日本哲学会第 75 回大会(於:京都大学)発表レジュメ 2016 年5月 14 日 一橋大学社会学研究科 川野美玲 ニーチェ『悲劇の誕生』における「現存在 Dasein」について 0.本論の目的 『悲劇の誕生』 〔以下『悲劇』 〕に描かれるニーチェの美に関する形而上学 aesthetische Metaphysik の構造の中で、 「現存在 Dasein」がどのような位置にあり、またどのような役 割を果たしているのかを明らかにしつつ、 『悲劇』 第 6 節 46 頁 17 行目〔以下GT1〕にあ る、 「E f f u l g u r a t i o n」というドイツ語〔➡参考資料①〕の訳に対する一つの可能性 を提示するのが本論の目的である。 〔引用〕 「我々の経験的な現存在 Dasein を世界一般の現存在と同様に、根源的一者 das Ur-Eine の瞬間毎に生み出された表象としてとらえるならば、今や夢は仮象の仮象 Schein des Scheins、したがって仮象への根源的欲望のより高い充足とみなさざるをえない (GT,S.35)」という記述に示されるように、 『悲劇』の形而上学は三つの度合い(Grad)から成 り立っている。一つ目は「根源的一者」 、二つ目は「根源的一者」の生み出した「仮象」と されるわれわれの経験的な「現存在 Dasein」と世界一般、そして三つ目が、すでに「根源 、、、、、 、、 、、 的一者」の「仮象」であるわれわれが生み出す「仮象」である。 「根源的一者」とは、 「苦悩 、、、、 、、、、、、、、 するもの」 「矛盾に満ちたもの」であり、自らを救済するために「仮象」を必要とするとい うこの構図は、 『悲劇』に終始一貫するニーチェの形而上学的仮説(GT,S.34)であり、 「仮 象」がいかにして生み出されるのかがその最も重要な核心となる。ニーチェが「現存在」に 「経験的」 「創造的」という二つの側面を持たせており、 「根源的一者の苦悩や矛盾」と一体 、、、 化した「現存在」が「創造力をもつもの Genius」となることは、既に論述した2 。 それでは、一体「苦悩・矛盾」とは何か?「苦悩・矛盾」についての『悲劇』の記述を確 認した後、 「苦悩・矛盾」と一体化した「人間」の「変容 Transfiguration」と、それによっ て得られる「仮象」を「神聖化 Verklärung」する力について「現存在」を中心に分析を進 め、 『悲劇』のハイライトともいうべき「Effulguration」という語について考察していく。 Nietzsche Werke, Kritische Gesamtausgabe,Begründet von Giorgio Colli und Mazzino Montinari, Walter de Gruyter, Bd.Ⅲ1 2拙論『倫理学年報』第 61 集 111 頁—123 頁(2012 年 3 月) 1 1 1. 「苦悩 Leid」と「矛盾 Widerspruch」 ニーチェは、 「ギリシア人」は「現存在 Dasein」の恐怖と驚愕の数々をよく感知しており、 生きる必要に迫られて「オリュンポスの神々」の世界を創出したとし、「ギリシア悲劇」の モチーフである「自然の威力」 「無慈悲な運命」などから「苦悩」を描き出している(GT,31f.)。 具体的には、父を殺し、産みの母と近親相姦をなすエディプスの苦しみであり(GT,S.62f.) 、 反対に父の敵討ちのためにエレクトラとともに母親を殺すオレステスの苦しみである (GT,S.32)。また、 「ペルシア戦争を戦い抜いた民族」(GT,S.128)という記述からは、ニーチ ェが、度重なる「戦争」の只中で人々が経験したであろう現実世界の惨事を「苦悩」という 言葉の念頭においていることが伺えるだろう。 一方、 「少年のころ巨人たちによって八つ裂きにされた」というディオニュソス神の伝説 から、ニーチェはディオニュソスを「個体化の苦悩をわが身に経験する神」と表現し、「個 体化の状態はすべての苦悩の源泉である」という自身の世界観を重ねた(GT,S.68f.)。そして、 すでに個体化されている「人間」が、 「一つの世界本質そのもの das eine Weltwesen selbst」 、、、、、、、、、、、、 になろうと試みるとき、 「かくされている根源的矛盾 verborgener Urwiderspruch」を我身 に引き受けることになるという(GT,S.66)。この「矛盾」を表していると思われるのが、 「シ 、、、、、、 レノスの叡智 Weisheit」である。 「人間にとって最善のことは無であること nichts zu sein」 (GT,S.31)というこの「叡智」は、 『悲劇』の底流に響き続ける「無 Nichts」を象徴的に暗示 するものである。すでに「身体」として個体化されている「人間」が「最善」をつくすため には、 「死ぬ」しかない。 「生」きていながら「死」を願望せねばならないという「矛盾」を 、、、 、、 、、、、、、、、、、、、、、 孕みながらも、 「生きて」 「最善」を尽くそうとする人間の可能性を、ニーチェは「芸術」に 見出している。ニーチェは、 「無」を自覚的に意識した「人間」が、 「無への憧憬 Sehnsucht in’s Nichts」(GT,S.129)から、 「世界を飛び越え、神々さえも飛び越えて死 Tod に向かおう とする」(GT,S.53)まさにその時、 「芸術 kunst」が立ち現れてくるという。 「人間」が「無」 に 接 し た と き の 態 度 、「 現 存 在 形 式 Daseinsform 」 の 一 つ が 「 芸 術 」 な の で あ る (Vgl.GT,S.111f.)。 〔引用〕 「どんなにかすかな苦悩にも、どんなに重い苦悩にも無類の感受性を持っていた 、、、 、、 深遠なギリシア人、…いわゆる世界史の恐ろしい破壊活動と自然の残虐性の只中に目 、、、 、 を注ぐギリシア人…彼らを救ったのは芸術 Kunst だ。…芸術だけが、現存在 Dasein の 、、、、、、、、、 恐怖あるいは不条理についてのあの嘔吐の思いを、生きることを可能ならしめる表象 に変えることができるのである。」(GT,S.52f.) 2 2. 「変容 Transfiguration」――「創造力をもつもの Genius への変貌 verwandeln 」 ニーチェは、ラファエロの絵画 『キリストの変容 Transfiguration』 〔➡参考資料②〕 に描かれている「憑かれた少年 besessener Knabe」に、キリストの変容した姿「Trans・ figuration」すなわち「Schein des Scheins」を見ることができる創造的「現存在 Genius」 の姿を見ている(GT,S.35)。ニーチェは、憑かれた少年と悲嘆にくれる大人たちが描かれる この絵画の下半分を、 「永遠の矛盾・苦痛の反映」である「第一の仮象 erster Schein」(GT,39)、 キリストが変容してその顔を明るく輝かせ上空に舞い上がる上半分を「第二の仮象」とした。 そして、全身を痙攣の苦しみに苛まされて大きく目を見開いている少年だけがイエスの姿、 すなわち「新しい仮象世界 neue Scheinwelt」を見ることができるのだとしている(ebd.)。 一方、 『悲劇』の中で「変容 Transfiguration」する「人物 Figur」はまだいる。それは、 ディオニュオソス・ディテュランブス dionysischer Dithyrambus で歌い踊る「ディオニュ ソス的熱狂者」である。彼らはディオニュソスのもたらす陶酔の力でもって自身を変貌させ verwandeln、自分たちこそ再生した自然の精霊 Genius、すなわち「サチュロス Satyr」で あると感じる(GT,S.55)。サチュロスとは、酒色を好むギリシア神話の半人半獣であり、下 半身は山羊、上半身は人間というその姿は、『悲劇』において「自然の示す生殖力の象徴」 であると同時に「自然の胸底からの叡智を告知する者 Weisheitsverkünder」(GT,S.54)とし て描かれる。シレノスとともにディオニュソスの守役をつとめるサチュロスをニーチェは 「人間の原像 Urbild des Menschen」(GT,S.55)と呼んだ。そして、 「自分自身が変貌する衝 動を感じること Trieb, sich selbst zu verwandeln」こそ「美的現象 aesthetische Phänomen」 の根本であると述べている(GT,S.56f.)。 〔引用〕ディオニュソス的熱狂者 dionysische Schwärmer は自分をサチュロスとして見、 そしてこんどはサチュロスとして神 Gott を見る。つまり彼は変貌しつつ Verwandlung、 自分の状態〔すなわちディオニュソス的状態〕のアポロ的完成 apollinische Vollendung として、一つの新しい幻 neue Vision を自分の外に見るのである。(GT,S.57f.) 「苦悩」する人間は、ディオニュソス的力の導きのもと、 「創造力をもつもの Genius」へと 「変容 transfiguration」あるいは「変貌 verwandeln」する。 『創造力をもつ者 Genius の はたらきは、通常、多くの人々が生きることを可能にさせる幻想の網を彼らの上に張り渡す ところにある(NF-1870,6[3],KGWⅢ3,S.136)』とニーチェ自身が言うように、「変容」した 者が、 「仮象」を「光明化Verklärung」する力を得るのである。 3 3. 「光明化 Verklärung」――「アポロ的なもの」と「音楽」の関係 『悲劇』において、 「輝く者 Scheinende」 「光の神性 Lichtgottheit」であると同時に、 「個 体化の原理の壮麗な神像 das herrliche Götterbild des principii individuationis」ともされ るのは「アポロ Apollo」である(GT,S.24)。ここで、 「根源的一者は、自らを救済するために 、、、、、、、、 仮象を必要とする」というニーチェの「形而上学的仮説」をふまえながら、これまでの議論 を簡潔にまとめると、「ディオニュソス的なもの」が、陶酔の力によって「人間」を「創造 者」へと「変容」させ、 「アポロ的なもの」が、 「光明化する創造者 der verklärende Genius」 として 「仮象における救済 die Erlösung im Scheine」 を達成する(GT,S.99)といえるだろう。 このように、 「根源的一者」の「被造物 Geschöpfte」たるに止まるのではなく、自ら「仮 象」を産出する「創造者 Schöpfer」と成る「現存在 Dasein」について、ニーチェは特に「抒 情詩人」の詩作過程に焦点を当てて説明している。ニーチェにとって「抒情詩人」とは、ま ずはじめに、 「根源的一者」の「模像 Abbild」を「音楽」として産出し(GT,39f.)、さらに その「音楽」を「言葉」によって模倣する者である。よって、 「抒情詩」とは、 「音楽」を感 性的に捉えられる「言葉」という「形象」で表出するものといえる(GT,S.47)。ニーチェは さらに、「抒情詩」が最高の展開をとげる時、「悲劇」が誕生するとした(GT,S.40)。なぜな ら、 「悲劇の本質は、ディオニュソス的状態の顕現・形象化 Verbildlichung として、音楽の 可視的象徴化 sichtbare Symbolisirung der Musik としてしか解釈されえないもの」 (GT,S.91)だからである。 続けてニーチェは、「音楽は形象ならびに概念に対して、どういう関係にあるか?」 (GT,104)という問いに対し、二つの答えを出している。一つは、「音楽はディオニュソス的 普遍性を比喩の形で目に見えるように刺激する」という答えであり、もう一つは、「音楽は 、、、、、 比喩的形象にその最高の意味 höchste Bedeutsamkeit を発揮させる」という答えである (GT,107)。前者は、 「仮象」を産出するという「音楽」の力であり、後者は「仮象」を「こ わす」 、あるいは「やぶる」という「音楽」の力である。ニーチェは、 「音楽」より生まれた 「仮象」が「音楽」によって再び「根源的一者の母胎 Schoosse」へと帰還することを「最 高の芸術的な根源的歓び höchste künstlerische Urfreude」であると表現している(GT,141)。 〔引用〕ディオニュソスの神秘的な歓呼の叫びのもとでは、個体化の呪縛は破られ、 「存 在の母たち Müttern des Sein’s」への道、事物の一番奥の核心 innerste Kern der Dinge に至る道が開かれるのだ。(GT,S.99) 4 4. 「E f f u l g u r a t i o n 」――「閃き」と「流出」 問題の語は、 「音楽」が「形象」を産出する文脈にある。 〔引用〕 「もしわれわれが、抒情 詩を形象および概念における音楽の模倣的 Effulguration と見なしうるならば、今や、われ われはこう問うことができるだろう。何ものとして音楽は形象性と概念の鏡に現象するの か?と」 (GT,S.46)。ここで、19 世紀初めに編纂された辞書の「Effulguration」の項の内 容を紹介する。 〔➡参考資料③〕 『悲劇の誕生』の歴代の訳者は、上記辞書記載にもあるとおり、この語を「閃き」と関連 させて訳している〔参考資料➡④〕 。 「音楽」から突然「光」が発せられるように「形象」が 生まれてくるイメージは、 『悲劇』に散見される。例えば、眠りに沈む陶酔した抒情詩人ア ルキロコスにアポロが近づき、月桂樹で彼に触れると「眠っている男のディオニュソス的・ 、、、、、 音楽的魔力は、いわば形象の火花 Bilderfunken をまわりにまき散らす。それが抒情詩であ 、、 る」(GT,S.40)、 「われわれはギリシア悲劇を、たえず新たにアポロ的形象世界において放電 、、 する entladen ディオニュソス的合唱として理解しなければならない。 …悲劇のこの根源は、 、、 、、、、、、、 次々に起こるいくたびかの爆発 Endladung において、劇のあのまぼろしの光線を放射する strshlen」(GT,S.58)などの記述からも、 「Effulguration」を「閃き」と関連して訳すことは 根拠のあることである。しかし、筆者は一方で、「Effulguration」のもうひとつの「流出」 という意味を生かす訳の可能性についても考えてみたい。 「流出」と訳す可能性を示唆しているのは、『悲劇』における「根源的一者」の記述であ る。 「現象の絶え間ない移り変わり Wechsel の中にも、永遠に創造し schöpferische、永遠 に現存在 Dasein へと強制し、この現象の移り変わり Erscheinungswechsel に永遠に満足 している根源の母 Urmutter」(GT,S.104)である「根源的一者」は、そこから生まれてそこ へ還るという循環の中に「現存在」を浸す、つまり、創造と破壊の繰り返しである生成の中 で生き続けることを強制するものである(GT,143f.)。このような「根源的一者」の記述は、 「エフェソスの偉大なヘラクレイトスの教えにあるように、万物が、そこから発し、そこを めざして von dem aus und zu dem hin、二重円軌道を描いて動いている」(GT,S.124)とい う記述と通じるものであろう。絶え間なく変転しつつ、瞬間事に新しく生まれ変わる「根源 的一者」 。それは、 「万物は流転する Alles wandelt sich」といったヘラクレイトスの川の流 れの比喩のように、 「流れる」イメージでもありうる。よって、 「…抒情詩を形象および概念 における音楽の模倣的流出であるとするならば…」という訳であっても、決して『悲劇』の 形而上から逸脱した訳とはいえないだろう。 5
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