最後に残った人をペアに選ぶ事になる。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/133.wmv 結局、近い数字同士がペアになる。 社会に出ると、こうした「社会力学」が作用する事になり、避ける事は出来ない。 69 それは、自分の数字が低い事と言う事を突きつけられる事でもあり、そこに劣等感が生まれ、自分の数 字が高い事を知れば優越感が生まれる。 その数字とは「容姿」であり「能力」であり「人格的魅力」と言った個性になり、それは努力次第で変 わる物でもある。 容姿に恵まれていても、容姿は年齢と共に衰えて行くが、能力や人間的魅力などは磨けば磨くほど身に 付いて来る。 また、この実験は別の意味も含んでいる。 この数字の意味合いを変えて考えて見る。 男性をポスト、女性をポストに付く人と見立てると、高い数字が人気ポスト、低い数字が不人気ポスト となり、低い数字の人が高いポストに就きたいと願っても高い数字のポストに就く事は出来ない。 その数字は能力と言う意味だけではなく、適正と言う意味でも有る。 しかし 1~10 までのポストは、それぞれ一つしかなく、ポストに就く人が決まらなければ社会は動かな い。 例えば「スポーツ」。 野球をしたい子供が集まって野球をしようとする。 全員が、4 番でピッチャーをやりたがれば野球は出来ない。 しかし、ピッチャーをやりたくても、コントロールが悪く、投げる球も遅ければ、ピッチャーには選ば れない。 打球を遠くまで飛ばせなければ 4 番には選ばれない。 そして身の程を知る。 しかし、打球を遠くまで飛ばせなくても、足が速ければ 1 番バッターの席がある。 太っていて、足も遅く守備が下手でも、打球を遠くまで飛ばせるなら代打の席もある。 結局、落ち着く所は適材適所でしかない。 また、適材適所だからこそチームの力が上がる。 そして、自分が守るポジションは、他人が決める。 それでもレギュラーにも補欠にも選ばれない人もいる。 選ばれなかった人は、球拾いをする事になる。 問題は、社会力学で生まれた結果を受け入れられるか?である。 人間が社会において「満足感」や「幸福感」を得られるのは、他人から必要とされたり求められる事で あり、その求めに応じられる事である。 逆に、満足感や幸福感が満たされないのは、必要とされなかったり、求められない事であり、求められ た事に応えられない事である。 必要とされ、求められるには、必要とされるだけのスキルを身に付け、必要とされる場で役立てる事で ある。 70 社会性の科学 人間の社会性に関する実験がある。 まず「独裁者ゲーム」と言うゲームをした実験だ。 実験の参加者 8 人が個室に入り、その内 4 人を独裁者とし、独裁者とならなかった人とペアになるのだ が、誰とペアになっているのかは知らされない。 そして、独裁者には実験の参加費として 900 円が渡され、独裁者はそのお金をペアになった人に分配す る。 どれだけ分配するかは独裁者の自由、独り占めするのも自由、半分にするのも自由、相手に多く渡すの も自由だ。 参加者はお互いに顔を会わせる事も無ければ、誰が相手かも知らない。 そんな状況の中で、独裁者はペアの人にどれだけ分配するだろうか? その実験を 230 人に行った結果 52.1%の人が、半分の 450 円を分け与えた。 この実験では約半数の人が、顔も知らない相手に半分の金額を渡すと言う気配りを行っている。 次に、この実験に仕掛けを施してみる。 無作為にグループ分けをし、そのグループの中で独裁者を決めて、同じグループと異なるグループに、 前の実験と同じ様にお金を分け与えるかを決めさせる。 この時、受け取る側は独裁者も同じグループである事を知っており、その事を独裁者も知っている。 すると、同じグループに半分以上分け与えた人は 66%に上がり、異なるグループの人にも分け与えた人 は 40%に低下した。 グループに分けた場合、同じグループの人に半分を分け与える人が増えた理由は、意識的に行っている のではなく、グループ用の心の仕組みのスイッチが入ってしまい、グループに適切な行動を取るのだと 言う。 実験は次の段階へ進む。 今度は、受け取る側は独裁者が同じグループである事を知らない、独裁者は受け取る側が知らない事を 知っている状態で行う。 すると、同じグループの人に半分以上を分け与えた人は 47%に下がる。 この状態で、仕掛けをする。 モニターにこの様な「目」の映像を映し出した状態で実験を行うと、半分以上分け与える人は 76%に上 昇した。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/89.wmv さて、この数字をどの様に読み解くか? 71 目の映像を見て半分以上分け与える人が増えると言う事は、目を意識する事で社会性を発揮すると言う 事でもある。 この数字を「成長」のプロセスと言う視点で考えて見る。 社会性の基礎は、親子の愛着関係であり、その親子の愛着関係を発展させ社会性を身に付けるまでの「成 長」のプロセスを踏まえて来た人と、踏まえて来なかった人の差がこの数字に表れているのではないだ ろうか? そうした視点からこの数字を見ると、相手を知らなくても分け与えた 47%の人はしっかりと成長のプロ セスを経てきた人、目の映像を見る事で分け与えた 29%の人が何処かのプロセスが少し抜けて育った人、 そして目の映像を見ても分け与えなかった 24%の人が、成長のプロセスの初期の段階に問題がある人、 そう言う見方も出来る。 個人個人が積んで来た「経験と言うデータ」そのデータの統計的確立によって行動や判断が変わる。 利他行動の科学 こんな実験が行われている。 実験は 2 人で行う。 1 人は A、もう 1 人は B である。 2 人に 500 円ずつ渡し、まず A が B に渡された 500 円を提供するかを決める。 A が B に 500 円を提供した場合、実験者は 500 円をプラスして B に 1000 円が渡される。 次に、B が A に 500 円を提供するかを決める。 この場合も、実験者は 500 円をプラスして A には 1000 円が渡される。 お互いに提供し合えば、お互いが 1000 円を手にする事が出来る。 この実験には 4 通りの結果が起こる。 お互いが提供しない場合、お互いに 500 円ずつになる。 A が提供して、B が提供しなかった場合、A は 0 円だが B は 1500 円を手にする事が出来る。 B が提供して、A が提供しなかった場合、B は 0 円だが A は 1500 円を手にする事が出来る。 お互いに提供し合えば、お互いが 1000 円を手にする事が出来る。 そして実験の結果は、A の立場の 83%の人が B に提供し、B の立場の 75%の人が A に提供していた。 この実験の後参加者に行ったアンケートで、満足度を 7 段階で評価してもらった結果、0 円の人の満足度 は 1.8、500 円だった人の満足度は 3.1、1500 円だった人の満足度は 4.6、1000 だった人の満足度は 6.2 と言う結果になっている。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/90.wmv ここで注目すべき点は、お互いに提供し合い 1000 円ずつ手にした人の満足度が、1500 円を手にした人 の満足度を上回り、最も高いと言う事だ。 何故、83%の人が利他行動を取り、利他行動を取った事に満足度が高いのか? 72 これも、第 2 章「成長」に照らし合わせてみれば理解できると思う。 「共同作業」で書いた「親からされて心地よい」と思う行為を、他人にも応用しているのである。 一番満足出来るのは相手より多くも少なくも無い「同等」であり、相手よりも多い事に自責の念が生じ ると考えられる。 1500 円を手にした人は、 「自制の拾得」が学べなかったのかもしれない。 また、提供されても返さない人の数字が 25%であり、先の実験で「目」の映像を見ても分け与えなかっ た人の 24%とほぼ同じ割合である事も面白い。 「人間は平等を望む」しかし、平等とは何を基準に平等と考えるのか? 平等に扱って欲しいと人は思う。 しかし、努力した人と努力していない人を平等には扱えない。 扱いだけを平等に欲しいと思っても、それまで努力してきた人と、努力してこなかった人を平等に扱え ば、努力してきた人に対して不平等になり、それは平等とは言えない。 生まれ持った資質や家柄の違いもある。 それは一つの特権や既得権益でもあり、それを持たない物からすれば不平等を感じる。 努力の量にかかわらず一律に扱うのが公平なのか、努力に応じて扱いを変えるのが公平なのか? 努力の量が少なかった人は一律を望み、努力してきた人は努力に応じて扱いを変えて欲しいと思うだろ う。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/247.wmv また、お行儀の良い子とお行儀の悪い子では当然接し方が違う。 お行儀の悪い子は叱ったり説教する事も多くなるだろうし、お行儀の良い子は誉める事も多くなるだろ う。 しかし自分を振り返る事が出来なければ、お行儀の悪い子供は不公平を感じるだろう。 ※ 参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/87.wmv 世の中は、原因と結果の因果関係を考えれば、一概に不公平とは言えない場合も多い。 アリストテレスの言葉を借りれば「すべての正義は差別を内包する」のである。 信頼の科学 こんな実験が行われている。 実験には 6 人が参加し、15 分間のゴミの回収についての討論をさせる。 しかしこのテーマは実験の目的とは関係が無い。 参加者には予めアンケートを行っているのだが、その内容は人をどれだけ信用するかを詳細に調べる為 の物である。 実験の目的は「人を信頼する人としない人では、どちらが他人の人間性を見抜けるか?」と言う事を知 る事である。 73 討論の後、参加者はあるゲームをする。 実験参加者にはそれぞれ 1000 円が渡され、他の実験参加者に 100 円を提供するか、100 円を巻き上げる かを決めさせる。 100 円を誰かに提供する場合、実験者から 100 円が加算され、相手には 200 円が渡る。 誰かから 100 円を巻き上げる事にした場合、相手から 200 円が引かれ 100 円は実験者に、残りの 100 円 を手にする。 お互いに提供した場合、それぞれが 200 円を受取り 1100 円になるが、お互いに巻き上げた場合、お互い に 900 円になる。 ちなみに、実験者から加減される 100 円の意味は、共同作業による増収や行動作業をしない減収である。 このゲームのポイントは、自分が提供したら相手も提供してくれる人を見抜けるかである。 実験の結果は、予め行ったアンケートで最も他人への信頼度が高かった人の的中率は 75%、他人への信 頼度が最も低かった人の的中率は 42.3%、他人に対する信頼度が高い人ほど的中率が高く、信頼度が低 い人ほど的中率が低いという結果が出ている ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/91.wmv この実験は「どれだけ相手を信用する」かが趣旨である。 この実験結果は実に面白い。 人を信じられる人は人を見抜く力が高く、人を信じられない人は人を見抜く力が低い。 「人を見たら泥棒と思え」と人を疑って育てば、騙される事は少ないかもしれないが、騙される経験も 積まないので結果的に人を見抜けず騙されやすくなり、結果として損をする。 逆に、人を信じやすい人は騙される経験を積む事で、人を見抜く力が備わり騙され難くなり、結果とし て得をする。 こう言う視点で今の日本を見れば、日本の経済が上向きにならない原因も分かるだろう。 その典型的な傾向が「2010 年南アフリカで行われたワールドカップ」である。 岡田監督率いる日本代表は、大会前のテストマッチでは連敗続き。 マスコミはこぞって岡田批判。 ファンも一緒に岡田批判。 しかし結果は予選リーグ突破。 ファンもマスコミも岡田監督を信じていなかった。 もし、岡田監督が変わっていたら、テストマッチで勝っていたら、予選突破も難しかったかもしれない。 負けると言う経験は、何処かに問題があるから負ける。 何処かに修整すべき点があるから負ける訳で、負けはその修正点を見つけられるチャンスである。 その修正点を次の試合で試す。 修整して使ってみて、更に修整を加えてより良い物が出来る。 失敗や挫折無くして成功は無く、ノウハウとは失敗の蓄積である。 途中の結果は気にせずに、託した相手を信じ切る事だ。 そして何より、難局に直面した時に人間は団結して難局を乗り越えようとする。 74 その延長に、日本の政治がある。 日本の政治も、このワールドカップと同じ。 国民が政権を信じていない。 テストマッチで連敗した岡田ジャパンを批判しているのと同じ。 途中で失敗したからと言って、非難ばかりしていたら何の結果も得られない。 最近のマスコミは、「ブレる」と言う言葉を良く使う。 しかし、まずはやって見て、失敗と修整を繰り返さなければ、完成度の高い物は作れない。 修整を「ブレる」と言って非難していては、いつまで経っても未完成のままで何も変わらない。 これは、日本の教育の問題点でもある。 経済学では、「囚人のジレンマ」として「信じる」とは逆の「裏切る」と言う視点から説明される。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/219.wmv こうした実験からも分かるように、社会性の基本は人を信じる事であり、人を信じられなくなった時、 社会性は崩壊する。 そして「与える物は与えられ、奪う物は奪われる」と言う事。 それは金品や物品だけの事ではない。 その一つが「笑顔」 いつも人を笑わせている人は、人に笑顔を与えている。 人に笑顔を与えている人の周りには人が集まり、自分も笑顔をもらえる。 自分の事を笑ったと怒る人は、人から笑顔を奪う。 笑顔を奪う人から人は去り、誰からも笑顔を与えられずに孤独になる。 価値観 損とか得とか、勝ったとか負けたとか、人はそんな価値観に支配されやすい。 しかし、そんな価値観に縛られる事は望ましくない。 例えば、何かの商品を買ったとする。 買った時は満足していても、他の店で自分が買った値段より安く売っているのを見つけると、損をした 気持ちになってしまう。 すると、次からは損をしない様に色々な店の値段を見て安い値段の所で買う。 まあ当たり前の事なのだが、実は当たり前の事でもない。 それは「物の値段」と言う価値観しか持っていないと言う事である。 そこには「色々な店を回る時間や経費」に対する価値が抜けている。 色々な店を回る時間に他の事が出来るのではないのか? そうした自分が選ばなかった選択のコストを「機会費用」と言う。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/238.wmv 機会費用を考えた場合、交通費を使い何軒も回って時間を浪費するコストと比べると、はたして本当に 75 安い買い物をしたと言えるだろうか? そうした時間を短縮する為に、ネットで検索して安い店を探して無駄な時間を省く。 それは効率的ではあるが、それにも問題もある。 買い物とは「発見」の喜びもあるのだ。 色々な店を回り、知らなかった商品に出会う発見、店を探し回る時に新しい店に出会う発見もある。 歩き回る事で、何処にどんなお店があるのか?どの店にどんな商品が置いてあるのか?と言った空間認 識も作られる。 それは「危険認識」で書いた「人間は自分の体を物差しにして、自分が動く事で距離を計り「距離感」 を身に付け、その距離感を元に空間を認識している」と言う事である。 また、ネットショッピングでは商品を見る目が養われない。 こうした事も「機会費用」である。 まずは、自分の目で見て、自分の下で味わい、自分の手で触った感覚、その時の感情をしっかり持つ事 だ。 それは、他人の意見に惑わされずに自分自身の判断力を身に付ける事にもなる。 どんなに高いワインでも、美味しいと思えないワインは、自分にとっては価値が無い。 本当に美味しいと感じているのか?それとも値段で美味しいと感じているのか? 評価本でワインの評価を書いた人は、本当にワインの味が分かって書いているのだろうか? 高名なソムリエが美味しいと書いているワインが、自分も美味しいと感じるかは分からない。 高名なソムリエが美味しいと言っているから、美味しいと思い込んでいるだけなのかもしれない。 こんな実験が有る。 同じワインを、一つは 10 ドル、もう一つは 90 ドルの値札を付け、愛好家に飲み比べてもらう。 その結果、高い値札を付けた方が、満足度がアップすると言う結果が出ている。 また、骨董品など希少性のある物には希少価値がある。 そうした本来の物の価値とは別の価値を「消費の外部性」と言う。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/239.wmv さて、同じワインが一方では 10 ドル、もう一方では 90 ドル、元のワインが同じだと分かっていれば、 ワインに満足度に違いが出るだろうか? 恐らく出ないだろう。 では、希少価値が有る物、例えば数十年も前に 100 円で売られていた物が、プレミアが付いて 10000 円 で売られていても、欲しい人は 10000 円出してでも買う。 物自体に 10000 円の価値が無いと理解して希少性にお金を払っても、それが偽物だと分かれば損をした と思う。 その違いは、心の満足である。 90 ドルのワインに満足度を感じた人は、その価格に「心が満足している」と言う事であり、希少性に対 する「心の満足」を感じている訳だ。 76 つまり、心の満足を満たす為にお金を支払っているのである。 損とか得と言う物は、比較する対象があって、その対象と比較する事で、損や得と感じている。 私の大学時代、サントリーオールドは 2800 円で、当時としては結構高級品のイメージがあった。 それが今では 1680 円だが、味は変わらない。 中身という本質は変わっていないのに、値段は変わっている 中身は変わっていないのに、昔ほどの高級感は無い。 しかし、その味が好きで飲んでいるのであれば高級感などは無縁の存在で、好きだから飲んでいるだけ である。 値段を評価の基準にしていれば評価は変動するが、中身と言う本質を基準にしていれば評価は変わらな い。 評価本やランキングは、別の見方をすると「判断の依存」である。 それは自分で探し、自分で判断して考える事をやめていると言う事だ。 それは、他人の意見や評価に振り回されると言う事でもある。 損だからやらない、得だからやると言うのではなく、やりたいからやる、必要だからやる事だ。 損とか得とか言った物は、状況次第で変化する。 やりたいからやる、必要だからやると言った物を「本質」 、損得や勝ち負けを「外部性」として考えてみ よう。 勝ち組とか負け組みと言った「外部性」に価値観を感じる人が多い。 皆、勝ち組になろうとして真似をするが、外部性は相対的に常に変化する。 今日勝っていても、明日は負けるかもしれない。 今日勝っている者を真似すると言う事は、明日の負け組みを目指している事になりかねない。 やりたいからする、必要だからする、こうした「本質」に価値を見出した場合、勝ち負けは関係なくな る。 取り組んだ物が、必要とされれば、結果的に勝ち組になり、不要とされれば結果的に負け組みになるだ けである。 そして、必要とされていた物でも、新しい物が登場すれば不要とされたりする。 しかし、本質を追求してきた者にはノウハウが蓄積され、そのノウハウには新しい本質を生み出す可能 性を秘めている。 ユダヤの諺にこんな物がある。 「子供に自分が受けた教育を押し付けてはならない、その子は違う時代に生まれたのだから」 今の日本のばあい、教育というよりも「価値観」であり、その価値観に「教育」も含まれる。 以前 TV のドキュメント番組で、面白い物をやっていた。 17 年間引きこもりを続ける息子を持つ親が、息子と向き合って来なかった事に気付き、両親でお寺系の セミナーに通う、 77 そのセミナーでのやり取り。 和尚「自分自身の価値観を押し付けるなんて、しちゃいかんのですよ」 親「分かりますけどね、押し付けたつもりは無いんです」 その後も禅問答は続き、 「親の希望で一生懸命言っていた」と、価値観を押し付けていた事に気付いた様 な事を言っていた。 そして、家に帰って息子と話す機会を設ける。 そこで開口一番「合宿で親も変わりなさいって、そうせんと子供も変わらんですよって言われた」 「今までとは違うけんね、お前も変わらないかん」と続く。 そこまでは息子は黙って聞いている。 返事もせず黙っている息子を見かねたのか、母親が登場。 そして母親の言葉「このままで言いと思っているの、このままでいいんだったら、お母さん達だって、 こんな風に恥ずかしい思いはせんよ」と続ける。 その言葉に息子が「何が恥ずかしい」と反応。 そして母親が「貴方がこのような生き方しかしきらんけん、幼稚園のままで止まっとるけん」・・・ ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/67.wmv 台無しである。 父親が、変わったと言う言葉を口にした時、息子は淡い期待も抱いただろう。 しかし、母親の言葉は、何も変わっていない。 「恥ずかしい」とは自分が恥ずかしい事で、その恥ずかしさの原因がお前だと言っているのと同じ事。 そして、親が恥をかかないようにしっかりしろと言っているのと同じ事。 言葉のベクトルは子供に向かわず、自分にしか向いていない。 そして、言葉だけで行動や態度で示していない。 また 17 年間の時間をかけて築かれた不信が、そんなに簡単に解決するはずもない。 親が言葉ではなく、行動や態度で示すと言う事は、子供に対して模倣のチャンスを与え、自ら経験して 自ら答えを出させると言う事でもある。 それが価値観を押し付けないと言う事でもある。 コミットメント 経済学に「コミットメント」と「ホールドアップ」と言う言葉がある。 コミットメントとは自らの行動を先に約束すること。 コミットメントを行うと自分が将来取る行動を表明し、自らの選択肢を減らす事で、相手の行動を左右 し交渉を優位に進める事ができる。 コミットメントは強い交渉力を持つ反面、危険性も含んでいる。 その危険性が、ホールドアップである。 ホールドアップとは、機会主義的な行動である。 例えば、A社と大量受注契約が決まったB社が、A社からの大量受注に対応する為に、資本投下をして 78 新たに工場を建てる。 A社からの受注に対応する為に、資本投下をして新しく工場を建てたB社は、その受注に対する意欲や 決意をA社にコミットメントしている。 A社は、そのコミットメントでB社を信頼して発注する事が出来る。 しかし、資本投下をして後に引けなくなったB社を見て、A社が契約破棄をちらつかせて値引き交渉を してきたら、B社は値引き交渉を受けざるを得なくなる。 こうした機会主義的行動を「ホールドアップ」と言う。 しかし、安易にホールドアップをすると、自分が窮地に追い込まれる事にもなる。 ホールドアップをした会社は信用を失う。 すると、他の会社はホールドアップをした会社の受注を受けなくなる。 つまり、発注しようとする会社からホールドアップされてしまう事になる。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/240.wmv 資本投下をしてホールドアップされてしまった場合、損をしてでも受注を受けないと言う選択もある。 そこで必要な考え方が、サンクコストと言う考え方だ。 サンクコストとは「埋没した費用」の事である。 サンクコストはギャンブルに例えられる。 パチンコで 10000 円を投資し、5000 円ほど取り返す。 しかし、元手を取り返していないので、パチンコを続け 2 万年、3 万円と負けてしまう。 経済学では、そうした埋没した費用を「サンクコスト」と言う。 そして、埋没した費用に囚われている事を「サンクコストの呪縛」と言う。 5000 円取り返した所で止めていれば、損失は 5000 円で済む。 5000 円の損失をサンクコストとして処理していれば、2 万 3 万と損失を膨らませる事はない。 5000 円の損失と言うサンクコストの呪縛に捕らわれていた為、損失を膨らましてしまう事になったので ある。 パチンコの例は、サンクコストの呪縛に囚われて損を膨らましてしまう典型的な例だ。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/241.wmv もし、資本投下をしてホールドアップされた経営者が、その資本投下をサンクコストとして処理できれ ば、それがコミットメントやホールドアップにもなり得る訳だ。 こうしたコミットメントとホールドアップは経済学だけの話ではなく、世の中に溢れている。 脅迫やゆすりは、そのままホールドアップなのだが、脅迫やゆすりは、知られたくない秘密を持ってい るから、ホールドアップを受ける。 最初から知られたくない「秘密の公表」と言うコミットメントをしていれば、脅迫やゆすりと言うホー ルドアップを受ける事も無い。 同じ様な関係は、もっと身近にも存在する。 それが、悪口やコンプレックスの問題。 悪口をホールドアップと考えてみよう。 悪口とは、肉体的な特徴や性格、失敗などを指摘される事が多い。 その肉体的特長や性格などを指摘された事でコンプレックスを抱える事にもなるだろう。 79 コンプレックスと思っている事を指摘されたら、悪口に聞こえるだろう。 もし、悪口として使われる事を、自分でカミングアウトしたら、それは悪口ではなくなる。 自分でカミングアウトしている事を、自分の知らない所で言われたとしても、それは陰口にはならない。 コミットメントと同じ様に、自分の弱みをさらけ出す事が相手に対して強みになるのだ。 そして、過去に「あんな事があった」 「こんな事があった」と、そんな事に囚われている事は、サンクコ ストの呪縛となり、「負」を積み重ねる事になる。 明治維新をなした薩長連合もサンクコストの呪縛を解いて成功した例である。 コミットメントの原点は何処にあるのだろうか? その基本が、母子関係である。 「母子関係」をもう一度見てみよう。 赤ちゃんは自分で動く事も出来ず、秘密も何も無く、全てを母親に任せるしかない。 そんな無防備な赤ちゃんを母親は無償の愛で育てる。 そうした関係の中から「親子の愛着」が生まれ、その愛着を元に他者との信頼関係を結ぶ事が出来る。 コミットメントの要素は、相手に対し無防備になり、捨て身になる事。 母子関係と言うミクロの体験を、社会経済と言うマクロな世界に適応させているのだ。 比較優位 社会力学で書いた野球の例えを例にして考えてみよう。 野球をしたい子供が集まりって野球をしようとする。 全員が、4 番でピッチャーをやりたがれば野球は出来ない。 しかし、ピッチャーをやりたくても、コントロールが悪く、投げる球も遅ければ、ピッチャーには選ば れない。 打球を遠くまで飛ばせなければ 4 番には選ばれない。 しかし、打球を遠くまで飛ばせなくても、足が速ければ 1 番バッターの席がある。 太っていて、足も遅く守備も下手でも打球を遠くまで飛ばせるなら代打の席もある。 結局、落ち着く所は適材適所でしかない。 また、適材適所だからこそチームの力が上がる。 そして、自分が守るポジションは、他人が決める。 それでもレギュラーにも補欠にも選ばれない人もいる。 選ばれなかった人は、球拾いをする事になる。 問題は、社会力学で生まれた結果を受け入れられるか?である さて、この場合「球拾い」をする事になった子供は、どのポジションでも他の子供に劣っていると言う 事であり、そんな事は認めたくない物だ。 80 では球拾いには、意味は無いのか? 球拾いにも立派な意味がある。 チーム全体として見た場合、外野に飛んだ球を誰かが取りに行かなくてはならない。 レギュラーが取りに言っていては、レギュラーの練習時間が減り、全体としてのレベル向上に影響が出 てしまう。 ボール磨きにしても、グランドの整備にしても同じだ。 球拾いになった子供は、何故球拾いになったのか? 答えは簡単、他の子供より体力や技能が劣っていたからである。 実は球拾いや、ボール磨き、グランド整備には、劣っていた体力や技能を磨く要素が多分に含まれてい る。 球拾いをダラダラとやっていたら何も身に付かない。 いや、玉拾いをダラダラとしか出来ないからレギュラーになれないのである。 球拾いの時には、打球に集中する事で、打球に対する集中力を身に付ける事が出来るし、その打球を全 力疾走で取りに行けば体力も身に付く。 沢山のボールを磨いていれば、ボールを持つ感触や握りを身に付けられる。 グランド整備も、重たいローラーを引っ張る事で足腰の鍛錬が出来るし、トンボがけも、力の入れ方次 第で、色々な筋肉が鍛えられる。 私はテニス部だったが、先輩から色々と教えられた。 ボールボーイはダッシュ力を付けたり、サービスやスマッシュの練習だと思え。 サービス練習のボールをダッシュで追い付ければレシーブが出来る。 ボールを拾って投げる時の手首の使い方を、スマッシュやサービスの使い方で投げろ。 バケツで水を撒く時は、フォアハンドのフォームで撒け。 こうした事の中に「比較優位」と言う物が含まれている。 「比較優位」と言う言葉は、経済学を学んだ事があれば一度は聞いた事がある言葉で、経済学者デヴィ ッド・リカードが提唱している。 Wikipedia から引用すると以下の様になる。 今日本では一定人数の労働者が一定時間働いた時、ワインならA本、毛織物ならB枚作れるとする。 一方アメリカでは同じ数の労働者が同じ時間だけ働いたときワインならA'本、毛織物ならB'枚作れる とする。 A>A'であるとき、日本はワインに関してアメリカに絶対優位であるという。 一方A/B>A'/B'であるとき、日本はワインに関して(毛織物と比べたとき)アメリカに比較優位であ るという。 何やら難しい話のように聞こえるのだが、それほど難しい話でもない。 これは経済を基軸にしているから難しく思えるだけである。 これをもっと分かりやすくしてみよう。 81 社員 B 君は何をやっても A 君にはかなわない。 同じ時間内で、A 君は営業アポイントを 4 件、資料作成を 20 ページ作る。 それに対して B 君は営業アポイントを 1 件、資料作成 10 ページしか出来ない。 どちらの仕事も、A 君が優れているように見える。 すると B 君は役に立たないと劣等感を覚えるかもしれない。 A 君と B 君が、その仕事をする事で犠牲になる機会費用を考えて見る。 A 君は営業アポイント 1 件当たりの機会費用は、資料 5 ページ。 B 君の営業アポイント 1 件当たりの機会費用は、資料 10 ページ。 営業アポイントはでは A 君の方が、犠牲になる資料のページ数が少ない。 次に資料作成の機会費用を計算すると。 A 君は資料 1 ページに付き、営業アポイント 1/5 件 B 君は資料 1 ページに付き、営業アポイント 1/10 件 資料作成では B 君の方が、犠牲になる営業アポイントの数が少ない。 この時、A 君は営業アポイントに比較優位を持ち、資料作成は B 君に比較優位がある。 A 君は営業アポイント、B 君は資料作成に特化すれば、全体の生産性は向上する。 それが、共同作業による増収である。 誰でも何かの比較優位を持っている。 しかし、自分がどんな比較優位を持っているかは、やって見ないと分からない。 だからこそ、何事も理屈をこねるのではなく、経験する事が大切なのだ。 そしてこの比較優位に必要な物が、コミュニケーション能力であり、お互いに論理的に意見を交換する 能力である。 逆に言えば、自分の意見を論理的に話せない人は、求められないと言う事でもある。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/242.wmv この比較優位と言う物は、努力や技術の向上で変動する。 比較劣位であった者でも、努力次第で比較優位に立つ事が出来る。 それは、現時点で比較優位を持っていたとしても、明日には比較劣位になるかもしれないと言う事だ。 野球の例でも、球拾いに回された子供でも、チーム全体の中の役割で見れば、チーム全体のレベルの向 上に貢献しており、球拾いをしながら体力を身に付け、レギュラーより比較優位に立ち、自分がレギュ ラーになる事も出来るのだ。 これも、遊びの中で学ぶと言う事である。 そして子供の時に「理屈ではなく肌で覚えた比較優位と言う感覚」が、社会に出た時にも役立つ事にな る。 問題は、比較優位は相対的に変化すると言う事である。 過去に比較優位を持っていたとしても、今は比較劣位になっているかもしれない。 82 自分を取巻く情勢は常に変化しており、自分だけが恒常している事などは有り得ない。 すでに比較優位が逆転して、比較劣位になっている事に気付かなかった場合、人間はしばしば不条理を 感じてしまう。 ここで、もう一度「自己認識と空間認識」を読み返してほしい。 人間サイズのおもちゃを、ミニチュアサイズのおもちゃに取り替えても、人間サイズのおもちゃと同じ 様に遊んでしまう子供。 人間は、自分が比較劣位になった時、この子供と同じ様に、比較優位にいた時と同じ行動を取ろうとす る人と、比較劣位である事を認識して再度比較優位に立とうと努力する人がいる。 その違いは、自己認識や空間認識を成長させて来たか、成長させて来なかったかの違いである。 自己認識や空間認識を成長させて来た人は、全体の中の自分の位置を把握し、過去の比較優位をサンク コストとして処理して、比較優位になる為の努力をする。 しかし、成長出来なかった人は、全体の中の自分の位置を把握できず、サンクコストの呪縛に落ちって しまい、不条理を感じて努力もせずに不平不満を言うしか出来ない。 その不条理は、不安や不満を生み、それは「焦り」「怒り」 「悲しみ」と言った感情を生じさせる。 そうした感情は、扁桃体によって生み出されるストレスであり、サンクコストの呪縛に囚われていると、 継続的精神ストレスを受け続ける事になる。 その継続的精神ストレスは、様々な心の病の原因とされている。 そうした優位の逆転は、色々な所にある。 例えば、中学受験や高校受験、希望の学校に入学出来た人は、入学出来なかった人に絶対優位を持つ。 入学出来なかった人に対して優位を持っていても、同じ合格者同士には優位性は無い。 中学ではクラスの中で優位性を保っていても、同じレベルの人が集まっている高校では優位性は無くな る。 努力をして、同じレベルの人の中でも優位性を持ち、受験に合格して希望の大学に入る。 それは、希望の大学に進めなかった人に対する絶対優位になる。 そして就職。 ここで、大学受験の時に希望の大学に進めなかった人が就職出来て、希望の大学に進んだ人が就職出来 なければ、優位性は逆転する。 希望の会社に就職しても、新入社員は比較劣位になり、優位性は無くなる。 年数を重ねた社員は、新入社員に対して優位性を持っているが、新入社員の資質と努力が高ければ、自 分の優位性は脅かされる。 学力が高い人は、学力に優位性を持ち、コミュニケーション能力が高い人は、コミュニケーション能力 に優位性を持つ。 就職する際に、会社が求める物が学力であれば学力に優位性を持つ人が選ばれ、コミュニケーション能 力を求める会社であれば、コミュニケーション能力に優位性を持っている人が選ばれるだろう。 しかし、学力はテストや学歴である程度判断できるが、コミュニケーション能力は面接程度では分かり 難い。 83 つまり、入社時においては学力に優位性を持った人に優位性がある。 しかし、入社後はコミュニケーション能力が必要とされる為、コミュニケーション能力に優位性を持っ ている人に比較優位が生まれる。 学力とコミュニケーション、どちらも努力で向上させる事は出来るのだが、コミュニケーション力は経 験により身に付く為、成長してからでは感情が複雑になり、身に付けるのは難しい。 また、親の時代の優位性が、子供が大人になった時にも優位性を保っているとは限らない。 親の価値観を子供に押し付けると言う事は、子供の将来性を奪う事にもなりかねない。 優位性は相対的に変化する物である。 スクリーニング スクリーニングとは、相手をふるいにかけて情報を引き出す事。 相談者からの話を聞いていると、スクリーニングに関係していると思われる内容が多い。 その事に理不尽を感じていたりしていた。 無能な上司に対する不満や反発、無意味と思われる課題、対人関係の理不尽な要求や行動。 そうした物の中に、スクリーニングが含まれていたりする。 例えば、入社の際のエントリーシートに面倒な作文などの課題があったりする。 これにはスクリーニングが入っているのだが、その意図を見抜けない学生は、意味のない事や無駄な課 題と理解したり、ネットや文献を使って作文を書こうとする。 その時点で、スクリーニングされているのだ。 企業側としては、応募者の中から資料や面接で、望ましい人材を選び出す事は困難である。 その為、応募の際にスクリーニングをかけて、予め望ましくない応募者を排除しようとする。 面倒な作文を課題にすれば、その作文を作る事は応募者にとって負担となる。 いい加減な気持ちでは、応募出来ないようにスクリーニングしている訳だ。 また、学生はネットや文献を引用して内容を重視して作ろうとする。 しかし企業側は、必ずしも内容を重視している訳ではない。 文の中の誤字脱字を見たり、文章が論理的に作られているか?に重きを置いたりする。 立派な作文を作っても落とされた人は、納得がいかないだろう。 そんな事が続けば、世の中に理不尽さを感じるだろう。 さて、この事例を取り上げた理由だが、こうした傾向は集団ストーカー被害者の作る HP やブログに顕 著に見受けられる傾向なのだ。 誤字脱字の多さ、論理的ではない文章、引用の多さ。 そして、その事を指摘されると「間違えただけ」と言う。 84 「誤字脱字を見る」と言う事で、どの様なスクリーニングが行われるのか? 文章は、読み返して誤字脱字を訂正する事が出来る。 それは仕事において最も必要な要素である。 誤字脱字が多いと言う事は、注意力が備わっていないとみなされる。 注意力が散漫で見直しをしない人は、社員として望ましくないのだ。 文章と言う見直しが出来る物の修整を行えない人は、仕事においてもミスを重ねる人とみなされる。 文章は、その人の資質を見事に表す。 文章の誤字脱字は、無くす努力が出来る物である。 企業としては、ミスをなくす為の努力をしてミスが出るのは仕方が無いが、努力もせずにミスをする人 を望まない。 文章の構築を見れば、読む人に気を配れる人か?協調性のある人か?と言う事も分かる。 文章の内容以前に、改行や句読点、空白の使い方、そうした所を見れば、他人への配慮のほどが伺える。 同時に、自分しか分からない文章を書くと言う事は、相手の視点に立てない、自分中心の人物である事 も分かる。 例え完成度は低くても、改行や空白などを使おうとしていれば「他人にも気を使おうとしようとしてい る」と見る事が出来る。 つまり、文章はその人を表しているのだ。 そうしたスクリーニングの視点で、集団ストーカー被害を訴える人の HP やブログを見ると、書いてい る内容以前の所に多くの問題が見受けられる。 会社や上司に対する不平不満を口にする人の多くは、会社や上司を能無し扱いする人が多い。 確かにそう言う場合もある。 しかし、往々にして能無し扱いする側の資質の方に問題がある。 これも一種のスクリーニングになるのだが、有能な人であれば会社や上司がどうであれ、結果を出して いる物だ。 結果を出していれば、会社や上司に間違いがあれば、それを正しても受け入れられて改善する事も可能 だ。 また、有能な人は会社に見切りをつけて他でもやって行ける。 会社や上司の事を能無し扱いしている時点で、自分は他の会社には行けません、会社や上司に意見を言 えるだけの実績が有りませんと言っているのに等しい。 以前こんな事があった。 大学で建築を学んだ学生が、設計事務所に就職が決まった。 しかし、その学生はすぐに辞めてしまった。 その理由は、能無しの下では働きたくないと言う。 その能無しと言われた人は、その設計事務所の社長なのだが、図面を手書きで書いていた。 85 その事に対し、CAD も使えない能無しと言っていた。 CAD とは「コンピュータ支援設計」の事で、コンピュータによる設計支援ツールである。 確かに CAD は便利なツールではある。 しかし、それを使う人間の資質に問題があれば、耐震偽装の様な事が起きる。 耐震偽装をしようとする時、手書きで書けば、線の一本一本を引く時に、良心が痛むが、機械に良心は 無い。 一本一本の線を引く事は、自分で引いた一本一本の線が、良心や仕事に対するプライドを心に刻む事に なる。 そもそも、姉歯の耐震偽装も、入力する数値を変えていたように、数値を入力するのは人間だ。 手書きであれば、躊躇もするが、機械は指示通りに作ってしまう。 機械を使う人間の資質を上げるには、手書きの経験を積ませる事だろう。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/243.wmv その学生は、何処の会社でも同じ事を繰り返して、結局引き篭もりになった。 さて、このスクリーニングだが、実は人間の生態にも備わっている。 それが男性の体臭である。 男性の体臭を女性は嫌う。 それこそが、人間のスクリーニング。 男性の体臭は、女性を遠ざける為の物なのだ。 男性の体臭は、アンドロステノンという物質と汗が混じりあい、それがバクテリアの栄養となり、その バクテリアが人それぞれの体臭を生み出す。 この匂いの違いに、秘密が隠されている。 体臭の違いは、免疫システムの違いである。 人間が持つ免疫システムは、人によってどんな病原菌に強いのかが違う。 つまり、匂いの違いは繁殖するバクテリアの違いである。 男性の体臭を嫌う女性が、男性の体臭に対する嫌悪感が薄れる時期がある。 それが排卵期である。 また、女性は全ての男性の体臭に対して嫌悪感を感じる訳でもない。 心地良さを感じる体臭もある。 心地良さを感じる体臭とは? それは、自分の免疫システムの型と大きく異なる型を持つ男性の体臭である。 男性の体臭は、確実に子孫を残せる相手を探し、免疫システム上の相性を見抜くスクリーニングであり、 自分と異なる免疫システムを持つ相手と子供を作る事で、より強い免疫性を持つ子供を作る為のメカニ 86 ズムと考えられている。 匂いのメカニズムはこれだけではない。 匂いによるスクリーニングは、親近交配を防ぐシステムにもなっている。 両親から、それぞれの免疫システムを貰うという事は、半分はどちらか一方の免疫システムを持つと言 うことであり、自分に近い免疫システムである。 その自分に近い免疫システムの匂いに人間は強い嫌悪感を感じる。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/137.wmv 娘が、父親の下着と自分の服を一緒に洗われる事に強い嫌悪感を感じるのは、この為と考えられる。 人間の生態に備わったスクリーニングはこれだけではない。 声や体系にもスクリーニングがある。 性ホルモンが分泌されると、体系や顔立ちに変化が現れ、声も変化する。 女性の場合、胸が膨らみ、ウエストがくびれ、女性らしい顔になり、声も高く変化する。 男性の場合、声が低くなり、男らしい顔つきになる。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/135.wmv こうした変化は、性ホルモンの分泌レベルを示し、生殖能力を有しているシグナルとなる。 女性の場合、排卵期に出すシグナルがある。 女性は排卵期になると、顔に変化が現れ、声も高くなる。 それは、妊娠が可能になったシグナルを発している事であり、男性はそうした女性のシグナルを感じ取 る。 その結果、男性は女性の胸や顔、ウエスト等に視線が行き、高い声の女性を好む傾向がでる。 それは、確実に子孫を残す為に組み込まれたスクリーニングでもある。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/136.wmv 人間関係や社会において、こうした人間の持つ生態に備わったメカニズムを考慮すべきだろう。 どんなに好みの相手でも、免疫システムが似通っていれば女性は嫌悪感を感じる。 しかし、防臭スプレーなどで匂いを消していれば、生態の持つスクリーニングは機能しない。 スクリーニングが機能せずに一緒になったカップルが、防臭スプレーを使わなくなれば、女性に嫌悪感 が生まれる事になり、恋愛トラブルを起こしかねない。 その恋愛トラブルは、心に傷を残す場合もある。 情報化社会 世はまさに情報化社会。 様々な情報が溢れている。 情報化社会は便利である反面、危険も含んでいる。 精査されない情報や、情報の垂れ流しは、人を誤った方向へ導いてしまう。 その代表的な物が「情報の非対称性」である。 情報の非対称性とは、不均等な情報構造の事。 87 一方の情報が多く、それに対する情報量が少ない時に不均等な情報格差が生まれる。 特に、インターネットの中では情報の非対称性が発生し易い。 例えば、悪徳商法に関する掲示板。 そこに登場するのは、被害者と第三者しかいない。 そこにはもう一方の当事者が存在しない。 そうした状況下では、情報の非対称性が発生しやすくなる。 私の専門分野である防犯や盗聴の分野でも、こうした事が起きている。 ある盗聴関係の相談掲示板で、盗聴に対する対策の論議が行われていた。 そこに登場していたのは、被害者を名乗る相談者と、それに答えようとする人達。 しかし専門家は 1 人もいない。 その掲示板を読むと、まさに情報の非対称性が起きていた。 例えば「盗聴器は、FM ラジオで見つけられる」との回答。 これは間違いだ。 確かに、FM ラジオでも見つけられる盗聴器はある。 それは FM 盗聴器と呼ばれる物だけであり、FM 盗聴器は音質が悪く FM ラジオで簡単に見つかってし まう為、滅多に使われる物ではない。 こんな事も書かれていた。 「FM ラジオを近付ければ雑音が出るらしいですよ」 FM 盗聴器は FM ラジオで聞くタイプの盗聴器で、近付けても雑音など出ない。 そうした回答を信じてしまえば、実際に盗聴器が付いていても見過ごしてしまう事になる。 さらに、盗聴発見業者の HP に書いてある事を信じて、書き込んでいる人もいる。 その HP にリンクを貼り根拠を示している為、そうした書き込みは信じやすい。 実例を挙げると「電話盗聴をされていると、雑音が出る」 これは、盗聴発見業者の間では通説になっているのだが、実際には事実ではない。 技術的な説明は長くなるので、私が書いている技術系のブログを参照して欲しい。 http://19278137.at.webry.info/200909/article_9.html 掲示板等で、業者にリンク貼り、根拠を示されたら、ほとんどの人が信じてしまうだろう。 実は、そうした事を書いている業者も同じなのだ。 業者も、ただ単に信じているだけなのである。 実は盗聴発見業者の大半が、盗聴バスターズ出身であり、その盗聴バスターズで学んだ者が講習を行っ ていたりする。 こうして書いている私も盗聴バスターズ出身である。 「電話盗聴されると雑音が出る」と言うのは、盗聴バスターズの講習で教えられる事で、講習を受けた 業者の多くは、自分で盗聴器を購入して実験して確認する事はしていない。 88 そうした業者が、講習で教えられた事をそのまま掲載しているのだ。 何故、盗聴バスターズの講習で、そんな現実的ではない事を教えているのか?そこに疑問を感じて調べ て見た。 答えは簡単、講習を行っていた講師に現場経験は無く、理屈だけで教えていた。 調べて見ると、その他にも盗聴の通説と言われている物の多くが、事実ではない事も分かって来た。 一言で言えば、講習を受けた業者が、受講者募集の営業トークを鵜呑みにしているだけである。 「盗聴器は年間 40 万個売られている」 以前、盗聴バスターズの本部にその根拠を直接根拠を聞いたが誰も答えられなかった。 私が防犯機器を取り扱うようになり、問屋との取引が出来た時に月間の販売個数を聞いて見た。 東京、名古屋、大阪、福岡に支店を持つ問屋ですら、月間数個程度売れれば良い。 ネットや雑誌で、盗聴器を取り扱っている販売店の数を調べて、推定販売個数を計算しても、年間 40 万 個と言う数字には遠く及ばない。 「ぬいぐるみの中に盗聴器を入れてプレゼントとして送る」 実際にやって見ると、この方法には無理がある事が分かる。 一番致命的な事は、マイク部分が詰めてある綿などとこすれて、衣擦れの音ばかり聞こえてしまう事。 もう一つは、衣擦れの音がしないように、触らない状態で試して見ると、枕に耳を当てて聞いている様 な音になりクリアーには聞こえない。 更には、ぬいぐるみの中に仕込んだ後、縫い目を隠す事が非常に難しい事が分かる。 こうした事が、通説となりネットの中に溢れている。 正直に書いている所は、私の知る限り私が作っているブログや HP しかない。 そこに情報の格差が生じ、情報の非対称性が生まれる。 圧倒的多い誤った情報、圧倒的に少ない正しい情報、両者を見れば人は誤った情報を信じてしまう。 そこで生まれるのが「逆選択」と言う現象である。 この盗聴に関する相談掲示板の例で説明しよう。 元々の相談内容は「電話に雑音が入るので盗聴されているのでしょうか」と言う物だった。 もし、正しい情報に対称性の優位があったなら、 「電話に雑音が出る」といった時点で「盗聴ではない」 と、正しい判断が出来ただろう。 しかし、優位性が誤った情報に有った為に、存在しない盗聴器の為に調査をしたり、発見器を買ったり 無駄な出費をする事になるばかりか、見つからない盗聴器の不安に脅える事になってしまう。 こうした事が、情報の非対称性によって起きる逆選択である。 逆選択を防ぐには、正しい情報を発信し続ける事、そして実際に経験する事である。 自ら経験していない事を、他人の見解に求め、その相手も自ら経験していない場合、面白い現象が起き る。 正しい情報と誤った情報の量が同じであった場合、自ら経験していない者は、どちらが正しいかを自分 89 で判断する事が出来ない。 正しい情報の内容に納得している場合にも、自ら判断する事が出来ない。 そうした場合、折中案や両論併記になる。 折衷案や両論併記は、民主的解決に思えるが、間違った情報に市民権を与える事にもなる。 しかし、自ら経験を積んでいれば、確信をもって判断する事が出来る。 そして、その経験がスクリーニングを容易にさせる。 例えば、この盗聴の事例、自分で電話盗聴器を使って実験して通説が間違っている事を経験していれば、 「電話盗聴をされていると、雑音が出る」と書いている業者は、その文面を見ただけでスクリーニング に引っかかり、信用できない業者であると判断出来る。 その業者が、知っていて書いているとしたら、恐怖心を煽っている業者と言う見方も出来る。 そうした業者ばかりになれば、業界全体が信用されなくなってしまう。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/244.wmv 情報の非対称性や逆選択は、消費者の不利益だけでなく、業界自体の衰退を招く事も懸念されるのであ る。 序列と人格障害 序列と言う認識を持つ事も必要な事である。 序列意識と人格障害には密接な関係がある。 自己愛製人格障害の主な発生要因は「父親の不在と母親の過保護」であり、「貴方は特別」「貴方は他の 子と違う」など特別扱いされて育つ事や、逆に褒められずに育ったり、否定されて育つ事で「本当の自 分はもっと凄い」と、空想の中で失われたプライドを取り戻そうとする事が原因とされている。 そして自己愛製人格障害の症状の全てが序列に起因している。 どんな社会にも序列は存在し「社会力学的要素」のように、周囲の人に認められる事で序列が決まる。 序列は他人が決める物で、自分で決められる物ではない。 特別扱いされて育ったり、否定されて「本当の自分はもっと凄い」と言う空想を抱いて育つ事は、子供 の序列感を歪にさせる。 序列意識とは、理性で理解する物ではなく、本能で読み取る物である。 その為、理屈では分かっていても、衝動として現れてしまい、その衝動に突き動かされるか、その衝動 を抑えてストレスを溜めてしまう。 自己愛製人格障害は、自己愛が満たされている環境であれば「性格」でしかないが、自己愛が満たされ なくなると異常性が出て、鬱病や躁うつ病を発症しやすくなる。 この序列意識を是正する為には、社会で揉まれる事なのだが、社会で揉まれる事とパワハラの区別が付 いていない今の世の中ではそれも難しい。 90 昔は家庭内でも学校でも「威厳」と言う物があった。 家庭では父親の威厳、学校では教師の威厳。 しかし、威厳と言う物は他人が認める事で作られる。 父親の威厳を作るのは母親、教師の威厳を作るのは父兄であり、法は国民が遵守する事で威厳を持ち効 力を得る。 そして、人は威厳の無い者に従おうとはしない。 その威厳の原点は「父親」であり、序列なくして威厳は生まれない。 子供が学校で悪さをした時、教師が「親に言う」と言った時、親に威厳が無ければ子供に怖い事はない。 子供がモラルや道徳を学ぶには「愛着」と「序列」が必要である。 愛着により、自分の愛する人を悲しませたり、心配させたくないと思う心を育み、序列により決まり事 を守ろうとする。 愛着は母親から学び、序列は父親から学ぶ。 さて、その序列や威厳なのだが、厳密に言えばそんな物は存在せず、幻のような物でしかない。 しかし、その幻を信じる事で世の中は成り立っている。 その代表的な物が「お金」である。 1 万円札と言えど、単なる紙切れに印刷してあるだけで、1万円札に1万円の価値は無い。 1万円札に1万円の価値があると皆が信じているから価値が生じる。 そのお金の価値も、お金を発行している国家の信用が有って成り立っている。 国家に信用が無くなれば、お金は価値を無くして、ただの紙切れになる。 その国家も、国民と他国の信用で成り立っており、その国民とは家庭の集合体である。 父親の威厳もお金と同じであり、母親によって作られる物である。 さて、ここで一つ問題が生じる。 それが「資質」である。 父親が資質を備えていれば、序列一位に求められる役割を果たそうとするが、資質が備わっていなけれ ば役割を果たそうとはしない。 その資質とは「成長のプロセス」であり「家庭内の序列」である。 それは、父親だけでなく母親も同じで、教師や上司、官僚から政治家に至るまで同じである。 恐怖の克服と社会性 危険な事とは、別の言い方をすれば「スリル」でもある。 大人でも、ジェットコースターに乗ったり、フリークライミングをしたり、危険なスタントに挑戦した りする人もいれば、心霊スポットに行きたがる人もいる。 ジェットコースターに乗った後は「あ~怖かった」と言う。 人は何故、自ら怖い思いをしようとするのか? それは、人間に必要な事だからである。 91 危険なスタントをなぜ人は見ようとするのか? スタントが成功した時、なぜ人は喝采を送るのか? ジェットコースターが好きな人でも、一人で遊園地に行って一人でジェットコースターに乗る人は滅多 にいない。 必ず、誰かを誘う。 心霊スポットの肝試しも同じで、一人で心霊スポットへ行く人はまずいない。 必ず誰かを誘って行く。 スリルと恐怖は表裏の関係にあり、危険と恐怖も表裏の関係にある。 そして、スリルとは恐怖を克服した者が味わう感覚であり、安全を確約されて味わう恐怖でもある。 問題は、なぜ一人で遊園地に行き一人でジェットコースターに乗らないのか? なぜ危険なスタントを誰 も見ていない所で一人でやらないのか? なぜ一人で心霊スポットへ行って肝試しをしないのか? それは、一人でやっても面白くなく、つまらないからである。 ではなぜ、一人ではつまらないのだろう?なぜ危険な事やスリルを求めるのだろう? それは、一人では目的が果たせないからである。 スリルと言う物には二面性がある。 一つはスリルを味わう事でストレスが発散出来る。 もう一つは、自分を他人に認めさせる事である。 人間は群れを作り、協力と分け合いで進化してきた動物である。 戦や狩の時に恐怖に駆られて逃げていたら、一人前扱いされない。 一人前扱いされるには、恐怖を克服している事を周囲の人に認めさせなければならない。 人間には、そうした習性がある。 「根性無し」とか「臆病者」などと言う言葉は、見方を変えると「一人前ではない」と言う意味でもあ る。 一人前扱いされないと言う事は、認められていない事であり、他人から認められない者は自信を持つ事 が出来ない。 そうした人は「本当の自分は凄い」などの妄想を抱く傾向があり、それは人格障害の要因でもある。 そして、小さな恐怖の克服と小さな危険認識を積み重ねていなければ、大きな恐怖の克服や大きな危険 認識を得られない。 子供には危険が必要で、親は生死の危険が無い限り、子供から危険を奪うべきではない。 また、危険を体験する事で、無意識に脳に刻まれる事がある。 それが尺度である。 人間は自分の体を物差しにして世界を測っている。 どれだけ近付いたら危険か?何処までなら安全か? それを自分の体や、自分の動くスピードで測って 世界を認識し、それは対人関係にも応用されている。 そのスタートはハイハイを始めた頃から始まり、親が危険から遠ざけていると、人間としての自信を持 92 たずに育つ事になり、それも将来心の病を発症する原因になる。 親として注意すべき点は「親」と言う漢字をそのまま体現すればよい。 親と言う字は「木の上に立って見る」と書く。 つまり、高い所から見守っていれば良い。 怪我は子供の勲章であり、生死に係わる事でなければ、親は子供を信じて見守っているだけで良い。 そして、幼い時ほど親の目は届き易く、親の目が届く所での危険は大事に至る事は滅多に無い。 また幼い時に多くの危険を体験していれば、自己回避能力も高くなる。 そして何より親が見守るだけで口を出さなければ、子供は親に信頼されていると言う気持ちになり、親 の信頼が自律心を育てる。 93 第5章 被害妄想の科学 何故、被害妄想が起きるのか? 何故、監視妄想が起きるのか? ここではその原理の説明をして行く。 基準の変化 何事にも二面性があり、同じ物を見ていたとしても、どちらの面を見るかで異なった世界が見える。 それを知る物に「ルビンの壷」がある。 壷が見えると、顔が見えなくなり、顔が見えると壷が見えなくなる。 このルビンの壷のように、人間は何を見るかで見える物が異なるのである。 また、下の様な赤い丸を見続けた後、突然赤い色が消えると、赤かった部分が青い色に見える。 実験したい人は下記の URL に GIF 動画を用意してあるので、アクセスして表示される赤い丸を見続け れば体感できるだろう。 (URL をクリックして「許可」)を押す) http://www.johoguard.com/red.html こうした現象は、色の残効と言い、日常でも経験した事があると思う。 何故、赤い丸を見続けて、突然赤い色が消えると白が青に見えるのか? それは、基準が変化したからである。 赤い丸を見続けると、脳はそこが赤であると認識する。 つまり、赤く見えている所の基準が赤になると言う事だ。 94 白(基準)を 0、赤をプラス、青をマイナスとした場合、赤を見続ける事で、視覚の基準は赤になる。 見えている赤い色を+5 としよう。 赤を見続ける事で基準が+5 になれば、元々の基準であった白はー 5 になっている。 本来のー 5 は青の領域であり、基準が+5 になっている時に突然赤が消えて白になると、白はー 5 になって いるので青く見える訳だ。 つまり、人間は現実の世界を見ているのではなく、脳が感じた世界を見ているのである。 こうした基準は、 「色」に限った事ではない。 感じ方も基準によって異なる。 その代表的な物が、コリオリの力である。 コリオリの力は、存在しない見せかけの力である。 円盤の上にボールを転がすとまっすぐ進む。 円盤を回してボールを転がしても、ボールは真っ直ぐ進むのだが、円盤の上に乗り円盤と一緒に回って いる人から見れば、ボールは曲がって行く様に見える。 円盤に乗っていない人が、回転する円盤の上に乗っている人を見れば、円盤の上に乗っている人が円盤 と一緒に回っている事が分かる。 しかし円盤に乗っている人は、自分が円盤と一緒に回っているのか、周りが動いているのか分からない。 自分が動いている事に気付かなければ、周りが動いているように見える。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/246.wmv これも基準の違いである。 そうした基準は、経験によって作られる。 自分が動くと背景が動く、背景が動く事で、動いている事を認識する。 当たり前のような事なのだが、これも経験によって脳が学ぶ事だ。 ハイハイを始める前の赤ちゃんには、「自分が動けば景色が変わる」と言う経験が無い。 ハイハイを始めたばかりの赤ちゃんと、ハイハイの経験を積んだ赤ちゃんで、周りの景色を動かしてど ういう反応の違いが出るかを調べた実験がある。 赤ちゃんを椅子に座らせて、周囲の壁を前後に動かして見る。 すると、ハイハイを始める前の赤ちゃんは、反応を示さない。 しかし、ハイハイの経験を積んだ赤ちゃんは、自分が動いている錯覚を覚え、壁の動きに合わせてバラ ンスを保とうとする。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/201_2.wmv この実験結果の違いの意味は結構深い。 ハイハイの経験が無い赤ちゃんでも、母親に抱かれて移動し、移動する事で背景が動く事は経験してい る。 しかし、自分で動いて得た経験ではない為、赤ちゃんからみれば、自分を中心にして世界が動いている 95 ように見えていので、赤ちゃんには自分が動いていると言う感覚は無い。 その為、周りの壁が動いても、自分が動いていると錯覚する事はない。 それは、コリオリの力と同じで、母親と言う回転する円盤に乗って周りの世界を見ているのと同じ状態 である。 自分で動くと言う事は、自分が回転する円盤になると言う事である。 自分が動けば風景が動き、自分が止まれば風景も止まる、自分が動かない時に、見えている物も動かな ければ、見えている物は止まっている、自分が動かないのに見えている物が動いて見えれば、見えてい る物が動いている、自分が動き、止まっていた物が動いて見えれば、自分が動いていると認識する。 基準と言う物は、相対的に変化すると言う事である。 言葉にすると難解な話ではある。 脳の補完機能 脳の補完機能とは、Google の「もしかして検索」のような物と理解すれば分かりやすいだろう。 脳の補完機能を体験する簡単な実験がある。 このカードを×が左になるようにして右手で持ち、左手で左目を隠す。 右手を一杯に伸ばした状態で、右目で×を見続けながらゆっくりと目に近付ける。 すると、黒い帯の中にある◎が消えて、黒い帯だけに見える所がある。 その位置が、右目の盲班に◎が写っている状態、その為に◎が見えなくなっているのだが、脳は周りの 状況から、その部分にも黒い帯が続いていると判断するため、◎の部分が黒い帯に見える。 つまり、脳が見えない所を補完しているのだ。 これは視覚に限った事ではない。 聴覚にも補完機能はある。 また、視覚は聴覚に影響を及ぼす。 下記 URL の映像を参考に話を進めよう。 (URL をクリックして「許可」 )を押す) http://www.johoguard.com/1.wmv まず、この映像を「見ながら」何と言っているのか聞いてみる。 恐らく「ダ」か「ガ」に聞こえると思う。 次に、目を閉じてもう一度この映像の声を聞くと「バ」に聞こえるだろう。 96 この映像は、「ダ」の発音の映像に「バ」の音声が合成してある。 何故、映像を見ると「ダ」に聞こえ、映像を見ないと「バ」に聞こえるのか? それが脳の補完機能である。 「ダ」と「バ」の発音の違いは、「バ」は破裂音で唇を閉じてから出なければ発音出来ない。 脳は唇を閉じずに「バ」の発音は有り得ないと判断し、類似た発音である「ダ」や「ガ」に変換して、 映像を見て聞くと「ダ」や「バ」に聞こえてしまう。 しかし、目を閉じて聞くと、視覚情報が遮断競れる為、本来の「バ」の発音に聞こえる。 また、人間の脳はワープロに似ている。 言葉は耳から「ひらがな」として脳に伝わり、脳で漢字変換されて意味を理解する。 (日本語の場合) 例えば「投機」と言う単語、株をやっている人なら、「とうき」と言う言葉を聴けば、一番先に「投機」 と変換されるだろう。 しかし、陶芸家であれば「陶器」、不動産屋さんであれば「登記」に変換されるだろう。 ワープロで「かいごようつうほうき(介護用通報器)」と入れると「介護腰痛放棄」と変換されてしまう。 これは区切りの問題で、 「介護」で区切るか、「介護用」で区切るかで変換される漢字が異なる訳だ。 人間の脳も同じ誤変換を犯してしまうのだ。 街の中には色々な雑音や騒音が溢れている。 その雑音にかき消されてしまう「発音」もある。 例えば「おかあさん」と言う単語の「あ」が聞こえなかったりする。 その時、視覚の補完で、二重丸が消えて黒い線だけが見えてしまう理屈と同じ現象が起きる。 それまでの話の流れから、聞こえなかった「あ」を補完して「おかあさん」と正しく聞こえる訳だ。 しかし本人には「あ」が聞こえていないと言う自覚は無く、聞こえていると感じてしまう。 それが、聴覚の補完機能である。 普段する日常会話や聞こえてくる誰かの会話は、全ての発音が聞こえている訳ではない。 必ず雑音に掻き消されている音がある。 しかし、掻き消された音がある事を意識していない。 少し MP3 という圧縮形式に目を向けて見よう。 何故 MP3 形式にすると、データ量が少なくて住むのか?データ量が少なくなっても聞こえる音質は変わ りなく聞こえる。 圧縮されていないデータは重なっている音も全て含んでいるからデータ量が多く、MP3 は重なっている 音の情報を削っているからデータ量が少なくなる。 しかし、聞こえる音質は変わらない。 逆に言えば、人間は重なっている音を聞き分けていないのである。 それなのに、騒音が有っても聞こえている。 それが、脳の補完機能。 97 例えば「あし○○ん○にな○の○な」 これでは何を言っているのか分らない。 こうした書き方は「○」は無音を意味している。 人間は、このように「無音」であると理解できない。 現実世界では必ず雑音や騒音があり、雑音や騒音がある事でそこに情報が「欠損」している事を脳が認 識する。 その為に、そこを補うヒントを脳が探して補う。 次のヒントを読んでからもう一度、先の文章を読むと文のイメージが出てくる。 「明日は楽しい遠足」 このヒントを与えられると、その欠損した部分をそうしたヒントから補完される。 ちなみに答えは「明日天気になるのかな」 では、別のヒントで見直してみてみる。 「足が変だ」 まるっきり違う文章がイメージされたと思う。 それが脳の補完機能。 そんな処理が一瞬で行われている為、音が重なっていても聞こえるのである。 考資料料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/1.wmv しかし、周囲の状況から当てはまるヒントが得られない場合、自分の記憶が使われる。 それには感情が大きく影響し、負荷のかかっている思いは「強い感情」の為使われ易くなる。 こうした脳の補完機能は意外な病気でも起きる。 それが「新型難聴」である。 難聴と言えば、お年寄りと言う概念は捨てた方が良い。 実は、若年層でも起きている。 原因は、食生活。 スナック類や偏った食生活の為、血液がドロドロになり、その為に耳の外有毛細胞(ダンス細胞)が弱 ったり、死んだりして聞こえ難くなる。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/8.wmv 老人性の難聴は、全体的に聞き取れなくなるのだが、新型難聴は部分的に聞こえなかったりする。 そう、お母さんの「あ」だけ聞こえない様な難聴であり、聞こえない部分は補完機能によって補われる 為、本人が自覚する事は無い。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/10.wmv この病気の意味は大きい。 こうした病気もある事を知っていなければ、幻聴と勘違いをして統合失調症と間違えてしまう事になり 98 かねないので注意が必要である。 さらに、補完は記憶にも起きる。 覚えていない部分を、状況等のヒントや別の記憶で補ってしまう事がある。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/253.wmv 監視妄想の原理 何故、監視妄想が起きるのか? 監視妄想はどんなメカニズムで発生するのか? そのヒントは、ペーパークラフトのマジックドラゴン、別名首振りドラゴンにある。 マジックドラゴンは以下のサイトからダウンロード出来るので、実際に自分でも体験出来る。 (URL をクリックして「許可」)を押す) http://www.grand-illusions.com/opticalillusions/three_dragons/ 動画も用意しておいた。 (URL をクリックして「許可」)を押す) http://www.johoguard.com/07.wmv このマジックドラゴンは動いている訳ではない。 脳が、凹を凸と勘違い(錯覚)してしまう事で動いているように見えているだけである。 (影が出来ると錯視を起こし難い場合があるが、携帯カメラ等を通して見れば錯視は起きる) 自分を見つめている訳でもないのに、常に自分を見つめる様に見えてしまう。 これも、脳の補完であり錯覚である。(視覚では錯視とも言う) つまり凹凸が逆になる事で、常に自分を見つめている様な錯覚を覚えるのである。 では、監視妄想に陥る人は何が逆転しているのか? 行動的自我と意識的自我、本能と自意識、社会性と反社会性、「したい」と「されたい」、プラス思考と マイナス思考 等、様々な要素がある。 例えば、人間は本能では注目されたいと思っている、しかし自分に自信が無ければ人目を避けるように なったりする。 そこに「人目」に対する凹凸の逆転現象が起きる。 人目を避けようとすればするほど、注目を浴びたいと言う本能の欲求が強くなる。 コンプレックスは憧れの裏返しの感情である。 社会性を身に付けていなければ、社会に馴染めずに遠ざかろうとするが、その反面、社会にかかわりを 持ちたいと言う欲求が強くなる。 本能の欲求は自覚している訳ではなく、本能からの欲求に意識的自我が気付く事は無い。 つまり、本能では凸の所を、意識的自我で凹ませている状態である。 その為、凹凸の反転したマジックドラゴンの様に自分を見続けられる錯覚に陥る。 「ストーカーとは、好きな人にされれば嬉しい事を、嫌いな人からされる事」 99 これも、凹凸の逆転である。 例えば、憧れの人が家の前で待っていたり、偶然街で出会えば嬉しかったりする。 しかしその人の事が嫌いになれば、家の前で待たれれば怖くなり、偶然街で出会えば待ち伏せ?と思え て来る。 「いじめ」は本人が「いじめ」と思った時点で、いじめと認識する。 相手にいじめたつもりが無くても、本人がいじめられていると思えば、本人はいじめを受けていると思 ってしまう。 逆に、相手がいじめる意図を持っていても、本人がいじめられていると思わなければ、いじめと認識す る事は無い。 さて、この凹凸の逆転とは少し意味合いが違うが、心のバランスの凹凸の逆転もある。 「人間は対等な関係を望み、対等な関係が崩れた時に被害妄想が始まる」 これは人間の社会性に起因している事なのだが、 「与えたら与え返す」と言う基礎的な社会性がある。 このバランスが崩れると、心の中に不安が生まれ始める。 「与えたら与え返す」と言う社会性は、逆に「奪われたら奪い返す」と言う側面も持っている。 それらを言い換えると「与え返さない物には与えない」と言う事でもある。 与え返せない状態になると、社会から取り残され孤独化する不安に駆られ始める。 「与えられても返せない」状態になった時、人は負い目を感じ始め、自責の念に捕らわれる。 「期待に応えられない」と言うのもその一例である。 自責の念に捕らわれて、人の目を気にし始めると「与えられても返せない」状態である事を悟られない ように気を使い始める。 すると、誰かの何気ない一言に過敏に反応したり、周囲の目が気になりだす。 これも凹凸の逆転であり錯視が起きる。 こうなると、脳が不安に支配された状態になる。 それは「第 2 章コミュニケーションの不安と言う衝動」と同じ状態で、前頭葉の機能は失われ扁桃体に 支配された状態である。 すると、論理的な思考が出来なくなり、感情や衝動の意味付けに前頭葉が使われている状態になる。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/255.wmv こうなると、もはや理屈は通用しない。 その理屈が通用しないと言うのは、意見の相違とか、頑なに聞き入れないと言うレベルではない。 前頭葉の働きが抑えられて、犬や猫に理屈を説明しているのと同じ状態になっているのである。 また自分の心が傷付かない様に、心の防衛線を張る人もいる。 最初から、自分は駄目だと思い込む事で、自分の心を守ろうとする人である。 心を守ろうとする事は、願望があるから守ろうとするのであり、これも凹凸の逆転であり、不安の現れ である。 100 これを「不幸の先取り」と呼んでいる。 問題は、そうした状態が長期間続く事である。 ストレスとは敵に遭遇した時の緊張状態である。 知られたくない事を守ろうとすれば、周囲の人は敵に見え、敵に囲まれれば不安になる。 味方と思っていた人にも秘密にしていれば、味方も敵に見える。 不安に支配されている状態とはストレス状態であり、継続的精神ストレスはホルモンのバランスを崩し、 心の病を引き起こす。 心の病を引き起こす前に、こうした状況から抜け出させる必要がある。 本人がこうした状況から抜け出すには「コミットメント」をする事である。 本人以外の者が、こうした状況から抜け出させる為には、自責の念を解消させればよい。 しかし、口頭での気休めは一事凌ぎにしかならない。 「与えられても返せない」のであれば、返せる物を見付けて返させる事である。 例えば、その人に出来る仕事を与えたり、その人が貢献できる物を探したり、その人に出来る何かを探 し、その人にやらせる事である。 「与えたら与え返す」のバランスが戻れば、被害妄想は自然に消える。 被害妄想は深層願望でもある。 深層心理の願望と、自己否定する意識。 その解離状態が生み出す脳の錯覚。 自己否定の強さに比例して、願望に対する欲求も強くなり、自己否定と願望の解離の幅と被害妄想の強 さが比例する。 そして、自己否定の強さと自己愛の強さも比例する。 それを一言で言えば、心のバランス。 自己愛が満たされなくなった時から妄想は始まる。 周辺視野による錯覚 周辺視野による錯覚がある。 これはネットで「脇見」とも呼ばれている。 目の端で何かを捉え、それを見ようとすると消えるとか、見ると消えるので端で見続けると変な動きを しているとか言う物である。 これは、錐体細胞と桿体細胞の違いによって起きる現象である。 網膜には、錐体細胞と桿体細胞がある。 錐体細胞は網膜の中心にある黄斑に多く、色覚の基礎となる部分である。 簡単に言えば「はっきりと良く見られる部分」である。 101 しかし感度が低く、多くの光量を必要として、暗い所ではほとんど働かない。 錐体細胞は網膜の中心に多く存在するのに対して桿体細胞はその周辺に存在する。 桿体細胞は、感度は高いが色の識別が出来ず物をはっきりと見ることはできない。 暗闇では錐体細胞が働かず桿体細胞が働く。 つまり、夜の道を歩いていた場合、目の端から来る光は桿体細胞の分布する領域で焦点を結ぶ。 その為、ハッキリとしない「何か」が見える。 そこで、その何かを見ようと顔を向けると、その「何か」は網膜の中心部で焦点を結ぶ。 そこは錐体細胞の領域で暗い所の物は見えない。 だから消えたように見える。 そして、また顔を前に向けると「何か」は桿体細胞の領域で焦点を結ぶ。 だから見える。 すると、本人には自分が見ると「何か」かが隠れ、前を向くと「何か」出て来るように感じる。 それを「尾行」されているように感じてしまう。 また、尾行されていると感じて、「そちらを向くと隠れる」と思うと、目の端で追おうとする。 しかし、目の端では物をハッキリと見る事は出来ず「何かが動いている」としか認識できない。 そこに、補完機能が働き「何か」を「特定の何か」に見せてしまう。 それを簡単な実験で確かめる事ができる。 蛍光灯を消すと真っ暗で何も見えなくなる部屋で、蛍光灯を消す。 すると、蛍光灯は薄い緑に光って見える。 その薄い緑の光を見続けて、見えなくなったら視点をゆっくりと横にそらす。 すると、蛍光灯が桿体細胞の領域に入ると蛍光灯が見える。 そして、視点を蛍光灯に向けると蛍光灯はまた見えなくなる。 フィルター障害仮説 人間は、神経ネットワークによって作られたフィルターがあり、必要な情報だけ取り入れ、不要な情報 はカットされる仕組みになっている。 しかし、心に病を持つ事で、このフィルターに裂け目が出来、無関係な情報が入ってくるようになり、 気になりだす。 これを、フィルター障害仮説と言う。 ここで第一章脳の「脳の成長と発達」で書いた、脳卒中になった脳科学者の体験談を思い出しほしい。 その科学者は、脳卒中になった時、朝起きると光が眩しく感じられ、トレーニングマシーンを握る自分 の手が動物の爪のように見え、シャワーの音がのけぞるほど増幅されて聞こえたと言う。 そして、鬱病などの心の病は、脳が萎縮する事も知られている。 脳に萎縮が起きれば、当然神経ネットワークも失われて行く訳である。 102 最初は錯覚でも、錯覚を信じ込めばストレスになる。 ストレスが続けば脳にも影響が出始めて、神経ネットワークにも影響が出始める。 錯覚の段階なら目線を変えれば錯覚は消えるが、神経ネットワークまで影響が出てしまえば視線を変え ただけでは錯覚は消えない。 脳に損傷が出る前の段階で対処する事が大切である。 103 第6章 実践編(基礎感覚の練習) JG 式脳トレの基本概念は人間の BIOS やアプリケーションの再プログラミング。 その為、幼稚な行為とも思える事も含まれるが、JG 式脳トレでは実年齢を考慮しない。 そのプログラムが本来組まれるべき年代を、その人の精神年齢と考える。 人間の BIOS 部分は 3 歳までにプログラムされる為、幼稚とも思える内容も含まれるが、そうした BIOS の上にアプリケーションがあり、アプリケーションだけ直しても機能しない。 その人の持つ最も根深い基礎的なプログラムミスから組みなおす事が必要である。 また、実践は自主的に行なわなければ効果は期待できない。 他人に教えてもらうと、教えられた事しか出来ないが、自分で気付けば応用範囲が広くなる。 大切な事は、経験を通じで自分で気付く事であり、周囲の人は教えるのではなく、気付くように導く事 が必要である。 1. 日記を付ける まずは日記を付ける習慣を付ける事。 日記に書く事は、どんな事にどんな感情を抱いたか? どんな事が気になったか? 何に不満や怒りを感じ、何に喜びや楽しさを感じたか? そうした事の感想も書き、毎日付ける。 人間は、少しずつの変化は気が付かない。 日記を付けて読み返す事で、自分の変化を知る事が出来る。 変化は効果であり、自分で効果が確認できれば、自分の状態も把握しやすくなる。 2. 生活習慣を整える 何よりも先に、生活習慣や生活リズムを整える事が大切である。 特に睡眠。 日付が変わる前に寝て、毎日 8 時間は寝るようにする。 睡眠は疲労回復だけでなく、傷ついた細胞の修復から自律神経のバランスを整えるなど大切な役目を持 っている。 朝起きたら、太陽の光を浴びてラジオ体操をして、朝食を食べる。 朝、太陽の光を浴びる事で体内時計がリセットされ、朝食を食べる事で消化器官の時計もリセットされ て体の生活リズムを整える事が出来る。 104 そして、日中は体を動かし適度に疲れる事が大切である。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/252.wmv 食事はバランスの取れた食生活を心がけ、家族が同居している場合は家族の団欒に心がける。 ビタミンやミネラルがバランス良く摂取出来れば、特にどんな食材が良いとか気を使う必要は無い。 あえて摂取した方が良い物と言えば、ビタミン B12 だろう。 ビタミン B12 は毛細血管の中の赤血球の流れを良くする働きがあるとされている。 ビタミン B12 が多く含まれる食材としては、貝類や魚類、そしてレバーや魚卵などが有る。 基本は血液の流れを良くする事だ。 血液がドロドロで血流が悪ければ治るものも治らない。 その為には、まず血糖値を上げない事とサラサラ血液にする事だろう。 細胞に酸素や栄養を運ぶのは血液であり、血流が悪ければ細胞に酸素や栄養素を運べない。 それは、脳細胞等の神経細胞も同じである。 その他にも、牛乳、卵、バナナ、魚介類から肉類なども良い。 そして食事は一家揃っての団欒で色々な会話をする事が望ましい。 会話は言語力のトレーニングにもなれば、前頭葉の活性化にもなる。 人間は家族の関係を他者へ応用して社会性を発展させて行く。 一つ一つの事をあれこれ直すよりも、朝と夜に食卓を囲んだ団欒は多くの要素を含んでいる。 毎日、朝食と夕食に団欒の時間を作れば、特別に練習する必要も無い。 昔はそれが当たり前だった。 当たり前の事を、当たり前にするだけの事である。 3. コミュニケーションは現実世界で 出来るだけメールでのコミュニケーションは避けて、現実世界でのコミュニケーションを取るようにす る。 現実世界でのコミュニケーションは脳を活性化させる。 但し、相手の目を見て言葉を交わす事にストレスを感じたり、現実でのコミュニケーションに疲れを感 じる人もいるだろう。 それこそが、使われていなかった脳が活性化している状態であり、筋肉トレーニングをした時の筋肉疲 労と同じである。 逆に言えば、脳がそれだけ使われずに衰退していたと言う事である。 但し、筋肉トレーニングも限度を超えれば筋肉痛や肉離れから靭帯損傷など故障の原因にもなる。 慣れるまでは適度に自制して行う事が必要。 そして、現実世界のコミュニケーションを楽しいと思える事である。 105 4. 不便を与える 脳を鍛える為には不便を与える。 便利な物は買わない、与えない。 人間は楽をしたがる動物である。 しかし、楽をすると言う事は脳を使わない事でもある。 経済的に豊かになると便利な物を買い、楽をしようとする。 豊かになろうとすれば、体を動かして働いたり考えたりする。 そうして便利な物を手に入れるのは構わないのだが、親が豊かになり子供がその恩恵を受けると、子供 は便利である事が基準になってしまう。 また、安易に便利な物を買ってしまえば、工夫したり考える機会が少なくなってしまう。 便利な物を買わずに、自分で工夫して作る事に意義がある。 自分で文字を書かずに便利なワープロばかり使っていると、漢字を忘れて書けなくなってしまう様に便 利は脳を衰退させる。 ワープロを使わずに手書きで書いていれば、さほど漢字を忘れない。 つまり、不便は脳を鍛えるのである。 不便を脳の視点から考えて見よう。 「面倒臭いからやらない」とは、動く事を不快に感じている事である。 「快」「不快」は扁桃体の欲求であり、それを抑えるのが前頭葉である。 つまり、面倒臭いと思う事をやる事が、前頭葉を鍛える事になる。 そして不便はコミュニケーションを生む。 昔は居間にテレビが 1 台。 1 台のテレビを囲んで家族が集い、家族のコミュニケーションが生まれていた。 居間にしかエアコンが無ければ家族が居間に集まり、そこに団欒が生まれる。 1 台のテレビでチャンネル争いをしていれば、お互いにどんな物に興味があるのかも分かり、お互いに相 手の見たい番組を見る事で、話題を共有する事が出来る。 その中で交わされる会話から、お互いに意思の疎通も図れるようになる。 昔は、引きこもりと言う言葉さえ無かった。 パソコンも、携帯電話も、TV ゲームも、自分の部屋すら無い環境では、嫌でも学校へ行くしかなく、不 登校と言う言葉すら無かった。 家でも学校でも誰かと話すしかなく、逃げ場の無い環境では必要な事を身に付けるしかなかった。 しかし、そうした便利な物に慣れ切ってしまっている場合、すでに「依存症」になっている事が想定さ れる。 依存症になっていた場合、依存している物をいきなり切り離すと激しい衝動に襲われてしまう。 まずは、自分が依存症である事を自覚して、依存症を克服する強い意思を持つ事が必要になる。 106 また、親が安易に取り上げる事は逆効果に成りかねない。 依存症化している場合「置き換え」が必要になる。 依存している物を、他の物に置き換えて行く作業である。 依存している物を取り上げるだけではストレスが溜まる一方になってしまう。 その溜まったストレスを発散出来る物を探し出して置き換えて行く必要があるのだ。 置き換えられる物は千差万別だが、私が薦める物としては陶芸と演劇と菜園である。 陶芸は自分の表現を形で表し、演劇は表現法を学べる。 そして菜園は、野菜が育つ喜びや、自分の作った野菜を「美味しい」と言われる事で満足感や達成感を 覚える。 家族のイベントも大切だろう。 イベントと言っても旅行したりする訳ではない。 日常の些細なイベント。 私が育った家庭では、「じゃんけん」が毎日のように繰り返されていた。 例えば「天心甘栗」を母が買ってくると、じゃんけんが始まる。 昔の天心甘栗は、大小様々な大きさの栗が入っていた。 そして、家族 4 人でじゃんけんをして、勝った者が好きな栗を一つ取る。 家族で分ける物は全てじゃんけんで決めていた。 欲しい物が取れたときの嬉しさ、負けた時の悔しさ、そうした勝負に伴う感情があるので、単純な事な のだが盛り上がる。 大晦日には家族全員が「餅つき機」で餅が出来上がるのを見つめ、餅がつき上がれば手分けして伸餅に したり、鏡餅を作ったり。 今は、餃子も取り入れている。 家族全員で色々な話をしながら餃子を作る。(共同作) その時に好き勝手な形の餃子を作って家族で見せ合うと話が弾む。 炊飯器も洗濯機も無かった時代、スイッチ一つで勝手に炊き上がる時代ではなかった。 かまどで火を熾してご飯を炊く母、教えて貰っても中々上手く炊けない、自分が出来ない事を難なくこ なす母、そこには母親の威厳と母親への尊敬があった。 今は、子供でも大人でもスイッチを押すだけで同じご飯が作れてしまう。 そこに尊敬は生まれない。 結果だけが優先される感覚。 成功者には苦労話が付き物だが、成功話だけを聞きたがり、苦労話は聞こうとしない人が増えている。 結果だけを模倣しようとしても上手く行かない、行くはずもない。 成功者の苦労話を聞いても、自分が苦労を経験していなければ、本当の苦労は理解出来ず、多少の苦労 107 を苦労と勘違いしてしまう。 今の世代に欠けている感覚。 それは「型破りと形無し」の違いである。 型破りとは型を覚えた上で型を打ち破る事、形無しとは型も無く型破りの真似をする者で、それは似て 非なる物である。 そして「成長」の過程とは、人間としての「型」であり、型を学んで来なかった者は、型を知らない故 に壁に当たり苦しむ事になる。 不便と便利も同じ。 不便を知らずに便利を覚えれば、便利が基準になってしまう。 例えば、食材はスーパーに行けばお金を出せば簡単に買える。 簡単に買えるから作る苦労を知らない。 その為、「ピーマン」が嫌いな子供はピーマンを残したり、食べずに捨てる事に戸惑いを感じない。 しかし、自分で育てたピーマンを、嫌いだからと言って食べずに捨てられるのを見れば悲しくなる。 ピーマン一つでも、売られているピーマンを買うのと、自分で作ったピーマンでは、同じピーマンでも 重さが違う。 便利を与える前に、その便利を生んだ苦労を体験する事が必要であり、それが「型」である。 そして、最大の不便は貧困である。 生死にかかわる様な貧困は別だが、適度な貧乏は豊かな心を育てる要素を備えている。 家が貧しければ、便利な物は買えない。 便利な物を始めて買った時には感動する。 食べた事の無いおいしい物を食べた時にも感動する。 携帯電話が買えなければメールも使えない。 ゲームが買えなければ子供は外で遊ぶしかなくなり、コミュニケーション能力などは勝手に身に付く。 家が貧しければ家族が協力し、助け合わなければ生活して行けない。 すると家族の絆は自然と強くなる。 私の知る昭和 30 年代がそんな時代。 映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の舞台になった時代。 あの時代、人は皆温かかった。 今の世の中にピッタリの諺がある「物厚ければ情薄し」 5. 散歩(触覚、聴覚、嗅覚) 人間は動物であり、動物は動く物と書く。 毎日 30 分から 1 時間は歩くようにしよう。 動く事で脳が活性化される以外にも、歩く事には他にも効果がある。 108 くるぶしは第二の心臓と言われ、歩く事でポンプの役目を果たして血流を良くする。 夏はたくさん汗をかき、冬は寒さに震える事も大切。 真夏の炎天下でたくさん汗をかき、木陰で休んでいる時に吹く風の心地良さを感じ、震える寒さの中の 陽だまりの暖かさを感じる事で、自律神経のバランスを取り戻し、感覚と感情の結び付きを量る。 そして何より、太陽の光を浴びる事でセロトニンの分泌量が増え、脳内ホルモンのバランスの改善が期 待できる。 また、自然の中にはリズムがある。 常に快適な温度の中にいるではなく、メリハリの有る感覚。 そのリズムと言うか、周期と言った物を自然の中で感覚として身に付ける。 暑い日も有れば寒い日もある、北風が吹き付ける日もあれば穏やかな日も有る。 雨の日も有れば晴れの日もある。 人間社会も、同じ様なリズムを刻んでいる。 人間もまた自然の一部なのだから、人間社会の中にも自然のリズムが生きている。 会社にせよ学校にせよ、常に自分が快適でいられる環境など無く、常に相対的に変化している。 毎日変わる自然に順応するのと、自分の周りの変化に順応するのは同じ事である。 適度に歩いたら、公園のベンチ等で休憩を取る。 その時に、まず目を閉じる。 目を閉じて、視覚以外の感覚で自然や世界を感じる様にする。 これは、視覚以外の感覚のトレーニングである。 目を閉じて、耳を澄ませば今まで気にも留めなかった音が聞こえて来る。 肌は風を感じ、日差しを感じる。 つまり、目を閉じれば聴覚や触覚にかかわる脳の領域が活性化される。 その時に感じる「心地よさ」や「心地の悪さ」などの感情を意識する事。 人間は視覚が発達している為、視覚に頼りすぎている。 耳を塞いでも見える物は変わらないが、目を閉じると聞こえる物は変わる。 そして、音で世界をイメージして、肌で世界を感じる。 一言で「音」と言っても、音は実に多彩である。 聴覚は、聞こえて来る音の方向が分かり、素材の音を聞き分ける力もある。 さらに、おおよその距離も分かれば、重量感から大きさまでも分かる。 それだけの処理を脳は行っている。 肌から伝わる感覚は「存在」を感じる。 触覚からの刺激情報は実に多彩であり、それだけ脳に刺激を与えられると言う事である。 こうしたトレーニングは、世界観のトレーニングでもある。 人間は視覚に頼りすぎて、見えている物しか見ようとしない。 109 しかし、目を閉じる事で感じる事がある。 壁が見えていても、目を閉じれば壁は視界から消える。 見えていた壁は幻かもしれない。 目を開けていれば見えている現実しか目に入らないが、目を閉じて耳を澄ませば、気付かなかった音が 聞こえて来たり、肌で感じる。 解決策が見えなくても、目を閉じれば解決策が聞こえていたり、感じていたりする。 こうしたトレーニングを積む事で、見えなくても「感じる」事が出来るようにする。 この感覚を磨く事の意義は大きい。 親や仲間と離れていても、携帯等のツールを使わずに繋がりや絆を感じる為に必要な感覚である。 そうした感覚を、理屈ではなく体で覚える。 昔の子供たちは、外で遊ぶ事で自然に身に付けて来た。 しかし、勉強や TV ゲームばかりで外で遊ぶ機会が少なくなれば、身に付かなくなる。 理屈で覚えた理解と、経験の伴う理解では理解度が全く異なる。 大人は少しでも高度な事を学ばせようとするのだが、全てはミクロからマクロである。 小さな経験の積み重ねが無ければ、高度な事は学べない。 視覚に頼らずに「感じる」能力を高められるスポーツには「柔道」がある。 柔道は、相手の襟と袖を掴んで技を掛け合う。 ある程度柔道を覚えたら、目を閉じて柔道をすると「感じる」と言う事を実感できるだろう。 目を閉じていても、柔道着を掴み、掴まれ、そこから伝わる感覚で、相手の動きが把握出来る。 空間認識の簡単なトレーニングは、両方の手で拳を作り、人差し指だけ伸ばす。 そして目をつぶり、両手を伸ばして体から離れた所で左右の人差し指をくっつける。 指先がずれてしまえば、空間認識がずれていると言う事である。 その練習を、斜めでやってたり、背中越しにやってたりすると良い。 6. 挨拶 挨拶と礼は人間関係の基本。 朝の挨拶も、ただ挨拶するのではなく、相手の目を見て笑顔で「お早うございます」と言う。 それだけで、相手に与える印象は別物になる。 下を向いて挨拶していたら、誰に向かって挨拶しているのか? それは単に習慣としての行為でしかない。 しかし、相手の目を見て挨拶すれば、相手は自分に向かって挨拶されている事を認識する。 自分に置き換えて考えてみよう。 自分を向かずに挨拶されると不愉快になり、自分に向いて挨拶されると気持ちが良い。 110 「視線を合わせる」事は、脳を活性化させる。 朝の挨拶は一日の始まりであり、相手を気持ちよくさせる挨拶は人間関係の潤滑油である。 朝起きて、まずは家族と目を見て挨拶すれば、脳の活性化が図れる。 最初は家族から、そして散歩の途中で会ったご近所さんにも、目を見て笑顔で挨拶して見よう。 そんな事を続けていれば、ご近所さんから挨拶してくれるようになる。 親しき仲にも礼儀あり。 どんなに親しくなっても、「ありがとう」 「ごめんなさい」は忘れない事。 少しでも世話になったら必ず礼を言う、迷惑をかけたら必ず謝る。 自己弁護は相手の感情を逆撫でする事になるので要注意。 謝罪は余計な言葉を付けない事。 「この件に関しましては申し訳ございませんでした」と言った謝罪は、相手を怒らせる要因になりかね ない。 それは「この件以外は謝りません」と言っているような物。 単に「申し訳ありませんでした」と言った方が、相手は謝罪と受け取りやすくなる。 7. 遊び 子供のする遊びは、大人になってからではやり難いのだが、状況さえ整えば昔ながらの子供の遊びをす る事をお奨めする。 「鬼ごっこ」「かくれんぼ」「缶けり」「かごめかごめ」「はないちもんめ」実はこれらの遊びは大人がや っても面白い。 私の大学時代には、クラブの仲間とやっていた。 これらの遊びには、様々な必要な要素が含まれている。 その代表的な物が「かわりばんこ」と言う概念。 これは社会性に基礎をなす概念である。 心の病を発症する人は高学歴を持っているか、高学歴挫折者が多く、小学生時代の子供の遊びを十分に して来なかった人が多い。 社会性は理屈ではなく感覚として覚える物である。 理屈と感情は別物。 理屈では分かっていても、感情がそれを許さない、それは理屈と感情の解離状態である 理屈は前頭葉の領域、感情は扁桃体の領域である。 理屈では「仕方が無い」と分かっていても、その事に扁桃体が「不快」を感じる為にストレスも溜まる し、精神バランスも崩れる。 理屈と感情を同一化させるには、扁桃体に「不快」と感じる事を「快」であると教え込めばよい。 その為には「遊びの中で楽しく覚える」事が必要なのだ。 111 集団でする遊び、そこに含まれる「かわりばんこ」と言う概念。 一人が「鬼は嫌」と言ってやろうとしなければ、皆が楽しくない。 誰かが鬼をする事で楽しさは何倍にもなる。 そして嫌がっていた鬼も、やってみると意外と楽しい。 鬼には鬼にしか味わえない楽しさがあり、その楽しさを扁桃体に教え込む。 また、集団でする遊びは「共同作業」の楽しさでもあり、一人で遊ぶよりも大勢で遊んだ方が楽しい事 も覚える。 昔の遊びには、社会性を身に付ける為に、必要な事を楽しく覚える要素が詰まっているのだ。 しかも、大人がやっても体裁さえ捨てればとても楽しい。 それぞれの遊びの持つ要素を見て見よう。 「鬼ごっこ」は、走る運動能力と「追う」 「逃げる」と言った、狩猟的要素が含まれている。 この「追う」「逃げる」は、捕まえた時の喜びや捕まった時の悔しさの感情を生む。 そうした感覚は、目標とする人を追う、追いつかれそうになって逃げると言う感覚のベースになる。 「かくれんぼ」は、「探す」「隠れる」「見つける」と言う要素を学ぶ。(観察力・洞察力) 「何処に隠れたら見つからないのか」を考える事で、他人の視点を意識して見つからない場所をさがす。 自分だったら、こんな所に目が行くから裏をかいて・・・ そうして駆け引きを覚え、発想力も身に付けて行く。 鬼は逆の立場から見る事になり、それを交互に繰り返す事で他人を理解し易くなる。 「缶けり」は、「鬼ごっこ」と「かくれんぼ」の要素を併せ持つが、缶けりにしかない要素もある。 それが「仲間を助ける」と言う要素である。 助けようとして失敗したり、助ける事に成功したり。 この成功と失敗が大切なのである。 助けようとして失敗するのと、誰も助けようとはしない事は全く異なる。 つまり故意と偶然の感覚が養われる。 自分を助けてくれる場面、助けたくても助けられない場面、助けようとして捕まってしまう場面、助け ようとしても諦める場面、鬼に捕まった人はそうした場面を客観的に見る事が出来る。 また、自分が助けようとした時、助ける側の難しさも知る。 助けて貰えないのではなく、助けたくても助けられない事もあり、それは見捨てられるのとは違う事を 遊びの中で学ぶ。 その感覚も社会において必要な事である。 「かごめかごめ」は、皆の歌う歌声だけで、誰の声が何処から聞こえてくるのか?を判断して後ろの人 を当てる。 それは、視覚に頼らない感覚を養い、空間を「感じる」と言う感覚を磨く。 また、鬼以外は手をつなぎ、触れ合う事で人のぬくもりを感じ取る。 「ポコペン」と言う遊びも、感覚系のゲームである。 112 「はないちもんめ」は言葉通りではない気持ちを知るゲームでもある。 「あの子が欲しい」と、人気のある子が選ばれ訳ではない。 人気のある子だけを、わざと選ばない事もある。 皆から好かれているから選ばれない、それは好意の証でもある。 人気のある子を「あの子だけ残そうよ」と相談する。 そうした「相談」に参加する事で、人の気持ちや好意を表す形には色々な形が有る事を学ぶ。 その他にも「おしくらまんじゅう」は、身を寄せ合えば暖かい事を知り、 「だるまさんが転んだ」は、洞 察力が養え、鬱病などで体が動けない人には、お手玉などの室内で出来る遊びもある。 学校で習う学問は大人になって使う事は少ないが、こうした遊びから学ぶ感覚は一生必要な感覚である。 8. 言語力(視覚・洞察力) 相手に気持ちを伝える為に必要な物は言葉である。 また相手を不快にさせるのも言葉である。 そして言葉は思考の道具である。 当たり前のように使っている言葉だが、意外と身に付いていない人が多い。 対人関係にイライラを感じる時、往々にして相手が悪いと思ったり自己嫌悪に陥る。 しかし、そのイライラ感は、伝わらない事の苛立ちでもあるのだ。 その苛立ちがストレスになって蓄積されて行く。 話さなければ伝わらない、伝えなくては理解されない。 コミュニケーション能力を高めるには言語力を磨く事である。 相手に伝わらない場合三つの事が考えられる。 自分の伝え方が悪いのか?相手の理解力が無いのか?それとも両方なのか? しかし、相手は変えられないので自分の伝え方を見直すしかない。 自分だけが分かる話し方をしても相手には伝わらない。 自分が知っている事は、相手も知っていると言う前提で話をしていないだろうか? 自分が知っていても、相手は知らないかもしれないと言う前提で話を組み立てれば話し方も変わる。 言葉とは、常に問いかける事が基本である。 自分に対する問いかけ、相手に対する問いかけ。 何故伝わらないのだろう?と自分に問いかけて見る。 その為には相手の立場、相手の目線に自分を置き換えて見る事も必要になる。 相手の目線で見た時に、どうすれば伝わるのか?自分に問いかけて見る。 「言語力と思考力」の項でも書いたが、子供は言いたい事を断片的にしか言葉に出来ない。 言語力が磨かれずに育つと、大人になっても同じで、思いついた言葉を口にしているにしか過ぎない。 113 その為、起承転結も無く、時系列も曖昧な話になり、相手に真意の伝わり難い言葉になってしまう。 問題は、それを自覚していない事。 まずは、相手の目線に立って自分に問いかけ、そこで気付いた事を相手に問いかければ、相手が何処の 部分を理解していないのかが分かり、相手が理解していない所が分かれば伝えやすくなる。 また、それが出来たとしても、自分の描いているイメージを、相手に伝えやすいような言葉に出来るか? と言う問題があるが、これが意外と難しい。 例えば「鉛筆」を言葉(文字)で表す。 それだけで、その人のコミュニケーション能力が把握できる。 この先を読む前に、自分で鉛筆を文字で表現してみると理解し易くなる。 何事も自分で経験しないと理解出来ない。 まずは、鉛筆を伝える為の「長さ」 「重さ」等の項目だけを思い付く限り書き出す。 鉛筆を、文章化した事を前提にして話を進めよう。 まずどんな項目を書いただろう。 求められる事は、どれだけ多角的な視点で瞬時に項目(特徴)を見出せるかである。 鉛筆の項目を書き出すと、形、長さ、重さ、太さ、色、硬さ、材質、構造、持ち方、使い方、用途、叩 いた時の音、使った感触や感想などがある。 その項目の中の「形」一つとって見ても、横から見た形、後ろから見た形、削り口の形、芯の形、木目 の形など様々な形が有る。 その中で芯の形を文章化すると(記憶にある鉛筆) 芯は尖っている物や丸い物もあり、折れている物もある。 芯が尖っている物は削られてから使われていない鉛筆で、芯が丸い物は使われている鉛筆である。 鉛筆の芯は力を入れすぎて書くと折れる。 折れ方も、芯の先の方だけ折れる場合と、根元から折れる場合があり、根元から折れると削りなおさな くては使えないが、先だけ折れた場合は少し工夫すれば使える。 尖った鉛筆の芯は刺さるので危ない。 黒鉛筆の芯は硬く、色鉛筆の芯は柔らかく、黒鉛筆には濃さの違いもあり、濃いものは柔らかく、薄い ものは硬い。 硬さの表記は硬い物は H、柔らかい物は B で表され、中間の物は HB で現される。 等々、書き出そうとすればいくらでも書ける。 長さも、その鉛筆の長さは長いのか?短いのか?何センチ程度の長さなのか?全体の長さなのか?芯の 長さなのか?削ってある所の木目が見えている場所の長さなのか? 114 重さは、重いのか?軽いのか?何グラムなのか?材質は木なのか?鉛筆全体が芯なのか?どれ位太いの か?細いのか? 鉛筆の側面に何か書いてあるのか?書いてないのか?書いてあるなら何が書いてあるのか?絵なのか? 文字なのか?日本語なのか?英語なのか?何色で書いてあるのか? どんな構造をしているのか?使ってみて使い易いのか?使い難いのか?・・・・ など等。 伝えようとする物を、どれだけ正確に把握しているか?どれだけの項目を見出せるか? それらの項目を事細かく書けば、とても長い文章になるのだが、それが練習である。 自分が正確に把握していない物は、正確に伝えられない。 私が書き出した項目より少なかった人は、そこまで思い浮かばなかったと言う事であり、自分で書き出 しただけしか人に伝える事が出来ない。 最初は、少ない項目しか浮かばないが、観察を続けると観察力が付き、書き出せる項目が増えて来る。 それは、同じ物を見ていても気付く事が増えると言う事でもあり、それだけ物を見ていても気付いてい なかったと言う事である。 つまり、言語力を身に付ける練習とは「目」を養い「観察力」や「洞察力」を身に付ける練習でもある のだ。 一つの項目の表現でも、どのように表現するのか?どれだけ相手を気遣えるかで表現方法も変わる。 項目の中の「色」について考えて見よう。 まず、「鉛筆の色」と言われて、自分が何の色をイメージするかである。 一言で「色」と言っても、芯の色もあれば鉛筆に施された塗装の色もある。 自分が芯の色を伝えようとして「鉛筆の色は黒」と書いた場合、自分は芯の色を伝えるつもりでも、相 手は鉛筆の塗装の色をイメージしているかもしれない。 「鉛筆の色は黒」と言う表現は、誤解を生む書き方なのである。 相手は芯の色をイメージするだろうか、塗装の色をイメージするだろうか?と相手の目線を気遣えば、 表現方法は変わり、「鉛筆の芯の色は黒」と書けば誤解が生じ難くなるだろう。 しかし、相手がイメージするのは、芯の色と塗装の色だけだろうか? と自分に問いかけて見る。 「芯の濃さをイメージするかもしれない」 そこまで考えが及べば、 「鉛筆の芯の色は黒」では表現不足と気付く。 芯、塗装、濃さを全てを含む言い方を考えれば、 「鉛筆の芯の色は HB」等とすれば伝わり易いかもしれ ない。 これを要約して伝える場合「HB の鉛筆」とすれば全てを内包する表現になる。 しかしこの表現にも、相手は HB と言う色の濃さ(硬さ)を知っていて、HB は黒鉛筆の濃さ(硬さ)を 表す表記である事を知っている事が前提となっている。 (※HB は H と B の中間の硬さの意味で、柔らかければ黒の発色が強く、硬ければ発色が弱い) 115 もし、相手がこの表記を知らない場合は、表記の事から説明する必要が出て来る。 それは、相手に対する問いをしなければ分からない事でもある。 相手が HB 表記の意味を知らない場合は、要約せずに「鉛筆の芯の色は黒」と表現した方が伝わり易く なるだろう。 つまり、相手に合わせて表現方法を変えれば、それだけ相手に伝わり易くなるのだ。 私が書き出した表現にもいくつか前提がある書き方をしている。 「六角形と丸」六角形は黒鉛筆、丸は色鉛筆を表す。 六角形はしっかりと持てる形として使われており、黒鉛筆で六角形以外の形の物はキャラクター等を描 く為に、丸や四角を使ったり、合格祈願で五角形の物があるが、黒鉛筆の基本は六角形である。 色鉛筆は、芯が衝撃に弱く折れやすい為、衝撃を分散出来る「丸」が使われる。 cmやグラムもメートル法が前提で、相手がフィート・ポンド法を使っていれば伝わらない。 鉛筆の話からは話は外れるが、 「日本はメートル法だから他の基準は考える必要が無い」と思っていたら 大きな間違いである。 建築関係は今でも尺貫法が使われている。 また、アメリカ車のスピードメーターにはマイル表示になっている物もあり、私の大学時代の後輩は、 時速 60 キロで走っているつもりで時速 60 マイルで走行してスピード違反で捕まった。 外国人も増えている昨今、そうした事も念頭に入れておいた方が良い。 また鉛筆にはあまり知られていない誤認もある。 「三菱鉛筆」は三菱グループと思っている人が多いが、全くの別会社であり三菱グループとは無関係の 会社である。 マークも三菱グループと同じマークを使っているが、会社創設は三菱鉛筆の方が古く三菱グループが出 来る前から使っている。 三菱鉛筆が三菱グループのマークを使っているのではなく、三菱グループの方が同じマークを使用して いるのである。 これが、時系列の大切さである。 時系列を知らずに別会社が同じマークを使っていれば、会社の規模が小さい方が真似をしていると思い 易く、あらぬ疑いをかける事になりかねない。 また、自分が鉛筆の事を色々知っていれば、相手が使っている鉛筆を見ただけで、相手の事がある程度 分かる。 相手の鉛筆の芯が尖っていれば使われていない鉛筆、芯が丸ければ使われている鉛筆。 芯が丸ければ文字を書く人、芯が尖っていれば文字を書かない人。 芯が折れていれば、筆圧の強い人と言う事が分かる。 鉛筆の削り方を見れば、電気鉛筆削りを使っているか、手回し式の鉛筆削りを使っているかも分かる。 たまに、鉛筆に歯型が付いている場合もあり、それは鉛筆を噛む癖がある人である事を意味する。 116 鉛筆を噛む癖はストレスの証でもあり、観察力は相手の癖を見抜く力にもなる。 言語力を磨くには、まず身近な物を詳しく「観察」して項目を書き出す。 見ているだけでは、持った感触を理解し伝える事は出来ないので、自分で触る事も大切である。 項目を書き出したら、どの項目から順に伝えれば伝わりやすいかを考えて、伝わり易い順に並べ替える。 そして各項目をなるべく詳しく文書化する。 詳しく文章化した後、それを要約する。 それは、思考の整理整頓でもあり、考えをまとめ易くする練習でもある。 そして、相手の立場に立って読み返し、伝わり難い所に気付けば修整する。 その時「これ位の頃は分かるだろう」という気持ちは捨てる。 こうしたトレーニングを積む事で、考えがまとまり易く論理的な思考が出来るようになる。 最初は「物」から、そして「人」の観察、 「社会」の観察へと発展させて行く。 そして物に込められた人の気持ちや、言葉や行動に含まれた意味を知るには、こうした下地が無ければ 額面通りにしか受け取れない。 例えば、鉛筆の後ろにドーム型の加工がなされている物がある。 それが何故付けられているか?それを考えて見る。 鉛筆の後ろが丸ければ、両面削りをし難くなる。 両面削りは「目を突く」危険があり、その防止にもなる。 そして、両面削りをしなくても、後ろが丸ければ何かと安全である。 それは作った人から使う人への思いやり。 そうした「物」に込められた、人への思いやりを感じられれば、この世は色々な人の思いやりで溢れて いる事を感じられる。 この練習の狙いは、大きな課題に遭遇した時に、大きな課題の中の項目を見出し個別に処理する習慣を 付ける事で、脳が整理されて考えがまとまりやすくなり、人の気持ちも理解し易くさせる事にある。 それは、社会や会社での比較優位を見出す力にもなる。 この「鉛筆」一つでも、これだけの項目や文章があるのだが、 「鉛筆を文章で表せ」と言われた時、これ らの項目や文章が一度に押し寄せる為「ボトルネック効果」が生じ、思考や言葉がボトルネックに詰ま って出て来なくなる。 つまり、頭に浮かんだ多くのイメージは一つずつしか言葉にする事は出来ないのであり、それは行動も 同じである。 沢山の事を思い付いても、行動に起こせるのは一つしかなく、同時に複数の事を行なおうとすれば、中 途半端になったり、何から手を付けて良いか分からず何も出来なかったりする。 さて、相談者に実際に鉛筆の観察をさせて見ると、面白い傾向が出る人がいる。 実際に観察に使う鉛筆は新品の鉛筆ではなく、使い古した芯の折れた鉛筆を使ったりするのだが、芯が 117 折れている事を書かなかったりする。 そうした人に限って、課題として提示した鉛筆をほとんど見ずに書いている。 つまり、記憶の中にある鉛筆を思い出して書いていて、目の前にある鉛筆を分析していない。 これが目の前の課題を見ずに、イメージだけで処理しようとする「行動の習慣化」による勉強をしてき た人の傾向である。 提示された鉛筆を一目見て、鉛筆と認識した後は記憶の中の鉛筆だけを見て、記憶の中の鉛筆の記述を してしまう。 つまり、目の前にある提示された鉛筆に、記憶にある鉛筆のイメージを投影させて、観察する手間を省 いている。 この傾向が、集団ストーカー被害で言われる「ほのめかし」の正体である。 同じ色の服を着ている人を見て、その人を観察せずに他の人のイメージを投影させて、付け狙われてい ると思い込む。 だからこそ、目の前にある物を観察する練習が必要なのである。 次の段階は、ストーリーの言語化の練習。 TV のコマーシャルをなるべく詳しく文書化してから要約し、伝わりやすい文章にまとめる。 まず、起承転結での文章の構築、そして時系列での文章の構築、それを要約する。 要約したら「観察」と同じ様に、相手の立場になって読み返して修正して行く。 ある程度納得出来る文章が出来たら、「結」つまり結果から始まる文章に作り変えて見る。 その時、時系列をどの様に表現するか?を常に意識して作る事。 起承転結の順序はストーリー性を持たせた文章の構築である。 しかし仕事での会話は「結果」から話す事が求められる事も多い。 その使い分けが出来るようにする練習である。 そして、出来た文章は朗読して言葉にする。 言葉にする意味は、脳の言語野と文字中枢は別物で、更に文章理解、音韻、文法、単語はそれぞれ別の 場所で処理されている。 自分で作った文章を朗読する事で、脳で処理される各部位の結びつきを強める。 次の段階は「感想文」 先の段階は言わば「粗筋」、今回は「感想文」 小学生の時、感想文を書くつもりが、書いたら粗筋になってしまった経験を持っている人は多いと思う。 粗筋は模倣、感想文は自律の意味合いを持つ。 粗筋は他人が作った物をなぞらえているだけ、感想は自分の気持ちや感情を表現する事である。 子供は模倣で学び、やがて自律して大人になって行く。 118 感想文は、自分の感情や考えを書き出す物。 言い換えれば、「自分の思いや意見」を他人に伝える為の練習である。 感想文が書けない人は、何故書けないのか? 一つに、物語を把握していても理解はしていないのである。 それは、「観察」が出来ていないと言う事であり、「観察」を練習する事でこの部分は解消される。 二つ目に、自分の意見が間違っているかもしれない、誰かに非難されたらと言う恐れ。 それを解消する練習が「感想文」である。 例えば、海の景色が描かれていたのなら「私も見て見たい」と思えばそのまま書けば良い。 自分が海よりも山の方が好きなら「私は山の方が好きだ」と書けば良い。 「電車の中で、お年寄りが立っているのにシルバーシートに若者が座り席を譲らない」 そんな光景を見て、必ず譲るべきだ、自分なら譲る、必ずしも譲る必要は無い と書くのも自分の意見で ある。 さて、ここで問題。 「必ず譲るべきだ」は本当に、自分の意見なのだろうか? それは「皆が言っているから」「常識だから」と言う理由なのでは? と私なら疑問を持ってしまう。 そんな理由で言っているのなら、他人の意見の代弁でしかなく、自分の意見ではない。 何故自分なら譲るのか、何故必ずしも譲る必要が無いのか を書く事が大切な意見である。 例えば、「必ず譲るべき」と言う考えには、譲らない人の事情は考慮されていない。 元気一杯の人が席を譲らないのと、体調が悪い人が席を譲らないのとでは、全く意味合いが違う。 例えば私は、糖尿病による末梢神経障害があり、爪先の感覚がほとんど無い。 その為、立っているのがかなり辛い。 しかし、そんな事は外見からでは分からない。 私は車移動ばかりなので、そう言う場面に遭遇する事は滅多に無いが、同じように見た目は健康に見え ても障害を持っている人もいる。 「必ず譲るべき」と言う考えは、そうした人に対する配慮に欠ける意見でもある。 そうした人がいる事に気付く力も観察力や洞察力である。 皆が「必ず譲るべき」と言っている時に、 「必ずしも譲る必要はない」と言う意見を口にするには勇気が いる。 しかし、自分がしっかりとした理由を持って意見を言えば、皆がその事に気付く。 「私はこう思う」と自分の意見を述べて、相手も違う意見を述べる。 そこで、自分の意見が間違っていると気付けば考え直し、自分の意見が間違っていないと思えば考えを 変える必要は無い。 自分の考えを言い、自分の意見に対する他の人の意見も聞かなければ、自分の間違いや他人の間違いに 気付く事は無い。 一番愚かしいのは、考えの間違いに気付いても面子や意地で考えを改めない事である。 119 つまり、感想文の練習は、自分の意見や自分の気持ちを人に伝える練習である。 自分の意見や気持ちを伝えられないからストレスが溜まり、そのストレスが心の病を生む原因になる。 相談者と話をしていると、いつも気になる事がある。 それは自分から意見を言わない人が多い事だ。 まず、相手に意見を聞き、相手の意見に合わせるか、拒否するか、怒り出すか、本音を隠そうとする。 それは、常に相手の意見に左右されていたり、一人で荷物を背負い込んでいるように思える。 「私はこう思うが、貴方はどう思うか?それは何故なのか?」と言う話し方をする人は滅多にいない。 それを踏まえた上で、間違え易いパターンの人がいる。 見た目に社交的で雄弁な人が、心の病に陥るケースである。 実はこのパターンは「模倣タイプの人」に多い。 他人の意見を自分の意見の様に言っているだけだったり、他人の評価を自分の評価として言っているだ けだったり、そこに自分の意見が極めて少ない。 つまり、感想文を書いたつもりが、粗筋になってしまう代弁者タイプの人である。 それは、他人に左右されて自分を見失う事になり、自分を見失った時に病を発症しやすくなる。 「学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし」(論語) 「一事を経ざれば一智に長ぜず」(中国の諺) 「知識は経験とともにはじまるが、思惟思考がなければ盲目となる」(カント) 今の日本人を象徴する言葉である。 感想文が書けるようになれば、次は他人に自分の意見や主張を話す。 人と話す時は、必ず相手の目を見て話す事。 相手の目を見て話せないのは、自分に自信がない表れである。 「観察」を繰り返せば、物事に対する理解が深まり、深まった理解は自信を生む。 ここまでの練習の成果を、会話の中で試して自信を付けて行く作業である。 まず、話す時に「早口」になっていないか?を注意する事。 口調は、相手の心の状態を表す。 私は電話相談を受ける時、口調で相手の心理状態を把握する。 ゆっくりとした口調であれば精神状態は落ち着いている、早口ならば興奮状態で要注意、呂律がおかし ければ強い薬を服薬している。 単語の 2 音目が半音程度下がる(♭)傾向があれば、相手の気持ちが沈んでいる事が多く、上がって(♯) いれば明るい気持ち、私の発する音階に対し、低く応えれば沈んだ気持ち、高ければ明るい気持ちとい った具合に判断している。 コミュニケーションは音楽と同じ、不協和音やリズム音痴は演奏者も観客も不快になる。 美しいハーモニーを奏でられれば、演奏者も観客も満足し「快」を覚える。 お互いにフォルテシモなら言い争の様であり、お互いにピアニシモならヒソヒソ話の様であり、常にピ 120 アニシモで話す人は自信がないように感じる。 会話はハーモニーである。 皆がメジャー(明るい)の会話をしているのに、一人だけマイナー(暗い)な会話をすれば、不協和音 になる。 皆がワルツのリズムを刻んでいる時、16 ビートのロックのリズムを刻んでいればリズムが合わない。 他人のソロパートに自分が割り込めば、ソロパートの人は不愉快になり、観客も聞き苦しい。 自分がパートを奏でるには、和音を奏でながらタイミング良く入り込み、自分のパートを歌い上げる。 なにやら難しい事のようだが、誰にでも備わっている能力でもある。 しかし、いきなり他人の会話でやるのは難しい。 鶏は、「コケコッコー」と鳴く。 しかし最初から「コケコッコー」と鳴く訳ではない。 ひよこの時は「ピヨピヨ」と鳴いているが、鶏冠が生え出す頃には「ケー」と鳴き始め、「コ、コケッ」 になり「コケー」から「コケコッ・・・コ」「コケコココ」などを経て「コケッ・・・・コー」「コケコ ッコー」と鳴けるようになる。 つまり、鶏の鳴き声は潜在的な物でもあるが、練習も必要なのである。 人間の社会性は、全て家族関係をベースにして、他者へ発展させている。 会話の練習も家族の中で身に付けて行く。 今、その家族の会話の機会が減少傾向にある。 鬱病などの心の病の増加の背景には、こうした事も関係しているのかもしれない。 家族の団欒の時間はどれ位有るだろうか。 父親のいない夕食、朝食を食べない子供、1 台のテレビを家族みんなで見る機会も減り、子供は TV ゲー ムに熱中。 ハーモニーを奏でられない家族が増えている。 会話は誰かに方法を学ぶ物ではなく、家族とハーモニーを奏でていれば勝手に身に付く物である。 まずは、家庭内で団欒の時間を増やし、家族間の会話を増やす事である。 当たり前に使っている言葉も見直した方が良い。 当たり前に使っている言葉が、相手を不快にさせている場合もある。 最近メディアでは「~じゃないですか」の賛否が問われている。 ある番組ではこの言葉に「不快」を感じる人は 80%以上に上っていた。 何故この言葉が人を不快にさせるのだろうか? それは「疑問系で相手に投げかけるから」と言う。 疑問系で相手に投げかけ、同じテンションでの反応を相手に強制する言葉と言う事らしい。 こうした言葉を使う背景には、早く親しくなりたい、早く仲良くなりたい、と言う心理があると分析す 121 る人もいる。 またそこには「自分の事を知ってるのが当たり前」と言う感覚もあるという。 それは私も感じる。 つまり、自分の事を知っている事が共通認識であるかのように話をする人が多い。 「○○さんが」と言われても、私はその人を知らない。 ○○さんを知らない人には、その人との関係から話さなければ何を言っているのか理解に苦しむ。 そうした傾向は、小さな村社会に見られる傾向である。 限られた狭い地域の中では、村中の人が皆を知っている。 その為、皆が知っている共通認識で会話が成立する。 そんな傾向が、今の若い世代の言葉として現れている。 村社会は老若男女を問わないので序列関係等が存在している、しかし若い世代は同年代、同集団に限定 され、村社会より遥かに小さく「序列の無い人間関係」の言葉になっている。 逆に価値観は多様化し、共通認識が持ち難い社会構成になっている。 私は、そこに問題があると思う。 村社会の人間関係は全て現実世界の人間関係だが、若い世代の人間関係は現実世界の希薄な人間関係を バーチャルで補う傾向がある。 それが、多様性を失わせ、多様化する社会に順応し難い体質を生み、言葉はその表れと考えられる。 そうした傾向を是正する方法は、言葉を直しても付け焼刃でしかなく、根底から是正する必要があると 考えている。 話し上手は聞き上手。 会話を覚えるには、年代の違う人の話しを聞く事から始める。 同年代と話すのではなく、全く話の噛み合わない年代の人と話す事が望ましい。 全く話の噛み合わない会話は、同世代の共通認識の無い会話である。 世代の全く異なる会話では、相手の話をしっかり聞かないと何を言っているのか分からない。 その為、相手を理解しようと集中して聞こうとする。 お年寄りから昔の話を聞いたり、昔の遊びを教えてもらったり、そんな経験を積む事が多様性を生み、 相手の事を考えて話す術を身に付けられる。 共通認識が全く無い環境での会話経験を積み上げれば、多様性が自然と身に付いて来る。 また、お年寄りにしても若い世代と話をする事は、お年寄りの脳も活性化させる。 そして何より相互理解が深まる。 ちなみに、外国人との会話でも、下手に英語を知っているより英語を全く知らない人の方が、外人は理 解しやすい。 それは、下手な英語は誤解が生じ易く、全く言葉が通じない者同士の方が、相手を理解しようと集中す るからである。 私は家内との結婚(フィリピン)で身を持って知った。 ※参考資料 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/254.wmv 122 また、秋葉原事件の加藤被告が初公判で「言葉ではなく、行動で訴える」と語ったが、それは詭弁でし かなく、「行動で訴える」とは伝えられる言語力を身に付けていなかっただけでしかない。 観察力や洞察力、そして言語力の総合問題を少し作って見た。 写真を良く観察し、違和感を覚えたら、その違和感を書き出し、文章化して考察して見る。 さて、実際に観察力、洞察力の問題を解いてみよう。 まずは簡単な例題的な問題から。 問題 1-1 次の写真を見てこの物体の形状を述べよ。(世界一受けたい授業の一場面) この写真は一見同じ様に立っているだけに見える。 世界一受けたい授業の一場面なので、番組を知っている人は錯覚である事に気付いた人も多いと思う。 そんな事より、この写真に違和感を感じるか感じないか?が大切な事である。 違和感を感じない人は、もっと観察力を磨く事。 違和感を感じた人は、何に違和感を感じたのかを自問自答する事。 その違和感が、この写真の形を探るヒントである。 123 そのヒントに気付き、ヒントから論理的に考察して、実際の形を文章化する。 この物体の影の形と、窓の大きさにヒントがある。 この物体の影は交差している。 左右の影の濃さを見比べると、右の影の方が若干濃い。 影の濃さが違うと言う事は、右の板と左の板は床との距離が違う事を示している。 板と床が近ければ影は濃くなり、離れれば影は薄くなる。 しかし、立っている所と床の端までは同じ幅であるので、同一線上に立っていると考えられる。 そして窓を見ると、左より右の方が若干大きく、右の窓の壁の厚みが太い。 また窓の四隅の壁厚の角度も微妙に違っている。 根元の太さは同じであるので、窓の位置は左が遠く右が近い事を表している。 そこから導き出される答えは、 二つの板は同一線上に立ち、左は奥に傾斜し、右は前に傾斜した形である。 間違えてはいけないのは、これは正確な形を言い当てる物ではない。 自ら違和感に気付き、その違和感を文章化すると共に、その違和感の論理的説明、そして実際の形を論 理的に推測出来るようにする為の思考力のトレーニングであり、形の正確さにはあまり意味が無い。 124 答えの正確さではなく「過程」が重要なのである。 今の世の中「結果が全て」と言う考えが蔓延しているが、過程のない結果は beginner's luck でしかない。 過程は不完全でも良い、不完全なら失敗するだけである。 失敗する事で過程に問題がある事が分かり、それが分かるだけでも大きな収穫である。 そして失敗しなければ見えて来ない物もあり、失敗した事の無い者にそれは見えない。 know-how とは失敗の経験の事であり、失敗の経験が無い者は know-how を持つ事は出来ない。 今度は自分でヒントを見出し、自分で考えて見よう。 問題 2 次の写真を見てこの物体の形状を述べよ。(世界一受けたい授業の一場面) さて、どれだけこの写真に写っているヒントに気付き、論理的に形を推測できるか? まずはじっくり観察して、違和感や気付いて事の項目化、その項目を文章として表し、論理的に考察し て答えを導き出す。 但し、答えを知る事はさほど重要ではない、それまでの過程にじっくり時間をかける事である。 答えは WEB で。 http://www.johoguard.com/JG/JG1.html(URL をクリックして「許可」 )を押す) 125 問題 3 次の写真を見てこの物体の形状を述べよ。(世界一受けたい授業の一場面) これはかなりの難問だが、じっくり観察してヒントに気付けば論理的に形を知る事も不可能ではない。 答えは WEB で。 http://www.johoguard.com/JG/JG2.html(URL をクリックして「許可」 )を押す) こうした「気付き」のトレーニングを積むと、様々な所で役に立つ。 例えば「車の運転」をする時には危険の察知、スポーツでは対戦相手や対戦チームの分析、学問では実 験結果の分析など、基礎的な総合力が上がる。 まずはこうしたトレーニングで脳の基礎体力を付ける事である。 最後に何故問題に錯覚の写真を使ったのかを説明しておこう。 世の中は錯覚の連続であり、人間関係もまた「然り」である。 この見えている物体だけを見ていては真の姿は見えない。 しかし、影の形や濃さなどには本当の形を知る手がかりが隠されている それを見抜き、本当の姿を知る能力を養うには錯覚の写真を使うのが効果的なのである。 こうした問題は、町中に転がっている。 126 その問題を自分で気付いて自分で解く事を普段から心がける。 私はそうした事を、ある会社の社長さんに教えられた。 その社長は、私の勤めている会社に営業指導の為にやって来て、直ぐにトイレに行った。 すっきりした顔で戻ってきた社長は、社員の前でこう尋ねた。 「ここのトイレで、一番使われている便器はどれか?」 そこの男子用トイレは、小便器が 3 つ有り、どの便器が一番使われているか?と問われたのである。 いきなり聞かれた社員は誰一人答えられなかった。 そして「毎日使っているトイレなのに、そんな事にも気付かないのか?トイレの床を見て見ろ」と一喝 された。 確かに 3 つの便器の床の汚れ方はそれぞれ違っていた。 しかし、汚れている事は知っていたが、それに何の意味があるのかなど気にしていなかった。 その社長は「一番汚れている便器はそれだけ使われていると言う事だ、しかしその汚れ方を見て、おか しいとは思わないか?」と問う。 入り口から一番近いトイレの汚れが最も少なく、二番目のトイレが最も汚れている。 三番目のトイレは二番目に汚れている と言い、常にそうした所に気付き、その理由を考えていれば、 その答えの中に商売の秘訣があると教えられた。 そして、そうした事を常に意識していれば、商売のネタや売り上げを上げるヒント等は何処にでもゴロ ゴロ転がっている、それに気付くか気付かないかで人生は大きく変るとも教えられた。 では、何故入り口から 2 番目のトイレが一番使われているのか? 基本的に人間は一番近い物を使おうとするが、入り口の横には洗面所があり、洗面所と便器の間には仕 切りがある。 入り口から入ってきた人が一番近い便器を使おうとすると、曲がらなくてはいけない。 二番目の便器はほぼ直線で使える、3 番目の便器は直線で使えるが 2 番目より遠い。 よって、2 番目の便器が一番使われる。 しかしこれでは不十分。 その中に有る人間の行動パターンを要約する必要がある。 人間は曲がる事に面倒を覚える傾向がある 人間は面倒を避けた最短を好む傾向がある 曲がる面倒と距離の面倒が同程度なら距離の面倒を選ぶ傾向がある。 こうして要約すると応用出来る物が一気に増える。 しかし「人間は曲がる事に面倒を覚える傾向がある」と人から聞いた場合、他の傾向には気付かず、一 つの傾向しか念頭に無くなってしまう。 これが「自ら気付く」事の大切さである。 127 散歩している時でも、街中に転がっている問題に気付き、論理的に考えて見る事である。 注意すべき点は、論理的考察には主観は厳禁であり、主観論で考えた物が被害妄想となる。 応用問題 http://www.johoguard.com/pwmgr/member/lie.html 9. 本を読む、朗読を聴く、ラジオを聴く、雲を見る 人の話を理解したり、相手の立場や目線を理解するには、イメージ力が必要である。 テレビは映像で見せてしまう為、イメージが固定されてしまい、自らイメージする力が養われない。 イメージする力を養うには、本を読んだり、朗読を聴いて物語の情景をイメージする事が必要である。 音楽を聴くよりラジオを聴く。 仕事や家事、運転中など出来る限りラジオを聴く。 ラジオは言葉。 言葉を聴き続けていると、知らず知らずに話の内容が頭の中でイメージされる。 言葉は右耳で聞く癖を付ける。 右耳は左脳に繋がっている。 左脳は言語認識、思考、理論の処理がなされる為、言葉を理解し易くなる。 試しに右耳と左耳で聞き比べて見ると良い。 電話での会話を、右耳で聞くのと、左耳で聞きくのとでは、言葉が頭に入ってくる感じが違う。 右耳で聞くと、言葉と理解が同時に感じられ、左耳で聞くと理解するのが若干遅れるのを感じると思う。 本を読む時は朗読する。 本を読む事で、色々な言葉の表現を身に付ける。 朗読する時には抑揚を考え、何処を強く言えば伝わるのか、何処を弱く言えば伝わるのか、話すスピー ドは?声の大きさは?自分ならどんな声でどんな口調で語られたら理解しやすいか?相手の立場になっ て考える。 そんな事に気を配りながら朗読する。 まず、本に描かれている情景を思い浮かべ、その情景をどう表現すれば人に伝わるかを考えて朗読する。 上手に朗読する必要等はない、伝わりやすさだけを考えて朗読すればよい。 そして、身振り手振りも付け加える。 人は使う感覚器官が多いほど覚えやすく、多くの器官を使うほど脳も鍛えられる。 身振り手振りを使う事で、自分が物語を把握出来ると共に、伝えようとする相手も理解し易くなる。 音楽を聴く時でもトレーニング法がある。 ヘッドホンを付けて音楽を聴き、一つの楽器の音だけを耳で追う。 ベースならベースの音だけを追い、ドラムの音やギターのベース音と区別して聞き取る。 この時、目を閉じて聴覚に集中して聞くと聞き分け易くなる。 128 これは「聞き分ける」力を高めるトレーニングである。 一つの楽器の音だけを聞き分ける練習は、聞き取れない音や掻き消されて聞こえない音を減らし、補完 による聞き違いを減少させる。 イメージ力を養うには、雲を見るのも効果的である。 雲を見て、その雲が何の形に見えるのか? 私が子供の頃に良くやった遊びである。 散歩の途中で、ベンチに腰掛て雲を見て、雲の形から色々とイメージする事も有効な手段である。 10. ボディーランゲージ ボディーランゲージとは非言語コミュニケーションで身体言語とも言われる。 言葉によるコミュニケーションに、身振り手振りを加えると、聴覚だけでなく視覚でも表現する事で、 相手に伝わりやすくなる。 しかし、会話の時に使う身振り手振りは、ほとんど無意識に行なっている場合が多い。 逆に考えれば、身振り手振りに本音が出ていたりもする。 意識してボディーランゲージをして、一つ一つの動作を何故その動作をしたのか?を突き詰めて考えて 行くと、手の表現などに相手の本心が見えて来る。 「空気が読めない」と言った人は、こうした動作に含まれる本音を読むと良い。 しかし本音を読むには、観察力や洞察力が備わっている事と、自分でボディーランゲージを経験して微 妙な違いを知っておく必要が有る。 まずは相手を観察して相手の癖を見抜く事。 見るべき所は、口元、目線、手の位置と向き、腕組み、指の動き 等々。 まずはガードの仕草を見つける事である。 相手が警戒している時、口元を閉めていたり、手を握り締めていたり、腕や指を組んでいたり、などの 守りの仕草が出ている。 「秘密」をボディーランゲージで表す場合、人は唇や口元に力を入れたり、口を手で覆ったりする。 人は会話の時に使う身振り手振りにも、無意識にそうした傾向が微妙に出ている。 例えば手の仕草だが「私から貴方に」と言うテーマでボディーランゲージをすれば、掌を胸の辺りで胸 に向け、そこから手を前に出しながら掌を上に向ける動作をする。 「守って」と言うテーマでボディーランゲージをさせれば、掌を体に向けて体を抱きかかえる動作をす る。 また、人は掌で物を隠そうとする時、掌を上に向けて隠そうとはしない。 つまり、掌を下や内側や自分に向けていれば守りの傾向であり、掌が外や上そして相手に向けていれば 開放の傾向を意味する。 掌を開いて伏せていれば守りの度合いは低く、握りだしたら強固な守りである。 129 但し、かなり微妙な変化で出る為、観察力や洞察力が身に付いていなければ見抜けない。 そうした身体的表現の傾向を知るには、自分ならボディーランゲージで、どう表現をするかを知る事で ある。 11. ボディータッチ 家族間のスキンシップ、肌と肌のふれあいを大切にして、肌に触れる時間を少しでも増やす。 セクハラと言う言葉は忘れ、他人との間でもボディータッチは極力拒否しないように勤める。 (場所にも よるが) 人間の最も最初のストレス解消は、親に触られる事。 子供の愛情の示し方も、親に抱きついたり触ったり、親も頭を撫でたり抱っこしたり。 ペットに対しても同様の行為をする。 恋人同士が腕を組んだり、友達と手を繋いで帰ったりするのは、この名残である。 世界を感じるのは触覚であり、人間は触る事で立体を感じている。 他人に触り、他人に触られる事で、自分以外の人間の存在を確認する。 自分は一人ではないと言う事を、理屈ではなく感覚として理解する事も必要な事である。 人間は、話を聞くだけ、読むだけでは記憶に残り難い。 脳は情報を重要な情報と重要ではない情報と区別し、脳が重要ではないと判断した情報は忘れるように 出来ている。 重要と判断する基準は、「繰り返される同じ情報」「複数の感覚を伴う情報」が重要情報として記憶に残 る。 その為、言葉だけの「労い」よりも、ボディータッチを伴う「労い」の方が心に響き記憶に残り易くな る。 より相手の心に響かせるには、相手の手を握り、相手の目を見て言葉を発すると、心に強い手の感触が 長時間残り、その感覚を思い出すだけで心に暖かい物が宿る。 感情が乏しくなった時には、目を見て笑顔で手を強く握れば、感情は揺り動かされる。 触覚からの刺激は強力で、一度の握手の感覚でも、その感覚が 1 日から数日は掌に残る。 さて、何故「掌」なのか? それは人間の触覚神経が何処にどれほど集まっているかが関係している。 人間の体で、最も感覚神経が集中している所は掌であり、同じく神経の集中している足の裏のおよそ 100 倍の感覚神経がある。 その感覚神経も、体中に痛点、圧点、冷点、温点があり、その中で最も少ないのが温点である。 その最も少ない温点が最も集中しているのが掌であり、圧点も掌に集中している。 130 「ふれあい」で刺激を受けるのは、圧点と温点であり、それが集中しているのが掌である。 人間の体を触覚神経に合わせた大きさで現すとこうなる。 これほど掌には神経が集中しており、それだけ脳に多くの刺激を与える。 そして、視覚、聴覚、触覚から同時に刺激を与える事で、心を立体にする。 これを私は「三感一致」と呼んでいる。 視覚から生まれる感情、聴覚から生まれる感情、触覚から生まれる感情、この3つが一つになって立体 的な心を作り上げている。 12. 愛着 愛着は社会性の根源であり、愛着なくして社会性は身に付かない。 しかし、愛着だけは本人の努力だけでは如何ともし難いが、観察力や洞察力が身に付けば、それまでに 注がれていた親の愛情に気付き、愛着が目覚める場合もある。 愛着を身に付けさせるには、親もしくは親に代わる存在が不可欠である。 愛着を身に付けるには、親もしくは親に代わる者(以後親と言う)と本人との間に以下の要件を満たす 関係を結ぶ事である。 子供が他人に迷惑をかけたなら、相手に頭を下げてひたすら謝り、その姿を子供に見せる事。 親は子供の為に恥をかき、世間体よりも子供を心配し、体裁を繕わない事。 親は子供の知らない所で、子供の為の行動をする。 子供は自分の事で親が頭を下げている姿見ると、申し訳ない気持ちで一杯になる。 子供は自分の知らない所で、親が自分の事を思っていたことを知ると、親の気持ちが身に染みる。 131 そうした経験を積む事で、愛着は身に付いて行く・・・・と言いたい所なのだが、そんな簡単な物でも ない。 これはあくまでも愛着を身に付ける為の要素であり、当事者にその要素を見抜く資質(観察力・洞察力) や、視覚に頼らず「肌で感じる感覚」が身に付いていなければ意味が無い。 また、いつその能力が身に付くかも分からないので、やり続けなければならない。 親がそれを負担と感じていれば、ストレスにもなり子供に「作為」を見抜かれる。 親も自然に出来なければストレスが溜まり、続けられなくなる。 また、乳児期の母子の触れ合い不足に起因する場合、添い寝をしたり、抱きしめたり、そうしたスキン シップが必要になる場合もある。 ※P66 も参照 13. コンプレックス コンプレックスには肉低的な物から環境的な物まで様々な物がある。 まず、コンプレックスとは「感情複合」の事であり、心理学者ユングの定義では「ある事柄と、本来無 関係な感情とが結合された状態」としている。 日本で用いられるコンプレックスとは、アドラーの「劣等複合」から「劣等感(劣等コンプレックス)」 の意味で使われる事が多いが、ファザコンやマザコン等は「父親や母親に対する愛着」の意味であり「劣 等感」とは意味合いが異なる。 ここでは劣等感の意味で使い、劣等感を「非平均に対する自責の念」と考える。 子供は、保育園や幼稚園に入るまではコンプレックスなど持っていない。 それが他者との比較をする様になり、自分だけが他人と違っている所に気付き、自分も皆と同じであり たいと思う。 そして、それが叶わないと「他者とは違う負い目」を感じ始め、その思いが劣等感となる。 劣等感の基本感情は「負い目」である為、他人には知られたくない「秘密」となる。 コンプレックスは、時代の価値観によっても左右される。 日本では「肥満」はデブと言われるが、貧困国では肥満は美徳。 貧困国では、太れるのは豊かさの証であり、肥満は人気の要素でもある。 戦後の日本でも、肥満の子供は「健康優良児」として表彰されてもいた時代もあった。 劣等コンプレックスを解消するには、自分のコンプレックスを人に話す事。 つまり、コンプレックスをコミットメントとして使う事である。 自分の弱み(悩み)をさらけ出すと、相手は自分への信頼と感じ、相手も弱みを話そうとする。 多くの人と悩みを打ち明け合えば、悩みを抱えているのは自分だけでない事を知る。 132 つまり、悩みを持っているのは自分だけでない事を知り、非平均化の感覚が薄れる。 しかし、「言語力」が無ければお互いを知り合う事も難しい。 また、肉体的コンプレックスは自分の武器である。 他者と違う肉体的特徴は、他者が覚えやすい特徴でもある。 それがどれほど社会に出た時に有利な事か? 少人数クラス等の狭い世界では認識する事が出来ない。 少人数クラスなどの狭い世界では、自分の事を知っているのは当たり前。 自分の事を知っているのが当たり前の世界で、自分だけが持つ特徴は非平均化になり、特徴を持つメリ ットは無く、武器と言う認識を持つ事は出来ない。 しかし、何百人もいる中で自分の事を覚えて貰うには、特徴が無ければ覚えてもらえない。 そして、集団の数が多ければ、自分と同じ特徴を持つ人が存在する確立が高くなる。 つまり、一人でも自分と同じ人がいれば心強くなり、一人増える毎にそれだけ非平均化が是正される。 例えば、「佐藤」 「鈴木」と言う苗字の人は何処にでもいる。 一度訪問した営業先に「佐藤です」と電話をしても、「どちらの佐藤さん?」と聞かれてしまう。 つまり覚えられていない。 もし、その佐藤さんの頭が薄ければ、自己紹介する時に「ハゲの佐藤と覚えてください」と言っておけ ば、「ハゲの佐藤です」と言うだけで相手は思い出してくれる。 それがどれだけ営業に有利な事か。 そして、自分で「ハゲ」とコミットメントしてくれる事で、相手はハゲに対する余計な気遣いをしなく て済む。 相手にとって、それがどれほど楽な事か。 普通に営業トークをすれば、相手は守りに入り心を開いてはくれない。 しかし「ハゲの佐藤です」と言うだけで、相手の心のガードは一気に下がり、自分に興味を持ってくれ る。 人間は興味を持った人の話は聞こうとする傾向があり、売り込み易くなる。 太った女性であれば、ダイエットすれば良い。 その成功体験を人は聞こうとする。 その成功体験が武器になり、ダイエットを成功させた人だけが持つ説得力を持つ事が出来る。 男性は意外と完璧な物を求めない。 どこか残念な部分が有る方が親しみを覚える。 顔の中のパーツの「ここが残念」と言う部分に魅力を感じたりする。 しかし、女性はその残念な部分にコンプレックスを感じて是正しようとして、せっかくの武器を封印し てしまったりする。 それが最も残念な事であり、その残念には魅力にはならない。 そして何より魅力を失わせる物は「卑屈」である。 133 コンプレックスを無くす為の手段は「コミットメント」 、つまり自らカミングアウトして武器にすること であり、コミットメントに対してホールドアップする様な相手は、付き合う価値の無い相手である。 「ありのままの自分」 「飾らない自分」 「偽らない自分」 「見栄を張らない自分」それが如何に楽な事か? それは人間関係の「スクリーニング」にもなり、何より自責の念を生まない。 人は「弱さ」をさらけ出せば強くなり、弱さを隠して強く見せようとすれば弱くなる。 それを経験で学ぶ事である。 そして、素直になる事。 「ありがとう」「ごめんなさい」は人間関係の基本。 そうした言葉を、言うべき時に言える素直さを持つ事が大切、つまらぬ意地で言いそびれてしまえば、 どんな小さな事でも心の負荷になり自責の念が生まれる。 14. 自律と依存 「じりつ」と言う漢字には「自立」と「自律」がある。 意味の違いは「自ら立つ」と「自ら律する」と言う違いがある。 一人前になると言う事は「自律」する事である。 さて、どれ位の人が自律しているのだろうか? 実は、完全な自律は現代社会では現実的には不可能に近い。 完全な自律は自給自足を意味し、都会で住んでいる限り、食料は買わなくてはならず、商品を作るにも 原料の採掘から販売まで一人で行なう事は出来ない。 そうした事を踏まえた上で、出来る限りの自律をする。 例えば、朝自分で起きて自分で学校や会社に行っているか? 親に起こされて、学校へ行く。 それは、親への依存である。 朝、親に起こされて学校へ行く事が当たり前と思っていれば、自分が依存している事に気付かない。 依存症に見られるように、依存が出来なくなるとストレスを感じてしまう。 朝、親が起こすのを忘れて遅刻すれば親に文句を言い、親に責任を押し付ける。 本当に悪いのは、自分で起きられない事なのだが、自分は悪くない、悪いのは親と思ってしまい、それ を当たり前のように主張して、自らを省みない。 社会性は家庭で学び、社会へ応用して行く。 社会人は自律が求められる。 自律出来ていないと、社会では自律が求められる事を頭では理解していても、ストレスが溜まってしま う。 134 就職して「仕事を教えてもらえる」と言う感覚も依存である。 仕事は教えて貰う物ではなく、覚える物である。 相談者から、仕事に対する不満を聞くと「教えてくれない」とか「教えられていない事で怒られる」と 言う話をよく耳にする。 それは、覚えようとして来なかっただけで、「親が起こしてくれない」と何ら変わりない。 親が朝起こさなければ、子供は自分で起きようとする。(自律) 親が起こしていれば、子供は親が起こすまで寝ている。(依存) 精神的に自律していれば、自分から仕事を覚えようとする。 精神的に自律していなければ、自分から仕事を覚えようとはしない。 その違いは、教える側にも影響する。 自分から覚えようとする人には多くの事を教えたくなり、仕事を覚えようとしない人には聞かれなけれ ば教えようとしない。 そして、仕事を覚えようとしない人の目には、それが差別と感じられる。 自律していない人が自律する為には、まずは自分が依存している事を自覚する事から始める。 自分が依存しているかを知るには「自問自答」を繰り返す事。 但し、詭弁は避ける。 自律するには、自分の事は自分でする、身の回りの事は自分でする習慣を付ける事。 自分の服は自分で洗濯をして、自分の部屋は自分で掃除、親が食事を作ってくれるなら洗物は自分です る。 面倒と思う事を自分からする習慣を付ける。 最初は面倒かもしれない。 面倒に負けてやらなくなれば、いつまで経っても自律出来ない。 面倒でも習慣化するまで続ければ面倒とも思わなくなり、ストレスも溜まらなくなる。 但し、習慣化するまではストレスは溜まり、やりたくない気持ちが強く出る。 15. 共同作業と失敗 共同作業の感覚を身に付けるには、ボランティア活動に参加する事も一つの手段である。 他者とお金の為ではない労働をする事で、共に働く喜び、達成出来た時の喜びを知る。 ボランティアで学べる物は、利他行動、共同作業、三項関係など多岐に渡る。 但し、いきなりボランティアに参加する前に、手始めに家族の仕事を手伝う事から始めた方が良い場合 もある。 まずは、家庭の中で自分の出来る範囲の役割を持つ。 135 例えば洗物とか、洗濯とか、庭掃除でも良い。 家族の一員として、自分で請け負った仕事や、与えられた仕事をキッチリこなす。 家族の中で家族の一員である事を認識すれば、それを社会に応用させて社会の一員である事を認識する。 そして、親と一緒に食事を作る、親と一緒に洗い物をする、親と一緒に洗濯をする、親と一緒に掃除を する。 家族と一緒に仕事をする事で、自分が家族の一員である事の自覚が芽生え始める。 これも「社会性は家庭で学び、社会へ応用して行く」である。 人によって、何処まで学習しているかは千差万別であり、学習の度合いにより何から始めるかは変わる。 何処まで学んでいるかは分からない為、家族の中から始めた方が無難である。 また、家族との共同作業をする中で自分には出来ない事も有る。 そうした時は、一人で頑張ろうとせずに親兄弟に助けを求める事だ。 一人で出来なければ「手伝って」「助けて」など人に協力を求める事が何よりも大切な学習である。 親兄弟であれば、助けや協力を求め易いだろう。 人間の社会性は「協力と分け合い」である。 協力とは、自分が協力するだけでなく「協力してもらう」事も、協力である。 困っている時に「助けて」と言える事も、社会性である。 人に助けてと言えない背景には、人に迷惑をかけてはいけない、人に迷惑をかけられないと言う思いが ある。 確かにそれは良い心がけのように聞こえるのだが、見方を変えればスタンドプレーでもある。 チームプレーが出来ずにスタンドプレーばかりする人は、どれほど技術が上手くてもチームに必要とさ れない。 失敗のスパイラルと言う物がある。 自分に与えられた仕事で一つミスをする。 ミスを取り戻そうとすると、自分の仕事量が増える。 そもそもミスとは注意力が足りない事によって起きる。 最初のミスをした時点で注意力が足りないのに、ミスを取り戻そうと仕事量を増やせば、更に注意力が 低下してミスを積み重ねてしまう。 そして、自分ではどうにも出来なくなってから上司に報告する。 上司に報告する頃には、期日ギリギリで、多大な迷惑をかける。 すると、当然上司に叱られる。 すると叱られたくない気持ちや、名誉挽回したい気持ちで注意力が下がりまたミスを犯す。 叱られたくないので、また自分で何とかしようとする。 すると、更に仕事量が増えて注意力が低下して、大きなミスを出し始める。 そして、期日ギリギリになって、自分でどうにもならなくなってから上司に報告。 そして被害が拡大していく。 136 失敗のスパイラルに陥る原因は「助けて」と人に協力を求めない事である。 最初のミスの時に、協力や指導を仰げば失敗のスパイラルに陥る事は無い。 共同作業とは、お互い足りない所を補う事でも有る。 誰にでも得手不得手はある。 得手不得手を補い合うのも共同作業である。 また失敗を恐れてはいけない。 こんなエジソンの名言が有る。 「失敗ではない、うまくいかない方法を一万通り発見しただけだ」 そしてこんな言葉も残している。 「私たちの最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう一回だけ試して みることだ」 失敗とはノウハウである。 失敗しないと言う事は、ノウハウが無いと言う事でもあるのだ。 ノウハウが無い者は必ず躓く。 失敗したら反省点を修正して再チャレンジをする事だ。 また失敗したら何度でも修正して再チャレンジする事である。 その失敗の経験が、ノウハウと言うかけがえのない財産になる。 注意 トレーニングをする時、頑張ろうと思わない事。 病状によっては出来る事と出来ない事があり、一つの事が出来ないと全て出来ないと思い込んでしまい 人もいる。 出来ない事はやらなくても良い。 出来る事だけやればよい。 頑張り屋さんだから病気になり、頑張り屋さんだから焦ってしまう。 とにかく焦らず気長にやれるようになる事もトレーニングである。 137 最終章 心の病の縮図を犬猫に見る 人間で心の病の連鎖を実験して確認する事はできない。 人道的理由もあるが、自分と同じ長さの寿命を持つ物の、世代に渡る心の病の連鎖を見る事は、時間が かかりすぎてしまう。 しかし、犬や猫の様に人間よりも成長が早く寿命が短い生き物ではそれも可能だ。 と言っても、犬や猫を使って実験した訳ではない。 これから書く事は、昔飼っていた犬や猫のお話。 私の産まれる前から我が家には犬がいた。 その犬の記憶は、物心が付いてからの物しかないが、母から聞いた話では、その犬は私の遊び相手だっ たらしい。 母の話では、物心が付く前の私は、犬にかなり酷い事をしていたらしい。 犬にまたがりお馬の稽古をしたり、耳を引っ張ったり。 しかし、その犬はされるがままで、怒ったり噛み付いたりしなかったと言う。 私の記憶には、いつもその犬の頭を撫でていた記憶と、老衰で死んだ時の悲しかった記憶しか残ってい ない。 また、幼稚園の頃は、その犬ともう一匹の犬がいたが、その犬の記憶はほとんど残っていない。 覚えているのは、幼い頃に遊んだ犬が死んだ時には、その犬はすでにいなかった事だけだ。 最初の犬が死んでから、直ぐに真っ白な子犬が貰われて来た。 小学生時代はその犬と一緒に遊んでいた。 私はその犬の事がとても好きだった。 今でもソフトバンクのCMを見る度、その犬の事を思い出す。 しかし、家を建て替えたと時に、庭や土間が無くなった事で、中型犬を飼う場所が無くなり、その犬は 知り合いの家に貰われて行った。 その時、とても寂しかった事を覚えている。 我が家から動物が消えて数ヵ月後の雪の降る日、一匹の子猫が迷い込んで来た。 猫嫌いだった母は、絶対飼わないと言い、雪が降っている間だけ家の中に入れるだけと言っていたのだ が、学校から帰るとその猫はまだ家にいた。 母に尋ねると、可愛いから飼うと言う。 母と猫の間に何があったのかは分からない。 しかしその猫は、結構大変な猫だった。 一つに心臓病を持っていて、少しでも機敏な動作をすると肩で息をする。 そして何より、とんでもない寄生虫を持っていた。 サナダムシである。 138 家で飼う事になって数日、その猫はぐったりとして死にかけてしまった。 その時、お尻から白い物が出ていた。 それがサナダムシである。 結局家族でサナダムシを取ろうと言う事になり、くじ引きで皆の役割を決める事になった。 一人が右手、一人が左手、一人が両足を広げて持ち、一人がサナダムシを抜く。 くじ引きの結果、中学生だった私がサナダムシを抜く役になってしまった。 ゴム手袋など無かったので、ビニール袋を手に被せて手袋代わりにして、サナダムシを引っ張りながら 別のビニール袋に入れる作業だ。 ひんやりとした感触、ゴムのように伸びる感触、何処まで続くか分からない長さ。 今でもあの感触が手に残っている。 子供の頃の記憶なので、長さは定かではないが、8 メートル近くあった。 サナダムシが抜けてホッとしていたら、二匹目が出て来た。 二匹目は引っ張らなくてもスルット出てきたので助かった。 サナダムシが抜けた後も、猫は生死の境をさまよい、家族全員で見守る中、時折息が止まる。 それを見て家族は声を揃えて「死んだ」と言った瞬間、息を吹き返し、「生き返った」と声が揃う。 そんな小康状態を繰り返してその猫は復活した。 しかし、心臓病は相変わらずで、4 メートル走れば息を切らしていた。 その猫は体力的には貧弱だったが、頭は良かった。 母が戯れで猫に芸を仕込んでいたのだが、「お手・変えて」「お回り」「チンチン」「伏せ」など、犬の芸 はほとんどマスターしていた。 その猫は、2~3 年我が家にいたが、ある日旅に出て戻ってこなかった。 近所の噂では、三味線屋の猫狩りに連れて行かれたと言う話も聞いた。 私が高校時代(1970 年代)に一匹の犬がやって来た。 ブラックタンのスタンダードのダックスフンドである。 当時はダックスなど飼っている人は少なく、ダックスは珍しい犬だった。 散歩に連れて行くと、変な犬とよく言われたものだ。 そのダックスはチャンピオン犬の子供で威風堂々としたメス犬だった。 それまで何匹も犬を飼っていたが、メス犬は初めてで子供を生ませようと言う事になり、しばらくして オスの茶色いダックスをペットショップで買った。 しかし、さすがにチャンピオ犬の子供、ペットショップで飼ってきた犬とは風格がまるで違う。 その為、家族に蝶よ花よと可愛がられた。 139 ペットショップで飼ってきたオス犬は、いつも自分の尻尾を追いかけてクルクル回っている犬だった。 そしてある日、ある事が分かった。 その犬には「タマ」が一つしかなく、片タマだった。 私の家は商売をしており、犬は店の奥に有った居間で飼っていた。 お客さんが来ると、オス犬は吠えまくり、メス犬はあまり吠えなかった。 救急車が通ると、二匹とも遠吠えをするのだが、メス犬は犬の遠吠えなのだが、オス犬は何故か牛の様 に「モー」と鳴いていた。 そんな事もあり、オス犬は馬鹿扱いされ、メス犬はもてはやされた。 メス犬は、一度目の妊娠の時は流産し、二回目の妊娠で 6 匹の子供を生んだ。 5 匹は母犬と同じブラックタン、1 匹だけ父親の茶色を受け継いでいた。 母親となったメス犬は、懸命に子育てに励んでいた。 6 匹の子犬は順調に育っているかに見えたのだが、生後 2~3 週間頃に一番小さかった子犬が病気になっ た。 顔が化膿して腫れ上がり、触ると膿が出て物凄く痛がる。 化膿している為、臭いもひどい。 母犬は子犬を心配し、膿んでいる顔を一生懸命舐めようとする。 しかし舐められると子犬は痛がり、キャンキャンと鳴く。 獣医から貰った薬を塗っても直ぐに治る訳でもなく、母犬は病気の子犬を自分の懐に入れて乳を飲ませ ようとしたり、暖めようとしたり、一生懸命子供の面倒を見ようとしていた。 しかし、母犬が一生懸命頑張れば頑張るほど子犬は痛がり、やがて母親に牙を向けるようになってしま った。 それでも母犬は子犬を舐めようとするのだが、子犬は牙を剥きグルグルと威嚇の声を出す。 その光景を見た父犬が、その子犬を咥えて投げ飛ばした。 投げ飛ばされた子犬は、床に叩きつけられ、その時の衝撃で顔の腫れが破裂して膿と血だらけになって キャンキャンと悲鳴を上げた。 それを見た私の父は、父犬を蹴飛ばして激怒して怒った。 母犬は、その子犬の悲鳴を聞いてうろたえるばかり。 悲鳴を聞いた母犬は、どうして良いのか分からなくなってしまった。 それからと言うもの、母犬は子犬の周りをうろうろするばかり。 近寄りたくても近寄れない、舐めたくても舐められない。 そして母犬は、その子犬に牙を剥くようになってしまった。 140 仕方が無いので、子犬と母犬を離す事になったのだが、子犬には看病がいる。 しかし店をやりながら看病するには、子犬を人間の側に置いておかなければならない。 その為、母犬だけが離される事になった。 私の家は 3 階建てのビル。 一階は店と居間、住居は 3 階、母犬はその 3 階で飼う事になった。 しかし 3 階には昼間は誰もいない孤独な世界。 それまで蝶よ花よと育てられた母犬は、鬱病になってしまった。 そしてあの威風堂々とした風格は見る影もなくなり、常に怯えるようになった。 私が学校から帰ってから 3 階の自分の部屋に行く時に撫でようとしても、その手を怖がり威嚇する様に なってしまった。 恐らく、子犬に牙を向けた時に、私の父親に叩かれた事がトラウマになっていたのだろう。 蝶よ花よと育てられたメス犬は、叩かれた事など無かった為に、よほどショックだったのだろう。 病気の子犬は、治療の甲斐もあり何とか持ち直して元気になった。 子犬が産まれた時には貰い先が決まっていた。 一匹は残し、他の犬は全て貰われて行くはずだった。 病気の子犬も貰い先が決まっていたのだが、病気で目の周りの毛は抜け落ち、パンダのような顔にハゲ てしまった。 その為、その病気の犬も残す事になった。 元々残す予定だった子犬はオス、病気の子犬はメスである。 結局、店の奥には 2 匹の子犬と父犬、3 階には母犬と、分けられる事となった。 元々残される予定だった子犬は、何の問題もなく育った。 しかし病気の子犬は途中で成長が止まり、寸足らずの体系になり、顔は目パンダ状態。 それがまた、可愛らしさをかもし出していた。 その子犬は病気だった為に特別扱いをされて育ち、病気が治ってからも愛くるしい姿であった為に、こ の犬も蝶よ花よと育てられる事になってしまった。 そしてその子犬は自分を特別扱いされる事を好むようになってしまった。 3 匹の犬におやつをやる時、他の犬におやつをやると、病気だった犬はおやつを貰った犬を威嚇する。 近くに来ようとしても威嚇、他の犬が撫でられていても威嚇、自分だけ特別扱いされるのが当然のよう な振る舞い。 今考えると、それは自己愛性人格障害である。 結局、父犬と兄弟犬は、その犬が威嚇を始めたら相手にしないようになった。 141 父犬は、家族には馬鹿にされてはいたが、実にすばらしい犬でもあった。 家族の争いを嫌い、決して家族には逆らわず、決して家族以外の人になつく事もなかった。 私の父は大正生まれで昔ながらの頑固親父。 言葉より先に手が出る人で、それは犬でも同じだった。 そんな親父にぶたれても、悲鳴一つ言わず、牙も剥かず、ただ耐えるだけ。 そんな親父が姉に手を上げた時、決して飼い主に歯向かう事がなかったその犬が、親父に物凄い勢いで 吠える。 喧嘩はするなと言わんばかりに吠えるのだ。 試しに、私と姉で試してみた。 私が姉を叩く振りをして、姉は痛い痛いと言う。 すると、その犬は私に向かって止めろと言わんばかりに吠える。 立場を変えて試してみると、今度は姉に向かって吠える。 やはり、喧嘩を止めていた。 喧嘩を止める時の吠え方には特徴があった。 顔を横に向け、目だけで飼い主を見て吠えていた。 恐らくそれは、敵対心のない事を示す表現だったのだろう。 取引先の人がその犬を手懐け様と、来る度に肉やら骨を持ってきても、結局なつかずに諦めた。 その犬は生涯家族以外の人に心を許す事は無く、13 年の障害を全うした。 母犬と病気の犬は 10 歳でこの世を去った。 そして何の問題も無く育った犬は 18 歳まで生きて、眠るようにこの世を去った。 18 歳まで生きた犬がこの世を去った後に、また一匹の子犬が貰われて来た。 その時には私はすでに結婚して家にはいなかった。 長年共に暮らしてきた犬を失った父と母には待望の子犬だった。 しかし、子犬が来て直ぐに父が癌で倒れた。 父は手術を受けたがすでに手遅れ。 開腹だけで直ぐに閉じられて、余命半年宣言。 しかし父には伝えられず、父は自分では治ったと思っていた。 この時母も、難病指定の病気になっていた。 その為しつけが出来ずに、可愛がられるだけで育ってしまった。 それでも、その犬は元気一杯に育ち、両親の心の支えのような犬になった。 父が退院した時、母の東京の友人から退院祝いとして、ミニダックスの子犬がやって来た。 そして、また 2 匹の子犬との生活が始まった。 142 そのミニダックスに名前を付ける時、父は母に昔から犬に付けたかった名前が有ると告げた。 余命を知っている母は、父の希望を聞き、その子犬は「ポチ」と名付けられた。 父は、二匹の子犬を滅法可愛がっていた。 しかし、退院から一年が過ぎようとした時、体調を崩して再入院。 この時に父は死を悟っていた様だった。 入院している病院は自宅から徒歩でも行ける。 時折病院を抜け出しては犬に会いに家に帰り、家まで歩くのが辛くなると姉に病院の外まで犬を連れて 来るように頼み、入院しながらでも犬を可愛がっていた。 そんな事もあってか、余命半年と言われていたのが一年半も命が延びた。 そして父は逝った。 父が逝った後、母と姉で店を続けていたのだが、母も入院する事になり、姉一人で店を切り盛りし、夜 には病院と言う生活が始まった。 犬は常にお留守番。 そんな母も亡くなり実家は姉だけ、商売も時代の波と共に続けられなくなり、姉は働きに出る事になっ た。 それまでは、常に家族が誰かいる環境で育った犬は、孤独になった。 まず、ミニダックスに変化が現れ始めた。 急激に太り始め、毛艶が無くなり、見事だったロングヘアの尻尾はゴボウの様になってしまった。 孤独によるストレスである。 その時期には私も実家に戻っていたのだが、それまでの賑やかだった家庭環境とは一変していた。 私が家に戻ったと言っても、昼間は仕事で外にいる。 娘も学校で外、姉も仕事で外、昼間は家には誰もいない。 そんな環境の中、ミニダックスに鬱病の兆候が現れ始めた。 肥満も最初は単なる肥満だと思っていたのだが、実は深刻な状況だった。 肥満の原因は、肥満ではなく、ストレス性の便秘だったのだ。 レントゲンを見ると、腸が便で埋まっている。 獣医に聞いた便通をよくする方法を全て試しても全く効果が無い。 これ以上は危険と判断され、浣腸をして出す事になったのだが、犬の浣腸はかなり危険で命を落とす事 もあるとの事。 しかし他に方法は無く、浣腸することになり、何とか便を出す事に成功。 便を出したら二回りも細くなった。 しかし、何をしても無駄だった。 143 便を出してから、また太り出し、同じ状態になってしまった。 そして、便が出ない事で、口から便を吐く事態にまで陥ってしまい、二度目の浣腸をする事になった。 すると今度は便が止まらなくなってしまった。 私はなるべく家にいるようにして、便がこびりついた尻を拭き、脱水症状を起こさないようにポンプで 水を飲ませていたのだが、飲ませた水も戻すようになり、結局 10 歳で死んでしまった。 最初に貰われてきた犬も、ストレスで手で口を掻くようになり、口にタコが出来るようになった。 その行動は、言わば自傷行為と同じ性質の物である。 トイレを覚えていたい犬が、家族の留守中に 3 階の家族の部屋に入りマーキング。 自己主張である。 家族もマーキングされたくないので部屋に入れない。 孤独な事を分かっているので、かわいそうに思って部屋に入れると直ぐにマーキング。 マーキングだけでなく、糞もして手に負えない。 なるべく 1 階で一緒に過ごす時間を増やしてやっても、今度は一階でマーキング。 家族と犬の距離は離れるばかり。 人間で言う境界性人格障害と同じ状況である。 その犬の口を掻く癖で出来たタコだが、獣医から貰った薬を毎日付けていても、どんどん成長して結局 巨大化な癌になった。 癌が大きくなり始めた時に獣医と相談したのだが、手術で取る事は出来ても、顎ごと取らないと再発す ると言われ、そうなると物が食べられずに死んでしまう。 遅かれ早かれ死ぬのは時間の問題。 結局、手術をしない事にした。 巨大化した癌で餌は食べられなくなり、スプーンで口の奥に入れて食べさせる犬の介護が始まった。 その時の犬の表情は何故か穏やかだった。 あの犬はそうして自分に向き合って欲しかったのかもしれない。 そして 15 歳でこの世を去った。 この二匹の犬がいた時期に、一匹の子猫が迷い込んで来た。 生後一ヵ月程度のメスの子猫である。 その猫が迷い込んで来たのは、台風の日。 店のドアで両手を広げて、中に入れて!と主張していた。 家の中には二匹の犬がいるので、最初は無視していた。 144 しかし風雨が激しくなり、可哀想なので娘にドアを開けさせた。 するとその猫は私の膝に飛び乗り、私の顔を見てニャーと鳴き、膝の上で丸くなって寝てしまった。 そんな事をされると情が沸いてしまう。 風雨が収まった頃を見計らって、その子猫をドアの外に出した。 しかし、一向に何処にも行こうとしない。 そして両手を伸ばして中に入れろとドアを叩く。 まるで漫画の一シーンを見ているような行動をした。 結局、情にほだされて飼うことにした。 しかし問題は犬との折り合いである。 とりあえず、犬に噛み付かれない様に、子猫をガラスの陳列ケースの中に入れて、犬と対面させて見た。 すると犬は猫の前で吠えまくる。 猫はガラスケースの中でシャーと威嚇する。 最初の対面は先が思いやられた。 しかし、その子猫はガラスケースを自分で開けて犬の方へ向かって行く。 なんとも気の強い猫である。 しばらくは、そんな猫を抱きかかえて犬に噛まれないように注意していたのだが、猫は納得が行かない ご様子。 体長が 10 センチほどしかない子猫が、柴の雑種の中型犬に立ち向かって行く。 犬は猫を噛もうとするが、猫は両手を上げて威嚇する。 そして、犬の口が近付くと犬の鼻に猫パンチ。 犬は猫に近付く事が出来ない。 犬は猫に突進するも、猫は犬の頭の上を飛び越えて行く。 猫は犬に対して常に一歩も引かずに立ち向かって行った。 そんなバトルを繰り返し、犬は猫を認め、猫は我が家に自分の居場所を勝ち取った。 そして犬と猫は仲良しになった。 仲良しになると、お互いを信じあっている光景が見られた。 犬と猫が一緒にいる時、犬が猫にちょっかいを出す。 体を低くして獲物を狙う仕草をして、猫を挑発する。 しかし猫はあくびをしてその気が無い。 すると犬は猫の頭を噛んだ、と言うより猫の頭が犬の口の中にすっぽりと入っている。 しかし犬は噛まず、口の中に入れるだけ。 猫は逃げようともしない。 145 本気で、噛まないと信じていなければ出来ない行動だ。 その猫は数年間、家の外には出ようとしなかったのだが、少しずつ家を出るようになった。 そして近所の野良猫とバトルをして帰ってくる。 家に帰ると顔に猫パンチを受けた傷が目立つようになって来た。 しかしそれと同時に、家の周りにオス猫が頻繁に出没するようになった。 猫の出入り口の窓の外にオス猫が呼びに来る。 オス猫が呼びに来るとお出かけタイムになる。 時には外泊する事もしばしば。 私の部屋に彼氏を連れてきた事も数回有る。 その猫もコインパーキングで車に轢かれて死んだ。 その猫が死んで、一ヵ月後に一匹の子猫を貰ってきた。 生後 1~2 週間のオスの黒猫である。 まだ目の焦点も合っておらず、ヨチヨチ歩きしか出来ない子猫だ。 その子猫を、この書で書いている手法を使って、実験の意味合いを込めて人工飼育で育てる事にした。 初日はまず慣れさせる為に、箱に入れて湯たんぽで暖めていた。 しかし子猫は落ち着かない。 そこでアナログの時計を入れてみた。 秒針を刻む音を心音に見立てて安心感を与えようとした。 アナログの時計を入れると落ち着いて寝た。 ミルクは 2 時間毎に与え、排泄を促して世話をした。 翌日からは私の服の中で私の体温で暖め、私の心音を聞かせて眠らせた。 夜は私の布団の中に入れると、私の左の脇に顔を埋めて寝るようになった。 私の服から出たがれば出してやり、自由に探検をさせる。 最初はベッドの上だけを探検していたのが、ベッドの上からベッドの下に行動範囲が広がり、そして机 の下と私の部屋の中での行動範囲が広がり、ついに私の部屋の外に行き始めた。 それでも寝る時は私の布団の中で私の脇に顔を埋めて寝る。 まだ自分で満足に歩けない時期は、私が外出する時には常に私の懐に入れて、デパートやスーパーや繁 華街を連れ歩いた。 騒音に溢れた世界を連れ歩いた事で、音に驚かない猫に成長した。 146 行動範囲の広がりは見ていて面白い。 朝は部屋から 1 メートル以上離れなかった猫が、昼には 2 メートルまで離れるようになり、時間と共に 距離が伸びて行く。 そして 3 階の階段の所まで距離を伸ばして階段に挑戦。 一段降りて上れなくなって助けを呼ぶ。 助けを呼ばれたら、必ず助ける。 しかし、階段の上に上げるだけでそれ以上はしない。 階段を自分で一段上り下り出来るようになった時、こんな実験をやってみた。 屋上へ上がる階段の上から、猫の名前を呼んでみた。 すると猫は左右を見るが上を見ようとはしない。 何度上から声をかけても上を見ない。 次に、上と言う感覚を教える為に、抱きかかえて階段の上に連れて行き、上からの景色を見させてから 下に戻して同じ実験をした。 しかしやはり上を見ない。 上を見るようになったのは、自分で階段を上る事が出来る様になってからである。 ハイハイが出来ない赤ちゃんの、周囲の壁を動かして反応を見る実験と同じ実験である。 つまり猫も人間も同じ成長過程を踏んで成長していると言う事である。 運動能力に関しても面白い事が分かった。 猫は生まれながらにして高い運動能力を持っていると思っていたのだが、実はそうではない。 死んでしまった猫は、すばらしい運動能力を持っていた。 迷い込んで来た時には、全力で走って来て 3cm程度の幅の廊下の手摺に飛び乗り、スピードを落す事無 く手摺の上を走抜けて飛び降りて行った。 人工飼育で育てた猫は 2 ヶ月経っても、その手摺に飛び乗る事も歩く事も出来なかった。 そこで特訓をした。 猫を手摺の上に乗せて、その端で私が猫を呼ぶ。 すると何度も足を滑らせ、ふら付きながら私の所まで来た。 そんな特訓を数日行なった。 すると何とか足を滑らさずに歩けるようになった。 その猫が 3 ヶ月になるまでにもう一匹子猫を貰う計画を立てていて、丁度 3 ヵ月を迎える頃に生後 2 ヶ 月のメスの子猫を貰ってきた。 この猫の飼育計画は完全無視。 餌を与える以外は、可愛がる事もせず、黒猫だけを可愛がる計画を立てていた。 飼育計画としては、黒猫に自我が出来る前に同属と接触させる。 黒猫に疎外感を与えないように、黒猫だけを可愛がる。 147 新しい猫は愛護センターから貰う猫なので、母親と引き裂かれて回収された猫で、家族に可愛がられた 経験は無く、新しい猫には今までと同じ環境である。 そして、回収された経験から人間を恐れているだろうし、人間が可愛いと思って猫を抱こうとする行為 を、猫の目線から見た場合、捕まえられる恐怖を感じると考えたからである。 新しい猫は灰色の猫。 その猫は連れて帰って、家の中に放すと直ぐに、姉の部屋のベッドの下に隠れてしまった。 黒猫はそんな灰猫を見て、最初は珍しそうに見ていたが、直ぐに遊びに誘い始めた。 しかし灰猫は隠れるばかりで一向に出てこない。 そこで黒猫に全てを任せて予定通り無視する事にした。 その猫が我が家に来たのは午後 4 時頃である。 そして、黒猫が灰猫を姉のベッドの下から連れ出して来たのは午後 10 時頃。 それまで根気良く相手をしていたみたいだ。 いつも私の後を付いて歩いていた黒猫は、灰猫を私の部屋に連れて来るまで私の部屋には来なかった。 しかし、灰猫は私の部屋に来ても、私のベッドの下に隠れて出てこない。 私は黒猫だけを可愛がり、黒猫だけに餌を与えた。 黒猫は餌を少し食べて灰猫の所へ行き、餌の所まで連れ出そうとする。 そこで私は席を離れて様子を伺っていた。 すると私がいなくなると、黒猫の後に続いて灰猫が餌箱の所に来て餌を食べ始めた。 その間、黒猫は灰猫が餌を食べているのを見ているだけで、自分は食べようとしない。 灰猫が食べ終わると自分も食べ始めた。 それが灰猫が来た当日の出来事。 翌日は、黒猫の後を追いかけて灰猫が付いて回っている。 それは灰猫が来る前の私と黒猫の関係なのだが、灰猫が来てから黒猫は私の後を追いかけなくなった。 それでも黒猫の帰る所は私の部屋。 当然灰猫もご一緒だ。 私の部屋では灰猫は相変わらずベッドの下にいる。 黒猫だけが私と遊んでいる。 すると灰猫は、私と黒猫が遊ぶ姿を見つめている。 そして少しだけベッドの下から顔を出すようになった。 148 そしてその翌日はベッドの下からベッドの上に登り、黒猫と一緒に少しだけ撫でた。 それでも灰猫は相手にしないように勤め、黒猫だけと遊んでいた。 灰猫の前で黒猫とだけ遊ぶ意味は、黒猫と私の関係を灰猫に見せて、人間は怖くないと言う事を、見て 学ばせる意味で行なっていた。 黒猫が私と楽しく遊んでいる姿を見て、灰猫は警戒範囲が徐々に小さくなり、灰猫も遊びに参加するよ うになった。 それからは灰猫も黒猫も分け隔てなく接するようにした。 それ以降、灰猫は人間に対する警戒心が無くなり、自分から擦り寄って来るようになった。 トイレのしつけだが、黒猫は私が教え込んだ。 ミルクを飲ませた後、最初はお湯で湿らせた脱脂綿で、刺激して排泄させていたが、自分で歩き出した 頃には排泄誘導をした後に、トイレの砂の上に乗せて教えた。 灰猫はトイレを認識していたのだが、上手に穴も掘れないし砂かけも下手だった。 それを見かねたのか、黒猫がトイレ指導を始めた。 灰猫が用を足そうと穴を掘ると、黒猫が穴を見てから灰猫をどかして自分で深い穴を掘り、その場所を 灰猫に譲る。 灰猫がそこで用を足した後の砂かけを見て、砂かけが悪いと言わんばかりに念入りに砂をかけ直す。 そして灰猫の砂かけは上達して行った。 そうした光景を見て、面倒見の良い猫がいる事を実感した。 灰猫の運動能力だが、手摺歩きは教えなくても出来た。 しかし方向転換や、手摺を走る事は出来ない。 1 歳になっても二匹ともジャンプして手摺に乗る事は未だに出来ない。 木登りではないが、本棚登りも猫達に教えた。 私の部屋と姉の部屋の仕切りは、木枠にガラスで仕切られている。 その一番上のガラスが一枚抜いてあり、前の猫はそこから出入りしていた。 私の部屋のドアが閉まっている時の、猫の出入り口である。 二匹の猫達はそこに登れなかった、と言うより上り方を知らなかった。 ドアが閉まっている時は、ドアの前でニャーニャー鳴いて開けてくれと私に頼んでいた。 そこで最初、灰猫だけに両手両足を交互に出す上り方を教えた。 すると、灰猫はその登り方をマスターして、そこから出入りするようになった。 その姿を見た黒猫は、そのルートは覚えた物の。上り方は一行にマスターしない。 149 力技の一発ジャンプを試みて失敗、次にジャンプして木枠につかまり、木枠から更にジャンプと言う離 れ業をマスターした。 しかし成功率は低く、黒猫にも上り方を教えた。 黒猫には両手両足を使う上り方を教えた。 灰猫には徒歩型、黒猫には走り型と異なる上り方を教えた。 その上り方は今でも続いている。 こうした猫の運動能力を見ると、猫だから運動能力が高いのではなく、練習で上達する事が分かる。 子供の時に心地良いと思った事の習慣化も猫の人工飼育で分かった。 灰猫は尻尾を立てて歩くが、黒猫は尻尾を立てて歩かない。 猫が尻尾を立てるのは、母猫にお尻を舐められた時の名残で、母猫に対する愛情表現と言う。 そうした観点からすると、黒猫は愛情表現をしていないのだろうか? 実はそうではない。 黒猫は人工飼育で育てた為、排泄促進の時には掌で仰向けに寝かせていた。 掌で寝かせていれば、尻尾は水平に伸びる。 排泄の時に尻尾を立てた経験が無いのだ。 実はその事も計算して育てている。 尻尾を立てて母親にお尻を舐められる事で、排泄衝動が起こり、その時の心地良さを覚えていて猫は尻 尾を立てて愛情表現をする。 その事は聞き及んでいたので、掌で排泄させた後、尻尾を立ててウエットティッシュでお尻を拭いてい た。 その結果、人とすれ違う時だけは尻尾を立てる。 この数年間で 3 匹の猫を飼った訳だが、「加減」の覚え方にも違いがあって面白い。 死んでしまった猫は、我が家に来たばかりの頃は、私は手で遊んでやった。 すると、しっかりと爪を出した猫パンチに猫キック、更には噛み付き攻撃の為、私の腕はいつも傷だら けで血まみれ状態だった。 それでも手で遊ぶうちに、猫は次第に爪を出さなくなり、半年もしたら私の腕に傷が出来る事はなくな った。 加減を覚えたのである。 黒猫は爪の出し入れが出来ない時に貰って来た。 爪を引っ込める事ができないので、最初の頃は私の腕は常に傷だらけ。 しかし、一ヶ月程して、爪を引っ込める事が出来る様になってからは、腕に傷が出来る事はなくなった。 灰猫は手で遊んで育てなかった。 灰猫は手にじゃれ付いて遊ぶ事は無いが、膝に乗ったり肩に乗る時は、常に少し爪を出して爪で掴んで 150 いる。 その為、灰猫を肩に乗せたり膝に乗せたりしていると、体に小さな穴のように傷がいくつも出来る。 灰猫の爪の加減は黒猫に対する加減なのだろう。 灰猫の爪の出方は、体毛の下の地肌に刺さらない程度の出し方である。 ちなみに、黒猫は素肌に乗せると全く爪を出さず、服を着て乗せると、服の厚みだけ爪を出し、体に爪 は刺さらない。 肩からジャンプする時は、黒猫は全く爪を出さないが、前の猫と灰猫は爪を出してジャンプする。 こうした事から、早い時期から触れ合っていた方が早く加減を覚え、相手によって加減の度合が変る事 が分かる。 また、猫が加減をしなかったらどうなるのか? これも経験済みである。 私の家の横に一匹の生後一ヵ月にも満たない子猫が迷い込んでいた。 その子猫を救出しようと、その猫を捕まえた時に本気で噛み付かれた。 体長 10 センチ程度の子猫に噛まれただけで、皮膚は 3 センチほどナイフで切られたように見事に切れた。 しかも傷は深い。 手に負えないのでそのまま逃がした。 つまり、猫と遊んでいる時、爪を立てたり、噛み付いて傷になっていても、あの猫たちは本気ではなく 加減していたと言う事である。 犬や猫を飼いながら観察していると、犬や猫でも人間と同じ様に成長し、人間と同じ様に悩み、人間と 同じ様な病気になる事が分かる。 犬も人間と同じ条件化で同じ心の病を発症し、人間と同じ症状による行動を起こすのである。 高校時代に飼っていてダックスの子育ては、人間の育児ノイローゼと変らない。 問題行動を起こす原因も、人間と何も変らない。 私は犬達から学んだ教訓を生かして自分の子育てをした。 それが良かったのか悪かったのかはまだ分からない。 答えが出るのは、私の子供が寿命を終える時、自分の人生を振り返って、幸せな人生だったと思えた時 だろう。 あとがき http://www.johoguard.com/pwmgr/member/end.html ご質問は下記まで [email protected] 古牧 和都 151
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